蓮子は、午後の講義に出る気が全くと言っていいほど起きなかった。どうしても取らなければ単位が危ないものだけは午前中にやり過ごすことができたが、中身など頭に入っているわけもなく。心此処にあらず、ただ講師の話を右から左へ聞き流していた。
これからのコマにどうせ出席しないならもう今日は大学に用はない。彼女はそう思って、大学から少し離れたカフェテラスに向かった。
お目当ての席は空いていた。蓮子はわずかに安堵する。ホッとしたとは言っても、彼女が、蓮子がここに来るときはいつも店内も、店の回りすらも人が少なく、非常に落ち着いた心地で入店してティータイムもおしゃべりも楽しむことができる。だが、やはり席がとられていないか心配なものは心配だった。
蓮子が席につくと、暇そうにしていたウエイターがすぐに寄ってきた。ウエイターが注文を蓮子に聞くと、蓮子はコーヒーを二つ、と彼に返した。
彼は目を丸くして蓮子を見る。そしてかしこまりました、と平静を取り繕うと、そそくさと店の中に戻っていった。
恐らく蓮子の応対をするのは初めてだったのだろう。彼女はここに来ると決まってコーヒーを二杯頼む。すると片方をまるで目の前に人が座っているかのように置くのだ。時間はまちまちだが一人虚空に語りかけ、自分のところに置いた珈琲だけを飲み、冷めてしまったもう一杯のコーヒーを不思議そうに眺めて帰っていく。それがここ数ヵ月の蓮子の、この店での行動である。
コーヒーが来るまでのほんの少しの間、蓮子はテーブルの縁を何気なく撫でた。それなりの頻度でここに通い、その始まりが一年前というと、ある種の懐かしさを感じているのも無理はない。
そう、一年前、ここで自分が珍しく大衆の前でテンションを上げてしまったのを蓮子は思い出していた。
「たしか、ここで打ち合わせをしよってことになって、あなたがあれを見つけちゃって、思わず大声をあげちゃって……」
「……そうね。私が境界を見て、それを蓮子に話したら盛り上がっちゃったのよね」
少女がバツが悪そうにごめんね、と付け足して言う。
蓮子がまるで誰かに語りかけるように呟き始めた。ウエイターがコーヒーを持ってくると口をつぐんだが、去っていく彼の冷ややかな視線を感じながら、
蓮子は語るのを再開する。
「あなたが私の家に泊まりに来たときのこと覚えてる? はじめてのお泊まり会。私の部屋に入った途端あなた『あら、案外片付いてる』なんて言っちゃって……。失礼しちゃうわ、あなたの方がずぼらだったっていうのに」
「まあ、私のところに蓮子が来たときはまずしたことが部屋のお掃除だったし……私としてはそんなに散らかってるとは思わなかったんだけど」
蓮子が、湯気たつコーヒーの表面を吐息で揺らす。そして恐る恐るカップに口をつけると、控えめにすすった。
「猫舌な蓮子も可愛いわね。旅先でラーメンとか熱いものを食べるとき、いっつも蓮子は食べ終わるの遅かったし」
「熱っ……」
「ほら、やっぱりまだ飲めない」
慌ててカップを口から離す。痺れている唇を舌でなぞると、照れ臭そうに口元を緩めた。
「そういえば私の実家に行ったとき、私のお父さんったら『蓮子が男を連れて帰ってきた!』って大騒ぎして……ほんと大変だったね」
「男じゃないしサークルの仲間だって説明しても『同姓婚か?! そうなんだな!?』って錯乱してて……でも面白い人だったじゃない。私、ああいう人好きよ。しかも思ったの、やっぱり親子だなぁって」
蓮子が特大の溜め息を吐いた。
少女もつられて苦笑する。
「ふんっ、あんなのが親だなんて恥ずかしいったらありゃしない」
「っ……!」
金髪の少女が息を飲んだ。蓮子の目の前にいるのに、蓮子に認識されず、声も届かず、必死に自分をアピールしても虚しく響いてしまう少女。彼女は自分の声を蓮子が聞き、それに答えてくれたのかと一瞬期待をした。だがしかし、それも刹那のこと。彼女はまたわかっているのだ。そんなものただの幻想にすぎないと。自分もまた、幻想に成りつつあるから。
テーブルに肘をつき、手のひらで目を覆う蓮子。当時を思い出して赤面しているようだ。
「ここに来るきっかけだって……ここへ……きっかけ……」
「蓮子……」
蓮子が脈絡もなく声を震わせる。メリーはすべてを察しながら、蓮子を心配そうに見守る。
「……もうここを見つけたきっかけも忘れちゃいそう。よくわからないあの名前だってもう口に出せなくなりそうなのに。私たちはいったい何をしてたんだろう。……すでにそんなことも忘れちゃって……」
「秘封倶楽部よ、蓮子。不真面目なオカルトサークル。私たち二人だけの、秘密のサークル。境界を目指して、追いかけて、危ない目にもあったけど、楽しかった、あの日々」
少女は優しく語りかける。その顔は深い悲愴に歪んでいる。
蓮子は、頭から大切な何かが失われる、計り知れない喪失感が恐ろしくなり、頭を抱える。
「あなたは何なの? 私の中にずっと留まって、私を苦しめて、私を楽しませて、私を悲しくさせて、私を怒らせて、私をワクワクさせて、ずっと離れない。今までずっと一緒にいた気がするのに、頭がそれを認めない。自分が半分無くなっちゃったみたいなこの……空白は……いったい何なの……!」
「自分勝手なことをして、私を振り回して、私をたまに呆れさせて、私を怒らせて、私を楽しませて、私をワクワクさせて、胸がドキドキして眠れないときもあって、まだ見ぬ世界の秘密に胸が高鳴って、蓮子抜きの大学生活なんて考えられなくて……。私を、マエリベリー・ハーンを、メリーをそんな風にしたのはあなたなのに、無責任よまったく……」
メリーが寂しそうに呟いた。
蓮子は泣きたかった。涙を流したかった。自分の心にかかる雲から落ちてくる雫に耐えられなかった。
いつかは吹っ切れる時が来るのだろう。いずれ夢を見ることをやめ、自ら秘された真理に封をするときがやって来る。ただ、蓮子にはそれが死ぬことと同義にしか思えない。
メリーが蓮子の頬にそっと触れようとする。しかしそれは、強固で、残酷で、無情なものに遮られて届かない。
「蓮子、ごめんなさい」
届きそうで届かないその微妙な距離は、鋭利な刃物となってメリーに突き刺さる。
パキリ。
ガラスの割れるような音。
それがどこからともなく蓮子の頭に響いた。
メリーが悔しそうに下唇を噛む。
「……行かなきゃ」
蓮子が立ち上がり、温くなったとは言えないコーヒーを一気に飲み干すと、残されたもう一杯のコーヒーカップを怪訝そうに眺めた。そして代金を支払い今までの態度が嘘のような速さで店を後にするのだった。
彼女は振り返らなかった。
メリーは静かに涙を流す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
そう繰り返す。
境界の向こう側、存在しえない空間、数多の目玉に監視された際限無い部屋。メリーはそこにある、小さな窓のようなスキマから蓮子の去る姿を見送る。
最初は単なる好奇心だった。鳥船遺跡を訪れて以降、どんどん進化していく自分の能力。それに怯えることもあったが、たまに自分が何ができるのか気になる時があった。それがあの時のここ、いや、そのカフェテラスだった。何気なく境界に触れ、気がつくとメリーはこの場所にいた。一瞬の誘惑、須臾の浮遊感、永遠の後悔。
気がするのに、時間の流れを置き去りにして、存在をあやふやにして、メリーはずっとここにいる。メリーはそこにいてそこにいない。
「いつか戻るから、それまであなたが私のことを忘れちゃってもいい。幸せになってくれればそれでいい。辛い顔を見るのは嫌だから……でも……」
それでも、メリーは、蓮子に忘れ去られるのが、蓮子がもうここに来なくなるのが、怖いのだ。いつかまた蓮子と会いたい、一緒に探検をしたい。蓮子の隣は私だ、そうメリーは思いたい。しかし、自分の中でそれは無理だと思っている部分もある。世界には逆らえない。ここに来る度蓮子の記憶が壊れていく。もう来なくていいのにとも言えず、ただ目の前で蓮子の中から自分が消えていく様を見ているだけ。どうすることだってできない。諦めの気持ちも、生まれ育ってきている。せめぎ合う二つの感情の渦をどうすることもできず、だからこうしてメリーは蓮子の傍で語りかけるのだ。決して届かない言葉を、想いを、
秘封倶楽部を、マエリベリー・ハーンを、蓮子から ために。
斯くして少女は涙を流した。
これからのコマにどうせ出席しないならもう今日は大学に用はない。彼女はそう思って、大学から少し離れたカフェテラスに向かった。
お目当ての席は空いていた。蓮子はわずかに安堵する。ホッとしたとは言っても、彼女が、蓮子がここに来るときはいつも店内も、店の回りすらも人が少なく、非常に落ち着いた心地で入店してティータイムもおしゃべりも楽しむことができる。だが、やはり席がとられていないか心配なものは心配だった。
蓮子が席につくと、暇そうにしていたウエイターがすぐに寄ってきた。ウエイターが注文を蓮子に聞くと、蓮子はコーヒーを二つ、と彼に返した。
彼は目を丸くして蓮子を見る。そしてかしこまりました、と平静を取り繕うと、そそくさと店の中に戻っていった。
恐らく蓮子の応対をするのは初めてだったのだろう。彼女はここに来ると決まってコーヒーを二杯頼む。すると片方をまるで目の前に人が座っているかのように置くのだ。時間はまちまちだが一人虚空に語りかけ、自分のところに置いた珈琲だけを飲み、冷めてしまったもう一杯のコーヒーを不思議そうに眺めて帰っていく。それがここ数ヵ月の蓮子の、この店での行動である。
コーヒーが来るまでのほんの少しの間、蓮子はテーブルの縁を何気なく撫でた。それなりの頻度でここに通い、その始まりが一年前というと、ある種の懐かしさを感じているのも無理はない。
そう、一年前、ここで自分が珍しく大衆の前でテンションを上げてしまったのを蓮子は思い出していた。
「たしか、ここで打ち合わせをしよってことになって、あなたがあれを見つけちゃって、思わず大声をあげちゃって……」
「……そうね。私が境界を見て、それを蓮子に話したら盛り上がっちゃったのよね」
少女がバツが悪そうにごめんね、と付け足して言う。
蓮子がまるで誰かに語りかけるように呟き始めた。ウエイターがコーヒーを持ってくると口をつぐんだが、去っていく彼の冷ややかな視線を感じながら、
蓮子は語るのを再開する。
「あなたが私の家に泊まりに来たときのこと覚えてる? はじめてのお泊まり会。私の部屋に入った途端あなた『あら、案外片付いてる』なんて言っちゃって……。失礼しちゃうわ、あなたの方がずぼらだったっていうのに」
「まあ、私のところに蓮子が来たときはまずしたことが部屋のお掃除だったし……私としてはそんなに散らかってるとは思わなかったんだけど」
蓮子が、湯気たつコーヒーの表面を吐息で揺らす。そして恐る恐るカップに口をつけると、控えめにすすった。
「猫舌な蓮子も可愛いわね。旅先でラーメンとか熱いものを食べるとき、いっつも蓮子は食べ終わるの遅かったし」
「熱っ……」
「ほら、やっぱりまだ飲めない」
慌ててカップを口から離す。痺れている唇を舌でなぞると、照れ臭そうに口元を緩めた。
「そういえば私の実家に行ったとき、私のお父さんったら『蓮子が男を連れて帰ってきた!』って大騒ぎして……ほんと大変だったね」
「男じゃないしサークルの仲間だって説明しても『同姓婚か?! そうなんだな!?』って錯乱してて……でも面白い人だったじゃない。私、ああいう人好きよ。しかも思ったの、やっぱり親子だなぁって」
蓮子が特大の溜め息を吐いた。
少女もつられて苦笑する。
「ふんっ、あんなのが親だなんて恥ずかしいったらありゃしない」
「っ……!」
金髪の少女が息を飲んだ。蓮子の目の前にいるのに、蓮子に認識されず、声も届かず、必死に自分をアピールしても虚しく響いてしまう少女。彼女は自分の声を蓮子が聞き、それに答えてくれたのかと一瞬期待をした。だがしかし、それも刹那のこと。彼女はまたわかっているのだ。そんなものただの幻想にすぎないと。自分もまた、幻想に成りつつあるから。
テーブルに肘をつき、手のひらで目を覆う蓮子。当時を思い出して赤面しているようだ。
「ここに来るきっかけだって……ここへ……きっかけ……」
「蓮子……」
蓮子が脈絡もなく声を震わせる。メリーはすべてを察しながら、蓮子を心配そうに見守る。
「……もうここを見つけたきっかけも忘れちゃいそう。よくわからないあの名前だってもう口に出せなくなりそうなのに。私たちはいったい何をしてたんだろう。……すでにそんなことも忘れちゃって……」
「秘封倶楽部よ、蓮子。不真面目なオカルトサークル。私たち二人だけの、秘密のサークル。境界を目指して、追いかけて、危ない目にもあったけど、楽しかった、あの日々」
少女は優しく語りかける。その顔は深い悲愴に歪んでいる。
蓮子は、頭から大切な何かが失われる、計り知れない喪失感が恐ろしくなり、頭を抱える。
「あなたは何なの? 私の中にずっと留まって、私を苦しめて、私を楽しませて、私を悲しくさせて、私を怒らせて、私をワクワクさせて、ずっと離れない。今までずっと一緒にいた気がするのに、頭がそれを認めない。自分が半分無くなっちゃったみたいなこの……空白は……いったい何なの……!」
「自分勝手なことをして、私を振り回して、私をたまに呆れさせて、私を怒らせて、私を楽しませて、私をワクワクさせて、胸がドキドキして眠れないときもあって、まだ見ぬ世界の秘密に胸が高鳴って、蓮子抜きの大学生活なんて考えられなくて……。私を、マエリベリー・ハーンを、メリーをそんな風にしたのはあなたなのに、無責任よまったく……」
メリーが寂しそうに呟いた。
蓮子は泣きたかった。涙を流したかった。自分の心にかかる雲から落ちてくる雫に耐えられなかった。
いつかは吹っ切れる時が来るのだろう。いずれ夢を見ることをやめ、自ら秘された真理に封をするときがやって来る。ただ、蓮子にはそれが死ぬことと同義にしか思えない。
メリーが蓮子の頬にそっと触れようとする。しかしそれは、強固で、残酷で、無情なものに遮られて届かない。
「蓮子、ごめんなさい」
届きそうで届かないその微妙な距離は、鋭利な刃物となってメリーに突き刺さる。
パキリ。
ガラスの割れるような音。
それがどこからともなく蓮子の頭に響いた。
メリーが悔しそうに下唇を噛む。
「……行かなきゃ」
蓮子が立ち上がり、温くなったとは言えないコーヒーを一気に飲み干すと、残されたもう一杯のコーヒーカップを怪訝そうに眺めた。そして代金を支払い今までの態度が嘘のような速さで店を後にするのだった。
彼女は振り返らなかった。
メリーは静かに涙を流す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
そう繰り返す。
境界の向こう側、存在しえない空間、数多の目玉に監視された際限無い部屋。メリーはそこにある、小さな窓のようなスキマから蓮子の去る姿を見送る。
最初は単なる好奇心だった。鳥船遺跡を訪れて以降、どんどん進化していく自分の能力。それに怯えることもあったが、たまに自分が何ができるのか気になる時があった。それがあの時のここ、いや、そのカフェテラスだった。何気なく境界に触れ、気がつくとメリーはこの場所にいた。一瞬の誘惑、須臾の浮遊感、永遠の後悔。
気がするのに、時間の流れを置き去りにして、存在をあやふやにして、メリーはずっとここにいる。メリーはそこにいてそこにいない。
「いつか戻るから、それまであなたが私のことを忘れちゃってもいい。幸せになってくれればそれでいい。辛い顔を見るのは嫌だから……でも……」
それでも、メリーは、蓮子に忘れ去られるのが、蓮子がもうここに来なくなるのが、怖いのだ。いつかまた蓮子と会いたい、一緒に探検をしたい。蓮子の隣は私だ、そうメリーは思いたい。しかし、自分の中でそれは無理だと思っている部分もある。世界には逆らえない。ここに来る度蓮子の記憶が壊れていく。もう来なくていいのにとも言えず、ただ目の前で蓮子の中から自分が消えていく様を見ているだけ。どうすることだってできない。諦めの気持ちも、生まれ育ってきている。せめぎ合う二つの感情の渦をどうすることもできず、だからこうしてメリーは蓮子の傍で語りかけるのだ。決して届かない言葉を、想いを、
秘封倶楽部を、マエリベリー・ハーンを、蓮子から ために。
斯くして少女は涙を流した。
思い出は距離が離れ時間が経つほどに曖昧になるけれど、逆に執着と想念は強まるもの。メリーは自我を保つために、蓮子の声を聞きに行くのでしょう。
温かい。
良い作品でした。
この文が好きです
他人のテキストでCtrl+aなんて試さないのが普通だし、気付かず読んだ人には作者の真意はわからず終いでお互いに何の得も無い。
この作品も隠し文字自体は演出としてプラスに働いているものの、それに気付かせるための配慮が不十分に思えた。
作品自体が良いものなだけに、その点が勿体ない。
一瞬の誘惑、そして永劫の後悔と絶望…。いつかメリーに救いがあることを信じて。AMEN・・・