つい、殺してしまった。
所謂、魔が差した、というヤツなのだろうか。よくわからない。
私は、自分の正面で夕餉が並ぶ食卓の上にうつ伏せに倒れている叔父の姿をジッと見つめる。
おかずを盛ってある平たい皿にこめかみを押し付けるようにして、如何にも苦悶といった表情で叔父はピクリともしない。
口から泡を吐いており、なぜか右手は箸を握り締めたままだ。
結局、最後まで直らなかった叔父の下手な箸の持ち方を思い出しながら、私は嘆息する。
叔父は、大きな叫び声は上げず、イィィィと痛みを我慢をするように呻き声を漏らして絶命した。
毒だと判っていて、これを口に含めば死ぬであろうと判っていて夕食に毒を盛ったのは、紛れもなく私だが、どんな苦しみ方をするのかまでは知らなかった。
まあ、長時間もがき苦しむような毒でなくて、色々な意味で良かったと思う。実際に苦しむ叔父にとっても、長引けばどんな局面でもとにかく不利になっていたであろう私にとっても。
床に転がった、白米がまだ半分ほど残っている叔父の茶碗を拾いつつ、思考を続ける。
何はともあれ、私は殺人を犯してしまった。
たった二人で暮らしている家族と呼べる者を。唯一の血縁者を。
状況的に、正当防衛でもなく、半ば事故のようなものでもなく。
はっきりと、死ねばいいと願いながら、いつも通り二人きりの夕食に、毒薬を塗して。
「死体、どうしよう」
道徳心とか人里の掟とか、色々と問われるべきものがあるのは承知しているけど、とにもかくにも先ずはそれだ。
食卓の上にいつまでも載せておくのは、可愛そうだし、なんだか不気味だ。
それに今日はもう時間が遅い。この時間から、余所に死体が出ましたと触れ回るのは、如何にも近所迷惑だろう。
なので、布団を敷いて、今夜はそこの上に寝かせておこう。
「……否、それだと死体と一緒に一晩過ごすことになるのか」
それは嫌だ。
自分で殺しておいてなんだけれども、死体と一緒に一夜を明かすというのは、なんだか、とても不吉なことのように思えた。
何が起こるかわからない。あまりにも正体が不明だ。
「なら、捨てに行く……?」
罰当たりなような気がするが、それが一番簡単な気がした。
しかし、いくら夜更けといっても、ここは人里の中だ。人通りはある。見つかれば、大騒ぎになるだろう。それでは近所迷惑のレベルを越えてしまう。
それに死体を供養もせずごみの様に捨てるなど、それは残酷な所業だ。世間の倫理や道徳は、決してそれを許すまい。
既に、つい、で人を殺してしまっているのだ。これ以上、罪の上乗せは気が引ける。
だが、どうすればいいというのか。
あれもダメこれもダメと悶々としていると、すぐ後ろから、物音が聞こえた。
「あっといけない」
声がした方に振り向くと、そこには、サルがいた。
否、タヌキだ。
待て、タヌキの手足はあんなに猛々しくない。
しかもどうなっているのか、尾がまるでヘビだ。
「なに、これ」
わからない。目の前に獣がいるのに、その正体がまるでわからない。
まるで、『正体不明』が形になったような。
「う~ん、この姿じゃ話し辛いかな」
サルの形をした唇がそう動くと、正体不明な獣の姿が大きく揺らいだ。
「よし、これで私が何だかわかる?」
瞬きの間に、目の前にいた獣は消え、変わりに全身が黒ずくめの少女が一人立っていた。
否、少女といっても人間の少女ではない。
いつか本で見たことがある。
恐怖を糧に長い時を生きる妖怪で、名前は、確か――――――
「封獣ぬえ」
「おや、ご名答」
目の前にいる妖怪が、なんだか楽しそうに頷いた。
「なかなか上質な恐怖の気配があったから寄ってみたけど、なんだか面白そうな事になってる」
私が何事かを言う前に、ぬえは端的にここにいる理由を述べた。
何を言っているのかよくわからないが、どうあれ、目の前に妖怪がいるわけだから、命の危険に変わりはない。
なので、一石二鳥の救命策を取ることにする。
「妖怪って人間を食べるんでしょう? これ、どうぞ」
思わず頬が緩んだ。
叔父の死体をあげるから、見逃してくれというわけだ。
妖怪は獣ではないのだから、話は通じる筈だし、長い間生きているのだから察するということも出来るだろう。
こちらの要求を、きちんと交換条件として認識してくれる筈だ。
さらにこれは自分の命を守るだけでなく、叔父の死体をこの家から、私の目の前から消してしまうということでもある。
つまり隠蔽だ。これならば、誰かに見つかることもなく大した騒ぎにはならないだろう。妖怪が人間を食べるなんて、よくあることなのだから。
これは、我ながらいい考えだと思う。
「う~ん、私は恐怖を糧にするだけでいいから、人間を直接食べたりはしないんだよね。ごめんけど、他をあたって」
当てが外れた。困った。困った。どうしよう。
「……ふふ、良かったら、手伝ってあげようか?」
ぬえが言う。何を言っているのか、先程交渉を拒否したばかりなのに。
「それ、捨てに行くんだよね? いい方法があるよ」
そう言って、ぬえは思わず身の毛がよだつほどの厭らしい笑みを、ニヤリと浮かべた。
ああ、なるほど。あの本に書かれてあったことは、事実らしい。
こんな見る者が不安になるような笑顔を浮かべていれば、友達なんて出来ないし、誰も寄り付かないに違いない。
私は荷車に叔父の死体がずり落ちないよう縄でしっかりと固定し、夜の里を荷車を引いて歩き出した。
空に浮かんだ星と月の淡く青白い光が往く道を照らし出す。
時折、鈴虫が鳴く。涼やかに響くそれは、透明な静謐さを感じさせる。
勝手なことだが、私は、それが叔父のために唱えられる読経なのだと思うことにした。
「本当になにかで覆わなくても大丈夫なの?」
今、叔父は食卓に倒れ伏した時と同じような状態で、むき出しで外気にさらされている。つまり、端からは微動だにしない人間をそのまま荷車に括り付けて運ぶ、という極めて目立つ格好になっていた。
「へーきへーき。今、これは絶対死体には見えてないから」
本当なのだろうか。にわかには信じがたいが、妖怪のやることだ。どんな不可思議なことでも不思議はないが……。
「正体不明の種を埋め込まれたら、始めからそれが何であるかを知っている人間を除けば、それの正体は誰にも分からなくなる。何に見えるかは、そいつの想像力しだいだけどね」
そう言うと、ぬえは急に姿を消した。
何事かと思えば、遠く、道の端から小さな明かりが、ゆらりと出てきていた。
光は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。おそらく、提灯か何かを持った里の人間が歩いてきているのだろう。このままでは鉢合わせとなる。
「本当に大丈夫…………?」
答えを期待したわけではなかったが、ぬえは律儀に大丈夫だと、姿を隠したままで言った。
「おや、食事処の」
「ええ、こんばんわ」
内心の動揺を悟られないよう、平静でいる事を心がける。
近づいてきていたのは、うちの店によく顔を出してくれる常連の客だった。
歳は六十代といったところで、若い頃はよく近所の悪童を説教して回っていたらしい熱血漢だ。
後ろで荷車に括りつけられて死んでいる叔父も、よく怒鳴られたと聞いている。
「若いベッピンさんがこんな時間に外を出歩いていちゃあいけないな。一体何を運んでいるんだい?」
「ええ、まあ、大したものじゃないんです」
実際、値打ちのあるものではない。ただの死体だ。
「ふむ。もし良かったらお手伝いしますよ。なあに、大した手間じゃない。いつも美味い飯を食わせてもらってるお礼だ」
しまった。大切なものだと言っておけば、断るのも容易だったのに。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「どれ、荷物は何なのかな?」
「あっ」
提灯の光で叔父の死体が照らされる。叔父の顔に張り付いている苦悶の表情が、ぼんやりと浮かぶ。
ああ、だめだ。言い訳は効くまい。これで大騒ぎは確定した。妖怪の言うことなぞ、聞かなければよかったのだ。妖怪が関わるならばと、死体を捨てる事に同意した罰が当たったのだ。
冷たい恐怖が背を伝って這い上がってくる。その恐怖に、申し訳ないという思いで胸がいっぱいになる。
「……なんだ、枯れ木の束じゃあないですか。これどうするんです?」
「………………え?」
枯れ木? 枯れ木と言ったのか?
「え、ええ。実は店の裏手を掃除してたらたくさん枯れ木が出てきてしまいまして、林のほうに捨てに行こうかと」
我ながらすらすらと嘘が出てくるものだと感心するが、このチャンスは逃せない。いくらでも嘘を吐いてとにかく誤魔化そう。
「ほう。そのご様子だと、すでに何度か往復されておられるのかな? 全く、あいつは姪にこんな事を押し付けて! こういう仕事は男の仕事だろうに」
どうやら、認識に何らかしらの齟齬があるらしい。発言を省みながら、慎重に、恐る恐る言う。
「ええ、実は。ただ、もうこれだけの量ですので、一人でも、大丈夫ですよ」
目の前の男性は、荷車の叔父と私の顔を見ながら、何やら思案顔となる。
ごくりと喉が鳴る。何か、間違えたのだろうか? 不自然だったのだろうか?
何か言うなら、早く言って。どうなの? 私は、間違えたの? どうなの?
「どうやら、そのようですな。たしかに、林まではそう距離もありませんし、たったこれっぽっちなら、むしろ手伝いは邪魔にしかなりませんなあ」
「あら、邪魔だなんて。お気持ちはありがたく頂戴します。本当に叔父の言っていた通り、頼りになる方で」
どうやら峠は越したらしい。このまま留まっても良くない気がする。半ば強引にでも話題を打ち切ろう。
「それでは、これで」
「ええ、また……? ん? なんだこれ?」
全身の筋肉が硬直したのを感じた。
「……な、何か?」
「いやあね、この枝に何かヌメッとしたものが」
そう言って、男は叔父の唇に指を近づける。
そして、叔父の口から溢れ出ていた泡を拭い、匂いを嗅ぐ。
今度こそ、終わった。
すう、と冷や汗が背を伝う。怖気が一瞬全身をめぐり、硬直した筋肉を振動させる。
正体がわからないと言っても、感触や匂いまで消せるようなものではないだろう。
今、男の鼻は、人間独特の口臭を嗅ぎ分けている。そうして、男の口は、こう動くに違いないのだ。
枯れ木の正体見たり。汝は死体なり。
「……ふむ、どうやら枯れ木以外にも混じっていたようですな。樹液の様です」
「……はい。………………え?」
「では、夜道くれぐれもお気を付けださい。ゆめゆめ、家の敷地を跨ぐまで油断なされぬよう。悪漢や妖怪は、どこに潜んでいるか判らないのですからな」
そう言って男は去っていった。
その背中を、しばし見送り、不審がられる前に踵を返す。
「ひひひ、ビビってたねえ怖かったねえ」
「……どこにいたの?」
足を数歩前へ動かしたところで、嫌味な妖怪の声が頭上から降りてきた。
どうやら、フワフワと私の頭上を浮遊しているらしい。
いい気なものだ。妖怪とは、このように暢気な生き物なのか。
「ずっと側に居たよ。まあ、気付けるわけないよね。夜の闇に溶け込むのは、私のお家芸だし」
いや、妖怪がどうだなんて、どうでもいい。私にとって、今重要なのは叔父の死体を如何に目立つ事無く運ぶかなのだ。
「あなたの正体不明の種……それって匂いとか感触とかも誤魔化せるの?」
「モチロン。さっきのおっさんも自分が掬ったのが死体の口から出てる泡だなんて気づかなかったでしょ? いや~、教えてあげたかったね私は! いやはや、だけどあの時の貴女の顔サイコーに見物だったわ」
ケタケタと嗤うぬえ。その笑い声に、私は苦虫を噛み潰したような心地になった。
妖怪全体がどうなのかは知らないが、この妖怪は絶対に性格が悪いと思う。
少なくとも、叔父の死体が発覚しない方法を知らされた時、死体を捨てることに対しての罪悪感が一片に吹っ飛んだ私と同じくらいには。
それから目的の林の入り口まで、誰ともすれ違う事無く叔父を運搬することができた。
私は、その事に大いに安堵したが、ぬえは林を目の前にした頃からつまらなそうに辺りを浮遊している。
「なんだって、トラブルがアレ一回きりだったかねえ。もうちょっと人通りがあっても良さそうなもんなのに」
そういうの人が嫌がる事を面白がってるから、罰が当たったんじゃ? と口から言葉が飛び出そうになったが、相手が妖怪である事を思い出し、噤んだ。
「こんなことなら、もっと積極的に動けばよかったかなあ」
なんとも不吉なことを言う妖怪だ。否。
そもそも妖怪は人間が嫌がることをするものなのだ。それをどうこう言っても仕方がない。それに罰と言うなら、私は他人の事をとやかく言えないのだ。
妖怪でもなければ死体を捨てに行く手伝いなど、してくれる筈もなかった。
叔父の死体を捨てるのを手伝ってくれたのは、ぬえなりの思惑があってのことだろう。
そういえば、初めて顔を合わせた時、上質な恐怖が何とか言っていた気がする。恐怖を糧にするとも言っていたので、ひょっとしたら、これがぬえにとって食事に値する行為なのかもしれない。
まあ、ただ単に、無様な人間を見物するのが趣味という可能性も高くはあるが。
実際のところどうなのか。聞いてみたい気もするが、それでヘソを曲げられたら困る。正体不明の種とやらを叔父の死体から抜かれたら、いくら林に捨てたところで発覚する可能性もあるのだ。
万が一、妖怪や獣の噛み跡のついていない人間の死体が発見されたらどうなるか。間違いなく、大きな騒ぎになる。それだけは、避けたい。
なので、私は余計なことは詮索しないほうがいいのだ。沈黙は金。波風立てないことに越したことはない。
ともあれ、私は林の少し奥まったところまで少し苦労して荷車を引き、固定用の縄も外して、叔父を無作為に投げ捨てる。
正体が不明ならば、このまま放置しても構わないだろう。人一人分を埋めるだけの地面を掘り返すのは、女の身では辛い。
ふと、星空を仰ぐ。木に覆われ視界いっぱいの星とはいかないが、僅かな星光を感じることはできた。
「――――――――――」
やった。
いや、殺ってはいた。
ただ、唐突な思いつきとあっけない結果で麻痺していた感覚が、徐々に戻ってきていた。
それまで無音だった虫の声が辺りから聞こえてくる。
風が草花を揺らし、ひそひそと相談する雀たちのように聞き耳を立てさせる。
湿った空気が鼻腔をくすぐる。解放への悦楽。自分が夜の住人と一体化したような奇妙な感覚。
目的を果たし、余裕が生まれたのか。
人とは縁遠い林の中で、これから誰に参られる事なく朽ちていく叔父を想い、しばし目を瞑り、黙祷をささげる。
自分自身が為した所業に目を瞑って。ただ、今は静かに祈りをささげる。
どれくらいそうしていたか、わからない。
もう十分と、軽くなった荷車を引き、林を後にする。
「う~ん、とりあえずの目的は達成したし、今日はもう帰るね」
林を抜けたところで、ぬえはそう言ってあらぬ方向へ飛び去って行った。
感謝の一つでも言うべきかと思ったが、妖怪に礼を言うのはなんとなく憚れた。
ぬえのとりあえずという言葉に引っかかりを感じたが、妖怪の言う事をいちいち気にしていたらきりがない。
私も、目的を達成したという確かな充足を感じながら、家路に着くことにする。
「――――――?」
そのとき、ふと、目端に、何かを捕らえた。
鵺、だ。
数十歩先の暗闇の中に佇んでいる。少女の姿ではない。
サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。
その正体不明の獣が微動だにせず、ただジッとこちらを見つめている。
獣にも感情はある。
こちらを見つめる時、それは敵意だったり警戒だったり、なにかしらの感情は篭っている。
ましてや、相手は妖怪なのだ。現に先ほどまでは、愉悦に富んだ様子だったではないか。
だが、その正体のわからない獣は、ただ、無機質な眼をしていた。無感情だった。そこには、意思の疎通などありえないのだと、感覚でわかってしまった。
そこにさっきまでの妖怪少女との共通点を見出すことが出来ない。嫌味な声も皮肉気に曲がった口元も享楽に浸る眼も。
先程まで一緒にいた封獣ぬえとは、何一つ結びつかない。
そこで、ようやく至る。
星明りがあるとはいえ、そこそこ距離があるのにもかかわらず、夜の闇においてやけにはっきりと目の前の獣を認められる。
突然、私が夜眼が利くようになったというわけではない。ならば、あれは現実のものではないのではないか。
私の空想の具象化。
すなわち、ケモノだ。
妖怪でもなく、獣でもなく。
自らの頭で作り出した実体のないケモノ。
そう自覚した時、瞬きの間にそれは消えていた。
残されたのは闇にたなびく涼やかな風と、全身を這っていた寒気。
異様に早くなっていた心臓の音に、乾ききった口内。
目が乾きを覚え、こめかみにわずかな鈍い痛み。
まるでそれまで流れが止まっていたかのように、脳内の血液が狂ったように頭蓋へ昇る。
叔父を殺したときも、これほど凍った時間を過ごしはしなかった。
――――ああ、そういえば。
私は、なぜ、叔父を殺してしまったんだっけ?
たくさんの目が、私を射抜いている。
私が、たくさんの目に射抜かれている。
叔父を殺した夜に見た夢は、そんな夢だった。
叔父を殺した翌昼過ぎ、営んでいる食事処の盛時も越え人の波が途絶えた頃。
空いた席の食器を片付けつつ、私は、叔父抜きでいつも通り店を切り盛りするのに問題はないことを再確認していた。
元より品物の仕入れや調理などは人を雇っている。
叔父の仕事は盛時に店を手伝うことと帳簿をつけること。
その手伝いは決して馬鹿に出来ないものだったが、まあ、いないならいないで何とかなることがわかった。
むしろ店を閉めた後が大変だろうが、きっとこれもなんとかなるだろう。私が家事に割く時間を少々削ったところで、誰も困らない。困る人間はもういない。
叔父がいなくなったことは、まだ誰にも伝えていない。
店の人間は、叔父が店に顔を出さないことに首を傾げていたが、珍しいこともあるなと、そこで納得していた。
叔父は、人望があるというわけではなかったが、決して他人から見損なわれる人間でもなかった。
なので、2、3日は何も説明がなくても誤魔化せるだろうが、それ以降となると、やはり何か理由を考えなければならない。
騒ぎになることだけは、避けなくてはいけない。
「すみません、この麦飯定食をくださ~い」
「はい、少々お待ちを――――――ッ!」
いつの間にか席に座っていた客の声に振り向くと、そこには顔を愉しそうに歪めてニヤついている封獣ぬえがいた。
「あ、それと枯れ木とかってあります? 樹液のタップリついた枯れ木の束」
「――――申し訳ありません。ありましたが、昨日処分してしまいました」
私の返答にくくく、と嗤うぬえ。一体、何をしに来たのか。
いや、それよりも、妖怪が堂々と人間の食事処に入って来ているのだ。騒ぎにならない筈が――――
「そんな怖がらなくてもダイジョーブダイジョーブ。ちゃんと私の姿は正体不明になってるから」
「じゃあ、どうして私には」
被せる様にぬえが続けた。
「私の声を聞き分けてるからだね。今、声だけは正体がわかるようになってる。私の声に記憶がある人妖は判別できるよ」
ぬえはそう言うと、お茶と、催促してくる。
どうやら、本当に食事をしていくつもりらしい。
「何のつもりで」
「フツーにゴハン食べに来ただけだよ。後、面白くなりそうなものを見たから」
ぬえの不吉なその言葉に、どういう意味だと尋ねる前に、目端に奇怪なモノが映った。
「え?」
鵺だ。あの、私の脳内で作り出しているケモノだ。昨日の夜とまったく同じ姿だ。
そのケモノが、ジッと微動だにせず、こちらを見ている。
まるで、夢に見たたくさんの目のように。私を射抜くように。
「……面白いものってアレのこと?」
目配せで、慎重にぬえにケモノの方向を示す。
実は、アレはこの妖怪の使いか何かなのだろうか。
口内から水分が失われていくのがわかる。
だんだんと息が苦しくなってきた。
早く。早く答えろ妖怪。
「……いや、まだ来てないみたいだけど…………何の事?」
ぬえは怪訝そうにこちらを覗き見る。
その時、店先で何か大きな物を落としたよう鈍い音がした。
「おおい、いいもん持って来てやったぞう」
主に、仕入れで世話になっている男が、店先で声を張り上げる。
その無遠慮さに苛立ちを覚えながらも、何を持ってきてのか聞く。
その所作にぬえの顔が愉悦に歪んだ。どうやら、これがぬえの言っていた面白いものらしい。
なんだか嫌な予感がしていた。
「米俵だよ米俵! ほれ、この立派なもんを見てみろよ! 安くしとくぜえ?」
「お、旦那良いの持ってきたねえ」
「何だか怪しいですよ、こんな時間に一つだけ仕入れを持ってくるなんて。なんだか気味が悪いですし、その俵」
店の従業員たちが、男の持ってきたモノを指して言う。
米俵。米俵だそうだ。コメダワラに見えるそうだ。
それは、死体なのに。昨日、私が殺して林に捨ててきた叔父なのに。
男は、叔父の額を小気味良く叩く。
恐らく、林の中で米俵と誤認した叔父を見つけたのだろう。林から店まで距離が開いていないといっても、ここまで運んでくるのは骨だったはずだ。
それもそうか。男からしてみれば、タダである程度纏まった金が入るのだから、骨の折り甲斐があるか。
ちらりと視線を横にずらせば、ぬえが怖気の立つほど厭らしい、得意げな嗤いを浮かべている。
どうやら、これがぬえの言う面白くなりそうなものらしかった。
予想外だ。林に米俵が捨ててあると想像する馬鹿がいるなんて、想定できない。
やはり、手間を惜しまずに埋めるべきだったのだ。どうせ見つかっても正体がわからないからと、油断した私が愚かだった。
「よっしゃ! そんな言うなら、値段下げちゃる! 下げちゃるからな!」
余程嬉しいのか。無骨な男の手が、叔父の顔を撫でる。死体を撫でる。
弾みで、叔父の首がクニャリと曲がった。けれど、男はそんなことはお構いなしに叔父の顔を撫で回す。
その光景を、ひどくおぞましく感じた。
「わかりました。買い取らせていただきます。代金は、後日でも?」
さっさとお帰り頂くのが一番だ。
「よっし! 売ったあ! 来週の定期便で来た時に払ってくれ」
話が纏まると、男は意気揚々と叔父を担いで厨房へと入ろうとする。
一瞬で恐怖に駆られた。
「それはそのままにっ!」
知らず、強い口調になっていた。気がつけば目の前が真っ赤だ。よほど私は興奮しているのか。
ああ、ダメだ。冷静に、平静にならないと。私が、騒ぎの中心になってどうする。ほら見ろ。従業員が驚いているじゃないか。目立っているじゃないか。
視線を忙しなく動かすと、ケモノと目が合った。
先程より、放たれる圧力が増している気がする。ダメだ。このままではダメになる。
「…………失礼しました。その俵はここに置いてください。少々汚れているようなので、厨房には」
「あ、ああ。いや、すまねえ。こっちこそ浮かれて非常識なことをしちまった」
そういうと、そそくさとバツが悪そうに男は店を出て行った。
数瞬、沈黙が場を支配する。お客が少ないのが不幸中の幸いか。
「……いや、一瞬店長が怒鳴ったのかと思いましたよ」
沈黙を破るようにして、従業員の一人が言う。
店長とは、そこに転がっている叔父のことだ。
「私も思いました! いや~、怖かったあ」
さらに一人が続く。
「……いやだわ。そんなに大声で怒鳴ったかしら。それより、これ裏手に運んで置いてくれる? 後で私が検分するから」
そう従業員に指示をして、一息吐く。
叔父とは一緒にして欲しくない。私は、あのように声の大きな人間ではない。
「ひひひ、こわいこわい。騒ぎは怖いよねえ」
…………忘れていた。油断のならない、ふざけた妖怪がいたのだった。
「あれは貴女の差金?」
そういえば、昨日もっと積極的に動きべきだとか何だか言っていたか。
「ブラブラ歩いてたら白昼堂々死体を運んでる奴を見つけてね。そういえば、昨日の死体はあんな顔だったなあって」
「貴女、誘導したわけね」
「ご明察。ここなら買い取ってもらえるよって教えてあげた。位置的にも近かったしね。まあ、そんな事しなくてもあのオッサンはここに来るつもりだったみたいだけど」
「……なぜ、私がここに居るってわかったのかしら?」
「そんなの、良い獲物の匂いを見失うわけないじゃない」
獲物か。どうやら昨日の推測は正しかったらしい。
つまり、私を恐怖に叩き落して自分はその味に浸るというわけか。
誰が言ったか、人の不幸は蜜の味という。なるほど、妖怪が執着するというならば、確かにそれも頷ける。
「じゃあ、もういいでしょう。私は随分と恐怖したわ。麦飯定食なんて、満腹の妖怪に出すようなものじゃない」
「おや、今日は随分強気だね。昨日はあんなにおっかなびっくりだったのに。昨日ストレスの原因が消えたから調子に乗ってるのかな~? それとも」
――――ストレスの解消法を見つけられたからかな? と、底のない沼地のような澱んだ目で、ぬえは私と目を合わせた。
目に見えぬ圧力が、私の肩と心臓にかかる。
この目の前に居る妖怪は、私に精神的な重圧をかけているのだ。
知っているぞ、と。見透かしているぞ、と。お前自身、正体がわからない事をわかっているぞと、この妖怪は言っているのだ。
煽っているのだ。煽って、恐怖させようとしているのだ。
秘密を握られている恐怖。その秘密で何をされるかわからない恐怖。
だが、甘い。
そんな恐怖や圧力、今も、こちらをジッと見詰めている正体不明のケモノに比べれば、取るに足らないものだ。
「すぐにご注文の品をお持ちします。こちら注文表となっております。きちんと料金をお確かめ下さい」
ニコリと満面の笑みで答えてやる。
「……心配しなくても、ちゃんとお金はあるよ」
それならば、仕方ない。客だ。精々持て成そう。
出されたものを食べ終えた後、ぬえは至極真っ当に食事の料金を支払い静かに出て行った。
もっと何かしらの仕掛けを繰り出してくるかとも思ったが、随分と行儀良く食事を取っていた。
全ての客が、こんな風なら良いのにと思ってしまうほどのしつけの良さであった。
ただ、店を出る瞬間、得心がいったという様な顔をして、一瞬ニヤリとこちらを嘗め回すような流し目を向けてきたのは、気にかかった。
そして、あの正体不明のケモノも、気がつけば姿を消していた。
閉店時間を迎え、伝票を整理し終えて、火元の確認を厳重にし、店を閉める。
星が輝き、昨日に比べても空が澄んでいるようだ。
それに比べ、私の心は淡い灰色で覆われている。
店の裏手には、叔父の死体が投げ出されている。
当然のことながら、店の裏手に埋めるといったことは論外だ。
仮にも、食事処である。まさか、近くに死体を埋めるわけにもいかない。
なので、これからこの死体を再び林の中へ捨てに行かなくてはならないのだ。
さらに、ただ捨てるだけでなく、やはり土中に埋めなくてはならない。
正体不明の種による迷彩はなるほど完全だが、問題は死体を宝だと認識するような輩がこの先再び出ないとは限らないということだ。
その度に、またあの妖怪にいいようにされるのは、いつそれが騒ぎに発展するかもわからない。
時間が経つほど、こちらは追い詰められる。今夜中に片をつけなくてはならない。
算段を立てつつ、店の表側から裏手に回ると、そのには先客がいた。
「やあ、遅かったじゃない」
「…………別に待ち合わせをしていたつもりはなかったのだけれど」
「いやいや、そんなつれない事を言わないでよ。ほら、コレ捨てに行くんでしょ? 早く用意して行こうよ」
なるほど、昼間の続きということらしい。いや、昨日の夜の焼き直しか。
恐らく、この嫌がらせの達人妖怪のことだ。昨日とは違い、私を恐怖に陥れるために、色々と仕掛けを張り巡らせているのだろう。
林に着くまで、否、今日家の床に付くまでに何度肝を冷やされるかわかったものではない。無視をしても当たり前のように付いて来るだろう。このまま死体を捨てに行くのは、あまりに危険過ぎる。
ならば、どうすればいいのか。
息が苦しい。唇から潤いが消える。手先がしびれる。足の裏から熱が失われていく。
そして、肩に圧力を感じた。
わずかに視線を、横にずらす。
いた。
サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。
正体不明のケモノが、そこにはいた。
「……………………」
動けない。下手に動けば、何が起こるかわからない。
こめかみから汗が落ちる。背中はもう汗でぐっしょりだ。
体中の血管の音が聞こえてきそう。汗は身体を冷やすんじゃなかったのか。ちっとも落ち着きやしない。
前門の虎後門の狼とはこういうことを言うのか。ただでさえ、片方だけでもまるで持て余しているっていうのに。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「…………ひょっとして、今、何か見えてたりするのかな?」
ぬえが、問うてきた。
うるさい、今、こっちはそれどころじゃない。
「ひひひ、辛そうだね。まあ、仕方ないか。それが相手じゃあね」
――――なんだと?
「何? 貴女、これがなにか、知ってるの?」
辿々しい言葉で、ぬえに詰問する。
その声を聞き、ぬえは、ニヤリと、子供が覚えたての下卑た遊びをする時のような顔をした。
「まあ、そう珍しいことでもないよ。幻覚を見るっていうのはね。ただでさえ幻想郷は人間にとっては有害な気が複数充満してるし、それに当てられることもある。心が弱れば、見え易いのよ、ここは」
いい。そんな事は、今はいい。これが、幻覚だということはなんとなくわかっている。それより、その幻覚の正体だ。
「それはね、貴女が恐れているものだよ。それがどんな形をしているかは知らないよ? でも、きっとそれは、昨日の夜、貴女が死体を捨てた時から見え始めているはず」
正解だ。それは正しい。確かに、ケモノが見え始めたのは叔父の死体を捨ててからだ。
「じゃあ、これは叔父なの? 私は叔父をこんなケモノみたいに見てるってことなの……?」
ぬえが間の抜けた顔をした。
「……は? いやいや、違うでしょ。貴女が恐れてるのは違うものでしょ」
「…………? そうとしか考えられないじゃない。私が叔父以外に何を恐れているっていうのよ」
道理で言えばそうだ。確かに、言われてみれば殺した相手の幻覚を見るというのは、おかしなことではないかもしれない。
罪悪感だってあるのだ。なぜ、私が叔父を殺したのかわからないが、幻覚を見るということは、それでも罪を感じているのだ。
答えを、得たのかもしれない。それなら、今後うまくやっていけるかもしれない。正体不明に、光明が見えているのかもしれない。
だというのに。
今度こそぬえは、誰に憚れることもなく、大口を開けて哄笑した。
「は、はははははは! なんて歪みっ! ああそうか、ソレが何なのか、わかってないんだ!」
ぬえが天高らかに騒ぐ。
「殺してから今まで! 貴女は、人を殺した事実よりも違うモノを恐れている! それに自覚がなかったなんて! 自分の心がわかっていないなんて!」
――――――なんて、無様。
と、ぬえは本当に嬉しそうに、私に言い放った。
大声を、出さないで、欲しい。騒がないで、欲しい。
わからない。わからない。
もし騒ぎを起こせば、アレは、何をするか、わかったものではないんだから。
嗤うぬえに手を伸ばす。腕をつかみ、そのまま引き倒す。
ニヤァと、ぬえは厭な嗤い顔を浮かべる。やめろ。その嗤い声をやめろ。
大きく息を吸う気配がする。ぬえだ。コイツは、この期に及んでまだ大声で嗤おうとするのだ。
そうはさせじと、ぬえの首に手をかける。ああ、まだ嗤おうとするのか。なら、あらん限りの力を込めて、その首を絞める。
変に、思われるだろう。
変な子に、思われるだろう。
そんなに、騒いで、いたら、周りの、人から、変に、思われるだろう――――ッ!
アレは、ケモノだ。
正体不明のケモノだ。
私が生まれてきてからずっと抱えてきた、ケモノだ。
これまでは見えなかっただけで、本当はずっとそばにいたのだ。
ただ、鵺という正体不明を具象化した現物を見てしまったために、あのような形に成ったというだけなのだ。
ケモノが、ジッと微動だにせずこちらを見詰めている。ソレはずっとこちらを見詰め続けるのだろう。
でも、わからない。ぬえが言った事がわからない。このケモノが、何かが、どうしてもわからない。
怖ろしい。恐ろしい。
目に見えぬ圧力で、押しつぶされてしまいそう。
ケモノの放つ眼光は絶対的で、どうしても逃げられない。
ああ、そうだ。けれどもそうだ。
何も騒ぎが起きなければ、それでいい。
騒ぎがなければ、アレが何かするわけでもない。それだけは、わかっている。
そうか。
だから、私は段々と五月蝿くなった叔父を、声が大きくなっていった叔父を、殺したのか。
やっと、殺意の正体がわかった。やっと、自分の心がわかった。
――――安心した。それならば、仕方ない。
私、変な子だって、おもわれたくない。
たくさんの目で、射抜かれたくない。
騒ぎを起こすのなら、死んでも仕方ないよね。
なぜか、ケモノの圧力が、増した気がした。
「ん? なんじゃぬえ。やけに愉しそうじゃの」
「ああ、マミゾウ。いやね、人間からスンゴクいい恐怖の栄養を貰ったから、機嫌がいいんだよ。いや、まあ、さすがに妖怪を殺しに掛かってくるとは思わなかったけどね。なんとか抜け出したけど」
「ふむ? 巫女や魔法使い以外にも骨のある人間がいたもんじゃな」
「アレらとは、ぜんぜん違うけど…………それにしても人間の強迫観念って凄いよね。それ一つで、自分たちで作り上げた強固な倫理とか道徳とか、一片に吹っ飛ばせちゃう。やっぱり面白いなあ」
「…………まあ、妖怪の本分を達するのは良いが、寺にいる以上は不必要に騒ぎにならんようにの」
「心配ないよ、マミゾウ」
あの女、騒ぎは好まないから。
もう秋だと思うんですけどね(笑)
それはともかく、久々に凄みのある小説に出会った感じです。自分にもこんなものがあるかと思うとぞっとしますね。
そして今秋姉妹のターンな気が...
まぁそれはともかく、ゾッとするお話でした
良い作品でした