「早苗の生まれる、ずっと前の話だからって」
守矢の巫女は、無防備な人間だと思う。どこが、とはうまく言えない。けれど幻想郷の住人なら、人間だろうと妖怪だろうと意識せずに隠しているようなところを、露わにしている。そんな印象だ。
……腋の話じゃないよ?
それなら、同じくばっちり晒している幻想郷代表格がいるし。
「それ以上、神奈子様ったら何も話してくれなくって。だから私、知らなくてもいいことなのかなあって」
外から来た人間というのは、みなそうなのだろうか。あるいは彼女だけの資質なのか。
「メルランさん、お茶飲みますよね? ごめんなさい、話し込んじゃって」
もっとも私は、東風谷早苗という人間についてほとんど知らない。顔は見知っていたけれど、こうやって差し向かいに座るのだって今がはじめてだ。
「待ってよ。そうすると、あなたも私の呼ばれた理由を知らないってわけ?」
せいぜいが色違いの巫女としか認識していなかったといえば、怒るだろうか。
「チンドン屋姉妹の、喇叭をやってるのをって。それだけしか……。あ、ごめんなさい!」
早苗は跳ね起きて縁側に逃げ込んだ。
お茶をもらって、しばらくこの神社のことなど聞く。神奈子さんが音頭を取って、結界を越えてきたことなどなど。神社も湖も一緒くたなんてさすが神の業、聞いていてワクワクする話だ。信仰が失われたから云々は、いまいちピンとこなかったけれども。
「友達とか、いっぱいお別れしてきたわけね」
私が尋ねると、早苗は少し苦しげに笑った。
「かもしれません」
「ん? どゆこと」
「こっちに来た人や物のことは、外の世界では忘れられるみたいで。私のこと覚えてる人も、どれだけ残っているか」
彼女の手の中で、湯呑みがゆっくり回った。軒先に吊るした風鈴が、りんと一度強く鳴った。
「メルランさんって、意外だな」
早苗の話は、わりと脈絡なく変わる。
「なんて言うかもっとこう、話が通じないタイプかと思ってました。音楽やってる人とかってそうじゃないですか。フィーリングで喋るっていうか、本人にしかわからないような言語センスがあるとか」
「そういうのって、たいていステージの上だけの話じゃないかなあ」
「ステージパフォーマンスってやつですね! 豚の内臓を客に投げつけたり!」
いい笑顔でサムズアップしている。私にしてみれば、早苗の言語センスの方が謎である。
……外の人間って、みなこうなのかしら。
早苗と別れて、私はひとり境内に降りた。神社の参道は白く乾き、圧倒的な蝉の声量が、空気の粒ひとつひとつを震わせている。
みみみみみ。じぃじぃじぃじぃじぃ。てくてくほーし。
蝉の鳴き方にも個性がある。まるで私たち姉妹の演奏のように。
足元に落ちた私の影は、落とし穴みたいに黒々としている。
早苗が声をかけてきたのは、人里近くの空の上だった。守矢の一柱たる八坂神奈子が呼んでいるからと、まるで約束でもしていたかのように誘う。私も大した考えもなく彼女について山を上ってきた。特に何かする予定はなかったし、リリカもルナサ姉さんも一緒じゃなかったからだ。
しょいしょいしょいしょい。
近くのブナの幹で目立ちたがりがソロをはじめる。黙って突っ立っていると負けたみたいで悔しいので、私は愛用のトランペットを取り出しぷかりと顔の前に浮かせた。
思うざまにしばらく吹き鳴らす。適当な出たとこ任せ、曲の体裁になっているかもわからない。
ただ、いつも以上に明るくリズムカルに鳴らせた、と思う。
「ごめんね」
最後に、恋の歌を邪魔された蝉に、一礼。
拍手が聞こえた。ぱち、ぱちと散漫に途切れる。
手水舎の屋根の下から、小さな手のひらが突き出している。くっきりした影の中で、くりくりと目が動いていた。
「ねー」
呼びかけてから、守矢神社のもう一柱であると気づく。名前なんてったっけ。「神奈子さん知らない? 私に用があるって聞いたんだけど」
神は答えず、柄杓を手にとってひょいと振る。ぱしゃ、と水の鎌が光り、地面に黒くあとを残す。
そちらに気をとられてふと我に返ると、手水舎の下にはもう誰もいなかった。
賽銭箱に手をついて、拝殿の薄暗がりを覗き込む。灯明が細く燃えて、色とりどりの幕が下がっている。ずっと奥に丸い鏡のようなものが立てかけられ、徳利をのせた三方が供えられているが、杯をあける神様の姿など、どこにも見当たらない。日なたへ出て、建物の脇に伸びる細い道へ私は歩いていく。
ほどなく石畳が途切れ、しっとり湿った風が額に当たりだす。あたりの杉には注連縄が巻かれ、どの木も私が手を広げたより直径が大きい。ごく最近移ってきたとは思えない、はるか昔からこうであったかのような佇まいだ。
木漏れ日がまだらに降る地面は、こんもりと柔らかな苔に覆われていた。足をのせると、ゆっくり沈み込む。水の上に立っているみたい。
蝉の声も、どこか輪郭がゆるんで感じられる。私はトランペットを掲げ、また一くさり、ほの暗い林の奥へ音を投げた。
「メルランさん」
杉の赤い肌にもたれるように、早苗が立っていた。
もうこっそり帰っちゃおうか、と思っていたところだったから、私はきまり悪くて彼女の目を見られなかった。
「吹いてみる?」
楽器を差し出す私はひどくぶっきら棒に見えたことだろう。
「わっ、いいんですか?」
早苗は苔の丘をひと飛びに越えてきた。巻き起こった風に彼女の匂いが混じる。
「経験あるの?」
「トランペットの? ありませんよ」
「じゃ、無理ね」
「甘く見ないでくださいよ。吹奏楽部に友達いたから、よく木琴借りて鳴らしてたんですから」
なぜ得意満面なのかわからないが、トランペットを手渡す。
マウスピースの向こうで早苗の頬がぷっくり膨れた。
あら!
意外なことに、甲走った声で楽器は鳴いた。私の予想では吹き込む息が金管の中でざわつくだけだったはずなのだけど。
「駄目だあ。やっぱり、メルランさんみたいな綺麗な音は出ませんね」
「ここは音が篭るしね」
お世辞のつもりではない。自分で鳴らしていても感じたことだ。苔のせいか、杉が壁のようにそびえるせいか。
「ね、ね。あれやってくださいよ」
笑顔で早苗は楽器を押し付けてくる。なんだか、妹と話している気分になった。
「あれじゃわからない」
「たららら~、ってやつ」
「ますますわからないよ」
「……私も、鼻歌を聞いただけですもん」
早苗の視線が境内の方へそれた。刹那、彼女は私を忘れただろう。
家族なんてそんなものだ。
――ああ、ああ。大したことじゃない。昔のことで、ちょっとね。
神奈子さんはにこにこ機嫌よく、悠然として語らず。
早苗はなんだか、寂しくなってしまったらしい。
++
日が傾き、影になった山間でヒグラシが鳴きはじめる。夏というのは序盤勇ましく照りつけるくせに、半ばを過ぎれば帰りたくないとぐずり始める、尻すぼみの甘えん坊だ。
鳥居の下に立って、急峻な階段を見下ろして私はトランペットを鳴らす。
たららら。タラララー? タララ・ラ?
……早苗が音痴だということもありうるなあ。
何度か再現してもらえばよかったかもしれないが、早苗は家の仕事があるとかで、屋根の下に引っ込んでしまった。
私はそれこそ引き上げてもよかったのだろう――神様も一向、お出ましにならないし。
た・ら・ら・ら……たらら。
境内をゆっくり引き返す。とどのつまり、私は未完成のメロディーに拘っていた。参拝客といえるのはほとんどいないが、羽を休めていたらしき白狼天狗が胡乱げにこちらを見ている。練習で同じフレーズを繰り返し聴かせられる苦痛は、私も姉妹で暮らして骨身にしみているが、文句は私の探究心に火をつけた早苗に言ってもらうとしよう。
たん。ラン。ファン!
私たち姉妹は、出来上がっている曲をあまりやらない。そりゃ、いい曲も多いから少しはやるけれども、一人のはじめた音を追いかけて追い抜いて、また追いかけさせてというのが最高に楽しいのだ。そういえば、寺子屋で教えている半獣に、きちんと楽譜に残せと言われたこともあったっけ。
だからこうして吹いていて少しまだるっこしい。たぶん、リリカと姉さん、もしくはどちらかが居てくれれば、音を引き出してくれるから、こうやって似たような音階を何度もなぞらなくって済むのに。
たラん!
いつしか私は、早苗と話した苔の前に戻ってきている。静止した波のような緑の斜面に、まだ私の置いた足のあとが、うっすら窪みになって残っていた。
楽器を休めて、肩で息をつく。帽子を脱いで髪をかき上げた。暑さはわりとへーき、だけれど、重く垂れ下がる梢を揺らしてくる風は、心地いい。
ふとそこで気がついた。蝉が鳴いていない。
境内を振り返る。ずっと遠く、鳥居のあたりでぽつねんと早苗が箒で掃いていた。おかしな様子はない。
まあ偶然、そろって鳴き止むこともあるかもしれないと、私は屈んで空を見上げる。杉林の稜線から突き出しているのは、名高い御柱だろう。薄い青空に、御幣がなびく。
私の心は穏やかに揺れる。ばたりと音がして、見れば近くの杉に黒っぽい羽の蝉が鎮座している。鳴きだすかと思えばやはり鳴かない。
そよそよと風が交叉する。木の葉が互いを打ち合う。足元の苔からはせせらぎに似た振動が伝わる。
ある事実が、認識と同時に私を驚かせた。
苔に残る足跡は私のものではない。さっき私の立った場所は苔山のもっとふもとで、そちらにはずっとくっきりした形が、まさに今私の目に飛び込んできたのだ。
ならば早苗か。しかし彼女は上を歩いていなかったような気がする。
私は片膝をついて、苔の上をじっと見つめていた。
金に輝く木漏れ日がさらさらと振りかかる。ちょうどその真下で、かすかな足跡は日なたで蒸発する水たまりのように、やがてすーっと消えていった。
私はゆっくり立ち上がった。途切れず続いていたかのような蝉の声が、あたりを包んでいる。
後ろから私を追い越す小さな影があった。
「たまに、外の世界から信仰が届くことがある」
どっかり杉の根元にあぐらをかいたのは、帽子の神様だ。ああ思い出した。
「南の海の底深く。もしくは、西の島の森の奥。あるいは、基礎工事中の土の下。そういうところから偶然見つけられて、掘り出されて、引き上げられて。彼らは長い帰途につく。眠っていた彼らは、幻想入りした神を忘れていない。山のかたちを、風の匂いをたどり、一心に戻ってくる。そして、かつて信じた神社がそこにないことを知り、愕然とするのさ」
帽子のつばを引いて諏訪子さんはくすくす笑った。あまりに残酷な笑みに思えて、私はいい気がしなかった。
「何の話? 意味がわかんないんだけれど」
「だろうね」
木の根から飛び降りて蛙みたいにしゃがみ込み、諏訪子さんは眩しげに蝉の合唱を見上げる。彼女が手のひらで撫でると、苔はまるで薄野のようになびいた。
「昔話をしましょうか。ここ、この場所で喇叭の練習をしてる子がいた。さっきのあんたみたいにね。当時、こんなに苔は長くなかったかなあ。……毎朝のように、日の昇る前にやってきて、お賽銭いれて手をあわせてから、三十分くらい鳴らしていく。レパートリーは多くない。だいたいいつも同じ曲だ。一年ぐらい続いたかねえ。ある日を境にばたりと来なくなって、それっきりよ。それだけのことさね」
「なんで、こんなとこで」
神社なんかで、という意味ではない。
「音が通らないのにってことでしょ。それが好都合だったのさ。もっぱら、海の向こうの曲だったからね。大っぴらに演奏したら、咎められる」
「戦争中のお話ですか」
枝をくぐって早苗が現れた。小さな神様は「ははっ!」と甲高い声を上げて背をそらす。
「どの戦争だい!? 多すぎてわかんないね」
「確か、敵性音楽っていう……」
「ああ、うん」
横顔の神様が唇を尖らせる。「どうでもいい話さ。神奈子は慮って、その子が演奏してる間は風を吹かせたり、杉に枝を広げさせたりして、町まで聞こえないようにしてやってたけどね」
そして何故か舌打ちをする。妙に座った目つきで私を、木か岩みたいに眺めた。
「あんたもご足労だったね。いや別に、神奈子もさ。何をして欲しいってつもりで呼んだんじゃないと思うよ。喇叭の音でも懐かしくなったんだろ」
「じゃあ……」
どこかで聴いてはいるのか。
「あー、帰っていいよ。こっちはさっきから五月蝿くってかなわん」
ひらひらと手が鼻先で振られた。鼻白んだ様子で早苗が身を乗り出す。
「そんな言い方はないんじゃないですか」
「戦って死んだんじゃないんだ」諏訪子さんは、木々の間から漏れてくる湖の銀光を眺めて、もはや私たちのことは忘れたようだった。「女の子だったからね。兵隊になったわけじゃない……。でも、南洋の島で軽便の運転手をやってた父親に会うため船に乗ったことは、航海の無事を祈りにきたその子の祖母から知った。潜水艦にやられて沈んだ輸送艦の中に、その船の名があったけなあ。あれも夏、蝉の賑やかな夏だったっけなあ。ちぇっ」
膝を叩いて、じっと足元を見ている。
信仰が届くとはどういうことだろう。死者は神を責めるのだろうか?
私には諏訪子さんの話が腑に落ちなかった。苔に残った足跡が、話に出てきた少女のものであるとも思えなかった。足のある幽霊はもっとふてぶてしいものである。人里でもそれと気づかれず紛れ込んでいるのを、何人か私は知っている。
とっぷり日の落ちた神社の階段を下りる。早苗には夕食を一緒にと勧められたが断った。
森の上には青い夜が広がる。
たら、たた、らん。
一通りの旋律が私のうちで仕上がっていた。血の巡りとともに私の中を循環する、それは水泡みたいなものであり、楽譜に書き出すのも、口ずさむのも無理だ。楽器で歌うしかない。
トランペットを――実はこれも幽霊だ。厚かましく成仏しない我が相棒を、空へと向ける。どくんどくんと胸の鼓動が、次第に落ち着いていく。私の全身は振り子になり、メトロノームとなり。
らん!
今、指揮棒になった。
寝床に落ち着いたばかりの鳥たちがざわめく。一仕事終えた蝉が訝しげにうなる。彼らの声の間を掻い潜り、まずは丁寧に流していく。
冷えたピストンを押し込む。山の彼方で赤い星がきらめいている。足が自然と地面を離れた。
神社を真下に、私はさかさまに飛び上がっていく。社務所の屋根の端から、早苗の白い顔が見上げていた。上空にわだかまる、熱せられた昼間の空気にすっぽり包まれる。湿っぽさに閉口しつつ音を先導する。
たららら!
せっかちにまとまって飛び出そうとする音符たちをなだめすかし、整列させ、舌で弾いてどんどん押し出していく。
『私らが捨てたものを、死んでも捨てなかったやつらさ』
諏訪子さんは最後に、私がぞっとするほどの冷たい色を双眸に浮かべた。
『やっとの思いで帰ってきて、拠り所にしていた神社が、神が、跡形もなくなってるのを見て、そいつらはそれでも祈るのさ。何を祈るんだろうねえ。何が聞こえるんだろうねえ?』
あざけるような彼女と、黙って髪を指にからめていた早苗。二人はきっと同じ相手を思い浮かべていただろう。諏訪子さんの暗い声はルナサ姉さんのバイオリン。早苗の仕草はリリカのキーボードだ。きっと二人によって引き出されたのだ。
この音は。
私のシェイクは。
幻想の向こうに、届くのだろうか。
無言でそびえる御柱を巻いて飛ぶ。手足を縮めて、胎児みたいな格好で、廻りだそうとする体を必死に押さえ込む。金管は夜光を跳ね返し、喉を震わせて催促する。もっと速く、もっと遅く。
遮るものなき空の上で、私は飢える。
自由を。
広がりを。
喉がひりひりする。中天から星が降る。あとちょっと、ゆるやかに起点へ戻る円を、戦慄きながら見守る。もはや私には何もできない。楽器が黙るのを待つだけ。
はい。
おしまい。
朝顔から最後の一滴がしたたり、私は心底満ちる。すりきり一杯注がれた心臓が打ち鳴らされ、あふれた透明な結論が、穏やかに私を浸していく。
髪の毛一本まで脱力して、私はぐらりと揺れた。
「おっと!」
力強く支えられ、首ががくりと仰向く。さかさまの視界で、暖かく笑いかけてくる顔を眺め、健康そうな歯並びだなあ、などと私は考えていた。
「ここから落ちるとちょっぴり痛いよ。人間じゃないにしてもね」
神奈子さんの肩からは咲いたばかりの花みたいな香気がした。神社の鳥居の夜影が明るい参道に斜めに落ちている。
「どうも、チンドン屋です」
「悪かったよ、そんなつもりじゃ……」
かりかりと額をかいている。胸元の鏡に、私の帽子の星が映っている。
「ねえ、こんな曲だった?」
私が訊くと、神奈子さんは目を細めて、ゆっくりかぶりを振った。
「全然違うけどね」
トランペットを膝に挟むと、火照った肌に楽器はひんやり張り付いてきた。
【了】
ノスタルジックで切ない。
言葉選びの妙を感じました
プリズムリバー姉妹は幽霊ではない、という設定が気に入ってます。
得体の知れないまま存在したっていいよね。
自分が呼ばれた理由を知った(察した)後のメルランの尽力に、彼女のプロ意識を感じました。