和室に紅茶は似合わない。でもまあ、そんなことはどうだって良いのだ。私は紅茶の見た目が好きなのではなく、あの香りやほっとする温かさが好きなのだから。でも、編纂中の書物にこぼされてしまった紅茶というのは最悪だ、前に一度やらかしたことがある。
そんなことを考えていると、客人のさとり妖怪が口を挟んできた。
「最悪なのは紅茶ではなく、阿求、あなたのミスよ」
「わかってはいますけどね、言葉の綾というものですよ。なんだか、ずっと前にもそんな性格の悪い知り合いがいたような気がします」
彼女の言葉は辛辣だが、口調からは軽口をたたける気安さが伝わってくる。そう、私にはずっと前にもこんな知り合いがいたのだ。ぼんやりとした記憶だけれど。
「人間というのは面白い、口で言うことと内心で思っていることが大体いつも一致しない。でも言葉以外の部分に本心が出てしまう」
「その本心を直接覗ける人が何言ってるんですか」
「相手に覗いていることが最初から解っているんだから、覗きではないですよ」
ああ言えばこう言う、なんだか懐かしいやりとり。表面上は妖怪の調査と言うことで招いた客人だけれど、実際はこんなほっとする時間のためでもある。
「そうね、私も嬉しいわ。百年以上会えなかった友人ですからね」
そう言ってさとりは笑う。
「全く、そうやって人が口に出さない心の言葉にいちいち反応するから嫌われるんでしょうに」
「そんなのはわかってますよ。でも反応しなくても心の中が見えるのは変わらない。それに嫌わない友人だっているじゃない」
「そのうちに嫌いますよ」
「うそつき」
「ああ、もう。それが駄目なんですってば」
「ちょっと楽しんでいるくせに」
もう何も言うまい。いや、言わなくても向こうには筒抜けだけど。そういえば、ふと脳裏をかすめた記憶がある、もう一人のさとり妖怪。随分とぼんやりとしているけれど。そういえば、彼女には妹がいるという噂があった。確かめようと思っていたのをすっかり忘れていたみたい。
「ええ、いますよ」
「…………」
「まあ、そう怒らずに、ね?」
「でも、なんで噂なんですか?最近は見かけた者が全くいないというのは?」
「あの子は心の目を閉じてしまったから、心の目を閉じるのは心そのものを閉じるのと同じ事。はっきりとした意識を失ったから、はっきりと意識にも上らなくなった。それも随分と昔、貴方と以前にあったときよりも前のことです」
「そんなに長い間、心を閉ざしているんですか?」
自分の心を閉ざして、いわば半永久的に意識を閉ざすような、そんな事をする理由は何処にあるのだろう。もしかしたら他人が土足で踏みいるのは止めた方がいいような、そんな話かも知れない。
「ほら、私は心が読めるから嫌われているでしょう。でもその嫌いだって言う感情も筒抜けなんです。それに人間にしろ妖怪にしろ、腹黒い者は少なからずいるのです。あの子はそういったものを見たくなくて、心の目を閉ざしたの」
「それだけ、ですか?だって、貴女はこうしてここで話しているし、貴女方の事を悪く思っている者ばかりではないでしょう、嫌われるってだけで本当に心を閉ざしますか?」
現に私は貴女と話すのが楽しいですよ。
「まったく、素直に言葉にすればいいのに、こっちには丸聞こえなんですから。貴女はいつも嘘を見抜くのが上手、私が心を読まれる事なんて貴女以外にはありませんよ」
「あ、でも、話したくなければそれはそれで構いませんよ」
妹が心を閉ざしてしまうような目に遭う話なんて、普通は語りたくないものだ。彼女は遠くを見つめて黙り込んでしまった。
「でも、一人で抱え込まずに他人に話すことで楽になる、ということもあります。大丈夫ですよ、記録には残しませんから」
私がそう言うと彼女の表情が少し柔らかくなった。
「うふふ、先代の貴方もそう言ってくれた。それも好奇心からではなく、今と同じように、思いやりから。そうね、貴方の言うとおり。確かに、嫌われるとか、腹黒い者を見たくないなんて理由で心を閉ざしたりはしない。私たちには、汚い物が人間より沢山見えてしまうけど、綺麗な物だってしっかり見えるんだから。そうね、またあの話をしましょうか。先代の時と同じように。でもね、変な話、結末こそあんなことになってしまったけど、この話は彼女が一番生き生きとしていた頃の話でもあるんです、だからこその結末なんですけどね」
――――――――――
それはもう随分と昔、人間と妖怪がまだ真剣に争っていた頃。
山間の、村の外れの切り株で吉次は休んでいた。この少年は、山からウサギを捕って帰る途中で疲れた足を休めていたのだ。
兄さんはきっと喜ぶだろうな、彼はウサギの肉が好きなのだ。明日は畑の手入れをしなければいけないな、本当は狩りの方が好きなのだけれど。
ぼんやりと考え事をしていると、目の前の三叉路を人影が横切った。一見したところ、少女のような背格好、ただ髪の色は銀色であった。
続いて、男たちの声が聞こえ始めた。
「待て、妖怪め。ぶっ殺してやる」
口々にそんなことを叫びながら、弓や武器代わりの農具を手に走ってきて、三叉路で立ち止まる。左右を見渡している様子からすると、どうやら見失ったらしい。
男の一人が、切り株に座っている吉次に気づき、声をかけてきた。
「おい吉次、さっき妖怪がこっちに逃げたんだが、怪我はねえか」
「怪我?全く大丈夫だけど」
妖怪?そんな物がここを通ったのか?ああ、さっきの少女のことだろうか。確かに銀色の髪は不自然だ。
「なあ吉次、妖怪が逃げていったのがどっちかわかるか?」
「その妖怪って言うのは、銀色の髪の――」
「そうだ」
「それならあっちに走っていった」
そう言いながら、彼女が走って行ったのと違う道を指さしていた。だってさっき走っていたのは、ただの少女に見えたから。興奮した村人を差し向けるのは気が引けた。
「おう、ありがとよ。おまえは危ないから早く村に帰りな」
そう言って男たちは走って行った。それを見届けてから彼は、少女の走り去った方に弓矢を持って走って行った。
どのみち、こちらの道は行き止まり。左右の斜面は傾斜がきついから登るには時間がかかるだろう。木の陰からの不意打ちを警戒しながら進んでいく。
しばらく行くと、行き止まりについた。そこには一本の太い木がある。もしさっきの少女がいるとしたらその木のうろの中ではないか、直感的にそう思って、彼は声をかけた。
「出てきなよ、いきなり殺したりはしない」
そう言いながらも緊張はしている。相手は妖怪かもしれないから。そう考えながらもここまで一人できたのは、ひとえに少年であるが為の無謀さ故であった。
右手の方角から声がした。
「うん、わかった。出るから弓矢を下げて」
やはり少女としか思えない声。発せられたのはおそらく右手の大岩の陰だ。
彼は大岩の方に向き直ってから、弓矢を下げた。
すると、岩の裏から一人の少女が出てきた。
ただ、その少女の外見は、確かに異常な印象を吉次にあたえた。見たことのない服を身にまとい、髪は銀色、極めつけは彼女の体の前に浮かんでいる目玉と、体につながっている管。ただ、少女の顔立ちからは可愛らしいという印象を受けないでもなかった。
でも彼は弓矢を構えなおした。やはり人ならざる者に見えたから。すると彼女は言った。
「そんなに警戒しなくても、私は君を襲ったりはしないよ。だって私をたすけてくれたんでしょ?」
「助けた?」
「ほら、村の人達に間違えた道を教えてくれた」
「見てたのか」
自分の行動が最初から見られていた、そう思うと背筋が寒くなった。弓を一層強く引き絞る。
それでも彼女は焦らない。
「射ってしまいたければ、やってもいいよ、ちゃんと避けるから」
それを聞いて、目の前の少女に矢が刺さっている光景を想像してしまった。駄目だ、できない。
彼は弓を下げた、矢は矢筒にしまった。それを見て少女はにこやかに笑った。
「君は優しいね。相手を信頼したから武器をおろすんじゃない、ただ相手を傷つけないために武器をおろす」
「君は誰?」
「妖怪、でも人を襲う妖怪じゃない。人の心が読める妖怪」
心が読める、そうか、だから彼女は僕が村の男衆に違う道を教えたのがわかったのか。
「その通り」
どうやら本当に心を読まれたようだ。
「人をおそわない妖怪なんているのか?」
「いるよ、私みたいなさとり妖怪は人を襲わないし、スネコスリなんかもそう、座敷童も妖怪と似たようなもの」
「おまえは人を襲わない、そうだね?」
「そうだよ」
少しの間、張り詰めた沈黙が続く。先に口を開いたのは少女の方だった。
「助けてくれて、ありがと」
「ど、どうもいたしまして」
「本当のことを言うとね、助けてもらわなくても私が逃げるのは簡単だったんだ。腐っても妖怪だからね、追ってきた人を一人か二人殺してしまえば、残りはきっと逃げ出した」
「え?」
「でもね、私は心が読めるでしょう、そうすると殺されるものの苦痛、残った人の恐怖や悲しみがみんな聞こえるんだ。それが嫌だから走って逃げた。行き止まりにつながる道にうっかり入ってしまったときは本当に焦ったんだ、鴉天狗の群れが近くを飛んでたから空も飛べないしね。でも君が助けてくれた、ありがとう。君はもう家に帰った方がいいよ、私は村の人が戻ってきた頃合いを見計らって山の方に帰るから」
そういって彼女は手を振った。その手のひらには大きな切り傷があった。今まで後ろに隠れていて気がつかなかったが、かなり深そうな傷口だ。
「ねえ、その手のひら……」
「この怪我?大丈夫だよ、このくらいの怪我なら。逃げるときに慌てて切っちゃっただけ」
確か、血止めの薬草なら持っていたはず、山で動くときは怪我をすることもあるから。
「ほら、手を出して」
「君は……変わってるね」
変わってる?
「うん、だって私は妖怪だよ、普通はもっと警戒する。少なくとも殺そうとするのに躊躇はしない。その上怪我の手当までするなんて、私が君を殺そうとしたらあっという間に殺されちゃうよ」
でも、現に殺されてない。
「それは結果論、君はもっと慎重になった方が良い。あんまり疑うことを知らないと、それを利用する妖怪だっている。私がたまたま人を食べない妖怪だっただけ」
彼女は少しあきれた様子でそう言った。
吉次は傷の手当をすると黙って帰って行った。
「あの子は少し心配だな、あの人の良さが裏目に出ないと良いけど」
残された少女はぽつりと呟いた。なぜだか薬草をまいてくれた少年の手の感触が手に残っていた。
□□□□□□□□□□
「ねえお姉ちゃん、今日は変わった人間に助けてもらったよ」
「そうみたいね」
私たち姉妹は、お互いの心が読めるから会話をしないでも言いたいことがわかる。
「優しい男の子、か。ねえこいし、わかってるとは思うけど――」
「あはは、わかってるよ。お姉ちゃんが心配してるようなことにはならないから」
「私もあのときはそう思ってたけどね」
お姉ちゃんの心の中に懐かしい顔が浮かぶのがわかる。それに伴う淡い痛みも。お姉ちゃんは、人間の男の人に恋をしたことがある。もう百年も前のことだけど、それでもまだ好きなのだ。
「もう、私の話はいいの。今は貴女の心配をしてるんだから」
私は恋なんてしないってば、多分。
「みんな最初はそう思ってるなんてこと知ってるでしょう、あんまりその人間の事は考えない方がいいわよ」
「大丈夫、大丈夫」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さとりの話が一区切りつく頃には、紅茶は半分ほど無くなっていた。
しかし意外だなあ、目の前のいつも飄々と人をからかってばかりいるさとり妖怪が恋をしたなんて。
「ちょっと、失礼ね。そんなこと言うと傷つきますよ、貴方に言われると特に」
「言ってませんよ」思っただけです。
「確かに。でも私だって恋くらいしますよ、貴方だってするくせに」
うぬぬ、さとり妖怪相手に隠し事はできない。
「その通り」
「だから、そうやって人の隠したいことを平気で口にするから……」
「それでね、その時はこいしも例の男の子にもう一度会おうとは考えてなかった」
「こら、話題をすり替えない」
「でも私たちは心が読める上、普段は敵意や嫌悪ばかり向けられるから、人間の優しさや素直さを見せられると弱い。もうその時点で彼はこいしの心に居場所を占めてた。彼女は気付いてなかったけどね」
――――――――――
吉次がこいしと再び会ったのは、半年後の春だった。
畑の仕事も一段落し、彼は山でいつものように狩りをしていた。
猪でもとれれば、いいんだけどな。そんなことを考えながら森の奥へ入っていくと熊がいた。遠くに四つ足の黒い影が見える。それは紛れもなく熊であった
まずい、気づかれたら確実に殺される。
熊の方を見ながら、姿勢を低くして後ずさっていく。ゆっくり、ゆっくり気付かれないように。足下の落ち葉がたてるかすかな音が騒がしい。
四つ足の黒い影は、ゆっくりと、不似合いな無邪気な瞳であたりを見渡した。
どうやら影は、吉次のことを見つけたようで、彼の方をじっと見つめた。
一瞬優しげに見えたその顔はしかし、すぐに牙をむき猛獣の顔になった。
落ち着け、まだ距離はある。そう自分に言い聞かせながらゆっくりと背を向けないように、後ずさっていく。
熊は、ゆっくりと近づいてくる。でも背を向けて走り出すと、熊も走り出しそうで、何より熊に背を向けるのが怖くて、彼はゆっくり後ずさっていく。後ずさりながら、矢筒から矢を抜き、矢を構える。
じっくりと構え、目一杯弓を引き絞って、熊の目を狙って矢を放った。
矢は熊の肩に刺さった。
熊は一瞬ひるんだかのように姿勢を低くした、そして次の瞬間猛烈な勢いで走り出した。 吉次も走って熊から逃げようとする、しかし振り返ろうとしたその時に足がもつれて、視界が傾いていく。そのまま頭に、衝撃を感じ、意識が途切れた。
―――――――――――
雨がざあざあ降っている。雨の降っている景色は常に音も動きもあるはずなのに、とても静かだ。明るい緑色の下草に、頭上の木から雫が落ちてきて、その水滴がつーっとなめらかに葉っぱの上を流れ落ちる。
この雨じゃ、あの子が目を覚ましてもすぐには家に帰せないな。春の雨は冷たいから。こいしは、岩陰で気を失っている少年の方を見ながら思った。彼らの頭上には大きな岩が張り出しているから、雨は届かない。
危ないところだった、彼が襲われているところにたまたま居合わせなかったら、彼は熊に殺されていただろう。
しかし偶然というのは面白い、たまたま人間が熊に襲われているのを心の声で察知して様子を見に来たら、その人間が以前助けてもらった少年だったのだから。まあ、その心の声が、聞き覚えのある声だったから様子を見に来たのだけれど。
なんだか落ち着かない気持ちで雨音を聞いていると、少年が目を覚ました。
ああよかった、彼女はそう思った。同時に今までの落ちつかない気持ちの正体に気付いてしまった、あの少年のことが心配だったのだ。
「良かった、ちゃんと生きてた」
少年ははっとして辺りを見た。
「熊は?」
「私が殺したよ」
少年は答えたのが半年前に遭遇した少女であることに気付くと息を呑んだ。
「君が?熊を?」
「まあ、妖怪だからその位はできなくちゃ。それに君を助けるには、熊を殺さないでなんて言ってられる状況じゃなかった」
「助けてくれたの?」
「うん、君には前に助けられたからね。その恩返し」
「……ありがとう」
少年が、一口に妖怪だって言っても人間を助けてくれるのもいるんだな、と考えているのが解る。
「それは、誤解だよ。襲われてたのが知らない人間だったら、きっと私は何も手出しをせずにいなくなってた。だって熊の心の声だって、人間のと同じように聞こえるからね」
「そうか…」
少年は黙りこんで遠くを見つめた。沈黙を雨音が静かに埋めている。
なんだか、居心地が良いな。聞こえるのは雨音と少年の心の声だけ。でもその心の声が敵意や嫌悪ではない、それは本当に珍しいことだ。心が読める、それだけで他者が側にいるときは、相手が居心地の悪さを感じているのが読み取れて落ち着かない。でも少年からはそんな居心地の悪いような気分が伝わってこない、それが嬉しかった。なんだか、居心地が良いのだけれど、落ち着かないような、そわそわとした気分。この気持ちにはなんだか既視感をおぼえる、あれはいつだったか。
そうだ、お姉ちゃんが恋をしたとき。その時の姉の気持ちはこんな感じだった。
言葉が見つかると、今までそわそわとしながら居場所を探していた心情がはっきりと形を取り始めた。この前、他の妖怪に忌避の感情を向けられて落ち込んだときに、少年から向けられた優しい気持ちが思い出されたのもきっとそのせいに違いない。
同時に、姉が恋人を寿命で失ったときの心情が冷たく脳裏をかすめた。それでも、と彼女は思った、それでもこの気持ちを無かったことにするのはできないだろうな。
少年は隣に座って雨を眺めている少女のことを、不思議だなあと考えていた。隣に座っている華奢な少女は自分を妖怪だと言い、熊を殺したと言っている。確かに、銀色の髪の毛や、変わった衣服、体の前に浮かんでいる目玉は奇妙だ、心を読めるというのも本当らしい。それでも、熊を殺せる妖怪と華奢な少女のイメージは結びつかなかった。殊更、彼が目覚めたときに彼女が見せた明るい笑顔とは。今思い返すと、あの笑顔はとても可愛らしかった。しかし、心を読めると言うことは、今こうして考えていることも彼女には解っているのだろうか。そう考えると、なんだか恥ずかしくなってきた。
ふと少年がこいしの方を向くと、彼女はひどく赤面していた。どうしたのだろう、熱でも出たのだろうか。少し心配になる。
「熱なんか出てないよ」
彼女は、少年の方を見ずに遠くを見つめながらそう答えた。
「それならいいけど、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
それなら、何故こんなに顔が赤いのだろう。
それは、君が「可愛らしい」なんて考えるからだよ。こいしは心の中でそう言った。それに君が私の顔を心配そうにのぞき込んでいるのだって、見なくても私には分かるんだから。そんな風に見られたら顔だって赤くもなるよ。
雨がやんできた。
隣でそれを眺めている少年の心に、そこはかとない淋しさが浮かぶのが感じられた。雨がやんだら家に帰れる、だからこそもう少し降っていてほしい。
その感情が、半年前に少年の背を見送ったときの、彼女の心情と似ていたから、こいしにはそれが彼自身も気付いていない憧憬の芽生えであることがわかった。
「ねえ、もし今後この場所の近くに来ることがあったらさ、この岩の陰をのぞいてみてよ」
「どうして?」
「もしかしたら私がいるかもよ」
「君が?」
「私はさ、人間だけじゃなくて妖怪にも嫌われてるんだ」
「どうして?」
「心が読めるから。誰だって心を読まれて良い気持ちはしない」
「そうかなあ、君はいい人にみえるんだけれどな」
「人じゃなくて妖怪だよ」
「そういえばそうだった」
「私を嫌わない人や妖怪ってほとんどいないんだ。だからさ、嫌わないでくれる人とまた会えたらなって思って」
「そうか…覚えてたら、ここに来てみるよ」
「うふふ、嬉しい」
そういってこいしは笑った。
しばらくして雨がやむと、少年は家に帰っていった。
―――――――――
少年が家に帰ると兄と妹が出迎えた。
「お帰り」
「狩りの調子はどうだった?」
「今日は駄目だった」
熊に襲われたことについては伏せておいた。まさか妖怪の女の子に助けてもらったなんて信じてもらえないだろうし、信じてもらえたらもらえたで彼女に危険が及ぶかも知れない。なにせこの間だって村の人々に追われてたのだから。
少年の両親はすでに他界していて、一つ上の兄と年の離れた妹と暮らしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日はサチちゃんと遊んだんだよ」
「楽しかった?」
「うん」
それでね、それでね、と妹の話は続く。何でも無い話ばかりだけれど、楽しげに話す妹は可愛かった。
おーい吉次夕餉の支度を始めるぞ、と妹の話が一段落するのを待って兄が言う。
少年は、「そういえば彼女の名前を聞いてなかったな」とひとりごちた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「その少年が約束を忘れてくれれば良かったんだけど」
さとりはため息交じりにそう言った。
「でもそうは行かなかった」
「その通り」
しばし沈黙。
「ねえ阿求、話は変わるけどさ、貴方は前世のことはぼんやりと覚えてるみたいだけど、そのさらに前のことは覚えてないの?」
「その前、ですか。うーん覚えてませんね、ただ今の自分とは違うところも結構あるような、そんな気はします」
「そうね、貴方は生まれ変わる度に少しずつ変わっていく。でも私の知ってるどの代の貴方も今の貴方から感じられる、不思議ね、貴方は男だったこともあるのに」
「そうなんですか……」
「先代の時よりもずーっと前の事だけど、こいしが心を閉ざすよりも前、貴方はやっぱり私たち姉妹の友人だったのよ。でも忘れちゃったか、ちょっと寂しいな」
少しの間また沈黙。
「話の続きをしましょうか」
そういってさとりはまた、語り出した。
――――――――――
晴れているときと雨の時では同じ場所でも随分と印象が違うものだ。この間雨音の中で静まりかえっていた景色が、日の光で照らされた新緑の、潑溂とした景色に様変わりしている。足下に重なっている朽ちかけた枯れ葉も乾燥して、踏む度にかさかさと小気味よい音を立てる。
こいしは昨日の少年を待っていた、あのときの岩陰で。あの少年は「覚えてたら」と言っていたが、彼女には少年が必ず来るつもりなのが分かっていた。
少年はなかなか来なかった。太陽が頭の上を過ぎる頃、やっと少年の姿が視界に入った。安堵と同時に不安のようなものも浮かんでくる。待っていた人が来たのに、なんだか逃げ出してしまいたくなるような、そんな気持ち。
「たまたま近くに来たものだから」
少年はそんなことをいいながら歩いてきた。
「たまたま、ね」
こいしが片目をつむって見せると少年は「そういえば、そうだった」という顔をして、「君に照れ隠しは通じないんだっけか」と言った。
「その通り。君が私に会いに来てくれたことも知ってるよ」
「うん、そういえば助けてくれた子の名前も聞かずに帰ってしまったなって思って。それに昨日のことが半ば夢のように思えて」
「そうみたいだね。私の名前は古明地こいし」
「改めて昨日はありがとう」
「どうもいたしまして。こちらこそ会いに来てくれてありがとう」
少しの間、沈黙がおりる。その間に少年が「妖怪というのはなにやら恐ろしいものを想像していたけど、全く違うな。実際のところは可愛い女の子ではないか」などと考えていたので、こいしは顔を赤くした。
それに気付いた少年も、自分の考えが筒抜けであることをようやっと思い出し赤面する。
「えっと、いやこれはそういう訳じゃなくてね。ほら、あくまで客観的な判断としてそう思っているだけで……」
「うん、そうだね」
そういいながらこいしは微笑を浮かべようと試みる。うまく笑えてるだろうか。
少年の気持ちは漠然と、憧れに偏っているけれど、まだ恋情かどうかははっきりと分からない。もうしばらく待ってみよう、彼女はそう考えた。
「ねえ、川魚が沢山いる淵があるんだ。教えてあげる」こいしはそういって歩き出した。
少年も慌てて後を追う。元はと言えば、山に入るのは食料を得るためだから異論は無い。
どれくらい歩いただろうか、山道を身軽に進んでいく少女を必死で追いかけて気がついたら河原に出ていた。
「この辺はね、なんでかは分からないけど、魚たちには居心地が良いみたいで、いつも沢山いるんだ」
少女の言葉通り、川には沢山の影が動き回っていた。
「どっちが沢山取れるか競争だよ」
そんなことを言いながら、少女は茂みから釣り竿を取り出す。はしゃいだ様子と、水面に当たって反射する日光が変に眩しかった。
少年は腰に提げていた魚とり用の罠を仕掛けようとして、こいしに止められた。
彼女はいつの間にか二本の竿を持っていて、片方を彼に差し出してくる。どうやら一緒に釣りをしようと言うことらしい。
「罠も仕掛けておいた方が効率的じゃない?」
「その分まで私が釣るから、罠は無くていいの」と彼女は言った。
妖怪は釣りも得意なのだろうか、彼はそう考えた。
結論から言うと、彼女はすごい勢いで釣り上げていった。
「何かコツはあるの?」と少年が聞くと
「魚が、これは魅力的な餌だと思うように餌を動かすんだよ」と彼女は答えた。
「それは君にしかできないのでは?」魚の心が読めるから。
「お姉ちゃんもできるよ」
「いや、そういう意味では無くて」
「うん、知ってる」
「もしかして、からかってる?」
「ばれた?」
こいしはそういって悪戯っぽく笑ってみせた。
そのやりとりが潤滑油になって、黙って糸をたれていた二人はポツリポツリと会話を始めた。
少年は、取り敢えず家族のことを話した。厳しいけれど、包み込むような優しさのある兄や、幼さの中にも成長の見え隠れする元気な妹のこと。ぽつりぽつりと、けれども幸せそうに。
こいしの方もまた姉のことを話した。潑溂と、自慢げに。
一通り話が終わった後は、また沈黙が静かに横たわった。最初の頃より幾分か親しみのある、落ち着いた沈黙が。
日が傾き始めた頃、少年は帰っていった。こいしの釣った魚のうち多くは、少年に持ち帰らせた。少年は遠慮したが、君には兄弟が二人いるんだからと押し切って。
「一週間くらいしたら、またあの岩の影を見てみて。また私がいるかもよ」そう言って見送った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「恋の話って言うのは、話しててなかなかに恥ずかしいものね」
さとりはそう言った。
「聞いてる方としては微笑ましいですけどね」
「私も聞いてる方だったときはそう思ってたけどね。でも当事者たちには、それこそ命がかかるくらい真剣な出来事なんだから恋って恐ろしいわ」
さとりは少しおどけた様子で言った。
「他人事みたいに言ってますね」自分だって恋したことがあるのに。
「あら、他人事じゃ無いからそう思うんですよ。なんにしたって笑い事では無いもの」
そういうさとりの目は真っ直ぐだった。その目の中に、さとりがおどけて隠そうとしてたものが見えたような気がして、阿求は軽口を後悔した。少なくとも彼女は恋した人を亡くしている。妹が心を閉ざしたのだってどうやら恋が原因のようだ。
さとりはその考えを見透かして言った。
「あなたが思っているような深刻なことでは無いですよ。気にしないで」
「ごめんなさい、思慮が足りなかった」
「だからそんな深刻なことじゃないですよ。貴方は少し気を使いすぎ」
「……」
「話を戻してしまいましょうか。まだ少しは恥ずかしいのを我慢して話さなくちゃね」
―――――――――――
一週間、それだけの時間は少年の中のこいしへの憧憬を少年に意識させ、恋情に変えてしまうのに十分であった。次に会ったときに何を話そうか考えたり、彼女の笑顔を思い返したりしているうちに、いつの間にか「早く約束の日が来ないだろうか」と考えるようになった。
なんでそんなことを考えるのだろうと自問したところ、彼女のことを好きだからという答えが浮かんだ。少年は必死に打ち消そうとした。そんなはずは無い、だって今までにはちょっとしか話したことが無くて、しかもその上彼女は妖怪だ、人では無い。だからそんなはずは無い。
しかし恋というのはおかしなもので、打ち消せば打ち消すほど疑惑は確信に変わっていくのだった。ちょっとしか話したことが無いんだぞと考えれば、そのちょっとの間に見た笑顔が思い出される。彼女は人では無いと考えても、彼女が姉のことをいきいきと語る様子が浮かぶ。結局、彼は自分がこいしを好きであるという事を認めざるを得なかった。
それに一旦気付いてしまうと、今度は約束の日が来るのが酷く恐ろしくなった。普通の人間が相手なら自分の好意は隠しておける。でも彼女が相手ではそうはいかない、顔を合わせた瞬間に自分が恋していることがばれてしまう。では彼女から見た自分はどうなんだろうか、きっと彼女は自分のことを純粋に友達として見ているだけだろう。人間が妖怪に恋をするなんて彼女の方から見たらひどく馬鹿らしいことだろう。
もしそうだとしたら、その通りだとしたら、次に会ったときにそこにあるのは拒絶だ。それが恐ろしかった。
それからの数日間は悶々と過ごした。単純な二律背反が、心臓をキリキリと締め上げる。
けれど一週間後、少年はやはり約束の場所を目指していった。足下で落ち葉の立てる音が、ひどく気になって仕方がなかった。
彼女に会えなくなるのは嫌だけれど、それは今日約束の場所に行かなくても同じ事だ。ならば、駄目で元々行って見るしかあるまい。
約束の岩が視界に入る。彼女はいるだろうか、恐る恐るのぞき込む、心臓が早鐘を打っている。
そこにはやはり、彼女がいた。少女は顔を真っ赤にして、なにやら嬉しそうであった。それは少年の予想していたどの景色とも違って、でも少年が一番望んでいた景色だった。
「来てくれたんだね。大丈夫、私も君のことが好きだよ」
少年の脳が彼女の言葉を理解するのには、少し時間がかかった。
「本当に?」
「本当に」
「よかった」
ずっと張り詰めていたものが緩んでいくのがわかった。
「さて、次は君が言う番だよ」
「言うって何を?」
「好きだよって」
彼女はさらっと言うが、いざ口にしてみようと思うと恥ずかしい台詞である。
「私だって、恥ずかしかったんだからね」
「言わなくたって君には通じてるじゃないか」
そういって目を伏せる。顔が赤くなるのが分かる。
「心を読むのとね、実際に言葉で聞くのは全然違うんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
「……好きだよ」
「ありがとう」
そう言って笑う彼女の笑顔がとても可愛らしかった。
「また、釣りに行こうか」と少年が言って。歩き出そうとしたところに、雨が降ってきた。
結局、その午後は雨宿りをして過ごす事となった。
二人は横並びに座って、景色を眺めていた。お互いに気恥ずかしくて相手の方は見なかったけれど、何よりも意識していたのは互いのこと。雨の冷たさはこの間よりも幾分か和らいで、優しく世界を濡らしてく。
雨が夕方になってやむまで、二人はぽつぽつと会話をした。会話の内容は特別なことでは無かったが、その時間は特別なものであった。
雨がやんだ後、少年と少女はまた会う約束をして、別れた。
それから何度となく繰り返される事となる、寂しい瞬間。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「幸せな話はここまで」
さとりはそう言って、遠くを見る。
「ここまで、ですか」
「そうね。それから一年と半年の間、こいしと彼は繰り返し一緒に過ごして、その間にも色々な事があったのだけれど、今の話はこいしがどうして心を閉ざしたか、だからね」
―――――――――――
悲劇が起こったのは、少年と少女が再会してから、一年と半年後の秋のことだった。その一年と半年の間には色々な事があったのだけれど、その話はまた後日。
少年が寝床に入ろうかと考えている頃合いに、兄が散歩に行かないかと誘ってきた。その表情はどこか思い詰めたようで、口調は厳しく、有無を言わせない雰囲気があった。
元々里の外れにある少年の家から、更に村はずれの方に向けて兄は足早に歩いて行く。
しばらく歩いたところで、兄は唐突に振り向いて言った。
「お前、妖怪に会っているだろう」
その言葉の静かな剣幕に、世界が一瞬静止したかのような錯覚を覚える。
「妖怪に?僕が会ってるって?」
一体どうしてそんなことを、と言いかけるのを遮って兄が言う。
「誤魔化さないでくれ、それを見た人もいるんだ。村の長が、お前と妖怪が話をしているのを見たんだ。遠くから、お前と妖怪が話をしているのを見たと」
何か言わなくちゃとは思ったけれど、喉が詰まったように言葉が出てこない。
「なあ、本当なんだろう」
「……本当だ」
兄の目から光が消える。
「嘘だと言ってほしかった。なあ、教えてくれ。お前は妖怪なんかとつるんで何を考えてるんだ。村を危険にさらすつもりか?」
「そんなんじゃないよ」
「それなら、何故」
「彼女は人の事を襲わない妖怪なんだ」
「信じろと?」
「僕はもう一年半も彼女と過ごしてる。最初にあったときからだと二年間だ。今まで何も無かっただろう?」
兄はあっけにとられた顔をしている。そんなにも前からお前はそんな隠し事をしていたのかと。
「お前という奴は、何故そんなに長いこと黙ってたんだ」
「だって、話したら、彼女に危険が及ぶじゃないか」妖怪と言えば恐ろしいもの、退治すべきもの、憎むべきもの、この村ではそうなっているじゃないか。
「じゃあ、村の皆に危険が及ぶことや、妹に危険が及ぶことは考えなかったのか?今までに何も無かったとしても、これから何も無いという保証は?」
「ある、今までもこれからも、絶対に彼女が村を襲うことは無い」
二人はしばらく無言でにらみ合った。夜風の涼しさが少年の焦燥感をかき立てていく。
「その話が本当だとしても、妖怪は殺されなくちゃならない」
殺す?その言葉はあまりに物騒すぎて、うまいこと理解できなかった。
「どうして」
「村の長が言ったんだ。その妖怪を殺さないと、村の人にお前が妖怪と会っていることをばらすと。これが何を意味するか分かるか?おれが仮にお前の話を信じたとしても、村の皆が信じるか?いいや信じない。だとすれば俺たち兄弟はは村八分にされる。村八分にされたら俺たちは生きていけない、そうだろう?」
家で寝ている妹の顔が頭をよぎった。あの子をそんな目に遭わせてはいけない。
兄が口を開く。
「村の長もな、俺たちの為にこのことを黙ってくれている。本当なら村人にすぐさまこのことを伝えて討伐隊を編制するところを、そうすると俺たちが村八分になるからと、こうして機会をくれたんだ。お前は村を危険にさらしているにもかかわらずだ。それに応えるべきじゃ無いのか?」
悔しかった、何も反論できないのが悔しかった。歯を食いしばって兄のことをにらみつける。こいしを殺すことはできない、かといって兄や妹を巻き添えにするのもまたできない。
「頼む、もしお前が殺せないというなら俺が代わりにやってもいい。妹を巻き添えにするような真似はしないでくれ」
一体どうすれば良い?こいしに事情を話して一緒に逃げてもらうか?いや、そんなことをしたら兄弟が巻き添えになる。かといって彼女が死ぬのは……じゃあどうする?
どれだけの時間考え込んだだろうか、少年は覚悟を決めて口を開いた。
「いいや、兄さんに迷惑はかけない。僕が責任をとる」明日は丁度彼女との約束の日。
「本当か?」
「本当だ」
二人は無言のまま、帰途に就いた。兄がひと言「明日の朝、長のところで破魔の矢を受け取っていけ」と少年に言った。
――――――――――
朝早く、長の家に人が来た。件の少年だ。長が少年の前に現れると、少年はすぐに土下座した。
「このたびは誠に申し訳ありませんでした」
長は厳しい目をして、答えない。
「私はこれから、件の妖怪を殺してきます」
「そうか」
長はそれだけ言うと、なにやら文字の書いてある矢を取り出してきた。
「この矢には破魔の呪いがかけてある。件の妖怪は覚り妖怪だろう、心を読まれぬように、手に握っていくがよい」
「ありがたく存じます」
「さあ、行きなさい」
少年は立ち上がると三歩ほど歩いて立ち止まった。
「どうしたのかね」
「いえ、少し兄弟のことが気になりまして」
「案ずるな、もしもの時はあれらに迷惑がかからぬようにしてやる」
「ありがとうございます」
長の言うもしもの時とは、きっと少年が返り討ちにされたときのことだ。長の一言を聞いて、少年は安心した。
――――――――――
こいしはいつも通り、いつもの場所で少年を待っていた。
なんだか秋だなあ、この間の大雨が秋を連れてきたのかしら。今日は何処に行こうか、何を話そうか。
そんなことを考えながら待っていると、少年の姿が目に入った。心の声も聞こえてくる。その内容は恐ろしいものだった。
嘘、そんなことをしちゃ駄目。それだけは止めて。
ぽっかりとした不安が暗い入り口を広げて、身動きが取れなくなるようで。それでも会話ができる位置に近づいてきた少年に向かって声を絞り出す。
「お願いだから、それだけは止めて」
「それはできない、それ以外に道は無いんだ」
「嘘よ、他にもやりようはいくらでもあるから、だから止めて。そうだ、村人を私が説得してみるのは?きっと話せばわかってくれる、妖怪が皆危ないわけじゃ無いって」
「君は優しいね」
そう言って儚げに笑う少年の心は動かない。
「嘘じゃ無いわ、話をすればわかってくれる」
「いいや、無理だ」
「どうして?どうして無理だと分かるの?」
「だって君は最初にあったときに、村人を殺して逃げようとしてただろう。話せばわかる相手を殺すかい?君はそんな事はしない」
「いいえ、するわ。私は妖怪だもの」
「君は優しい、でもね僕だって君の心なら少しは読めるんだよ。君は嘘をついてる、僕を止めるために」
図星だった、村人の心は恐怖に凝り固まって、話をする余裕など無かった。
「嘘じゃ無い……信じて、お願いだから。それが無理でもきっと他に道はあるから」
少年の心はやはり動かなかった。
「今までありがとう、楽しかったよ。僕は君のことが大好きだ」
そういって少年はナイフを取り出して、自分の喉に刃を向ける。長は、少年が返り討ちにあったときは兄弟に迷惑はかけないと言った。逆に言えば少年が返り討ちになっていれば、こいしの死体は無くても良いと言うこと。彼女を殺さず、兄弟も巻き込まない、これが最良の選択だった。破魔の矢は山道の途中に捨ててきた。
こいしは念力で少年のナイフを払い落とす。
「させない、君を死なせたりはしない。君に死なれるくらいなら、私が死んだ方がまだいい」
そう彼女が言ったときだった、突如飛んできた矢がこいしの腿を貫いた。
こいしはその場に倒れ込む。彼女に刺さった矢は、確かに道中で捨てたはずの破魔の矢だった。
少年が矢の飛んできた方を見やると、人影が近づいてきた。その人影は兄だった。
「兄さん……どうして」どうしてここに。
「弟を一人で妖怪退治に行かせる奴があるか、私はお前の家族なんだぞ」
彼はそう言い終わると妖怪に視線を移し、啖呵をきる。
「おのれ妖怪め、よくも弟をたぶらかしおって、妖術で弟を自殺させようたってそうは行かねえよ。お前はここで終わりだ」
彼が彼女に向けたのは弓矢だけでは無い。
「駄目だ、兄さん。弓を下げてくれ」
吉次がそう言って、兄の目を真っ直ぐに見る。
一方のこいしは、周りの心の声が聞こえないことに戸惑っていた。ふと足に刺さった矢を見る。羽の部分に、なにやら文字が書かれていた。
なにかの呪いかしら。これを何とかしないと、読心も念力も使えない。引き抜くしかない。
彼女は矢を握って、思い切り引き抜こうとした。
しかし、その動きは矢を構えた男の目にも見えている。妖怪が本来の力を取り戻してしまえば勝ち目は無い。矢を少しだけ絞って放つ。
矢を放つ前の兄の癖、少しだけ矢を絞り直す。その動作を見た少年は、すぐさまこいしの前に立ちふさがって、その動きを兄が認めるのと、矢が放たれるのは同時だった。
一瞬の後、矢を引き抜いた激痛の余韻に涙ぐむこいしの目には、胸部を射貫かれ、頽れる少年の姿。
少年の倒れる音は、重なった落ち葉のせいで変に柔らかくて、目の前の出来事がどこか遠くで起こっているような気にさせる。
少年は動かない。
少女と男もまた動かない。
少年の心の声は消えて、男の心だけが先ほどの状況を反芻しているのが聞こえた。
嘘よ、そんな筈が無い。だってさっきまで生きてたじゃない、この間会ったときにだってあんなに優しげに笑ってたじゃない。それが、こんなにも一瞬でいなくなってしまうなんて、そんな、そんな――今までの色々な出来事が心をよぎる。照れくさくて会話がぎこちなかった頃のこと、いつの間にか会話をするのが当たり前になって、今度はぎこちなく手をつないで、それもまたすぐに当たり前になった。当たり前でも特別な時間だった。そして最初に傷の手当をして貰ったときの、あの優しさ……
「嘘だ」男の声が聞こえる。自分の弟が、目の前で死んでいるのなんか。嘘だ、嘘だ。嘘じゃない、死んでいる。胸を矢に射貫かれて、倒れ込んでいる。矢に射貫かれて、あの矢は誰が放ったもの?自分だ。弟を殺したのは俺だ。俺だ。いいやそんなはずはない、俺が弟を殺すなんてそんなこと認められるはずがない。妖怪、そうだ目の前の妖怪さえいなければ、こんな事にはならなかった。あの妖怪が弟をたぶらかしさえしなければ。
男の心の声は都合のいい言い訳だった。自分が弟を殺したという事実から逃げるための粗末な砦だった。
ではその中に一片の事実も無いのか、とこいしの中の別の声。
あるかもしれない、私が彼を誘ったりしなければ、彼は死なずに済んだのかも知れない。でもそんなのは認められなかった。彼を殺したのは、目の前にいる、弓矢と憎悪と狂気とを私に向けている男だ。
自分の心の別の部分が言っている、本当に男だけなのか、悪いのは男だけなのか。
男の心の声はそれを助長する、悪いのはお前だ、お前さえいなければ。
本当のところ、心の奥底では自分にも責任があると、わかっていた。妖怪が人間に恋をするのが間違いだなんて事は、それが少年を危険にさらしたなんて事は。でも認めてしまうことは、どうしても耐えられなかった。
男は弓矢を構えて、「お前のせいで」と言い続ける。
「やめて、私のせいじゃない」
必死で叫んでも男の声は消えなくて。
「やめてって言ってるでしょう!」
念力が男を崖の下へと吹き飛ばした。
そこに残ったのは、泣いてる少女ただ一人。
――――――――――
時は夕方。村の長は半ば予想していた光景を見て、悲しそうな目をしていた。
結局、少年は戻ってこなかった。その兄もまた、見当たらなかった。長は急いで村の男衆を集めて山道を来たのだが、手遅れだった。
山道には、矢の刺さった少年の死体、崖の下にはその兄が虚ろな目をして仰向けに倒れていた。彼らは、今は並んで眠っている。
二人とも死んでしまった。長は自分の判断を悔いた。
村の男衆は同胞が殺されたことに憤り、まだ近くにいるかもしれない妖怪に戦いていた。
事実、彼女はそう遠くない物陰で泣いていた。ただただ泣いていた。
村の長は考える、この人数がいれば覚り妖怪一匹を倒すことなど難なくできる。しかし時は夕暮れ、このまま夜になってしまえば、それこそどんな妖怪があらわれるか知れたものでは無い。捜索を続けるのは愚策である。
「皆のもの、撤収だ」
長の言葉に、村の男衆は表情には出さずに安堵した。そうしてみなが引き返そうとするところで、一人の小さな女の子が来ていることに、長は気付いた。死んだ彼らの妹だ。どうしてこんな山道をついてきたというのか。いや、時に小さな子供の勘というのは恐ろしい、自分の兄二人が早朝からいなくなり、村人が大挙して山に向かえば何かに感づいても不思議では無いだろう。
女の子は、兄二人の死体を見ると駆け寄って話しかけた。
「お兄ちゃん?ねえ、起きてよ。お兄ちゃん?」
村人の一人が気まずそうに声をかける。
「お兄ちゃんはね、死んじゃったんだ」
「死んじゃった?」
女の子の目にみるみるうちに涙が溜まって。
「もうお兄ちゃんは起きないの?」
「ああ、そうなんだ」答える者もまた泣いていた。
こいしには全て聞こえていた。やりとりも、長の後悔も、村人の憤りや恐怖も。
そして一等強く彼女の心を刺したのは、あの女の子の悲しみだった。さっきまでは自分だけのものだった悲しみ。大事な人を亡くした悲しみ、もう二度と会えないという寂しさ。あまりにも身に覚えのある悲しみの原因はしかし、こいしの責任でもある。少なくとも女の子の兄のうち片方は、彼女が殺したのだ。
あの女の子の悲しみは自分が生み出したのだ。自分がこれだけ辛いのと同じ悲しみを、背負わせてしまったのは間違いない、私のせいだ。
聞こえ続ける慟哭が耐えられなかった、でもそれはどれだけ耳を塞いでも聞こえ続ける。
だから彼女は、心の目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
古明地さとりは話を終えた。
「あの後、そこで会った出来事を淡々と喋り続けているこいしの虚ろな目、今でも覚えているわ。私がいくら『貴女は悪くないよ』って言っても彼女の心には届かなかった。抱きしめても虚ろな目のままだった。あの時、もう少し早く私がいってあげられてたらって、あの子の側にいて抱き留めてあげられてたらって」
彼女の口調から感ぜられるのは、年月を経て涙だけが涸れた悲しみだった。
「貴女は悪くないですよ」
阿求は言った。
「……ありがとう。そうね、きっと誰も悪くない」
そう言って彼女は優しく微笑った。
そんなことを考えていると、客人のさとり妖怪が口を挟んできた。
「最悪なのは紅茶ではなく、阿求、あなたのミスよ」
「わかってはいますけどね、言葉の綾というものですよ。なんだか、ずっと前にもそんな性格の悪い知り合いがいたような気がします」
彼女の言葉は辛辣だが、口調からは軽口をたたける気安さが伝わってくる。そう、私にはずっと前にもこんな知り合いがいたのだ。ぼんやりとした記憶だけれど。
「人間というのは面白い、口で言うことと内心で思っていることが大体いつも一致しない。でも言葉以外の部分に本心が出てしまう」
「その本心を直接覗ける人が何言ってるんですか」
「相手に覗いていることが最初から解っているんだから、覗きではないですよ」
ああ言えばこう言う、なんだか懐かしいやりとり。表面上は妖怪の調査と言うことで招いた客人だけれど、実際はこんなほっとする時間のためでもある。
「そうね、私も嬉しいわ。百年以上会えなかった友人ですからね」
そう言ってさとりは笑う。
「全く、そうやって人が口に出さない心の言葉にいちいち反応するから嫌われるんでしょうに」
「そんなのはわかってますよ。でも反応しなくても心の中が見えるのは変わらない。それに嫌わない友人だっているじゃない」
「そのうちに嫌いますよ」
「うそつき」
「ああ、もう。それが駄目なんですってば」
「ちょっと楽しんでいるくせに」
もう何も言うまい。いや、言わなくても向こうには筒抜けだけど。そういえば、ふと脳裏をかすめた記憶がある、もう一人のさとり妖怪。随分とぼんやりとしているけれど。そういえば、彼女には妹がいるという噂があった。確かめようと思っていたのをすっかり忘れていたみたい。
「ええ、いますよ」
「…………」
「まあ、そう怒らずに、ね?」
「でも、なんで噂なんですか?最近は見かけた者が全くいないというのは?」
「あの子は心の目を閉じてしまったから、心の目を閉じるのは心そのものを閉じるのと同じ事。はっきりとした意識を失ったから、はっきりと意識にも上らなくなった。それも随分と昔、貴方と以前にあったときよりも前のことです」
「そんなに長い間、心を閉ざしているんですか?」
自分の心を閉ざして、いわば半永久的に意識を閉ざすような、そんな事をする理由は何処にあるのだろう。もしかしたら他人が土足で踏みいるのは止めた方がいいような、そんな話かも知れない。
「ほら、私は心が読めるから嫌われているでしょう。でもその嫌いだって言う感情も筒抜けなんです。それに人間にしろ妖怪にしろ、腹黒い者は少なからずいるのです。あの子はそういったものを見たくなくて、心の目を閉ざしたの」
「それだけ、ですか?だって、貴女はこうしてここで話しているし、貴女方の事を悪く思っている者ばかりではないでしょう、嫌われるってだけで本当に心を閉ざしますか?」
現に私は貴女と話すのが楽しいですよ。
「まったく、素直に言葉にすればいいのに、こっちには丸聞こえなんですから。貴女はいつも嘘を見抜くのが上手、私が心を読まれる事なんて貴女以外にはありませんよ」
「あ、でも、話したくなければそれはそれで構いませんよ」
妹が心を閉ざしてしまうような目に遭う話なんて、普通は語りたくないものだ。彼女は遠くを見つめて黙り込んでしまった。
「でも、一人で抱え込まずに他人に話すことで楽になる、ということもあります。大丈夫ですよ、記録には残しませんから」
私がそう言うと彼女の表情が少し柔らかくなった。
「うふふ、先代の貴方もそう言ってくれた。それも好奇心からではなく、今と同じように、思いやりから。そうね、貴方の言うとおり。確かに、嫌われるとか、腹黒い者を見たくないなんて理由で心を閉ざしたりはしない。私たちには、汚い物が人間より沢山見えてしまうけど、綺麗な物だってしっかり見えるんだから。そうね、またあの話をしましょうか。先代の時と同じように。でもね、変な話、結末こそあんなことになってしまったけど、この話は彼女が一番生き生きとしていた頃の話でもあるんです、だからこその結末なんですけどね」
――――――――――
それはもう随分と昔、人間と妖怪がまだ真剣に争っていた頃。
山間の、村の外れの切り株で吉次は休んでいた。この少年は、山からウサギを捕って帰る途中で疲れた足を休めていたのだ。
兄さんはきっと喜ぶだろうな、彼はウサギの肉が好きなのだ。明日は畑の手入れをしなければいけないな、本当は狩りの方が好きなのだけれど。
ぼんやりと考え事をしていると、目の前の三叉路を人影が横切った。一見したところ、少女のような背格好、ただ髪の色は銀色であった。
続いて、男たちの声が聞こえ始めた。
「待て、妖怪め。ぶっ殺してやる」
口々にそんなことを叫びながら、弓や武器代わりの農具を手に走ってきて、三叉路で立ち止まる。左右を見渡している様子からすると、どうやら見失ったらしい。
男の一人が、切り株に座っている吉次に気づき、声をかけてきた。
「おい吉次、さっき妖怪がこっちに逃げたんだが、怪我はねえか」
「怪我?全く大丈夫だけど」
妖怪?そんな物がここを通ったのか?ああ、さっきの少女のことだろうか。確かに銀色の髪は不自然だ。
「なあ吉次、妖怪が逃げていったのがどっちかわかるか?」
「その妖怪って言うのは、銀色の髪の――」
「そうだ」
「それならあっちに走っていった」
そう言いながら、彼女が走って行ったのと違う道を指さしていた。だってさっき走っていたのは、ただの少女に見えたから。興奮した村人を差し向けるのは気が引けた。
「おう、ありがとよ。おまえは危ないから早く村に帰りな」
そう言って男たちは走って行った。それを見届けてから彼は、少女の走り去った方に弓矢を持って走って行った。
どのみち、こちらの道は行き止まり。左右の斜面は傾斜がきついから登るには時間がかかるだろう。木の陰からの不意打ちを警戒しながら進んでいく。
しばらく行くと、行き止まりについた。そこには一本の太い木がある。もしさっきの少女がいるとしたらその木のうろの中ではないか、直感的にそう思って、彼は声をかけた。
「出てきなよ、いきなり殺したりはしない」
そう言いながらも緊張はしている。相手は妖怪かもしれないから。そう考えながらもここまで一人できたのは、ひとえに少年であるが為の無謀さ故であった。
右手の方角から声がした。
「うん、わかった。出るから弓矢を下げて」
やはり少女としか思えない声。発せられたのはおそらく右手の大岩の陰だ。
彼は大岩の方に向き直ってから、弓矢を下げた。
すると、岩の裏から一人の少女が出てきた。
ただ、その少女の外見は、確かに異常な印象を吉次にあたえた。見たことのない服を身にまとい、髪は銀色、極めつけは彼女の体の前に浮かんでいる目玉と、体につながっている管。ただ、少女の顔立ちからは可愛らしいという印象を受けないでもなかった。
でも彼は弓矢を構えなおした。やはり人ならざる者に見えたから。すると彼女は言った。
「そんなに警戒しなくても、私は君を襲ったりはしないよ。だって私をたすけてくれたんでしょ?」
「助けた?」
「ほら、村の人達に間違えた道を教えてくれた」
「見てたのか」
自分の行動が最初から見られていた、そう思うと背筋が寒くなった。弓を一層強く引き絞る。
それでも彼女は焦らない。
「射ってしまいたければ、やってもいいよ、ちゃんと避けるから」
それを聞いて、目の前の少女に矢が刺さっている光景を想像してしまった。駄目だ、できない。
彼は弓を下げた、矢は矢筒にしまった。それを見て少女はにこやかに笑った。
「君は優しいね。相手を信頼したから武器をおろすんじゃない、ただ相手を傷つけないために武器をおろす」
「君は誰?」
「妖怪、でも人を襲う妖怪じゃない。人の心が読める妖怪」
心が読める、そうか、だから彼女は僕が村の男衆に違う道を教えたのがわかったのか。
「その通り」
どうやら本当に心を読まれたようだ。
「人をおそわない妖怪なんているのか?」
「いるよ、私みたいなさとり妖怪は人を襲わないし、スネコスリなんかもそう、座敷童も妖怪と似たようなもの」
「おまえは人を襲わない、そうだね?」
「そうだよ」
少しの間、張り詰めた沈黙が続く。先に口を開いたのは少女の方だった。
「助けてくれて、ありがと」
「ど、どうもいたしまして」
「本当のことを言うとね、助けてもらわなくても私が逃げるのは簡単だったんだ。腐っても妖怪だからね、追ってきた人を一人か二人殺してしまえば、残りはきっと逃げ出した」
「え?」
「でもね、私は心が読めるでしょう、そうすると殺されるものの苦痛、残った人の恐怖や悲しみがみんな聞こえるんだ。それが嫌だから走って逃げた。行き止まりにつながる道にうっかり入ってしまったときは本当に焦ったんだ、鴉天狗の群れが近くを飛んでたから空も飛べないしね。でも君が助けてくれた、ありがとう。君はもう家に帰った方がいいよ、私は村の人が戻ってきた頃合いを見計らって山の方に帰るから」
そういって彼女は手を振った。その手のひらには大きな切り傷があった。今まで後ろに隠れていて気がつかなかったが、かなり深そうな傷口だ。
「ねえ、その手のひら……」
「この怪我?大丈夫だよ、このくらいの怪我なら。逃げるときに慌てて切っちゃっただけ」
確か、血止めの薬草なら持っていたはず、山で動くときは怪我をすることもあるから。
「ほら、手を出して」
「君は……変わってるね」
変わってる?
「うん、だって私は妖怪だよ、普通はもっと警戒する。少なくとも殺そうとするのに躊躇はしない。その上怪我の手当までするなんて、私が君を殺そうとしたらあっという間に殺されちゃうよ」
でも、現に殺されてない。
「それは結果論、君はもっと慎重になった方が良い。あんまり疑うことを知らないと、それを利用する妖怪だっている。私がたまたま人を食べない妖怪だっただけ」
彼女は少しあきれた様子でそう言った。
吉次は傷の手当をすると黙って帰って行った。
「あの子は少し心配だな、あの人の良さが裏目に出ないと良いけど」
残された少女はぽつりと呟いた。なぜだか薬草をまいてくれた少年の手の感触が手に残っていた。
□□□□□□□□□□
「ねえお姉ちゃん、今日は変わった人間に助けてもらったよ」
「そうみたいね」
私たち姉妹は、お互いの心が読めるから会話をしないでも言いたいことがわかる。
「優しい男の子、か。ねえこいし、わかってるとは思うけど――」
「あはは、わかってるよ。お姉ちゃんが心配してるようなことにはならないから」
「私もあのときはそう思ってたけどね」
お姉ちゃんの心の中に懐かしい顔が浮かぶのがわかる。それに伴う淡い痛みも。お姉ちゃんは、人間の男の人に恋をしたことがある。もう百年も前のことだけど、それでもまだ好きなのだ。
「もう、私の話はいいの。今は貴女の心配をしてるんだから」
私は恋なんてしないってば、多分。
「みんな最初はそう思ってるなんてこと知ってるでしょう、あんまりその人間の事は考えない方がいいわよ」
「大丈夫、大丈夫」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さとりの話が一区切りつく頃には、紅茶は半分ほど無くなっていた。
しかし意外だなあ、目の前のいつも飄々と人をからかってばかりいるさとり妖怪が恋をしたなんて。
「ちょっと、失礼ね。そんなこと言うと傷つきますよ、貴方に言われると特に」
「言ってませんよ」思っただけです。
「確かに。でも私だって恋くらいしますよ、貴方だってするくせに」
うぬぬ、さとり妖怪相手に隠し事はできない。
「その通り」
「だから、そうやって人の隠したいことを平気で口にするから……」
「それでね、その時はこいしも例の男の子にもう一度会おうとは考えてなかった」
「こら、話題をすり替えない」
「でも私たちは心が読める上、普段は敵意や嫌悪ばかり向けられるから、人間の優しさや素直さを見せられると弱い。もうその時点で彼はこいしの心に居場所を占めてた。彼女は気付いてなかったけどね」
――――――――――
吉次がこいしと再び会ったのは、半年後の春だった。
畑の仕事も一段落し、彼は山でいつものように狩りをしていた。
猪でもとれれば、いいんだけどな。そんなことを考えながら森の奥へ入っていくと熊がいた。遠くに四つ足の黒い影が見える。それは紛れもなく熊であった
まずい、気づかれたら確実に殺される。
熊の方を見ながら、姿勢を低くして後ずさっていく。ゆっくり、ゆっくり気付かれないように。足下の落ち葉がたてるかすかな音が騒がしい。
四つ足の黒い影は、ゆっくりと、不似合いな無邪気な瞳であたりを見渡した。
どうやら影は、吉次のことを見つけたようで、彼の方をじっと見つめた。
一瞬優しげに見えたその顔はしかし、すぐに牙をむき猛獣の顔になった。
落ち着け、まだ距離はある。そう自分に言い聞かせながらゆっくりと背を向けないように、後ずさっていく。
熊は、ゆっくりと近づいてくる。でも背を向けて走り出すと、熊も走り出しそうで、何より熊に背を向けるのが怖くて、彼はゆっくり後ずさっていく。後ずさりながら、矢筒から矢を抜き、矢を構える。
じっくりと構え、目一杯弓を引き絞って、熊の目を狙って矢を放った。
矢は熊の肩に刺さった。
熊は一瞬ひるんだかのように姿勢を低くした、そして次の瞬間猛烈な勢いで走り出した。 吉次も走って熊から逃げようとする、しかし振り返ろうとしたその時に足がもつれて、視界が傾いていく。そのまま頭に、衝撃を感じ、意識が途切れた。
―――――――――――
雨がざあざあ降っている。雨の降っている景色は常に音も動きもあるはずなのに、とても静かだ。明るい緑色の下草に、頭上の木から雫が落ちてきて、その水滴がつーっとなめらかに葉っぱの上を流れ落ちる。
この雨じゃ、あの子が目を覚ましてもすぐには家に帰せないな。春の雨は冷たいから。こいしは、岩陰で気を失っている少年の方を見ながら思った。彼らの頭上には大きな岩が張り出しているから、雨は届かない。
危ないところだった、彼が襲われているところにたまたま居合わせなかったら、彼は熊に殺されていただろう。
しかし偶然というのは面白い、たまたま人間が熊に襲われているのを心の声で察知して様子を見に来たら、その人間が以前助けてもらった少年だったのだから。まあ、その心の声が、聞き覚えのある声だったから様子を見に来たのだけれど。
なんだか落ち着かない気持ちで雨音を聞いていると、少年が目を覚ました。
ああよかった、彼女はそう思った。同時に今までの落ちつかない気持ちの正体に気付いてしまった、あの少年のことが心配だったのだ。
「良かった、ちゃんと生きてた」
少年ははっとして辺りを見た。
「熊は?」
「私が殺したよ」
少年は答えたのが半年前に遭遇した少女であることに気付くと息を呑んだ。
「君が?熊を?」
「まあ、妖怪だからその位はできなくちゃ。それに君を助けるには、熊を殺さないでなんて言ってられる状況じゃなかった」
「助けてくれたの?」
「うん、君には前に助けられたからね。その恩返し」
「……ありがとう」
少年が、一口に妖怪だって言っても人間を助けてくれるのもいるんだな、と考えているのが解る。
「それは、誤解だよ。襲われてたのが知らない人間だったら、きっと私は何も手出しをせずにいなくなってた。だって熊の心の声だって、人間のと同じように聞こえるからね」
「そうか…」
少年は黙りこんで遠くを見つめた。沈黙を雨音が静かに埋めている。
なんだか、居心地が良いな。聞こえるのは雨音と少年の心の声だけ。でもその心の声が敵意や嫌悪ではない、それは本当に珍しいことだ。心が読める、それだけで他者が側にいるときは、相手が居心地の悪さを感じているのが読み取れて落ち着かない。でも少年からはそんな居心地の悪いような気分が伝わってこない、それが嬉しかった。なんだか、居心地が良いのだけれど、落ち着かないような、そわそわとした気分。この気持ちにはなんだか既視感をおぼえる、あれはいつだったか。
そうだ、お姉ちゃんが恋をしたとき。その時の姉の気持ちはこんな感じだった。
言葉が見つかると、今までそわそわとしながら居場所を探していた心情がはっきりと形を取り始めた。この前、他の妖怪に忌避の感情を向けられて落ち込んだときに、少年から向けられた優しい気持ちが思い出されたのもきっとそのせいに違いない。
同時に、姉が恋人を寿命で失ったときの心情が冷たく脳裏をかすめた。それでも、と彼女は思った、それでもこの気持ちを無かったことにするのはできないだろうな。
少年は隣に座って雨を眺めている少女のことを、不思議だなあと考えていた。隣に座っている華奢な少女は自分を妖怪だと言い、熊を殺したと言っている。確かに、銀色の髪の毛や、変わった衣服、体の前に浮かんでいる目玉は奇妙だ、心を読めるというのも本当らしい。それでも、熊を殺せる妖怪と華奢な少女のイメージは結びつかなかった。殊更、彼が目覚めたときに彼女が見せた明るい笑顔とは。今思い返すと、あの笑顔はとても可愛らしかった。しかし、心を読めると言うことは、今こうして考えていることも彼女には解っているのだろうか。そう考えると、なんだか恥ずかしくなってきた。
ふと少年がこいしの方を向くと、彼女はひどく赤面していた。どうしたのだろう、熱でも出たのだろうか。少し心配になる。
「熱なんか出てないよ」
彼女は、少年の方を見ずに遠くを見つめながらそう答えた。
「それならいいけど、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
それなら、何故こんなに顔が赤いのだろう。
それは、君が「可愛らしい」なんて考えるからだよ。こいしは心の中でそう言った。それに君が私の顔を心配そうにのぞき込んでいるのだって、見なくても私には分かるんだから。そんな風に見られたら顔だって赤くもなるよ。
雨がやんできた。
隣でそれを眺めている少年の心に、そこはかとない淋しさが浮かぶのが感じられた。雨がやんだら家に帰れる、だからこそもう少し降っていてほしい。
その感情が、半年前に少年の背を見送ったときの、彼女の心情と似ていたから、こいしにはそれが彼自身も気付いていない憧憬の芽生えであることがわかった。
「ねえ、もし今後この場所の近くに来ることがあったらさ、この岩の陰をのぞいてみてよ」
「どうして?」
「もしかしたら私がいるかもよ」
「君が?」
「私はさ、人間だけじゃなくて妖怪にも嫌われてるんだ」
「どうして?」
「心が読めるから。誰だって心を読まれて良い気持ちはしない」
「そうかなあ、君はいい人にみえるんだけれどな」
「人じゃなくて妖怪だよ」
「そういえばそうだった」
「私を嫌わない人や妖怪ってほとんどいないんだ。だからさ、嫌わないでくれる人とまた会えたらなって思って」
「そうか…覚えてたら、ここに来てみるよ」
「うふふ、嬉しい」
そういってこいしは笑った。
しばらくして雨がやむと、少年は家に帰っていった。
―――――――――
少年が家に帰ると兄と妹が出迎えた。
「お帰り」
「狩りの調子はどうだった?」
「今日は駄目だった」
熊に襲われたことについては伏せておいた。まさか妖怪の女の子に助けてもらったなんて信じてもらえないだろうし、信じてもらえたらもらえたで彼女に危険が及ぶかも知れない。なにせこの間だって村の人々に追われてたのだから。
少年の両親はすでに他界していて、一つ上の兄と年の離れた妹と暮らしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日はサチちゃんと遊んだんだよ」
「楽しかった?」
「うん」
それでね、それでね、と妹の話は続く。何でも無い話ばかりだけれど、楽しげに話す妹は可愛かった。
おーい吉次夕餉の支度を始めるぞ、と妹の話が一段落するのを待って兄が言う。
少年は、「そういえば彼女の名前を聞いてなかったな」とひとりごちた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「その少年が約束を忘れてくれれば良かったんだけど」
さとりはため息交じりにそう言った。
「でもそうは行かなかった」
「その通り」
しばし沈黙。
「ねえ阿求、話は変わるけどさ、貴方は前世のことはぼんやりと覚えてるみたいだけど、そのさらに前のことは覚えてないの?」
「その前、ですか。うーん覚えてませんね、ただ今の自分とは違うところも結構あるような、そんな気はします」
「そうね、貴方は生まれ変わる度に少しずつ変わっていく。でも私の知ってるどの代の貴方も今の貴方から感じられる、不思議ね、貴方は男だったこともあるのに」
「そうなんですか……」
「先代の時よりもずーっと前の事だけど、こいしが心を閉ざすよりも前、貴方はやっぱり私たち姉妹の友人だったのよ。でも忘れちゃったか、ちょっと寂しいな」
少しの間また沈黙。
「話の続きをしましょうか」
そういってさとりはまた、語り出した。
――――――――――
晴れているときと雨の時では同じ場所でも随分と印象が違うものだ。この間雨音の中で静まりかえっていた景色が、日の光で照らされた新緑の、潑溂とした景色に様変わりしている。足下に重なっている朽ちかけた枯れ葉も乾燥して、踏む度にかさかさと小気味よい音を立てる。
こいしは昨日の少年を待っていた、あのときの岩陰で。あの少年は「覚えてたら」と言っていたが、彼女には少年が必ず来るつもりなのが分かっていた。
少年はなかなか来なかった。太陽が頭の上を過ぎる頃、やっと少年の姿が視界に入った。安堵と同時に不安のようなものも浮かんでくる。待っていた人が来たのに、なんだか逃げ出してしまいたくなるような、そんな気持ち。
「たまたま近くに来たものだから」
少年はそんなことをいいながら歩いてきた。
「たまたま、ね」
こいしが片目をつむって見せると少年は「そういえば、そうだった」という顔をして、「君に照れ隠しは通じないんだっけか」と言った。
「その通り。君が私に会いに来てくれたことも知ってるよ」
「うん、そういえば助けてくれた子の名前も聞かずに帰ってしまったなって思って。それに昨日のことが半ば夢のように思えて」
「そうみたいだね。私の名前は古明地こいし」
「改めて昨日はありがとう」
「どうもいたしまして。こちらこそ会いに来てくれてありがとう」
少しの間、沈黙がおりる。その間に少年が「妖怪というのはなにやら恐ろしいものを想像していたけど、全く違うな。実際のところは可愛い女の子ではないか」などと考えていたので、こいしは顔を赤くした。
それに気付いた少年も、自分の考えが筒抜けであることをようやっと思い出し赤面する。
「えっと、いやこれはそういう訳じゃなくてね。ほら、あくまで客観的な判断としてそう思っているだけで……」
「うん、そうだね」
そういいながらこいしは微笑を浮かべようと試みる。うまく笑えてるだろうか。
少年の気持ちは漠然と、憧れに偏っているけれど、まだ恋情かどうかははっきりと分からない。もうしばらく待ってみよう、彼女はそう考えた。
「ねえ、川魚が沢山いる淵があるんだ。教えてあげる」こいしはそういって歩き出した。
少年も慌てて後を追う。元はと言えば、山に入るのは食料を得るためだから異論は無い。
どれくらい歩いただろうか、山道を身軽に進んでいく少女を必死で追いかけて気がついたら河原に出ていた。
「この辺はね、なんでかは分からないけど、魚たちには居心地が良いみたいで、いつも沢山いるんだ」
少女の言葉通り、川には沢山の影が動き回っていた。
「どっちが沢山取れるか競争だよ」
そんなことを言いながら、少女は茂みから釣り竿を取り出す。はしゃいだ様子と、水面に当たって反射する日光が変に眩しかった。
少年は腰に提げていた魚とり用の罠を仕掛けようとして、こいしに止められた。
彼女はいつの間にか二本の竿を持っていて、片方を彼に差し出してくる。どうやら一緒に釣りをしようと言うことらしい。
「罠も仕掛けておいた方が効率的じゃない?」
「その分まで私が釣るから、罠は無くていいの」と彼女は言った。
妖怪は釣りも得意なのだろうか、彼はそう考えた。
結論から言うと、彼女はすごい勢いで釣り上げていった。
「何かコツはあるの?」と少年が聞くと
「魚が、これは魅力的な餌だと思うように餌を動かすんだよ」と彼女は答えた。
「それは君にしかできないのでは?」魚の心が読めるから。
「お姉ちゃんもできるよ」
「いや、そういう意味では無くて」
「うん、知ってる」
「もしかして、からかってる?」
「ばれた?」
こいしはそういって悪戯っぽく笑ってみせた。
そのやりとりが潤滑油になって、黙って糸をたれていた二人はポツリポツリと会話を始めた。
少年は、取り敢えず家族のことを話した。厳しいけれど、包み込むような優しさのある兄や、幼さの中にも成長の見え隠れする元気な妹のこと。ぽつりぽつりと、けれども幸せそうに。
こいしの方もまた姉のことを話した。潑溂と、自慢げに。
一通り話が終わった後は、また沈黙が静かに横たわった。最初の頃より幾分か親しみのある、落ち着いた沈黙が。
日が傾き始めた頃、少年は帰っていった。こいしの釣った魚のうち多くは、少年に持ち帰らせた。少年は遠慮したが、君には兄弟が二人いるんだからと押し切って。
「一週間くらいしたら、またあの岩の影を見てみて。また私がいるかもよ」そう言って見送った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「恋の話って言うのは、話しててなかなかに恥ずかしいものね」
さとりはそう言った。
「聞いてる方としては微笑ましいですけどね」
「私も聞いてる方だったときはそう思ってたけどね。でも当事者たちには、それこそ命がかかるくらい真剣な出来事なんだから恋って恐ろしいわ」
さとりは少しおどけた様子で言った。
「他人事みたいに言ってますね」自分だって恋したことがあるのに。
「あら、他人事じゃ無いからそう思うんですよ。なんにしたって笑い事では無いもの」
そういうさとりの目は真っ直ぐだった。その目の中に、さとりがおどけて隠そうとしてたものが見えたような気がして、阿求は軽口を後悔した。少なくとも彼女は恋した人を亡くしている。妹が心を閉ざしたのだってどうやら恋が原因のようだ。
さとりはその考えを見透かして言った。
「あなたが思っているような深刻なことでは無いですよ。気にしないで」
「ごめんなさい、思慮が足りなかった」
「だからそんな深刻なことじゃないですよ。貴方は少し気を使いすぎ」
「……」
「話を戻してしまいましょうか。まだ少しは恥ずかしいのを我慢して話さなくちゃね」
―――――――――――
一週間、それだけの時間は少年の中のこいしへの憧憬を少年に意識させ、恋情に変えてしまうのに十分であった。次に会ったときに何を話そうか考えたり、彼女の笑顔を思い返したりしているうちに、いつの間にか「早く約束の日が来ないだろうか」と考えるようになった。
なんでそんなことを考えるのだろうと自問したところ、彼女のことを好きだからという答えが浮かんだ。少年は必死に打ち消そうとした。そんなはずは無い、だって今までにはちょっとしか話したことが無くて、しかもその上彼女は妖怪だ、人では無い。だからそんなはずは無い。
しかし恋というのはおかしなもので、打ち消せば打ち消すほど疑惑は確信に変わっていくのだった。ちょっとしか話したことが無いんだぞと考えれば、そのちょっとの間に見た笑顔が思い出される。彼女は人では無いと考えても、彼女が姉のことをいきいきと語る様子が浮かぶ。結局、彼は自分がこいしを好きであるという事を認めざるを得なかった。
それに一旦気付いてしまうと、今度は約束の日が来るのが酷く恐ろしくなった。普通の人間が相手なら自分の好意は隠しておける。でも彼女が相手ではそうはいかない、顔を合わせた瞬間に自分が恋していることがばれてしまう。では彼女から見た自分はどうなんだろうか、きっと彼女は自分のことを純粋に友達として見ているだけだろう。人間が妖怪に恋をするなんて彼女の方から見たらひどく馬鹿らしいことだろう。
もしそうだとしたら、その通りだとしたら、次に会ったときにそこにあるのは拒絶だ。それが恐ろしかった。
それからの数日間は悶々と過ごした。単純な二律背反が、心臓をキリキリと締め上げる。
けれど一週間後、少年はやはり約束の場所を目指していった。足下で落ち葉の立てる音が、ひどく気になって仕方がなかった。
彼女に会えなくなるのは嫌だけれど、それは今日約束の場所に行かなくても同じ事だ。ならば、駄目で元々行って見るしかあるまい。
約束の岩が視界に入る。彼女はいるだろうか、恐る恐るのぞき込む、心臓が早鐘を打っている。
そこにはやはり、彼女がいた。少女は顔を真っ赤にして、なにやら嬉しそうであった。それは少年の予想していたどの景色とも違って、でも少年が一番望んでいた景色だった。
「来てくれたんだね。大丈夫、私も君のことが好きだよ」
少年の脳が彼女の言葉を理解するのには、少し時間がかかった。
「本当に?」
「本当に」
「よかった」
ずっと張り詰めていたものが緩んでいくのがわかった。
「さて、次は君が言う番だよ」
「言うって何を?」
「好きだよって」
彼女はさらっと言うが、いざ口にしてみようと思うと恥ずかしい台詞である。
「私だって、恥ずかしかったんだからね」
「言わなくたって君には通じてるじゃないか」
そういって目を伏せる。顔が赤くなるのが分かる。
「心を読むのとね、実際に言葉で聞くのは全然違うんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
「……好きだよ」
「ありがとう」
そう言って笑う彼女の笑顔がとても可愛らしかった。
「また、釣りに行こうか」と少年が言って。歩き出そうとしたところに、雨が降ってきた。
結局、その午後は雨宿りをして過ごす事となった。
二人は横並びに座って、景色を眺めていた。お互いに気恥ずかしくて相手の方は見なかったけれど、何よりも意識していたのは互いのこと。雨の冷たさはこの間よりも幾分か和らいで、優しく世界を濡らしてく。
雨が夕方になってやむまで、二人はぽつぽつと会話をした。会話の内容は特別なことでは無かったが、その時間は特別なものであった。
雨がやんだ後、少年と少女はまた会う約束をして、別れた。
それから何度となく繰り返される事となる、寂しい瞬間。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「幸せな話はここまで」
さとりはそう言って、遠くを見る。
「ここまで、ですか」
「そうね。それから一年と半年の間、こいしと彼は繰り返し一緒に過ごして、その間にも色々な事があったのだけれど、今の話はこいしがどうして心を閉ざしたか、だからね」
―――――――――――
悲劇が起こったのは、少年と少女が再会してから、一年と半年後の秋のことだった。その一年と半年の間には色々な事があったのだけれど、その話はまた後日。
少年が寝床に入ろうかと考えている頃合いに、兄が散歩に行かないかと誘ってきた。その表情はどこか思い詰めたようで、口調は厳しく、有無を言わせない雰囲気があった。
元々里の外れにある少年の家から、更に村はずれの方に向けて兄は足早に歩いて行く。
しばらく歩いたところで、兄は唐突に振り向いて言った。
「お前、妖怪に会っているだろう」
その言葉の静かな剣幕に、世界が一瞬静止したかのような錯覚を覚える。
「妖怪に?僕が会ってるって?」
一体どうしてそんなことを、と言いかけるのを遮って兄が言う。
「誤魔化さないでくれ、それを見た人もいるんだ。村の長が、お前と妖怪が話をしているのを見たんだ。遠くから、お前と妖怪が話をしているのを見たと」
何か言わなくちゃとは思ったけれど、喉が詰まったように言葉が出てこない。
「なあ、本当なんだろう」
「……本当だ」
兄の目から光が消える。
「嘘だと言ってほしかった。なあ、教えてくれ。お前は妖怪なんかとつるんで何を考えてるんだ。村を危険にさらすつもりか?」
「そんなんじゃないよ」
「それなら、何故」
「彼女は人の事を襲わない妖怪なんだ」
「信じろと?」
「僕はもう一年半も彼女と過ごしてる。最初にあったときからだと二年間だ。今まで何も無かっただろう?」
兄はあっけにとられた顔をしている。そんなにも前からお前はそんな隠し事をしていたのかと。
「お前という奴は、何故そんなに長いこと黙ってたんだ」
「だって、話したら、彼女に危険が及ぶじゃないか」妖怪と言えば恐ろしいもの、退治すべきもの、憎むべきもの、この村ではそうなっているじゃないか。
「じゃあ、村の皆に危険が及ぶことや、妹に危険が及ぶことは考えなかったのか?今までに何も無かったとしても、これから何も無いという保証は?」
「ある、今までもこれからも、絶対に彼女が村を襲うことは無い」
二人はしばらく無言でにらみ合った。夜風の涼しさが少年の焦燥感をかき立てていく。
「その話が本当だとしても、妖怪は殺されなくちゃならない」
殺す?その言葉はあまりに物騒すぎて、うまいこと理解できなかった。
「どうして」
「村の長が言ったんだ。その妖怪を殺さないと、村の人にお前が妖怪と会っていることをばらすと。これが何を意味するか分かるか?おれが仮にお前の話を信じたとしても、村の皆が信じるか?いいや信じない。だとすれば俺たち兄弟はは村八分にされる。村八分にされたら俺たちは生きていけない、そうだろう?」
家で寝ている妹の顔が頭をよぎった。あの子をそんな目に遭わせてはいけない。
兄が口を開く。
「村の長もな、俺たちの為にこのことを黙ってくれている。本当なら村人にすぐさまこのことを伝えて討伐隊を編制するところを、そうすると俺たちが村八分になるからと、こうして機会をくれたんだ。お前は村を危険にさらしているにもかかわらずだ。それに応えるべきじゃ無いのか?」
悔しかった、何も反論できないのが悔しかった。歯を食いしばって兄のことをにらみつける。こいしを殺すことはできない、かといって兄や妹を巻き添えにするのもまたできない。
「頼む、もしお前が殺せないというなら俺が代わりにやってもいい。妹を巻き添えにするような真似はしないでくれ」
一体どうすれば良い?こいしに事情を話して一緒に逃げてもらうか?いや、そんなことをしたら兄弟が巻き添えになる。かといって彼女が死ぬのは……じゃあどうする?
どれだけの時間考え込んだだろうか、少年は覚悟を決めて口を開いた。
「いいや、兄さんに迷惑はかけない。僕が責任をとる」明日は丁度彼女との約束の日。
「本当か?」
「本当だ」
二人は無言のまま、帰途に就いた。兄がひと言「明日の朝、長のところで破魔の矢を受け取っていけ」と少年に言った。
――――――――――
朝早く、長の家に人が来た。件の少年だ。長が少年の前に現れると、少年はすぐに土下座した。
「このたびは誠に申し訳ありませんでした」
長は厳しい目をして、答えない。
「私はこれから、件の妖怪を殺してきます」
「そうか」
長はそれだけ言うと、なにやら文字の書いてある矢を取り出してきた。
「この矢には破魔の呪いがかけてある。件の妖怪は覚り妖怪だろう、心を読まれぬように、手に握っていくがよい」
「ありがたく存じます」
「さあ、行きなさい」
少年は立ち上がると三歩ほど歩いて立ち止まった。
「どうしたのかね」
「いえ、少し兄弟のことが気になりまして」
「案ずるな、もしもの時はあれらに迷惑がかからぬようにしてやる」
「ありがとうございます」
長の言うもしもの時とは、きっと少年が返り討ちにされたときのことだ。長の一言を聞いて、少年は安心した。
――――――――――
こいしはいつも通り、いつもの場所で少年を待っていた。
なんだか秋だなあ、この間の大雨が秋を連れてきたのかしら。今日は何処に行こうか、何を話そうか。
そんなことを考えながら待っていると、少年の姿が目に入った。心の声も聞こえてくる。その内容は恐ろしいものだった。
嘘、そんなことをしちゃ駄目。それだけは止めて。
ぽっかりとした不安が暗い入り口を広げて、身動きが取れなくなるようで。それでも会話ができる位置に近づいてきた少年に向かって声を絞り出す。
「お願いだから、それだけは止めて」
「それはできない、それ以外に道は無いんだ」
「嘘よ、他にもやりようはいくらでもあるから、だから止めて。そうだ、村人を私が説得してみるのは?きっと話せばわかってくれる、妖怪が皆危ないわけじゃ無いって」
「君は優しいね」
そう言って儚げに笑う少年の心は動かない。
「嘘じゃ無いわ、話をすればわかってくれる」
「いいや、無理だ」
「どうして?どうして無理だと分かるの?」
「だって君は最初にあったときに、村人を殺して逃げようとしてただろう。話せばわかる相手を殺すかい?君はそんな事はしない」
「いいえ、するわ。私は妖怪だもの」
「君は優しい、でもね僕だって君の心なら少しは読めるんだよ。君は嘘をついてる、僕を止めるために」
図星だった、村人の心は恐怖に凝り固まって、話をする余裕など無かった。
「嘘じゃ無い……信じて、お願いだから。それが無理でもきっと他に道はあるから」
少年の心はやはり動かなかった。
「今までありがとう、楽しかったよ。僕は君のことが大好きだ」
そういって少年はナイフを取り出して、自分の喉に刃を向ける。長は、少年が返り討ちにあったときは兄弟に迷惑はかけないと言った。逆に言えば少年が返り討ちになっていれば、こいしの死体は無くても良いと言うこと。彼女を殺さず、兄弟も巻き込まない、これが最良の選択だった。破魔の矢は山道の途中に捨ててきた。
こいしは念力で少年のナイフを払い落とす。
「させない、君を死なせたりはしない。君に死なれるくらいなら、私が死んだ方がまだいい」
そう彼女が言ったときだった、突如飛んできた矢がこいしの腿を貫いた。
こいしはその場に倒れ込む。彼女に刺さった矢は、確かに道中で捨てたはずの破魔の矢だった。
少年が矢の飛んできた方を見やると、人影が近づいてきた。その人影は兄だった。
「兄さん……どうして」どうしてここに。
「弟を一人で妖怪退治に行かせる奴があるか、私はお前の家族なんだぞ」
彼はそう言い終わると妖怪に視線を移し、啖呵をきる。
「おのれ妖怪め、よくも弟をたぶらかしおって、妖術で弟を自殺させようたってそうは行かねえよ。お前はここで終わりだ」
彼が彼女に向けたのは弓矢だけでは無い。
「駄目だ、兄さん。弓を下げてくれ」
吉次がそう言って、兄の目を真っ直ぐに見る。
一方のこいしは、周りの心の声が聞こえないことに戸惑っていた。ふと足に刺さった矢を見る。羽の部分に、なにやら文字が書かれていた。
なにかの呪いかしら。これを何とかしないと、読心も念力も使えない。引き抜くしかない。
彼女は矢を握って、思い切り引き抜こうとした。
しかし、その動きは矢を構えた男の目にも見えている。妖怪が本来の力を取り戻してしまえば勝ち目は無い。矢を少しだけ絞って放つ。
矢を放つ前の兄の癖、少しだけ矢を絞り直す。その動作を見た少年は、すぐさまこいしの前に立ちふさがって、その動きを兄が認めるのと、矢が放たれるのは同時だった。
一瞬の後、矢を引き抜いた激痛の余韻に涙ぐむこいしの目には、胸部を射貫かれ、頽れる少年の姿。
少年の倒れる音は、重なった落ち葉のせいで変に柔らかくて、目の前の出来事がどこか遠くで起こっているような気にさせる。
少年は動かない。
少女と男もまた動かない。
少年の心の声は消えて、男の心だけが先ほどの状況を反芻しているのが聞こえた。
嘘よ、そんな筈が無い。だってさっきまで生きてたじゃない、この間会ったときにだってあんなに優しげに笑ってたじゃない。それが、こんなにも一瞬でいなくなってしまうなんて、そんな、そんな――今までの色々な出来事が心をよぎる。照れくさくて会話がぎこちなかった頃のこと、いつの間にか会話をするのが当たり前になって、今度はぎこちなく手をつないで、それもまたすぐに当たり前になった。当たり前でも特別な時間だった。そして最初に傷の手当をして貰ったときの、あの優しさ……
「嘘だ」男の声が聞こえる。自分の弟が、目の前で死んでいるのなんか。嘘だ、嘘だ。嘘じゃない、死んでいる。胸を矢に射貫かれて、倒れ込んでいる。矢に射貫かれて、あの矢は誰が放ったもの?自分だ。弟を殺したのは俺だ。俺だ。いいやそんなはずはない、俺が弟を殺すなんてそんなこと認められるはずがない。妖怪、そうだ目の前の妖怪さえいなければ、こんな事にはならなかった。あの妖怪が弟をたぶらかしさえしなければ。
男の心の声は都合のいい言い訳だった。自分が弟を殺したという事実から逃げるための粗末な砦だった。
ではその中に一片の事実も無いのか、とこいしの中の別の声。
あるかもしれない、私が彼を誘ったりしなければ、彼は死なずに済んだのかも知れない。でもそんなのは認められなかった。彼を殺したのは、目の前にいる、弓矢と憎悪と狂気とを私に向けている男だ。
自分の心の別の部分が言っている、本当に男だけなのか、悪いのは男だけなのか。
男の心の声はそれを助長する、悪いのはお前だ、お前さえいなければ。
本当のところ、心の奥底では自分にも責任があると、わかっていた。妖怪が人間に恋をするのが間違いだなんて事は、それが少年を危険にさらしたなんて事は。でも認めてしまうことは、どうしても耐えられなかった。
男は弓矢を構えて、「お前のせいで」と言い続ける。
「やめて、私のせいじゃない」
必死で叫んでも男の声は消えなくて。
「やめてって言ってるでしょう!」
念力が男を崖の下へと吹き飛ばした。
そこに残ったのは、泣いてる少女ただ一人。
――――――――――
時は夕方。村の長は半ば予想していた光景を見て、悲しそうな目をしていた。
結局、少年は戻ってこなかった。その兄もまた、見当たらなかった。長は急いで村の男衆を集めて山道を来たのだが、手遅れだった。
山道には、矢の刺さった少年の死体、崖の下にはその兄が虚ろな目をして仰向けに倒れていた。彼らは、今は並んで眠っている。
二人とも死んでしまった。長は自分の判断を悔いた。
村の男衆は同胞が殺されたことに憤り、まだ近くにいるかもしれない妖怪に戦いていた。
事実、彼女はそう遠くない物陰で泣いていた。ただただ泣いていた。
村の長は考える、この人数がいれば覚り妖怪一匹を倒すことなど難なくできる。しかし時は夕暮れ、このまま夜になってしまえば、それこそどんな妖怪があらわれるか知れたものでは無い。捜索を続けるのは愚策である。
「皆のもの、撤収だ」
長の言葉に、村の男衆は表情には出さずに安堵した。そうしてみなが引き返そうとするところで、一人の小さな女の子が来ていることに、長は気付いた。死んだ彼らの妹だ。どうしてこんな山道をついてきたというのか。いや、時に小さな子供の勘というのは恐ろしい、自分の兄二人が早朝からいなくなり、村人が大挙して山に向かえば何かに感づいても不思議では無いだろう。
女の子は、兄二人の死体を見ると駆け寄って話しかけた。
「お兄ちゃん?ねえ、起きてよ。お兄ちゃん?」
村人の一人が気まずそうに声をかける。
「お兄ちゃんはね、死んじゃったんだ」
「死んじゃった?」
女の子の目にみるみるうちに涙が溜まって。
「もうお兄ちゃんは起きないの?」
「ああ、そうなんだ」答える者もまた泣いていた。
こいしには全て聞こえていた。やりとりも、長の後悔も、村人の憤りや恐怖も。
そして一等強く彼女の心を刺したのは、あの女の子の悲しみだった。さっきまでは自分だけのものだった悲しみ。大事な人を亡くした悲しみ、もう二度と会えないという寂しさ。あまりにも身に覚えのある悲しみの原因はしかし、こいしの責任でもある。少なくとも女の子の兄のうち片方は、彼女が殺したのだ。
あの女の子の悲しみは自分が生み出したのだ。自分がこれだけ辛いのと同じ悲しみを、背負わせてしまったのは間違いない、私のせいだ。
聞こえ続ける慟哭が耐えられなかった、でもそれはどれだけ耳を塞いでも聞こえ続ける。
だから彼女は、心の目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
古明地さとりは話を終えた。
「あの後、そこで会った出来事を淡々と喋り続けているこいしの虚ろな目、今でも覚えているわ。私がいくら『貴女は悪くないよ』って言っても彼女の心には届かなかった。抱きしめても虚ろな目のままだった。あの時、もう少し早く私がいってあげられてたらって、あの子の側にいて抱き留めてあげられてたらって」
彼女の口調から感ぜられるのは、年月を経て涙だけが涸れた悲しみだった。
「貴女は悪くないですよ」
阿求は言った。
「……ありがとう。そうね、きっと誰も悪くない」
そう言って彼女は優しく微笑った。
こいしちゃんの心を閉ざす過去話は暗い内容ばかりですね。
この作品も少なからず悲しくなりました。
惜しむらくは閉じた経緯だけでどのように瞳を閉じたか動作が書かれていないことです。
それがあればさらに良かったかと思います。
これからも頑張ってください。
このテンポ好く、てらいのない文章は立派な武器になると思います。
さとりの話ももし書いていただけるならハートフルでお願いです。
笑って泣ける最後を期待しています。
こいしちゃん頑張れ!
こいしの現状を考えると、やっぱり切なくなります。
切ない良作でした。
あっさりした終わり方は、言葉での慰めの無力さ、はかなさを意識したさとりと阿求、それに作者さんの思いが重なっているようでした。