あの日。
無精髭の濃い番傘職人に命を与えられた日。
あの日。
変な色、と邪気の無い幼い子供に笑われた日。
あの日。
茄子みたいな色だねぇ、と穏やかな顔つきの老人に言われた日。
あの日。
悪趣味な色ね、と瀟洒な格好の地主の愛娘から一蹴された日。
あの日。
実質の親である番傘職人から色を間違えたか、とため息混じりに一番目立つ棚から降ろされた日。
あの日。
今から思えば自分の主となる幼い少女の不躾な視線に晒されながら、埃臭い他の傘に埋れていた日。
あの日。
今生の意義を諦め切っていた中、不意に主に拾い上げられ、忘れかけていた傘としての喜びを与えられた日。
……あの日。
主の温かく、小さく、柔らかい手から投げ出され、冷たく、無駄に広く、硬い地面に打ち付けられた日。
あの日。
自分に、自由になる肢体が与えられて、捨て傘としての人生が新たに用意されたことに気付き、失意の底に沈んだ日。
そして……
1、青娥妈妈
あの日から、この人、正確にはヒトだったものが気になって仕方がない。
彼女、宮古芳香は未だに妙蓮寺を離れてはいない。
当然の帰結として、隣で複雑そうな表情を浮かべる多々良小傘はひもじい日々を送ることを余儀なくされている。だが、彼女の表情を曇らせているのはそれだけが原因では無いはずだ。
むしろ、食料事情などという今の彼女にとっての些事より、彼女の横で死後起こるらしい肉体の硬直のために不恰好に墓石に腰掛けて落ち着きなく左右にフラフラ揺れているゾンビが彼女の元持ち主であるという確信を彼女が持ってしまったことの方が、彼女の眉間の皺を深くしているであろうことは想像に難くない。
(……知りたい)
小傘は一層、眉間の皺を深くする。
(どうして芳香ちゃんは私を捨てたのか。私はまだ使えた。不調なところなんてなに一つ無かった)
ならば、何故……!
芳香も小傘の異変に気づき、少し眉尻を下げながら首を傾げる。
「こがさ……?」
「えっ、あ、ああうん、なんでもないの。なんでも……」
小傘が慌てて取り繕うが、未だ眉間の皺は消えない。
こうして、妖怪としての生を受けるまで、彼女の意識はとても漠然としたものだった。主人にその細い体を取り上げられれば、傘としての本懐を果たすことを某然と期待し、その骨を開かれれば、自分が使われていると曖昧に喜び、そしてそれまで倦厭されていた自分を雨除けの相棒として選んでくれた主に感謝する。
それだけの毎日。だから、小傘は傘としての生涯をあまりはっきりとは覚えていない。
彼女が覚えているのは、主人に棄てられたと気付き、茫洋とした意識の中でただひたすらに嘆き悲しんだことだけ。
「ねえ、芳香ちゃん」
「なんだー?」
彼女の生前を知っているかもしれない人物としたら、きっと彼女をキョンシーに仕立て上げた張本人。わざわざ彼女を選んだのには理由があるはずだ。だから。
「芳香ちゃんのご主人さまにはどうしたら会えるの?」
「主人……あー、思い出した。せーがに会ってどうするつもりだー!」
珍しく牙を剥いて敵意をむき出しにする芳香。
「お、落ち着いて芳香ちゃん。戦ったりするつもりはないの。ただ、会って話をしてみたいだけなの」
「ん? んー……。ん。せーがは呼べば来ると思うぞー」
「よ、呼べばいいの?」
「ん」
芳香はおもむろに口を閉じたかと思うと、所々雲の浮かぶ月明かりに向かって、
「せーーーーーーがーーーーーー!!!!!!!」
大絶叫。
墓石がガタガタと揺れる。寺の門、その重厚な木の板を支える蝶番が悲鳴をあげる。
圧倒的な音圧を前に、唐傘がギシギシと嫌な音を立てて歪む。
慌てて音圧に慣れようとした耳には、芳香の叫びが消えた今の静寂が逆に痛い。
「……あれ? こないぞー?」
と首を傾げ、もう一度叫ばんと思い切り息を吸い込む芳香に、
「も、もういいよ? もしかしたらこっちに向かってる最中かもしれないし」
「そうかー?」
首を傾げる芳香。
「うん、だからもう少し待ってみよう?」
「おー」
本能的危機感からか、浮かしていた腰をもう一度墓石の上に落ち着け、小傘は唐傘を膝の上に呼んで各所を点検する。どこにも問題なさそうだ、と小さく頷く小傘。唐傘も妖力で強化された一個体であるためで、もし普通の傘であったら、間違いなく暴風に晒されたように簡単に捲れ上がるだろう。
「やっぱり来ないなー」
もう一度上を向く芳香を慌てて抑えようと小傘があたふたしていると、
「私に何か用かしら? ずいぶんと大きな声だったけれど」
どこからともなくすっ、とその場に現れたのは、まるで晴れ渡った空のように全身青色の女性。
「せーがー!」
「あらあら、今日の芳香はいつにもまして甘えん坊ね」
全体的に青い印象の女性に飛びつく芳香に、もう敵意は微塵も感じられなかった。
「それで、どうしたの? 私のことを呼んでいたみたいだけれど」
「おー。こがさが、せーがと話したいらしいぞー」
「こがさ……? あなたがこがさちゃん?」
「あ、はい。多々良小傘といいます」
ゆっくりとこちらを振り向いた女性の、母性溢れる微笑みに、ひとまずこちらへの敵意がないことを感じ、小傘は小さく息を吐く。
「そう……。うちの子が迷惑をかけてしまっているみたいだけれど、ごめんなさいね。これもこの子の仕事のうちなのよ。もう少し上手なやり方はあるとは思うのだけれど……」
青娥の謝罪が縄張り争いに関してであると気づいた小傘は慌てて首を振る。
「い、いえ、それはどうでもいいんですけど。あ、いや、どうでもいいっていうわけでは決してないんですけど、今はそれよりも大事なことがあって……」
しどろもどろに話す小傘を、青娥は少し面白がるような色で小傘の言葉に口を挟む。
「そう、そしてそれは私に何かを聞き出す必要のあること……芳香についての話かしら?」
小傘は頷くことで青娥の言葉を肯定し、自分の生い立ちを話す。
「それで、本当にうちの芳香が自分の元の持ち主であったか知りたい、そして本当に持ち主だったなら、どうして自分のことを捨てたのか訊きたい。こういうことね」
小傘は無言で頷く。その表情、目尻から零れかけているもので、青娥は小傘が過去の、決して愉しくはない過去を思い出しているのだと容易に察する。
目元を拭われる感覚で、ふと小傘は我に返る。
「……辛いことを思い出させちゃったみたいね。ごめんなさい」
青娥の言葉に小傘は首を横に振る。「こがさ、泣いてるのかー?」と珍しく憂の表情を表に出している芳香に「大丈夫」と短く答える。
「今更だけど、御座なりになってしまっていたから、改めて。確かに、私は芳香を僵尸に蘇らせた邪仙、名を霍青娥と言います」
優雅に頭を垂れる青娥に小傘も慌てて頭を下げる。
「私は、確かに生前の芳香を知っている。そして気に入っていた。だから私は芳香が死んだという噂を耳にした時、彼女を蘇らせ、私の傍に置いておくことができるのを喜びこそすれ、それ以上そのことについて深く考えるようなことはしなかったわ。だから、彼女の死についても、結果はともかく、過程にはさして注意を払わなかったの。だから、きっと私は貴女の求めるような情報を持ってはいない」
少しだけ目を伏せる青娥。
「いえ、それなら仕方ないですから……」
「でも」
青娥が小傘の言葉を区切る。
「私には、貴方に教えてあげられることが一つだけある。でも、それは貴方にとって辛い事実となり得るものかもしれない。それでも、私は話すべきなのかしら?」
まるで小傘の覚悟を試すかのように、真剣に、やもすると睨むかように小傘を見つめる。
「……教えてください」
自分は道具だったのだ。ならば、主人がどうして自分を捨てたのか、知らないこと以上に酷い事など無いと、小傘は頷く。青娥は目を閉じ、少し間をとって、
「芳香を墓から出した時、芳香のお腹には大きな刺し傷があったわ。私には、医学の知識はそんなにないけれど、それでもあれが死因だったであろう事は一目瞭然だったわ。つまり……」
そこで、青娥は改めて小傘を一瞥し、誰も気がつかない程ほんの少しだけ口端を歪めてから、なんでも無い事のように残りの言葉を続けた。
「芳香は、誰かに殺された、という事よ」
小傘の去った命蓮寺に、芳香と青娥だけが佇んでいる。
「せーがー」
「はいはい」
青娥の胸元に頭をなすり続ける芳香を見て、青娥は苦笑する。さっきの話を聞いていなかったのか、聞いていても興味をそそられなかったのか、もとより自分の出る幕はないと悟っているのか。芳香の様子は普段と全く変わらない。
「なんだか貴方らしくない様子だったじゃないの? 青娥、さん?」
「これはどうも、たしか、貴方は幻想郷の管理人さんだったかしら。覗きなんて、案外暇してるのね」
不意を突くように後ろからかけられた声にも青娥は怯む事なく、先程よりも幾分、今の自分を意識して背後の声に答える。
「いつから見ていたの?」
「だいぶ前。何か面白いものが見れる気がしたのよ」
「嘘ばっかり。どうせまだここにきて日の浅い自分たちを警戒しているだけでしょう」
不信に対する不満か、簡単な建前を見抜いた事による最低限の満足か、紫は小さく息を吐く。
「それにしても、あんなに簡単にヒントをあげるなんて、らしくないように思うのだけれども?」
青娥は、自分が小傘という少女と一戦交えることを管理人が予想し、その上でスペルカードルールを守るかどうか見張りにきたという可能性もあるな、と眉を少しだけ寄せる。
「別に、私に弱い者虐めの趣味はないわ。相手も名の通った強者でないと、折角倒しても有名にはなれないしね。それに……」
それに? 紫は眉をあげて続きを促す。
「いや……。なんでもないわ。そろそろ自分のいるべき場所に戻りなさい。もうここには貴方の求めるものは何もないわ」
一体自分は余所者に何を話そうとしてるんだ、と青娥は自分の頭を軽く小突く。
「そうね、そうさせてもらうわ。……最後に一つだけ、いい?」
「何かしら? お節介好きの管理人さん?」
「あの子、本当に妖怪の山へ向かうと思う?」
「間違いなく向かうわ。私がそう教えたのだから」
ーーなにかしらの出来事について調べたいのなら、妖怪の山に向かいなさいーー
青娥は小傘にそう助言し、小傘は命蓮寺を去った。
「貴方は悪趣味ね。あの子があのまま妖怪の山に向かったところで、一歩たりとも立ち入れるわけがないじゃない。それに、さっきの話だって、腹部に傷があったからって、他殺とは限らないじゃない。いたずらにあの子を混乱させようとしたのか、それとも、貴方、他殺であると断定できるような何かを、あの子にわざと話さなかったんじゃないの?」
青娥は薄く微笑む。
「小傘ちゃんについては、私の知った事じゃないわ。それはあの子自身がどうにかすることよ。母としての霍青娥はここまで。もう今はただの邪仙、霍青娥だもの。これ以上あの子を助ける義理はないわ。わざと他殺と断定した事に関しては……貴方はどう思う?」
「ああ……そういえば、貴方子持ちだったのよね。貴方の考えている事はよくわからないけれど、はっきり言ってあの子、弱いわよ? 天狗に牙を剥かれて、無事でいれるとは思えないけれど」
紫の言葉に、青娥はその顔に乗せていた笑顔の質をより邪なものへと変える。
「脅かそうとしたって無駄よ。そのためのスペルカードルールでしょ? 山に属する天狗が格下の相手にそれを破るとは思えないけれど。それに、あの子はきっと諦めない。諦めない限り、なんかきっといい方法も浮かぶんじゃないかしら」
「ずいぶんあの子を買っているのね」
その言葉に、いよいよ耐えられないとばかりに青娥は声をあげて笑い始める。
「何よ」
怪訝そうな紫を、
「さあ? どうしたのだと思う? それと、もう、一つどころじゃない程色々とお答えしたのだから、そろそろお引き取り願いたいのだけれども」
青娥が空を仰ぐと、すでに端から白み始めていた。
「面白くないわね。まあ良いわ。確かに、そろそろ眠いわ。という事で御機嫌よう」
空を仰ぎ続けている青娥の視界に、紫は入っていない。ただ声だけを受け止め、気配が消えた事を以って紫が去ったと知る。
何時の間にか隣で立ったまま寝息を立てている器用な芳香の頭を撫でで、青娥は今一度鮮やかな紫色と、見た目に新鮮だったオッドアイを思い浮かべる。
(まるで私の子供みたいね)
私の仙人修行によって、半ば崩壊していた家族関係。早々に私に見切りをつけた旦那とは違って、子供だけは、最後の最後、私が死んだふりをして墓に埋まるまで、私を求める事を諦めなかった。
こんな親で申し訳なかったとは思う。でも、その事に心は痛まない。その事が、又青娥の心を揺さぶる。
もしかしたら、愚直、と呼べるまでに何かを求めようとする姿にあの唐傘の少女と我が子とを重ねて、罪滅ぼしをしようとしているのかもしれない。
馬鹿らしい。
このまま、帰って寝てしまおう、と飛び立つために姿勢を整えた時、ふと紫の言葉を思い出して、小さく吹き出してしまう。
ーーずいぶんあの子を買っているのねーー
「当たり前じゃない」
私は、我が子に何も教えてはあげられなかったかもしれないが、私は、結局最後まで子供に一つの事を教えられ続けていた。
飛び立つ寸前の青娥の表情は、ほんの少しだけ曇っていて、だが一瞬後には余りにも嘘くさい程作り物のように誇った顔で。
「当たり前じゃない。私は……母親なのよ。母性とは、是信じる事だもの」
彼女の作り出した風に巻かれた言葉を、聞いたものはだれもいない。
無精髭の濃い番傘職人に命を与えられた日。
あの日。
変な色、と邪気の無い幼い子供に笑われた日。
あの日。
茄子みたいな色だねぇ、と穏やかな顔つきの老人に言われた日。
あの日。
悪趣味な色ね、と瀟洒な格好の地主の愛娘から一蹴された日。
あの日。
実質の親である番傘職人から色を間違えたか、とため息混じりに一番目立つ棚から降ろされた日。
あの日。
今から思えば自分の主となる幼い少女の不躾な視線に晒されながら、埃臭い他の傘に埋れていた日。
あの日。
今生の意義を諦め切っていた中、不意に主に拾い上げられ、忘れかけていた傘としての喜びを与えられた日。
……あの日。
主の温かく、小さく、柔らかい手から投げ出され、冷たく、無駄に広く、硬い地面に打ち付けられた日。
あの日。
自分に、自由になる肢体が与えられて、捨て傘としての人生が新たに用意されたことに気付き、失意の底に沈んだ日。
そして……
1、青娥妈妈
あの日から、この人、正確にはヒトだったものが気になって仕方がない。
彼女、宮古芳香は未だに妙蓮寺を離れてはいない。
当然の帰結として、隣で複雑そうな表情を浮かべる多々良小傘はひもじい日々を送ることを余儀なくされている。だが、彼女の表情を曇らせているのはそれだけが原因では無いはずだ。
むしろ、食料事情などという今の彼女にとっての些事より、彼女の横で死後起こるらしい肉体の硬直のために不恰好に墓石に腰掛けて落ち着きなく左右にフラフラ揺れているゾンビが彼女の元持ち主であるという確信を彼女が持ってしまったことの方が、彼女の眉間の皺を深くしているであろうことは想像に難くない。
(……知りたい)
小傘は一層、眉間の皺を深くする。
(どうして芳香ちゃんは私を捨てたのか。私はまだ使えた。不調なところなんてなに一つ無かった)
ならば、何故……!
芳香も小傘の異変に気づき、少し眉尻を下げながら首を傾げる。
「こがさ……?」
「えっ、あ、ああうん、なんでもないの。なんでも……」
小傘が慌てて取り繕うが、未だ眉間の皺は消えない。
こうして、妖怪としての生を受けるまで、彼女の意識はとても漠然としたものだった。主人にその細い体を取り上げられれば、傘としての本懐を果たすことを某然と期待し、その骨を開かれれば、自分が使われていると曖昧に喜び、そしてそれまで倦厭されていた自分を雨除けの相棒として選んでくれた主に感謝する。
それだけの毎日。だから、小傘は傘としての生涯をあまりはっきりとは覚えていない。
彼女が覚えているのは、主人に棄てられたと気付き、茫洋とした意識の中でただひたすらに嘆き悲しんだことだけ。
「ねえ、芳香ちゃん」
「なんだー?」
彼女の生前を知っているかもしれない人物としたら、きっと彼女をキョンシーに仕立て上げた張本人。わざわざ彼女を選んだのには理由があるはずだ。だから。
「芳香ちゃんのご主人さまにはどうしたら会えるの?」
「主人……あー、思い出した。せーがに会ってどうするつもりだー!」
珍しく牙を剥いて敵意をむき出しにする芳香。
「お、落ち着いて芳香ちゃん。戦ったりするつもりはないの。ただ、会って話をしてみたいだけなの」
「ん? んー……。ん。せーがは呼べば来ると思うぞー」
「よ、呼べばいいの?」
「ん」
芳香はおもむろに口を閉じたかと思うと、所々雲の浮かぶ月明かりに向かって、
「せーーーーーーがーーーーーー!!!!!!!」
大絶叫。
墓石がガタガタと揺れる。寺の門、その重厚な木の板を支える蝶番が悲鳴をあげる。
圧倒的な音圧を前に、唐傘がギシギシと嫌な音を立てて歪む。
慌てて音圧に慣れようとした耳には、芳香の叫びが消えた今の静寂が逆に痛い。
「……あれ? こないぞー?」
と首を傾げ、もう一度叫ばんと思い切り息を吸い込む芳香に、
「も、もういいよ? もしかしたらこっちに向かってる最中かもしれないし」
「そうかー?」
首を傾げる芳香。
「うん、だからもう少し待ってみよう?」
「おー」
本能的危機感からか、浮かしていた腰をもう一度墓石の上に落ち着け、小傘は唐傘を膝の上に呼んで各所を点検する。どこにも問題なさそうだ、と小さく頷く小傘。唐傘も妖力で強化された一個体であるためで、もし普通の傘であったら、間違いなく暴風に晒されたように簡単に捲れ上がるだろう。
「やっぱり来ないなー」
もう一度上を向く芳香を慌てて抑えようと小傘があたふたしていると、
「私に何か用かしら? ずいぶんと大きな声だったけれど」
どこからともなくすっ、とその場に現れたのは、まるで晴れ渡った空のように全身青色の女性。
「せーがー!」
「あらあら、今日の芳香はいつにもまして甘えん坊ね」
全体的に青い印象の女性に飛びつく芳香に、もう敵意は微塵も感じられなかった。
「それで、どうしたの? 私のことを呼んでいたみたいだけれど」
「おー。こがさが、せーがと話したいらしいぞー」
「こがさ……? あなたがこがさちゃん?」
「あ、はい。多々良小傘といいます」
ゆっくりとこちらを振り向いた女性の、母性溢れる微笑みに、ひとまずこちらへの敵意がないことを感じ、小傘は小さく息を吐く。
「そう……。うちの子が迷惑をかけてしまっているみたいだけれど、ごめんなさいね。これもこの子の仕事のうちなのよ。もう少し上手なやり方はあるとは思うのだけれど……」
青娥の謝罪が縄張り争いに関してであると気づいた小傘は慌てて首を振る。
「い、いえ、それはどうでもいいんですけど。あ、いや、どうでもいいっていうわけでは決してないんですけど、今はそれよりも大事なことがあって……」
しどろもどろに話す小傘を、青娥は少し面白がるような色で小傘の言葉に口を挟む。
「そう、そしてそれは私に何かを聞き出す必要のあること……芳香についての話かしら?」
小傘は頷くことで青娥の言葉を肯定し、自分の生い立ちを話す。
「それで、本当にうちの芳香が自分の元の持ち主であったか知りたい、そして本当に持ち主だったなら、どうして自分のことを捨てたのか訊きたい。こういうことね」
小傘は無言で頷く。その表情、目尻から零れかけているもので、青娥は小傘が過去の、決して愉しくはない過去を思い出しているのだと容易に察する。
目元を拭われる感覚で、ふと小傘は我に返る。
「……辛いことを思い出させちゃったみたいね。ごめんなさい」
青娥の言葉に小傘は首を横に振る。「こがさ、泣いてるのかー?」と珍しく憂の表情を表に出している芳香に「大丈夫」と短く答える。
「今更だけど、御座なりになってしまっていたから、改めて。確かに、私は芳香を僵尸に蘇らせた邪仙、名を霍青娥と言います」
優雅に頭を垂れる青娥に小傘も慌てて頭を下げる。
「私は、確かに生前の芳香を知っている。そして気に入っていた。だから私は芳香が死んだという噂を耳にした時、彼女を蘇らせ、私の傍に置いておくことができるのを喜びこそすれ、それ以上そのことについて深く考えるようなことはしなかったわ。だから、彼女の死についても、結果はともかく、過程にはさして注意を払わなかったの。だから、きっと私は貴女の求めるような情報を持ってはいない」
少しだけ目を伏せる青娥。
「いえ、それなら仕方ないですから……」
「でも」
青娥が小傘の言葉を区切る。
「私には、貴方に教えてあげられることが一つだけある。でも、それは貴方にとって辛い事実となり得るものかもしれない。それでも、私は話すべきなのかしら?」
まるで小傘の覚悟を試すかのように、真剣に、やもすると睨むかように小傘を見つめる。
「……教えてください」
自分は道具だったのだ。ならば、主人がどうして自分を捨てたのか、知らないこと以上に酷い事など無いと、小傘は頷く。青娥は目を閉じ、少し間をとって、
「芳香を墓から出した時、芳香のお腹には大きな刺し傷があったわ。私には、医学の知識はそんなにないけれど、それでもあれが死因だったであろう事は一目瞭然だったわ。つまり……」
そこで、青娥は改めて小傘を一瞥し、誰も気がつかない程ほんの少しだけ口端を歪めてから、なんでも無い事のように残りの言葉を続けた。
「芳香は、誰かに殺された、という事よ」
小傘の去った命蓮寺に、芳香と青娥だけが佇んでいる。
「せーがー」
「はいはい」
青娥の胸元に頭をなすり続ける芳香を見て、青娥は苦笑する。さっきの話を聞いていなかったのか、聞いていても興味をそそられなかったのか、もとより自分の出る幕はないと悟っているのか。芳香の様子は普段と全く変わらない。
「なんだか貴方らしくない様子だったじゃないの? 青娥、さん?」
「これはどうも、たしか、貴方は幻想郷の管理人さんだったかしら。覗きなんて、案外暇してるのね」
不意を突くように後ろからかけられた声にも青娥は怯む事なく、先程よりも幾分、今の自分を意識して背後の声に答える。
「いつから見ていたの?」
「だいぶ前。何か面白いものが見れる気がしたのよ」
「嘘ばっかり。どうせまだここにきて日の浅い自分たちを警戒しているだけでしょう」
不信に対する不満か、簡単な建前を見抜いた事による最低限の満足か、紫は小さく息を吐く。
「それにしても、あんなに簡単にヒントをあげるなんて、らしくないように思うのだけれども?」
青娥は、自分が小傘という少女と一戦交えることを管理人が予想し、その上でスペルカードルールを守るかどうか見張りにきたという可能性もあるな、と眉を少しだけ寄せる。
「別に、私に弱い者虐めの趣味はないわ。相手も名の通った強者でないと、折角倒しても有名にはなれないしね。それに……」
それに? 紫は眉をあげて続きを促す。
「いや……。なんでもないわ。そろそろ自分のいるべき場所に戻りなさい。もうここには貴方の求めるものは何もないわ」
一体自分は余所者に何を話そうとしてるんだ、と青娥は自分の頭を軽く小突く。
「そうね、そうさせてもらうわ。……最後に一つだけ、いい?」
「何かしら? お節介好きの管理人さん?」
「あの子、本当に妖怪の山へ向かうと思う?」
「間違いなく向かうわ。私がそう教えたのだから」
ーーなにかしらの出来事について調べたいのなら、妖怪の山に向かいなさいーー
青娥は小傘にそう助言し、小傘は命蓮寺を去った。
「貴方は悪趣味ね。あの子があのまま妖怪の山に向かったところで、一歩たりとも立ち入れるわけがないじゃない。それに、さっきの話だって、腹部に傷があったからって、他殺とは限らないじゃない。いたずらにあの子を混乱させようとしたのか、それとも、貴方、他殺であると断定できるような何かを、あの子にわざと話さなかったんじゃないの?」
青娥は薄く微笑む。
「小傘ちゃんについては、私の知った事じゃないわ。それはあの子自身がどうにかすることよ。母としての霍青娥はここまで。もう今はただの邪仙、霍青娥だもの。これ以上あの子を助ける義理はないわ。わざと他殺と断定した事に関しては……貴方はどう思う?」
「ああ……そういえば、貴方子持ちだったのよね。貴方の考えている事はよくわからないけれど、はっきり言ってあの子、弱いわよ? 天狗に牙を剥かれて、無事でいれるとは思えないけれど」
紫の言葉に、青娥はその顔に乗せていた笑顔の質をより邪なものへと変える。
「脅かそうとしたって無駄よ。そのためのスペルカードルールでしょ? 山に属する天狗が格下の相手にそれを破るとは思えないけれど。それに、あの子はきっと諦めない。諦めない限り、なんかきっといい方法も浮かぶんじゃないかしら」
「ずいぶんあの子を買っているのね」
その言葉に、いよいよ耐えられないとばかりに青娥は声をあげて笑い始める。
「何よ」
怪訝そうな紫を、
「さあ? どうしたのだと思う? それと、もう、一つどころじゃない程色々とお答えしたのだから、そろそろお引き取り願いたいのだけれども」
青娥が空を仰ぐと、すでに端から白み始めていた。
「面白くないわね。まあ良いわ。確かに、そろそろ眠いわ。という事で御機嫌よう」
空を仰ぎ続けている青娥の視界に、紫は入っていない。ただ声だけを受け止め、気配が消えた事を以って紫が去ったと知る。
何時の間にか隣で立ったまま寝息を立てている器用な芳香の頭を撫でで、青娥は今一度鮮やかな紫色と、見た目に新鮮だったオッドアイを思い浮かべる。
(まるで私の子供みたいね)
私の仙人修行によって、半ば崩壊していた家族関係。早々に私に見切りをつけた旦那とは違って、子供だけは、最後の最後、私が死んだふりをして墓に埋まるまで、私を求める事を諦めなかった。
こんな親で申し訳なかったとは思う。でも、その事に心は痛まない。その事が、又青娥の心を揺さぶる。
もしかしたら、愚直、と呼べるまでに何かを求めようとする姿にあの唐傘の少女と我が子とを重ねて、罪滅ぼしをしようとしているのかもしれない。
馬鹿らしい。
このまま、帰って寝てしまおう、と飛び立つために姿勢を整えた時、ふと紫の言葉を思い出して、小さく吹き出してしまう。
ーーずいぶんあの子を買っているのねーー
「当たり前じゃない」
私は、我が子に何も教えてはあげられなかったかもしれないが、私は、結局最後まで子供に一つの事を教えられ続けていた。
飛び立つ寸前の青娥の表情は、ほんの少しだけ曇っていて、だが一瞬後には余りにも嘘くさい程作り物のように誇った顔で。
「当たり前じゃない。私は……母親なのよ。母性とは、是信じる事だもの」
彼女の作り出した風に巻かれた言葉を、聞いたものはだれもいない。
それで来るのか?それで来るのか!?w
素晴らしいあとがきに誤字発見
>>尻尾降って喜びます。
こがよしで熱いらぶらぶちゅっちゅにワクテカ