あるじめじめとした、雨降りも近き初夏のころ――飛鳥の都にほど近い、いずれかの土地のことでしょう。狩りからのお帰りでありましょうか、それとも行幸(みゆき)の途中のご散策でしょうか、金糸で縁取られた紫衣(しえ)の外套を翻しながら、いずこへともなく太子様が歩みを進めておられますと、花々の群れ咲くうっそりとした野原に腰を屈め、宮古芳香が一心に花を摘んでおりました。
花を摘んでいるとは申しましても、身の節々の上手く動かぬ屍体の仕事でありますから、茎に手を伸ばしては空振りし、またせっかく指を掛けても花びらばかりが千切れ取れるというありさまで、上手く摘み取って芳香の手の中に在ったのは、せいぜい二、三本といったところなのであります。
太子さまはしばらくその様子を面白がり、遠くからじいと御目を動かしておられました。まるで芳香の仕草のひとつひとつが、庭先にばら撒かれた餌をついばむ小鳥がごとく、面白おかしいものだったからにございます。しばらくそうしておりましたが、――やがて、空の端々に真鉄(まがね)色した雲が萌え広がり始める頃合いになりますと、急に空気に湿り気が混じって参りました。そろそろと、遠くには雨の滴の声々が聞こえてくるようでした。
太子さまはこれはいけない、と、お思いになり、紫衣を翻しますと、とうとうと芳香の元まで歩み寄って行かれます。芳香の周りには、摘むことに失敗してぼろになった花々の屑が、幾つも幾つも転がっておりました。そのときようやく、芳香は太子さまが自分に歩み寄られたことに気がつきましたので、摘むことのできた一束の真白い花をひしとその手につかみながら、上手くは曲がらぬ膝でぴょんと跳び、太子さまの御尊顔を振り向いたのでした。
未だ雨に打たれてはおらぬというのに、芳香の髪の毛は、まるでたったいま真新しい滴を浴びたのように光っております。その口元にさっきの仕事で摘んだ野花の束を寄せながら、恐る恐るといった様子の真似ごとか、芳香は屍体なりのお辞儀を太子さまへとお見せしました。
このようなところで何をしているのです。お花を摘んでるのです、青娥に言いつけられたから。ははあ、では、丹薬の素にするとでも申しておりましたか。解りませぬ、ただ、お花を摘んできてと命ぜられていたのですから……。
ぽつぽつとお話を致しますと、どうやら芳香は太子さまの食客――隋人の霍青娥どのの使い走りとして野花を摘んでいるようです。ふんふんと、太子さまはお鼻を鳴らされました。空には、相変らす真鉄の雲が雨の気ぶりを留めたまま、ふたりの様子を窺っているかのようでした。いかに屍体ごときとはいえ、雨に濡れるを憐れに思わぬことはなし。ちょうど自分が着込んでいるのは上等な絹織の紫衣なのであるし、他にもうひとりくらいは包めそうだと。その慈しみの深きこと、太子さまは芳香にまた御声をお掛けになったのです。
芳香、ここいらにはもう直ぐ雨が降るでしょう。雨、降りますか。降りましょう、うんと降りましょう。夏近き日ごろですから、古びた春を洗い流すごとくに降りましょう。だけど、わたし、お花を摘まなければいけないのです、青娥がそう言っていたのです。隋人にとり憐れみが倭人(やまとびと)と違うものとも思えません、雨が降る前にお休みなさい、私の紫衣を貸してあげます。……。
芳香は白痴の屍体なりに、ようくよくどうすれば良いのかを考えていたようでありましたが、やがてこっくりと大きくうなずくと、摘んだ花をひしと握り締めたまま、太子さまに一歩近づいていきました。太子さまはにっこりとほほ笑まれますと、芳香を伴って、近く在った樹々の群れに入って行きました。ぶわりと広がる、深い翠色をした葉の大勢が、雨を凌ぐにちょうど良いものと思われたからでした。
そのうち空は真鉄から墨色に変わり、いよいよ昏い昏い雨の筋が地面を叩き始めます。一本の大木のもと、ふたりはいくさで矢風から逃れるごとく身を寄せ合っておりました。そうして太子さまは初めにお考えになった通り、その御身にまとわれた紫衣を大きく広げ、芳香を頭からすっぽりと覆い隠してしまいました。けれど芳香はあらためて御礼を申し上げることも忘れてしまったものでしょうか、ぶつぶつと、何か意味のあるようなないような、はっきりとしないことを呟きながら、口元に寄せた花のにおいを聞くばかりなのであります。
さて太子さまがよくよくその敏いお耳をそばだてておりますと、何やら、芳香は人の名前を呟いているようなのです。そればかりは解りましたが、出てくる名前のいずれをとっても、太子さまには聞いたことのないものでありました。隋人の名もあり、倭人の名もあれば、百済や新羅や高句麗の人と思しい名も、芳香は唄ておりました。同じ名は、二度とは出ては来ぬようであります。いいえ、そう言うよりも――花のにおいを聞くたびに芳香の言葉が洗われて、いちど出た名が忘れ去られていったとする方が正しかったのかもしれません。
芳香の声は、屍体が唄うているにしては、まるで野花の甘やかがそのまま変わってきたかのように、かんばしいものを持っていたのです。太子さまはしばし御目を閉じられ、うとうとと眠りかけるごとくそれを聴いておりました。しとしとと、雨の滴が紫衣を縁取る金糸の飾りを撫でていきます。と、すると、そのうち、芳香は青娥と呟きました。
青娥。青娥がどうかしたのですか。青娥……屠自古、布都、馬子、守屋、河勝、神子。
それから、それから――――。
雨止みを待つあいだ、ずうっとずっと芳香は唄い続けておりました。
けれどとうとう、芳香は自分の名を唄うということがありませんでした。
太子さまは我慢することがお出来にならず、ついと芳香に話しかけます。
ねえ、芳香。おまえはそうして、見て知った者らの名を唄にするのだね。たぶん、ずうっと昔に出会うた人々の名も唄うていたのでしょう。ねえ、芳香。神子はいつかお墓に入るのですよ。一年の先か、二年の先か。ひょっとしたら、すべてが上手くいくのなら、また誰かに望まれて、生き返ることができるかもしれません。いや、しかし、他に誰が望まぬとても、おまえひとりだけはさっきのように、この神子の名を唄うてくれましょうか。
あたかも穴の開くほどに、太子さまは芳香の瞳を見つめられました。
紫衣の陰にて守られながら、芳香は首を傾げて太子さまを見上げておられました。何か、返事をするようにもごもごと唇を動かしていたようでしたが、芳香が何を言ったのか、それは、彼女の花に遮られて、とうとう解らぬままでした。辺りは、大きく大きく、静かであります。
やがて静かささえ洗い流したかのように、雨も上がってしまいました。
真鉄の雲はよほど向こうの空に移り、滴を浴びた野の草花はきらきらと輝き、ぐんぐんとその鋭い切っ先を天に向けて伸ばしております。そろそろ頃合いと見て、太子さまは紫衣を翻されました。ばさりというのと一緒に、芳香も雨上がりの空を見つめます。青娥だ、と、芳香は呟きました。野原の向こうの空のつけ根に、縹色(はなだいろ)した仙女の衣が踊っているのが見えました。芳香のご主人さまである、霍青娥どののお迎えです。
まるで生きた娘がごとくにころと笑うと、芳香は、自分が屍体であることも忘れ、風のようにすばやく立ち上がりました。ぴょんぴょんと嬉しそうに跳び跳ねていく彼女の手には、せっかく摘んだ一束の野花さえ、もはや残されてはおりません。
太子さまは少しだけかなしそうに微笑まれると、芳香が忘れ棄ててしまった野花を拾い上げ、雨に洗い流されたその香を、どうかして聞こうと試みられました。そして紫衣の内側には、屍体なのだから在るはずもない、芳香の肌のぬくもりが、未だ残っているように思われてなりませんでした。
花を摘んでいるとは申しましても、身の節々の上手く動かぬ屍体の仕事でありますから、茎に手を伸ばしては空振りし、またせっかく指を掛けても花びらばかりが千切れ取れるというありさまで、上手く摘み取って芳香の手の中に在ったのは、せいぜい二、三本といったところなのであります。
太子さまはしばらくその様子を面白がり、遠くからじいと御目を動かしておられました。まるで芳香の仕草のひとつひとつが、庭先にばら撒かれた餌をついばむ小鳥がごとく、面白おかしいものだったからにございます。しばらくそうしておりましたが、――やがて、空の端々に真鉄(まがね)色した雲が萌え広がり始める頃合いになりますと、急に空気に湿り気が混じって参りました。そろそろと、遠くには雨の滴の声々が聞こえてくるようでした。
太子さまはこれはいけない、と、お思いになり、紫衣を翻しますと、とうとうと芳香の元まで歩み寄って行かれます。芳香の周りには、摘むことに失敗してぼろになった花々の屑が、幾つも幾つも転がっておりました。そのときようやく、芳香は太子さまが自分に歩み寄られたことに気がつきましたので、摘むことのできた一束の真白い花をひしとその手につかみながら、上手くは曲がらぬ膝でぴょんと跳び、太子さまの御尊顔を振り向いたのでした。
未だ雨に打たれてはおらぬというのに、芳香の髪の毛は、まるでたったいま真新しい滴を浴びたのように光っております。その口元にさっきの仕事で摘んだ野花の束を寄せながら、恐る恐るといった様子の真似ごとか、芳香は屍体なりのお辞儀を太子さまへとお見せしました。
このようなところで何をしているのです。お花を摘んでるのです、青娥に言いつけられたから。ははあ、では、丹薬の素にするとでも申しておりましたか。解りませぬ、ただ、お花を摘んできてと命ぜられていたのですから……。
ぽつぽつとお話を致しますと、どうやら芳香は太子さまの食客――隋人の霍青娥どのの使い走りとして野花を摘んでいるようです。ふんふんと、太子さまはお鼻を鳴らされました。空には、相変らす真鉄の雲が雨の気ぶりを留めたまま、ふたりの様子を窺っているかのようでした。いかに屍体ごときとはいえ、雨に濡れるを憐れに思わぬことはなし。ちょうど自分が着込んでいるのは上等な絹織の紫衣なのであるし、他にもうひとりくらいは包めそうだと。その慈しみの深きこと、太子さまは芳香にまた御声をお掛けになったのです。
芳香、ここいらにはもう直ぐ雨が降るでしょう。雨、降りますか。降りましょう、うんと降りましょう。夏近き日ごろですから、古びた春を洗い流すごとくに降りましょう。だけど、わたし、お花を摘まなければいけないのです、青娥がそう言っていたのです。隋人にとり憐れみが倭人(やまとびと)と違うものとも思えません、雨が降る前にお休みなさい、私の紫衣を貸してあげます。……。
芳香は白痴の屍体なりに、ようくよくどうすれば良いのかを考えていたようでありましたが、やがてこっくりと大きくうなずくと、摘んだ花をひしと握り締めたまま、太子さまに一歩近づいていきました。太子さまはにっこりとほほ笑まれますと、芳香を伴って、近く在った樹々の群れに入って行きました。ぶわりと広がる、深い翠色をした葉の大勢が、雨を凌ぐにちょうど良いものと思われたからでした。
そのうち空は真鉄から墨色に変わり、いよいよ昏い昏い雨の筋が地面を叩き始めます。一本の大木のもと、ふたりはいくさで矢風から逃れるごとく身を寄せ合っておりました。そうして太子さまは初めにお考えになった通り、その御身にまとわれた紫衣を大きく広げ、芳香を頭からすっぽりと覆い隠してしまいました。けれど芳香はあらためて御礼を申し上げることも忘れてしまったものでしょうか、ぶつぶつと、何か意味のあるようなないような、はっきりとしないことを呟きながら、口元に寄せた花のにおいを聞くばかりなのであります。
さて太子さまがよくよくその敏いお耳をそばだてておりますと、何やら、芳香は人の名前を呟いているようなのです。そればかりは解りましたが、出てくる名前のいずれをとっても、太子さまには聞いたことのないものでありました。隋人の名もあり、倭人の名もあれば、百済や新羅や高句麗の人と思しい名も、芳香は唄ておりました。同じ名は、二度とは出ては来ぬようであります。いいえ、そう言うよりも――花のにおいを聞くたびに芳香の言葉が洗われて、いちど出た名が忘れ去られていったとする方が正しかったのかもしれません。
芳香の声は、屍体が唄うているにしては、まるで野花の甘やかがそのまま変わってきたかのように、かんばしいものを持っていたのです。太子さまはしばし御目を閉じられ、うとうとと眠りかけるごとくそれを聴いておりました。しとしとと、雨の滴が紫衣を縁取る金糸の飾りを撫でていきます。と、すると、そのうち、芳香は青娥と呟きました。
青娥。青娥がどうかしたのですか。青娥……屠自古、布都、馬子、守屋、河勝、神子。
それから、それから――――。
雨止みを待つあいだ、ずうっとずっと芳香は唄い続けておりました。
けれどとうとう、芳香は自分の名を唄うということがありませんでした。
太子さまは我慢することがお出来にならず、ついと芳香に話しかけます。
ねえ、芳香。おまえはそうして、見て知った者らの名を唄にするのだね。たぶん、ずうっと昔に出会うた人々の名も唄うていたのでしょう。ねえ、芳香。神子はいつかお墓に入るのですよ。一年の先か、二年の先か。ひょっとしたら、すべてが上手くいくのなら、また誰かに望まれて、生き返ることができるかもしれません。いや、しかし、他に誰が望まぬとても、おまえひとりだけはさっきのように、この神子の名を唄うてくれましょうか。
あたかも穴の開くほどに、太子さまは芳香の瞳を見つめられました。
紫衣の陰にて守られながら、芳香は首を傾げて太子さまを見上げておられました。何か、返事をするようにもごもごと唇を動かしていたようでしたが、芳香が何を言ったのか、それは、彼女の花に遮られて、とうとう解らぬままでした。辺りは、大きく大きく、静かであります。
やがて静かささえ洗い流したかのように、雨も上がってしまいました。
真鉄の雲はよほど向こうの空に移り、滴を浴びた野の草花はきらきらと輝き、ぐんぐんとその鋭い切っ先を天に向けて伸ばしております。そろそろ頃合いと見て、太子さまは紫衣を翻されました。ばさりというのと一緒に、芳香も雨上がりの空を見つめます。青娥だ、と、芳香は呟きました。野原の向こうの空のつけ根に、縹色(はなだいろ)した仙女の衣が踊っているのが見えました。芳香のご主人さまである、霍青娥どののお迎えです。
まるで生きた娘がごとくにころと笑うと、芳香は、自分が屍体であることも忘れ、風のようにすばやく立ち上がりました。ぴょんぴょんと嬉しそうに跳び跳ねていく彼女の手には、せっかく摘んだ一束の野花さえ、もはや残されてはおりません。
太子さまは少しだけかなしそうに微笑まれると、芳香が忘れ棄ててしまった野花を拾い上げ、雨に洗い流されたその香を、どうかして聞こうと試みられました。そして紫衣の内側には、屍体なのだから在るはずもない、芳香の肌のぬくもりが、未だ残っているように思われてなりませんでした。
面白かったです
読み聞かされているようでうっとりしました。
思えば紫色は、天皇家のみが独占する色となっていくのでした。
かなしいことは、何もないはずなのに。
どことなく文章の中に気品を漂わせつつ、風景描写や感情描写もしっかりとこなす。仕事人ですね。
芳香が持つ物悲しさが神子を通して伝わってくる内容でした……
が、それも直接「こうでした」と言うのではなく、匂わせるにとどめる。上品です。
……しかし芳香、このSSではそれなりの知性がありそうなのに、現代に蘇った時どうしてああなってしまったのかw
もっともっと読みたいと思いました