「珍しい……」
早苗が感慨深そうに呟いた。
彼女のいる薄暗い店内も、地面に少なからず反射する日光に明かりを供給され、程よい空間になっている。古くさい臭いや雰囲気も、扱っている商品や店主の朗らかな人柄、そしてこの幻想郷という土地というものにぴったりな演出となっていた。
早苗が持っているのは、彼女が外の世界にいた頃にはもう天然記念物や絶滅危惧種のような扱いを受けているランプだ。八十センチぐらいの太い竹の筒が台になっていて、その上にちょっぴり火のともる部分がくっついて
いる。細いガラスの筒をほやにして、早苗がはじめて見た時にはランプとは気づかなかったほど。
ここではまだランプは必需品で、かなりの数が出回っているはずだが、これほど変わった形はそうそう無い。早苗は、実際に手に取り様々な角度からそれを眺める。
店主はそんな早苗の姿を見て静かに微笑んでいた。孫の面影でも重ねていたのだろうか。
「これ、ください」
早苗が老いた店主にランプと代金を手渡す。まさか買ってくれるとは思わなかったのだろう、店主は少し意外そうに目を見開いたが、すぐに渡された金額を確認し、満足そうにうなずいた。
早苗は少なからず自分の行動に驚いていた。別に神社には大量に予備があるし、頼まれていたものでもない。見惚れていたのは確かだが、誰かが自分の背中を押した、そんな気がしている。
いわゆる衝動買いと言うやつだが、早苗はお金を持ち合わせていたのもあって、ついそれを買い上げてしまった。早苗はランプを持ち上げて眺め、別にあって困るものでもないか、と開き直る。
何か頭の隅に引っ掛かるものがあった早苗だが、気にするほどのものでもないと判断した彼女はそれを振り払った。
早苗はその時、自分がランプを受け取ってそのままだったことを思い出した。案の定、店主の優しく遠い目線が早苗に注がれている。
店主から暖かい視線を受けて少し恥ずかしい思いをしながらも、早苗は店から出た。そしてゆっくりと浮上し、早苗を待つ神様達のもとへと急ぐ。
太陽は傾きその色を橙に染め、早苗の横顔を照らしている。すぐにこのランプにお世話になるかもしれないと、早苗は苦笑するのだった。
その夜に早速、早苗はそのランプを使ってみることにした。
まだ外の名残をひしひしと感じる部屋は、いつもよりも広く感じられる。部屋の外を覗くと、遠くの方に人里の小さな明かりが仄かに漂い、山のあちこちにも明かりは姿を見せている。ここからでは見れないが、白色の点も山には点在していることだろう。
前まで勉強机だった机に向かい、早苗は一冊の本とランプを抱えて椅子に腰を下ろした。幻想郷に来てから新調した椅子は、外のものと違い木の柔らかさを腰に伝えてくれる。その肌触りを手で確認した後、机の縁を指でなぞってみると、そのギャップが分かりやすい。
勝手が違うランプだったからか、少し点し方に戸惑う早苗。やっとの思いで点いた、柔らかく、今日見た太陽のように橙で、暖かい光を早苗は眺める。早苗は思わず、暖炉にくべた火にあたるかのように手をかざしたくなった。
ランプをぼんやりとした目で見つめ続ける。手元に本があることなど早苗の頭からすっかり抜け落ちていた。軽く催眠状態に陥っているかもしれないその表情が、ふと引き締まった。かと思えば、眉が下がり寂しそうな、懐かしそうな、そんな悲哀の混じったものに変わる。
早苗はそっと目を閉じた。このまま寝てしまうかもしれないが、昔のことに意識を馳せるという行為に勝るものではない。早苗は少し前の、まだ純粋で素朴であった時期、世界が幻想を拒絶しているとその身に感じる前の、幼き日々を脳裏に浮かび上がらせた。
早苗が生まれたときからそばにいる神様は、早苗の両親には見えなかった。
それでも二柱は構わないと言った。その時の寂しそうな顔を、早苗は忘れることができない。
忘れ去られていくこと、必要とされなくなることの恐怖を早苗は知った。
早苗は傍目から見て一人になったとき、可能な限り二柱のために祈ることに決めた。二柱と話し、喜怒哀楽を共有した。
頬に何か伝う感覚がして、早苗は目を覚ました。
明かりに照らされている時計を見ると、一時間程過ぎているのが確認できた。軽くではあるが、寝ていたらしい。
目に溜まっている懐かしさを手の甲で拭うと、早苗は自分の掌にざらざらした質感を感じた。それを手に取り、その表紙を目にしてその本の存在と、自分がしようとしていたことを思い出した。
「なにやってるんでしょう」
あはは、と乾いた笑いを漏らすと、栞の挟んであるページを開く。早苗が読んでいるのは、稗田家三代目の稗田阿未が記した幻想郷縁起だ。
布教に行き詰まりを感じた早苗が、どうすれば信者を増やせるかについて悩んでいたところ、突然頭に浮かんできたのが幻想郷縁起の名前だった。早苗は思った。その土地の風土についてなにも知らないのであれば、それは異邦人と同じである。また彼らの歴史を知らなければ問題外であると。
そう思い立ち、人里の稗田家に突入し、拝見したのがついこの間。しかしその文面は古語だった。膨大な量を翻訳しながら読み進めていくなど、いくら時間がかかるかわからなかった。阿求に貸本屋に現代語版があると聞いて直行し、唖然とする小鈴に交渉したのが早苗にとってはずいぶん昔のように思える。
読んでいると、今も見かける妖怪も多いが、全くといっていいほどその存在を確認できない種族もいた。その多くはどうしたのだろうか。消えてしまったのだろうか、隠れているのだろうか。現代に取り残されているのだろうか、マミゾウのようにしっかりと妖怪家業をしているのだろうか。早苗の興味は絶えない。
早苗は、自分が見ている日本の原風景は、こんなにも美しく奥深いものだったのか、と感動を覚えずにはいられない。
この動きのお陰で、天狗たちにもその精神は受け入れられ、かつてあった山の上層部と神社の軋轢も今ではほとんど無くなりつつある。
早苗は無心で文字と睨み合い続けていた。
本の端に然り気無く置かれた手も、ページをめくるために構えられている左手も、早苗は全く意識していない。
今日、ランプを買ったことも、その際恥ずかしい思いをしたことも、夕日が眩かったことも、二柱が今日も元気だったことも、その二柱が今何をしているかも、さっきまで自分が泣いていたことも、早苗は忘れ去っていた。
どこかから、虫の発する鈴のような鳴き声が聞こえてくる。早苗は凝り固まった肩をほぐすように回し、一旦休憩をとることにした。
時計を見ると、二時間が経過していた。いつもならとっくに布団に入っている時間だ。しかし、『そのいつもなら』は、早苗が縁起を読むようになってからのことで、いかに早苗が集中していたのかがわかる。
しかし、早苗は眠気をいかほども感じていない。あくびをする気配もしない。目はギンギンに冴え渡っている。
たまの夜更かしもいいだろう、と早苗は思った。こんなに神経を使ったのはどれくらいぶりだろうか、と振り返ってみても、これといってピンと来るようなものはなかった。
「よし、もういっちょいきますか」
早苗が意気込む。今日はとことん読み込むぞ、と早苗は決意を固めた。
と、あるものが早苗の目についた。それは早苗の机にいつも乗せてあり、小物としても、また、思い出としても大切なものだった。
幻想郷に来て、霊夢や魔理沙たちとはじめて栗拾いをしたときの、殻斗がとっておいてあったものだ。もちろん中身はないが、どうしても捨てる気になれず、どうでならインテリアにでもしてしまえと考えた結果、椛によって加工され、机に飾ってある。飾っても変ではないかと疑問に思ったときもあったが、いが の力か、椛の技術力かのお陰で部屋に良いイントネーションを与えている。
掴んでしまっては指や掌に大怪我を負ってしまうので、早苗はそっと包み込むようにその殻斗を手に取った。
加工されているから、いが に触ってもそれほど痛みを感じない。そのまま掌にのせて観察しても良いが、栗というのはやはり手の上ではない方が映えるだろう。あまり誉められたことではないが、早苗は開いているページの上に優しくその殻斗を置いた。
同胞の声、靴を通して感じるふんわりとした土の感触、漂う風雅な幹の香り。空気とはこんなにも美味しかったのか、土はこんなにも柔和だったのか、空はこんなにも澄んでいたのか。今でもその想いが込み上げてくる。
早苗は何気なく開かれた頁にも目を向けた。
八雲藍。八雲紫の式として書かれてはいるのだが、尻尾の数は今と比べて少ない。具体的に言うと、あと四本ほど足りない。
あの苦労人にもこんな時期があったのか、と思わず笑みがこぼれた。絵を見ても、今のように妖艶で成熟した女の体つきではなく、早苗のように、瑞々しさを持つ若さを感じられる。それがなおさらおかしく、緩んでいた早苗の頬をさらにだらしなくさせる。
あの九尾は自分の事をほとんど語らないタイプで、早苗もこの文献で初めて彼女の幼少期について知ることができた。藍は自分の式か主人の事、もしくは苦労話をすることは多いが、こういった類いの話題はあまり好かないらしい。それは寂しいな、と早苗は思ったが、自分も外の世界での体験を語るのは少し恥ずかしく、進んでしたくないものだと気づき、なんとも言えない気持ちになった。
気持ちが緩んだからだろうか、早苗は小さくあくびをする。誰も見ていないが、手のひらでそれを隠すと、目尻に溜まった水滴を人差し指で拭う。
もう少し読み進めたかったのだがしょうがない、と本に栞を挟みなおして閉じた。本棚にしまうことがなんだかもったいなく感じられて、早苗は本をそのまま机の上に置いておいた。
ランプの明かりを布団に入るまでとっておく。そしてランプを枕元の目覚まし時計と並べて置き、静かにその光を消した。早苗の視界を真っ暗な闇が覆うが、それは一時的なものだ。しばらくすると、月や星の明るさが強さを増してきて、夜だというのに地上に存在するものに影を作り出させていた。
果たして、自分が外にいた頃はこんなことがあっただろうか、と早苗は天井を見つめながら自問する。大都市に比べればマシだっただろうが、少なくとも夜中にライト無しで歩けるような明るさではなかった。
光が満ち溢れていた世界。人がその発展を謳歌する時代。その喧騒が早苗の頭の中に響く。虚しさや寂しさと共に、忘却に対する喜びの声が上がっている。古き信仰を忘れ去り、闇への恐怖を忘却の彼方に葬り去り、新しき文明へその信仰は移り、人間へその恐怖はとり憑いた。
自分もそうではなかったのか。被害者面をしている自分こそどうなのだろうか。早苗に、そんな自虐心が芽生える。
文明の利器を何も思わず使いこなし、成長するにつれて他人との関係に怯えるようになった。生活が便利になるようなものはなんでも取り入れ、世間の白い目が怖くて二柱の事を周りに叫ぶことをやめた。
そして、その畏れから逃げ出すようにして幻想郷にやってきた。
早苗は急に悲しくなってきて、壁に近い方に寝返りをうった。狭苦しさを感じた方が、今の自分に合っている気がしていたからだ。
さっきまで眠気を感じていたはずなのに、早苗は眠りにつくことができなくなっていた。早苗の中に渦巻く、感情の渦が暴れているからだろうか。
じっとしていられなくなり、また寝返りをうった。窓から月光が入り込み、少し大きめな光の筋を作っていた。その微かな光を反射して、薄く輝いているランプが早苗の目に留まる。
電気というものが人々に浸透してからその存在意義を失い、幻想入りしたこの道具。しかし、ここではまだ現役だ。自分の役割を持ち、その使命を果たそうと必死になっている。
二柱もここに来てからかなり頑張ってらっしゃる、と早苗は連想した。消滅しそうになっていた彼女らも、今では早苗と共に食卓を囲み、楽しく会話をし、たまには喧嘩をし、二柱も早苗もここにいるということを実感させてくれる。
「私も変わることができているのかしら……」
フィラメントの輪を覗くようにして早苗が口籠った。早苗の知らぬ間に瞳が潤んでいるが、彼女は気がつかない。早苗がその時目を閉じなければ、雫がこぼれていたかもしれない。
早苗にとって、今日の夜は苦しいほど長いものだった。
早苗が寝付けたのは、結局いつの事だったろうか。それはわからないが、ただ、その日、日中の活動に支障が出るだろうぐらいには睡眠が浅かったことは確かだ。
早苗は、窓を存分に明け、窓枠に腕をかけ、体を少し乗り出した。ひんやりとしたそよ風に体をさらけ出し、長い緑髪が風に撫でられ、幽かに揺らめく。微妙に細めている目、下がる眉尻、閉じられた唇は、早苗の心情をよく表している。
東雲の赤みが不気味に映る時分に、早苗の目は冴えてしまっている。それは早苗があまり見たことのない景色だった。
寝不足だからこその変な爽快感と、不思議と高揚している気分は、早苗の心中と相反するものだった。外にいた頃はよく夜更かしをしていたが、幻想郷に来てからはほとんど感じなかった感触に、奇妙な親近感を覚えていた。
早苗がこうして風景を眺めているのは、日輪の縁が早く姿を見せないかと待ち望んでいたのもある。しかし、こうして新鮮な空気を肺に満たし、頭を冷やしておく方が、布団の中で悶えているよりもずっと生産的だと早苗は思っていた。だからこうして、早苗は山からの風景を眺めている。
山の中腹辺りでは、夜警の天狗が引き継ぎを終えて帰っていくのが見える。当番の天狗はまだ眠そうに欠伸をしているようで、一緒にいる天狗もだるそうに体を動かしていた。
あちこちに烏天狗の姿も確認できる。肩にかけている鞄に大量の紙が詰め込まれ、忙しなく飛び回っている。あの中に、知っている天狗もいるのだろうか、と早苗は疑問に思った。
と、廊下の方に何かが動いた気配を感じ、早苗が振り向いた。二人組の足音もし、ぼんやりとした声色に、これまたぼんやりとした会話がされている。どうやら二柱が起きたようだ。
そうこうしているうちにいつもの時間帯になっていたようで、そろそろ朝餉の支度をせねば、と窓を閉めようとした。
その時、早苗の目に眩い光が飛び込んできた。思わず目を瞑ってしまうが、掌を光源に向けることで、なんとか片眼だけでも開くことができた。
太陽だ。
地平線から、日天が顔を出し始めている。その光は神々しく、針のような鋭さを持ちながら、母親の腕の中のような優しさと暖かさを地上に降り注いでいた。
自然と、早苗の腕が下ろされる。それに見入っている彼女の心は、その柔らかさに奪われていた。
早苗が感慨深そうに呟いた。
彼女のいる薄暗い店内も、地面に少なからず反射する日光に明かりを供給され、程よい空間になっている。古くさい臭いや雰囲気も、扱っている商品や店主の朗らかな人柄、そしてこの幻想郷という土地というものにぴったりな演出となっていた。
早苗が持っているのは、彼女が外の世界にいた頃にはもう天然記念物や絶滅危惧種のような扱いを受けているランプだ。八十センチぐらいの太い竹の筒が台になっていて、その上にちょっぴり火のともる部分がくっついて
いる。細いガラスの筒をほやにして、早苗がはじめて見た時にはランプとは気づかなかったほど。
ここではまだランプは必需品で、かなりの数が出回っているはずだが、これほど変わった形はそうそう無い。早苗は、実際に手に取り様々な角度からそれを眺める。
店主はそんな早苗の姿を見て静かに微笑んでいた。孫の面影でも重ねていたのだろうか。
「これ、ください」
早苗が老いた店主にランプと代金を手渡す。まさか買ってくれるとは思わなかったのだろう、店主は少し意外そうに目を見開いたが、すぐに渡された金額を確認し、満足そうにうなずいた。
早苗は少なからず自分の行動に驚いていた。別に神社には大量に予備があるし、頼まれていたものでもない。見惚れていたのは確かだが、誰かが自分の背中を押した、そんな気がしている。
いわゆる衝動買いと言うやつだが、早苗はお金を持ち合わせていたのもあって、ついそれを買い上げてしまった。早苗はランプを持ち上げて眺め、別にあって困るものでもないか、と開き直る。
何か頭の隅に引っ掛かるものがあった早苗だが、気にするほどのものでもないと判断した彼女はそれを振り払った。
早苗はその時、自分がランプを受け取ってそのままだったことを思い出した。案の定、店主の優しく遠い目線が早苗に注がれている。
店主から暖かい視線を受けて少し恥ずかしい思いをしながらも、早苗は店から出た。そしてゆっくりと浮上し、早苗を待つ神様達のもとへと急ぐ。
太陽は傾きその色を橙に染め、早苗の横顔を照らしている。すぐにこのランプにお世話になるかもしれないと、早苗は苦笑するのだった。
その夜に早速、早苗はそのランプを使ってみることにした。
まだ外の名残をひしひしと感じる部屋は、いつもよりも広く感じられる。部屋の外を覗くと、遠くの方に人里の小さな明かりが仄かに漂い、山のあちこちにも明かりは姿を見せている。ここからでは見れないが、白色の点も山には点在していることだろう。
前まで勉強机だった机に向かい、早苗は一冊の本とランプを抱えて椅子に腰を下ろした。幻想郷に来てから新調した椅子は、外のものと違い木の柔らかさを腰に伝えてくれる。その肌触りを手で確認した後、机の縁を指でなぞってみると、そのギャップが分かりやすい。
勝手が違うランプだったからか、少し点し方に戸惑う早苗。やっとの思いで点いた、柔らかく、今日見た太陽のように橙で、暖かい光を早苗は眺める。早苗は思わず、暖炉にくべた火にあたるかのように手をかざしたくなった。
ランプをぼんやりとした目で見つめ続ける。手元に本があることなど早苗の頭からすっかり抜け落ちていた。軽く催眠状態に陥っているかもしれないその表情が、ふと引き締まった。かと思えば、眉が下がり寂しそうな、懐かしそうな、そんな悲哀の混じったものに変わる。
早苗はそっと目を閉じた。このまま寝てしまうかもしれないが、昔のことに意識を馳せるという行為に勝るものではない。早苗は少し前の、まだ純粋で素朴であった時期、世界が幻想を拒絶しているとその身に感じる前の、幼き日々を脳裏に浮かび上がらせた。
早苗が生まれたときからそばにいる神様は、早苗の両親には見えなかった。
それでも二柱は構わないと言った。その時の寂しそうな顔を、早苗は忘れることができない。
忘れ去られていくこと、必要とされなくなることの恐怖を早苗は知った。
早苗は傍目から見て一人になったとき、可能な限り二柱のために祈ることに決めた。二柱と話し、喜怒哀楽を共有した。
頬に何か伝う感覚がして、早苗は目を覚ました。
明かりに照らされている時計を見ると、一時間程過ぎているのが確認できた。軽くではあるが、寝ていたらしい。
目に溜まっている懐かしさを手の甲で拭うと、早苗は自分の掌にざらざらした質感を感じた。それを手に取り、その表紙を目にしてその本の存在と、自分がしようとしていたことを思い出した。
「なにやってるんでしょう」
あはは、と乾いた笑いを漏らすと、栞の挟んであるページを開く。早苗が読んでいるのは、稗田家三代目の稗田阿未が記した幻想郷縁起だ。
布教に行き詰まりを感じた早苗が、どうすれば信者を増やせるかについて悩んでいたところ、突然頭に浮かんできたのが幻想郷縁起の名前だった。早苗は思った。その土地の風土についてなにも知らないのであれば、それは異邦人と同じである。また彼らの歴史を知らなければ問題外であると。
そう思い立ち、人里の稗田家に突入し、拝見したのがついこの間。しかしその文面は古語だった。膨大な量を翻訳しながら読み進めていくなど、いくら時間がかかるかわからなかった。阿求に貸本屋に現代語版があると聞いて直行し、唖然とする小鈴に交渉したのが早苗にとってはずいぶん昔のように思える。
読んでいると、今も見かける妖怪も多いが、全くといっていいほどその存在を確認できない種族もいた。その多くはどうしたのだろうか。消えてしまったのだろうか、隠れているのだろうか。現代に取り残されているのだろうか、マミゾウのようにしっかりと妖怪家業をしているのだろうか。早苗の興味は絶えない。
早苗は、自分が見ている日本の原風景は、こんなにも美しく奥深いものだったのか、と感動を覚えずにはいられない。
この動きのお陰で、天狗たちにもその精神は受け入れられ、かつてあった山の上層部と神社の軋轢も今ではほとんど無くなりつつある。
早苗は無心で文字と睨み合い続けていた。
本の端に然り気無く置かれた手も、ページをめくるために構えられている左手も、早苗は全く意識していない。
今日、ランプを買ったことも、その際恥ずかしい思いをしたことも、夕日が眩かったことも、二柱が今日も元気だったことも、その二柱が今何をしているかも、さっきまで自分が泣いていたことも、早苗は忘れ去っていた。
どこかから、虫の発する鈴のような鳴き声が聞こえてくる。早苗は凝り固まった肩をほぐすように回し、一旦休憩をとることにした。
時計を見ると、二時間が経過していた。いつもならとっくに布団に入っている時間だ。しかし、『そのいつもなら』は、早苗が縁起を読むようになってからのことで、いかに早苗が集中していたのかがわかる。
しかし、早苗は眠気をいかほども感じていない。あくびをする気配もしない。目はギンギンに冴え渡っている。
たまの夜更かしもいいだろう、と早苗は思った。こんなに神経を使ったのはどれくらいぶりだろうか、と振り返ってみても、これといってピンと来るようなものはなかった。
「よし、もういっちょいきますか」
早苗が意気込む。今日はとことん読み込むぞ、と早苗は決意を固めた。
と、あるものが早苗の目についた。それは早苗の机にいつも乗せてあり、小物としても、また、思い出としても大切なものだった。
幻想郷に来て、霊夢や魔理沙たちとはじめて栗拾いをしたときの、殻斗がとっておいてあったものだ。もちろん中身はないが、どうしても捨てる気になれず、どうでならインテリアにでもしてしまえと考えた結果、椛によって加工され、机に飾ってある。飾っても変ではないかと疑問に思ったときもあったが、
掴んでしまっては指や掌に大怪我を負ってしまうので、早苗はそっと包み込むようにその殻斗を手に取った。
加工されているから、
同胞の声、靴を通して感じるふんわりとした土の感触、漂う風雅な幹の香り。空気とはこんなにも美味しかったのか、土はこんなにも柔和だったのか、空はこんなにも澄んでいたのか。今でもその想いが込み上げてくる。
早苗は何気なく開かれた頁にも目を向けた。
八雲藍。八雲紫の式として書かれてはいるのだが、尻尾の数は今と比べて少ない。具体的に言うと、あと四本ほど足りない。
あの苦労人にもこんな時期があったのか、と思わず笑みがこぼれた。絵を見ても、今のように妖艶で成熟した女の体つきではなく、早苗のように、瑞々しさを持つ若さを感じられる。それがなおさらおかしく、緩んでいた早苗の頬をさらにだらしなくさせる。
あの九尾は自分の事をほとんど語らないタイプで、早苗もこの文献で初めて彼女の幼少期について知ることができた。藍は自分の式か主人の事、もしくは苦労話をすることは多いが、こういった類いの話題はあまり好かないらしい。それは寂しいな、と早苗は思ったが、自分も外の世界での体験を語るのは少し恥ずかしく、進んでしたくないものだと気づき、なんとも言えない気持ちになった。
気持ちが緩んだからだろうか、早苗は小さくあくびをする。誰も見ていないが、手のひらでそれを隠すと、目尻に溜まった水滴を人差し指で拭う。
もう少し読み進めたかったのだがしょうがない、と本に栞を挟みなおして閉じた。本棚にしまうことがなんだかもったいなく感じられて、早苗は本をそのまま机の上に置いておいた。
ランプの明かりを布団に入るまでとっておく。そしてランプを枕元の目覚まし時計と並べて置き、静かにその光を消した。早苗の視界を真っ暗な闇が覆うが、それは一時的なものだ。しばらくすると、月や星の明るさが強さを増してきて、夜だというのに地上に存在するものに影を作り出させていた。
果たして、自分が外にいた頃はこんなことがあっただろうか、と早苗は天井を見つめながら自問する。大都市に比べればマシだっただろうが、少なくとも夜中にライト無しで歩けるような明るさではなかった。
光が満ち溢れていた世界。人がその発展を謳歌する時代。その喧騒が早苗の頭の中に響く。虚しさや寂しさと共に、忘却に対する喜びの声が上がっている。古き信仰を忘れ去り、闇への恐怖を忘却の彼方に葬り去り、新しき文明へその信仰は移り、人間へその恐怖はとり憑いた。
自分もそうではなかったのか。被害者面をしている自分こそどうなのだろうか。早苗に、そんな自虐心が芽生える。
文明の利器を何も思わず使いこなし、成長するにつれて他人との関係に怯えるようになった。生活が便利になるようなものはなんでも取り入れ、世間の白い目が怖くて二柱の事を周りに叫ぶことをやめた。
そして、その畏れから逃げ出すようにして幻想郷にやってきた。
早苗は急に悲しくなってきて、壁に近い方に寝返りをうった。狭苦しさを感じた方が、今の自分に合っている気がしていたからだ。
さっきまで眠気を感じていたはずなのに、早苗は眠りにつくことができなくなっていた。早苗の中に渦巻く、感情の渦が暴れているからだろうか。
じっとしていられなくなり、また寝返りをうった。窓から月光が入り込み、少し大きめな光の筋を作っていた。その微かな光を反射して、薄く輝いているランプが早苗の目に留まる。
電気というものが人々に浸透してからその存在意義を失い、幻想入りしたこの道具。しかし、ここではまだ現役だ。自分の役割を持ち、その使命を果たそうと必死になっている。
二柱もここに来てからかなり頑張ってらっしゃる、と早苗は連想した。消滅しそうになっていた彼女らも、今では早苗と共に食卓を囲み、楽しく会話をし、たまには喧嘩をし、二柱も早苗もここにいるということを実感させてくれる。
「私も変わることができているのかしら……」
フィラメントの輪を覗くようにして早苗が口籠った。早苗の知らぬ間に瞳が潤んでいるが、彼女は気がつかない。早苗がその時目を閉じなければ、雫がこぼれていたかもしれない。
早苗にとって、今日の夜は苦しいほど長いものだった。
早苗が寝付けたのは、結局いつの事だったろうか。それはわからないが、ただ、その日、日中の活動に支障が出るだろうぐらいには睡眠が浅かったことは確かだ。
早苗は、窓を存分に明け、窓枠に腕をかけ、体を少し乗り出した。ひんやりとしたそよ風に体をさらけ出し、長い緑髪が風に撫でられ、幽かに揺らめく。微妙に細めている目、下がる眉尻、閉じられた唇は、早苗の心情をよく表している。
東雲の赤みが不気味に映る時分に、早苗の目は冴えてしまっている。それは早苗があまり見たことのない景色だった。
寝不足だからこその変な爽快感と、不思議と高揚している気分は、早苗の心中と相反するものだった。外にいた頃はよく夜更かしをしていたが、幻想郷に来てからはほとんど感じなかった感触に、奇妙な親近感を覚えていた。
早苗がこうして風景を眺めているのは、日輪の縁が早く姿を見せないかと待ち望んでいたのもある。しかし、こうして新鮮な空気を肺に満たし、頭を冷やしておく方が、布団の中で悶えているよりもずっと生産的だと早苗は思っていた。だからこうして、早苗は山からの風景を眺めている。
山の中腹辺りでは、夜警の天狗が引き継ぎを終えて帰っていくのが見える。当番の天狗はまだ眠そうに欠伸をしているようで、一緒にいる天狗もだるそうに体を動かしていた。
あちこちに烏天狗の姿も確認できる。肩にかけている鞄に大量の紙が詰め込まれ、忙しなく飛び回っている。あの中に、知っている天狗もいるのだろうか、と早苗は疑問に思った。
と、廊下の方に何かが動いた気配を感じ、早苗が振り向いた。二人組の足音もし、ぼんやりとした声色に、これまたぼんやりとした会話がされている。どうやら二柱が起きたようだ。
そうこうしているうちにいつもの時間帯になっていたようで、そろそろ朝餉の支度をせねば、と窓を閉めようとした。
その時、早苗の目に眩い光が飛び込んできた。思わず目を瞑ってしまうが、掌を光源に向けることで、なんとか片眼だけでも開くことができた。
太陽だ。
地平線から、日天が顔を出し始めている。その光は神々しく、針のような鋭さを持ちながら、母親の腕の中のような優しさと暖かさを地上に降り注いでいた。
自然と、早苗の腕が下ろされる。それに見入っている彼女の心は、その柔らかさに奪われていた。
でも、こういう繊細さをみせる早苗さん、好物です。
全体の雰囲気としては暖かく、ゆったりとしているのですが、
実際の内容は早苗の気持ちに対応するように揺れ動いている。
何というか、霊夢や魔理沙、咲夜では書けない、早苗ならではのSSと感じました。