地底。
それは、母なる大地の、下の、さらに下に位置する世界の事。
この深さを例えるなら、大地を探して三千里。
息子たる地底は母を探す旅に出た。しかし哀れな息子の前にそびえたつ壁。その高さ、三千里――みたいな感じです。
太陽がその存在を存分にアッピールしようと、場の流れで神社が倒壊しようと、移り変わる四季が人間達の五感を楽しませていようと、地底に住む私達にはこれっぽっちも関係が無い。
きっと地底の一季は私たちの第六感を楽しませているんです。
そうことにしておきましょう。
さてさて。私こと地霊殿の主、古明地さとりの業務はヒッキー兼ペットの世話兼ニート。そのオマケに、浮かばれない霊の世話をちょびっと。それだけ。
いやはや、社畜……もといペット達が勤勉で本当に助かりますよ。
そう、例えば灼熱地獄跡の温度調節担当であるスーパー烏・霊烏路空。たった今も、核融合に精を出しているはずです。
お空は働き者で、私に何の疑いを抱かず二つ返事で残業を承ってくれますし、本当にいい子……だけども、大きな問題があるんですよねぇ。
なんとあの子ったら、足し算とかくれんぼとホイットニー・ヒューストンの区別ができないのです!
方や加算、方や遊戯、方やえんだぁぁ~~いやぁ~。
一人捕まるごとに、I WILL ALWAYS LOVE YOUが足されていく脳内環境。
どうしてこうなった。いや、お空がこうなってしまった原因はわかってますけど。
こうなってしまったのも全部あの神達の仕業です。
自らの脳の99,999%を核の知識と管理に使ってさえいなければ、こんなことにはならなかっただろうに。ああ、おいたわしや霊烏路空。
昔は二桁までなら暗算もできたし、物覚えは悪くてもひらめきに長けた天才肌(地獄烏基準)だったんですよ?
その度合い、親鳥が私を見かけるたびに「ウチの子、天才なんですよ」とお空の武勇伝を話してくれるほどでした。
まぁ、残念なことにそのエピソードのレパートリーは4,5個だったのですが。トンビが鷹を産む。親は完全にアホ鳥でした。
ここで一つぶっちゃけると。
例え引き算と鬼ごっこと水樹奈々の違いがわからないペットであろうとも、仕事―主人の身代り―をしてくれればそれでいいんですけどね。
きっとDiamond dustがお空を祝福することでしょう。勿論読みは「てんしのささやき」。某天人はノータッチです。
ともあれ。ペット達のおかげで私はこのヒッキーニート生活を送ることができる。
良きかな良きかな。私のために、もっと働いてもらいたい。午後三時のティータイムなう。やはり、このひと時は何にも代えがたいですからね。
働かずに飲むアッサムはとてもおいしいし、働かずに食べるクッキーはとても甘い。そして、働かずに思う妹はとってもかわいい。
そう、かわいいんです。
古明地こいし。愛すべき私の妹。
私が自宅(を)警備(してくれるペット達に手を振って見送ったあとごろごろする)員の仕事についている時、9割方は妹の事を考えています。
そう、私と妹は強い想いで繋がっているのですよ。
例えばこいしが私を呼べば、私は千里先からでもペットを向かわします。
自分で行けって? 私はこいしにおかえりを言う役目がありますから……。
というかですね、それ以前の話です。
大体、私が家を出たらですよ?
3歩で足が折れますよ?
5歩で地に伏しますよ?
7歩目で妖怪からカツアゲされて、そのまま地霊殿に戻ることになりますよ?
いやはや、恐るべし妹妖怪koisi。
それはお前の妹だろ、って? いえいえ。発音はコイスィですよ。こいしじゃないです。
決め台詞は「お小遣いちょーだい!」、その声だけで、もはやATMとなった私が財布を妹妖怪へと手渡せば、いつの間にかkoisiはいなくなっているのです。
お金を払ってでも一緒にいたいのですが、ね。仕方ありません。
ちなみに、このカツアゲ。何の因果かわかりませんが、お金を渡したその日にこいしは帰って来ますし、そこに何かしらのお土産が付いてきましてね。置物とか、オニオンリングとか。何の因果かは不明です。不明ですよ。
妹妖怪Koisi……一体何明地こいしなんだ……さっぱりわからない……。
そして、今朝も。キッチンに行こうとした私は道を間違え、玄関を通り過ぎました。案の定、三歩で足をくじき5歩ですっころび、7歩目で妹妖怪に声をかけられる始末。
そこから逆算すればつまり!
今日コイスィ――ではなくこいしは何かしらのお土産を持って帰ってくるということになります。カミングスーン。
親愛なる妹が、私のためにお土産を持ってきてくれる……私は楽しみで楽しみでサードアイが爆発しそう。
「お姉ちゃん!」
ほら来た。すぐ来た。ヤッホーヤッホー。
お燐の尻尾をつかんで突然私の前に現れたこいしが、ふんふんと鼻息荒く一枚の封筒を渡してきました。
「プレゼントですって。早く見てあげてくださいな」
シットお燐。
私はこいしから上目遣いで「プレゼントだよ、お姉ちゃん!」といわれるのが楽しみだったというのに。
だけれどもすでにこいしは上目遣いでこちらを眺めていました。台詞分は許してあげましょう。良かったですねお燐、命拾いですよ。
さてこれは一体。厚みはそこまでありませんし、手紙の類でしょうかね。
何にせよ嬉しくて小躍りしそうなのですが、しかしその感情を堅牢で響子なぎゃーてーぱぅわ、もとい強固なさとりぱぅわで抑えつけます。関係ないけどそこの山彦つまみだせ。
一枚のクッキーを口に入れて、もぐもぐ咀嚼しながらその封を切ってみました――
こんいんとどけ
――中に入っていたのは、端的に言うと婚姻届でした。平仮名で可愛らしく書かれた「こんいんとどけ」の字が、私の目前に踊り出ます。
「オゥッ!?」
体を突かれた駆逐艦に似たリアクションが、口の中のクッキーと同時に飛び出ました。
なんですか一体。
しかもこれ、手書き。鉛筆で書いているじゃないですか。
せめてほら、万年筆とか。あったでしょう?
「オゥッオゥッ!?」
流石の私もこれにはびっくりですよ。
こいしの心が読めればなんとかなるのでしょうが、私の読心(かくとうタイプ)はこいしのこころ(ゴーストタイプ)には一切歯が立たないのです。ペットは皆ノーマルタイプで抜群だというのに。くそう。
とりあえず落ち着け、私。落ち着いて、尋ねましょう。
「ごめんねこいし。私に分かるように、ゆっくり説明してくれるかしら」
「私お姉ちゃんと結婚したいの! だから、この書類にサインして!」
「イエスマイシスター。私には貴方の考えがさっぱりドントアンダースタンッ」
咄嗟に欧米めいた受け答えができるまでには、英会話の効果が合ったようです。
そう、私は黒谷式英会話4級。
黒谷式英会話は試験料金の高さと試験の厳しさが有名で、今日も荒稼ぎしているようです。
唯一1級を取ったというMs.Kisumeは今、外人といっても差し支えない英語を振りまきながら、自前のバケットに乗って飛びまわっているとのこと。
私も是非にその域に行きたいですね。
「お姉ちゃん? 何言ってるの?」
おおっと失敬失敬。まだこいしは6級でしたね。私の英語は難しい、と。どうもすみません。
「つまりですね。今の貴方がキュートでプリティなのは認めます。可愛いです。でもですよ、でも私には意図がさっぱりつかめないんです。つまり、どういうことなんですか?」
「えーっとね、お姉ちゃんが好きってこと!」
「サンクスマイシスター。私も好きですよ、こいしの事は」
「わぁい!」
今なお鋼の意志で体を制止させていますが実際、こいしを今すぐ抱きしめて頭を撫でて上げたい感が半端ないのです。
しかし、私にはこいしなでなでよりも大切な事があります。それは妖怪として大切なこと。
己のアイデンティティを殺すわけにはいかない。
そう、私はクールなお姉ちゃん。妹の可愛さに負けてもふもふなでなでちゅっちゅっなぞ言語道断。
私に求められるべきは落ち着いた振る舞い。大人のレディオーラをガンガンにふりまきながらこいしに接す必要があります。
だけど。
理由がわからなくては、どうにもできないのですよ。
せめて、心が読める存在がタイミング良くこいしの隣で所在なさげに立ってくれていると嬉しいのですが。
「お燐、説明しなさい。心の中で」
(はい、説明します。こいし様はさとり様と結婚したいんですって。姉妹愛最高ッ!)
「ファッキンキャット」
(ソーリーマイマスター)
結局理解はできませんでした。
初めからそこまで期待はしていませんでしたしいいですけどもね。
結局は自分で考えなければいけません。最後に信じられるのは己の身なのです。
ということで、結論付けましょう。
こいしのいつもの気まぐれですねハイ決定異論は認めナーイッ。
ええ、ええ。こいしにはよくあることです。でもかわいいから許される。可愛いが正義というならこいしは正義ですし、その正義を証明するためなら私は例えカツアゲされる姉妖怪にだってなります。
さて、とりあえずこの案件は終わらせてしまいましょうか。
「いいですか、こいし。私も、確かに貴方の事が大好きです」
「結婚承諾?」
「いえ。その……でも、これでは、結婚できませんよ?」
そう言って、先程手渡された婚姻届を机の上に広げました。
上にこんいんとどけと大きく書かれていて、そして私たちの名前を書く欄があるのはいいのですが。
でも、その名前を書く欄が相合傘のマークなのはどうかと思うんです。
相合傘で結婚ができますか? 雨の日の男子校は二股三股ありの薔薇の園ですか? そういう学校は非常に創作しやすくて好きですが、それは置いておいて。
私はその字に見覚えがあったのです。
この文字、なんだか猫っぽい筆圧で書かれていますからねぇ。
「ファッキンキャット?」
「はい、私が書きました」
「オゥ、ファッキンキャット」
いい返事ですよ。貴方のそういうところは嫌いじゃないですファッキンキャット。
「仕事が甘い。せめてもっとしっかり書いてくださいよ? でね、こいし。手書きの時点で結婚はできませんし……そう、ちゃんとした書類がないと結婚できないんですよ。この世界」
大体、私たちには障害が多過ぎます。
仮に書類があっても結婚はできませんし。
ですが、これでこいしも諦めてくれるでしょう。
「ええ。それ以前に、私たちは――」
「その書類を取ってきたら結婚してくれるのね!? お燐、行くよ!」
「オゥ、マイシスター。ヒヤリングイヤーを持ってくれまセーン」
誰もいない部屋で、一人披露する片言英会話。
私たちは結婚できない、と言い切る前にこいしはお燐を連れてドアを蹴破ってどこかへ行ってしまいました。
私の部屋は内開きのドアなのに、外に向かって開いています。
今月3回目。折角ですから、ペットに頼んで外開きに作り直しましょう。今日中に。
しかし、こいしはどこに行ってしまったのでしょうか。
お燐。任せましたよ――こいしに何かがあったらお燐の責任。罰を与えましょう。
何もなかったら……ま、アメちゃんくらいは上げてもいいですか、ね。
翌日。
我が地霊殿が誇る最新鋭の時計、さとり腹時計が三時を伝えました。
太陽も月も星もないこの地底の時間なんて適当なものです。
地霊殿では、私が三時だと言えば三時なのですよ。
私が時間。
私が世界。
ビバ、さとりんワールド。
勿論そんなものは地霊殿だけです。旧都の方なら、時を告げる鐘がありますからね。
星熊だかヒグマだかドグラ・マグラだかいう名前の、スカラカチャカポコしそうで2m50cmくらいありそうな鬼が建てた櫓、そして鐘。
十字架を掲げた白塗りの矢倉に金色の鐘は、日本家屋が雑多に立ち並ぶ旧都には実にミスマッチ。
気になった私がクレームをつけたらなんと、今度は洋風の家も作るなどと言いだしやがりまして。
鬼らしく豪快に、をモットーに大きな館を作り上げて、その中で酒を飲んでやる、ですって。そういう問題じゃないんですよ貴方。
まぁいいです。実際、私の腹時計に狂いはない。
三時なう。私はおやつを食べなければなりません。
今日のおやつは、もっさりしたビスケット。最近旧都オープンした頭領・キホーテなる激安ディスカウントストアで投げ売りされていた業務用(1kg入り)。
この無骨な硬さがダージリンに合うんですよね。
ちなみに紅茶もキホーテから。Tパックという、さながら下着の種類の様な形式で売られていました。なにしろ安くて沢山入っているのが好感触。
安いものには安いものを。
高いものには高いものを。
勿論、地霊殿に高級なお菓子だってあります。
しかし、高級なお菓子はこいしと一緒に食べる用。
ペット達につまみ食いされないように、私の知識を余すとこなく使って隠しております。
例えば私の下着入れの中には沢山のおまんじゅう。引き出しの中にはカステラが3本。ベッドの下には薄い本に囲まれた八つ橋。などなど。
極めつけは、私の胸元。ういろうが小分けにして詰まっています。かさ増しかさ増し。
こういうお菓子は足が速いのが弱点故、賞味期限が切れたらペットに横流しです。
余り物を廃棄しながら、ペットから私への好感度が上がるという、一石二鳥ならぬ一饅二獣。
一人のときは食べる気にならないんですよね。私は高級さよりも質実剛健で私に歯向かってくるようなお菓子の方が好きですから。
優しいお菓子よりも、厳しいお菓子を。例えばこの、食べるともさもさする投げ売りビスケットの様な。
「おねーちゃんおねーちゃん」
そして今日もこの幸せなティータイムを彩ろうとして間違ってペンキをぶちまけたかのごとく幸福を上塗りする妹様のご登場です。
皆さま拍手でお出迎えしてください――横に立つ焦燥しきったお燐は華麗にスルー。それが地霊ガールスタイル。
「あらこいし。どうしたのかしら」
「これみて、これ!」
そう言われて差しだされたのは、昨日と同じ種類の封筒。
また手書きの婚約届ですかね。ビスケットを持ったまま封を開きました。
婚姻届でした。
まごうことなき正規品の、マジモンの婚姻届。
わーお。
私選手、流石にこれには驚愕だぁーっ!
あれほど硬かったビスケットを私の貧弱な握力で粉微塵にする程度には動揺を隠せていない!
「……ええとこいし。これは」
「えへへ、取ってきちゃった」
「ワァオ、マイシスターっ! ベリーベリーサプライズドっ!」
しかもこの婚姻届。
何があれかって、よくよくみてみれば私の押すべきハンコ以外のところがすべて埋まっているんですよね。
そう、名前までも。
畜生誰が書いたんだ。読んでやる、読んでやるぞ。
こいしの親のところには、お燐の名前がありますね。こいつがお義母さんになるのですか。ファッキンマザー。あとでお仕置き。
そして、私の親のところには――えーっと。
世帯主:水橋ぱる子
誰だお前は。
誰だよ、ぱる子。
パルスィですらない。
橋姫のようでそうでない。
どう見ても偽名じゃないか。
なんで親子で名字が違うんですか。
私の続き柄が三十四女ってなんですか。
ぱる子とやらはどれだけ子沢山なんですか。
ならばとこいしの続き柄を見てみたら長男ですって。
そりゃまぁどちらかが男にならなくてはいけませんけど。
でも。こいしが男の子になってはいけません。
こいしの下腹部に醜悪なものがあるなんて想像しただけで! 私は! 我慢ができませんよ!
……ふぅ。
さてと、相も変わらずこいしの心はさっぱりです。
ので。あー、こういうときに心の読める都合のいいペットがこいしの横で息絶え絶えになっていませんかね。
「これは一体どういうことですかお燐」
「ぱる子さんに頼んだら、書類を出してくれたんです。こんなこともあろうか、と」
「意味がわからないのですが。どれだけ非常事態に備えているのですか。しかもこんな、何の得にもならなそうな事を」
「ぱる子さん、妬むネタを作って妬むのが好きなんですって。えーっと、ちょっとその姿思いだしますので見てください」
「ファッキンキャット」
渋々サードアイでお燐を見つめてみると。直後、白い歯をきらめかせて笑う一人の橋姫が映り込みました。
『ああ、他人の不幸は蜜の味……なんてどこの中途半端なひねくれものの言葉なのかしら。んな奴らファック&ジェノサイド。一周ひねくれた私にとっちゃ、他人の不幸は早朝の裏路地にぶちまけられたゲル状の何かよりクッソ不味いわ。他人の幸せが蜜の味。その妬ましさでご飯三杯いけるわね』
地味にいい奴じゃないですかぱる子。
もうお前地底から出ていってください……貴方のその優しさは地上でも受け入れられますから、ね?
「ぱる子さんに聞いてみたんです。婚姻届はないか、と。すぐに持ってきて下さったので、三人で書類を埋めてみました」
「ファッキンキャット。なぜ貴方はついて行ったのかアンダースタンド?」
「え、ええと、こいし様をデンジャラスな事から遠ざけるためです!」
確かにそのおかげで事は穏便に過ぎましたが。
そのね。違うでしょう?
貴方は止めるべきだったでしょう?
というかぱる子め。
グランバザールしそうな偽名しやがってこのやろう。
今度会ったら恥ずかしい過去でもほじくり返して、地底にいられなくしてあげます。
太陽がじりじりと輝く地上で体を日焼けさせて、どこかの湖のほとりで男にでもナンパされればいいんですよ。
くっそくっそ、幸せになってしまえ。
「……ねーちゃん、おねーちゃん!」
「あ、ああ、はい、ええと」
「いいよね? ハンコ押してくれるよね?」
こいしの上目遣い。涙目オプション付き。
今すぐ己の指を食い破り、血判を印鑑代わりに押しつけたい!
いや、むしろすでに私は指をくわえていました。私の顎がビスケットの咀嚼に疲れていなければ、私とこいしは晴れて結婚していたでしょう。
しかし私は落ち着かなければなりません。そも、この書類があっても私たちは結婚ができないのですから。
この事実を、なんとかしてこいしに伝えなければ。
「こいし。落ち着いて聞いてください」
「なぁに、お姉ちゃん」
「私たちは姉妹ですよ。まず、姉妹の結婚は認められてません。ね?」
「むぅ……」
ドントクライ、マイシスター。
姉妹でもいいじゃないですか。幸せですよ、姉妹の方が。
それなのに何故。
何故貴方は泣きそうな顔になっているのですか。
「それってさ……も、もし姉妹じゃなければ私たちも結婚できるってこと?」
「仮に私達が姉妹でなくても――まず、私も貴方も女の子でしょう? 女×女は、この国では認められていないのです。悲しいことに、ね」
こいしの頭をなでなで。
かわいい我が妹よ。貴方は貴方のままが一番なのですよ。
(さとり様! そんなことを言うと、こいし様は実際に動いてしまいま――)
「お姉ちゃんのバカバカ! 大好き!」
お燐からの警告、そしてこいしの非難と告白を織り込んだ捨て台詞。
気がつけば、こいしもお燐もそこからいなくなってしまいました。
先程までこいしの髪を撫でていた手のひらは所在なく空を切ります。
部屋に一人残る私。近づいてくる、一抹の不安。
嫌な予感を紅茶で流しこんで、私は一つため息をつきました。
そしてまた、見えないところで日が進む。
今日も今日とてティータイム。
抱いていたはずの不安は、一晩経った結果、まるで口の中に入れた生チョコレートのようにとろけて消えて行ってしまいました。
そう、今日はチョコレートデー。
チョコレートを食べるだけの日。
意中の人にチョコレートを上げるという、冬場にチョコレートを売り出そうとしたお菓子屋の陰謀に巻き込まれた某日とは関係ありません。
お菓子屋も何となく決めたのでしょうが、欲望がダダ漏れです。対して、私はそこに下心など全くない。
その代わりに、何となくチョコレートを欲した私の脳内会議と、敗れ去ったクッキー派が頭の隅で泣いている現状だけがあります。
甘いぞクッキー派。そうすぐに出番が回ってくるとは思わないことですよ。
本当は生チョコでなくてもよかったのですが、賞味期限が迫っていたので仕方なく生チョコレートを食べています。
チョコレートは、動物には害がありますからね。
前にお燐に食べさせた結果、涙を流しながらAA>B猫パンチ>8Hj>j6A>j5B>j6C>着地>B猫キック>キャッツウォークのコンボを私に叩き込んできました。痛かったです。
あれ以来、チョコレートは残念ながら私かこいしが食べることになりました。
そう、こいし。
こいしにお燐までつけている今の状態は、さながら黄門様にスケさんが付いている状態。
古明地の名字という紋所により、誰も手出ししないし手出しができないでしょう。
カクさんは残念ながら、三歩あるけばすべてを忘れてしまう体質故、欠席です。もし仕事中のお空に話しかけるでもしたら、その瞬間そちらに意識が飛んでしまい、何をしていたのかさっぱり忘れてしまいますからね。
昨日、私の親をぱる子でなくお空に設定して印鑑をもらいに行っていたら、今頃地霊殿はオンファイア。核の炎でさよなら地霊殿。
まさに危機一髪、爆発オチをすれすれで回避しました。
さて、紅茶を一口飲んで……と。そろそろですね。
二度あることは三度ある、きっとこいしが来るでしょうし、何があっても驚かない準備をしておかなければなりません。
優雅な姉でありましょう。
チョコレートを口に含み――うっ知覚過敏――カップを片手に、そのときを待ちましょう。
心の準備はできてます。この私がまた仰天することなんて、万に一つもないでしょう。
「ねぇねぇ、今日は大事な事を伝えにきたんだ」
なんとびっくり、一瞬で敗北しました。歴史は繰り返すのです。
取り落として砕け散るカップ、開いた口からたらりと垂れるチョコレートと唾液の混ざった古明地汁。
魅惑のソプラノボイスを使って後ろから耳元で囁いた謎の少年が、私の目の前にその全貌を見せます。
「はぁい」
こいしでした。
知ってた。
「こいし?」
「ノンノン。今までの私……ボクじゃないの、だぜ」
もし私が血気盛んな妖怪でしたら、鼻から真っ赤なシスコンビームを放っていたことでしょう。
常に血が足りていない故、そんなことをしてしまえば即命にかかわるのですが。
いやでも鼻血垂れてきた。やっばい。
パリッとした白いタキシードに身を包み、いつもの帽子をシルクハットに変え、青いバラを咥えてポーズを決めているこいし。超かっこいい。
「ヤザワスタイルだぜ」
「ワァオ……すっごく永吉……」
じゃなくて。
何故こいしはそんな恰好をしているんでしょうか。見当もつかない。
こういうときにお燐が便利なんですよね――あらお燐、ちょうどいいところに。
わたくし、こうなった理由を聞きたいのですわ。ところで貴方、どうしてそんなわざとらしいつけひげを付けているのです?
ハンカチで口元と鼻血をぬぐって、何故かつけひげをつけているお燐に声をかけようとしました。
しかしできませんでした。
こいしが顔を掴んで無理やり視線を合わせてきたからです。
視界いっぱいのこいし。やばい、かわいい、かっこいい。そして、息がかかるほどの至近距離!
「ちょ、ちょっとこいし? 落ち着い――」
「さとり。ボクと結婚しよう」
今の聞きましたか、今の。さとり、ですって。
さとり。
イッツ、マイネーム。
こいしが私の名前を呼び捨てでコール。
こうかはばつぐんだ!
一瞬意識が暗転して、しかしさらに近づいてくるこいしの甘い吐息に目が覚まされます。
はっはぁん。
こいし。
さては貴方、キスをしようとしてますね。
……キス?
え、ホントに?
マジで?
いやはや少し待っていただきたい。
今現在、私の心は地霊殿を離れて地殻を突き破り、地上まで登って行っています。
キスなんてされた日には、もう私の魂ごと飛び出して行って二度と帰ってきません。
ですから、どうか私に慣れる時間をください。
「こいし、もう一回私を呼んで」
「さとり」
「もう一回」
「さとり」
「ワンモア!」
「さとりっ!」
これはもうヘヴン状態ですわ。
お姉ちゃん感涙。両目とサードアイと、ほか数か所がびっしょびしょです。
私の心が天界まで上り詰めて、天人に挨拶してきました。
やぁ胸ない族のお方。ういろうでごまかさないといけないくらい私にも胸はありませんが、その代わり奥の奥まで妹からの愛で詰まってるんですよ。おやおや悔しそうですね、ふふふ。
スロットで777がそろったかのように、お姉ちゃんフィーバーですよ。下からじゃんじゃんアレが出て来ています。
ふぅ……もう何も怖くない。
「じゃあ一回お姉ちゃんを挟んでみましょう」
「ごめんねさとり。もう僕はお姉ちゃんの妹じゃないんだ」
死のう。
よし死のう。
四倍弱点効果抜群急所命中。
天界から垂直落下する私の心に向かって、胸ない族がいやらしい笑顔でハンカチを振っていました。
そのまま地殻をぶち破り、地霊殿の私の元へ帰ってくる心。帰ってきてそうそう口から抜けていく魂。ああもう駄目だ。
「こいしが……こいしが……」
「じゃ、そのお口はもらっていくよ」
こいしがヤザワの永吉さんスタイルなら、こちらはヒカワのきよしさんスタイル。
絶望のどん底。ダンシングズンドコ節。
どん底とずんどこって似てますからね。
ははは。寒い。面白みの欠片もない。
こいしに唇が奪われている感触はあるのですが、嬉しいことのはずなのになぜか感情が通いません。
燃え尽きたぜ。真っ白にな。そんな気分です。
「さとりや」
ここで無慈悲にもお燐がコンボを決めてくるッ!
ああ、お燐が私を呼び捨てにするようになってしまった。
これはもう駄目だ。帰ってこれない。オウチ帰りたい。ここオウチ違う。イエジャナーイ!
「わしの心を読んでくだされ。何があったのか見えますじゃろ」
……こいつ本当にお燐なのですか?
お燐の皮を被った旧都三丁目の田中さんじゃないのですか?
しかし見た目はつけひげ以外いつものお燐。
もう何もわからない。
読心するしかない。
満足げな笑顔のこいしに渡されたいくつかの書類と一緒に、私は死にかけの脳をフル回転させました。
(こいし様は、男の子になって、しかも養子縁組で姉妹じゃなくなれば結婚できると考えたそうじゃ)
とりあえず口調を戻しやがれですよファッキンキャット。
田中さんだかお燐だかわからなくなってるじゃないですか。
つまり田中燐ですか。実在しうる名前ですねってそうじゃない。
今考えるべきはまだ見ぬ田中燐さんのことではなく、永吉と化したこいしの事です。
「養子……縁組?」
「その書類を提出すれば、晴れて火焔猫こいしになるというわけですじゃ」
「認めませんよッ!」
その悲鳴は、予想以上に大きな声で部屋に響き渡りました。
こんな声を出すのは数十年ぶり。
声帯が悲鳴を上げています、二重の意味で。
でも、それほどに認めがたいのです。
なぜなら、古明地こいしという名前は、これはもう完成しきった一番美しい形だからです。
火焔猫みたいな平仮名にすると長い名字は、名前が二文字くらいの人につけるのがちょうどいいのです。
名字四字、名前三字。
シンプルかつ美しい形態。これを私は守りたいのですよ。
「ちなみにさとりの分もあるのじゃよ。水橋さとりに」
「なるわけないでしょうッ!」
水橋さとり。なんですかこのどこにでもいそうな女子高生みたいな名前。
いそうでいないギリギリのラインを攻めていますね。
少なくとも田中燐のような外角高めのストライク三振アウトではなく、審判も悩むようなまさしくグレーゾーン。
「で、お姉……さとり。折角男になったんだし、もちろん結婚してくれるよね?」
「ちょっとまってこいし」
ここで私の脳裏に嫌な予感が流れ始めました。
慌てて書類を見返します。
……ここにある書類は、養子縁組と婚姻届。性別云々の書類はありません。
だが、こいしは。
こいしは男になったと言っているのです。
昨日の時点では、まだ女の子女の子してました。女子力の塊でした。
でも、今はイケメンこいし。
――もし、こいしに生えていたとしたら。
何が生えるかって?
そりゃ、サードアイならぬサードスティックですよ。仮にこいし棒とでもしましょうか。
こいしの体にスティックなんて!
やっぱり認められませんよ!
そういう世界観はベッドの下の薄い本の中だけです! ちなみに著者は私!
こうなってしまえば、確認するしかないっ!
「失礼ッ!」
「やんっ」
私の腕がこいしの股に一直線。
スーツの上から、手ですりすり、すりすり。
優しく撫でるように、そして時折強くその奥地へ忍び込もうとするように、撫で上げます。
「あ、あんっ」
そしておまけにもう一つすりすり。
……ふぅ。
大丈夫、妙な海綿体の付着は確認されませんでした!
(こいし様の体には傷一つつけてませんよ!)
「ナイスです、流石お燐!」
今度褒美をくれてやりましょう。
流石にアメちゃんではかわいそうですね。いい死体でも手配できればいいのですが。
(で。ここまでしたんですから、結婚してあげてください。ね?)
「……って違うんですよぉ!」
私は立ち上がりました。
手もとの書類をまとめて縦に破り……破り……くっ力がたりないっ。
破ろうとしてくしゃりとまがった書類を、床に思いっきり叩きつけます。
「お、お姉ちゃん……ダメ、なの?」
こいしの口調が戻ってきました。
これでこそこいしですよ。
さぁ、こいし。妹となって、私のところに戻ってきてください。
「こいし……私は貴方とは結婚できません」
姉妹ですから。
夫婦なんかよりも強いつながりで結ばれていますから。
だから、結婚なんてする必要が無い――笑顔で迎えてあげようとしました。
「……そう」
だというのに、帰ってきた返事は冷たいものでした。
その眼には、溢れんばかりの涙。
「こ、こいし?」
「やっぱりお姉ちゃんは私の事なんて嫌いなんだね。ごめんね。もうこんなこと言わないからね」
「こいし、それは違いま――まって!」
えぐえぐと泣きながら、こいしは扉に向かってフラフラと歩いて行きました。
違う、違うという文字が、脳内でグァングァンと反響します。
どこで間違えてしまったのか。立ちあがって追いかけようとする私の前に一つ立ちふさがる影がありました。
「お燐! 今はこいしを――ッ」
「さとり様、失礼します」
そっとつけひげを外しながら、お燐は私の頬を思いきりグーで殴りつけました。
容赦のない一撃。気がつけば私の体は宙を舞い、床に思いきり叩きつけられました。
一瞬何が起きたのか理解できませんでした。
だけれども、頬の痛みと口内にしみわたる血の味が、これが現実だと如実に伝えてくるのです。
「お燐……貴方」
「僭越だから述べさせていただきますが、さとり様は、心を読むのに慣れ過ぎてやがるのですよ!」
その声は、けして大きくはありませんでしたが。私達――私とこいしの体を制止させるのに、十分な意味がありました。
だけれども、私には言われている事が、さっぱりわからない。
心を読もうにも、お燐の心に有るのは純粋な私への怒りだけ。ぐちゃぐちゃとしていて、何も読みとれません。
「……それは、一体」「お燐、言わないで」
私とこいしの声が重なります。
一体何を隠そうとしているのか。私はいったい何をしてしまったのか。
お燐はこちらを睨みつけています。その瞳からは、一縷の希望を感じ取ることができました。
おそらく、私に分かってほしいのでしょう。しかし私には分からないのです。
静かに首を横に振る私の胸倉を、お燐が掴み上げました。
「こいし様の結婚したい……が! 社会一般的に言う結婚したいと同じだと思ってるんですか!?」
「……つまり?」
「まだ分からないんですか!? この大馬鹿! こいし様がやりたかったのは、書類による結婚の受理なんかじゃない……さとり様と二人で――」
「お燐!」
こいしの悲痛な叫び声が、お燐の言葉を遮りました。
お燐の心が穏やかに震え、私から手を離します。
その心の中では、溢れそうな怒りをもどかしげに抑え込んで冷静さを保とうとしていました。
そして、解放された私は、床にへたりこむことしか出来ません。
「……こいし様!」
「いいの。私は拒絶されちゃったんだから。もうこうなったら、私が私でなくなるしかないのかな。古明地こいしじゃなかったら、受け入れてくれるのかな」
こちらを振り返るこいしの瞳はどこまでも深く絶望の色に染まり、光をなくしていました。
流れ落ちる涙が頬を伝わり、床に滴り落ちていきます。
「違います! 私はこいしが――」「こいし様! さとり様は貴方が――」
「……そうだよね。どうなっても受け入れてくれないんだよね。知ってる」
ああ、これはダメだ。
お燐の声も、私の声も、届かない。
一目散に駆け出すこいしを見て、ようやく私の体の硬直が解けました。
もし無意識の力を使われてしまえば、こいしはどこかへ行ってしまう。
二度と私達の手の届かないところへ。そして、最悪こいしがこいしでなくなってしまう。
「さとり様、私がドアを――」
「ええ、早く……そうすれば……」
ドアがあかないように、押せば。ここのドアは内開きだから――
『折角ですから、ペットに頼んで外開きに作り直しましょう』
数日前の私の呟きが脳裏をよぎりました。
あの日中に、ドアは外開きになっていました。
「こいしッ!」
たまらず、叫びが口からこぼれ出ました。
私と、そしてお燐の心の中に絶望が広がって行きました。
もう駄目なんだ。あれもこれも私のせいだ。
私の勘違いが……いつもの、他愛のないこいしの奇行だと思っていた私の責任だ。
でも、もう届かない。間に合わない。
この部屋の外に行かれてしまえば、私の力では見つけることができない。
ああ、もうこいしはドアの前にいる。
お燐も、こいしを捕まえるには至らない。私はまだ全然。こんなときに、私自身のひ弱さが恨まれる。
ここまで、ですか。
こいしはタックルの構えを取りました。
私と違い、その身一つで内開きのドアを突き破るこいしなら、こいしなら、タックルで外開きのドアを開くなんて造作もない事。
臆病にも私は、目をつむってしまいました。何の解決にもならないのに。
私はこいしを助けることを諦めてしまったのです。
再び目を開けるときには、そこにこいしはいないでしょう。
こみあげてくる涙が頬を濡らし、私は己の馬鹿さ加減を恨みました。
ごめんなさい、こいし――
「なんで!?」
――こいしの叫びで、私はもう一度目を開きました。
こいしは、何やらドアの前で立ちつくしています。
追いついたお燐がこいしの体を抱きかかえながら、こちらに手招き……ですけど。お燐の心もまた疑問で埋まっている。
間に合わなかったはずなのに。
(どうやらドアが開かなかいのです)
お燐が、伝えてくれました。
でも、なぜ?
「どうして、どうしてよ!」
涙を流しながら、こいしはドアを殴りつけます。
しかし、ドアは開かない。
理由は分かりませんが、これは絶好のチャンスです。
逃せば二度と来ないであろうこの好機。
私はこいしの元まですんなりとたどり着いて、お燐に代わってそっと体を抱き寄せました。
抵抗されるかと思いきや、こいしはすんなりと腕の中に収まります。
微かな暖かさが、私の手の中に確かにありました。
(諦めてんじゃないよ、馬鹿)
小さな声とともに、外から小さな笑い声と足音が聞こえました。
そこらへんのペットは喋りません。お空ならば、この時間は仕事をしているはず。
なら、今のはいったい誰なのか。
暫し呆然とする私達三人。
部屋に満ちる沈黙は、腕の中のこいしの声で破られました。
「……お姉ちゃん」
「あ、ご、ごめんなさい」
どうやら、強く抱きしめすぎたようで。こいしが苦しそうな声を漏らします。
慌てて腕を緩めて――でも、緩めるだけに留めます。
けして放しはしません。二度と、離しません。
「こいし」
「……なぁに」
「本当にごめんなさい。私は貴方の気持ちに気付かなかった」
「……私もごめんなさい。無茶言っちゃって……出来の悪い妹で」
涙は止まっていましたが、それでも、どこか沈んでいるような顔立ち。
私と目を合わせようともしない。
こういうこいしもかわいいけれども、でも、すごく心が締め付けられる。
すると、今私に出来ることはきっと一つしかない。
……今ならきっと。
今しか、きっと。
「こいし、ねぇこいし」
「なぁに」
「一つ、お願いを聞いてくれませんか」
「……なぁに」
「結婚してください」
同時に、そっと唇を奪いました。
先程とは違い、今度はしっかりとした感触を感じられます。
(わぁおっ! キスだ! 古明地キッスだ!)
うるさい外野は、サードアイだけで睨みつけました。
何しろ私の両目は、こいしを見つめるのに忙しいですから。
キスは軽く触れるだけのものですが、これで、きっと、想いが、伝わって。
「ダメ、ですか?」
「……ダメなわけないじゃん。もう」
涙痕をこすりながら、こいしは可愛く笑います。
やはり、こいしは笑顔が一番。心から、私はそう思いました。
「……お姉ちゃん」
「はい、こいし」
「大好きだよ、お姉ちゃん!」
それは、母なる大地の、下の、さらに下に位置する世界の事。
この深さを例えるなら、大地を探して三千里。
息子たる地底は母を探す旅に出た。しかし哀れな息子の前にそびえたつ壁。その高さ、三千里――みたいな感じです。
太陽がその存在を存分にアッピールしようと、場の流れで神社が倒壊しようと、移り変わる四季が人間達の五感を楽しませていようと、地底に住む私達にはこれっぽっちも関係が無い。
きっと地底の一季は私たちの第六感を楽しませているんです。
そうことにしておきましょう。
さてさて。私こと地霊殿の主、古明地さとりの業務はヒッキー兼ペットの世話兼ニート。そのオマケに、浮かばれない霊の世話をちょびっと。それだけ。
いやはや、社畜……もといペット達が勤勉で本当に助かりますよ。
そう、例えば灼熱地獄跡の温度調節担当であるスーパー烏・霊烏路空。たった今も、核融合に精を出しているはずです。
お空は働き者で、私に何の疑いを抱かず二つ返事で残業を承ってくれますし、本当にいい子……だけども、大きな問題があるんですよねぇ。
なんとあの子ったら、足し算とかくれんぼとホイットニー・ヒューストンの区別ができないのです!
方や加算、方や遊戯、方やえんだぁぁ~~いやぁ~。
一人捕まるごとに、I WILL ALWAYS LOVE YOUが足されていく脳内環境。
どうしてこうなった。いや、お空がこうなってしまった原因はわかってますけど。
こうなってしまったのも全部あの神達の仕業です。
自らの脳の99,999%を核の知識と管理に使ってさえいなければ、こんなことにはならなかっただろうに。ああ、おいたわしや霊烏路空。
昔は二桁までなら暗算もできたし、物覚えは悪くてもひらめきに長けた天才肌(地獄烏基準)だったんですよ?
その度合い、親鳥が私を見かけるたびに「ウチの子、天才なんですよ」とお空の武勇伝を話してくれるほどでした。
まぁ、残念なことにそのエピソードのレパートリーは4,5個だったのですが。トンビが鷹を産む。親は完全にアホ鳥でした。
ここで一つぶっちゃけると。
例え引き算と鬼ごっこと水樹奈々の違いがわからないペットであろうとも、仕事―主人の身代り―をしてくれればそれでいいんですけどね。
きっとDiamond dustがお空を祝福することでしょう。勿論読みは「てんしのささやき」。某天人はノータッチです。
ともあれ。ペット達のおかげで私はこのヒッキーニート生活を送ることができる。
良きかな良きかな。私のために、もっと働いてもらいたい。午後三時のティータイムなう。やはり、このひと時は何にも代えがたいですからね。
働かずに飲むアッサムはとてもおいしいし、働かずに食べるクッキーはとても甘い。そして、働かずに思う妹はとってもかわいい。
そう、かわいいんです。
古明地こいし。愛すべき私の妹。
私が自宅(を)警備(してくれるペット達に手を振って見送ったあとごろごろする)員の仕事についている時、9割方は妹の事を考えています。
そう、私と妹は強い想いで繋がっているのですよ。
例えばこいしが私を呼べば、私は千里先からでもペットを向かわします。
自分で行けって? 私はこいしにおかえりを言う役目がありますから……。
というかですね、それ以前の話です。
大体、私が家を出たらですよ?
3歩で足が折れますよ?
5歩で地に伏しますよ?
7歩目で妖怪からカツアゲされて、そのまま地霊殿に戻ることになりますよ?
いやはや、恐るべし妹妖怪koisi。
それはお前の妹だろ、って? いえいえ。発音はコイスィですよ。こいしじゃないです。
決め台詞は「お小遣いちょーだい!」、その声だけで、もはやATMとなった私が財布を妹妖怪へと手渡せば、いつの間にかkoisiはいなくなっているのです。
お金を払ってでも一緒にいたいのですが、ね。仕方ありません。
ちなみに、このカツアゲ。何の因果かわかりませんが、お金を渡したその日にこいしは帰って来ますし、そこに何かしらのお土産が付いてきましてね。置物とか、オニオンリングとか。何の因果かは不明です。不明ですよ。
妹妖怪Koisi……一体何明地こいしなんだ……さっぱりわからない……。
そして、今朝も。キッチンに行こうとした私は道を間違え、玄関を通り過ぎました。案の定、三歩で足をくじき5歩ですっころび、7歩目で妹妖怪に声をかけられる始末。
そこから逆算すればつまり!
今日コイスィ――ではなくこいしは何かしらのお土産を持って帰ってくるということになります。カミングスーン。
親愛なる妹が、私のためにお土産を持ってきてくれる……私は楽しみで楽しみでサードアイが爆発しそう。
「お姉ちゃん!」
ほら来た。すぐ来た。ヤッホーヤッホー。
お燐の尻尾をつかんで突然私の前に現れたこいしが、ふんふんと鼻息荒く一枚の封筒を渡してきました。
「プレゼントですって。早く見てあげてくださいな」
シットお燐。
私はこいしから上目遣いで「プレゼントだよ、お姉ちゃん!」といわれるのが楽しみだったというのに。
だけれどもすでにこいしは上目遣いでこちらを眺めていました。台詞分は許してあげましょう。良かったですねお燐、命拾いですよ。
さてこれは一体。厚みはそこまでありませんし、手紙の類でしょうかね。
何にせよ嬉しくて小躍りしそうなのですが、しかしその感情を堅牢で響子なぎゃーてーぱぅわ、もとい強固なさとりぱぅわで抑えつけます。関係ないけどそこの山彦つまみだせ。
一枚のクッキーを口に入れて、もぐもぐ咀嚼しながらその封を切ってみました――
こんいんとどけ
――中に入っていたのは、端的に言うと婚姻届でした。平仮名で可愛らしく書かれた「こんいんとどけ」の字が、私の目前に踊り出ます。
「オゥッ!?」
体を突かれた駆逐艦に似たリアクションが、口の中のクッキーと同時に飛び出ました。
なんですか一体。
しかもこれ、手書き。鉛筆で書いているじゃないですか。
せめてほら、万年筆とか。あったでしょう?
「オゥッオゥッ!?」
流石の私もこれにはびっくりですよ。
こいしの心が読めればなんとかなるのでしょうが、私の読心(かくとうタイプ)はこいしのこころ(ゴーストタイプ)には一切歯が立たないのです。ペットは皆ノーマルタイプで抜群だというのに。くそう。
とりあえず落ち着け、私。落ち着いて、尋ねましょう。
「ごめんねこいし。私に分かるように、ゆっくり説明してくれるかしら」
「私お姉ちゃんと結婚したいの! だから、この書類にサインして!」
「イエスマイシスター。私には貴方の考えがさっぱりドントアンダースタンッ」
咄嗟に欧米めいた受け答えができるまでには、英会話の効果が合ったようです。
そう、私は黒谷式英会話4級。
黒谷式英会話は試験料金の高さと試験の厳しさが有名で、今日も荒稼ぎしているようです。
唯一1級を取ったというMs.Kisumeは今、外人といっても差し支えない英語を振りまきながら、自前のバケットに乗って飛びまわっているとのこと。
私も是非にその域に行きたいですね。
「お姉ちゃん? 何言ってるの?」
おおっと失敬失敬。まだこいしは6級でしたね。私の英語は難しい、と。どうもすみません。
「つまりですね。今の貴方がキュートでプリティなのは認めます。可愛いです。でもですよ、でも私には意図がさっぱりつかめないんです。つまり、どういうことなんですか?」
「えーっとね、お姉ちゃんが好きってこと!」
「サンクスマイシスター。私も好きですよ、こいしの事は」
「わぁい!」
今なお鋼の意志で体を制止させていますが実際、こいしを今すぐ抱きしめて頭を撫でて上げたい感が半端ないのです。
しかし、私にはこいしなでなでよりも大切な事があります。それは妖怪として大切なこと。
己のアイデンティティを殺すわけにはいかない。
そう、私はクールなお姉ちゃん。妹の可愛さに負けてもふもふなでなでちゅっちゅっなぞ言語道断。
私に求められるべきは落ち着いた振る舞い。大人のレディオーラをガンガンにふりまきながらこいしに接す必要があります。
だけど。
理由がわからなくては、どうにもできないのですよ。
せめて、心が読める存在がタイミング良くこいしの隣で所在なさげに立ってくれていると嬉しいのですが。
「お燐、説明しなさい。心の中で」
(はい、説明します。こいし様はさとり様と結婚したいんですって。姉妹愛最高ッ!)
「ファッキンキャット」
(ソーリーマイマスター)
結局理解はできませんでした。
初めからそこまで期待はしていませんでしたしいいですけどもね。
結局は自分で考えなければいけません。最後に信じられるのは己の身なのです。
ということで、結論付けましょう。
こいしのいつもの気まぐれですねハイ決定異論は認めナーイッ。
ええ、ええ。こいしにはよくあることです。でもかわいいから許される。可愛いが正義というならこいしは正義ですし、その正義を証明するためなら私は例えカツアゲされる姉妖怪にだってなります。
さて、とりあえずこの案件は終わらせてしまいましょうか。
「いいですか、こいし。私も、確かに貴方の事が大好きです」
「結婚承諾?」
「いえ。その……でも、これでは、結婚できませんよ?」
そう言って、先程手渡された婚姻届を机の上に広げました。
上にこんいんとどけと大きく書かれていて、そして私たちの名前を書く欄があるのはいいのですが。
でも、その名前を書く欄が相合傘のマークなのはどうかと思うんです。
相合傘で結婚ができますか? 雨の日の男子校は二股三股ありの薔薇の園ですか? そういう学校は非常に創作しやすくて好きですが、それは置いておいて。
私はその字に見覚えがあったのです。
この文字、なんだか猫っぽい筆圧で書かれていますからねぇ。
「ファッキンキャット?」
「はい、私が書きました」
「オゥ、ファッキンキャット」
いい返事ですよ。貴方のそういうところは嫌いじゃないですファッキンキャット。
「仕事が甘い。せめてもっとしっかり書いてくださいよ? でね、こいし。手書きの時点で結婚はできませんし……そう、ちゃんとした書類がないと結婚できないんですよ。この世界」
大体、私たちには障害が多過ぎます。
仮に書類があっても結婚はできませんし。
ですが、これでこいしも諦めてくれるでしょう。
「ええ。それ以前に、私たちは――」
「その書類を取ってきたら結婚してくれるのね!? お燐、行くよ!」
「オゥ、マイシスター。ヒヤリングイヤーを持ってくれまセーン」
誰もいない部屋で、一人披露する片言英会話。
私たちは結婚できない、と言い切る前にこいしはお燐を連れてドアを蹴破ってどこかへ行ってしまいました。
私の部屋は内開きのドアなのに、外に向かって開いています。
今月3回目。折角ですから、ペットに頼んで外開きに作り直しましょう。今日中に。
しかし、こいしはどこに行ってしまったのでしょうか。
お燐。任せましたよ――こいしに何かがあったらお燐の責任。罰を与えましょう。
何もなかったら……ま、アメちゃんくらいは上げてもいいですか、ね。
翌日。
我が地霊殿が誇る最新鋭の時計、さとり腹時計が三時を伝えました。
太陽も月も星もないこの地底の時間なんて適当なものです。
地霊殿では、私が三時だと言えば三時なのですよ。
私が時間。
私が世界。
ビバ、さとりんワールド。
勿論そんなものは地霊殿だけです。旧都の方なら、時を告げる鐘がありますからね。
星熊だかヒグマだかドグラ・マグラだかいう名前の、スカラカチャカポコしそうで2m50cmくらいありそうな鬼が建てた櫓、そして鐘。
十字架を掲げた白塗りの矢倉に金色の鐘は、日本家屋が雑多に立ち並ぶ旧都には実にミスマッチ。
気になった私がクレームをつけたらなんと、今度は洋風の家も作るなどと言いだしやがりまして。
鬼らしく豪快に、をモットーに大きな館を作り上げて、その中で酒を飲んでやる、ですって。そういう問題じゃないんですよ貴方。
まぁいいです。実際、私の腹時計に狂いはない。
三時なう。私はおやつを食べなければなりません。
今日のおやつは、もっさりしたビスケット。最近旧都オープンした頭領・キホーテなる激安ディスカウントストアで投げ売りされていた業務用(1kg入り)。
この無骨な硬さがダージリンに合うんですよね。
ちなみに紅茶もキホーテから。Tパックという、さながら下着の種類の様な形式で売られていました。なにしろ安くて沢山入っているのが好感触。
安いものには安いものを。
高いものには高いものを。
勿論、地霊殿に高級なお菓子だってあります。
しかし、高級なお菓子はこいしと一緒に食べる用。
ペット達につまみ食いされないように、私の知識を余すとこなく使って隠しております。
例えば私の下着入れの中には沢山のおまんじゅう。引き出しの中にはカステラが3本。ベッドの下には薄い本に囲まれた八つ橋。などなど。
極めつけは、私の胸元。ういろうが小分けにして詰まっています。かさ増しかさ増し。
こういうお菓子は足が速いのが弱点故、賞味期限が切れたらペットに横流しです。
余り物を廃棄しながら、ペットから私への好感度が上がるという、一石二鳥ならぬ一饅二獣。
一人のときは食べる気にならないんですよね。私は高級さよりも質実剛健で私に歯向かってくるようなお菓子の方が好きですから。
優しいお菓子よりも、厳しいお菓子を。例えばこの、食べるともさもさする投げ売りビスケットの様な。
「おねーちゃんおねーちゃん」
そして今日もこの幸せなティータイムを彩ろうとして間違ってペンキをぶちまけたかのごとく幸福を上塗りする妹様のご登場です。
皆さま拍手でお出迎えしてください――横に立つ焦燥しきったお燐は華麗にスルー。それが地霊ガールスタイル。
「あらこいし。どうしたのかしら」
「これみて、これ!」
そう言われて差しだされたのは、昨日と同じ種類の封筒。
また手書きの婚約届ですかね。ビスケットを持ったまま封を開きました。
婚姻届でした。
まごうことなき正規品の、マジモンの婚姻届。
わーお。
私選手、流石にこれには驚愕だぁーっ!
あれほど硬かったビスケットを私の貧弱な握力で粉微塵にする程度には動揺を隠せていない!
「……ええとこいし。これは」
「えへへ、取ってきちゃった」
「ワァオ、マイシスターっ! ベリーベリーサプライズドっ!」
しかもこの婚姻届。
何があれかって、よくよくみてみれば私の押すべきハンコ以外のところがすべて埋まっているんですよね。
そう、名前までも。
畜生誰が書いたんだ。読んでやる、読んでやるぞ。
こいしの親のところには、お燐の名前がありますね。こいつがお義母さんになるのですか。ファッキンマザー。あとでお仕置き。
そして、私の親のところには――えーっと。
世帯主:水橋ぱる子
誰だお前は。
誰だよ、ぱる子。
パルスィですらない。
橋姫のようでそうでない。
どう見ても偽名じゃないか。
なんで親子で名字が違うんですか。
私の続き柄が三十四女ってなんですか。
ぱる子とやらはどれだけ子沢山なんですか。
ならばとこいしの続き柄を見てみたら長男ですって。
そりゃまぁどちらかが男にならなくてはいけませんけど。
でも。こいしが男の子になってはいけません。
こいしの下腹部に醜悪なものがあるなんて想像しただけで! 私は! 我慢ができませんよ!
……ふぅ。
さてと、相も変わらずこいしの心はさっぱりです。
ので。あー、こういうときに心の読める都合のいいペットがこいしの横で息絶え絶えになっていませんかね。
「これは一体どういうことですかお燐」
「ぱる子さんに頼んだら、書類を出してくれたんです。こんなこともあろうか、と」
「意味がわからないのですが。どれだけ非常事態に備えているのですか。しかもこんな、何の得にもならなそうな事を」
「ぱる子さん、妬むネタを作って妬むのが好きなんですって。えーっと、ちょっとその姿思いだしますので見てください」
「ファッキンキャット」
渋々サードアイでお燐を見つめてみると。直後、白い歯をきらめかせて笑う一人の橋姫が映り込みました。
『ああ、他人の不幸は蜜の味……なんてどこの中途半端なひねくれものの言葉なのかしら。んな奴らファック&ジェノサイド。一周ひねくれた私にとっちゃ、他人の不幸は早朝の裏路地にぶちまけられたゲル状の何かよりクッソ不味いわ。他人の幸せが蜜の味。その妬ましさでご飯三杯いけるわね』
地味にいい奴じゃないですかぱる子。
もうお前地底から出ていってください……貴方のその優しさは地上でも受け入れられますから、ね?
「ぱる子さんに聞いてみたんです。婚姻届はないか、と。すぐに持ってきて下さったので、三人で書類を埋めてみました」
「ファッキンキャット。なぜ貴方はついて行ったのかアンダースタンド?」
「え、ええと、こいし様をデンジャラスな事から遠ざけるためです!」
確かにそのおかげで事は穏便に過ぎましたが。
そのね。違うでしょう?
貴方は止めるべきだったでしょう?
というかぱる子め。
グランバザールしそうな偽名しやがってこのやろう。
今度会ったら恥ずかしい過去でもほじくり返して、地底にいられなくしてあげます。
太陽がじりじりと輝く地上で体を日焼けさせて、どこかの湖のほとりで男にでもナンパされればいいんですよ。
くっそくっそ、幸せになってしまえ。
「……ねーちゃん、おねーちゃん!」
「あ、ああ、はい、ええと」
「いいよね? ハンコ押してくれるよね?」
こいしの上目遣い。涙目オプション付き。
今すぐ己の指を食い破り、血判を印鑑代わりに押しつけたい!
いや、むしろすでに私は指をくわえていました。私の顎がビスケットの咀嚼に疲れていなければ、私とこいしは晴れて結婚していたでしょう。
しかし私は落ち着かなければなりません。そも、この書類があっても私たちは結婚ができないのですから。
この事実を、なんとかしてこいしに伝えなければ。
「こいし。落ち着いて聞いてください」
「なぁに、お姉ちゃん」
「私たちは姉妹ですよ。まず、姉妹の結婚は認められてません。ね?」
「むぅ……」
ドントクライ、マイシスター。
姉妹でもいいじゃないですか。幸せですよ、姉妹の方が。
それなのに何故。
何故貴方は泣きそうな顔になっているのですか。
「それってさ……も、もし姉妹じゃなければ私たちも結婚できるってこと?」
「仮に私達が姉妹でなくても――まず、私も貴方も女の子でしょう? 女×女は、この国では認められていないのです。悲しいことに、ね」
こいしの頭をなでなで。
かわいい我が妹よ。貴方は貴方のままが一番なのですよ。
(さとり様! そんなことを言うと、こいし様は実際に動いてしまいま――)
「お姉ちゃんのバカバカ! 大好き!」
お燐からの警告、そしてこいしの非難と告白を織り込んだ捨て台詞。
気がつけば、こいしもお燐もそこからいなくなってしまいました。
先程までこいしの髪を撫でていた手のひらは所在なく空を切ります。
部屋に一人残る私。近づいてくる、一抹の不安。
嫌な予感を紅茶で流しこんで、私は一つため息をつきました。
そしてまた、見えないところで日が進む。
今日も今日とてティータイム。
抱いていたはずの不安は、一晩経った結果、まるで口の中に入れた生チョコレートのようにとろけて消えて行ってしまいました。
そう、今日はチョコレートデー。
チョコレートを食べるだけの日。
意中の人にチョコレートを上げるという、冬場にチョコレートを売り出そうとしたお菓子屋の陰謀に巻き込まれた某日とは関係ありません。
お菓子屋も何となく決めたのでしょうが、欲望がダダ漏れです。対して、私はそこに下心など全くない。
その代わりに、何となくチョコレートを欲した私の脳内会議と、敗れ去ったクッキー派が頭の隅で泣いている現状だけがあります。
甘いぞクッキー派。そうすぐに出番が回ってくるとは思わないことですよ。
本当は生チョコでなくてもよかったのですが、賞味期限が迫っていたので仕方なく生チョコレートを食べています。
チョコレートは、動物には害がありますからね。
前にお燐に食べさせた結果、涙を流しながらAA>B猫パンチ>8Hj>j6A>j5B>j6C>着地>B猫キック>キャッツウォークのコンボを私に叩き込んできました。痛かったです。
あれ以来、チョコレートは残念ながら私かこいしが食べることになりました。
そう、こいし。
こいしにお燐までつけている今の状態は、さながら黄門様にスケさんが付いている状態。
古明地の名字という紋所により、誰も手出ししないし手出しができないでしょう。
カクさんは残念ながら、三歩あるけばすべてを忘れてしまう体質故、欠席です。もし仕事中のお空に話しかけるでもしたら、その瞬間そちらに意識が飛んでしまい、何をしていたのかさっぱり忘れてしまいますからね。
昨日、私の親をぱる子でなくお空に設定して印鑑をもらいに行っていたら、今頃地霊殿はオンファイア。核の炎でさよなら地霊殿。
まさに危機一髪、爆発オチをすれすれで回避しました。
さて、紅茶を一口飲んで……と。そろそろですね。
二度あることは三度ある、きっとこいしが来るでしょうし、何があっても驚かない準備をしておかなければなりません。
優雅な姉でありましょう。
チョコレートを口に含み――うっ知覚過敏――カップを片手に、そのときを待ちましょう。
心の準備はできてます。この私がまた仰天することなんて、万に一つもないでしょう。
「ねぇねぇ、今日は大事な事を伝えにきたんだ」
なんとびっくり、一瞬で敗北しました。歴史は繰り返すのです。
取り落として砕け散るカップ、開いた口からたらりと垂れるチョコレートと唾液の混ざった古明地汁。
魅惑のソプラノボイスを使って後ろから耳元で囁いた謎の少年が、私の目の前にその全貌を見せます。
「はぁい」
こいしでした。
知ってた。
「こいし?」
「ノンノン。今までの私……ボクじゃないの、だぜ」
もし私が血気盛んな妖怪でしたら、鼻から真っ赤なシスコンビームを放っていたことでしょう。
常に血が足りていない故、そんなことをしてしまえば即命にかかわるのですが。
いやでも鼻血垂れてきた。やっばい。
パリッとした白いタキシードに身を包み、いつもの帽子をシルクハットに変え、青いバラを咥えてポーズを決めているこいし。超かっこいい。
「ヤザワスタイルだぜ」
「ワァオ……すっごく永吉……」
じゃなくて。
何故こいしはそんな恰好をしているんでしょうか。見当もつかない。
こういうときにお燐が便利なんですよね――あらお燐、ちょうどいいところに。
わたくし、こうなった理由を聞きたいのですわ。ところで貴方、どうしてそんなわざとらしいつけひげを付けているのです?
ハンカチで口元と鼻血をぬぐって、何故かつけひげをつけているお燐に声をかけようとしました。
しかしできませんでした。
こいしが顔を掴んで無理やり視線を合わせてきたからです。
視界いっぱいのこいし。やばい、かわいい、かっこいい。そして、息がかかるほどの至近距離!
「ちょ、ちょっとこいし? 落ち着い――」
「さとり。ボクと結婚しよう」
今の聞きましたか、今の。さとり、ですって。
さとり。
イッツ、マイネーム。
こいしが私の名前を呼び捨てでコール。
こうかはばつぐんだ!
一瞬意識が暗転して、しかしさらに近づいてくるこいしの甘い吐息に目が覚まされます。
はっはぁん。
こいし。
さては貴方、キスをしようとしてますね。
……キス?
え、ホントに?
マジで?
いやはや少し待っていただきたい。
今現在、私の心は地霊殿を離れて地殻を突き破り、地上まで登って行っています。
キスなんてされた日には、もう私の魂ごと飛び出して行って二度と帰ってきません。
ですから、どうか私に慣れる時間をください。
「こいし、もう一回私を呼んで」
「さとり」
「もう一回」
「さとり」
「ワンモア!」
「さとりっ!」
これはもうヘヴン状態ですわ。
お姉ちゃん感涙。両目とサードアイと、ほか数か所がびっしょびしょです。
私の心が天界まで上り詰めて、天人に挨拶してきました。
やぁ胸ない族のお方。ういろうでごまかさないといけないくらい私にも胸はありませんが、その代わり奥の奥まで妹からの愛で詰まってるんですよ。おやおや悔しそうですね、ふふふ。
スロットで777がそろったかのように、お姉ちゃんフィーバーですよ。下からじゃんじゃんアレが出て来ています。
ふぅ……もう何も怖くない。
「じゃあ一回お姉ちゃんを挟んでみましょう」
「ごめんねさとり。もう僕はお姉ちゃんの妹じゃないんだ」
死のう。
よし死のう。
四倍弱点効果抜群急所命中。
天界から垂直落下する私の心に向かって、胸ない族がいやらしい笑顔でハンカチを振っていました。
そのまま地殻をぶち破り、地霊殿の私の元へ帰ってくる心。帰ってきてそうそう口から抜けていく魂。ああもう駄目だ。
「こいしが……こいしが……」
「じゃ、そのお口はもらっていくよ」
こいしがヤザワの永吉さんスタイルなら、こちらはヒカワのきよしさんスタイル。
絶望のどん底。ダンシングズンドコ節。
どん底とずんどこって似てますからね。
ははは。寒い。面白みの欠片もない。
こいしに唇が奪われている感触はあるのですが、嬉しいことのはずなのになぜか感情が通いません。
燃え尽きたぜ。真っ白にな。そんな気分です。
「さとりや」
ここで無慈悲にもお燐がコンボを決めてくるッ!
ああ、お燐が私を呼び捨てにするようになってしまった。
これはもう駄目だ。帰ってこれない。オウチ帰りたい。ここオウチ違う。イエジャナーイ!
「わしの心を読んでくだされ。何があったのか見えますじゃろ」
……こいつ本当にお燐なのですか?
お燐の皮を被った旧都三丁目の田中さんじゃないのですか?
しかし見た目はつけひげ以外いつものお燐。
もう何もわからない。
読心するしかない。
満足げな笑顔のこいしに渡されたいくつかの書類と一緒に、私は死にかけの脳をフル回転させました。
(こいし様は、男の子になって、しかも養子縁組で姉妹じゃなくなれば結婚できると考えたそうじゃ)
とりあえず口調を戻しやがれですよファッキンキャット。
田中さんだかお燐だかわからなくなってるじゃないですか。
つまり田中燐ですか。実在しうる名前ですねってそうじゃない。
今考えるべきはまだ見ぬ田中燐さんのことではなく、永吉と化したこいしの事です。
「養子……縁組?」
「その書類を提出すれば、晴れて火焔猫こいしになるというわけですじゃ」
「認めませんよッ!」
その悲鳴は、予想以上に大きな声で部屋に響き渡りました。
こんな声を出すのは数十年ぶり。
声帯が悲鳴を上げています、二重の意味で。
でも、それほどに認めがたいのです。
なぜなら、古明地こいしという名前は、これはもう完成しきった一番美しい形だからです。
火焔猫みたいな平仮名にすると長い名字は、名前が二文字くらいの人につけるのがちょうどいいのです。
名字四字、名前三字。
シンプルかつ美しい形態。これを私は守りたいのですよ。
「ちなみにさとりの分もあるのじゃよ。水橋さとりに」
「なるわけないでしょうッ!」
水橋さとり。なんですかこのどこにでもいそうな女子高生みたいな名前。
いそうでいないギリギリのラインを攻めていますね。
少なくとも田中燐のような外角高めのストライク三振アウトではなく、審判も悩むようなまさしくグレーゾーン。
「で、お姉……さとり。折角男になったんだし、もちろん結婚してくれるよね?」
「ちょっとまってこいし」
ここで私の脳裏に嫌な予感が流れ始めました。
慌てて書類を見返します。
……ここにある書類は、養子縁組と婚姻届。性別云々の書類はありません。
だが、こいしは。
こいしは男になったと言っているのです。
昨日の時点では、まだ女の子女の子してました。女子力の塊でした。
でも、今はイケメンこいし。
――もし、こいしに生えていたとしたら。
何が生えるかって?
そりゃ、サードアイならぬサードスティックですよ。仮にこいし棒とでもしましょうか。
こいしの体にスティックなんて!
やっぱり認められませんよ!
そういう世界観はベッドの下の薄い本の中だけです! ちなみに著者は私!
こうなってしまえば、確認するしかないっ!
「失礼ッ!」
「やんっ」
私の腕がこいしの股に一直線。
スーツの上から、手ですりすり、すりすり。
優しく撫でるように、そして時折強くその奥地へ忍び込もうとするように、撫で上げます。
「あ、あんっ」
そしておまけにもう一つすりすり。
……ふぅ。
大丈夫、妙な海綿体の付着は確認されませんでした!
(こいし様の体には傷一つつけてませんよ!)
「ナイスです、流石お燐!」
今度褒美をくれてやりましょう。
流石にアメちゃんではかわいそうですね。いい死体でも手配できればいいのですが。
(で。ここまでしたんですから、結婚してあげてください。ね?)
「……って違うんですよぉ!」
私は立ち上がりました。
手もとの書類をまとめて縦に破り……破り……くっ力がたりないっ。
破ろうとしてくしゃりとまがった書類を、床に思いっきり叩きつけます。
「お、お姉ちゃん……ダメ、なの?」
こいしの口調が戻ってきました。
これでこそこいしですよ。
さぁ、こいし。妹となって、私のところに戻ってきてください。
「こいし……私は貴方とは結婚できません」
姉妹ですから。
夫婦なんかよりも強いつながりで結ばれていますから。
だから、結婚なんてする必要が無い――笑顔で迎えてあげようとしました。
「……そう」
だというのに、帰ってきた返事は冷たいものでした。
その眼には、溢れんばかりの涙。
「こ、こいし?」
「やっぱりお姉ちゃんは私の事なんて嫌いなんだね。ごめんね。もうこんなこと言わないからね」
「こいし、それは違いま――まって!」
えぐえぐと泣きながら、こいしは扉に向かってフラフラと歩いて行きました。
違う、違うという文字が、脳内でグァングァンと反響します。
どこで間違えてしまったのか。立ちあがって追いかけようとする私の前に一つ立ちふさがる影がありました。
「お燐! 今はこいしを――ッ」
「さとり様、失礼します」
そっとつけひげを外しながら、お燐は私の頬を思いきりグーで殴りつけました。
容赦のない一撃。気がつけば私の体は宙を舞い、床に思いきり叩きつけられました。
一瞬何が起きたのか理解できませんでした。
だけれども、頬の痛みと口内にしみわたる血の味が、これが現実だと如実に伝えてくるのです。
「お燐……貴方」
「僭越だから述べさせていただきますが、さとり様は、心を読むのに慣れ過ぎてやがるのですよ!」
その声は、けして大きくはありませんでしたが。私達――私とこいしの体を制止させるのに、十分な意味がありました。
だけれども、私には言われている事が、さっぱりわからない。
心を読もうにも、お燐の心に有るのは純粋な私への怒りだけ。ぐちゃぐちゃとしていて、何も読みとれません。
「……それは、一体」「お燐、言わないで」
私とこいしの声が重なります。
一体何を隠そうとしているのか。私はいったい何をしてしまったのか。
お燐はこちらを睨みつけています。その瞳からは、一縷の希望を感じ取ることができました。
おそらく、私に分かってほしいのでしょう。しかし私には分からないのです。
静かに首を横に振る私の胸倉を、お燐が掴み上げました。
「こいし様の結婚したい……が! 社会一般的に言う結婚したいと同じだと思ってるんですか!?」
「……つまり?」
「まだ分からないんですか!? この大馬鹿! こいし様がやりたかったのは、書類による結婚の受理なんかじゃない……さとり様と二人で――」
「お燐!」
こいしの悲痛な叫び声が、お燐の言葉を遮りました。
お燐の心が穏やかに震え、私から手を離します。
その心の中では、溢れそうな怒りをもどかしげに抑え込んで冷静さを保とうとしていました。
そして、解放された私は、床にへたりこむことしか出来ません。
「……こいし様!」
「いいの。私は拒絶されちゃったんだから。もうこうなったら、私が私でなくなるしかないのかな。古明地こいしじゃなかったら、受け入れてくれるのかな」
こちらを振り返るこいしの瞳はどこまでも深く絶望の色に染まり、光をなくしていました。
流れ落ちる涙が頬を伝わり、床に滴り落ちていきます。
「違います! 私はこいしが――」「こいし様! さとり様は貴方が――」
「……そうだよね。どうなっても受け入れてくれないんだよね。知ってる」
ああ、これはダメだ。
お燐の声も、私の声も、届かない。
一目散に駆け出すこいしを見て、ようやく私の体の硬直が解けました。
もし無意識の力を使われてしまえば、こいしはどこかへ行ってしまう。
二度と私達の手の届かないところへ。そして、最悪こいしがこいしでなくなってしまう。
「さとり様、私がドアを――」
「ええ、早く……そうすれば……」
ドアがあかないように、押せば。ここのドアは内開きだから――
『折角ですから、ペットに頼んで外開きに作り直しましょう』
数日前の私の呟きが脳裏をよぎりました。
あの日中に、ドアは外開きになっていました。
「こいしッ!」
たまらず、叫びが口からこぼれ出ました。
私と、そしてお燐の心の中に絶望が広がって行きました。
もう駄目なんだ。あれもこれも私のせいだ。
私の勘違いが……いつもの、他愛のないこいしの奇行だと思っていた私の責任だ。
でも、もう届かない。間に合わない。
この部屋の外に行かれてしまえば、私の力では見つけることができない。
ああ、もうこいしはドアの前にいる。
お燐も、こいしを捕まえるには至らない。私はまだ全然。こんなときに、私自身のひ弱さが恨まれる。
ここまで、ですか。
こいしはタックルの構えを取りました。
私と違い、その身一つで内開きのドアを突き破るこいしなら、こいしなら、タックルで外開きのドアを開くなんて造作もない事。
臆病にも私は、目をつむってしまいました。何の解決にもならないのに。
私はこいしを助けることを諦めてしまったのです。
再び目を開けるときには、そこにこいしはいないでしょう。
こみあげてくる涙が頬を濡らし、私は己の馬鹿さ加減を恨みました。
ごめんなさい、こいし――
「なんで!?」
――こいしの叫びで、私はもう一度目を開きました。
こいしは、何やらドアの前で立ちつくしています。
追いついたお燐がこいしの体を抱きかかえながら、こちらに手招き……ですけど。お燐の心もまた疑問で埋まっている。
間に合わなかったはずなのに。
(どうやらドアが開かなかいのです)
お燐が、伝えてくれました。
でも、なぜ?
「どうして、どうしてよ!」
涙を流しながら、こいしはドアを殴りつけます。
しかし、ドアは開かない。
理由は分かりませんが、これは絶好のチャンスです。
逃せば二度と来ないであろうこの好機。
私はこいしの元まですんなりとたどり着いて、お燐に代わってそっと体を抱き寄せました。
抵抗されるかと思いきや、こいしはすんなりと腕の中に収まります。
微かな暖かさが、私の手の中に確かにありました。
(諦めてんじゃないよ、馬鹿)
小さな声とともに、外から小さな笑い声と足音が聞こえました。
そこらへんのペットは喋りません。お空ならば、この時間は仕事をしているはず。
なら、今のはいったい誰なのか。
暫し呆然とする私達三人。
部屋に満ちる沈黙は、腕の中のこいしの声で破られました。
「……お姉ちゃん」
「あ、ご、ごめんなさい」
どうやら、強く抱きしめすぎたようで。こいしが苦しそうな声を漏らします。
慌てて腕を緩めて――でも、緩めるだけに留めます。
けして放しはしません。二度と、離しません。
「こいし」
「……なぁに」
「本当にごめんなさい。私は貴方の気持ちに気付かなかった」
「……私もごめんなさい。無茶言っちゃって……出来の悪い妹で」
涙は止まっていましたが、それでも、どこか沈んでいるような顔立ち。
私と目を合わせようともしない。
こういうこいしもかわいいけれども、でも、すごく心が締め付けられる。
すると、今私に出来ることはきっと一つしかない。
……今ならきっと。
今しか、きっと。
「こいし、ねぇこいし」
「なぁに」
「一つ、お願いを聞いてくれませんか」
「……なぁに」
「結婚してください」
同時に、そっと唇を奪いました。
先程とは違い、今度はしっかりとした感触を感じられます。
(わぁおっ! キスだ! 古明地キッスだ!)
うるさい外野は、サードアイだけで睨みつけました。
何しろ私の両目は、こいしを見つめるのに忙しいですから。
キスは軽く触れるだけのものですが、これで、きっと、想いが、伝わって。
「ダメ、ですか?」
「……ダメなわけないじゃん。もう」
涙痕をこすりながら、こいしは可愛く笑います。
やはり、こいしは笑顔が一番。心から、私はそう思いました。
「……お姉ちゃん」
「はい、こいし」
「大好きだよ、お姉ちゃん!」
ぼっちお空は僕がもらっていきますぬ
これは長かった。
勿論一番目は作者様です。
こういうよく分からん謎のシュールとも言えないギャグ、好きですね。
ところどころ若干滑ってる気がしないでもないですが、それがまたいい。
勝手な考えですが、もっとこういうの読んでみたいですねー。