【前回のストーリー】
オリヴィアはヴァチカン教会の異端狩り代行者である。
そんな彼女には1つの悩みがあった。それはいつものように見る、謎の少女との夢。
その少女が何者なのか、何故夢に見るのか。
オリヴィアには全く分からなかったのだ。
1968年2月、彼女は指令により南ベトナムの都市"フエ"へ向かった。
任務は吸血鬼"レミリア・スカーレット"に関する情報を持つ亡命者の保護。
折しも現地では、北ベトナム軍によるテト攻勢が行われ、その戦火はフエにまで及んでいた。
ベトコンとの死闘の末、なんとか待ち合わせ場所に辿りつくも、既に亡命者は死亡。
それでも、レミリアについて書かれた論文を入手することには成功する。
だがそこに書かれた"祖国を守る槍作戦"の文字を目にした時――――
彼女は夢の少女を想起した。
そしてその少女が吸血鬼、レミリア・スカーレットであることを知る。
その瞬間、オリヴィアは激しい衝動に駆られた。
――――レミリアに会いたい。
これは幻か、現実か。彼女には分からなかった。
だが自身を覆う渇望だけは本物だった。
米軍と協力し、ベトコンの包囲を脱出したオリヴィアは、さらなる手掛かりが香港の九龍城にあることを知る。
情報では、そこに祖国を守る槍作戦の中心人物であった、ニコライ博士の部下がいるとのこと。だがその人物は、闇兵器ビジネスで荒稼ぎをしているマッドサイエンティストだった。
それでもオリヴィアは九龍に向かう。
レミリアに会いたい。その想いが彼女の全てだったのだ。
しかしそんな彼女を、上司であるベロッキオは密かに訝しんでいた。
九龍城には雨が降りしきっていた。辺りに所狭しとひしめき合うビル群は無数の灯りを宿し、頭上のトタン屋根からは雨水が途切れることなく流れ落ちている。
私は雨に身を打たれながら、建物の合間を縫うように伸びる、細く暗い路地を歩いていた。
頬にべっとりと髪が張り付き、黒のオーバーコートの端々から雨水が滴り落ちている。降りしきる雨は凍える程に冷たく、指先はかじかんでチクチクした。傘を差したいと思ったが、こんな狭い路地で傘を差した時の無防備さを考えたら、まだ寒い方が精神的には健康だった。それに、イワノフの根城までは後少しだ。
ふと雨にけぶる路地の先で、泥水に塗れた子供たちが水たまりを蹴り上げて遊んでいた。元気なものだ。私は思わず目を細めて、はしゃぎ回る彼らを眺めた。
――――私も、本当にあんな笑顔をレミリアの前で浮かべていたのだろうか……。二人きりの時間の中で。
はっと我に帰った。
思わず感傷に浸ってしまったが、今はそんな時ではない。たとえ向こうが私の存在に気付いていなくても、標的が近くにいる以上、油断は禁物なのだ。今はレミリアの手掛かりを手に入れることだけに専念せねば。
しかしこの私が感傷的になるだなんて。我ながら珍しい。でもまあ、相手がレミリアならしょうがないかも知れない。
私の全てが求めているのだから。
レミリアとの再会を――――
やがて目指すビルが見えて来る。ビルは真っ暗で周囲の建物より高く、その黒々とした姿がビル群の中で際立っていた。
このビルの最上階の部屋に研究者はいる。北側の一番奥の部屋にだ。
ドアの前で足を止めて錆び付いた扉をゆっくり押しあける。そして念のためにその隙間から中を窺った。中は暗いホールで、天井からつり下げられた蛍光灯が吹きこんだ風に揺れる。人気はなく安全そうだが、闇商人の根城だけあって怪しげな雰囲気が漂っていた。
ホールの中へ足を踏み入れて静かにドアを閉じた。すると辺りは真っ暗な闇へ堕ちる。だが一か所だけ、ほっそりした光の縦線が暗闇の中に浮かび上がっていた。あれはきっとドアの隙間だ。そこへ歩み寄ると右手を突き出して押してみる。すると案の定ドアが押し開き、吹き抜けの階段に出た。辺りは僅かに明るく、けれど螺旋階段の奥に行くほど闇は濃さを増している。
その階段を最上階目指して登り始めると、靴底が階段を叩くカツカツとした音が辺りに反響する。そしてしばらくすると最上階の廊下に出た。そこも灯りに乏しく、窓から差し込む外の光が廊下を青に落としている。私は廊下を進んだ。時折、雷光が瞬いて辺りを白く照らした。
やがて一番奥に鉄製の扉が見えて来た。あの部屋がイワノフのラボだろう。さて本人は「ご在宅」だろうか……。
ドアの前に立ってノックする。そしてしばらく待っていると、不意にドアの覗き戸が引き開けられて中からやつれた顔の中国人男性が顔を見せた。
「イーゴリ・イワノフ博士はいる? 」
一瞬、彼の眉がピクリと動き、併せて頬の肉も引き攣ったのを私は見逃さなかった。そして彼の目が盗み見るように背後へ流され、すぐまた私を見つめると目を細めて睨んだ。
「誰だお前」
脅すような低い声には警戒心が滲み出ていて、もうここにイワノフがいると言っているようなモノだった。
「彼に会って聞きたい事があるの。この扉を開けて頂戴」
「そんなヤツここにはいない。さっさと消えろ」
ピシャリと覗き戸が閉じられた。私は髪を掻きあげ、水滴を払う。ご在宅らしいが会うことは無理なようだ。ならば仕方ない。
――――実力行使だ。
ドアを蹴り飛ばす。周りの枠が砕けて部屋の中へと吹き飛び、先程の男がドアの下敷きになって倒れる。私は両手をオーバーコートの胸裏に突っ込み、ショルダーホルスターから二丁のFNハイパワーを引き抜いて撃鉄を起こす。
「怎公了?!(おい、どうした?!)」
そして玄関に飛び出してきた2人の男に構えると、撃つ。彼らは背後に吹っ飛び床に広がった。
玄関から薄暗い廊下へ踏み込む。角を曲がろうとした瞬間、鼻先を大量の銃弾が掠め、咄嗟に私は壁に張り付く。だが銃撃は続き、放たれた銃弾が次々と周囲の壁にめり込んで破片を撒き散らし、廊下に白い埃を巻き上げていく。
チンピラの割には意外な火力だ。だが所詮は素人。撃ちまくっても弾が当たらねば意味はない。ポケットの中に手を突っ込み、紅いOTO M35型手榴弾を取り出すと握る。
そして銃撃が止んだ。
「成是?!(やったか?! )」
教えてやろう。
親指でピンを抜き、素早く廊下に放り投げて壁に身を押し付ける。
「手、手榴弾!!出走…(グ、グレネードだ!! にげ……)」
爆音が轟き、傍らをコンクリートの欠片が飛んでいく。今日の紅い悪魔はすこぶる機嫌が良かったらしい、まあ私が丁寧に整備していたからなのだが。
ハイパワーを構えて飛び出した。埃が厚く舞い、その奥で血を流したチンピラ達がよろよろと立ち上がって銃を構える。私もハイパワーを構え、ノロマなそれを撃ち倒していく。その時だ。雷光が目の前の床に黒々とした人の影を浮かび上がらせた。その影は2つ、すなわち Enemy is back――――……
素早く横へ跳び退く。直後、白い刃が耳元を掠める。
右手のハイパワーで背後の男の膝を撃った。彼が呻き声を上げて片膝を付き、振り返りざまにその顎に強烈なヒザ蹴りを叩きこむと、グシャッ! と言う音と共に彼は宙を仰いで口から鮮血を噴射する。
背後でドアが蹴り開けられた。私は倒れかけた男の身体を抱きしめて、一緒にくるりと180度回転。彼らに向けて盾にする。2人の男がドアの中からMP40を乱射する。だが弾は全て男の身体に吸い込まれ、私は彼の両腋からハイパワーを突き出し彼らへ乱射する。二人は9mm弾を次々と喰らいトリガーを引いたまま倒れる。飛び出した弾があちらこちらに飛びまわってめり込む。
やがて弾雨が止むと辺りを静寂が包んだ。私は抱きしめていた男の身体を放り出すと、蹴り開けられたドアの方へ歩み寄った。奥に大量の機材やボンベが立ち並んでいるのが見える。きっと実験室か何かだろう。あの部屋に研究者がいるかもしれない。
私はハイパワーを構えると、ドアの中へゆっくり足を踏み入れた。
室内に人の姿はない。だが変だ。雨音が流れて風が吹きこんでいる。……窓が開いているのか?
怪訝に思って窓を探すとその一つが開いていた。そしてそこから身を乗り出して、路地を見下ろしてみる。
すると白衣を纏ったイゴーリ・イワノフが壁の配管に手を掛けて滑り落ちていた。そして彼は路地に着地するなり、停めてあった自転車に飛び乗ると漕ぎ出した。
「逃げ足の速いヤツね……」
逃げ足に自転車を使うとは考えたものだ……。小回りが利くから狭い路地をスムーズに逃走出来るし、なにより人間の足では追いつけない。
いっそ撃って彼の動きを止めるか? この距離からなら取り敢えず弾を当てることは出来る。……いやダメだ。それではリスクが大き過ぎる。急所に当ててしまったら取り返しが付かない……。だがこのまま逃がすよりは一か八やってみたほうが――――――――
ふと隣のビルの屋上が目に入った。その屋上はずっと下の位置にあり、そしてビルの向こうにはいくつも建物の屋上が密集している。そしてその合間の路地を、イワノフが自転車で走り抜けていく。
私は直観した。
――――密集した屋上を飛び移って行けば、イワノフを追える。下の道を走るのと比べ、遥かにショートカットが出来るはずだから。さらには高い所から見下ろすことで、彼の進行方向も把握できる。
周囲を見渡すと、梯子の掛けられた天蓋窓が目に入った。私はハイパワーをホルスターに収めると、梯子に飛び掛かってよじ登る。そして天蓋窓を押し開けると、身を乗り出した。
轟音。そして嵐のような風圧。頭上を旅客機が、その黒く大きな胴体を見せながら跳び抜けて行く。周囲で雨水が噴き上がり、ガラスやビルが鳴動する。
私は屋上に這い出ると走り出す。そして鉄柵を跳び越えて、トタン屋根を駆け下りる。冷たい横殴りの雨が頬と身体に叩きつけられる。
そしてトタン屋根から勢い良く跳び出した。浮遊感。耳元で風が唸り、眼前へ灰色の屋上が迫って来る。そして次第にそれは霞んでいく――――
ドカッ!!
着地。
激痛が足裏から全身を駆け抜け、凄まじい衝撃に水たまりの上を転げ回る。雨水が跳ね上がり、身体が何度も地面に叩きつけられる。
だがなんのことはない。すぐさま起き上がり、息を吐いて腕で顔の泥水を拭う。下の路地をイワノフが自転車のハンドルを巧みに操りながら走り抜けていくのが見えた。私も地面を蹴って走り出すと、次々とビルの間を跳躍して飛び移って行く。
突如、研究者は路地を右に曲がると通りを横切って道端の路地に入って行く。その通りの幅は今までよりも遥かに大きく、向かい側のビルは遠い。だが彼を追い続けるためにはその通りを跳び越さなければならない。
やるしかない!
屋上を蹴って、矢のように虚空に跳び出す。視界がスローに。私は手足をもがいた。そして鉄柵が目の前に迫る――――
「――――っ!! 」
咄嗟にその鉄柵へ腕を伸ばす。
指先が触れ、身体を捻るとそこから強引に鉄柵を掴んだ。身体が壁に打ち付けられて宙づりになる。すかさずもう一方の手で鉄柵を掴み、壁に足を押し付けて鉄柵を跳び越える。
向かい側に高層ビルの窓がいくつも並んでいる。ヒーロー気分と行こう。私は窓に向かって突っ走り、そのうちの一つ目掛けて跳ぶ。
ガシャァン!!
窓が突き破られ、私は破片を撒き散らしながら室内に降り立つ。すると悲鳴が上がり、裸の男女がベットの上から跳ね起きる。
「是什公女人?!(な、なんだこの女?! )」
男が顔を真っ青にしながら叫ぶ。
一方の女は、怒鳴りながら枕や小物を投げつけ、私はそれを左手で払いのけながらドアを蹴り開けて廊下に出た。そして窓から外を見渡す。
すると向かい側のビルの前に、イワノフの自転車が乗り捨てられていた。
見付けた。拳で窓を叩き割り、外に飛び出すと配管に片手を掛けて滑り降りる。
路地へ降り立つと右手でハイパワーを抜いて握る。そしてビルへ歩み寄り、そのドアを蹴り開ける。床の上には濡れた靴痕や滴り落ちた水滴があり、奥の階段に向かって伸びている。イワノフがここを通った痕だろう。それを辿って階段を登り4階へと至ると廊下を突進する。やがて開け放たれたドアが見えて来て、その中から騒がしい音がしていた。イワノフはあの部屋にいそうだ。
ドアの中へ踏み込む。そこは狭いワンルームで、イワノフがこちらに背を向けながら引き出しの中身をベットにぶちまけている。彼は小さく太った身体つきだった。私はその背中へと歩み寄る。
「おい、リビアへの渡航許可書はどこにいった?! さっさと見付けろ!! あいつがここに来ない保障は――――」
机を漁っていた別の白衣が私に気付いた。
「イ、イワノフ!! 後ろだ!!後ろにいやがる!! 」
男が私を指さして叫んだがもう遅い。
ハッと振り返ったイワノフの顔面をハイパワーのスライドで殴る。彼は悲鳴をあげて床に倒れ、白衣の男が慌てて机の上のトカレフを掴み、私に向ける。反射的に私は右手のハイパワーをその彼に向け、引き金を振り絞る。吐き出された弾達が身体を抉り、白衣の男は真っ赤な血飛沫を上げる。ハイパワーがホールドオープン。その隙にイワノフが起き上がって逃げようとする。なのでその襟首を掴んでベットの上に引き倒す。そして彼と向かい合うと、見降ろした――――
「ま、まて!! 話を聞け!! 」
彼は慌てて跳ね起きると、両手を広げて突き出した。
「は、話しを聞け!! 金ならいくらでもやるから!! 」
イワノフは必死の形相で喚き散らした。しかし私には至極どうでも良いこと。故にそれを聞き流しながら、金属音をたててハイパワーをリロードする。
「米ドル、日本円、マルク、フラン、ルーブル、ポンド、なんでも持ってるぞ!! ふ、不動産だってある! イタリアのタラモーネの別荘、N.Yの高級マンション!! 金だけじゃない! 好きな場所に住まわせてやる!! 」
そしてスライドストップを押し上げて、カチャッとスライドを戻した。
「お前だって欲しいもんはいくらでもあるだろ!! 俺ならなんでも叶えてやる!! だから止めろ!! 銃を降ろせ――――」
「煩い」
ハイパワーをイワノフの股間に向けて一発。
股間の手前で布団が弾け、中から真っ白な羽毛が噴き出て辺りに舞い散る。イワノフは声を詰まらせ、カタツムリのように一気に身を竦ませた。
私はベットに膝を付いて上がった。そしてイワノフに覆いかぶさると、その額に銃口を押しあてた。イワノフの表情は硬く強張り、その瞳は弱々しい光を湛えていた。
さぁ、さっさと吐かせてしまおう。さっきまでの乱痴気騒ぎに、ここの人間達は気付いているはずだ。長居は得策ではない。
「イゴーリ・イワノフね? ソ連軍時代、ニコライ・ヴィノグラードフ博士の部下だった」
その言葉を聞いた途端、イワノフの顔からみるみるうちに血の気が退いて行く。どうやら私は彼の古傷を抉ったようだ。それも相当の膿を孕んだ傷を。
「彼を知ってるのね」
「……し、知らん……。そ、そんなヤツ……」
彼の頭をパイパワーの銃把で殴った。デコが切れて流れ出た血がシーツに赤いシミを作り、イワノフは目を回す。しょうもない嘘を吐きやがって。まあいい。話を進めよう。私は彼の胸倉を掴むと、身体を上下に強く揺すって目を覚まさせてやる。そして顔を鼻先まで近付けると言った。
「ニコライ・ヴォノグラードフ博士について教えなさい」
「……な、なら……条件がある。教えろ! どうやって、この場所を割り出したんだ?! どうしてそれを知ってるんだ?! 」
生意気にも条件を提示して来やがった。自分の情報が漏れたことがよっぽど気掛かりらしい。正体がばれては稼業に支障が出るのだろう。だがダニエルの正体をばらして彼の商売をあがったりにする訳にはいかないし、故にそれが口を割る条件ならば、代わりの条件を呑んでもらうしかない。
私は彼の胸倉を掴んだまま、そのビヤ樽のように肥え太った身体をベッドから引き摺り下ろした。
「お、おい!! なっ、何ををする!! 」
そして体勢を崩しながら、よたよたと後に続いた彼を、色褪せた木枠の椅子に乱暴に座らせる。
そしてハイパワーをホスルターに収めると、机の上の「大吟醸」と書かれた酒瓶を引っ掴んだ。中には透明な液体が満タンだ。酒瓶の蓋を開けると、芳しいアルコールと米の香りがした。
「な、なにを……あ、あが」
イワノフの口に指先を突っ込んで、ムンクのように引き開ける。そして彼の咥内に酒瓶の先端を押し込む。柔らかい舌や咥内、両顎の歯を透明で厚みのある酒瓶が押しのけて行く触感は、まるで大量のピンポン玉を飲み込むような錯感をこちらにも与えてくる。そして酒瓶を喉元まで咥え込ませると、その底を手で押えた。
「ごほっ ぐほっ、ぐほっ」
瓶の中から容赦なく流し込まれる酒に、イワノフは顔をくしゃくしゃにして噎せかえる。酒が飲み込めず、さらには気管に流れ込んでいるのだろう。酒と涎が辺りに飛び散った。あんぐりと開いた口に、大きな酒瓶をまるごと突っ込まれたその姿はまさにキングコブラ。実にシュールだ。
不意に彼の両手が私の酒瓶を押える腕を掴んだ。
「私がいつ止めて良いって言った? 」
押さえる手に力を加えて、ぐりぐりと捻じる。すると酒瓶が何かをごりごりと押し磨る感覚がした。イワノフは白目を剥きながらおぇおぇと嗚咽を挙げる。その両手がじたばたと宙を掻いた。
やがて瓶が空になった。イワノフは全身酒塗れになりながら、胸を上下させて荒い鼻息をした。
なので酒瓶から手を離し、今度は踏み出して勢いをつけると彼の右頬を殴る。ごりっと歯が折れる感触がして、めり込んだ拳が咥内に咥え込まれた瓶を叩き割る。イワノフの口から、血の混じったアルコールが噴水のように飛び出す。だがすかさず二発目を右頬に叩きこむ。今度は咥内でぐちゃっと生々しい音がして、瓶が落ちて床で粉々に砕け散った。
イワノフは苦しそうに呻き声を上げながら、血の混じったアルコールとガラスの破片を床に吐く。これで理解できただろう、こっちの本気を。
「お願いしてるんじゃないの」
イワノフの髪を鷲掴むと顔に近付ける。そして言った。
「吐け。これは命令だ」
イワノフの顔は強張り、唇は震えていた。
「だ、だが、そん、なことをしても……俺が、吐かないとあんたが困るぞ! 」
そしてなんとか口を開けると、彼はどもりながら言葉を紡ぐ。
「ええ、そうね」
どんなに怖れ慄いていたとしても、その言葉だけではハッタリではない。ボードの上の条件だけは対等なのだ。
だがコイツは重大なことを2つ、見落としている。1つ目は、私がそんなことくらいで弱気になるような三流エージェントでは無いこと。そして2つ目は、ルビャンカやラングレーの常識とは違った、カソリック独自のやり方を私が信奉していることだ。
つまり、生かさず殺さず、だ。
私はポケットからペンチを取り出した。それを目にしたイワノフがギョッと目を見開く。そして私は下顎を掴むと引き開けてしっかりと抑えた。
「お、おい! やめろ! やめろ!! 」
イワノフが恐怖に顔を引き攣らせながら喚く。これからすることの意味が分かってるようだ。そして彼の奥歯をペンチで挟むと、思い切り力を込めて引き抜いた。
「ッアアアアアアアアアア!!! 」
だがしくじった。歯根が途中でゴリッと音を立てて折れてしまった。歯肉がえぐれて裂け、そこから血が僅かに噴き出した。
イワノフは金切り声を上げながら身体を捩じって暴れる。再チャレンジと行きたかったが、豚が必死に身体を揺らして抵抗するせいで中々挟めない。挟めないので彼の左手を掴むと、その親指の爪を引き抜いた。
爪と肉がブチッ! と千切れてピンク色の肉が露わになった。イワノフは指の付け根を抑えながら悶え苦しむ。すると間もなく、ピンク色の肉から黒い血が滲み出て、ボタボタと指先から滴り落ちた。
「さぁ、YESは? 」
すると椅子に背を持たれながらイワノフは嗚咽を上げ始めた。噴き出した血に歯が真っ赤に染まっている。彼の泣きじゃくる声が暗くジメジメした部屋に響き渡った。
時間稼ぎのつもりか?
私は身体を起こす。そして片足を持ち上げると、イワノフの股間に向かって勢いよく踏み下ろした。股間に硬いブーツの底がめり込んで、イワノフが甲高い叫び声を上げると身を仰け反らせる。
「ねぇ、泣いてる暇があるなら答えたらどうかしら? そんなに鳴きたいの? ならいくらでも鳴かせてあげるわよ――――」
すると押し付けていたブーツの底から、イワノフの股間がビクンビクンと震えるのを感じた。なんだ? 靴底を動かすと、濡れた雑巾を踏み潰すような感触がする。見れば彼の股間が、水気を含んでびしょびしょになっていた。
私は目を細めると、イワノフを見下ろした。きっと汚いモノを見るような、蔑んだ目付きをしていただろう。だがヤツはそれどころではないらしく、だらしなく口を開けながら「あ、あ……」と間の抜けた声を上げていた。放心状態になってやがる。なので股間からゆっくり足を離すと、椅子の底を思いっきり蹴り上げた。
「ぐぎゃあ!! 」
イワノフは椅子から跳び上がった。
ブーツの先端が椅子を突き破り、イワノフの尻穴と股間の間にめり込んでいた。彼は椅子の上で身を捩る。そして肩を掴んで引き起こした時だった。
「わ、分かった分かった分かった!! なんでも言う、言うよ!! 言うから、もう止めてくれええええ!!! 」
イワノフは必死の形相で叫んだ。玉のような汗が顔に滲んでいる。とうとう耐え切れなくなったようだ。少々手こずったものの、まあ想定通りの時間だった。
「なら、ニコライ・ヴィノグラードフ博士について教えて。経歴とかが良いわね。時間が無いから手短に、重要なところだけよろしく」
すると彼は涙目のまま困惑した表情で言った。
「じゅ、重要って言ったって……」
「重要かどうかは私が決める。分かったらさっさと教えなさい」
その一言に、イワノフは困ったように眉間に皺を寄せた。
「……そ、そうだな。奴が元”ナチス”の研究者だってことは……し、知ってるか……? 」
彼は口を開くと、科の鳴く様な頼りない声で言った。
「ナチス? 」
だが私を驚かすには十分過ぎるくらいだった。思わず聞き返してしまった。ソ連の科学者だからソ連人だと思っていたが、まさかドイツ人だったとは……。ロシア名である「ニコライ・ヴィノグラードフ」も恐らく偽名だろう。
「そ、そうだ……。他のことは大して知らん。……周りも知らなかったし。俺も、部下とは言えアイツとはあまり接点が無かったから……」
まあ、ニコライの母校がベルリン芸術大学か否かなど、至極どうでも良いことだ。
……そうだ。ならば本名を聞こう。それが分かればレミリアを探す上で、色々捗る筈だ。
「その頃の名前は? 」
「そ、それも知らん……」
……少し上向いたと思ったらコレだ。流石に都合が悪すぎる。なんで元ナチスなのを知っていて、本名は分からないのだ?
「ホントに? 嘘を吐くと今度は目玉をくり抜くわよ」
そう言って彼の顔にペンチを突き付ける。するとイワノフは慌てて私を見上げた。
「ホ、ホントだ!! 嘘じゃない信じてくれ、頼む……! ヤツは周りに自分のことを話さなかったし、誰も知ることが出来なかったんだよ!! 」
懇願する彼の目は今にも泣きそうで、どうやら嘘ではなさそうだった。現実はそう甘くないと言ったところか。
「……じゃあ質問を変えましょう。彼はどうしてソ連に? 戦後になって連行されて来たの? かつてソ連にいたドイツ人捕虜や技術者みたいに」
するとイワノフはブルブルと首を振る。
「……ち、違う。自分からやって来たんだ」
自分から? あんな上下水道もまともにない国に?
だとすれば、間違いなく訳ありだろう。ナチスの科学者だから、彼がアカである可能性は0だ。とすると、連合軍に睨まれるような実験を戦時中に行っていたとしか考えられない。そのうちの1つが、祖国を守る槍作戦である可能性も大いにあり得る。
「非人道的な実験でもやってたのかしらね? 」
「それは分からないが……そうだな。アイツならやりかねない」
イワノフは顔を曇らせるとそう言った。
ほう。興味深いので続きを促す。すると彼は続けた。
「……奴は周囲に恐れられていた。目的のためには手段を選ばない男だったからな……」
「出世欲の塊だと? 」
「そう言うのとは性質が違う。なんと言うかこう……底が知れないんだ。きっとそう言う性質なんだろう。だから容赦がない。それだけじゃない。ナチスの癖に、KGBや内務省とパイプがあったんだ。だから奴との対立、もしくは敵に回すことは終わりを意味していた……」
そう語る彼の表情は強張り、目つきは細められていた。彼もまた、ニコライに対して嫌な思い出があるのだろう。
「奴のせいで将来を潰されたアカデミックの人間は数知れない……。それに奴は同じドイツ人捕虜への人体実験にも躊躇しなかった。むしろ、丁度良いモルモットだと言って好んでドイツ人を使っていた……! 信じられるか?! 同じドイツ人にだぞ?! あんな血も涙もない奴なら、非人道的な実験の1つや2つはやっていてもおかしくは無い! 」
「じゃあ、その彼がやっていた、祖国を守る槍作戦については何か知ってる? 」
するとイワノフの目が泳ぐ。思い出しているのか、それとも言いたくない事情があるのか。ペンチをしまうと右手でハイパワーを抜いた。そして試しにその銃口でイワノフの額を小突いてみると、彼はビクッと肩を跳ねさせ、仰け反って銃口から離れた。
「か、隠す気はない!! 思い出してたんだ!! 」
そして唾を飛ばしながら言う。血が混じっていて少々汚い。
「さっさと言いなさい」
「……や、奴がナチス時代に主任として担当していた生物兵器の開発計画だよ!! ナチスが直々に関わってたらしい!! 」
生物兵器の開発計画? 吸血鬼であるレミリアが関わっている作戦が、まさか、そんな……。
……一体、その計画とレミリアはどう関係しているのだろう? そして博士は何者なのだ?
どんな計画なのか聞いてみよう。唯一の手掛かりだから、その研究の正体が分かればそれらの疑問も解けて、レミリアへの手掛かりになるのは間違いない。
「それはどんな計画だったの? 」
だがイエスには、私をクソ溜めから出す気はないらしかった。
「わ、分からない。……俺が読んだ資料にちょっと載ってただけで……」
Jesus...。私はその言葉に思わず溜息を吐いた。コレだけがレミリアへの手掛かりなのに……。
けど、まあ……いい。
私は身を竦ませ続けているピザ野郎に虚ろな目を向けた。
何も知らないなんてことはあり得ない……。研究の手掛かりになりそうなものは、何が何でも吐かせてやる。
イワノフを足蹴りにして椅子ごと後ろに押し倒す。そして床に転がり出た彼の頭髪を掴んで引き立てると、顔を寄せて囁いた。
「手掛かりになるものならなんでも良い。吐け」
低い声で囁くとイワノフは声を張り上げて叫んだ。
「わ、分かった!! 分かったから!! ……とっ、とっておきのを……くれてやるから離してくれ!!! 」
とっておきのハッタリか何かは分からないが、取り合えず離してやる。
すると彼は内股でよたよたと机に歩み寄り、片手で引き出しから一つの茶封筒を出してベッドの上に放り投げた。なんだこの茶封筒は?
それをを顎でしゃくると私は聞いた。
「これは? 」
「そ、それは…ニコライが……奴が俺が亡命する前に送って来た手紙だ!! 送り元に奴の住所が書いてある!! そこに行って手掛かりでもなんでも探せばいい!! もうコレ以上は何も知らない!! 」
顔を真っ赤にしてイワノフは叫ぶ。
ふぅん、と私は呟いた。しかし内心では跳び上がってしまいたいのを抑えている。ニコライの住所。ここならば「祖国を守る槍作戦」についての資料がありそうだ。仮にそれが無くてもレミリアを探す上で、何かしら手掛かりになるモノはあるに違いない。
決まりだ。すぐにここへ行って、手掛かりを漁ろう。
だがその前に。
私はおもむろに顔を上げた。するとイワノフと目が合って、彼は察したのだろう、その表情が一気に凍りついた。
えぇ、しょうがないのだ。私がここに来たのを言い振らされる訳にはいかない。
「ひっ……」
彼は一歩、後ずさる。しかし彼の背後には開け放たれた窓があるだけで、そこにワイヤーはない。静まり返る室内で、私は立ち竦む彼の喉元に銃口を重ねた。刹那、辺りが白く光って雷鳴が轟くと、イワノフは堰を切ったかのように泣き叫んだ。
「うわあああああああああああああ!! 」
そして彼の手が手当たり次第に物を掴んでは、投げつけて来る。私はそれを避けながら、ハイパワーの引き金を二度引いた。乾いた音が炸裂し、銃口から噴き出した硝煙が視界を白く覆う。その向こうでイワノフがもんどりうって倒れた。彼の鳩尾と右胸が抉れて、まるでそこに真っ赤な挽き肉を擦り付けたみたいになっていた。そしてそこから留め止めもなく血が滲み出て、床に広がっていく。
しかしイワノフの胸はまだ上下していた。なので彼の耳元に立つと、その目が私を捉えて見開かれる。憎悪に満ちた瞳だった。
「まだ何か教えてくれるの? 」
軽口を叩くと、その手が這い進んで私の踝を握り締めた。
「いいか……! 覚えておけ……! 」
そして声を振り絞りながらイワノフは言った。
「ニコライの周りを探ってるようだがな……!! 無駄、だ!! ヤツを見くびるなよ!! きっとお前は殺される!! 」
そう叫ぶと、イワノフは血飛沫を吐き出した。彼の顎や口の周りが赤い血に汚れる。
彼の言葉には、現実味を感じなかった。
この私が死ぬ?
レミリアと会えない?
私は首を振った。
「いいえ、違うわ。……分かってないわね」
確かに私はクズだ。
硝煙の臭いと血に塗れた戦闘機械だ。
吸血鬼どころか人を殺すことにも一切躊躇のない化けモノだ。
――――けれど。
「私に、バッドエンドなんて有り得ないの」
そっと、トリガーを引いた。
刹那の乾いた音。彼の額がスイカのように弾けて、辺りに赤い脳味噌の破片を飛び散らせた。
私はハイパワーを収める。そしてベッドの上の茶封筒を拾い上げて、目の前に翳した。そしてそこに記された住所を呟く。魔法のように。
「ソビエト連邦、モスクワ市中央区、トヴェルスカヤ通り、ボルベルクアパート908号室」
不意に口元が釣り上がるのが分かった。行き先がホーンデッドマンションだなんて、洒落が効いてるじゃないか。
私は封筒をポケットの中に滑り込ませる。そしてコートを翻すと部屋を出た。
やかましく呼び鈴が鳴り響いた。
その音に目が覚まされる。辺りは薄暗いスイートルームで、カーテンの隙間から差し込む朝日が、床の上に白く伸びていた。
……朝食はいらないと言った筈なのだが。
溜息を漏らしながら上半身を起こした。そしてベッドから降りると、ワイシャツを拾い上げて素肌の上から直に羽織る。
二度目のベルが鳴った。
……はいはい今行きますよ。私は適当に胸元のボタンを留めると、イライラとした足取りでドアへ向かう。そして覗き穴から外を窺うと、ドアの前に若いホテルボーイが立っていた。見た目は10代半ば。その右手には大きめのアタッシュケースがぶら下がっている。それを目にして私は思わず、あぁと呟いた。
頼んだ荷物が、無事に国境を潜り抜けてやってきたのだ。流石、魔女の仕事は抜けが無い。
私はドアを解錠すると引き開けた。
「Доброе утро.Является замечать вещи.....」
(おはようございます。お届けモノです――――)
ボーイがアタッシュケースを差し出した。そして私のはだけた姿を目にして、慌てて顔を伏せる。その頬は赤らんでいた。
「И, потому что это было, что как только получил, чтобы и немедленно...」
(と、届き次第、すぐにお持ちするようにとのことでしたので……)
ボーイが上ずった声で言った。
「Да.спасибо(えぇ。ありがとう)」
私はグリップを掴むとケースを受け取った。するとボーイが身体を引いて、そそくさとその場から去ろうとする。
「дать(待って)」
なので彼を呼び止めた。そしてシャツの胸ポケットから紙幣を取り出すと、彼の胸ポケットに差し込む。
「О,спасибо(……あ、ありがとうございます)」
困惑していたボーイの表情に、微かな喜色が浮かんだ。そんな彼を見て”私はもっと喜ばせたくなった。”
「Я ребенок,хорошо,мне понравилось. Я назначаю вас, пока вы Имя?」
(良い子ね、気に入ったわ。ここにいる間は貴方を指名してあげる。名前は? )
「...Я,Андрей Бобков」
(……ア、アンドレイ・ポブコフです)
「Так.Эй,Андрей.Там стоит?」
(そう。ねぇ、アンドレイ。寝癖が立ってるわよ? )
指先でアンドレイの髪に触れる。そして胸元を彼の目線に入るよう、わざと顔の近くに寄せた。
「ер,Ои...(え、あっ……)」
アンドレイはその場に硬直した。アプローチだとでも思ったのか、彼の顔はますます赤みを増し、今にも燃え上がりそうな程だった。
「Что?(なに? )」
だが私は何食わぬ顔をしながら、彼の髪に指先を絡めて弄ぶ。
すると突如として彼は後ずさり、私の指から逃れた。
「М жаль...,рубо!!(す……すみません、失礼します!! )」
そしてどもりながら謝ると、速足で逃げるように去ってしまった。
……シャイな子。
私はドアを閉めると、再び鍵を掛けた。
抱き込めたかは分からないが、あの様子ならホテル監視のチェーカー共に変なことは言わないだろう。
さっそく、お品物を拝見だ。
私は歩きながらケースを両腕で抱え込むと、指先で蓋の上をなぞる。するとケースの中から「カチャッ」と何かが解かれる音がした。
蓋を開ける。すると黒い布のようなモノが、畳んで置かれていた。
こんなモノを注文した覚えはない。なんだこれは?
怪訝に思い広げてみると、それは黒いワンピースドレスだった。フリルや装飾の一切が無いスマートなタイプで、シルクの生地が滑らかな光沢を帯びている。そしてご丁寧なことに、黒いカットシューズまでもが付いていた。
「私がダンスパーティーに行くとでも思ったのかしら」
魔女なりのユーモアのつもりか。しかしまあ「オマケ」としては、それなりに洒落が効いているかもしれない。私は中を隔てる板を外すと、黒々とした鋼鉄のボディ――――2挺のVz61スコーピオンと、スチェッキン・マシンピストルが収められていることを確認する。
私は片方のスチェッキンを手に取ると、そのセレクターを指で押し上げた。注文した通りの品だ。しかしハイパワーの代わりにしては、フルオート機能を付与したスチェッキンは少しキワモノ過ぎたかも知れない。まあ、それ故に以前から興味を持っていたのだが。それに、得物がマカロフやトカレフでは心許ないことこの上ない。今私は、教会の力の及ばぬ地にいるのだ。
私はスチェッキンをケースに戻すと、静かに蓋を閉じた。
そしてアタッシュケースを長机の上に置く。その周囲には、ワイヤー、ハーネス、ペンチなどの機材が整列している。私の旅のお供達。
―――これで必要なモノは全て揃った。後は……。
真紅のカーテンを引き開けると、眩しい朝日が顔を差した。
空は快晴。テラスへ降り立つと、清澄な空気が身体を包み、足裏がひんやりと冷たかった。
私は大理石の手すりに身を持たれる。眼下には、荘厳なロシア・バロック様式の街並みが広がっている。そしてその街並みの中から、1つの高層ビルがその灰色のシルエットを突き出させていた。
あれこそが、ニコライの住処があるアパート。
その周囲も、警備状況も、ここからならば全て一望の元把握できた。
私はそのシルエットに掌を重ねると、握り締める仕草をした。
もう、アレは私の手の内にある。
後は手を伸ばして掴み取るだけだ。そして誰も私がここにいることを知らない。
――――無駄、だ!! ヤツを見くびるなよ!! きっとお前は殺される!!
不意にそんなイワノフの言葉を思い出した。
そして嘲った。
きっと奴は知らなかったのだろう。
「運命」の存在を。
「バッドエンドは存在しない。――――それが運命だから」
レミリア。
私が求める、最愛の人。
私が愛する、運命の人。
私が彼女を求めるのも、私が彼女を愛するのも、それが運命だから。
だからきっと、バッドエンドなんて存在しないのだ。
運命が、こうやって私を導いてくれるのだ。
理由なんてない。証拠もない。けれどそれで構わない。理屈など必要無いんだ。私は全てを知っている。それだけでいいのだ。
「今日は良い一日になりそう」
アパートを眺めながら、私は歌うように囁いた。
あそこにある、レミリアへの手掛かりへ想いを馳せながら。
オリヴィアはヴァチカン教会の異端狩り代行者である。
そんな彼女には1つの悩みがあった。それはいつものように見る、謎の少女との夢。
その少女が何者なのか、何故夢に見るのか。
オリヴィアには全く分からなかったのだ。
1968年2月、彼女は指令により南ベトナムの都市"フエ"へ向かった。
任務は吸血鬼"レミリア・スカーレット"に関する情報を持つ亡命者の保護。
折しも現地では、北ベトナム軍によるテト攻勢が行われ、その戦火はフエにまで及んでいた。
ベトコンとの死闘の末、なんとか待ち合わせ場所に辿りつくも、既に亡命者は死亡。
それでも、レミリアについて書かれた論文を入手することには成功する。
だがそこに書かれた"祖国を守る槍作戦"の文字を目にした時――――
彼女は夢の少女を想起した。
そしてその少女が吸血鬼、レミリア・スカーレットであることを知る。
その瞬間、オリヴィアは激しい衝動に駆られた。
――――レミリアに会いたい。
これは幻か、現実か。彼女には分からなかった。
だが自身を覆う渇望だけは本物だった。
米軍と協力し、ベトコンの包囲を脱出したオリヴィアは、さらなる手掛かりが香港の九龍城にあることを知る。
情報では、そこに祖国を守る槍作戦の中心人物であった、ニコライ博士の部下がいるとのこと。だがその人物は、闇兵器ビジネスで荒稼ぎをしているマッドサイエンティストだった。
それでもオリヴィアは九龍に向かう。
レミリアに会いたい。その想いが彼女の全てだったのだ。
しかしそんな彼女を、上司であるベロッキオは密かに訝しんでいた。
九龍城には雨が降りしきっていた。辺りに所狭しとひしめき合うビル群は無数の灯りを宿し、頭上のトタン屋根からは雨水が途切れることなく流れ落ちている。
私は雨に身を打たれながら、建物の合間を縫うように伸びる、細く暗い路地を歩いていた。
頬にべっとりと髪が張り付き、黒のオーバーコートの端々から雨水が滴り落ちている。降りしきる雨は凍える程に冷たく、指先はかじかんでチクチクした。傘を差したいと思ったが、こんな狭い路地で傘を差した時の無防備さを考えたら、まだ寒い方が精神的には健康だった。それに、イワノフの根城までは後少しだ。
ふと雨にけぶる路地の先で、泥水に塗れた子供たちが水たまりを蹴り上げて遊んでいた。元気なものだ。私は思わず目を細めて、はしゃぎ回る彼らを眺めた。
――――私も、本当にあんな笑顔をレミリアの前で浮かべていたのだろうか……。二人きりの時間の中で。
はっと我に帰った。
思わず感傷に浸ってしまったが、今はそんな時ではない。たとえ向こうが私の存在に気付いていなくても、標的が近くにいる以上、油断は禁物なのだ。今はレミリアの手掛かりを手に入れることだけに専念せねば。
しかしこの私が感傷的になるだなんて。我ながら珍しい。でもまあ、相手がレミリアならしょうがないかも知れない。
私の全てが求めているのだから。
レミリアとの再会を――――
やがて目指すビルが見えて来る。ビルは真っ暗で周囲の建物より高く、その黒々とした姿がビル群の中で際立っていた。
このビルの最上階の部屋に研究者はいる。北側の一番奥の部屋にだ。
ドアの前で足を止めて錆び付いた扉をゆっくり押しあける。そして念のためにその隙間から中を窺った。中は暗いホールで、天井からつり下げられた蛍光灯が吹きこんだ風に揺れる。人気はなく安全そうだが、闇商人の根城だけあって怪しげな雰囲気が漂っていた。
ホールの中へ足を踏み入れて静かにドアを閉じた。すると辺りは真っ暗な闇へ堕ちる。だが一か所だけ、ほっそりした光の縦線が暗闇の中に浮かび上がっていた。あれはきっとドアの隙間だ。そこへ歩み寄ると右手を突き出して押してみる。すると案の定ドアが押し開き、吹き抜けの階段に出た。辺りは僅かに明るく、けれど螺旋階段の奥に行くほど闇は濃さを増している。
その階段を最上階目指して登り始めると、靴底が階段を叩くカツカツとした音が辺りに反響する。そしてしばらくすると最上階の廊下に出た。そこも灯りに乏しく、窓から差し込む外の光が廊下を青に落としている。私は廊下を進んだ。時折、雷光が瞬いて辺りを白く照らした。
やがて一番奥に鉄製の扉が見えて来た。あの部屋がイワノフのラボだろう。さて本人は「ご在宅」だろうか……。
ドアの前に立ってノックする。そしてしばらく待っていると、不意にドアの覗き戸が引き開けられて中からやつれた顔の中国人男性が顔を見せた。
「イーゴリ・イワノフ博士はいる? 」
一瞬、彼の眉がピクリと動き、併せて頬の肉も引き攣ったのを私は見逃さなかった。そして彼の目が盗み見るように背後へ流され、すぐまた私を見つめると目を細めて睨んだ。
「誰だお前」
脅すような低い声には警戒心が滲み出ていて、もうここにイワノフがいると言っているようなモノだった。
「彼に会って聞きたい事があるの。この扉を開けて頂戴」
「そんなヤツここにはいない。さっさと消えろ」
ピシャリと覗き戸が閉じられた。私は髪を掻きあげ、水滴を払う。ご在宅らしいが会うことは無理なようだ。ならば仕方ない。
――――実力行使だ。
ドアを蹴り飛ばす。周りの枠が砕けて部屋の中へと吹き飛び、先程の男がドアの下敷きになって倒れる。私は両手をオーバーコートの胸裏に突っ込み、ショルダーホルスターから二丁のFNハイパワーを引き抜いて撃鉄を起こす。
「怎公了?!(おい、どうした?!)」
そして玄関に飛び出してきた2人の男に構えると、撃つ。彼らは背後に吹っ飛び床に広がった。
玄関から薄暗い廊下へ踏み込む。角を曲がろうとした瞬間、鼻先を大量の銃弾が掠め、咄嗟に私は壁に張り付く。だが銃撃は続き、放たれた銃弾が次々と周囲の壁にめり込んで破片を撒き散らし、廊下に白い埃を巻き上げていく。
チンピラの割には意外な火力だ。だが所詮は素人。撃ちまくっても弾が当たらねば意味はない。ポケットの中に手を突っ込み、紅いOTO M35型手榴弾を取り出すと握る。
そして銃撃が止んだ。
「成是?!(やったか?! )」
教えてやろう。
親指でピンを抜き、素早く廊下に放り投げて壁に身を押し付ける。
「手、手榴弾!!出走…(グ、グレネードだ!! にげ……)」
爆音が轟き、傍らをコンクリートの欠片が飛んでいく。今日の紅い悪魔はすこぶる機嫌が良かったらしい、まあ私が丁寧に整備していたからなのだが。
ハイパワーを構えて飛び出した。埃が厚く舞い、その奥で血を流したチンピラ達がよろよろと立ち上がって銃を構える。私もハイパワーを構え、ノロマなそれを撃ち倒していく。その時だ。雷光が目の前の床に黒々とした人の影を浮かび上がらせた。その影は2つ、すなわち Enemy is back――――……
素早く横へ跳び退く。直後、白い刃が耳元を掠める。
右手のハイパワーで背後の男の膝を撃った。彼が呻き声を上げて片膝を付き、振り返りざまにその顎に強烈なヒザ蹴りを叩きこむと、グシャッ! と言う音と共に彼は宙を仰いで口から鮮血を噴射する。
背後でドアが蹴り開けられた。私は倒れかけた男の身体を抱きしめて、一緒にくるりと180度回転。彼らに向けて盾にする。2人の男がドアの中からMP40を乱射する。だが弾は全て男の身体に吸い込まれ、私は彼の両腋からハイパワーを突き出し彼らへ乱射する。二人は9mm弾を次々と喰らいトリガーを引いたまま倒れる。飛び出した弾があちらこちらに飛びまわってめり込む。
やがて弾雨が止むと辺りを静寂が包んだ。私は抱きしめていた男の身体を放り出すと、蹴り開けられたドアの方へ歩み寄った。奥に大量の機材やボンベが立ち並んでいるのが見える。きっと実験室か何かだろう。あの部屋に研究者がいるかもしれない。
私はハイパワーを構えると、ドアの中へゆっくり足を踏み入れた。
室内に人の姿はない。だが変だ。雨音が流れて風が吹きこんでいる。……窓が開いているのか?
怪訝に思って窓を探すとその一つが開いていた。そしてそこから身を乗り出して、路地を見下ろしてみる。
すると白衣を纏ったイゴーリ・イワノフが壁の配管に手を掛けて滑り落ちていた。そして彼は路地に着地するなり、停めてあった自転車に飛び乗ると漕ぎ出した。
「逃げ足の速いヤツね……」
逃げ足に自転車を使うとは考えたものだ……。小回りが利くから狭い路地をスムーズに逃走出来るし、なにより人間の足では追いつけない。
いっそ撃って彼の動きを止めるか? この距離からなら取り敢えず弾を当てることは出来る。……いやダメだ。それではリスクが大き過ぎる。急所に当ててしまったら取り返しが付かない……。だがこのまま逃がすよりは一か八やってみたほうが――――――――
ふと隣のビルの屋上が目に入った。その屋上はずっと下の位置にあり、そしてビルの向こうにはいくつも建物の屋上が密集している。そしてその合間の路地を、イワノフが自転車で走り抜けていく。
私は直観した。
――――密集した屋上を飛び移って行けば、イワノフを追える。下の道を走るのと比べ、遥かにショートカットが出来るはずだから。さらには高い所から見下ろすことで、彼の進行方向も把握できる。
周囲を見渡すと、梯子の掛けられた天蓋窓が目に入った。私はハイパワーをホルスターに収めると、梯子に飛び掛かってよじ登る。そして天蓋窓を押し開けると、身を乗り出した。
轟音。そして嵐のような風圧。頭上を旅客機が、その黒く大きな胴体を見せながら跳び抜けて行く。周囲で雨水が噴き上がり、ガラスやビルが鳴動する。
私は屋上に這い出ると走り出す。そして鉄柵を跳び越えて、トタン屋根を駆け下りる。冷たい横殴りの雨が頬と身体に叩きつけられる。
そしてトタン屋根から勢い良く跳び出した。浮遊感。耳元で風が唸り、眼前へ灰色の屋上が迫って来る。そして次第にそれは霞んでいく――――
ドカッ!!
着地。
激痛が足裏から全身を駆け抜け、凄まじい衝撃に水たまりの上を転げ回る。雨水が跳ね上がり、身体が何度も地面に叩きつけられる。
だがなんのことはない。すぐさま起き上がり、息を吐いて腕で顔の泥水を拭う。下の路地をイワノフが自転車のハンドルを巧みに操りながら走り抜けていくのが見えた。私も地面を蹴って走り出すと、次々とビルの間を跳躍して飛び移って行く。
突如、研究者は路地を右に曲がると通りを横切って道端の路地に入って行く。その通りの幅は今までよりも遥かに大きく、向かい側のビルは遠い。だが彼を追い続けるためにはその通りを跳び越さなければならない。
やるしかない!
屋上を蹴って、矢のように虚空に跳び出す。視界がスローに。私は手足をもがいた。そして鉄柵が目の前に迫る――――
「――――っ!! 」
咄嗟にその鉄柵へ腕を伸ばす。
指先が触れ、身体を捻るとそこから強引に鉄柵を掴んだ。身体が壁に打ち付けられて宙づりになる。すかさずもう一方の手で鉄柵を掴み、壁に足を押し付けて鉄柵を跳び越える。
向かい側に高層ビルの窓がいくつも並んでいる。ヒーロー気分と行こう。私は窓に向かって突っ走り、そのうちの一つ目掛けて跳ぶ。
ガシャァン!!
窓が突き破られ、私は破片を撒き散らしながら室内に降り立つ。すると悲鳴が上がり、裸の男女がベットの上から跳ね起きる。
「是什公女人?!(な、なんだこの女?! )」
男が顔を真っ青にしながら叫ぶ。
一方の女は、怒鳴りながら枕や小物を投げつけ、私はそれを左手で払いのけながらドアを蹴り開けて廊下に出た。そして窓から外を見渡す。
すると向かい側のビルの前に、イワノフの自転車が乗り捨てられていた。
見付けた。拳で窓を叩き割り、外に飛び出すと配管に片手を掛けて滑り降りる。
路地へ降り立つと右手でハイパワーを抜いて握る。そしてビルへ歩み寄り、そのドアを蹴り開ける。床の上には濡れた靴痕や滴り落ちた水滴があり、奥の階段に向かって伸びている。イワノフがここを通った痕だろう。それを辿って階段を登り4階へと至ると廊下を突進する。やがて開け放たれたドアが見えて来て、その中から騒がしい音がしていた。イワノフはあの部屋にいそうだ。
ドアの中へ踏み込む。そこは狭いワンルームで、イワノフがこちらに背を向けながら引き出しの中身をベットにぶちまけている。彼は小さく太った身体つきだった。私はその背中へと歩み寄る。
「おい、リビアへの渡航許可書はどこにいった?! さっさと見付けろ!! あいつがここに来ない保障は――――」
机を漁っていた別の白衣が私に気付いた。
「イ、イワノフ!! 後ろだ!!後ろにいやがる!! 」
男が私を指さして叫んだがもう遅い。
ハッと振り返ったイワノフの顔面をハイパワーのスライドで殴る。彼は悲鳴をあげて床に倒れ、白衣の男が慌てて机の上のトカレフを掴み、私に向ける。反射的に私は右手のハイパワーをその彼に向け、引き金を振り絞る。吐き出された弾達が身体を抉り、白衣の男は真っ赤な血飛沫を上げる。ハイパワーがホールドオープン。その隙にイワノフが起き上がって逃げようとする。なのでその襟首を掴んでベットの上に引き倒す。そして彼と向かい合うと、見降ろした――――
「ま、まて!! 話を聞け!! 」
彼は慌てて跳ね起きると、両手を広げて突き出した。
「は、話しを聞け!! 金ならいくらでもやるから!! 」
イワノフは必死の形相で喚き散らした。しかし私には至極どうでも良いこと。故にそれを聞き流しながら、金属音をたててハイパワーをリロードする。
「米ドル、日本円、マルク、フラン、ルーブル、ポンド、なんでも持ってるぞ!! ふ、不動産だってある! イタリアのタラモーネの別荘、N.Yの高級マンション!! 金だけじゃない! 好きな場所に住まわせてやる!! 」
そしてスライドストップを押し上げて、カチャッとスライドを戻した。
「お前だって欲しいもんはいくらでもあるだろ!! 俺ならなんでも叶えてやる!! だから止めろ!! 銃を降ろせ――――」
「煩い」
ハイパワーをイワノフの股間に向けて一発。
股間の手前で布団が弾け、中から真っ白な羽毛が噴き出て辺りに舞い散る。イワノフは声を詰まらせ、カタツムリのように一気に身を竦ませた。
私はベットに膝を付いて上がった。そしてイワノフに覆いかぶさると、その額に銃口を押しあてた。イワノフの表情は硬く強張り、その瞳は弱々しい光を湛えていた。
さぁ、さっさと吐かせてしまおう。さっきまでの乱痴気騒ぎに、ここの人間達は気付いているはずだ。長居は得策ではない。
「イゴーリ・イワノフね? ソ連軍時代、ニコライ・ヴィノグラードフ博士の部下だった」
その言葉を聞いた途端、イワノフの顔からみるみるうちに血の気が退いて行く。どうやら私は彼の古傷を抉ったようだ。それも相当の膿を孕んだ傷を。
「彼を知ってるのね」
「……し、知らん……。そ、そんなヤツ……」
彼の頭をパイパワーの銃把で殴った。デコが切れて流れ出た血がシーツに赤いシミを作り、イワノフは目を回す。しょうもない嘘を吐きやがって。まあいい。話を進めよう。私は彼の胸倉を掴むと、身体を上下に強く揺すって目を覚まさせてやる。そして顔を鼻先まで近付けると言った。
「ニコライ・ヴォノグラードフ博士について教えなさい」
「……な、なら……条件がある。教えろ! どうやって、この場所を割り出したんだ?! どうしてそれを知ってるんだ?! 」
生意気にも条件を提示して来やがった。自分の情報が漏れたことがよっぽど気掛かりらしい。正体がばれては稼業に支障が出るのだろう。だがダニエルの正体をばらして彼の商売をあがったりにする訳にはいかないし、故にそれが口を割る条件ならば、代わりの条件を呑んでもらうしかない。
私は彼の胸倉を掴んだまま、そのビヤ樽のように肥え太った身体をベッドから引き摺り下ろした。
「お、おい!! なっ、何ををする!! 」
そして体勢を崩しながら、よたよたと後に続いた彼を、色褪せた木枠の椅子に乱暴に座らせる。
そしてハイパワーをホスルターに収めると、机の上の「大吟醸」と書かれた酒瓶を引っ掴んだ。中には透明な液体が満タンだ。酒瓶の蓋を開けると、芳しいアルコールと米の香りがした。
「な、なにを……あ、あが」
イワノフの口に指先を突っ込んで、ムンクのように引き開ける。そして彼の咥内に酒瓶の先端を押し込む。柔らかい舌や咥内、両顎の歯を透明で厚みのある酒瓶が押しのけて行く触感は、まるで大量のピンポン玉を飲み込むような錯感をこちらにも与えてくる。そして酒瓶を喉元まで咥え込ませると、その底を手で押えた。
「ごほっ ぐほっ、ぐほっ」
瓶の中から容赦なく流し込まれる酒に、イワノフは顔をくしゃくしゃにして噎せかえる。酒が飲み込めず、さらには気管に流れ込んでいるのだろう。酒と涎が辺りに飛び散った。あんぐりと開いた口に、大きな酒瓶をまるごと突っ込まれたその姿はまさにキングコブラ。実にシュールだ。
不意に彼の両手が私の酒瓶を押える腕を掴んだ。
「私がいつ止めて良いって言った? 」
押さえる手に力を加えて、ぐりぐりと捻じる。すると酒瓶が何かをごりごりと押し磨る感覚がした。イワノフは白目を剥きながらおぇおぇと嗚咽を挙げる。その両手がじたばたと宙を掻いた。
やがて瓶が空になった。イワノフは全身酒塗れになりながら、胸を上下させて荒い鼻息をした。
なので酒瓶から手を離し、今度は踏み出して勢いをつけると彼の右頬を殴る。ごりっと歯が折れる感触がして、めり込んだ拳が咥内に咥え込まれた瓶を叩き割る。イワノフの口から、血の混じったアルコールが噴水のように飛び出す。だがすかさず二発目を右頬に叩きこむ。今度は咥内でぐちゃっと生々しい音がして、瓶が落ちて床で粉々に砕け散った。
イワノフは苦しそうに呻き声を上げながら、血の混じったアルコールとガラスの破片を床に吐く。これで理解できただろう、こっちの本気を。
「お願いしてるんじゃないの」
イワノフの髪を鷲掴むと顔に近付ける。そして言った。
「吐け。これは命令だ」
イワノフの顔は強張り、唇は震えていた。
「だ、だが、そん、なことをしても……俺が、吐かないとあんたが困るぞ! 」
そしてなんとか口を開けると、彼はどもりながら言葉を紡ぐ。
「ええ、そうね」
どんなに怖れ慄いていたとしても、その言葉だけではハッタリではない。ボードの上の条件だけは対等なのだ。
だがコイツは重大なことを2つ、見落としている。1つ目は、私がそんなことくらいで弱気になるような三流エージェントでは無いこと。そして2つ目は、ルビャンカやラングレーの常識とは違った、カソリック独自のやり方を私が信奉していることだ。
つまり、生かさず殺さず、だ。
私はポケットからペンチを取り出した。それを目にしたイワノフがギョッと目を見開く。そして私は下顎を掴むと引き開けてしっかりと抑えた。
「お、おい! やめろ! やめろ!! 」
イワノフが恐怖に顔を引き攣らせながら喚く。これからすることの意味が分かってるようだ。そして彼の奥歯をペンチで挟むと、思い切り力を込めて引き抜いた。
「ッアアアアアアアアアア!!! 」
だがしくじった。歯根が途中でゴリッと音を立てて折れてしまった。歯肉がえぐれて裂け、そこから血が僅かに噴き出した。
イワノフは金切り声を上げながら身体を捩じって暴れる。再チャレンジと行きたかったが、豚が必死に身体を揺らして抵抗するせいで中々挟めない。挟めないので彼の左手を掴むと、その親指の爪を引き抜いた。
爪と肉がブチッ! と千切れてピンク色の肉が露わになった。イワノフは指の付け根を抑えながら悶え苦しむ。すると間もなく、ピンク色の肉から黒い血が滲み出て、ボタボタと指先から滴り落ちた。
「さぁ、YESは? 」
すると椅子に背を持たれながらイワノフは嗚咽を上げ始めた。噴き出した血に歯が真っ赤に染まっている。彼の泣きじゃくる声が暗くジメジメした部屋に響き渡った。
時間稼ぎのつもりか?
私は身体を起こす。そして片足を持ち上げると、イワノフの股間に向かって勢いよく踏み下ろした。股間に硬いブーツの底がめり込んで、イワノフが甲高い叫び声を上げると身を仰け反らせる。
「ねぇ、泣いてる暇があるなら答えたらどうかしら? そんなに鳴きたいの? ならいくらでも鳴かせてあげるわよ――――」
すると押し付けていたブーツの底から、イワノフの股間がビクンビクンと震えるのを感じた。なんだ? 靴底を動かすと、濡れた雑巾を踏み潰すような感触がする。見れば彼の股間が、水気を含んでびしょびしょになっていた。
私は目を細めると、イワノフを見下ろした。きっと汚いモノを見るような、蔑んだ目付きをしていただろう。だがヤツはそれどころではないらしく、だらしなく口を開けながら「あ、あ……」と間の抜けた声を上げていた。放心状態になってやがる。なので股間からゆっくり足を離すと、椅子の底を思いっきり蹴り上げた。
「ぐぎゃあ!! 」
イワノフは椅子から跳び上がった。
ブーツの先端が椅子を突き破り、イワノフの尻穴と股間の間にめり込んでいた。彼は椅子の上で身を捩る。そして肩を掴んで引き起こした時だった。
「わ、分かった分かった分かった!! なんでも言う、言うよ!! 言うから、もう止めてくれええええ!!! 」
イワノフは必死の形相で叫んだ。玉のような汗が顔に滲んでいる。とうとう耐え切れなくなったようだ。少々手こずったものの、まあ想定通りの時間だった。
「なら、ニコライ・ヴィノグラードフ博士について教えて。経歴とかが良いわね。時間が無いから手短に、重要なところだけよろしく」
すると彼は涙目のまま困惑した表情で言った。
「じゅ、重要って言ったって……」
「重要かどうかは私が決める。分かったらさっさと教えなさい」
その一言に、イワノフは困ったように眉間に皺を寄せた。
「……そ、そうだな。奴が元”ナチス”の研究者だってことは……し、知ってるか……? 」
彼は口を開くと、科の鳴く様な頼りない声で言った。
「ナチス? 」
だが私を驚かすには十分過ぎるくらいだった。思わず聞き返してしまった。ソ連の科学者だからソ連人だと思っていたが、まさかドイツ人だったとは……。ロシア名である「ニコライ・ヴィノグラードフ」も恐らく偽名だろう。
「そ、そうだ……。他のことは大して知らん。……周りも知らなかったし。俺も、部下とは言えアイツとはあまり接点が無かったから……」
まあ、ニコライの母校がベルリン芸術大学か否かなど、至極どうでも良いことだ。
……そうだ。ならば本名を聞こう。それが分かればレミリアを探す上で、色々捗る筈だ。
「その頃の名前は? 」
「そ、それも知らん……」
……少し上向いたと思ったらコレだ。流石に都合が悪すぎる。なんで元ナチスなのを知っていて、本名は分からないのだ?
「ホントに? 嘘を吐くと今度は目玉をくり抜くわよ」
そう言って彼の顔にペンチを突き付ける。するとイワノフは慌てて私を見上げた。
「ホ、ホントだ!! 嘘じゃない信じてくれ、頼む……! ヤツは周りに自分のことを話さなかったし、誰も知ることが出来なかったんだよ!! 」
懇願する彼の目は今にも泣きそうで、どうやら嘘ではなさそうだった。現実はそう甘くないと言ったところか。
「……じゃあ質問を変えましょう。彼はどうしてソ連に? 戦後になって連行されて来たの? かつてソ連にいたドイツ人捕虜や技術者みたいに」
するとイワノフはブルブルと首を振る。
「……ち、違う。自分からやって来たんだ」
自分から? あんな上下水道もまともにない国に?
だとすれば、間違いなく訳ありだろう。ナチスの科学者だから、彼がアカである可能性は0だ。とすると、連合軍に睨まれるような実験を戦時中に行っていたとしか考えられない。そのうちの1つが、祖国を守る槍作戦である可能性も大いにあり得る。
「非人道的な実験でもやってたのかしらね? 」
「それは分からないが……そうだな。アイツならやりかねない」
イワノフは顔を曇らせるとそう言った。
ほう。興味深いので続きを促す。すると彼は続けた。
「……奴は周囲に恐れられていた。目的のためには手段を選ばない男だったからな……」
「出世欲の塊だと? 」
「そう言うのとは性質が違う。なんと言うかこう……底が知れないんだ。きっとそう言う性質なんだろう。だから容赦がない。それだけじゃない。ナチスの癖に、KGBや内務省とパイプがあったんだ。だから奴との対立、もしくは敵に回すことは終わりを意味していた……」
そう語る彼の表情は強張り、目つきは細められていた。彼もまた、ニコライに対して嫌な思い出があるのだろう。
「奴のせいで将来を潰されたアカデミックの人間は数知れない……。それに奴は同じドイツ人捕虜への人体実験にも躊躇しなかった。むしろ、丁度良いモルモットだと言って好んでドイツ人を使っていた……! 信じられるか?! 同じドイツ人にだぞ?! あんな血も涙もない奴なら、非人道的な実験の1つや2つはやっていてもおかしくは無い! 」
「じゃあ、その彼がやっていた、祖国を守る槍作戦については何か知ってる? 」
するとイワノフの目が泳ぐ。思い出しているのか、それとも言いたくない事情があるのか。ペンチをしまうと右手でハイパワーを抜いた。そして試しにその銃口でイワノフの額を小突いてみると、彼はビクッと肩を跳ねさせ、仰け反って銃口から離れた。
「か、隠す気はない!! 思い出してたんだ!! 」
そして唾を飛ばしながら言う。血が混じっていて少々汚い。
「さっさと言いなさい」
「……や、奴がナチス時代に主任として担当していた生物兵器の開発計画だよ!! ナチスが直々に関わってたらしい!! 」
生物兵器の開発計画? 吸血鬼であるレミリアが関わっている作戦が、まさか、そんな……。
……一体、その計画とレミリアはどう関係しているのだろう? そして博士は何者なのだ?
どんな計画なのか聞いてみよう。唯一の手掛かりだから、その研究の正体が分かればそれらの疑問も解けて、レミリアへの手掛かりになるのは間違いない。
「それはどんな計画だったの? 」
だがイエスには、私をクソ溜めから出す気はないらしかった。
「わ、分からない。……俺が読んだ資料にちょっと載ってただけで……」
Jesus...。私はその言葉に思わず溜息を吐いた。コレだけがレミリアへの手掛かりなのに……。
けど、まあ……いい。
私は身を竦ませ続けているピザ野郎に虚ろな目を向けた。
何も知らないなんてことはあり得ない……。研究の手掛かりになりそうなものは、何が何でも吐かせてやる。
イワノフを足蹴りにして椅子ごと後ろに押し倒す。そして床に転がり出た彼の頭髪を掴んで引き立てると、顔を寄せて囁いた。
「手掛かりになるものならなんでも良い。吐け」
低い声で囁くとイワノフは声を張り上げて叫んだ。
「わ、分かった!! 分かったから!! ……とっ、とっておきのを……くれてやるから離してくれ!!! 」
とっておきのハッタリか何かは分からないが、取り合えず離してやる。
すると彼は内股でよたよたと机に歩み寄り、片手で引き出しから一つの茶封筒を出してベッドの上に放り投げた。なんだこの茶封筒は?
それをを顎でしゃくると私は聞いた。
「これは? 」
「そ、それは…ニコライが……奴が俺が亡命する前に送って来た手紙だ!! 送り元に奴の住所が書いてある!! そこに行って手掛かりでもなんでも探せばいい!! もうコレ以上は何も知らない!! 」
顔を真っ赤にしてイワノフは叫ぶ。
ふぅん、と私は呟いた。しかし内心では跳び上がってしまいたいのを抑えている。ニコライの住所。ここならば「祖国を守る槍作戦」についての資料がありそうだ。仮にそれが無くてもレミリアを探す上で、何かしら手掛かりになるモノはあるに違いない。
決まりだ。すぐにここへ行って、手掛かりを漁ろう。
だがその前に。
私はおもむろに顔を上げた。するとイワノフと目が合って、彼は察したのだろう、その表情が一気に凍りついた。
えぇ、しょうがないのだ。私がここに来たのを言い振らされる訳にはいかない。
「ひっ……」
彼は一歩、後ずさる。しかし彼の背後には開け放たれた窓があるだけで、そこにワイヤーはない。静まり返る室内で、私は立ち竦む彼の喉元に銃口を重ねた。刹那、辺りが白く光って雷鳴が轟くと、イワノフは堰を切ったかのように泣き叫んだ。
「うわあああああああああああああ!! 」
そして彼の手が手当たり次第に物を掴んでは、投げつけて来る。私はそれを避けながら、ハイパワーの引き金を二度引いた。乾いた音が炸裂し、銃口から噴き出した硝煙が視界を白く覆う。その向こうでイワノフがもんどりうって倒れた。彼の鳩尾と右胸が抉れて、まるでそこに真っ赤な挽き肉を擦り付けたみたいになっていた。そしてそこから留め止めもなく血が滲み出て、床に広がっていく。
しかしイワノフの胸はまだ上下していた。なので彼の耳元に立つと、その目が私を捉えて見開かれる。憎悪に満ちた瞳だった。
「まだ何か教えてくれるの? 」
軽口を叩くと、その手が這い進んで私の踝を握り締めた。
「いいか……! 覚えておけ……! 」
そして声を振り絞りながらイワノフは言った。
「ニコライの周りを探ってるようだがな……!! 無駄、だ!! ヤツを見くびるなよ!! きっとお前は殺される!! 」
そう叫ぶと、イワノフは血飛沫を吐き出した。彼の顎や口の周りが赤い血に汚れる。
彼の言葉には、現実味を感じなかった。
この私が死ぬ?
レミリアと会えない?
私は首を振った。
「いいえ、違うわ。……分かってないわね」
確かに私はクズだ。
硝煙の臭いと血に塗れた戦闘機械だ。
吸血鬼どころか人を殺すことにも一切躊躇のない化けモノだ。
――――けれど。
「私に、バッドエンドなんて有り得ないの」
そっと、トリガーを引いた。
刹那の乾いた音。彼の額がスイカのように弾けて、辺りに赤い脳味噌の破片を飛び散らせた。
私はハイパワーを収める。そしてベッドの上の茶封筒を拾い上げて、目の前に翳した。そしてそこに記された住所を呟く。魔法のように。
「ソビエト連邦、モスクワ市中央区、トヴェルスカヤ通り、ボルベルクアパート908号室」
不意に口元が釣り上がるのが分かった。行き先がホーンデッドマンションだなんて、洒落が効いてるじゃないか。
私は封筒をポケットの中に滑り込ませる。そしてコートを翻すと部屋を出た。
やかましく呼び鈴が鳴り響いた。
その音に目が覚まされる。辺りは薄暗いスイートルームで、カーテンの隙間から差し込む朝日が、床の上に白く伸びていた。
……朝食はいらないと言った筈なのだが。
溜息を漏らしながら上半身を起こした。そしてベッドから降りると、ワイシャツを拾い上げて素肌の上から直に羽織る。
二度目のベルが鳴った。
……はいはい今行きますよ。私は適当に胸元のボタンを留めると、イライラとした足取りでドアへ向かう。そして覗き穴から外を窺うと、ドアの前に若いホテルボーイが立っていた。見た目は10代半ば。その右手には大きめのアタッシュケースがぶら下がっている。それを目にして私は思わず、あぁと呟いた。
頼んだ荷物が、無事に国境を潜り抜けてやってきたのだ。流石、魔女の仕事は抜けが無い。
私はドアを解錠すると引き開けた。
「Доброе утро.Является замечать вещи.....」
(おはようございます。お届けモノです――――)
ボーイがアタッシュケースを差し出した。そして私のはだけた姿を目にして、慌てて顔を伏せる。その頬は赤らんでいた。
「И, потому что это было, что как только получил, чтобы и немедленно...」
(と、届き次第、すぐにお持ちするようにとのことでしたので……)
ボーイが上ずった声で言った。
「Да.спасибо(えぇ。ありがとう)」
私はグリップを掴むとケースを受け取った。するとボーイが身体を引いて、そそくさとその場から去ろうとする。
「дать(待って)」
なので彼を呼び止めた。そしてシャツの胸ポケットから紙幣を取り出すと、彼の胸ポケットに差し込む。
「О,спасибо(……あ、ありがとうございます)」
困惑していたボーイの表情に、微かな喜色が浮かんだ。そんな彼を見て”私はもっと喜ばせたくなった。”
「Я ребенок,хорошо,мне понравилось. Я назначаю вас, пока вы Имя?」
(良い子ね、気に入ったわ。ここにいる間は貴方を指名してあげる。名前は? )
「...Я,Андрей Бобков」
(……ア、アンドレイ・ポブコフです)
「Так.Эй,Андрей.Там стоит?」
(そう。ねぇ、アンドレイ。寝癖が立ってるわよ? )
指先でアンドレイの髪に触れる。そして胸元を彼の目線に入るよう、わざと顔の近くに寄せた。
「ер,Ои...(え、あっ……)」
アンドレイはその場に硬直した。アプローチだとでも思ったのか、彼の顔はますます赤みを増し、今にも燃え上がりそうな程だった。
「Что?(なに? )」
だが私は何食わぬ顔をしながら、彼の髪に指先を絡めて弄ぶ。
すると突如として彼は後ずさり、私の指から逃れた。
「М жаль...,рубо!!(す……すみません、失礼します!! )」
そしてどもりながら謝ると、速足で逃げるように去ってしまった。
……シャイな子。
私はドアを閉めると、再び鍵を掛けた。
抱き込めたかは分からないが、あの様子ならホテル監視のチェーカー共に変なことは言わないだろう。
さっそく、お品物を拝見だ。
私は歩きながらケースを両腕で抱え込むと、指先で蓋の上をなぞる。するとケースの中から「カチャッ」と何かが解かれる音がした。
蓋を開ける。すると黒い布のようなモノが、畳んで置かれていた。
こんなモノを注文した覚えはない。なんだこれは?
怪訝に思い広げてみると、それは黒いワンピースドレスだった。フリルや装飾の一切が無いスマートなタイプで、シルクの生地が滑らかな光沢を帯びている。そしてご丁寧なことに、黒いカットシューズまでもが付いていた。
「私がダンスパーティーに行くとでも思ったのかしら」
魔女なりのユーモアのつもりか。しかしまあ「オマケ」としては、それなりに洒落が効いているかもしれない。私は中を隔てる板を外すと、黒々とした鋼鉄のボディ――――2挺のVz61スコーピオンと、スチェッキン・マシンピストルが収められていることを確認する。
私は片方のスチェッキンを手に取ると、そのセレクターを指で押し上げた。注文した通りの品だ。しかしハイパワーの代わりにしては、フルオート機能を付与したスチェッキンは少しキワモノ過ぎたかも知れない。まあ、それ故に以前から興味を持っていたのだが。それに、得物がマカロフやトカレフでは心許ないことこの上ない。今私は、教会の力の及ばぬ地にいるのだ。
私はスチェッキンをケースに戻すと、静かに蓋を閉じた。
そしてアタッシュケースを長机の上に置く。その周囲には、ワイヤー、ハーネス、ペンチなどの機材が整列している。私の旅のお供達。
―――これで必要なモノは全て揃った。後は……。
真紅のカーテンを引き開けると、眩しい朝日が顔を差した。
空は快晴。テラスへ降り立つと、清澄な空気が身体を包み、足裏がひんやりと冷たかった。
私は大理石の手すりに身を持たれる。眼下には、荘厳なロシア・バロック様式の街並みが広がっている。そしてその街並みの中から、1つの高層ビルがその灰色のシルエットを突き出させていた。
あれこそが、ニコライの住処があるアパート。
その周囲も、警備状況も、ここからならば全て一望の元把握できた。
私はそのシルエットに掌を重ねると、握り締める仕草をした。
もう、アレは私の手の内にある。
後は手を伸ばして掴み取るだけだ。そして誰も私がここにいることを知らない。
――――無駄、だ!! ヤツを見くびるなよ!! きっとお前は殺される!!
不意にそんなイワノフの言葉を思い出した。
そして嘲った。
きっと奴は知らなかったのだろう。
「運命」の存在を。
「バッドエンドは存在しない。――――それが運命だから」
レミリア。
私が求める、最愛の人。
私が愛する、運命の人。
私が彼女を求めるのも、私が彼女を愛するのも、それが運命だから。
だからきっと、バッドエンドなんて存在しないのだ。
運命が、こうやって私を導いてくれるのだ。
理由なんてない。証拠もない。けれどそれで構わない。理屈など必要無いんだ。私は全てを知っている。それだけでいいのだ。
「今日は良い一日になりそう」
アパートを眺めながら、私は歌うように囁いた。
あそこにある、レミリアへの手掛かりへ想いを馳せながら。