今泉影狼。彼女はいつも独りだった。
少し昔、彼女の一族は、絶滅という憂き目に遭った。
一族のなかで、幻想入りできたのは、彼女だけだった。
しかし、彼女は、どうしてもそれを受け止めることが出来なかった。
彼女は、毎日毎日、何度も何度も、吼え続けた。
もしかしたら、自分と同じように、外の世界から幻想入りできた仲間がいるかもしれない。
幻想郷に入ることは出来たが、怪我をしていたり病気になったりしていて、自分の声に返答することが出来ないでいるのかもしれない。
誰もが絶対にないと言い切れない以上、可能性はある。それが、どんなに低いものであったとしても。
だから、彼女は吼え続けた。
自分はここにいるぞ、と。
同族よ、君は独りじゃないぞ、と。
きっと、自分と同じ寂しさに襲われているであろう、まだ見ぬ仲間を鼓舞するために、彼女は吼えるのをやめなかった。
たとえ、心中に、もう仲間はいないんだ、皆ここには来ることが出来ずに、自分だけを残して滅んだのだ、という考えがよぎろうとも、頭を一振り、二振りし、邪念を追い払い、ただひたすらに吼え続けた。
だが、認めなければならない事実から、目を背け続けるということは、偽りの自分を演じなければならなくなるということだ。
それは、とてもとても、疲れることだ。
だから。
毎日毎日、吼えに吼え続けた彼女は、ある日、とてつもない疲労感に苛まれた。
疲労は、頭で考える力を失わせてしまう。
何も、考えることが出来ない。
否。
彼女の頭に浮かぶのは、目を背けてきた現実。
かつての仲間たちは、もう、誰もいない。
脳裏に映るのは、たった独り、生き残ってしまった自分の姿。
わずかな希望を信じて、それだけをよりどころにして、一方的に決め込んで。
でも、それでも、やっぱり、自分には、誰も、いない。
空っぽになった頭が、途切れ途切れに思考を紡いでいく。
考えないようにしていたことを、改めて、自分に思い知らせるように。
そしてそれは、影狼が心のなかに作った防壁が崩れ落ちる瞬間でもあった。
露わになった彼女の心に向かって、寂しさが襲い掛かる。
影狼は頭を抱え、ぶんぶんと首を振り、邪念を振り払おうとするも、それは彼女にまとわりつき、離れようとしてくれない。
寂しい。
皆どこへ行ってしまったの。
どうして私だけが残ってしまったの。
寂しい。寂しい。
空っぽの胸のなかに、寂しさが流れ込んでくる。
そうして、心が寂しさであふれ返ったとき。
気が狂ったかのように、彼女は大声をあげ、外に飛び出し、吼えた。吼え続けた。
何十分も、何時間も、ずっと、ずっと、何度も何度も吼えた。
両眼からは、とめどなく涙があふれ、視界もおぼろで、上も下も分からない。
ただただ、彼女は吼え続ける。
意味もなく、信じるものもなく、ただ、吼え続ける。
寂しさを、まぎらわせるために。
そんな折だった。
わおーん。
遠く、山のほうから、返ってくる声があった。
はっとして顔を上げた影狼の頭のなかは、真っ白になった。
信じられないものが、聞こえてきた。
気が狂いすぎて、幻聴を聞いたのだろうか。
いや、それにしては、はっきりと聞こえた。
耳に残る、聞こえてきた遠吠えの声が、ドクン、と影狼の胸を打つ。
気が狂った自分に聞こえた、過去の仲間の声なのか。
それとも。
ドクン、と心臓が大きく鼓動を打つ。
確かめてみなければならない。
だが、もし、返ってこなければ。
そう思うと、キュッ、と胸が締め付けられる。
しかし、声が返ってこないかもしれない、という怖さに対し、影狼は、それでも、確かめたいと思った。
少し間を置いて、息を吸う。
そして、影狼は吼えた。いつもより、少し長く。いつもより、大きな声で。
吼え終わった後の沈黙。
声が返ってくるまでの間。
期待と不安とが入り混じり、影狼の心臓の鼓動が強く、早くなる。
少しの逡巡があって。
わおーん。
確かに、聞こえた。
気が狂って聞こえた幻聴ではない。
そう思った瞬間に、影狼の心のなかから寂しさが消え去った。
代わりに、嬉しさで心が一杯になった。
影狼は、吼えた。
何度も何度も何度も、吼えた。
嬉しくて、どうにかなってしまいそうで。
両眼からは、先ほどとは違う涙があふれた。
向こうから声が返ってくる。何度も、何度も。
影狼は、崩れ落ち、顔を抑え、声をあげてむせび泣いた。
たくさんの声が返ってくる。影狼に負けまいとするように。
影狼も、それに負けじと、喉がつぶれるまで、吼え続けた。
それからの影狼の生活は、少し変わっていった。
遠吠えをすることの意味が変わったのだ。
自分の遠吠えに、返答してくれるものがいる。
たったそれだけのことで、影狼は救われていた。
彼女は、毎日毎日、山に向かって遠吠えをした。
遠吠えをして、返ってくる声をいまかいまかと待ち侘び、わおーん、と返ってきたときは、涙を浮かべて喜んだ。
そんな日々が、過ぎていった。
そうして、影狼は、ついに決断をする。
向こうの山にいる、声の主に会う、と。
もしかしたら。
もしかしたら、声の主は、かつての影狼の仲間なのかもしれない。
見知った顔が、おお、久しぶりじゃないか、と喜び、かけ寄ってきてくれるかもしれない。
その様子を思い描くだけで、影狼の心は跳ねた。
しかし、あの山に行くには、少し勇気が要った。
あの山には、危険な妖怪がたくさんいる。
なかでも、多数を占める天狗。
彼らは縄張り意識が強く、誤って彼らのテリトリーに入ってしまえば、手痛い目にあうかもしれない。
だが、声の主に会いたい。一目、顔を見たい、という想いのほうが、そんな不安な想いよりも強かった。
一大決心した影狼は、山に飛び込んでいった。
山に入った影狼は、周囲を見回し、声の主がいないか探し回った。
ここで遠吠えをして、返ってくる声の方角で、あたりをつけるのも良かったかもしれない。
しかし、それにより、天狗などに見つかるリスクもあるため、それは避けた。
影狼が山の中に入ってから少しして、彼女は、一匹の妖怪と遭遇した。
猫の妖怪だった。
影狼の頭ひとつかふたつは小さかった。
影狼は、声の主のことを、この猫の妖怪に聞いてみることにした。
「ああ、響子のこと? 最近うるさくってかなわないよ」
幸いにも、この猫の妖怪は、声の主のことを知っているようだった。
声の主の名は、響子というらしい。
名前が分かっただけで、影狼の胸は、期待感で大きく跳ねた。
ついで、どこにいるか分かるか、と聞いてみると、猫の妖怪は、知っている、と答えた。
案内をしてもらえないか、とさらに頼んでみると、猫の妖怪は難しい顔をしていたが、影狼が、どうにか頼む、と頼み込むと、影狼の勢いに押されたのか、猫の妖怪は承諾してくれた。
そうして、猫の妖怪についていく形で、影狼は山の奥へと進んでいった。
数十分ほど、奥へ奥へと歩いてき、猫の妖怪が足を止めた。
「ここだよ」
ふたりが足を止めた先には、小さなボロ小屋が頼りなく建っていた。
ここに、響子とやらが住んでいるのか。
影狼の胸が、ドキ、ドキ、と高鳴る。
「じゃ」
それだけ言うと、猫の妖怪は去っていった。
影狼は猫の妖怪に深く頭を下げ、くるり、とボロ小屋に向き直る。
二、三回、深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
そして、意を決したように口を結ぶと、誰かいるか、と影狼は叫んだ。
「はーい」
快活な声が返ってくる。
ドキ、ドキ、と心臓が、破裂しそうなほどに強く、早く、大きな音を打つ。
一体どんな、いや、影狼の同族なのか、そうではないのか。
期待と、不安とが、丁度半分半分。
そして、ボロ小屋の戸が、ギィギィと音をたてて、開いた。
「……んー? 誰?」
出てきたのは、小さな犬のような妖怪だった。
影狼の同族では、ない。
「あなたが、響子?」
「うん、そだよー。あなたは誰?」
「私は影狼。今泉影狼」
「かげろう、ね」
興味深そうに、響子は影狼を見つめる。
響子が影狼の同族でないということは、彼女の姿を見ただけで分かった。
分かっていながらも、影狼には、もう一つだけ、確かめなければならないことがあった。
「いつも、この山で遠吠えをしているのは、あなた?」
「うん、そうだけど……、あなたもうるさいって文句言いにきたの?」
「……違う。私は」
やはり。
猫の妖怪が言っていた通り、響子が影狼の遠吠えに返答していた声の主だった。
「私が、この山に向かって遠吠えをしている妖怪よ」
「……あなたが!」
声の主は、同族では、なかった。
「返ってくる声を聞いて、もしかしたら、かつての私の仲間が、私と同じように、ここに流れてきたのかと思った。でも」
だが、なぜだろう。
「違ったみたいね」
影狼は、それほどがっかりしていなかった。
「……ご、ごめんなさい」
「ううん、あなたは悪くない。それに」
バツが悪そうに謝る響子に、影狼は、薄く微笑んで首を振る。
「私は、嬉しかったから」
何かが、分かりかけているような気がした。
「私が、どんなに遠吠えをしても、誰も、何も、答えてくれなかった。ずっとずっと、答えてくれなかった。寂しくて、寂しくて、気が狂いそうになった」
「……っ」
響子が、何かを言いかけて、口をつぐんだ。
影狼は、思いのままに、続ける。
「だから、あなたから声が返ってきたとき、私は、本当に嬉しかった。独りじゃないんだって、私に、声を返してくれるひとがいるんだって。そう思ったら、すごく、嬉しくて、胸のなかが温かくなった」
声に出してみたことで、影狼は、初めて理解することができた。
実際には、声の主が同族なのかどうかは、どうでも良かったのだ。
自分に、声を返してくれるひとがいる。そしてそれが、幻でも気のせいでもなく、目の前に、ちゃんと存在している。それを確認できたことが、嬉しかったのだ。
「わ、私もだよ!」
響子が叫ぶ。
「私、私も、あなたが吼えてきてくれるから、一生懸命、負けないように返そうとしたの。そうしたら、あなたは何度も何度も吼えてきてくれた。それが、私も、すごく嬉しかった」
響子の言葉に、影狼は、その本意を図りかねて、目を瞬いた。
「みんなが、やまびこなんて、自然現象だって、決め付けて、私たちを無視するようになっちゃって。私の仲間、皆、消えていっちゃって、私、寂しくって」
響子の声は、震えていた。
目には、涙を浮かべていた。
「もう、やまびこなんて、やめちゃおうって思ってた」
自己の否定。
それが、妖怪にとって、何を意味するのか。
そんな決断をしてしまうほどに、彼女もまた、追い詰められていたということか。
「そんなときに、あなたが何度も何度も遠吠えをしてきて。最初、うるさくって。でも、我慢してたんだけど、もう我慢できなくなって。驚かせてやろうと思って、あなたにやまびこを返したの」
影狼は、黙って彼女の話に耳を傾ける。
その表情は、彼女が久しくしたことのないような、優しい、柔らかな表情をしていた。
「そうしたら、あなたがすぐに声を返してきてくれて。私は、すごく、すごく嬉しかったんだよ!」
響子の目から、つ、と涙がひとすじ、こぼれた。
「あなたに声を返して、また、返ってきて。ああ、やまびこってこうだったんだ。私は、まだ忘れられてないんだって。嬉しくて、嬉しくて……!」
堪えきれなくなったのか、響子の目から、涙があふれた。
嗚咽をあげながら、それでもなお、響子は続ける。
「あり、ありがとう……!」
「……響子」
影狼は、響子に近づくと、彼女の身体を優しく抱き寄せた。
小さな身体は、ふるふると震えていた。
「私のほうこそ、あなたにありがとうって言いたかった。あなたのおかげで、私は救われてた」
影狼は、響子の身体をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう」
響子の頬に、自身の頬を擦りつけて、影狼は感謝の言葉を口にする。
「私は、私たちは、一人じゃない。独りじゃ、ない」
「……うん。もう、独りじゃ、ない!」
二人は、互いの瞳を見て。
誰よりも、何よりも、嬉しそうに、笑った。
今泉影狼は、今日も山に向かって遠吠えをする。
かつてのように、寂しさを紛らわせるためでもなく、寂しさで一杯だったあの頃とは、何もかもが違う。
昔の仲間たちにしていたように、影狼は、遠吠えをする。
それは、ただの挨拶のようなもので。
影狼は、頬を緩めて、笑っていて。
そうして、向こうから、声が返ってくる。
やまびこにしては、影狼よりも嬉しそうで、影狼よりも大きな声で。
それを受けて、影狼は、心の底から嬉しそうに笑い、もう一度、遠吠えをする。
もっと嬉しそうに。もっと大きな声で。
少し昔、彼女の一族は、絶滅という憂き目に遭った。
一族のなかで、幻想入りできたのは、彼女だけだった。
しかし、彼女は、どうしてもそれを受け止めることが出来なかった。
彼女は、毎日毎日、何度も何度も、吼え続けた。
もしかしたら、自分と同じように、外の世界から幻想入りできた仲間がいるかもしれない。
幻想郷に入ることは出来たが、怪我をしていたり病気になったりしていて、自分の声に返答することが出来ないでいるのかもしれない。
誰もが絶対にないと言い切れない以上、可能性はある。それが、どんなに低いものであったとしても。
だから、彼女は吼え続けた。
自分はここにいるぞ、と。
同族よ、君は独りじゃないぞ、と。
きっと、自分と同じ寂しさに襲われているであろう、まだ見ぬ仲間を鼓舞するために、彼女は吼えるのをやめなかった。
たとえ、心中に、もう仲間はいないんだ、皆ここには来ることが出来ずに、自分だけを残して滅んだのだ、という考えがよぎろうとも、頭を一振り、二振りし、邪念を追い払い、ただひたすらに吼え続けた。
だが、認めなければならない事実から、目を背け続けるということは、偽りの自分を演じなければならなくなるということだ。
それは、とてもとても、疲れることだ。
だから。
毎日毎日、吼えに吼え続けた彼女は、ある日、とてつもない疲労感に苛まれた。
疲労は、頭で考える力を失わせてしまう。
何も、考えることが出来ない。
否。
彼女の頭に浮かぶのは、目を背けてきた現実。
かつての仲間たちは、もう、誰もいない。
脳裏に映るのは、たった独り、生き残ってしまった自分の姿。
わずかな希望を信じて、それだけをよりどころにして、一方的に決め込んで。
でも、それでも、やっぱり、自分には、誰も、いない。
空っぽになった頭が、途切れ途切れに思考を紡いでいく。
考えないようにしていたことを、改めて、自分に思い知らせるように。
そしてそれは、影狼が心のなかに作った防壁が崩れ落ちる瞬間でもあった。
露わになった彼女の心に向かって、寂しさが襲い掛かる。
影狼は頭を抱え、ぶんぶんと首を振り、邪念を振り払おうとするも、それは彼女にまとわりつき、離れようとしてくれない。
寂しい。
皆どこへ行ってしまったの。
どうして私だけが残ってしまったの。
寂しい。寂しい。
空っぽの胸のなかに、寂しさが流れ込んでくる。
そうして、心が寂しさであふれ返ったとき。
気が狂ったかのように、彼女は大声をあげ、外に飛び出し、吼えた。吼え続けた。
何十分も、何時間も、ずっと、ずっと、何度も何度も吼えた。
両眼からは、とめどなく涙があふれ、視界もおぼろで、上も下も分からない。
ただただ、彼女は吼え続ける。
意味もなく、信じるものもなく、ただ、吼え続ける。
寂しさを、まぎらわせるために。
そんな折だった。
わおーん。
遠く、山のほうから、返ってくる声があった。
はっとして顔を上げた影狼の頭のなかは、真っ白になった。
信じられないものが、聞こえてきた。
気が狂いすぎて、幻聴を聞いたのだろうか。
いや、それにしては、はっきりと聞こえた。
耳に残る、聞こえてきた遠吠えの声が、ドクン、と影狼の胸を打つ。
気が狂った自分に聞こえた、過去の仲間の声なのか。
それとも。
ドクン、と心臓が大きく鼓動を打つ。
確かめてみなければならない。
だが、もし、返ってこなければ。
そう思うと、キュッ、と胸が締め付けられる。
しかし、声が返ってこないかもしれない、という怖さに対し、影狼は、それでも、確かめたいと思った。
少し間を置いて、息を吸う。
そして、影狼は吼えた。いつもより、少し長く。いつもより、大きな声で。
吼え終わった後の沈黙。
声が返ってくるまでの間。
期待と不安とが入り混じり、影狼の心臓の鼓動が強く、早くなる。
少しの逡巡があって。
わおーん。
確かに、聞こえた。
気が狂って聞こえた幻聴ではない。
そう思った瞬間に、影狼の心のなかから寂しさが消え去った。
代わりに、嬉しさで心が一杯になった。
影狼は、吼えた。
何度も何度も何度も、吼えた。
嬉しくて、どうにかなってしまいそうで。
両眼からは、先ほどとは違う涙があふれた。
向こうから声が返ってくる。何度も、何度も。
影狼は、崩れ落ち、顔を抑え、声をあげてむせび泣いた。
たくさんの声が返ってくる。影狼に負けまいとするように。
影狼も、それに負けじと、喉がつぶれるまで、吼え続けた。
それからの影狼の生活は、少し変わっていった。
遠吠えをすることの意味が変わったのだ。
自分の遠吠えに、返答してくれるものがいる。
たったそれだけのことで、影狼は救われていた。
彼女は、毎日毎日、山に向かって遠吠えをした。
遠吠えをして、返ってくる声をいまかいまかと待ち侘び、わおーん、と返ってきたときは、涙を浮かべて喜んだ。
そんな日々が、過ぎていった。
そうして、影狼は、ついに決断をする。
向こうの山にいる、声の主に会う、と。
もしかしたら。
もしかしたら、声の主は、かつての影狼の仲間なのかもしれない。
見知った顔が、おお、久しぶりじゃないか、と喜び、かけ寄ってきてくれるかもしれない。
その様子を思い描くだけで、影狼の心は跳ねた。
しかし、あの山に行くには、少し勇気が要った。
あの山には、危険な妖怪がたくさんいる。
なかでも、多数を占める天狗。
彼らは縄張り意識が強く、誤って彼らのテリトリーに入ってしまえば、手痛い目にあうかもしれない。
だが、声の主に会いたい。一目、顔を見たい、という想いのほうが、そんな不安な想いよりも強かった。
一大決心した影狼は、山に飛び込んでいった。
山に入った影狼は、周囲を見回し、声の主がいないか探し回った。
ここで遠吠えをして、返ってくる声の方角で、あたりをつけるのも良かったかもしれない。
しかし、それにより、天狗などに見つかるリスクもあるため、それは避けた。
影狼が山の中に入ってから少しして、彼女は、一匹の妖怪と遭遇した。
猫の妖怪だった。
影狼の頭ひとつかふたつは小さかった。
影狼は、声の主のことを、この猫の妖怪に聞いてみることにした。
「ああ、響子のこと? 最近うるさくってかなわないよ」
幸いにも、この猫の妖怪は、声の主のことを知っているようだった。
声の主の名は、響子というらしい。
名前が分かっただけで、影狼の胸は、期待感で大きく跳ねた。
ついで、どこにいるか分かるか、と聞いてみると、猫の妖怪は、知っている、と答えた。
案内をしてもらえないか、とさらに頼んでみると、猫の妖怪は難しい顔をしていたが、影狼が、どうにか頼む、と頼み込むと、影狼の勢いに押されたのか、猫の妖怪は承諾してくれた。
そうして、猫の妖怪についていく形で、影狼は山の奥へと進んでいった。
数十分ほど、奥へ奥へと歩いてき、猫の妖怪が足を止めた。
「ここだよ」
ふたりが足を止めた先には、小さなボロ小屋が頼りなく建っていた。
ここに、響子とやらが住んでいるのか。
影狼の胸が、ドキ、ドキ、と高鳴る。
「じゃ」
それだけ言うと、猫の妖怪は去っていった。
影狼は猫の妖怪に深く頭を下げ、くるり、とボロ小屋に向き直る。
二、三回、深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
そして、意を決したように口を結ぶと、誰かいるか、と影狼は叫んだ。
「はーい」
快活な声が返ってくる。
ドキ、ドキ、と心臓が、破裂しそうなほどに強く、早く、大きな音を打つ。
一体どんな、いや、影狼の同族なのか、そうではないのか。
期待と、不安とが、丁度半分半分。
そして、ボロ小屋の戸が、ギィギィと音をたてて、開いた。
「……んー? 誰?」
出てきたのは、小さな犬のような妖怪だった。
影狼の同族では、ない。
「あなたが、響子?」
「うん、そだよー。あなたは誰?」
「私は影狼。今泉影狼」
「かげろう、ね」
興味深そうに、響子は影狼を見つめる。
響子が影狼の同族でないということは、彼女の姿を見ただけで分かった。
分かっていながらも、影狼には、もう一つだけ、確かめなければならないことがあった。
「いつも、この山で遠吠えをしているのは、あなた?」
「うん、そうだけど……、あなたもうるさいって文句言いにきたの?」
「……違う。私は」
やはり。
猫の妖怪が言っていた通り、響子が影狼の遠吠えに返答していた声の主だった。
「私が、この山に向かって遠吠えをしている妖怪よ」
「……あなたが!」
声の主は、同族では、なかった。
「返ってくる声を聞いて、もしかしたら、かつての私の仲間が、私と同じように、ここに流れてきたのかと思った。でも」
だが、なぜだろう。
「違ったみたいね」
影狼は、それほどがっかりしていなかった。
「……ご、ごめんなさい」
「ううん、あなたは悪くない。それに」
バツが悪そうに謝る響子に、影狼は、薄く微笑んで首を振る。
「私は、嬉しかったから」
何かが、分かりかけているような気がした。
「私が、どんなに遠吠えをしても、誰も、何も、答えてくれなかった。ずっとずっと、答えてくれなかった。寂しくて、寂しくて、気が狂いそうになった」
「……っ」
響子が、何かを言いかけて、口をつぐんだ。
影狼は、思いのままに、続ける。
「だから、あなたから声が返ってきたとき、私は、本当に嬉しかった。独りじゃないんだって、私に、声を返してくれるひとがいるんだって。そう思ったら、すごく、嬉しくて、胸のなかが温かくなった」
声に出してみたことで、影狼は、初めて理解することができた。
実際には、声の主が同族なのかどうかは、どうでも良かったのだ。
自分に、声を返してくれるひとがいる。そしてそれが、幻でも気のせいでもなく、目の前に、ちゃんと存在している。それを確認できたことが、嬉しかったのだ。
「わ、私もだよ!」
響子が叫ぶ。
「私、私も、あなたが吼えてきてくれるから、一生懸命、負けないように返そうとしたの。そうしたら、あなたは何度も何度も吼えてきてくれた。それが、私も、すごく嬉しかった」
響子の言葉に、影狼は、その本意を図りかねて、目を瞬いた。
「みんなが、やまびこなんて、自然現象だって、決め付けて、私たちを無視するようになっちゃって。私の仲間、皆、消えていっちゃって、私、寂しくって」
響子の声は、震えていた。
目には、涙を浮かべていた。
「もう、やまびこなんて、やめちゃおうって思ってた」
自己の否定。
それが、妖怪にとって、何を意味するのか。
そんな決断をしてしまうほどに、彼女もまた、追い詰められていたということか。
「そんなときに、あなたが何度も何度も遠吠えをしてきて。最初、うるさくって。でも、我慢してたんだけど、もう我慢できなくなって。驚かせてやろうと思って、あなたにやまびこを返したの」
影狼は、黙って彼女の話に耳を傾ける。
その表情は、彼女が久しくしたことのないような、優しい、柔らかな表情をしていた。
「そうしたら、あなたがすぐに声を返してきてくれて。私は、すごく、すごく嬉しかったんだよ!」
響子の目から、つ、と涙がひとすじ、こぼれた。
「あなたに声を返して、また、返ってきて。ああ、やまびこってこうだったんだ。私は、まだ忘れられてないんだって。嬉しくて、嬉しくて……!」
堪えきれなくなったのか、響子の目から、涙があふれた。
嗚咽をあげながら、それでもなお、響子は続ける。
「あり、ありがとう……!」
「……響子」
影狼は、響子に近づくと、彼女の身体を優しく抱き寄せた。
小さな身体は、ふるふると震えていた。
「私のほうこそ、あなたにありがとうって言いたかった。あなたのおかげで、私は救われてた」
影狼は、響子の身体をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう」
響子の頬に、自身の頬を擦りつけて、影狼は感謝の言葉を口にする。
「私は、私たちは、一人じゃない。独りじゃ、ない」
「……うん。もう、独りじゃ、ない!」
二人は、互いの瞳を見て。
誰よりも、何よりも、嬉しそうに、笑った。
今泉影狼は、今日も山に向かって遠吠えをする。
かつてのように、寂しさを紛らわせるためでもなく、寂しさで一杯だったあの頃とは、何もかもが違う。
昔の仲間たちにしていたように、影狼は、遠吠えをする。
それは、ただの挨拶のようなもので。
影狼は、頬を緩めて、笑っていて。
そうして、向こうから、声が返ってくる。
やまびこにしては、影狼よりも嬉しそうで、影狼よりも大きな声で。
それを受けて、影狼は、心の底から嬉しそうに笑い、もう一度、遠吠えをする。
もっと嬉しそうに。もっと大きな声で。
タグの時点で響子の山彦って分かってたので、遠吠えが返ってきて歓喜する影狼がもうね……切なすぎて。
これ顔を合わせちゃったらもっと切ないんじゃないのって不安がりながら読み進めてみたら……。
切なく、けれどそれ以上に優しい出逢いになって感動しました。
救われたのは影狼だけじゃなく、救ったのも響子だけじゃなかった。
泣けるぜ……こういうの好きだなー。
その後の影狼の幻想郷ライフも楽しそうで何より。
わかさぎ姫にぶーたれるとか可愛すぎるでしょう?
最後で嬉しそうに遠吠えしてる影狼の笑顔がありありと瞼の裏に浮かんできました。
そんな雰囲気にやられました
返答の主が響子だと知ったときどうなっちゃうんだろと思ったけど
2人が出会ったとき、ああ両方とも仲間を求めていたんだなと
良い結末で良かったです。謝謝。
なんかこう、熱いものが込み上げてくる。
――と思いきや、読んで納得の組み合わせ
良いお話でした
遠吠えの意味が変わるというのがなんともいい……
やまびこも孤独やったんやな。
良い話しだわー
物凄く良かったです。
やまびこと結びつけたのも面白かったですが、個人的に落とし所が微妙だったので80で
展開はあともう一捻りくらいできると思いますが、こういう設定を深める感じのは好きです
なんだろう、このまま絵本や小学生向けの本の題材にしても良さそうな気がしました。
影狼と響子、で冒頭の遠吠えの箇所を読んで
「あ、影狼が勘違いして期待だけ大きくして裏切られて絶望するんだろうか」
とか思った私は心が汚れています。
二人ともとてもかわいらしく、ほっこりしました。
響子との組み合わせはいい発想だと思いました
とってもよい……。
衆人環視の前で目が潤んだ……