いつもどおりに授業をし、いつもどおりに生徒たちを見送り、いつもどおりに明日の授業の準備をして寺子屋を後にした上白沢慧音は、誰かに「こんにちは」と声をかけられた。ハスキーだけど、透明な声。慧音が振り向くと、声の主はすぐに見つかった。銀灰の髪に、紺色の給仕服。紅魔館の完璧なるメイド、十六夜咲夜である。
慧音はいささか驚きながら挨拶を返す。
「これはこれは、十六夜殿。こんにちは。珍しいですね、こんなところで会うとは」
慧音は、咲夜が度々人里に下りて、必要な日用品を購入していることは知っていた。しかし、人里の商店街と寺子屋は反対の方角にある。だから、慧音が人里で咲夜の姿を見ることは、ほとんどない。
「ええ。本日は、上白沢先生に用事がございまして、伺わせていただきました」
「私に?」
咲夜の言葉に慧音が身を固くする。何か人里絡みの事件でも起こったのか。
「そう身構えないでくださいませ。個人的な用事ですわ。実は、私、先生にお願いがありますの」
慧音が身構えるのを予想していたかのように、咲夜が言葉を続ける。個人的なお願い。慧音は、この少女が自分にお願いをすること自体が、ある意味異変ではないか、と思った。
「そうなのですか。私で力になれることであればよいのですが。まあ、とにかく、お話を聞かせていただきたい」
「お願いします。このあとお時間、大丈夫でしょうか? 立ち話もなんですから、どこかお店に入りましょう。なかなか良い茶葉を使っている店を見つけましたの」
「私は大丈夫ですが……。十六夜殿は、お仕事に差し支えはないのでしょうか?」
咲夜はいたずらっぽく笑う。二人は並んで歩きだす。その様子は、花壇の花も恥じらうほどに華やかである。
「ご心配には及びません。本日の仕事は済ませてしまいました。夜になるまでは、私の自由時間です」
なるほど夕方とはいえ、まだ十分に日が高い。吸血鬼のお嬢様は、もうしばらく夢の中なのだろう、と慧音は見当をつける。
いくばくか連れ立って歩みを進めるうちに、咲夜おすすめの喫茶店についた。こじゃれた店だが華美ではない。二人は窓際の席について、紅茶とケーキを注文する。洋菓子を食べるのは久しぶりで、慧音の心は少しはずんだ。
「家庭教師、ですか……」
「ええ。里の賢者と名高い上白沢先生が最も適役だと考えまして」
慧音はダージリンで湿らせた口を開く。
「しかし、紅魔のお屋敷には、ノーレッジ殿がいらっしゃるはず。あらゆる書物に精通し、百年以上知識を蓄えてきた彼女の方が、ふさわしい役目なのでは?」
「知識量と教師としての才能は比例しませんわ。何より、パチュリー様がこのような願いを聞き入れてくださるとは思えません」
咲夜は苦笑する。しかし、その笑顔に嫌味はなく、むしろ偏屈な知識人に対する親愛と尊敬の念が見て取れる。
「しかし……五百年を生きる吸血鬼のお嬢様に、一介の教師である私が教えられることなんて、何も」
恐縮する慧音に、「あら」と咲夜は目をぱちくりとさせると、くすくす笑い出した。
「いやですわ、上白沢先生。家庭教師の生徒は、お嬢様でも、まして妹様でもございません」
「と、いうと」
「ええ、私ですわ。上白沢先生。私、あなたにご教授を願いたいのでございます」
今日、この短い時間の間に、何度となく咲夜に驚かされてきた慧音であったが、これは本日一番の爆弾であった。慧音はあっけにとられる。
「し、しかし、十六夜殿。あなたは以前、これ以上館に知識人は不要であるとおっしゃったではないですか」
「あら、私が心変わりしては、だめかしら」
咲夜はフォークをエクレアに刺す。キャラメルのかかったパイ生地にヒビが入る。
「何もあなたを食客として迎える、という話ではありません。私、授業というものを受けたことがなくて、少しだけ、興味がありますの。先生のご都合のつく限りでよろしいのですわ。それに、完璧な従者としてお嬢様に仕えるために、必要でない知識なんて、ありませんもの」
咲夜の話を聞いて、慧音はますます驚くと同時に、何故だか安堵した。前者は、このプライドの高いメイドが、しがない寺子屋教師である自分を教師として指名したことについて。後者は、必要のない知識などない、と言い切る咲夜が、自尊的で、有能な、普通の若者のように思えて、つい微笑ましくなってしまったことについて、である。
咲夜のエクレアの皿がすっかりきれいになり、慧音のシフォンケーキのクリームが少し乾いてきてしまった頃、ようやく、慧音は咲夜の依頼を引き受けることにした。
慧音が咲夜に教える科目は、主に歴史学、政治学、ごくたまに、数学。咲夜は嫌味なまでに優秀であり、最初はこの二人きりの授業に乗り気とはいえなかった慧音も、思わぬ優秀な生徒との語らいに夢中になった。二人の授業は、咲夜の自室でひっそりと、週に一回ほどのペースで行われた。授業が終わった後に、館の主であるレミリアにお茶に招かれることもあった。レミリアは高位の悪魔であるという自負から、慧音に対して不遜な態度を貫いていたが、その実、やはり彼女の授業に興味はあったようで、「やっぱり、妹の家庭教師もやらない?」と何度か誘いをかけてきた。
その度、咲夜は「上白沢先生に、妹様のお相手は荷が重いと思われます」とか、「いくら先生とはいえ、紅魔館の奥深くの地下に、外部の者を入れるのは、賛成しませんわ」などと言って、レミリアの提案に意見をした。このように、毎回違う理由で意見されるのが面白かったのか、レミリアは咲夜の反応を見るために、慧音を家庭教師に誘っているようにも見えた。
人間である咲夜にとってはそれなりに長い時間が経つにつれて、慧音は紅魔館に通うのが楽しみになっていった。
優秀な生徒である咲夜との議論は楽しかったし、お許しが出ると入れてもらえるパチュリーの大図書館の本たちは、慧音の知識欲をすこぶる煽った。レミリアに同席させてもらって頂く紅茶はとても美味しかったし、明るく気のいい門番とは案外話が合って、授業のあと、夜がとっぷりふけるまで話し込むこともあった。
「慧音先生」
授業をするとき、咲夜は、慧音のことをそう呼んだ。レミリアなどの前では、他人行儀に「上白沢先生」を貫くのに。しかし、慧音はそのことに触れなかったし、咲夜も、何故そのように慧音のことを呼び分けるかについて何も言わなかった。だから慧音も、二人きりで授業をする間は、「咲夜殿」と呼んだ。そのような些細なことがどんどん重なって、二人の距離は、急速に近しくなっていった。
二人でいるとき、咲夜は、意外なほどよく笑った。完璧で瀟洒な吸血鬼の忠実なるメイドではなく、まるで、ただの少女のように。だから慧音もつられて笑顔が増えた。さっぱり事情を知らない者が二人の話し声だけを聞いていたら、きっと、教師と生徒が授業をしているようには思えなかったであろう。二人が部屋で過ごす時間は、パジャマパーティーのように華やかで、密やかで、知的であった。
「今日はスチュワート朝の歴史でも見よう」
咲夜はエリザベス一世を贔屓にしているので、メアリへの評価は厳しめである。慧音は、咲夜に外の世界の歴史も積極的に教えた。もちろん、誰にでもこの講義をするわけではないが、その点、咲夜は生徒として、慧音のお眼鏡にかなっていたようだ。
慧音の、幻想郷最高峰といえる歴史学の授業を、咲夜はスムーズに吸収し、理解していった。特に、外の世界の歴史についての咲夜の理解力はずば抜けており、慧音が舌を巻くほどであった。――ただ。ただ、ひとつ気になることがあるとすれば、咲夜は、外の世界の歴史を理解しすぎているように、慧音には思えた。初めは、彼女の高い知性ゆえだと思っていたのだが、一度気付いた違和感が積み重なっていくにつれ、慧音は、これを気のせいの一言で片付けることができなくなっていった。
たとえば、慧音がある歴史的事項について質問をする。それに対して咲夜は、『そのあとに起こることを知っていなければ』答えられないような答えを返す。ただ、『そのあとに起こること』について詳しく訊いてみても、答えられないので、おぼろげな知識ではあるらしい。パチュリーの大図書館にある歴史書で、予習をしていたのかと疑ったこともある。しかし、本人に訊いてみても、そんなことはしていないという。咲夜は嘘をつく人間ではない。それに、予習をする余裕があるほど、紅魔館における咲夜の仕事は少なくない。そうだとすると、必然的に答えは絞られてくる。
咲夜は、どこかで歴史の授業を受けたことがあるのだ。そのときに得た知識は、もうほとんど失われており、今はもう脳の端っこにこびりついているにすぎないとしても。
でも、彼女は授業を受けたことがないと言っていた。重ねて言うが、きっと咲夜は嘘をつかないと、慧音は確信している。
そうだとすれば、彼女は。
二人の授業が始まって、いくつかの季節が過ぎた。どんなに外が暑くても、寒くても、咲夜の部屋は変わらず快適である。
「慧音先生は美鈴と仲良しなのですね」
休憩時間に、咲夜がポツリと言う。「門番隊の妖精が、あなたと美鈴が夜中に逢引しているのを見た、と言っていましたわ」
「ああ、門の前での逢引ですけどね。意外に思われるかもしれませんが、私と美鈴殿は、なかなか趣味が合いまして。世間話をしていたら、ついつい、時間を忘れてしまって」
「本当に意外ですわ。そして美鈴が羨ましい。慧音先生と、そんなに長くおしゃべりができるなんて」
わざと拗ねたような声色をつくって、咲夜が言う。慧音はそれを微笑ましく思いながら、「私と咲夜殿だって仲良しでしょう」と返した。
「あなたはここのメイド長なのですから、お仕事が非常に多いのは、私でも理解できます。その分、限られた時間で、濃密な議論をしているのですから、良いじゃないですか」
「――あらあら、私、慧音先生に口説かれています? 残念ですけど、私は、お嬢様に仕える身ですので……」
「全く、口の減らない」
慧音が呆れたようなジェスチャーをすると、咲夜はコロコロと笑った。慧音と二人で、部屋にいるとき、彼女は年相応の笑顔を見せる。
「ふふ、ごめんなさい先生。なんだかおかしくって」
「私の話を聞いて、そのように大笑いしてくれる生徒は、あなたくらいのものですよ、本当に」
「だって、ふふふ。慧音先生ったら、間違ったことを言うんですもの」
「何?」
私の授業に誤った点があったのか。すわ、一大事とテキストをめくり始めた慧音の手を、咲夜は止める。
「ごめんなさい。授業は間違っていない、と思います。言葉足らずでしたわ」
「――なら、良いのですが……。では、一体どこが……?」
「私と慧音先生の時間は、限られてなんていませんの」
笑顔で、咲夜は言った。彼女の手は、慧音の手に重ねられたままである。素っ頓狂な彼女の言葉に、慧音の思考は思わず止まった。
「私の能力をご存知ですか」
時を止める程度の能力。慧音はもちろん知っている。何しろ、その力を目の前で見せつけられたことが、二回もある。
「私、慧音先生との授業が楽しくて。とても楽しくて、思わず、時間を止めていました。ばかね。時間を止めたら、ずっと一緒に授業ができるだなんて。慧音先生の時間も、止まってしまいますのにね。でも、私が慧音先生と一緒にいられる時間は、限りなく、増えました」
慧音は動かない。咲夜は続ける。
「慧音先生は、私が授業の先をカンニングしていると疑っていましたけど、私、ほんとにしていません。あなたと、この部屋でふたり、顔を突き合わせて授業をしている間以外は、歴史書なんて全く読みません。でも。あなたの言うとおり、なぜか私は、習っていないことを知っているみたい。それは、きっと、ここにきて、お嬢様に拾われる前の――」
「さ、咲夜殿!」
その先を、咲夜に言わせたくなくて、慧音は声を荒げる。どっと汗をかいている慧音の手のひらを、咲夜は力を込めて、つかむ。
「勘違いしないでください、先生。私、過去のことをどうこうなどと考えたことは、一切ありません。私は紅魔館でお嬢様に仕えるメイドですもの。十六夜咲夜は、それ以外の何者でもありません」
ただ、ふたりで、授業している間、私は、十六夜咲夜ではないわたしになったような気がして、それが思いのほか、楽しかったんです。私の中に、十六夜咲夜ではないわたしを、見つけてしまったのです。私、わたしを見くびっていました。『わたし』は捨てたはずだと思っていたのに。ああ、なのに。その『わたし』を知ることは、抗いがたいほどに魅力的なのです。
長いような、短いような数秒間の沈黙があった。
「歴史を、喰いましょうか」
沈黙を破って、慧音が言う。
「咲夜殿が、辛いのであれば。あなたの歴史を喰っても、今までどおり授業は続けていけるでしょう。何より、私もあなたと話すのはとても楽しい。この機会をなくすのは、惜しい」
咲夜が慧音を家庭教師として指名したのは、このためではないのか、と慧音は実はだいぶ前から考えていた。失われてしまった、だけども確かに存在する、咲夜の歴史を、無かったことにすることを、彼女は望んだのではないか、と。
慧音は伏せていた顔をあげた。咲夜と目が合う。彼女の深い色の瞳は、いつもどおり、とても冷静にみえる。しかし、慧音は、自分の手に重ねられていたはずの咲夜の手が、今となっては、きしむほどに、力を込めていることを知っている。
「……食べていただけるのですか」
ほんとうに、と咲夜は続ける。目は慧音からそらさない。慧音の表情をあますことなく捉えようとしている。
「私の歴史を食べて、一緒に、どこかへ行ってくれる覚悟が、あるのですか。ここを捨てて、友人を捨ててくれるのですか。わたしのために」
ここで、慧音は違和感に気付いた。咲夜の目が、慧音に問うているのだ。あなたは、『どちらの』歴史を喰ってくれるのか、と――。
ばかな。信じられない。慧音は戦慄する。
目の前の女は、十六夜咲夜だ。それ以外、慧音は知らない。そのはずだ。でも、慧音の知っている十六夜咲夜は、慧音にそんな問いかけは絶対にしない。なぜなら、彼女は完璧で瀟洒なる吸血鬼の従者、十六夜咲夜だからだ。その歴史を無かったことにする選択肢を彼女が提示するなんて、ありえない。それなのになぜ、十六夜咲夜がこのような問いかけをするのか。わからない。
慧音の思考はぐるぐるとまわった。回転の速い彼女の思考が、何度も何度も回っているうちに、咲夜は慧音の手を離した。あまりに強い力で掴まれていたため、彼女の手は少し痺れた。
「――冗談ですよ。本気になさいましたか?」
慧音の手をつかんでいた手を上品に口元にあてて、きわめていつもどおりの口調で、咲夜は言う。そこにいるのは、十六夜咲夜だと、慧音は思った。
「……年上を、からかうものではないよ」
だから慧音も、きわめていつもどおりの口調で、そう返した。
「あら、大人の余裕で、軽くかわしてくださると思っていましたのに」
「咲夜殿、あなたはまだあまりにも若いから、わからないかもしれないが、年をとってから手に入れてしまったものの方が、執着してしまうのですよ。つまり、大人の余裕なんて、そんなものは机上の空論なのです」
「それは、実体験ですか?」
「さあ」
部屋の空気が、もとに戻ってきていたように、慧音のは思えた。慧音はふっと息を吐く。その様子をじっと見ていた咲夜が、「慧音先生」と呼ぶ。
「何でしょう」
「私は、時間を止めることができます」
「はい」
「今、時間が止まっていますの」
咲夜の言葉に、慧音はきょとんとした。
「しかし、私はこうして動いていますよ」
「いいえ、この部屋は、時間が止まっています」
咲夜の表情は真剣だった。いや、この女は本当に咲夜なのか? 慧音は再び、目の前の人物が何者であるのかを考えなければ気が済まなくなった。
「この部屋の中でなら、わたしと慧音先生は、いつまでも、ふたりきりで、どこへでも行くことができるのです」
唇を三日月にかたどって、目の前の少女はそう言った。
そこにいるのは、誰なのか。慧音はそれを知りたくて、彼女から目をそらさない。
二人は永遠に見つめ合っていた。
慧音はいささか驚きながら挨拶を返す。
「これはこれは、十六夜殿。こんにちは。珍しいですね、こんなところで会うとは」
慧音は、咲夜が度々人里に下りて、必要な日用品を購入していることは知っていた。しかし、人里の商店街と寺子屋は反対の方角にある。だから、慧音が人里で咲夜の姿を見ることは、ほとんどない。
「ええ。本日は、上白沢先生に用事がございまして、伺わせていただきました」
「私に?」
咲夜の言葉に慧音が身を固くする。何か人里絡みの事件でも起こったのか。
「そう身構えないでくださいませ。個人的な用事ですわ。実は、私、先生にお願いがありますの」
慧音が身構えるのを予想していたかのように、咲夜が言葉を続ける。個人的なお願い。慧音は、この少女が自分にお願いをすること自体が、ある意味異変ではないか、と思った。
「そうなのですか。私で力になれることであればよいのですが。まあ、とにかく、お話を聞かせていただきたい」
「お願いします。このあとお時間、大丈夫でしょうか? 立ち話もなんですから、どこかお店に入りましょう。なかなか良い茶葉を使っている店を見つけましたの」
「私は大丈夫ですが……。十六夜殿は、お仕事に差し支えはないのでしょうか?」
咲夜はいたずらっぽく笑う。二人は並んで歩きだす。その様子は、花壇の花も恥じらうほどに華やかである。
「ご心配には及びません。本日の仕事は済ませてしまいました。夜になるまでは、私の自由時間です」
なるほど夕方とはいえ、まだ十分に日が高い。吸血鬼のお嬢様は、もうしばらく夢の中なのだろう、と慧音は見当をつける。
いくばくか連れ立って歩みを進めるうちに、咲夜おすすめの喫茶店についた。こじゃれた店だが華美ではない。二人は窓際の席について、紅茶とケーキを注文する。洋菓子を食べるのは久しぶりで、慧音の心は少しはずんだ。
「家庭教師、ですか……」
「ええ。里の賢者と名高い上白沢先生が最も適役だと考えまして」
慧音はダージリンで湿らせた口を開く。
「しかし、紅魔のお屋敷には、ノーレッジ殿がいらっしゃるはず。あらゆる書物に精通し、百年以上知識を蓄えてきた彼女の方が、ふさわしい役目なのでは?」
「知識量と教師としての才能は比例しませんわ。何より、パチュリー様がこのような願いを聞き入れてくださるとは思えません」
咲夜は苦笑する。しかし、その笑顔に嫌味はなく、むしろ偏屈な知識人に対する親愛と尊敬の念が見て取れる。
「しかし……五百年を生きる吸血鬼のお嬢様に、一介の教師である私が教えられることなんて、何も」
恐縮する慧音に、「あら」と咲夜は目をぱちくりとさせると、くすくす笑い出した。
「いやですわ、上白沢先生。家庭教師の生徒は、お嬢様でも、まして妹様でもございません」
「と、いうと」
「ええ、私ですわ。上白沢先生。私、あなたにご教授を願いたいのでございます」
今日、この短い時間の間に、何度となく咲夜に驚かされてきた慧音であったが、これは本日一番の爆弾であった。慧音はあっけにとられる。
「し、しかし、十六夜殿。あなたは以前、これ以上館に知識人は不要であるとおっしゃったではないですか」
「あら、私が心変わりしては、だめかしら」
咲夜はフォークをエクレアに刺す。キャラメルのかかったパイ生地にヒビが入る。
「何もあなたを食客として迎える、という話ではありません。私、授業というものを受けたことがなくて、少しだけ、興味がありますの。先生のご都合のつく限りでよろしいのですわ。それに、完璧な従者としてお嬢様に仕えるために、必要でない知識なんて、ありませんもの」
咲夜の話を聞いて、慧音はますます驚くと同時に、何故だか安堵した。前者は、このプライドの高いメイドが、しがない寺子屋教師である自分を教師として指名したことについて。後者は、必要のない知識などない、と言い切る咲夜が、自尊的で、有能な、普通の若者のように思えて、つい微笑ましくなってしまったことについて、である。
咲夜のエクレアの皿がすっかりきれいになり、慧音のシフォンケーキのクリームが少し乾いてきてしまった頃、ようやく、慧音は咲夜の依頼を引き受けることにした。
慧音が咲夜に教える科目は、主に歴史学、政治学、ごくたまに、数学。咲夜は嫌味なまでに優秀であり、最初はこの二人きりの授業に乗り気とはいえなかった慧音も、思わぬ優秀な生徒との語らいに夢中になった。二人の授業は、咲夜の自室でひっそりと、週に一回ほどのペースで行われた。授業が終わった後に、館の主であるレミリアにお茶に招かれることもあった。レミリアは高位の悪魔であるという自負から、慧音に対して不遜な態度を貫いていたが、その実、やはり彼女の授業に興味はあったようで、「やっぱり、妹の家庭教師もやらない?」と何度か誘いをかけてきた。
その度、咲夜は「上白沢先生に、妹様のお相手は荷が重いと思われます」とか、「いくら先生とはいえ、紅魔館の奥深くの地下に、外部の者を入れるのは、賛成しませんわ」などと言って、レミリアの提案に意見をした。このように、毎回違う理由で意見されるのが面白かったのか、レミリアは咲夜の反応を見るために、慧音を家庭教師に誘っているようにも見えた。
人間である咲夜にとってはそれなりに長い時間が経つにつれて、慧音は紅魔館に通うのが楽しみになっていった。
優秀な生徒である咲夜との議論は楽しかったし、お許しが出ると入れてもらえるパチュリーの大図書館の本たちは、慧音の知識欲をすこぶる煽った。レミリアに同席させてもらって頂く紅茶はとても美味しかったし、明るく気のいい門番とは案外話が合って、授業のあと、夜がとっぷりふけるまで話し込むこともあった。
「慧音先生」
授業をするとき、咲夜は、慧音のことをそう呼んだ。レミリアなどの前では、他人行儀に「上白沢先生」を貫くのに。しかし、慧音はそのことに触れなかったし、咲夜も、何故そのように慧音のことを呼び分けるかについて何も言わなかった。だから慧音も、二人きりで授業をする間は、「咲夜殿」と呼んだ。そのような些細なことがどんどん重なって、二人の距離は、急速に近しくなっていった。
二人でいるとき、咲夜は、意外なほどよく笑った。完璧で瀟洒な吸血鬼の忠実なるメイドではなく、まるで、ただの少女のように。だから慧音もつられて笑顔が増えた。さっぱり事情を知らない者が二人の話し声だけを聞いていたら、きっと、教師と生徒が授業をしているようには思えなかったであろう。二人が部屋で過ごす時間は、パジャマパーティーのように華やかで、密やかで、知的であった。
「今日はスチュワート朝の歴史でも見よう」
咲夜はエリザベス一世を贔屓にしているので、メアリへの評価は厳しめである。慧音は、咲夜に外の世界の歴史も積極的に教えた。もちろん、誰にでもこの講義をするわけではないが、その点、咲夜は生徒として、慧音のお眼鏡にかなっていたようだ。
慧音の、幻想郷最高峰といえる歴史学の授業を、咲夜はスムーズに吸収し、理解していった。特に、外の世界の歴史についての咲夜の理解力はずば抜けており、慧音が舌を巻くほどであった。――ただ。ただ、ひとつ気になることがあるとすれば、咲夜は、外の世界の歴史を理解しすぎているように、慧音には思えた。初めは、彼女の高い知性ゆえだと思っていたのだが、一度気付いた違和感が積み重なっていくにつれ、慧音は、これを気のせいの一言で片付けることができなくなっていった。
たとえば、慧音がある歴史的事項について質問をする。それに対して咲夜は、『そのあとに起こることを知っていなければ』答えられないような答えを返す。ただ、『そのあとに起こること』について詳しく訊いてみても、答えられないので、おぼろげな知識ではあるらしい。パチュリーの大図書館にある歴史書で、予習をしていたのかと疑ったこともある。しかし、本人に訊いてみても、そんなことはしていないという。咲夜は嘘をつく人間ではない。それに、予習をする余裕があるほど、紅魔館における咲夜の仕事は少なくない。そうだとすると、必然的に答えは絞られてくる。
咲夜は、どこかで歴史の授業を受けたことがあるのだ。そのときに得た知識は、もうほとんど失われており、今はもう脳の端っこにこびりついているにすぎないとしても。
でも、彼女は授業を受けたことがないと言っていた。重ねて言うが、きっと咲夜は嘘をつかないと、慧音は確信している。
そうだとすれば、彼女は。
二人の授業が始まって、いくつかの季節が過ぎた。どんなに外が暑くても、寒くても、咲夜の部屋は変わらず快適である。
「慧音先生は美鈴と仲良しなのですね」
休憩時間に、咲夜がポツリと言う。「門番隊の妖精が、あなたと美鈴が夜中に逢引しているのを見た、と言っていましたわ」
「ああ、門の前での逢引ですけどね。意外に思われるかもしれませんが、私と美鈴殿は、なかなか趣味が合いまして。世間話をしていたら、ついつい、時間を忘れてしまって」
「本当に意外ですわ。そして美鈴が羨ましい。慧音先生と、そんなに長くおしゃべりができるなんて」
わざと拗ねたような声色をつくって、咲夜が言う。慧音はそれを微笑ましく思いながら、「私と咲夜殿だって仲良しでしょう」と返した。
「あなたはここのメイド長なのですから、お仕事が非常に多いのは、私でも理解できます。その分、限られた時間で、濃密な議論をしているのですから、良いじゃないですか」
「――あらあら、私、慧音先生に口説かれています? 残念ですけど、私は、お嬢様に仕える身ですので……」
「全く、口の減らない」
慧音が呆れたようなジェスチャーをすると、咲夜はコロコロと笑った。慧音と二人で、部屋にいるとき、彼女は年相応の笑顔を見せる。
「ふふ、ごめんなさい先生。なんだかおかしくって」
「私の話を聞いて、そのように大笑いしてくれる生徒は、あなたくらいのものですよ、本当に」
「だって、ふふふ。慧音先生ったら、間違ったことを言うんですもの」
「何?」
私の授業に誤った点があったのか。すわ、一大事とテキストをめくり始めた慧音の手を、咲夜は止める。
「ごめんなさい。授業は間違っていない、と思います。言葉足らずでしたわ」
「――なら、良いのですが……。では、一体どこが……?」
「私と慧音先生の時間は、限られてなんていませんの」
笑顔で、咲夜は言った。彼女の手は、慧音の手に重ねられたままである。素っ頓狂な彼女の言葉に、慧音の思考は思わず止まった。
「私の能力をご存知ですか」
時を止める程度の能力。慧音はもちろん知っている。何しろ、その力を目の前で見せつけられたことが、二回もある。
「私、慧音先生との授業が楽しくて。とても楽しくて、思わず、時間を止めていました。ばかね。時間を止めたら、ずっと一緒に授業ができるだなんて。慧音先生の時間も、止まってしまいますのにね。でも、私が慧音先生と一緒にいられる時間は、限りなく、増えました」
慧音は動かない。咲夜は続ける。
「慧音先生は、私が授業の先をカンニングしていると疑っていましたけど、私、ほんとにしていません。あなたと、この部屋でふたり、顔を突き合わせて授業をしている間以外は、歴史書なんて全く読みません。でも。あなたの言うとおり、なぜか私は、習っていないことを知っているみたい。それは、きっと、ここにきて、お嬢様に拾われる前の――」
「さ、咲夜殿!」
その先を、咲夜に言わせたくなくて、慧音は声を荒げる。どっと汗をかいている慧音の手のひらを、咲夜は力を込めて、つかむ。
「勘違いしないでください、先生。私、過去のことをどうこうなどと考えたことは、一切ありません。私は紅魔館でお嬢様に仕えるメイドですもの。十六夜咲夜は、それ以外の何者でもありません」
ただ、ふたりで、授業している間、私は、十六夜咲夜ではないわたしになったような気がして、それが思いのほか、楽しかったんです。私の中に、十六夜咲夜ではないわたしを、見つけてしまったのです。私、わたしを見くびっていました。『わたし』は捨てたはずだと思っていたのに。ああ、なのに。その『わたし』を知ることは、抗いがたいほどに魅力的なのです。
長いような、短いような数秒間の沈黙があった。
「歴史を、喰いましょうか」
沈黙を破って、慧音が言う。
「咲夜殿が、辛いのであれば。あなたの歴史を喰っても、今までどおり授業は続けていけるでしょう。何より、私もあなたと話すのはとても楽しい。この機会をなくすのは、惜しい」
咲夜が慧音を家庭教師として指名したのは、このためではないのか、と慧音は実はだいぶ前から考えていた。失われてしまった、だけども確かに存在する、咲夜の歴史を、無かったことにすることを、彼女は望んだのではないか、と。
慧音は伏せていた顔をあげた。咲夜と目が合う。彼女の深い色の瞳は、いつもどおり、とても冷静にみえる。しかし、慧音は、自分の手に重ねられていたはずの咲夜の手が、今となっては、きしむほどに、力を込めていることを知っている。
「……食べていただけるのですか」
ほんとうに、と咲夜は続ける。目は慧音からそらさない。慧音の表情をあますことなく捉えようとしている。
「私の歴史を食べて、一緒に、どこかへ行ってくれる覚悟が、あるのですか。ここを捨てて、友人を捨ててくれるのですか。わたしのために」
ここで、慧音は違和感に気付いた。咲夜の目が、慧音に問うているのだ。あなたは、『どちらの』歴史を喰ってくれるのか、と――。
ばかな。信じられない。慧音は戦慄する。
目の前の女は、十六夜咲夜だ。それ以外、慧音は知らない。そのはずだ。でも、慧音の知っている十六夜咲夜は、慧音にそんな問いかけは絶対にしない。なぜなら、彼女は完璧で瀟洒なる吸血鬼の従者、十六夜咲夜だからだ。その歴史を無かったことにする選択肢を彼女が提示するなんて、ありえない。それなのになぜ、十六夜咲夜がこのような問いかけをするのか。わからない。
慧音の思考はぐるぐるとまわった。回転の速い彼女の思考が、何度も何度も回っているうちに、咲夜は慧音の手を離した。あまりに強い力で掴まれていたため、彼女の手は少し痺れた。
「――冗談ですよ。本気になさいましたか?」
慧音の手をつかんでいた手を上品に口元にあてて、きわめていつもどおりの口調で、咲夜は言う。そこにいるのは、十六夜咲夜だと、慧音は思った。
「……年上を、からかうものではないよ」
だから慧音も、きわめていつもどおりの口調で、そう返した。
「あら、大人の余裕で、軽くかわしてくださると思っていましたのに」
「咲夜殿、あなたはまだあまりにも若いから、わからないかもしれないが、年をとってから手に入れてしまったものの方が、執着してしまうのですよ。つまり、大人の余裕なんて、そんなものは机上の空論なのです」
「それは、実体験ですか?」
「さあ」
部屋の空気が、もとに戻ってきていたように、慧音のは思えた。慧音はふっと息を吐く。その様子をじっと見ていた咲夜が、「慧音先生」と呼ぶ。
「何でしょう」
「私は、時間を止めることができます」
「はい」
「今、時間が止まっていますの」
咲夜の言葉に、慧音はきょとんとした。
「しかし、私はこうして動いていますよ」
「いいえ、この部屋は、時間が止まっています」
咲夜の表情は真剣だった。いや、この女は本当に咲夜なのか? 慧音は再び、目の前の人物が何者であるのかを考えなければ気が済まなくなった。
「この部屋の中でなら、わたしと慧音先生は、いつまでも、ふたりきりで、どこへでも行くことができるのです」
唇を三日月にかたどって、目の前の少女はそう言った。
そこにいるのは、誰なのか。慧音はそれを知りたくて、彼女から目をそらさない。
二人は永遠に見つめ合っていた。
瀟洒で完璧でやる気のある生徒の咲夜さんとは案外相性は悪くないのかもと
思わせてくれました。
なかなか見られない組み合わせで斬新でした。
ただ後書きを読んで個人的に思った事をちょっと。
基本的にアイデンティティーから発生する神や妖怪と違って、
人間のアイデンティティーとは後付な物だと思うのです。
咲夜さんだってお嬢様に会うことで今のアイデンティティーが確立したわけですし。
人間とは変わる生き物、アイデンティティーとて人生の岐路で変わっていく。
つまり何が言いたいかというと
もこけねもいいけど、たまには咲慧もいいよね!
プライベートスクエア、という単語が頭に浮かびました。
1さん
慧音先生の難解な授業は、大人向けだと思うんですよね。あ、これ下ネタじゃないです。
正直、この二人を組み合わせるなんてありえない! と罵詈雑言が飛んでくるかと思いまして、ビクビクしながらあげました。
私のあとがきは、キャラ崩壊してるけど許してねwwwという壮大な予防線なので、あんま気にしないでくださいwww
そうですね、人間は変わる生き物です。たとえば私が仕事も友人も家族も捨ててしまったとしても、きっと私は私であることから逃れられません。ただ、さっきゅんは「お嬢様に仕えることが至上命題」のキャラクターだから(私がそう思ってるから)、そっから逃げたら、それは、咲夜さんの顔をした違うキャラクターになっちゃうのかな、と思って、こんなこと書いたんだと思います。
…なんか咲夜さん原理主義者にしばかれる気がしてきました。もっと踏んでください。
6さん
ごめんなさい! 難しいと思わせてしまってごめんなさい! 読み直してくれてありがとうございます!
この話で書きたかったのは咲夜さんとけーねの最後の会話なんです。
この、ふたりきりの箱の中でならば、二人は何にだってなれるのです。
つまり、これからも私はガンガンキャラを崩壊させていきますが、すべては箱の中の話なので許してね☆という話なんです。
8さん
今まで破廉恥な話ばかり書いていたので、精一杯格好つけた文章にあえてしてみた感じです。疲れたので、また破廉恥に揺り戻しがくるでしょう。
10さん
さっきゅんのスぺカですね!
彼女、時間とめてる間に休憩するとかずるくないですか? うらやましいです。
(ギャグ系統のSSで忠誠心も何もない咲夜を見ることはありますが)
なので、このような咲夜を見るのは新鮮です。勿論慧音も、二人の関係も。
もしも自分が咲夜の立場だったら、また慧音の立場だったら、どのような選択をするのだろうか、と
考えてしまいましたね。