命蓮寺の南側、数ある廊下の一番左側の隅の部屋。六畳一間、風呂無し、台所無し、使い古されたイグサの臭いが仄かに漂うどうしようもない一室が、命蓮寺内における私の唯一の居城だ。
丑三つ時を半刻ばかり過ぎた初夏の早朝、外に張り付く蝉の鳴き声を耳に入れながら私は薄く延ばされた敷き布団からむくりと起き上がった。
これからもって段々と増すであろう暑さを気にしながらも、また今日も一日が始まるのだろう。まったくもって余計なお世話である。
○
まだ朝も早いというのに、いかにして畳を効率よく日焼けさせられるかという事だけが我が生き甲斐、とでも言いたげな忌々しい日光が寝起きでありながらも尚美しい私の顔をじりじり蝕んでくる。
三文分得をしてまで早起きをして毎日毎日何をするのかと問われれば、そう言われれば確かにそうだと頷きたい所だが絶対的独裁者であると同等の聖白蓮の腕の中ではそんな甘えは勿論認められず、やはり仕事という唾棄すべき厄介者が私から惰眠を奪い去っていくのである。寺の中にあって、けれど立ち位置が他の者とは違っている私であったが、超越的立法者の聖からすればそれは些細な差に過ぎないらしく、故に私も勤労に励まなければならない。そんな憂いに満ちた私の今日の当番分は軒先の朝顔の水やりと、それともう一つ個人的な案件があった。
そんな訳でうかうかと二度寝も出来ぬのが現状だ。背中で寂しそうに横たわる愛用の抱き枕を惜しみつつも、少しでも気を抜けば万年床になりそうな私の準万年床を今日は珍しく畳んでみればそこには見事なまでに布団模様の日焼け跡がついている訳で、今年の夏は太陽が思いの外頑張っている事実を改めて思い知らされる。これが最近の私の日常であった。
○
歩き回るだけで首筋に汗が滲む命蓮寺の室内。
暑さ寒さも彼岸まで、そんな世迷言をのたまった阿呆をどうにかしてやりたい程度には残暑が続く後ろ彼岸の数日中。
「今夏は例年にも増して猛暑であるので、各人手を取り合って協力して乗り切りましょう」
とは命蓮寺の実質的独裁者、聖白蓮の有難い御言葉であったがどうやらその問題の夏は皆々や私、当の聖の想像熟慮すらをも凌ぐほど遥かに強大で過酷な夏だった。
時を数年遡った丁度今くらいの時期に起こった何某かのあれこれを巡り、帰結終焉した結果我が聖輦船は目出度く命蓮寺へと成り替わり里の近辺へと腰を落ち着けた訳だが、元々船を下した場所には水気が皆無であった。そう、丁度今頃といえば季節は夏の中頃である。
という事はそれはすなわち水源を確保する為に全力を尽くさねば、やがて見えてくるは渇水が起こり得るという果てなき苦行の道程。
好きな時に沐浴が貰えないなんてそれは私という乙女にとっては死の宣告と同義、下手を打てば乙女力を悉く失いかねない。
そんな迫りくる絶望をなんとも勇ましく打破しようと動いたのは命蓮寺の幹部傘下が一霊、村紗水蜜だった。
何故彼女がそこまで水源確保に尽力したかといえば理由は至極簡単で、彼女もまた無職という名の恐怖に追いかけられていたからに他ならない。
船を平坦な地に降ろして寺とする。
実質的独裁者聖白蓮の決定は空飛ぶ聖輦船の後始末の手間と、幻想郷においての聖一門の住所獲得という非常に打破困難な二つの事柄を解決するための実に合理的な決定であったが、それは即ち船としての存在価値は聖輦船から消失するという事でもあり、無論船長という職は変質後の命蓮寺においては不必要であるという二面性を持った言葉でもあった。
村紗水蜜本人に付随していた船長という値札。これを失うという事は日々の分担作業の一角を担えなくなるという事と等しく、だからそれは命蓮寺内での階級地位の最下層に彼女が位置してしまう事に直結するのだと彼女は考えたらしいのだ。いらぬ心疲れである。
村紗自身はその事を大層危惧していたが、もし本当に彼女がそういった儘ならぬ状況に沈み込んだとしても誰も村紗を咎めはしなかっただろう。
むしろその逆、温もり溢れる言葉と抱擁を持ってして、無能という幻想に捕らわれた彼女を慈愛の心で受け入れるに違いない。勿論私だって全力を尽くして彼女を励ますに決まっている。何せ大事な仲間なのだから。
だからこそ彼女は奮起した、してしまった。
血よりも濃く結ばれた命蓮寺の面々にどうにか別の形で貢献できないものか、と。
為ればこそと、自身における最大限の能力を揮いに揮って寺裏に眠った水脈をなんとか探し当て、井戸を掘りあてる事に成功した。唐突とはこういった事を指すに違いない。
その作業速度、工程は悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す程過密で、彼女は三日三晩鶴嘴片手に延々と下を目指して掘り進んでいた。これも仲間を思えばこそなのだろうか。
この時彼女が孤軍奮闘して出来た井戸は彼女の功績を称えて「村井戸」と我々の間で呼ばれている。創意工夫の欠片も見えないこの命名、。どうせ御主人様が言い出したに違いない。
と、まぁ聞くも涙語るも涙の経緯で完成した村井戸だが、度重なる地震や間欠泉騒ぎが祟ったのだろう、数日前から水が出なくなり枯井戸となってしまっていた。
これが今年の命蓮寺を酷暑とさせている一番の原因である。
生活水やら何やらは全てこの村井戸から賄われていたため、現状はこの炎天下の中でかなり遠出をして水を汲んでこなければならなくなっていた。
その純然たる事実を私から彼女に伝えた時、彼女は滂沱した。それはもう見事なまでの滂沱っぷりである。何せあれだけ甲斐甲斐しく掘り当てた村井戸が役に立たなくなってしまったのだから、その悲痛たるや苦労した本人にしか味わう事の出来ない苦痛苦悶に違いない。
これが切っ掛けで、村紗水蜜はとうとう自棄を起こして寺の仲間内に体を売る様になってしまった。今思い出しても哀しい事件だ。
一抱き一刻で三撫で撫で。
幽霊とは常日頃から冷たいという事に着目した村紗本人が、頭を優しく撫でて貰う事で心に安らぎを得て、その対価として一刻間だけ自身を生ける(幽霊だから死せる?)氷嚢抱き枕として提供するという、阿呆しか到底思いつくことが出来ないであろう事業を打ち出したのであっだ。どうやら私を除く仲間内には専ら評判らしく、この猛暑では連日予約で一杯だという。
特にぬえは常連で、恐ろしくも予約の内の約八割が彼女のものだという話をそこら中で聞いた。ぬえの必死さが伝わってくるようで大変恐ろしい。
船長は村井戸が枯れる事で共に枯れさった命蓮寺内での役割を自身の中で新たに築く事が出来、客の方も一時の快感を手にする事が出来る。正しく等価交換の図式だ。
失礼ながら私の説明の前に淫猥な妄想をした者は是非、これを機会に命蓮寺に帰依して我々と共に煩悩を取り払う日々を過ごす事を勧めておこう。欲を捨てよ経を持て、だ。
しかしここまで延々と細々に書き連ねた訳だが、つまり今年の夏は暑かった、という事だけを理解していただければ後は全て忘れて貰って構わんだろう。どうせ唯の近況報告にも及んではおるまい。
そう、只管に暑かった。我が城の南側からは連日、容赦なく嫌味な光が差し込んでくる。
「まったく、なんで私の部屋だけこんなに日が射すのだ。聖に私の部屋を変えて欲しいと伝えておかねば……」
そんな特に意味を持たない言葉をぽろぽろ零しながら私は、六畳一間の城を後にするべく身支度に取り掛かるのであった。
○
そこらに繁茂する竹の一本でも切り落として横にしてみた所で余裕が見える命蓮寺の渡り廊下の幅。
この妙に広大な廊下は寺の中心から東西南北に伸び切りしており、その四本の大道からさらに細かい廊下にかっちり枝分かれしてさながら不自然の迷路といった様相。そして私の六畳一間はこの大道の南側方面に位置している。
どうでもいいが我が御主人は南廊下の丁度一番中心側に部屋があるために、同じ南側でも私の部屋とは一番縁遠い。まぁ、どうでもいいのだが。この素晴らしく聡明な私が寂しいと思う筈もないしね。
それよりも、起きたくもない早朝に私がわざわざ起きたのは、私の御主人様にも早起きから来る心地よい爽快感を咀嚼して欲しいという、部下なりの気遣いのためだった。
これに至った切っ掛けは明々としたもので、なんと御主人様自身が私に朝の時守りを懇願してきたというただそれだけである。そう、御主人様は朝日に弱い。
以来私は毎日寺の誰よりも早く起床し、その道連れに我が御主人様にも晴れ晴れとした朝を迎えさせてやっている。
生まれてきた世が世なら、早起きの神として八百万の中に混ざり込んでいたであろう。
しかし万が一に、もしその様な事になったのであれば規則に倣った生活を見れば喜び勇んで方々へと追いやる、性根がこれでもかとばかりに複雑怪奇に捩じ曲がった冠婚葬祭入り乱れる人間どもに後ろ指を指されるに決まっているだろう。等と考えが至る所は素晴らしきかな、名を違わず私が賢将たりえる証拠だった。
そんな見るからに馬鹿らしい空想に入り浸っているうちに、目的地が見えてくる。
我が敬愛すべき愚かで美しい上司、寅丸星の恭しき根城が。
○
「という訳で、朝だよ御主人」
まだ日が高くない薄闇にも関わらず、悪辣な熱気がどこともなく漂う室内にようやっと追いついた時計の針。
布団の上に敷かれた御主人様の膝元に立つと、七分七丈の寝巻姿の御主人様が私の声に薄らと反応した。腫れぼったい瞼を何度か瞬かせては酷く気だるげに起き上がる。まるで病人のそれだ。
わざわざ朝早くに起き、堪え切れない眠気をそれでも堪えて出がけには完璧に身なりを整えた。さらに直向きに距離ある廊下を御主人様の部屋目指して歩いてみて、最初に目にしたものはといえばそんな彼女の姿だった。
果ては寝相の悪さから来るものかどうなのか、実質的聖白蓮が配下配属である所の雲居一輪が丹念に仕上げた手製の七丈丈の寝巻はきっちりと着崩れており、その様はだらしないと表すよりも破廉恥といったほうが的を捉えているだろう。正に芸術的阿呆だ。
余りにも毘沙門天代行として無残。今の彼女には一片の神性すら感じられなかった。私の健気さにも限りはある。
まぁ、しかし。
枕を胸元に抱きながら、それが己が義務かの如くと主張しかねんばかりにしっかりと寝惚け、けれどそれでも私の話を何とか拝聴しようと頑張って居住まいを正そうとする御主人様の姿はまるで幼子の様で、微塵ではあるが愛らしくもあった。
本人にはこの口が裂けたって決して言ってはやらないがね。調子に乗せた虎は非常に厄介。
「ま、三文よりは余程上等か。案外早起きも悪くない」
「お早う御座いま、す?ふあぁ……私としては早起きなどせずにあともう半刻は寝ていても良かったのですよぅ」
「何を言うか御主人よ。早起きとは実に気持ちの良いものだぞ。貴方も今一度その寝ぼけきった体を日輪に晒してくるが宜しい。それに里のお爺お婆なんてこれくらいが平均起床時間さ」
調べた訳では無いが、そう大きく相違は無いだろう。ちなみに超常的先駆者たる聖白蓮も朝は早い。いや、これは暗に聖は年寄りと似通っていると指摘したわけではなく、肉体的には若返っているが精神上の影響は少ないのであろうか、と興味を持っただけだ。言わば学術的なそれに非常に近いといえるだろう。邪推はいけない。告げ口など以ての外。
「私はまだそこまで年老いていませんっ。というかもう起こしに来てくれなくてもいいです、と言いつけてあったでしょう?さらに言えばなんで我が物顔で私の部屋に入っているのですか。私は誠心誠意惰眠を味わいたかったのですよ」
寝癖で思い思いの方向に伸び荒れる御髪をふりふり、御主人様が熱弁を繰り広げる。
「悩みの多い御主人だね。まぁいいさ、まずは二つ目の質問から答えようかと思う。何故勝手知ったる、とばかりに御主人の部屋に堂々存在しているのか、と問われればそれは不思議な事に私が御主人、君の部下だからだね。常に貴女の傍で献身尽くしてこその正しき部下像であると私は考えた訳だ。だからこその現状さ」
「む……。確かにその通りです。その点だけを見れば貴女の行動を咎めた私の方に非がありますね」
流石というべきか、自身の間違いを押し通すなんて愚行を彼女は取らなかった。
古来より交友関係や上下関係なんて線引きはお互いに誠意が無ければそもそも引く事すら叶わない強力な間仕切りである。これに失敗した輩は一生淀んだ交流を延々擦っていかなければならない。そのところを我が敬愛すべき御主人様はきっちりと弁えている様だった。毘沙門点へ一点加点。
「いやまぁしかしその件に関しては私も今後は気を使うよう改善しよう。確かに少し遠慮が無かった。距離感を少々測り間違ってしまったようだ」
「全く、その通りですよぅナズーリン。しっかりと反省してくださいね」
互いに正座をしながら向かい合い、話し込んでいるこの状況にこの距離。
御主人様のお姉さん振る表情だってこの通り手に取る様に、である。
重ねてきた年月からすれば圧倒的に私の方が上であるし、経験も豊富だ。妖怪文化が蔓延るこの界隈では良くある事だったが、どうもこの虎も見た目で相手の地位を決めがちであった。そろそろその先入観は神社の賽銭箱並みに役に立たないと教えておかねばいけないだろう。
「そうだね、反省は大事だ。だがね、我が聡明顕示な御主人よ。もう一つ問題が残っていたろう?」
「おっと、その事はナズーリンが悪いのは自明の理。ここで議論を交わす必要はありません。後は貴女が私に謝罪を申し開くだけで全ての問題はとんとんです。私のような優秀な上司は部下を不必要に貶めないのですよ、ふふん」
ところがそうもいかんのである。あからさまに満足そうな、言わば「あのとても賢くて私如きでは手が届きそうにもない正に天に坐わされる様な賢将ナズーリン様から一本取った!」的な顔で朗々と弁を携えているのは一向に構わんが、それは所詮岸辺の砂城以下、欠陥住宅にすら劣る素晴らしく脆い理論武装なのであるのだと我がご主人様は悲しい事に理解出来ていないらしかった。
「御主人よ覚えているかな、少々昔の事で思い起こすのは難儀かもしれんが何、ほんの四日程前の事だ」
「四日前?…………あっ。お、覚えていません、決して」
「うむ、流石は我が御主人、非常に聡明なようだ。そう、あの時貴方は月初めの三日目に朝方の用務があるので何とか助けてくれないか、と切羽詰まって私に泣きついてきた。貴女は朝に非常に弱いからね。そして、その問題の日は御主人は驚くかも知れないがなんと今日なんだ。この事に関してなにか釈明はあるかな?」
「ご、御免なさい……」
先程、ふんすふんすと正座で私に講釈を垂れる御主人様は、今は哀れにも頭を垂れている。これでは寄り付く後光もそのまま後方に消え去っていくだろう。
しおらしい態度で反省の意を示し、御主人様自身の優雅な御御足が愚かな偉ぶりの為の正座で麻痺してきた事を、彼女自らが涙目で訴えてくる。その眼は非常に潤んでいて、無条件に許してしまいそうになる。
この保護欲をひどく掻き立てられる表情を目の前にして情状酌量をしない輩が果たしてまさかこの世にいるのだろうかと私は考えた。今この瞬間の御主人様から発せられる言葉は見目麗しき女神の嘆願にも居並ぶに違いないというのに。
「無論却下だよ」
「ふえぇ」
愛すべき筈の部下を疑った罪は未だ見ぬ大海よりも遥かに深い。
一体どこからそんな声が出るのかと疑いたくなるような絶命の悲鳴が私の目の前の生き物から鳴き上がった。
「やぁやぁ、よく思い出せたね御主人。それに真っ直ぐ素直に謝る事も出来た。最近のふしだらな若者の間ではこんな、幼子でも欠かす事のない礼節諸々が出来ないたわけが数えて捨てる程に多いというのに、そこに来て我が御主人はきっちりとこなす。よしよし、偉いぞ御主人」
今や正座の姿勢で塩辛い水を流す、水漏らし装置と成り果てた御主人様の頭に手を置いて一撫で二撫で。私なら嬉し恥ずかしとなる所であるのに未ださめざめと泣きを見せ続ける辺り、どうやら御主人様はそうでは無いようだった。私の麗しき御手は安売りをしないというのに。この贅沢者め。
「うぅ……、なんだかちっとも嬉しくありませんよぉ」
「おいおい、遠慮なぞしないでいいのだよ御主人。充分過ぎる程に喜んでくれていいさ」
「ぬぐぐぅ」
意趣返しとばかりにこれでもかと盛大に嫌味ったらしく慰める私に、予想通り御主人様は反撃の二の句を告げる事が出来なかったようだ。
私に舌戦で勝利を収めようなどと、努々考えない方がいい。
世の情勢がどれだけ動乱しようとも、命蓮寺の中に置ける私達の力関係は今後暫くはこのままだろう。御主人様には申し訳ないが、ほんのわずかな間の刺激として、しばらくはこういった下剋上の関係を楽しんで貰いたい。これも部下なりの気遣いだ。
そうそう、これは私の持論なのだが、時が全てを解決するなんて事は決して無い。
さぁ、これからも私と貴女で仲良くやっていこうではないか。
○
余計な茶番の所為でかなり間延びしてしまったが、どうせやらなければいけない事項だからここで可及的速やかに可及的阿呆な我が上司の詳細を可及的に書き付けておく。
本名寅丸星、職業は毘沙門天の代理。兼任で私の上司を務めている。
と、書面上ではそう処理されているが多分虚偽申告だろう。あるいは本人による激しい妄想の産物かもしれない。
趣味は昼寝、好物は私の手料理と公言しているらしかった。寝惚けるのが趣味だという非生産者な割には部下のご機嫌取りは上手いらしい。別に喜んでいる訳ではない。勘違いするな。
背丈は長上、妖怪という事実を鑑みてもかなり大きい方に分類される。肉付きは憎たらしい程度には理想体型であり、その為隣で侍る私がまるで低身長で胸が薄いかのように見られてしまうといった実害が出ている。何と由々しき事態か。
命蓮寺内での役割は主に御本尊、早い話が門徒達の信仰対象だ。暇を持て余した村人との話し相手とも言う。最近は地道な布教活動が功を奏したのかとんと若い女子の参拝が増えており、相手取られる御主人様はいつもデレデレしている。仕事を疎かにするとはどういった事なのか。あぁ、全く持って腹立たしい。もう少し部下を構ったって仏罰はあたるまいに。
とまぁ簡潔ではあったけれども、以上が便宜上では毘沙門天代理となっている我が不甲斐ない上司の紹介であった。してその話題の種の御主人様を語るに置いて無視できない、私と彼女の初めての邂逅とは一体。
それはそれは一片の救いも無く、美談に脚色する余地すら見当たらない、物の見事に陳腐な出会いだったと記憶している。
賢将たる私が毘沙門天の配下としてあくせくと汗を流している日々の中、毘沙門天直々の命を受けて、そのとき初めて晴れ渡る青空を超えて猶突き抜ける間抜け面をした御主人様に出会ったのだ。彼女は、とても美しかった。
初めて見た寅丸星。背丈は今と比べても殆ど上下しておらず、服装も荒々しく解れた作務衣であった事に加えてあの器量の良さである。顔面体躯だけを見てしまえば整った顔立ちの男装の麗人に見えてしまったと記憶しているが、今から思えば詐欺より酷い。
だが蓋を開けてみれば何ということも無い、今と変わらない寅丸星なのであった。
一仕事を終えて汗ばんだ作務衣を脱ぐ彼女。
上から順に凸、凹、凸と引き締められたしなやかな肉体はしかし決して下品になりすぎず、まるで生きた彫像かと思わせる気品がそこにはすらりと漂っていた。
だが非常に残念な事に御主人様自身の粗相癖はそんな気品だけでは到底覆い隠すことが出来なかったらしく、常に私の前に有難く憚ってくれたものだ。迷惑千万この上ない。
仕事での粗相は日常茶飯なので省くとしても、失せ物をさせれば御主人様に届く者はいない、という程度には私の手を煩わせてくれていた。
その累計数は息をするように着実と伸び伸び芽吹き、それこそわざと物を無くしているのかと当時の私を疑心暗鬼にさせたものである。今も変わりは無いのが厄介である訳だが、そこいらは御主人様に付き合うに度に必ず起こる天災の様な物だとして現在は概ね諦めてはいる。
別に粗相の後始末を手伝ったり失せ物を見つけ出した際にちらりと見せる彼女の笑顔にほだされただとか、気を取られたからだとか、そんな貧相薄弱な理由で御主人様の後を付いてまわっていた何てことは貴君諸兄の完全な間違いであるから、後世に言伝る際には一言一句間違う事のない様に大変丁寧に気を使うように。
しかし当時は御主人様の口から直接性別の事を聞いた後でも、余りにも整った顔立ちと女性らしからぬ長身の為に、不本意ながら胸がときめいてしまっていた。
(だが別にこれは自然な事であってまさしく不可抗力同然でもあり、だから当時の私を決して責めないように充分注意して頂きたい。だって仕方が無かった、美しかったのだ!)
が、美人は三日で飽きるとは上手く言ったもので、度重なる数々の失態の帳尻合わせを幾度となく手伝わされた事も手伝って、御主人様の横に立っても前よりも高鳴りの反応が薄くなっていった。人身事故的な初恋の結末なんて案外そんなものである。
当たっては砕け、引き摺り引き摺られ。恋愛事なぞ終始交通事故みたいなものなのだろう。
ただ、飽きる、なんて言葉は御主人様にも、僅か数日ではあったけれど御主人様にほの字だった昔の私にも失礼だが、けれども確かに御主人は美しいままであって猶、それでも私は彼女の美貌に慣れ親しんだという事なのかもしれない。故に私の面相判断の価値観は彼女を起点に形成されたといっても過言らしき過言は無い。
おかげで並み居る有象無象には気にも留めなくなってしまっていた。全く傍迷惑な上司である。言い寄る宛も言い寄られる宛ても無いけれど、多分私は今後一生誰かを見ては心中で御主人様とその誰かを天秤に掛けるのだろうと思う。本当、迷惑。
その生粋の迷惑加減だけは幾十年経った今でも慣れない所ではあった。
○
けれど今ではそんな概念系上司の御主人様さえも簡単に手玉に取る事が出来る、およそ万能と呼ぶべき存在に最も近しい私であったが、無作為奔放に日々を過ごすのだけはどうも苦手だったらしい。
そんな土台の踏み固められていない私の事を捕まえては度々、寺の皆々が私に向かって口を揃えて「何か趣味でも見つけてみてはどうか」等と口煩くしてくるのに対し、私は毎度毎度彼女たちの倶楽部参加のお誘いに断りを入れていた。人気者も楽では無い。
ここで出来る限り傾注して聞いて貰いたいのだが、実は命蓮寺内には個々各々の感性をより豊かな土壌で育む事を目的にした「倶楽部」という活動団体が点々と幾つか存在している。
この明らかに不健康に悪そうな集団の実態は、乙女という生き物に万遍無く似つかわしい趣味を持ち合わせた数人の同好の士から結成される、なんとも花柄模様の余暇集団なのだった。といっても数多の倶楽部が乱立していた、さながら倶楽部戦乱時代とでも言うべき隆盛の時代は遥か彼方に過ぎ去っており、栄華過ぎ去りし今では二つの倶楽部だけが細々と活動を維持していた。
しかし僅か二組しか存在していないからこそ、それらは命蓮寺での二大巨塔とも呼ばれるべき存在と言えた。あくまで倶楽部としての枠に収めるとであるが。
その畏怖すべき前門と後門、私の不健康的悠々生活を脅かす優良倶楽部共の全貌とは如何に。
一つは「南無南無手芸倶楽部」という。
口で発音するには些か言い辛く命蓮寺内での専らの呼称は文字を縮めて「無手倶楽部」である。誰が戦犯かは私の預かり知るところではないが、どうみても縮め方を間違っている良い例である。いや悪い例か。
その名の如く(無手の方では無い。ここでは手芸を指す)、それは雲居一輪を大黒柱として活動する比較的温厚な「編み物倶楽部」だった。
寺内の主な法具法衣仏具に類する数多の備品は、徹底的なまでに組織化された倶楽部統率の下で無手倶楽部から生産されており、つまり無手倶楽部に属する面々の寺への貢献度は最上に匹敵しうるのだ。命蓮寺は裕福ではないのだ。
故に無手倶楽部に所属し組織に忠誠を誓えば、優先的に「一輪御手製もこもこ雲山手拭い」等の限定日用品が支給されるといった恩寵を恒久的に受ける事すら可能だという、黒い噂が倶楽部の周りに真しやかに流れているのである。流したのは私だ。噂が影響したかは判らないが、自分で自己流の備品を作れたり、乙女的技術向上を狙えるという触れ込みもあってか命蓮寺内では倶楽部に所属するといえば九割九分九厘この南無南無手芸倶楽部を指す。
そんな巨大事業団体を相手取るは村紗水蜜を柱に置いた「航海測量倶楽部」であり、無手倶楽部対抗勢力が誇る期待の勝負馬、なのだと当事者達は思い込んでいるらしい。
肝心の活動内容だが、陸路と水路の二極から、経験則と専用器具を用いての地道な測量作業並びに地図、製図作業を生業とした大変に生真面目な倶楽部。
こちらも名を縮めて「航海倶楽部」として呼ばれていた。ちなみに名称の頭に航海と銘打たれているのは主導者の個人的趣味嗜好であって、これを見るに名前に関しては割と別にどうでもいい決まりらしい。だって幻想郷に海はない。
それなりにおざなりな感覚で設立されたであろう航海倶楽部であったが、反面こなす作業に間違いは皆目見当たらず、丁寧に記録された地図等は寺の内外を問わず需要が高まっていき倶楽部の規模は瞬く間に拡大した。航海倶楽部は正しく無手倶楽部への対抗勢力として実態が膨らんでいったのである。
以上、全て過去形だ。
至極残念な事に今現在は時間の流れと共に元々多くは居なかった賛同者がめっきり減ってしまい(具体的にはぬえが倶楽部に加入した時期近くなのだと船長は言っていた)、実質的支配者である聖の苦渋の決断によって倶楽部から「同好会」へと引き下げられてしまっている。同好会と倶楽部での差異は特にない。まぁ気分の問題なのだろうと思う。
であるので数年前から心機一転名を改め、「航海同好会」という変に洒落込んでいる会名で村紗水蜜自身が新たに会員獲得に励んでいたりしていた。字面的には航海よりかは「後悔」の方が収まりが良い気もするが、そこは好みの範疇か。
だが日々の努力虚しく、会員数が依然と変わらずに二名であるところを見るに船長の宣伝効果の程は芳しくは無いようだった。
まぁ、船長以外の同士、専らぬえに似た誰かが加入者を影で威嚇しているから、馬に蹴られてはたまらんといった感じで皆が自然と避けているのだとかいう情報も私配下の鼠から寄せられているが、気に掛ける事でもないだろう。
そう、真実は闇の中にあってこそ最も美しい。船長よ、そろそろ夜は用心し給えよ。
○
そんなこんなで近頃、やたら執拗に一輪や村紗から加入用紙に記名する事を差し迫られている訳だが、集団に縛られるのは好きではないしそもそも自堕落的悠々生活を過ごせなくなる事は我が私生活において大きな損失である。それに重要書類に記名するのは長い生涯の中、婚姻届だけで事足りている。
だからこそ声を大にし、有らん限りの力を振り絞って主張せねばならない。
「私は御主人様以外の傍に属する気は毛頭無い」と。優秀な部下は不甲斐ない上司の下でこそ脚光を存分浴びる事が叶うのだから。
この文言を持ち出せば大抵の輩は我々の深い絆を前に沈黙し、残るは相手側の何とも言えないしょっぱい表情だけである。この事例からも判るように、効果は絶大である事が容易に見て取れる訳だから、ありとあらゆる押し売り、迷惑な居座り客への有効打として今後里に広める事を進んで検討しておこうかと思う。上手くいけば私の里における内評点の向上にも繋がるかもわからない。
それと、何度も念を押すようで悪いが別に私は御主人様を心から慕っている「だけ」であって、決して愛だとか恋だとか一般論における酷く軟弱な思想の下で行動している訳では無いという事は再度確認しておいた方が互いの為だろう。勘違いは時に悲劇を呼び起こす。
私と御主人様の繋がりは部下と上司という形骸化した、けれど無限に結ばれた関係性でのみ成り立ち、そこにあるのは唯一つの安心感のような物だけなのだ。
私は御主人様の隣という己が一番輝ける場所を求め、逆に御主人様は私を小間使いとして己の手足の如く動けるよう、常に私に世話を焼かさせる。
幻想郷広きと言えども我々のような歪な互助関係はそうそう無いだろうが、だからこそこんな信頼の形も少しは認可されるに違いない。そんな奇妙な絆がこの命蓮寺には存在している事は、少なくとも貴兄らには知っておいてほしい。
話題の軸を最初に戻して尚且つ今までのつらつらを纏めると、要は独裁的な私利私欲と我が尊敬すべき上司の世話に掛かりっきりだという受け入れ難き理由があるために、残念な事に倶楽部活動にまで私の乙女的にほっそりした首が回らないという事だ。
まぁ言うなれば、私と御主人様のその関係がそもそも倶楽部みたいな青臭い活動の果てしない延長線上にぽつんと存在している様なもので、だからこそそこまで他倶楽部への加入の必要性は感じられない。
しかしそうだね、私達のこの関係性に敢えて名前を付けるなら「身辺整理倶楽部」なんてのはどうであろうか。多い時には日に三回以上失せ物をし、自身の粗相で部屋を散らかす。その後始末や整理整頓のお鉢は必ず私に回ってくる訳だから、身辺整理倶楽部。
少々分不相応に不穏な気もするが、もしかしたら御主人様が身の危険をこの会名から感じ取り、粗相を減らそうと努力するかもしれない事に是非とも期待したい。
○
至る現状。
一輪の隣に座ってお針子仕事をそっと手伝って、その見返りとして新しい肩羽織の製作の約束を取り付けてみたり、実質的独裁者たる聖に直接申し付けられて里まで日用雑貨や消耗品を見繕いに行ってみたり。(その際釣り銭を駄賃として握らされたのだが、もしや彼女は私を子供だと思い込んでいるのではないだろうか。年齢的にいえば私は彼女や御主人様より長く生きているつもりであるので、この扱いには噴飯せざるを得ない。というか中々に落ち込んだ。)
そういった細やかな雑事を拙いながらも毅然と熟していけば、いつのまにかあれ程憎むべき存在であった夏の日差しは見事になりを潜めており、どうやら諦観の内に御山の影に沈んでいった様だ。
いまや幻想郷の空はそんな日差しに代わって、眩しき月が空一杯に銀糸を降ろしていた。
日射では無く月光が降り注ぐ安寧の空間となった我が六畳間、部屋の隅ではのろのろと行灯が灯っている。そんな日中とはがらりと表情を変えた六畳の中心で、全力で寝そべりながら涅槃を試みている私の前には何故か余所行きの恰好をした面々が群れを成して押し寄せて来ていたのであった。これは夢だろうか。
私から睡眠を奪い去る者は例え御主人様であろうと容赦なく叩き伏せるぞという気概ではあるが、件の群れを率いているのが命蓮寺の実質的独裁者、聖白蓮であるとなれば断然話は別なのである。断腸の思いで睡魔と縁を切り、仕方なく統率的支配者の清らかな声音に耳をなびかせる。
「どうもお邪魔しております。良く寝ていたようで」
「侵害だな聖。心情的にも、領土侵犯的にも。私は今、この方丈に限りなく近しい空間で思索に耽っていたというのに」
遂に毘沙門天代理の不必要さに気が付いた実効的執政者である聖白蓮によって、御主人様の不当解雇でも始まったのかと小さな体躯を強張らせつつもむくりと起き上がる。すると我が視界に移る皆々は、それぞれが一様に余所行きの格好をして小ぶりな木桶を抱えていた。一体全体何事か。
「それは失礼致しました。所で今日はもう一輪達はなんと入用が僅かもありませんでして、そして偶然に私もです。ですので連日遠出の水浴びで済ませる所を今日は奮発して里の湯屋にでも行こうかと」
湯屋、銭湯か。確かにここ最近は村井戸が使用できなかったので浴堂の使用も儘ならず、だものだから寺から洋々離れた小川で身を清めていた。そこへ来てのこの誘いである。
湯に浸かって放蕩とした気分になり汚れもより落ちるとは、非常に髄をそそられる提案に違いなかった。
「それはいい、是非皆で垢を落としながら存分に楽しんでくる事だ」
「ですのでナズーリンも一緒にどうかと思い至りまして」
「ふむ……、残念だけれど、謹んで断るとする」
暖かい湯に包まる事が出来るというのは確かに魅力的な提案ではあるが、それは客観的事項であり主観的に見れば誘いには乗り難い。
銭湯とはつまり裸。
故に銭湯など言語同断、裸の付き合いなど以ての外である。
肉体肢体に措いての芸術的観点に詳しい私から見ても自分の体躯が貧相脆弱な裸体だという事は言い逃れる事がおよそ不可能な事実であり、そんな凹凸皆無である己が体を誰が好き好んで衆目の前に曝け出すことが出来ようか、いや出来ない。
綺麗好きな一輪起っての願いで作られ、それならば、と実質的独裁者聖白蓮の鶴の一声で総檜張りとなって増設された寺の浴堂でもわざわざ時間をずらして一人ゆらゆらと浸かり、連日の水浴びも皆から目一杯離れた川下で寂しくぽつねんと済ませていた程の私が、よりによって銭湯だと?
銭湯、湯屋といったら一般的公序良俗に大きく外れた脱法的経営施設ではあると聞いている。いや多分にそうに違いないだろう。
実際に行った経験は無いが、知識としては人づての伝聞や、書物、実地検分等で事細かに心得ているつもりだ。
確か同性同士で湯に浸かり、体の隅々まで互い互いに清め合う場所だったと覚えてはいるが、言葉巧みに隠しているつもりだろうが結局は裸を見せ合うという事だろう。真に不健全な施設である。
あんな破廉恥極まりない桃色空間に誰が連れ込まれようものか。
どうせ皆々して「一輪は肌が白くて羨ましいですねぇ」やら「ひっ聖も凄い綺麗ですヨ」だとか「ぬえ、君一人じゃ頭をしっかりと洗えないだろう?私が手伝って上げるよ」やら、はたまた「ん、ありがとムラサ……」なんて姦しあってる光景が瞑った瞼の裏側にありありとと浮かぶ。
それだけならまだしも、肢体の良し悪しや胸囲の競い合いなんて事になったら手が付けられん由々しき事態。桃色的戦国時代突入である。胸無き者には這いつくばる事すら許されず、無様に生き恥を晒すことになるのだ。
私に地獄を見ろと仰るか。言っておくが別段私の胸が凹んでいるのでは無く、皆の数値が脅威すぎるだけであり私の胸に罪は無い。
それに私は知っているのだ。彼女達や、例外的に一応私にも「あれ、これあるの?あるっていえるの?」程度に付いているおよそ二つの脂肪の塊は、月日を重ねるごとに経年劣化していくのだと。それも大きいもの程に。私は、大きくは無いけどつまりそれは経年劣化を免れるという事でもある。喜んでいいに決まってるのだ。
しかし他の者は違う。後々必ず付きまとう己の重力への絶対的敗北に脅えなが精々今を謳歌する事だ。ま、私にはとんと関係が無い心配であるが。
自分で述べて自己嫌悪に陥るとは賢将の私にも予測できず、なんとも恐るべき兵器が生物学的意味合いでの女性という奴には付いている、二つも。ま、私には無い訳だが。
兎も角、そんな不埒な行為に傾倒してる輩なぞ全員茹って逆上せてしまうが宜しかろう。銭湯なんぞ何があっても絶対行ってやるものか。
公衆浴場なんて破廉恥極まりない不健全な場所に行くなど、奥ゆかしき私には目の前に立つ断崖絶壁を登れと命じられるよりも苦しい行為なのは私的に明らか。
どんな事があっても私はここを岩より重く動かぬであろう。
そんな偏見満ち満ちたる考えの最中、実質的独裁者である所の聖の後ろから御主人様が滑るようにして私の前に出てきた。何だ姿が見えないと思ったら後ろにいたのか。
「そう言わずに、ね。私からもお願いしますよナズーリン。一緒に湯屋で身を清めては来ませんか?貴方も日頃から汗をかいて大変そうじゃないですか。それに貴女がいないと私、もしかしたら何か酷い失敗をしてしまいかねませんから」
「……そっ、そういう事なら仕方ないな。部下としての責務は悉く果たさねばいかんだろうからね。いいよ、私も行こうと思う」
「有難う御座います、ナズーリン」
「勘違いして貰っては困るよ、しっ仕方なくだからね、御主人よ」
「はいっ、そうと決まれば早く行きましょう。ほら、早く早くっ」
「全く、普段もそうやって時間を気にして貰えれば私も朝は落ち着けるのだがね」
「うぐぅ、それは掘り返さないで下さいよぉ」
御主人様の情けない懇願に釣られてこの場に響く一同の笑い声。相も変わらず、今日も今日とて命蓮寺は平和なのであった。
……。
…………。
他意は無い。無いと言ったら無いのである。
これは上司と部下の関係性と必要事項を検討した結果の判断であり、お目付け役として同行するだけだ。この判断にやましい気持ちや僅かばかりの下心なんて不潔な考えは微塵も混ざっておらず、むしろ御主人様が必ず起こすであろう粗相に迅速に対応するための苦渋の決断だったのである。
そうだ、それだけなのだ。くそぅ、嫌だ、やめろ、そんな目で私を見ないでくれ。だって気になるではないか。正直で何が悪い!
○
色々と書き散らかしてしまったが、なんとか尊厳を滑落させずに済んだ私は当初の彼女達の目的通りに湯屋へと辿り着いていた。具体的には屋内、脱衣所のあたりである。
皆々部屋に付いた途端、我先にとでも言わんばかりに服を脱ぎ出し、備えの簡素な竹籠へと放り込んでいく。多分彼女らには羞恥心という繊細な乙女機能は外されているに違いないだろう。でなければ衆目を気にせずに堂々と肌蹴る事など出来るものか。さらには有ろう事か私にも強要を迫るに違いない。そんなもの無論却下である。乙女は無闇に肌を見せぬものなのだ。
そんな中先陣を切って一番に衣服を投げ捨て切ろうとしたのは村紗水蜜であった。
幽霊だからなのか、はたまた生まれつきであるからなのかは判断に悩むが、ともかくその驚くほどに色素の薄い肌が船長自身の手によって露わになっていく。いつもは活動的な水兵服で隠されていた下半身は今や完全に無防備であり、そこから現れる小振りながらも程よく引き締まった尻は、手で触ればそのまま沈み込んでいきそうな柔らかさだという事が遠目からでも悠々見て取れた。
そんな村紗に負けじと服を脱ぎ始めたのはぬえである。こちらも透き通るような肌を惜しげもなく白日の下に曝していく。普段は黒一辺倒の服で対外的に強調されていた肌と黒の加減は今や完全に肌色一色となり、その艶やかでしっとりとした肌は儚げでもあり、一対の脚はどこまでも細くしなやか。しかし決して病的という事では無く、むしろ太腿から爪先にかけての曲線美はカモシカの様であり、いつもの正体不明からは想像も付かない色気を醸し出している。
そこから少し離れた部屋の一角では、実質的独裁者がこれでもかとばかりに法衣を脱ぎ捨てておりその風格はやはりどこか違った。具体的にどこが違うかと問われれば自然、我が目は彼女の胸へと寄せられてしまい、そこにはどんな説法の御言葉よりもありがたい芸術品が君臨していた。その白磁で出来た一対の丘は物質的法則を無視するかのように凛々しく上を向き、その丘の頂点達は見事な桃色で彩られている。
ここまでの代物は生涯尽くしても今後一切拝めないであろう。
その後ろで着替える一輪もそれに匹敵する物を持ち合わせてはいるが生憎彼女は未だ頭の衣を取り払い、髪を結っている所だった。
だが侮る事なかれ、その後ろ姿からちらりと除くうなじは女性としての魅力をこれでもかと振り撒き、より一層この場の空気を桃色にしていく。
さらには、髪を結い上げるために慣れた手つきで動かしている細い指はまるで白魚の様で、ただ髪を纏めているだけであるというのにどことなく淫靡な香りさえ漂わせていた。
そして私の隣で衣服をゆっくりと解いていくは御主人様であるが、こちらは何というか最早別格である。やはり私に釣り合うにはこれくらいでなければいかん。
こちらも卑怯なまでに透明感ある肌は標準装備であり、さらに普段の生活からも想像できる通り御主人様の肢体には程よく筋肉が付き、けれども女性らしさという奴は完璧に損なわれていない。その荒々しくも美しい両腕で抱き留められればそれだけで極楽浄土へと昇天出来る事だろう。
また、手こずりながらも段々と紐解かれる上半身には彼女の長身に似合うだけの、瑞々しき肌色の果実がたわわに実っており、衣服を脱ぐ動作に合わせて上に下にとたゆんたゆんと揺れ動く。その光景はまさに天上の果実、禁断の味といった所か。
上を脱げば次は無論下である。
こちらも大分難儀しながら御主人様が脱いでゆくが、大きく片足を挙げながら裾を下しているために、その優美な太腿の付け根からはまるで焦らすかのごとく絹の肌着が見え隠れしており、さらによくよく見ればその頼りない布は見事に肌に沈みこみ、布に僅かな陰影を浮かび上がらせる。
まさに示し合せたかのように死角が存在していなかった。ここは天国か。
以上、各人の脱衣の様子であったがこれからも分かる通り既にこの場はいかがわしく、湯に浸かる前ではあるが既にすっぽかしたい気分である。いざ入浴、となった場合には私がどれ程憔悴するかなんて目も当てられない。
だが私にも持たざる者としての、だからこその譲れぬ意地という奴があるからして、何としてでもこの伏魔殿から生還をしてみせよう。
そう固く決意しながら、死地へと繋がっている筈の鉄扉にも負けず劣らずの不落の扉を開け放ったのであった。
○
至極残念ではあるが入浴の回想は都合上省かせて頂く。
期待に胸躍らせる諸兄皆々に強いて告げるとすれば、我が予想違わず、といった所か。もう少し周囲の目を気にして欲しいものである。特に船長とぬえの周りには、何があっても今後しばらくは近づくのは御遠慮被る。一歩間違えれば体中桃色にまみれて死ぬところであった。つくづく厄介な組み合わせである。
そんな訳であるので、頼むから期待の新星である一輪には節度を守って独裁政権の革命を狙って頂きたい。やるなら外堀から埋めて行く方がきっと捗るだろう。
あぁ、それともう一つ。
御主人様の胸は、予想以上に柔らかい。
○
瞬間天国を拝顔した私ではあったが、真残念な事にそれ以上の事は記憶に残ってはいなかった。覚えているのは確かな温もりとふっくらとした安心感。
現在は命蓮寺の我が六畳一間、風呂無し、台所無し、使い古されたイグサの臭いが仄かに漂う懐かしき居城の中に、湿気った煎餅の如くのっぺりと敷かれた万年床の中で横になっていた。夏の夜、静謐な六畳の中に一人だけ横たわっているというのは中々に寂しいものである。
しかしどうしてこんなにも冷たい空気を一人で噛み締めているのであろうか。
察するに、どうも先の騒動で逆上せてしまったようで、一輪と村紗当たりが余計な御節介を焼いたらしかった。
外に出るときに特別に着込むあの洋装では無く、上司と御揃いで仕立てた寝着に変わっている所を考えても、どうやら無残にも彼女らが手取り足取りとっ散らかった私を着替えさせてくれたのであろう。酷い妖権侵害ではあるが、まぁ、有難くはある。
今度会ったら最大限の嫌味を挙げ連ねつつ感謝の礼をしておかねばとは思う。そのような至極仕様も無い事を思いついていると、部屋の外からいかにも間抜けそうな声が聞こえた。
「ナズーリン起きましたか?」
「ん。今しがた気が付いたところだよ、御主人」
私がそう手短に答えると、声そっくりの間抜けた顔で御主人様が部屋にそっと入ってきた。瞬間我が六畳間の部屋の臭いが、仕事に疲れ切った古臭いイグサ共の臭いから、彼女が幽かに纏うお香の香りへと一瞬きに移ろぐ。一体どういう事だ我が畳よ、抵抗らしい抵抗もせずに無血開城とは情けない。せめてその節くれ立った様な悍ましき畳目で御主人様の、絹にも匹敵せんばかりの柔肌にささくれの何個かでも刻みつけてやろうという気概を持ってはどうか。
だが、確かに不思議にも居心地がよい落ち着く香りだ。どうやら私もそう強くは彼らを責められないらしい。
「具合はどうですか。急に倒れるものだから吃驚しましたよ」
肝心の我が上司は、そんな事を云いながら私の枕元へと腰を休めた。
これでは朝と立場がまるで逆である。自然と赤らむ頬を夜の夏風がじんわりと撫でて行き、若干の熱を掠め取っていった。
「いやなに、少々血が頭に昇り過ぎてね。やはり私には刺激が強すぎた様だ」
「どうやらその様で。しかしナズーリンにも苦手な事があったとは。まさか御風呂が不得手なんて、流石の毘沙門天代理の私でも驚きました。浴槽に浸かるのが苦手だなんて、まるで幼子みたいで可愛いですねぇ」
これだからこの阿呆虎は、これだから。
そもそも発言の意味を捕え間違えるのは、この際御主人様だからという理由で仕方なく目を瞑るとしてもだ。
臆面もなく、いや、まぁどうせ本人には到底深い意味は無いのだろうが、それでも簡単に可愛い等とは頼むから言ってくれるな御主人様よ。今目の前に居るのが私だから良いが、これが里の生娘や若女将だったらどうする御算段か。責任問題である。
外面の良さだけが取り柄の御主人様に惹かれた彼女らが、貴女の七面倒臭い内面を知ってしまい女性不信にでもなったら誰が責任を取ると思っているのか。無論私だろう。
よもやそんな事になり私に迷惑の火の元が降りかかって来る事の無いよう、くれぐれも気を付けて頂きたいと思う。
最早子供ではないのだから己の魅力にいいかげん注意を払うべきなのだ。無頓着こそ罪である。
「いやいや、子供っぽさ加減に関しては私なんて、御主人には到底及ばないよ。存分に誇ってくれ」
「え、そうですか?どうも有難う御座いま――ってさり気無く馬鹿にされてる?!」
「いやいやまさか。ま、その事については色々と言い訳を並べ立てて抗議したい所ではあるが、しかし今はそんな嫌疑の押し問答より明らかにしておいた方が良さそうな事があるのだがね。わざわざ私の健康に気を取られに来た訳でも無いのだろう?」
有り得ない仮定ではあるが、しかし仮にそうだとしてみても起き抜けにとんでもない嬉し恥ずかしな事態である。起きても悪夢とは猶性質が悪い。
そんな困窮苦心な場にはなってくれてはおらんだろうか、と馬鹿げた不安を取り払うかの様に居住まいを正しつつも御主人様の言葉を待つ。
「まったく、なんで貴女はそんな邪推ばかりに傾くのですか!貴女が心配だったからここに来たに決まっているでしょう。あぁ、出会った頃は素直で寡黙で甲斐甲斐しくて、一挙手一投足全てが可愛らしかったというのに、今ではこんな捻くれた部下に……。あの恥ずかしがりな私のナズーリンは何処へ行ったのでしょう」
「ひ、卑怯だぞ御主人。過去の事を引っ張り出すのはやめて頂きたい!」
そう、御主人と出会った頃は私の態度はそれはそれは酷かったものだ。可能ならばどこぞの犬にでも喰わせてやりたいぐらいには、初々しい反応を御主人様にくれてやっていたと憶えている。悔しくも、言い表せない程には阿呆の中の阿呆であった過去の私なのである。
「おっと、であるなら今朝の私もナズーリンによる被害者ですよ、それはもう立派に」
「話を逸らさないでくれ、それとこれとは話が別だ。そんな他愛事よりもまず謝罪を断固要求する。今謝れば、もれなく右か左の頬かぐらいは選ばせてやろう」
加減はしないがね。だってこの賢将に散々恥をかかせてくれたのだ、それくらい嘯いたって許される算段な筈だ。
「ぬぬっ」
「さぁ潔く諦めるんだね。頬に紅葉を散らせたくは無いだろう?」
「うぐぐぐ、……ふんっ」
頭の中で織り糸がくしゃくしゃと絡まった様な渋面を作りながら、あらぬ方向へと首を捻じ曲げる。御丁寧に両頬までも丸々膨らませてつんとした表情を、窓から漏れ出した月明りと呑気な行灯が照らしては映し出す。
所謂そっぽを向くという奴であった。
「あっ、御主人、それは往生際が悪いよ。毘沙門天代理としてもっとこう、堂々と己が落ち度を認めるべきだ」
「残念ながら急に耳が遠くなったみたいですぅ。これっぽちも聴こえませーん」
「こ、このっ阿呆虎めっ」
御主人様には珍しく頑固な対応をされて焦れったかったのだと思う。それに恥ずかしくも、およそ万能と呼ぶべき存在に最も近しい存在である筈の私だというのに、先からのやり取りに妙に興奮していた事もあって、何とか彼女の顔を実力行使でこちらに向けさせようと布団から勇ましく立ち上がった瞬間、運悪く足が滑ってしまった。如何にも予想できる地べたへの滑落。後悔は後にも先にも立たんのである。
「うわっ」
「あっ」
両脚の膝小僧に大きくはない鈍痛を感じた。困惑しながら目を凝らして状況を確認すれば、どこぞの虎によく似た御尊顔が目の前にあった。さらに言えば、何とか倒れる私を受け止めようとしたのであろう御主人様を、私が物臭な畳の上に押し倒したかの様な格好になっているのであった。ちょっと、これは冗談では無かろうか。
「あっ、いや、す、すまない御主人、助かったよ。もしかしてどこか痛めなかったかい」
私のために彼女が怪我をしていれば、部下失格の烙印をこれでもかと自分で押さねばいけない。
「少し驚いただけで、それ以外は健康そのものです。それよりナズーリンこそ大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。多少痛んだだけで、それだけだ」
「そうですか、それは良かった」
御主人様が私の下敷きになりながらも板についた笑顔を覗かせる。ずるい。
いつもそうだ、何か酷い粗相を仕出かしたとき、失せ物をしたとき。怒ろうとしても呆れようとしてもこの笑顔の前にはとことん無力であった。
けれども、常に私はそんな卑怯な御主人様の傍に居たいと願っていた。真可笑しな話である。
ここまで散々隠しておきながら今更明かすのも何だが、どうやら私の淡い恋心はまだ続いているらしかった。私としても驚愕の事実である。
だが、そうでないと今現在のこの不気味なまでの胸の鼓動に上手い説明を付ける事が出来ないのだから、多分そういう事なのだ。きっと。
しかし我が無謀なる始まり心の想いなんぞ、当の昔に事故に巻き込まれてばらばらに霧散したと思っていたが、根源が私から染み出たものであったためにしぶとくしがみついていたようだ。彼女と初めて出会って云百年たっても猶私に付き合うとは、中々見上げた根性である。
まぁ、とにかく。
どうしようもなく阿呆である彼女の笑顔に未だ釘付けな時点で、私も相当な阿呆に違いない。恋愛は惚れたが負けとは正に先人の英知である。彼女の笑顔、温もり、仕草、そんな些細ではあるが決して無視できない幾多の経験に絡め捕られた時点で私の負けはもしやすると筋書き通りであったのではないだろうか。
「……私も御主人に怪我が無くて安心したよ。っと、すまないね、押し倒したままだったか。乗っかっているのが私だからそんなに重くはなかったと思うけれどね。失敬したよ」
照れ隠しに言葉を繋げながら、地面に押し付けていた手を持ち上げようととした。瞬間、世界が反転した。今まで下に見ていた彼女の顔が数瞬のばかりに上へとなっている。中途半端に伸ばされた御主人様の御髪が私の顔にすらすらと掛かっては離れる。とてもこそばゆい。
混乱する頭で確認をするに、どうも御主人様が私ごと横に回転したらしい。という訳で現在は私が下、御主人様が上という所であろう、というかそうだった。
押し戻された先が、元居た布団の上であったため背中に新たな痛みはやっては来なかったが、代わりと言っては難であるが、混乱が私の頭に意気揚々と訪れていた。
「こっ、こら御主人、戯れは良さないかっ。吃驚したじゃないか」
「すいません、照れるナズーリンが愛らしかったのでつい」
「かっかわ……。ま、またそんな事を軽々しく言って!勘違いしたらどうするんだ。私だって一応分類上は乙女の端くれなんだよ」
「えっと、別にして貰っても構いませんが?」
「……えっ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じる前に、御主人様が次の言葉を放る。
「私は貴女の事、とても大切な存在だと想ってきましたから」
「へっ、ちょっ、えぇっ?」
素面で告げる御主人様のそれは、混乱していた私の脳味噌には少々刺激的な言葉並びだった事はどうにも隠せない。
要するに、ここにぽっかり広がる穴があれば遠慮会釈なく外聞かなぐり捨てて入りたい以外の気持ちを私は持ち合わせる余裕が存在していなかった。それに伴って異常なまでに赤く高揚した私の耳たぶは、夏半ば夜半の外気よりも暑かった事だと思う。
「どうしました?」
「い、いや……あ、あぁ。まぁ私は非常に優秀だからね。確かに私みたいな部下なんて一人としていないだろう。それは大切にだってしたくなるというもの……」
必死に体面を取り繕いながらも、耳に入ってくる自身の声は大袈裟なまでに震えているのが呆気なくわかる。落ち着いてこの場を取り繕うのだ、まだ取り返しは付く段階だ。
「あっ、もしやナズーリンったら勘違いしていますね?私がいつ、貴女の事を部下として好いているなんて世迷言を言ったのですか?」
「……へっ?」
知らず知らずのうちに緊張で勝手に漏れてくる涙汁を押し返そうとしている所に、御主人様が何かよく分からない事を零した。その台詞は、私の聞き違いでなければ「部下としてではなく好いている」と捉えることが出来るのだけれど。
でもそれだと、それだとまるで、貴女が私の事を愛しているみたいじゃないか。まさか、そんなまさか。この阿呆虎にそんな甲斐性があるなど、まさか。
「何事にも斜に構えながらも、颯爽と私の助力の請いに答えてくれる貴女は凄く格好が良かったですよ。それは今でも変わらない気持ちです。飄々としていながらも手厚くて。私、凄く想われてるんだなってすぐに判りましたよ。それに何より、あんなに四六時中熱い視線で見つめられていては、私の心が真っ先に蕩けてしまいました」
「と、蕩けるってそんな。私は唯部下として貴女を敬愛していただけであって別にそういった気持ちがあった訳では……えっ、というか熱いしせ、ん……?」
背中に冷たい汗がだらだらと流れ始める。
まさか。
いや、まさか。賢将である私がそのような、隠していた恋心を相手に悟らせてしまうといった失敗を許す筈がない。そう言い聞かせつつも我が明晰なる頭脳は妙に冷静になっていく。何故だろうか、脳裏には最悪の映像がちらついているのだった。
この不思議な感覚を表すのであるならば、それはさながら「独裁的独法者である所の聖の巻物に悪戯を仕掛けようと画策していると、急に後ろからそっと肩を叩かれたので、鬱陶しそうに振り返ってみれば聖本人が菩薩に似た慈しみの表情で微笑みつつも、しかし後ろ手に拳を握りしめるという場面に遭遇した時のぬえの心境」と瓜二つに違いない。
人はこれを絶体絶命というのである。
「えっと、ナズーリンってば私の事が「好き」なんですよ、ね?あれ、あれっ?だってあれだけ毎日眼差しを向けられるものですから私はてっきりそうなのだとばかり……」
この際腫れた惚れた等は些末な事でしかない。ここまで来たなら認めるしかないのだ、さぁ腹をくくるのだ。
「あー、い、いや確かに御主人の推察に間違いは無いが、という事はあれかな、もしや私の秘められたる恋心というのはばっちりと貴女に筒抜けだった、と」
違う、ここははっきりと違うというのだ御主人様よ。
既に追い詰められてる私に、せめて「貴女の方から想いを告げてきた」という自己保身の理由をくれまいか。でなければ余りの羞恥心で私の威厳が粉微塵になってしまうのだから。
「あ、はい。そうですね」
「うわぁあぁぁ……」
その言葉を聞いた後はもう、体の支配権が完全無欠に私の下を離れていた。頬が、額が、目元が。顔中が急速に赤くなっていくのが分かった。背中は既にぐっしょりと濡れている。
飽くるまで道化であった今までの私を恥じつつ、覆い被さってきている御主人の両腕の戒めから解き放たれようと、もがき、叫び、転がろうとするという散々な有様であった。そして御主人様はそんな半狂乱の私を何とか説き伏せようとする。その優しい言葉が今はとても心の傷に沁みる。
何という一人芝居、何という生き恥。この淡い初恋の気持ちを心の奥底に隠しながら御主人様と相対してきたかと思い込んでいたが、が。
どうやら先方にはのっけから見事に筒抜けであった様だ。そんなもの、彼女の瞳から見れば、憧れの対象を前にして必死に冷静になろうとしている初心な小娘の様にしか映らないではないか。
あぁっ、誰か早く、早く私を今すぐ簀巻きにして地中深くに埋め込んでくれ。酷い恥ずかしさにつき、これ以上は見境がつかんのである!
私は貴君らが性根の優しい紳士である事を知っているし理解もしている。であるから賢い諸兄の方々も今だけは、しばし目を瞑っては頂いても罰は当たらんだろう。
という訳で、ここで見たことは生涯決して口にする事の無きよう、しかと忘れる事なかれ。
○
「落ち着きましたか?」
「う、うむ。少し取り乱しただけだからね、全然気にしないでくれ給え」
「はいはい」
相も変わらず私に迷惑ばかりかけるとは、近年稀にみる壊滅的阿呆である。……いや、違うな。これはただの照れ隠しだ。
流石にここまでの失態を見せてしまった手前、言い訳に尽力するにも無理があるだろう。流石賢将である私は潔さも兼ね備えているのだった。
「はーっ。しかし酷いよ御主人も。あんないきなりだなんて、性質が悪すぎる」
いつまでたっても私の上から御髪を垂らして見つめこんでくる御主人様を前に、精一杯の強がりを垂れてみる。
「えぇー、別に許してくれたっていいじゃないですか。優に百年は我慢して貴女を見ていたんですから、今日一日だけの戯れくらい見逃してくださいよ。この気持ちを告白するのは今しかない、そう感じたんです」
「何だその変な勘は。それにそんなの私だって同じだ。というかこの気持ちを我慢していたのは絶対に、明らかに私の方が上だね。たかが百年程度で誇ろうだなんて……」
「照れてるナズーリン、可愛かったですよぉ」
「ぐむっ」
「赤面からの涙目も最高です。あれで三杯は軽くいけます」
「さ、三杯って、この阿呆、阿呆虎めっ」
なぜこんな調子者に惚れてしまったのか、過去の自分をとことん問い詰めたい次第ではある。無駄だとは思うけど。
「そうそう、大事な事を忘れていました」
「ったく……今度は一体なんだい、又唐突に」
「私と貴女は互いに好きあっているという事に違いないですよね」
「くっー。えぇい、一々恥ずかしい奴だね御主人様も。私の口からそれを言わせるかい、普通」
「一応の確認ですってば」
しかしそこは普通ではない事に賭けては負けを見ない我が御主人様、冗談のつもりでは毛頭無いのであろう。
いつか、どうにかして今日この日に受けた辱めの数々を彼女に味わわせたい所存だ。そうでもしなければ今日の私が割に合わぬ。
「あぁ。そうだよ、相違ない。私が貴女を好きだった事は紛れも無い事実であるし、御主人様だって自分から申告して来たのだしきっとそうなのだろうね」
「勿論ですっ」
「じゃぁそれは互いに好きあっていると充分に呼べるだろう。一般的に呼ばれる恋仲、という奴だ。で、それがどうかしたかい?」
「私達、好きあっている者同士の証である口づけをまだ交わしていません」
照れを必死に隠しながら会話を続けていた私の耳に桃色な単語が控えめに入ってきた瞬間、脱兎すら置いてけぼりにする瞬発力で跳ね起きようとした。したのだが、不思議な事に我が両手は御主人様の手によって既にしっかりと布団に縫い止められていたのであった。誰か毘沙門天を呼んで来てはくれないだろうか。出来るだけ迅速に。でなければ多分私の危機である。
「お、落ち着け御主人。貴女は少し錯乱しているに違いない」
「いーえっ、私はどこもおかしくはありませんよ。それともナズーリンは私とでは嫌でしたか?」
そんな事を言いつつも抜かりなく顔と顔の距離を縮めに掛かる御主人である。くそぅ、こんなのいつもの御主人様じゃない。
「いやいや、そうでは決して無いけれど、せめて心の準備をして余念無く心身を落ち着かせながら身辺を整理しつつ、これからの人生設計を組み立てる期間を経てからでも十分に間に合うと思うのだ御主人よ!」
「ですが、残念ながら私の能力は「財宝が集まる程度の能力」、つまり目の前の財宝はどんな手段を持ってしても私の物にしなければ、私という存在に矛盾が生み出されてしまうのです。ですからナズーリン、貴女の将来設計を幾許か無視してしまう事になり至極残念ではありますが……。あ、この場合の財宝とはナズーリンの可愛らしい唇、という事になりますね」
一体その理論はなんなんだ。破綻していない部分を探した方が余程早い。そして残念がる者はそんな微笑みは浮かべない、絶対にだ!
「しっ、しかしお互い仏の門を潜った身、もう少し体裁を考えてだね」
「ふむぅ成程、確かにそういった考えも一理ありますかね」
「そ、そうだろう。じゃ、じゃぁすぐさま明日以降にでも清い交際を送れるように準備に取り掛かろう。清らかな関係は入念な前段階が必要だろうから。ね、ね?」
「うーん、そうですねぇ……」
必死に問題を先送りにしようと私は口から次々に思いついた言葉を放り投げる。今の私は正に追い込まれた鼠、けれど反撃の糸口は依然見つからない。
そんな私に彼女は、恐らく心の底からの生涯最高の笑みを浮かべて致命的な言葉を射ったのであった。
「無論、却下です」
「ふぇぇ」
○
命蓮寺の南側、数ある廊下の一番左側の隅の部屋。六畳一間、風呂無し台所無し、使い古されたイグサの臭いが仄かに漂うどうしようもない一室が命蓮寺内における私達の唯一の居城だ。
丑三つ時を半刻ばかり過ぎた初夏の早朝、外に張り付く蝉の鳴き声を耳に入れながら私は今日も布団からむくりと起き上がる。
壁に埋もれた刷り硝子から外を見れば、夏の終わりの兆しは一向に見えずまだまだ増すであろう暑さを気にしながらも、また今日も短くて長い一日が始まるのだろう。
そういえば、これはつい最近判明した事なのだが、私自慢の万年床は二人で寝るには少し狭いらしい。
だって貴女は寝相が悪い。-了-
丑三つ時を半刻ばかり過ぎた初夏の早朝、外に張り付く蝉の鳴き声を耳に入れながら私は薄く延ばされた敷き布団からむくりと起き上がった。
これからもって段々と増すであろう暑さを気にしながらも、また今日も一日が始まるのだろう。まったくもって余計なお世話である。
○
まだ朝も早いというのに、いかにして畳を効率よく日焼けさせられるかという事だけが我が生き甲斐、とでも言いたげな忌々しい日光が寝起きでありながらも尚美しい私の顔をじりじり蝕んでくる。
三文分得をしてまで早起きをして毎日毎日何をするのかと問われれば、そう言われれば確かにそうだと頷きたい所だが絶対的独裁者であると同等の聖白蓮の腕の中ではそんな甘えは勿論認められず、やはり仕事という唾棄すべき厄介者が私から惰眠を奪い去っていくのである。寺の中にあって、けれど立ち位置が他の者とは違っている私であったが、超越的立法者の聖からすればそれは些細な差に過ぎないらしく、故に私も勤労に励まなければならない。そんな憂いに満ちた私の今日の当番分は軒先の朝顔の水やりと、それともう一つ個人的な案件があった。
そんな訳でうかうかと二度寝も出来ぬのが現状だ。背中で寂しそうに横たわる愛用の抱き枕を惜しみつつも、少しでも気を抜けば万年床になりそうな私の準万年床を今日は珍しく畳んでみればそこには見事なまでに布団模様の日焼け跡がついている訳で、今年の夏は太陽が思いの外頑張っている事実を改めて思い知らされる。これが最近の私の日常であった。
○
歩き回るだけで首筋に汗が滲む命蓮寺の室内。
暑さ寒さも彼岸まで、そんな世迷言をのたまった阿呆をどうにかしてやりたい程度には残暑が続く後ろ彼岸の数日中。
「今夏は例年にも増して猛暑であるので、各人手を取り合って協力して乗り切りましょう」
とは命蓮寺の実質的独裁者、聖白蓮の有難い御言葉であったがどうやらその問題の夏は皆々や私、当の聖の想像熟慮すらをも凌ぐほど遥かに強大で過酷な夏だった。
時を数年遡った丁度今くらいの時期に起こった何某かのあれこれを巡り、帰結終焉した結果我が聖輦船は目出度く命蓮寺へと成り替わり里の近辺へと腰を落ち着けた訳だが、元々船を下した場所には水気が皆無であった。そう、丁度今頃といえば季節は夏の中頃である。
という事はそれはすなわち水源を確保する為に全力を尽くさねば、やがて見えてくるは渇水が起こり得るという果てなき苦行の道程。
好きな時に沐浴が貰えないなんてそれは私という乙女にとっては死の宣告と同義、下手を打てば乙女力を悉く失いかねない。
そんな迫りくる絶望をなんとも勇ましく打破しようと動いたのは命蓮寺の幹部傘下が一霊、村紗水蜜だった。
何故彼女がそこまで水源確保に尽力したかといえば理由は至極簡単で、彼女もまた無職という名の恐怖に追いかけられていたからに他ならない。
船を平坦な地に降ろして寺とする。
実質的独裁者聖白蓮の決定は空飛ぶ聖輦船の後始末の手間と、幻想郷においての聖一門の住所獲得という非常に打破困難な二つの事柄を解決するための実に合理的な決定であったが、それは即ち船としての存在価値は聖輦船から消失するという事でもあり、無論船長という職は変質後の命蓮寺においては不必要であるという二面性を持った言葉でもあった。
村紗水蜜本人に付随していた船長という値札。これを失うという事は日々の分担作業の一角を担えなくなるという事と等しく、だからそれは命蓮寺内での階級地位の最下層に彼女が位置してしまう事に直結するのだと彼女は考えたらしいのだ。いらぬ心疲れである。
村紗自身はその事を大層危惧していたが、もし本当に彼女がそういった儘ならぬ状況に沈み込んだとしても誰も村紗を咎めはしなかっただろう。
むしろその逆、温もり溢れる言葉と抱擁を持ってして、無能という幻想に捕らわれた彼女を慈愛の心で受け入れるに違いない。勿論私だって全力を尽くして彼女を励ますに決まっている。何せ大事な仲間なのだから。
だからこそ彼女は奮起した、してしまった。
血よりも濃く結ばれた命蓮寺の面々にどうにか別の形で貢献できないものか、と。
為ればこそと、自身における最大限の能力を揮いに揮って寺裏に眠った水脈をなんとか探し当て、井戸を掘りあてる事に成功した。唐突とはこういった事を指すに違いない。
その作業速度、工程は悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す程過密で、彼女は三日三晩鶴嘴片手に延々と下を目指して掘り進んでいた。これも仲間を思えばこそなのだろうか。
この時彼女が孤軍奮闘して出来た井戸は彼女の功績を称えて「村井戸」と我々の間で呼ばれている。創意工夫の欠片も見えないこの命名、。どうせ御主人様が言い出したに違いない。
と、まぁ聞くも涙語るも涙の経緯で完成した村井戸だが、度重なる地震や間欠泉騒ぎが祟ったのだろう、数日前から水が出なくなり枯井戸となってしまっていた。
これが今年の命蓮寺を酷暑とさせている一番の原因である。
生活水やら何やらは全てこの村井戸から賄われていたため、現状はこの炎天下の中でかなり遠出をして水を汲んでこなければならなくなっていた。
その純然たる事実を私から彼女に伝えた時、彼女は滂沱した。それはもう見事なまでの滂沱っぷりである。何せあれだけ甲斐甲斐しく掘り当てた村井戸が役に立たなくなってしまったのだから、その悲痛たるや苦労した本人にしか味わう事の出来ない苦痛苦悶に違いない。
これが切っ掛けで、村紗水蜜はとうとう自棄を起こして寺の仲間内に体を売る様になってしまった。今思い出しても哀しい事件だ。
一抱き一刻で三撫で撫で。
幽霊とは常日頃から冷たいという事に着目した村紗本人が、頭を優しく撫でて貰う事で心に安らぎを得て、その対価として一刻間だけ自身を生ける(幽霊だから死せる?)氷嚢抱き枕として提供するという、阿呆しか到底思いつくことが出来ないであろう事業を打ち出したのであっだ。どうやら私を除く仲間内には専ら評判らしく、この猛暑では連日予約で一杯だという。
特にぬえは常連で、恐ろしくも予約の内の約八割が彼女のものだという話をそこら中で聞いた。ぬえの必死さが伝わってくるようで大変恐ろしい。
船長は村井戸が枯れる事で共に枯れさった命蓮寺内での役割を自身の中で新たに築く事が出来、客の方も一時の快感を手にする事が出来る。正しく等価交換の図式だ。
失礼ながら私の説明の前に淫猥な妄想をした者は是非、これを機会に命蓮寺に帰依して我々と共に煩悩を取り払う日々を過ごす事を勧めておこう。欲を捨てよ経を持て、だ。
しかしここまで延々と細々に書き連ねた訳だが、つまり今年の夏は暑かった、という事だけを理解していただければ後は全て忘れて貰って構わんだろう。どうせ唯の近況報告にも及んではおるまい。
そう、只管に暑かった。我が城の南側からは連日、容赦なく嫌味な光が差し込んでくる。
「まったく、なんで私の部屋だけこんなに日が射すのだ。聖に私の部屋を変えて欲しいと伝えておかねば……」
そんな特に意味を持たない言葉をぽろぽろ零しながら私は、六畳一間の城を後にするべく身支度に取り掛かるのであった。
○
そこらに繁茂する竹の一本でも切り落として横にしてみた所で余裕が見える命蓮寺の渡り廊下の幅。
この妙に広大な廊下は寺の中心から東西南北に伸び切りしており、その四本の大道からさらに細かい廊下にかっちり枝分かれしてさながら不自然の迷路といった様相。そして私の六畳一間はこの大道の南側方面に位置している。
どうでもいいが我が御主人は南廊下の丁度一番中心側に部屋があるために、同じ南側でも私の部屋とは一番縁遠い。まぁ、どうでもいいのだが。この素晴らしく聡明な私が寂しいと思う筈もないしね。
それよりも、起きたくもない早朝に私がわざわざ起きたのは、私の御主人様にも早起きから来る心地よい爽快感を咀嚼して欲しいという、部下なりの気遣いのためだった。
これに至った切っ掛けは明々としたもので、なんと御主人様自身が私に朝の時守りを懇願してきたというただそれだけである。そう、御主人様は朝日に弱い。
以来私は毎日寺の誰よりも早く起床し、その道連れに我が御主人様にも晴れ晴れとした朝を迎えさせてやっている。
生まれてきた世が世なら、早起きの神として八百万の中に混ざり込んでいたであろう。
しかし万が一に、もしその様な事になったのであれば規則に倣った生活を見れば喜び勇んで方々へと追いやる、性根がこれでもかとばかりに複雑怪奇に捩じ曲がった冠婚葬祭入り乱れる人間どもに後ろ指を指されるに決まっているだろう。等と考えが至る所は素晴らしきかな、名を違わず私が賢将たりえる証拠だった。
そんな見るからに馬鹿らしい空想に入り浸っているうちに、目的地が見えてくる。
我が敬愛すべき愚かで美しい上司、寅丸星の恭しき根城が。
○
「という訳で、朝だよ御主人」
まだ日が高くない薄闇にも関わらず、悪辣な熱気がどこともなく漂う室内にようやっと追いついた時計の針。
布団の上に敷かれた御主人様の膝元に立つと、七分七丈の寝巻姿の御主人様が私の声に薄らと反応した。腫れぼったい瞼を何度か瞬かせては酷く気だるげに起き上がる。まるで病人のそれだ。
わざわざ朝早くに起き、堪え切れない眠気をそれでも堪えて出がけには完璧に身なりを整えた。さらに直向きに距離ある廊下を御主人様の部屋目指して歩いてみて、最初に目にしたものはといえばそんな彼女の姿だった。
果ては寝相の悪さから来るものかどうなのか、実質的聖白蓮が配下配属である所の雲居一輪が丹念に仕上げた手製の七丈丈の寝巻はきっちりと着崩れており、その様はだらしないと表すよりも破廉恥といったほうが的を捉えているだろう。正に芸術的阿呆だ。
余りにも毘沙門天代行として無残。今の彼女には一片の神性すら感じられなかった。私の健気さにも限りはある。
まぁ、しかし。
枕を胸元に抱きながら、それが己が義務かの如くと主張しかねんばかりにしっかりと寝惚け、けれどそれでも私の話を何とか拝聴しようと頑張って居住まいを正そうとする御主人様の姿はまるで幼子の様で、微塵ではあるが愛らしくもあった。
本人にはこの口が裂けたって決して言ってはやらないがね。調子に乗せた虎は非常に厄介。
「ま、三文よりは余程上等か。案外早起きも悪くない」
「お早う御座いま、す?ふあぁ……私としては早起きなどせずにあともう半刻は寝ていても良かったのですよぅ」
「何を言うか御主人よ。早起きとは実に気持ちの良いものだぞ。貴方も今一度その寝ぼけきった体を日輪に晒してくるが宜しい。それに里のお爺お婆なんてこれくらいが平均起床時間さ」
調べた訳では無いが、そう大きく相違は無いだろう。ちなみに超常的先駆者たる聖白蓮も朝は早い。いや、これは暗に聖は年寄りと似通っていると指摘したわけではなく、肉体的には若返っているが精神上の影響は少ないのであろうか、と興味を持っただけだ。言わば学術的なそれに非常に近いといえるだろう。邪推はいけない。告げ口など以ての外。
「私はまだそこまで年老いていませんっ。というかもう起こしに来てくれなくてもいいです、と言いつけてあったでしょう?さらに言えばなんで我が物顔で私の部屋に入っているのですか。私は誠心誠意惰眠を味わいたかったのですよ」
寝癖で思い思いの方向に伸び荒れる御髪をふりふり、御主人様が熱弁を繰り広げる。
「悩みの多い御主人だね。まぁいいさ、まずは二つ目の質問から答えようかと思う。何故勝手知ったる、とばかりに御主人の部屋に堂々存在しているのか、と問われればそれは不思議な事に私が御主人、君の部下だからだね。常に貴女の傍で献身尽くしてこその正しき部下像であると私は考えた訳だ。だからこその現状さ」
「む……。確かにその通りです。その点だけを見れば貴女の行動を咎めた私の方に非がありますね」
流石というべきか、自身の間違いを押し通すなんて愚行を彼女は取らなかった。
古来より交友関係や上下関係なんて線引きはお互いに誠意が無ければそもそも引く事すら叶わない強力な間仕切りである。これに失敗した輩は一生淀んだ交流を延々擦っていかなければならない。そのところを我が敬愛すべき御主人様はきっちりと弁えている様だった。毘沙門点へ一点加点。
「いやまぁしかしその件に関しては私も今後は気を使うよう改善しよう。確かに少し遠慮が無かった。距離感を少々測り間違ってしまったようだ」
「全く、その通りですよぅナズーリン。しっかりと反省してくださいね」
互いに正座をしながら向かい合い、話し込んでいるこの状況にこの距離。
御主人様のお姉さん振る表情だってこの通り手に取る様に、である。
重ねてきた年月からすれば圧倒的に私の方が上であるし、経験も豊富だ。妖怪文化が蔓延るこの界隈では良くある事だったが、どうもこの虎も見た目で相手の地位を決めがちであった。そろそろその先入観は神社の賽銭箱並みに役に立たないと教えておかねばいけないだろう。
「そうだね、反省は大事だ。だがね、我が聡明顕示な御主人よ。もう一つ問題が残っていたろう?」
「おっと、その事はナズーリンが悪いのは自明の理。ここで議論を交わす必要はありません。後は貴女が私に謝罪を申し開くだけで全ての問題はとんとんです。私のような優秀な上司は部下を不必要に貶めないのですよ、ふふん」
ところがそうもいかんのである。あからさまに満足そうな、言わば「あのとても賢くて私如きでは手が届きそうにもない正に天に坐わされる様な賢将ナズーリン様から一本取った!」的な顔で朗々と弁を携えているのは一向に構わんが、それは所詮岸辺の砂城以下、欠陥住宅にすら劣る素晴らしく脆い理論武装なのであるのだと我がご主人様は悲しい事に理解出来ていないらしかった。
「御主人よ覚えているかな、少々昔の事で思い起こすのは難儀かもしれんが何、ほんの四日程前の事だ」
「四日前?…………あっ。お、覚えていません、決して」
「うむ、流石は我が御主人、非常に聡明なようだ。そう、あの時貴方は月初めの三日目に朝方の用務があるので何とか助けてくれないか、と切羽詰まって私に泣きついてきた。貴女は朝に非常に弱いからね。そして、その問題の日は御主人は驚くかも知れないがなんと今日なんだ。この事に関してなにか釈明はあるかな?」
「ご、御免なさい……」
先程、ふんすふんすと正座で私に講釈を垂れる御主人様は、今は哀れにも頭を垂れている。これでは寄り付く後光もそのまま後方に消え去っていくだろう。
しおらしい態度で反省の意を示し、御主人様自身の優雅な御御足が愚かな偉ぶりの為の正座で麻痺してきた事を、彼女自らが涙目で訴えてくる。その眼は非常に潤んでいて、無条件に許してしまいそうになる。
この保護欲をひどく掻き立てられる表情を目の前にして情状酌量をしない輩が果たしてまさかこの世にいるのだろうかと私は考えた。今この瞬間の御主人様から発せられる言葉は見目麗しき女神の嘆願にも居並ぶに違いないというのに。
「無論却下だよ」
「ふえぇ」
愛すべき筈の部下を疑った罪は未だ見ぬ大海よりも遥かに深い。
一体どこからそんな声が出るのかと疑いたくなるような絶命の悲鳴が私の目の前の生き物から鳴き上がった。
「やぁやぁ、よく思い出せたね御主人。それに真っ直ぐ素直に謝る事も出来た。最近のふしだらな若者の間ではこんな、幼子でも欠かす事のない礼節諸々が出来ないたわけが数えて捨てる程に多いというのに、そこに来て我が御主人はきっちりとこなす。よしよし、偉いぞ御主人」
今や正座の姿勢で塩辛い水を流す、水漏らし装置と成り果てた御主人様の頭に手を置いて一撫で二撫で。私なら嬉し恥ずかしとなる所であるのに未ださめざめと泣きを見せ続ける辺り、どうやら御主人様はそうでは無いようだった。私の麗しき御手は安売りをしないというのに。この贅沢者め。
「うぅ……、なんだかちっとも嬉しくありませんよぉ」
「おいおい、遠慮なぞしないでいいのだよ御主人。充分過ぎる程に喜んでくれていいさ」
「ぬぐぐぅ」
意趣返しとばかりにこれでもかと盛大に嫌味ったらしく慰める私に、予想通り御主人様は反撃の二の句を告げる事が出来なかったようだ。
私に舌戦で勝利を収めようなどと、努々考えない方がいい。
世の情勢がどれだけ動乱しようとも、命蓮寺の中に置ける私達の力関係は今後暫くはこのままだろう。御主人様には申し訳ないが、ほんのわずかな間の刺激として、しばらくはこういった下剋上の関係を楽しんで貰いたい。これも部下なりの気遣いだ。
そうそう、これは私の持論なのだが、時が全てを解決するなんて事は決して無い。
さぁ、これからも私と貴女で仲良くやっていこうではないか。
○
余計な茶番の所為でかなり間延びしてしまったが、どうせやらなければいけない事項だからここで可及的速やかに可及的阿呆な我が上司の詳細を可及的に書き付けておく。
本名寅丸星、職業は毘沙門天の代理。兼任で私の上司を務めている。
と、書面上ではそう処理されているが多分虚偽申告だろう。あるいは本人による激しい妄想の産物かもしれない。
趣味は昼寝、好物は私の手料理と公言しているらしかった。寝惚けるのが趣味だという非生産者な割には部下のご機嫌取りは上手いらしい。別に喜んでいる訳ではない。勘違いするな。
背丈は長上、妖怪という事実を鑑みてもかなり大きい方に分類される。肉付きは憎たらしい程度には理想体型であり、その為隣で侍る私がまるで低身長で胸が薄いかのように見られてしまうといった実害が出ている。何と由々しき事態か。
命蓮寺内での役割は主に御本尊、早い話が門徒達の信仰対象だ。暇を持て余した村人との話し相手とも言う。最近は地道な布教活動が功を奏したのかとんと若い女子の参拝が増えており、相手取られる御主人様はいつもデレデレしている。仕事を疎かにするとはどういった事なのか。あぁ、全く持って腹立たしい。もう少し部下を構ったって仏罰はあたるまいに。
とまぁ簡潔ではあったけれども、以上が便宜上では毘沙門天代理となっている我が不甲斐ない上司の紹介であった。してその話題の種の御主人様を語るに置いて無視できない、私と彼女の初めての邂逅とは一体。
それはそれは一片の救いも無く、美談に脚色する余地すら見当たらない、物の見事に陳腐な出会いだったと記憶している。
賢将たる私が毘沙門天の配下としてあくせくと汗を流している日々の中、毘沙門天直々の命を受けて、そのとき初めて晴れ渡る青空を超えて猶突き抜ける間抜け面をした御主人様に出会ったのだ。彼女は、とても美しかった。
初めて見た寅丸星。背丈は今と比べても殆ど上下しておらず、服装も荒々しく解れた作務衣であった事に加えてあの器量の良さである。顔面体躯だけを見てしまえば整った顔立ちの男装の麗人に見えてしまったと記憶しているが、今から思えば詐欺より酷い。
だが蓋を開けてみれば何ということも無い、今と変わらない寅丸星なのであった。
一仕事を終えて汗ばんだ作務衣を脱ぐ彼女。
上から順に凸、凹、凸と引き締められたしなやかな肉体はしかし決して下品になりすぎず、まるで生きた彫像かと思わせる気品がそこにはすらりと漂っていた。
だが非常に残念な事に御主人様自身の粗相癖はそんな気品だけでは到底覆い隠すことが出来なかったらしく、常に私の前に有難く憚ってくれたものだ。迷惑千万この上ない。
仕事での粗相は日常茶飯なので省くとしても、失せ物をさせれば御主人様に届く者はいない、という程度には私の手を煩わせてくれていた。
その累計数は息をするように着実と伸び伸び芽吹き、それこそわざと物を無くしているのかと当時の私を疑心暗鬼にさせたものである。今も変わりは無いのが厄介である訳だが、そこいらは御主人様に付き合うに度に必ず起こる天災の様な物だとして現在は概ね諦めてはいる。
別に粗相の後始末を手伝ったり失せ物を見つけ出した際にちらりと見せる彼女の笑顔にほだされただとか、気を取られたからだとか、そんな貧相薄弱な理由で御主人様の後を付いてまわっていた何てことは貴君諸兄の完全な間違いであるから、後世に言伝る際には一言一句間違う事のない様に大変丁寧に気を使うように。
しかし当時は御主人様の口から直接性別の事を聞いた後でも、余りにも整った顔立ちと女性らしからぬ長身の為に、不本意ながら胸がときめいてしまっていた。
(だが別にこれは自然な事であってまさしく不可抗力同然でもあり、だから当時の私を決して責めないように充分注意して頂きたい。だって仕方が無かった、美しかったのだ!)
が、美人は三日で飽きるとは上手く言ったもので、度重なる数々の失態の帳尻合わせを幾度となく手伝わされた事も手伝って、御主人様の横に立っても前よりも高鳴りの反応が薄くなっていった。人身事故的な初恋の結末なんて案外そんなものである。
当たっては砕け、引き摺り引き摺られ。恋愛事なぞ終始交通事故みたいなものなのだろう。
ただ、飽きる、なんて言葉は御主人様にも、僅か数日ではあったけれど御主人様にほの字だった昔の私にも失礼だが、けれども確かに御主人は美しいままであって猶、それでも私は彼女の美貌に慣れ親しんだという事なのかもしれない。故に私の面相判断の価値観は彼女を起点に形成されたといっても過言らしき過言は無い。
おかげで並み居る有象無象には気にも留めなくなってしまっていた。全く傍迷惑な上司である。言い寄る宛も言い寄られる宛ても無いけれど、多分私は今後一生誰かを見ては心中で御主人様とその誰かを天秤に掛けるのだろうと思う。本当、迷惑。
その生粋の迷惑加減だけは幾十年経った今でも慣れない所ではあった。
○
けれど今ではそんな概念系上司の御主人様さえも簡単に手玉に取る事が出来る、およそ万能と呼ぶべき存在に最も近しい私であったが、無作為奔放に日々を過ごすのだけはどうも苦手だったらしい。
そんな土台の踏み固められていない私の事を捕まえては度々、寺の皆々が私に向かって口を揃えて「何か趣味でも見つけてみてはどうか」等と口煩くしてくるのに対し、私は毎度毎度彼女たちの倶楽部参加のお誘いに断りを入れていた。人気者も楽では無い。
ここで出来る限り傾注して聞いて貰いたいのだが、実は命蓮寺内には個々各々の感性をより豊かな土壌で育む事を目的にした「倶楽部」という活動団体が点々と幾つか存在している。
この明らかに不健康に悪そうな集団の実態は、乙女という生き物に万遍無く似つかわしい趣味を持ち合わせた数人の同好の士から結成される、なんとも花柄模様の余暇集団なのだった。といっても数多の倶楽部が乱立していた、さながら倶楽部戦乱時代とでも言うべき隆盛の時代は遥か彼方に過ぎ去っており、栄華過ぎ去りし今では二つの倶楽部だけが細々と活動を維持していた。
しかし僅か二組しか存在していないからこそ、それらは命蓮寺での二大巨塔とも呼ばれるべき存在と言えた。あくまで倶楽部としての枠に収めるとであるが。
その畏怖すべき前門と後門、私の不健康的悠々生活を脅かす優良倶楽部共の全貌とは如何に。
一つは「南無南無手芸倶楽部」という。
口で発音するには些か言い辛く命蓮寺内での専らの呼称は文字を縮めて「無手倶楽部」である。誰が戦犯かは私の預かり知るところではないが、どうみても縮め方を間違っている良い例である。いや悪い例か。
その名の如く(無手の方では無い。ここでは手芸を指す)、それは雲居一輪を大黒柱として活動する比較的温厚な「編み物倶楽部」だった。
寺内の主な法具法衣仏具に類する数多の備品は、徹底的なまでに組織化された倶楽部統率の下で無手倶楽部から生産されており、つまり無手倶楽部に属する面々の寺への貢献度は最上に匹敵しうるのだ。命蓮寺は裕福ではないのだ。
故に無手倶楽部に所属し組織に忠誠を誓えば、優先的に「一輪御手製もこもこ雲山手拭い」等の限定日用品が支給されるといった恩寵を恒久的に受ける事すら可能だという、黒い噂が倶楽部の周りに真しやかに流れているのである。流したのは私だ。噂が影響したかは判らないが、自分で自己流の備品を作れたり、乙女的技術向上を狙えるという触れ込みもあってか命蓮寺内では倶楽部に所属するといえば九割九分九厘この南無南無手芸倶楽部を指す。
そんな巨大事業団体を相手取るは村紗水蜜を柱に置いた「航海測量倶楽部」であり、無手倶楽部対抗勢力が誇る期待の勝負馬、なのだと当事者達は思い込んでいるらしい。
肝心の活動内容だが、陸路と水路の二極から、経験則と専用器具を用いての地道な測量作業並びに地図、製図作業を生業とした大変に生真面目な倶楽部。
こちらも名を縮めて「航海倶楽部」として呼ばれていた。ちなみに名称の頭に航海と銘打たれているのは主導者の個人的趣味嗜好であって、これを見るに名前に関しては割と別にどうでもいい決まりらしい。だって幻想郷に海はない。
それなりにおざなりな感覚で設立されたであろう航海倶楽部であったが、反面こなす作業に間違いは皆目見当たらず、丁寧に記録された地図等は寺の内外を問わず需要が高まっていき倶楽部の規模は瞬く間に拡大した。航海倶楽部は正しく無手倶楽部への対抗勢力として実態が膨らんでいったのである。
以上、全て過去形だ。
至極残念な事に今現在は時間の流れと共に元々多くは居なかった賛同者がめっきり減ってしまい(具体的にはぬえが倶楽部に加入した時期近くなのだと船長は言っていた)、実質的支配者である聖の苦渋の決断によって倶楽部から「同好会」へと引き下げられてしまっている。同好会と倶楽部での差異は特にない。まぁ気分の問題なのだろうと思う。
であるので数年前から心機一転名を改め、「航海同好会」という変に洒落込んでいる会名で村紗水蜜自身が新たに会員獲得に励んでいたりしていた。字面的には航海よりかは「後悔」の方が収まりが良い気もするが、そこは好みの範疇か。
だが日々の努力虚しく、会員数が依然と変わらずに二名であるところを見るに船長の宣伝効果の程は芳しくは無いようだった。
まぁ、船長以外の同士、専らぬえに似た誰かが加入者を影で威嚇しているから、馬に蹴られてはたまらんといった感じで皆が自然と避けているのだとかいう情報も私配下の鼠から寄せられているが、気に掛ける事でもないだろう。
そう、真実は闇の中にあってこそ最も美しい。船長よ、そろそろ夜は用心し給えよ。
○
そんなこんなで近頃、やたら執拗に一輪や村紗から加入用紙に記名する事を差し迫られている訳だが、集団に縛られるのは好きではないしそもそも自堕落的悠々生活を過ごせなくなる事は我が私生活において大きな損失である。それに重要書類に記名するのは長い生涯の中、婚姻届だけで事足りている。
だからこそ声を大にし、有らん限りの力を振り絞って主張せねばならない。
「私は御主人様以外の傍に属する気は毛頭無い」と。優秀な部下は不甲斐ない上司の下でこそ脚光を存分浴びる事が叶うのだから。
この文言を持ち出せば大抵の輩は我々の深い絆を前に沈黙し、残るは相手側の何とも言えないしょっぱい表情だけである。この事例からも判るように、効果は絶大である事が容易に見て取れる訳だから、ありとあらゆる押し売り、迷惑な居座り客への有効打として今後里に広める事を進んで検討しておこうかと思う。上手くいけば私の里における内評点の向上にも繋がるかもわからない。
それと、何度も念を押すようで悪いが別に私は御主人様を心から慕っている「だけ」であって、決して愛だとか恋だとか一般論における酷く軟弱な思想の下で行動している訳では無いという事は再度確認しておいた方が互いの為だろう。勘違いは時に悲劇を呼び起こす。
私と御主人様の繋がりは部下と上司という形骸化した、けれど無限に結ばれた関係性でのみ成り立ち、そこにあるのは唯一つの安心感のような物だけなのだ。
私は御主人様の隣という己が一番輝ける場所を求め、逆に御主人様は私を小間使いとして己の手足の如く動けるよう、常に私に世話を焼かさせる。
幻想郷広きと言えども我々のような歪な互助関係はそうそう無いだろうが、だからこそこんな信頼の形も少しは認可されるに違いない。そんな奇妙な絆がこの命蓮寺には存在している事は、少なくとも貴兄らには知っておいてほしい。
話題の軸を最初に戻して尚且つ今までのつらつらを纏めると、要は独裁的な私利私欲と我が尊敬すべき上司の世話に掛かりっきりだという受け入れ難き理由があるために、残念な事に倶楽部活動にまで私の乙女的にほっそりした首が回らないという事だ。
まぁ言うなれば、私と御主人様のその関係がそもそも倶楽部みたいな青臭い活動の果てしない延長線上にぽつんと存在している様なもので、だからこそそこまで他倶楽部への加入の必要性は感じられない。
しかしそうだね、私達のこの関係性に敢えて名前を付けるなら「身辺整理倶楽部」なんてのはどうであろうか。多い時には日に三回以上失せ物をし、自身の粗相で部屋を散らかす。その後始末や整理整頓のお鉢は必ず私に回ってくる訳だから、身辺整理倶楽部。
少々分不相応に不穏な気もするが、もしかしたら御主人様が身の危険をこの会名から感じ取り、粗相を減らそうと努力するかもしれない事に是非とも期待したい。
○
至る現状。
一輪の隣に座ってお針子仕事をそっと手伝って、その見返りとして新しい肩羽織の製作の約束を取り付けてみたり、実質的独裁者たる聖に直接申し付けられて里まで日用雑貨や消耗品を見繕いに行ってみたり。(その際釣り銭を駄賃として握らされたのだが、もしや彼女は私を子供だと思い込んでいるのではないだろうか。年齢的にいえば私は彼女や御主人様より長く生きているつもりであるので、この扱いには噴飯せざるを得ない。というか中々に落ち込んだ。)
そういった細やかな雑事を拙いながらも毅然と熟していけば、いつのまにかあれ程憎むべき存在であった夏の日差しは見事になりを潜めており、どうやら諦観の内に御山の影に沈んでいった様だ。
いまや幻想郷の空はそんな日差しに代わって、眩しき月が空一杯に銀糸を降ろしていた。
日射では無く月光が降り注ぐ安寧の空間となった我が六畳間、部屋の隅ではのろのろと行灯が灯っている。そんな日中とはがらりと表情を変えた六畳の中心で、全力で寝そべりながら涅槃を試みている私の前には何故か余所行きの恰好をした面々が群れを成して押し寄せて来ていたのであった。これは夢だろうか。
私から睡眠を奪い去る者は例え御主人様であろうと容赦なく叩き伏せるぞという気概ではあるが、件の群れを率いているのが命蓮寺の実質的独裁者、聖白蓮であるとなれば断然話は別なのである。断腸の思いで睡魔と縁を切り、仕方なく統率的支配者の清らかな声音に耳をなびかせる。
「どうもお邪魔しております。良く寝ていたようで」
「侵害だな聖。心情的にも、領土侵犯的にも。私は今、この方丈に限りなく近しい空間で思索に耽っていたというのに」
遂に毘沙門天代理の不必要さに気が付いた実効的執政者である聖白蓮によって、御主人様の不当解雇でも始まったのかと小さな体躯を強張らせつつもむくりと起き上がる。すると我が視界に移る皆々は、それぞれが一様に余所行きの格好をして小ぶりな木桶を抱えていた。一体全体何事か。
「それは失礼致しました。所で今日はもう一輪達はなんと入用が僅かもありませんでして、そして偶然に私もです。ですので連日遠出の水浴びで済ませる所を今日は奮発して里の湯屋にでも行こうかと」
湯屋、銭湯か。確かにここ最近は村井戸が使用できなかったので浴堂の使用も儘ならず、だものだから寺から洋々離れた小川で身を清めていた。そこへ来てのこの誘いである。
湯に浸かって放蕩とした気分になり汚れもより落ちるとは、非常に髄をそそられる提案に違いなかった。
「それはいい、是非皆で垢を落としながら存分に楽しんでくる事だ」
「ですのでナズーリンも一緒にどうかと思い至りまして」
「ふむ……、残念だけれど、謹んで断るとする」
暖かい湯に包まる事が出来るというのは確かに魅力的な提案ではあるが、それは客観的事項であり主観的に見れば誘いには乗り難い。
銭湯とはつまり裸。
故に銭湯など言語同断、裸の付き合いなど以ての外である。
肉体肢体に措いての芸術的観点に詳しい私から見ても自分の体躯が貧相脆弱な裸体だという事は言い逃れる事がおよそ不可能な事実であり、そんな凹凸皆無である己が体を誰が好き好んで衆目の前に曝け出すことが出来ようか、いや出来ない。
綺麗好きな一輪起っての願いで作られ、それならば、と実質的独裁者聖白蓮の鶴の一声で総檜張りとなって増設された寺の浴堂でもわざわざ時間をずらして一人ゆらゆらと浸かり、連日の水浴びも皆から目一杯離れた川下で寂しくぽつねんと済ませていた程の私が、よりによって銭湯だと?
銭湯、湯屋といったら一般的公序良俗に大きく外れた脱法的経営施設ではあると聞いている。いや多分にそうに違いないだろう。
実際に行った経験は無いが、知識としては人づての伝聞や、書物、実地検分等で事細かに心得ているつもりだ。
確か同性同士で湯に浸かり、体の隅々まで互い互いに清め合う場所だったと覚えてはいるが、言葉巧みに隠しているつもりだろうが結局は裸を見せ合うという事だろう。真に不健全な施設である。
あんな破廉恥極まりない桃色空間に誰が連れ込まれようものか。
どうせ皆々して「一輪は肌が白くて羨ましいですねぇ」やら「ひっ聖も凄い綺麗ですヨ」だとか「ぬえ、君一人じゃ頭をしっかりと洗えないだろう?私が手伝って上げるよ」やら、はたまた「ん、ありがとムラサ……」なんて姦しあってる光景が瞑った瞼の裏側にありありとと浮かぶ。
それだけならまだしも、肢体の良し悪しや胸囲の競い合いなんて事になったら手が付けられん由々しき事態。桃色的戦国時代突入である。胸無き者には這いつくばる事すら許されず、無様に生き恥を晒すことになるのだ。
私に地獄を見ろと仰るか。言っておくが別段私の胸が凹んでいるのでは無く、皆の数値が脅威すぎるだけであり私の胸に罪は無い。
それに私は知っているのだ。彼女達や、例外的に一応私にも「あれ、これあるの?あるっていえるの?」程度に付いているおよそ二つの脂肪の塊は、月日を重ねるごとに経年劣化していくのだと。それも大きいもの程に。私は、大きくは無いけどつまりそれは経年劣化を免れるという事でもある。喜んでいいに決まってるのだ。
しかし他の者は違う。後々必ず付きまとう己の重力への絶対的敗北に脅えなが精々今を謳歌する事だ。ま、私にはとんと関係が無い心配であるが。
自分で述べて自己嫌悪に陥るとは賢将の私にも予測できず、なんとも恐るべき兵器が生物学的意味合いでの女性という奴には付いている、二つも。ま、私には無い訳だが。
兎も角、そんな不埒な行為に傾倒してる輩なぞ全員茹って逆上せてしまうが宜しかろう。銭湯なんぞ何があっても絶対行ってやるものか。
公衆浴場なんて破廉恥極まりない不健全な場所に行くなど、奥ゆかしき私には目の前に立つ断崖絶壁を登れと命じられるよりも苦しい行為なのは私的に明らか。
どんな事があっても私はここを岩より重く動かぬであろう。
そんな偏見満ち満ちたる考えの最中、実質的独裁者である所の聖の後ろから御主人様が滑るようにして私の前に出てきた。何だ姿が見えないと思ったら後ろにいたのか。
「そう言わずに、ね。私からもお願いしますよナズーリン。一緒に湯屋で身を清めては来ませんか?貴方も日頃から汗をかいて大変そうじゃないですか。それに貴女がいないと私、もしかしたら何か酷い失敗をしてしまいかねませんから」
「……そっ、そういう事なら仕方ないな。部下としての責務は悉く果たさねばいかんだろうからね。いいよ、私も行こうと思う」
「有難う御座います、ナズーリン」
「勘違いして貰っては困るよ、しっ仕方なくだからね、御主人よ」
「はいっ、そうと決まれば早く行きましょう。ほら、早く早くっ」
「全く、普段もそうやって時間を気にして貰えれば私も朝は落ち着けるのだがね」
「うぐぅ、それは掘り返さないで下さいよぉ」
御主人様の情けない懇願に釣られてこの場に響く一同の笑い声。相も変わらず、今日も今日とて命蓮寺は平和なのであった。
……。
…………。
他意は無い。無いと言ったら無いのである。
これは上司と部下の関係性と必要事項を検討した結果の判断であり、お目付け役として同行するだけだ。この判断にやましい気持ちや僅かばかりの下心なんて不潔な考えは微塵も混ざっておらず、むしろ御主人様が必ず起こすであろう粗相に迅速に対応するための苦渋の決断だったのである。
そうだ、それだけなのだ。くそぅ、嫌だ、やめろ、そんな目で私を見ないでくれ。だって気になるではないか。正直で何が悪い!
○
色々と書き散らかしてしまったが、なんとか尊厳を滑落させずに済んだ私は当初の彼女達の目的通りに湯屋へと辿り着いていた。具体的には屋内、脱衣所のあたりである。
皆々部屋に付いた途端、我先にとでも言わんばかりに服を脱ぎ出し、備えの簡素な竹籠へと放り込んでいく。多分彼女らには羞恥心という繊細な乙女機能は外されているに違いないだろう。でなければ衆目を気にせずに堂々と肌蹴る事など出来るものか。さらには有ろう事か私にも強要を迫るに違いない。そんなもの無論却下である。乙女は無闇に肌を見せぬものなのだ。
そんな中先陣を切って一番に衣服を投げ捨て切ろうとしたのは村紗水蜜であった。
幽霊だからなのか、はたまた生まれつきであるからなのかは判断に悩むが、ともかくその驚くほどに色素の薄い肌が船長自身の手によって露わになっていく。いつもは活動的な水兵服で隠されていた下半身は今や完全に無防備であり、そこから現れる小振りながらも程よく引き締まった尻は、手で触ればそのまま沈み込んでいきそうな柔らかさだという事が遠目からでも悠々見て取れた。
そんな村紗に負けじと服を脱ぎ始めたのはぬえである。こちらも透き通るような肌を惜しげもなく白日の下に曝していく。普段は黒一辺倒の服で対外的に強調されていた肌と黒の加減は今や完全に肌色一色となり、その艶やかでしっとりとした肌は儚げでもあり、一対の脚はどこまでも細くしなやか。しかし決して病的という事では無く、むしろ太腿から爪先にかけての曲線美はカモシカの様であり、いつもの正体不明からは想像も付かない色気を醸し出している。
そこから少し離れた部屋の一角では、実質的独裁者がこれでもかとばかりに法衣を脱ぎ捨てておりその風格はやはりどこか違った。具体的にどこが違うかと問われれば自然、我が目は彼女の胸へと寄せられてしまい、そこにはどんな説法の御言葉よりもありがたい芸術品が君臨していた。その白磁で出来た一対の丘は物質的法則を無視するかのように凛々しく上を向き、その丘の頂点達は見事な桃色で彩られている。
ここまでの代物は生涯尽くしても今後一切拝めないであろう。
その後ろで着替える一輪もそれに匹敵する物を持ち合わせてはいるが生憎彼女は未だ頭の衣を取り払い、髪を結っている所だった。
だが侮る事なかれ、その後ろ姿からちらりと除くうなじは女性としての魅力をこれでもかと振り撒き、より一層この場の空気を桃色にしていく。
さらには、髪を結い上げるために慣れた手つきで動かしている細い指はまるで白魚の様で、ただ髪を纏めているだけであるというのにどことなく淫靡な香りさえ漂わせていた。
そして私の隣で衣服をゆっくりと解いていくは御主人様であるが、こちらは何というか最早別格である。やはり私に釣り合うにはこれくらいでなければいかん。
こちらも卑怯なまでに透明感ある肌は標準装備であり、さらに普段の生活からも想像できる通り御主人様の肢体には程よく筋肉が付き、けれども女性らしさという奴は完璧に損なわれていない。その荒々しくも美しい両腕で抱き留められればそれだけで極楽浄土へと昇天出来る事だろう。
また、手こずりながらも段々と紐解かれる上半身には彼女の長身に似合うだけの、瑞々しき肌色の果実がたわわに実っており、衣服を脱ぐ動作に合わせて上に下にとたゆんたゆんと揺れ動く。その光景はまさに天上の果実、禁断の味といった所か。
上を脱げば次は無論下である。
こちらも大分難儀しながら御主人様が脱いでゆくが、大きく片足を挙げながら裾を下しているために、その優美な太腿の付け根からはまるで焦らすかのごとく絹の肌着が見え隠れしており、さらによくよく見ればその頼りない布は見事に肌に沈みこみ、布に僅かな陰影を浮かび上がらせる。
まさに示し合せたかのように死角が存在していなかった。ここは天国か。
以上、各人の脱衣の様子であったがこれからも分かる通り既にこの場はいかがわしく、湯に浸かる前ではあるが既にすっぽかしたい気分である。いざ入浴、となった場合には私がどれ程憔悴するかなんて目も当てられない。
だが私にも持たざる者としての、だからこその譲れぬ意地という奴があるからして、何としてでもこの伏魔殿から生還をしてみせよう。
そう固く決意しながら、死地へと繋がっている筈の鉄扉にも負けず劣らずの不落の扉を開け放ったのであった。
○
至極残念ではあるが入浴の回想は都合上省かせて頂く。
期待に胸躍らせる諸兄皆々に強いて告げるとすれば、我が予想違わず、といった所か。もう少し周囲の目を気にして欲しいものである。特に船長とぬえの周りには、何があっても今後しばらくは近づくのは御遠慮被る。一歩間違えれば体中桃色にまみれて死ぬところであった。つくづく厄介な組み合わせである。
そんな訳であるので、頼むから期待の新星である一輪には節度を守って独裁政権の革命を狙って頂きたい。やるなら外堀から埋めて行く方がきっと捗るだろう。
あぁ、それともう一つ。
御主人様の胸は、予想以上に柔らかい。
○
瞬間天国を拝顔した私ではあったが、真残念な事にそれ以上の事は記憶に残ってはいなかった。覚えているのは確かな温もりとふっくらとした安心感。
現在は命蓮寺の我が六畳一間、風呂無し、台所無し、使い古されたイグサの臭いが仄かに漂う懐かしき居城の中に、湿気った煎餅の如くのっぺりと敷かれた万年床の中で横になっていた。夏の夜、静謐な六畳の中に一人だけ横たわっているというのは中々に寂しいものである。
しかしどうしてこんなにも冷たい空気を一人で噛み締めているのであろうか。
察するに、どうも先の騒動で逆上せてしまったようで、一輪と村紗当たりが余計な御節介を焼いたらしかった。
外に出るときに特別に着込むあの洋装では無く、上司と御揃いで仕立てた寝着に変わっている所を考えても、どうやら無残にも彼女らが手取り足取りとっ散らかった私を着替えさせてくれたのであろう。酷い妖権侵害ではあるが、まぁ、有難くはある。
今度会ったら最大限の嫌味を挙げ連ねつつ感謝の礼をしておかねばとは思う。そのような至極仕様も無い事を思いついていると、部屋の外からいかにも間抜けそうな声が聞こえた。
「ナズーリン起きましたか?」
「ん。今しがた気が付いたところだよ、御主人」
私がそう手短に答えると、声そっくりの間抜けた顔で御主人様が部屋にそっと入ってきた。瞬間我が六畳間の部屋の臭いが、仕事に疲れ切った古臭いイグサ共の臭いから、彼女が幽かに纏うお香の香りへと一瞬きに移ろぐ。一体どういう事だ我が畳よ、抵抗らしい抵抗もせずに無血開城とは情けない。せめてその節くれ立った様な悍ましき畳目で御主人様の、絹にも匹敵せんばかりの柔肌にささくれの何個かでも刻みつけてやろうという気概を持ってはどうか。
だが、確かに不思議にも居心地がよい落ち着く香りだ。どうやら私もそう強くは彼らを責められないらしい。
「具合はどうですか。急に倒れるものだから吃驚しましたよ」
肝心の我が上司は、そんな事を云いながら私の枕元へと腰を休めた。
これでは朝と立場がまるで逆である。自然と赤らむ頬を夜の夏風がじんわりと撫でて行き、若干の熱を掠め取っていった。
「いやなに、少々血が頭に昇り過ぎてね。やはり私には刺激が強すぎた様だ」
「どうやらその様で。しかしナズーリンにも苦手な事があったとは。まさか御風呂が不得手なんて、流石の毘沙門天代理の私でも驚きました。浴槽に浸かるのが苦手だなんて、まるで幼子みたいで可愛いですねぇ」
これだからこの阿呆虎は、これだから。
そもそも発言の意味を捕え間違えるのは、この際御主人様だからという理由で仕方なく目を瞑るとしてもだ。
臆面もなく、いや、まぁどうせ本人には到底深い意味は無いのだろうが、それでも簡単に可愛い等とは頼むから言ってくれるな御主人様よ。今目の前に居るのが私だから良いが、これが里の生娘や若女将だったらどうする御算段か。責任問題である。
外面の良さだけが取り柄の御主人様に惹かれた彼女らが、貴女の七面倒臭い内面を知ってしまい女性不信にでもなったら誰が責任を取ると思っているのか。無論私だろう。
よもやそんな事になり私に迷惑の火の元が降りかかって来る事の無いよう、くれぐれも気を付けて頂きたいと思う。
最早子供ではないのだから己の魅力にいいかげん注意を払うべきなのだ。無頓着こそ罪である。
「いやいや、子供っぽさ加減に関しては私なんて、御主人には到底及ばないよ。存分に誇ってくれ」
「え、そうですか?どうも有難う御座いま――ってさり気無く馬鹿にされてる?!」
「いやいやまさか。ま、その事については色々と言い訳を並べ立てて抗議したい所ではあるが、しかし今はそんな嫌疑の押し問答より明らかにしておいた方が良さそうな事があるのだがね。わざわざ私の健康に気を取られに来た訳でも無いのだろう?」
有り得ない仮定ではあるが、しかし仮にそうだとしてみても起き抜けにとんでもない嬉し恥ずかしな事態である。起きても悪夢とは猶性質が悪い。
そんな困窮苦心な場にはなってくれてはおらんだろうか、と馬鹿げた不安を取り払うかの様に居住まいを正しつつも御主人様の言葉を待つ。
「まったく、なんで貴女はそんな邪推ばかりに傾くのですか!貴女が心配だったからここに来たに決まっているでしょう。あぁ、出会った頃は素直で寡黙で甲斐甲斐しくて、一挙手一投足全てが可愛らしかったというのに、今ではこんな捻くれた部下に……。あの恥ずかしがりな私のナズーリンは何処へ行ったのでしょう」
「ひ、卑怯だぞ御主人。過去の事を引っ張り出すのはやめて頂きたい!」
そう、御主人と出会った頃は私の態度はそれはそれは酷かったものだ。可能ならばどこぞの犬にでも喰わせてやりたいぐらいには、初々しい反応を御主人様にくれてやっていたと憶えている。悔しくも、言い表せない程には阿呆の中の阿呆であった過去の私なのである。
「おっと、であるなら今朝の私もナズーリンによる被害者ですよ、それはもう立派に」
「話を逸らさないでくれ、それとこれとは話が別だ。そんな他愛事よりもまず謝罪を断固要求する。今謝れば、もれなく右か左の頬かぐらいは選ばせてやろう」
加減はしないがね。だってこの賢将に散々恥をかかせてくれたのだ、それくらい嘯いたって許される算段な筈だ。
「ぬぬっ」
「さぁ潔く諦めるんだね。頬に紅葉を散らせたくは無いだろう?」
「うぐぐぐ、……ふんっ」
頭の中で織り糸がくしゃくしゃと絡まった様な渋面を作りながら、あらぬ方向へと首を捻じ曲げる。御丁寧に両頬までも丸々膨らませてつんとした表情を、窓から漏れ出した月明りと呑気な行灯が照らしては映し出す。
所謂そっぽを向くという奴であった。
「あっ、御主人、それは往生際が悪いよ。毘沙門天代理としてもっとこう、堂々と己が落ち度を認めるべきだ」
「残念ながら急に耳が遠くなったみたいですぅ。これっぽちも聴こえませーん」
「こ、このっ阿呆虎めっ」
御主人様には珍しく頑固な対応をされて焦れったかったのだと思う。それに恥ずかしくも、およそ万能と呼ぶべき存在に最も近しい存在である筈の私だというのに、先からのやり取りに妙に興奮していた事もあって、何とか彼女の顔を実力行使でこちらに向けさせようと布団から勇ましく立ち上がった瞬間、運悪く足が滑ってしまった。如何にも予想できる地べたへの滑落。後悔は後にも先にも立たんのである。
「うわっ」
「あっ」
両脚の膝小僧に大きくはない鈍痛を感じた。困惑しながら目を凝らして状況を確認すれば、どこぞの虎によく似た御尊顔が目の前にあった。さらに言えば、何とか倒れる私を受け止めようとしたのであろう御主人様を、私が物臭な畳の上に押し倒したかの様な格好になっているのであった。ちょっと、これは冗談では無かろうか。
「あっ、いや、す、すまない御主人、助かったよ。もしかしてどこか痛めなかったかい」
私のために彼女が怪我をしていれば、部下失格の烙印をこれでもかと自分で押さねばいけない。
「少し驚いただけで、それ以外は健康そのものです。それよりナズーリンこそ大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。多少痛んだだけで、それだけだ」
「そうですか、それは良かった」
御主人様が私の下敷きになりながらも板についた笑顔を覗かせる。ずるい。
いつもそうだ、何か酷い粗相を仕出かしたとき、失せ物をしたとき。怒ろうとしても呆れようとしてもこの笑顔の前にはとことん無力であった。
けれども、常に私はそんな卑怯な御主人様の傍に居たいと願っていた。真可笑しな話である。
ここまで散々隠しておきながら今更明かすのも何だが、どうやら私の淡い恋心はまだ続いているらしかった。私としても驚愕の事実である。
だが、そうでないと今現在のこの不気味なまでの胸の鼓動に上手い説明を付ける事が出来ないのだから、多分そういう事なのだ。きっと。
しかし我が無謀なる始まり心の想いなんぞ、当の昔に事故に巻き込まれてばらばらに霧散したと思っていたが、根源が私から染み出たものであったためにしぶとくしがみついていたようだ。彼女と初めて出会って云百年たっても猶私に付き合うとは、中々見上げた根性である。
まぁ、とにかく。
どうしようもなく阿呆である彼女の笑顔に未だ釘付けな時点で、私も相当な阿呆に違いない。恋愛は惚れたが負けとは正に先人の英知である。彼女の笑顔、温もり、仕草、そんな些細ではあるが決して無視できない幾多の経験に絡め捕られた時点で私の負けはもしやすると筋書き通りであったのではないだろうか。
「……私も御主人に怪我が無くて安心したよ。っと、すまないね、押し倒したままだったか。乗っかっているのが私だからそんなに重くはなかったと思うけれどね。失敬したよ」
照れ隠しに言葉を繋げながら、地面に押し付けていた手を持ち上げようととした。瞬間、世界が反転した。今まで下に見ていた彼女の顔が数瞬のばかりに上へとなっている。中途半端に伸ばされた御主人様の御髪が私の顔にすらすらと掛かっては離れる。とてもこそばゆい。
混乱する頭で確認をするに、どうも御主人様が私ごと横に回転したらしい。という訳で現在は私が下、御主人様が上という所であろう、というかそうだった。
押し戻された先が、元居た布団の上であったため背中に新たな痛みはやっては来なかったが、代わりと言っては難であるが、混乱が私の頭に意気揚々と訪れていた。
「こっ、こら御主人、戯れは良さないかっ。吃驚したじゃないか」
「すいません、照れるナズーリンが愛らしかったのでつい」
「かっかわ……。ま、またそんな事を軽々しく言って!勘違いしたらどうするんだ。私だって一応分類上は乙女の端くれなんだよ」
「えっと、別にして貰っても構いませんが?」
「……えっ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じる前に、御主人様が次の言葉を放る。
「私は貴女の事、とても大切な存在だと想ってきましたから」
「へっ、ちょっ、えぇっ?」
素面で告げる御主人様のそれは、混乱していた私の脳味噌には少々刺激的な言葉並びだった事はどうにも隠せない。
要するに、ここにぽっかり広がる穴があれば遠慮会釈なく外聞かなぐり捨てて入りたい以外の気持ちを私は持ち合わせる余裕が存在していなかった。それに伴って異常なまでに赤く高揚した私の耳たぶは、夏半ば夜半の外気よりも暑かった事だと思う。
「どうしました?」
「い、いや……あ、あぁ。まぁ私は非常に優秀だからね。確かに私みたいな部下なんて一人としていないだろう。それは大切にだってしたくなるというもの……」
必死に体面を取り繕いながらも、耳に入ってくる自身の声は大袈裟なまでに震えているのが呆気なくわかる。落ち着いてこの場を取り繕うのだ、まだ取り返しは付く段階だ。
「あっ、もしやナズーリンったら勘違いしていますね?私がいつ、貴女の事を部下として好いているなんて世迷言を言ったのですか?」
「……へっ?」
知らず知らずのうちに緊張で勝手に漏れてくる涙汁を押し返そうとしている所に、御主人様が何かよく分からない事を零した。その台詞は、私の聞き違いでなければ「部下としてではなく好いている」と捉えることが出来るのだけれど。
でもそれだと、それだとまるで、貴女が私の事を愛しているみたいじゃないか。まさか、そんなまさか。この阿呆虎にそんな甲斐性があるなど、まさか。
「何事にも斜に構えながらも、颯爽と私の助力の請いに答えてくれる貴女は凄く格好が良かったですよ。それは今でも変わらない気持ちです。飄々としていながらも手厚くて。私、凄く想われてるんだなってすぐに判りましたよ。それに何より、あんなに四六時中熱い視線で見つめられていては、私の心が真っ先に蕩けてしまいました」
「と、蕩けるってそんな。私は唯部下として貴女を敬愛していただけであって別にそういった気持ちがあった訳では……えっ、というか熱いしせ、ん……?」
背中に冷たい汗がだらだらと流れ始める。
まさか。
いや、まさか。賢将である私がそのような、隠していた恋心を相手に悟らせてしまうといった失敗を許す筈がない。そう言い聞かせつつも我が明晰なる頭脳は妙に冷静になっていく。何故だろうか、脳裏には最悪の映像がちらついているのだった。
この不思議な感覚を表すのであるならば、それはさながら「独裁的独法者である所の聖の巻物に悪戯を仕掛けようと画策していると、急に後ろからそっと肩を叩かれたので、鬱陶しそうに振り返ってみれば聖本人が菩薩に似た慈しみの表情で微笑みつつも、しかし後ろ手に拳を握りしめるという場面に遭遇した時のぬえの心境」と瓜二つに違いない。
人はこれを絶体絶命というのである。
「えっと、ナズーリンってば私の事が「好き」なんですよ、ね?あれ、あれっ?だってあれだけ毎日眼差しを向けられるものですから私はてっきりそうなのだとばかり……」
この際腫れた惚れた等は些末な事でしかない。ここまで来たなら認めるしかないのだ、さぁ腹をくくるのだ。
「あー、い、いや確かに御主人の推察に間違いは無いが、という事はあれかな、もしや私の秘められたる恋心というのはばっちりと貴女に筒抜けだった、と」
違う、ここははっきりと違うというのだ御主人様よ。
既に追い詰められてる私に、せめて「貴女の方から想いを告げてきた」という自己保身の理由をくれまいか。でなければ余りの羞恥心で私の威厳が粉微塵になってしまうのだから。
「あ、はい。そうですね」
「うわぁあぁぁ……」
その言葉を聞いた後はもう、体の支配権が完全無欠に私の下を離れていた。頬が、額が、目元が。顔中が急速に赤くなっていくのが分かった。背中は既にぐっしょりと濡れている。
飽くるまで道化であった今までの私を恥じつつ、覆い被さってきている御主人の両腕の戒めから解き放たれようと、もがき、叫び、転がろうとするという散々な有様であった。そして御主人様はそんな半狂乱の私を何とか説き伏せようとする。その優しい言葉が今はとても心の傷に沁みる。
何という一人芝居、何という生き恥。この淡い初恋の気持ちを心の奥底に隠しながら御主人様と相対してきたかと思い込んでいたが、が。
どうやら先方にはのっけから見事に筒抜けであった様だ。そんなもの、彼女の瞳から見れば、憧れの対象を前にして必死に冷静になろうとしている初心な小娘の様にしか映らないではないか。
あぁっ、誰か早く、早く私を今すぐ簀巻きにして地中深くに埋め込んでくれ。酷い恥ずかしさにつき、これ以上は見境がつかんのである!
私は貴君らが性根の優しい紳士である事を知っているし理解もしている。であるから賢い諸兄の方々も今だけは、しばし目を瞑っては頂いても罰は当たらんだろう。
という訳で、ここで見たことは生涯決して口にする事の無きよう、しかと忘れる事なかれ。
○
「落ち着きましたか?」
「う、うむ。少し取り乱しただけだからね、全然気にしないでくれ給え」
「はいはい」
相も変わらず私に迷惑ばかりかけるとは、近年稀にみる壊滅的阿呆である。……いや、違うな。これはただの照れ隠しだ。
流石にここまでの失態を見せてしまった手前、言い訳に尽力するにも無理があるだろう。流石賢将である私は潔さも兼ね備えているのだった。
「はーっ。しかし酷いよ御主人も。あんないきなりだなんて、性質が悪すぎる」
いつまでたっても私の上から御髪を垂らして見つめこんでくる御主人様を前に、精一杯の強がりを垂れてみる。
「えぇー、別に許してくれたっていいじゃないですか。優に百年は我慢して貴女を見ていたんですから、今日一日だけの戯れくらい見逃してくださいよ。この気持ちを告白するのは今しかない、そう感じたんです」
「何だその変な勘は。それにそんなの私だって同じだ。というかこの気持ちを我慢していたのは絶対に、明らかに私の方が上だね。たかが百年程度で誇ろうだなんて……」
「照れてるナズーリン、可愛かったですよぉ」
「ぐむっ」
「赤面からの涙目も最高です。あれで三杯は軽くいけます」
「さ、三杯って、この阿呆、阿呆虎めっ」
なぜこんな調子者に惚れてしまったのか、過去の自分をとことん問い詰めたい次第ではある。無駄だとは思うけど。
「そうそう、大事な事を忘れていました」
「ったく……今度は一体なんだい、又唐突に」
「私と貴女は互いに好きあっているという事に違いないですよね」
「くっー。えぇい、一々恥ずかしい奴だね御主人様も。私の口からそれを言わせるかい、普通」
「一応の確認ですってば」
しかしそこは普通ではない事に賭けては負けを見ない我が御主人様、冗談のつもりでは毛頭無いのであろう。
いつか、どうにかして今日この日に受けた辱めの数々を彼女に味わわせたい所存だ。そうでもしなければ今日の私が割に合わぬ。
「あぁ。そうだよ、相違ない。私が貴女を好きだった事は紛れも無い事実であるし、御主人様だって自分から申告して来たのだしきっとそうなのだろうね」
「勿論ですっ」
「じゃぁそれは互いに好きあっていると充分に呼べるだろう。一般的に呼ばれる恋仲、という奴だ。で、それがどうかしたかい?」
「私達、好きあっている者同士の証である口づけをまだ交わしていません」
照れを必死に隠しながら会話を続けていた私の耳に桃色な単語が控えめに入ってきた瞬間、脱兎すら置いてけぼりにする瞬発力で跳ね起きようとした。したのだが、不思議な事に我が両手は御主人様の手によって既にしっかりと布団に縫い止められていたのであった。誰か毘沙門天を呼んで来てはくれないだろうか。出来るだけ迅速に。でなければ多分私の危機である。
「お、落ち着け御主人。貴女は少し錯乱しているに違いない」
「いーえっ、私はどこもおかしくはありませんよ。それともナズーリンは私とでは嫌でしたか?」
そんな事を言いつつも抜かりなく顔と顔の距離を縮めに掛かる御主人である。くそぅ、こんなのいつもの御主人様じゃない。
「いやいや、そうでは決して無いけれど、せめて心の準備をして余念無く心身を落ち着かせながら身辺を整理しつつ、これからの人生設計を組み立てる期間を経てからでも十分に間に合うと思うのだ御主人よ!」
「ですが、残念ながら私の能力は「財宝が集まる程度の能力」、つまり目の前の財宝はどんな手段を持ってしても私の物にしなければ、私という存在に矛盾が生み出されてしまうのです。ですからナズーリン、貴女の将来設計を幾許か無視してしまう事になり至極残念ではありますが……。あ、この場合の財宝とはナズーリンの可愛らしい唇、という事になりますね」
一体その理論はなんなんだ。破綻していない部分を探した方が余程早い。そして残念がる者はそんな微笑みは浮かべない、絶対にだ!
「しっ、しかしお互い仏の門を潜った身、もう少し体裁を考えてだね」
「ふむぅ成程、確かにそういった考えも一理ありますかね」
「そ、そうだろう。じゃ、じゃぁすぐさま明日以降にでも清い交際を送れるように準備に取り掛かろう。清らかな関係は入念な前段階が必要だろうから。ね、ね?」
「うーん、そうですねぇ……」
必死に問題を先送りにしようと私は口から次々に思いついた言葉を放り投げる。今の私は正に追い込まれた鼠、けれど反撃の糸口は依然見つからない。
そんな私に彼女は、恐らく心の底からの生涯最高の笑みを浮かべて致命的な言葉を射ったのであった。
「無論、却下です」
「ふぇぇ」
○
命蓮寺の南側、数ある廊下の一番左側の隅の部屋。六畳一間、風呂無し台所無し、使い古されたイグサの臭いが仄かに漂うどうしようもない一室が命蓮寺内における私達の唯一の居城だ。
丑三つ時を半刻ばかり過ぎた初夏の早朝、外に張り付く蝉の鳴き声を耳に入れながら私は今日も布団からむくりと起き上がる。
壁に埋もれた刷り硝子から外を見れば、夏の終わりの兆しは一向に見えずまだまだ増すであろう暑さを気にしながらも、また今日も短くて長い一日が始まるのだろう。
そういえば、これはつい最近判明した事なのだが、私自慢の万年床は二人で寝るには少し狭いらしい。
だって貴女は寝相が悪い。-了-
賢そうに見えて実は隙だらけなナズ可愛いよ
私は御主人様意外→以外
創造熟慮→想像熟慮、あるいは深謀遠慮 との取り違えでしょうか?
それにしても流石は賢将、やることなすこと全てが可愛い。賢しいナズらしさが溢れる捻りの利いた文章もお見事です。
ただ序盤で一文々々が冗長なのが気になりました。そこさえ、と思えるだけに残念です。
……それがいい。
一回消してたんかい!!
終始にやにやさせて貰いました
だがそれがいい
長めの話かと思ったけど、読みやすい文章で面白かったです。
後半はニヤニヤが止まりませんでした。二人揃って爆発しろ。
冗長かと思われた文章は単なるナズーリンの生真面目さと、照れ隠しが込められている文なのだと思うとなんて愛らしいことか
締め方も実に綺麗
でももうそれでいいよ
ナズーリン可愛いよ!
ナズーリン可愛いよ!
このナズーリン好みです。今まで読んだSSの中でも一二を争うくらいに。
自分で「賢将」という割に実際は(笑)が付くあたりがなんともいえず好きですね。
(自分でも少し理解しているフシもありますが)
そんなナズーリン視点から語られる、長く妙な説明口調の文章が、
彼女の性格を表しているよで、よいです。
星も単なるうっかりさんかと思いきや、やはり肉食系であったか。これもまた良し。
手違いで読み飛ばしてしまっていたようです。失礼しました。
ぐわんぐわんと振り回される圧倒的な文章にただただ脱帽です
翻弄されているのはナズーリンや星ちゃんだけでなく読者の方もだったのかと。
素晴らしく面白かったです
やはり幻想郷の賢将はこうでなきゃ