相思
昔昔あるところに、吸血鬼の姉妹が住むお屋敷がありました。そこには沢山の使用人が働いていて、美鈴もその一人でした。美鈴はあまり仕事は出来ませんでしたが、誰よりも主人達の事を愛していたので、とても信頼されていました。
「らっしゃい」
美鈴が建物の中に入ると汚いカウンターに突っ伏した店主が顔を上げて粗野に笑った。
「こんにちは。いつもの貰える?」
店主は黙って奥へ引っ込むと、ガラス瓶に入ったそれを持ってきて、麻袋に包んでカウンターの上に置く。
「ありがとう」
美鈴が代金を置いて去ろうとすると店主が自嘲気味に言った。
「そういや、俺達は気をつけた方が良いみたいだぜ」
「俺達?」
「なんでも、最近町の餓鬼共が攫われてるって話だ」
「攫われている? まさかあんた達」
「ちげえちげえ。俺達人買い人売りは町の人間を扱ったりはしねえよ。住人と衝突しちゃ住めないからな」
「じゃあ誰が?」
「知らねえ。ただ異人ってだけで俺達が犯人だって決め付ける奴等が居るからな。だから気を付けろって言ってんだよ」
「そういう事ね」
「たく、ただでさえ、肩身が狭いのによ。冤罪で疑われるなんて最悪だよ。世話ねえぜ」
適当に相槌を打ってから、美鈴は店を後にして、小汚い路地を抜け、姉妹の待つ屋敷へと帰った。
子供が攫われている、か。
何だか胸に気分の悪いものがわだかまって消えなかった。
美鈴が家へ帰ると使用人の一人に迎えられた。今晩には食料が届くと伝えると重畳ですと言って礼をする。同僚なのに慇懃なと思いながら、美鈴は姉妹の様子を聞いた。
「レミリア様はいつもの通り。夜までは起きないでしょう。フランドール様は少し前に目を覚まされました。まだお部屋にいらっしゃるでしょう」
「分かった。じゃあ、これはレミリア様に渡しておいて」
美鈴が先程店で買ったお土産を使用人に渡す。使用人はまた礼をして、それからふと思い出した様に言った。
「そう言えば、新入りが来ていますよ」
「新入り?」
「レミリア様が海岸で拾ってきた、あの」
「ああ、大怪我していたっていう?」
「ええ、今朝退院した様で。今はこの屋敷についての教育を行っています。挨拶をさせましょうか?」
「いずれ会うから必要ない。それよりフラン様に会わないと」
「フランドール様に会うのなら一言注意をお願い出来ませんか? あなたの言う事なら聞いていただけるかもしれません」
「何を?」
「あまり日中に起きているのは良くありません。このままだと本当にお仕置き部屋に」
「そう、だね。伝えておく」
美鈴がフランの部屋に行くとフランが嬉しそうに迎えてくれた。
「美鈴! おはよう!」
「おはようございます、フラン様。これ、お土産です」
美鈴が麻袋の中に入った瓶を渡すと、フランが顔を輝かせる。
「わあ、ありがとう、美鈴」
嬉しそうに笑うフランを見て美鈴も幸せな気分になる。その愛くるしい笑顔を見るのが何よりの幸せだ。幼い笑顔が美鈴を蕩かせる。その笑顔の為であれば何でもしようという気になる。美鈴は子供の笑顔が何よりも好きだった。だからこそ、二人の姉妹に仕えている。
「ところでフラン様」
それでも時には相手の意に反する事をしなければならない。それが仕える者の真なる姿であるし、悲しいところだ。
「何?」
ちゅうちゅうと瓶の中身を吸っているフランが期待の眼差しを向けてきた。
何の期待を掛けてくれているのかは分からないが、残念ながらその期待に応える事は出来ない。
「フラン様は最近良く日中に起きてらっしゃいますね」
「うん。意外とね、お昼に起きようって思うと起きられる様になるの」
「それを止めていただかなければなりません」
その瞬間、フランの顔から笑顔が抜け落ちた。
美鈴は苦しさに胸を押さえる。
「どうして、お姉様と同じ事を言うの?」
「フラン様の為なんです。このままフラン様が日中を過ごし続けて慣れてしまったら、吸血鬼でなくなってしまうんです」
フランが俯いて底冷えする声を出した。
「意味分かんない」
美鈴は怯まずにフランの前にしゃがみ込む。
「フラン様、あなたは由緒正しい吸血鬼。夜を生きる者です」
「だから何? 別にそんなのじゃなくたって良い。みんなと遊べないなんてやだ。夜にしか外に出ちゃいけないなんてやだ。私だって明るいお日様の下で暮らしたいの」
そう言って抱きついてくる。
美鈴は身の内に震える様な感覚がやって来て、思わず涙が出そうになる。
駄目だ。フラン様を泣かせるなんて。
フランをきつく抱きしめると、美鈴は言った。
「その通りです、フラン様。フラン様が我慢する必要なんてありません」
「美鈴……守ってくれる?」
「勿論です」
体を離すと、またフランが笑ってくれていた。美鈴も笑顔を返す。
「きっと守りますから」
「うん」
それからしばらく二人でお話をして、それから美鈴は館の仕事に戻って、それから夜が来た。
夜は魔の者の時間。日が沈むのと同時に、レミリアが起きだしてくる。館が動き出す。日中に働いていた使用人の半分が起きだし、もう半分が眠りにつく。地下で新鮮な悲鳴が響き渡る。厨房が慌ただしく料理を用意する。館の周りに奇妙な遠吠えが木霊する。夜行性の花々が咲き乱れる。
美鈴が掃除がてらにレミリアの部屋に寄ると、レミリアの身の回りを世話する使用人がレミリアに召し物を着せていた。嫌そうな顔をしているレミリアは入ってきた美鈴に気がつくと顔を明るくする。
「おはよう、美鈴」
「おはようございます、レミリア様。今日のご飯は新鮮ですよ」
「あら、楽しみね」
レミリアが嬉しそうに笑う。それからふと気がついた様に、美鈴に問いかけた。
「そう言えば、あの拾ってきた子は? 今日退院したはずだけど」
「ええ。今この屋敷について学んでいるところです」
「そう。ちゃんと常識を身につけさせてよね。幾ら好みの人間でも、シリアルキラーの傍には居たくないわ」
「シリアルキラー?」
「とにかくちゃんと教育してくれれば良いの。で、今日も平和?」
「ええ、概ね」
いつもであれば、平和だと断じる美鈴の、何だか曖昧な言葉にレミリアは首を傾げる。
「何かあったの?」
「何やら町で人攫いが出ている様で」
「人攫い? ってあのアジアンコミュニティの奴等じゃないの?」
「いえ、それとは別です。私達は町の人間との衝突は避けますから」
「ふーん、どこぞの妖怪でも入り込んできたのかしら」
レミリアに衣服を着せ終えた使用人が立ち上がって言った。
「私は人攫いではなく、人殺しと伺いました」
「殺人?」
「何でも森の中で惨殺された子供達が見つかったとか」
「勿体無い。その場に居ればお腹一杯になれたのに。今流行の切り裂きジャックの仕業かしら」
「取りに行きますか?」
美鈴の問いに、レミリアが呆れた様子で首を横に振った。
「もう腐ってるでしょ。それに警察が持っていってるだろうし」
「それに食べられる部分は少なかったそうですよ。とんでもなく大きな力が加わって、体の大部分が破裂していたそうです。現場の小屋は床も壁も天井も血しぶきで赤く染まっていたとか」
「はあ、じゃあやっぱり妖怪の」
そこでレミリアが口をつぐんで、考える様に眉を寄せた。
「どうなさいました?」
「まさかフランじゃないわよね」
「え? フラン様?」
「フランドール様はいつも家に居らっしゃって外に出た事がありませんし、それは無いかと」
「そうですよ。いつもレミリア様にくっつく様にして一緒に過ごしているんですから」
美鈴は冗談を言っているのだと思って笑ったが、レミリアは真剣な顔で美鈴を見つめ返す。
「それは夜だけでしょ。最近あの子、昼も動いているみたいじゃない。あなた達だって四六時中見ている訳じゃないんでしょ? こっそり外に抜け出しているのかも」
「それは……でもあのフラン様に限って」
「あの子は無邪気よ。何百年も行きていながら、生まれたての子供みたい。でもだからこそ残酷なのよ」
「ですが」
「やっぱり、お仕置きが必要みたいね」
「そんな、まだ犯人と決まった訳じゃ」
「何にせよ、日中動いている事が問題なのよ。吸血鬼としてね」
冷たく言い切ったレミリアが外へ出ようとするのを、美鈴は追いすがって止める。
「待ってください。まさか、フラン様をあの部屋に閉じ込めるおつもりですか?」
「そうよ」
「それだけは、それだけは止めてあげてください。そんな事をしたらフラン様が泣いてしまいます」
「お仕置きだからそれ位が丁度良いのよ」
駄目だ。
フラン様を守ると決めた。
フラン様を泣かせちゃいけない。
美鈴は必死でレミリアにすがりつく。
美鈴には相手の心が分からない。時に相手を傷付け、時に泣かせ、時にそれ以上の酷い事をしてしまう。いつだって喜んで欲しくて行動しているのに。相手の心が分からない美鈴は相手を真に慮る事が出来ない。
だから美鈴は笑顔しか信じる事が出来ない。言葉ですら、時に誤解が生じる。だから笑顔だけが美鈴の指標だった。笑ってくれる事だけが正しい。
先程フランは外に出たいと言っていた。明るい陽の光の下を歩きたいと言っていた。そうして、その権利を守ると言ったら、フランは笑ってくれた。だから美鈴はレミリアに楯突いてでも、フランの事を守らなくちゃいけなかった。
「お願いです! あの部屋に入れるのは」
「美鈴」
その瞬間、レミリアが美鈴の事を睨みつけた。
「あなたの事は気に入っているけれど、あんまりしつこい様だと、殺すわよ」
美鈴は息を呑む。
レミリア様が怒っている。笑顔の消え失せた顔で、睨みつけてくる。
その瞬間、美鈴の体から力が抜けた。
怒っている。睨んでいる。笑顔でない。笑顔でないレミリアを見ている事が美鈴には耐えられなかった。
力の抜けた美鈴がへたり込んでいると、レミリアは部屋を出てしまっていた。残された美鈴はしばらく体の力が抜けていたが、やがて自分を奮い立たせるとお仕置き部屋へと向かう。
遠くからフランの泣き声が聞こえてくる。
お仕置き部屋へ向かう途中、レミリアとすれ違った。
「良い? 勝手に出しちゃ駄目だからね?」
遠くからフランの泣き声が聞こえてくる。
そのあまりにも悲痛な声を聞いた美鈴は、レミリアの言葉に逆らおうとしたが、睨みつけてくるレミリアの表情を見るともう駄目だった。力無く美鈴が頷くと、レミリアは満足そうに笑う。
「それで良いの」
その笑顔が美鈴を縛り付ける。
「まあ、安心なさい。ずっと閉じ込めておく訳じゃないんだから」
そう言って、レミリアが去っていく。
フランの泣き声が聞こえてくる。
我に返ってお仕置き部屋へ行くと、閉ざされた扉の向こうからフランの泣き声が響きわたっていた。
「フラン様!」
美鈴が叫ぶと、泣き声が止み、フランの声が聞こえてくる。
「美鈴?」
「フラン様、大丈夫ですか?」
途端にまた泣き声が聞こえてきた。
「良かった! 美鈴、早く助けて! ここ暗いの! 何にも見えないの! 暗くて暗くておかしくなりそうなの! 美鈴! 早く助けて! ここから出して!」
出して上げたかった。けれどレミリアに止められている美鈴にはそれが出来ない。美鈴に出来るのは扉越しに声を掛ける事だけだった。
「すみません、フラン様」
「え?」
「レミリア様に止められております。フラン様を外にお連れする事は出来ません」
「そんな! だって! 美鈴、私を守ってくれるんじゃなかったの?」
「すみません」
「そんな……だってこんなに暗いんだよ! 怖いのに! なのに美鈴は助けてくれないの? 何で? 私の事が嫌いになっちゃったの? そんなの嫌だよ」
「嫌いになんてなっていません」
「なら、どうして? ねえ、美鈴! 助けてよ! 怖いの! 凄く怖いの! 暗くて、おかしくなりそうなの! ねえ! 助けて! お願いだから」
一瞬、扉の向こうから凄まじい音がした。
「何で! 何で壊れないの! ねえ、美鈴! 助けてよ! お願いだから! 助けて!」
扉ががりがりと音を立てる。恐らく中からフランが引っ掻いているのだろう。それが分かっても美鈴にはどうする事も出来なかった。
「すみません」
美鈴が謝ると、扉の立てるがりがりという音が止み、代わりにフランの泣き声が聞こえてきた。美鈴は扉の前で頭を垂れ、フランの泣き声を聞きながら、涙を流して謝り続けた。フランの泣き声はいつまでも止まなかった。
結局フランは暗い部屋に閉じ込められるお仕置きを受ける事になり、美鈴はその世話係を買って出た。
明かりの消された廊下を手探りで歩いていき、扉を見つけた美鈴は取っ手を捻る。
「失礼致します、フラン様」
泣き疲れて寝入っているのだろう。寝息が聞こえてくる。美鈴が部屋の中に入ると、まず異臭が鼻についた。あまりの怖さに漏らしてしまったのか。美鈴はそれを嗅ぎながら、叫びたい様な衝動を押さえつつ、お湯の入った桶と布を床において、換えの服を取りに行った。
お仕置きはお仕置き。あくまで光に慣れようとするフランを戒める為の罰であって、決して拷問ではない。だから光のない部屋から出られない孤独を味わう事以外は全て今まで通りの日常が営まれなければならない。
その世話係に美鈴は志願した。レミリアが、出来るだけ孤独を与える為にお世話をするのは一人、と言った瞬間、美鈴は他の者達にはやらせないという熱烈な自己主張を行った。フランの身だしなみや日に二度の食事、あるいはお仕置き部屋の掃除など、その全てを一手に引き受けた。フランのお世話は夜に行われ、日中も屋敷の仕事があって、美鈴はほとんど休む暇が無かったが、それでも文句一つ言わずに、何もかもを十全でこなした。
美鈴がフランの体を拭いて、服を着せ替えると、フランが目を覚ました。腕の中のフランの体に力が入ったのを感じて、美鈴は声を掛けた。
「おはようございます、フラン様」
「美鈴?」
フランが身を起こし、そうして困惑した様子で言った。
「明かりは?」
「残念ですが」
「そっか」
美鈴の体にフランが抱きつく。
「やっぱり私お仕置き部屋に閉じ込められちゃったんだ」
美鈴もそれを抱きしめ返して言った。
「毎日私がお話し相手になりますから」
フランが慌てた様に埋めていた顔をあげる。
「もしかして美鈴までこの部屋に閉じ込められちゃったの?」
「いえ。私はただフラン様のお世話を」
「そっか。良かった」
フランが息を吐く。
美鈴にはその言葉の意味が分からない。どうしてそれが良い事なのか。一緒に閉じ込められたのでないと知ったら悲しむと思っていたのに。フランの言う事が分からない自分を、美鈴は心底惨めに思った。
「良かったとは?」
「だって美鈴は閉じ込められてないんでしょ? ここは暗いから。こんなところに美鈴まで閉じ込められなくて良かった」
泣き疲れる位、怖がっていたのに。それなのにもう他者を気づかえる。そんなフランの優しさが嬉しくて、そしてこのあまりにも救いのない状況が悲しかった。
それからも毎日毎日、美鈴はその光の届かない地下室へ通って、フランの世話をし続けた。
「ねえ、美鈴。今日で閉じ込められて何日目?」
「三日目です」
「そっか。もう何年も経ったみたいに思ってた。ここには太陽も月も無いから」
「私が居ます」
「え?」
「太陽や月が無くても、私がフラン様に今日が何日目か教えます」
「うん、ありがとう」
一週間ほどすると、闇に慣れだしたのか、段段フランの声が明るくなる。沈んだ調子だった美鈴との会話も段段と弾む様になる。
「ねえ、美鈴。今日はなにかおもしろい事があった?」
「今日はとても月が綺麗です。満月の一つ後の月がこの町を明るく浮き上がらせています。優しく見守ってくれています」
「へえ。綺麗なんだ」
「とても。遥か東の方の蛮国では、そんな綺麗で優しい月を十六夜の月と言うそうです」
「良いな。見てみたいなぁ」
けれどやっぱり何処か影があって、時偶鬱屈と沈み込む度に、美鈴は胸が締め付けられる思いに駆られた。
「ねえ、美鈴。他のみんなはどうしてる?」
「レミリア様も使用人もお元気ですよ」
「そっか。みんな私の事嫌いになったのかな?」
「そんな事ありません。どうしてですか?」
「だって美鈴以外誰も会いに来てくれないし。だからみんな私の事が嫌いになって、それで会いにこないのかなって」
「そんな事ありませんよ、きっと」
「でも」
「誰かを連れてきましょうか?」
するとフランが美鈴の胸に顔を埋めた。
「良いよ。美鈴が居れば、それで良い」
「フラン様」
嬉しい言葉だった。
けれど美鈴はその言葉を完全に信じる事が出来なかった。
お仕置き部屋は真っ暗で、フランの顔が見えないから。
「ずっと一緒に居てね、美鈴」
「勿論です」
「良かった」
フランが笑う様に息を吐いた。
けれど笑顔が見えない。
フランの笑顔が見えない。
フランがどうして欲しいのか分からない。
フランが分からない。
悲しくて、気が狂いそうになって、せめてフランを感じたくて、思いっきり抱きしめた瞬間、突然扉が開いて、強烈な光が飛び込んできた。
振り返ると、レミリアのシルエットが浮いていた。
「レミリア様」
「お姉様」
二人が呆然として呟くのを無視して、レミリアがお仕置き部屋へ入ってくる。
もしかしてお仕置きの終わりが来たのか。
美鈴とフランがそんな期待をしていると、レミリアは冷たく言った。
「やってくれたわね、美鈴。お陰でこの町に居られなくなったわ」
「え? いきなり何を」
「フランから離れなさい」
「いきなりどうしたんですか?」
「妹から離れろって言ってんの!」
一瞬、光の加減でレミリアの表情が見えた。怒りで歪んだ恐ろしい顔をしていた。
レミリアは思わずフランを離して体を退ける。するとレミリアが近付いてきて美鈴の胸倉を掴みあげた。
「これからたっぷりお話し合いをしましょうか」
「レミリア様、一体何を」
「とぼけるのは無駄よ。全部分かっているんだから」
そのままレミリアは美鈴を放り投げた。放り投げられた美鈴は部屋の外へ投げ出され、廊下の壁に着地する。
「美鈴を連れて行きなさい」
「レミリア様! どうして!」
「その汚い口を閉じて黙ってろ!」
レミリアが振り返って睨みつけると、美鈴はそれ以上何も言えずに、大人しく他の使用人達に引っ張られてその場を去った。
二人っきりになったレミリアはフランを抱きしめる。
「私が守るから」
「お姉様? あの」
「ここはもう嫌でしょう? 部屋を移しましょう」
「え? じゃあ、外に出してくれるの?」
「いいえ。残念だけど、あれが居る限りは」
「あれ?」
「フラン、あなたは私の可愛い妹よ。だから絶対に私が守るから」
フランにはレミリアの言っている事が理解出来ない。ただ外に出られないという事だけは分かった。
「お姉様、私は外に出たい。もう暗い所に閉じ込められているのは嫌なの」
「ごめんなさい、フラン。でも外は危険が一杯なの。せめてあなたが自分を守れる様にならないと」
「私、強いよ。お姉様には敵わないかもしれないけど」
「そうじゃない。そういう事じゃないの」
やっぱりフランには分からない。
どういう事か分かっていないフランに、レミリアは一つ質問をした。
「フランは美鈴の事をどう思う?」
「優しくて、好き」
「そう思っている内は残念だけど出せないわ」
「お姉様?」
「何とかあいつを追い払ってみせる。あなたは守ってみせる」
フランが暗いお仕置き部屋から明かり取りのついた部屋へ移された後、一頻り泣いて一眠りした。結局幽閉されている事は変わらない。閉ざされた部屋の中で目を覚ましたフランは、自分が未だ囚われの身である事を知って、再び涙を流し始めた。
その時部屋の扉がノックされた。
「フラン様」
美鈴の声だった。
もしかしたら外へ連れだしに来てくれたのかもしれない。
そんな期待を持って返事をする。
「美鈴!」
「フラン様、今日は謝りにきました」
「え? どうして?」
「フラン様のお側に居る事が出来なくなったからです」
一瞬その言葉の意味が理解出来なかった。やがて理解が及ぶに連れて、フランの心は氷に浸けられた様な恐怖で固まった。
「何で!」
「レミリア様の命令です。私はこのお屋敷に入ってはいけない事になりました」
「どうして! やだよ! 美鈴だけが優しかったのに! やだよ! 嘘だよね? 行かないよね? 一緒に居てくれるよね?」
「すみません」
「やだ! 嫌だ!」
「でもずっとフラン様の事はお守りします。お屋敷には入れないけれど、門番として外でフラン様の事をお守りしていますから」
「嘘でしょ! 嘘って言ってよ!」
「すみません。時間になりましたので、私は行きます」
「嘘! やだ! やだ!」
フランが扉に縋り付いて泣き出す向こう、廊下からは美鈴の去っていく足音が聞こえる。フランが幾ら泣き叫んで呼び止めようとしても、遥か遠くで足音が消えるまで、美鈴の去っていく音は決して止まなかった。
結果として美鈴は門番となり、二度と屋敷の敷地には入れずに、鬱鬱とした日々を送る。フランもまた部屋に閉じ込められたまま、幻想郷を紅い霧が覆うその日まで外に出る事は出来ず、お互いの姿すら見る事が叶わなかった。
その時部屋の扉がノックされた。
美鈴が戻ってきた!
そう考えて、流れる涙を拭ったフランが扉へ近づくと、扉の向こうから声が聞こえた。
「フランドール様」
美鈴の声ではなかった。
途端にフランの心がしぼみきって、再びベッドの上に戻ると、扉が開いて使用人が入ってきた。見た事の無い顔だった。
「誰?」
「十六夜咲夜と申します」
いざよい?
その言葉を何処かで聞いた事のある気がする。思い出せない。ただその言葉は美しく優しいはずの言葉で、扉の傍に立つ冷たい人間にはそぐわない言葉だと思った。
使用人は黙って近づいてくる。
怖くなって、逃げる様にして、フランはベッドの端に寄った。
「見た事無い」
「今日からフランドール様のお世話を仰せつかりました」
「え? じゃあ、これからこの部屋に来るの?」
こんな怖そうな人が?
「そうです」
それだけ言って、黙る。最低限の言葉しか喋らない。
フランが警戒を露わに睨んでいると、やがてその使用人は懐から懐中時計を取り出して時刻を確認するなり、冷たく言った。
「もうすぐ朝になります。お休みになってください」
フランは仏頂面のまま答えた。
「寝れない」
今の最悪な気分のまま眠れるとは思えない。
すると再び使用人が冷たく言った。
「お休みになってください」
何となく気圧されて逆らえなくて、フランは渋々とベッドの上に横たわって目を閉じた。けれど泣きに泣いた所為で頭ががんがんと痛んで到底寝られそうにない。
しばらくしても寝れないので目を開けると、使用人が声を駆けてきた。
「眠れませんか?」
「だから言ったでしょ」
「これを差し上げます」
使用人はそう言って、手に持った熊のぬいぐるみをフランの顔に押し付けてきた。ぐいぐいと人形が押し込まれ、ごわついた毛が肌をちくちくと刺してくる。
「何! 何なの?」
「熊です」
使用人は冷徹にそう言って、熊を押し付け続けた。
フランは思わず叫ぶ。
「止めて! 痛い!」
すると使用人が熊のぬいぐるみを離して尋ねてきた。
「眠れませんか?」
分かりきった事を聞いてくるので、フランが答えないで居ると、使用人が目を瞑る。
「歌を歌います」
そう言うなり、賛美歌を歌い出した。
途端にフランの頭に鉛球がはじけ飛ぶ様な痛みが現れた。痛みに身悶えながら、フランは叫ぶ。
「痛い! 痛い! その変な歌を止めて!」
すると使用人の歌が止まる。
無表情でこちらを見ている使用人が恐ろしくて、フランは枕を投げつけた。
「あっち行って! 出てって!」
使用人は枕を受け止めて、フランの傍に置くと恭しく礼をした。
「もうすぐ朝になります。お休みになってください」
そう冷たく言うと、無表情のまま部屋を出て行った。
一人残されたフランは、今の恐ろしい使用人を思って、涙が溢れてきた。怖かった。優しい美鈴とは全然違う。あんな恐ろしいのがこれから毎日やって来るかと思うと怖くて怖くて仕方が無い。
「美鈴、やだよ、会いたいよ」
そう呟いたが、何も変わらない。ただ虚しさが募った。
その日からフランは目に見えて疲弊して、精神も異常をきたし、情緒不安定になっていった。
それから館は各地を転々としたが、行く先々でこんな噂が立った。
あの屋敷には悪魔が住んでいる。屋敷の地下には、その悪魔ですら恐れる、気の触れた化物が封じられている、と。
その噂を確かめようとした者は皆、屋敷の門番に阻まれて、真偽を確かめる事が出来なかった。
おまけ
好好相処
私は氷の妖精を待っていた。
チルノという名の小さな妖精は今日が誕生日で、妖精達の間でパーティーを開いて、今日という日を祝っていた。
私は妖精では無いし、屋敷の門を離れる訳にはいかないので、誕生日パーティーには出席出来なかったけれど、プレゼントを用意していて、今日でなくてもいつでも良いから渡してあげたいと思っていた。
その機会は随分と早く来て、その日の暮れる頃にチルノの姿が見えた。
「美鈴」
「どうしたの、チルノ。今日は誕生日パーティーでしょ?」
「もう終わったの。早めに終わらせて、美鈴のところに誕生日の報告しに来たの」
「何で?」
良く理解出来なかった。
自分への報告が、誕生日パーティーを切り上げる程の理由になるとは思えなかった。
不思議だったけれど、チルノが晴れやかに笑っているので、自然と気分が良くなっていく。
「だって今日は誕生日で、誕生日はお目出度い日なんだよ!」
チルノがそう言って臆面もなく笑う。
確かにそんな笑顔を見せられたら、誰にとってもお目出度い日であるかの様に思えてきた。
「だから、お目出度いから美鈴に報告しなくちゃって思って」
「嬉しいけど。どうして私に?」
「だって美鈴は他の妖怪や人間みたいにあたいの事馬鹿にしないで、遊んでくれるから」
チルノは、というより妖精は、一般に馬鹿だと思われている。それは妖精達の性格が刹那的で楽天的な事に起因している。ほんの一瞬前の事を忘れてしまったかの様に脳天気に振る舞う様を見て、人は妖精達を馬鹿だと言う。
けれど決して頭の回転が遅い訳ではない。
あくまで人と同じだけの思考力を持っていながら、ただ価値観だけが違う。過去の一切を顧みずに、今を楽しもうとしているだけなのだ。
「ありがとう、チルノ」
「どういたしまして! それにね、今日は美鈴が蜘蛛の妖怪からあたいを守ってくれた記念日だし」
だからはい、と言って、何かきらきらと光る石を渡された。宝石だとかじゃなくて、単に雨風に削られて輝く様になっただけの、何て事無い石。
「それね、あたいの宝物なの。でも記念日だから上げる」
「ありがとう。凄く嬉しい」
ただの石。
けれどチルノにかかればいとも簡単に宝物になってしまう。ただの石ころを宝石に変えてしまう、そんな素敵な魔法。
「あとね、今日は初めてみんなでピクニックに行った日で、初めて紅葉狩りをした日で、三回目に友達の家に泊まった日で、五回目と四十三回目に焼き芋を食べた日で」
すらすらと語るチルノに驚いた。
「ちょっと待って。そんな細かい事まで覚えてるの?」
「当たり前でしょ! 美鈴は覚えてないの?」
「そんな細かい事まで」
すると今度はチルノが驚いた様に言った。
「ええ! 忘れちゃうなんて勿体無い! 全部覚えてないなんて勿体無いよ」
「他にも沢山記念日はあるの?」
「勿論。美鈴とのだったら、今日は他にも、初めてゴム鉄砲を教えてくれた日で、それから三回目と百七十二回目に飴をくれた日で、それから」
すらすらと自分との思い出が語られていく。
涙が出そうになった。
こんな自分との思い出を全部覚えていてくれる。
それが嬉しかった。
チルノは沢山の事を覚えていてくれるのに、自分はほとんど覚えていない。
それが悲しかった。
「後は、昨日は美鈴が四回目にお茶菓子をくれた日で、七回目に髪の毛を整えてくれた日で、初めて本を読んでくれた日で、二回目に殴ってきた日で、一回目と二回目に誕生日プレゼントをくれた日で、三十回目と三十一回目と四百十五回目に謝ってきた日で」
自分はチルノの何十倍も生きている。
自分は今までの生を、チルノの半分でも覚えているだろうか。
「一昨日は初めて一緒にどんぐりを探してくれた日で、初めて人間から助けてくれた日で、初めてお説教してきた日で、七回目に傘を貸してくれた日で、百二十回目に氷をくれた日で、初めて殴ってきた日で、初めて服を脱がせてきた日で、二十七回目と二十八回目と二十九回目と四百十三回目と四百十四回目に」
次々と出てくる思い出に、私は感極まってチルノを抱きしめた。
「どうしたの、美鈴」
「ううん、何でもない」
嬉しく思っただけ。そして羨ましく思っただけ。
きっと毎日が楽しいのだろう。毎日が楽しいから、毎日の事をこんなにも事細かく覚えている。自分はチルノの半分でも今までの生を覚えているだろうか。チルノの半分でも、毎日を楽しく生きて来れただろうか。
きっと才能なのだろう。
無邪気に世の中を楽しむ事の出来る才能。
その才能は羨ましくて、きらきらと輝いて見えた。
私はチルノを離すと、ポケットからプレゼントを取り出した。
「えっと三回目、だよね。これ、誕生日プレゼント」
「え? あたいにくれるの?」
プレゼントを渡すと、チルノはそれを受け取ってぱっと顔を輝かせた。
「うわあ! ありがとう! 嬉しい!」
まるで世界でただ一つの宝物をもらったみたいな、恋人から結婚指輪でももらったかの様な、そんな素敵な笑顔を浮かべてくれた。きっと今日は、プレゼントをもらう度に同じ様に最高の笑顔を浮かべていたのだろう。渡すこちらまで嬉しくなる様な。
それからしばらくお話をして、段段と暗くなったので、名残惜しむチルノを家へと帰した。見えなくなるまで振り返り振り返り、何度も何度も笑顔で手を振ってくるチルノを本当に可愛らしく思いながら、私も手を振り返す。
やがてチルノの姿が見えなくなると、私は少しの間、チルノと過ごした余韻を味わってから、振り返って言った。
「で、さっきからずっと物陰からこちらを窺っていた咲夜さんは一体どうしたって言うんですか?」
「別に、ただちょっとなぁと思って」
「意味が分からないです」
咲夜さんが物陰から姿を現した。夕日に染まった顔が、じっとりと何か非難めいた表情をしている。
「どうやらあの子は短期記憶が弱い代わりに、長期記憶が極端に優秀な様ね」
「もう! そういう感動を台無しにする様な事言わないで下さいよ!」
「どうして? 褒めたのに」
折角チルノの事がきらきらと色めいて見えていたのに、咲夜さんがあんまりにも理屈っぽい事を言うので、色褪せてしまった。
憤慨していると、咲夜さんはそれを無視して近寄ってきて、やっぱりじっとりとした目で私を見つめてくる。どうしたんだろう。咲夜さんが何をしたいのか分からなくて、怖くなった。
「あの、何ですか?」
すると咲夜さんがわざとらしく溜息を吐いた。
「まあ、お嬢様達に危害が加わらなければそれで良いんだけれど」
「え?」
「あなた、大概にしときなさいよ」
え? え?
「その分かっていないところが、あなたの一番悪い部分」
一体何の事だ。
不思議がっていると、咲夜さんが背を向けてぽつりと呟いた。
「まあ、同時に良い部分でもあるんだけど」
「どういう事ですか、咲夜さん」
すると咲夜さんは振り返って、じっとりとした無表情を向けてきた。
「何でもない」
そう言ってすたすたと屋敷へ戻ってしまう。
咲夜さんの言いたかった事が分からない。
相手の心が分からない。
チルノ位、毎日を楽しめていれば、自分も誰かの事を分かる様になるのだろうかとふと思った。フランの顔が不意にちらついて、何だか悲しくなった。
昔昔あるところに、吸血鬼の姉妹が住むお屋敷がありました。そこには沢山の使用人が働いていて、美鈴もその一人でした。美鈴はあまり仕事は出来ませんでしたが、誰よりも主人達の事を愛していたので、とても信頼されていました。
「らっしゃい」
美鈴が建物の中に入ると汚いカウンターに突っ伏した店主が顔を上げて粗野に笑った。
「こんにちは。いつもの貰える?」
店主は黙って奥へ引っ込むと、ガラス瓶に入ったそれを持ってきて、麻袋に包んでカウンターの上に置く。
「ありがとう」
美鈴が代金を置いて去ろうとすると店主が自嘲気味に言った。
「そういや、俺達は気をつけた方が良いみたいだぜ」
「俺達?」
「なんでも、最近町の餓鬼共が攫われてるって話だ」
「攫われている? まさかあんた達」
「ちげえちげえ。俺達人買い人売りは町の人間を扱ったりはしねえよ。住人と衝突しちゃ住めないからな」
「じゃあ誰が?」
「知らねえ。ただ異人ってだけで俺達が犯人だって決め付ける奴等が居るからな。だから気を付けろって言ってんだよ」
「そういう事ね」
「たく、ただでさえ、肩身が狭いのによ。冤罪で疑われるなんて最悪だよ。世話ねえぜ」
適当に相槌を打ってから、美鈴は店を後にして、小汚い路地を抜け、姉妹の待つ屋敷へと帰った。
子供が攫われている、か。
何だか胸に気分の悪いものがわだかまって消えなかった。
美鈴が家へ帰ると使用人の一人に迎えられた。今晩には食料が届くと伝えると重畳ですと言って礼をする。同僚なのに慇懃なと思いながら、美鈴は姉妹の様子を聞いた。
「レミリア様はいつもの通り。夜までは起きないでしょう。フランドール様は少し前に目を覚まされました。まだお部屋にいらっしゃるでしょう」
「分かった。じゃあ、これはレミリア様に渡しておいて」
美鈴が先程店で買ったお土産を使用人に渡す。使用人はまた礼をして、それからふと思い出した様に言った。
「そう言えば、新入りが来ていますよ」
「新入り?」
「レミリア様が海岸で拾ってきた、あの」
「ああ、大怪我していたっていう?」
「ええ、今朝退院した様で。今はこの屋敷についての教育を行っています。挨拶をさせましょうか?」
「いずれ会うから必要ない。それよりフラン様に会わないと」
「フランドール様に会うのなら一言注意をお願い出来ませんか? あなたの言う事なら聞いていただけるかもしれません」
「何を?」
「あまり日中に起きているのは良くありません。このままだと本当にお仕置き部屋に」
「そう、だね。伝えておく」
美鈴がフランの部屋に行くとフランが嬉しそうに迎えてくれた。
「美鈴! おはよう!」
「おはようございます、フラン様。これ、お土産です」
美鈴が麻袋の中に入った瓶を渡すと、フランが顔を輝かせる。
「わあ、ありがとう、美鈴」
嬉しそうに笑うフランを見て美鈴も幸せな気分になる。その愛くるしい笑顔を見るのが何よりの幸せだ。幼い笑顔が美鈴を蕩かせる。その笑顔の為であれば何でもしようという気になる。美鈴は子供の笑顔が何よりも好きだった。だからこそ、二人の姉妹に仕えている。
「ところでフラン様」
それでも時には相手の意に反する事をしなければならない。それが仕える者の真なる姿であるし、悲しいところだ。
「何?」
ちゅうちゅうと瓶の中身を吸っているフランが期待の眼差しを向けてきた。
何の期待を掛けてくれているのかは分からないが、残念ながらその期待に応える事は出来ない。
「フラン様は最近良く日中に起きてらっしゃいますね」
「うん。意外とね、お昼に起きようって思うと起きられる様になるの」
「それを止めていただかなければなりません」
その瞬間、フランの顔から笑顔が抜け落ちた。
美鈴は苦しさに胸を押さえる。
「どうして、お姉様と同じ事を言うの?」
「フラン様の為なんです。このままフラン様が日中を過ごし続けて慣れてしまったら、吸血鬼でなくなってしまうんです」
フランが俯いて底冷えする声を出した。
「意味分かんない」
美鈴は怯まずにフランの前にしゃがみ込む。
「フラン様、あなたは由緒正しい吸血鬼。夜を生きる者です」
「だから何? 別にそんなのじゃなくたって良い。みんなと遊べないなんてやだ。夜にしか外に出ちゃいけないなんてやだ。私だって明るいお日様の下で暮らしたいの」
そう言って抱きついてくる。
美鈴は身の内に震える様な感覚がやって来て、思わず涙が出そうになる。
駄目だ。フラン様を泣かせるなんて。
フランをきつく抱きしめると、美鈴は言った。
「その通りです、フラン様。フラン様が我慢する必要なんてありません」
「美鈴……守ってくれる?」
「勿論です」
体を離すと、またフランが笑ってくれていた。美鈴も笑顔を返す。
「きっと守りますから」
「うん」
それからしばらく二人でお話をして、それから美鈴は館の仕事に戻って、それから夜が来た。
夜は魔の者の時間。日が沈むのと同時に、レミリアが起きだしてくる。館が動き出す。日中に働いていた使用人の半分が起きだし、もう半分が眠りにつく。地下で新鮮な悲鳴が響き渡る。厨房が慌ただしく料理を用意する。館の周りに奇妙な遠吠えが木霊する。夜行性の花々が咲き乱れる。
美鈴が掃除がてらにレミリアの部屋に寄ると、レミリアの身の回りを世話する使用人がレミリアに召し物を着せていた。嫌そうな顔をしているレミリアは入ってきた美鈴に気がつくと顔を明るくする。
「おはよう、美鈴」
「おはようございます、レミリア様。今日のご飯は新鮮ですよ」
「あら、楽しみね」
レミリアが嬉しそうに笑う。それからふと気がついた様に、美鈴に問いかけた。
「そう言えば、あの拾ってきた子は? 今日退院したはずだけど」
「ええ。今この屋敷について学んでいるところです」
「そう。ちゃんと常識を身につけさせてよね。幾ら好みの人間でも、シリアルキラーの傍には居たくないわ」
「シリアルキラー?」
「とにかくちゃんと教育してくれれば良いの。で、今日も平和?」
「ええ、概ね」
いつもであれば、平和だと断じる美鈴の、何だか曖昧な言葉にレミリアは首を傾げる。
「何かあったの?」
「何やら町で人攫いが出ている様で」
「人攫い? ってあのアジアンコミュニティの奴等じゃないの?」
「いえ、それとは別です。私達は町の人間との衝突は避けますから」
「ふーん、どこぞの妖怪でも入り込んできたのかしら」
レミリアに衣服を着せ終えた使用人が立ち上がって言った。
「私は人攫いではなく、人殺しと伺いました」
「殺人?」
「何でも森の中で惨殺された子供達が見つかったとか」
「勿体無い。その場に居ればお腹一杯になれたのに。今流行の切り裂きジャックの仕業かしら」
「取りに行きますか?」
美鈴の問いに、レミリアが呆れた様子で首を横に振った。
「もう腐ってるでしょ。それに警察が持っていってるだろうし」
「それに食べられる部分は少なかったそうですよ。とんでもなく大きな力が加わって、体の大部分が破裂していたそうです。現場の小屋は床も壁も天井も血しぶきで赤く染まっていたとか」
「はあ、じゃあやっぱり妖怪の」
そこでレミリアが口をつぐんで、考える様に眉を寄せた。
「どうなさいました?」
「まさかフランじゃないわよね」
「え? フラン様?」
「フランドール様はいつも家に居らっしゃって外に出た事がありませんし、それは無いかと」
「そうですよ。いつもレミリア様にくっつく様にして一緒に過ごしているんですから」
美鈴は冗談を言っているのだと思って笑ったが、レミリアは真剣な顔で美鈴を見つめ返す。
「それは夜だけでしょ。最近あの子、昼も動いているみたいじゃない。あなた達だって四六時中見ている訳じゃないんでしょ? こっそり外に抜け出しているのかも」
「それは……でもあのフラン様に限って」
「あの子は無邪気よ。何百年も行きていながら、生まれたての子供みたい。でもだからこそ残酷なのよ」
「ですが」
「やっぱり、お仕置きが必要みたいね」
「そんな、まだ犯人と決まった訳じゃ」
「何にせよ、日中動いている事が問題なのよ。吸血鬼としてね」
冷たく言い切ったレミリアが外へ出ようとするのを、美鈴は追いすがって止める。
「待ってください。まさか、フラン様をあの部屋に閉じ込めるおつもりですか?」
「そうよ」
「それだけは、それだけは止めてあげてください。そんな事をしたらフラン様が泣いてしまいます」
「お仕置きだからそれ位が丁度良いのよ」
駄目だ。
フラン様を守ると決めた。
フラン様を泣かせちゃいけない。
美鈴は必死でレミリアにすがりつく。
美鈴には相手の心が分からない。時に相手を傷付け、時に泣かせ、時にそれ以上の酷い事をしてしまう。いつだって喜んで欲しくて行動しているのに。相手の心が分からない美鈴は相手を真に慮る事が出来ない。
だから美鈴は笑顔しか信じる事が出来ない。言葉ですら、時に誤解が生じる。だから笑顔だけが美鈴の指標だった。笑ってくれる事だけが正しい。
先程フランは外に出たいと言っていた。明るい陽の光の下を歩きたいと言っていた。そうして、その権利を守ると言ったら、フランは笑ってくれた。だから美鈴はレミリアに楯突いてでも、フランの事を守らなくちゃいけなかった。
「お願いです! あの部屋に入れるのは」
「美鈴」
その瞬間、レミリアが美鈴の事を睨みつけた。
「あなたの事は気に入っているけれど、あんまりしつこい様だと、殺すわよ」
美鈴は息を呑む。
レミリア様が怒っている。笑顔の消え失せた顔で、睨みつけてくる。
その瞬間、美鈴の体から力が抜けた。
怒っている。睨んでいる。笑顔でない。笑顔でないレミリアを見ている事が美鈴には耐えられなかった。
力の抜けた美鈴がへたり込んでいると、レミリアは部屋を出てしまっていた。残された美鈴はしばらく体の力が抜けていたが、やがて自分を奮い立たせるとお仕置き部屋へと向かう。
遠くからフランの泣き声が聞こえてくる。
お仕置き部屋へ向かう途中、レミリアとすれ違った。
「良い? 勝手に出しちゃ駄目だからね?」
遠くからフランの泣き声が聞こえてくる。
そのあまりにも悲痛な声を聞いた美鈴は、レミリアの言葉に逆らおうとしたが、睨みつけてくるレミリアの表情を見るともう駄目だった。力無く美鈴が頷くと、レミリアは満足そうに笑う。
「それで良いの」
その笑顔が美鈴を縛り付ける。
「まあ、安心なさい。ずっと閉じ込めておく訳じゃないんだから」
そう言って、レミリアが去っていく。
フランの泣き声が聞こえてくる。
我に返ってお仕置き部屋へ行くと、閉ざされた扉の向こうからフランの泣き声が響きわたっていた。
「フラン様!」
美鈴が叫ぶと、泣き声が止み、フランの声が聞こえてくる。
「美鈴?」
「フラン様、大丈夫ですか?」
途端にまた泣き声が聞こえてきた。
「良かった! 美鈴、早く助けて! ここ暗いの! 何にも見えないの! 暗くて暗くておかしくなりそうなの! 美鈴! 早く助けて! ここから出して!」
出して上げたかった。けれどレミリアに止められている美鈴にはそれが出来ない。美鈴に出来るのは扉越しに声を掛ける事だけだった。
「すみません、フラン様」
「え?」
「レミリア様に止められております。フラン様を外にお連れする事は出来ません」
「そんな! だって! 美鈴、私を守ってくれるんじゃなかったの?」
「すみません」
「そんな……だってこんなに暗いんだよ! 怖いのに! なのに美鈴は助けてくれないの? 何で? 私の事が嫌いになっちゃったの? そんなの嫌だよ」
「嫌いになんてなっていません」
「なら、どうして? ねえ、美鈴! 助けてよ! 怖いの! 凄く怖いの! 暗くて、おかしくなりそうなの! ねえ! 助けて! お願いだから」
一瞬、扉の向こうから凄まじい音がした。
「何で! 何で壊れないの! ねえ、美鈴! 助けてよ! お願いだから! 助けて!」
扉ががりがりと音を立てる。恐らく中からフランが引っ掻いているのだろう。それが分かっても美鈴にはどうする事も出来なかった。
「すみません」
美鈴が謝ると、扉の立てるがりがりという音が止み、代わりにフランの泣き声が聞こえてきた。美鈴は扉の前で頭を垂れ、フランの泣き声を聞きながら、涙を流して謝り続けた。フランの泣き声はいつまでも止まなかった。
結局フランは暗い部屋に閉じ込められるお仕置きを受ける事になり、美鈴はその世話係を買って出た。
明かりの消された廊下を手探りで歩いていき、扉を見つけた美鈴は取っ手を捻る。
「失礼致します、フラン様」
泣き疲れて寝入っているのだろう。寝息が聞こえてくる。美鈴が部屋の中に入ると、まず異臭が鼻についた。あまりの怖さに漏らしてしまったのか。美鈴はそれを嗅ぎながら、叫びたい様な衝動を押さえつつ、お湯の入った桶と布を床において、換えの服を取りに行った。
お仕置きはお仕置き。あくまで光に慣れようとするフランを戒める為の罰であって、決して拷問ではない。だから光のない部屋から出られない孤独を味わう事以外は全て今まで通りの日常が営まれなければならない。
その世話係に美鈴は志願した。レミリアが、出来るだけ孤独を与える為にお世話をするのは一人、と言った瞬間、美鈴は他の者達にはやらせないという熱烈な自己主張を行った。フランの身だしなみや日に二度の食事、あるいはお仕置き部屋の掃除など、その全てを一手に引き受けた。フランのお世話は夜に行われ、日中も屋敷の仕事があって、美鈴はほとんど休む暇が無かったが、それでも文句一つ言わずに、何もかもを十全でこなした。
美鈴がフランの体を拭いて、服を着せ替えると、フランが目を覚ました。腕の中のフランの体に力が入ったのを感じて、美鈴は声を掛けた。
「おはようございます、フラン様」
「美鈴?」
フランが身を起こし、そうして困惑した様子で言った。
「明かりは?」
「残念ですが」
「そっか」
美鈴の体にフランが抱きつく。
「やっぱり私お仕置き部屋に閉じ込められちゃったんだ」
美鈴もそれを抱きしめ返して言った。
「毎日私がお話し相手になりますから」
フランが慌てた様に埋めていた顔をあげる。
「もしかして美鈴までこの部屋に閉じ込められちゃったの?」
「いえ。私はただフラン様のお世話を」
「そっか。良かった」
フランが息を吐く。
美鈴にはその言葉の意味が分からない。どうしてそれが良い事なのか。一緒に閉じ込められたのでないと知ったら悲しむと思っていたのに。フランの言う事が分からない自分を、美鈴は心底惨めに思った。
「良かったとは?」
「だって美鈴は閉じ込められてないんでしょ? ここは暗いから。こんなところに美鈴まで閉じ込められなくて良かった」
泣き疲れる位、怖がっていたのに。それなのにもう他者を気づかえる。そんなフランの優しさが嬉しくて、そしてこのあまりにも救いのない状況が悲しかった。
それからも毎日毎日、美鈴はその光の届かない地下室へ通って、フランの世話をし続けた。
「ねえ、美鈴。今日で閉じ込められて何日目?」
「三日目です」
「そっか。もう何年も経ったみたいに思ってた。ここには太陽も月も無いから」
「私が居ます」
「え?」
「太陽や月が無くても、私がフラン様に今日が何日目か教えます」
「うん、ありがとう」
一週間ほどすると、闇に慣れだしたのか、段段フランの声が明るくなる。沈んだ調子だった美鈴との会話も段段と弾む様になる。
「ねえ、美鈴。今日はなにかおもしろい事があった?」
「今日はとても月が綺麗です。満月の一つ後の月がこの町を明るく浮き上がらせています。優しく見守ってくれています」
「へえ。綺麗なんだ」
「とても。遥か東の方の蛮国では、そんな綺麗で優しい月を十六夜の月と言うそうです」
「良いな。見てみたいなぁ」
けれどやっぱり何処か影があって、時偶鬱屈と沈み込む度に、美鈴は胸が締め付けられる思いに駆られた。
「ねえ、美鈴。他のみんなはどうしてる?」
「レミリア様も使用人もお元気ですよ」
「そっか。みんな私の事嫌いになったのかな?」
「そんな事ありません。どうしてですか?」
「だって美鈴以外誰も会いに来てくれないし。だからみんな私の事が嫌いになって、それで会いにこないのかなって」
「そんな事ありませんよ、きっと」
「でも」
「誰かを連れてきましょうか?」
するとフランが美鈴の胸に顔を埋めた。
「良いよ。美鈴が居れば、それで良い」
「フラン様」
嬉しい言葉だった。
けれど美鈴はその言葉を完全に信じる事が出来なかった。
お仕置き部屋は真っ暗で、フランの顔が見えないから。
「ずっと一緒に居てね、美鈴」
「勿論です」
「良かった」
フランが笑う様に息を吐いた。
けれど笑顔が見えない。
フランの笑顔が見えない。
フランがどうして欲しいのか分からない。
フランが分からない。
悲しくて、気が狂いそうになって、せめてフランを感じたくて、思いっきり抱きしめた瞬間、突然扉が開いて、強烈な光が飛び込んできた。
振り返ると、レミリアのシルエットが浮いていた。
「レミリア様」
「お姉様」
二人が呆然として呟くのを無視して、レミリアがお仕置き部屋へ入ってくる。
もしかしてお仕置きの終わりが来たのか。
美鈴とフランがそんな期待をしていると、レミリアは冷たく言った。
「やってくれたわね、美鈴。お陰でこの町に居られなくなったわ」
「え? いきなり何を」
「フランから離れなさい」
「いきなりどうしたんですか?」
「妹から離れろって言ってんの!」
一瞬、光の加減でレミリアの表情が見えた。怒りで歪んだ恐ろしい顔をしていた。
レミリアは思わずフランを離して体を退ける。するとレミリアが近付いてきて美鈴の胸倉を掴みあげた。
「これからたっぷりお話し合いをしましょうか」
「レミリア様、一体何を」
「とぼけるのは無駄よ。全部分かっているんだから」
そのままレミリアは美鈴を放り投げた。放り投げられた美鈴は部屋の外へ投げ出され、廊下の壁に着地する。
「美鈴を連れて行きなさい」
「レミリア様! どうして!」
「その汚い口を閉じて黙ってろ!」
レミリアが振り返って睨みつけると、美鈴はそれ以上何も言えずに、大人しく他の使用人達に引っ張られてその場を去った。
二人っきりになったレミリアはフランを抱きしめる。
「私が守るから」
「お姉様? あの」
「ここはもう嫌でしょう? 部屋を移しましょう」
「え? じゃあ、外に出してくれるの?」
「いいえ。残念だけど、あれが居る限りは」
「あれ?」
「フラン、あなたは私の可愛い妹よ。だから絶対に私が守るから」
フランにはレミリアの言っている事が理解出来ない。ただ外に出られないという事だけは分かった。
「お姉様、私は外に出たい。もう暗い所に閉じ込められているのは嫌なの」
「ごめんなさい、フラン。でも外は危険が一杯なの。せめてあなたが自分を守れる様にならないと」
「私、強いよ。お姉様には敵わないかもしれないけど」
「そうじゃない。そういう事じゃないの」
やっぱりフランには分からない。
どういう事か分かっていないフランに、レミリアは一つ質問をした。
「フランは美鈴の事をどう思う?」
「優しくて、好き」
「そう思っている内は残念だけど出せないわ」
「お姉様?」
「何とかあいつを追い払ってみせる。あなたは守ってみせる」
フランが暗いお仕置き部屋から明かり取りのついた部屋へ移された後、一頻り泣いて一眠りした。結局幽閉されている事は変わらない。閉ざされた部屋の中で目を覚ましたフランは、自分が未だ囚われの身である事を知って、再び涙を流し始めた。
その時部屋の扉がノックされた。
「フラン様」
美鈴の声だった。
もしかしたら外へ連れだしに来てくれたのかもしれない。
そんな期待を持って返事をする。
「美鈴!」
「フラン様、今日は謝りにきました」
「え? どうして?」
「フラン様のお側に居る事が出来なくなったからです」
一瞬その言葉の意味が理解出来なかった。やがて理解が及ぶに連れて、フランの心は氷に浸けられた様な恐怖で固まった。
「何で!」
「レミリア様の命令です。私はこのお屋敷に入ってはいけない事になりました」
「どうして! やだよ! 美鈴だけが優しかったのに! やだよ! 嘘だよね? 行かないよね? 一緒に居てくれるよね?」
「すみません」
「やだ! 嫌だ!」
「でもずっとフラン様の事はお守りします。お屋敷には入れないけれど、門番として外でフラン様の事をお守りしていますから」
「嘘でしょ! 嘘って言ってよ!」
「すみません。時間になりましたので、私は行きます」
「嘘! やだ! やだ!」
フランが扉に縋り付いて泣き出す向こう、廊下からは美鈴の去っていく足音が聞こえる。フランが幾ら泣き叫んで呼び止めようとしても、遥か遠くで足音が消えるまで、美鈴の去っていく音は決して止まなかった。
結果として美鈴は門番となり、二度と屋敷の敷地には入れずに、鬱鬱とした日々を送る。フランもまた部屋に閉じ込められたまま、幻想郷を紅い霧が覆うその日まで外に出る事は出来ず、お互いの姿すら見る事が叶わなかった。
その時部屋の扉がノックされた。
美鈴が戻ってきた!
そう考えて、流れる涙を拭ったフランが扉へ近づくと、扉の向こうから声が聞こえた。
「フランドール様」
美鈴の声ではなかった。
途端にフランの心がしぼみきって、再びベッドの上に戻ると、扉が開いて使用人が入ってきた。見た事の無い顔だった。
「誰?」
「十六夜咲夜と申します」
いざよい?
その言葉を何処かで聞いた事のある気がする。思い出せない。ただその言葉は美しく優しいはずの言葉で、扉の傍に立つ冷たい人間にはそぐわない言葉だと思った。
使用人は黙って近づいてくる。
怖くなって、逃げる様にして、フランはベッドの端に寄った。
「見た事無い」
「今日からフランドール様のお世話を仰せつかりました」
「え? じゃあ、これからこの部屋に来るの?」
こんな怖そうな人が?
「そうです」
それだけ言って、黙る。最低限の言葉しか喋らない。
フランが警戒を露わに睨んでいると、やがてその使用人は懐から懐中時計を取り出して時刻を確認するなり、冷たく言った。
「もうすぐ朝になります。お休みになってください」
フランは仏頂面のまま答えた。
「寝れない」
今の最悪な気分のまま眠れるとは思えない。
すると再び使用人が冷たく言った。
「お休みになってください」
何となく気圧されて逆らえなくて、フランは渋々とベッドの上に横たわって目を閉じた。けれど泣きに泣いた所為で頭ががんがんと痛んで到底寝られそうにない。
しばらくしても寝れないので目を開けると、使用人が声を駆けてきた。
「眠れませんか?」
「だから言ったでしょ」
「これを差し上げます」
使用人はそう言って、手に持った熊のぬいぐるみをフランの顔に押し付けてきた。ぐいぐいと人形が押し込まれ、ごわついた毛が肌をちくちくと刺してくる。
「何! 何なの?」
「熊です」
使用人は冷徹にそう言って、熊を押し付け続けた。
フランは思わず叫ぶ。
「止めて! 痛い!」
すると使用人が熊のぬいぐるみを離して尋ねてきた。
「眠れませんか?」
分かりきった事を聞いてくるので、フランが答えないで居ると、使用人が目を瞑る。
「歌を歌います」
そう言うなり、賛美歌を歌い出した。
途端にフランの頭に鉛球がはじけ飛ぶ様な痛みが現れた。痛みに身悶えながら、フランは叫ぶ。
「痛い! 痛い! その変な歌を止めて!」
すると使用人の歌が止まる。
無表情でこちらを見ている使用人が恐ろしくて、フランは枕を投げつけた。
「あっち行って! 出てって!」
使用人は枕を受け止めて、フランの傍に置くと恭しく礼をした。
「もうすぐ朝になります。お休みになってください」
そう冷たく言うと、無表情のまま部屋を出て行った。
一人残されたフランは、今の恐ろしい使用人を思って、涙が溢れてきた。怖かった。優しい美鈴とは全然違う。あんな恐ろしいのがこれから毎日やって来るかと思うと怖くて怖くて仕方が無い。
「美鈴、やだよ、会いたいよ」
そう呟いたが、何も変わらない。ただ虚しさが募った。
その日からフランは目に見えて疲弊して、精神も異常をきたし、情緒不安定になっていった。
それから館は各地を転々としたが、行く先々でこんな噂が立った。
あの屋敷には悪魔が住んでいる。屋敷の地下には、その悪魔ですら恐れる、気の触れた化物が封じられている、と。
その噂を確かめようとした者は皆、屋敷の門番に阻まれて、真偽を確かめる事が出来なかった。
おまけ
好好相処
私は氷の妖精を待っていた。
チルノという名の小さな妖精は今日が誕生日で、妖精達の間でパーティーを開いて、今日という日を祝っていた。
私は妖精では無いし、屋敷の門を離れる訳にはいかないので、誕生日パーティーには出席出来なかったけれど、プレゼントを用意していて、今日でなくてもいつでも良いから渡してあげたいと思っていた。
その機会は随分と早く来て、その日の暮れる頃にチルノの姿が見えた。
「美鈴」
「どうしたの、チルノ。今日は誕生日パーティーでしょ?」
「もう終わったの。早めに終わらせて、美鈴のところに誕生日の報告しに来たの」
「何で?」
良く理解出来なかった。
自分への報告が、誕生日パーティーを切り上げる程の理由になるとは思えなかった。
不思議だったけれど、チルノが晴れやかに笑っているので、自然と気分が良くなっていく。
「だって今日は誕生日で、誕生日はお目出度い日なんだよ!」
チルノがそう言って臆面もなく笑う。
確かにそんな笑顔を見せられたら、誰にとってもお目出度い日であるかの様に思えてきた。
「だから、お目出度いから美鈴に報告しなくちゃって思って」
「嬉しいけど。どうして私に?」
「だって美鈴は他の妖怪や人間みたいにあたいの事馬鹿にしないで、遊んでくれるから」
チルノは、というより妖精は、一般に馬鹿だと思われている。それは妖精達の性格が刹那的で楽天的な事に起因している。ほんの一瞬前の事を忘れてしまったかの様に脳天気に振る舞う様を見て、人は妖精達を馬鹿だと言う。
けれど決して頭の回転が遅い訳ではない。
あくまで人と同じだけの思考力を持っていながら、ただ価値観だけが違う。過去の一切を顧みずに、今を楽しもうとしているだけなのだ。
「ありがとう、チルノ」
「どういたしまして! それにね、今日は美鈴が蜘蛛の妖怪からあたいを守ってくれた記念日だし」
だからはい、と言って、何かきらきらと光る石を渡された。宝石だとかじゃなくて、単に雨風に削られて輝く様になっただけの、何て事無い石。
「それね、あたいの宝物なの。でも記念日だから上げる」
「ありがとう。凄く嬉しい」
ただの石。
けれどチルノにかかればいとも簡単に宝物になってしまう。ただの石ころを宝石に変えてしまう、そんな素敵な魔法。
「あとね、今日は初めてみんなでピクニックに行った日で、初めて紅葉狩りをした日で、三回目に友達の家に泊まった日で、五回目と四十三回目に焼き芋を食べた日で」
すらすらと語るチルノに驚いた。
「ちょっと待って。そんな細かい事まで覚えてるの?」
「当たり前でしょ! 美鈴は覚えてないの?」
「そんな細かい事まで」
すると今度はチルノが驚いた様に言った。
「ええ! 忘れちゃうなんて勿体無い! 全部覚えてないなんて勿体無いよ」
「他にも沢山記念日はあるの?」
「勿論。美鈴とのだったら、今日は他にも、初めてゴム鉄砲を教えてくれた日で、それから三回目と百七十二回目に飴をくれた日で、それから」
すらすらと自分との思い出が語られていく。
涙が出そうになった。
こんな自分との思い出を全部覚えていてくれる。
それが嬉しかった。
チルノは沢山の事を覚えていてくれるのに、自分はほとんど覚えていない。
それが悲しかった。
「後は、昨日は美鈴が四回目にお茶菓子をくれた日で、七回目に髪の毛を整えてくれた日で、初めて本を読んでくれた日で、二回目に殴ってきた日で、一回目と二回目に誕生日プレゼントをくれた日で、三十回目と三十一回目と四百十五回目に謝ってきた日で」
自分はチルノの何十倍も生きている。
自分は今までの生を、チルノの半分でも覚えているだろうか。
「一昨日は初めて一緒にどんぐりを探してくれた日で、初めて人間から助けてくれた日で、初めてお説教してきた日で、七回目に傘を貸してくれた日で、百二十回目に氷をくれた日で、初めて殴ってきた日で、初めて服を脱がせてきた日で、二十七回目と二十八回目と二十九回目と四百十三回目と四百十四回目に」
次々と出てくる思い出に、私は感極まってチルノを抱きしめた。
「どうしたの、美鈴」
「ううん、何でもない」
嬉しく思っただけ。そして羨ましく思っただけ。
きっと毎日が楽しいのだろう。毎日が楽しいから、毎日の事をこんなにも事細かく覚えている。自分はチルノの半分でも今までの生を覚えているだろうか。チルノの半分でも、毎日を楽しく生きて来れただろうか。
きっと才能なのだろう。
無邪気に世の中を楽しむ事の出来る才能。
その才能は羨ましくて、きらきらと輝いて見えた。
私はチルノを離すと、ポケットからプレゼントを取り出した。
「えっと三回目、だよね。これ、誕生日プレゼント」
「え? あたいにくれるの?」
プレゼントを渡すと、チルノはそれを受け取ってぱっと顔を輝かせた。
「うわあ! ありがとう! 嬉しい!」
まるで世界でただ一つの宝物をもらったみたいな、恋人から結婚指輪でももらったかの様な、そんな素敵な笑顔を浮かべてくれた。きっと今日は、プレゼントをもらう度に同じ様に最高の笑顔を浮かべていたのだろう。渡すこちらまで嬉しくなる様な。
それからしばらくお話をして、段段と暗くなったので、名残惜しむチルノを家へと帰した。見えなくなるまで振り返り振り返り、何度も何度も笑顔で手を振ってくるチルノを本当に可愛らしく思いながら、私も手を振り返す。
やがてチルノの姿が見えなくなると、私は少しの間、チルノと過ごした余韻を味わってから、振り返って言った。
「で、さっきからずっと物陰からこちらを窺っていた咲夜さんは一体どうしたって言うんですか?」
「別に、ただちょっとなぁと思って」
「意味が分からないです」
咲夜さんが物陰から姿を現した。夕日に染まった顔が、じっとりと何か非難めいた表情をしている。
「どうやらあの子は短期記憶が弱い代わりに、長期記憶が極端に優秀な様ね」
「もう! そういう感動を台無しにする様な事言わないで下さいよ!」
「どうして? 褒めたのに」
折角チルノの事がきらきらと色めいて見えていたのに、咲夜さんがあんまりにも理屈っぽい事を言うので、色褪せてしまった。
憤慨していると、咲夜さんはそれを無視して近寄ってきて、やっぱりじっとりとした目で私を見つめてくる。どうしたんだろう。咲夜さんが何をしたいのか分からなくて、怖くなった。
「あの、何ですか?」
すると咲夜さんがわざとらしく溜息を吐いた。
「まあ、お嬢様達に危害が加わらなければそれで良いんだけれど」
「え?」
「あなた、大概にしときなさいよ」
え? え?
「その分かっていないところが、あなたの一番悪い部分」
一体何の事だ。
不思議がっていると、咲夜さんが背を向けてぽつりと呟いた。
「まあ、同時に良い部分でもあるんだけど」
「どういう事ですか、咲夜さん」
すると咲夜さんは振り返って、じっとりとした無表情を向けてきた。
「何でもない」
そう言ってすたすたと屋敷へ戻ってしまう。
咲夜さんの言いたかった事が分からない。
相手の心が分からない。
チルノ位、毎日を楽しめていれば、自分も誰かの事を分かる様になるのだろうかとふと思った。フランの顔が不意にちらついて、何だか悲しくなった。
あとこれで終わりなんですかね?どうも未完というか不完全燃焼な感じがします。
フランの部分とチルノの部分のつながりとかなんで門番になったのかとかちょっとわかりません
ストーリーも人物関係も高速で置き去りにしてぼやけた風景
しか見えない、そんな感じ。
今日から乙女ごろしのめーりんと呼ぼう
そういう人が読めば単なるフランドール虐めにしか読めません。
つまりは、レミリアも咲夜もフランドールを精神的に追い詰めて、
狂わせた酷い奴で終わりです
伏線?フラグ?兎に角そんな物、何一つ回収してませんしね。
作品と言うのは読者が楽しめる物であるべきで、作者の自己満足で
自分さえ解れば良いと言うような作品は如何かと思いますが……
ただ、このSSは「~~した」「『~~』(会話文)」「~~だった」の繰り返しで、
メリハリが無く読んでいてあまり魅力的に映りませんでした。
もっとぐいっと引き付けるような書き方をしてみるのも良いのではないでしょうか。
ペドフィリアな美鈴。それが原因で、敷地から追い出されてしまったにも関わらず、
おまけの題が好好相処(楽しい付き合い)になっているのがまた…。
幼女なら誰でもいいのかとw
ひどいことをされても、平気で会いにくるチルノがかわいい。
フランドールとチルノに関わる美鈴の秘密、自覚していないその狂気、それを取り巻く貴族的なレミリアたち、館から去らない美鈴
街の描写がもう少し量があって、結末部は仄めかす程度になったら、よりオカルティックで美しい作品になったのではと勝手ながら思いました。
とても楽しめました。ありがとうございます。