一
「このように、気温が上がると空気が膨張し、さっきのように風船が割れる。……む、いい時間だな。今日はここまでにしよう」
私がそう言うと、寺子屋の小さな教室は子ども達の歓声に包まれる……ことはなかった。それというのも、今日の生徒は二人きりなのだ。チルノに、大妖精。今日は人里の子ども達の授業は午前でおしまいで、夕方に少しだけ時間をとって、二人に授業をしているのだ。
それというのも、チルノが「あたいがもっと最強になるためには、べんきょーも必要だとおもうの!」などとかわいいことを言ってきたためである。大方、魔理沙あたりに吹き込まれたのであろうが。私はチルノのその申し出に、二つ返事で承諾した。妖精だろうが妖怪だろうが、学ぼうとする姿勢に対して全力で応えるのが教師のあるべき姿であると私は考えているし、チルノが寺子屋で学ぶことによって、彼女が人里を好きになってくれればうれしい、という打算も少しはあった。大妖精は、チルノの付き添いである。
正直、飽きっぽい妖精のことだから、授業もすぐに飽きて、来なくなってしまうだろうと考えていたが、意外にも、この三人きりの授業は長く続いていた。一週間に一度だけ、授業の内容は、算術や国語よりも、里の歴史や理科が中心。そのときに手に入った児童向けの本を読んで、感想を言わせることもある。行き当たりばったりの授業内容であるが、案外、これが功を奏しているのかもしれない。正規の授業にも、この方針を少しは取り入れてみるべきだろうか……。
「ねえねえ、けーね!」
教卓の上を片づけながらそのような思考にふけっていると、チルノが私の腰にまとわりついてきた。「今は先生と呼べ」とたしなめようと思ったが、そういえばもう授業は終わっていた。
「ん? どうした、チルノ」
「けーね! お願いがあるの!」
「何だ、改まって。言ってみなさい」
私は少し身をかがめ、彼女と目線を合わせる。生まれたのは私より早いかもしれないのに、目をきらきらさせて私に話しかけてくれるチルノは、とてもかわいらしく、母性本能がくすぐられるような気がする。
「あたい、けーねのおうちに遊びにいきたい」
「うん、よしよし……って。え? え?」
私は、チルノの言葉に面食らった。
寺子屋で学び始めて、多少人里の雰囲気に慣れてきているとはいえ、気まぐれで遊び好きの妖精が、教師である私の家を訪問したいとは。かなり予想外であった。
驚いて、返答を濁す私を見て、チルノが明らかに残念そうな表情をつくる。
「……だめなの? けーね……」
「チルノちゃん、先生を困らせちゃだめだよ」
そう言ってチルノをたしなめたのは大妖精である。彼女はイタズラ好きと聞いているが、少なくともチルノと一緒にいるときの彼女は、私の見る限り、遠慮深く、友人思いの優しい少女である。なんだか子どもに気を遣わせるダメな大人になったような気がして、私は重い口を開く。
「えーっと、チルノ。なぜ私の家なんかに遊びに来たいと思ったんだ? 自慢ではないが、うちには本ばかりで、お前が喜ぶようなものはないと断言できるぞ」
そうだ、まずは動機を聞こう。チルノがなぜ私の家に遊びに行きたいといったのか、それがわかれば他の解決策も見つかるかもしれない。そのように聞いてみると、彼女は素直に答えはじめた。
「こないだ、紅魔館に忍び込んだの。最強のあたいとしては、吸血鬼の住む館くらい、こーりゃくしとかないと、と思って」
「それはそれは、よく入れたな」
「いつもは門番に追い返されるんだけど、そのときは魔理沙がいて、門番がそっちに気をとられてる間に、こっそり」
「なるほど。相変わらずだな。それで、どうした」
「超こわいメイドに見つかって、ぼろぼろにされた……」
「……そうか……」
そして、チルノいわく、その完璧で瀟洒で麗しく恐ろしいメイドは、「全く、あの白黒魔女といい、貴女といい、人様の家を訪ねるときのマナーも知らないのね」と捨て台詞を吐いたらしい。なるほど、だいぶ話がのみ込めてきた気がした。
「つまり、チルノは、他人の家を訪ねるときのマナーが知りたくなったのだな?」
「! すごい! けーね! どうしてわかったの?!」
チルノが途端に目を輝かせる。ふむふむ。そういう事情か。ここでは、妖怪のくせにマナーを重要視する者も多いからな。いや、妖怪だからこそ、かもしれないが。とにかく、最強を自負する彼女としては、知っていて差し支えないし、授業内容としては、かなり有用だろう。正規の授業の方でも、今度取り入れることにしよう。
「ふふふ、私は先生だからな。では、来週の授業はお宅訪問の際のマナーについて講義することにしよう。これで――」
「いやだっ! あたい、けーねのうちにいきたい!!」
「ち、チルノちゃんっ」
これで解決、だと思ったのに、私の提案はチルノのお気に召さなかったらしい。食い下がるチルノに、大妖精も慌てふためいている。とにかく、ここでこれ以上騒がせるわけにはいかない。武力行使(頭突き)もやむなしと思ったと同時に、
「だって、けーねのこと、もっと知りたいもん……」
と、チルノが言った。これは、卑怯である。見た目も行動も幼い彼女のこのセリフに、完全に私的な都合でチルノの来訪を拒否している自分に罪悪感を覚えると同時に、とても、自分が恥ずかしくなった。私とて、教師のはしくれ。教え子に対して恥ずかしくない態度をとらなくてはならない。私は覚悟を決めることにした。
「……わかった。チルノ。お前を私の家に招待しよう」
「! ホント? やったー!! けーね、ありがとー!」
「いや、礼には及ばないよ。何ももてなしはできないがな。よかったら、大妖精も来るといい」
「え、いいんですか?」
むしろ大妖精が来てくれた方が、チルノのフォローが楽になるだろう。「もちろんだ」と言いながら、私は大妖精に笑顔を向ける。先ほどまで私とチルノの様子をハラハラしながら見ていたであろう彼女は、私が笑顔を見せたことで、やっと安心してくれたようであった。
「じゃあけーね、今から行っていい?」
「いっ いまからっ?!」
チルノの言葉に、さっきまでの私の硬い覚悟が一気に崩れそうになる。あかん。今からはさすがに無理だ。キャラが変わる。
「す、すまないが、こちらもお前たちをもてなす準備がしたいのでな。あ、明日以降にしてくれないか。できれば来週とか……」
「わかった、明日にする!」
「お、あ、ああ」
「お昼ごはんを食べた後に、けーねのおうちに行くから! 楽しみだね、大ちゃん!」
「うん! チルノちゃん」
「うあ、あ。りょ、了解した。じゃ、じゃあ、気をつけて帰るんだぞ。私も、もう帰ることにする」
私はそう言うと、二人の楽しげな話し声を背に猛スピードで家路を急いだ。今までの人生において、五本の指に入るであろう困難が、突然明日降ってわいたことについて、戦慄しながら。
ニ
「た、ただいま」
我が家は、人里と迷いの竹林のほぼ中間地点にある。迷いの竹林に人々が不用意に入り込むような事故を未然に防ぐ目的がひとつ、そして、半獣である自分には、人里の中心よりも、このような立地の方が似合っているのではないかと自虐ではなく考えているという理由がひとつ。
愛する我が家に帰りを告げると、私はすぐに戸を閉めて、鍵を閉める。そして家中の窓という窓が開いていないかを丹念に調べ、障子を閉め、家と外界を完全に遮断する作業に入る。よし、こんなものだろう、と安心したところで、居間から私を呼ぶ声がした。
「おかえり、慧音。今日は妖精二人の授業だった割に、遅かったね」
居間に入ると、白髪にリボンをつけた少女が、さらしとパンツ姿で寝ころんでいた。妹紅である。先ほどまで寝ていたのか、頬や太ももに畳の痕がついている。
「ああ、ただいま。妹紅」
「今日のごはんはね、タケノコご飯に、筑前煮。あとね、タケノコを酢の物にしたよ。おなかすいたでしょ? すぐ準備できるから、待ってて」
「ああ、うん」
私の味気のない返事にもかかわらず、妹紅はパタパタと台所に入り、夕飯を温め直しはじめたようだった。こんな献身的な妹紅に、今から言わなければならないことを考えると頭が痛い。言いにくい。かなり言いにくいが、言わなくてはならない。
妹紅の言うとおり、夕飯の準備はすぐに整った。「いただきます」と二人で手を合わせる。「おいしい?」と期待に満ちた目でこちらを見てくる妹紅に、おいしいよ、と返しながら、私は、言いにくいことを言うべく、口を開く。
「妹紅」
「なーに?」
「悪いんだが、夕飯が済んだら、自分の家に帰ってくれないか」
瞬間、妹紅の箸がボトリと落ちた。そらしていた目を彼女に向けると、妹紅は、驚いたような、泣きたいような顔で、茫然とこちらを見つめていた。と思うと、大きな目に涙をためはじめる。
「うぅっ。そんな、ひどい……けーね……」
「す、すまない。しかしこちらにも事情というものがあってだな」
「情事?!」
「違う。落ち着いてくれ」
「落ち着けないよ! こんなの! ううう。私をこんな格好で家において、身の回りの世話をさせといて、用済みになったらポイ、だなんて……。けーねの鬼! エロ教師!」
「いやいやいやいや。人聞きの悪いことを言わないでくれ。大体妹紅が半裸なのは、お前自身の意思だろうが……」
「そんなわけないでしょ! 慧音のせいだよ!」
「あ、やっぱり?」
そう、そうなのだ。私が客人をなるだけ家に呼びたがらない理由。家に帰った瞬間、念入りに戸締りをして、鎧戸を閉める理由。そして、妹紅まで半裸になってしまった理由……。
つまり、私は、いわゆる裸族なのである。
重苦しくわずらわしい衣服から解放され、プリミティブな魅力に取りつかれた私は、もう何年も自宅では全裸である。もちろん、冬も。この時ばかりは、人間より丈夫な身体をもつ半獣であってよかったと、心から思うものだ。
しかし、私は教師である。しかも、ここ幻想郷では人里の守護者、常識人として知られている。そんな立場にある私が、家では全裸。これでは、私を信頼してくれている人里の者たちに対しても、妖怪どもに対しても示しがつかない。だから私は、この事実を隠さなければならないのである。
ちなみに、妹紅には、3か月ほど前、奴が勝手に縁側から侵入してきた際にばれた。あのときは迂闊だった……。最悪、妹紅の歴史を食って無かったことにしてしまおうと考えていたが、妹紅が、「絶対に誰にも言わないから、この歴史を食べるのはやめて!」と血涙を流しながら言うので、彼女を信用して、そのままにしている。事実、彼女は私の性癖を他人に言いふらしてはいないようだった。家の中で二人きりでいるときに、胸やら腰やら尻やらに舐めるようなまとわりつくような視線を感じるが、まぁそれは気のせいだと思う。
というか、なんでここ3か月妹紅はずっとうちにいるんだろう。以前もよく遊びに来てはいたけど、生活の拠点は自宅のはずだったのに……。
「つまり、明日妖精どもがウチに来るから、私に帰ってほしいと」
「そういうわけだ。チルノ達には何が何でも、この家の惨状を見せるわけにはいかない。だから、妹紅――」
「わかった。服着るわ」
「ええええええええええええええええ」
妹紅はそう言うと、あっさりと服を着はじめた。え、ちょ。何だこれ。
「も、妹紅?! お前も裸族に目覚めたんじゃなかったのか?!」
「いや、違うけど」
「え」
「慧音が素っ裸なのに、自分がキッチリ服着てるっていう状況が、客観的に見て、どうしても耐えられなくて、まぁ家の中なら常識的な範囲で脱いでただけ」
「え、え」
「それと、私もある程度脱いでた方が、慧音が私にムラッときたときに、やりやすいかと思って」
「え、え。は?」
「それより、慧音、やばいじゃん。明日どーすんのさ。家について見回りした瞬間脱ぎだすくせに、妖精2人をウチに招待するなんて、無謀だよ」
妹紅の冷静な指摘に、私は我にかえった。そうだ。真に不本意ながら、妹紅は裸族に目覚めたわけではなかったらしい。ということは、つまり、チルノと大妖精をうちに招待するのに、一番の障害はこの私ということになるではないか。なんということだ。
「ま、そういう事情なら、私を家から追い出すなんてしない方がいいと思うよ? 慧音だって、フォローが欲しいでしょ?」
「うう……。すまん、お願いする」
「りょーかい。じゃ、慧音。早速だけど、はい」
そう言って、妹紅が私に布を差し出す。
「何だ? それは」
「襦袢。慧音のいつもの服に比べたら、締め付けゆるいし、これならいけるかと思って。とりあえず、これから慣らせば?」
「うむ……」
妹紅の言うとおりだ。問題は、私。そうであれば、私は問題を除去するために対策を練らねばならない。とりあえず、襦袢を着てみなければ。深呼吸をし、気合いを入れて、襦袢をはおり、袖口に腕を通してみる。
「どう?」
「うう、うううう……」
な、なんだこれは。家の中で衣服をまとうことが、こんなに息苦しいことだとは。脂汗が出てくる。ストレスがたまっていくのがわかる。なぜ大昔の私は、このような苦行に耐えられていたのだろう。全くもって謎である。
「む、無理だ……許してくれ、妹紅。耐えきれない。今すぐ脱ぎたい」
「その台詞を狙って言っているんなら、今すぐお望み通りにしてあげるんだけど、残念ながら今は無理ね。はいはい、我慢我慢。かわいい教え子たちのためなんでしょ?」
「あううう……」
そうだ。これは教え子たちのためだ。チルノと大妖精の、きらきらとした目を思い出す。好奇心と、学びたいとする意欲に満ち満ちた、宝石のような瞳。彼女たちの思いに応えられずして、何が教師か。何が里の守護者か。私は克服しなれけばならない。教師であるために、否、上白沢慧音であるために。私は奮起して、妹紅を見る。
「目を覚まさせてくれてありがとう、妹紅。今夜はとことん付き合ってもらうからな」
「ねえ慧音、ほんとにその台詞狙って言ってるんじゃないのよね? 天然なのよね? あああ畜生、どこまでも付き合ってあげるわよ!」
そう。私は生徒たちのために、服を着なければならない。
その夜は、なぜか血涙を流す妹紅と衣服に悪戦苦闘する私とで、ふけていった。
三
次の日。昼食を終え、しばらく経ったところで、チルノ達がやってきた。
「いらっしゃい、チルノ、大妖精。待っていたぞ」
「「おじゃまします!」」
いつもより改まった口調で、元気に挨拶をする二人の様子はとてもかわいらしい。ちなみに、私は現在、普段外に出るときに来ているワンピースを着ている。一晩妹紅と試行錯誤を重ねた結果、普段寺子屋で子供たちに授業をするときの格好の方が、まだ集中できると考えたためだ。そしてその作戦は成功だったようだ。脂汗はかいているものの、現在私は、自宅で着衣という飢餓地獄にも並ぶ苦行をなんとか耐えられている。
「そう、家に招待されたら、まずは挨拶だ。ふたりとも、よくできているぞ。さあ、居間はこっちだ」
二人を居間へ案内する。チルノ達は今のところ私に不審を抱いてはいないようだった。小さく安堵する。
「あれ、もこー!」
「え、妹紅さん? こ、こんにちは」
「いらっしゃい、二人とも。慧音と私の家にようこそ」
居間では、妹紅がお茶の準備をしてくれている。チルノ達は、私の家に妹紅がいるとは思わなかったらしく、驚いた顔をしていた。……ここは私と妹紅の家では断じてないはずなのだが……。
「もこうとけーねは一緒に住んでるの?」
「お二人は仲良しなんですね!」
「そうそう、私達は仲良しなの。でもこれは他の奴らには秘密よ、特に天狗あたりには要注意」
案外、妹紅はチルノ達となじんでいる。あまり他人とかかわりたがらない割に、妹紅は妙に子ども(彼女たちは妖精だが)の扱いがうまいと思う。教師向きかもしれない。
「ほらほら、妹紅。お客様に立ち話をさせるな。席をすすめんか。悪いな、二人とも。そこの座布団に座ってくれ。今お茶菓子を出そう」
「あ、待って、けーね」
「? どうした、チルノ」
「これ、おみやげ!」
そう言うとチルノは、コスモスの花を差し出してきた。桃色の花弁がとても可憐で、みずみずしい。
「ひとのうちに行くときには、おみやげがいるんでしょ? きれいな花なら、けーねもよろこぶと思って、大ちゃんとさがしてきたの! あんまりつむと怒られそうだから、ひとつだけだけど……」
「チルノ……大妖精……」
教師冥利に尽きる、とは正にこのことであろうと私は思った。花を受け取り、私は涙ぐみそうになる。よかった。チルノの願いを拒絶しなくて済んで、彼女たちをうちに招待して、着衣を我慢して、本当によかった。「ありがとう」と、精一杯の笑顔をつくって言う。チルノ達がはにかむ。私は幸せ者だ。
「これは活けておくことにしよう。ささ、みんな座ってくれ。頂き物のカスティラがあるんだ」
上機嫌で台所に入る。コスモスの花は、近くにあった花瓶に挿しておく。たしかカスティラは戸棚に置いておいたはず、ああ、あったあった、と手を伸ばしたところで、私は自分の身体の変化に気が付いた。
……服が脱ぎたい。
なぜだ?! チルノと大妖精の笑顔に触れて、先ほどまで痛いほどに二人を招いてよかったと、服を着ていてよかったと、本気で考えていたのに、なぜ、こんな衝動が。私は、教師としての喜びよりも、服を脱ぎ、自由で全裸であることに幸せを感じるような人間であったのか? 否。そんなことが自分の本質であるなどと認めたくはない。そしてあってはならない。私は、今日、二人の小さなお客様を家主としてもてなさなければならないのだ! 今、ここで、全裸になるなどと、絶対に、あってはならない!
「……っふ」
なんとか気合いで脱衣欲を抑える。汗が身体中に噴きだして、衣服がぐっしょりしているのがわかる。ああ、耐えられない。裸でさえあれば、汗を吸う衣服が肌に重なるこの不快感を味わうことなんてないというのに。ああ、わずらわしい。でも、衝動は抑えた。ここは私の理性が勝った。深呼吸をして、カスティラを皿に盛り、何食わぬ顔をして三人の待つ居間に戻る。
「お待たせしてすまなかったな。少々手間取ってしまって。皆甘味は大丈夫だよな? さあ、召し上がれ」
「わあ、ありがとうけーね!」
「先生、ありがとうございます!」
どうやらチルノと大妖精は、私が茶菓子を用意するには少々時間がかかりすぎていたことに対して、気にも留めていないようであった。きっと妹紅がうまくフォローして、気をそらしてくれていたのであろう。妹紅の方を向くと、彼女は明らかに目をそらした。これは、照れているときの仕草だ。私は嬉しくなって、お客様たちの目を盗んで、こっそりと妹紅に「ありがとう」と耳打ちする。妹紅の耳が一気に赤く染まった。こういうところは、千年以上も生きているのに、やはり少女らしく、かわいらしいと思う。私は微笑して、チルノと大妖精に向き直った。
「さて、お宅訪問の際のマナーだがな」
「あ、そういえばそうだった!」
私の言葉に、チルノはカスティラに夢中だった顔をあげた。その反応は正直予想通りであったので、私はくすくすと笑いながら話を続ける。
「ふふっ、チルノらしいことだ。しかし、まあ、私の見たところ、二人のお宅訪問のマナーは、なかなかのものだぞ?」
「えっ。そうですか?」
今度は大妖精が答える。私はうんうんとうなずいた。
「ふむ。まず訪問の時間に関してだが、時間ぴったりか、少し遅れて行くのが良いとされている。そして、手土産は、まあ、うちに来るのであれば不必要なのだが、たいていの場合、あったほうが無難だろうな。特に目上の者の家にお邪魔するのであれば、あった方がいい。そして挨拶。これは基本だな。そしてなにより一番大切なことは、家主との時間を楽しく過ごすことだ。今二人がしているように、楽しくお喋りをしたりして、な。チルノと大妖精は、今私が言ったことを、きちんとできていると思うぞ」
「ほ、ほんと? あたいたち、合格?」
「うん、合格だ。花丸をあげたいくらいだぞ。お前たちは、自慢の生徒だな」
私がそう言うと、チルノは少々大げさに喜び、大妖精は控えめではあったが、やはり笑顔をつくっていた。つられて私の頬もほころぶ。妹紅も同じようであった。実際、二人はお行儀よくお宅訪問ができていると思う。細かいことは、一気に教えても仕方がないし、おそらく覚えられないだろう。今日は授業というより、このまま女四人でお茶会を楽しんで、午後の時間を過ごした方が有意義だと思った。のだ、が。
「――っ」
「慧音?!」
再びの衝動に、私は湯飲みを落してしまった。ちゃぶ台に、飲みかけの緑茶が広がる。ああ、生徒の前でなんたる醜態を、はやく布巾を用意しなければ、と頭では思っているのに、行動ができない。妹紅が震える私の肩を抱く。「大丈夫か?!」と言ってくれているのがわかる。そう、私の肩は震えていた。自分を自分できつく抱いているのに、その震えは全く治まる様子を見せなかった。チルノと大妖精の顔が、みるみる青くなっていく。私は最低だ。大事な生徒たちを不安にさせている。そう理性では思っていた。なのに、ああ、それなのに、私は今、ひとつのことしか考えられない。
――服を脱ぎたい――
授業ではない、と気を抜いた瞬間、第二次脱衣欲が私を襲ったのだ。その衝撃たるや、台所で一人第一次を耐えたときの比ではない。脱ぎたい。今すぐ服を脱ぎたい。
最後の理性を奮い立たせて、私は脱兎のごとく居間を抜け出し、寝室に入った。襖を閉めるのももどかしく、脱いだ。青いワンピース、その下の白いアンダー、肌着。もちろん、靴下も。何も考えられなかった。服を脱ぐこと以外は、何も。お望み通り全裸になった私は、鎧戸を閉めているため昼間でも日の入らない暗い寝室で、茫然と、静かに涙を流した。
四
「慧音!」
「も、こ」
妹紅が寝室に入ってきた。同時に、後ろ手で襖を閉めてくれる。「大丈夫だよ、慧音」彼女は優しく言うと、私に寄り添う。
「チルノ達には、慧音は気分が悪くなった、って言っといたから、大丈夫」
「う、も、もこ……」
「わ、慧音、泣いてるの? 大丈夫だって、二人はただ心配してただけみたいだし、慧音のこの状況はばれてない――」
「なさけない、んだ」
大事な生徒に嘘をついて、駄目な自分を隠している、今の私の状況が。欲望を我慢できない自分がすべて悪いのに、妹紅に守られて、みじめに泣くしかできない、私が。呆れて、情けなくて、仕方なくて。
涙が止まらない。声を抑えなければ。寝室と居間は近い。せめてせめて、鳴き声だけはあの子たちに聞かれたくない。それは最後に私に残った、ちっぽけなプライドであった。
「あのさ、慧音」
「……?」
「あんま、気にしない方がいいよ」
妹紅は私を抱きしめる。なぜだ。私は情けない人間なのに、なぜこんなに優しくするんだ、妹紅は。わけがわからない。涙と激情で思考がまとまらない。疑問だけが、わく。
「慧音はさ、立派に先生、やってると思うよ。私はそう思うし、里の子どもたちも多分、そう思ってるよ。いいじゃない。家では全裸ってくらい、普通だよ。私の方が、トータルで見たらずっと駄目人間さ。ただでさえ慧音はおかたいんだもの。自宅でそうやってバランスとってくれてる方が、良いと思うよ」
「今日だって」妹紅は話を続ける。「今日だって、慧音は、頑張ってたよ。人間だもの、どうしても、我慢できないことって、あるよ。でも、我慢しなきゃいけないときも、もちろんある。今日はそのときだったんだよ。そして慧音は、その状況に、真摯に向き合って、打開策を見つけようとしていたと思うよ。だから、失敗したからって、そんなに自分を責めないで。だめだなんて思わないでよ。私、そんな慧音が好きなんだから、慧音が自分を責めてるの見るの、辛いのよ」
妹紅の言葉は、ひとつひとつ小さく優しい雨粒になって、私の心の柔らかい所に注ぎこまれていくようであった。そしてその雨粒は、涙になって、私の目からあふれてきて、妹紅のブラウスにしみこんでいく。水分を吸った衣服。先ほどはあんなに耐えられないと思ったというのに、湿った妹紅の服で包まれる私は、さほど嫌悪感を覚えなかった。
「……妹紅」
「うん?」
「ありがとう。今日は、その、いろいろと」
「気にしないで。慧音の役に立てて、私は嬉しいくらいなんだから」
「妹紅……」
私は嬉しくなって、妹紅のブラウスを強く握りしめた。妹紅もそれに応えるように、腕に力を込めてくる。細い腕。薄い背中。白い髪。妹紅のにおいがする。なんだか酔っ払っているみたいだ。正常な判断ができない。なんだか、いつもよりもさらに、妹紅が頼りになって、素敵にみえる。「慧音」と名前を呼ばれて、顔をあげたら、普段は白い頬を上気させて、瞳を燃やした妹紅の顔があった。近い。熱い。妹紅、お前も何かに酔っているのだろうか――?
「けーね!」
「けーね先生!」
ガラリと襖が開けられると同時に、私は妹紅を突き飛ばした。しまった。襖についたてをするのを忘れていた。先ほど脱いだワンピースで、急いで身体を隠す。涙目の妖精二人は、私の姿をみとめると、すぐに寝室に入り込んできた。
「けーね先生! 妹紅さんから、具合が悪くなったって聞いて……大丈夫なんですか?」
「あ、ああ、大丈夫だ。突然席をはずしてすまない。ホスト失格だな、今日の私は。もう大丈夫だから、二人は気にしなくていいんだぞ」
「ご、ごめんね、けーね。あたいたち、けーねが気分わるいの、きづけなくって……」
「ああ、チルノ、そんなこと気にする必要はないんだ。私の不摂生がいけないのだからな。万が一、お前たちに感染してしまっては事だ。わざわざ来てくれて申し訳ないが、今日のところはお開きにしてもらえないだろうか。本当にすまない」
多少の罪悪感を覚えながらも、私は二人に頭を下げる。生徒たちに嘘はつきたくないが、裸族がばれるよりはいくらかマシである。二人は、私の言葉に少しほっとしてくれたようであった。
「うん、今日はかえるね、けーね。ごめん。……ところで、けーね、なんで裸なの? なんでもこーは、部屋の隅でぴくぴくしてるの?」
「そ、それはだな。気分が悪くて、吐きそうになったものだから、とりあえず服の締め付けをなんとかしようと思って……妹紅は、その……」
苦しい言い訳をしながら、ちらりと寝室の隅を見る。確かに妹紅は、ピクピクと痙攣していた。そんなに突き飛ばしたときのダメージが大きかったのであろうか。申し訳ない。なんかぐすんぐすんと押し殺した鳴き声まで聞こえてくる気がするが、まあ、気のせいだろう。
「部屋に入ったとき、先生が妹紅さんを突き飛ばしたように見えたんですけど、妹紅さん、何かしたんですか?」
「いや! いやいやいや。も、妹紅は何もしていないぞ! 彼女は私を看病してくれていただけで、突き飛ばしてしまったのは、その、成り行きというか、ちょっと気恥ずかしくてな、つい、ははは。いや、なに、妹紅は蓬莱人だからな。心配しなくても、大丈夫だぞ、はは」
ああ、すまない。妹紅。でも今は、二人が帰ってくれることを優先すべきなのだ。許してほしい。
「ほんとに大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫。大丈夫。私もだいぶ気分が良くなってきたし、あとで妹紅の看病をするから、心配ご無用だ」
「たしかに、もこーは、最強のあたいには劣るけど、つよいから大丈夫かも」
「そう。そうなんだ。妹紅は強いからな。さあ、急かすようで本当に申し訳ないが、お前たちに悪い影響が出ないうちに、今日は解散にしよう。次は、一緒に人里のお茶屋さんにでも行こうな。じゃあ、また来週に」
「わかった! けーね、また来週ね!」
「先生、おだいじに。お邪魔しました」
早口でまくしたてる私を特に不自然には思わなかったのか、チルノ達は挨拶をすると、私に手を振りながら帰っていったようだった。玄関の戸の音がして、二人の気配がなくなったと同時に、私は文字通りやっと一息つくと、身体を隠していたワンピースを畳に落とした。ああ、疲れた。こんなに疲れたのは、先の異変で霊夢たちを相手にしたとき以来かもしれない。
「も、妹紅ー、大丈夫か? すまんな、思いっきり突き飛ばしてしまって」
「いいのよ、慧音。私は死なないんだから、これくらい、どーってことないわ」
四つん這いのポーズになって、妹紅の方を見やると、たしかに、彼女に目立った外傷は見当たらなかった。ただ、顔には涙のあとがあって、ついでに頬も耳も真っ赤で、なぜか鼻血を出している、というくらいであった。
「鼻血が出てるじゃないか、妹紅。今こよりを準備するから、仰向けになっておけ。すまないな、突き飛ばした際に、顔をぶつけてしまったのか……」
妹紅は女の子なのに、申し訳ないことをしてしまったと反省する。とりあえず布と薬箱を準備すべく、膝立ちになったところで、妹紅の鼻血の勢いが増したので、これはいけないと思い、私は急いで寝室を後にした。だから、妹紅が、「下からのアングルは、ヤバい……」などと呟いていたということなど、私は、露ほども知らない。
五
チルノ達がうちに来てから数日経ち。
結論から言うと、私が裸族だということはばれなかった。それはとてもありがたい事実なのだが、その代わりと言うべきか、ある噂に、私は悩まされていた。
「ねえねえ慧音さん、どうなんですか実際のところは。慧音さんが帰宅したとたんに戸締りをして、日も暮れないのに鎧戸まで全て閉めてしまうのは、やっぱり同居人の妹紅さんと――」
「何を言っているのですか、射命丸殿。私と妹紅はただの友人ですよ。こう言ってはなんだが、変な勘ぐりはやめていただきたい」
「いやいや、そうは言いましても、チルノさんたちからお話をうかがっておりまして。なんでも、お二人で暗い寝室にこもられて、しかも慧音さんはあられもない姿であったとか。いやいや。なんとも。羨ましいものですね、やはり若い人というのは――」
チルノ達は約束を守った。妹紅が私の家に住み着いていることを、彼女たちは他言していないようだった。しかし、寝室に二人が踏み込んだときの光景――あれは、やはり非常にインパクトがあったらしい。素直な彼女たちが、言い方は悪いが口八丁手八丁の天狗に根掘り葉掘り訊かれては、ぽろりとこぼしてしまうのも、いたしかたないことである。同居人云々言っているのは、きっと射命丸のかまかけだろう。そんな手にひっかかるものか。「失礼。急いでおりますので」と彼女を振り払う。射命丸も、追いかけてまで話を訊こうとは思っていないようであった。それはそうだろう。事実だとしても、ただのゴシップ記事にしかならない。彼女には、もっと重要な事件を記事にしていただきたいものだ。
家に帰り、念入りに戸締りをし、鎧戸を閉める。そして服を脱ぐ。いつも通りの生活。今日は台所から、「おかえり、慧音ー」と妹紅の声がする。のぞいてみると、彼女は再びさらしとパンツの姿に戻っていた。やっぱり妹紅も裸族の魅力に目覚めつつあるのではなかろうか。そうであればいいのに。
「今日はね、なんとヤマメが釣れたから、塩焼きにしたよ。あとは、お吸い物と、昨日慧音が作ってくれたおひたしの残りね」
「ありがとう。妹紅。ところで話があるんだが、最近天狗がうるさくてな。そっちには行っていないか?」
んー、と妹紅は考える仕草をする。
「ああ、来たよそういえば。慧音さんと同棲されているんですか? って。そうだよーって答えてもよかったんだけど、慧音の面子考えて、やめた。次来たら焼き鳥にするっつっといたから、多分もう私のとこには来ないんじゃないかな」
「なるほど。その分私のところに来ているというわけか……。参ったな。そこまで熱心ではなさそうだから、よいのだが、万一しつこく付きまとわれて、自宅でこの格好であることがばれては困る。噂が広がる前に、あのときのことを、食ってしまっておくべきかな」
「! だめ!」
冗談半分、本気半分で言った私の言葉に、妹紅が思ったよりも鋭い反応を示したので、私は少し驚いた。訳を尋ねてみる。
「だって、あのときの、寝室での出来事だけ、上手に隠せるの? 下手したら、チルノと大妖精がうちに遊びに来た歴史まで、隠すことになっちゃうかもしれないじゃない」
「む。それは困るな」
確かに、あの日があってこそ、私とチルノと大妖精(そして妹紅)はより深く心を通わせることができたと思う。あの日の記憶を食ってしまうことは、できれば、いや、絶対に避けたかった。――そうなると、射命丸の記憶自体をなんとかするしかないな。誰かに協力を仰いで、罠でもしかけるか。
「それに」
「ん?」
「それに、あのとき、慧音、私にどきどきしていたでしょう」
「――え」
「隠さなくっていいよ。わかってるんだから。あのときの慧音、かわいかったよ。素直で、泣きじゃくっててさ。あの歴史が消えちゃうのは、嫌だな。できればずっと、持っておきたいよ」
妹紅は笑顔で言う。そう言われてしまうと、弱い。今の妹紅の一言で、私はあの日の歴史を食うことが、金輪際できなくなってしまった。
「ああ、でも、もう慧音の家に人を招待するのはやめなよ。慧音、自宅では全裸じゃないと死ぬ病気にかかってるレベルだよ、もう。あのときは尋常じゃなかった」
「そうだな。正直、わたしもここまでとは思っていなかった。まるで、中毒患者の気分だったからな、あのときは。今度からは、なんとかごまかすことにしよう」
「そうしてそうして。私としても、慧音の裸を他の奴らに見せたくないのよ」
夕食の準備をしながら、妹紅が軽口をたたく。最後の台詞は、いつものように、聞き流しておくことにする。
裸で飯を食い、風呂に入り、床につく。朝になったら、堅苦しい服を着て、仕事に向かう。これが私の日常だ。誇れるものではなくても、こうでなければ上白沢慧音として生活できないことに変わりはない。妹紅は、そのことを私に教えてくれたのではないだろうか。そして、そのような私の生活を、そのまま受け入れてくれる他人がいるというのは、まったくもって悪くないものだと、私は思うのであった。
「このように、気温が上がると空気が膨張し、さっきのように風船が割れる。……む、いい時間だな。今日はここまでにしよう」
私がそう言うと、寺子屋の小さな教室は子ども達の歓声に包まれる……ことはなかった。それというのも、今日の生徒は二人きりなのだ。チルノに、大妖精。今日は人里の子ども達の授業は午前でおしまいで、夕方に少しだけ時間をとって、二人に授業をしているのだ。
それというのも、チルノが「あたいがもっと最強になるためには、べんきょーも必要だとおもうの!」などとかわいいことを言ってきたためである。大方、魔理沙あたりに吹き込まれたのであろうが。私はチルノのその申し出に、二つ返事で承諾した。妖精だろうが妖怪だろうが、学ぼうとする姿勢に対して全力で応えるのが教師のあるべき姿であると私は考えているし、チルノが寺子屋で学ぶことによって、彼女が人里を好きになってくれればうれしい、という打算も少しはあった。大妖精は、チルノの付き添いである。
正直、飽きっぽい妖精のことだから、授業もすぐに飽きて、来なくなってしまうだろうと考えていたが、意外にも、この三人きりの授業は長く続いていた。一週間に一度だけ、授業の内容は、算術や国語よりも、里の歴史や理科が中心。そのときに手に入った児童向けの本を読んで、感想を言わせることもある。行き当たりばったりの授業内容であるが、案外、これが功を奏しているのかもしれない。正規の授業にも、この方針を少しは取り入れてみるべきだろうか……。
「ねえねえ、けーね!」
教卓の上を片づけながらそのような思考にふけっていると、チルノが私の腰にまとわりついてきた。「今は先生と呼べ」とたしなめようと思ったが、そういえばもう授業は終わっていた。
「ん? どうした、チルノ」
「けーね! お願いがあるの!」
「何だ、改まって。言ってみなさい」
私は少し身をかがめ、彼女と目線を合わせる。生まれたのは私より早いかもしれないのに、目をきらきらさせて私に話しかけてくれるチルノは、とてもかわいらしく、母性本能がくすぐられるような気がする。
「あたい、けーねのおうちに遊びにいきたい」
「うん、よしよし……って。え? え?」
私は、チルノの言葉に面食らった。
寺子屋で学び始めて、多少人里の雰囲気に慣れてきているとはいえ、気まぐれで遊び好きの妖精が、教師である私の家を訪問したいとは。かなり予想外であった。
驚いて、返答を濁す私を見て、チルノが明らかに残念そうな表情をつくる。
「……だめなの? けーね……」
「チルノちゃん、先生を困らせちゃだめだよ」
そう言ってチルノをたしなめたのは大妖精である。彼女はイタズラ好きと聞いているが、少なくともチルノと一緒にいるときの彼女は、私の見る限り、遠慮深く、友人思いの優しい少女である。なんだか子どもに気を遣わせるダメな大人になったような気がして、私は重い口を開く。
「えーっと、チルノ。なぜ私の家なんかに遊びに来たいと思ったんだ? 自慢ではないが、うちには本ばかりで、お前が喜ぶようなものはないと断言できるぞ」
そうだ、まずは動機を聞こう。チルノがなぜ私の家に遊びに行きたいといったのか、それがわかれば他の解決策も見つかるかもしれない。そのように聞いてみると、彼女は素直に答えはじめた。
「こないだ、紅魔館に忍び込んだの。最強のあたいとしては、吸血鬼の住む館くらい、こーりゃくしとかないと、と思って」
「それはそれは、よく入れたな」
「いつもは門番に追い返されるんだけど、そのときは魔理沙がいて、門番がそっちに気をとられてる間に、こっそり」
「なるほど。相変わらずだな。それで、どうした」
「超こわいメイドに見つかって、ぼろぼろにされた……」
「……そうか……」
そして、チルノいわく、その完璧で瀟洒で麗しく恐ろしいメイドは、「全く、あの白黒魔女といい、貴女といい、人様の家を訪ねるときのマナーも知らないのね」と捨て台詞を吐いたらしい。なるほど、だいぶ話がのみ込めてきた気がした。
「つまり、チルノは、他人の家を訪ねるときのマナーが知りたくなったのだな?」
「! すごい! けーね! どうしてわかったの?!」
チルノが途端に目を輝かせる。ふむふむ。そういう事情か。ここでは、妖怪のくせにマナーを重要視する者も多いからな。いや、妖怪だからこそ、かもしれないが。とにかく、最強を自負する彼女としては、知っていて差し支えないし、授業内容としては、かなり有用だろう。正規の授業の方でも、今度取り入れることにしよう。
「ふふふ、私は先生だからな。では、来週の授業はお宅訪問の際のマナーについて講義することにしよう。これで――」
「いやだっ! あたい、けーねのうちにいきたい!!」
「ち、チルノちゃんっ」
これで解決、だと思ったのに、私の提案はチルノのお気に召さなかったらしい。食い下がるチルノに、大妖精も慌てふためいている。とにかく、ここでこれ以上騒がせるわけにはいかない。武力行使(頭突き)もやむなしと思ったと同時に、
「だって、けーねのこと、もっと知りたいもん……」
と、チルノが言った。これは、卑怯である。見た目も行動も幼い彼女のこのセリフに、完全に私的な都合でチルノの来訪を拒否している自分に罪悪感を覚えると同時に、とても、自分が恥ずかしくなった。私とて、教師のはしくれ。教え子に対して恥ずかしくない態度をとらなくてはならない。私は覚悟を決めることにした。
「……わかった。チルノ。お前を私の家に招待しよう」
「! ホント? やったー!! けーね、ありがとー!」
「いや、礼には及ばないよ。何ももてなしはできないがな。よかったら、大妖精も来るといい」
「え、いいんですか?」
むしろ大妖精が来てくれた方が、チルノのフォローが楽になるだろう。「もちろんだ」と言いながら、私は大妖精に笑顔を向ける。先ほどまで私とチルノの様子をハラハラしながら見ていたであろう彼女は、私が笑顔を見せたことで、やっと安心してくれたようであった。
「じゃあけーね、今から行っていい?」
「いっ いまからっ?!」
チルノの言葉に、さっきまでの私の硬い覚悟が一気に崩れそうになる。あかん。今からはさすがに無理だ。キャラが変わる。
「す、すまないが、こちらもお前たちをもてなす準備がしたいのでな。あ、明日以降にしてくれないか。できれば来週とか……」
「わかった、明日にする!」
「お、あ、ああ」
「お昼ごはんを食べた後に、けーねのおうちに行くから! 楽しみだね、大ちゃん!」
「うん! チルノちゃん」
「うあ、あ。りょ、了解した。じゃ、じゃあ、気をつけて帰るんだぞ。私も、もう帰ることにする」
私はそう言うと、二人の楽しげな話し声を背に猛スピードで家路を急いだ。今までの人生において、五本の指に入るであろう困難が、突然明日降ってわいたことについて、戦慄しながら。
ニ
「た、ただいま」
我が家は、人里と迷いの竹林のほぼ中間地点にある。迷いの竹林に人々が不用意に入り込むような事故を未然に防ぐ目的がひとつ、そして、半獣である自分には、人里の中心よりも、このような立地の方が似合っているのではないかと自虐ではなく考えているという理由がひとつ。
愛する我が家に帰りを告げると、私はすぐに戸を閉めて、鍵を閉める。そして家中の窓という窓が開いていないかを丹念に調べ、障子を閉め、家と外界を完全に遮断する作業に入る。よし、こんなものだろう、と安心したところで、居間から私を呼ぶ声がした。
「おかえり、慧音。今日は妖精二人の授業だった割に、遅かったね」
居間に入ると、白髪にリボンをつけた少女が、さらしとパンツ姿で寝ころんでいた。妹紅である。先ほどまで寝ていたのか、頬や太ももに畳の痕がついている。
「ああ、ただいま。妹紅」
「今日のごはんはね、タケノコご飯に、筑前煮。あとね、タケノコを酢の物にしたよ。おなかすいたでしょ? すぐ準備できるから、待ってて」
「ああ、うん」
私の味気のない返事にもかかわらず、妹紅はパタパタと台所に入り、夕飯を温め直しはじめたようだった。こんな献身的な妹紅に、今から言わなければならないことを考えると頭が痛い。言いにくい。かなり言いにくいが、言わなくてはならない。
妹紅の言うとおり、夕飯の準備はすぐに整った。「いただきます」と二人で手を合わせる。「おいしい?」と期待に満ちた目でこちらを見てくる妹紅に、おいしいよ、と返しながら、私は、言いにくいことを言うべく、口を開く。
「妹紅」
「なーに?」
「悪いんだが、夕飯が済んだら、自分の家に帰ってくれないか」
瞬間、妹紅の箸がボトリと落ちた。そらしていた目を彼女に向けると、妹紅は、驚いたような、泣きたいような顔で、茫然とこちらを見つめていた。と思うと、大きな目に涙をためはじめる。
「うぅっ。そんな、ひどい……けーね……」
「す、すまない。しかしこちらにも事情というものがあってだな」
「情事?!」
「違う。落ち着いてくれ」
「落ち着けないよ! こんなの! ううう。私をこんな格好で家において、身の回りの世話をさせといて、用済みになったらポイ、だなんて……。けーねの鬼! エロ教師!」
「いやいやいやいや。人聞きの悪いことを言わないでくれ。大体妹紅が半裸なのは、お前自身の意思だろうが……」
「そんなわけないでしょ! 慧音のせいだよ!」
「あ、やっぱり?」
そう、そうなのだ。私が客人をなるだけ家に呼びたがらない理由。家に帰った瞬間、念入りに戸締りをして、鎧戸を閉める理由。そして、妹紅まで半裸になってしまった理由……。
つまり、私は、いわゆる裸族なのである。
重苦しくわずらわしい衣服から解放され、プリミティブな魅力に取りつかれた私は、もう何年も自宅では全裸である。もちろん、冬も。この時ばかりは、人間より丈夫な身体をもつ半獣であってよかったと、心から思うものだ。
しかし、私は教師である。しかも、ここ幻想郷では人里の守護者、常識人として知られている。そんな立場にある私が、家では全裸。これでは、私を信頼してくれている人里の者たちに対しても、妖怪どもに対しても示しがつかない。だから私は、この事実を隠さなければならないのである。
ちなみに、妹紅には、3か月ほど前、奴が勝手に縁側から侵入してきた際にばれた。あのときは迂闊だった……。最悪、妹紅の歴史を食って無かったことにしてしまおうと考えていたが、妹紅が、「絶対に誰にも言わないから、この歴史を食べるのはやめて!」と血涙を流しながら言うので、彼女を信用して、そのままにしている。事実、彼女は私の性癖を他人に言いふらしてはいないようだった。家の中で二人きりでいるときに、胸やら腰やら尻やらに舐めるようなまとわりつくような視線を感じるが、まぁそれは気のせいだと思う。
というか、なんでここ3か月妹紅はずっとうちにいるんだろう。以前もよく遊びに来てはいたけど、生活の拠点は自宅のはずだったのに……。
「つまり、明日妖精どもがウチに来るから、私に帰ってほしいと」
「そういうわけだ。チルノ達には何が何でも、この家の惨状を見せるわけにはいかない。だから、妹紅――」
「わかった。服着るわ」
「ええええええええええええええええ」
妹紅はそう言うと、あっさりと服を着はじめた。え、ちょ。何だこれ。
「も、妹紅?! お前も裸族に目覚めたんじゃなかったのか?!」
「いや、違うけど」
「え」
「慧音が素っ裸なのに、自分がキッチリ服着てるっていう状況が、客観的に見て、どうしても耐えられなくて、まぁ家の中なら常識的な範囲で脱いでただけ」
「え、え」
「それと、私もある程度脱いでた方が、慧音が私にムラッときたときに、やりやすいかと思って」
「え、え。は?」
「それより、慧音、やばいじゃん。明日どーすんのさ。家について見回りした瞬間脱ぎだすくせに、妖精2人をウチに招待するなんて、無謀だよ」
妹紅の冷静な指摘に、私は我にかえった。そうだ。真に不本意ながら、妹紅は裸族に目覚めたわけではなかったらしい。ということは、つまり、チルノと大妖精をうちに招待するのに、一番の障害はこの私ということになるではないか。なんということだ。
「ま、そういう事情なら、私を家から追い出すなんてしない方がいいと思うよ? 慧音だって、フォローが欲しいでしょ?」
「うう……。すまん、お願いする」
「りょーかい。じゃ、慧音。早速だけど、はい」
そう言って、妹紅が私に布を差し出す。
「何だ? それは」
「襦袢。慧音のいつもの服に比べたら、締め付けゆるいし、これならいけるかと思って。とりあえず、これから慣らせば?」
「うむ……」
妹紅の言うとおりだ。問題は、私。そうであれば、私は問題を除去するために対策を練らねばならない。とりあえず、襦袢を着てみなければ。深呼吸をし、気合いを入れて、襦袢をはおり、袖口に腕を通してみる。
「どう?」
「うう、うううう……」
な、なんだこれは。家の中で衣服をまとうことが、こんなに息苦しいことだとは。脂汗が出てくる。ストレスがたまっていくのがわかる。なぜ大昔の私は、このような苦行に耐えられていたのだろう。全くもって謎である。
「む、無理だ……許してくれ、妹紅。耐えきれない。今すぐ脱ぎたい」
「その台詞を狙って言っているんなら、今すぐお望み通りにしてあげるんだけど、残念ながら今は無理ね。はいはい、我慢我慢。かわいい教え子たちのためなんでしょ?」
「あううう……」
そうだ。これは教え子たちのためだ。チルノと大妖精の、きらきらとした目を思い出す。好奇心と、学びたいとする意欲に満ち満ちた、宝石のような瞳。彼女たちの思いに応えられずして、何が教師か。何が里の守護者か。私は克服しなれけばならない。教師であるために、否、上白沢慧音であるために。私は奮起して、妹紅を見る。
「目を覚まさせてくれてありがとう、妹紅。今夜はとことん付き合ってもらうからな」
「ねえ慧音、ほんとにその台詞狙って言ってるんじゃないのよね? 天然なのよね? あああ畜生、どこまでも付き合ってあげるわよ!」
そう。私は生徒たちのために、服を着なければならない。
その夜は、なぜか血涙を流す妹紅と衣服に悪戦苦闘する私とで、ふけていった。
三
次の日。昼食を終え、しばらく経ったところで、チルノ達がやってきた。
「いらっしゃい、チルノ、大妖精。待っていたぞ」
「「おじゃまします!」」
いつもより改まった口調で、元気に挨拶をする二人の様子はとてもかわいらしい。ちなみに、私は現在、普段外に出るときに来ているワンピースを着ている。一晩妹紅と試行錯誤を重ねた結果、普段寺子屋で子供たちに授業をするときの格好の方が、まだ集中できると考えたためだ。そしてその作戦は成功だったようだ。脂汗はかいているものの、現在私は、自宅で着衣という飢餓地獄にも並ぶ苦行をなんとか耐えられている。
「そう、家に招待されたら、まずは挨拶だ。ふたりとも、よくできているぞ。さあ、居間はこっちだ」
二人を居間へ案内する。チルノ達は今のところ私に不審を抱いてはいないようだった。小さく安堵する。
「あれ、もこー!」
「え、妹紅さん? こ、こんにちは」
「いらっしゃい、二人とも。慧音と私の家にようこそ」
居間では、妹紅がお茶の準備をしてくれている。チルノ達は、私の家に妹紅がいるとは思わなかったらしく、驚いた顔をしていた。……ここは私と妹紅の家では断じてないはずなのだが……。
「もこうとけーねは一緒に住んでるの?」
「お二人は仲良しなんですね!」
「そうそう、私達は仲良しなの。でもこれは他の奴らには秘密よ、特に天狗あたりには要注意」
案外、妹紅はチルノ達となじんでいる。あまり他人とかかわりたがらない割に、妹紅は妙に子ども(彼女たちは妖精だが)の扱いがうまいと思う。教師向きかもしれない。
「ほらほら、妹紅。お客様に立ち話をさせるな。席をすすめんか。悪いな、二人とも。そこの座布団に座ってくれ。今お茶菓子を出そう」
「あ、待って、けーね」
「? どうした、チルノ」
「これ、おみやげ!」
そう言うとチルノは、コスモスの花を差し出してきた。桃色の花弁がとても可憐で、みずみずしい。
「ひとのうちに行くときには、おみやげがいるんでしょ? きれいな花なら、けーねもよろこぶと思って、大ちゃんとさがしてきたの! あんまりつむと怒られそうだから、ひとつだけだけど……」
「チルノ……大妖精……」
教師冥利に尽きる、とは正にこのことであろうと私は思った。花を受け取り、私は涙ぐみそうになる。よかった。チルノの願いを拒絶しなくて済んで、彼女たちをうちに招待して、着衣を我慢して、本当によかった。「ありがとう」と、精一杯の笑顔をつくって言う。チルノ達がはにかむ。私は幸せ者だ。
「これは活けておくことにしよう。ささ、みんな座ってくれ。頂き物のカスティラがあるんだ」
上機嫌で台所に入る。コスモスの花は、近くにあった花瓶に挿しておく。たしかカスティラは戸棚に置いておいたはず、ああ、あったあった、と手を伸ばしたところで、私は自分の身体の変化に気が付いた。
……服が脱ぎたい。
なぜだ?! チルノと大妖精の笑顔に触れて、先ほどまで痛いほどに二人を招いてよかったと、服を着ていてよかったと、本気で考えていたのに、なぜ、こんな衝動が。私は、教師としての喜びよりも、服を脱ぎ、自由で全裸であることに幸せを感じるような人間であったのか? 否。そんなことが自分の本質であるなどと認めたくはない。そしてあってはならない。私は、今日、二人の小さなお客様を家主としてもてなさなければならないのだ! 今、ここで、全裸になるなどと、絶対に、あってはならない!
「……っふ」
なんとか気合いで脱衣欲を抑える。汗が身体中に噴きだして、衣服がぐっしょりしているのがわかる。ああ、耐えられない。裸でさえあれば、汗を吸う衣服が肌に重なるこの不快感を味わうことなんてないというのに。ああ、わずらわしい。でも、衝動は抑えた。ここは私の理性が勝った。深呼吸をして、カスティラを皿に盛り、何食わぬ顔をして三人の待つ居間に戻る。
「お待たせしてすまなかったな。少々手間取ってしまって。皆甘味は大丈夫だよな? さあ、召し上がれ」
「わあ、ありがとうけーね!」
「先生、ありがとうございます!」
どうやらチルノと大妖精は、私が茶菓子を用意するには少々時間がかかりすぎていたことに対して、気にも留めていないようであった。きっと妹紅がうまくフォローして、気をそらしてくれていたのであろう。妹紅の方を向くと、彼女は明らかに目をそらした。これは、照れているときの仕草だ。私は嬉しくなって、お客様たちの目を盗んで、こっそりと妹紅に「ありがとう」と耳打ちする。妹紅の耳が一気に赤く染まった。こういうところは、千年以上も生きているのに、やはり少女らしく、かわいらしいと思う。私は微笑して、チルノと大妖精に向き直った。
「さて、お宅訪問の際のマナーだがな」
「あ、そういえばそうだった!」
私の言葉に、チルノはカスティラに夢中だった顔をあげた。その反応は正直予想通りであったので、私はくすくすと笑いながら話を続ける。
「ふふっ、チルノらしいことだ。しかし、まあ、私の見たところ、二人のお宅訪問のマナーは、なかなかのものだぞ?」
「えっ。そうですか?」
今度は大妖精が答える。私はうんうんとうなずいた。
「ふむ。まず訪問の時間に関してだが、時間ぴったりか、少し遅れて行くのが良いとされている。そして、手土産は、まあ、うちに来るのであれば不必要なのだが、たいていの場合、あったほうが無難だろうな。特に目上の者の家にお邪魔するのであれば、あった方がいい。そして挨拶。これは基本だな。そしてなにより一番大切なことは、家主との時間を楽しく過ごすことだ。今二人がしているように、楽しくお喋りをしたりして、な。チルノと大妖精は、今私が言ったことを、きちんとできていると思うぞ」
「ほ、ほんと? あたいたち、合格?」
「うん、合格だ。花丸をあげたいくらいだぞ。お前たちは、自慢の生徒だな」
私がそう言うと、チルノは少々大げさに喜び、大妖精は控えめではあったが、やはり笑顔をつくっていた。つられて私の頬もほころぶ。妹紅も同じようであった。実際、二人はお行儀よくお宅訪問ができていると思う。細かいことは、一気に教えても仕方がないし、おそらく覚えられないだろう。今日は授業というより、このまま女四人でお茶会を楽しんで、午後の時間を過ごした方が有意義だと思った。のだ、が。
「――っ」
「慧音?!」
再びの衝動に、私は湯飲みを落してしまった。ちゃぶ台に、飲みかけの緑茶が広がる。ああ、生徒の前でなんたる醜態を、はやく布巾を用意しなければ、と頭では思っているのに、行動ができない。妹紅が震える私の肩を抱く。「大丈夫か?!」と言ってくれているのがわかる。そう、私の肩は震えていた。自分を自分できつく抱いているのに、その震えは全く治まる様子を見せなかった。チルノと大妖精の顔が、みるみる青くなっていく。私は最低だ。大事な生徒たちを不安にさせている。そう理性では思っていた。なのに、ああ、それなのに、私は今、ひとつのことしか考えられない。
――服を脱ぎたい――
授業ではない、と気を抜いた瞬間、第二次脱衣欲が私を襲ったのだ。その衝撃たるや、台所で一人第一次を耐えたときの比ではない。脱ぎたい。今すぐ服を脱ぎたい。
最後の理性を奮い立たせて、私は脱兎のごとく居間を抜け出し、寝室に入った。襖を閉めるのももどかしく、脱いだ。青いワンピース、その下の白いアンダー、肌着。もちろん、靴下も。何も考えられなかった。服を脱ぐこと以外は、何も。お望み通り全裸になった私は、鎧戸を閉めているため昼間でも日の入らない暗い寝室で、茫然と、静かに涙を流した。
四
「慧音!」
「も、こ」
妹紅が寝室に入ってきた。同時に、後ろ手で襖を閉めてくれる。「大丈夫だよ、慧音」彼女は優しく言うと、私に寄り添う。
「チルノ達には、慧音は気分が悪くなった、って言っといたから、大丈夫」
「う、も、もこ……」
「わ、慧音、泣いてるの? 大丈夫だって、二人はただ心配してただけみたいだし、慧音のこの状況はばれてない――」
「なさけない、んだ」
大事な生徒に嘘をついて、駄目な自分を隠している、今の私の状況が。欲望を我慢できない自分がすべて悪いのに、妹紅に守られて、みじめに泣くしかできない、私が。呆れて、情けなくて、仕方なくて。
涙が止まらない。声を抑えなければ。寝室と居間は近い。せめてせめて、鳴き声だけはあの子たちに聞かれたくない。それは最後に私に残った、ちっぽけなプライドであった。
「あのさ、慧音」
「……?」
「あんま、気にしない方がいいよ」
妹紅は私を抱きしめる。なぜだ。私は情けない人間なのに、なぜこんなに優しくするんだ、妹紅は。わけがわからない。涙と激情で思考がまとまらない。疑問だけが、わく。
「慧音はさ、立派に先生、やってると思うよ。私はそう思うし、里の子どもたちも多分、そう思ってるよ。いいじゃない。家では全裸ってくらい、普通だよ。私の方が、トータルで見たらずっと駄目人間さ。ただでさえ慧音はおかたいんだもの。自宅でそうやってバランスとってくれてる方が、良いと思うよ」
「今日だって」妹紅は話を続ける。「今日だって、慧音は、頑張ってたよ。人間だもの、どうしても、我慢できないことって、あるよ。でも、我慢しなきゃいけないときも、もちろんある。今日はそのときだったんだよ。そして慧音は、その状況に、真摯に向き合って、打開策を見つけようとしていたと思うよ。だから、失敗したからって、そんなに自分を責めないで。だめだなんて思わないでよ。私、そんな慧音が好きなんだから、慧音が自分を責めてるの見るの、辛いのよ」
妹紅の言葉は、ひとつひとつ小さく優しい雨粒になって、私の心の柔らかい所に注ぎこまれていくようであった。そしてその雨粒は、涙になって、私の目からあふれてきて、妹紅のブラウスにしみこんでいく。水分を吸った衣服。先ほどはあんなに耐えられないと思ったというのに、湿った妹紅の服で包まれる私は、さほど嫌悪感を覚えなかった。
「……妹紅」
「うん?」
「ありがとう。今日は、その、いろいろと」
「気にしないで。慧音の役に立てて、私は嬉しいくらいなんだから」
「妹紅……」
私は嬉しくなって、妹紅のブラウスを強く握りしめた。妹紅もそれに応えるように、腕に力を込めてくる。細い腕。薄い背中。白い髪。妹紅のにおいがする。なんだか酔っ払っているみたいだ。正常な判断ができない。なんだか、いつもよりもさらに、妹紅が頼りになって、素敵にみえる。「慧音」と名前を呼ばれて、顔をあげたら、普段は白い頬を上気させて、瞳を燃やした妹紅の顔があった。近い。熱い。妹紅、お前も何かに酔っているのだろうか――?
「けーね!」
「けーね先生!」
ガラリと襖が開けられると同時に、私は妹紅を突き飛ばした。しまった。襖についたてをするのを忘れていた。先ほど脱いだワンピースで、急いで身体を隠す。涙目の妖精二人は、私の姿をみとめると、すぐに寝室に入り込んできた。
「けーね先生! 妹紅さんから、具合が悪くなったって聞いて……大丈夫なんですか?」
「あ、ああ、大丈夫だ。突然席をはずしてすまない。ホスト失格だな、今日の私は。もう大丈夫だから、二人は気にしなくていいんだぞ」
「ご、ごめんね、けーね。あたいたち、けーねが気分わるいの、きづけなくって……」
「ああ、チルノ、そんなこと気にする必要はないんだ。私の不摂生がいけないのだからな。万が一、お前たちに感染してしまっては事だ。わざわざ来てくれて申し訳ないが、今日のところはお開きにしてもらえないだろうか。本当にすまない」
多少の罪悪感を覚えながらも、私は二人に頭を下げる。生徒たちに嘘はつきたくないが、裸族がばれるよりはいくらかマシである。二人は、私の言葉に少しほっとしてくれたようであった。
「うん、今日はかえるね、けーね。ごめん。……ところで、けーね、なんで裸なの? なんでもこーは、部屋の隅でぴくぴくしてるの?」
「そ、それはだな。気分が悪くて、吐きそうになったものだから、とりあえず服の締め付けをなんとかしようと思って……妹紅は、その……」
苦しい言い訳をしながら、ちらりと寝室の隅を見る。確かに妹紅は、ピクピクと痙攣していた。そんなに突き飛ばしたときのダメージが大きかったのであろうか。申し訳ない。なんかぐすんぐすんと押し殺した鳴き声まで聞こえてくる気がするが、まあ、気のせいだろう。
「部屋に入ったとき、先生が妹紅さんを突き飛ばしたように見えたんですけど、妹紅さん、何かしたんですか?」
「いや! いやいやいや。も、妹紅は何もしていないぞ! 彼女は私を看病してくれていただけで、突き飛ばしてしまったのは、その、成り行きというか、ちょっと気恥ずかしくてな、つい、ははは。いや、なに、妹紅は蓬莱人だからな。心配しなくても、大丈夫だぞ、はは」
ああ、すまない。妹紅。でも今は、二人が帰ってくれることを優先すべきなのだ。許してほしい。
「ほんとに大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫。大丈夫。私もだいぶ気分が良くなってきたし、あとで妹紅の看病をするから、心配ご無用だ」
「たしかに、もこーは、最強のあたいには劣るけど、つよいから大丈夫かも」
「そう。そうなんだ。妹紅は強いからな。さあ、急かすようで本当に申し訳ないが、お前たちに悪い影響が出ないうちに、今日は解散にしよう。次は、一緒に人里のお茶屋さんにでも行こうな。じゃあ、また来週に」
「わかった! けーね、また来週ね!」
「先生、おだいじに。お邪魔しました」
早口でまくしたてる私を特に不自然には思わなかったのか、チルノ達は挨拶をすると、私に手を振りながら帰っていったようだった。玄関の戸の音がして、二人の気配がなくなったと同時に、私は文字通りやっと一息つくと、身体を隠していたワンピースを畳に落とした。ああ、疲れた。こんなに疲れたのは、先の異変で霊夢たちを相手にしたとき以来かもしれない。
「も、妹紅ー、大丈夫か? すまんな、思いっきり突き飛ばしてしまって」
「いいのよ、慧音。私は死なないんだから、これくらい、どーってことないわ」
四つん這いのポーズになって、妹紅の方を見やると、たしかに、彼女に目立った外傷は見当たらなかった。ただ、顔には涙のあとがあって、ついでに頬も耳も真っ赤で、なぜか鼻血を出している、というくらいであった。
「鼻血が出てるじゃないか、妹紅。今こよりを準備するから、仰向けになっておけ。すまないな、突き飛ばした際に、顔をぶつけてしまったのか……」
妹紅は女の子なのに、申し訳ないことをしてしまったと反省する。とりあえず布と薬箱を準備すべく、膝立ちになったところで、妹紅の鼻血の勢いが増したので、これはいけないと思い、私は急いで寝室を後にした。だから、妹紅が、「下からのアングルは、ヤバい……」などと呟いていたということなど、私は、露ほども知らない。
五
チルノ達がうちに来てから数日経ち。
結論から言うと、私が裸族だということはばれなかった。それはとてもありがたい事実なのだが、その代わりと言うべきか、ある噂に、私は悩まされていた。
「ねえねえ慧音さん、どうなんですか実際のところは。慧音さんが帰宅したとたんに戸締りをして、日も暮れないのに鎧戸まで全て閉めてしまうのは、やっぱり同居人の妹紅さんと――」
「何を言っているのですか、射命丸殿。私と妹紅はただの友人ですよ。こう言ってはなんだが、変な勘ぐりはやめていただきたい」
「いやいや、そうは言いましても、チルノさんたちからお話をうかがっておりまして。なんでも、お二人で暗い寝室にこもられて、しかも慧音さんはあられもない姿であったとか。いやいや。なんとも。羨ましいものですね、やはり若い人というのは――」
チルノ達は約束を守った。妹紅が私の家に住み着いていることを、彼女たちは他言していないようだった。しかし、寝室に二人が踏み込んだときの光景――あれは、やはり非常にインパクトがあったらしい。素直な彼女たちが、言い方は悪いが口八丁手八丁の天狗に根掘り葉掘り訊かれては、ぽろりとこぼしてしまうのも、いたしかたないことである。同居人云々言っているのは、きっと射命丸のかまかけだろう。そんな手にひっかかるものか。「失礼。急いでおりますので」と彼女を振り払う。射命丸も、追いかけてまで話を訊こうとは思っていないようであった。それはそうだろう。事実だとしても、ただのゴシップ記事にしかならない。彼女には、もっと重要な事件を記事にしていただきたいものだ。
家に帰り、念入りに戸締りをし、鎧戸を閉める。そして服を脱ぐ。いつも通りの生活。今日は台所から、「おかえり、慧音ー」と妹紅の声がする。のぞいてみると、彼女は再びさらしとパンツの姿に戻っていた。やっぱり妹紅も裸族の魅力に目覚めつつあるのではなかろうか。そうであればいいのに。
「今日はね、なんとヤマメが釣れたから、塩焼きにしたよ。あとは、お吸い物と、昨日慧音が作ってくれたおひたしの残りね」
「ありがとう。妹紅。ところで話があるんだが、最近天狗がうるさくてな。そっちには行っていないか?」
んー、と妹紅は考える仕草をする。
「ああ、来たよそういえば。慧音さんと同棲されているんですか? って。そうだよーって答えてもよかったんだけど、慧音の面子考えて、やめた。次来たら焼き鳥にするっつっといたから、多分もう私のとこには来ないんじゃないかな」
「なるほど。その分私のところに来ているというわけか……。参ったな。そこまで熱心ではなさそうだから、よいのだが、万一しつこく付きまとわれて、自宅でこの格好であることがばれては困る。噂が広がる前に、あのときのことを、食ってしまっておくべきかな」
「! だめ!」
冗談半分、本気半分で言った私の言葉に、妹紅が思ったよりも鋭い反応を示したので、私は少し驚いた。訳を尋ねてみる。
「だって、あのときの、寝室での出来事だけ、上手に隠せるの? 下手したら、チルノと大妖精がうちに遊びに来た歴史まで、隠すことになっちゃうかもしれないじゃない」
「む。それは困るな」
確かに、あの日があってこそ、私とチルノと大妖精(そして妹紅)はより深く心を通わせることができたと思う。あの日の記憶を食ってしまうことは、できれば、いや、絶対に避けたかった。――そうなると、射命丸の記憶自体をなんとかするしかないな。誰かに協力を仰いで、罠でもしかけるか。
「それに」
「ん?」
「それに、あのとき、慧音、私にどきどきしていたでしょう」
「――え」
「隠さなくっていいよ。わかってるんだから。あのときの慧音、かわいかったよ。素直で、泣きじゃくっててさ。あの歴史が消えちゃうのは、嫌だな。できればずっと、持っておきたいよ」
妹紅は笑顔で言う。そう言われてしまうと、弱い。今の妹紅の一言で、私はあの日の歴史を食うことが、金輪際できなくなってしまった。
「ああ、でも、もう慧音の家に人を招待するのはやめなよ。慧音、自宅では全裸じゃないと死ぬ病気にかかってるレベルだよ、もう。あのときは尋常じゃなかった」
「そうだな。正直、わたしもここまでとは思っていなかった。まるで、中毒患者の気分だったからな、あのときは。今度からは、なんとかごまかすことにしよう」
「そうしてそうして。私としても、慧音の裸を他の奴らに見せたくないのよ」
夕食の準備をしながら、妹紅が軽口をたたく。最後の台詞は、いつものように、聞き流しておくことにする。
裸で飯を食い、風呂に入り、床につく。朝になったら、堅苦しい服を着て、仕事に向かう。これが私の日常だ。誇れるものではなくても、こうでなければ上白沢慧音として生活できないことに変わりはない。妹紅は、そのことを私に教えてくれたのではないだろうか。そして、そのような私の生活を、そのまま受け入れてくれる他人がいるというのは、まったくもって悪くないものだと、私は思うのであった。
そうなったらもこもこで夜行きですね!
下からのアングルはヤバいらしいですし!
しかし裸族は理解できないなぁ。自分が汗っかくなので、最低限汗を吸ってくれるシャツが無いと不快感がマッハ。アンダーウェアって大事。
チルノと大妖精はこのくらいおとなしくても可愛いかもしれない。
女教師が家じゃ裸族なんて、いかがわしいDVDのようだ
1さん
裸族さまこんばんは! 裸族さまにみてもらえて幸せです! でも、正直この慧音、病気ですよね…
4さん
全裸のけーね先生が立て膝状態なのを斜め下からじろじろ見れますからねー。そりゃあ鼻血くらい出ますよねー。もこもこしたかったけど、できませんでした。いつか書く。
アンダーウェアは大事ですね!
5さん
もっと突っ込んでください! ありがとうございます!
はっちゃけ悪ガキチルノもいいけど、これくらいのけなげなチルノが好きなんです。
7さん
慧音+裸族は、個人的に、東方キャラの中で一番いかがわしい組み合わせだと思います。次点はイクさんかな。パチュリーも上位かも。
8さん
先生はがんばりました! もう…休め!
私は! けーね先生が! 好きなんです!(まがお)
12さん
このもこたんはけーねにとてもなついていて、彼女の役に立とうと頑張る、という設定です。
だからこそ、けーねはのびのび全裸でいられたのです。
14さん
案外裸族の方って多いんですかね? ちょっとびっくりしています。
共感とかめっちゃうれしいです。
調べてみたら、昼間は社会で真面目に働いている人が
抑圧から解放されたいという深層心理から
家では裸になりたいと言う欲望が生まれるとか。
寺子屋の教師であるけーねにはぴったりの話ですね。
絵面的には18禁なんだけど、謎のほのぼのとした空気が楽しかったです。
文章もうまくて、こんなトンデモ話なのに説得力?がありました。
裸族の人がこんなに多いとはマジで思っていませんでしたwww
この話は、駅で電車を待っているときに思いついたものでして、ギャグのような、まじめな話のようなギャグとして書いたものです。地の文を慧音の一人称にしたのは、慧音がなんで全裸でいたいのかを彼女の口から説明させたかったためです。あと、極力エロくならないようにするため。
なぜこんな返事になっていないコメント返しになっているかというと、あなたのコメントがとてもうれしくて、この話書いてよかったな~とほんとに思えたからです。ありがとうございます。
23さん
手軽に読めて、ちょっとくすっとしてもらえるようなSSを書けるようになりたいです!
嬉しいコメントをありがとうございます。
もこたんは人当たりはそれなりにいいけど、根は割と自己中だと思うんですよね。
けーねのために役立とうとするのも、自分のためなのかもしれません。
ギャグとしてはやや弱いかもしれませんが、
逆に普通にいい感じの話になっていてかえって良かったかもしれません。
慧音はこれはもはや病気というか、永遠亭に行ったほうがいいと思うよ。
コメントありがとうございます!
なんかギャグの皮をかぶった普通のほのぼの話になってしまったことを見抜かれてしまった気がして胸が苦しいです。恋かもしれない。けーねせんせいはけんこうだからだいじょうぶです。
35さん
ものすごくうれしいお言葉です!また頑張ってSSを書こうと思います!