高峰より高く、雲海より尚広く。
――ここは色無き地、天界。
その一角、比那名居の屋敷にて。
「あーもー! 疲れたんだけど!」
文机にばさりと書物を投げ出すようにして置き、天子は椅子の背もたれに力なく寄りかかった。
そんな彼女に、衣玖は思わずため息が出そうになるのを堪える。
「そのようなことではいけませんよ、総領娘様。ちゃんと学問を修めねば――」
「天人として相応しくなれない、って言うんでしょ? 聞き飽きたわよ、それ」
天子は首だけを回して横を向き、衣玖のほうを見てくる。
「どうでもいいわ、天人としての相応しさなんて」
「そんなことを仰ると、お父上が悲しまれますよ」
「むぅ……」
口を尖らせながらも、天子は押し黙る。
いかに気儘で我儘な不良天人とて、父親を持ち出されると弱いようで、お目付役としては大いに助かるところであった。
衣玖は天子を促す。
「さあ、本を開いて。早いところ終わらせてしまいましょう」
「簡単に言ってくれちゃうけどさ、こんなのが全部頭の中に入るわけないじゃない」
天子が指し示した文机の上には、諸子百家の典籍が山と積まれていた。
衣玖としても、これをひたすら覚えるのはさぞかし骨の折れることだろうとは思うが、だからといって引き下がるわけにもいかない。比那名居の長――即ち天子の父親から、娘を頼むと言われているのである。
「少しずつでいいのですよ、少しずつで。まずは手近なところから始めるのです」
「はぁ」
「ちなみに、そういったことを『老子』ではどのように著してあるでしょうか」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待って!」
天子は慌てて身を起こし、積まれた本の中から一冊を手にとって捲り始める。
ほどなくして目的の頁を見つけたのか、顔を上げた。
「えっと、『合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。』かしら」
「おお、正解です。大木も小さな芽より生じ、建物も土台を盛ることから行い、千里の道も足下から始まるというわけですね」
「ま、まあ楽勝ね、これくらい」
得意げに胸を張る天子に、衣玖も微笑む。
書名を示したのはヒントのつもりだったが、それでも調べるのはかなり早くなった。
少なくとも、「こうし? 牛の仔のこと?」などと聞き返してきた頃よりは、ずっと成長しているはずだ。
覚えたての故事成句を忠言と称して示したがるのも、幼子のようでなかなかに愛らしいではないか、と衣玖は思ってしまう。
「ねぇ、衣玖ぅ」
「なんですか?」
「ちゃんと正解したんだし、ちょっと休憩してもいいでしょ?」
座ったまま上目づかいでそう頼んでくる天子に、衣玖は「駄目です」とは言えなかった。
朝からずっと机に向かっていたわけだし、そろそろ小一時間ほど昼の休憩を挟むのも悪くないだろう。……決して天子の仕草や目つきに籠絡されたわけではない。
「わかりました。では、続きは一時間後としましょうか」
「うん。――じゃ、お昼寝するから出てって」
「えっ」
「ん? どうしたの」
「……いえ、それではいったん失礼致します」
部屋にとどまる理由があるわけでもなく、衣玖は仕方なしに部屋を後にしたのだった。
そして一時間後。
《休憩中につき、無断で入ったら要石》
「……ふむ」
戻って来た衣玖が目にしたのは、部屋の扉に貼られた、そんな貼り紙であった。
達筆な文字に、バイオレンスな内容。
勝手に入ってきたら要石出すぞ、と。
先ほどの愛らしさはどこへ行ったのかと言いたくもなる。
「総領娘さまぁ~?」
冗談だと思いたいところだが、あながちそうとも言い切れないのが怖いところだ。
それに天子の寝起きの悪さは、経験上衣玖もよく承知している。
なので、扉の前にてそっと名前を呼ぶだけで一旦引き下がり、そして五分後。
「総領娘さま~」
さらに五分後。
そのまた五分後。
と繰り返し、はや三十分ほどが経過している。返事は一向にない。
「……熟睡していらっしゃるのかしら」
ちょっと仮眠を取ろうと思ったら、いつの間にか陽が落ちている。まあ、よくあることだ。
天子も、ああ見えて彼女なりに気苦労もあり、疲れが溜まっているのかも知れない。
だが、甘やかしてばかりもいられない。ただでさえ、碌な修行もせずに天人となった彼女は、精神面での修養が不足しているのだ。なんでも言うことを聞く者が傍にいるだけでは、天子のためにもならない。
「よし!」
心は決まった。
衣玖はごくりと喉を鳴らすと、扉に手を掛けゆっくりと開く。奥で膨らんでいる布団が見えた。入口からでは、天子の顔までは見えない。
「総領娘様ぁ~?」
そっと呼び掛けるも、布団に動きはなく、部屋の中は静まり返っている。
衣玖は床の上につま先を立て、ぬき足、さし足、しのび足。そうして布団の傍まで近寄ると、掛け布団の端に手を掛けて、
「では寝顔拝け――じゃなくて、勉強の時間の続きです!」
がばっ!
勢いよく布団を引っぺがした。
衣玖は思わず、そこへ現れたものに視線を奪われる。
「あぁ……」
それは瑞々しく、艶やかで。
ほのかに朱に染まり、ふっくらと丸みを帯びた――
山盛りの『桃』だった。
ご丁寧にも、人型に並べられている。
「やられた……」
衣玖はがくりと両膝をつき、うな垂れたのであった。
「楽しかったねー!」
「ねぇ~♪」
人里、中央通り。
そこでは可愛い行列が生まれていた。列を先導するのは慧音で、後ろには二列に並んだ子供たち。微笑ましげな里の人々の視線を受けながら、慧音は晴れ晴れとした表情を浮かべる。
楽しげに並んで後をついてくる子供たちを振り返り、慧音は呟いた。
「よかった……本当に」
喜びの中に疲れが見え隠れする、そんな声音であった。
慧音が行っていたのは、課外授業。柔らかく言うと遠足だ。
子供たちを連れ寺子屋を飛び出して、外で実際の経験を通じて幻想郷を学ぶ。いつも話が難しくて分かりにくいと言われているから、慧音なりにその打開策を考えた結果でもあった。
人里の外での安全を確保するため紅白巫女の助力も取り付け、色々と話し合った末に今日の遠足が実現したのである。
慧音は、何気なく空を見上げた。初夏の青空は今の心境を映したかのように澄み切っている。
振り返ってみれば、遠足の日程の候補について霊夢がダメ出しをした日には、全て雨が降っていた。
「この日は止めておいたほうがいいわよ。なんとなく」などとのたまう霊夢に、慧音は内心大丈夫かと不安になったものだが、巫女の勘を信じたのは正解だったようだ。
それにしても、この梅雨時期に、晴れた日を当てるとは見事としか言いようがない。
「はは、本当にすごいなあいつは……」
「せんせーどうしたのー?」
「あ、いや、ちょっと考え事をしていたんだ。今日の宿題をどうしようかとね」
「えぇ~~」
好天に恵まれた課外学習は、霊夢の結界のおかげで安全に終えることができた。
後は感想文でも宿題に出して、今日はここで解散しよう。
慧音がそのように考え、子供達に向けて口を開きかけた瞬間だった。
ふわり、と。
慧音の足の裏が何かに持ち上げられる。
あまりにもわずかで、気のせいとも受け取れる感覚。
しかし、それは錯覚ではなかった。
「――――!」
続けざまに大地がわずかな唸りを上げたのだ。
うねるように揺れ動く大地。
それを敏感に察した子供達の悲鳴。
慧音は瞬時に判断する。
地震だ、と。
「皆! 動くな! このまま道の中央に集まるんだ!」
慧音は最悪の事態を想定し、子供達を中央通りの中央へと集める。
このまま揺れが強くなれば、下手をすると建物の倒壊が起きるかも知れなかったからだ。
だが、幸いにもその最悪な事態が発生することはなかった。
「おさまった、か……?」
その揺れは歩いている里の人間を驚かせただけ。ほんの十秒にも満たない時間の後、何事もなかったような静かな里の風景が戻ってくる。
「せ、先生ってば大袈裟~」
ほんのわずかな揺れだったことに安心した子供達が、慧音をからかいはじめる。そんな子供の声を聞いて、慧音はわずかに肩を跳ねさせて、
「は、ははは、驚かせてすまなかった。だから今日は宿題なしで、ここで解散するとしようか?」
「ほんとっ!」
思いもよらない慧音からの言葉に、子供達はおおはしゃぎ。
「じゃあ、みんな、さようなら」
『先生、さようなら』
代表の子供の掛け声の後、慧音に一礼をしてから我先にと駆け出していく。その姿を見送ってから、慧音も子供達と同じように駆け出した。
半人半獣であるからこそ感じ取れた、確かな違和感。
地震発生と同時に人里の南のほうで生まれた、霊力とも妖力ともつかない奇妙な力の流れ。その力の本源へと向かった。
その力の中心に『ナニカ』がいて、その『ナニカ』が大地を揺るがすほどの力の持主であるのならば、人里で即座に対応できるのは慧音くらいしかいない。
慧音は地を蹴る速度を上げながら、また霊夢の言葉を思い出す。
――たぶん、持つんじゃないの?
何気ない調子で、彼女はそんなことを言っていた。
霊夢がもし、このことを感じ取っていたというのなら……
「……まったく、規格外にも程がある」
慧音はそう呟いて、里の南側、広大な農耕地帯へと急いだのだった。
◇ ◇ ◇
「これは……」
眼下の惨状に、衣玖は思わず眉をひそめた。
抜け出した天子が向かう先としては地上しか考えられまいと慌てて飛び出し、まずは人や妖怪の立ち入りが多い人里を調べようとした矢先のことだ。
予想もしない光景が目に飛び込んできたのである。
人里南の農耕地域。
普段ならば、きらきら光る水面に薄い緑が浮かんだ水田と、耕された畑の茶色のコントラストが美しく、空から眺めるだけで癒される風景であるはずの場所。
その一区画が、本来の穏やかな田園とは真逆の状況に陥っていた。
農業に利用していた河川が氾濫したのだろうか。
川沿いの田が濁流に次々と呑み込まれていく。波紋が広がるように、その勢いは止まることを知らない。
衣玖が眺めている間にも放射状に被害区域が広がっていき、ついには水に浸かっていけない畑まで到達してしまった。
「梅雨ですからね。ご愁傷様ですとしか言えませんが……」
この時期に災害が発生するのは仕方のないことだ。長く生きてきた衣玖はそれをよく分かっている。幻想郷の治水は河童が主導で行っているのでかなり質が高いが、それでも相手は自然そのもの。すべてを抑え込むなど不可能なのだ。
それに今年は雨が多かった。
実際に地上で見たわけではない。しかし普段から雲の中で泳いでいる衣玖は、落ちていく水量が多いことを知っていた。それが地上で恵みの雨になることも、災害を引き起こすことも。
「気の毒なことではありますね」
水田や畑に近い河川は、農業のために人の手が入っている。川縁でも十分な深さがあり、大人の腰くらいは余裕で呑み込んでしまうほどだ。
ところが、何気なく川を見やった衣玖は、その水量をみて首を傾げた。あまりにも少な過ぎるように思える。
どちらかというと、水不足と言われたほうが納得できる水量だった。
「はて?」
川が流木か何かで詰まっているのだろうか。
衣玖は顔を上げ、上流のほうへと視線を向ける。
少し離れたところにその原因らしきものが見え、衣玖は言葉を失った。
「……」
大人四、五人が両手を広げたほどの幅の、人工的に整備された川。
その流れをおもいっきり堰き止め、水を溢れさせていたのは、上流から流れてきたものではなく――三メートルはあろうかという、岩の柱。
円柱状のそれが五本、川すら破壊せんと言わんばかりの勢いでそそり立っていた。
「え~っと……?」
明らかに地面から隆起したものと思われる『ソレ』を見て、衣玖は背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
その無骨な円柱に見覚えがあるというか、こういったことができる人物に心あたりがあるというか。
未だに水を溢れさせ、被害を拡大させつつある『ソレ』。
衣玖は青い顔のまま乾いた笑い声を漏らした。
「は、はははっ、まさか、そんな……」
いくらあのお方が、我儘とはいってもこんなことをするはずがない。
自分にそう言い聞かせ、視界から『ソレ』を追いやるように回れ右すると、
「うわ、衣玖っ!?」
見覚えのある天人の姿が視界の中に入った。
青い髪が空中で大きく広がり、スカートが翻っているところからして、こちらを見つけ急停止しようとしたのがよくわかる。
もう、その仕草だけで衣玖は理解した。
わかりたくないけど、わかってしまった。
衣玖は空中で固まる天子へと怒声を飛ばし、その動きを縛る。
「総~領~娘様ぁ~!」
ばち、ばちっ、と。
衣玖の全身が光を帯び、弾けるような音が響き始めた。
移動速度だけで言えば衣玖は遅い。天子が逃げようと思えば余裕で逃げられるほど距離が離れていた。
けれど衣玖が放つ雷はまさに言葉通りの電光石火。しかも発光状態ということは、掛け値なしの本気である。
「ちょ、待って! わかった戻す、今戻すわよ!」
その衣玖の射程内に入ってしまっていた天子は、慌てて両手を左右に振って逃げる気のないことをアピールし、
「そーれっ!」
力を込めた右手を大地へ向けて振り下ろす。
その直後だった。
周囲の地面がゆっくりと揺れ始め、川の流れを断っていた柱が見る見るうちに大地の中へと戻っていく。そして水しぶきを上げていた川も、本来の流れに戻っていった。
「総領娘様、どうするのですかこれ」
「こうなっちゃったものはしょうがないんじゃない?」
「しょうがないって、そんな……」
残されたものは、水に浸かりきって荒れた田畑。
そして、
「この腐れ天人ッ! 降りてこい!!」
鬼のような形相をした農民たちの、底知れぬ怒りであった。
「なんてことをしてくれたんだ!」
「も、申し訳ありません! 皆様のお怒りは当然とは思いますが、どうか落ち着いてこちらの話を……」
いつの間にか集まって来た農民たちに囲まれ、衣玖はあたふたと天子を庇うように頭を下げて回る。そうしなければ今にも飛び掛ってきそうなほど、農民達はいきり立っていた。
しかし天子を見つけたばかりの衣玖は、彼女が水を堰き止めるまでの行動を知らず、弁解のしようがない。だから天子に視線を向けるが、
「ふーん、せっかく降りてあげたっていうのに、大の大人が私みたいな女の子を囲んで意気がるわけだ」
「総領娘様っ!?」
あまりの物言いに衣玖の声が裏返る。
火に油、どころか灼熱地獄に死体。
怒り心頭状態の農民を前にしても、天子は平気な顔で腕を組むばかり。
「私は、恥ずべき行動をとったつもりはない。よって謝る必要はないわ」
「俺達の農地を無茶苦茶にしておいて! そんな理屈が通ると思ってるのか!」
「しょうがないじゃない」
「言うに事欠いて、しょうがないだと……?」
殺気立った農民らの一部は、手にしていた鍬を衣玖達に向ける。
「や、やめてください、こちらは戦う意志などありません! 総領娘様も、ちゃんと理由を!」
多少我儘なところはあるが、天子は決していい加減な動機では能力を使わない。衣玖はそう信じていた。川に岩の柱を突き立てたのにも何か理由があるはずだ、と。
「……ふんっ」
しかし、天子は腕を組んだまま鼻を鳴らすばかりで、まったく語ろうとしない。衣玖が体を揺すって頼んでも、平然とした態度を変える様子はなかった。
そうなると、収まりがつかないのが農民達である。
「責任を取って、この水浸しの田畑をなんとかしてくれるんだろうな?」
「そうねぇ、貴方達が素直に頭を下げて頼むなら、考えてあげないでもないわよ」
罪悪感の欠片も感じられない物言いをする天子。
彼女に向けられる農民達の怒りはますますエスカレートしていく。
実のところ、人里の農民らにとって、天子への遺恨は今回の事件についてのみのことではなかった。天を緋の雲が覆い、様々な異常気象を引き起こしたという緋雲異変。先年の夏に起きたその異変は、その年の作物の収穫にも少なからず影響を及ぼしていたのだ。
異変の犯人は阿求の書物や天狗の新聞、そして人々の噂話によって広まっていき、一時の間皆の話の種となって、そのうち忘れ去られる。……被害者以外の多くの人々には。
天子や衣玖は知る由もなかったが、そうした経緯もあって、彼女らは元々農民達から好ましく思われていなかったのである。
双方のにらみ合いがしばらく続いたその時。
農民の一人が、
「はん、剣といい。その妙な能力といい。他人に迷惑を掛けるだけのクソだな!」
「――!」
地雷を踏んだ。天子の顔色が瞬時にして変わる。
衣玖は知っていた。天子に対して、決して馬鹿にしてはならない二つのものがあることを。
一つは家族であり、もう一つは――彼女の能力である。
立場上、無理やり天人になった身の上であり、常々周りから不良天人と揶揄されてきた天子は、自らの能力を自身の存在意義と見做すところがあった。それを誇りと呼ぶか、依存と呼ぶかはともかくとして。
天子の様子の変化を察したのか、農民達は途端に獰猛な笑みを浮かべる。
怒りに任せ、相手を傷つけてやりたいというような笑みだった。
彼らは聞えよがしに続けた。
「いやいや、そんな事言うなよ! 肥料になるぶんクソのほうがこいつの能力よりましだぜ!」
「悪ぃ悪ぃ、クソに失礼だな。おう、クソ以下天人! なんとか言えってんだよ!!」
「……上等じゃない」
農民らの言葉によって、天子の目が細く尖っていく。
衣玖は慌てて天子に正面から抱きつき、腕を回して両肩を掴んだ。
「何をなさるおつもりですか! おやめください!」
「衣玖? 今のは私個人に向けられた悪質で低俗な暴言よ? なぜ我慢する必要があるというのかしら。さあおどきなさい。それとも、貴方もまとめて駆除すればいいの?」
「こっちこそ上等だやってみやが――」
売り言葉に買い言葉。
もう限界だ、と衣玖は諦めて息を吐く。
天子が本気になれば電撃でも簡単に止まらないことを知りながらも、体内にできる限り力を集め、
「――やめないかッ!!」
放出しようとした、その時だった。
きんっと。
大気を大きく震わせるほどの声が、その場を一瞬にして鎮める。
いや、無理やり黙らせたと言うべきか。
「まったく、お前たちがそんなだから。この子が怯えていたぞ」
「け、慧音先生……」
一人の幼い男の子を連れた慧音が、苦笑しながら農民たちの輪を割っていく。
慌てたように近寄る、薄い髭を生やした男の額を、慧音は軽く小突いた。
「着物がずぶ濡れになっている。さっきの水のせいかも知れないが、後でちゃんと着替えさせてやれ。それに、だ。父親ならあの天人に文句を言う前に子供の心配をするべきだと思うが?」
「す、すみません……」
「こら、謝るならその子に対してだろう? それとお前達、その子が怯えるからあまり怖い話はやめてくれないか」
男の子を父親らしき男に引き渡した慧音は、周りに視線を向けてため息を吐く。
子供と慧音の前で乱暴な姿を見せるのが恥ずかしくなったのか、農民たちは押し黙り、不満そうな瞳だけを天子へと向けた。
「あのな、今争ってもお前達に何の得もないだろう。また天人を怒らせて、せっかく残った農地までもダメにするつもりか? 納得はいかないかも知れないが、今日のところは私の顔に免じて引いてほしい」
「しかし、先生!」
なおも食い下がろうとする農民らを宥めるように、慧音は頷いた。
「私は今しがた来たばかりだが、おおよその状況は察している。そこの天人がこんなことをした理由もわからないのでは納得できない。そういうことだろう?」
「……」
「いずれにしても、この場で冷静な話し合いをすることは難しそうだ。理由を聞くにせよ、賠償の請求をするにせよ、落ち着いてから後日に改めて話し合いの場を設けるほうが良いのではないかな。……そちらのお二方はどうですか?」
そう言って、慧音は衣玖達を見てくる。
突然現れ、一気に場の空気を変えてしまった慧音という人物の影響力。それに驚きながらも、衣玖は安堵の息を漏らした。
――この場はこちらが抑えるが、後ほど問うべきことは問うぞ。
平和的に解決しようとしながらも、全面的に譲ったわけではない。
慧音の采配に感心しながら、衣玖は天子の身体から手を離す。
天子からも、先ほどまでの力が抜けているようだった。
「わかりました。こちらとしても、総領娘様が落ち着かれてからのほうが都合良いですし、後日の話し合いには応じたいと思います」
「では、私が窓口となりましょう。その際には、冷静さと責任ある対応を期待しても?」
「ええ。総領娘様もそれでよろしいですね? このことは総領様にも報告致しますから!」
「……勝手にすれば」
強い口調で衣玖が咎めると、天子は口を尖らせ、するりと衣玖の横をすり抜けて飛び上がった。
「ああもう! 総領娘様!」
呼んでも、まるで速度を緩めずに飛んでいくところを見ると、そのまま天界に帰るつもりなのだろう。
そんな天子の代わりに、衣玖は慧音に対して深々と頭を下げる。
「申し訳ありません」
「構いません。貴方さえいれば交渉も可能のようだから。随分と損な性格をなさっているようだが」
「はは、よく言われます。改めて名乗っておきますと、私は永江衣玖。総領娘様の……教育係のようなものです。そして総領娘様は――」
「ああ、大丈夫です。阿求殿の文献や歴史から、知識としては持っているので。私の名は上白沢慧音。人里で自警団の真似事と、寺子屋の教師を務めております」
先ほどからの落ち着いた物腰は職業柄だったのか、と衣玖は内心で納得する。
「連絡は早いほうがいいでしょうから……そうですね、明日にでも。総領娘様と共に、再度こちらへ伺いますので」
「承知しました。明日は午後から授業なので、午前中なら寺子屋で準備をしております」
「ええ、ではその頃を見計らって。それでは、失礼致しました」
周囲で様子を窺っていた農民らに対しても深々と頭を下げ、衣玖は空へと昇っていく。
小さくなってゆくその後ろ姿を見送り、それから慧音は周囲を見渡した。
「言いたいこともあったろうに、我慢させて本当にすまなかった」
「頭を下げないでくれ、慧音先生。先生は俺らや里のために場を収めてくれたんだろ……。それくらい今の俺達でもわかる」
「そうか……ありがとう」
慧音の冷静な判断により怪我人も、二次的な被害も出さずにすんだ。それだけを良しとして、農民達は農地の復旧作業へと戻って行く。
慧音も今日の課外授業についてまとめるため、挨拶をして去っていった。
一難あったが、やっと普段の風景が戻り始めた。
そう見える中で、
「あいつらが明日も来るだと? 冗談じゃねぇ……」
怨恨の炎は、静かに燻り続けていた。
◇ ◇ ◇
「イヤっ」
ぷぃっ
「そ、総領娘様、そうおっしゃらずに」
「絶対イヤっ」
翌日の朝食後。
部屋へと向かった衣玖を待ち構えていたように、天子がジト目で睨んできた。
敷き布団の上でうつ伏せに寝転び、顔の前で枕を抱きしめる。
どこからどう見ても不貞腐れ状態。
不機嫌さを全身で表現しつつ、天子は右足をばんっと布団の上に叩きつけた。
「私は絶対に謝らない。だって私は悪いことなんかしてないんだから!」
「しかし総領様も、非はこちらにあると……」
「あれは衣玖がそうやって告げ口したからでしょ。私を悪者にして!」
「そんな、告げ口などと。私は業務上仕方なく、客観的に報告したまで。悪意などこれっぽっちも」
「……どうだか」
衣玖は肩を落としつつ天子の目の前に回りこんで正座し、真剣な瞳で天子を見下ろす。
その視線を受けた天子は、枕で半分ほど顔を隠した。子供じみた仕草ではあるが、それでも衣玖の言葉を聞く気はあるようだ。
天子の心に届くことを願い、衣玖は真面目に言葉を紡ぐ。
「私は総領娘様のことを信じたいと思っております」
「……」
「微力ながらも貴方の世話係として、これまで共に歩んできました。学問も礼法も、総領娘様は何だかんだ言いながら、頑張って修められていますね」
「……」
「私の申し上げた様々な話も、総領娘様は理解して下さっていることでしょう」
特に前回の異変が終息してから、衣玖は口を酸っぱくして述べてきた。その力を安易に揮うことは許されない、それは力ある者の義務であり責任なのだ、と。
天子もそのことはわかってくれていると、衣玖は信じていた。だからこそ、改めて問うた。
「――どうして、あのようなことを?」
天子は口元を枕に押し付け、無言のまま。
こんなことはいままでなかった。
自分の能力に誇りを持つ天子は、それを使用したときは常に自慢げに語ったものだった。それが周囲にどんな影響を及ぼしたとしても。
異変の時でさえ、父親から叱られながらも胸を張っていたくらいなのだ。
しかし、今回はいままでと明らかに違う。昨日からずっと押し黙ってばかりで、語ろうとする素振りさえない。
「総領娘様」
衣玖が呼び掛けると、
「……言いたく、ない」
天子は苦しそうに、ぽつりと呟いた。
衣玖は、細く長い息を吐く。悲しみと、どこか安堵の混じった息。
「言いたくない」と天子は答えた。何か事情があるのだ。
それが、もたらされた被害と秤にかけてなお肯定されるほどのものなのかはわからない。
だが、彼女は決して面白半分に能力を使ったわけではないのだろう。甘いと言われるかも知れないが、そのことがわかっただけでも衣玖は嬉しかった。
「そうですか、わかりました。でも」
衣玖の言葉に、天子は不安そうな視線を向けてくる。
「被害に遭われた農家の方々には謝らねばなりませんよ」
「……なんで? お父様の前でもそう言ったよね。私は別に何も――」
天子の言葉は尻すぼみになり、震えて消えてしまった。
瞳を潤ませ、上目づかいで衣玖を見上げるようにしてくる。
衣玖は深呼吸をして気を落ちつけると、口を開く。
「え~っと……それでは喩え話をしましょうか。仮に、ですよ? 私が総領娘様の大事になさっている帽子を燃やしたとしましょう」
天子は一瞬ムッとした様子で眉間にシワを寄せる。
しかし、あくまでも喩え話だと衣玖が念を押してやると押し黙った。
「燃やした理由としては、帽子が呪われていたから処分したとか、そういう感じです。何でもいいんですけどね。総領娘様に害を及ぼすものだったから善意で処分した、と。でも、その事情を総領娘様が知らなかったとしたら? どうされます」
「荒縄で縛って三日三晩桃の木に吊るしておくわ」
「……」
やっぱり信じるのやめようかな、と思う衣玖であった。
が、怒りという感情を引き出せたのは成功だ。
「この場合、何故帽子を燃やしたのかというわけを説明できれば、それが一番良いのでしょうが……」
と衣玖は天子を見る。
天子は黙ったまま首を横に振った。
軽くため息を吐いて、衣玖は続ける。
「理由を言えなかったとしても、最低限できることはありますよね。どんな動機にせよ、帽子を焼失させてしまったことには変わりないわけですから」
「……そうね」
天子は軽く瞳を閉じ、枕に向けて小さく息を吐いた。
衣玖の言いたかったことは、たぶん通じたのだろう。ただ、天子は何かを躊躇うように視線を彷徨わせる。
強気のときは衣玖がどれだけ言っても突き進むのに、一度迷い始めるとなかなか一歩を踏み出さない。そんな彼女の背中を押してやることこそ、教育係の務め。
衣玖はこほん、とわざとらしい咳払いをした後、畳の上で正座したまま身を引き、
「……申し訳ありませんっ!」
「え?」
思いっきり頭を下げた。
畳に額を打ち付けるほどの勢いで。
何事かと瞬きを繰り返す天子に、頭を下げたまま大声で話し始める。
「実は、昨日! 貴方の了承を得ずに、今日人里へ赴くことを約束してしまいました。しかも総領娘様も一緒に連れて行くと! ですから、総領娘様! ここはこの哀れな衣玖を助けると思って!」
「……衣玖」
下手な演劇の三文役者以下。
ふざけているとしか思えない声音であっただろう。
だが、不器用な天人の娘を動かすのには、これくらい不器用な方法のほうが丁度いい。
「そうねぇ、うん。それならしょうがないかしら」
「総領娘様……!」
天子は枕から顔を離し、楽しそうにくすくすと笑い始め、やがて布団から身を起こす。
「わかった。わぁ~かったわよ。衣玖の結んだ約束を反故にするわけにもいかないし」
「ならば」
「人里へ一緒に行く。それでいいんでしょ?」
「はい、ありがとうございます!」
「ああもう、いちいちお礼とか要らないって……」
天子は朱に染まり始めた頬を隠すように、そそくさと衣玖に背を向け。
「……悪かったわね」
ぽつり、と小さな声で呟いた。
それは、何に対する詫言だったのか。衣玖は苦笑交じりにため息を吐いた。
「そうやってしおらしい態度でいるときだけは、魅力的なんですけどねぇ」
パッと振り返った天子が、枕を振り上げる。
「衣~玖~!」
「では、お先に~」
「こら、待ちなさい!」
からかう衣玖を追って、天子も部屋から出てくる。
そして二つの影は地上へと向かっていった。
道中、衣玖は昨日の慧音とのやり取りを掻い摘んで説明し、農民達に余計な刺激を与えぬよう、寺小屋の慧音のところへ直接向かうことを天子に告げる。
「いいですか、絶対に争いごとはいけませんからね! 昨日みたいな!」
「あれは、あいつらが私の能力を馬鹿にするから……」
「ダメですからね!」
「はいはい」
衣玖は人里側との衝突を避けるようにと、繰り返して言う。
天子のいい加減な返事に一抹の不安を覚えつつ、衣玖は眼下に見えてきた人里の中心部へと向かって降下を――
「んぐっ!?」
と、その時。
少し後ろを飛んでいた天子が、いきなり衣玖の襟を掴んで後ろに引っ張った。
ちょうど首根っこの後ろの部分を、ぐいっと。
「――っ!」
何をするのかと文句を言おうとしても、衣玖の喉から出るのは呻き声のみ。天子は襟を掴んだまま、衣玖を自らの後ろまで引っ張った。
「ねぇ衣玖。さっき、争いごとはダメって言ってたけれど」
そして、むせる衣玖を尻目に、人里と天子たちの間に浮かぶ奇妙な影を指差した。
「こういった場合は、どうすればいいのかしら?」
ふたりに向けて、尋常でない気を放つ影。
そんな相手から衣玖を守るように、天子がすっと空中で前に出た。
「総領娘様……」
殺気にも似た獰猛な敵意と、相手を射抜く肉食獣のような瞳。
その姿からは、人里側との平和的会談が行われるという雰囲気は微塵も感じられない。
まさに一触即発。ここで下手をすれば、人里側との全面抗争もありえる。
衣玖の脳裏に最悪なシナリオが描かれ始めた時、その影が雄叫びを上げた。
「人里に仇なす極悪非道の者よ! 改心するならばよし、されどこれ以上悪行を重ねるというのなら成敗してしんぜよう!」
手にした鉾を高く掲げ、意気揚々と――
「毘沙門天の代理である、この寅丸星がッ!」
◇ ◇ ◇
寅丸星は、決意した。
かの極悪非道な天人を懲らしめねばならぬと。
「寅丸様、俺達は悔しいんだ! 天災でもなんでもねぇ! あの天人の気まぐれで、二度も農作物をダメにされちまって! こんな屈辱があるかってんだ!」
「異変で懲りて、下手に地震は起こさないって、そう聞いてたんだ!」
「話し合いで解決しろっていう慧音先生の言葉もわかってる! それでももう、我慢の限界なんだよ!」
時間を少し遡った昨日の夕方。
農作業を終えた農民達の一部は自宅ではなく、命蓮寺にいた。
慧音の仲裁で一度は納得した素振りを見せていた彼らであったが、中には水で荒らされた農地を直していく度、また言い知れない怒りが込み上がってくる者もいたのだ。
慧音のやり方では収まりがつかないが、自分達だけの力ではどうしようもない。そんな時に、命蓮寺の名を挙げた者がいた。彼はそこの檀家であり、寺ならば天人の無法な振る舞いについての相談も受けてくれるだろうと考えたのである。
そこで、代表者三名が命蓮寺に駆け込んだのであった。
「み、みなさん落ち着いて、とにかく、ことの次第を順番に教えてください」
最初は、星も皆を宥めながら話を聞いていた。
とりあえず客間に通し、お茶を出し、時間を掛けて落ち着けようとしていたのだ。怒りを吐き出すうちに冷静になり、まともな話もできるだろう、と。
手伝いに来ていたナズーリンも同席し、星と一緒になって、興奮する農民達を宥めようとしていたのだが。
「寅丸様……俺は、許せねぇんです」
静かなその一言で、風向きが変わった。
「俺の子供が、溺れかけました」
薄い髭を生やした農民は、そう言って膝の上で両手を握り締めた。
目に入れても痛くないほど可愛がっている、幼い一人息子。その子が、川の氾濫に巻き込まれたのだという。
「ご存じかも知れねぇですが、川で溺れるガキは少なくない。妖怪よりも川のほうが怖いってくらいなもんで……あ、すんません」
男は、目の前のふたりも妖怪であることを思い出したようで、頭を下げた。
星は苦笑して、手を振る。
「いえいえ、お気になさらず。それで……?」
促されて男は語った。
子供が慧音先生に助けられたこと、着物がずぶ濡れで泥だらけだったこと、そして溺れかけた恐怖のためか、子供は無口になってしまったこと。
一通り話し終えた男は、睨み据えるような目つきを星に向けてきた。
「寅丸様、俺は……俺達は諦めなきゃいけないんですか? 力を持ってないから、力のあるヤツにいいようにされても文句は言えないんですか? それが正義ってやつなんですか」
「……」
「こんなんじゃ、俺は息子にも胸を張れねぇ……」
男はうな垂れて、身を震わせた。
他の農民達も黙り、客間を沈黙が支配する。
「……わかりました」
傍らからの声に、ナズーリンは驚いて顔を上げた。
「ご、ご主人様?」
「そのような勝手を見過ごすわけにはいきませんね」
言い切った星へ、ナズーリンが身を寄せて囁く。
「いいのかい? 聖の意見を聞かなくても」
白蓮は別な客人への説法中であった。彼女がこの場にいたならば、片方だけの主張を聞いて善悪を判断すべきではない、と言ったかも知れない。
だが、星は黙って首を横に振る。なお心配の様子を見せるナズーリンに目配せをすると、農民達へと向き直った。
「ひとまず、貴方達の望みを聞きましょうか」
半刻ほど後。
「ああ、さすが寅丸様!」
「これで俺らも枕を高くして眠ることができます!」
「ありがたや、ありがたや」
満足気な様子で帰り行く農民達の後ろ姿を見送りつつ、ナズーリンは改めて訊ねる。
「本当にあれでよかったのかい?」
別に命蓮寺は妖怪退治を業務として請け負っているわけでもなく、またナズーリン自身としても、人間達の手厚い保護を積極的に行うべきだと思っているわけではなかった。
我々が本件に首を突っ込む理由はないのではないか、とナズーリンは星に言う。
「そりゃあご主人様なりの正義ってやつは尊重したいが……」
「そうではありません」
星はきっぱりと言った。その目つきはどこか昏い。
「我が命蓮寺は、聖の意向もあって人妖平等を目標として掲げています」
「まあ、それは」
「これを力ある者と力なき者との共存――と単純化するとどうでしょう。強大な力を持つ者が勝手気儘に力を揮い、力なき者が一方的に虐げられるばかりなのだとしたら」
淡々と紡がれる言葉に、ナズーリンは黙って耳を傾けた。
日頃忘れがちになるが、星は冷静だ。何を重視すべきなのか、わかっている。
「そこに生まれるのは恨みであり、憎しみであり、不信です。それは目指されるべき平等とは程遠いと思いませんか」
「……なるほど。彼らの願いを聞くことが、結局は聖の指針にも沿うということか」
ならば止める必要もあるまい。
そう頷き掛けたナズーリンは、「それに」と言葉を継いだ星の方を見た。
「幼子に害を及ぼすような輩を、野放しにしておくわけにはいかない……!」
ナズーリンは思わず息を呑む。
失念していた。一見すると冷静かつ穏やかに見える星は、その実、内に誰よりも熱い激情を秘めているのだということを。
「……とまあ、このような相談を受けてね。檀家の頼みならばこちらとしても無下に断るわけにはいかないだろう」
人里から三百メートルほど離れた林の入り口。
ナズーリンはごく大雑把な経緯を衣玖達に説明し、星を見上げた。
「ご主人様も、あまり早まるんじゃない。格好付けるのも結構だけどね」
「むぅ……」
不満気な星の頬を、ダウジングロッドの先で突っつきながら。
気合を入れるのはいいものの、詰めが甘いのが星である。功を焦ったのか、気分が高揚していたのか、星は人里の上空で思いっきり吼えた。
そのせいで、騒動に気づいた農民達が地上から応援を始めたのだ。
声援を受けた星はさらに調子に乗り、
「いざ、勝負!」
勢いのままに戦闘態勢を取った。
そして上空の二人に鉾を構え直したものだから。
「待て待て待てぇ!」
地上から全速力でナズーリンが飛び出し、怒りのダウジングロッドが星の後頭部に振り下ろされたのだった。
気楽な弾幕ごっこならいざ知らず、本格的な勝負をしようというなら、人間達に迷惑のかかるところで始めるわけにはいかない。流れ弾や戦闘の余波で誰かを害するようなことがあっては、何のために命蓮寺が出張って来たのかわからなくなる。
ましてや、相手が気紛れで川を氾濫させるような者であるなら尚更だ。
そんなわけで、ナズーリンら四名は人里から距離のあるこの場所へと移動したのである。
「気を利かせ、移動してくださったことにまずは礼を。農家の方々に見られながらの交渉は、こちらも予定していませんでしたから」
衣玖が軽く一礼すると、ナズーリンも頷く。
「こちらもそうだよ。殺気だった相手を混ぜても良いことはない。確認だけど、その交渉予定だったという相手は上白沢氏だよね?」
「ええ、そうですが」
「彼女なら確かに適任だろうね、トラブルを表面的に収めたいのであれば」
人望の厚い慧音であれば、今回の問題も一応の解決に導くことはできるだろう。
だが、それが心からの納得に結びつくとは限らない。話し合いの行きつくところが農民達の一方的な譲歩というのであれば、到底人里側の理解は得られないだろう、と。
ナズーリンは慧音による解決法に対し、暗に異を唱える。
「それではナズーリンさん、でしたか。話し合いによる解決を否定したとして、貴方がたはどうなさりたいと? まさか被害に遭われた農家の方々と殴り合えとおっしゃりたいわけではありませんよね」
ナズーリンの言葉に、衣玖はさらりと返す。ナズーリンがため息を吐いた。
「……失礼した。こちらとしても腹の探り合いをしたいわけではないのでね。単刀直入に申し上げよう。ご主人様?」
そう言って、星を振り仰ぐナズーリン。
星はゆっくりと頷いた。
「それでは私が農民の方々に代わり、要求を述べます」
背筋を伸ばした星の姿はまさに凛々しいの一言。毘沙門天代理の風格を感じさせるものであった。
「そちらに提示するのは、今後六十年間の春期から夏期に掛けての人里付近への立ち入り禁止。もちろん能力の使用も控えて頂きます」
長い年月を生きる天子や衣玖といえども、なかなかに厳しい条件である。
少なくとも今代の農民達には被害を及ぼすことのできないように、との趣旨といえた。
衣玖は一瞬言葉に詰まり、暗い表情となって俯く。
「そう、ですか……では……」
「――話にならないわ」
そこまで黙っていた天子が、口を開く。
「そもそも私達は、慧音とかいう奴との話し合いのため出向いたの。昨日の時点でそういう取り決めだったのだから。貴方がたとの交渉のためではない」
「……ふむ」
「仮に貴方がたが、被害を受けた農民達全てからの委任と、慧音の同意を得ているのなら、交渉相手として認めてもいいけれど。そういう事実はあるのかしら?」
天子は腰に手を当て、星に向かってうっすらと笑みを浮かべた。挑発するかのような天子の態度に、星の眉が一瞬ぴくりと跳ね上がる。
とは言え、命蓮寺の介入について、全ての農民達の委任を得ているわけでも、また本来の交渉役の慧音の同意を取り付けてあるわけでもないのは確かだ。星達としては首を横に振ることしかできない。
その反応を受けて、天子は続ける。
「約束していた話し合いでの解決に横から介入し、一方的な要求を突き付ける。これでは受け容れられるものも受け容れられなくなると思わない?」
天子の言うことは、ある意味もっともではあった。
しかし星だけでなく、その後ろに控えていたナズーリンも押し黙る。先ほどのやり取りが農民達に見られてしまっている以上、再び天子達を里へ入れるわけにはいかない。命蓮寺としての立場というものがある。
「さぁ、わかったらそこをおどきなさい。私達は慧音との話し合いのため、寺子屋へ向かわなければいけないのだから」
「そ、それは認められない」
「そうね、そこのネズミさん。誰かさんが人里で騒ぎを起こしてくれたから、静かに里へ入ることもできなくなった。話し合いによる平和的な解決の道は遠ざかったわね」
天子は目を細め、星とナズーリンを見据えてくる。
農民達の話を聞く限り、天子の側が一方的に悪かった筈なのだ。だが、それを前提として先走ったのは、星達の過ちであった。
星はナズーリンにちらりと視線を向け、軽く頷く。
天子達が大人しく退かないのであれば、残された道は一つである。
「……ふぅん、やるつもりなの」
星とナズーリンの決意を見てとったのだろう。天子は身構えた。
鉾を構え、星は眼前の天人を見据える。これは異変の解決ではなく、お遊びでもない。いわゆるスペルカードルールは適用されないと見るべきであろう。
星は慎重に口を開く。
「こちらは殺し合いを望むわけではありません。予め勝敗のつけ方を決めておくのがよいかと思いますが」
「あら、そうね。うーん、じゃあ地面に背中がついたら負けとかはどう?」
天子の提案を、星は受諾した。思ったより穏当な条件であり、断る理由もない。
帽子をかぶり直しながら、天子は言う。
「私が勝ったら、そちらからの提示条件は白紙に戻し、本来の約束通り慧音のところへ向かうわ。農民達への説明ないし釈明は、そちらが行うこと」
「……ならば、こっちが勝ったら、先ほどの条件を呑んで頂く。これでよろしいですか?」
「ええ、構わないわ。ただ、その場合は、慧音に事情を説明してほしいのだけど」
「わかりました、それでいきましょう」
勝負事となれば野生の血が騒ぐのか、星の表情が深い笑みへと変化していく。辺りが緊迫した、ぴりぴりとした空気に変化しつつあるというのに、だ。
天人と言えば、六道の最上位に生きる者。悟りこそ開いていないものの、迫りくる死を追い払い続けねば生き続けることはできず、それが並大抵の実力では成し遂げられぬことであるのを、星も知っていた。
星と天子は構えたまま向かい合う。
立会人はナズーリンと衣玖。時間無制限一本勝負だ。
「では、僭越ながら私めが合図を致しましょう。両者、宜しいですか」
そう言って前に出た衣玖が、手を掲げる。
「では――はじめっ!」
その手が振り下ろされると同時に、星の足が地を蹴った。
◇ ◇ ◇
ナズーリンは反対だった。
相手と戦いになるような真似は避けるべきだと、そう思っていた。
そもそも星は戦闘向きの妖怪ではない。身体能力も、固有能力も。スペルカードバトルならいざ知らず、弾幕から殴り合いまでありの総合バトルで対峙するような状況は不利なのだ。
宝塔があれば、まだ戦えるのだろうが、生憎あれは常日頃携帯するようなものではない。またうっかり失くされても困るし。
そんなわけで、ナズーリンは星と天子の戦いをハラハラしながら見守っていた。
飛び出す星を迎え撃つように、左手を伸ばしてくる天子。
だが、踏み込みと同時に放っていた散弾が、それを阻む。
一瞬の隙をつき、星は一気に天子の右側面へと肉薄した。
手を伸ばせば、肩を掴めてしまうような距離。
瞬きをするほどの時間、星は獲物を観察する。
左手は、此方に向けて伸ばされた状態のまま。
右手は、得体の知れない剣の鞘に触れたまま。
右の脇腹を防ぐものは――ないっ!
「はぁっ!」
勢いを乗せ、回り込むと同時に放つ左の拳。
天子は未だその場を動かない。
反応できないのなら、大怪我をさせてしまう。
星は手に込めた妖力を弱め、打撃力だけで相手を吹き飛ばそうとする。
これだけ隙だらけならば、それで事足りると。
一瞬でそう判断し、突き出した拳から。
みしっ
――奇妙な音が聞こえた。
何が起きたかわからず、星は左手を引き戻せないでいた。
吹き飛んでいるはずなのだ。
元来、虎の変じた妖怪である星は、獲物の隙を刈り取る嗅覚が鋭い。
武術などの心得がなくとも、相手の隙を自然と見付けられる。
ただシンプルに、最短、最速で攻撃を繰り出す。
それが、戦闘向きの能力を持たない星の戦い方だった。
相手を見下すような天人の隙、そこをしっかり打ち抜いたはずなのに。
「い゛っ!?」
握った左手から伝わるのは、鈍い傷み。
そして、拳の先に触れる脇腹の布地と……
柔らかい肉があるべきところに存在する、鋼のような『何か』。
「……ふーん、私相手に手を抜いちゃうんだ」
天子は吹き飛ぶどころか、微動だにしていない。
まるで足の裏と地面が繋がっているかのように。
そんな天子が、ゆっくりと。
見せつけるように剣を持ち上げ――
「ご主人様っ!」
ナズーリンの声で、星は我に返った。
天子の膝を蹴り、その反動で剣の間合いの外へと飛び退く。
距離を取り、再度向き合うこととなった星と天子。
隙をついたはずの星の顔色には余裕の欠片すらなく。
一筋の汗が地面へ零れた。
――馬鹿だ! ご主人様は本当に馬鹿だ!
ナズーリンは、内心のその思いを禁じ得なかった。
弾幕勝負ならまだしも、何でもありの格闘勝負をするべきではなかったのだ。
相手は天人であり、聞くところによれば大地を揺るがすほどの力を持つらしい。
しかも、どこぞの胡散臭い大妖怪相手にも良い勝負を繰り広げたという。
交渉か武力行使によって退けようとするならば、慧音か、せめて白蓮を連れてくるべきだった。
ナズーリンの眼前では、星が持ち前の俊敏さを活かして立ち回りを演じている。
だが、その攻め手はどうも精彩を欠く単調なものだった。
どうやら、手を痛めでもしたらしい。
他方の天子はというと。
まだ――最初に立った位置から、ほとんど動いてすらいない。
向きを変えて防御と、牽制を繰り出すだけ。
これでは……
「いくらご主人様の体力でも……」
体力が尽きなくとも、僅かでも隙を作ろうものならば。
地面の上に転がっているのは間違いなく星のほう。
――何か、何かないか。
天子に少しでも隙を、もう一度先ほどのような油断を。
そんな情報はないかと周囲を探って。
「……?」
一瞬、何か見えた気がした。
たぶん、はぐれの小さな妖怪だろう、常識的に考えれば。
なぜなら、ここは人里の外だから。
ゆえに、あり得ないはずなのだ。
念のため、もう一度、と。
確認のために視線を送ったナズーリンの目が大きく見開かれる。
「っ!?」
妖怪ではない。
その瞳に映ったのは、間違いなく人間の子供。
活発そうな男の子が、息を切らせながら走ってきている。
距離はまだ開いているが、それ以上近づいたら戦いの余波に巻き込まれ――
「戻れっ! 早く戻るんだ!」
そしてナズーリンはさらなる最悪の光景を目にする。
天子と星のぶつかり合いで引き寄せられたのか、野犬らしき獣が、少し離れた茂みから顔を出していたのだ。
それに気付かない子供は、一心不乱にこちらへ向かって駆け寄って来る。
《無闇に里を出るべからず》
そんな里の戒律を破った、愚かな命。
それは見捨ててしまえば済むだけの命。
それでも、命蓮寺の立場として、
『自己責任だから助けない』
そのような割り切った判断ができるはずもない。
ナズーリンは声を掛けるのを諦め、飛び立った。
ダウジングロッドをその場に投げ捨て、身を軽くして。
だが。
「う、うわぁっ!?」
子供と野犬が接触する方が、先だった。
飛び出した獣に対し、男の子ができたのは、足をもつれさせて転ぶことだけ。
そのために初撃は免れたようだが、地面を這うことしかできない状況では、次の攻撃が避けられようはずもない。
ナズーリンから、十メートルほど離れた先。
もう少しで手が届くというのに。
鋭利な牙を防ぐ手だてが、ナズーリンにはない。
グルォォゥッ!
そしてとうとう、勝ち誇った雄叫びが獣から上がり。
容赦なく、そいつは子供に向かって口を大きく開く。
「くそっ!」
ナズーリンが悔しさのあまり舌打ちをした瞬間。
それまで丈夫だったはずの地面が、ぼろクズのように砕けた。
疑問を感じるより早く、ナズーリンはそれを知覚する。
――ドゴンッ!
一瞬だけ地面が震え、唸り声が聞こえた直後。
ナズーリンの眼前の獣が、宙を舞っていた。
飛んだわけではない。
跳ねたわけでもない。
ナズーリンの背丈よりも大きな柱。
その巨大な岩の塊に真下から突き上げられたのだ。
「っ! 子供はっ!」
驚き慌てた様子で逃げる獣。
そんな影など気にせず、ナズーリンは柱の直上まで飛び。
「ハハッ、なるほど……」
中が空洞であることを確認し、胸を撫で下ろした。
同時に。
「よしっ、やりましたよ! ナズーリン!」
子供のように飛び跳ねる星の様子を遠目に見て、呆気に取られた。さっきまではどう見ても不利でしかなかったのに、一瞬で勝負が決まったのか。
信じ難いことだったが、星の傍で大の字に倒れている天子の姿からして間違いないようだ。
何故、あっさりと天子が敗北したのか。
ナズーリンはひとまず柱から飛び降りて、
「岩の……柱?」
その能力が、誰のものだったかということを思い出す。
ナズーリンは慌てて星の方へ駆け寄った。
「ふふん、どうですか!」
星は、両手を広げた姿勢で待ち構えていた。
だが、ナズーリンはそのまま、すぐ傍でまだ仰向けに倒れている天子へと近寄り。
「何をしているんだ、君は!」
尻尾を、耳を立てて怒鳴る。
きっと本来怒鳴るべき立場にいるのは天子のはずなのだ。
それでも天子は戦いの余韻に浸るように、動こうともしない。
傍らに立つ衣玖も、黙して天子の反応を待っているようだった。
「何を、って、その星というヤツに負けた。それだけでしょ?」
皆の視線が集まる中で、天子は面倒くさそうに起き上がり、背中の土を掃って欲しいと衣玖に言う。
「そいつが隙をついて投げた。投げられた私は負けた。当分はそちらの要望どおり人里に近づかない。これ以上のことがある?」
「……そっちも、それでいいのかい?」
「総領娘様がお決めになったのならば」
衣玖も天子の服を掃いながら応えた。
ナズーリンは押し黙り、星の方を見る。事情を掴めていないらしい星は、きょとんとした顔つきでナズーリンを見返してきた。
ナズーリンは肩をすくめ、ため息を吐く。
「わかった。それならばこちらは大人しく勝ちを貰おう。約束どおり慧音への伝言は任せてもらおうか」
「ええ、交渉成立ね」
「しかし、本当に君は……」
「何よ」
ただ、ナズーリンは一抹の疑問を感じた。
戦闘中でありながら、子供を守ってみせた天子が――
――理由なく田畑を荒らすような真似をするものだろうか?
「……いや、なんでもない」
「なんなのよもう」
それでも、それを今蒸し返す必要はない。
ナズーリンの冷静な部分が、勝利という事実だけを受け取っておくべきだと判断する。
天子は怪訝な顔をしつつも、踵を返した。
「じゃ、後のことはよろしく」
ちらりと岩柱の方へ目をやって、天子は衣玖を伴い、空へと飛び立った。
ナズーリンは、小さくなってゆくその背中を見送り、星の方を振り向く。
「ご主人様、あの岩の柱にある人間の子供の救出を手伝って欲しい」
「人間の、子供? なるほど、あの中に?」
「ああ、危うく野犬に食べられそうだったよ」
「さすがナズーリン。お手柄ですね!」
「私がやったんじゃないんだが……」
円筒状の岩へと飛び込んだ星は軽々と子供を抱えて戻ってくる。
ガタガタと震える男の子は、星をさっきの獣の仲間と思ったのか、その腕の中で暴れまわっていたが、次第に正気を取り戻していき。
「あぅ、うわぁぁぁぁん!」
一度落ち着いたかと思ったら、気が緩んだのか、また大声で泣き出してしまう。
男の子は嗚咽をこぼしながら星に抱きつき、顔をその胸に埋めて泣き続ける。そんな子供の頭を撫でながら、星はできる限り優しく言い聞かせた。
人里を勝手に出てはいけないよ、と。
獣や妖怪に不用意に近づいてはいけない、と。
男の子が頷き返したのを見て、『いい子』と呟きながら、今度はその子供を抱きしめる。続けて、こう問いかけた。
「何で人里から出ようと思ったの?」
すると男の子は泣きながら、たどたどしい声で必死に言葉を紡ぐ。
「……あのお姉さんが、みんなから悪者扱いされてたから……今度は、ぼくが、お姉さんを助けなきゃいけないって、思って……だから……」
天子を助けるために、人里を飛び出した。
そう子供が言う。
「……ご主人様」
「ちょっと、待ってください。もしかしてこれは……」
その言葉を受けたナズーリンと星は、真面目な表情となって顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
次の日のこと。
「不味い……」
天子は、見た目だけは美味しそうな桃に齧りつき、顔をしかめた。
他の天人であれば、そんなわかりきったことを口に出すことはない。
「他の連中って、なんでこれを平気で食べられるのかしら」
桃を片手に、天界の縁に腰掛けてゆらゆらと足を動かす。
何をするでもなく、ただ座るだけ。
そうやってぼんやりと物思いに耽っていると、今朝の面白くない出来事が思い返された。
『天子よ! 大妖怪ならまだしも、地上の単なる妖怪ごときに敗北を喫するとは、どういうつもりか!』
朝食を終えた後のことだった。
呼び出しを受け、天子が謁見の間へと急いだところ、怒りの形相の父親と、いけすかない顔つきをした天人らが待ち構えていた。
「そうですよ。天人がそう易々と敗北する。それが『はぐれ』であったとしても我々までもが同じ目でみられてしまうわけですからなぁ」
「……それはどういった意味でしょう?」
天子が言葉を返すと、天人達は「ほほほ」と忍び笑いを漏らす。
「聡明な天子様であればおわかりになるかと思ったのですが?」
「あら、その聡明な私の前で、犬の餌にもならない三文芝居を打つ理由は何か、とお尋ねしたつもりなのですが」
「……おやおや、さすが、お転婆具合も天下一品で」
「お褒めに預かり光栄でございます」
「ぐ、むむ」
天子達の一族は地上からの成り上がり。
そのため天人らしからぬ行動を取れば、こうしてちくちくと言われ続けてきた。暢気で明るい天人像などというものは、地上に生きる者の幻想に過ぎない。
碌に目新しい楽しみもない天人達にとって、はぐれ者をいびるのは、格好の娯楽なのだろう。おそらくは、斥候のようなものに天子達を観察させているに違いない。
なればこそ、天子の父親もあんなにわかりやすい『怒った顔』をしているのだ。
「こら、天子!」
だから天子も面白くない顔をしなければならない。
父親の横に居る天人達が満足するような態度を取らねばならないのだ。
「……申し訳ありません。此度の件は確かに私の愚行によるもの、他の天人様にご迷惑をお掛けしたのは事実であり、改めて深くお詫びを申し上げます」
「ふん、わかればいいのだ! このはぐれめ!」
「まったく、困ったものですなぁ」
わざと天子へ肩をぶつけるようにして出て行く天人達。
それを横目で見送ってから、天子は心配そうに父親を見た。
「……お父様」
「ああ。すまんな、天子よ……」
父親は、苦しげな目で天子を見返してくる。
名居守に仕えていたというだけで天人となった比那名居一族の立場の弱さは、天子もよくわかっていた。それがために父親が日々苦労していることも。
異変の時も、先日の地震の時も、天子は天人達の面前で酷く叱りつけられた。
その身を虫や獣に喩えられ、なじられることすらあった。
「いえ、お父様の気苦労を考えればこの程度」
その都度、天子は大丈夫だと言い続けた。
自分は気儘で我儘で、ちょっと叱られたくらいで傷ついたりなんかしないとわかっていたから。何より、自分を叱る時の父親の眼差しを見れば、傷つくことなんてできなかった。
ただ――父親の叱責に比べれば、例えば死神の精神攻撃の、なんとぬるいことか。
「それでは失礼します」
寺の者との勝負の結果、自分が今後里に近寄らないことで問題は解決された。
その報告を終えた天子は静かに頭を下げ、謁見の間を辞したのだった。
――それで今、何をしているかと言えば。
「あー、もぅ!」
天界の端で、桃のやけ食いの真っ最中。
少しだけ弱った状態ならこの桃も美味しく食べられるかも知れない。
そう思った天子であったが、まるっきり見当外れだったようである。
そして真理を得た。
不味いものは、不味い。
「うへぇ……、よく食べてきたなこんなの」
天人の丈夫な身体を手に入れるため、天界の桃を食べたことは数知れず。
地上を行き来するようになって、懐かしい食べ物も口にするようになったから、不味さもひとしおだ。
それでも、身体を鍛える一環として今後も付き合っていかなければならない。
そんな憎たらしい相棒をまた一つ、後ろに積んだ桃の山から掴み取って、
「ん?」
掴んだはずの桃が、急に手の中から消えた。
握ったり開いたりしても、右手の中には空気しかなく。
かつんっ、と。
なぜか爪に固いものが触れる。
その感触の正体を探るために横を見やれば。
「まあまあ、しけた顔してないでさ~」
酔っ払いがいた。
天子の手に御猪口を握らせた二本角の鬼が、瓢箪から酒を注ぐところだった。
天子が取った桃はその酔っ払いの手の中にあり、こう、パクッと。
「……不味い」
「でしょうね」
酒のツマミとしての不適さを実感したらしい萃香は、んべーっと舌を出しながら天子の横に腰を下ろした。
そして、渋い顔をしながら腰の高さくらいまである桃の山を振り返る。
「うへぇ、天子これ全部食べるのか」
「食べるわけないじゃん」
「じゃあなんで採ってきたのさ」
「……なんとなく」
萃香はあの異変の後から天界の一部を占拠しており、見知った顔とそこで宴会を開いたりもしている。そのうちの一人が天子であることは、あまり知られていない事実だ。
おかげで、長く一緒に暮らしている他の天人よりも親しい間柄になってしまっていた。
まったくもって、酒宴の力は偉大である。
「で、そっちは? また宴会の誘い?」
「まあ、それもあるんだけどねー。そっちがつまんなそうな顔してるから、ついつい話しかけたくなったわけだよ」
ありがたいでしょ?
と、赤くなった顔を近づけてくる。
これで酒の匂いがしなければ、まだ幼さと妖艶さを併せ持つと言えそうなのだが、天子にとっては、ただ居酒屋で絡んでくるおっさんくらいのイメージでしかない。
「また地上でなんか仕出かしたんだって?」
「だったら何よ」
「いやー、面白そうなことなら混ぜてもらおうと思っただけ。最近暇だからね~。平和ボケする前に若い奴に刺激与えろーとか、知り合いが煩いからさぁ」
「ふーん、なら残念。もうそれは解決したから」
「みたいだねぇ、私もしっかり見物してたからさー。地上の騒動」
けらけらと笑いながら萃香は言う。
どうせいつものように霧化して覗いてたんだろうな、と天子は思った。
「じゃあ、私が負けるところも見たんでしょ?」
「見た見た」
「なら、こっちは何も話すことないじゃない」
「いやいやいや、そうでもないよ。ほら、私らのような鬼って勝負事が大好きだけど、戦いの裏の事情も併せて楽しんだりするもんなんだ。例えば」
萃香がより一層笑みを深め、ぐいっと瓢箪を煽る。
白く細い喉が激しく動き、幼さにそぐわない量の酒が流れていくのが傍目にもよくわかる。そして瓢箪を口から離し、
「最初っから勝つつもりなかった、とかさ」
「……バカバカしい。この私が、なんで地上の妖怪ごときに勝ちを譲らなきゃいけないのよ」
「さぁ~、わかんないよ? 少なくともあんたにとっては、あそこで引き下がるほうが何かと都合がよかったんじゃないのかな」
「は? 何言ってんの?」
勝負事というのは大抵勝つために行われるものだし、負けるために戦うというのは道理に合わないことである。
だが、萃香はちっちっち、と人差し指を振り、ウインクをした。
「あの場合、あんたは勝てばある種のジレンマに陥っていた」
「……」
「それを回避するには、寺の奴らとの勝負で負けておくってのが最もよかった」
萃香は天子の顔を横目で見ながら、にやりと笑う。
「どう、違うかい?」
天子は反論せず、どこか不服そうに頬を膨らませる。
「ほら、あの寅の攻撃。あれもお前、誘っただろ? たった一発で終わらせてやるつもりだったんだろうが、くくっ、あれだな。まさか天人が手加減されるなんてね、くくくっ! ぷぁ~っはっは!」
「う、煩いわね! 別に誘ってなんかないってば!」
萃香は、今度は天子の背中をばしばしと叩いておおはしゃぎ。
「その後の動きなんて、傑作だったな。片手を痛めたっぽいあの星ってやつに、どうやれば負けられるか、必死で考えてたんだろうなぁ。いやぁ、ホント不自然で笑えた」
「だーかーらー! 手心なんて加えてないって言ってるでしょ!」
「じゃあ、あの人間の子供を助けたのも手心じゃないって?」
「そ、それは……単なる気まぐれで」
「そっかー、キマグレかぁ!」
「くぅぅぅっ!!」
事実、天子は寺の者達が立ちはだかったことを、渡りに船だと考えていた。
とはいえ、慧音と衣玖との約束もあった手前、拳を交わさずして引き下がることもできなかったのだ。
いずれにせよ、星とナズーリンの登場するタイミングが好都合であったのは確かなことで。
天子は萃香をじろりと睨みつける。
「ひょっとしてあんた、何か裏で仕掛けたんじゃないでしょうね?」
「冗談。私がそんな小細工をすると思ってる?」
「……それも、そうか」
まあ、展開を考えれば結果オーライといえた。
余計な被害者を出さずにも済んだようだし。
「で、それで落ち込んでるんだろうなーって思ってさ。酒の誘いに来てやったわけだ」
「はいはい、ありがとう。涙がちょちょぎれるってもんだわ。はい、おつまみどうぞ」
「……桃は勘弁」
しかし、天界には桃と釣った魚くらいしかないのだから仕方ない。
「ん? 桃?」
萃香は、何かに気付いたのか、天子の顔と山積みの桃とを見比べる。
そして納得したように、ぽんっと胸の前で手を打った。
「あー、そっかー、ふーん。田畑かぁ」
「な、何よ」
「大変だねぇ。我々のような鬼は、そんな立場とか気にしなくていいのにさぁ」
「だから何の話だってば!」
「いやさ、ちょーっとだけ助けてあげよっかなーって」
瓢箪からぐびりぐびりと酒を呑み、萃香は天子を流し見た。
天子は半ば呆れて肩をすくめる。
「どうせ宴会の誘いじゃないの。いつものことでしょ」
「そうそう宴会。でもねぇ、ちょぉ~っと困ったことがあってね」
萃香は、その場で立ち上がると天子を見下ろして口元を緩め、
「おつまみが足りなくてさ、天子に取りに行ってもらいたいんだ」
「おつまみ?」
「そう、おつまみ」
瓢箪を軽く振って、また一口呑んでから、
「まあ、ざっと見積もって……二ヶ月分くらいの、おつまみがね」
「っ!?」
驚く天子の顔を見て、満足そうに笑った。
「ま、ちょいと時間くれれば、その辺もバッチリお膳立てしてあげる。だから、後は天子次第」
悪戯っぽく、けれど温かな表情で。
◇ ◇ ◇
「やっほー、霊夢生きてる?」
「随分と失礼なご挨拶ね」
昼過ぎのこと。
鎖を振り回しながら現れた小鬼を見て、霊夢は掃除の手を止め、顔をしかめた。
境内に降りてきた萃香は、そんな反応を一切気にしていない様子で酒を呷る。
人間用の神社なので、とりあえず妖怪に対してはちょっぴり嫌な顔をして見せるだけだと知っているからだ。
一種の社交辞令のようなものだろう。
「まあまあ。男子三日会わざればなんとやら、っていうじゃない」
「一応女の子だから。しかもそれは成長を驚く言葉でしょ」
「成長し過ぎたら人間ってすぐ死ぬしね。あってるじゃん」
「生々しいご解釈をどうも」
そんなやりとりがなされている間に、天子は境内に降り立った。
天子は挨拶をするでもなく境内をあっちこっち歩き回り、そこに霊夢しかいないことを確認すると、すっと萃香の横に移動して、
「……え? 霊夢じゃ無理じゃない?」
「もしもーし、聞こえてますよー」
いきなり本人を前にしての失礼発言その2であった。
「ああ、こっちの話よ。霊夢は気になくていいわ」
「あのね、無理とかいきなり言われて気にならないわけないじゃない」
「だって萃香がここだっていうからさ」
「はぁ? あんた、また変な宴会でも開こうとしてるの?」
すると萃香は、ぱたぱたと手を横に振る。
「いんにゃ。魅力的だけどそういうのじゃないんだなー」
「じゃあどういうことよ」
「まあ、もうすぐわかるって」
天子は、横でそんな萃香の言い分を聞き、腕を組む。
数刻前、天子と桃を見て何かを察したらしい萃香は、一旦姿を消した後に再び現れ、手助けしてやると言って博麗神社に無理やり天子を連れてきたのだった。
しかし着いてみれば霊夢の姿しかない。
これで何がどう手助けになるというのか。天子は不満げに目を細め、
「っ!」
寒気を感じ、その場を飛びのいた。
そして振り向くと、
「あら、随分と珍しい生き物が地上に湧いているじゃない」
何もない空間が縦に切り裂かれ、そこから白い手が伸びていた。
手から肩、肩から顔へ、そしてとうとう全身をその場に現した女性は、優雅に日傘を開きつつ友へと問い掛ける。
「ねぇ、萃香。私をよく知る貴方なら、あり得ないとは思うのだけれど……」
八雲紫。
幻想郷での大妖怪の代名詞とも言える彼女は、底知れぬ妖力を身に纏っている。
天子に向けられた鋭い視線は、圧倒的ともいえる威圧感を伴っていた。
けれど――
「まさかその小娘のために私を呼び出したなどとは、言わ――」
「え? そのとおりだけど?」
紫の形相や気配などどこ吹く風。
萃香はむしろ楽しそうに笑うばかりだった。
そして、出鼻をくじかれ居心地悪そうにする紫の肩をとんっと叩いてから天子に近寄り、やはり楽しげな子供の声音で言った。
「ほれ、あいつ。あの紫なら、天子の希望を叶えてくれるんじゃないかな?」
くっくっく、と悪戯っ子のような笑い方で。
「確かに、紫の力なら可能、か。やってくれるわね」
天子は思わず呟く。
緋雲異変以来、決して良好な仲とはいえなかったふたりを、萃香はいとも簡単に引き合わせてみせた。
「それに、この立会人、か」
紫が霊夢をかなり大切に扱っているらしいということに、天子は聞き及んでいた。
だからこそ、萃香はこの場所を選んだのだろう。
その大切に思っている霊夢と友である萃香の手前、不格好な態度を取れないように。
また、好ましく思っていないだろう天子への攻撃を事前に防ぐため。
紫が登場時の脅し以外に何も行動を示さないのは、まさしく萃香の狙い通りなのだろう。
ならば、この機会を利用するしかない。
そう決意した天子は、紫との距離を確保し、鳥居の前に立った。踏み込みやすく、それでいて固い大地が足元にある場所。
そして、過去に打ち込んだ要石の名残がある場所の真上に。
「なるほど、なんともイヤらしい位置取りですこと」
手を出しにくく、会話がしやすい位置どり。
それに気づいた紫は険しい表情を少しだけ緩めた。
「どうやら貴方は、人里付近でまたその地面を操る能力を悪用したようですわね?」
「悪用なんてしていないわ。地上の連中がそう受け取っただけでしょう?」
「いえ、藍の集めた情報によれば、ずいぶんやんちゃをなさったようで。それと……ふふふ……」
会話の途中で紫は天子に見せつけるように微笑んでから、扇子で口元を隠す。
「あらあらまあまあ、あの虎の妖怪にも敗北したと報告を受けましたが?」
「ええ、その報告に間違いはないわ。それで、その有能な藍とやらはどこにいるのかしら?」
「念のため人里で情報収集をさせているところです。この神社のように、余計なことをされては困りますからね」
神社のように、という言葉と共に、また紫の身に纏う妖気が膨れ上がる。
それだけこの神社の土地をいじられるのが気に食わなかったのだろう。
いずれにせよ、天子は間違いなく好ましくは思われていまい。
「それで、その脆弱な天人さんは、私に何をお望みで?」
と、なれば。
「おつまみ」
「はっ?」
この台詞は、紫にとって天人による侮辱と映るに違いない。
「天界で大規模な宴席を開こうと思うのだけれど、いつも食べているような食事ばかりなら味気ないじゃない? だからこの機会に天界の皆にも地上の食べ物を味わってもらおうかと思って。下賤な味かも知れないけれど、なかなか面白味があるでしょう」
「……そうですか」
天人のための食糧調達係。
その程度の扱いをさせてくれ。
わざわざ呼び付けられた紫には、そう受け取られたことだろう。
「それで? いかほど?」
「二ヶ月分くらいかな~?」
「……二ヶ月? うふふ、天界の二ヶ月分の食糧を、私に準備させる? ふふ、あははははっ」
楽しそうに、本当に楽しそうに笑う紫。
「さあ、天下の大妖怪様は私の条件を飲んでくれるの?」
「そうねぇ、ふふふ、なら、私が勝ったら、一日貴方を好きにさせてもらおうかしら。それでよろしくて?」
「いいわよ。私が敗北することなんてないのだから」
「そうですか。その自信、微塵の如く粉砕して差し上げますわ」
されど天子を見つめる瞳だけは、どんどん鋭くなっていく。
それを離れたところで見ていた霊夢は、お茶の湯呑みを口につけながら、賽銭箱と萃香の間に腰を下ろした。
萃香が横をちらりと見て、にやにや笑いながら言う。
「なかなか殺気立っちゃって。ねぇ、あいつらを止めなくていいの?」
「まあ、大丈夫なんじゃない」
霊夢はあっけらかんとした様子でお茶をすする。
博麗の巫女としての立場など、どこ吹く風といった様子だ。
「なんとなく?」
「そう、なんとなく」
そんな霊夢の勘を証明するかのように、
スッと
また一つ別な隙間が開いて、
「紫様っ! 至急お伝えしたいことが!」
「藍? この状況が見えないのかしら? 私はあの無知蒙昧な天人との決着を……」
「しかし!」
「くどい!」
式である藍が、紫の命令に背くのはあってはならぬこと。
けれど、藍はそれでも引かず、紫の足元で頭を垂れたまま叫ぶ。
「その天人のことで! 新たな情報が!」
「……いいでしょう、聞きますわ」
紫は軽くため息を吐くと、隙間を使い自身と藍の姿を飲み込んでいく。
後に残された天子はというと。
「……えーっと?」
取り出したスペルカードを手にしたまま、状況を飲み込めずにいたのだった。
そんな天子の様子を眺めながら、萃香は残念そうに肩を落とし。
「むぅ、あの狐め。余計なことを……」
それでも、少しだけ嬉しそうに呟いた。
◇ ◇ ◇
数分後。
「不戦敗」
「は?」
戻ってきた紫の言葉を聞き、天子の思考は固まった。
「不戦敗で構わない。そう言ったつもりなのですけれど? 天人の足りないおつむでは理解できなかったかしら?」
「ちょ、ちょっといきなり何よ! 敵わないからって、逃げるのは許さないわよ!」
「だから、逃げるのではなく。……負けといっているではありませんか!」
やれやれ、と。
紫は疲れた様子で額を押さえ、藍の肩を叩いた。
先ほどまでの表情とは打って変わって、いつもの飄々とした様子に戻っているところからすると、本当に戦う意思が削がれたように見える。
「後、よろしくね~」
「待ちなさいよ! ねぇ!」
天子の制止の声を無視して、紫は隙間の中へと消えていく。
残された藍は、言い難そうに頬を掻きながら。
「えーっとだね、紫様は、不戦敗、つまり敗北を認めたわけだから、そちらの条件も呑むと。それでこの件は手打ちにしてくれると助かるんだが」
「……は?」
寝耳に水、瓢箪から駒。
驚きとあり得ない事柄が一挙にやってきたので、天子の思考が追いつかない。
「えっと、私の勝ち、でいいのかしら?」
「ああ、そうなる。なおも勝負を望むのなら、私が相手をすることになるのだが……、紫様が負けたと言った以上、私が勝利者になることはあり得ない。それでも戦うかな?」
「い、いえ……」
まだ納得しきれないまま天子が首を横に振ると、藍は胸を撫で下ろし尻尾もだらりと下げてリラックス。
「いやぁ、助かった。それと、条件をほんの少しだけ弄らせてほしいんだが」
「どこを?」
「えーっとだね、二ヶ月の宴会分の食糧というところを――」
紫が残したままにしたのだろうか。
藍は宙に残った小さな隙間に手を突っ込んで、紙片を取り出す。それをくるりと回し、天子の方へと向けた。
「ふむ、『足りなくなった食糧について補充する』これで構わないかい?」
その内容を見て、天子はもしかして、と思う。
そうすると、藍が慌てて現れたのも、紫が不戦敗と言い出したのも……。
ならば、紫が求めることも見当がつく。つまり、天人の地上へのこれ以上の干渉を避けようということなのだろう。
「ええ、それでお願い」
「わかった。紫様に伝えておこう」
それだけ言うと、藍は隙間を広げて帰ろうとし、
「あ、そうだった。最後にもう一つ」
振り返って天子へと近寄り、一通の手紙を渡してきた。
それを何気なく受け取る天子であったが、宛名や差出人の名は特に書かれていない。
これは誰から?
天子がそう尋ねるより早く。
「差出人から、伝言を預かっていてね。
『おとうちゃんに謝った』
そう貴方に伝えてほしいと」
「……! ええ、しかと受け取りましたわ」
「では、失礼」
藍が入った隙間が小さくなって消えるのを見届けた後。
天子はその手紙を懐に入れて、うーん、と伸びをする。
気持ちよさそうに、暖かな午後の日差しを浴びながら。
「萃香~、用事は終わったけれど、そっちはどうするの?」
「今日は霊夢のところにいるかも。ところで、今の件に対して私へのお礼とかはないのかなー?」
「引っ掻き回してくれたくせに」
「良かれと思ってやったんだよ、お互いにさ」
萃香は笑いながら手をひらひらと振る。
「どうだか……、まあ、一応感謝するわ。お父様秘蔵のお酒を今度もっていく」
「わーい! これだから天子って好きだなぁ」
「あーもう、あんた達。境内でいつまでも騒がないでよね。騒ぐなら出てってもらうわよ」
「仕方ないわねぇ。霊夢がそう言うなら静かにお茶でも……」
と、そこで天子はまた空を見上げて。
「あー、ちょっとお迎えが来たから帰るとするわ」
見覚えのある羽衣姿が天高くにあるのを見て、境内を飛び立ったのだった。
◇ ◇ ◇
「総領娘様、申し訳ありません!」
「だからもう良いってば」
「そういうわけにはまいりません! 気が済むまで謝らせて頂きます!」
「誰の?」
「私の!」
「うわぁ……」
天子の自室。
そこへ戻った途端、衣玖がものすごい勢いで土下座した。
その勢いを例えるならば、瓦10枚は余裕で割れるほど。
「私は、私は、総領娘様を信じると言っておきながら! 心のどこかで総領娘様を疑っていました! 理由を言えないのはやはり自身の私利私欲のために能力を使ったからなのか、と! またやりやがったな、このダボがと!」
「おい、今なんつった?」
「しかし、違ったのですね! 総領娘様は! 総領娘様は! 小さな命を救うためにご自分の能力を!」
「まあ、そういうことになるのかしらね……」
あの日、天子は地上を巡って楽しんでいた。
妖怪の山や霧の湖を見て回り、最後に人里で美味しいものでも食べようか、と。
そう思って人里付近に移動したところ。
「へぇ、こんな風になるのね。凄い音」
農園地帯を貫く河川が、茶色い濁流と化しているのが見えた。
日頃の澄んだ水の流れが噓のように、激しい音を立てている。
地上で暮らしていた時は珍しくもなかった梅雨の大雨と、それを受けた河川の増水。
ともすれば災害に繋がりかねない川の流れの変化が、しかし天子には懐かしく映り。
その流れと追いかけっこをするように飛んでいた時だった。
「え?」
水面から伸びる、小さな、小さな手を見つけたのは。
最初、天子は枝か何かだと思った。
そして、助けを求めるように浮き沈みするそれを、手だと認識した瞬間。
「はぁっ!」
とっさに天子は動いていた。
その手は流れのかなり先、どれだけ時間の猶予があるかもわからない。
天子は躊躇うことなく地面を動かした。子供よりほんのわずか上流を堰き止めたのだ。
超局所的な隆起によって強制的に水流が断たれ、見る見るうちに水位が下がってゆく。
そこでやっと姿を見せた子供を抱えて、天子は安全なところまで移動した。
川べりから離れた、畑の隅へと。
「……こほっごほっ!」
着地し、天子が頬を軽く叩いてやると、子供は咳き込みつつ意識を取り戻した。
間一髪、子供は救われたのである。
そのことが、溺れかけた男の子の口から命蓮寺に伝えられて、事態は一気に収束に向かったと衣玖は言う。
「ん、なんで命蓮寺が?」
「ほら、あの星という者との勝負の時、子供を助けたでしょう」
「ああ、はいはい」
「あの子が、溺れていた子供だったんですよ」
「……なるほど、ね」
それを聞いて、天子はなぜ紫が途中で負けを認め、帰ったかを理解した。
天子の評価が逆転した今、人里の世論を敵に回してまでも勝負する意味はない。
天子が里の地面に妙な細工を施していないことも、確認したのだろう。
将来的な脅威にもなり得ないのなら、捨て置くということで結論付けた。
ただし……
「……読まれたか」
「何がですか?」
「いえ、こっちの話」
理由はどうあれ、田畑を荒らしてしまったのが天子の能力であったのは確かだ。
だからこそ、天子は自分でなんとか責任を取ろうとしていた。代わりの食糧を手に入れることによって。
そこを読まれた。
だからこそ藍は最後に、条件を切り替えたのだ。
即ち、『里で不足した食糧に関しては八雲で対処する』と。
「しかし総領娘様、そうであればもっと早く教えてくださればよかったのに! なぜ黙っておられたのですか? それを説明できれば、要らぬ誤解など生まれなかったでしょう」
「私の力で被害を出したんだから、それが片付いてからでいいかなと思ったのよ。それに……」
「それに?」
――天子は、思い出す。
助かった後、あの子供が天子に向かって顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えてきたことを。
「お願いだから……おとうちゃんに言わないで」
泣きながら、咳き込みながら、必死で天子に抱きついてくる。
いつも「川の側で遊んじゃいけない」ときつく言われていたのに、近づいてしまった、と。
凄い音がしていたから覗いてみたくなって、それで滑った、と。
切々と話しながら、天子の服にしがみ付く力はどんどん強くなっていった。
「おとうちゃんに……言わないで……」
叱られてしまう。
怒鳴られてしまう。
溺れかけたことよりも、それを恐怖する子供。
子供にとっての、親というものの大きさを見せつけられた気がした。
目の前で小さな身体を震わせる幼い子供の姿が、ふと誰かに重なる。
きっとそれは、かつて地上の人間だった幼い少女。
――天子は首を縦に振る。
子供を安心させるために、優しくふんわりと抱き締めた。
「……約束したからね」
「約束、ですか?」
「さーって、今日も楽しく読書でもしましょうか!」
「あー、もぅ、総領娘様ぁ~!」
そんな衣玖の声を遮るように、
少々赤く染まった頬を隠すように、
天子は顔の前に本を広げたのだった。
『大好きなお父さんにちゃんと謝れるようになるまで、私が守ってあげるから』
――ちょっとだけ恥ずかしい、あの子へのそんな言葉を思い出しながら。
天子の心の温かさが伝わりました。
にしても星ったらノリノリだなあ。衣玖さんはいつも通り大変でしたね...。
素敵な作品でした。
自分がどんな風に思われても約束を守り通すって難しいことだよね
全てが正しい行いだったわけじゃないけど、実にカッコいい天子でした
この子供、天子に惚れたな(確信)
周囲のキャラが物語上引き立て役として十分に活躍はしていたものの、やはりこう間抜けすぎたかなと思いました。
まずストーリーが上手く出来ていると思います。
一つ一つの展開が自然で、「ありそう」な流れを作っています。
キャラクターも魅力的ですね。
天子のキャラクターが一貫してぶれず、まさに不良天人という感じが良いです。
他の連中もそれらしかったです。欲を言えばその他大勢にも見せ場がもう少しあると良かったかな?