さて、不気味な虫をばらまいては人間を困らせてやるはずだったのに。
何がどうしてこうなったのかとは思いつつも、正邪はナイフに手を伸ばします。目の前には背を向けた永琳。ここは、永琳の部屋です。書類を書くのに忙しいようで、正邪を見る余裕は無いようでした。正邪はナイフに力を込めます。
「不味い、なんて不味いんだ。人に残り物を出すだけでもどうかというのに味まで酷い」
そして、呟きました。人を困らせるのは何よりの楽しみですし、目の前の永琳は隙だらけに思えましたが、ナイフで突き刺すわけもありません。もっとこぢんまりとして下らない嫌がらせの方が、正邪好みではあります。
もっとも、ナイフで刺そうと襲ったら転んで自分に刺してしまう――そのくらい鈍くさいという事情もあるのですが。あまのじゃくなんてのは実に弱くてのろまな妖怪です。子供と相撲を取ったら泣かされるのはあまのじゃく、そのくらいは弱いのです。
だからこそ、逆さ城ではあれほど恐ろしい存在だったのですが……もう、過去の話。ここにあるのは弱い弱いあまのじゃくに、美味しい料理。力を入れるまでもなく、柔らかなムニエルは切ることができます。
暖かなムニエルにスープ、それと、ふかふかのパン。どれも美味しいものでした。グラスの水ですら、ほんのりと甘い水でした。月の機械で、単に浄水されるだけでなく、ミネラルなども補われた水。どれも、美味しいだけではなくて、体にも優しい食事です。
「こんなのを食べたら真っ先に病院送りだな。塩っ辛いし焦げ臭いし水は変な臭いがするし」
となれば、あまのじゃくの感想としてはこうなってしまいます。さて、目の前の医者はどんな反応をするのだろう。正邪はわくわくとしました。罵声を投げかけてくるか、怒って殴りつけてくるか、それとも。
どれでも大差はありません。向こうが嫌な思いをして、怒ったとなれば、それ以上の喜びは無いのですから。
「やっぱりねえ。苦言は薬なり、甘言は病なりと言うものだけれど……正直な意見が聞けるのは有り難いことだわ」
「あ?」
「いや、今日の食事は私が作ったのだけれど……難しいわね。栄養バランスだけならしっかり整えられる自信はあるわ。でも、味にはあまり自信が……」
「ううむ……そこまで不味い……不味いな」
「だから色々と試しているんだけれど、家の姫様や弟子は、気を使っているのか、絶賛しかしてくれないのよ。自分では食べられる味とは思うけど、自分の感覚だけじゃ不安で」
そんな言葉を聞きつつ、スープを一口。美味い、と正邪は感じました。もしかすると、自分の場合は味覚まで人とあべこべなのだろうか? 今までそう思ったことはありませんでしたが、永琳の言葉を聞いて、少し疑ってしまいました。
「何にしても、諫言をしてくれる人は得難いもの。有り難いわね。後学のためになるもの」
「……」
ちっ、と聞こえるように舌打ち。人が喜んでいる姿なんて、何よりも見たくないのがあまのじゃくなのですから。しまった、失敗した。と自己嫌悪に陥ってしまうほどです。
むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、と無言のまま、掻き込むように食事を終えました。
「あら、それでも全部食べてくれたのね。ありがとう」
「こんな不味い飯、味を感じる前に食べなきゃぶっ倒れる」
「早飯早なんたら芸の内。か。ねえ、正邪さん」
「ん? 何だ?」
と聞かれて、おや、と正邪は思います。名前など言っていたっけ? と。自分はただの虫売りとしか思われていないはずだったが――もしかすると、何かで自分を知られているのだろうか? と考えています。
幻想郷縁起にも記されない木っ端妖怪。先日の異変では少し動いたけれど……あれは小人の小槌が暴れたとしか知られてないはずだ、と思い直しつつも。
とはいえ、「何だ?」と、思わず呟いてしまったからには、答えるしかありませんでした。
「家で、仕事をしてみる気はない? いつもいつも人手不足なの。貴方は、向いてる気がするわ。貴方みたいな正直者は……苦言は薬だからね」
そんな、僅かな不安もすぐに吹き飛びました。正直者、よりによってこの自分を正直者と。元より、目の前の医者が間抜けだとは思っていました。何が月の頭脳だ、ただの世間知らずじゃないかと。
正邪は、今日も今日とて嫌がらせをしてやろうと思っていたのです。虫かご一杯に「かさかさ」と音を立てる不気味な虫を詰めて、永遠亭にばらまいてやろうと思ったのです。そこは入院している患者もいると聞いていたので、これはいい気味だと思いつつ。迷っては迷って、たどり着いたらすっかり夜更けにはなっていましたが。
ともあれ、嫌がらせのつもりが、「ありがとう! 薬の原料が届かなくて困ってたのよ」と言われては、「遅いから夕食を食べていく? 残り物だけど」などと誘われ、今に至ります。
食事は美味しかったのですが、なんとも物足りない気分でした。期せずして相手の願いを叶えてしまった。と思うと、ため息の一つも尽きたいような自己嫌悪に見舞われます。
「貴方さえよければ家で働いてみない、と思って」
そんな言葉が飛んできたなら、腹を抱えて笑いそうになりました。嘘に騙される馬鹿を見るなんてのは、あまのじゃくにはこの上ないご馳走です。からかったはずが正直者呼ばわり。どこまで抜けているんだこいつは。と吹き出しそうになりました。
「仕事とはなんだ」
「まあ、看護師ね。入院している人の世話をするの」
「かったるそうな仕事だな」
「まあ、ねえ。人の嫌がる仕事かもね。仕事自体はともあれ、こんな辺鄙な場所で働く人はまずいないし、そうすれば人手不足でしわ寄せもくるわ。夜中でも患者のために詰めてないといけないし、休憩もままならなかったり」
「ふうむ」
「病人なんてのは心も弱ってるからね。時にはきつい言葉を言われたり。今は鈴仙とうさぎたちがなんとかしているけれど……うさぎはうさぎだし――」
永琳は、蕩々と、いかに厳しい仕事か、どれだけ人から倦厭されている仕事かと言うことを蕩々と説いていきます。
「……まあ、仕事自体がどうっていうより、とにかく人手不足なの。だから辛いわ。でも、人手が集まればとてもやり甲斐の有る仕事よ。私たちは人を救う仕事なんだし、患者さんも時には辛い愚痴を吐くけれど、それもまた、私たちを頼っていることの表れで」
「面白そうだな」
とこれは心情を正しく言いました。「人の嫌がる仕事」これだけで、あまのじゃくには非常に魅力的に感じられます。
「しかも、弱った心で私を頼るしかない……」
ともなれば、興奮で胸が張り裂けそうでした。必死に自分を頼ってくる相手を叩きのめしてやる。なんとも甘美な喜びが胸に迫ってきます。ましてや、あいては病人。子供にも負ける妖怪ですら、病人相手なら強く出て不安は有りません。
「あら、案外興味がありそうね? 自分で言っておいて案外と言うのもだけれど……よかったら、一日、体験就業でもしてみない?」
「体験か」
「貴方がそれでよいとなれば――まあ、こっちとしても貴方が働かせるに足りると思えば、今後もと」
「いいだろう」
と、正邪は頷きました。考えるまでもありませんでした。こんなにも愉快なことはそうそう無いと思ったからです。
「よかった。じゃあ、今日は泊まっていって。今から帰ると大変だろうし……部屋を用意させておくから」
それから少しして、一匹のうさぎが呼びに来ました。うさぎに促された部屋は、開いている病室ではなく、美しい和室でした。布団の支度もされています。服が、二つ置いてありました。一つは寝間着……もう一つはぱっとはわかりませんでしたが、うさぎの身振り手振りを見て、「ああ、制服か」と理解します。
「わかった、明日はこれを着れば良いんだろう?」というと、ぴょこり、とうなづき、うさぎは去っていきました。
部屋の時計を見れば、なかなかに遅い時間です。疲れていました。「ふわあああ」と言う大あくびが飛び出てきました。
とはいえ、なかなか寝付くことは出来ませんでした。明日は何をしてやろうかと思うだけで、興奮で目が覚めてしまいます。食事にゴミでも混ぜてやろうか、ベッドを滅茶苦茶にしてやろうか、そして弱った心にどんなひどい言葉を投げかけてやろうか。
思っているといつまでも眠れそうにはありません。部屋には、棚がありました。傍目にも高級そうなお酒が並んでいました。どうせ明日には追い出される身、と思いつつ、瓶からそのまま飲んでいきます。それでも中々寝付けないほどに、正邪は明日が楽しみでなりませんでした。
◇
と、飲んだくれていたせいか、起きれば昼近くでした。何一つ気にやみはしませんでした。
ああ、今日は働くんだっけ。人手不足と言ってたから困っているんだろうとは考えました。うさぎ連中が困っていると思えば、笑みがこぼれそうです。
起こしに来る気配もなかったので、だらだらと二度寝をしてもよかったのですが、大きく背伸びをして、大あくびをして、気を取り直します。
もっと愉快なことが待っていると知っていたからです。入院している連中へ、目一杯の嫌がらせをしてやろうかと思いつつ、看護師の服に着替えては、寝ぼけ眼で部屋を出ました。
少し歩くと、水場がありました。顔を洗い、清潔な白衣に、やはり白い帽子を被れば、正邪ですら、いかにも医療関係者という雰囲気です。
「おはようございます」
「ああ、こんばんは」
それに比べるとあまり看護師には見えないうさぎを、ブレザーにスカートのうさぎ――鈴仙を見かけました。どう考えても寝坊したというのに怒ったりと言う様子は無かったので、正邪は少し物足りなく思いました。
「看護師をやることにしたんだ」
「はい、師匠から伺ってます」
「で、どこで何をすればいいのかな?」
「ええと……付いてきてください」
白衣に着替えた正邪は、鈴仙の後に付いていきます。そして、扉を開けては鈴仙は言います。
「ここからが病棟になります、ここに地図が貼ってますので、迷ったら見てください」
外観から見れば木造の家屋でしかないのですが、そこからは確かに空気が大きく変わっていました。空気清浄機のおかげで、空気自体が綺麗でもあります。
「病棟と言っても細かく別れていて……例えば入るときに全身を消毒する気密室とかもあって……でも、そこは私か師匠しか行きませんし、今はそういう感染症の人もいません。で――」
永琳の言葉を思い出しつつ、鈴仙は続けます。いくつかの番号を言って、それから、地図を示して、
「――こことここにこっちかな……この辺の患者さんを見てあげてください。患者さんと言っても今すぐに生き死にという人じゃないんで、気を張らなくても。部屋を掃除してあげたり、食事を配膳してあげたり、それだけで。万一何かあったら、ナースコールのボタンが有ります。私か師匠が駆けつけますから押してください」
「わかった。でも、そんな生きるか死ぬかでもないなら入院する必要もないんじゃないかね」
「いや、それでも適切な治療をするためにしっかりと管理はしないと。ともあれ、困ったことがあったら呼んでください。薬の準備やらで永遠亭の方にいますが、駆けつけますので」
と話していると、うさぎが台車を押してきました。何せうさぎですので、上の取っ手にも手が届かないのですが、どうにか押せてはいました。
「丁度よかった、もう昼なので配膳を手伝ってください。それでは」
よほど忙しいのでしょう、そう言い残すと、鈴仙は早足に去っていきました。小さな体で、精一杯に台車を押すうさぎと、正邪だけが残されます。ちいさなうさぎの首根っこを掴んで、
「よし、ご苦労。あっちに言っていいぞ。あとは私がやるから」
放り投げるかのように離すと、きゅー、と言う鳴き声を挙げて、うさぎは首を傾げます。
鳴き声も、仕草の意味も、正邪にはよくわかりません。どうでもいいことでした。自分に好意は持つまい。そう思うだけで十分でした。
弱い相手にはめっぽう強く出るのがあまのじゃくです。本当は世界の全部にそうしてやりたいのですが……小槌が使えなくなった今では、うさぎや病人に強く出るのが精一杯です。
うさぎはとことこと駆けていきました。正邪が担当しない部屋の分にも配膳をしないといけないのですから、そこまでかかずる気にもならなかったのでしょう。
――そして、いくつかの大部屋の配膳を終えて、正邪は草臥れ果てていました。まったくもって、期待はずれでした。入院患者と言うからにはどれだけどんよりとした連中が出てくるのだろう? とわくわくしていたのですが、どの患者も愉快そうでした。殆どが、お年寄りでした。
「ったく、年寄りは話が長いから面倒だ。あいつらはなんだって入院してるんだ、あと百年は死にそうにないぞ」
と、正邪がぼやいてしまうほど、元気がありました――もっとも、元気に見えたのは正邪がそう思っただけで、実際はそうなら入院などはしませんが……他人の事情を斟酌するなんて考えは、あまのじゃくにはありません。相手の希望を砕いてやりたい、望みの逆さまを与えてやりたい、精一杯の嫌がらせをしてやりたい。他人に対して考えるのは、このくらいです。
ともあれ、正邪が何か嫌な言葉を吐こうとしても、
――あらやだ、こんな年寄りをからかってめんこいだなんて。お前さんの方がよっぽどだよ。
話し終わるより先に飛んでくる、こんな言葉で覆い隠されてしまってはいました。力の無い妖怪が、言葉でも敵わないならどうにもなりません。
さて、台車に乗った盆は残り一つです、鈴仙に言われた部屋もあと一つです。
しかし、ドアの前で躊躇ってしまいました。またあの年寄り連中のように下らない話を聞かされ、楽しそうな姿を見させられるのではないかと思って。
とん、とん、とノックをしました。気を使ったわけではありません。朗らかな声が聞こえたら、いっそ逃げ帰ってやろうと思っただけです。
返事はありませんでした。もう一度、ノックをします。やはり返事はありません。
くたばってしまったんだろうか? とも思いましたが、鈴仙の言葉を思えば、そこまで重篤でもないと思い直します。そうすると寝ているんだろうか。ならちょうどいい、たたき起こしてやろう。と考えつつ、ぞんざいにドアを引きました。
「…………」
「昼食だ」
「…………」
「昼を持ってきたぞ」
人はいましたし、死んでも寝てもいませんでした。どんよりとした部屋には、白い肌に薄暗い表情の人間がいました。返事はありませんでしたが。
誰かは知りません。少女と言うよりは少し年上の人間。なにがしかの都合で入院しているのでしょう。いずれにしても、正邪には関心の無いことです。
「お・ひ・る・ご・は・ん!」
耳元に近づいて、大声で叫ぶと、
「……いらない。食べたくない」
弱々しい返事が返ってきます。ここで普通の人間なら「食べないと力が出ませんから頑張りましょう」とか「そんな弱々しい態度で構って貰おうとして、嫌な奴」などと感じるのでしょうが、
「良いから食べろ」
あまのじゃくは「食べたくないと言うなら食べさせてやる」と思うだけです。
くすくす、と笑って、続けます。
「そもそも、この部屋には私とお前しかいないんだ。生かすも殺すも私次第。その意味がわかるかな。この食事にはゴミが混ぜ込んでいるかもしれない。いやいや、毒が入っているかもなあ」
薄く、愉快そうに笑って。「何かが有ったらナースコールがかかるので」と鈴仙が言っていたことは頭から吹き飛んでいました。あまのじゃくの頭は、小槌でもないとその程度です。
「毒……?」
「ああ、お前なんていちころな毒さ」
「本当ですか!? じゃあ食べます、ください」
急に、乗り出すようにして、女の人は正邪に迫ってきます。
「はあ?」
素っ頓狂な声が、正邪から漏れました。
食べたくない、と言う人間なら口に詰め込んでも食べさせてやりたいのがあまのじゃくですが、身を乗り出して「食べます」と翻意されたならば、今度は食わせてやるものか、と思うのがあまのじゃくです。
「さっきまでは食べないと言ってたのに、今度は食べたいって忙しない奴だな。じゃあ、気が変わった。食わせてやるものか」
「食べさせてくださいよ」
「嫌だ。私が食ってやる」
盆にかけられていた蓋を取って、むしゃむしゃ、と正邪は昼食を食べ始めました。少し薄口ではありましたが、中々に美味しい病院食でした。不思議なことに、全く冷めてもいませんでした。
「美味いなあ。ほらほら、もっと見るがいい。私がお前の食事を食べてやるところを」
「嘘つき」
「嘘じゃあない。本当に美味しい食事だ」
「どうでもいいよ」
はあ、とため息をついて、女性はベッドに身を預けます。正邪にも食事にも何の関心もないようでした。そうすると、正邪にはもの足りません。
「うーむ。このおからのクリーミーな風合い。山菜も取り立てだろうな――」
「…………毒、入ってないじゃない。それとも毒を避けて食べて油断でもさせてるの? それなら気にしなくて良いから」
毒なんて持ち合わせているわけもないので当然ですが、女性はひどく残念そうにして、布団に顔をうずめます。
「毒が飲みたいのか」
「と言うか死にたいの。ずっと入院してるのに完治しそうにないし……だいたい今更治ったって……今まで生きてきて、良いこともなかったし。見舞いに来た人は病は気からとかいうけど、治す気力を出す気にもならないし……見舞いも最近はもうないし……だから治ってもどうにもならないだろうし……かといって入院してても人に迷惑をかけるだけで――」
とまあ、弱気な愚痴は続いたのですが、ここは正邪ならずとも聞き流すところです。大事なところは聞き取っていましたが。
「死にたいのか」
「死にたい」
「じゃあお前を殺すものか、私が全身全霊をかけてでも生かしてやる」
長々とした愚痴自体はどうでもよかったのですが。目の前の人間がいかに死にたがっているかということはよくわかりました。となれば、その望みを打ち砕いてやるのがあまのじゃくの楽しみです。
「それになあ、生きることは楽しみだらけだぞ」
そして、永琳の言葉も思い出していました「苦言は薬なり、甘言は病なり」という言葉を。眼前の病人に目一杯の甘言を――目一杯の病を与えてやろう。正邪は思います。
「今まで、楽しいことなんて無かった」
「まあ、ぶっちゃけ私もあんまりない。私みたいな弱い連中は虐げられてばかりだ。こんちくしょう、と思うばかりだったな」
「私もそうよ、みんな楽しそうにしてるけど、私はああはなれないなあ。ちくしょうって思うばっかり」
「清々しいまでの屑野郎だな、お前は。そんな後ろ向きな態度だからつまらないんだろうに。確かに普通の奴が見ていれば『死ね』と言いたくなるが」
「そんなの知ってる」
正邪は、微かに自己嫌悪を覚えました。誰かに対して、正しいことを言っていると感じて。
「しかしだ、そんなお前に、生きる楽しみを教えてやるよ、過去は過去で終わったことだが、未来は未来だ。未来には何があるかわからないぞ。まるで白紙の本のように、無限の可能性が待っている」
「可能性なんてもう信じられる年でもない」
「何が年だ。人間なんてのはどれも、私から見ればあかんぼだ。何百何千年と、私がつまらない人生を送ってきたと思ってる」
「貴方の事なんて知らないわよ。そもそも誰?」
「正邪。鬼人正邪。覚えているがいい、程なくしてこの私が幻想郷の頂点に立つだろうからな」
「……」
女性は、正邪を見やります。子供みたいな背丈に、見るからに弱そうな、愛らしい顔立ち。
「……子供にも勝てそうにないけど」
「だからこそ頂点に立てるのだ。つい先日も、後一歩の所までは行った。惜しくも失敗はしたが……」
「何を?」
「弱き者の楽園。全てをひっくり返した世界だ。お前みたいなゴミクズで後ろ向きで弱っちょろい嫌われ者でも生きる力に溢れる楽園だ。素晴らしいだろう?」
「素敵、かもね」
「ああ、素敵だ。私の組織したレジスタンスは残念ながら破れたが……すぐに再興してやる。レジスタンスは強力だったぞ。あの博麗の巫女や森の魔法使いも一度は逃げ帰ったものだ。魔法使いなど我々の力の虜でな、私に心酔しては帰順したものだ」
「魔法使い。魔理沙さん?」
「顔見知りか?」
「あったことはないけど……新聞なんかで見るわ。空を飛び回って、強力な魔法を使う魔法使い。いいわね、ああいう才能のある人は。私は飛ぶどころか歩くのもつらい。努力をする体力ももう無いわ」
「ふむ、お前は実にレジスタンス向きの人材だな」
正邪は、にやり、と得意そうに笑います。確かに、才能もない、努力も出来ない――逆さまの世界向けです。
「お前みたいな才能もなくて努力も出来なくて後ろ向きでぼやいているだけのカスこそが必要なのだ。逆さまの世界では、それこそが最強になる。才能に溢れる努力家で前向きな人間となるのだからな」
「魔理沙さんより?」
「むしろあれが最弱になるな。私に従うのはいいが、まったく戦力にならなかった。まあ、我々の強化した道具の助けがあってそこそこの力は持てていたが……私や小人にただの楽器の付喪神。この辺とは比較にならなかったものだ」
「不思議」
「何が不思議なのだ」
「だって、そんなに強い人なのに結局失敗したんでしょう? 気休めならいらないわよ」
「気休めなど言うものか、私は嘘など付かない」
思いっきりの嘘を、正邪は力強く言いました。
「レジスタンスには秘宝があったのだ、打ち出の小槌。知っているか?」
「どんな願いも叶う小槌……だっけ。一寸法師を大きくしたり。おとぎ話で聞いたかな」
「うむ。だが、あれはおとぎ話の産物ではない。実在して、私は活用したのだ。しかし、二つほど問題があった」
「何? 願いは実は叶わないとか?」
「いやいや、掛け値無しの秘宝だ。それは、どんな願いも叶える秘宝だ。故に、我が望みも叶えられた――強者が弱者になり、弱者が強者になる反転した世界を作り出した。しかし、やや副作用があってな。一つは願いに見合った代償を求めること……今回は、力を得た物が凶暴化するるという形だったが。そしてもう一つは、力に限りがあったということだ。敗因はそこだな。全てを反転しきるより早く、力が尽きてしまった」
「残念」
女性は、首を振って、ため息を付きました。
「ああ、全く持って残念だ」
ここは本心で、肩を落としつつ、正邪も呟きます。それから、「しかし」と思い直します。
「しかしだ、私は今回の件で学んだよ。端的に言えば、生きていれば何があるかわからんということだ。生きていれば、常に逆転の可能性はあるということを知ったのだ。私はずっと思っていた。強者を叩きのめしてやりたいと、この安定した幻想郷をたたき壊し、弱者が物を言う世界にしてやりたいと」
「でも、結局駄目だったじゃない」
「お前は後ろ向きなだけじゃなくアホなのか。私は可能性の話をしているんだ。長年強者に一泡吹かせてやりたいと思い……力不足で適わなかった。しかし、私はあの逆さ城――輝針城と、打ち出の小槌を見つけ、可能性を見つけた。それは、私ですら、いや、私だからこそ強者にしてくれる秘宝だったのだ。強者に抗う力を与えてくれる物だったのだ。一泡は吹かせてやったさ。巫女も一度は逃げ帰り、魔法使いは私に心酔。あのメイド長も随分と荒ぶっていたと聞く。ならば、今度は次の可能性を捜すだけだ、そいつを捜すには生きてなければな」
「生きてれば、何があるかわからないか……」
「その通り。私がどっかでくたばってれば、打ち出の小槌を知ることも、未来に待つ可能性を知ることはなかった。だからこそ、私は次の可能性を探っている。私が幻想郷の王となる日を」
と、虫をばらまいては嫌がらせをしようくらいしか考えていなかったあまのじゃくは言います。
「だから、お前も死ぬとか言うな。生きろ。生きていれば何があるかわからん。治らないなどと言うな、養生しろ、私が今度こそ完璧な方法を見つけたときには、お前を腹心にするのもやぶさかではない。弱き者こそが最強になる世界では、お前みたいな奴が重要なのだからな」
その場しのぎの適当なことを。「死にたい」と願う人間の願いを叶えたくない一心で、甘言を吐いてきます。
「私でもいいのかな……」
「でも、じゃない、お前だから私は求めている」
「だから、か。そうかもしれない……もう少し、生きてみます。生きてみたく思いました。いつか正邪さんが逆さまの世界を作ったときには、呼んでくださいね」
「うむ。共に弱き者の楽園を作ろう」
流石に長々と話していただけに、正邪は疲れたと思いました。
しかし、清々しい気分でした。愉悦が、心に溢れてきます。あれほどに死にたいと願っていた人間を、変えてやれました。願いをぶち壊してやりました。病人に向けて、ありったけの病を――甘言を吐くことも出来ました。
疲れた顔で死にたいと願っていた人間は、幾らか爽やかな顔で生きようと思っていました。あまのじゃくの手で、逆さまにさせられてしまいました。
「よし、じゃあ私は行くぞ」
「はい。……少し、力が沸いてきた気がします、ありがとうございました」
「ありがとう?」
微かな笑みと共に投げられた「ありがとう」という言葉を聞いて、正邪は顔をしかめてもしまいましたが。人の願いをぶち壊すようなことはあまのじゃくの大好物ですが、感謝なんてのは鳥肌が立つほどです。苦い顔で、正邪は出ていきました。ガタン、とドアを引いて。
それから少し、女の人はぼんやりとした目をして、
「お腹すいたな……」
と呟きました。彼女はボタンを押して、マイクに話しかけます。
「あの、すいません。昼食がまだですので運んできて貰えないでしょうか? ……え、あ、はい。その、そちらの正邪さんが全部食べてしまったので……」
と言うと、鈴仙が大急ぎで食事を運んできました。怒り心頭という表情で。
◇
「師匠!」
激怒を訴えるには仕事が溜まっていたので、幾らか時間差はありましたが、その分怒りも練り上げられたのか、扉を開くなり、怒鳴りつけるように言いました。
相変わらず書類に追われる永琳も振り向いています。目をつり上げるようにして怒る鈴仙をみやっています。
「一体全体なんなんですかあいつは! 『何かしても黙って見てなさい』とは確かに言ってました。だからあいつが昼近くまで寝てても何も言いませんでしたけど、患者さんの昼を食べるとかもう人として終わってるどころじゃないですよ! 食事なんてのは入院での僅かな楽しみだからとみんなで頑張って作ってるのに」
「まあ、食べる気力があるならそうかもね。点滴だけでも死にはしないけれど」
「食べる気力を出すまでは私の範囲外ですけど……病は気からとはいいますし、頑張って励ましてます。少しでも気力が生まれるように私たちは頑張って――」
そんな鈴仙を見ながら、永琳は呟きます。
「誰もが嫌がる不気味な虫でも、人のためになる薬の材料になるわ。そういうことだと思うけれど」
「また師匠はそういうややこしいことで誤魔化して」
「別にややこしいことでもないと思うけれど。懇切丁寧に診断しては対処していても、ヤブ医者じゃあどうにもならないって話で。もちろん、貴方がヤブ医者ってわけではないわよ?」
「私は確かに師匠ほどの医療の知識はありませんが、人並みの常識はありますよ、あの馬鹿と違って」
「とにかく、仕事に戻りなさい。山積みなんだから」
「どっかの馬鹿が増やしたせいだと思いますが」
「そう怒らないの、仕事が終わったら、私のお酒を飲んで良いわ……あの部屋の棚に並べているお酒を。口は開いてるだろうけど」
「あれは師匠が大切にしていたんじゃ……いつの間に開けたんですか? ともあれ仕事には戻りますよ。はい」
不承不承、と言う体で、鈴仙は部屋を後にしました。頬を膨らませるようにしながら。
それから、永琳はまた書類にペンを走らせます。入院患者と、薬を渡している相手の全てを、彼女は把握しないといけないのですから。
それから、書類にどれだけペンを走らせたのか。日も暮れてきた頃に、正邪が姿を見せました。
「あー。疲れた」
と言いながら。昼食を食べては願いを打ち砕き、あとは外でのんびりしていただけので疲れる要素はあまりありませんでしたが、
「お疲れ様。仕事はどうだった?」
と永琳は問いかけます。
「まあ、大変だったねえ。でも、やり甲斐のある一日だったよ。精一杯に煽って、もとい激励してやった」
「そう」
と呟き、椅子を回し、永琳は微笑みかけました。
「あまり続ける気には見えないわね。残念かもしれないけれど」
「楽しかったけれど、確かにこう旨い相手はそうそういない……いや、確かに疲れはしたな」
精一杯に頭を回して、死にたいという希望をへし折ってはやりましたが、毎日という気には到底なりません。お年寄りの話を聞かされるのは心底疲れましたし……
「また気が向いたらやってやってもいいかもしれない。ただ、今日はもう帰って休むよ。……抜けるだけでも面倒そうだが」
「それなら地図があるわ。貴方の働きへの感謝代わりかしら。ああ」
と、机を開けて、永琳はお金を取り出します。
「これは今日の給料。それじゃお疲れ様。服は置いていってね」
「もちろん、看護師はもうこれきりだろうしさ。よほど気でも向かない限り」
と言って、正邪は着替えに向かいます。着替え終わればもうおしまい。看護師ごっこもこれまで。とっとと帰って酒でも飲もうと思うだけです。今日からかってやったあの死にたがりだけで最高の肴だと思いながら。
着替えて、彼女は永遠亭の門を目指します。永琳に見送られながら、鈴仙の憤りなど知らぬまま。
「それじゃまた。今日はありがとう」
と言われればぶるぶると身を震わせて、
「その言葉が一番気持ち悪いんだ。頼むからやめてくれ」
そう言って、逃げるように飛んでいきました。
「天邪鬼となんとかは使いようかしら」
背に投げられた声を聞くこともなく、微笑んだ永琳の顔を見ることも無く、一人の患者に希望を与えたとは考えるわけもなく、誰からも嫌われるあまのじゃくは飛んでいきました。ただ一人で、ひとりぼっちの我が家を目指して。
何がどうしてこうなったのかとは思いつつも、正邪はナイフに手を伸ばします。目の前には背を向けた永琳。ここは、永琳の部屋です。書類を書くのに忙しいようで、正邪を見る余裕は無いようでした。正邪はナイフに力を込めます。
「不味い、なんて不味いんだ。人に残り物を出すだけでもどうかというのに味まで酷い」
そして、呟きました。人を困らせるのは何よりの楽しみですし、目の前の永琳は隙だらけに思えましたが、ナイフで突き刺すわけもありません。もっとこぢんまりとして下らない嫌がらせの方が、正邪好みではあります。
もっとも、ナイフで刺そうと襲ったら転んで自分に刺してしまう――そのくらい鈍くさいという事情もあるのですが。あまのじゃくなんてのは実に弱くてのろまな妖怪です。子供と相撲を取ったら泣かされるのはあまのじゃく、そのくらいは弱いのです。
だからこそ、逆さ城ではあれほど恐ろしい存在だったのですが……もう、過去の話。ここにあるのは弱い弱いあまのじゃくに、美味しい料理。力を入れるまでもなく、柔らかなムニエルは切ることができます。
暖かなムニエルにスープ、それと、ふかふかのパン。どれも美味しいものでした。グラスの水ですら、ほんのりと甘い水でした。月の機械で、単に浄水されるだけでなく、ミネラルなども補われた水。どれも、美味しいだけではなくて、体にも優しい食事です。
「こんなのを食べたら真っ先に病院送りだな。塩っ辛いし焦げ臭いし水は変な臭いがするし」
となれば、あまのじゃくの感想としてはこうなってしまいます。さて、目の前の医者はどんな反応をするのだろう。正邪はわくわくとしました。罵声を投げかけてくるか、怒って殴りつけてくるか、それとも。
どれでも大差はありません。向こうが嫌な思いをして、怒ったとなれば、それ以上の喜びは無いのですから。
「やっぱりねえ。苦言は薬なり、甘言は病なりと言うものだけれど……正直な意見が聞けるのは有り難いことだわ」
「あ?」
「いや、今日の食事は私が作ったのだけれど……難しいわね。栄養バランスだけならしっかり整えられる自信はあるわ。でも、味にはあまり自信が……」
「ううむ……そこまで不味い……不味いな」
「だから色々と試しているんだけれど、家の姫様や弟子は、気を使っているのか、絶賛しかしてくれないのよ。自分では食べられる味とは思うけど、自分の感覚だけじゃ不安で」
そんな言葉を聞きつつ、スープを一口。美味い、と正邪は感じました。もしかすると、自分の場合は味覚まで人とあべこべなのだろうか? 今までそう思ったことはありませんでしたが、永琳の言葉を聞いて、少し疑ってしまいました。
「何にしても、諫言をしてくれる人は得難いもの。有り難いわね。後学のためになるもの」
「……」
ちっ、と聞こえるように舌打ち。人が喜んでいる姿なんて、何よりも見たくないのがあまのじゃくなのですから。しまった、失敗した。と自己嫌悪に陥ってしまうほどです。
むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、と無言のまま、掻き込むように食事を終えました。
「あら、それでも全部食べてくれたのね。ありがとう」
「こんな不味い飯、味を感じる前に食べなきゃぶっ倒れる」
「早飯早なんたら芸の内。か。ねえ、正邪さん」
「ん? 何だ?」
と聞かれて、おや、と正邪は思います。名前など言っていたっけ? と。自分はただの虫売りとしか思われていないはずだったが――もしかすると、何かで自分を知られているのだろうか? と考えています。
幻想郷縁起にも記されない木っ端妖怪。先日の異変では少し動いたけれど……あれは小人の小槌が暴れたとしか知られてないはずだ、と思い直しつつも。
とはいえ、「何だ?」と、思わず呟いてしまったからには、答えるしかありませんでした。
「家で、仕事をしてみる気はない? いつもいつも人手不足なの。貴方は、向いてる気がするわ。貴方みたいな正直者は……苦言は薬だからね」
そんな、僅かな不安もすぐに吹き飛びました。正直者、よりによってこの自分を正直者と。元より、目の前の医者が間抜けだとは思っていました。何が月の頭脳だ、ただの世間知らずじゃないかと。
正邪は、今日も今日とて嫌がらせをしてやろうと思っていたのです。虫かご一杯に「かさかさ」と音を立てる不気味な虫を詰めて、永遠亭にばらまいてやろうと思ったのです。そこは入院している患者もいると聞いていたので、これはいい気味だと思いつつ。迷っては迷って、たどり着いたらすっかり夜更けにはなっていましたが。
ともあれ、嫌がらせのつもりが、「ありがとう! 薬の原料が届かなくて困ってたのよ」と言われては、「遅いから夕食を食べていく? 残り物だけど」などと誘われ、今に至ります。
食事は美味しかったのですが、なんとも物足りない気分でした。期せずして相手の願いを叶えてしまった。と思うと、ため息の一つも尽きたいような自己嫌悪に見舞われます。
「貴方さえよければ家で働いてみない、と思って」
そんな言葉が飛んできたなら、腹を抱えて笑いそうになりました。嘘に騙される馬鹿を見るなんてのは、あまのじゃくにはこの上ないご馳走です。からかったはずが正直者呼ばわり。どこまで抜けているんだこいつは。と吹き出しそうになりました。
「仕事とはなんだ」
「まあ、看護師ね。入院している人の世話をするの」
「かったるそうな仕事だな」
「まあ、ねえ。人の嫌がる仕事かもね。仕事自体はともあれ、こんな辺鄙な場所で働く人はまずいないし、そうすれば人手不足でしわ寄せもくるわ。夜中でも患者のために詰めてないといけないし、休憩もままならなかったり」
「ふうむ」
「病人なんてのは心も弱ってるからね。時にはきつい言葉を言われたり。今は鈴仙とうさぎたちがなんとかしているけれど……うさぎはうさぎだし――」
永琳は、蕩々と、いかに厳しい仕事か、どれだけ人から倦厭されている仕事かと言うことを蕩々と説いていきます。
「……まあ、仕事自体がどうっていうより、とにかく人手不足なの。だから辛いわ。でも、人手が集まればとてもやり甲斐の有る仕事よ。私たちは人を救う仕事なんだし、患者さんも時には辛い愚痴を吐くけれど、それもまた、私たちを頼っていることの表れで」
「面白そうだな」
とこれは心情を正しく言いました。「人の嫌がる仕事」これだけで、あまのじゃくには非常に魅力的に感じられます。
「しかも、弱った心で私を頼るしかない……」
ともなれば、興奮で胸が張り裂けそうでした。必死に自分を頼ってくる相手を叩きのめしてやる。なんとも甘美な喜びが胸に迫ってきます。ましてや、あいては病人。子供にも負ける妖怪ですら、病人相手なら強く出て不安は有りません。
「あら、案外興味がありそうね? 自分で言っておいて案外と言うのもだけれど……よかったら、一日、体験就業でもしてみない?」
「体験か」
「貴方がそれでよいとなれば――まあ、こっちとしても貴方が働かせるに足りると思えば、今後もと」
「いいだろう」
と、正邪は頷きました。考えるまでもありませんでした。こんなにも愉快なことはそうそう無いと思ったからです。
「よかった。じゃあ、今日は泊まっていって。今から帰ると大変だろうし……部屋を用意させておくから」
それから少しして、一匹のうさぎが呼びに来ました。うさぎに促された部屋は、開いている病室ではなく、美しい和室でした。布団の支度もされています。服が、二つ置いてありました。一つは寝間着……もう一つはぱっとはわかりませんでしたが、うさぎの身振り手振りを見て、「ああ、制服か」と理解します。
「わかった、明日はこれを着れば良いんだろう?」というと、ぴょこり、とうなづき、うさぎは去っていきました。
部屋の時計を見れば、なかなかに遅い時間です。疲れていました。「ふわあああ」と言う大あくびが飛び出てきました。
とはいえ、なかなか寝付くことは出来ませんでした。明日は何をしてやろうかと思うだけで、興奮で目が覚めてしまいます。食事にゴミでも混ぜてやろうか、ベッドを滅茶苦茶にしてやろうか、そして弱った心にどんなひどい言葉を投げかけてやろうか。
思っているといつまでも眠れそうにはありません。部屋には、棚がありました。傍目にも高級そうなお酒が並んでいました。どうせ明日には追い出される身、と思いつつ、瓶からそのまま飲んでいきます。それでも中々寝付けないほどに、正邪は明日が楽しみでなりませんでした。
◇
と、飲んだくれていたせいか、起きれば昼近くでした。何一つ気にやみはしませんでした。
ああ、今日は働くんだっけ。人手不足と言ってたから困っているんだろうとは考えました。うさぎ連中が困っていると思えば、笑みがこぼれそうです。
起こしに来る気配もなかったので、だらだらと二度寝をしてもよかったのですが、大きく背伸びをして、大あくびをして、気を取り直します。
もっと愉快なことが待っていると知っていたからです。入院している連中へ、目一杯の嫌がらせをしてやろうかと思いつつ、看護師の服に着替えては、寝ぼけ眼で部屋を出ました。
少し歩くと、水場がありました。顔を洗い、清潔な白衣に、やはり白い帽子を被れば、正邪ですら、いかにも医療関係者という雰囲気です。
「おはようございます」
「ああ、こんばんは」
それに比べるとあまり看護師には見えないうさぎを、ブレザーにスカートのうさぎ――鈴仙を見かけました。どう考えても寝坊したというのに怒ったりと言う様子は無かったので、正邪は少し物足りなく思いました。
「看護師をやることにしたんだ」
「はい、師匠から伺ってます」
「で、どこで何をすればいいのかな?」
「ええと……付いてきてください」
白衣に着替えた正邪は、鈴仙の後に付いていきます。そして、扉を開けては鈴仙は言います。
「ここからが病棟になります、ここに地図が貼ってますので、迷ったら見てください」
外観から見れば木造の家屋でしかないのですが、そこからは確かに空気が大きく変わっていました。空気清浄機のおかげで、空気自体が綺麗でもあります。
「病棟と言っても細かく別れていて……例えば入るときに全身を消毒する気密室とかもあって……でも、そこは私か師匠しか行きませんし、今はそういう感染症の人もいません。で――」
永琳の言葉を思い出しつつ、鈴仙は続けます。いくつかの番号を言って、それから、地図を示して、
「――こことここにこっちかな……この辺の患者さんを見てあげてください。患者さんと言っても今すぐに生き死にという人じゃないんで、気を張らなくても。部屋を掃除してあげたり、食事を配膳してあげたり、それだけで。万一何かあったら、ナースコールのボタンが有ります。私か師匠が駆けつけますから押してください」
「わかった。でも、そんな生きるか死ぬかでもないなら入院する必要もないんじゃないかね」
「いや、それでも適切な治療をするためにしっかりと管理はしないと。ともあれ、困ったことがあったら呼んでください。薬の準備やらで永遠亭の方にいますが、駆けつけますので」
と話していると、うさぎが台車を押してきました。何せうさぎですので、上の取っ手にも手が届かないのですが、どうにか押せてはいました。
「丁度よかった、もう昼なので配膳を手伝ってください。それでは」
よほど忙しいのでしょう、そう言い残すと、鈴仙は早足に去っていきました。小さな体で、精一杯に台車を押すうさぎと、正邪だけが残されます。ちいさなうさぎの首根っこを掴んで、
「よし、ご苦労。あっちに言っていいぞ。あとは私がやるから」
放り投げるかのように離すと、きゅー、と言う鳴き声を挙げて、うさぎは首を傾げます。
鳴き声も、仕草の意味も、正邪にはよくわかりません。どうでもいいことでした。自分に好意は持つまい。そう思うだけで十分でした。
弱い相手にはめっぽう強く出るのがあまのじゃくです。本当は世界の全部にそうしてやりたいのですが……小槌が使えなくなった今では、うさぎや病人に強く出るのが精一杯です。
うさぎはとことこと駆けていきました。正邪が担当しない部屋の分にも配膳をしないといけないのですから、そこまでかかずる気にもならなかったのでしょう。
――そして、いくつかの大部屋の配膳を終えて、正邪は草臥れ果てていました。まったくもって、期待はずれでした。入院患者と言うからにはどれだけどんよりとした連中が出てくるのだろう? とわくわくしていたのですが、どの患者も愉快そうでした。殆どが、お年寄りでした。
「ったく、年寄りは話が長いから面倒だ。あいつらはなんだって入院してるんだ、あと百年は死にそうにないぞ」
と、正邪がぼやいてしまうほど、元気がありました――もっとも、元気に見えたのは正邪がそう思っただけで、実際はそうなら入院などはしませんが……他人の事情を斟酌するなんて考えは、あまのじゃくにはありません。相手の希望を砕いてやりたい、望みの逆さまを与えてやりたい、精一杯の嫌がらせをしてやりたい。他人に対して考えるのは、このくらいです。
ともあれ、正邪が何か嫌な言葉を吐こうとしても、
――あらやだ、こんな年寄りをからかってめんこいだなんて。お前さんの方がよっぽどだよ。
話し終わるより先に飛んでくる、こんな言葉で覆い隠されてしまってはいました。力の無い妖怪が、言葉でも敵わないならどうにもなりません。
さて、台車に乗った盆は残り一つです、鈴仙に言われた部屋もあと一つです。
しかし、ドアの前で躊躇ってしまいました。またあの年寄り連中のように下らない話を聞かされ、楽しそうな姿を見させられるのではないかと思って。
とん、とん、とノックをしました。気を使ったわけではありません。朗らかな声が聞こえたら、いっそ逃げ帰ってやろうと思っただけです。
返事はありませんでした。もう一度、ノックをします。やはり返事はありません。
くたばってしまったんだろうか? とも思いましたが、鈴仙の言葉を思えば、そこまで重篤でもないと思い直します。そうすると寝ているんだろうか。ならちょうどいい、たたき起こしてやろう。と考えつつ、ぞんざいにドアを引きました。
「…………」
「昼食だ」
「…………」
「昼を持ってきたぞ」
人はいましたし、死んでも寝てもいませんでした。どんよりとした部屋には、白い肌に薄暗い表情の人間がいました。返事はありませんでしたが。
誰かは知りません。少女と言うよりは少し年上の人間。なにがしかの都合で入院しているのでしょう。いずれにしても、正邪には関心の無いことです。
「お・ひ・る・ご・は・ん!」
耳元に近づいて、大声で叫ぶと、
「……いらない。食べたくない」
弱々しい返事が返ってきます。ここで普通の人間なら「食べないと力が出ませんから頑張りましょう」とか「そんな弱々しい態度で構って貰おうとして、嫌な奴」などと感じるのでしょうが、
「良いから食べろ」
あまのじゃくは「食べたくないと言うなら食べさせてやる」と思うだけです。
くすくす、と笑って、続けます。
「そもそも、この部屋には私とお前しかいないんだ。生かすも殺すも私次第。その意味がわかるかな。この食事にはゴミが混ぜ込んでいるかもしれない。いやいや、毒が入っているかもなあ」
薄く、愉快そうに笑って。「何かが有ったらナースコールがかかるので」と鈴仙が言っていたことは頭から吹き飛んでいました。あまのじゃくの頭は、小槌でもないとその程度です。
「毒……?」
「ああ、お前なんていちころな毒さ」
「本当ですか!? じゃあ食べます、ください」
急に、乗り出すようにして、女の人は正邪に迫ってきます。
「はあ?」
素っ頓狂な声が、正邪から漏れました。
食べたくない、と言う人間なら口に詰め込んでも食べさせてやりたいのがあまのじゃくですが、身を乗り出して「食べます」と翻意されたならば、今度は食わせてやるものか、と思うのがあまのじゃくです。
「さっきまでは食べないと言ってたのに、今度は食べたいって忙しない奴だな。じゃあ、気が変わった。食わせてやるものか」
「食べさせてくださいよ」
「嫌だ。私が食ってやる」
盆にかけられていた蓋を取って、むしゃむしゃ、と正邪は昼食を食べ始めました。少し薄口ではありましたが、中々に美味しい病院食でした。不思議なことに、全く冷めてもいませんでした。
「美味いなあ。ほらほら、もっと見るがいい。私がお前の食事を食べてやるところを」
「嘘つき」
「嘘じゃあない。本当に美味しい食事だ」
「どうでもいいよ」
はあ、とため息をついて、女性はベッドに身を預けます。正邪にも食事にも何の関心もないようでした。そうすると、正邪にはもの足りません。
「うーむ。このおからのクリーミーな風合い。山菜も取り立てだろうな――」
「…………毒、入ってないじゃない。それとも毒を避けて食べて油断でもさせてるの? それなら気にしなくて良いから」
毒なんて持ち合わせているわけもないので当然ですが、女性はひどく残念そうにして、布団に顔をうずめます。
「毒が飲みたいのか」
「と言うか死にたいの。ずっと入院してるのに完治しそうにないし……だいたい今更治ったって……今まで生きてきて、良いこともなかったし。見舞いに来た人は病は気からとかいうけど、治す気力を出す気にもならないし……見舞いも最近はもうないし……だから治ってもどうにもならないだろうし……かといって入院してても人に迷惑をかけるだけで――」
とまあ、弱気な愚痴は続いたのですが、ここは正邪ならずとも聞き流すところです。大事なところは聞き取っていましたが。
「死にたいのか」
「死にたい」
「じゃあお前を殺すものか、私が全身全霊をかけてでも生かしてやる」
長々とした愚痴自体はどうでもよかったのですが。目の前の人間がいかに死にたがっているかということはよくわかりました。となれば、その望みを打ち砕いてやるのがあまのじゃくの楽しみです。
「それになあ、生きることは楽しみだらけだぞ」
そして、永琳の言葉も思い出していました「苦言は薬なり、甘言は病なり」という言葉を。眼前の病人に目一杯の甘言を――目一杯の病を与えてやろう。正邪は思います。
「今まで、楽しいことなんて無かった」
「まあ、ぶっちゃけ私もあんまりない。私みたいな弱い連中は虐げられてばかりだ。こんちくしょう、と思うばかりだったな」
「私もそうよ、みんな楽しそうにしてるけど、私はああはなれないなあ。ちくしょうって思うばっかり」
「清々しいまでの屑野郎だな、お前は。そんな後ろ向きな態度だからつまらないんだろうに。確かに普通の奴が見ていれば『死ね』と言いたくなるが」
「そんなの知ってる」
正邪は、微かに自己嫌悪を覚えました。誰かに対して、正しいことを言っていると感じて。
「しかしだ、そんなお前に、生きる楽しみを教えてやるよ、過去は過去で終わったことだが、未来は未来だ。未来には何があるかわからないぞ。まるで白紙の本のように、無限の可能性が待っている」
「可能性なんてもう信じられる年でもない」
「何が年だ。人間なんてのはどれも、私から見ればあかんぼだ。何百何千年と、私がつまらない人生を送ってきたと思ってる」
「貴方の事なんて知らないわよ。そもそも誰?」
「正邪。鬼人正邪。覚えているがいい、程なくしてこの私が幻想郷の頂点に立つだろうからな」
「……」
女性は、正邪を見やります。子供みたいな背丈に、見るからに弱そうな、愛らしい顔立ち。
「……子供にも勝てそうにないけど」
「だからこそ頂点に立てるのだ。つい先日も、後一歩の所までは行った。惜しくも失敗はしたが……」
「何を?」
「弱き者の楽園。全てをひっくり返した世界だ。お前みたいなゴミクズで後ろ向きで弱っちょろい嫌われ者でも生きる力に溢れる楽園だ。素晴らしいだろう?」
「素敵、かもね」
「ああ、素敵だ。私の組織したレジスタンスは残念ながら破れたが……すぐに再興してやる。レジスタンスは強力だったぞ。あの博麗の巫女や森の魔法使いも一度は逃げ帰ったものだ。魔法使いなど我々の力の虜でな、私に心酔しては帰順したものだ」
「魔法使い。魔理沙さん?」
「顔見知りか?」
「あったことはないけど……新聞なんかで見るわ。空を飛び回って、強力な魔法を使う魔法使い。いいわね、ああいう才能のある人は。私は飛ぶどころか歩くのもつらい。努力をする体力ももう無いわ」
「ふむ、お前は実にレジスタンス向きの人材だな」
正邪は、にやり、と得意そうに笑います。確かに、才能もない、努力も出来ない――逆さまの世界向けです。
「お前みたいな才能もなくて努力も出来なくて後ろ向きでぼやいているだけのカスこそが必要なのだ。逆さまの世界では、それこそが最強になる。才能に溢れる努力家で前向きな人間となるのだからな」
「魔理沙さんより?」
「むしろあれが最弱になるな。私に従うのはいいが、まったく戦力にならなかった。まあ、我々の強化した道具の助けがあってそこそこの力は持てていたが……私や小人にただの楽器の付喪神。この辺とは比較にならなかったものだ」
「不思議」
「何が不思議なのだ」
「だって、そんなに強い人なのに結局失敗したんでしょう? 気休めならいらないわよ」
「気休めなど言うものか、私は嘘など付かない」
思いっきりの嘘を、正邪は力強く言いました。
「レジスタンスには秘宝があったのだ、打ち出の小槌。知っているか?」
「どんな願いも叶う小槌……だっけ。一寸法師を大きくしたり。おとぎ話で聞いたかな」
「うむ。だが、あれはおとぎ話の産物ではない。実在して、私は活用したのだ。しかし、二つほど問題があった」
「何? 願いは実は叶わないとか?」
「いやいや、掛け値無しの秘宝だ。それは、どんな願いも叶える秘宝だ。故に、我が望みも叶えられた――強者が弱者になり、弱者が強者になる反転した世界を作り出した。しかし、やや副作用があってな。一つは願いに見合った代償を求めること……今回は、力を得た物が凶暴化するるという形だったが。そしてもう一つは、力に限りがあったということだ。敗因はそこだな。全てを反転しきるより早く、力が尽きてしまった」
「残念」
女性は、首を振って、ため息を付きました。
「ああ、全く持って残念だ」
ここは本心で、肩を落としつつ、正邪も呟きます。それから、「しかし」と思い直します。
「しかしだ、私は今回の件で学んだよ。端的に言えば、生きていれば何があるかわからんということだ。生きていれば、常に逆転の可能性はあるということを知ったのだ。私はずっと思っていた。強者を叩きのめしてやりたいと、この安定した幻想郷をたたき壊し、弱者が物を言う世界にしてやりたいと」
「でも、結局駄目だったじゃない」
「お前は後ろ向きなだけじゃなくアホなのか。私は可能性の話をしているんだ。長年強者に一泡吹かせてやりたいと思い……力不足で適わなかった。しかし、私はあの逆さ城――輝針城と、打ち出の小槌を見つけ、可能性を見つけた。それは、私ですら、いや、私だからこそ強者にしてくれる秘宝だったのだ。強者に抗う力を与えてくれる物だったのだ。一泡は吹かせてやったさ。巫女も一度は逃げ帰り、魔法使いは私に心酔。あのメイド長も随分と荒ぶっていたと聞く。ならば、今度は次の可能性を捜すだけだ、そいつを捜すには生きてなければな」
「生きてれば、何があるかわからないか……」
「その通り。私がどっかでくたばってれば、打ち出の小槌を知ることも、未来に待つ可能性を知ることはなかった。だからこそ、私は次の可能性を探っている。私が幻想郷の王となる日を」
と、虫をばらまいては嫌がらせをしようくらいしか考えていなかったあまのじゃくは言います。
「だから、お前も死ぬとか言うな。生きろ。生きていれば何があるかわからん。治らないなどと言うな、養生しろ、私が今度こそ完璧な方法を見つけたときには、お前を腹心にするのもやぶさかではない。弱き者こそが最強になる世界では、お前みたいな奴が重要なのだからな」
その場しのぎの適当なことを。「死にたい」と願う人間の願いを叶えたくない一心で、甘言を吐いてきます。
「私でもいいのかな……」
「でも、じゃない、お前だから私は求めている」
「だから、か。そうかもしれない……もう少し、生きてみます。生きてみたく思いました。いつか正邪さんが逆さまの世界を作ったときには、呼んでくださいね」
「うむ。共に弱き者の楽園を作ろう」
流石に長々と話していただけに、正邪は疲れたと思いました。
しかし、清々しい気分でした。愉悦が、心に溢れてきます。あれほどに死にたいと願っていた人間を、変えてやれました。願いをぶち壊してやりました。病人に向けて、ありったけの病を――甘言を吐くことも出来ました。
疲れた顔で死にたいと願っていた人間は、幾らか爽やかな顔で生きようと思っていました。あまのじゃくの手で、逆さまにさせられてしまいました。
「よし、じゃあ私は行くぞ」
「はい。……少し、力が沸いてきた気がします、ありがとうございました」
「ありがとう?」
微かな笑みと共に投げられた「ありがとう」という言葉を聞いて、正邪は顔をしかめてもしまいましたが。人の願いをぶち壊すようなことはあまのじゃくの大好物ですが、感謝なんてのは鳥肌が立つほどです。苦い顔で、正邪は出ていきました。ガタン、とドアを引いて。
それから少し、女の人はぼんやりとした目をして、
「お腹すいたな……」
と呟きました。彼女はボタンを押して、マイクに話しかけます。
「あの、すいません。昼食がまだですので運んできて貰えないでしょうか? ……え、あ、はい。その、そちらの正邪さんが全部食べてしまったので……」
と言うと、鈴仙が大急ぎで食事を運んできました。怒り心頭という表情で。
◇
「師匠!」
激怒を訴えるには仕事が溜まっていたので、幾らか時間差はありましたが、その分怒りも練り上げられたのか、扉を開くなり、怒鳴りつけるように言いました。
相変わらず書類に追われる永琳も振り向いています。目をつり上げるようにして怒る鈴仙をみやっています。
「一体全体なんなんですかあいつは! 『何かしても黙って見てなさい』とは確かに言ってました。だからあいつが昼近くまで寝てても何も言いませんでしたけど、患者さんの昼を食べるとかもう人として終わってるどころじゃないですよ! 食事なんてのは入院での僅かな楽しみだからとみんなで頑張って作ってるのに」
「まあ、食べる気力があるならそうかもね。点滴だけでも死にはしないけれど」
「食べる気力を出すまでは私の範囲外ですけど……病は気からとはいいますし、頑張って励ましてます。少しでも気力が生まれるように私たちは頑張って――」
そんな鈴仙を見ながら、永琳は呟きます。
「誰もが嫌がる不気味な虫でも、人のためになる薬の材料になるわ。そういうことだと思うけれど」
「また師匠はそういうややこしいことで誤魔化して」
「別にややこしいことでもないと思うけれど。懇切丁寧に診断しては対処していても、ヤブ医者じゃあどうにもならないって話で。もちろん、貴方がヤブ医者ってわけではないわよ?」
「私は確かに師匠ほどの医療の知識はありませんが、人並みの常識はありますよ、あの馬鹿と違って」
「とにかく、仕事に戻りなさい。山積みなんだから」
「どっかの馬鹿が増やしたせいだと思いますが」
「そう怒らないの、仕事が終わったら、私のお酒を飲んで良いわ……あの部屋の棚に並べているお酒を。口は開いてるだろうけど」
「あれは師匠が大切にしていたんじゃ……いつの間に開けたんですか? ともあれ仕事には戻りますよ。はい」
不承不承、と言う体で、鈴仙は部屋を後にしました。頬を膨らませるようにしながら。
それから、永琳はまた書類にペンを走らせます。入院患者と、薬を渡している相手の全てを、彼女は把握しないといけないのですから。
それから、書類にどれだけペンを走らせたのか。日も暮れてきた頃に、正邪が姿を見せました。
「あー。疲れた」
と言いながら。昼食を食べては願いを打ち砕き、あとは外でのんびりしていただけので疲れる要素はあまりありませんでしたが、
「お疲れ様。仕事はどうだった?」
と永琳は問いかけます。
「まあ、大変だったねえ。でも、やり甲斐のある一日だったよ。精一杯に煽って、もとい激励してやった」
「そう」
と呟き、椅子を回し、永琳は微笑みかけました。
「あまり続ける気には見えないわね。残念かもしれないけれど」
「楽しかったけれど、確かにこう旨い相手はそうそういない……いや、確かに疲れはしたな」
精一杯に頭を回して、死にたいという希望をへし折ってはやりましたが、毎日という気には到底なりません。お年寄りの話を聞かされるのは心底疲れましたし……
「また気が向いたらやってやってもいいかもしれない。ただ、今日はもう帰って休むよ。……抜けるだけでも面倒そうだが」
「それなら地図があるわ。貴方の働きへの感謝代わりかしら。ああ」
と、机を開けて、永琳はお金を取り出します。
「これは今日の給料。それじゃお疲れ様。服は置いていってね」
「もちろん、看護師はもうこれきりだろうしさ。よほど気でも向かない限り」
と言って、正邪は着替えに向かいます。着替え終わればもうおしまい。看護師ごっこもこれまで。とっとと帰って酒でも飲もうと思うだけです。今日からかってやったあの死にたがりだけで最高の肴だと思いながら。
着替えて、彼女は永遠亭の門を目指します。永琳に見送られながら、鈴仙の憤りなど知らぬまま。
「それじゃまた。今日はありがとう」
と言われればぶるぶると身を震わせて、
「その言葉が一番気持ち悪いんだ。頼むからやめてくれ」
そう言って、逃げるように飛んでいきました。
「天邪鬼となんとかは使いようかしら」
背に投げられた声を聞くこともなく、微笑んだ永琳の顔を見ることも無く、一人の患者に希望を与えたとは考えるわけもなく、誰からも嫌われるあまのじゃくは飛んでいきました。ただ一人で、ひとりぼっちの我が家を目指して。
この作品は良い意味で非常に教科書的で素晴らしいと思います。
面白かったです。
語り口もおもしろかった
こういうのがこれから正邪SSの王道展開になりそうな予感。
正邪らしい小物っぽさとひねくれた性格が出ててよかったです。
って言ったら照れるんだろうか、それとも気持ち悪がられるんだろうか。どちらにしてもご褒美だな……
とてもいい作品でした。正邪ちゃんかわい……くない!
いい感じに空回りしててほっこりしました。
実に妖怪らしい妖怪の話を読んだ気分。
正邪ちゃんちっともかわいくないぞ(なでなで
善人「人の嫌がることを進んでします」
悪党「人の嫌がることを進んでします」
辺りから大体正邪の扱いは方向性が決まっていたとも言えますが、
お手本にしたいですね
面白かったです。
正邪ってすごく扱いづらそうな印象ばかりだったんですけど、これを見るに使いようで良くも悪くもなりそうですな。ちょっとインスピレーション。
それを見事に消化させて綺麗に纏めているところが好印象です。
それにしても、まだまだ魅力的な設定が出てきそうなキャラですよね、正邪。