きぃ、きぃ、きぃ。
風を切る。
ごうごうと耳許で空気が唸る。
眼下の木々の姿形が掠れて真緑一色になる。
霧雨魔理沙は箒に跨って、今日も空を飛んでいた。
日が昇る頃にはベッドから這い出て、念入りに身体を清めて、癖っ毛の金髪に櫛を入れて、白黒の魔法使いの衣装を纏って、鏡で変なところはないか念入りに確認して、箒を磨いて、いつもの帽子を被って、辰の刻の間に家を出た。
きぃ、きぃ、きぃ。
ふぁあ、と欠伸が一つ出る。昨夜は夜遅くまで古い文献を読み込んでいて、ただでさえ難解な内容なのに慣れない言い回しにすっかり頭が茹だって、そのまま眠ってしまった。だが朝日が昇る頃にはどれだけ眠くても目が覚めてしまう辺り、すっかりこの生活習慣が身に染み付いてしまったのだろう。
今のところは、その文献の中に求めていた内容は無い。――これも駄目だったら、どうしようか。目ぼしい魔導書は読み込んで、最近は新しい文献を探し求めている時間の方が長い気すらしてしまう。
きぃ、きぃ、きぃ。
目的地の森の切れ間が見えてくる。
鬱蒼と繁った魔法の森で、木々が切り開かれている場所はそう多くはない。たまに思い出したように自然にできた大木を中心に開けた場所はあるが、大抵は妖怪同士の喧嘩で樹木が根刮ぎ薙ぎ倒された後だとか、そういう人為的なものであり、どちらかと言うと珍しい事例として、家を構えるために切り開く、という理由がある。
詰まる所、こんな不気味な森に住む物好きなんて魔法使い以外にはおらず、その〝物好き〟の一人が彼女霧雨魔理沙であり、もう一人がアリス・マーガトロイドであった。
きぃ、きぃ、きぃ。
高度を下げて、地面すれすれを一瞬切り、力をこめて箒先を上げて急制動をかける。さぁっと草が箒の後に靡いて、千切れた葉が宙を舞う。
箒を携えた魔理沙は扉をノックしようと手を伸ばしかけて、途中で慌てて引き返させて、まずは念入りに全身を払い、次いで帽子の角度を確認して、深呼吸を何回か繰り返して、よしっ、と意気込み、そこから数拍空けてようやくアリス邸の扉に快音が響く。アリス、私だ――
きぃ、きぃ、きぃ。
重厚な音を立てて内側から鍵が回される。
焦らすように扉が開く。
隙間から金色の髪が覗く。
「いらっしゃい、魔理沙……」
霧雨魔理沙の恋人、アリス・マーガトロイドは、柔らかな笑顔を浮かべて彼女を迎えた。
その四肢はすっかり肉付きが悪くなって、人形のごとく儚く、全身に纏っていた凛々しさも影を潜めて、目付きは柔らかくなって、ただ金髪の艶はあの時からまるで変わっていないと、魔理沙は今更のように感慨を噛み締める。
きぃ、きぃ、――きぃ。
車椅子が鳴く。
アリスの車椅子が、鳴く。
自分を大きく見上げるアリスの瞳に、魔理沙は微笑みを返した。
愛を囁くチェシャ猫の首輪
初めは、外の世界には便利なものがあるものだと感心した。〝あの日〟以来ほとんどベッドで寝た切りのアリスを見かねて、最近になって幻想郷に流れてきたものだと言って霖之助が提供してくれたのが、アリスの車椅子だった。
今ではすっかりアリスが生活するにはなくてはならないものとなり、時折魔理沙がにとりに定期メンテナンスを――変な機能を追加しないように念押しした上で――依頼している。おかげで、魔理沙がかけた強化魔法もあり、今の今まで車椅子に故障は無い。「心配性め。どこにも異常なんて無いじゃないか。これじゃ腕の奮いようがない」とにとりは毎回のようにぼやいているが。
「待ってね、もうすぐ朝食ができるから。簡単なものだけど」
「手伝うぜ」
「ありがとう、でも、本当にあと少しだから」
「テーブルまで運ぶだけだって」
朝からキッチンで動き回って漕ぐ手が疲れたのか、魔理沙が車椅子を押すとアリスは素直にそれを受け入れた。パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。キッチンは、車椅子に座ったままでも調理がし易いようにコンロやシンクなどが総じて低く作られていて、これはにとりの提案であった。
アリスがナイフで器用にベーコンを塊から切り出しているのを、次いで熱せられたフライパンを見て、魔理沙はにやりと口角を上げてコンロの前に立った。
「ベーコンエッグだろ? 任せとけって」
「あっ、……もう、待っといてくれてよかったのに。立っていたら使いにくいでしょう、それ」
「もう慣れたさ」
「それに、魔理沙が作るとベーコンエッグじゃなくて、ただのベーコン付きの目玉焼きになっちゃうし」
「アリスだって好きだろ、魔理沙式ベーコンエッグ」
「それは、そうだけど。……ありがと、他の準備しとくわね」
「おう」
ベーコンを二枚焼いて、まずは卵を一つ落とし、頃合いになったのを見計らってもう一つ落とす。それなりに屈まないと高低差がありすぎて黄身が潰れてしまうが、そこは慣れたものだった。一つが黄身まで熱が通って、もう一つが程良く半熟になったところで、白身を切ってそれぞれ皿に盛り、恐らくは魔理沙が来る前に仕込んでおいたのであろう、トマトのスライスとマッシュルームのソテーを添える。テーブルでは既にアリスが焼きたてのロールパンをバスケットに盛り、ジャムを並べ、とくとくと紅茶をカップに注いで、一方には角砂糖を一つ、もう一つには角砂糖を二つとミルクを注いでいた。
魔理沙には、半熟の卵とミルクティーを。
アリスには、固焼きの卵とストレートティーを。
「おっ、美味しいな、これ」
魔理沙が最初に口に含んだのは、マッシュルームのソテーだった。マッシュルームの旨味とバターが、中々程良く絡み合っていて、それが魔理沙の舌にじんわりと広がる。
「そう? ありがと」
「うむ、美味い美味い」
「魔理沙って、マッシュルーム食べたこと無かったっけ?」
「森でそれらしいのはたまに見るが」
「食べないでよ、そんなの」
「わーかってるって。ああ、そういや、前の買い出しで買っていたな。珍しいキノコだったから覚えてる」
アリスがこの森の中に住み続けると決めた時、最も強く反対したのはあろうことかあの博麗霊夢だった。今のアリスの状態ではとてもではないが森に一人で住み続けることはできない──実際、それは正しいと魔理沙は思う。もう車椅子しか移動手段がない彼女にとって、人里まで下りて必要最低限のものを手に入れるだけでも困難を極めるだろう。だから霊夢は、妖怪であるアリスを手の届く人里に置いて庇護しようとした。話ではあの半妖上白沢慧音の協力も取り付けていたというから、彼女は本気だったのだろう。しかし、アリスはそれを望まなかった。
だから、魔理沙は言った。私が何とかすると。
──以降、魔理沙は毎日アリスの家に通い、数週間に一度二人で人里に買い出しに行くのが、習慣となっている。
「朝から疲れただろ。リビングでしばらく休んでな」
「ありがと、そうさせてもらうわ」
アリスの車椅子を見送った後。背の低いシンクで背中を丸めながら二人分の皿を洗って、布で拭いて棚に戻す。車椅子を漕ぎながらの調理は体力をかなり消耗するから、特にアリス一人で大方の準備をする朝食の後の後片付けは、すっかり魔理沙の専業となっていた。勝手知ったる恋人の家、どこにどの食器があるのかなんて、とっくの昔に覚えてしまった。
魔理沙が手を拭いながらリビングに戻ると、アリスはソファに腰掛け本に目を落としていた。息遣いすら途絶えた静寂に時折古本のページを捲る乾いた心地良い音が混じって、その中で窓から注ぐ朝日を受けて薄陰を湛えたアリスの横顔と、滑らかに動くその色白の細い腕は、美しい絵画のようで、その現実感の希薄さに、魔理沙はしばしの間立ち尽くして――
「どうしたの、魔理沙?」
ふっ、とアリスの声で我に返ると、彼女の青い瞳がじっと魔理沙を見詰めていて、慌てて魔理沙は取り繕う。
「ああ……いや、何でもない」
「そう? ならいいけど……ちょっといい? お願いがあるのだけど」
「ん、いいぜ」
「あそこの本棚の文献に手が届かなくて……」
彼女が指差す先を見ると、なるほど、高い本棚の上段に重厚な本がいくつか並んでいる。車椅子から立ち上がってもアリスの背丈では届かないだろう。――プライドの高いアリスがこんなことを魔理沙に頼むようになったのは、〝あの日〟以降のことである。
どれだ、と聞くと、一番上の右から三番目の赤色の背表紙の、と答える。タイトルは「魔力伝導学」だった。
「…………」
魔力を五指に這わせ、本に指をかけるイメージを乗せて伝達しようとしたところで――ふと、本のタイトルが頭に引っ掛かって、なんとなく、アリスの前で魔法を使うのが躊躇われてしまった。魔理沙はダイニングから椅子を運んできて、本に手を伸ばす。
だが、
「……なんだよ」
他の誰にも聞こえない小さな声で魔理沙は呟く。
本棚の最上段。
部屋を常に見下ろせるところ。
そこには、アリスの人形達が並んで座っていた。
主の意思から離れた彼女達は、もはやただの小さなヒトガタと化して、据わらない首を棚の壁に、あるいはお互いの肩にもたれかけさせて、だらしなく四肢を伸ばし切っていた。かつては、感情があるのではと見間違わんばかりだったのに。その面影は魔理沙の中の記憶が裏付けするだけで、並べられた人形の骸は現実をまざまざと見せつける。
――そして、鈍く光る硝子玉の瞳は、ぎょろりと動いて、魔理沙に呪詛を紡ぐのだ。
お前のいる場所は、ワタシタチの場所だったのに。
ワタシタチこそがアルジを支えていたのに。
どうしてオマエが平然と居座っているのだ。
そんな目で、ワタシタチを見るな。
置物と化したワタシタチを、見るな。
「……わかってるよ」
目的の本を小脇に抱えて、纏わりつく恨み言を振り払うように人形達から目を背ける。
そんなこと、わかっている。
あるいは自分は新しい人形の一つに過ぎないのかもしれない。
アリスの家の至る所に〝飾られた〟小人達は、少なくともそうであるように物言わずに要求してくるのだ。
オマエしかいないのだ。
オマエだけなのだ。
オマエが支えなければならないのだ。
オマエが、オマエが、オマエが──
それを幻聴だと割り切ることは、今の魔理沙にはまだできない。
アリスに魔導書を手渡すと、「ありがとう」と可憐な笑みを浮かべて言うものだから、照れ臭くなって頬を掻いていると、ぽんぽんとアリスは二人掛けのソファの自分の横の表面を叩く。
座れということらしい。
「ちょっと待ってな、私が読む本を持ってくるから……」
「や」
「やっ、てな、お前」
「魔理沙、本に集中したら周りが見えなくなるじゃない」
「それはそうだが……」
「そうなると私に構ってくれなくなるでしょ」
「前例はあるが……」
「だから、魔理沙は本を持ってきちゃダメ」
結局、手ぶらでソファに腰掛けることになった。
満面の笑みのアリスが肩に頭を寄せてくる。
「えへへ」
ご機嫌だった。
結果としては全てアリスの言いなりになっていることに気付いた魔理沙は、――それはそれで嫌な気はしなかったのだが――、子猫のように頬を擦り付けてくるアリスの額をぐりぐりと人差指で押し上げる。
「……むぅ」
「こんな朝っぱらからベタベタするものじゃないだろ」
「いいじゃない、別に用事とか無いのだし」
「その魔導書読むんじゃなかったのか」
「読むわよ。魔理沙分を補給したら」
「一晩でそこまで減るものなのか?」
「減るものなのよ」
そこまで言われれば、そうなのか、と納得するしかない魔理沙であった。同じ穴の狢だった。
季節は秋。幻想郷の残暑もそろそろ影を潜めて、秋姉妹がこの上ない上機嫌になる頃。こう密着しても特段暑苦しくなくなって、アリスと魔理沙の密着度は日に日に上がっている。
──去年の秋は、こんなのは想像もできなかったのだけどな。
魔理沙の脳裏を過るのは、在りし日の霞んだ風景。別々のソファに座って、場を支配する無言の静寂の中で別々の文献を黙々と読み、たまにアリスが、紅茶でも入れましょうか、なんて言って、魔理沙が、おう、と言葉だけで応えて、一見冷めた関係だが、確かに以心伝心の絆で結ばれていた日々。あんたら本当に付き合ってるの、と居合わせた霊夢に言われたのは一度や二度ではないが、それを真っ先に肯定したのはアリスだった。
そんな空間が一変したのは、この前の春のこと。
恋人同士である二人は同じ魔法の道を追求する研究者であり、自然と合同研究の機会は関係が深くなるにつれて増していった。二人の志す到達点はそれぞれ違うが、互いの研究内容が全くの無駄になることはなく、逆に違った視点からのアプローチを生む有意義なものであった。
二人なら、どんな難題も解ける気がした。
二人なら、どんな発想も生み出せる気がした。
二人なら、何でもできる気がした。
だから、〝あの日〟は、これまでよりも少しだけ背伸びをしようと思ったのだ。
本来は門外漢である召喚魔法。それも高度な技量を要求される悪魔召喚。
提案したのはアリス。了承したのは魔理沙。
アリスの目指す自律行動型の人形の実現のため、伝承を存在の根源とする悪魔の非実体性を、何かしらの精神性を人形に憑依させる際の参考にしようとしたのだ。
「大丈夫よ、魔理沙が傍にいるもの」
なんて、魔法陣に向かいながらアリスは笑みを浮かべて言ったけれど。
結果は失敗。
実験室となったアリスの家の地下室には魔法陣から溢れ出した魔力の奔流が渦巻いて、失敗を悟ると同時に魔理沙は意識を刈り取られた。
数分後か、数時間後か、数日後か──目を覚ました魔理沙の眼前には、静けさを取り戻した地下室と、意味消失し幾何学模様に成り下がった魔法陣と、その中央で力無く地に伏した少女の身体があった。
〝あの日〟に魔力の渦の中央で何が起こったのか、アリスは語りたがらない。ただ確かなのは、以来アリスは自身の魔力生成能力のほとんどを失ったままということ。それは捨食の魔法により魔力で文字通り〝全て〟を賄っている種族魔法使いであるアリスにとっては、あまりに致命的であった。魔法を使うなんて以ての外、人形を自由自在に操ることも、立ち上がって真っ直ぐ歩くことも叶わない。生命維持に必要な最低限の魔力を何とか確保し、僅かな余剰分をやりくりしているのが、今のアリスだった。
「なあ、アリス」
「ん、なに?」
二人で昼食を作って、魔理沙が片付けて、それからしばらく経って、時計の針が三時を回った頃。
魔法が実質的に使えなくなっても、アリスにとっては魔力活用の効率化は喫緊の課題であり、魔法との縁が切れた訳ではない。だから、こうして朝から魔導書を読み込むことは珍しくはなかった。ただ、集中力を賄うのもまた限られた魔力である。隣の魔理沙からすれば、考え込むアリスの横顔は危うさを幾分も孕んだものなのだ。
「気分転換に、散歩にでも行かないか。少し疲れただろ。私が車椅子押していくしさ」
「もう、過保護なんだから。魔力の底が見えてきたら、私も魔導書読むのは控えるわよ」
「私がアリスと一緒に行きたいんだ。この季節ならアリスも外を出歩いても体力を消耗しないしな。ああそうだ、疎らだけど、紅葉、綺麗だぞ」
アリスはあっさり折れた。夏は買い出しなどの例外を除けば外出を控えていたから、アリス自身も最近は外の空気を吸う機会は少なかったし、何より紅葉の中で二人、というシチュエーションが気に入ったらしい。アリスを抱きかかえて車椅子に座らせる時、ちょっとしたデートね、なんて嬉しそうに耳許で呟くものだから、魔理沙はしばらく頬の赤らみが取れなかった。
「あ……ちょっと待って、魔理沙」
そう言うとアリスは自室まで車椅子を漕いで行って、戻ってきた時には、その膝の上に一体の人形を乗せていた。
「上海か?」
「うん。……この子にも、外の空気、吸わせてあげたいから」
「そうか」
帽子はアリスの家に置いてきたから、秋の日差しがやけに眩しく感じた。
振動軽減の簡素な魔法を車椅子に施して、アリスを外へと連れ出すと、さぁっ、と風が二人の髪を撫でた。
「綺麗ね」
魔法の森というぐらいだから、人里近い野山のように森全体が赤や黄に染まっている訳ではないが、それでも所々には紅葉の木々も認められる。ちらちらと木漏れ日が届く森の踏み分け道をアリスの車椅子を押して進むと、時々見事に染まった楓や銀杏などが姿を見せて、しばし押す手を止めてその風光明媚な光景に浸るのだった。
鳥が鳴く。
獣が鳴く。
木が鳴く。
空が鳴く。
森が鳴く。
車椅子は音を立てて道を進む。
他愛のない会話が彩りを添える。
魔理沙の手がアリスの手に添えられる。
握られる。
指が絡まる。
奥底に触れ合う。
「見て――」
アリスの指差す先には、木々の薄暗い洞窟の終わりを告げる明るい光の門。
そこを越えると、原生森の只中にありながら樹木の一掃された空間が、それほど広くはないが、ぽっかりと天に向かって口を開けていた。その端は紅く鮮やかに彩られた木々で縁取られていて、アリスは「こんな場所、あったのね。これまで気付かなかった」と溜息混じりに呟く。
「人里とは反対方向だし、空を飛んでいても真上を通らない限りはそこまで目立つ訳じゃないしな」
「でも、魔理沙は知っていたんだ」
「たまたまだよ。たまたま、な」
発見したのは偶然でも、ここまでの道を整備したのは魔理沙本人なのだが――
「ふふっ」
「なんだよ」
「だって、ここしばらくはあまり外出できなかったって言っても、この近くは私の庭みたいなものよ? ご丁寧に私の家から続くあんな道、前は無かったもの」
「……気のせいじゃないか?」
「そうかしら」
「ああ、気のせいだ」
「ええ、そうね、きっと気のせいだわ」
くすくすと上品な笑いを零すアリスに、居た堪れなくなった魔理沙は唸るしかなかった。
枯草色で敷き詰められた庭園の中央まで車椅子を押していくと、思い出したように空から吹いた旋風に二人共々襲われて、巻き上げられた落ち葉に一瞬視界を奪われる──目を開けると、眼下のアリスの髪には、赤く染まった楓の葉が髪飾りのようにしがみついていた。
「綺麗な場所ね──まるで童話の世界のよう」
そんなことを目を細めて沁沁と噛み締めるように言うものだから。魔理沙は楓を払ったその手で、慈愛を込めてアリスの髪を梳かす。儚さを感じるほどに指通りの良いそれに魔理沙は形容し難い不安を覚えて、覚えてしまって、彼女の頭を抱き締めんとする自分自身の腕を自ら窘めなくてはならなかった。
童話の世界になど、アリスを住まわせたくはない。
あんな残酷な世界に、彼女を──になど──
ねえ、魔理沙。アリスの声が鼓膜を揺らす。
後ろに回された彼女の右手が、すぅっと魔理沙の頬にまで伸びてきて、愛おしむように数度撫でる。魔理沙の手がそれに重なって、そして二つの手のひらで大事に大事に仕舞い込む。
アリスは再び、言葉を紡いだ。
「……これでいいのか?」
「うん」
アリスから二丈ほど離れた場所に、落ち着かない様子で魔理沙は立っていた。アリスがそうしてと言ったのだ。少し離れた場所で待っていて、と。その理由がわからず不安を隠せない魔理沙を尻目に、アリスは俯き、一つ大きく息を吐いて、呼吸を整える。
「魔理沙、私はね、私自身までを失くしてしまった訳じゃないの」
アリスの手は、上海人形に添えられて。
その小さな布の身体が、ぽぅ――と灯火のように淡く光を放つ。
「アリス……!?」
「魔理沙は、そこで、待っていて……!」
アリスの喉から絞り出されたような声が駆け出しかけた魔理沙の足を地面に縛り付ける。アリスの額には大粒の汗の雫がいくつも浮いてきて、たらりと鎖骨まで流れていく。世界が凪ぐ。上海が纏っていた朧気な煌めきがその矮躯に吸い込まれて、据わっていなかった首が不意に持ち上がる。
ふわり。
上海は、しがらみを脱ぎ捨て、宙を舞う。
覚束なくも、少しずつ、魔理沙の許へと飛んでいく。
アリスの右手は悲鳴を上げながら、上海へと伸びる細い細い一本の糸に魔力を送り続ける。
縋るように。
求めるように。
手を伸ばすように。
──ぽふん。
上海は、魔理沙の手のひらに辿り着いた。
「アリス……!」
無我夢中で魔理沙は駆け出す。
アリスは、途絶え途絶えに荒い息を吐き出しながら、苦しさに胸前を握り締め、口を開けて必死に空気を求め、その息吹は風前の灯火の如くであった。全身の魔力を絞り出したのであろう。たった人形一体をほんの少しだけ翔けさせるために。
車椅子から滑り落ちそうな身体を辛うじて支えて、背もたれにアリスの体重を預けさせた魔理沙は、そのまま覆い被さるように彼女を抱き締める。細心の注意を払って、硝子細工を扱うように。忙しなく脈打ち続けるアリスの鼓動が、少しずつ自らの心臓と同調していくのに、魔理沙は言いようのない安堵を感じて、嗚呼、とアリスの横顔にその頬を擦り付けて、彼女の実在を噛み締めた。
「……魔理沙、怒ってる?」
「ああ」
「ごめんなさい」
「……ああ」
アリスの体温を感じる。
アリスの拍動を感じる。
アリスの生命を感じる。
今はそれで、十分だった。
彼女の頭を撫で回すと、こんなにも私は安心できる。
「あのね、魔理沙」
顔を離して、二人の視線が交錯する。魔理沙の瞳は薄っすらと涙の膜で覆われていたが、アリスのそれは達成感すら僅かに窺わせるものだった。
「私はね、今、とっても幸せなの」
アリスは可憐な笑顔を浮かべて、そう魔理沙に囁いた──
──嗚呼、なんて彼女は愛おしい。
「不可能だって……! どういうことだよ!」
あれから数日後。
紅魔館地下。
魔法使いの大図書館。
果てを知らない知識の墓場。
魔理沙の叫びは、気儘に浮かぶ埃を僅かに震わせて、あっという間に際限の無い空間に呑み込まれた。
「どうもこうもないわ。さっき言った通り。彼女が元の状態に戻ることは有り得ない」
図書館の主パチュリー・ノーレッジは、一角に据えられた愛用の書斎机でロッキングチェアに座り抱えた文献に目を落としながら、抑揚の無い声音でそう言った。彼女の表情からは何も感情は読み取れず、その淡白さは余計に魔理沙を逆撫でする。
噛み付く魔理沙を一瞥したパチュリーは、一つ溜息を付いて口を開いた。
「こんなのは柄ではないけれど、同じ魔法使いのよしみで、手は尽くしてみたわ。大体の思い当たる蔵書は参考にした。その上で言っているの。現段階で、アリスの魔力生成能力を回復させる手段は存在しない」
カツカツとヒールの音が反響する。半ば茫然自失に陥っていた魔理沙が気配を感じて咄嗟に振り向くと、黒のベストとスカートの司書服に身を包んだ小悪魔がトレイにティーカップを二つ並べて立っていた。事務的な笑顔を貼り付けて。
「紅茶をお持ち致しました」
「ありがとう、その辺りに置いておいて」
「はい」
小悪魔は自分の仕事を終えると、トレイを胸前に抱えて、二人から少し離れた薄暗い本棚の陰に気配を潜めるように控える。
魔理沙はご丁寧に自らの前に置かれた紅茶に目を落とす。紅色の水面に映った自分の顔は、しかしそれでもはっきりとわかるぐらい、青白く染まっていた。
「魔理沙、貴方だってわかっているのでしょう? アリスが治らないということなんて」
「なんで……」
「アリスは悪魔を召喚した。結果、魔力の大半を失った。その変化は、即ち悪魔との契約よ。ただの怪我や病気の類ではないわ。もうアリスは〝そういうもの〟に、存在の定義を変えられてしまったの」
ぱたんっ。
本を閉じたパチュリーは、その紫色の瞳を虚空に向けて、懐古するように言った。
「……ねえ、魔理沙、どうして魔女たる私が喘息みたいな持病の一つや二つに苦しめられているか、わかるかしら」
自分語りは嫌いなのとでも言うように、言葉を切った彼女は背もたれに体重を預け紅茶を啜る。
その一字一句をようやく咀嚼し切った魔理沙は、ゆっくりと首を回して、開ききった眼に小悪魔の姿を捉える。──僅かに窺えた彼女の面立ちは、主と同様に無機質な仮面のようで、ただその無言が魔理沙の想像を肯定していた。
「悪魔と一介の妖怪見習いの契約だなんて、それはアリスのあらゆる他の事象より優先される。彼女はずっと、あのままよ。あのまま、生きていくの。人間よりも脆弱な妖怪として、ずぅっと」
どこかの振り子時計が無意味な刻を刻み続ける。
大図書館は知識と静寂とカビの臭いを湛える。
たった一人の少女のために集められた世界の全て。それに否定されたのならば、即ち世界に否定されたということなのかもしれない。
アリスは、見捨てられた。理から外された。
現実という悪魔は魔理沙の心臓を掴んで、今にも握り潰さんとしていた。
「そん、な……」
ようやく絞り出されたのは、たった一言の絶望。
いつの間にか椅子に倒れるように腰掛けていた。小悪魔が用意してくれたのかもしれない。そんなことにも気付けなかった。
首筋を流れるいくつもの冷や汗が、まるで蛞蝓が這うように垂れ落ちて、その全身を震わせる嫌悪感を魔理沙はただただ受け止めた。
「アリスは……まだ、希望を捨てていないんだ」
「ええ」
「魔法使いとしてのアリスを、諦めたくはなかった……」
「……そうね。でもね、魔理沙。彼女は完全に魔力を失った訳ではないわ」
「それは、そうだが……」
「そう……後先考えずに人間の村を丸々消滅させられるぐらいの魔力なら、まだ残っているわ」
言葉を額面通り受け取った魔理沙の目尻が敵意で吊り上がるのを、パチュリーは横目で窺い、その期待通りの反応に愉快そうに目を細める。
「なにを……!」
「鈍くなったわね。微温湯に浸かりすぎたのじゃないかしら? そんなにアリスの恋人ごっこは楽しかった?」
「…………」
「私はね、魔理沙」
貴方が死んだ後の話をしているの。
アリスは魔力を失い、ただの人間にも敵わない少女に落魄れたが、それでもまだ妖怪としての存在の定義から外れた訳ではない。
彼女は生き続ける。人の一生が刹那に思えてしまうほどの、永い永い永い妖怪としての命を全うせんと。
魔法の森の奥深くで、車椅子の軋む音を僅かに立てながら、誰にもかも忘れ去られて、ひっそりと。
恐らくは、幻想郷にやってきた時、彼女はあの家でやがては一人で朽ち果てるつもりだっただろう。
「でも、それは彼女が魔法使いという種族の本願を昇華させるためよ」
最早彼女にかつての生き甲斐は無い。
魔法の行使が絶望的になり、完全自律人形の実現など望むべくもない今、彼女はただの生ける屍と化した。
ならば彼女は何を目的に生きる?
飢えた餓鬼は何を糧に生きる?
死体を生かすのは何だ?
「魔理沙、それは貴方よ」
魔理沙の脳裏をアリスの笑顔が過る。
だが同時に、薄暗い部屋で一人本を読む寂しそうなアリスの横顔も描き出されてしまって、魔理沙は胸の苦痛に呻いた。
「そして、貴方が逝った後、彼女がどんな末路を辿るか考えたことはあるかしら。貴方無しの愛が何をもたらすか」
魔理沙が死んですぐは、二人の知り合いが度々アリスの許を訪ねることはあるかもしれない。
だが、彼女を知っている人間は、彼女を覚えている妖怪は時間と共に減っていく。
彼女を支えていた人形達はもう動かない。
意義を与えていた魔法は霧散した。
孤独という猛毒は、間違いなくアリスを喰い殺す。
「彼女が人間よりも人間臭い妖怪であることは、貴方が一番理解しているでしょう」
あっさり数十年かで音を上げるか、数百年かを耐えてみせるか、それはアリス次第だ。
確実にやってくる〝その日〟に、アリスの心は幸福な記憶を連れ立って、硝子みたいに壊れて無くなる。
「自宅でひっそりと誰にも知られず発狂して死に行くなら、彼女は彼女として死ねる分だけ幸せでしょう。でもね、心が壊れた妖怪なんて、醜い姿形に変貌して、人間達を喰らい尽くして、最後には悪霊か祟り神の類として退治されてしまうのが妥当な結末よ。そして──」
その時の幻想郷には〝今の〟博麗霊夢はいないのよ。
──頭を掻き毟り
──瞼を抉じ開け
──喉を握り締め
──名を連呼する
そんな、アリス。
そして、ぐずぐずの地面に伏した血塗れのアリスにお祓い棒を向ける、博麗の巫女の格好をした知らない誰かの、冷たい目──
「貴方には二つの選択肢があるわ」
パチュリーの声に魔理沙は憔悴し切った、今にも決壊してしまいそうな顔を持ち上げる。
彼女は書斎机の右側の引出の一つを開けて、中から一冊の重厚な書物を取り出すと、魔理沙の前に叩きつけた。
「一つは、彼女と同じ時間を生きること」
つまりは人間をやめること。
捨食と捨虫の魔法。
齧ったことぐらいはあるでしょう、というパチュリーの言葉に、魔理沙はぎこちなく肯定した。
「貴方の人間としての矜持を捨てて、種族としての魔法使いになれば……妖になれば、彼女と添い遂げることもできるでしょう」
「でもそれは……アリスは、きっと悲しむ」
「ええ、彼女は自分を責めるでしょうね。魔理沙に悠久の命の咎を負わせたのは、私のせいだと」
パチュリーの視線が、魔理沙に突き刺さる。
息が詰まる。
「その上で言っているの。彼女を裏切って彼女と生きろ、とね」
自らもアリスと同じ魔法使いになる。その道を考えなかった訳ではない。アリスとは流れる時間の速さが違うという事実は、ずっと魔理沙の喉奥に引っ掛かって彼女を苛めていた。
だが、人間として産まれ、人間として生き、人間としてアリスを愛していた自分が、果たして意識の根幹である〝人間であるということ〟を失った時、確実に自分がかつての自分でいられるのか。魔法使いとなった自分は、変わらずアリスを愛しているのか。その憂惧は、魔理沙の足を今に縛り付けるには、あまりにも強固な鎖だった。
「……そして、もう一つ」
声の出し方も忘れてしまった魔理沙を見かねたパチュリーは、据わった目で彼女に告げる。
手を伸ばしたのは書斎机の左側の引出。からんと乾いた音が鳴る。
パチュリーの手に握られていたのは、一振りの瀟洒な短剣。その刀身は図書館の僅かな淡い光を反射して、艶めかしくパチュリーの顔を照らしていた。
詠唱。魔女は歌う。
紡がれた呪詛は、真っ黒な吐息となってパチュリーの口から漏れ出て、短剣にとぐろを巻いて絡みついては、銀色の鋼に染み入って、その煌めきを禍々しく墨色に変貌させていった。
「単純なことよ。共に生きられないのなら、貴方がその手で彼女を終わらせなさい」
パチュリーの手を離れた短剣は、魔導書の横、魔理沙の前まで滑って這い寄る。
歪んだ空気が、笑う。
魔法使いを殺す呪いだと、彼女は言った。
「……私に、アリスを殺せと」
「そうよ。久遠の鳥籠に彼女を閉じ込めて飼い殺してしまう前に、飼鳥を先に殺しなさい」
「あいつは……! 死にたがっている訳じゃ、ない……!」
「あの未熟な娘を待っているのは、確実な緩やかな死よ。孤独の中で絶望に首を締められ窒息死するか、貴方の腕の中で温もりを感じながら逝くか」
彼女もきっと喜ぶでしょう。
パチュリーは、紅茶を飲み干した。
「……その後は、貴方の勝手にしなさい。朽ち果てるまでアリスの墓守でもするか、その短剣で後を追うか」
──震える魔理沙の視界には、たった二つの選択肢。
魔導書は荘厳な威圧を放ち、彼女のために自らの存在の根底を覆す覚悟を迫る。
短剣はニヤケ面を浮かべて、彼女のために彼女の可能性を殺す覚悟を迫る。
魔女は、目を細めて魔理沙の瞳を射抜く。
そして言い渡す。
「選べ、霧雨魔理沙」
──愛おしきものを、どうか逃がさないように。
きぃ、きぃ、きぃ。
重厚な音を立てて内側から鍵が回される。
焦らすように扉が開く。
隙間から金色の髪が覗く。
「いらっしゃい、魔理沙……」
「ああ……すまない、遅くなったな」
アリスは今日も柔らかい笑みを湛え、鈴の音の響くような声で魔理沙を迎え入れる。
だが魔理沙の顔色を見たアリスは、心配そうに首を傾げた。
「……? 魔理沙、寝られなかったの?」
「あっ……いや、そういう訳じゃ……」
「目の隈、すごいわよ」
「……ああ、ちょっと考え事していてな」
「相談なら、乗るよ?」
魔理沙は身を乗り出しスカートの裾を握ってくるアリスを窘めて押し戻すと、くしゃくしゃと彼女の頭を撫で回す。
「大丈夫だ。……もう、答えは出たから」
アリスの蒼色の瞳は不服そうではあったが、無言で髪の毛を梳く魔理沙がこれ以上彼女の疑問に応えないということを悟ると、無邪気にすぅっと気持良さそうに細められた。
それを微笑を浮かべながら見下ろしていた魔理沙は、心臓が疼き鈍痛が全身に広がるのを、為す術無く受け止めて、どうしようもなく泣きそうになる。
「あ……もうとっくに朝食できてるわよ? 冷める前に、食べちゃいましょう」
「そうだな……今日は、何だ?」
アリスは慣れた手つきで車椅子を旋回させて、廊下を奥に一人で漕いでいく。だが明らかにその動作は辛そうで、車椅子に手を伸ばそうとしたところで──魔理沙は自分の足が玄関の外から動かせないことに気付いた。
「今日はね、いつもの時間になっても魔理沙が来なかったから、アリス式ベーコンエッグよ。あとはサラダと、ポリッジよ。ポリッジはね、普段は余り作らないのだけど、久しぶりにと思って……、……魔理沙?」
「あ……、ああ……それは楽しみ、だな……」
脚が震える。
手が震える。
声が震える。
振り返ったアリスにまともに受け応えできているかもわからない。
アリスの家に、入れない。
今の自分に彼女の聖域に踏み入る資格など無いと、自分自身が告げている。
ああ、そうだ──告げなければ、ならないのだ。アリスに。私が何を選択したかを。
「なあ、アリス」
潤んだ視界で前を見据える。
だが、その中の最愛の彼女の姿だけは、克明に捉えなければならない。
それが私の義務だから。
ぎゅっと、一方の手で背後に隠していたものを強く強く強く鬱血するほどに握り締める。
覚悟を強固にするように。
どうか後悔しないように。
乾いた口を、開く。
「私は──」
──、──。
……あら。
物語とは、あるがままに受け止めるものよ。
せっかくの溢れ出る感慨も、無粋な人のたった一言で霧散してしまうわ。
特に、それは現実の物語においてこそ。
人々の心を震わせられるなら、誰もそのノンフィクションの舞台裏を知らなくてもいい。
素直に劇場の役者達が繰り広げるドラマを刹那的に消化していればいい。
衣装を脱いだ素の役者達の生々しい愛憎劇など、無視すればいい。
……ほら、無粋な悪魔が目尻を下げて近付いてくる。
そして彼女はきっとこう言うのでしょう──
「パチュリー様、これで良かったのですか?」
──と。
外界から断絶された大図書館では、埃が気儘に飛び回り古本のかび臭さが空間を埋める。
魔女と悪魔にとっては何処よりも住み易い環境だ。調和を乱す来客も既に無い。
「ええ、全て思い描いた通り。つまらなさすぎて欠伸が出るぐらい」
パチュリーの書斎机の一角には、十字架のようにあの短剣が突き立てられていた。
彼女はその柄に手を伸ばして引き抜くと、手を翳して机の刺傷を癒やし、刀身に一つ息を吹きかけて、纏わりつく呪いを否定する。
咲夜に返しておいて、と放り投げられた短剣を受け止めた小悪魔は、眉を顰めて主を見遣る。
「……いつにもなく、饒舌でしたから、もしやと思ったのですが」
「あら、バレていたの」
「ええ、魔理沙さんはそれどころではなかったでしょうから、気付いていないでしょうけど。とても楽しそうでしたよ」
魔女は語る。子供のように。
「ええ、そうよ。魔理沙が、アリスを殺すですって? あんな乳臭い小娘に、そんな気概があるはずがないじゃない。元々、選択肢なんて一つしか存在しなかったの」
「なら、何故貴方はこの短剣を彼女に提示したのですか」
「だって、気に食わないじゃない」
「気に食わない……?」
「あら、悪魔の端くれの貴方ならすぐに理解できると思ったのに。すっかり魔女の価値観に染まったのね」
パチュリーは一冊の分厚い書物を取り出すと、ページに空気を撫でさせるように捲り流す。
それぞれの項に描かれているのは、剣呑な悪魔達。ある者は獣の姿を持ち、ある者は醜い異形の相貌を備えていた。
「アリス・マーガトロイドがどの悪魔を召喚したのかは、もはや彼女にしかわからないわ。ただ間違いないのは、それは生半可な低級悪魔ではないということ。レメゲトンに名を連ねるような、格式高いソロモンの爵位持ちかもしれない」
小悪魔の気配が緊張したのを感じると、彼女は愉快そうに唇を歪める。
「彼らはその力故に、狭隘なペテンなど嘯かない。生贄にはそれ相応の対価を支払う」
「……」
「新米魔法使い一人の魔力など、彼らにとっては大した価値は無いわ。でもね、契約が交わされたのならば、悪魔は彼女の望みを確実に履行する。アリスが失ったものに見合う〝何か〟を、彼女に与えた」
彼女は何を願った?
彼女は何を手に入れた?
「私はそれが気に食わなかったの。新米魔法使い如きが、悪魔すらも利用して、世界を思い通りにするのが。自らの狂気を押し通すのが。愛なんて世迷い言のために、魔法使いの矜持を蔑ろにするのが」
魔力の大半を失ったと気付いた時、彼女は何を思った?
「魔理沙が人間を捨てるのは、時間の問題だったわ。だから、私は魔理沙に吹き込んだの。悪い魔女が仕組んだ予定調和を壊すために」
儚げな笑顔の裏で、彼女は何を企んだ?
「でも、結果はこの通り。見事な敗北よ」
しかし言葉とは裏腹に、パチュリーの口元は悪い悪い魔女のごとく上機嫌に吊り上がって、天を仰いだ。
ああ、この人にとって、白黒の魔法使いと七色の人形使いの顛末など、本に埋もれた日々に僅かに花を添える些事に過ぎないのだろうと、小悪魔は主を見て思う。
なんて、人外らしい性分なのか。染まってしまったのは果たしてどちらなのか。
「こんな幸福な結末、そう見られるものではないわ。ヒーローは愛に殉じヒロインと添い遂げる。まるで童話ね。誰もが幸せな、誰もが祝福するハッピーエンド」
「ワインでも、お開けしましょうか」
「咲夜のインスタントのヴィンテージワインじゃダメよ。本物の時を重ねた熟成ワインを持ってきて」
「お望みのままに」
「そして一緒に乾杯しましょう。これからナンセンスな永い時を生き続ける、二人の魔法使いに向けて」
風を切る。
ごうごうと耳許で空気が唸る。
眼下の木々の姿形が掠れて真緑一色になる。
霧雨魔理沙は箒に跨って、今日も空を飛んでいた。
日が昇る頃にはベッドから這い出て、念入りに身体を清めて、癖っ毛の金髪に櫛を入れて、白黒の魔法使いの衣装を纏って、鏡で変なところはないか念入りに確認して、箒を磨いて、いつもの帽子を被って、辰の刻の間に家を出た。
きぃ、きぃ、きぃ。
ふぁあ、と欠伸が一つ出る。昨夜は夜遅くまで古い文献を読み込んでいて、ただでさえ難解な内容なのに慣れない言い回しにすっかり頭が茹だって、そのまま眠ってしまった。だが朝日が昇る頃にはどれだけ眠くても目が覚めてしまう辺り、すっかりこの生活習慣が身に染み付いてしまったのだろう。
今のところは、その文献の中に求めていた内容は無い。――これも駄目だったら、どうしようか。目ぼしい魔導書は読み込んで、最近は新しい文献を探し求めている時間の方が長い気すらしてしまう。
きぃ、きぃ、きぃ。
目的地の森の切れ間が見えてくる。
鬱蒼と繁った魔法の森で、木々が切り開かれている場所はそう多くはない。たまに思い出したように自然にできた大木を中心に開けた場所はあるが、大抵は妖怪同士の喧嘩で樹木が根刮ぎ薙ぎ倒された後だとか、そういう人為的なものであり、どちらかと言うと珍しい事例として、家を構えるために切り開く、という理由がある。
詰まる所、こんな不気味な森に住む物好きなんて魔法使い以外にはおらず、その〝物好き〟の一人が彼女霧雨魔理沙であり、もう一人がアリス・マーガトロイドであった。
きぃ、きぃ、きぃ。
高度を下げて、地面すれすれを一瞬切り、力をこめて箒先を上げて急制動をかける。さぁっと草が箒の後に靡いて、千切れた葉が宙を舞う。
箒を携えた魔理沙は扉をノックしようと手を伸ばしかけて、途中で慌てて引き返させて、まずは念入りに全身を払い、次いで帽子の角度を確認して、深呼吸を何回か繰り返して、よしっ、と意気込み、そこから数拍空けてようやくアリス邸の扉に快音が響く。アリス、私だ――
きぃ、きぃ、きぃ。
重厚な音を立てて内側から鍵が回される。
焦らすように扉が開く。
隙間から金色の髪が覗く。
「いらっしゃい、魔理沙……」
霧雨魔理沙の恋人、アリス・マーガトロイドは、柔らかな笑顔を浮かべて彼女を迎えた。
その四肢はすっかり肉付きが悪くなって、人形のごとく儚く、全身に纏っていた凛々しさも影を潜めて、目付きは柔らかくなって、ただ金髪の艶はあの時からまるで変わっていないと、魔理沙は今更のように感慨を噛み締める。
きぃ、きぃ、――きぃ。
車椅子が鳴く。
アリスの車椅子が、鳴く。
自分を大きく見上げるアリスの瞳に、魔理沙は微笑みを返した。
愛を囁くチェシャ猫の首輪
初めは、外の世界には便利なものがあるものだと感心した。〝あの日〟以来ほとんどベッドで寝た切りのアリスを見かねて、最近になって幻想郷に流れてきたものだと言って霖之助が提供してくれたのが、アリスの車椅子だった。
今ではすっかりアリスが生活するにはなくてはならないものとなり、時折魔理沙がにとりに定期メンテナンスを――変な機能を追加しないように念押しした上で――依頼している。おかげで、魔理沙がかけた強化魔法もあり、今の今まで車椅子に故障は無い。「心配性め。どこにも異常なんて無いじゃないか。これじゃ腕の奮いようがない」とにとりは毎回のようにぼやいているが。
「待ってね、もうすぐ朝食ができるから。簡単なものだけど」
「手伝うぜ」
「ありがとう、でも、本当にあと少しだから」
「テーブルまで運ぶだけだって」
朝からキッチンで動き回って漕ぐ手が疲れたのか、魔理沙が車椅子を押すとアリスは素直にそれを受け入れた。パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。キッチンは、車椅子に座ったままでも調理がし易いようにコンロやシンクなどが総じて低く作られていて、これはにとりの提案であった。
アリスがナイフで器用にベーコンを塊から切り出しているのを、次いで熱せられたフライパンを見て、魔理沙はにやりと口角を上げてコンロの前に立った。
「ベーコンエッグだろ? 任せとけって」
「あっ、……もう、待っといてくれてよかったのに。立っていたら使いにくいでしょう、それ」
「もう慣れたさ」
「それに、魔理沙が作るとベーコンエッグじゃなくて、ただのベーコン付きの目玉焼きになっちゃうし」
「アリスだって好きだろ、魔理沙式ベーコンエッグ」
「それは、そうだけど。……ありがと、他の準備しとくわね」
「おう」
ベーコンを二枚焼いて、まずは卵を一つ落とし、頃合いになったのを見計らってもう一つ落とす。それなりに屈まないと高低差がありすぎて黄身が潰れてしまうが、そこは慣れたものだった。一つが黄身まで熱が通って、もう一つが程良く半熟になったところで、白身を切ってそれぞれ皿に盛り、恐らくは魔理沙が来る前に仕込んでおいたのであろう、トマトのスライスとマッシュルームのソテーを添える。テーブルでは既にアリスが焼きたてのロールパンをバスケットに盛り、ジャムを並べ、とくとくと紅茶をカップに注いで、一方には角砂糖を一つ、もう一つには角砂糖を二つとミルクを注いでいた。
魔理沙には、半熟の卵とミルクティーを。
アリスには、固焼きの卵とストレートティーを。
「おっ、美味しいな、これ」
魔理沙が最初に口に含んだのは、マッシュルームのソテーだった。マッシュルームの旨味とバターが、中々程良く絡み合っていて、それが魔理沙の舌にじんわりと広がる。
「そう? ありがと」
「うむ、美味い美味い」
「魔理沙って、マッシュルーム食べたこと無かったっけ?」
「森でそれらしいのはたまに見るが」
「食べないでよ、そんなの」
「わーかってるって。ああ、そういや、前の買い出しで買っていたな。珍しいキノコだったから覚えてる」
アリスがこの森の中に住み続けると決めた時、最も強く反対したのはあろうことかあの博麗霊夢だった。今のアリスの状態ではとてもではないが森に一人で住み続けることはできない──実際、それは正しいと魔理沙は思う。もう車椅子しか移動手段がない彼女にとって、人里まで下りて必要最低限のものを手に入れるだけでも困難を極めるだろう。だから霊夢は、妖怪であるアリスを手の届く人里に置いて庇護しようとした。話ではあの半妖上白沢慧音の協力も取り付けていたというから、彼女は本気だったのだろう。しかし、アリスはそれを望まなかった。
だから、魔理沙は言った。私が何とかすると。
──以降、魔理沙は毎日アリスの家に通い、数週間に一度二人で人里に買い出しに行くのが、習慣となっている。
「朝から疲れただろ。リビングでしばらく休んでな」
「ありがと、そうさせてもらうわ」
アリスの車椅子を見送った後。背の低いシンクで背中を丸めながら二人分の皿を洗って、布で拭いて棚に戻す。車椅子を漕ぎながらの調理は体力をかなり消耗するから、特にアリス一人で大方の準備をする朝食の後の後片付けは、すっかり魔理沙の専業となっていた。勝手知ったる恋人の家、どこにどの食器があるのかなんて、とっくの昔に覚えてしまった。
魔理沙が手を拭いながらリビングに戻ると、アリスはソファに腰掛け本に目を落としていた。息遣いすら途絶えた静寂に時折古本のページを捲る乾いた心地良い音が混じって、その中で窓から注ぐ朝日を受けて薄陰を湛えたアリスの横顔と、滑らかに動くその色白の細い腕は、美しい絵画のようで、その現実感の希薄さに、魔理沙はしばしの間立ち尽くして――
「どうしたの、魔理沙?」
ふっ、とアリスの声で我に返ると、彼女の青い瞳がじっと魔理沙を見詰めていて、慌てて魔理沙は取り繕う。
「ああ……いや、何でもない」
「そう? ならいいけど……ちょっといい? お願いがあるのだけど」
「ん、いいぜ」
「あそこの本棚の文献に手が届かなくて……」
彼女が指差す先を見ると、なるほど、高い本棚の上段に重厚な本がいくつか並んでいる。車椅子から立ち上がってもアリスの背丈では届かないだろう。――プライドの高いアリスがこんなことを魔理沙に頼むようになったのは、〝あの日〟以降のことである。
どれだ、と聞くと、一番上の右から三番目の赤色の背表紙の、と答える。タイトルは「魔力伝導学」だった。
「…………」
魔力を五指に這わせ、本に指をかけるイメージを乗せて伝達しようとしたところで――ふと、本のタイトルが頭に引っ掛かって、なんとなく、アリスの前で魔法を使うのが躊躇われてしまった。魔理沙はダイニングから椅子を運んできて、本に手を伸ばす。
だが、
「……なんだよ」
他の誰にも聞こえない小さな声で魔理沙は呟く。
本棚の最上段。
部屋を常に見下ろせるところ。
そこには、アリスの人形達が並んで座っていた。
主の意思から離れた彼女達は、もはやただの小さなヒトガタと化して、据わらない首を棚の壁に、あるいはお互いの肩にもたれかけさせて、だらしなく四肢を伸ばし切っていた。かつては、感情があるのではと見間違わんばかりだったのに。その面影は魔理沙の中の記憶が裏付けするだけで、並べられた人形の骸は現実をまざまざと見せつける。
――そして、鈍く光る硝子玉の瞳は、ぎょろりと動いて、魔理沙に呪詛を紡ぐのだ。
お前のいる場所は、ワタシタチの場所だったのに。
ワタシタチこそがアルジを支えていたのに。
どうしてオマエが平然と居座っているのだ。
そんな目で、ワタシタチを見るな。
置物と化したワタシタチを、見るな。
「……わかってるよ」
目的の本を小脇に抱えて、纏わりつく恨み言を振り払うように人形達から目を背ける。
そんなこと、わかっている。
あるいは自分は新しい人形の一つに過ぎないのかもしれない。
アリスの家の至る所に〝飾られた〟小人達は、少なくともそうであるように物言わずに要求してくるのだ。
オマエしかいないのだ。
オマエだけなのだ。
オマエが支えなければならないのだ。
オマエが、オマエが、オマエが──
それを幻聴だと割り切ることは、今の魔理沙にはまだできない。
アリスに魔導書を手渡すと、「ありがとう」と可憐な笑みを浮かべて言うものだから、照れ臭くなって頬を掻いていると、ぽんぽんとアリスは二人掛けのソファの自分の横の表面を叩く。
座れということらしい。
「ちょっと待ってな、私が読む本を持ってくるから……」
「や」
「やっ、てな、お前」
「魔理沙、本に集中したら周りが見えなくなるじゃない」
「それはそうだが……」
「そうなると私に構ってくれなくなるでしょ」
「前例はあるが……」
「だから、魔理沙は本を持ってきちゃダメ」
結局、手ぶらでソファに腰掛けることになった。
満面の笑みのアリスが肩に頭を寄せてくる。
「えへへ」
ご機嫌だった。
結果としては全てアリスの言いなりになっていることに気付いた魔理沙は、――それはそれで嫌な気はしなかったのだが――、子猫のように頬を擦り付けてくるアリスの額をぐりぐりと人差指で押し上げる。
「……むぅ」
「こんな朝っぱらからベタベタするものじゃないだろ」
「いいじゃない、別に用事とか無いのだし」
「その魔導書読むんじゃなかったのか」
「読むわよ。魔理沙分を補給したら」
「一晩でそこまで減るものなのか?」
「減るものなのよ」
そこまで言われれば、そうなのか、と納得するしかない魔理沙であった。同じ穴の狢だった。
季節は秋。幻想郷の残暑もそろそろ影を潜めて、秋姉妹がこの上ない上機嫌になる頃。こう密着しても特段暑苦しくなくなって、アリスと魔理沙の密着度は日に日に上がっている。
──去年の秋は、こんなのは想像もできなかったのだけどな。
魔理沙の脳裏を過るのは、在りし日の霞んだ風景。別々のソファに座って、場を支配する無言の静寂の中で別々の文献を黙々と読み、たまにアリスが、紅茶でも入れましょうか、なんて言って、魔理沙が、おう、と言葉だけで応えて、一見冷めた関係だが、確かに以心伝心の絆で結ばれていた日々。あんたら本当に付き合ってるの、と居合わせた霊夢に言われたのは一度や二度ではないが、それを真っ先に肯定したのはアリスだった。
そんな空間が一変したのは、この前の春のこと。
恋人同士である二人は同じ魔法の道を追求する研究者であり、自然と合同研究の機会は関係が深くなるにつれて増していった。二人の志す到達点はそれぞれ違うが、互いの研究内容が全くの無駄になることはなく、逆に違った視点からのアプローチを生む有意義なものであった。
二人なら、どんな難題も解ける気がした。
二人なら、どんな発想も生み出せる気がした。
二人なら、何でもできる気がした。
だから、〝あの日〟は、これまでよりも少しだけ背伸びをしようと思ったのだ。
本来は門外漢である召喚魔法。それも高度な技量を要求される悪魔召喚。
提案したのはアリス。了承したのは魔理沙。
アリスの目指す自律行動型の人形の実現のため、伝承を存在の根源とする悪魔の非実体性を、何かしらの精神性を人形に憑依させる際の参考にしようとしたのだ。
「大丈夫よ、魔理沙が傍にいるもの」
なんて、魔法陣に向かいながらアリスは笑みを浮かべて言ったけれど。
結果は失敗。
実験室となったアリスの家の地下室には魔法陣から溢れ出した魔力の奔流が渦巻いて、失敗を悟ると同時に魔理沙は意識を刈り取られた。
数分後か、数時間後か、数日後か──目を覚ました魔理沙の眼前には、静けさを取り戻した地下室と、意味消失し幾何学模様に成り下がった魔法陣と、その中央で力無く地に伏した少女の身体があった。
〝あの日〟に魔力の渦の中央で何が起こったのか、アリスは語りたがらない。ただ確かなのは、以来アリスは自身の魔力生成能力のほとんどを失ったままということ。それは捨食の魔法により魔力で文字通り〝全て〟を賄っている種族魔法使いであるアリスにとっては、あまりに致命的であった。魔法を使うなんて以ての外、人形を自由自在に操ることも、立ち上がって真っ直ぐ歩くことも叶わない。生命維持に必要な最低限の魔力を何とか確保し、僅かな余剰分をやりくりしているのが、今のアリスだった。
「なあ、アリス」
「ん、なに?」
二人で昼食を作って、魔理沙が片付けて、それからしばらく経って、時計の針が三時を回った頃。
魔法が実質的に使えなくなっても、アリスにとっては魔力活用の効率化は喫緊の課題であり、魔法との縁が切れた訳ではない。だから、こうして朝から魔導書を読み込むことは珍しくはなかった。ただ、集中力を賄うのもまた限られた魔力である。隣の魔理沙からすれば、考え込むアリスの横顔は危うさを幾分も孕んだものなのだ。
「気分転換に、散歩にでも行かないか。少し疲れただろ。私が車椅子押していくしさ」
「もう、過保護なんだから。魔力の底が見えてきたら、私も魔導書読むのは控えるわよ」
「私がアリスと一緒に行きたいんだ。この季節ならアリスも外を出歩いても体力を消耗しないしな。ああそうだ、疎らだけど、紅葉、綺麗だぞ」
アリスはあっさり折れた。夏は買い出しなどの例外を除けば外出を控えていたから、アリス自身も最近は外の空気を吸う機会は少なかったし、何より紅葉の中で二人、というシチュエーションが気に入ったらしい。アリスを抱きかかえて車椅子に座らせる時、ちょっとしたデートね、なんて嬉しそうに耳許で呟くものだから、魔理沙はしばらく頬の赤らみが取れなかった。
「あ……ちょっと待って、魔理沙」
そう言うとアリスは自室まで車椅子を漕いで行って、戻ってきた時には、その膝の上に一体の人形を乗せていた。
「上海か?」
「うん。……この子にも、外の空気、吸わせてあげたいから」
「そうか」
帽子はアリスの家に置いてきたから、秋の日差しがやけに眩しく感じた。
振動軽減の簡素な魔法を車椅子に施して、アリスを外へと連れ出すと、さぁっ、と風が二人の髪を撫でた。
「綺麗ね」
魔法の森というぐらいだから、人里近い野山のように森全体が赤や黄に染まっている訳ではないが、それでも所々には紅葉の木々も認められる。ちらちらと木漏れ日が届く森の踏み分け道をアリスの車椅子を押して進むと、時々見事に染まった楓や銀杏などが姿を見せて、しばし押す手を止めてその風光明媚な光景に浸るのだった。
鳥が鳴く。
獣が鳴く。
木が鳴く。
空が鳴く。
森が鳴く。
車椅子は音を立てて道を進む。
他愛のない会話が彩りを添える。
魔理沙の手がアリスの手に添えられる。
握られる。
指が絡まる。
奥底に触れ合う。
「見て――」
アリスの指差す先には、木々の薄暗い洞窟の終わりを告げる明るい光の門。
そこを越えると、原生森の只中にありながら樹木の一掃された空間が、それほど広くはないが、ぽっかりと天に向かって口を開けていた。その端は紅く鮮やかに彩られた木々で縁取られていて、アリスは「こんな場所、あったのね。これまで気付かなかった」と溜息混じりに呟く。
「人里とは反対方向だし、空を飛んでいても真上を通らない限りはそこまで目立つ訳じゃないしな」
「でも、魔理沙は知っていたんだ」
「たまたまだよ。たまたま、な」
発見したのは偶然でも、ここまでの道を整備したのは魔理沙本人なのだが――
「ふふっ」
「なんだよ」
「だって、ここしばらくはあまり外出できなかったって言っても、この近くは私の庭みたいなものよ? ご丁寧に私の家から続くあんな道、前は無かったもの」
「……気のせいじゃないか?」
「そうかしら」
「ああ、気のせいだ」
「ええ、そうね、きっと気のせいだわ」
くすくすと上品な笑いを零すアリスに、居た堪れなくなった魔理沙は唸るしかなかった。
枯草色で敷き詰められた庭園の中央まで車椅子を押していくと、思い出したように空から吹いた旋風に二人共々襲われて、巻き上げられた落ち葉に一瞬視界を奪われる──目を開けると、眼下のアリスの髪には、赤く染まった楓の葉が髪飾りのようにしがみついていた。
「綺麗な場所ね──まるで童話の世界のよう」
そんなことを目を細めて沁沁と噛み締めるように言うものだから。魔理沙は楓を払ったその手で、慈愛を込めてアリスの髪を梳かす。儚さを感じるほどに指通りの良いそれに魔理沙は形容し難い不安を覚えて、覚えてしまって、彼女の頭を抱き締めんとする自分自身の腕を自ら窘めなくてはならなかった。
童話の世界になど、アリスを住まわせたくはない。
あんな残酷な世界に、彼女を──になど──
ねえ、魔理沙。アリスの声が鼓膜を揺らす。
後ろに回された彼女の右手が、すぅっと魔理沙の頬にまで伸びてきて、愛おしむように数度撫でる。魔理沙の手がそれに重なって、そして二つの手のひらで大事に大事に仕舞い込む。
アリスは再び、言葉を紡いだ。
「……これでいいのか?」
「うん」
アリスから二丈ほど離れた場所に、落ち着かない様子で魔理沙は立っていた。アリスがそうしてと言ったのだ。少し離れた場所で待っていて、と。その理由がわからず不安を隠せない魔理沙を尻目に、アリスは俯き、一つ大きく息を吐いて、呼吸を整える。
「魔理沙、私はね、私自身までを失くしてしまった訳じゃないの」
アリスの手は、上海人形に添えられて。
その小さな布の身体が、ぽぅ――と灯火のように淡く光を放つ。
「アリス……!?」
「魔理沙は、そこで、待っていて……!」
アリスの喉から絞り出されたような声が駆け出しかけた魔理沙の足を地面に縛り付ける。アリスの額には大粒の汗の雫がいくつも浮いてきて、たらりと鎖骨まで流れていく。世界が凪ぐ。上海が纏っていた朧気な煌めきがその矮躯に吸い込まれて、据わっていなかった首が不意に持ち上がる。
ふわり。
上海は、しがらみを脱ぎ捨て、宙を舞う。
覚束なくも、少しずつ、魔理沙の許へと飛んでいく。
アリスの右手は悲鳴を上げながら、上海へと伸びる細い細い一本の糸に魔力を送り続ける。
縋るように。
求めるように。
手を伸ばすように。
──ぽふん。
上海は、魔理沙の手のひらに辿り着いた。
「アリス……!」
無我夢中で魔理沙は駆け出す。
アリスは、途絶え途絶えに荒い息を吐き出しながら、苦しさに胸前を握り締め、口を開けて必死に空気を求め、その息吹は風前の灯火の如くであった。全身の魔力を絞り出したのであろう。たった人形一体をほんの少しだけ翔けさせるために。
車椅子から滑り落ちそうな身体を辛うじて支えて、背もたれにアリスの体重を預けさせた魔理沙は、そのまま覆い被さるように彼女を抱き締める。細心の注意を払って、硝子細工を扱うように。忙しなく脈打ち続けるアリスの鼓動が、少しずつ自らの心臓と同調していくのに、魔理沙は言いようのない安堵を感じて、嗚呼、とアリスの横顔にその頬を擦り付けて、彼女の実在を噛み締めた。
「……魔理沙、怒ってる?」
「ああ」
「ごめんなさい」
「……ああ」
アリスの体温を感じる。
アリスの拍動を感じる。
アリスの生命を感じる。
今はそれで、十分だった。
彼女の頭を撫で回すと、こんなにも私は安心できる。
「あのね、魔理沙」
顔を離して、二人の視線が交錯する。魔理沙の瞳は薄っすらと涙の膜で覆われていたが、アリスのそれは達成感すら僅かに窺わせるものだった。
「私はね、今、とっても幸せなの」
アリスは可憐な笑顔を浮かべて、そう魔理沙に囁いた──
──嗚呼、なんて彼女は愛おしい。
「不可能だって……! どういうことだよ!」
あれから数日後。
紅魔館地下。
魔法使いの大図書館。
果てを知らない知識の墓場。
魔理沙の叫びは、気儘に浮かぶ埃を僅かに震わせて、あっという間に際限の無い空間に呑み込まれた。
「どうもこうもないわ。さっき言った通り。彼女が元の状態に戻ることは有り得ない」
図書館の主パチュリー・ノーレッジは、一角に据えられた愛用の書斎机でロッキングチェアに座り抱えた文献に目を落としながら、抑揚の無い声音でそう言った。彼女の表情からは何も感情は読み取れず、その淡白さは余計に魔理沙を逆撫でする。
噛み付く魔理沙を一瞥したパチュリーは、一つ溜息を付いて口を開いた。
「こんなのは柄ではないけれど、同じ魔法使いのよしみで、手は尽くしてみたわ。大体の思い当たる蔵書は参考にした。その上で言っているの。現段階で、アリスの魔力生成能力を回復させる手段は存在しない」
カツカツとヒールの音が反響する。半ば茫然自失に陥っていた魔理沙が気配を感じて咄嗟に振り向くと、黒のベストとスカートの司書服に身を包んだ小悪魔がトレイにティーカップを二つ並べて立っていた。事務的な笑顔を貼り付けて。
「紅茶をお持ち致しました」
「ありがとう、その辺りに置いておいて」
「はい」
小悪魔は自分の仕事を終えると、トレイを胸前に抱えて、二人から少し離れた薄暗い本棚の陰に気配を潜めるように控える。
魔理沙はご丁寧に自らの前に置かれた紅茶に目を落とす。紅色の水面に映った自分の顔は、しかしそれでもはっきりとわかるぐらい、青白く染まっていた。
「魔理沙、貴方だってわかっているのでしょう? アリスが治らないということなんて」
「なんで……」
「アリスは悪魔を召喚した。結果、魔力の大半を失った。その変化は、即ち悪魔との契約よ。ただの怪我や病気の類ではないわ。もうアリスは〝そういうもの〟に、存在の定義を変えられてしまったの」
ぱたんっ。
本を閉じたパチュリーは、その紫色の瞳を虚空に向けて、懐古するように言った。
「……ねえ、魔理沙、どうして魔女たる私が喘息みたいな持病の一つや二つに苦しめられているか、わかるかしら」
自分語りは嫌いなのとでも言うように、言葉を切った彼女は背もたれに体重を預け紅茶を啜る。
その一字一句をようやく咀嚼し切った魔理沙は、ゆっくりと首を回して、開ききった眼に小悪魔の姿を捉える。──僅かに窺えた彼女の面立ちは、主と同様に無機質な仮面のようで、ただその無言が魔理沙の想像を肯定していた。
「悪魔と一介の妖怪見習いの契約だなんて、それはアリスのあらゆる他の事象より優先される。彼女はずっと、あのままよ。あのまま、生きていくの。人間よりも脆弱な妖怪として、ずぅっと」
どこかの振り子時計が無意味な刻を刻み続ける。
大図書館は知識と静寂とカビの臭いを湛える。
たった一人の少女のために集められた世界の全て。それに否定されたのならば、即ち世界に否定されたということなのかもしれない。
アリスは、見捨てられた。理から外された。
現実という悪魔は魔理沙の心臓を掴んで、今にも握り潰さんとしていた。
「そん、な……」
ようやく絞り出されたのは、たった一言の絶望。
いつの間にか椅子に倒れるように腰掛けていた。小悪魔が用意してくれたのかもしれない。そんなことにも気付けなかった。
首筋を流れるいくつもの冷や汗が、まるで蛞蝓が這うように垂れ落ちて、その全身を震わせる嫌悪感を魔理沙はただただ受け止めた。
「アリスは……まだ、希望を捨てていないんだ」
「ええ」
「魔法使いとしてのアリスを、諦めたくはなかった……」
「……そうね。でもね、魔理沙。彼女は完全に魔力を失った訳ではないわ」
「それは、そうだが……」
「そう……後先考えずに人間の村を丸々消滅させられるぐらいの魔力なら、まだ残っているわ」
言葉を額面通り受け取った魔理沙の目尻が敵意で吊り上がるのを、パチュリーは横目で窺い、その期待通りの反応に愉快そうに目を細める。
「なにを……!」
「鈍くなったわね。微温湯に浸かりすぎたのじゃないかしら? そんなにアリスの恋人ごっこは楽しかった?」
「…………」
「私はね、魔理沙」
貴方が死んだ後の話をしているの。
アリスは魔力を失い、ただの人間にも敵わない少女に落魄れたが、それでもまだ妖怪としての存在の定義から外れた訳ではない。
彼女は生き続ける。人の一生が刹那に思えてしまうほどの、永い永い永い妖怪としての命を全うせんと。
魔法の森の奥深くで、車椅子の軋む音を僅かに立てながら、誰にもかも忘れ去られて、ひっそりと。
恐らくは、幻想郷にやってきた時、彼女はあの家でやがては一人で朽ち果てるつもりだっただろう。
「でも、それは彼女が魔法使いという種族の本願を昇華させるためよ」
最早彼女にかつての生き甲斐は無い。
魔法の行使が絶望的になり、完全自律人形の実現など望むべくもない今、彼女はただの生ける屍と化した。
ならば彼女は何を目的に生きる?
飢えた餓鬼は何を糧に生きる?
死体を生かすのは何だ?
「魔理沙、それは貴方よ」
魔理沙の脳裏をアリスの笑顔が過る。
だが同時に、薄暗い部屋で一人本を読む寂しそうなアリスの横顔も描き出されてしまって、魔理沙は胸の苦痛に呻いた。
「そして、貴方が逝った後、彼女がどんな末路を辿るか考えたことはあるかしら。貴方無しの愛が何をもたらすか」
魔理沙が死んですぐは、二人の知り合いが度々アリスの許を訪ねることはあるかもしれない。
だが、彼女を知っている人間は、彼女を覚えている妖怪は時間と共に減っていく。
彼女を支えていた人形達はもう動かない。
意義を与えていた魔法は霧散した。
孤独という猛毒は、間違いなくアリスを喰い殺す。
「彼女が人間よりも人間臭い妖怪であることは、貴方が一番理解しているでしょう」
あっさり数十年かで音を上げるか、数百年かを耐えてみせるか、それはアリス次第だ。
確実にやってくる〝その日〟に、アリスの心は幸福な記憶を連れ立って、硝子みたいに壊れて無くなる。
「自宅でひっそりと誰にも知られず発狂して死に行くなら、彼女は彼女として死ねる分だけ幸せでしょう。でもね、心が壊れた妖怪なんて、醜い姿形に変貌して、人間達を喰らい尽くして、最後には悪霊か祟り神の類として退治されてしまうのが妥当な結末よ。そして──」
その時の幻想郷には〝今の〟博麗霊夢はいないのよ。
──頭を掻き毟り
──瞼を抉じ開け
──喉を握り締め
──名を連呼する
そんな、アリス。
そして、ぐずぐずの地面に伏した血塗れのアリスにお祓い棒を向ける、博麗の巫女の格好をした知らない誰かの、冷たい目──
「貴方には二つの選択肢があるわ」
パチュリーの声に魔理沙は憔悴し切った、今にも決壊してしまいそうな顔を持ち上げる。
彼女は書斎机の右側の引出の一つを開けて、中から一冊の重厚な書物を取り出すと、魔理沙の前に叩きつけた。
「一つは、彼女と同じ時間を生きること」
つまりは人間をやめること。
捨食と捨虫の魔法。
齧ったことぐらいはあるでしょう、というパチュリーの言葉に、魔理沙はぎこちなく肯定した。
「貴方の人間としての矜持を捨てて、種族としての魔法使いになれば……妖になれば、彼女と添い遂げることもできるでしょう」
「でもそれは……アリスは、きっと悲しむ」
「ええ、彼女は自分を責めるでしょうね。魔理沙に悠久の命の咎を負わせたのは、私のせいだと」
パチュリーの視線が、魔理沙に突き刺さる。
息が詰まる。
「その上で言っているの。彼女を裏切って彼女と生きろ、とね」
自らもアリスと同じ魔法使いになる。その道を考えなかった訳ではない。アリスとは流れる時間の速さが違うという事実は、ずっと魔理沙の喉奥に引っ掛かって彼女を苛めていた。
だが、人間として産まれ、人間として生き、人間としてアリスを愛していた自分が、果たして意識の根幹である〝人間であるということ〟を失った時、確実に自分がかつての自分でいられるのか。魔法使いとなった自分は、変わらずアリスを愛しているのか。その憂惧は、魔理沙の足を今に縛り付けるには、あまりにも強固な鎖だった。
「……そして、もう一つ」
声の出し方も忘れてしまった魔理沙を見かねたパチュリーは、据わった目で彼女に告げる。
手を伸ばしたのは書斎机の左側の引出。からんと乾いた音が鳴る。
パチュリーの手に握られていたのは、一振りの瀟洒な短剣。その刀身は図書館の僅かな淡い光を反射して、艶めかしくパチュリーの顔を照らしていた。
詠唱。魔女は歌う。
紡がれた呪詛は、真っ黒な吐息となってパチュリーの口から漏れ出て、短剣にとぐろを巻いて絡みついては、銀色の鋼に染み入って、その煌めきを禍々しく墨色に変貌させていった。
「単純なことよ。共に生きられないのなら、貴方がその手で彼女を終わらせなさい」
パチュリーの手を離れた短剣は、魔導書の横、魔理沙の前まで滑って這い寄る。
歪んだ空気が、笑う。
魔法使いを殺す呪いだと、彼女は言った。
「……私に、アリスを殺せと」
「そうよ。久遠の鳥籠に彼女を閉じ込めて飼い殺してしまう前に、飼鳥を先に殺しなさい」
「あいつは……! 死にたがっている訳じゃ、ない……!」
「あの未熟な娘を待っているのは、確実な緩やかな死よ。孤独の中で絶望に首を締められ窒息死するか、貴方の腕の中で温もりを感じながら逝くか」
彼女もきっと喜ぶでしょう。
パチュリーは、紅茶を飲み干した。
「……その後は、貴方の勝手にしなさい。朽ち果てるまでアリスの墓守でもするか、その短剣で後を追うか」
──震える魔理沙の視界には、たった二つの選択肢。
魔導書は荘厳な威圧を放ち、彼女のために自らの存在の根底を覆す覚悟を迫る。
短剣はニヤケ面を浮かべて、彼女のために彼女の可能性を殺す覚悟を迫る。
魔女は、目を細めて魔理沙の瞳を射抜く。
そして言い渡す。
「選べ、霧雨魔理沙」
──愛おしきものを、どうか逃がさないように。
きぃ、きぃ、きぃ。
重厚な音を立てて内側から鍵が回される。
焦らすように扉が開く。
隙間から金色の髪が覗く。
「いらっしゃい、魔理沙……」
「ああ……すまない、遅くなったな」
アリスは今日も柔らかい笑みを湛え、鈴の音の響くような声で魔理沙を迎え入れる。
だが魔理沙の顔色を見たアリスは、心配そうに首を傾げた。
「……? 魔理沙、寝られなかったの?」
「あっ……いや、そういう訳じゃ……」
「目の隈、すごいわよ」
「……ああ、ちょっと考え事していてな」
「相談なら、乗るよ?」
魔理沙は身を乗り出しスカートの裾を握ってくるアリスを窘めて押し戻すと、くしゃくしゃと彼女の頭を撫で回す。
「大丈夫だ。……もう、答えは出たから」
アリスの蒼色の瞳は不服そうではあったが、無言で髪の毛を梳く魔理沙がこれ以上彼女の疑問に応えないということを悟ると、無邪気にすぅっと気持良さそうに細められた。
それを微笑を浮かべながら見下ろしていた魔理沙は、心臓が疼き鈍痛が全身に広がるのを、為す術無く受け止めて、どうしようもなく泣きそうになる。
「あ……もうとっくに朝食できてるわよ? 冷める前に、食べちゃいましょう」
「そうだな……今日は、何だ?」
アリスは慣れた手つきで車椅子を旋回させて、廊下を奥に一人で漕いでいく。だが明らかにその動作は辛そうで、車椅子に手を伸ばそうとしたところで──魔理沙は自分の足が玄関の外から動かせないことに気付いた。
「今日はね、いつもの時間になっても魔理沙が来なかったから、アリス式ベーコンエッグよ。あとはサラダと、ポリッジよ。ポリッジはね、普段は余り作らないのだけど、久しぶりにと思って……、……魔理沙?」
「あ……、ああ……それは楽しみ、だな……」
脚が震える。
手が震える。
声が震える。
振り返ったアリスにまともに受け応えできているかもわからない。
アリスの家に、入れない。
今の自分に彼女の聖域に踏み入る資格など無いと、自分自身が告げている。
ああ、そうだ──告げなければ、ならないのだ。アリスに。私が何を選択したかを。
「なあ、アリス」
潤んだ視界で前を見据える。
だが、その中の最愛の彼女の姿だけは、克明に捉えなければならない。
それが私の義務だから。
ぎゅっと、一方の手で背後に隠していたものを強く強く強く鬱血するほどに握り締める。
覚悟を強固にするように。
どうか後悔しないように。
乾いた口を、開く。
「私は──」
──、──。
……あら。
物語とは、あるがままに受け止めるものよ。
せっかくの溢れ出る感慨も、無粋な人のたった一言で霧散してしまうわ。
特に、それは現実の物語においてこそ。
人々の心を震わせられるなら、誰もそのノンフィクションの舞台裏を知らなくてもいい。
素直に劇場の役者達が繰り広げるドラマを刹那的に消化していればいい。
衣装を脱いだ素の役者達の生々しい愛憎劇など、無視すればいい。
……ほら、無粋な悪魔が目尻を下げて近付いてくる。
そして彼女はきっとこう言うのでしょう──
「パチュリー様、これで良かったのですか?」
──と。
外界から断絶された大図書館では、埃が気儘に飛び回り古本のかび臭さが空間を埋める。
魔女と悪魔にとっては何処よりも住み易い環境だ。調和を乱す来客も既に無い。
「ええ、全て思い描いた通り。つまらなさすぎて欠伸が出るぐらい」
パチュリーの書斎机の一角には、十字架のようにあの短剣が突き立てられていた。
彼女はその柄に手を伸ばして引き抜くと、手を翳して机の刺傷を癒やし、刀身に一つ息を吹きかけて、纏わりつく呪いを否定する。
咲夜に返しておいて、と放り投げられた短剣を受け止めた小悪魔は、眉を顰めて主を見遣る。
「……いつにもなく、饒舌でしたから、もしやと思ったのですが」
「あら、バレていたの」
「ええ、魔理沙さんはそれどころではなかったでしょうから、気付いていないでしょうけど。とても楽しそうでしたよ」
魔女は語る。子供のように。
「ええ、そうよ。魔理沙が、アリスを殺すですって? あんな乳臭い小娘に、そんな気概があるはずがないじゃない。元々、選択肢なんて一つしか存在しなかったの」
「なら、何故貴方はこの短剣を彼女に提示したのですか」
「だって、気に食わないじゃない」
「気に食わない……?」
「あら、悪魔の端くれの貴方ならすぐに理解できると思ったのに。すっかり魔女の価値観に染まったのね」
パチュリーは一冊の分厚い書物を取り出すと、ページに空気を撫でさせるように捲り流す。
それぞれの項に描かれているのは、剣呑な悪魔達。ある者は獣の姿を持ち、ある者は醜い異形の相貌を備えていた。
「アリス・マーガトロイドがどの悪魔を召喚したのかは、もはや彼女にしかわからないわ。ただ間違いないのは、それは生半可な低級悪魔ではないということ。レメゲトンに名を連ねるような、格式高いソロモンの爵位持ちかもしれない」
小悪魔の気配が緊張したのを感じると、彼女は愉快そうに唇を歪める。
「彼らはその力故に、狭隘なペテンなど嘯かない。生贄にはそれ相応の対価を支払う」
「……」
「新米魔法使い一人の魔力など、彼らにとっては大した価値は無いわ。でもね、契約が交わされたのならば、悪魔は彼女の望みを確実に履行する。アリスが失ったものに見合う〝何か〟を、彼女に与えた」
彼女は何を願った?
彼女は何を手に入れた?
「私はそれが気に食わなかったの。新米魔法使い如きが、悪魔すらも利用して、世界を思い通りにするのが。自らの狂気を押し通すのが。愛なんて世迷い言のために、魔法使いの矜持を蔑ろにするのが」
魔力の大半を失ったと気付いた時、彼女は何を思った?
「魔理沙が人間を捨てるのは、時間の問題だったわ。だから、私は魔理沙に吹き込んだの。悪い魔女が仕組んだ予定調和を壊すために」
儚げな笑顔の裏で、彼女は何を企んだ?
「でも、結果はこの通り。見事な敗北よ」
しかし言葉とは裏腹に、パチュリーの口元は悪い悪い魔女のごとく上機嫌に吊り上がって、天を仰いだ。
ああ、この人にとって、白黒の魔法使いと七色の人形使いの顛末など、本に埋もれた日々に僅かに花を添える些事に過ぎないのだろうと、小悪魔は主を見て思う。
なんて、人外らしい性分なのか。染まってしまったのは果たしてどちらなのか。
「こんな幸福な結末、そう見られるものではないわ。ヒーローは愛に殉じヒロインと添い遂げる。まるで童話ね。誰もが幸せな、誰もが祝福するハッピーエンド」
「ワインでも、お開けしましょうか」
「咲夜のインスタントのヴィンテージワインじゃダメよ。本物の時を重ねた熟成ワインを持ってきて」
「お望みのままに」
「そして一緒に乾杯しましょう。これからナンセンスな永い時を生き続ける、二人の魔法使いに向けて」
歪みに歪み切った歪な愛は、依存と束縛と執着に彩られた狂気へと変わりました。
何が恐ろしいって、最も近しい位置にいて、最も身近に触れ合っている魔理沙が、それに気づいていないはずがないのです…。ただ彼女は諦めが悪く強く、何より人脈が抜群なので、研究の果てにアリスの呪いをも超越するのかもしれません。
いやー待ちに待った貴方のマリアリ作品、読めてとても満足してます。
というか待ってる間、私もマリアリ作品を書き始めちゃいました(笑)。
さて、今回のマリアリは切なくてちょっぴり甘かったです。
切ないマリアリ話は私が最も好みなテーマですが、今作で人を想う気持ちも切なさが滲み出るものだと痛感しました。
愛しいからこそ簡単に狂気に陥る。
底の知れぬ愛ほど、未来を不安定にさせるものはありませんね。
素敵な作品でした。
次回作を楽しみにしております。
それを後押ししたパチェさんも先輩魔女の鑑!
パッチェさんの魔女っぷりがパネエ。このパッチェさんいいなあ。
と言いつつ、そのへんに有るそういう物語とは大分趣が異なるSSだと感じました。
このSSをそうさせているのはやはりパチュリーの存在でしょうね。
彼女の登場から一気にストーリーが展開しましたし、またラストを彼女の視点から語らせることで物語に深みが増したように思います。
文体もややクセがあり、その分印象に残るものになっていたと思います。