第一章 牛
湖の周囲は踏み固められた小道になっていて、その脇のくるぶし程の高さの草を牛が食っている。
夕暮れ時で、風が小波を立てると、湖面できらきらきらきらと夕日が散らかって光る。ほとんどが黒目の牛の眼にも、一点ちかりとオレンジの光がともっている。全身のチョコレート色の毛皮が、燃えている。燃えるように輝いている。燃えるように輝きながら草を食っている。若い雄牛である。
間もなく日が落ちるというのに、牛はねぐらに戻ろうとする気配も無い。人里より逃げて来たものとするならば、もう日のある内に帰る事はかなわない。過去と未来をすっぱり切り落としたように、牛は湖畔にいて、草を食い続けている。仲間はいない。ただ一頭でいる。
牛という生き物は家畜化されて久しい。野生の牛というのは、そう考えれば十分に幻想の生き物たり得るのかもしれない。実際、茜色に染まる湖のほとりでぽつんと牛が草を食っている光景は、幻想的ではあった。
しかし、ずいぶんこの牛は食い続けている。首を緩やかに左右に振りながら、止む事無く草を食う。もう少し機敏な動きであれば、草が美味くて美味くて夢中で食っているという風にも見えようが、それを酷くのろのろとやるせいで、不気味で得体の知れない印象になる。周りの草をあらかた食ってしまうと、さらなる草を求めて牛はじわりと前進する。歩みは遅く、湖は広く、そうやって牛が湖岸をぐるりと一周して戻ってくる頃には、草はすっかり元の通りに伸びていそうな調子である。果てが無い。
みるみるあたりは暗くなる。夜の闇の中で、牛は草を食い続け前進し続けるのだろうか。あるいは、眠りにつくのだろうか。場合によっては、いなくなってしまう事も、無いとも言えない。湖に転落したり、何者かに食われたり、――霧のように消えたりだって、するかもしれない。さらには、また日の出と共に、霧のように現れたりだって。つまり、牛がそういう存在だったとするならば。幻想郷では珍しい話でもない。
だいたいが、闇の中の話というのはそんな風に曖昧である。覆い隠されて光の届かぬ限り、いるかいないかさえはっきりとはしない。シュレーディンガーの牛だ。人類は十進法を採用しました。そうして採用して以来、人類は破竹の勢いで蒙昧の闇を切り開いてきたのだが、切り開きまくった結果、結局全部は切り開けそうにありませんという事がはっきりしたらしい。量子力学しかり、ゲーデルの定理しかり。闇は不滅であり、今日も世界には夜が訪れる。
そして、今述べたような事は、牛とはあまり関係が無い。牛は相変わらず草を食っていて、今はまだかろうじて夕方である。
第二章 人食い妖怪談義
人食い妖怪は、人を食う妖怪である。しかし、実際に人食い妖怪が人を食うかどうかは、また別の話である。これは真面目な話であって、ふざけているのではない。
人食い妖怪がいかにして生まれたかを考えてみよう。
妖怪は多くの場合、わけのわからないコトに出くわした人間が、説明がつかないものだから、それをわけのわからないモノのせいにしたところから生まれる。わけがわかると、妖怪は死ぬ。人類は十進法を振りかざして、めきめきと妖怪達を幻想郷へと追いやってきたわけである。
少し話が逸れた。つまり人食い妖怪が生まれた背景には、簡単には説明のつかぬような失せ人があったのだろうと推測出来る。それのみならば人を拐かす妖怪ともなり得るので、死体も出たのかもしれない。ぞぶり、と脇腹あたりをやられた奴なぞが。実際、何があったのかはわからないわけだ。熊のようなのに襲われたのか、あるいは死体となった後に野犬等に食われたのか、猟奇的な人間の犯行という線だって無くはない。しかし、わからないので、これは妖怪だという事になる。大人達があの辺は人食いの妖怪が出るから危ないのだと子供達に言い聞かす。実際人が死んでいるのだからあの辺は危ないのであって、もう一人くらい失せれば、これはもう立派な人食い妖怪である。
あの辺には人食い妖怪が出るらしいぜ、という文脈の中で人食い妖怪は語られるのであって、どこそこで妖怪が人を食ってたぜ、という話にはならない。せいぜいが、妖怪に食われた死体がたまに出るくらいのものである。
こうしてみると、人食い妖怪をより正確に定義するならば、人を食おうとする妖怪である、とした方が良さそうだ。実際に食う行為は、人食い妖怪を人食い妖怪たらしめている要素ではないのである。
また別の話をする。すなわち、人食い妖怪の食わんとするところの人とはなんぞや、という話である。
現在地球上で十進法を携えて跋扈している人間というのはいわゆるホモ・サピエンスであるが、時を遡れば、世の中にはホモ・ネアンデルターレンシスだのホモ・ハイデルベルゲンシスだのホモ・エレクトゥスだのがいたらしいという事になっている。これらホモ・サピエンスの近種達は現代に至るまでに滅びてしまったようなのだが、あるいは生き残りがいるかもしれないという眉唾物の説は、今も細々と生き永らえているようだ。もしかしたらいるかもしれない、いや実際はいないのだろうけど。このような存在は、幻想である。
要するに、幻想郷にはネアンデルタール人がいるかもしれない、という話になる。
さて、このネアンデルタール人を、人食い妖怪は食おうとするだろうか。どこまでが人として許容され得るのか。
人という概念とは何なのか、様々な定義があってもちろん結論は無いのだが、ではネアンデルタール人を前にした人食い妖怪はどうするだろうか。食おうとするか、しないのか、結論は出る。つまり、これは観測装置である。シュレーディンガーのネアンデルタール人だ。
この先を読むにあたって、本章で述べたような点を踏まえてもらってもいいし、踏まえてもらわなくてもいい。
第三章 ルーミア
で、ルーミアの話だ。
だいたいいつも黄昏時に、ルーミアは空腹で目を覚ます。空腹と言ってもルーミアは妖怪であるから、本当に腹が減るわけではない。簡単に言えば、人を取って食いたいという衝動に駆られる、という事である。これは表現の問題ではない。つまり、人間を捕食するのと同価の栄養を他の方法で摂取したとしても、ルーミアの飢餓感が解消する事は無いのである。妖怪というのは難儀な存在で、そのありようにはどこまでも縛られるのだ。
そうして、人食い衝動によって目覚めたルーミアは、人食い衝動のおもむくままに夜の中を徘徊する。衝動の満足する事があればそれで眠りにつくのだし、満たされぬままに朝を迎えればやはり眠りにつくのである。眠りの内にあれば意識は無く、次に目を覚ます時はまた人食い衝動に駆られた時なのだから、ルーミアの人食い衝動が実際に満たされるか否かは、ルーミア自身に大した影響を及ぼさない。ルーミアは常に腹ペコである。腹ペコでない時は眠っている時である。人食い衝動そのものが人食い妖怪の本質で、むしろ人食い衝動が先にあり、衝動のある時にだけルーミアは存在するとも言える。最早、現象に近い。
ルーミアは人間を食おうとする。しかし、どう考えても幻想郷において人間にありつける機会は少ない。そして、ありつけなかったとしても、それは問題にならないのは述べた通りである。では、幸運にも、あるいは不運にも、彼女が人間に出くわしたとしたら。人食い妖怪であるから、当然食おうとするだろう。ルーミアは哀れな人間に近づく。そして彼女の纏う闇の中に人間の姿は消える。消えて、終わりだ。もうおわかりの事と思うが、本当にルーミアがその人間を食ったかどうかは、わからないのである。後で食べ残しの死体くらいは出るかもしれない。しかし、闇の中で何が起こっているのかは、知り得ない事である。真相は闇の中。
ところがルーミアは人間以外のものもよく食うのであった。宴会にふらふらと現れては旺盛に料理を平らげ、酒だって飲む。友人との付き合いで甘味だのも食う。そういった飲食が、直接に彼女の飢えを癒す事はない。本能的に満たされぬものを満たそうとする空しい代替行為であるのか、それとも意図的に自らの衝動を誤魔化そうとする試みであるのか、そもそも何の理由もありはしないのか。ルーミアの持つ自我のレベルも怪しそうなものだから、推し量りようもない。
ただ、幻想郷の大部分はそのような無意味なあれこれの集合体であって、そういう意味において、確かに妖怪達の楽園なのかもしれない。ルーミアは人間を食おうとしなければならない存在であるが、別に人間以外のものを食ってもいいし、食う以外の行為をしてもいい。そういう事だ。
第四章 観測
今日もまた空腹で目を覚ましたルーミアは、ぞろりとうろつき出す。黄昏時である。視界の覚束ない薄闇の中を、輪をかけて覚束ない軌道でもって行くので、あちらこちらの障害物に頭をぶつけたりしている。ようやく開けた場所に出るとそこは湖畔で、ルーミアは夜のとば口に立って、ついに件の牛と遭遇するわけである。紛らわしいので断っておくが、この件は妖怪の件を指す件ではない。しかし、件の牛が件でないという保証もまた、無い。
さて、ルーミアは牛を食おうとしただろうか?
実際に食っただろうか?
真相は闇の中。
実に様々なありとあらゆる可能性が重なり合って存在している。
別に、件の牛はやはり件で、さらにはネアンデルタール人の末裔であると主張しても構わない。如何ようにも主張できる自由を我々は持つのだし、そのような事柄も、幻想郷では珍しい話でもない。
なんだか、お酒に酔った幻想郷人が語る世迷い言、というような感じでした。
なんだか無性に悔しくなります。
こんな作風も良いですね
でもこれでいいんだろうなあ、いや、むしろこれこそが幻想郷の魅力なんだろうなあ、と感じました。
たまにはこういう余計な事もいいよね。突き詰めちゃえば世の中余計なことだらけなんだし。
気持ちよく放り投げられた感じです。ご馳走様でした。
ところで近年、ネアンデルタール人の遺伝子を引き継いだ部族が見つかったそうです
彼らは幻想なのかそうでないのかも
あやふやになってしまったのかもしれません
何とか形容しようとするならば「このようなSSを書ける人の頭のなかを覗きたい」ということになります。形容出来てないですが。
あるいは「分からなかったが、楽しめた。あとなんとなくわかった雰囲気になった」。
あー何を書いたら良いのか分かりません。
なんか必然的でない曖昧なことを、そのまま書くという事なのでしょうか?
究極の客観性というやつかも知れないし、そうでないかもしれません。美術館に飾ってありそうな作品を見ているようで、面白かったです。