1
八月下旬。雲ひとつない蒼穹に、精力溢れる大輪のお日様が鎮座して、晴れやかな笑顔で幻想郷を照らしていた。命蓮寺の床下に住み着いた三毛猫は、早朝から湿った土の上でしなびた饅頭のように寝転がり、朝餉の準備をすれば冷奴は温く、鯖は傷んでいて、里へ味噌と醤油の買い出しに出れば顔の汗で装束の襟元がくすんだ色合いに染まり、床拭きをすれば、汗で濡れた足がつるつる滑った。ただ、洗濯の泡立ては非常に捗り、それだけは捨てたものではなかった。口には出さねど暑い暑いと胸の内で呪詛がましく何度も繰り返しながらお勤めや家事をこなしたが、その疲労たるやここ数年来の甚だしさで、陽が落ちて、姐さんの読経も終わってご苦労様となった途端に、腰が抜けたように正座から身体がくずれてナメクジよろしく無気力になってしまった。体力にはそれなりの自負があったが、丁度たまたま当番が忙しくなった日だったのと、近年に稀なる大猛暑が重なったのが余程堪えたらしかった。私は伽藍の板張りに頬を擦りつけながら、目を閉じてそのじんわりした冷たさを貪った。
「いっちゃん、大丈夫か? 部屋まで運んでやろうか」
「もう少しこのままでいさせて。板張りが冷たくて気持ちいいの」
「疲れたのか? 暑いのか? むしろ両方だな。井戸から水汲んできてやるからちょっと待ってろ」
目を閉じた暗闇の世界で、水蜜の裸足がペタペタペタと足早に遠ざかるのが聴こえた。
「一輪ちゃん、大丈夫? 氷室から氷を持ってくるわ」
姐さんの声がして、水蜜と反対の方へ、軽やかな足音があっという間に遠ざかった。
「一輪、今日は炊事洗濯掃除と、全部入ってましたから、さすがに辛かったみたいですね」
背後から星の声。
「あと、買い出しも」
「あっ、そうでしたね。お味噌とお醤油、大変でしたね、本当にご苦労さまでした。そうだ、身体を揉んであげましょう」
泥のように脱力している私を、星は腕力でうつ伏せに直した。続いてするすると衣服を脱ぎ落とす音がする。按摩をしやすいように上着を脱いだのだろう。それから、お尻に彼女が馬乗りになる重みを感じた。
「どこがいいですか?」
「腰と、肩と、首筋と、腿と、上腕。強めにお願い」
「多いですね、いやはや。痛かったら教えてくださいね」
星は私の腰を揉みほぐし始めた。
「ああ、気持ちいい」
「一輪が倒れるなんてね。一輪だけに命蓮寺で一番絶倫だと思ってたけど、そうでもなかったかあ」
脇からぬえの声。
「ちょっと、何か言い返しなさいよ」
「……ぬえの馬鹿」
「はあ、ほんとに参ってるんだねえ。かわいそうになってきたよ」
「ところでぬえ、君も今日当番じゃなかったっけ?」
ナズの声。
「いや、私は明日だよ、響子と一緒に」
「え? 明日ってナズと私じゃなかったっけ?」
響子の声。
「ぬえ、もしかして一輪は君の分までやってたんじゃないか」
「そんなまさか。あっ、一輪は知ってるんじゃないの。どうなの一輪、私って今日だった?」
「……ぬえの馬鹿」
「あれえ!? そうだっけ!? それはごめんよ一輪。今日は違うと思ってずっと地底に避暑してたよ」
「これはひどい」
「これはひどい」
ナズの言葉を響子が繰り返す。星は黙々と私の身体を揉んでいた。
2
自室にて、引き続き星の按摩を受けていた。布団を敷かないと顎や肩が床板に当たって痛かったので、それを言うと星が私を部屋まで運んでくれた。
「熱中症かもしれませんね。一輪の体。変に熱いですから。装束も脱がしましょうか。今も暑いでしょう」
確かに、私の体はいつまで経っても日中に受けた熱が引かず、意識が朦朧としていて、明らかに異常な状態だった。
「お願い」
星が私の装束に手をかけ、腰や肩を順に浮かせて脱がしていく。彼女に肌を晒すのは元より平気だが、とにかく体が熱いのが辛かった。私は星の前でサラシ姿になった。
「少しましになったわ。ありがとう」
「しかしあの二人、そろそろ来ても良さそうですが……」
星が言うなり障子が開いて、桶を両手に二つずつ持った姐さんと、巨大な瓶を抱えた水蜜が慌ただしく入ってきた。
「井戸水いっぱい持ってきたぞいっちゃん! キンッキンに冷えてやがる!」
「氷を十貫程と、手ぬぐいを十枚持ってきました。これで体を冷やしますよ」
水蜜は私達を見るなり、星を力強く指差した。
「って、こら星! いっちゃんが弱っているのをいいことにいかがわしいことすんな!」
「これは一輪が暑いだろうから、その……」
「お前も上着を脱いでるのはなぜだ! 可愛いのは分かるが私の承諾なしにいっちゃんを抱くのは許さんぞ!」
「一輪がくたびれていたから揉んであげようとして……」
星の声が弱々しくなる。
「星は私をマッサージしてくれていたの。いかがわしいことなんてないわよ」
「そうか! ほんとはナズから聞いて知ってたがな! アッハッハッハ、悪かった星!」
「一輪ちゃん。具合はどう? どこか気持ち悪くない?」
姐さんが私の額に手を当てた。
「体中が熱くて、意識がぼんやりするわ」
「やっぱり熱中症みたいね。とにかく体を冷やす必要があります。一輪ちゃん、水は少しずつ飲んでね。それと汗は拭かないこと」
手頃に切られた氷をテキパキと手ぬぐいで包み、星に渡す姐さん。星は私を仰向けにして、首の下や腋、内腿に氷を挟んだ。
「村紗ちゃん、お水」
さっきまで騒がしかった水蜜が無言で水の入ったグラスを星に渡す。氷を腋に挟んで腕を動かせないので、星に背中を支えられながら飲ませてもらった。
「ああ、冷たくて美味しい。生き返ったわ」
「いっちゃん、少し元気になった?」
「ええ、ありがとう。みんな」
「とりあえず大丈夫そうだけど念のため、そうね、村紗ちゃん、一輪ちゃんの看病をお願いしていいかしら。私は少しお仕事が残っているの。星はどうする?」
「村紗にお任せします。何かあったら白蓮か私を呼んで下さい」
「了解! いっちゃんは私が守る! 二人共おやすみ!」
「おやすみ、一輪ちゃん、村紗ちゃん。身体を冷やしてちょっとずつ水分を摂れば元気になると思うわ。そうなったら村紗ちゃんも自分の部屋に戻っていいからね」
姐さんと星が出て行くと急に静かになった。水蜜は瓶から桶に汲んだ水で手ぬぐいを絞り、布団の上に寝ている私の額に載せた。
「ぬえのやつ、許せんな。いっちゃんをこんなにしやがって」
水蜜は胡座で腕を組み、口をへの字にしていた。
「しょうがないわよ。誰だって、忘れる時は忘れるわ」
「いっちゃんは優しいな。私だったら、復讐する方法を思いつく限り紙に書き出して、どれが最善かを考え始めるところだ」
「紙をそんなもったいないことに使っちゃ駄目よ」
「でも、ほんとに大したことがなくて良かったよ。いっちゃんが前に病気したのっていつだっけか。地底の頃だったな。病気というか破傷風だったが、抗生物質を持ってる奴が見つからなくて、焦ったな」
「あったわね。あれは、しんどかったわ」
「人間だと半分以上死ぬらしいね。いっちゃんでもかなり辛そうだった。奥歯鳴らしてずっと拳握ってさ」
「あれって、自分の意志でなってるんじゃないのよ。勝手に体が動くの。結構怖いわ」
「結局はおかゆ食ってるだけで治ったが、それにしても、いっちゃんが妖怪で良かったよ。人間だったらすぐ死ぬからな。原因も分からず、誰が悪いわけでもなく、死すべき理由もなく、あんな不意打ちみたいなので終わってしまったら、悲しすぎる」
3
帳簿の記載をやっとのことで終え、浴場にて、手ぬぐいを伸ばして背中を洗っていると、ガラガラと引き戸が開く音がした。振り返ると、一糸まとわぬ白蓮が浴室に細長い足を踏み入れるところだった。
「背中、流すわ」
「一緒になるの、久しぶりですね。三ヶ月くらいでしょうか?」
「星は、今日は随分遅くまでやっていたのね」
湯けむりの立ち上る浴室に、声が反響した。私は泡立てた手ぬぐいを白蓮に手渡した。
「締め日だから、少し神経質にやってたんですよ。白蓮は、今日は早いですね」
「一輪ちゃんが気になるから、見回りのお仕事は先ほど暇をもらってきました。代わりに紫さんがやってくれるわ」
「あのスキマ妖怪、意外と優しいところもあるんですね」
白蓮が私の背中を手ぬぐいで擦っている。
「星の背中、大きいわ」
「元は虎ですからね」
手ぬぐいを擦る音と、外で薪が燃えて弾ける音が時折響いた。
「背中、ありがとう白蓮」
私は手ぬぐいを返してもらおうと後ろに手を差し出した。
「全部洗ってあげるわ。最近、星とこういうことなかったから」
「それではお言葉に甘えましょう。お願いします」
「はい、星。ばんざーい」
腕を上げたり、足を開いたりと、白蓮にされるがままになった。
「あの、白蓮、そこは自分で洗いますよ」
「遠慮しなくていいわよ」
耳元に囁く、色っぽい静かな声。
「白蓮、どうかしたんですか?」
たまらずに振り返ると、白蓮は顔を上げてじっと私の目を見つめた。濡れた深い鳶色の瞳に、私の顔が歪んで映っている。
「村紗ちゃん、変わったわよね。一輪ちゃんのこと、いっちゃんって呼ぶようになったわ。ずっと抱えていた悩み事を吹っ切れたみたい」
「いい顔をするようになりましたね、あの子。でもなぜ突然村紗のことを?」
「私はまだ、変われません。死ぬのが怖いし、先のことは不安だらけ。この命蓮寺も、妖怪や人間や、豊聡耳神子と上手くやっていけるかどうか。私には分からない」
彼女は私の腕に額を着けた。
「村紗ちゃんが変われたのは一輪ちゃんが居たからだと思う。命蓮寺のことも関係はあるだろうけど、結局は、そういうことなのよ」
彼女は私の腕を両手で掴んだ。
「白蓮、分かりました。でも、今は体を洗いましょう。さ、手を離して下さい」
4
「湯加減いかがすかー?」
窓の外からぬえの声がした。
「いいぞぬえ、ちょうどいい」
「こんな夜中に悪いわね」
「まー私のせいだから、これくらいしてやるよ。一輪、正直すまんかった」
すでに夜も深まっている時分、症状も収まったので、水蜜と湯浴みをしていた。湯は既に冷めていたが、水蜜がぬえの部屋に行き、眠っていた彼女を無理やり起こして風呂を沸かせた。
「よーし洗いっこしようぜ。そういやぬえは風呂入ったか?」
「入ってないよ。他の面子と顔合わせたくなかったんで」
「それじゃあ今こっちに来いよ。三人で洗いっこしようぜ。だから早く来い、バカぬえ」
「うるさいな、今行くから待ってろアホ幽霊」
ぬえは窓から不機嫌極まりない顔で水蜜を指差し、すぐに走って寺の入口の方へ走っていった。
「でも、寝てる所を起こしたのはちょっとかわいそうね」
「ちっとやり過ぎたかなあ」
やがてけたたましく引き戸が鳴り、全裸のぬえが浴室に飛び込んできた。
「よく考えたらお前のために湯を沸かす筋合いなんてないじゃん! 人が気持ちよく寝てるのを起こす所までは一輪のためということで許すけど、なんでお前までこのぬえ様が沸かした至高の湯加減でビバノンノしてんだよ!」
ぬえが湯船に浸かっている水蜜の両肩を掴み、笑顔にも似た憤怒の形相で詰め寄る。
「こまけえこと気にすんな。ハゲるぜ」
「なんか腑に落ちないと思ったら…… はあ、もういいや疲れた。とっとと体洗って寝させろ」
笑顔満面の水蜜に毒気を抜かれたのか、ぬえは急速に勢いを失い、普段の可愛らしい顔に戻った。
5
「魔法使いになっても、生あるものはいずれ死ぬのに。私はそれがどうしようもなく恐ろしい。人間をやめて寿命を伸ばしても、何も変わらないのに、一体なにをやってるのかしらね」
腕の中で白蓮が言う。
「私なんかより、村紗ちゃんの方がずっと自分自身と向き合ってる」
月のない夜、蝋燭を消した真の暗闇で、彼女のすすり泣く声が、部屋に虚しく漂う。
「星は、私を置いて行ったりしないわよね。命蓮君みたいに」
私は何度も同じことを問われ、何度も同じ返事をし尽くしていた。彼女は支離滅裂な言葉の合間に、時々苛立ったように、私の肩を乱暴に叩いた。
「私なんかが、あの子達の生を背負うなんてこと、無理よ。こんなに弱いのに。尊敬なんてされるような器じゃないのに」
「大丈夫だよ白蓮。大丈夫、大丈夫だよ」
彼女があまり喋らなくなった頃、私はその細い肩を抱き寄せた。
6
翌朝、白蓮が私の布団からなかなか出てこようとしなかったため、代わりに私が朝の読経をした。朝餉はナズと響子の当番だったので支障はなかった。掛盤を並べたいつもの食事風景だが、一番重要な人物がそこには居なかった。
「飯にまで来ないとは、白蓮どうしたんだろう。さすがに心配だな」
村紗が沢庵をポリポリ齧りながら、ポツリ。
「姐さんだってたまには調子が悪い時くらいあるわよ。昨日の私みたいに」
一輪がしじみのすまし汁をすする。
「でも珍しいですね。お見舞いに行こうかな」
メザシを箸に持ちながら響子が言うと、襖が開いた。
「みんな、ご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫です」
地味な青い作務衣を着た白蓮だった。髪は後ろで一本に束ねている。
「姐さん、い、いつもの格好はどうしたの?」
一輪の声が上ずった。
「今日から私は住職ではなく、一介の尼です」
彼女は我々の前で頭を下げた。
「この度は己の修行の至らなさを痛感しました。よって私は修行を一からやり直すつもりです。といっても、命蓮寺の運営とかお勤めは今まで通りだから、みんなはあまり気にしなくていいですからね。この格好は私の決意表明なのです」
一輪や村紗をはじめ、その場の面々は皆、私を除き、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
八月下旬。雲ひとつない蒼穹に、精力溢れる大輪のお日様が鎮座して、晴れやかな笑顔で幻想郷を照らしていた。命蓮寺の床下に住み着いた三毛猫は、早朝から湿った土の上でしなびた饅頭のように寝転がり、朝餉の準備をすれば冷奴は温く、鯖は傷んでいて、里へ味噌と醤油の買い出しに出れば顔の汗で装束の襟元がくすんだ色合いに染まり、床拭きをすれば、汗で濡れた足がつるつる滑った。ただ、洗濯の泡立ては非常に捗り、それだけは捨てたものではなかった。口には出さねど暑い暑いと胸の内で呪詛がましく何度も繰り返しながらお勤めや家事をこなしたが、その疲労たるやここ数年来の甚だしさで、陽が落ちて、姐さんの読経も終わってご苦労様となった途端に、腰が抜けたように正座から身体がくずれてナメクジよろしく無気力になってしまった。体力にはそれなりの自負があったが、丁度たまたま当番が忙しくなった日だったのと、近年に稀なる大猛暑が重なったのが余程堪えたらしかった。私は伽藍の板張りに頬を擦りつけながら、目を閉じてそのじんわりした冷たさを貪った。
「いっちゃん、大丈夫か? 部屋まで運んでやろうか」
「もう少しこのままでいさせて。板張りが冷たくて気持ちいいの」
「疲れたのか? 暑いのか? むしろ両方だな。井戸から水汲んできてやるからちょっと待ってろ」
目を閉じた暗闇の世界で、水蜜の裸足がペタペタペタと足早に遠ざかるのが聴こえた。
「一輪ちゃん、大丈夫? 氷室から氷を持ってくるわ」
姐さんの声がして、水蜜と反対の方へ、軽やかな足音があっという間に遠ざかった。
「一輪、今日は炊事洗濯掃除と、全部入ってましたから、さすがに辛かったみたいですね」
背後から星の声。
「あと、買い出しも」
「あっ、そうでしたね。お味噌とお醤油、大変でしたね、本当にご苦労さまでした。そうだ、身体を揉んであげましょう」
泥のように脱力している私を、星は腕力でうつ伏せに直した。続いてするすると衣服を脱ぎ落とす音がする。按摩をしやすいように上着を脱いだのだろう。それから、お尻に彼女が馬乗りになる重みを感じた。
「どこがいいですか?」
「腰と、肩と、首筋と、腿と、上腕。強めにお願い」
「多いですね、いやはや。痛かったら教えてくださいね」
星は私の腰を揉みほぐし始めた。
「ああ、気持ちいい」
「一輪が倒れるなんてね。一輪だけに命蓮寺で一番絶倫だと思ってたけど、そうでもなかったかあ」
脇からぬえの声。
「ちょっと、何か言い返しなさいよ」
「……ぬえの馬鹿」
「はあ、ほんとに参ってるんだねえ。かわいそうになってきたよ」
「ところでぬえ、君も今日当番じゃなかったっけ?」
ナズの声。
「いや、私は明日だよ、響子と一緒に」
「え? 明日ってナズと私じゃなかったっけ?」
響子の声。
「ぬえ、もしかして一輪は君の分までやってたんじゃないか」
「そんなまさか。あっ、一輪は知ってるんじゃないの。どうなの一輪、私って今日だった?」
「……ぬえの馬鹿」
「あれえ!? そうだっけ!? それはごめんよ一輪。今日は違うと思ってずっと地底に避暑してたよ」
「これはひどい」
「これはひどい」
ナズの言葉を響子が繰り返す。星は黙々と私の身体を揉んでいた。
2
自室にて、引き続き星の按摩を受けていた。布団を敷かないと顎や肩が床板に当たって痛かったので、それを言うと星が私を部屋まで運んでくれた。
「熱中症かもしれませんね。一輪の体。変に熱いですから。装束も脱がしましょうか。今も暑いでしょう」
確かに、私の体はいつまで経っても日中に受けた熱が引かず、意識が朦朧としていて、明らかに異常な状態だった。
「お願い」
星が私の装束に手をかけ、腰や肩を順に浮かせて脱がしていく。彼女に肌を晒すのは元より平気だが、とにかく体が熱いのが辛かった。私は星の前でサラシ姿になった。
「少しましになったわ。ありがとう」
「しかしあの二人、そろそろ来ても良さそうですが……」
星が言うなり障子が開いて、桶を両手に二つずつ持った姐さんと、巨大な瓶を抱えた水蜜が慌ただしく入ってきた。
「井戸水いっぱい持ってきたぞいっちゃん! キンッキンに冷えてやがる!」
「氷を十貫程と、手ぬぐいを十枚持ってきました。これで体を冷やしますよ」
水蜜は私達を見るなり、星を力強く指差した。
「って、こら星! いっちゃんが弱っているのをいいことにいかがわしいことすんな!」
「これは一輪が暑いだろうから、その……」
「お前も上着を脱いでるのはなぜだ! 可愛いのは分かるが私の承諾なしにいっちゃんを抱くのは許さんぞ!」
「一輪がくたびれていたから揉んであげようとして……」
星の声が弱々しくなる。
「星は私をマッサージしてくれていたの。いかがわしいことなんてないわよ」
「そうか! ほんとはナズから聞いて知ってたがな! アッハッハッハ、悪かった星!」
「一輪ちゃん。具合はどう? どこか気持ち悪くない?」
姐さんが私の額に手を当てた。
「体中が熱くて、意識がぼんやりするわ」
「やっぱり熱中症みたいね。とにかく体を冷やす必要があります。一輪ちゃん、水は少しずつ飲んでね。それと汗は拭かないこと」
手頃に切られた氷をテキパキと手ぬぐいで包み、星に渡す姐さん。星は私を仰向けにして、首の下や腋、内腿に氷を挟んだ。
「村紗ちゃん、お水」
さっきまで騒がしかった水蜜が無言で水の入ったグラスを星に渡す。氷を腋に挟んで腕を動かせないので、星に背中を支えられながら飲ませてもらった。
「ああ、冷たくて美味しい。生き返ったわ」
「いっちゃん、少し元気になった?」
「ええ、ありがとう。みんな」
「とりあえず大丈夫そうだけど念のため、そうね、村紗ちゃん、一輪ちゃんの看病をお願いしていいかしら。私は少しお仕事が残っているの。星はどうする?」
「村紗にお任せします。何かあったら白蓮か私を呼んで下さい」
「了解! いっちゃんは私が守る! 二人共おやすみ!」
「おやすみ、一輪ちゃん、村紗ちゃん。身体を冷やしてちょっとずつ水分を摂れば元気になると思うわ。そうなったら村紗ちゃんも自分の部屋に戻っていいからね」
姐さんと星が出て行くと急に静かになった。水蜜は瓶から桶に汲んだ水で手ぬぐいを絞り、布団の上に寝ている私の額に載せた。
「ぬえのやつ、許せんな。いっちゃんをこんなにしやがって」
水蜜は胡座で腕を組み、口をへの字にしていた。
「しょうがないわよ。誰だって、忘れる時は忘れるわ」
「いっちゃんは優しいな。私だったら、復讐する方法を思いつく限り紙に書き出して、どれが最善かを考え始めるところだ」
「紙をそんなもったいないことに使っちゃ駄目よ」
「でも、ほんとに大したことがなくて良かったよ。いっちゃんが前に病気したのっていつだっけか。地底の頃だったな。病気というか破傷風だったが、抗生物質を持ってる奴が見つからなくて、焦ったな」
「あったわね。あれは、しんどかったわ」
「人間だと半分以上死ぬらしいね。いっちゃんでもかなり辛そうだった。奥歯鳴らしてずっと拳握ってさ」
「あれって、自分の意志でなってるんじゃないのよ。勝手に体が動くの。結構怖いわ」
「結局はおかゆ食ってるだけで治ったが、それにしても、いっちゃんが妖怪で良かったよ。人間だったらすぐ死ぬからな。原因も分からず、誰が悪いわけでもなく、死すべき理由もなく、あんな不意打ちみたいなので終わってしまったら、悲しすぎる」
3
帳簿の記載をやっとのことで終え、浴場にて、手ぬぐいを伸ばして背中を洗っていると、ガラガラと引き戸が開く音がした。振り返ると、一糸まとわぬ白蓮が浴室に細長い足を踏み入れるところだった。
「背中、流すわ」
「一緒になるの、久しぶりですね。三ヶ月くらいでしょうか?」
「星は、今日は随分遅くまでやっていたのね」
湯けむりの立ち上る浴室に、声が反響した。私は泡立てた手ぬぐいを白蓮に手渡した。
「締め日だから、少し神経質にやってたんですよ。白蓮は、今日は早いですね」
「一輪ちゃんが気になるから、見回りのお仕事は先ほど暇をもらってきました。代わりに紫さんがやってくれるわ」
「あのスキマ妖怪、意外と優しいところもあるんですね」
白蓮が私の背中を手ぬぐいで擦っている。
「星の背中、大きいわ」
「元は虎ですからね」
手ぬぐいを擦る音と、外で薪が燃えて弾ける音が時折響いた。
「背中、ありがとう白蓮」
私は手ぬぐいを返してもらおうと後ろに手を差し出した。
「全部洗ってあげるわ。最近、星とこういうことなかったから」
「それではお言葉に甘えましょう。お願いします」
「はい、星。ばんざーい」
腕を上げたり、足を開いたりと、白蓮にされるがままになった。
「あの、白蓮、そこは自分で洗いますよ」
「遠慮しなくていいわよ」
耳元に囁く、色っぽい静かな声。
「白蓮、どうかしたんですか?」
たまらずに振り返ると、白蓮は顔を上げてじっと私の目を見つめた。濡れた深い鳶色の瞳に、私の顔が歪んで映っている。
「村紗ちゃん、変わったわよね。一輪ちゃんのこと、いっちゃんって呼ぶようになったわ。ずっと抱えていた悩み事を吹っ切れたみたい」
「いい顔をするようになりましたね、あの子。でもなぜ突然村紗のことを?」
「私はまだ、変われません。死ぬのが怖いし、先のことは不安だらけ。この命蓮寺も、妖怪や人間や、豊聡耳神子と上手くやっていけるかどうか。私には分からない」
彼女は私の腕に額を着けた。
「村紗ちゃんが変われたのは一輪ちゃんが居たからだと思う。命蓮寺のことも関係はあるだろうけど、結局は、そういうことなのよ」
彼女は私の腕を両手で掴んだ。
「白蓮、分かりました。でも、今は体を洗いましょう。さ、手を離して下さい」
4
「湯加減いかがすかー?」
窓の外からぬえの声がした。
「いいぞぬえ、ちょうどいい」
「こんな夜中に悪いわね」
「まー私のせいだから、これくらいしてやるよ。一輪、正直すまんかった」
すでに夜も深まっている時分、症状も収まったので、水蜜と湯浴みをしていた。湯は既に冷めていたが、水蜜がぬえの部屋に行き、眠っていた彼女を無理やり起こして風呂を沸かせた。
「よーし洗いっこしようぜ。そういやぬえは風呂入ったか?」
「入ってないよ。他の面子と顔合わせたくなかったんで」
「それじゃあ今こっちに来いよ。三人で洗いっこしようぜ。だから早く来い、バカぬえ」
「うるさいな、今行くから待ってろアホ幽霊」
ぬえは窓から不機嫌極まりない顔で水蜜を指差し、すぐに走って寺の入口の方へ走っていった。
「でも、寝てる所を起こしたのはちょっとかわいそうね」
「ちっとやり過ぎたかなあ」
やがてけたたましく引き戸が鳴り、全裸のぬえが浴室に飛び込んできた。
「よく考えたらお前のために湯を沸かす筋合いなんてないじゃん! 人が気持ちよく寝てるのを起こす所までは一輪のためということで許すけど、なんでお前までこのぬえ様が沸かした至高の湯加減でビバノンノしてんだよ!」
ぬえが湯船に浸かっている水蜜の両肩を掴み、笑顔にも似た憤怒の形相で詰め寄る。
「こまけえこと気にすんな。ハゲるぜ」
「なんか腑に落ちないと思ったら…… はあ、もういいや疲れた。とっとと体洗って寝させろ」
笑顔満面の水蜜に毒気を抜かれたのか、ぬえは急速に勢いを失い、普段の可愛らしい顔に戻った。
5
「魔法使いになっても、生あるものはいずれ死ぬのに。私はそれがどうしようもなく恐ろしい。人間をやめて寿命を伸ばしても、何も変わらないのに、一体なにをやってるのかしらね」
腕の中で白蓮が言う。
「私なんかより、村紗ちゃんの方がずっと自分自身と向き合ってる」
月のない夜、蝋燭を消した真の暗闇で、彼女のすすり泣く声が、部屋に虚しく漂う。
「星は、私を置いて行ったりしないわよね。命蓮君みたいに」
私は何度も同じことを問われ、何度も同じ返事をし尽くしていた。彼女は支離滅裂な言葉の合間に、時々苛立ったように、私の肩を乱暴に叩いた。
「私なんかが、あの子達の生を背負うなんてこと、無理よ。こんなに弱いのに。尊敬なんてされるような器じゃないのに」
「大丈夫だよ白蓮。大丈夫、大丈夫だよ」
彼女があまり喋らなくなった頃、私はその細い肩を抱き寄せた。
6
翌朝、白蓮が私の布団からなかなか出てこようとしなかったため、代わりに私が朝の読経をした。朝餉はナズと響子の当番だったので支障はなかった。掛盤を並べたいつもの食事風景だが、一番重要な人物がそこには居なかった。
「飯にまで来ないとは、白蓮どうしたんだろう。さすがに心配だな」
村紗が沢庵をポリポリ齧りながら、ポツリ。
「姐さんだってたまには調子が悪い時くらいあるわよ。昨日の私みたいに」
一輪がしじみのすまし汁をすする。
「でも珍しいですね。お見舞いに行こうかな」
メザシを箸に持ちながら響子が言うと、襖が開いた。
「みんな、ご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫です」
地味な青い作務衣を着た白蓮だった。髪は後ろで一本に束ねている。
「姐さん、い、いつもの格好はどうしたの?」
一輪の声が上ずった。
「今日から私は住職ではなく、一介の尼です」
彼女は我々の前で頭を下げた。
「この度は己の修行の至らなさを痛感しました。よって私は修行を一からやり直すつもりです。といっても、命蓮寺の運営とかお勤めは今まで通りだから、みんなはあまり気にしなくていいですからね。この格好は私の決意表明なのです」
一輪や村紗をはじめ、その場の面々は皆、私を除き、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
そして星が男前すぎるw
好きです
あんまり固く構えてつぶれても仕方がないので、どうぞ執筆を楽しんでくださいな
あ、点数でモチベが維持できるのならくらえこの点。では、次回のムラいちもお待ちしてます
完璧な超人僧侶な聖もいいけどこれくらい人間的な脆さを持ってる聖もいいよね
そして男前星ちゃんがカッコ良すぎる。お前らそのまま結婚していいぞw
……あれ、ここまでムラいちについて何も感想言ってねえやw
ムラいちもセリフ少ないながらも地味にイチャイチャしやがってからに…
まだまだ続くみたいなので期待してますね!
そしてナメクジ一輪がかわいい
まあソースはマミさんか早苗さんでしょうけど。ちなもにイタリア語だとか諸説もあるそうですね。ビバノンノ。
聖輦船の面子それぞれに物語みたいのがあっていいですね。
色々なメンバーが主役の回を読んでみたくなりました。