他人の心なんてもう二度と見たくない。
心というものはとてもデリケートなのだと、よくお姉ちゃんは言っていた。繊細で、壊れやすいからこそ、人は心を隠して生きているのだと。
だけど、どんなに隠そうとしても私たちには意味のないことだ。
どんなトラウマも、どんな秘密も、私たちには一目瞭然。簡単に視えるし、触れられる。特にお姉ちゃんは他人の触れられたくない心に敢えて触れることが大好きだった。
心は、触れられると壊れてしまうガラスのような脆さを持っている。でも、その反対に、触れたものを壊してしまうような鋭い槍をも隠し持っているのだ。
その槍は決して表に出さないように深く深くしまわれていながらも、自分自身に対しては絶対に隠すことができず、常にちくちくと心を蝕んでいる。
その槍の名前は嫌悪。その槍の名前は嫉妬。その槍の名前は、愛。
決して他人に知られてはいけない。知られてしまったならば、良かれ悪しかれそれまでの関係は必ず壊れてしまうだろう。
他人の心を視てしまうたびに、その人の心を握りつぶしてしまうような、その人の槍に胸を貫かれるような、そんな気持ちが私を襲う。
他人の心なんてもう二度と見たくない。だから私は瞳を閉じた。
でも、あのこに出会ってから、もう一度だけ心を覗けたらなって。そう思うようになった。
○ ○ ○ ○ ○
人里から霧の湖を隔てたところに、紅魔館と呼ばれる館が建っている。
警告色とも思われるほどの赤色に彩られ、その存在は辺りで発生している霧によって視界が悪い中でもはっきりと確認することができる。
全体的な印象としては閑静な雰囲気に包まれてはいるものの、館には常に50人は下らない程度の妖精メイドたちが右へ左へあくせくと動きまわっているため、雑多な生活音には事欠かない。
人によっては悪魔の館と呼び恐れることもあるが、館の主は比較的社交的(あくまで、他の妖怪と比べて)であり、主の機嫌が良い時には自慢の庭でティーパーティーを開催することもあるほか、そのメイドが里まで買い物に出向くことも多々あるため、里の人間たちにとってはそこまで畏怖の対象とはされていない。
そんな紅魔館であるが、今日はまた一段と異質な空気に包み込まれていた。
館内を右へ左へ歩き回っているのは、妖精メイドではなく迷彩服に身を包んだ兵士たち。
館の出入り口は物理的な衝撃を全て跳ね返す障壁によって固く閉ざされ、外部からの侵入を一切許さない。
そして何よりも大きな変化であるのが、館における玉座の間、その中心に座する人物が異なるということであった。
ゆったりとした薄手の黄色いブラウスの片手は頬杖をつき、ひざ上までのセミロングスカートから伸びる足は威厳たっぷりな組み方で、ブラウスとお揃いの黄色いリボンが巻かれたつば広帽子から覗く顔は、にんまりと不敵な笑みを浮かべていた。
胸の前に浮かぶ第三の目はぴったりと閉じられたまま、その少女は堂々たる風体で主人の椅子に座す。
紅魔館は今、古明地こいしの手によって完全に征服されていた。
○ ○ ○ ○ ○
「やられた……」
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜はすっかり様変わりした紅魔館を苦々しく見つめていた。
咲夜の勤務態度は正に完璧の一言。決まった時間に起き、決まった時間に食事を作り、決まった時間に決まった箇所の見回り、点検。今回の失態はそこを突かれた。
これまた決まった時間に午睡を楽しむ門番に喝を入れるため、館を空けた一瞬を狙われたのであった。
気づいた時には遅く、既に魔法障壁により出入り口の封鎖が為され、時を止めた所で為す術は無し。
今の彼女にできることは、隣で発せられる「大変なことになっちゃいましたねえ」という気の抜けた声に対し刃を突き立てるのみであった。
「冗談言ってる場合じゃないのよ美鈴。お嬢様がお帰りになられるまでに解決しないと」
「確かに。自分の留守中に館が奪われたー、なんて聞いたら咲夜さんへのお仕置きが大変なことに」
「まだ寝ぼけているようなら」
「お目目しゃっきりです」
この占拠事件は紅魔館の本来の主、レミリア・スカーレットの留守を狙って強行されていた。
レミリアは週に一度の頻度で博麗神社へ出かける。神社の巫女、博麗霊夢との逢瀬(思いは一方的であるが)を邪魔されたくないとのことで従者を連れることもしない。咲夜も過保護なほどにレミリアの世話をしているが、この時ばかりは館の正門で主を見送るまでに留めていた。
レミリアは普段通りならば夕食前には帰ってくる。現在の時刻は午後二時を十数分ほど回ったところ。あまりもたもたはしていられない。
「随分と本格的な障壁ですね。これを破るのは私たちじゃあキツそうですよ」
「じゃあ諦めましょう、というわけにはいかないわ。なんとしてでも中へ入らないと」
出入り口を塞ぐ障壁は複雑な魔法回路が幾重も絡まっており、本職の魔法使いでもなければ解除するのは不可能であろう。
パワータイプの美鈴でも力任せに突破することが出来ない以上、侵入には他の手段を考える必要がありそうだ。
「せめてパチュリー様が異変に気づいてくれれば……」
「図書館は無事なんでしょうかね」
「さてね。でも、相手は周到に準備してきているみたいだし、館が狙いならパチュリー様を放っておくはずがないわ」
「本読んでる間無防備ですからねー。もしかしたら今頃縄でぐるぐる巻きになってるかも」
こんな状況においても緊張感に欠ける美鈴の態度が、一層咲夜の苛立ちを募らせた。
有効な手立てが思いつかず、焦りのままに思わず歯を食いしばる。
「今に見てなさい。紅魔館は、テロになんて屈さない」
○ ○ ○ ○ ○
「参ったな。本を借りにきただけだってのに、とんだ面倒に巻き込まれたもんだ」
「あのねえ、『借りる』ってのは『返す』とセットになっているのよ。そういうことは一回でも借りた本を返してから言ってちょうだい」
「はあ……こんなことなら気まぐれで魔理沙について来るんじゃなかったわ」
紅魔館に隣接する大図書館。この図書館もまた、古明地こいしの支配下に置かれていた。
図書館の主パチュリー・ノーレッジは当然のこと、偶々訪れていた霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイドの両名を含めた計三名は図書館の中央に集められ、縄でぐるぐる巻きにされるという憂き目に遭っていた。
単なる縄の一本や二本、魔法使いである彼女たちであれば解くのは容易い。しかし、魔封の罠に掛けられた三人は今や無力な少女。もしかすると魔理沙ならば魔法なしでも縄抜けが可能かもしれないが、館内同様、所々に立っている迷彩服の見張りがそうはさせない。
「おいパチュリー、自分ちだろ早く何とかしろよ」
「無理よ。だって魔法使えないし」
「なんとかして解除できないの?」
「それができたら最初からやってるわ。でもこれは単なる魔術結界だけでなく、呪いも含まれた混成魔法のようね。私たちの魔力にしか反応しない、専用の魔封罠。そりゃあ強力だわ」
「おいおい待て待て、じゃあアレか?犯人はパチュリーだけでなく、私やアリスが今日ここに来ることも知ってたってことか?」
「そうみたいね。敵ながらあっぱれなやつ」
ふへえ、と魔理沙がため息をつく。
「あーあ、こうなったのも全部アリスのせいだ。珍しくアリスがついて来るから、今日は悪いことが起こりそうだと薄々思ってたんだ」
「いや私関係ないでしょ!それを言うなら魔理沙だって、小悪魔にお茶を催促したりして無意味に長居したじゃない!そのせいよ!」
「クッキーがあるならお茶が欲しくなるのが人間ってもんだろ!クッキー持ってきたのは誰だ?アリスだ!やっぱりお前のせいだ!」
「手ぶらで人の家におじゃまできるわけないでしょ!?常識がないのね、これだから野良は!」
「それが幻想郷の常識なんだよ!その証拠に、私は霊夢に何かを奢ったことがない」
「偉そうに言うことか!」
魔法は使えずとも口は動く。軟禁されているというストレスからか、二人はいつも以上に激しい口論を繰り広げていた。
おかしいな、とパチュリーは感じた。
これほど騒がしくしているというのに、見張りたちは二人を咎めようとはしない。騒ぐな、と一言くらいあってもおかしくはない騒々しさであるが。
試しにパチュリーがずりずりとその場を動こうとすると、見張りの一人がこちらに鋭く槍を向けた。パチュリーは同じ動きでずるずる元の場所に戻る。
おかしな動きを見せると素早く反応される。木偶の坊であるということは無さそうだ。
魔法の使えない魔法使いなど、いくら喧しかろうと問題ないと考えているのだろうか、それとも……。
などと考えていると、ふいに館との通用口が開き、小さな人影がひとつ入ってきた。その人影に見張りたちが反応し、槍先を向ける。
「おおっとっと、いやあ頼もしいねえ」
人物を確認すると、見張りたちは槍を下ろし、何事もなかったように再び周囲の警戒を始めた。
「お前、こいし!お前がやったのか全部!どういうことだ!」
「そんなに怒らないでよ魔理沙。みんなにはちょっと人質になってもらってるだけだし、用が済んだら帰す、かもしれないし」
こいしは飄々と手を振ったり回ったりしながら三人の前まで歩いていく。
「これは……意外な人物が出てきたわね」
「あなたはパチュリーさん?そんなに意外かしら。たしかに、幻想郷に居る人妖の数ぶんの一が私だし、意外と言ったら意外かも」
「いったい何が目的なの。それとも、無意識でしか動かないあなたのことだから、目的なんて無いのかしら」
「んふふ……あるよ、目的」
そう言うと、こいしは両手を上げて大きく一回転し、改めてパチュリーを見た。
「でも教えてあげなーい!」
「なっ……!」
「だって教えたら楽しみが無くなっちゃうでしょ?最後までお楽しみ!」
「意味がわからない。要求が分からなければ交渉の余地も無いわ。そうなればこうして人質を取る理由も」
「えっ?じゃあ……」
こいしが目配せをすると、見張りの一人が槍先をパチュリーの喉元ぎりぎりまで近づけた。
「人質、やっぱり要らないかなあ」
槍先がわずかに皮膚を裂き、一筋の赤が流れる。
思わず見開いた目で、パチュリーはこいしの目に映る自分の姿を見た。無邪気な光が瞬時に失せ、深い漆黒が広がっている。飲み込まれる。そう感じた。
「なーんて」
こいしが視線を外すと、見張りもまた元の位置に戻っていった。
「こういうのって人質がいてナンボみたいなところあるし、まだ殺さないよ。安心した?」
先程までと打って変わって、にぱっとした笑顔でぱたぱたと両手を動かすこいし。
どこを見ているのかわからない。次に何をするのかわからない。理詰めで動くことを良しとする魔法使いから見て、これほど相対したくない者もいない。
「おい!紅魔館がどうなろうと私には関係ないがな、こういうのは私が居ないときにしてくれないか」
「えー、だめだよ。だって魔理沙ったら放っておくと何をするかわかんないし」
「お前にだけは言われたくない!」
こいしはしばらく魔理沙をからかった後、急に大きく翻って、入ってきた通用口へと歩き出した。
「それじゃあ私は戻るから。外にいる二人もどたばた忙しそうにしてるし、もうすぐ入ってきちゃうかもしれない。こっちにばかり構ってられないの」
「おい待て!行くならせめて縄を解いてからにしろ!それと魔法も!」
「じゃーあね、魔理沙。それと、パチュリーとアリスも」
魔理沙の制止も聞かず、こいしは館へと戻っていった。
「相変わらず、わけがわからない子ね。まるでにわか雨に降られたみたいな気分だわ」
魔理沙は嵐だけどね、と付け加えながらアリスが呟いた。
「外にいる二人、ってのは咲夜と美鈴かしら。あの子たちが上手くやってくれればいいけど」
「んぐあー!誰でもいいからなんとかしてくれえ!」
図書館の中を、魔理沙の嘆きが虚しく駆け抜けていった。
○ ○ ○ ○ ○
「いい?音を一切立てずに静かに壊すのよ」
「簡単に言ってくれますけど、結構な難題だってこと分かってます?……まあ、やりますけども」
美鈴が胸の前で手を合わせ、ふうっと息を吐くと、その体に緑の淡い光を帯び始めた。
外部からの侵入を阻む障壁が館の壁にまでは行き渡っていないことに気づいた咲夜、美鈴の両名は、壁を破壊しての侵入を思いついた。どうやら術者は範囲を各出入口に限定することで強度を高めていたようだ。とはいえ正面からの突入は流石に無謀であろう。館内にもトラップが仕掛けられている可能性は高いと考えた二人は、裏手からの侵入を試みていた。
気の塊を纏ったまま両手を壁に付き、そっと力を込める。目の前の壁は、まるで砂城のように崩れていった。
「上出来」
壁が崩れきるよりも早く、咲夜のナイフは室内に居た一人目の喉を切り裂いた。
「こりゃあ、だいぶ隅々まで入り込まれてますね。10人や20人じゃ済まないかも」
「雑魚キャラが何体出てこようと無駄よ」
「雑魚は雑魚でも、どうやらしぶとい雑魚のようですよ」
美鈴の拳が咲夜の顔の真横を走り、背後の敵の頭を砕く。それは先ほど喉を切り裂かれたはずの相手。
頭部がはじけ飛んだそれは、今度こそ完全に沈黙する。
「なるほど、殺しただけでは死なないのね」
「血も出なければ気配も無い。これも魔法でしょうか」
「なんだっていいわ。私たちは首謀者をとっちめるだけ。謎解きは専門外よ」
侵入した小部屋には他に敵はいないようだった。
咲夜がそっと廊下の様子を伺おうと部屋の扉から顔を出した瞬間、槍の刃先が眼前をかすめる。既に数人が駆けつけてきていた。
「早いわね」
「あれれ。気付かれるほど大きな音たってました?」
「つながっているんでしょ。ともあれ、侵入が知られているなら気兼ねする必要は無いわ」
「あれあれ。せっかく忍び込んだのに……」
突き出される槍を躱して咲夜が後方へ跳ぶと、連中はそれを追って部屋へ押し寄せる。しかし、そんな彼らを出迎えたのは美鈴によって放り投げられた机であり、哀れ先頭の人物はマホガニーの天板と熱いキスを交わし、続く仲間たちを巻き込みながら廊下を挟んで反対の部屋へ吹き飛んでいった。
「さっ、まずはメイドたちの無事を確認しますか?それとも一気に本丸へ?」
「『さっ』じゃないわよ馬鹿。気兼ねするなとは言ったけれども、備品を壊して良いとまでは言った覚えは無い」
「まあまあ。そもそも壁を壊して入った以上、いまさら机のひとつやふたつ」
「自分で壊したものは自分で直すこと。全部片付くまで食事は無いものと思いなさい」
「うええ」
「とにかく首謀者を見つけて叩くわ。途中の敵を殲滅しながらね」
咲夜が先行し、現れる敵影にナイフを放って動きを止める。それを続く美鈴が確実に粉砕しながら進む。
時を止めながら進まないのは、完全に砕かなければ死なない相手を咲夜一人で片付けるのが面倒であることと、敵の正体が掴めていない以上能力は温存しておきたかったためだ。
実際、館内にはピアノ線トラップをはじめとしたギロチンや爆発物の仕掛けが多数巡らされていたし、続々と襲い来る敵は一向に減る気配を見せない。どこかしらの部屋の前を横切ろうとすると、そのたびに敵が飛び出してくる。罠を避ければ避けた先に罠がある。人員や罠の的確な配置に加え、それらを半刻に満たぬ間に整えきった手腕。犯人はこの日のために生半可ではない準備をしてきたに違いない。
「人の家で好き勝手してくれるものだわ」
「これ、犯人をとっちめたとしても事後処理が大変そうですね」
ちらと時計に目をやると、残された時間は多くて3時間ほど。レミリアが戻ってくるまでに犯人の撃退、館内の片付け、それと夕食の準備も済ませておかなければならない。
「全部やらなくちゃならないのがメイドのつらいところね……」
犯人を捕らえたら、痛めつけるだけでなく片付けも手伝わせてやろう。場合によってはそのまま夕食だ。今日のおゆはんは何にしよう……そういえば買い出しもまだだ。この騒ぎのお陰で行きそびれている。
考えれば考えるほど「やることリスト」が増えていくので、咲夜はひとまず思考に蓋をし、目の前の問題に意識を集中させることにした。
○ ○ ○ ○ ○
こいしは館の2階、主の椅子に腰掛けながらぼうっと宙を見つめていた。
二人の侵入者の相手は向こうでやってくれているし、彼女らはいずれここまでたどり着くだろう。向こうから来てくれるのだから、こちらから出向く必要は無い。
それに、こういうとき首謀者は動かないものと本には書いてあった。今はどっしりと構え、彼女がやってくるのを待っていればいい。自分の番はそれからだ。
こいしの思惑を達成させるまで、まだ全ての準備が整ったわけではない。だが準備を整えるための計画はかなり綿密に練ってきたつもりだ。今回の計画はどうしても成功させたい。
焦れる心をごまかすように、両足をぱたぱたと揺らしてみる。
こいし自身、今回のように自分が何事かを為すために専心するというのは珍しいことだと感じていた。そのために、他人へ慣れぬ頼み事までした。
何が自分をこうまで動かすのだろう。
そこは自分でも分からない。なんとなくしか分からない。
このとき、こいしは気付いていないことであるが、瞳を閉じて以来は自分自身さえ認識できなくなったこいしにとって、たとえ「なんとなく」であっても自分を意識するということは正に目を見開くほどの変貌であった。
分からないことをいつまでも考えたところで分からない。自分はしたいようにしているだけだ。その点においてはこれまでと何も変わらない。
こいしが自分の中でとりあえずの結論にたどり着いた丁度その時、正面の扉が静かに開き、メイドの鋭い眼差しがこいしを睨みつけた。
「ずいぶんと可愛らしいテロリストですわね。でも、少々おいたが過ぎるよう」
「そうよー、私はテロリスト。だけど今は主人の椅子に座っているわ。メイドはお茶を出しなさい?」
「それは失礼しました。本日のお茶請けは自慢の純銀となっております」
瞬間、咲夜のナイフがこいしの首筋にあてられた。
犯人の素性が割れた以上、出し惜しみは必要無くなった。あとはこのくだらない騒ぎを終わらせるだけ。
「話して分かるかどうか知らないけれど、一応言っておくわ。今すぐこの遊びをお開きにするか、お仕置きされてから終わりにするか、選びなさい」
閉じた瞳、古明地こいしの話はパチュリー様から聞いている。無意識を操る程度の能力がどれほど恐ろしいか、体験したことは無いが用心は重ねておくべきだ。
咲夜はこいしから目を離さぬまま美鈴に合図すると、美鈴は扉の前、この部屋唯一の出入口の前に陣取った。これでたとえ隙を突かれようとも逃げることはできないだろう。
自身は目の前のこいしから決して目を離さない。美鈴は何があっても扉を守る。無意識を操ると言えど、時を止められでもしない以上不覚を取ることはありえない。
「黙ってないで何か言いなさいな。だんまりなら、返答は私が決めるわよ」
これ以上時間をかけるつもりは無い。見た目は少女でもその実は凶悪な妖怪。ナイフの一本や二本、刺さった所で死にはすまい。
「これが最後。遊びはお開き、いいわね?」
「そんなに見つめられたら照れちゃうよ」
決まりだ。この少女は私を一緒に遊んでくれている優しいお姉さんか何かと勘違いしている。
咲夜のナイフに力が入る。
しかし、それ以上腕が動くことはなかった。
「なっ――!」
気づいた時には既に遅し、今や咲夜は全身を縄で括られ、こいしが座っていたはずの椅子に縛り付けられていた。
何が起こった。自分は確かにこの少女に全神経を向けていた。一瞬たりとも気を抜かなかった。なのに!
「すごいんだね。本当に私以外に目を向けてなかった。視線だけで死んじゃうかとまで思ったよ。見殺し?」
そう言いながらこいしは、先程まで確かに咲夜が持っていたはずのナイフをくるくると弄んでいる。
「でも、そのせいで自分がいつの間にか縛られているのに気が付かなかったんだねー。どんまい!」
馬鹿げている。そんなことがあるわけない。
しかし事実として自分はこうして身動きが取れない状況に陥っている。認めたくはないが、自分はこの少女の能力を見誤っていた。
没我。これが無意識を操る程度の能力の本領であった。
無意識を操ると聞いて、てっきり意識を逸らされるとばかり考えていたが、その逆をされた。
自分の意志でこいしを見ていると思いきや、こいしによって目を逸らせなくされていたのだ。
……そうだ、美鈴!美鈴は何を――。
「…………すぴー」
すぴー?
「こっちの背の高いお姉さん、寝ることしか考えてなかったよ。だからこの通り」
こいしがぷにぷにと指でつついても起きる気配が無い。
無意識とはつまり潜在意識。さらに言えば本能的な欲望に近い。美鈴はこいしによって無意識を表層に浮かべられた結果、他の一切を捨てて睡眠モードに入ってしまったようだ。きっと今頃は幸せな夢を見ていることだろう。もはや咲夜は言葉も無かった。
己の不甲斐なさからほんの僅かに目を伏せた瞬間、こいしの顔が鼻先ほどの距離まで近づいていた。
体ごと傾けてこちらを覗きこむその顔は、目尻は下がり、口角が上がっているものの、はたしてそれは笑顔なのかそれ以外なのか、咲夜には判断ができなかった。
「これであなたたちも私の人質ね?」
ただひとつ、悔しいことに現在自分の運命はこの少女が握っているということだけは確かであった。
○ ○ ○ ○ ○
そもそも今日はなんだか悪い予感が脳裏を掠めていた。
新調したばかりのシャツのボタンが早速ひとつどこかへ去っていたし、朝食のスープには私の嫌いなブロッコリーが気持ち多めに入っていた。だからきっと今日は星の巡りが悪い日なのだろう、と心の隅っこのほうで軽く覚悟はしていた。
だけどまさか、謎の軍団が自分の家に乗り込んできて占拠されるだなんて誰が予想できたのでしょう。そこまでの覚悟はしていない。
廊下からの破壊音が和らいだのを確認し、小悪魔はホール階段下の物置からそっと顔をのぞかせた。
「安全確認よーし」
きょろきょろと視線を動かして人影を探る。どうやらこの辺りの敵は咲夜たちが片付けていってくれたようだ。ひとまずの安全が確保され、ほっと胸を下ろす。
特に用のない限り図書館から外に出ない小悪魔がこうして埃っぽい物置に身を隠すはめになったのは、もとはといえば魔理沙のせいであった。客人として訪れていた魔理沙が、同じく図書館に訪れていたアリスの持参したクッキーを見るやいなや、「そういえばこの図書館は客人に茶も出さないのか」などと喚きだしたのである。さらに悪いことに、常備してあるお茶の葉を丁度切らしていた。
あの白黒め、パチュリー様に無礼な物言いをするのみならず私を顎で使うなんて。
小悪魔はあくまでパチュリーの使い魔であり、本来ならば彼女以外の命令を聞くつもりなどさらさら無い。
そのまま魔理沙の要求を無視して本棚整理を続けていても良かったのだが、地団駄を踏まんばかりの勢いに呆れたパチュリーが直々に頼んだことで小悪魔も折れた。
茶葉の換えを求めてしぶしぶ紅魔館まで足を運び、そして今に至る。
茶葉が保管してある物置までたどり着いた途端、召喚陣が館のあらゆる所に出現し、迷彩服の連中が続々と飛び出してきた。身の丈ほどの槍を仰々しく構えた連中は辺りのメイド妖精たちをつつき回すと、まとめて大食堂へ閉じ込めてしまった。それを見て慌てた小悪魔は咄嗟に物置の鍵を閉め、ほとぼりが冷めるまで籠城を決め込むことにした。
小悪魔とて悪魔の端くれ、本気で抗戦すれば雑兵などに遅れを取ることはない。しかし基本的に小心者の性質を持つ彼女が「戦う」という選択肢を早々に排除したことは仕方のない事でもある。小悪魔はお茶の缶を抱えて小一時間ほどぶるぶると震えていた。
暫くの間は見回りの足音に一々怯えていたが、ある時からどたんばたんとけたたましい音が聞こえ始めた。乱暴に扉が開く音や刃物の擦れる音、さらには爆発音まで聞こえるものだから小悪魔の心拍は一層激しいものとなっていった。
ああ、ひょっとしたら総出で私のことを探しているのかもしれない。
どうしたものか、とひとまず物置内の机やら棚やらでバリケードを作っていたところ、騒音の中でもよく通る声が小悪魔の耳に入った。咲夜の声だ。
成程、今の時間はレミリアが出かけている頃だから咲夜が鎮圧に動いているんだ。駆けていく足音が二つあることから、きっと美鈴も一緒なのだろう。
急に心強く感じた小悪魔は、こうしてはいられないとばかりに自分で作ったバリケードを片づけて外への一歩を踏み出した。
物置を後にして、はじめに気になったのはパチュリーの安否であった。紅魔館がこの様子なのだ、図書館も放って置かれてはいないだろう。
まさかパチュリー様に限って連中に遅れを取るようなこともあるまいが、万が一ということもある。こちらの片付けは咲夜たちに任せることにし、小悪魔は足早に図書館へ向かうことにした。お茶の缶はしっかり抱えたままだ。
紅魔館の廊下は凄惨たる有様であった。頭や胴を砕かれた迷彩服たちがモノのように転がっているし、トラップの跡なのだろうかギロチンは床に刺さっているわ絨毯は焼け焦げているわ。これを一体誰が片付けるのだろう。小悪魔は同じ状況の図書館を想像して背筋が寒くなった。
幸い、館内に蔓延っていた連中のほとんどが咲夜たちによって倒されていたおかげで、余計な危険に晒されること無く図書館との連絡口までたどり着くことができた。あとは扉一枚隔てた先が図書館であるが、ドアノブに手をかけようとした小悪魔の手がふいに止まった。
何かを感じ取ったわけではない。ただ、今日の自分は星の巡りが悪いということを思い出した。果たして扉の先は私にとって幸と言える場面が待っているのだろうか。
逡巡の後、小悪魔はお茶の缶を扉の横にそっと置くと軽く息を吐き、覚悟を決めてドアノブをぐいと回した。
居た。パチュリーだ。魔理沙とアリスも一緒に、縄で縛られてぐるぐるになっている。3人は扉の開いた音に気づき、一斉に顔を向けた。
「右!小悪魔!」
パチュリーが叫ぶ。どうやら扉のすぐ横に待機していたらしい迷彩服の見張りが、小悪魔に向けて槍を突き入れようとしていた。しかし、その得物が届く前に迷彩服は小悪魔の一撃を受けて沈黙する。
やはり予感は当たっていた。予め魔力を溜めておいたおかげで咄嗟の攻撃に対応できた。
突如現れた小悪魔を排除しようと、図書館内の見張りたちが一斉に襲いかかる。
「私のパチュリー様に危害を加えたな……!」
普段の小悪魔は人から見るといまいち責任感に欠ける印象を受けるようだが、ことパチュリーに関しては話が変わる。咲夜がレミリアを命がけで守る覚悟であるように、小悪魔もまたパチュリーに対しては単なる主従以上の感情を抱いていた。他の連中は最悪どうなっても構わないが、パチュリー様に手を出すことは許さない。
紫水晶を思わせる褐色の魔力を纏い、次々と襲い来る敵を無双の活躍でなぎ倒す。口元から時折覗く白い牙と威圧するようにはためく翼が、彼女を悪魔然とさせていた。
「おおお、やるじゃないか!いいぞー!その調子だー!」
一人、また一人と撃破していく思わぬ助け舟の活躍に魔理沙から歓声があがる。小悪魔としては魔理沙に褒められたところで嬉しいともなんとも思わないが、その隣で静かに見守ってくれている主の視線はこれ以上無いほどの力を自分に与えてくれる。一々態度に表す必要は無い。声に出す必要も無い。そこに居てくれるだけで、私はどんな敵にだって立ち向かえる。だから、見ていてください。貴女の敵は全て私が排除してみせます。
最後の一人が繰り出す槍を牙で受け止め、そのまま噛み砕く。怯んだ相手の腹部に掌底の要領で魔力を直接ぶつけると、兵士は激しく後方へ吹き飛び、図書館の壁に激突してそのまま動かなくなった。
敵勢力を殲滅したことを確認した小悪魔は、じんわりと汗の浮かんだ笑顔を愛する主へ向けた。
「おまたせしてしまい、大変申し訳ありませんパチュリー様。すぐに縄を解きますからね」
「助かるわ。それと、呪いに関する本をありったけ探して持ってきて頂戴。いつまでも魔法が封じられている状態は堪えるわ」
「かしこまりました。すぐに――」
主人の拘束を解こうと駆け寄る小悪魔の膝から力が抜け、そのまま崩れるように図書館の床へ倒れ伏した。小悪魔の右足にはぽっかりと穴が空き、噴き出す赤色がどくどくと血溜まりを形成する。
「小悪魔!?」
小悪魔の足を穿ったのは直径5センチほどのレーザー弾。そしてそれは、今まさに駆け寄ろうとしていたパチュリーの背後、アリスの肩に浮かぶ上海人形から発射されたものだった。
「はあ……やっぱり戻ってくるのを待ってから始めるべきだったのよ。おかげで計画が台無し」
「アリス!お前何やって……!」
「あーはいはい。言いたいことはあるだろうけどちょっと黙ってなさい」
アリスはするすると自分の縄を解き、やれやれといった表情で立ち上がる。いつの間にか展開されていた小さな人形たちは一人が手鏡を持ち、一人が櫛を持ち、拘束されていたフリのおかげで乱れたアリスの身だしなみを整えていた。
「畜生、お前もグルだったのかよ!卑怯だ!陰湿だ!人でなし!悪魔!」
「いや、そもそも人じゃないし。それに悪魔はそっちで寝てる」
感情に任せた魔理沙の罵詈雑言を適当にあしらいながら、アリスは倒れている小悪魔に近寄るとポケットから1枚のクッキーを取り出して小さく砕きながら小悪魔の口に流し込んだ。既に青色吐息の小悪魔にはクッキー1枚であっても飲み込むのに難儀したが、なんとか喉を抜けていったようだ。
その光景を、魔理沙はわけが分からないといった表情で、片やパチュリーは合点のいった表情で見つめていた。
「なるほど、そういうことね」
「そ。陣を張ると気付かれちゃうから、だったら直接体内から封じちゃえばいいと思って」
「まさかクッキーに魔封罠を仕込んだのか!?うげぇ、もうお前の作った菓子は絶対食わないからな!」
「作るのすごい大変だったから、もうやらないと思うわ」
「信じられるか!うえー、ぺっぺ!誰かうがい薬をくれ!」
口を動かしながらも、アリスは人形を操り手際よく小悪魔を縛り上げていく。
「はい一丁上がり。止血はサービスよ」
「まさか貴女まで一枚噛んでいたとはね。うちを乗っ取ったところでどうするのか聞いてみたいところだわ」
「あら、この図書館が丸々手に入るのは理由として十分過ぎるほどだと思うけど」
「おいこら!私の図書館に手を出すなよ!」
「私のよ」
どのように状況が移り変わったとしても自分のスタンスを崩さない魔理沙に、アリスは一種の潔さのようなものを感じた。というよりむしろ呆れ返っていた。
「まあ、確かにこれらの蔵書は魅力的だけども、きちんと報酬は別で貰ってるから心配しなくていいわよ。私は技術提供と簡単な補助だけで、それ以上関与するつもりは無いし」
「……彼女は何をしようとしているの?」
「んー?そうね……」
アリスは一考するように指先をあごに当て、おぼつかないまま答えた。
「あの、あれ、娘さんを僕にください!……ってやつ?」
「こっちに聞かれても困るわ」
○ ○ ○ ○ ○
初めにこの感情に気が付いたのはいつのことであったか。
それは暖かく心地よいようで、また自身の中で靄が渦巻くようなすっきりしない混沌も生み出していた。
この暖かさは知っている。まだ私の目が開いていた頃に感じていたぬくもり。お姉ちゃん。私のたった一人の家族。私を優しく受け入れてくれる安らぎ。
この混沌は知らない。ぐるぐると悩んでいるうちにどんどん深みに潜っていく感覚。知りたい、知りたい。あの子が何を考えているのかを知りたい。何をすれば喜んでくれるのかを知りたい。今の私には知り得ない。かつての私ならば簡単に分かることなのに。
いくら考えた所で確実な答えにはたどり着かない。
だから私は考えない。したいことをしたいように、いつもどおり本能のままに動けばいい。きっとそれが私にとっての最善なんだ。そう思ってここまで計画を進めてきた。
――だけどちょっとだけ怖いな。
古明地こいしによる紅魔館乗っ取り異変の発生から4時間あまりが経とうとしていた。既に日は傾き始め、鋭い西日が紅魔館を更に紅く染めていく。
今や館中をところ狭しと徘徊していた迷彩服の集団はその全てが活動を停止し、館を本来あるべき姿に戻そうと奮闘していた住人たちも忸怩たる思いで拘束されていた。
山の方から時折聞こえるカァカァという烏の鳴き声の他は何も聞こえない、静寂の時間が流れていた。
静まり返った紅魔館の中でも、特に冷えた空気を帯び続ける空間。地下室に彼女たちは居た。
「……それ、本当なの?こいし」
「うん。メイドも門番も魔女も、みんなやっつけたよ。あとはフランのお姉ちゃんを待つだけ」
可愛らしいフリルをふんだんにあしらった天蓋付きのベッドに腰掛けながら、二人の少女は話を続けている。
フランが寝起きするこの地下室は、見渡せばふわふわのぬいぐるみやふかふかのクッションがそこかしこに配置されているなど、部屋の主の見た目相応に少女染みたレイアウトになっている。絨毯やカーテンなどが紅を基調とされているのは姉と似通ったセンスであるか。
ただし、そのカーテンは常に閉じられており、開けた所で眼前に広がるのはごつごつと硬い石壁。壁紙が貼られているわけでもなく、絨毯をめくれば壁と一続きになった石床が顔を出す。
ファンシーなピンクと無骨なグレーが同居するその空間は、実に異質という言葉で表す他無い。
「もう少しで外に出られるよ。そうしたら、二人でお出かけしようよ。美味しいものもいっぱい食べよう?」
「やっとこの部屋から出られるのね?私、行きたいところがたくさんあるの。森に、湖に、山に……神社にも一度行ってみたい!まん丸い月の空をおもいっきり羽を伸ばして飛ぶのもいいわね!」
「なんでも出来るんだよ。外に行けば、したいことをしたいようにできるんだから」
「素敵。したいことなんていくらでもあるのよ?あれもこれも……いざとなると何から手を付けていいか分からないくらいだわ!」
実姉であるレミリアによって地下に閉じ込められて久しいフランは、外を自由に飛び回る自身の姿を思い浮かべ、いつの間にか興奮のあまり立ち上がってしまっていることにも気付かない様子であった。したいこと、行きたい所、見たいものなどを大きな身振り手振りでこいしに説明する。そんなフランの姿を、こいしは相槌を打つように小さく首を振りながら見つめていた。
フランを見ている間、話している間、こいしはいつもの自分とは異なる自分を自覚する。もはや成ることのできない自分。かつて置いてきたはずの自分がそこに居た。
ふいに、フランはそれまでの元気を失ったように肩を落とし、こいしの隣にそっと座り直した。
「……でも、やっぱり無理よ。あいつが許してくれるはずがない」
「そんなことないよ。フランのお姉ちゃんがいくら怖くたって、これだけやればきっとぎゃふんと言うに決まってるよ」
「そう簡単にいくなら、私はとっくに自由の身だわ」
「そんなことないって!」
こいしはフランの両手を包むように握り、自分の側に引き寄せながら声を張り上げた。
「全部私に任せて。絶対、外に出られるから。私が出してあげるから」
「……うん」
ほんの一瞬、フランはこいしの瞳に光を見た。きっと燭台の火がこいしの勢いで揺らめいたせいだと思った。
こいしはフランの体をそっと抱いた後、満足したように立ち上がって地下室の出口へ向かった。背後から呼び止める声が聞こえる。
「私ね……こいしのお家にも行ってみたい。良い、かな?」
瞳を塞ぎ、姉の制止も聞かずに家を飛び出して以来、こいしは今日まで放浪の日々を過ごしてきた。姿を隠して時折様子をのぞきに行くことも有りはしたが、“帰る”ということはなかった。
果たして地霊殿は今でも自分の家と言って良いものか。
逡巡したが、こいしは振り向いて笑ってみせた。安心したように、フランもまた笑顔を見せた。
これでいい。私はしたいことをしたいようにするだけだ。今したいこと、それはフランの笑顔を見ること。迷う必要は無かった。考えるまでもなかった。
いっそのことフランをお姉ちゃんに紹介してやろう。あの姉ときたら、どうせ今も友だちなんて居ないに決まってる。私が友だちを連れて帰ったらどんな顔をするだろう。
したいことが増えた。見たいものが増えた。
こいしの足取りは自然と軽くなり、ついにはつま先が床から離れて宙を舞う。
時計の時刻は午後6時。もうすぐ悪魔が帰ってくる。
悪魔を待ち構えるために2階の主の部屋に戻ると、シックな丸テーブルにティーセットを広げたアリスに出くわした。
「あれ?捕まったフリはもうやめたの?」
「やめざるを得なかったのよ。もう、無関係を装うはずが散々だわ」
今回の計画をこいしが持ちかけた時、当然といえば当然であるが、アリスは協力するつもりなど微塵も持ち合わせていなかった。
ある日突然『テロリズムのひみつ』という一冊の本を抱えながら「紅魔館をのっとるから手伝ってほしい」などとのたまう少女に対して、アリスは呆然とした目線を向けることで答えた。たかだか一度会っただけの(それも人形越しに)相手からテロのお誘いを受け、二つ返事で了承するような阿呆がどこにいるものか。と、言いつつもそんな阿呆に心当たりがあったので、そちらにお願いしてはどうかと聞いたところ、ライバルが増えるのは嫌だと言う。
こいしの主張するところによると、テロを実行するためには館一つ占領するだけの人員が必要であり、且つ相棒は仕事のみの付き合いとなるドライな職人気質な人物が好ましい(ここは本の影響か)と言う。それらの条件にピッタリマッチするのが他でもないアリスであり、恥を忍んでお願いに来たのだとか。
それでも頑なに断り続けたアリスであったが、報酬に、と差し出された数冊の本を見たことでついに折れた。どこで見つけたのか、目の前に置かれた本のどれもが超貴重な魔導書・呪術書であり、おそらくパチュリーの図書館にすらコレほどの代物は滅多に無いであろう。魔理沙に見せようものならば持ち主を殺してでも奪いとろうとするかもしれない。少なくとも恋符を撃たれるのは間違いない。
こんなレアな品をどこで、と聞くと、地底の古本屋で手に入れたのだと言う。なるほど地底か、こんな素晴らしいものが転がっているのなら、あの時無理してでも自分で行くべきだったかしら、と思案するアリスにこいしは再度協力を求めた。
悩んだ末、協力こそするがアリスはあくまでも無関係を装う、という約束の下にアリスはこいしの提案を受け入れたのであった。
「それにしても咲夜にしろ小悪魔にしろ、随分と派手に壊してくれたもんだわ……人形一体作るのも楽じゃないのよ」
「その割に役に立たなかったね」
「そりゃそうでしょうよ。私が直接操ったのならともかく、自動操縦ならせいぜい妖精を追いかけ回すのがいいとこ」
紅魔館中をところ狭しと埋め尽くしていた迷彩服の兵士たちの正体は、もちろんアリスの人形である。素体に服を着せただけの急ごしらえな一団であったが、こいしの能力で詳細をうやむやに認識させることにより、謎の即席魔法生物の出来上がりだ。アリスがこいしに協力した理由の一つには、これら人形の自動操縦の精度の実戦テストとオリジナルトラップの実験を行なうということも含まれていた。
「私の役割は果たしたわ。あとは手を貸した手前、顛末を見届けたら適当に引き上げるから」
「うん、お疲れ様。後は自分でやるから大丈夫だよ」
「ところで、カモミールティーを淹れたのだけどどうかしら。リラックスするわよ」
「私の場合、紅茶を飲むとおトイレが近くなるから」
「それは残念」
アリスがカップに口を付けたのとほぼ同時に、階下から強烈な轟音が鳴り響いて館中を震えさせた。ぱらぱらと天井の一部が崩れ落ちる。
「さ、怖い怖い悪魔のお出ましよ。ここまで来たら腹括らないとね」
腹を括るだとか、覚悟するとか、そういった心構えはこいしとは全く無縁なものだ。こいしは気負わない。こいしはいつだってどこだって、したいこと、みたいもののために。
今は、あの子の喜ぶ顔を見たいがために。
○ ○ ○ ○ ○
幸せというものは、ついついお裾分けしたくなるものだ。
だから、今日に限っては些細な無礼などは寛大なる態度でもって許してやろう。変に怒ってこの気分が台無しになってしまうのは自分としても不本意だ。
勝手に持ち場を空けている門番。許す。
見慣れない魔法障壁。仕方ないから壊そう。
主の帰りを出迎えない従者。忙しいのかな?
見る影も無い内観。……地震でもあったか。
ホールから2階へと伸びる階段の上でにやにやと気味の悪い笑みを浮かべながら私を見下している何処の馬の骨とも分からぬ下衆で卑俗な小娘。
空気を震わせたビキッという音はレミリアの血管が引きつる音か、その足元の床が砕けて跳ねた音か、あるいはその両方か。天狗すらも追いつけぬであろう瞬間速で宙を駆けたレミリアは、その速度のままこいしの首に手を掛けて背面の壁に叩きつけた。壁はまるで砲弾の直撃でも受けたかのように大きく抉れ、波状に伸びたヒビが端まで届いている様子から、その衝撃の強大さが窺い知れる。
しかしそれでも尚、こいしは笑みを浮かべたままレミリアをじっと見つめていた。その態度が、レミリアの怒りを一層募らせる。
「せっかくの良い気分がこれではぶち壊しだ。それもこれも、全部お前のせいなんだな?」
「そら、そう、よ。一つ言わせてもらうなら、その質問はこうして襲いかかる前にされるべきものじゃない?」
こいしの言葉の前半はレミリアの目前から、そして後半はレミリアの背後から向けられたものだった。違和感に気づいたレミリアが咄嗟に振り返ると、両手を後ろに組みながら軽く首を傾げるこいしの姿。今にも首をへし折ってやろうと押さえつけていた相手が知らぬ間に抜け出している。そんな奇怪な状況が、逆にレミリアの脳の冷却装置を作動させた。一瞬で昇り詰めた血が徐々に降りていく。
「今来たばかりのあなたに状況を説明してあげる。この館は私が貰ったわ。つまりあなたの立場は館の主なんかじゃなく、ただのお客さま。それも、とびきりマナーが悪い、ね。ここまではOK?」
レミリアは口を閉ざしたまま、視線で続きを促す。
「それで、あなたの態度しだいでは館とメイドたちを返してあげてもいいわ。私が欲しいのはひとつだけなの」
「悪魔と取引か?面白い、言ってみろ。こうまでしてお前が手に入れたいものとは何だ?」
「フランドールを私にちょうだい」
こいしの提示した条件に、レミリアは僅かに驚いたような表情を見せたものの、ふいに吹き出して高笑いを響かせた。
「成程ね、つまりは全部あいつのおふざけだったと。しまったな、私としたことがつい本気で怒ってしまうところだった。いやあ参った。しかし姉をからかおうとするのは良くない。館を滅茶苦茶にしたのもいただけないな。これは一度、キツい灸を据えてやらないと」
「おふざけなんかじゃ――」
真横をすり抜けて行こうとするレミリアをこいしが引き止めようと手を伸ばす。しかしその手は空を切り、指先に鋭い痛みが走った。慌てて引っ込めると、指の肉が数ミリ抉られている。もう少し手を伸ばしていたならば指をまるごと持っていかれたことだろう。レミリアは歩みを止めないまま話を続ける。
「お前たちが本気であろうとなかろうと、私からすればガキのお遊びだ。つい早とちりしてしまったが、今日は機嫌が良いから見逃そう。とっとと消えろ」
館内が半壊していたのには驚いたが、仕掛け人が分かってしまえばなんということもなかった。妹のワガママが原因なら気にするまでもない、まだレミリアの一日は「霊夢に会えて良かった」という感想のまま終わることができる。聞き分けの無い妹への仕置はさておき、今は幸せを抱きながら眠りに就きたい。そんな折、レミリアの歩みは絡みつく茨によって妨げられた。
「あなたが本気にしようとしなかろうと、私はフランドールを頂いていくわ。拒否しないってことは、了承と受け取っていいのよね?」
それはこいしにしては珍しく、挑発の意図を含んだ物言いであった。周囲に展開された黄色い薔薇の弾幕は、既にその先を見据えた布陣を敷いている。物々しい茨のトゲも隠す必要は無い。もとより話の通じる相手では無いと理解していたこいしは、弾幕ごっこによる決着を最初から想定していた。それが「ごっこ」の範疇に収まるかどうかはレミリアの出方次第であったが。
茨が自身の腕にきつく絡みつき、その腕から赤い雫が薄く流れる様子を眺めながら、ついにレミリアは小さなため息を漏らした。
口を開けばワガママばかりの妹も大概だが、このガキも相当なものだ。類は友を呼ぶとは言うが、どうしてこいつらは私の話を聞いてくれないのか。私はお互いにとって最良の条件を提示したはずなのに。やつらが素直に条件を飲んだならば、私はこのまま安らかな気持ちでベッドに入ることができる。あのガキはお咎め無しで家に帰れる。ここで敢えて私を引き止める理由があるのか?
そもそもフランを地下に閉じ込めているのだってあいつのためを思えばの処遇なのだ。まだ能力を十分に制御できないままフランの外出を許せば、必ず何かしらのトラブルが起こる。トラブルが起これば霊夢が飛んでくる。白黒も飛んでくる。もしかしたら八雲や山の神も飛んでくる。フランは私から受けるもの以上のキツい仕置を受けることになるし、霊夢の私への心証も悪くなる。ほら、フランが外に出るだけでみんなが損をするじゃないか。私は紅魔館の主として、皆が幸せになるための正しい判断をしている。
それなのに、こいつらは私に歯向かうのだな。
私の気も知らずに全てをブチ壊しにしようとするのだな。
「わかった。お前らの気持ちはよくわかった。うんうん、すっごくわかった。理解した」
レミリアはこいしに背を向けたままもう一度、今度は深い溜息を吐くと、それに呼応するかのように紅色の妖気がじんわりと彼女の全身からにじみ出る。レミリアの体を縛り付けていた茨は妖気に触れたところから音もなく燃え尽き、落ちていく。
その様子をじっと見つめていたこいしは、両手を高く掲げて臨戦態勢に移った。
「聞き分けの無いガキは」
「頭の硬い姉は」
「「体に直接分からせるッ!」」
スペルカードの宣言は無い。火花が散り瓦礫が舞う、他所の姉と他所の妹による熾烈な姉妹喧嘩が今、幕を開けた。
○ ○ ○ ○ ○
「人形……?」
上階から聞こえる明らかな戦闘音に不安を駆られながら、落ち着かない気持ちでベッドに寝転んでいたフランの元に、1体の人形が現れた。
青いエプロンドレスに真っ赤なリボンをあしらった可愛らしい人形。だけども、フランには見覚えがない。
「あなた、いったいどこから……」
言い切る前に気付く。扉が開いている。
この人形が開けて入ってきたのか。いったい何のために?そもそもどうして人形が一人で動いているの?
疑問は尽きないが、はっきりしているのは扉が開いているということ。上で争っているはずのこいしとレミリアの状況が知りたい。
こいしの実力は未知数であるが、実際のところ、それでもレミリアを上回るとは思えない。
ここでフランが飛び出し、こいしに加勢したならばきっとレミリアを倒すことができるだろう。そうすれば、今度こそ外に……。
しかし、フランは迷っていた。
外に出たいという気持ちは本物だ。こいしと共に自由に飛び回れたら、それはどんなに素敵なことだろう。見たいもの、知りたいものはたくさんある。
が、力で手に入れた自由を十分満喫した、その後は?帰る場所を自ら破壊した、その後は?
様々な思考が脳を駆け巡り、その重さにフランは俯いて床に目を落とす。
外に出たい、星を見たい、風を受け止めたい、自由が欲しい。そう何度も何度も叫んできた。そのための衝突も多々あった。
なのに、いざ手の届くところまで近づくと尻込みしてしまうのはどうしてだろう。今すぐ飛び出したいはずなのに足が止まるのはどうしてだろう。
小さな人形は、ただじっと佇んでいる。扉を開けたのは彼女であるのに、来い、と促すこともせず。
自分で決めろ、ということか。
ここで外に出ることを選んだなら、二度とここには帰ってこられない。ここで歩みを止めたなら、二度と外には出られない。
自分と向き合うことをせず、ただ盲目的にワガママを訴え続けた、そのツケが今まわってきたようだ。
おでこをごんごん突いてみても、思考の整理はまるでつかない。
そういえば、こいしは何て言ったっけな。自分のしたいようにしてるだけ?
自分のしたいように、してるだけ。
私の本当にしたかったことって?
途端、地響きと共に唸る衝撃音がフランを思考の渦から引き戻した。
そうだ、考えるまでも無いことが一つだけあった。
フランは自分の両頬をぴしゃっと叩き、確かな表情で前を向いた。
答えはまだ出ていない。それでもフランは走りだす。大切な友だちのために。失ってはならないもののために。
○ ○ ○ ○ ○
そんなフランの様子を、アリスは人形の目を介しながら観ていた。
「まったく、ここまでアフターケアに気を使う魔法使いなんて他に居ないわ」
ここまで首を突っ込むつもりなど無かったはずなんだけど。
さあ帰ろうか、などと思ったものの、エスカレートする一方で収まる気配の無いレミリアとこいしの戦いに見かねたアリスは最後の手助けをすることにしたのだ。
今度こそ仕事を終え、持参したティーセットを鞄につめつめ帰り支度をしているところに、フランのところへ遣ったものとはまた別の人形が戻ってきた。
「お帰り。やっぱり動き出したのね。そうじゃないかと思ったのよ」
スペルカードも無しにぶつかりはじめた二人を見てから危惧していたアリスの予感は見事に的中した。こうなれば、もはやこれ以上の長居はできない。
「上海が戻ったらすぐに出ましょう。あなたも片付けを手伝ってね、蓬莱」
報酬分の働きは果たした。後始末は当事者たちに任せるとしよう。それにしても今回の自分は随分と世話を焼いたものだ。
これも無意識の何かかしら、と思案しつつ、魔法使いは館を後にした。
○ ○ ○ ○ ○
茨ごと引き裂かれた薔薇は焼け焦げてはらはらと散り、砕かれたハートが床に壁に突き刺さる。
弾幕ごっこの範疇を超えた全く無遠慮の弾幕を放ってはいるものの、その全てが容易く迎撃されてしまう。
レミリアの携える妖力の具現、紅魔を体現するかのような真紅の神槍、グングニルによってこいしの弾幕は尽く打ち払われてしまっていた。
あのグングニルはあまりにも強力だ。たったの一振りで周囲の弾幕をかき消し、それがそのままこいしの眼前を掠めていく。攻防一体の紅い閃光。まだこいしはレミリアから一撃も貰ってはいないが、その一撃はそのまま戦闘の終わりを告げるだろう。
ただし、こいしも防戦一方というわけではない。正面から展開した弾幕は通用しないものの、レミリアの意識外から放った弾幕はレミリアを捉えている。背に、足に、肩に、有効なダメージは確かに与えている。このまま続けていけば必ず相手はヒザをつく。
僅かな希望と焦りを含んだ瞳でレミリアを見つめる。当のレミリアはグングニルを小脇に抱えながら、足を止めて何かしらの思案をしている風だ。
「ちらちらと消えたり現れたり。実に鬱陶しいやつだな、お前は」
本来ならばこういった細かい類の相手は咲夜がなんとかするはずなんだがな。一体どこで何をしているのやら。
一度は激昂したレミリアであったが、いくら槍を振るおうと捉えられない相手を前に、段々と冷静さを取り戻し始めた。もともと彼女には、物事が行き詰まったりして上手くいかなくなると一旦思考をリセットする癖がある。そのまま続けても埒があかないため、落ち着いて適当な相談相手に意見を求めたりするのが常であった。大体の場合、その相談役とはパチュリーなのであるが、今は居ない。ならば、ここは自分が知恵を絞らなければ。
消える、ということは超スピード?はたまた超能力?まさか、咲夜のように時を?
超スピードではありえない。なぜなら、自分の眼がその程度で対象を見逃すはずがないからだ。
では超能力は?瞬間移動か、透明化か。いずれにせよ気配くらい察知できる。
時を止める?弾幕の展開され具合から見てそれは無いな。
ならばいったいどういうトリックであるのか。
ううむ、とレミリアは頭を悩ませる。この間にもこいしの弾幕は止むこと無くレミリアを襲い続けている。持久戦は旗色が悪そうだ。ならば。
レミリアはぶんとグングニルを大きくなぎ払うように一周させ、勢いのままに床に突き刺した。
「そのコバエのような戦法に付き合うのはもう止めた。ここからは、吸血鬼流だ」
吸血鬼流?とこいしが一瞬躊躇する。その一瞬が、レミリアには十分過ぎる間隙であった。
レミリアは目を閉じ、両手を真横に真っ直ぐ伸ばした。同時にグングニルが血色の閃光を放つ。
「不夜城、レッド」
レミリアの宣言が終わるが早いか、閃光は空間を埋め尽くし、こいしの眼前を真紅に染める。
吸血鬼流とは圧倒的な力。何処へ行っても逃げることができない、無慈悲な物量。ただそれだけである。
「しまっ……!」
こいしがそれに気付いたのは既に紅に飲まれてから。身を焦がし、芯を抉るレミリアの妖気に為すすべなく晒される。
ああ、ダメだったか。自分には、あの子を救うことはできなかったか。あの子には自分のようになってほしくなかったんだけどなあ。
こいしが声もなく意識を途切れさせる、その寸前。目の前の空間が急速に圧縮、破裂し、猛烈な破裂音と共に全ての紅を吹き飛ばした。
「……来たか」
フランドール・スカーレットの、全てを破壊する程度の能力。その力の前には、空間も、妖力も、如何なるものも、抗えない。
フランはこいしの元へ駆け寄り、倒れかけるこいしの体を抱きかかえた。
「誰が外出を許した?今すぐ自分の部屋へ戻れ、フラン」
「それはできないわ。こいしをどうするつもりだったの?お姉さま」
「別にどーーもしないよ。ただちょっと痛めつけてお前の部屋に飾ってやろうかと思っただけだ」
殺しはしないんだから構わないだろう?と、レミリアはスペルカードをひらひらと振ってみせる。先ほどの不夜城レッドはスペルカードによるもの。もしフランが遮らず、こいしがまともに食らっていたとしても死までは至らなかっただろう。死まで、は。
「殺したらお前が悲しむんじゃないかなー、と思ったのさ。どうだ、妹想いな姉だろう?だからお前もおとなしく言うことを聞いておくれよ」
「こんなことされて私が素直に従うとでも思ってるの!?友だちを傷つけられて!」
「友人は選ぶべきだぞ、フラン。そんな悪い虫がつくようでは、お前の待遇も考えなおさなければならないな」
「ッッ!この――――っ!!」
フランが左手を突き出す。その手は青白い光を帯び、今にも光弾を撃ち出さんとしている。それが放たれないのは、フランの腕に、ボロボロのこいしの手が乗っているためであった。
「駄目、だよ……フラン。今必要なのは、それ、じゃない」
「こいし……?」
こいしの計画は、その準備段階を今終えた。本来の予定ならばボロボロなのはレミリアで、自分はピンピンしていたはずなのだが、この際そこは仕方がない。大事なのは、この場にレミリアとフラン、そしてこいしが居ること。そして、レミリアがフランの登場に少なからず動揺していることであった。
「妖怪、ポリグラフ……!」
こいしが第三の瞳に手を当てて念じると、瞳は二本の光の軌跡を描き、それぞれがレミリアとフランの胸に伸びていく。フランはその様子をきょとんとした風に眺めているが、レミリアは途端に体を震わせ、ぎょっとした視線を胸の光へ向ける。それと言うのも、光が当たった瞬間よりレミリアから溢れるように光弾が飛び出し始めたためである。
レミリアは慌てて体を押さえつけ、ぼわぼわと溢れる光弾を止めようともがくものの、一向に収まる気配が無い。
「な、なんだこれは!なんなんだ!」
「妖怪ポリグラフは不思議な弾幕。今回は攻撃性能が無いように調整してあるけれども、動揺すればするほど反応は大きくなーる」
つまり慌てれば慌てるほど効果は更にあらわれる。今やレミリアはまるで泡立てたスポンジのように光弾をまとわりつかせている。
「そして弾幕ポリグラフの本当に素敵なところは……」
「ま、まだあるのか!」
「発動中は嘘をつけなくなるのだ」
「なんっ!?」
慌てふためくレミリア。ニヤリと笑うこいし。よく理解できていないフラン。
現状が上手く把握できずに視線をレミリアとこいしの間で行ったり来たりさせているフランに、こいしはそっと告げる。
「言いたいことは、きちっと自分の言葉で言わないと伝わらないんだよ、フラン」
「えっ?」
「自分の声で、面と向かって伝えるって大切なことなの。本当の気持ちを、想いを、しっかり相手の顔を見て伝えるの。そして、一番大事なのは、お互いに本音でぶつかり合うこと」
こいしがチラと横へ目を向けると、狼狽した面持ちのレミリアと視線が合った。フランに視線を戻し、こいしは続ける。
「私はそれができなかった。自分の勝手で目を閉じたし、それで構わないとも思ってた。だけど、あなたを見て少しだけ変われた。もっとお姉ちゃんと本音でお話しておけばよかったと思うようになった。あなたには私と同じようになってもらいたくないの。今のまま、何も伝えないまま心を閉じてしまったら、きっといつか、後悔する」
そこまで言い終えると、こいしは支えられているフランの腕からそっと離れ、ふらふらと近くの柱まで歩き、寄りかかる。
後は、あなたたち次第。そうとでも言うように。
残されたフランはまごまごとレミリアを見つめ、対するレミリアは口を一文字に結びながら視線を返す。
「……お姉さま」
「……」
フランが口火を切った。ボロボロになりながらも、こいしが作ってくれたチャンス。数百年に渡る姉妹のわだかまりを解消するのは、今をおいて他には無い。
うまく言葉にできないかもしれないけれど、自分の全てを明かそう。
「私、外に出たい。だけど、一人じゃなくて、みんなでお外に」
地下室の扉が開いてから、ずっと考えていた。どうして自分は外に出るのをためらったのか。
「お姉さまも、こいしも。それと、咲夜と、パチュリーと、美鈴やメイドたちをみんな連れて行くのもいいわ」
そして気付いた。自分は紅魔館と、館のみんながどうしようもなく好きなのだ。例え閉じ込められていようと、家族の絆は、確かに感じていた。こんなに優しさを向けてくれていたのに、気づかないふりをしていた。
「お姉さまが心配してくれているのも分かるわ。確かに私は、まだ自分の力を完璧には制御できていない。だけど、私、頑張るから!お姉さまに信頼してもらえるよう、一生懸命頑張るから!だからお姉さま!お願い、外に出させて!もう地下室は嫌なの!」
他者とのコミュニケーションの経験が少ないフランは、自分の感情を抑えることができない。言葉を発すればするほど、想いが高まり、涙が溢れる。それでも口にせざるを得ない。伝えずにはいられない。
フランの心からの吐露を、レミリアは変わらず口を結びながら静かに受け止めていた。
確かにフランは変わった。周囲のモノを手当たり次第破壊して回る、かつての妹はもはやいないのだろう。
そして、レミリアもまた自覚した。フランがかつての気狂いではなくなっていたと、気づいていながら目をそむけていたことに。まだ一人で出歩かせるのは不安であるが、監督者が居れば問題なく通常の生活を送ることができるということに。
分かっていながら、そうさせなかった。「成長したわね、フラン。もうこんな地下に篭る必要は無いわ」と、いつ言ってやっても良かったはずなのに。
だが、紅魔館の主として、そして、姉としての責任がそうはさせなかった。軽率に許可を出すことはできない。
フランを地下に閉じ込めていたのは、他でもない、フランのためを思っての処置。それは揺るがない。この可愛い妹を外界に放り出すなど、できない。
レミリアは口を開かない。こいしのポリグラフがまだ胸に突き刺さっている以上、安易に言葉を口にしたならば、姉としての威厳を損なうことまで言ってしまいかねない。
紅魔館の主としての自分。フランの姉としての自分。500年を生きた吸血鬼としての自分。そのどれもが、本心を曝け出すことを拒否している。安易に本心を晒すなど、私のカリスマがそれを許さない。
フランは言いたいことを全て言い終えた。今は私のレスポンスを待っている。こいしはここまでの役割を果たし終えた。今は事の成り行きを見守っている。
後は私がこの騒ぎを終わらせるだけ。一言でいい、ばっさりと言い放てばそれで終わりだ。フランを閉じ込めると決めた時も、三日三晩悩み通した。それをこんな、一時の場の流れで覆すわけにはいかない。これは私の本心からの答えだ。嘘など、無い……!
レミリアの言葉よりも先に、鼓膜を破るような轟音がその場の全員の耳を貫いた。いや、実際に破られたのは館の外壁であったが。
ぱらぱらと砂塵が舞い、視界を遮る中、館に空いた大穴の向こうからひとつの人影がゆっくり歩いてくる。
こいしはしまった、という風に顔をしかめ、フランは呆気にとられたまま、レミリアは目を見開いて冷や汗がその額をつたう。
「アンタたち……何度言えば『ルール』を理解するのかしら……?」
ここで一つ、おさらいをしよう。
スペルカードルールとは、各人の間でいざこざが勃発した際に、幻想郷の秩序を乱すこと無く済ませるための決闘法である。
人妖神その他が入り乱れる種族のサラダボウル内において、各々が気兼ねなくその力を発揮していては結界がいくつあっても足りないためだ。
そんなスペルカードルールを無視した力の使用はすなわち、現代日本で突然発砲するようなもの。ルールを無視した者には、キツい罰が与えられる。
こいしは穴の向こうへ目を向け、はたと気が付いた。レミリアの妖気が紅魔館から溢れ出たのか、いつの間にか外には真っ赤な霧が発生している。確か、何年か前にもこんなことがあったような。そりゃあ来るわ、巫女。
「ひいふうみい……そんなに退治されたいのなら、お望み通りにしてあげる!!」
首謀者たちが最後に見たのは霊符の光。全ての勘違いやすれ違い、想いが伝わるとかどうとか、そんなものは彼女の前では等しくどうでもいいことであった。
○ ○ ○ ○ ○
「まったく!くだらない姉妹喧嘩のために一々異変起こすんじゃないわよ!」
「で、でも霊夢……霊夢だって知ってるでしょ?あの子は……」
「やかましい!次同じことしたらニンニク風呂に叩きこむからね!」
騒動が収まり、ようやくこれ以上の破壊を免れた紅魔館。解放されたメイドたちが瓦礫の撤去に追われる中、本来の主は地べたに正座で巫女の説教を浴びていた。
そして一連の騒動の発端はと言えば、フランの背後に寄りすがりながらその光景をにこにこと眺めている。
「そもそも、和解したんじゃなかったの?アンタたち姉妹は。ほら、前の異変の時」
「や、あの時は勝手に暴れたのを許すわ、ってくらいで」
「じゃあ和解しなさいな。今、ここで」
「えっ」
「何度も何度もどうでもいいことで呼び出されてちゃたまんないわ。外出とかも勝手にさせればいいじゃない」
「いや、でもそれでフランが何かしたら霊夢怒るでしょ?」
「そりゃあね、その時は退治するわ。フランとアンタを」
「なんでぇ!?」
フランを外に出すことで何か問題が生じたなら、その時はその時。霊夢はとりあえずレミリアとフランを巡る姉妹喧嘩のあれやこれやを終わらせたかった。
と言うのも、現在の時刻は丁度午後8時を回ったところであり、平時であれば霊夢は既に床に就いている頃合い。一刻も早く帰りたい。眠い。霊夢の心中はその一点にのみあった。
平行線のまま一向に話が進まない二人の間に、ここぞとばかりにこいしが口をはさむ。
「じゃあ、最初からレミリアもフランと一緒に居ればいいのよ。もちろん、私もだけど」
はたとこいしの方へ顔を向けるレミリア。二の句が継げないレミリアには構わず、こいしが続ける。
「レミリアはフランを放っておくのが心配なんでしょ?だったら、ずっと傍に居てしっかり見張っていればいいじゃない。本当は私だけで大丈夫なつもりだったのだけど……」
フランに目を遣る。フランは落ち着かない様子でレミリアとこいしを交互に見続けていた。
「フランは、どうしてもレミリアが一緒じゃないと嫌ならしいから。ね?フラン」
次にぎょっとするのはフランの番。心を見透かされたかのようなこいしの一刺しに、フランは顔を真赤にして俯いた。心を見透かすも何も、先ほど自分の口から語られた本心なのであったが。
「レミリアも、それでいいでしょ?一人での外出はだめでも、一緒の時なら許すってことで!」
「だからそういう……」
「ポーリグーラフー」
ぐぬ、と口をつぐむレミリア。霊夢が近くに居る今、本音しか口に出せなくなるのはまずい。非常にまずい。
想い人を相手に好き好き好きーと迫るのは品位に欠ける。さりげなく近くに居ながら、次第に自身の魅力に気付かせることで相手の側から求められるようにするのが吸血鬼流、いや、レミリア流、もとい、レミリアの一番好きなシチュエーション。もう一度妖怪ポリグラフを受けるのは御免だ。だからと言ってフランの外出を許すのは……。
今や、レミリアがフランの自由を頑なに拒む理由としては、半ば単なる意地の張りのみとなっている。カリスマとしての矜持という名の頑固さが、理屈による決断を妨げていた。
ポリグラフへの恐怖、素直になれない自分への苛立ち、答えはすぐに出ない。しかし決断は迫られる。それは早く帰りたい霊夢の睨みつけるような視線が物語っていた。
レミリアは苦悩する。妖怪ポリグラフ、その効果はこいしによる嘘だとも知らずに。
こいしの妖怪ポリグラフは、その名の通り相手の動揺を察知する嘘発見器としての働きを持つ。だが、嘘がつけなくなる、といった効果は持ちえていない。
妖怪ポリグラフが場を支配したあの状況は、一触即発の極限状態と、フランを促して先に本音を吐露させたことにより生じたのであった。外聞も無く涙を流しながら本心を晒すフランの姿を見たレミリアは、ポリグラフの効果が嘘かもしれないと考えることを忘れた。危険な賭けだった。ポリグラフの発動中にも関わらずレミリアが否定の言葉を口にしてしまっていたならば、彼女はそれを本心であると錯覚してしまっていただろう。そうなれば、姉妹の確執はどうなっていたことか。
こいしは、例え今回は失敗したところでそれはそれで已む無しと考えていた。大切なのはフランの想いを正直にぶつけてやること。それを受けたレミリアが一時は拒否を示したとしても、想いは確かに伝わっている。長い目で見たならば和解への大きな一歩となるだろう。
さて、そろそろ決着を付けよう。いい加減、フランの心臓は爆発しそうであるし、霊夢のお祓い棒は今にも折れそうだ。
「わかった!霊夢も一緒なら問題ないよね?私と、フランと、レミリアと、霊夢の4人でお出かけしよう!」
「それだ!」
先ほどまでとは打って変わって、ぱっと明るい顔を見せるレミリア。
「博麗の巫女である霊夢の監視下であるのなら仕方ない、許可しよう。許可する!」
「はあ?なんで私がそんな面倒なことを」
まあまあそう言わずに、とこいしが霊夢へ耳打ちする。
「後で地底の美味しいお酒をたっぷりプレゼントするから」
「…………」
霊夢の頭の中に天秤があらわれる。吸血鬼どもの子守による面倒くささと、地底からの貢物。ううむ、どちらが上か……。
「なんならお賽銭もたっぷり入れておくし」
「了承」
霊夢はこいしの肩を抱き、がっしりと固い握手を交わした。その握手の美しさと言ったら、スカーレット姉妹の495年の軋轢どころか、地上と地底の不和ですら氷解してしまうかごとくであった。
「ほら、フランたちも握手あくしゅ。これからはずっと仲良くしていくんだからね!」
「ん、うむ……」
こいしに促され、レミリアはおずおずと手を差し出して見せる。眼前に差し出されたその手を、フランは両手でしっかりと握りしめた。
495年。いや、6年か、7年か。初めのうちは、そりゃあ、恨みもした。視界に入れば殺したくもなった。
だが、何度も言葉を交わし、爪を、牙を交わし、血を交わしている内に、どんどん、どんどん恋しくなっていった。心の奥の、愛情に気がつくようになった。
「お姉さま……」
フランの手に力がこもる。しっかりと顔を上げ、頬を赤らめ、目をうるませながら眼前のレミリアを見つめる。
「大好き!」
たったの一言。だからこそ伝わる。世界でたった一人の姉に、やっとぶつけられた。
「こいしも大好き!」
「私も!」
「霊夢も大好き!」
「うわわっ」
いつの間にか現れた第二、第三のフランがそれぞれこいしと霊夢に飛びついた。大好きなみんなに想いを伝えるには、私が一人だけじゃ足りない。禁忌の力を使ってでも、この想いをぶつけたい!
感極まった4人目のフランが宙を舞い、夜空へ飛び出す。外は真ん丸い満月が空を照らし、世界の果てまで見通せるかのように思われた。
感動に体が震える。初めて見渡した世界は、どこまでも広く、どこまでも輝いて、どこまでも愛おしい。
「こいしも、お姉さまも、霊夢も、咲夜もパチュリーも美鈴もみんなみんなみんな……」
フランは時計塔のてっぺんに降り立ち、月に向かって宣言した。
「だーいすきぃっ!」
こうして、こいしの引き起こしたテロリズム騒動は幕を閉じた。
館は半壊したものの、フランは外を自由に飛び回れるようになり、こいしも堂々とフランと遊び回れる。レミリアは霊夢と一緒に居られる口実を手に入れたし、霊夢はお腹いっぱい食べられる。
ほうら、フランが外に出るだけでみんなが幸せになった。最初からこうしておけばよかったのだ。全ては丸く収まった。
そして、次は私の番なのかな。
こいしは閉じられたままの第三の目をそっと手で覆った。
お姉ちゃんのこと、地霊殿のこと、ペットたちのこと、想うところはいろいろある。だが、放浪生活の中でもこいしは確かなものを手に入れた。
今なら大丈夫。フランが居れば、大丈夫。胸を張って紹介しよう。
私の、一番の友だちだって。
心というものはとてもデリケートなのだと、よくお姉ちゃんは言っていた。繊細で、壊れやすいからこそ、人は心を隠して生きているのだと。
だけど、どんなに隠そうとしても私たちには意味のないことだ。
どんなトラウマも、どんな秘密も、私たちには一目瞭然。簡単に視えるし、触れられる。特にお姉ちゃんは他人の触れられたくない心に敢えて触れることが大好きだった。
心は、触れられると壊れてしまうガラスのような脆さを持っている。でも、その反対に、触れたものを壊してしまうような鋭い槍をも隠し持っているのだ。
その槍は決して表に出さないように深く深くしまわれていながらも、自分自身に対しては絶対に隠すことができず、常にちくちくと心を蝕んでいる。
その槍の名前は嫌悪。その槍の名前は嫉妬。その槍の名前は、愛。
決して他人に知られてはいけない。知られてしまったならば、良かれ悪しかれそれまでの関係は必ず壊れてしまうだろう。
他人の心を視てしまうたびに、その人の心を握りつぶしてしまうような、その人の槍に胸を貫かれるような、そんな気持ちが私を襲う。
他人の心なんてもう二度と見たくない。だから私は瞳を閉じた。
でも、あのこに出会ってから、もう一度だけ心を覗けたらなって。そう思うようになった。
○ ○ ○ ○ ○
人里から霧の湖を隔てたところに、紅魔館と呼ばれる館が建っている。
警告色とも思われるほどの赤色に彩られ、その存在は辺りで発生している霧によって視界が悪い中でもはっきりと確認することができる。
全体的な印象としては閑静な雰囲気に包まれてはいるものの、館には常に50人は下らない程度の妖精メイドたちが右へ左へあくせくと動きまわっているため、雑多な生活音には事欠かない。
人によっては悪魔の館と呼び恐れることもあるが、館の主は比較的社交的(あくまで、他の妖怪と比べて)であり、主の機嫌が良い時には自慢の庭でティーパーティーを開催することもあるほか、そのメイドが里まで買い物に出向くことも多々あるため、里の人間たちにとってはそこまで畏怖の対象とはされていない。
そんな紅魔館であるが、今日はまた一段と異質な空気に包み込まれていた。
館内を右へ左へ歩き回っているのは、妖精メイドではなく迷彩服に身を包んだ兵士たち。
館の出入り口は物理的な衝撃を全て跳ね返す障壁によって固く閉ざされ、外部からの侵入を一切許さない。
そして何よりも大きな変化であるのが、館における玉座の間、その中心に座する人物が異なるということであった。
ゆったりとした薄手の黄色いブラウスの片手は頬杖をつき、ひざ上までのセミロングスカートから伸びる足は威厳たっぷりな組み方で、ブラウスとお揃いの黄色いリボンが巻かれたつば広帽子から覗く顔は、にんまりと不敵な笑みを浮かべていた。
胸の前に浮かぶ第三の目はぴったりと閉じられたまま、その少女は堂々たる風体で主人の椅子に座す。
紅魔館は今、古明地こいしの手によって完全に征服されていた。
○ ○ ○ ○ ○
「やられた……」
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜はすっかり様変わりした紅魔館を苦々しく見つめていた。
咲夜の勤務態度は正に完璧の一言。決まった時間に起き、決まった時間に食事を作り、決まった時間に決まった箇所の見回り、点検。今回の失態はそこを突かれた。
これまた決まった時間に午睡を楽しむ門番に喝を入れるため、館を空けた一瞬を狙われたのであった。
気づいた時には遅く、既に魔法障壁により出入り口の封鎖が為され、時を止めた所で為す術は無し。
今の彼女にできることは、隣で発せられる「大変なことになっちゃいましたねえ」という気の抜けた声に対し刃を突き立てるのみであった。
「冗談言ってる場合じゃないのよ美鈴。お嬢様がお帰りになられるまでに解決しないと」
「確かに。自分の留守中に館が奪われたー、なんて聞いたら咲夜さんへのお仕置きが大変なことに」
「まだ寝ぼけているようなら」
「お目目しゃっきりです」
この占拠事件は紅魔館の本来の主、レミリア・スカーレットの留守を狙って強行されていた。
レミリアは週に一度の頻度で博麗神社へ出かける。神社の巫女、博麗霊夢との逢瀬(思いは一方的であるが)を邪魔されたくないとのことで従者を連れることもしない。咲夜も過保護なほどにレミリアの世話をしているが、この時ばかりは館の正門で主を見送るまでに留めていた。
レミリアは普段通りならば夕食前には帰ってくる。現在の時刻は午後二時を十数分ほど回ったところ。あまりもたもたはしていられない。
「随分と本格的な障壁ですね。これを破るのは私たちじゃあキツそうですよ」
「じゃあ諦めましょう、というわけにはいかないわ。なんとしてでも中へ入らないと」
出入り口を塞ぐ障壁は複雑な魔法回路が幾重も絡まっており、本職の魔法使いでもなければ解除するのは不可能であろう。
パワータイプの美鈴でも力任せに突破することが出来ない以上、侵入には他の手段を考える必要がありそうだ。
「せめてパチュリー様が異変に気づいてくれれば……」
「図書館は無事なんでしょうかね」
「さてね。でも、相手は周到に準備してきているみたいだし、館が狙いならパチュリー様を放っておくはずがないわ」
「本読んでる間無防備ですからねー。もしかしたら今頃縄でぐるぐる巻きになってるかも」
こんな状況においても緊張感に欠ける美鈴の態度が、一層咲夜の苛立ちを募らせた。
有効な手立てが思いつかず、焦りのままに思わず歯を食いしばる。
「今に見てなさい。紅魔館は、テロになんて屈さない」
○ ○ ○ ○ ○
「参ったな。本を借りにきただけだってのに、とんだ面倒に巻き込まれたもんだ」
「あのねえ、『借りる』ってのは『返す』とセットになっているのよ。そういうことは一回でも借りた本を返してから言ってちょうだい」
「はあ……こんなことなら気まぐれで魔理沙について来るんじゃなかったわ」
紅魔館に隣接する大図書館。この図書館もまた、古明地こいしの支配下に置かれていた。
図書館の主パチュリー・ノーレッジは当然のこと、偶々訪れていた霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイドの両名を含めた計三名は図書館の中央に集められ、縄でぐるぐる巻きにされるという憂き目に遭っていた。
単なる縄の一本や二本、魔法使いである彼女たちであれば解くのは容易い。しかし、魔封の罠に掛けられた三人は今や無力な少女。もしかすると魔理沙ならば魔法なしでも縄抜けが可能かもしれないが、館内同様、所々に立っている迷彩服の見張りがそうはさせない。
「おいパチュリー、自分ちだろ早く何とかしろよ」
「無理よ。だって魔法使えないし」
「なんとかして解除できないの?」
「それができたら最初からやってるわ。でもこれは単なる魔術結界だけでなく、呪いも含まれた混成魔法のようね。私たちの魔力にしか反応しない、専用の魔封罠。そりゃあ強力だわ」
「おいおい待て待て、じゃあアレか?犯人はパチュリーだけでなく、私やアリスが今日ここに来ることも知ってたってことか?」
「そうみたいね。敵ながらあっぱれなやつ」
ふへえ、と魔理沙がため息をつく。
「あーあ、こうなったのも全部アリスのせいだ。珍しくアリスがついて来るから、今日は悪いことが起こりそうだと薄々思ってたんだ」
「いや私関係ないでしょ!それを言うなら魔理沙だって、小悪魔にお茶を催促したりして無意味に長居したじゃない!そのせいよ!」
「クッキーがあるならお茶が欲しくなるのが人間ってもんだろ!クッキー持ってきたのは誰だ?アリスだ!やっぱりお前のせいだ!」
「手ぶらで人の家におじゃまできるわけないでしょ!?常識がないのね、これだから野良は!」
「それが幻想郷の常識なんだよ!その証拠に、私は霊夢に何かを奢ったことがない」
「偉そうに言うことか!」
魔法は使えずとも口は動く。軟禁されているというストレスからか、二人はいつも以上に激しい口論を繰り広げていた。
おかしいな、とパチュリーは感じた。
これほど騒がしくしているというのに、見張りたちは二人を咎めようとはしない。騒ぐな、と一言くらいあってもおかしくはない騒々しさであるが。
試しにパチュリーがずりずりとその場を動こうとすると、見張りの一人がこちらに鋭く槍を向けた。パチュリーは同じ動きでずるずる元の場所に戻る。
おかしな動きを見せると素早く反応される。木偶の坊であるということは無さそうだ。
魔法の使えない魔法使いなど、いくら喧しかろうと問題ないと考えているのだろうか、それとも……。
などと考えていると、ふいに館との通用口が開き、小さな人影がひとつ入ってきた。その人影に見張りたちが反応し、槍先を向ける。
「おおっとっと、いやあ頼もしいねえ」
人物を確認すると、見張りたちは槍を下ろし、何事もなかったように再び周囲の警戒を始めた。
「お前、こいし!お前がやったのか全部!どういうことだ!」
「そんなに怒らないでよ魔理沙。みんなにはちょっと人質になってもらってるだけだし、用が済んだら帰す、かもしれないし」
こいしは飄々と手を振ったり回ったりしながら三人の前まで歩いていく。
「これは……意外な人物が出てきたわね」
「あなたはパチュリーさん?そんなに意外かしら。たしかに、幻想郷に居る人妖の数ぶんの一が私だし、意外と言ったら意外かも」
「いったい何が目的なの。それとも、無意識でしか動かないあなたのことだから、目的なんて無いのかしら」
「んふふ……あるよ、目的」
そう言うと、こいしは両手を上げて大きく一回転し、改めてパチュリーを見た。
「でも教えてあげなーい!」
「なっ……!」
「だって教えたら楽しみが無くなっちゃうでしょ?最後までお楽しみ!」
「意味がわからない。要求が分からなければ交渉の余地も無いわ。そうなればこうして人質を取る理由も」
「えっ?じゃあ……」
こいしが目配せをすると、見張りの一人が槍先をパチュリーの喉元ぎりぎりまで近づけた。
「人質、やっぱり要らないかなあ」
槍先がわずかに皮膚を裂き、一筋の赤が流れる。
思わず見開いた目で、パチュリーはこいしの目に映る自分の姿を見た。無邪気な光が瞬時に失せ、深い漆黒が広がっている。飲み込まれる。そう感じた。
「なーんて」
こいしが視線を外すと、見張りもまた元の位置に戻っていった。
「こういうのって人質がいてナンボみたいなところあるし、まだ殺さないよ。安心した?」
先程までと打って変わって、にぱっとした笑顔でぱたぱたと両手を動かすこいし。
どこを見ているのかわからない。次に何をするのかわからない。理詰めで動くことを良しとする魔法使いから見て、これほど相対したくない者もいない。
「おい!紅魔館がどうなろうと私には関係ないがな、こういうのは私が居ないときにしてくれないか」
「えー、だめだよ。だって魔理沙ったら放っておくと何をするかわかんないし」
「お前にだけは言われたくない!」
こいしはしばらく魔理沙をからかった後、急に大きく翻って、入ってきた通用口へと歩き出した。
「それじゃあ私は戻るから。外にいる二人もどたばた忙しそうにしてるし、もうすぐ入ってきちゃうかもしれない。こっちにばかり構ってられないの」
「おい待て!行くならせめて縄を解いてからにしろ!それと魔法も!」
「じゃーあね、魔理沙。それと、パチュリーとアリスも」
魔理沙の制止も聞かず、こいしは館へと戻っていった。
「相変わらず、わけがわからない子ね。まるでにわか雨に降られたみたいな気分だわ」
魔理沙は嵐だけどね、と付け加えながらアリスが呟いた。
「外にいる二人、ってのは咲夜と美鈴かしら。あの子たちが上手くやってくれればいいけど」
「んぐあー!誰でもいいからなんとかしてくれえ!」
図書館の中を、魔理沙の嘆きが虚しく駆け抜けていった。
○ ○ ○ ○ ○
「いい?音を一切立てずに静かに壊すのよ」
「簡単に言ってくれますけど、結構な難題だってこと分かってます?……まあ、やりますけども」
美鈴が胸の前で手を合わせ、ふうっと息を吐くと、その体に緑の淡い光を帯び始めた。
外部からの侵入を阻む障壁が館の壁にまでは行き渡っていないことに気づいた咲夜、美鈴の両名は、壁を破壊しての侵入を思いついた。どうやら術者は範囲を各出入口に限定することで強度を高めていたようだ。とはいえ正面からの突入は流石に無謀であろう。館内にもトラップが仕掛けられている可能性は高いと考えた二人は、裏手からの侵入を試みていた。
気の塊を纏ったまま両手を壁に付き、そっと力を込める。目の前の壁は、まるで砂城のように崩れていった。
「上出来」
壁が崩れきるよりも早く、咲夜のナイフは室内に居た一人目の喉を切り裂いた。
「こりゃあ、だいぶ隅々まで入り込まれてますね。10人や20人じゃ済まないかも」
「雑魚キャラが何体出てこようと無駄よ」
「雑魚は雑魚でも、どうやらしぶとい雑魚のようですよ」
美鈴の拳が咲夜の顔の真横を走り、背後の敵の頭を砕く。それは先ほど喉を切り裂かれたはずの相手。
頭部がはじけ飛んだそれは、今度こそ完全に沈黙する。
「なるほど、殺しただけでは死なないのね」
「血も出なければ気配も無い。これも魔法でしょうか」
「なんだっていいわ。私たちは首謀者をとっちめるだけ。謎解きは専門外よ」
侵入した小部屋には他に敵はいないようだった。
咲夜がそっと廊下の様子を伺おうと部屋の扉から顔を出した瞬間、槍の刃先が眼前をかすめる。既に数人が駆けつけてきていた。
「早いわね」
「あれれ。気付かれるほど大きな音たってました?」
「つながっているんでしょ。ともあれ、侵入が知られているなら気兼ねする必要は無いわ」
「あれあれ。せっかく忍び込んだのに……」
突き出される槍を躱して咲夜が後方へ跳ぶと、連中はそれを追って部屋へ押し寄せる。しかし、そんな彼らを出迎えたのは美鈴によって放り投げられた机であり、哀れ先頭の人物はマホガニーの天板と熱いキスを交わし、続く仲間たちを巻き込みながら廊下を挟んで反対の部屋へ吹き飛んでいった。
「さっ、まずはメイドたちの無事を確認しますか?それとも一気に本丸へ?」
「『さっ』じゃないわよ馬鹿。気兼ねするなとは言ったけれども、備品を壊して良いとまでは言った覚えは無い」
「まあまあ。そもそも壁を壊して入った以上、いまさら机のひとつやふたつ」
「自分で壊したものは自分で直すこと。全部片付くまで食事は無いものと思いなさい」
「うええ」
「とにかく首謀者を見つけて叩くわ。途中の敵を殲滅しながらね」
咲夜が先行し、現れる敵影にナイフを放って動きを止める。それを続く美鈴が確実に粉砕しながら進む。
時を止めながら進まないのは、完全に砕かなければ死なない相手を咲夜一人で片付けるのが面倒であることと、敵の正体が掴めていない以上能力は温存しておきたかったためだ。
実際、館内にはピアノ線トラップをはじめとしたギロチンや爆発物の仕掛けが多数巡らされていたし、続々と襲い来る敵は一向に減る気配を見せない。どこかしらの部屋の前を横切ろうとすると、そのたびに敵が飛び出してくる。罠を避ければ避けた先に罠がある。人員や罠の的確な配置に加え、それらを半刻に満たぬ間に整えきった手腕。犯人はこの日のために生半可ではない準備をしてきたに違いない。
「人の家で好き勝手してくれるものだわ」
「これ、犯人をとっちめたとしても事後処理が大変そうですね」
ちらと時計に目をやると、残された時間は多くて3時間ほど。レミリアが戻ってくるまでに犯人の撃退、館内の片付け、それと夕食の準備も済ませておかなければならない。
「全部やらなくちゃならないのがメイドのつらいところね……」
犯人を捕らえたら、痛めつけるだけでなく片付けも手伝わせてやろう。場合によってはそのまま夕食だ。今日のおゆはんは何にしよう……そういえば買い出しもまだだ。この騒ぎのお陰で行きそびれている。
考えれば考えるほど「やることリスト」が増えていくので、咲夜はひとまず思考に蓋をし、目の前の問題に意識を集中させることにした。
○ ○ ○ ○ ○
こいしは館の2階、主の椅子に腰掛けながらぼうっと宙を見つめていた。
二人の侵入者の相手は向こうでやってくれているし、彼女らはいずれここまでたどり着くだろう。向こうから来てくれるのだから、こちらから出向く必要は無い。
それに、こういうとき首謀者は動かないものと本には書いてあった。今はどっしりと構え、彼女がやってくるのを待っていればいい。自分の番はそれからだ。
こいしの思惑を達成させるまで、まだ全ての準備が整ったわけではない。だが準備を整えるための計画はかなり綿密に練ってきたつもりだ。今回の計画はどうしても成功させたい。
焦れる心をごまかすように、両足をぱたぱたと揺らしてみる。
こいし自身、今回のように自分が何事かを為すために専心するというのは珍しいことだと感じていた。そのために、他人へ慣れぬ頼み事までした。
何が自分をこうまで動かすのだろう。
そこは自分でも分からない。なんとなくしか分からない。
このとき、こいしは気付いていないことであるが、瞳を閉じて以来は自分自身さえ認識できなくなったこいしにとって、たとえ「なんとなく」であっても自分を意識するということは正に目を見開くほどの変貌であった。
分からないことをいつまでも考えたところで分からない。自分はしたいようにしているだけだ。その点においてはこれまでと何も変わらない。
こいしが自分の中でとりあえずの結論にたどり着いた丁度その時、正面の扉が静かに開き、メイドの鋭い眼差しがこいしを睨みつけた。
「ずいぶんと可愛らしいテロリストですわね。でも、少々おいたが過ぎるよう」
「そうよー、私はテロリスト。だけど今は主人の椅子に座っているわ。メイドはお茶を出しなさい?」
「それは失礼しました。本日のお茶請けは自慢の純銀となっております」
瞬間、咲夜のナイフがこいしの首筋にあてられた。
犯人の素性が割れた以上、出し惜しみは必要無くなった。あとはこのくだらない騒ぎを終わらせるだけ。
「話して分かるかどうか知らないけれど、一応言っておくわ。今すぐこの遊びをお開きにするか、お仕置きされてから終わりにするか、選びなさい」
閉じた瞳、古明地こいしの話はパチュリー様から聞いている。無意識を操る程度の能力がどれほど恐ろしいか、体験したことは無いが用心は重ねておくべきだ。
咲夜はこいしから目を離さぬまま美鈴に合図すると、美鈴は扉の前、この部屋唯一の出入口の前に陣取った。これでたとえ隙を突かれようとも逃げることはできないだろう。
自身は目の前のこいしから決して目を離さない。美鈴は何があっても扉を守る。無意識を操ると言えど、時を止められでもしない以上不覚を取ることはありえない。
「黙ってないで何か言いなさいな。だんまりなら、返答は私が決めるわよ」
これ以上時間をかけるつもりは無い。見た目は少女でもその実は凶悪な妖怪。ナイフの一本や二本、刺さった所で死にはすまい。
「これが最後。遊びはお開き、いいわね?」
「そんなに見つめられたら照れちゃうよ」
決まりだ。この少女は私を一緒に遊んでくれている優しいお姉さんか何かと勘違いしている。
咲夜のナイフに力が入る。
しかし、それ以上腕が動くことはなかった。
「なっ――!」
気づいた時には既に遅し、今や咲夜は全身を縄で括られ、こいしが座っていたはずの椅子に縛り付けられていた。
何が起こった。自分は確かにこの少女に全神経を向けていた。一瞬たりとも気を抜かなかった。なのに!
「すごいんだね。本当に私以外に目を向けてなかった。視線だけで死んじゃうかとまで思ったよ。見殺し?」
そう言いながらこいしは、先程まで確かに咲夜が持っていたはずのナイフをくるくると弄んでいる。
「でも、そのせいで自分がいつの間にか縛られているのに気が付かなかったんだねー。どんまい!」
馬鹿げている。そんなことがあるわけない。
しかし事実として自分はこうして身動きが取れない状況に陥っている。認めたくはないが、自分はこの少女の能力を見誤っていた。
没我。これが無意識を操る程度の能力の本領であった。
無意識を操ると聞いて、てっきり意識を逸らされるとばかり考えていたが、その逆をされた。
自分の意志でこいしを見ていると思いきや、こいしによって目を逸らせなくされていたのだ。
……そうだ、美鈴!美鈴は何を――。
「…………すぴー」
すぴー?
「こっちの背の高いお姉さん、寝ることしか考えてなかったよ。だからこの通り」
こいしがぷにぷにと指でつついても起きる気配が無い。
無意識とはつまり潜在意識。さらに言えば本能的な欲望に近い。美鈴はこいしによって無意識を表層に浮かべられた結果、他の一切を捨てて睡眠モードに入ってしまったようだ。きっと今頃は幸せな夢を見ていることだろう。もはや咲夜は言葉も無かった。
己の不甲斐なさからほんの僅かに目を伏せた瞬間、こいしの顔が鼻先ほどの距離まで近づいていた。
体ごと傾けてこちらを覗きこむその顔は、目尻は下がり、口角が上がっているものの、はたしてそれは笑顔なのかそれ以外なのか、咲夜には判断ができなかった。
「これであなたたちも私の人質ね?」
ただひとつ、悔しいことに現在自分の運命はこの少女が握っているということだけは確かであった。
○ ○ ○ ○ ○
そもそも今日はなんだか悪い予感が脳裏を掠めていた。
新調したばかりのシャツのボタンが早速ひとつどこかへ去っていたし、朝食のスープには私の嫌いなブロッコリーが気持ち多めに入っていた。だからきっと今日は星の巡りが悪い日なのだろう、と心の隅っこのほうで軽く覚悟はしていた。
だけどまさか、謎の軍団が自分の家に乗り込んできて占拠されるだなんて誰が予想できたのでしょう。そこまでの覚悟はしていない。
廊下からの破壊音が和らいだのを確認し、小悪魔はホール階段下の物置からそっと顔をのぞかせた。
「安全確認よーし」
きょろきょろと視線を動かして人影を探る。どうやらこの辺りの敵は咲夜たちが片付けていってくれたようだ。ひとまずの安全が確保され、ほっと胸を下ろす。
特に用のない限り図書館から外に出ない小悪魔がこうして埃っぽい物置に身を隠すはめになったのは、もとはといえば魔理沙のせいであった。客人として訪れていた魔理沙が、同じく図書館に訪れていたアリスの持参したクッキーを見るやいなや、「そういえばこの図書館は客人に茶も出さないのか」などと喚きだしたのである。さらに悪いことに、常備してあるお茶の葉を丁度切らしていた。
あの白黒め、パチュリー様に無礼な物言いをするのみならず私を顎で使うなんて。
小悪魔はあくまでパチュリーの使い魔であり、本来ならば彼女以外の命令を聞くつもりなどさらさら無い。
そのまま魔理沙の要求を無視して本棚整理を続けていても良かったのだが、地団駄を踏まんばかりの勢いに呆れたパチュリーが直々に頼んだことで小悪魔も折れた。
茶葉の換えを求めてしぶしぶ紅魔館まで足を運び、そして今に至る。
茶葉が保管してある物置までたどり着いた途端、召喚陣が館のあらゆる所に出現し、迷彩服の連中が続々と飛び出してきた。身の丈ほどの槍を仰々しく構えた連中は辺りのメイド妖精たちをつつき回すと、まとめて大食堂へ閉じ込めてしまった。それを見て慌てた小悪魔は咄嗟に物置の鍵を閉め、ほとぼりが冷めるまで籠城を決め込むことにした。
小悪魔とて悪魔の端くれ、本気で抗戦すれば雑兵などに遅れを取ることはない。しかし基本的に小心者の性質を持つ彼女が「戦う」という選択肢を早々に排除したことは仕方のない事でもある。小悪魔はお茶の缶を抱えて小一時間ほどぶるぶると震えていた。
暫くの間は見回りの足音に一々怯えていたが、ある時からどたんばたんとけたたましい音が聞こえ始めた。乱暴に扉が開く音や刃物の擦れる音、さらには爆発音まで聞こえるものだから小悪魔の心拍は一層激しいものとなっていった。
ああ、ひょっとしたら総出で私のことを探しているのかもしれない。
どうしたものか、とひとまず物置内の机やら棚やらでバリケードを作っていたところ、騒音の中でもよく通る声が小悪魔の耳に入った。咲夜の声だ。
成程、今の時間はレミリアが出かけている頃だから咲夜が鎮圧に動いているんだ。駆けていく足音が二つあることから、きっと美鈴も一緒なのだろう。
急に心強く感じた小悪魔は、こうしてはいられないとばかりに自分で作ったバリケードを片づけて外への一歩を踏み出した。
物置を後にして、はじめに気になったのはパチュリーの安否であった。紅魔館がこの様子なのだ、図書館も放って置かれてはいないだろう。
まさかパチュリー様に限って連中に遅れを取るようなこともあるまいが、万が一ということもある。こちらの片付けは咲夜たちに任せることにし、小悪魔は足早に図書館へ向かうことにした。お茶の缶はしっかり抱えたままだ。
紅魔館の廊下は凄惨たる有様であった。頭や胴を砕かれた迷彩服たちがモノのように転がっているし、トラップの跡なのだろうかギロチンは床に刺さっているわ絨毯は焼け焦げているわ。これを一体誰が片付けるのだろう。小悪魔は同じ状況の図書館を想像して背筋が寒くなった。
幸い、館内に蔓延っていた連中のほとんどが咲夜たちによって倒されていたおかげで、余計な危険に晒されること無く図書館との連絡口までたどり着くことができた。あとは扉一枚隔てた先が図書館であるが、ドアノブに手をかけようとした小悪魔の手がふいに止まった。
何かを感じ取ったわけではない。ただ、今日の自分は星の巡りが悪いということを思い出した。果たして扉の先は私にとって幸と言える場面が待っているのだろうか。
逡巡の後、小悪魔はお茶の缶を扉の横にそっと置くと軽く息を吐き、覚悟を決めてドアノブをぐいと回した。
居た。パチュリーだ。魔理沙とアリスも一緒に、縄で縛られてぐるぐるになっている。3人は扉の開いた音に気づき、一斉に顔を向けた。
「右!小悪魔!」
パチュリーが叫ぶ。どうやら扉のすぐ横に待機していたらしい迷彩服の見張りが、小悪魔に向けて槍を突き入れようとしていた。しかし、その得物が届く前に迷彩服は小悪魔の一撃を受けて沈黙する。
やはり予感は当たっていた。予め魔力を溜めておいたおかげで咄嗟の攻撃に対応できた。
突如現れた小悪魔を排除しようと、図書館内の見張りたちが一斉に襲いかかる。
「私のパチュリー様に危害を加えたな……!」
普段の小悪魔は人から見るといまいち責任感に欠ける印象を受けるようだが、ことパチュリーに関しては話が変わる。咲夜がレミリアを命がけで守る覚悟であるように、小悪魔もまたパチュリーに対しては単なる主従以上の感情を抱いていた。他の連中は最悪どうなっても構わないが、パチュリー様に手を出すことは許さない。
紫水晶を思わせる褐色の魔力を纏い、次々と襲い来る敵を無双の活躍でなぎ倒す。口元から時折覗く白い牙と威圧するようにはためく翼が、彼女を悪魔然とさせていた。
「おおお、やるじゃないか!いいぞー!その調子だー!」
一人、また一人と撃破していく思わぬ助け舟の活躍に魔理沙から歓声があがる。小悪魔としては魔理沙に褒められたところで嬉しいともなんとも思わないが、その隣で静かに見守ってくれている主の視線はこれ以上無いほどの力を自分に与えてくれる。一々態度に表す必要は無い。声に出す必要も無い。そこに居てくれるだけで、私はどんな敵にだって立ち向かえる。だから、見ていてください。貴女の敵は全て私が排除してみせます。
最後の一人が繰り出す槍を牙で受け止め、そのまま噛み砕く。怯んだ相手の腹部に掌底の要領で魔力を直接ぶつけると、兵士は激しく後方へ吹き飛び、図書館の壁に激突してそのまま動かなくなった。
敵勢力を殲滅したことを確認した小悪魔は、じんわりと汗の浮かんだ笑顔を愛する主へ向けた。
「おまたせしてしまい、大変申し訳ありませんパチュリー様。すぐに縄を解きますからね」
「助かるわ。それと、呪いに関する本をありったけ探して持ってきて頂戴。いつまでも魔法が封じられている状態は堪えるわ」
「かしこまりました。すぐに――」
主人の拘束を解こうと駆け寄る小悪魔の膝から力が抜け、そのまま崩れるように図書館の床へ倒れ伏した。小悪魔の右足にはぽっかりと穴が空き、噴き出す赤色がどくどくと血溜まりを形成する。
「小悪魔!?」
小悪魔の足を穿ったのは直径5センチほどのレーザー弾。そしてそれは、今まさに駆け寄ろうとしていたパチュリーの背後、アリスの肩に浮かぶ上海人形から発射されたものだった。
「はあ……やっぱり戻ってくるのを待ってから始めるべきだったのよ。おかげで計画が台無し」
「アリス!お前何やって……!」
「あーはいはい。言いたいことはあるだろうけどちょっと黙ってなさい」
アリスはするすると自分の縄を解き、やれやれといった表情で立ち上がる。いつの間にか展開されていた小さな人形たちは一人が手鏡を持ち、一人が櫛を持ち、拘束されていたフリのおかげで乱れたアリスの身だしなみを整えていた。
「畜生、お前もグルだったのかよ!卑怯だ!陰湿だ!人でなし!悪魔!」
「いや、そもそも人じゃないし。それに悪魔はそっちで寝てる」
感情に任せた魔理沙の罵詈雑言を適当にあしらいながら、アリスは倒れている小悪魔に近寄るとポケットから1枚のクッキーを取り出して小さく砕きながら小悪魔の口に流し込んだ。既に青色吐息の小悪魔にはクッキー1枚であっても飲み込むのに難儀したが、なんとか喉を抜けていったようだ。
その光景を、魔理沙はわけが分からないといった表情で、片やパチュリーは合点のいった表情で見つめていた。
「なるほど、そういうことね」
「そ。陣を張ると気付かれちゃうから、だったら直接体内から封じちゃえばいいと思って」
「まさかクッキーに魔封罠を仕込んだのか!?うげぇ、もうお前の作った菓子は絶対食わないからな!」
「作るのすごい大変だったから、もうやらないと思うわ」
「信じられるか!うえー、ぺっぺ!誰かうがい薬をくれ!」
口を動かしながらも、アリスは人形を操り手際よく小悪魔を縛り上げていく。
「はい一丁上がり。止血はサービスよ」
「まさか貴女まで一枚噛んでいたとはね。うちを乗っ取ったところでどうするのか聞いてみたいところだわ」
「あら、この図書館が丸々手に入るのは理由として十分過ぎるほどだと思うけど」
「おいこら!私の図書館に手を出すなよ!」
「私のよ」
どのように状況が移り変わったとしても自分のスタンスを崩さない魔理沙に、アリスは一種の潔さのようなものを感じた。というよりむしろ呆れ返っていた。
「まあ、確かにこれらの蔵書は魅力的だけども、きちんと報酬は別で貰ってるから心配しなくていいわよ。私は技術提供と簡単な補助だけで、それ以上関与するつもりは無いし」
「……彼女は何をしようとしているの?」
「んー?そうね……」
アリスは一考するように指先をあごに当て、おぼつかないまま答えた。
「あの、あれ、娘さんを僕にください!……ってやつ?」
「こっちに聞かれても困るわ」
○ ○ ○ ○ ○
初めにこの感情に気が付いたのはいつのことであったか。
それは暖かく心地よいようで、また自身の中で靄が渦巻くようなすっきりしない混沌も生み出していた。
この暖かさは知っている。まだ私の目が開いていた頃に感じていたぬくもり。お姉ちゃん。私のたった一人の家族。私を優しく受け入れてくれる安らぎ。
この混沌は知らない。ぐるぐると悩んでいるうちにどんどん深みに潜っていく感覚。知りたい、知りたい。あの子が何を考えているのかを知りたい。何をすれば喜んでくれるのかを知りたい。今の私には知り得ない。かつての私ならば簡単に分かることなのに。
いくら考えた所で確実な答えにはたどり着かない。
だから私は考えない。したいことをしたいように、いつもどおり本能のままに動けばいい。きっとそれが私にとっての最善なんだ。そう思ってここまで計画を進めてきた。
――だけどちょっとだけ怖いな。
古明地こいしによる紅魔館乗っ取り異変の発生から4時間あまりが経とうとしていた。既に日は傾き始め、鋭い西日が紅魔館を更に紅く染めていく。
今や館中をところ狭しと徘徊していた迷彩服の集団はその全てが活動を停止し、館を本来あるべき姿に戻そうと奮闘していた住人たちも忸怩たる思いで拘束されていた。
山の方から時折聞こえるカァカァという烏の鳴き声の他は何も聞こえない、静寂の時間が流れていた。
静まり返った紅魔館の中でも、特に冷えた空気を帯び続ける空間。地下室に彼女たちは居た。
「……それ、本当なの?こいし」
「うん。メイドも門番も魔女も、みんなやっつけたよ。あとはフランのお姉ちゃんを待つだけ」
可愛らしいフリルをふんだんにあしらった天蓋付きのベッドに腰掛けながら、二人の少女は話を続けている。
フランが寝起きするこの地下室は、見渡せばふわふわのぬいぐるみやふかふかのクッションがそこかしこに配置されているなど、部屋の主の見た目相応に少女染みたレイアウトになっている。絨毯やカーテンなどが紅を基調とされているのは姉と似通ったセンスであるか。
ただし、そのカーテンは常に閉じられており、開けた所で眼前に広がるのはごつごつと硬い石壁。壁紙が貼られているわけでもなく、絨毯をめくれば壁と一続きになった石床が顔を出す。
ファンシーなピンクと無骨なグレーが同居するその空間は、実に異質という言葉で表す他無い。
「もう少しで外に出られるよ。そうしたら、二人でお出かけしようよ。美味しいものもいっぱい食べよう?」
「やっとこの部屋から出られるのね?私、行きたいところがたくさんあるの。森に、湖に、山に……神社にも一度行ってみたい!まん丸い月の空をおもいっきり羽を伸ばして飛ぶのもいいわね!」
「なんでも出来るんだよ。外に行けば、したいことをしたいようにできるんだから」
「素敵。したいことなんていくらでもあるのよ?あれもこれも……いざとなると何から手を付けていいか分からないくらいだわ!」
実姉であるレミリアによって地下に閉じ込められて久しいフランは、外を自由に飛び回る自身の姿を思い浮かべ、いつの間にか興奮のあまり立ち上がってしまっていることにも気付かない様子であった。したいこと、行きたい所、見たいものなどを大きな身振り手振りでこいしに説明する。そんなフランの姿を、こいしは相槌を打つように小さく首を振りながら見つめていた。
フランを見ている間、話している間、こいしはいつもの自分とは異なる自分を自覚する。もはや成ることのできない自分。かつて置いてきたはずの自分がそこに居た。
ふいに、フランはそれまでの元気を失ったように肩を落とし、こいしの隣にそっと座り直した。
「……でも、やっぱり無理よ。あいつが許してくれるはずがない」
「そんなことないよ。フランのお姉ちゃんがいくら怖くたって、これだけやればきっとぎゃふんと言うに決まってるよ」
「そう簡単にいくなら、私はとっくに自由の身だわ」
「そんなことないって!」
こいしはフランの両手を包むように握り、自分の側に引き寄せながら声を張り上げた。
「全部私に任せて。絶対、外に出られるから。私が出してあげるから」
「……うん」
ほんの一瞬、フランはこいしの瞳に光を見た。きっと燭台の火がこいしの勢いで揺らめいたせいだと思った。
こいしはフランの体をそっと抱いた後、満足したように立ち上がって地下室の出口へ向かった。背後から呼び止める声が聞こえる。
「私ね……こいしのお家にも行ってみたい。良い、かな?」
瞳を塞ぎ、姉の制止も聞かずに家を飛び出して以来、こいしは今日まで放浪の日々を過ごしてきた。姿を隠して時折様子をのぞきに行くことも有りはしたが、“帰る”ということはなかった。
果たして地霊殿は今でも自分の家と言って良いものか。
逡巡したが、こいしは振り向いて笑ってみせた。安心したように、フランもまた笑顔を見せた。
これでいい。私はしたいことをしたいようにするだけだ。今したいこと、それはフランの笑顔を見ること。迷う必要は無かった。考えるまでもなかった。
いっそのことフランをお姉ちゃんに紹介してやろう。あの姉ときたら、どうせ今も友だちなんて居ないに決まってる。私が友だちを連れて帰ったらどんな顔をするだろう。
したいことが増えた。見たいものが増えた。
こいしの足取りは自然と軽くなり、ついにはつま先が床から離れて宙を舞う。
時計の時刻は午後6時。もうすぐ悪魔が帰ってくる。
悪魔を待ち構えるために2階の主の部屋に戻ると、シックな丸テーブルにティーセットを広げたアリスに出くわした。
「あれ?捕まったフリはもうやめたの?」
「やめざるを得なかったのよ。もう、無関係を装うはずが散々だわ」
今回の計画をこいしが持ちかけた時、当然といえば当然であるが、アリスは協力するつもりなど微塵も持ち合わせていなかった。
ある日突然『テロリズムのひみつ』という一冊の本を抱えながら「紅魔館をのっとるから手伝ってほしい」などとのたまう少女に対して、アリスは呆然とした目線を向けることで答えた。たかだか一度会っただけの(それも人形越しに)相手からテロのお誘いを受け、二つ返事で了承するような阿呆がどこにいるものか。と、言いつつもそんな阿呆に心当たりがあったので、そちらにお願いしてはどうかと聞いたところ、ライバルが増えるのは嫌だと言う。
こいしの主張するところによると、テロを実行するためには館一つ占領するだけの人員が必要であり、且つ相棒は仕事のみの付き合いとなるドライな職人気質な人物が好ましい(ここは本の影響か)と言う。それらの条件にピッタリマッチするのが他でもないアリスであり、恥を忍んでお願いに来たのだとか。
それでも頑なに断り続けたアリスであったが、報酬に、と差し出された数冊の本を見たことでついに折れた。どこで見つけたのか、目の前に置かれた本のどれもが超貴重な魔導書・呪術書であり、おそらくパチュリーの図書館にすらコレほどの代物は滅多に無いであろう。魔理沙に見せようものならば持ち主を殺してでも奪いとろうとするかもしれない。少なくとも恋符を撃たれるのは間違いない。
こんなレアな品をどこで、と聞くと、地底の古本屋で手に入れたのだと言う。なるほど地底か、こんな素晴らしいものが転がっているのなら、あの時無理してでも自分で行くべきだったかしら、と思案するアリスにこいしは再度協力を求めた。
悩んだ末、協力こそするがアリスはあくまでも無関係を装う、という約束の下にアリスはこいしの提案を受け入れたのであった。
「それにしても咲夜にしろ小悪魔にしろ、随分と派手に壊してくれたもんだわ……人形一体作るのも楽じゃないのよ」
「その割に役に立たなかったね」
「そりゃそうでしょうよ。私が直接操ったのならともかく、自動操縦ならせいぜい妖精を追いかけ回すのがいいとこ」
紅魔館中をところ狭しと埋め尽くしていた迷彩服の兵士たちの正体は、もちろんアリスの人形である。素体に服を着せただけの急ごしらえな一団であったが、こいしの能力で詳細をうやむやに認識させることにより、謎の即席魔法生物の出来上がりだ。アリスがこいしに協力した理由の一つには、これら人形の自動操縦の精度の実戦テストとオリジナルトラップの実験を行なうということも含まれていた。
「私の役割は果たしたわ。あとは手を貸した手前、顛末を見届けたら適当に引き上げるから」
「うん、お疲れ様。後は自分でやるから大丈夫だよ」
「ところで、カモミールティーを淹れたのだけどどうかしら。リラックスするわよ」
「私の場合、紅茶を飲むとおトイレが近くなるから」
「それは残念」
アリスがカップに口を付けたのとほぼ同時に、階下から強烈な轟音が鳴り響いて館中を震えさせた。ぱらぱらと天井の一部が崩れ落ちる。
「さ、怖い怖い悪魔のお出ましよ。ここまで来たら腹括らないとね」
腹を括るだとか、覚悟するとか、そういった心構えはこいしとは全く無縁なものだ。こいしは気負わない。こいしはいつだってどこだって、したいこと、みたいもののために。
今は、あの子の喜ぶ顔を見たいがために。
○ ○ ○ ○ ○
幸せというものは、ついついお裾分けしたくなるものだ。
だから、今日に限っては些細な無礼などは寛大なる態度でもって許してやろう。変に怒ってこの気分が台無しになってしまうのは自分としても不本意だ。
勝手に持ち場を空けている門番。許す。
見慣れない魔法障壁。仕方ないから壊そう。
主の帰りを出迎えない従者。忙しいのかな?
見る影も無い内観。……地震でもあったか。
ホールから2階へと伸びる階段の上でにやにやと気味の悪い笑みを浮かべながら私を見下している何処の馬の骨とも分からぬ下衆で卑俗な小娘。
空気を震わせたビキッという音はレミリアの血管が引きつる音か、その足元の床が砕けて跳ねた音か、あるいはその両方か。天狗すらも追いつけぬであろう瞬間速で宙を駆けたレミリアは、その速度のままこいしの首に手を掛けて背面の壁に叩きつけた。壁はまるで砲弾の直撃でも受けたかのように大きく抉れ、波状に伸びたヒビが端まで届いている様子から、その衝撃の強大さが窺い知れる。
しかしそれでも尚、こいしは笑みを浮かべたままレミリアをじっと見つめていた。その態度が、レミリアの怒りを一層募らせる。
「せっかくの良い気分がこれではぶち壊しだ。それもこれも、全部お前のせいなんだな?」
「そら、そう、よ。一つ言わせてもらうなら、その質問はこうして襲いかかる前にされるべきものじゃない?」
こいしの言葉の前半はレミリアの目前から、そして後半はレミリアの背後から向けられたものだった。違和感に気づいたレミリアが咄嗟に振り返ると、両手を後ろに組みながら軽く首を傾げるこいしの姿。今にも首をへし折ってやろうと押さえつけていた相手が知らぬ間に抜け出している。そんな奇怪な状況が、逆にレミリアの脳の冷却装置を作動させた。一瞬で昇り詰めた血が徐々に降りていく。
「今来たばかりのあなたに状況を説明してあげる。この館は私が貰ったわ。つまりあなたの立場は館の主なんかじゃなく、ただのお客さま。それも、とびきりマナーが悪い、ね。ここまではOK?」
レミリアは口を閉ざしたまま、視線で続きを促す。
「それで、あなたの態度しだいでは館とメイドたちを返してあげてもいいわ。私が欲しいのはひとつだけなの」
「悪魔と取引か?面白い、言ってみろ。こうまでしてお前が手に入れたいものとは何だ?」
「フランドールを私にちょうだい」
こいしの提示した条件に、レミリアは僅かに驚いたような表情を見せたものの、ふいに吹き出して高笑いを響かせた。
「成程ね、つまりは全部あいつのおふざけだったと。しまったな、私としたことがつい本気で怒ってしまうところだった。いやあ参った。しかし姉をからかおうとするのは良くない。館を滅茶苦茶にしたのもいただけないな。これは一度、キツい灸を据えてやらないと」
「おふざけなんかじゃ――」
真横をすり抜けて行こうとするレミリアをこいしが引き止めようと手を伸ばす。しかしその手は空を切り、指先に鋭い痛みが走った。慌てて引っ込めると、指の肉が数ミリ抉られている。もう少し手を伸ばしていたならば指をまるごと持っていかれたことだろう。レミリアは歩みを止めないまま話を続ける。
「お前たちが本気であろうとなかろうと、私からすればガキのお遊びだ。つい早とちりしてしまったが、今日は機嫌が良いから見逃そう。とっとと消えろ」
館内が半壊していたのには驚いたが、仕掛け人が分かってしまえばなんということもなかった。妹のワガママが原因なら気にするまでもない、まだレミリアの一日は「霊夢に会えて良かった」という感想のまま終わることができる。聞き分けの無い妹への仕置はさておき、今は幸せを抱きながら眠りに就きたい。そんな折、レミリアの歩みは絡みつく茨によって妨げられた。
「あなたが本気にしようとしなかろうと、私はフランドールを頂いていくわ。拒否しないってことは、了承と受け取っていいのよね?」
それはこいしにしては珍しく、挑発の意図を含んだ物言いであった。周囲に展開された黄色い薔薇の弾幕は、既にその先を見据えた布陣を敷いている。物々しい茨のトゲも隠す必要は無い。もとより話の通じる相手では無いと理解していたこいしは、弾幕ごっこによる決着を最初から想定していた。それが「ごっこ」の範疇に収まるかどうかはレミリアの出方次第であったが。
茨が自身の腕にきつく絡みつき、その腕から赤い雫が薄く流れる様子を眺めながら、ついにレミリアは小さなため息を漏らした。
口を開けばワガママばかりの妹も大概だが、このガキも相当なものだ。類は友を呼ぶとは言うが、どうしてこいつらは私の話を聞いてくれないのか。私はお互いにとって最良の条件を提示したはずなのに。やつらが素直に条件を飲んだならば、私はこのまま安らかな気持ちでベッドに入ることができる。あのガキはお咎め無しで家に帰れる。ここで敢えて私を引き止める理由があるのか?
そもそもフランを地下に閉じ込めているのだってあいつのためを思えばの処遇なのだ。まだ能力を十分に制御できないままフランの外出を許せば、必ず何かしらのトラブルが起こる。トラブルが起これば霊夢が飛んでくる。白黒も飛んでくる。もしかしたら八雲や山の神も飛んでくる。フランは私から受けるもの以上のキツい仕置を受けることになるし、霊夢の私への心証も悪くなる。ほら、フランが外に出るだけでみんなが損をするじゃないか。私は紅魔館の主として、皆が幸せになるための正しい判断をしている。
それなのに、こいつらは私に歯向かうのだな。
私の気も知らずに全てをブチ壊しにしようとするのだな。
「わかった。お前らの気持ちはよくわかった。うんうん、すっごくわかった。理解した」
レミリアはこいしに背を向けたままもう一度、今度は深い溜息を吐くと、それに呼応するかのように紅色の妖気がじんわりと彼女の全身からにじみ出る。レミリアの体を縛り付けていた茨は妖気に触れたところから音もなく燃え尽き、落ちていく。
その様子をじっと見つめていたこいしは、両手を高く掲げて臨戦態勢に移った。
「聞き分けの無いガキは」
「頭の硬い姉は」
「「体に直接分からせるッ!」」
スペルカードの宣言は無い。火花が散り瓦礫が舞う、他所の姉と他所の妹による熾烈な姉妹喧嘩が今、幕を開けた。
○ ○ ○ ○ ○
「人形……?」
上階から聞こえる明らかな戦闘音に不安を駆られながら、落ち着かない気持ちでベッドに寝転んでいたフランの元に、1体の人形が現れた。
青いエプロンドレスに真っ赤なリボンをあしらった可愛らしい人形。だけども、フランには見覚えがない。
「あなた、いったいどこから……」
言い切る前に気付く。扉が開いている。
この人形が開けて入ってきたのか。いったい何のために?そもそもどうして人形が一人で動いているの?
疑問は尽きないが、はっきりしているのは扉が開いているということ。上で争っているはずのこいしとレミリアの状況が知りたい。
こいしの実力は未知数であるが、実際のところ、それでもレミリアを上回るとは思えない。
ここでフランが飛び出し、こいしに加勢したならばきっとレミリアを倒すことができるだろう。そうすれば、今度こそ外に……。
しかし、フランは迷っていた。
外に出たいという気持ちは本物だ。こいしと共に自由に飛び回れたら、それはどんなに素敵なことだろう。見たいもの、知りたいものはたくさんある。
が、力で手に入れた自由を十分満喫した、その後は?帰る場所を自ら破壊した、その後は?
様々な思考が脳を駆け巡り、その重さにフランは俯いて床に目を落とす。
外に出たい、星を見たい、風を受け止めたい、自由が欲しい。そう何度も何度も叫んできた。そのための衝突も多々あった。
なのに、いざ手の届くところまで近づくと尻込みしてしまうのはどうしてだろう。今すぐ飛び出したいはずなのに足が止まるのはどうしてだろう。
小さな人形は、ただじっと佇んでいる。扉を開けたのは彼女であるのに、来い、と促すこともせず。
自分で決めろ、ということか。
ここで外に出ることを選んだなら、二度とここには帰ってこられない。ここで歩みを止めたなら、二度と外には出られない。
自分と向き合うことをせず、ただ盲目的にワガママを訴え続けた、そのツケが今まわってきたようだ。
おでこをごんごん突いてみても、思考の整理はまるでつかない。
そういえば、こいしは何て言ったっけな。自分のしたいようにしてるだけ?
自分のしたいように、してるだけ。
私の本当にしたかったことって?
途端、地響きと共に唸る衝撃音がフランを思考の渦から引き戻した。
そうだ、考えるまでも無いことが一つだけあった。
フランは自分の両頬をぴしゃっと叩き、確かな表情で前を向いた。
答えはまだ出ていない。それでもフランは走りだす。大切な友だちのために。失ってはならないもののために。
○ ○ ○ ○ ○
そんなフランの様子を、アリスは人形の目を介しながら観ていた。
「まったく、ここまでアフターケアに気を使う魔法使いなんて他に居ないわ」
ここまで首を突っ込むつもりなど無かったはずなんだけど。
さあ帰ろうか、などと思ったものの、エスカレートする一方で収まる気配の無いレミリアとこいしの戦いに見かねたアリスは最後の手助けをすることにしたのだ。
今度こそ仕事を終え、持参したティーセットを鞄につめつめ帰り支度をしているところに、フランのところへ遣ったものとはまた別の人形が戻ってきた。
「お帰り。やっぱり動き出したのね。そうじゃないかと思ったのよ」
スペルカードも無しにぶつかりはじめた二人を見てから危惧していたアリスの予感は見事に的中した。こうなれば、もはやこれ以上の長居はできない。
「上海が戻ったらすぐに出ましょう。あなたも片付けを手伝ってね、蓬莱」
報酬分の働きは果たした。後始末は当事者たちに任せるとしよう。それにしても今回の自分は随分と世話を焼いたものだ。
これも無意識の何かかしら、と思案しつつ、魔法使いは館を後にした。
○ ○ ○ ○ ○
茨ごと引き裂かれた薔薇は焼け焦げてはらはらと散り、砕かれたハートが床に壁に突き刺さる。
弾幕ごっこの範疇を超えた全く無遠慮の弾幕を放ってはいるものの、その全てが容易く迎撃されてしまう。
レミリアの携える妖力の具現、紅魔を体現するかのような真紅の神槍、グングニルによってこいしの弾幕は尽く打ち払われてしまっていた。
あのグングニルはあまりにも強力だ。たったの一振りで周囲の弾幕をかき消し、それがそのままこいしの眼前を掠めていく。攻防一体の紅い閃光。まだこいしはレミリアから一撃も貰ってはいないが、その一撃はそのまま戦闘の終わりを告げるだろう。
ただし、こいしも防戦一方というわけではない。正面から展開した弾幕は通用しないものの、レミリアの意識外から放った弾幕はレミリアを捉えている。背に、足に、肩に、有効なダメージは確かに与えている。このまま続けていけば必ず相手はヒザをつく。
僅かな希望と焦りを含んだ瞳でレミリアを見つめる。当のレミリアはグングニルを小脇に抱えながら、足を止めて何かしらの思案をしている風だ。
「ちらちらと消えたり現れたり。実に鬱陶しいやつだな、お前は」
本来ならばこういった細かい類の相手は咲夜がなんとかするはずなんだがな。一体どこで何をしているのやら。
一度は激昂したレミリアであったが、いくら槍を振るおうと捉えられない相手を前に、段々と冷静さを取り戻し始めた。もともと彼女には、物事が行き詰まったりして上手くいかなくなると一旦思考をリセットする癖がある。そのまま続けても埒があかないため、落ち着いて適当な相談相手に意見を求めたりするのが常であった。大体の場合、その相談役とはパチュリーなのであるが、今は居ない。ならば、ここは自分が知恵を絞らなければ。
消える、ということは超スピード?はたまた超能力?まさか、咲夜のように時を?
超スピードではありえない。なぜなら、自分の眼がその程度で対象を見逃すはずがないからだ。
では超能力は?瞬間移動か、透明化か。いずれにせよ気配くらい察知できる。
時を止める?弾幕の展開され具合から見てそれは無いな。
ならばいったいどういうトリックであるのか。
ううむ、とレミリアは頭を悩ませる。この間にもこいしの弾幕は止むこと無くレミリアを襲い続けている。持久戦は旗色が悪そうだ。ならば。
レミリアはぶんとグングニルを大きくなぎ払うように一周させ、勢いのままに床に突き刺した。
「そのコバエのような戦法に付き合うのはもう止めた。ここからは、吸血鬼流だ」
吸血鬼流?とこいしが一瞬躊躇する。その一瞬が、レミリアには十分過ぎる間隙であった。
レミリアは目を閉じ、両手を真横に真っ直ぐ伸ばした。同時にグングニルが血色の閃光を放つ。
「不夜城、レッド」
レミリアの宣言が終わるが早いか、閃光は空間を埋め尽くし、こいしの眼前を真紅に染める。
吸血鬼流とは圧倒的な力。何処へ行っても逃げることができない、無慈悲な物量。ただそれだけである。
「しまっ……!」
こいしがそれに気付いたのは既に紅に飲まれてから。身を焦がし、芯を抉るレミリアの妖気に為すすべなく晒される。
ああ、ダメだったか。自分には、あの子を救うことはできなかったか。あの子には自分のようになってほしくなかったんだけどなあ。
こいしが声もなく意識を途切れさせる、その寸前。目の前の空間が急速に圧縮、破裂し、猛烈な破裂音と共に全ての紅を吹き飛ばした。
「……来たか」
フランドール・スカーレットの、全てを破壊する程度の能力。その力の前には、空間も、妖力も、如何なるものも、抗えない。
フランはこいしの元へ駆け寄り、倒れかけるこいしの体を抱きかかえた。
「誰が外出を許した?今すぐ自分の部屋へ戻れ、フラン」
「それはできないわ。こいしをどうするつもりだったの?お姉さま」
「別にどーーもしないよ。ただちょっと痛めつけてお前の部屋に飾ってやろうかと思っただけだ」
殺しはしないんだから構わないだろう?と、レミリアはスペルカードをひらひらと振ってみせる。先ほどの不夜城レッドはスペルカードによるもの。もしフランが遮らず、こいしがまともに食らっていたとしても死までは至らなかっただろう。死まで、は。
「殺したらお前が悲しむんじゃないかなー、と思ったのさ。どうだ、妹想いな姉だろう?だからお前もおとなしく言うことを聞いておくれよ」
「こんなことされて私が素直に従うとでも思ってるの!?友だちを傷つけられて!」
「友人は選ぶべきだぞ、フラン。そんな悪い虫がつくようでは、お前の待遇も考えなおさなければならないな」
「ッッ!この――――っ!!」
フランが左手を突き出す。その手は青白い光を帯び、今にも光弾を撃ち出さんとしている。それが放たれないのは、フランの腕に、ボロボロのこいしの手が乗っているためであった。
「駄目、だよ……フラン。今必要なのは、それ、じゃない」
「こいし……?」
こいしの計画は、その準備段階を今終えた。本来の予定ならばボロボロなのはレミリアで、自分はピンピンしていたはずなのだが、この際そこは仕方がない。大事なのは、この場にレミリアとフラン、そしてこいしが居ること。そして、レミリアがフランの登場に少なからず動揺していることであった。
「妖怪、ポリグラフ……!」
こいしが第三の瞳に手を当てて念じると、瞳は二本の光の軌跡を描き、それぞれがレミリアとフランの胸に伸びていく。フランはその様子をきょとんとした風に眺めているが、レミリアは途端に体を震わせ、ぎょっとした視線を胸の光へ向ける。それと言うのも、光が当たった瞬間よりレミリアから溢れるように光弾が飛び出し始めたためである。
レミリアは慌てて体を押さえつけ、ぼわぼわと溢れる光弾を止めようともがくものの、一向に収まる気配が無い。
「な、なんだこれは!なんなんだ!」
「妖怪ポリグラフは不思議な弾幕。今回は攻撃性能が無いように調整してあるけれども、動揺すればするほど反応は大きくなーる」
つまり慌てれば慌てるほど効果は更にあらわれる。今やレミリアはまるで泡立てたスポンジのように光弾をまとわりつかせている。
「そして弾幕ポリグラフの本当に素敵なところは……」
「ま、まだあるのか!」
「発動中は嘘をつけなくなるのだ」
「なんっ!?」
慌てふためくレミリア。ニヤリと笑うこいし。よく理解できていないフラン。
現状が上手く把握できずに視線をレミリアとこいしの間で行ったり来たりさせているフランに、こいしはそっと告げる。
「言いたいことは、きちっと自分の言葉で言わないと伝わらないんだよ、フラン」
「えっ?」
「自分の声で、面と向かって伝えるって大切なことなの。本当の気持ちを、想いを、しっかり相手の顔を見て伝えるの。そして、一番大事なのは、お互いに本音でぶつかり合うこと」
こいしがチラと横へ目を向けると、狼狽した面持ちのレミリアと視線が合った。フランに視線を戻し、こいしは続ける。
「私はそれができなかった。自分の勝手で目を閉じたし、それで構わないとも思ってた。だけど、あなたを見て少しだけ変われた。もっとお姉ちゃんと本音でお話しておけばよかったと思うようになった。あなたには私と同じようになってもらいたくないの。今のまま、何も伝えないまま心を閉じてしまったら、きっといつか、後悔する」
そこまで言い終えると、こいしは支えられているフランの腕からそっと離れ、ふらふらと近くの柱まで歩き、寄りかかる。
後は、あなたたち次第。そうとでも言うように。
残されたフランはまごまごとレミリアを見つめ、対するレミリアは口を一文字に結びながら視線を返す。
「……お姉さま」
「……」
フランが口火を切った。ボロボロになりながらも、こいしが作ってくれたチャンス。数百年に渡る姉妹のわだかまりを解消するのは、今をおいて他には無い。
うまく言葉にできないかもしれないけれど、自分の全てを明かそう。
「私、外に出たい。だけど、一人じゃなくて、みんなでお外に」
地下室の扉が開いてから、ずっと考えていた。どうして自分は外に出るのをためらったのか。
「お姉さまも、こいしも。それと、咲夜と、パチュリーと、美鈴やメイドたちをみんな連れて行くのもいいわ」
そして気付いた。自分は紅魔館と、館のみんながどうしようもなく好きなのだ。例え閉じ込められていようと、家族の絆は、確かに感じていた。こんなに優しさを向けてくれていたのに、気づかないふりをしていた。
「お姉さまが心配してくれているのも分かるわ。確かに私は、まだ自分の力を完璧には制御できていない。だけど、私、頑張るから!お姉さまに信頼してもらえるよう、一生懸命頑張るから!だからお姉さま!お願い、外に出させて!もう地下室は嫌なの!」
他者とのコミュニケーションの経験が少ないフランは、自分の感情を抑えることができない。言葉を発すればするほど、想いが高まり、涙が溢れる。それでも口にせざるを得ない。伝えずにはいられない。
フランの心からの吐露を、レミリアは変わらず口を結びながら静かに受け止めていた。
確かにフランは変わった。周囲のモノを手当たり次第破壊して回る、かつての妹はもはやいないのだろう。
そして、レミリアもまた自覚した。フランがかつての気狂いではなくなっていたと、気づいていながら目をそむけていたことに。まだ一人で出歩かせるのは不安であるが、監督者が居れば問題なく通常の生活を送ることができるということに。
分かっていながら、そうさせなかった。「成長したわね、フラン。もうこんな地下に篭る必要は無いわ」と、いつ言ってやっても良かったはずなのに。
だが、紅魔館の主として、そして、姉としての責任がそうはさせなかった。軽率に許可を出すことはできない。
フランを地下に閉じ込めていたのは、他でもない、フランのためを思っての処置。それは揺るがない。この可愛い妹を外界に放り出すなど、できない。
レミリアは口を開かない。こいしのポリグラフがまだ胸に突き刺さっている以上、安易に言葉を口にしたならば、姉としての威厳を損なうことまで言ってしまいかねない。
紅魔館の主としての自分。フランの姉としての自分。500年を生きた吸血鬼としての自分。そのどれもが、本心を曝け出すことを拒否している。安易に本心を晒すなど、私のカリスマがそれを許さない。
フランは言いたいことを全て言い終えた。今は私のレスポンスを待っている。こいしはここまでの役割を果たし終えた。今は事の成り行きを見守っている。
後は私がこの騒ぎを終わらせるだけ。一言でいい、ばっさりと言い放てばそれで終わりだ。フランを閉じ込めると決めた時も、三日三晩悩み通した。それをこんな、一時の場の流れで覆すわけにはいかない。これは私の本心からの答えだ。嘘など、無い……!
レミリアの言葉よりも先に、鼓膜を破るような轟音がその場の全員の耳を貫いた。いや、実際に破られたのは館の外壁であったが。
ぱらぱらと砂塵が舞い、視界を遮る中、館に空いた大穴の向こうからひとつの人影がゆっくり歩いてくる。
こいしはしまった、という風に顔をしかめ、フランは呆気にとられたまま、レミリアは目を見開いて冷や汗がその額をつたう。
「アンタたち……何度言えば『ルール』を理解するのかしら……?」
ここで一つ、おさらいをしよう。
スペルカードルールとは、各人の間でいざこざが勃発した際に、幻想郷の秩序を乱すこと無く済ませるための決闘法である。
人妖神その他が入り乱れる種族のサラダボウル内において、各々が気兼ねなくその力を発揮していては結界がいくつあっても足りないためだ。
そんなスペルカードルールを無視した力の使用はすなわち、現代日本で突然発砲するようなもの。ルールを無視した者には、キツい罰が与えられる。
こいしは穴の向こうへ目を向け、はたと気が付いた。レミリアの妖気が紅魔館から溢れ出たのか、いつの間にか外には真っ赤な霧が発生している。確か、何年か前にもこんなことがあったような。そりゃあ来るわ、巫女。
「ひいふうみい……そんなに退治されたいのなら、お望み通りにしてあげる!!」
首謀者たちが最後に見たのは霊符の光。全ての勘違いやすれ違い、想いが伝わるとかどうとか、そんなものは彼女の前では等しくどうでもいいことであった。
○ ○ ○ ○ ○
「まったく!くだらない姉妹喧嘩のために一々異変起こすんじゃないわよ!」
「で、でも霊夢……霊夢だって知ってるでしょ?あの子は……」
「やかましい!次同じことしたらニンニク風呂に叩きこむからね!」
騒動が収まり、ようやくこれ以上の破壊を免れた紅魔館。解放されたメイドたちが瓦礫の撤去に追われる中、本来の主は地べたに正座で巫女の説教を浴びていた。
そして一連の騒動の発端はと言えば、フランの背後に寄りすがりながらその光景をにこにこと眺めている。
「そもそも、和解したんじゃなかったの?アンタたち姉妹は。ほら、前の異変の時」
「や、あの時は勝手に暴れたのを許すわ、ってくらいで」
「じゃあ和解しなさいな。今、ここで」
「えっ」
「何度も何度もどうでもいいことで呼び出されてちゃたまんないわ。外出とかも勝手にさせればいいじゃない」
「いや、でもそれでフランが何かしたら霊夢怒るでしょ?」
「そりゃあね、その時は退治するわ。フランとアンタを」
「なんでぇ!?」
フランを外に出すことで何か問題が生じたなら、その時はその時。霊夢はとりあえずレミリアとフランを巡る姉妹喧嘩のあれやこれやを終わらせたかった。
と言うのも、現在の時刻は丁度午後8時を回ったところであり、平時であれば霊夢は既に床に就いている頃合い。一刻も早く帰りたい。眠い。霊夢の心中はその一点にのみあった。
平行線のまま一向に話が進まない二人の間に、ここぞとばかりにこいしが口をはさむ。
「じゃあ、最初からレミリアもフランと一緒に居ればいいのよ。もちろん、私もだけど」
はたとこいしの方へ顔を向けるレミリア。二の句が継げないレミリアには構わず、こいしが続ける。
「レミリアはフランを放っておくのが心配なんでしょ?だったら、ずっと傍に居てしっかり見張っていればいいじゃない。本当は私だけで大丈夫なつもりだったのだけど……」
フランに目を遣る。フランは落ち着かない様子でレミリアとこいしを交互に見続けていた。
「フランは、どうしてもレミリアが一緒じゃないと嫌ならしいから。ね?フラン」
次にぎょっとするのはフランの番。心を見透かされたかのようなこいしの一刺しに、フランは顔を真赤にして俯いた。心を見透かすも何も、先ほど自分の口から語られた本心なのであったが。
「レミリアも、それでいいでしょ?一人での外出はだめでも、一緒の時なら許すってことで!」
「だからそういう……」
「ポーリグーラフー」
ぐぬ、と口をつぐむレミリア。霊夢が近くに居る今、本音しか口に出せなくなるのはまずい。非常にまずい。
想い人を相手に好き好き好きーと迫るのは品位に欠ける。さりげなく近くに居ながら、次第に自身の魅力に気付かせることで相手の側から求められるようにするのが吸血鬼流、いや、レミリア流、もとい、レミリアの一番好きなシチュエーション。もう一度妖怪ポリグラフを受けるのは御免だ。だからと言ってフランの外出を許すのは……。
今や、レミリアがフランの自由を頑なに拒む理由としては、半ば単なる意地の張りのみとなっている。カリスマとしての矜持という名の頑固さが、理屈による決断を妨げていた。
ポリグラフへの恐怖、素直になれない自分への苛立ち、答えはすぐに出ない。しかし決断は迫られる。それは早く帰りたい霊夢の睨みつけるような視線が物語っていた。
レミリアは苦悩する。妖怪ポリグラフ、その効果はこいしによる嘘だとも知らずに。
こいしの妖怪ポリグラフは、その名の通り相手の動揺を察知する嘘発見器としての働きを持つ。だが、嘘がつけなくなる、といった効果は持ちえていない。
妖怪ポリグラフが場を支配したあの状況は、一触即発の極限状態と、フランを促して先に本音を吐露させたことにより生じたのであった。外聞も無く涙を流しながら本心を晒すフランの姿を見たレミリアは、ポリグラフの効果が嘘かもしれないと考えることを忘れた。危険な賭けだった。ポリグラフの発動中にも関わらずレミリアが否定の言葉を口にしてしまっていたならば、彼女はそれを本心であると錯覚してしまっていただろう。そうなれば、姉妹の確執はどうなっていたことか。
こいしは、例え今回は失敗したところでそれはそれで已む無しと考えていた。大切なのはフランの想いを正直にぶつけてやること。それを受けたレミリアが一時は拒否を示したとしても、想いは確かに伝わっている。長い目で見たならば和解への大きな一歩となるだろう。
さて、そろそろ決着を付けよう。いい加減、フランの心臓は爆発しそうであるし、霊夢のお祓い棒は今にも折れそうだ。
「わかった!霊夢も一緒なら問題ないよね?私と、フランと、レミリアと、霊夢の4人でお出かけしよう!」
「それだ!」
先ほどまでとは打って変わって、ぱっと明るい顔を見せるレミリア。
「博麗の巫女である霊夢の監視下であるのなら仕方ない、許可しよう。許可する!」
「はあ?なんで私がそんな面倒なことを」
まあまあそう言わずに、とこいしが霊夢へ耳打ちする。
「後で地底の美味しいお酒をたっぷりプレゼントするから」
「…………」
霊夢の頭の中に天秤があらわれる。吸血鬼どもの子守による面倒くささと、地底からの貢物。ううむ、どちらが上か……。
「なんならお賽銭もたっぷり入れておくし」
「了承」
霊夢はこいしの肩を抱き、がっしりと固い握手を交わした。その握手の美しさと言ったら、スカーレット姉妹の495年の軋轢どころか、地上と地底の不和ですら氷解してしまうかごとくであった。
「ほら、フランたちも握手あくしゅ。これからはずっと仲良くしていくんだからね!」
「ん、うむ……」
こいしに促され、レミリアはおずおずと手を差し出して見せる。眼前に差し出されたその手を、フランは両手でしっかりと握りしめた。
495年。いや、6年か、7年か。初めのうちは、そりゃあ、恨みもした。視界に入れば殺したくもなった。
だが、何度も言葉を交わし、爪を、牙を交わし、血を交わしている内に、どんどん、どんどん恋しくなっていった。心の奥の、愛情に気がつくようになった。
「お姉さま……」
フランの手に力がこもる。しっかりと顔を上げ、頬を赤らめ、目をうるませながら眼前のレミリアを見つめる。
「大好き!」
たったの一言。だからこそ伝わる。世界でたった一人の姉に、やっとぶつけられた。
「こいしも大好き!」
「私も!」
「霊夢も大好き!」
「うわわっ」
いつの間にか現れた第二、第三のフランがそれぞれこいしと霊夢に飛びついた。大好きなみんなに想いを伝えるには、私が一人だけじゃ足りない。禁忌の力を使ってでも、この想いをぶつけたい!
感極まった4人目のフランが宙を舞い、夜空へ飛び出す。外は真ん丸い満月が空を照らし、世界の果てまで見通せるかのように思われた。
感動に体が震える。初めて見渡した世界は、どこまでも広く、どこまでも輝いて、どこまでも愛おしい。
「こいしも、お姉さまも、霊夢も、咲夜もパチュリーも美鈴もみんなみんなみんな……」
フランは時計塔のてっぺんに降り立ち、月に向かって宣言した。
「だーいすきぃっ!」
こうして、こいしの引き起こしたテロリズム騒動は幕を閉じた。
館は半壊したものの、フランは外を自由に飛び回れるようになり、こいしも堂々とフランと遊び回れる。レミリアは霊夢と一緒に居られる口実を手に入れたし、霊夢はお腹いっぱい食べられる。
ほうら、フランが外に出るだけでみんなが幸せになった。最初からこうしておけばよかったのだ。全ては丸く収まった。
そして、次は私の番なのかな。
こいしは閉じられたままの第三の目をそっと手で覆った。
お姉ちゃんのこと、地霊殿のこと、ペットたちのこと、想うところはいろいろある。だが、放浪生活の中でもこいしは確かなものを手に入れた。
今なら大丈夫。フランが居れば、大丈夫。胸を張って紹介しよう。
私の、一番の友だちだって。
レミリアのフランへの接し方って書き手の個性出ますよねー
良いこいフラでした
よく頑張った
苦しい中でうまく締めたと思う
どのキャラもそれらしさがあって、すごくよかった
わだかまりの残りそうな部分もいくつかあったけど、ハッピーエンドな空気がうまく表現されていて、あまり気にすることなくスッキリ読了できた
スカーレット信仰者なので私としては全く問題ないのですがが
テロとは暴力的手段をもって政治的目的を達成しようとする行為。けれどここでのこいしの目的は、それはそれはロマンチックで少女的な、美しいものでした。ならばこれはテロというよりは、「女の子のわがまま」とでも名付けるべきものなのでしょう。
だけど、面白い話でした。
次回作を期待しています。
特に前半から中盤にかけてはまるでドラマを見ているかのようでした。
ただ後半は若干息切れしたかな……? という印象。