東の空に月が輝く頃、屋敷の縁側にじっと座る、主待ちの九尾の狐。
主は現在湯浴み中。特に主の湯浴みはめっぽう長く、風呂場に向かう前は月がもう少し山の端に近かったはずである。
「わたしがまだ式になりたての頃は、てっきり湯船で溺れ死んだものかと大慌てだったな」
忠実なる式は主の安否を確かめるために急いで風呂場に駆け込み、結果として主に大笑いされることとなった。
流石に式となってからしばらく経った現在、同じ失敗をやらかすことはないが。
「いつもわたしは掌の上で踊る狐か。初めて出会った時からずっと……んん」
底知れない主の心の底を覗いたことなど、ほとんど記憶にない。ただただ踊らされていただけの滑稽な狐。だが、それでもなかなか満足ゆく式生活である。
そうして物思いにふけりながら月を眺めていたら、急に睡魔が襲いかかってきた。待機中の身でありながら眠るのはまずいと必死に目をこするが、空しい抗い。
いつの間にか、こくりこくりと船を漕ぎ始めていた。
あばら家の破れた屋根より覗く欠けた月を見上げながら、その妖怪は焼いた川魚を頬張っていた。
これに酒でもあれば申し分ないのだが、あいにくとこんな山奥にそんな洒落た代物はない。
「酒の湧く泉でもあればと思っていたが、そんなものどこにもありゃあしないし」
人心を誑かし国を揺るがし、払い人と血で血を洗う戦いを繰り広げていた一昔前、都の噂に聞いた秘境の神秘。それに期待しつつ山籠り生活に入ったものの、悲しいかな現実は理想通りとはいかなかった。
周囲の山々は隈なく探してみた。しかし、ついぞ酒の匂いを感じることはなかった。仕方なく酒の代わりにもなりはしないただの水を仰ぎ、川魚を食む。侘しい生活ではあるが、それでもなお人里に出て酒を奪おうなどという気は毛ほども芽生えなかった。
「……飽きた」
月に向かってポツリと呟く。
あの時は、心の底から楽しんでいた。
謀略の限りを尽くすことによって人間どもは恐怖し、乱心した。
自分を退治しに来た払い人の首は何個まで数えていただろうか。その多くはひと撫でで壊れるほど脆かったが、時折気骨のある奴がいて、殺されかけたことも何度もあった。
いずれにしても常に血沸き肉躍る日々を過ごしていたのは間違いない。
だがどうだろう。途端に何をしても面白くなくなった。どれだけ人間を惑わせても、払い人の血を啜っても、ただただ退屈な毎日。刺激的だったはずの出来事が、長い年月の中でただ同じことの繰り返しへと堕してしまった。
そこで今一度刺激ある日々を取り戻さんと、ひとまず人間の営みから隔離した世界に避難した。再びこの身に刺激が戻るまで、どれだけ酒を欲しても人間とは関わらない。
「駄目だ、さっぱりやる気が出ない」
骨だけとなった魚を放り、体を床に投げ出して、大きく伸びをした。待てど暮らせど、自分の心にあの情熱が戻ってくることはない。それでもまあいいやと思ってしまえるほど、やる気は皆無であった。
今日はこのまま月でも眺め続けよう。そう心に決めた時、ふとあばら家の外からか細い声が聞こえた。
「あの、もし……?」
「ん?」
透き通った女の声。自分以外の声などもうずっと聞いた覚えもないこの山奥で。
はじめは幻聴かと思った。
「もし、もし?」
「本当に誰かいるのか」
二度三度と、あばら家の外から声が聞こえた。どうやら幻聴ではない。
確認のため大儀そうに立ちあがり、明かりとして妖力で掌に鬼火を灯し、そして戸を開けようとする。
だが建てつけが悪くなかなか開かない。こんな時に限ってと苛立ちながら戸を揺するが効果なし。苛立ちが募りに募り、終いには無理矢理蹴破った。
「む、誰だお前は?」
「まあ……」
強引に開かれた戸、蹴飛ばされ弱々しく倒れた戸のその先には、一人の娘が立っていた。
妖怪は、鬼火を掲げてその姿を凝視した。
ボロを着たみすぼらしい姿。されど顔立ちは整っており、背中までかかっているであろうその黒髪もどこか艶やかだった。要するに、均衡が取れていなくて非常に怪しい。
その怪しい小娘はというと妖怪の方をまじまじと見て驚いた表情を浮かべており、ついにはゆっくりと唇を動かした。
「そのお耳に立派なお尻尾。ひょっとしてお狐様でいらっしゃる?」
小娘の言う通り、四肢こそ人と同じその妖怪の頭には尖った耳があり、そして腰のあたりから九本のフサフサとした尾が生えている。紛れもない、九尾の狐であった。
そしてその狐は、気の抜けたような娘の言葉に力が抜け、しばしぼーっと突っ立っていた。
「まあ……まあ……」
「おい小娘、さっきの質問に答えろ。お前は誰だ?」
狐がうっかり立ちつくしている隙に、娘はずけずけとあばら家に上がり込んできた。
そして狐の言葉を無視し、娘は目を輝かせて狐の九本の尾を触っていた。強弱をつけ、時に撫で、時に揉む。
存外気持ちよくもあったがこれでは話が進まない。狐は首を振り向かせ、語気を強めて娘を睨んだ。
「さっさと答えろ小娘、縊り殺されたいのか? お前は誰で、何をしにここへ来た?」
「何をしに、と申されましても……」
娘は尾から手を離さず、目線を宙に泳がせてから睨みつけてくる狐の目に視線を合わせた。
「生活が苦しく親に捨てられ、山道を彷徨っていたらここに辿り着きました」
「ほう、捨て子か。して、名は?」
「名は親から与えられたもの。その親に捨てられたのですから、与えられた名を名乗るわけにはいきません」
「生まれは?」
「追放された身ですから、生まれた地を言挙ぐのも気が引けます」
「歳は?」
「十と、八つばかり」
「お前ほどの器量があれば、どこぞに売られる道もあったろうに」
「父がそのようなことを嫌っておりましたので、代わりに山の神に捧げたそうです」
次から次へと出される狐の問いに対し、娘はどこまでも落ち着いた口調で受け答えを続けた。
不気味なくらいのらりくらりとしたその態度に、狐は面白くなってきた。
一見人間と思われる小娘。これまでの狐の生の中で、こんな人間に出会った事は一度たりともなかった。
ならば、考えうる最大の可能性は。
「お前、本当に人間か?」
娘は、山道を彷徨いここまで辿り着いたと言った。しかし、ボロから覗く娘の白い手足には傷一つない。明らかな嘘。
だが人間ではなく妖怪が化けてきたとすれば一応の説明はつく。
「まあひどい。紛うことなき人間ですわ。お狐様を化かすなんて、そんな真似できるわけもありませんし」
「むう」
認めざるを得なかった。
狐は、自分の鼻に絶対の自信をもっていた。その鼻が、目の前の娘から妖気を一切嗅ぎ取る事をしないのである。
「ええい、ならば徹底的に確かめてやる!」
「ひゃあ」
狐は、掌に灯していた鬼火を宙に浮かし、勢いよく娘に掴みかかってその身に纏うボロの前を無理に開いた。
そして小さくあげた娘の声を余所に、露わになった胸から首筋にかけて鼻で追った。
「やっぱり人の匂いしかしないな。それに払い人特有の匂いもしない」
人間の世界で暴れ回ったのは彼此百年以上も前のことになるがもしかしたら今になって退治しに来た払い人かもしれない、とも予想はしていた。しかしその可能性も消えた。
狐は、再び娘の胸に顔をうずめ、にやりと不敵な笑みをあげる。
「これは面白い」
「あの、そんなところで喋られるとくすぐったいのですが」
娘は弱々しく抗議の声を出すが、狐は耳を貸さない。
娘の声などよりも、身体の底から湧きあがる得も言われぬ好奇心が狐の思考を支配する。
百年来沈み込んでいた感情が、今激しく燃え上がった。
「わたしの頭はお前を人間ではないと考えている。だがわたしの鼻はお前を人間だと感じている。お前の様な奴には初めて会った。まったく不気味な奴だ。不気味な故に、面白い」
「ですからそこはくすぐった……」
「小娘、お前は山の神に捧げられたと言ったな。どうする? その神とやらを探してまたこの山を彷徨うか?」
「え、えっと、そうですわね……」
狐は娘の胸に顔をくっつけながらも、その顔を上げて娘の顔に真っすぐ視線を注ぎ問うた。
すると娘は、抗議は無駄だと諦めたのか、少しばかり頬を染めながら視線を返し、狐の問いに答える。
「どこにいるのか分からない山の神よりも、いっそこのままお狐様に喰われても」
「言ったな」
狐は、全てにおいて迷いがなかった。
「んん……こんなにも心地よい朝は何十年ぶりかな」
翌朝。
鳥のさえずりを耳にしながら、狐はゆっくりと上体を起こした。
蹴破ったままの戸から外を見ると、うっすら白い靄がかかっていて景色が分からない。
しかしすぐ隣に視線を落とせば、白い肌に薄紅がかかった美しい眺め。
「……お狐様の馬鹿」
「おお小娘、起きていたのか。しかし起きて早々可笑しなことを言う。わたしは馬でも鹿でもなく狐だ」
特に濃い紅のかかった顔に、狐は穏やかに笑いかける。
だが娘は、昨晩の出来事が頭をよぎるのか狐と目を合わせようとしない。
「お狐様、どうしてあんな……」
「喰ろうても良いと言ったのはそっちじゃないか」
「それは、そういうことじゃなくて……それに、わたしは女で、お狐様だって女でいらっしゃるのに……」
「はて、女が女を抱いてはならぬ道理でもあったか? あいにくとわたしは狐でな。人間の道理など知らん」
「はあ、もういいですわ」
ため息をついてそう言うと、娘はくるりと寝返りをうってそっぽを向いた。
だがしかし、一旦火がつくとなかなか鎮まらないのがこの狐である。娘の背中にそっと抱きより、その黒い長髪を指で弄りながら耳元でふんわりと囁いた。
「お前、本当に人間か?」
「……っ!?」
突然の不意打ちに焦ったのであろう、娘の身体がブルッと震えた。
「はは、お前が焦っている姿、初めて見せてくれたな。何だかんだ言って昨日のお前は心に一切の隙がなかった。わたしに抱かれている時でさえね。そんなお前の心からの焦りを一瞬でも垣間見れてすごく嬉しい」
けらけらと笑う狐に、娘は寝返りをうちなおして正面を向いた。
相変わらず頬は赤く染まっていたが、先ほどの焦りの色はどこにも見えなかった。
「お狐様のお鼻は、わたしの事をどのように感じていらっしゃるのでしょう?」
「ん、昨日はたくさんお前の匂いをかがせてもらったけどね、相変わらず鼻はお前のことを人間だと感じているよ」
だがしかし、と狐は続ける。
「齢十八の小娘なら一晩で足腰立たなくさせるくらい腕に自信はあるんだが、お前は随分と元気そうだ。本当に人間かどうか実に怪しい。それとも大した絶倫かな」
言っている事は変態的だが、顔は至って真面目な狐。きりっとした瞳で娘の反応を窺っている。
一方娘は目を泳がせ恥じらいの表情をし、もじもじと唇を動かした。
「そのようなお言葉、よくもまあ平然と口にできますね」
「むう、またお前の心の底が読めなくなった。恥じらいつつも、どこか余裕がありそうな気がする。だが、まあいい」
「な、何を……」
狐は、両手両膝を床に立てて娘を上から覆った。
驚いた表情の娘は、咄嗟に狐から逃れようとした。だが狐は動くな、と言って娘を制する。
同時に、外からざあざあという音が聞こえてきた。
「……雨?」
「ああ、降ってきたようだ」
狐に覆われていない部分の娘の手足に、しとしとと水が滴り落ちる。
どうやら雨漏りしているらしい。狐は、娘ができるだけ雨に濡れないよう庇っていたのだ。
「このあばら家では雨漏りし放題。隅の方ならまだマシだから移動するぞ。わたしが雨を受けるから、お前はわたしの動きに合わせてくれ」
「は、はい」
両手両膝を使ってゆっくりと移動する狐に合わせ、娘も手足を使ってたどたどしく動く。
寝ころんだまま場所を移すのは窮屈そうではあったが、時折目を合わせ、意思を疎通し合い、何とかして雨漏りのない地点まで移動することができた。
そして、狐は娘に覆いかぶさるのをやめた。
「このあばら家は上手い具合に傾いているから、こっちまで雨水が流れてくることはない。それと、ほら」
「あ、わたしの着物と……お狐様の?」
「脱がしたわたしが言うのも何だが、冷えるといけない。早く着るといい」
「でも、これではお狐様がお冷えになるでしょう?」
狐は、丁度あばら家の片隅に放ってあった娘のボロと、そして自身が着ていたこれまたオンボロの着物を手渡した。
受け取った娘が心配そうな言葉をかけるも、構わんよ、と言って立ち上がった。
「どうせもう濡れているしな。それに昨日はたくさん汗をかかさせられた。この雨で流す事にしよう」
「汗をかいたのはお狐様の勝手でしょうに」
「そうれ!」
娘の声などまるで聞こえていないように、狐は蹴破られた戸から大はしゃぎで雨のもとへその身を晒す。
滴り落ちる雨に遊ぶ姿は幻惑的で、娘はぼうっとそれを眺めていた。
しばらくの行水の後、戻ってきた狐の手には欠けた茶碗。
その茶碗を、ボロを着た上に狐の着物を羽織った娘に向かってそっと差し出す。
「雨水を溜めたんだが、飲むか?」
「頂きますわ。でも、お狐様は?」
「わたしか? わたしはもうたらふく飲んださ。雨を浴びながらな」
「そうですか」
半分冗談で言ったつもりだったのだが、娘は特にくすりともせず無表情のまま茶碗を受け取った。
これは手厳しい、と狐は苦笑しながら娘の隣に腰を下ろす。
すると娘はちらりと狐に目をやり、雨音に掻き消されない程度の小声を発した。
「お狐様、すっかり濡れてしまっていますわ。このままでは風邪をひいてしまいます」
「なあに、問題はない」
狐は、自分の掌を顔に向けた。それと同時に、狐の濡れた髪がふわりと揺れる。
狐の掌からは温かな風が吹き起こっていた。
「器用でいらっしゃるのね」
「ふふ、まあそれほどでもあるよ。ただそれでも九つの尾を乾かすのには骨が折れるがね」
もの珍しそうに眺める娘を脇目に、狐は笑いながら自分の身体に掌をかざしていった。濡れていた身体が少しずつ乾く。
風の勢いも強弱調整できるようで、濡れの激しい大きな尾には強めに風を当てた。
「隙あり!」
「きゃっ!?」
突然、掌を娘に向けて風の勢いを強めた。
突風に捲られそうになるボロを娘が必死に押さえて事なきを得ると、狐は残念そうな顔をしながらもうんうんと頷く。
「ふうむ。捲れなかったのは惜しいが、必死になって押さえる姿もそれはそれでそそるものがあるな」
「お、お狐様ってば本当にいやらしい」
「わっはっは。そう褒めるな」
「……もう」
怒ったのか、呆れたのか、娘は狐に背を向けそのまま押し黙ってしまった。
これには、流石に悪ふざけが過ぎたかなと、狐も黙って身体を乾かす作業に戻った。
しばしの沈黙。聞こえてくるのは雨音と、狐の吹き起こす風の音ばかり。
「あの……」
「ん?」
背を向けながら、娘が沈黙を打ち破った。
狐は娘が声をかけてくれたことが嬉しくて、にんまり笑顔になりながら背を眺める。
背中越しの声が続いた。
「お狐様はわたしが人間か人間でないか分からず、底も見えないとおっしゃった。でも、まあいい、と気にもかけられない。一体何故?」
「そんなことか」
狐は、ゆるゆると娘に近寄り、声をかけてくる背中に、愛でるように抱きついた。
艶のある黒い長髪に顔を埋め、耳元で、柔らかく、しかしはっきりとした口調で囁いた。
「お前は美しい」
「……っ!?」
娘の肩が、ぴくりと揺れた。
再び垣間見られた動揺に気を良くした狐は、娘を抱く腕の力を少し強めた。
「お前が何者か、そんなこと今はどうでもいい。それよりわたしは、何者とも判断のつかないお前の妖しい美しさに心奪われてしまった。ただ只管に、お前が欲しい」
「あ……」
甘言を走らせながら、手をボロの中へと滑り込ませる。対して娘はさしたる抵抗もせず、侵入してきた狐の手に自身の手を重ねた。
それを許諾と受け取った狐が娘を自分の方へと向けそのまま押し倒すと、蕩けた表情の娘の口が小さく開いた。
「お狐様。折角雨でお流しになったのにまた汗で濡れてしまいますわ」
「汗などいくらでも洗い流せばいい。今のわたしはお前と契りを結ぶことしか考えられない色情狂さ」
「色情狂は昨夜から……ん」
娘の口は塞がれて、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。
雨音響くあばら家に、趣の異なる水音が響き渡った。
目が覚めると、吹き抜けの屋根から日が覗きこんでいた。
疲れて一眠りしている間に雨はあがり、時刻も日が真南に昇る頃となっていたらしい。
「雨が上がってしまっているとは誤算だったな……ん?」
身体のベタつきと喉の渇きを覚えながら呟くと、ある違和感に気付く。
隣に、娘の姿が無い。
「小娘の着ていたボロも無い。どこへ行ったんだ?」
きょろきょろと辺りを見回しながら口走る。
さては逃げられたか。それとも狐にでも抓まれたか。久しぶりに得た情熱を注げる相手を失うという恐怖が、嫌な想像を掻き立てる。
しかし、それも杞憂に終わる。破られた戸から、娘がひょっこりと入ってきた。
「どうかされましたかお狐様?」
「小娘……」
明らかに挙動不審であった狐に娘が話しかければ、狐は冷や汗まじりの顔で娘を見つめ返す。
狐の視線の先は娘の両の腕。右手で欠けた茶碗を持ち、左腕で大きな葉に包まれた何かを抱えていた。
「ああ、これですか? 喉が渇いたものですから清水を汲みに。それと、流石にお腹も空きましたので食べられる野草を摘んで来ましたの」
言いながら、未だ現を抜かした状態の狐の前に茶碗を置き、包みを広げる。
そして娘が茶碗を差し出してきたところで、狐はようやく現実へ帰ってきた。
「わたしはもうたらふく飲みましたので、どうぞお狐様がお飲み下さい」
「む、ああ……はは、これでは朝と真逆だな」
「ええ、まったく。さあ、野草を頂きましょう。水洗いは済ませましたし、生でも大丈夫だと思いますわ」
内心大きく胸を撫で下ろす狐に、娘は特に気付くでもなくふふっ、と笑う。
(惑わされている)
野草を口に運びながら、娘の微笑みに見惚れている自分を認めた狐は、はっきりとそう思った。
かつて多くの人間を惑わせてきた九尾の狐が、今は目の前の何者とも分からない小娘の妖しい色香に踊らされている。
だが、さんざん踊らせてきた身からしてみると、踊らされている自分とはなるほど滑稽で、新鮮で、それ故に刺激的で面白かった。百年冷め続けていた心が、新しい角度から解きほぐされる。
狐は最後の野草を嚥下すると、自身の衣を纏い、すくっと立ち上がった。
「どうされたのです?」
「少し出掛けてくる。夕暮れまでには帰るが、まあ待っていてくれ」
今ならどこまでも駆けてゆける気がする。塞ぎこんでいた気分はさっぱり晴れた。
ひと駆けであばら家から飛び出し、大空をも飛ぶ。吹きぬけた青空が実に心地よい。
試しに片手で空気をひと撫でする。
遥か上空を漂う雲が二つに割れた。
「ふむ、暴れ過ぎないように気を付けなければな」
自分の手をぷらぷらと振りながら笑う。
気持ちの良い解放感につい調子に乗ってしまったが、今回外へ飛び出したのは何も暴れるためではない。
何はともあれ、地上を見下ろしつつ天空を舞う。目的の物はきっとすぐに見つかるだろう。
「あった」
やはりすぐに見つかった。
山の麓の小さな集落。胡麻粒程度の人影もちらほら見える。
狐は一気に、真っすぐ、里のど真ん中に降り立った。
「ふうむ、人間の世界に来るのも久しぶりだな。久しぶりすぎて見慣れぬ物もあるが、舶来の物が広まったか、或いは」
降り立つや否や、狐はその聡明な頭で冷静に里の様子を把握する。
一方、里の人間たちにとっては正体不明の化け物が突然空から降ってきたこの状況。唖然とするしかない人々の沈黙が狐の辺りを包むものの、一人が声をあげた途端連鎖的に大騒動が起こった。
「き、きつねだ……きつねの化け物だ……」
「化け物!?」
「化け物ということは……く、喰われる?」
「喰われる!?」
「うわあああ喰われるぞおおおおお!」
「ひやああああああああ!!」
「わあああああああああああああ!!!」
混乱が混乱を呼び、人間たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出し、隠れた。
しかし狐はそれら意に介そうともせず、くんくんと匂いを探していた。
「匂いは……こっちからするな。それも結構たくさんありそうだ」
ぺろりと舌舐めずりをして、のしのしと歩き出す。
物陰に隠れた人間たちは固唾を飲んで様子を窺うが、誰も狐退治をしようとは思わなかった。ただの野盗ならともかく、化け物相手では話が違う。
里人の葛藤渦巻く中、狐は堂々と闊歩し、やがて大きな屋敷の前で止まった。
「ここかな? そうれ!」
「ひいぃ!?」
鍵の掛けられていた戸を蹴破り、建物の中へ上がり込む。
屋敷には多くの人間が小さくなって震えていたが、奥の方の部屋に恰幅のいい中年の男がいた。恐らくはこの屋敷の主人であろう。
「おいそこの男。お前がこの屋敷の主人か?」
「は、はいぃ! 命ばかりは、命ばかりはお助けを!」
狐が指差すと、主人は体を硬直させ、冷や汗をダラダラと流しながら答えた。
そのあまりの怯えっぷりにふと昔を懐かしみつつ、狐はなるだけ柔らかい声で話を始めた。
「何も命を取りに来たわけじゃあない。ちょっと酒を貰おうと思ってな」
「さ、酒でしたら隣の蔵に置いてあります! いくらでも差し上げますからどうか命ばかりはお助けを!」
「命は取らんと言ったじゃないか」
呆れながら、まあ仕方ないかと零す。酒は蔵の方にあるらしいので、さっさと貰って帰る事にしよう。あの小娘と出会ったことで心情も変わって、とうとう酒の解禁ができるのだ。
わくわくしながら足を動かすと、部屋のさらに奥にて身を屈める十六、七ばかり娘の姿が目に入った。
もう一度、震える主人の方へ目を移した。
「あれはお前の娘か?」
「そ、そうですが……む、娘は見逃して下さい! 孝行者で、いずれは良縁にも恵まれるはずの子で」
「だから安心しろと言っている。あまりガタガタ騒ぐと無理にでも黙らすぞ」
やかましい主人を睨みつけてから、狐は娘の方へと歩を進めた。
部屋の隅でカタカタと震える娘の肩を、壊さないように掴んで、顔を向けさせた。
「あ……あ……」
「ふむ」
恐怖のあまり声の出ない娘の顔を、狐は二つの目でしっかりと見る。
「悪くはない。お前もなかなか美しい。着物も綺麗じゃないか」
「……えっ?」
端正な顔立ちの狐にじっと見つめられ、美しいと言われた。その瞬間、娘の中の何かが蕩けた。
しかし狐には娘の感情の機微など興味が無い。ただ自分の言いたいことだけを言うのみ。
視線を娘が着ている着物の方へと移す。
「それでもあの小娘には及ばんな。その綺麗な着物はあいつにこそ相応しい。すまんが頂いていこう」
「わっ……きゃあ!」
狐は呆けていた娘から着物を一気に、それでも破れないよう剥ぎ取って、大事そうに抱えた。
そしてそのまま振り返り、満足げに蔵へ向かわんとしたところ、着物を奪われた娘が遠慮がちに声をかけてきた。
「あ、貴方は狐の妖怪なのですね? あの人の言った通り、本当にいたんだ」
「……あの人? 本当にいたとはどういうことだ?」
面倒なので振り向き直すことはしなかったが、狐は訝しんで娘に尋ねた。
すると娘も緊張が解れてきたのか、割とはきはきと喋るようになった。
「数日前、里に貴方と同じ黄金色の、長い髪の女性が尋ねてきたそうです。この辺りに九尾の狐が隠れているらしいが何か知らないか、と。誰もそんな狐は知らないし、その女性の佇まいも怪しかったので気味悪がって相手にしなかったそうですが」
「そうか……」
狐は一言だけ答えると、真っすぐ歩きだした。蔵から酒樽を一つ貰い受け、やはり物陰から窺ってくる目線を余所に、空を駆けた。
その間もずっと考え続けていた。黄金色の長い髪の女について。そしてあばら家で待っているであろう、あの娘について。
現れた時期はほぼ同じ。そして色は違うが、ともに長い髪の女。
「結びつけるな、という方が無理な話だな。まあ構うまいよ」
今の自分は色狂い。ただの人間であろうとそうでなかろうと、あの娘の色に溺れるならそれはそれで心地よい。
そう思わせる魅力があの娘にあるのだということを、狐ははっきりと理解していた。
日が傾きかけた頃、あばら家に帰ってくると多くの野草が並んでいた。
ある種異様な光景に狐が面食らっていたら、娘がにこやかにそれを出迎えた。
「おかえりなさい。ただ待っているのも暇でしたから、食べられる野草をたくさん摘んで来ました。お狐様が持っていらっしゃるのは?」
「ん、これは酒樽だよ。ちょっと人間から貰って来た。後で一緒に飲もう。それと、これはお前のだ」
「まあ綺麗……」
正しくは奪ってきた酒樽を置いてから、狐はこれまた奪ってきた着物を娘に羽織らせた。
美しい模様の入った着物に目を輝かせる娘を見て、狐も嬉しそうに笑った。
「わたしの目に狂いはなかった。やはり小娘が着た方がずっといい。……まずい、また興奮してきた」
「あの、お狐様。流石に三回目はちょっと……」
苦笑する娘に制され、流石の狐も思いとどまった、と思いきやそうでもなかった。
食事の時に、二人は酒樽を開けた。柄杓を一本拝借してきたので、交替交替に掬って飲んだ。
狐はよく飲んだが娘も良く飲んだ。結局消費量は二人合わせて二升以上。両者共に顔は真っ赤で、呂律も上手く回らない。
「おきつねひゃま……わたひ、からだがあつい……ぼーっとひて……」
「わたしもらよ。さあおいで……いっひょにもっとあつく……」
「……ひゃい」
狐が両手を広げると、娘は素直に身を委ねた。ここまで狐の計画通り。してやったり顔で娘の背を撫でる。
翌朝、またしばらく娘にそっぽを向かれる事になるのだが。
その後も、狐と娘は共にあった。
霞がかる朝は共に菜花を摘み、暑い昼は共に川で魚を採り、涼しくなった夕暮れ時は共に虫の音に耳をかたむけ、肌寒い夜は共に身を寄せ暖をとった。そして狐は娘を抱いた。抱いて、娘の色香に溺れ続けた。
酒が尽きると、狐は人里に下りて頂戴していった。人間どもに住処が特定されないよう、わざわざ遠方までひとっ飛びしてあちこちから頂戴し、ついでに娘に似合う着物も貰い受けた。
ただ狐にとって残念だったのは、初回の反省から娘が過度の飲酒を避けるようになったことであった。
間違いなく、楽しい生活。この生活は、意外とあっけなく、あっという間に幕を閉じることとなった。
倒木。
「小娘……」
出会ってからさほど月日もたたぬ夕べ、酒樽と着物を抱えて帰ってきた狐が目にしたのは、突風に吹き倒されたであろう大きな古木と、その下敷きとなった娘の姿。
娘は地に仰向けに倒れた状態で、腹より下部が古木に押さえつけられていた。
「ゴホッ! おきつねさま……」
「おい、喋るな。おい、今この木をどけてやるからな!」
血を吐きながら、苦しそうに話す娘に、悲痛の表情で声をかける狐。持ち前の力で古木を持ち上げ、娘を圧迫から解放した。
しかし古木がどけられようとも娘は微動だにせず、否、できず、たどたどしく口を動かし続けるのみ。
「最期に、一つ、お願いが、あります……」
「お前の願いなら何でも聞いてやる! だからこれ以上無理しないでくれ!」
自然と、狐の目から涙が零れた。半月にも満たぬ日々は、狐の顔をくしゃくしゃにするに十分の時間であったことに間違いない。
狐の涙を見て、娘は弱々しくも満面の笑みを浮かべ、着物の前を大きく開いた。
「このまま死ぬよりも、いっそ、おきつねさまが、わたしの喉元を、喰い破って……」
一拍の間。
この一拍で、聡明な狐は一生分悩み、決した。
「初めて会った時も、喰ろうてみろと言っていたな。いいだろう、せめてひと思いに」
「ありがとう……」
狐は牙を立てて娘に覆いかぶさり、その喉元に鋭く喰らいついた。口の中が、娘の血の味で満ちる。
その時、狐の鼻が強く反応した。
すぐ近くに、妖気の匂いがする。目の前に、妖怪がいる。
そして、啜った娘の血に乗じてはかり知れない力が流れ込んできて、不意に狐の意識が遠くなった。
薄れゆく視界に黄金色の髪の妖怪を確かめて、聡明な狐は完全に理解した。
(ああ……わたしの狂い踊りも、これで終わりか……)
「ううん……」
温かな匂いと柔らかな感触に包まれながら、うっすらと目を開けた。
気付くと自分は縁側に横たわっており、誰かの膝を枕にしているようだ。
ぼうっと天井を見上げると、慣れ親しんだ胡散臭い笑顔が覗きこんできた。
「ようやくお目覚めのようね、藍」
「ゆ、紫様!?」
主に膝枕される従者、という状況の自分を確認した時、八雲藍は大慌てで飛び起きた。
そしてすぐさま三つ指ついて、八雲紫に向かって深々と頭を下げた。
「こ、この度は居眠りをしてしまい、挙句の果てに紫様に膝枕をさせてしまうという御無礼、平にご容赦を!」
「そんなに謝らなくてもいいわ。藍の可愛い寝顔がたくさん見られて眼福眼福」
「は、ははー!」
もう一度深々と顔を下げてから、面を挙げ、月の位置を確認した。
南から西へと傾きつつある、相当な時間眠っていたらしい。
「ねえ」
紫から、そっと声がかけられた。
「寝ている最中やたらにやにやしてたけど、何かいい夢でも見たの?」
「あ、えー何でしたかね。はっきりと覚えていないかな~……」
「ふーん」
藍が目を泳がせながら嘘をつくと、紫は扇子で口元を隠しながらじっと見つめた。
「『お前、本当に人間か?』」
「うぐっ!」
「『わたしは馬でも鹿でもなく狐だ』」
「あがっ!?」
「『今のわたしはお前と契りを結ぶことしか考えられない色情狂さ』」
「紫様、ご勘弁を……」
「あの頃の藍、すごく積極的だったわ」
「あれは、その、若気の至りというやつで……」
穴があったら入りたいとはまさにこんな気持ちだろうと、藍は小さくなりながら思った。
また、踊らされてしまった。
あの時だってそうだった。
九尾の狐を手なずけようとしていた八雲紫は、わざと自分の妖力の一切を封印した。
それも本人の任意では解除不能の封印。これにより、狐の鼻をもってしても誤解が生じる。その不可思議さに狐はまんまと魅了され、色香に溺れた。
ただし、封印には二つの仕掛けがあった。
一つは封印解除の方法。八雲紫は封印解除の鍵として、九尾の狐に自身の肉を喰い破られる事、と設定していた。これは死にゆく者の最期の頼みとして、色情狂の狐を誘った。
もう一つは封印解除の結果。九尾の狐が八雲紫の肉を食いちぎれば、当然血も飲むことになる。その血こそ、八雲の式となす最初の通過点であるというのに。
「紫様には、まったく及びません」
結局のところ自分が八雲紫に惚れこんでいたという事実に変わりはない。その八雲紫に奉仕するという現在の立場に、言い知れぬ光栄を感じてもいる。
だが、奉仕するのみ。それ以上を望んではいけない。あの享楽の色狂いは、所詮狐を手なずけるための一時のもの。もう忘れなければならない。
「あまり買い被らないで欲しいわね。狐の一匹くらい軽く手なずけてやるって意気込んで、逆にその狐に食べられて色狂いに落ちた馬鹿な妖怪なんて」
「……えっ?」
藍はつい聞き直してしまった。自分の認識では、主が自分の相手をしていたのは式として使役するための布石。しかし今の主の言葉は、その認識と明らかに違う。聡明な狐は混乱してしまった。
一方主の方は、声を大きくして顔を赤らめた。
「な、何度も言わせないでよ。貴女に口説き落とされて、もう妖力を封印しちゃったまま一緒にいてもいいかな、なんて考えてたの!」
久しぶりに見た、心の底が見えるような焦りの姿。
これはもしかしたらとんでもない思い違いをしていたのかもしれないと思う藍。今までの自分の認識を、主に打ち明けた。
「わたしを信用させて、古木に潰され死ぬふりをして喉元を噛ませたのでは無かったのですか?」
「違うわよ。本当は会ってすぐ血を飲ませるつもりだったの。人間のふりをして油断させればすぐに釣れると思ってたら、『あんな事』になって、そのまま」
「じゃ、じゃあ何で古木の下敷きになったんですか? 紫様ともあろうお方が」
「あれは事故よ。あの時は妖力を封印したただの人間にも等しい状態だったもの。それで、これはもう死ぬって分かって、ならいっそ惚れた貴女にって……」
「封印のことは……?」
「考えてる余裕なんて無かったわよ。だって死ぬほど痛かったんだもの。でも、そういえばあれが封印の解除方法で、貴女を式とする手段でもあって、じゃあこのまま式にしちゃおうって思ったわ。どうせ貴女とは一緒にいたかったし……」
「…………」
「…………」
言っていて、自分たちが恥ずかしくなった。
藍は、今の今まで主の掌の上で踊っていたと思っていた。実際は、勝手に勘違いをして、勝手に踊っていた。
恥ずかしさのあまり身体が爆発しそうで、声も出ない。
気まずい沈黙を先に破ったのは紫だった。ゴホン、とわざとらしく咳払いする。
「あー、式になってから迫ってこなくなったのは主従関係に縛られて遠慮していたのだと思っていたけど、どうやら違ったようね」
口元を覆っていた扇子を閉じ、両手を広げた。
「寂しかったでしょう?」
「あ……」
妖しい笑みを浮かべて、藍を誘う。
藍はその妖艶な姿に心奪われ、しかしそれでも逡巡していた。
「さっき湯浴みで汗を流したことが気になるの? 心配無いわ。汗ならいくらでも流せばいいもの」
「あう……」
「従者が主人を抱いてはならない道理でもあったかしら? あいにくとわたしは人間の道理を知らないの」
「うう……」
「それとも、はっきり妖怪と分かるわたしなんて面白味も無くて惹かれないかしら?」
「そ、そんなことはありません!」
最後は強く否定して、藍は紫に飛びついた。
その勢いで紫は背中から床に倒れ、その上に藍が両手両膝を立てて覆いかぶさる。
「紫様は今でも、底知れない魅惑的なお方です。貴女は美しい。わたしは、貴女が欲しい」
「嬉しいわ。わたしも、貴女のその真っすぐな言葉が好き……」
二人の視線が一直線に交わる。藍は、荒ぶりそうになる息をごくりと呑みこんだ。
お互いの気持ちは、出会って間もない頃まで戻っている。主従の縛りはいったん消滅。
「紫様、いや小娘。あの時のように、また色狂いに踊っても構わぬか?」
「……ええ、一緒に踊りましょう。お狐様」
月下、二つの影が一つに重なり、共に踊った。
主は現在湯浴み中。特に主の湯浴みはめっぽう長く、風呂場に向かう前は月がもう少し山の端に近かったはずである。
「わたしがまだ式になりたての頃は、てっきり湯船で溺れ死んだものかと大慌てだったな」
忠実なる式は主の安否を確かめるために急いで風呂場に駆け込み、結果として主に大笑いされることとなった。
流石に式となってからしばらく経った現在、同じ失敗をやらかすことはないが。
「いつもわたしは掌の上で踊る狐か。初めて出会った時からずっと……んん」
底知れない主の心の底を覗いたことなど、ほとんど記憶にない。ただただ踊らされていただけの滑稽な狐。だが、それでもなかなか満足ゆく式生活である。
そうして物思いにふけりながら月を眺めていたら、急に睡魔が襲いかかってきた。待機中の身でありながら眠るのはまずいと必死に目をこするが、空しい抗い。
いつの間にか、こくりこくりと船を漕ぎ始めていた。
あばら家の破れた屋根より覗く欠けた月を見上げながら、その妖怪は焼いた川魚を頬張っていた。
これに酒でもあれば申し分ないのだが、あいにくとこんな山奥にそんな洒落た代物はない。
「酒の湧く泉でもあればと思っていたが、そんなものどこにもありゃあしないし」
人心を誑かし国を揺るがし、払い人と血で血を洗う戦いを繰り広げていた一昔前、都の噂に聞いた秘境の神秘。それに期待しつつ山籠り生活に入ったものの、悲しいかな現実は理想通りとはいかなかった。
周囲の山々は隈なく探してみた。しかし、ついぞ酒の匂いを感じることはなかった。仕方なく酒の代わりにもなりはしないただの水を仰ぎ、川魚を食む。侘しい生活ではあるが、それでもなお人里に出て酒を奪おうなどという気は毛ほども芽生えなかった。
「……飽きた」
月に向かってポツリと呟く。
あの時は、心の底から楽しんでいた。
謀略の限りを尽くすことによって人間どもは恐怖し、乱心した。
自分を退治しに来た払い人の首は何個まで数えていただろうか。その多くはひと撫でで壊れるほど脆かったが、時折気骨のある奴がいて、殺されかけたことも何度もあった。
いずれにしても常に血沸き肉躍る日々を過ごしていたのは間違いない。
だがどうだろう。途端に何をしても面白くなくなった。どれだけ人間を惑わせても、払い人の血を啜っても、ただただ退屈な毎日。刺激的だったはずの出来事が、長い年月の中でただ同じことの繰り返しへと堕してしまった。
そこで今一度刺激ある日々を取り戻さんと、ひとまず人間の営みから隔離した世界に避難した。再びこの身に刺激が戻るまで、どれだけ酒を欲しても人間とは関わらない。
「駄目だ、さっぱりやる気が出ない」
骨だけとなった魚を放り、体を床に投げ出して、大きく伸びをした。待てど暮らせど、自分の心にあの情熱が戻ってくることはない。それでもまあいいやと思ってしまえるほど、やる気は皆無であった。
今日はこのまま月でも眺め続けよう。そう心に決めた時、ふとあばら家の外からか細い声が聞こえた。
「あの、もし……?」
「ん?」
透き通った女の声。自分以外の声などもうずっと聞いた覚えもないこの山奥で。
はじめは幻聴かと思った。
「もし、もし?」
「本当に誰かいるのか」
二度三度と、あばら家の外から声が聞こえた。どうやら幻聴ではない。
確認のため大儀そうに立ちあがり、明かりとして妖力で掌に鬼火を灯し、そして戸を開けようとする。
だが建てつけが悪くなかなか開かない。こんな時に限ってと苛立ちながら戸を揺するが効果なし。苛立ちが募りに募り、終いには無理矢理蹴破った。
「む、誰だお前は?」
「まあ……」
強引に開かれた戸、蹴飛ばされ弱々しく倒れた戸のその先には、一人の娘が立っていた。
妖怪は、鬼火を掲げてその姿を凝視した。
ボロを着たみすぼらしい姿。されど顔立ちは整っており、背中までかかっているであろうその黒髪もどこか艶やかだった。要するに、均衡が取れていなくて非常に怪しい。
その怪しい小娘はというと妖怪の方をまじまじと見て驚いた表情を浮かべており、ついにはゆっくりと唇を動かした。
「そのお耳に立派なお尻尾。ひょっとしてお狐様でいらっしゃる?」
小娘の言う通り、四肢こそ人と同じその妖怪の頭には尖った耳があり、そして腰のあたりから九本のフサフサとした尾が生えている。紛れもない、九尾の狐であった。
そしてその狐は、気の抜けたような娘の言葉に力が抜け、しばしぼーっと突っ立っていた。
「まあ……まあ……」
「おい小娘、さっきの質問に答えろ。お前は誰だ?」
狐がうっかり立ちつくしている隙に、娘はずけずけとあばら家に上がり込んできた。
そして狐の言葉を無視し、娘は目を輝かせて狐の九本の尾を触っていた。強弱をつけ、時に撫で、時に揉む。
存外気持ちよくもあったがこれでは話が進まない。狐は首を振り向かせ、語気を強めて娘を睨んだ。
「さっさと答えろ小娘、縊り殺されたいのか? お前は誰で、何をしにここへ来た?」
「何をしに、と申されましても……」
娘は尾から手を離さず、目線を宙に泳がせてから睨みつけてくる狐の目に視線を合わせた。
「生活が苦しく親に捨てられ、山道を彷徨っていたらここに辿り着きました」
「ほう、捨て子か。して、名は?」
「名は親から与えられたもの。その親に捨てられたのですから、与えられた名を名乗るわけにはいきません」
「生まれは?」
「追放された身ですから、生まれた地を言挙ぐのも気が引けます」
「歳は?」
「十と、八つばかり」
「お前ほどの器量があれば、どこぞに売られる道もあったろうに」
「父がそのようなことを嫌っておりましたので、代わりに山の神に捧げたそうです」
次から次へと出される狐の問いに対し、娘はどこまでも落ち着いた口調で受け答えを続けた。
不気味なくらいのらりくらりとしたその態度に、狐は面白くなってきた。
一見人間と思われる小娘。これまでの狐の生の中で、こんな人間に出会った事は一度たりともなかった。
ならば、考えうる最大の可能性は。
「お前、本当に人間か?」
娘は、山道を彷徨いここまで辿り着いたと言った。しかし、ボロから覗く娘の白い手足には傷一つない。明らかな嘘。
だが人間ではなく妖怪が化けてきたとすれば一応の説明はつく。
「まあひどい。紛うことなき人間ですわ。お狐様を化かすなんて、そんな真似できるわけもありませんし」
「むう」
認めざるを得なかった。
狐は、自分の鼻に絶対の自信をもっていた。その鼻が、目の前の娘から妖気を一切嗅ぎ取る事をしないのである。
「ええい、ならば徹底的に確かめてやる!」
「ひゃあ」
狐は、掌に灯していた鬼火を宙に浮かし、勢いよく娘に掴みかかってその身に纏うボロの前を無理に開いた。
そして小さくあげた娘の声を余所に、露わになった胸から首筋にかけて鼻で追った。
「やっぱり人の匂いしかしないな。それに払い人特有の匂いもしない」
人間の世界で暴れ回ったのは彼此百年以上も前のことになるがもしかしたら今になって退治しに来た払い人かもしれない、とも予想はしていた。しかしその可能性も消えた。
狐は、再び娘の胸に顔をうずめ、にやりと不敵な笑みをあげる。
「これは面白い」
「あの、そんなところで喋られるとくすぐったいのですが」
娘は弱々しく抗議の声を出すが、狐は耳を貸さない。
娘の声などよりも、身体の底から湧きあがる得も言われぬ好奇心が狐の思考を支配する。
百年来沈み込んでいた感情が、今激しく燃え上がった。
「わたしの頭はお前を人間ではないと考えている。だがわたしの鼻はお前を人間だと感じている。お前の様な奴には初めて会った。まったく不気味な奴だ。不気味な故に、面白い」
「ですからそこはくすぐった……」
「小娘、お前は山の神に捧げられたと言ったな。どうする? その神とやらを探してまたこの山を彷徨うか?」
「え、えっと、そうですわね……」
狐は娘の胸に顔をくっつけながらも、その顔を上げて娘の顔に真っすぐ視線を注ぎ問うた。
すると娘は、抗議は無駄だと諦めたのか、少しばかり頬を染めながら視線を返し、狐の問いに答える。
「どこにいるのか分からない山の神よりも、いっそこのままお狐様に喰われても」
「言ったな」
狐は、全てにおいて迷いがなかった。
「んん……こんなにも心地よい朝は何十年ぶりかな」
翌朝。
鳥のさえずりを耳にしながら、狐はゆっくりと上体を起こした。
蹴破ったままの戸から外を見ると、うっすら白い靄がかかっていて景色が分からない。
しかしすぐ隣に視線を落とせば、白い肌に薄紅がかかった美しい眺め。
「……お狐様の馬鹿」
「おお小娘、起きていたのか。しかし起きて早々可笑しなことを言う。わたしは馬でも鹿でもなく狐だ」
特に濃い紅のかかった顔に、狐は穏やかに笑いかける。
だが娘は、昨晩の出来事が頭をよぎるのか狐と目を合わせようとしない。
「お狐様、どうしてあんな……」
「喰ろうても良いと言ったのはそっちじゃないか」
「それは、そういうことじゃなくて……それに、わたしは女で、お狐様だって女でいらっしゃるのに……」
「はて、女が女を抱いてはならぬ道理でもあったか? あいにくとわたしは狐でな。人間の道理など知らん」
「はあ、もういいですわ」
ため息をついてそう言うと、娘はくるりと寝返りをうってそっぽを向いた。
だがしかし、一旦火がつくとなかなか鎮まらないのがこの狐である。娘の背中にそっと抱きより、その黒い長髪を指で弄りながら耳元でふんわりと囁いた。
「お前、本当に人間か?」
「……っ!?」
突然の不意打ちに焦ったのであろう、娘の身体がブルッと震えた。
「はは、お前が焦っている姿、初めて見せてくれたな。何だかんだ言って昨日のお前は心に一切の隙がなかった。わたしに抱かれている時でさえね。そんなお前の心からの焦りを一瞬でも垣間見れてすごく嬉しい」
けらけらと笑う狐に、娘は寝返りをうちなおして正面を向いた。
相変わらず頬は赤く染まっていたが、先ほどの焦りの色はどこにも見えなかった。
「お狐様のお鼻は、わたしの事をどのように感じていらっしゃるのでしょう?」
「ん、昨日はたくさんお前の匂いをかがせてもらったけどね、相変わらず鼻はお前のことを人間だと感じているよ」
だがしかし、と狐は続ける。
「齢十八の小娘なら一晩で足腰立たなくさせるくらい腕に自信はあるんだが、お前は随分と元気そうだ。本当に人間かどうか実に怪しい。それとも大した絶倫かな」
言っている事は変態的だが、顔は至って真面目な狐。きりっとした瞳で娘の反応を窺っている。
一方娘は目を泳がせ恥じらいの表情をし、もじもじと唇を動かした。
「そのようなお言葉、よくもまあ平然と口にできますね」
「むう、またお前の心の底が読めなくなった。恥じらいつつも、どこか余裕がありそうな気がする。だが、まあいい」
「な、何を……」
狐は、両手両膝を床に立てて娘を上から覆った。
驚いた表情の娘は、咄嗟に狐から逃れようとした。だが狐は動くな、と言って娘を制する。
同時に、外からざあざあという音が聞こえてきた。
「……雨?」
「ああ、降ってきたようだ」
狐に覆われていない部分の娘の手足に、しとしとと水が滴り落ちる。
どうやら雨漏りしているらしい。狐は、娘ができるだけ雨に濡れないよう庇っていたのだ。
「このあばら家では雨漏りし放題。隅の方ならまだマシだから移動するぞ。わたしが雨を受けるから、お前はわたしの動きに合わせてくれ」
「は、はい」
両手両膝を使ってゆっくりと移動する狐に合わせ、娘も手足を使ってたどたどしく動く。
寝ころんだまま場所を移すのは窮屈そうではあったが、時折目を合わせ、意思を疎通し合い、何とかして雨漏りのない地点まで移動することができた。
そして、狐は娘に覆いかぶさるのをやめた。
「このあばら家は上手い具合に傾いているから、こっちまで雨水が流れてくることはない。それと、ほら」
「あ、わたしの着物と……お狐様の?」
「脱がしたわたしが言うのも何だが、冷えるといけない。早く着るといい」
「でも、これではお狐様がお冷えになるでしょう?」
狐は、丁度あばら家の片隅に放ってあった娘のボロと、そして自身が着ていたこれまたオンボロの着物を手渡した。
受け取った娘が心配そうな言葉をかけるも、構わんよ、と言って立ち上がった。
「どうせもう濡れているしな。それに昨日はたくさん汗をかかさせられた。この雨で流す事にしよう」
「汗をかいたのはお狐様の勝手でしょうに」
「そうれ!」
娘の声などまるで聞こえていないように、狐は蹴破られた戸から大はしゃぎで雨のもとへその身を晒す。
滴り落ちる雨に遊ぶ姿は幻惑的で、娘はぼうっとそれを眺めていた。
しばらくの行水の後、戻ってきた狐の手には欠けた茶碗。
その茶碗を、ボロを着た上に狐の着物を羽織った娘に向かってそっと差し出す。
「雨水を溜めたんだが、飲むか?」
「頂きますわ。でも、お狐様は?」
「わたしか? わたしはもうたらふく飲んださ。雨を浴びながらな」
「そうですか」
半分冗談で言ったつもりだったのだが、娘は特にくすりともせず無表情のまま茶碗を受け取った。
これは手厳しい、と狐は苦笑しながら娘の隣に腰を下ろす。
すると娘はちらりと狐に目をやり、雨音に掻き消されない程度の小声を発した。
「お狐様、すっかり濡れてしまっていますわ。このままでは風邪をひいてしまいます」
「なあに、問題はない」
狐は、自分の掌を顔に向けた。それと同時に、狐の濡れた髪がふわりと揺れる。
狐の掌からは温かな風が吹き起こっていた。
「器用でいらっしゃるのね」
「ふふ、まあそれほどでもあるよ。ただそれでも九つの尾を乾かすのには骨が折れるがね」
もの珍しそうに眺める娘を脇目に、狐は笑いながら自分の身体に掌をかざしていった。濡れていた身体が少しずつ乾く。
風の勢いも強弱調整できるようで、濡れの激しい大きな尾には強めに風を当てた。
「隙あり!」
「きゃっ!?」
突然、掌を娘に向けて風の勢いを強めた。
突風に捲られそうになるボロを娘が必死に押さえて事なきを得ると、狐は残念そうな顔をしながらもうんうんと頷く。
「ふうむ。捲れなかったのは惜しいが、必死になって押さえる姿もそれはそれでそそるものがあるな」
「お、お狐様ってば本当にいやらしい」
「わっはっは。そう褒めるな」
「……もう」
怒ったのか、呆れたのか、娘は狐に背を向けそのまま押し黙ってしまった。
これには、流石に悪ふざけが過ぎたかなと、狐も黙って身体を乾かす作業に戻った。
しばしの沈黙。聞こえてくるのは雨音と、狐の吹き起こす風の音ばかり。
「あの……」
「ん?」
背を向けながら、娘が沈黙を打ち破った。
狐は娘が声をかけてくれたことが嬉しくて、にんまり笑顔になりながら背を眺める。
背中越しの声が続いた。
「お狐様はわたしが人間か人間でないか分からず、底も見えないとおっしゃった。でも、まあいい、と気にもかけられない。一体何故?」
「そんなことか」
狐は、ゆるゆると娘に近寄り、声をかけてくる背中に、愛でるように抱きついた。
艶のある黒い長髪に顔を埋め、耳元で、柔らかく、しかしはっきりとした口調で囁いた。
「お前は美しい」
「……っ!?」
娘の肩が、ぴくりと揺れた。
再び垣間見られた動揺に気を良くした狐は、娘を抱く腕の力を少し強めた。
「お前が何者か、そんなこと今はどうでもいい。それよりわたしは、何者とも判断のつかないお前の妖しい美しさに心奪われてしまった。ただ只管に、お前が欲しい」
「あ……」
甘言を走らせながら、手をボロの中へと滑り込ませる。対して娘はさしたる抵抗もせず、侵入してきた狐の手に自身の手を重ねた。
それを許諾と受け取った狐が娘を自分の方へと向けそのまま押し倒すと、蕩けた表情の娘の口が小さく開いた。
「お狐様。折角雨でお流しになったのにまた汗で濡れてしまいますわ」
「汗などいくらでも洗い流せばいい。今のわたしはお前と契りを結ぶことしか考えられない色情狂さ」
「色情狂は昨夜から……ん」
娘の口は塞がれて、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。
雨音響くあばら家に、趣の異なる水音が響き渡った。
目が覚めると、吹き抜けの屋根から日が覗きこんでいた。
疲れて一眠りしている間に雨はあがり、時刻も日が真南に昇る頃となっていたらしい。
「雨が上がってしまっているとは誤算だったな……ん?」
身体のベタつきと喉の渇きを覚えながら呟くと、ある違和感に気付く。
隣に、娘の姿が無い。
「小娘の着ていたボロも無い。どこへ行ったんだ?」
きょろきょろと辺りを見回しながら口走る。
さては逃げられたか。それとも狐にでも抓まれたか。久しぶりに得た情熱を注げる相手を失うという恐怖が、嫌な想像を掻き立てる。
しかし、それも杞憂に終わる。破られた戸から、娘がひょっこりと入ってきた。
「どうかされましたかお狐様?」
「小娘……」
明らかに挙動不審であった狐に娘が話しかければ、狐は冷や汗まじりの顔で娘を見つめ返す。
狐の視線の先は娘の両の腕。右手で欠けた茶碗を持ち、左腕で大きな葉に包まれた何かを抱えていた。
「ああ、これですか? 喉が渇いたものですから清水を汲みに。それと、流石にお腹も空きましたので食べられる野草を摘んで来ましたの」
言いながら、未だ現を抜かした状態の狐の前に茶碗を置き、包みを広げる。
そして娘が茶碗を差し出してきたところで、狐はようやく現実へ帰ってきた。
「わたしはもうたらふく飲みましたので、どうぞお狐様がお飲み下さい」
「む、ああ……はは、これでは朝と真逆だな」
「ええ、まったく。さあ、野草を頂きましょう。水洗いは済ませましたし、生でも大丈夫だと思いますわ」
内心大きく胸を撫で下ろす狐に、娘は特に気付くでもなくふふっ、と笑う。
(惑わされている)
野草を口に運びながら、娘の微笑みに見惚れている自分を認めた狐は、はっきりとそう思った。
かつて多くの人間を惑わせてきた九尾の狐が、今は目の前の何者とも分からない小娘の妖しい色香に踊らされている。
だが、さんざん踊らせてきた身からしてみると、踊らされている自分とはなるほど滑稽で、新鮮で、それ故に刺激的で面白かった。百年冷め続けていた心が、新しい角度から解きほぐされる。
狐は最後の野草を嚥下すると、自身の衣を纏い、すくっと立ち上がった。
「どうされたのです?」
「少し出掛けてくる。夕暮れまでには帰るが、まあ待っていてくれ」
今ならどこまでも駆けてゆける気がする。塞ぎこんでいた気分はさっぱり晴れた。
ひと駆けであばら家から飛び出し、大空をも飛ぶ。吹きぬけた青空が実に心地よい。
試しに片手で空気をひと撫でする。
遥か上空を漂う雲が二つに割れた。
「ふむ、暴れ過ぎないように気を付けなければな」
自分の手をぷらぷらと振りながら笑う。
気持ちの良い解放感につい調子に乗ってしまったが、今回外へ飛び出したのは何も暴れるためではない。
何はともあれ、地上を見下ろしつつ天空を舞う。目的の物はきっとすぐに見つかるだろう。
「あった」
やはりすぐに見つかった。
山の麓の小さな集落。胡麻粒程度の人影もちらほら見える。
狐は一気に、真っすぐ、里のど真ん中に降り立った。
「ふうむ、人間の世界に来るのも久しぶりだな。久しぶりすぎて見慣れぬ物もあるが、舶来の物が広まったか、或いは」
降り立つや否や、狐はその聡明な頭で冷静に里の様子を把握する。
一方、里の人間たちにとっては正体不明の化け物が突然空から降ってきたこの状況。唖然とするしかない人々の沈黙が狐の辺りを包むものの、一人が声をあげた途端連鎖的に大騒動が起こった。
「き、きつねだ……きつねの化け物だ……」
「化け物!?」
「化け物ということは……く、喰われる?」
「喰われる!?」
「うわあああ喰われるぞおおおおお!」
「ひやああああああああ!!」
「わあああああああああああああ!!!」
混乱が混乱を呼び、人間たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出し、隠れた。
しかし狐はそれら意に介そうともせず、くんくんと匂いを探していた。
「匂いは……こっちからするな。それも結構たくさんありそうだ」
ぺろりと舌舐めずりをして、のしのしと歩き出す。
物陰に隠れた人間たちは固唾を飲んで様子を窺うが、誰も狐退治をしようとは思わなかった。ただの野盗ならともかく、化け物相手では話が違う。
里人の葛藤渦巻く中、狐は堂々と闊歩し、やがて大きな屋敷の前で止まった。
「ここかな? そうれ!」
「ひいぃ!?」
鍵の掛けられていた戸を蹴破り、建物の中へ上がり込む。
屋敷には多くの人間が小さくなって震えていたが、奥の方の部屋に恰幅のいい中年の男がいた。恐らくはこの屋敷の主人であろう。
「おいそこの男。お前がこの屋敷の主人か?」
「は、はいぃ! 命ばかりは、命ばかりはお助けを!」
狐が指差すと、主人は体を硬直させ、冷や汗をダラダラと流しながら答えた。
そのあまりの怯えっぷりにふと昔を懐かしみつつ、狐はなるだけ柔らかい声で話を始めた。
「何も命を取りに来たわけじゃあない。ちょっと酒を貰おうと思ってな」
「さ、酒でしたら隣の蔵に置いてあります! いくらでも差し上げますからどうか命ばかりはお助けを!」
「命は取らんと言ったじゃないか」
呆れながら、まあ仕方ないかと零す。酒は蔵の方にあるらしいので、さっさと貰って帰る事にしよう。あの小娘と出会ったことで心情も変わって、とうとう酒の解禁ができるのだ。
わくわくしながら足を動かすと、部屋のさらに奥にて身を屈める十六、七ばかり娘の姿が目に入った。
もう一度、震える主人の方へ目を移した。
「あれはお前の娘か?」
「そ、そうですが……む、娘は見逃して下さい! 孝行者で、いずれは良縁にも恵まれるはずの子で」
「だから安心しろと言っている。あまりガタガタ騒ぐと無理にでも黙らすぞ」
やかましい主人を睨みつけてから、狐は娘の方へと歩を進めた。
部屋の隅でカタカタと震える娘の肩を、壊さないように掴んで、顔を向けさせた。
「あ……あ……」
「ふむ」
恐怖のあまり声の出ない娘の顔を、狐は二つの目でしっかりと見る。
「悪くはない。お前もなかなか美しい。着物も綺麗じゃないか」
「……えっ?」
端正な顔立ちの狐にじっと見つめられ、美しいと言われた。その瞬間、娘の中の何かが蕩けた。
しかし狐には娘の感情の機微など興味が無い。ただ自分の言いたいことだけを言うのみ。
視線を娘が着ている着物の方へと移す。
「それでもあの小娘には及ばんな。その綺麗な着物はあいつにこそ相応しい。すまんが頂いていこう」
「わっ……きゃあ!」
狐は呆けていた娘から着物を一気に、それでも破れないよう剥ぎ取って、大事そうに抱えた。
そしてそのまま振り返り、満足げに蔵へ向かわんとしたところ、着物を奪われた娘が遠慮がちに声をかけてきた。
「あ、貴方は狐の妖怪なのですね? あの人の言った通り、本当にいたんだ」
「……あの人? 本当にいたとはどういうことだ?」
面倒なので振り向き直すことはしなかったが、狐は訝しんで娘に尋ねた。
すると娘も緊張が解れてきたのか、割とはきはきと喋るようになった。
「数日前、里に貴方と同じ黄金色の、長い髪の女性が尋ねてきたそうです。この辺りに九尾の狐が隠れているらしいが何か知らないか、と。誰もそんな狐は知らないし、その女性の佇まいも怪しかったので気味悪がって相手にしなかったそうですが」
「そうか……」
狐は一言だけ答えると、真っすぐ歩きだした。蔵から酒樽を一つ貰い受け、やはり物陰から窺ってくる目線を余所に、空を駆けた。
その間もずっと考え続けていた。黄金色の長い髪の女について。そしてあばら家で待っているであろう、あの娘について。
現れた時期はほぼ同じ。そして色は違うが、ともに長い髪の女。
「結びつけるな、という方が無理な話だな。まあ構うまいよ」
今の自分は色狂い。ただの人間であろうとそうでなかろうと、あの娘の色に溺れるならそれはそれで心地よい。
そう思わせる魅力があの娘にあるのだということを、狐ははっきりと理解していた。
日が傾きかけた頃、あばら家に帰ってくると多くの野草が並んでいた。
ある種異様な光景に狐が面食らっていたら、娘がにこやかにそれを出迎えた。
「おかえりなさい。ただ待っているのも暇でしたから、食べられる野草をたくさん摘んで来ました。お狐様が持っていらっしゃるのは?」
「ん、これは酒樽だよ。ちょっと人間から貰って来た。後で一緒に飲もう。それと、これはお前のだ」
「まあ綺麗……」
正しくは奪ってきた酒樽を置いてから、狐はこれまた奪ってきた着物を娘に羽織らせた。
美しい模様の入った着物に目を輝かせる娘を見て、狐も嬉しそうに笑った。
「わたしの目に狂いはなかった。やはり小娘が着た方がずっといい。……まずい、また興奮してきた」
「あの、お狐様。流石に三回目はちょっと……」
苦笑する娘に制され、流石の狐も思いとどまった、と思いきやそうでもなかった。
食事の時に、二人は酒樽を開けた。柄杓を一本拝借してきたので、交替交替に掬って飲んだ。
狐はよく飲んだが娘も良く飲んだ。結局消費量は二人合わせて二升以上。両者共に顔は真っ赤で、呂律も上手く回らない。
「おきつねひゃま……わたひ、からだがあつい……ぼーっとひて……」
「わたしもらよ。さあおいで……いっひょにもっとあつく……」
「……ひゃい」
狐が両手を広げると、娘は素直に身を委ねた。ここまで狐の計画通り。してやったり顔で娘の背を撫でる。
翌朝、またしばらく娘にそっぽを向かれる事になるのだが。
その後も、狐と娘は共にあった。
霞がかる朝は共に菜花を摘み、暑い昼は共に川で魚を採り、涼しくなった夕暮れ時は共に虫の音に耳をかたむけ、肌寒い夜は共に身を寄せ暖をとった。そして狐は娘を抱いた。抱いて、娘の色香に溺れ続けた。
酒が尽きると、狐は人里に下りて頂戴していった。人間どもに住処が特定されないよう、わざわざ遠方までひとっ飛びしてあちこちから頂戴し、ついでに娘に似合う着物も貰い受けた。
ただ狐にとって残念だったのは、初回の反省から娘が過度の飲酒を避けるようになったことであった。
間違いなく、楽しい生活。この生活は、意外とあっけなく、あっという間に幕を閉じることとなった。
倒木。
「小娘……」
出会ってからさほど月日もたたぬ夕べ、酒樽と着物を抱えて帰ってきた狐が目にしたのは、突風に吹き倒されたであろう大きな古木と、その下敷きとなった娘の姿。
娘は地に仰向けに倒れた状態で、腹より下部が古木に押さえつけられていた。
「ゴホッ! おきつねさま……」
「おい、喋るな。おい、今この木をどけてやるからな!」
血を吐きながら、苦しそうに話す娘に、悲痛の表情で声をかける狐。持ち前の力で古木を持ち上げ、娘を圧迫から解放した。
しかし古木がどけられようとも娘は微動だにせず、否、できず、たどたどしく口を動かし続けるのみ。
「最期に、一つ、お願いが、あります……」
「お前の願いなら何でも聞いてやる! だからこれ以上無理しないでくれ!」
自然と、狐の目から涙が零れた。半月にも満たぬ日々は、狐の顔をくしゃくしゃにするに十分の時間であったことに間違いない。
狐の涙を見て、娘は弱々しくも満面の笑みを浮かべ、着物の前を大きく開いた。
「このまま死ぬよりも、いっそ、おきつねさまが、わたしの喉元を、喰い破って……」
一拍の間。
この一拍で、聡明な狐は一生分悩み、決した。
「初めて会った時も、喰ろうてみろと言っていたな。いいだろう、せめてひと思いに」
「ありがとう……」
狐は牙を立てて娘に覆いかぶさり、その喉元に鋭く喰らいついた。口の中が、娘の血の味で満ちる。
その時、狐の鼻が強く反応した。
すぐ近くに、妖気の匂いがする。目の前に、妖怪がいる。
そして、啜った娘の血に乗じてはかり知れない力が流れ込んできて、不意に狐の意識が遠くなった。
薄れゆく視界に黄金色の髪の妖怪を確かめて、聡明な狐は完全に理解した。
(ああ……わたしの狂い踊りも、これで終わりか……)
「ううん……」
温かな匂いと柔らかな感触に包まれながら、うっすらと目を開けた。
気付くと自分は縁側に横たわっており、誰かの膝を枕にしているようだ。
ぼうっと天井を見上げると、慣れ親しんだ胡散臭い笑顔が覗きこんできた。
「ようやくお目覚めのようね、藍」
「ゆ、紫様!?」
主に膝枕される従者、という状況の自分を確認した時、八雲藍は大慌てで飛び起きた。
そしてすぐさま三つ指ついて、八雲紫に向かって深々と頭を下げた。
「こ、この度は居眠りをしてしまい、挙句の果てに紫様に膝枕をさせてしまうという御無礼、平にご容赦を!」
「そんなに謝らなくてもいいわ。藍の可愛い寝顔がたくさん見られて眼福眼福」
「は、ははー!」
もう一度深々と顔を下げてから、面を挙げ、月の位置を確認した。
南から西へと傾きつつある、相当な時間眠っていたらしい。
「ねえ」
紫から、そっと声がかけられた。
「寝ている最中やたらにやにやしてたけど、何かいい夢でも見たの?」
「あ、えー何でしたかね。はっきりと覚えていないかな~……」
「ふーん」
藍が目を泳がせながら嘘をつくと、紫は扇子で口元を隠しながらじっと見つめた。
「『お前、本当に人間か?』」
「うぐっ!」
「『わたしは馬でも鹿でもなく狐だ』」
「あがっ!?」
「『今のわたしはお前と契りを結ぶことしか考えられない色情狂さ』」
「紫様、ご勘弁を……」
「あの頃の藍、すごく積極的だったわ」
「あれは、その、若気の至りというやつで……」
穴があったら入りたいとはまさにこんな気持ちだろうと、藍は小さくなりながら思った。
また、踊らされてしまった。
あの時だってそうだった。
九尾の狐を手なずけようとしていた八雲紫は、わざと自分の妖力の一切を封印した。
それも本人の任意では解除不能の封印。これにより、狐の鼻をもってしても誤解が生じる。その不可思議さに狐はまんまと魅了され、色香に溺れた。
ただし、封印には二つの仕掛けがあった。
一つは封印解除の方法。八雲紫は封印解除の鍵として、九尾の狐に自身の肉を喰い破られる事、と設定していた。これは死にゆく者の最期の頼みとして、色情狂の狐を誘った。
もう一つは封印解除の結果。九尾の狐が八雲紫の肉を食いちぎれば、当然血も飲むことになる。その血こそ、八雲の式となす最初の通過点であるというのに。
「紫様には、まったく及びません」
結局のところ自分が八雲紫に惚れこんでいたという事実に変わりはない。その八雲紫に奉仕するという現在の立場に、言い知れぬ光栄を感じてもいる。
だが、奉仕するのみ。それ以上を望んではいけない。あの享楽の色狂いは、所詮狐を手なずけるための一時のもの。もう忘れなければならない。
「あまり買い被らないで欲しいわね。狐の一匹くらい軽く手なずけてやるって意気込んで、逆にその狐に食べられて色狂いに落ちた馬鹿な妖怪なんて」
「……えっ?」
藍はつい聞き直してしまった。自分の認識では、主が自分の相手をしていたのは式として使役するための布石。しかし今の主の言葉は、その認識と明らかに違う。聡明な狐は混乱してしまった。
一方主の方は、声を大きくして顔を赤らめた。
「な、何度も言わせないでよ。貴女に口説き落とされて、もう妖力を封印しちゃったまま一緒にいてもいいかな、なんて考えてたの!」
久しぶりに見た、心の底が見えるような焦りの姿。
これはもしかしたらとんでもない思い違いをしていたのかもしれないと思う藍。今までの自分の認識を、主に打ち明けた。
「わたしを信用させて、古木に潰され死ぬふりをして喉元を噛ませたのでは無かったのですか?」
「違うわよ。本当は会ってすぐ血を飲ませるつもりだったの。人間のふりをして油断させればすぐに釣れると思ってたら、『あんな事』になって、そのまま」
「じゃ、じゃあ何で古木の下敷きになったんですか? 紫様ともあろうお方が」
「あれは事故よ。あの時は妖力を封印したただの人間にも等しい状態だったもの。それで、これはもう死ぬって分かって、ならいっそ惚れた貴女にって……」
「封印のことは……?」
「考えてる余裕なんて無かったわよ。だって死ぬほど痛かったんだもの。でも、そういえばあれが封印の解除方法で、貴女を式とする手段でもあって、じゃあこのまま式にしちゃおうって思ったわ。どうせ貴女とは一緒にいたかったし……」
「…………」
「…………」
言っていて、自分たちが恥ずかしくなった。
藍は、今の今まで主の掌の上で踊っていたと思っていた。実際は、勝手に勘違いをして、勝手に踊っていた。
恥ずかしさのあまり身体が爆発しそうで、声も出ない。
気まずい沈黙を先に破ったのは紫だった。ゴホン、とわざとらしく咳払いする。
「あー、式になってから迫ってこなくなったのは主従関係に縛られて遠慮していたのだと思っていたけど、どうやら違ったようね」
口元を覆っていた扇子を閉じ、両手を広げた。
「寂しかったでしょう?」
「あ……」
妖しい笑みを浮かべて、藍を誘う。
藍はその妖艶な姿に心奪われ、しかしそれでも逡巡していた。
「さっき湯浴みで汗を流したことが気になるの? 心配無いわ。汗ならいくらでも流せばいいもの」
「あう……」
「従者が主人を抱いてはならない道理でもあったかしら? あいにくとわたしは人間の道理を知らないの」
「うう……」
「それとも、はっきり妖怪と分かるわたしなんて面白味も無くて惹かれないかしら?」
「そ、そんなことはありません!」
最後は強く否定して、藍は紫に飛びついた。
その勢いで紫は背中から床に倒れ、その上に藍が両手両膝を立てて覆いかぶさる。
「紫様は今でも、底知れない魅惑的なお方です。貴女は美しい。わたしは、貴女が欲しい」
「嬉しいわ。わたしも、貴女のその真っすぐな言葉が好き……」
二人の視線が一直線に交わる。藍は、荒ぶりそうになる息をごくりと呑みこんだ。
お互いの気持ちは、出会って間もない頃まで戻っている。主従の縛りはいったん消滅。
「紫様、いや小娘。あの時のように、また色狂いに踊っても構わぬか?」
「……ええ、一緒に踊りましょう。お狐様」
月下、二つの影が一つに重なり、共に踊った。
計算ずくかと思ったらそんなものは投げ捨ててたってのがもうね。
そんなゆからんには100点入れるしかないじゃない。
そしてエロいw
良いねえこういうの。
藍はイケてるなあ。ゆかりんはキュート。
二人の踊りが見えるかのようだ...
コーヒーが欲しくなりますなー。
藍が紫の掌で転がされているけれど、逆に紫も藍に魅入られている、そのバランスがすばらしい! イケメン藍様かっこよかったです。
ニヤニヤがマッハですわ
互いが求め合う関係は素敵ですね。
とても良いゆからん、大変おいしゅうございました。