ほんとうを言うと私はね、あなたが眼を閉じてくれてよかったと思っているの。もう一度あなたの心が開いたらって考えると、怖くて怖くて堪らなくなってしまうのよ。姉はとろとろ笑ってそう言うと、銃口みたいなこいしの瞳を見守りながら、親嘴 を落としてみせるのだ。
♥
思えば姉は昔から、本気なのか冗談なのかわからないことを吹き込んで、こいしをからかうのが好きな人だった。ある時は物憂げな顔をして、ねえこいし、今まで黙っていたんだけど、実はあなた、覚りじゃなくて石ころの生まれ変わりなの。隠していてごめんね。またある時は楽しげに、なんだ、もう忘れてしまったの? 自分が賽の河原の幽霊だったこと。日もすがら小石を積んでいた可哀想なあなたを、私がわざわざ拾ってあげたのよ。だからあなたはずっと大きくなれないの。だってお化けなんだもの。姉は小さなこいしを抱き上げて、そんな話をたくさんして聞かせるのだった。ほとんど親子と見紛う背丈の差を、言葉で埋め合わせようとするように。
姉については、覚りだということを除いて何も知らない。こいしの記憶の始まりから姉はそこにいて、こいしをただ妹として持ち扱っていたけれど、姉が真実自分の姉なのか確かめる術はなかった。覚りとしてのこいしの力はひどく劣っていたからだ。その時々の心模様をなぞるのが精一杯で、姉の過去まで遡って覗くには、こいしの第三の眼は近視に過ぎた。
こいしはひそみに倣って、その人をお姉ちゃんと呼んだ。そう呼ぶと、何だか背中に翼の生えているような心地がしたものだった。いつもぴたりと寄り添って、後ろから自分を包み込んでくれる翼。それがあるだけで、できないことまでできそうな気になれる立派な翼。
でも想像の翼が立派であればあるほど、それを思う自分の身の貧弱なのに、こいしは気づかないわけにはゆかなかった。姉は翼などなくても空を飛ぶことができた。翼などなくても高みから、人の心をどこまでも見晴るかすことができた。わたしは違う。空を飛ぶだけの体力もなければ、胸のうちを暴いてみせるだけの妖力もない。二人は姉妹でありながら、互いからあまりにもかけ離れていた。
さあこいし、恋い焦がれるような殺戮をしましょうね。平和な方々を一伍一什、ことごとく殺掠して差し上げましょうね。
覚り一般から見れば、姉は衆に優れた力を備えていたのだと思う。大妖怪の末席に名を連ねるくらいには。その頃、姉はこいしを連れて国中を経巡っていた。旅をしながら人や妖怪の集落を気の向くままに襲っては、かれらを容赦なく手にかけた。どこへ行っても姉の周囲には、飼い慣らされた巨大な死が寝そべっていた。姉がその首筋をくすぐってやりさえすれば、尻尾の一薙ぎで、押し並べて人々は呆気なく生きることをやめてしまうのだった。
姉は仕事をこなすように淡々と村々を滅ぼした。時には休みを取って子供の遊び相手をするように、こいしの遊び相手をしてくれた。胸元を食べ零しみたいに赤く染めたまま、晴れやかに笑み栄える姉の姿は、こいしにはこよなく無邪気に見えた。こよなく無邪気な、悪そのものに。
覚りは概して小食の妖怪である。それは姉も、無論こいしも例外ではない。姉に敢えてかれらを損なわねばならない理由があったわけではないのだ。こいしはそれを知っていた。ただ姉には、かれらを損なわずにおく理由がなかっただけなのである。そうして姉は、きっとそれを知らなかった。
どこか怪我したの、お姉ちゃん?
どうして?
元気なさそうに見えるから。
そんなことないわよ。
でも、はあって顔してる。いつもはぱーって顔なのに。
こいしがぎゅってしてくれたらぱーって顔に戻るかも。
じゃしたげる。
どう?
あ、戻ったよ。
よかった。
お姉ちゃん?
なあに。
ちょっと苦しいかな。
そう?
離してくれる?
もう少しだけ。
わかった。
あのね、こいし。
うん。
皆がね、お姉ちゃんのこと心ない奴だって言うの。心ない人でなしだって。確かに私は人じゃないけど、心のことなら何でも知っているのに。なのに私に殺される時、皆そう言うのよ。どうしてかしらねえ。
姉には心が遍く見えていた。見え過ぎるほど見えていたと言ってもいい。こいしの力が海面の細波を読むようなものだとすれば、姉のそれは自ら水中へ潜って海と戯れるのに等しかった。魚の群れのように行き過ぎてゆく思念、当人さえ未だ下りたことのない水底、姉の眼にはそうしたことどもが、一瞥のうちに手もなく眺められるのだった。
それ故に、なのだろうか。
心の海原を自在に泳ぎ回る姉は、いつしか地上で呼吸することを忘れていた。姉の心、他者の感情に最も身を接している他ならぬ姉自身の心は、感情を抱くことができなくなっていた。それが姉に限ったことなのか、まっとうな覚りなら多かれ少なかれそうなるものなのか、こいしにはわからない。姉以外の覚りには一度も逢ったことがないし、当のこいしはいやしくもまっとうな覚りではなかったから。
いずれ食肉に供するべく家畜を飼う人の、筋道立った思考を理解するのは姉にとって易かった。けれどいざ屠る段になって突然躊躇う人の感情は、姉には不可解なものに相違なかった。感情を知らないのだからそれに共感できようはずはない。魚が陸に上がったところで歩く足を持たないように。
したがって姉は、人にせよ妖怪にせよ他者の命を損なうことを、ほんとうの意味で何とも思っていなかった。
姉の手にかかって死んでゆく者たちは、しばしば姉の眼には奇異としか映らない行動に出た。血の繋がらない赤の他人の子供のために、行く手を阻む者がいた。飼い犬を庇って、わざと背中を晒す者もいた。かれらは姉という死を前にして一様に立ち竦んだ。それでいて決して逃げ出そうとはしなかった。代わりに心という語を用いて姉に強い非難を投げかけたのである。姉には、筋の通らない行動によって自分を詰るかれらの言葉が理解できなかった。
それを心と呼ぶのなら、姉にはまさに、心がなかったのだから。
そのことはしかし、不思議とこいしを悲しませはしなかった。むしろそうして膨大な死を振り撒く姉を見つめている時が、一番幸福な時間だったかも知れない。事を済ませたあと、何事もなかったようにこいしの髪をくしゃくしゃ撫でる姉の掌の温かな氷結、唇に浮かべる微笑の穏やかな凄惨は、いつもこいしを優しく魅した。姉は強かった。姉に抱き締められていると、そのありあまる強さが自分の弱さを肯ってくれるような気がした。ひいては自分が生きること、この世にあって一つの空間を占めることを、それは無条件に承認してくれる抱擁なのだった。
でもそんなに強い姉がどうして自分を傍に置いているのか、そこへ来ると、こいしの甘い思慕はたちまち拭いがたい負い目で潮垂れてしまう。
姉は嫌われていた。人妖を問わず姉の死を望む者は大勢いた。姉の悪名が世間に広まってゆくごとに、かれらは続々と姉の討伐に乗り出した。襲撃は鳴り物入りで行なわれた。幼いこいしを抱えながらでは処理できないと、姉は判断したらしい。行く先々で手頃なねぐらを見つけてきてはこいしをそこに隠して、自分は一人で追っ手の始末をしに出かけてゆくのだった。
姉が帰ってくるのは日が落ちてからと決まっていた。ねぐらの場所を敵に気取られないためにはそうするしかなかったのだ。何日も帰らないことさえあった。そういう時、姉の体からは乾いた誰かの血の他に、乾ききらない姉自身の血の匂いがした。こいしは自分が足手纏いであることを幼心に悟った。荷厄介な自分がいなければ、あの姉が不覚を取って傷を負うなどということは到底考えられなかったから。
姉は度々こいしのために書物を持ち帰ってきた。諸国のお伽噺が収められた草紙だった。こいしを膝に乗せてそれを読んで聞かせる姉の語調が、いたく郷愁めいていたのをこいしは今でも覚えている。まるで二人の、あらかじめ失われた思い出話をするように。こいしはそれを一方ならず淋しい心持ちで聞いた。だってそこに登場する悪者たちは、姉にそっくりだったのだ。最後に必ず報いを受けて殺されてしまう悪者たちは。
どうしたの。怖かった?
ううん。
もうお休みする?
うん。
そうね。お姉ちゃんも少し疲れちゃった。
一つ訊いてもいい?
いいわよ。
お姉ちゃんは死なないよね。退治されたりなんかしないよね?
さあ、どうかしら。世の中の皆が私を嫌うようになったら、その時はきっと退治されてしまうわね。
その時はわたしが代わりに殺されてあげる。
優しい子ね、あなたは。でも皆はあなたじゃなくてお姉ちゃんに死んでほしいのよ。
わたしお姉ちゃんより悪い妖怪になるもん。
あら、ほんとう?
ほんとだよ。飛びっきり悪い奴になってやるから。
そう。じゃお姉ちゃんは悪いこいしをよしよししてやるのだ。こうやって。
くすぐったいよ、お姉ちゃん。
ある晩、ふと寝覚めたこいしは、夜空が仄かに明るんでいるのを見た。まだ夜明けの頃合いでないことは外から届くふくろうの囀りで察せられた。姉は帰っていない。俄かに胸騒ぎに駆られてねぐらを出た。四方は亭々と木々の連なる夜の森である。明かりはここへの来しなに通りがかった都の方角から差しているようだった。姉はあそこにいるのだろうか。しかしそれならあのお祭りみたいな賑やかな光は何だろうと、胸のざわつくままに思案するうち、こいしの足はおのずとそちらへ向けて踏み出していた。
都は燃えていた。火勢は天に迫るほど激しいのに、人声は一切聞こえない。夢の中の町が燃えているようだと思った。時折崩れ落ちてゆく家々の立てる音だけが、枕元で床板の軋むような現実味を辛うじて添えていた。無数に畳なわった骸の山を踏み分けて、こいしは姉の姿を探した。
姉は大路のさなかにいた。地べたに膝を突いて、最早男だか女だか判別のつかない骸を抱き起こしている。姉の周りには拳大の赤黒い塊が、無造作に何百と積み重ねてある。姉は原型を留めていない骸の唇に、自分のそれを重ねた。ややあって離れた時、姉の口元はねらりと真っ赤に染まっていて、頬は大量の水を含んだように大きく膨らんでいるのがこいしの眼に映じた。
姉は掌に口内のものを吐き出した。骸から吸い出した心臓だった。
それからその心臓を仔細らしく検め出したかと思えば、急に頬ずりをしたり、胸に押し当てたり、親嘴をしたり、矯めつ眇めつ弄り始める。それらを一渡りこなすと途端に興味を失ったもののごとく、そこいらへ放り投げてしまう。遊び方の不明な玩具を与えられた幼子のように。
棄てられた心臓の数から推して、姉はこの作業を随分長いこと繰り返していたらしい。何のためだかこいしには想像もつかない。ただ姉のしていることが、紛れもない罪、大気が凝って水滴となるように、世にある罪と名のつくものを一所に集めて端的に要約したような、一つの罪の塊に思いなされた。
あらあなた、来ちゃったの。
面を上げた姉がこいしに微笑みかけていた。こっそり摘み食いしているところを見咎められたような、悪戯っぽい微笑だった。こいしは姉の元に走り寄って、その胸と安堵を固く抱き締めた。罪はいつか相応の対価によって贖われねばならない。でも姉は、そもそも罪が罪であることを認識できないのだ。だったら姉が罰を受ける必要なんかない。もし何かを差し出さなくちゃいけない時が来たら、姉が手離すものはわたしの命だけでいい。こいしはその時密かにそう誓ったのである。姉の底意も知らぬまま。
今ならわかる。心を、姉は探していたのだろう。
畿内の山中にねぐらを構えた日のことだった。不意に姉が草紙を繰る手をとめて、板戸の隙間から麓の方を透かし見た。お姉ちゃん? おいで。覗いてごらん。見ると、踵を接して葛折りの山道を突き進んでゆく数多の人影が窺われた。いや、人ではない。屈強な体躯、頭部の角、まったき鬼である。いずれも種子島や短筒などの火縄筒を担っている。筒身に象嵌された複雑な紋様は、対妖怪用に施された呪術の類であるらしい。先頭には一人の少女の姿があった。燃え盛る輪入道に乗っているから、こいしとさして変わらない、あどけないその面差しが著 く垣間見えた。
あそこ、女の子がいる。
あの方は彼岸の閻魔様ね。
えんまさま?
死者を裁く偉い方よ。
どうして閻魔様がここにいるの?
お姉ちゃんを迎えに来たんでしょう。
迎えにって。連れてかれちゃうの?
捕まれば、そうね。
どこに?
地獄に。
死んじゃうってこと?
そうなるわね。
時を移さず、山は閻魔の手勢に取り囲まれた。姉は抜け道を探しにやはり一人で出ていった。空から逃げなかったのは、山上全域に地獄鴉が放たれていたからだ。
二人の日々に別段外見上の変化はなかった。相変わらず姉は暢気そうにこいしを構ってくれたし、こいしも姉が帰ってくると一時不安を忘れることができた。このまま時が過ぎれば、そのうち姉が安全な抜け道を首尾よく見つけてきてくれるように思われた。あるいは向こうが諦めて先に引き揚げるだろうと。ここ下りたら、次はどこ行こっか。気が早いこと。それならあなたが決めて頂戴。お姉ちゃんの行きたいところがいいの。ふむ、行きたいところねえ。下りるまでに決めておいてね。畏まりました、お嬢様。
そう、思っていたのに。
夜、怖い夢を見て眼が覚めた。堪らず姉の毛布に入って手を回すと、べったり濡れた感触がした。姉の腹部から、液状の夜のようにそれは暗く流れ出ていた。同時に思い出したのは、日中、遠くで何かの爆ぜるような音を耳にしたことだった。帰ってきた姉は顔色一つ変えず、食事を作って、読みさしの草紙を一節分読んでくれた。怪我をしている素振りなど、まったく見せなかったのに。
姉は床に伏した。大丈夫よ、すぐ治るから。でも血、たくさん出てるじゃない。風邪引いて洟の出る方が辛いわよ。そう嘯いて澄ましている姉は、しかし言葉に反して中々よくならなかった。閻魔の側ではまた、次第に包囲の網を絞ってきたらしく、一日に何度も足音がしたり、時によってはねぐらの間近で話し声がすることもあった。こいしはひねもすねぐらに籠って姉の介抱をした。こいしの幼い心は、自分が傷つくよりも、傷ついた姉を見ていることの方によほど耐えがたい苦痛を感じた。こいし、と姉が言った。
お姉ちゃんが捕まったらあなた、一人で行くのよ。
やめてよそんなこと言うの。行くところなんかないよ。
好きなところに行くといいわ。
ここしかないもん。わたしの好きなところはお姉ちゃんのいる場所だけだよ。
姉が眠ったのを確かめて、自分も床に就こうと腰を上げた時だった。複数の足音がねぐらの外をとよもした。音の大きさからして、五間と離れていない。思わず息を詰めたけれど、音はそのまま通り過ぎてゆく様子だったから、こいしは壁に寄ってそろりと外を見澄ました。
閻魔の横顔が見えた。数人の鬼が後ろに続いている。数間行ったところで彼女はつと立ち止まって、ねぐらの方を顧みた。外からではただの茂みにしか見えないはずなのに、閻魔はこの瞬間、こいしの視線をしかと捉えた。少なくともこいしにはそう感ぜられた。しかし閻魔は何も言わずに眼を逸らすと、それきり侍従の鬼とともに闇の中へ消えていった。
こいしが固まったまま動かずにいたのは、恐ろしかったためではない。面立ちの美しさに見惚れたためでもない。閻魔の表情、薄氷の下に閉ざされた溜まり水みたいな閻魔の表情が、姉のそれと徹底的に真逆だったことを見取ったからである。氷のうちにあって、そよとの風にも吹かれない無表情。感情を持たない姉の顔が、そのために何色にでも染まるのに対して、閻魔の微動だにしない無表情は、残る隈なく堅牢な一本の芯に貫かれていた。すなわち罰に。それ自体が一個の表情にまで高められた、いわば罰すら罰しかねない絢爛な罰に。こいしは一頻り凝然とそこに佇んでいた。やがておもむろに自分の毛布に潜り込むと、暗闇へそっと囁いた。
わかったよ。わたしの行く場所。
翌日、こいしは姉の起きないうちにねぐらを抜けて、辺りを警邏している鬼たちを遠目に瀬踏みした。そうして適当な一人を見定めると、居眠りの隙を突いて手持ちの短筒と火薬入れを掠め取った。ねぐらへ戻ってから、鉛弾の入っていないことに気がついた。今頃血眼で探し回っているだろう。また引き返すわけにはゆかない。得物を床下に隠しておいて、外から石ころを拾ってきた。その日からこいしは石ころの切削を始めた。
力の弱いこいしには重労働だった。弾を十個削り出すまでに数日かかった。夜もずっと起きて姉の寝息を聞いていた。わたしね、これからすっごく悪い妖怪になるんだ。そしたらお揃いだね、わたしたち。すべての弾があんじょう磨き上がった夜半、こいしは寝ている姉に初めて親嘴をしてみた。重ねるというより、茶碗の上に小皿を乗せるような、ぎこちない接触ではあったけれど。それから短筒を携えてねぐらの戸を開けた。
さよなら、お姉ちゃん。
♥
あなた。
んん、
あなた、起きなさい。
お姉ちゃん。んふふ。
私はお姉ちゃんではありませんよ。
え。あっ、お前!
よく眠れましたか、古明地こいし。
なんで、
なぜあなたの名前を知っているのか、ですか? 彼女が連れ回している唯一の存在ですからね、あなたのことは無論知っていますよ。恐らくあなたよりもね。それともなぜ私がまだ生きているのかと訊きたいのですか。残念ながら閻魔は心臓を撃たれた程度では死ねないのです。
そう。失敗したのね、わたし。
落ち込むことはありません。鉄砲一挺で容易く片のつくことなど、元来此岸にはあまりないのですから。
わたしを殺すのは簡単だよ。
まあ、そうでしょうね。
じゃあ早く殺してよ。
死にたいのですか。
その代わりお姉ちゃんには何もしないで。
はあ。
あなた閻魔様なんでしょ? わたしあなたを殺そうとしたの。それってとっても罪深いことよね。だからわたしに罰を与えてよ。
古明地こいし。あなたは自分が何者なのかわかっていますか。あなたの姉が一体どういう妖怪なのか、あなたは考えたことがありますか。
わかんないよそんなの。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもの。世界中の皆が嫌っても、わたしだけはお姉ちゃんの味方でいるわ。
そうですか。ともあれこちらとしては、あなたの姉を点鬼簿に加えるつもりはありませんので安心して下さい。ただあなたには少しばかり取引のお役に立って頂きますが。
取引?
ええ。あなたは人質なのですよ。
上空の地獄鴉が一斉に鳴きさざめいた。かれらの言葉はこいしには聞き分けることができないけれど、姉には届いているだろう。こいしが閻魔の手に落ちたこと、こいしの居場所、それらを直々に伝える閻魔の急報として。山裾の開けた草地に、こいしは両脇を鬼に挟まれたまま座していた。
空を仰いでいた閻魔がゆるりとこいしを見向いて、時に古明地こいし、あなたの姉は、あなたのためにちゃんとここへ来るでしょうね。透かし絵を見るような、わかりきっていることを訊くような口調だった。こいしは返事に詰まった。閻魔が考えているほど、それはこいしにとって明らかなことではなかった。いや、違う。姉なら万障繰り合わせて来てくれるだろう。でもこいし自身が姉に来てほしいのかというと、それには頷くことができない。閻魔は姉を殺さないと言ったけれど、当てになるかどうか。それでなくとも姉の傷は完治していないのだ。いっそのこと、知らせを聞かずにいてくれたら。かぶりを振る。そうではない。ほんとうは思いを致したくないだけなのだ。無断で飛び出して、あまつさえ捕まってしまった自分を、姉が見限ったかも知れないことに。見限って、棄ててしまったかも知れないことに。
鳴き声がやんだ。
敷き物の皺が伸ばされてゆくように、周辺の空気が端から張り詰めていった。鬼たちがすかさず振り向いた方へ、こいしも咄嗟に眼を向けた。水際立って丈高い杉の木の天辺に、弛緩した片頬笑みを浮かべながら、姉が腰をかけていた。この場にまるでそぐわないその笑みは、むしろけざやかに歪に見えた。綺麗に均された敷き物の縁に、最後に残された皺のようだった。
こんにちは、閻魔様。
お逢いできて嬉しいですよ、古明地さとり。
私はあんまり。
それは残念。しかし辛抱して頂かねばなりませんね、この子の命運は我々が握っておりますので。その上で、あなたに提案があるのです。
ああこいし、そこにいるのね。一人で遠くに行っちゃだめでしょう? 起きたら毛布が空っぽなんだもの、心配したのよ。
うん。こいしはおずおずとはにかんだ。ごめんなさい。
そういえば、と姉は人差し指を立てて、お姉ちゃん決めたわ。次の行き先。
ほんと?
ええ。幻想郷というところ。鬼さんたちの心に映っていたの。妖怪がたくさんいてね、皆心安らかに暮らしていたわ。きっと素敵な郷なんでしょう。
お伽噺の国みたいね。
そうよ。あなたも気に入ってくれると思うわ。一人残らず殺して、静かで誰もいない場所にして、それからそうだ、二人でおうちを建てましょうか。あなたはちっちゃいから、小さなおうちがいいかしら。だけどいつかお姉ちゃんより大きくなったら不便だろうし、やっぱりおっきなおうちがいいわねえ。
うん、うん。こいしは潤 びた眼を細めて笑った。お姉ちゃんがいいならわたし、何だっていいよ。
生憎ですが、と閻魔が口を入れた。その希望は果たせないでしょう。
ああ閻魔様、ごめんなさい。お話が逸れてしまいました。
構いませんよ。あなたの救いがたい罪業、つくづく胸に沁みましたから。ところでこの子を返してほしいなら、一つ我々の提示する条件を呑んで下さいますか。
そう言って、閻魔は物差しのような視線を姉に据えた。あなたを地獄に封印します。あなたの行きたいという幻想郷の、地の底にある地獄です。あなたにはそこで生々世々、生きながら死者の統率を管掌して頂くことになります。
死者の統率。獄卒のようにですか。
ええ、獄卒のように。もっとも自ら獄に繋がれた獄卒ですがね。しかしこれはあなたにとっては破格の待遇ですよ。本来であればあなたの罪は、死をもってしか償い得ないほど甚深なものなのですから。あなたの非凡な力に眼をつけた十王連の酌量がなければ、今頃あなたは三途の川を渡っていたことでしょう。このような幸運にはこの先二度と巡り逢えぬものと心しなさい。これを機に、悔悟の上にも悔悟を重ねて、精進すること尼公のごとき日々を過ごすよう千万の努力を傾注し、ってあなた、聞いてますか。
でも私、幻想郷に行かなくちゃいけませんから。
何? 閻魔は眉をひそめた。何ですって?
幻想郷に行くと決めたのです。なので残念ですけど、地獄の管理者にはなれそうにありません。
あなたは自分が何を口走っているのか自覚していますか。これは提案と申しましたが、あなたにしてみれば選択の余地などないはずです。あなたを追っている者の大半は我々ほど寛容ではないのですよ。幼い妹を庇護しながらでは、あなたはあと十年生き延びることすらままならないでしょう。
それ以前に、と閻魔は続けた。この子は今、我々の手にあるのです。あなたが是と言わぬなら、難なく損なってしまえることをお忘れなく。我々に必要なのはあなたであって、この子ではないのですからね。まさか閻魔と鬼の小隊を相手取って、恙なく妹を奪還し、よもや逃げおおせるなどと考えているわけではないでしょう?
うーん、そうですねえ。
姉の声は至極伸びやかだった。じゃ仕方ないわ。そうして下さいな。
こいしの耳はその言葉をはっきりと聞き取った。地図にして手渡されたかのようにはっきりと。けれど何が仕方ないのか、何をそうしろと言ったのか、すぐには思い至ることができかねた。
姉は木の上から消えていた。次の瞬間、背後で重いものの崩折れる音がして、さとりッ! 閻魔の鋭い一声が飛んだ。街道へ続く坂道を塞いでいた二人の鬼が、胸に穴を開けて倒れていた。死んでいるのは明らかだった。その向こうに姉が立っていた。両手には鬼の心臓がある。鬼くらい強靭な種族なら、心臓を抜かれたからといってかくも素早く絶命することはない。抜かれる寸前に、姉から許容量を遥かに超える心的外傷を注ぎ込まれたのだ。それが掌の形をした幾多の痣となって、鬼の全身に死斑のように生じ始めていた。
正視に耐えないその姿が、自余の鬼たちの戦意を強制的に脱臼させた。暫時ではあったけれど、それでも緊張していた空気に致命的な裂傷が走ったのがわかる。恐らく閻魔でさえ、彼我の距離を一瞬で詰めることは叶わないだろう。姉の行く手を阻むものは既にない。刹那のうちに、姉のための退路が完成していた。
待ちなさい、古明地さとり。
何でしょう。
この子を、見棄てるつもりですか?
そうですよ。姉はにこやかに応えた。道を訊かれた人のように。
あなたは、この子を救うためにここへやってきたのではないのですか。
そうでしたけど、でもそしたら幻想郷に行けなくなってしまうじゃないですか。
幻想郷の罪もない者たちを殺めに行くために、それだけのために、あなたはこの子の命を棄てるというの。
ええ。
それで何とも思わないの。
残念だと思いますよ。二者択一を迫られるのはいつだって辛いものです。
あなたは、と言いさして閻魔はしばし押し黙った。この子は、あなたにとって何なのです。
何ってもちろん妹ですよ、と姉は事もなげに言った。
では閻魔様、私はそろそろ失礼致します。姉は慇懃に頭を下げたのち、淑やかにこいしへ眼を転じた。その赤色の瞳、窓から見える遠い火事のような、遠いということによってしか保てないあの広大な優しさを含んだ赤色の瞳が、こいしを仮借なく眺め下ろした。
じゃあね、こいし。
もし姉が背を向けて去ってゆかなかったなら、こいしは永遠に停止した時の中で、姉の微笑を見つめ続けていたに相違ない。そこにはいささかも常とたがうところがなかった。同じ柔軟、同じ温和に隈取られた笑顔、こいしの幸福の紛う方なき符丁に他ならなかった。姉とこいしの間にある一切が、まさしく今、決定的に変わってしまったにもかかわらず。
こいしは第三の眼で姉を見た。
何も映らなかった。
何もなかった。
姉は初めからわたしを愛していたのではなかったのだとこいしは思った。ただ世間一般の人々が身内に対して自然に施す世話を、見様見真似で与えてくれていたに過ぎなかった。心のない姉が心のある振りをするために。しかし元より心を知らない姉の行動に、いずれ綻びが現れるのは道理である。
たまたまそれが、今だったというだけのことなのだ、と。
半数で彼女を追います。あとの者はここに残ってこの子の監視に当たること。
閻魔が部下に呼びかけていた。逃げたと見せかけて連れ戻しに来るかも知れませんから。
ねえ。こいしは閻魔の裾を掴んだ。待って。
何です。
わたしを殺して。行く前に。
馬鹿なことを。あれはじきに戻ってきますよ。
お願いよ。
閻魔の足に縋りながら、こいしは命乞いをするように掠れた声を絞り出した。殺してほしいの。
捕まった際に放ったものとは、まるで意味を異にした言葉だった。閻魔はこいしを振り払わなかった。かえって己の身が痛むかのように顔を歪めた。屈んで、蹲っているこいしの体に腕を回した。あなたたちは、少し罪深過ぎる。そう言い残して、輪入道に飛び乗った閻魔は木々の葉籠りの奥を駆け抜けていった。姉が目指したどこかへ向かって。こいしの隣ではない、どこかへ向かって。
翌朝、こいしの姿は消えていた。残った鬼全員が見張っていたのに、こいしが消えた瞬間を見た者は一人もいなかった。こいしに宛てがわれた寝床には乱れた文色もなく、元々何も入っていなかったかのようである。
隅に一つ落ちているものがあった。うっすらと涙を纏って温かい、刳り貫かれたばかりの眼球だった。
♥
こいし。
呼ばれて、こいしは反射的に眼を開けた。真っ暗だ。突然の覚醒に思考が追い着かない。ほど経て目が慣れてくると、自分の立っている空間のたいそう狭いことが見て取れた。この暗さと狭さには覚えがあった。自分と姉が渡り歩いてきた、いくつものねぐらと同じそれだ。
傍らで人の立ち上がる気配がした。姉だと察するより先に、ふわりと体を包み込まれていた。なんで姉が自分の傍にいるのだろう? いや、なんで自分が姉の元にいるのだろう? あのあと何が起こったのか、まったく覚えていなかった。
閻魔が言った通り、こっそり戻ってきた姉が、眠っているわたしを助け出してくれたのだろうか。姉の行動は全部わたしのためのはったりで、姉は頭からわたしを救出するつもりでいたのだろうか。第三の眼に姉の思念が映らなかったのは? 眼の調子が悪かったせいかも知れない。どうせ碌に使えない役立たずだったのだし、見えない時があっても不思議ではない。そこまで考えてから胸に手をやって、ああ、もう棄ててしまったのだと思い出した。あのね、とこいしは水を向けた。わたしの眼、
なんだ、と姉の声がした。あなた、まだ生きていたのね。
こいしは口を噤んだ。生きていたのね、という一言が、逆にこいしの大部分を死んだように冷たく硬化させてゆく。どうやって逃げてきたの? と姉が訊く。わかんない。どうしてお姉ちゃんのいる場所がわかったの? 首を振る。あら。姉はこいしの胸を差し覗く。どうしたの、これは。こいしは応えない。そう、と姉は言う。聞いたことがあるわ。力を失くした覚りは本能のままに動くようになるのだって。あなたはきっと、お姉ちゃんの匂いを追ってきたのね。
拘束が強まって、愛おしそうに頭を撫でられる。すると涙がほとんど自動的に零れて、取り返しのつかない傷口のような深い線を引きながら、頬を伝い落ちていった。悲しかったのですらない。錆びついた自分の中身が、外側から一枚ずつ薄く剥落してゆくような、いわばしめやかな諦めの涙だった。姉にとってはこの愛撫も抱擁も、家畜に餌を与える行為と何ら変わらない瑣事でしかない。これまでもそうだったし、こいしがいつか世界に屠殺されるまで、それがこいしの望むものになることは、例えば愛になることは、決してあり得ないのだ。
その夜、こいしは姉の枕元にいざって短筒を翳した。
服の下に仕舞われていたそれは、閻魔の命を突き通すはずだった得物である。
静かな寝顔に銃口を向けた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
姉のために生きてきた心なのに。姉のために死ぬべき体なのに。そのはずなのにこいしは今、姉を弑することだけを考えていて、そんな恐ろしいことを願う自分に何の反発も抱けない。誰よりも姉を好きでいたい自分が、誰よりも姉を憎み始めている。そう思うと、この鈍色の凶器一つが、さながらお伽噺の途中に記された、どうしようもない誤字か何かのように感ぜられてならなかった。引き金にかけた指がとまった。
どうしたの。
赤い双眸がこいしを赤く見据えていた。やらないの。
さらさらと柔らかな声だった。子供の問いかけみたいに無邪気ですらあった。非難も失望もそこにはなかった。ないことに胸をひしがれた。いつだってわたしたちはそうだった。姉にあることすべてがわたしにはなく、わたしにあることすべてが姉にはなかった。筒身を握った手が萎れていって、だらりと膝の上にしな垂れた。そうして唐突に判ぜられたのは、姉はわたしを裏切ってなどいなかったということだった。裏切ったのは、わたしの方だ。
お姉ちゃん、わたしね。
なあに。
わたし、お姉ちゃんを殺そうとしたの。なんでかな、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったよ。
そうなの。
おかしいよね。変だよね。わたしもおかしいと思う。でもどうしようもないんだ。
どうしようもないならしょうがないわ。人が人を嫌うのは自然なことだもの。
違うよ、わたしがお姉ちゃんを嫌うのは、それだけは間違ってるの。絶対に間違ってるんだよ。
あなたは間違いたくないの。
間違いたくない。絶対に間違いたくないのに、自分で自分がとめられないの。
だから、とこいしは消え入りそうに言葉を継いだ。だからお願い、その前に、わたしを、
二つの赤はいつの間にか薄闇の下に畳まれていた。隠微な寝息がしろしろと立ち昇ってくるばかりである。妹の剥き身の殺意に晒されているにもかかわらず、それはあまりに穏やかな呼吸だった。火縄に点っていた火が絶えた。姉の寝姿も自分の手元もたちまち曖昧になった夜更けの底で、銃口がどちらを向いているのか、こいしにはもう見分けがつかなくなっていた。
姉は再びこいしを伴って旅を続けた。幻想郷、早く見たいわ。楽しみねえ。以前のようにこいしの手を引いて、隔意など微塵もなさげにはしゃぎ回る姉の姿は眩しかった。その眩しさは、日溜まりの下に投げ出された人が覚えるあの眼の痛み、痛みに言寄せた完全な疎外の感覚を、朝夕こいしに味わわせずにはおかなかった。真に痛みを感じるべき眼は既に失ってしまったというのに。うん、楽しみだね。
道中は陸路を取った。閻魔の一行は無論のこと、数知れぬ追っ手の眼に空旅は目立ち過ぎるからだ。徒歩の旅路はおのずと長引いた。こいしにとっては此岸と彼岸の距離ほどに。表面上は何もかもが元通りに復したような日々の中、裏では幾度姉の血を浴びる夢想に囚われたか知れない。そうしてかくも忌まわしい情動を、何遍この身ごと葬ってしまおうと思ったことだろう。
その度こいしは短筒を手にねぐらを飛び出した。どこか遠いところで密かに自分を殺すつもりだった。姉のために閻魔と刺し違えることを決めた時のような満足は、最早どこにも見出せなかった。ひたすら小石のようにありふれた死を死んで、姉のいる場所から自分を抉り取ってしまいたかった。けれど覚りをやめたこいしの体は、案に相違して、我に返ると必ず姉の元に立ち帰っているのだった。
まるで生きたがっているかのように。
そんなはずはなかった。こいしの心は切実に自らの死を欲しているべきだった。そうでなければいずれ自分が姉を害してしまうに違いないから。だからある日、姉のいない折を見計らって妖怪の一団がねぐらに踏み込んできた時も、こいしは短筒を脇に置いたきり、抵抗一つしなかった。裸に剥かれて凌 されても。かれらの家族がかつて姉からそうされたように、胸を切り細裂かれて心臓を喰らい尽くされても。
帰宅した姉は、荒らされたねぐらの中をゆっくりと見渡した。壁に凭れている小さな体に眼をとめた。体というより、破れかかった袋のようにそれは見えたことだろう。胸に開いた眼窩のような穴から、はらはらとこいしは命を垂れ流していた。両眼は使い物にならなくなっていたけれど、姉が眼の前に腰を屈める気配は感じ取ることができた。
こいしの体は鬼のように強くはない。心臓を失えば長くは保たない。時間はあまり残っていなかった。こいしは感覚のない唇を必死に動かした。最後に一言謝りたかった。でも声になってはくれなかった。息を吐くと、飛び出た眼球を直接握られるような、剥き出しの痛みが胸に沁みた。耐えきれずに少し震えた。押さえつけるように唇を動かし続けた。だめよ、と言い聞かせた。我慢しなきゃだめ。この痛みは、わたしの罰なんだから。
姉の手が、年月のようにそっとこいしの体に置かれた。どこに置かれたかわからないのに、置かれたことだけはわかる、不思議な触れ方だった。青褪めてゆく肌を、きれぎれの吐息に合わせてさすられた。涙のように血は溢れてとまらなかった。
苦しいのね。
薄れつつあるこいしの世界に、姉の声が際やかに響いた。それは確認ではなかった。慰撫でもなかった。そこにそんなものがあることに初めて気づいたような調子で、姉はその言葉を口にした。沈黙が二人の間を領した。続く声はなかった。代わりに姉の手が離れてゆくのを遠く感じた。
何かを毟り取るような音が聞こえたのはすぐあとのことだったと思う。
胸の空洞に、生温かいものを柔らかく押し込まれる感覚があった。同時に錠が外れて扉の開くように、視界が鮮明になった。そこからこぞって逃げ出してゆくもののごとく、全身を苛んでいた疼痛が引いていった。胸に手をやると、平べったい乳房のつるりとした肌触りがある。それしかない。傷も、傷の痕も見当たらない。途方もない妖力が体中を駆け巡っていた。それが瞬く間に傷を癒したのだということはわかった。
わからないのは。
血まみれの体で、姉はこいしを抱き寄せた。勢い寄りかかる格好になったのは、力が入らなかったからだろう。つい今し方までこいしの胸にあったものと同じような穴が姉の胸には開いていて、大きな花の模様みたいに服を赤く染めていた。姉はそれらに委細構わず、心なしやつれた笑みを浮かべてこいしを見た。我が身に移して子供の風邪を治した母親のような笑みだった。
よしよし、と姉は言った。これで苦しくないわねえ。
こいしに心臓を与えた姉は、結果として妖力の大半を失った。飛ぶことはおろか歩くこともままならず、間もなく閻魔に追い着かれると、かえって向こうが拍子抜けするほど呆気なく、己の身柄を明け渡した。時あって飛騨の国、幻想郷を目前に控えた、覚りの生国にてのことだった。
一天四海に隠れなき、佞悪 極まる嫌われ者の大妖怪、古明地さとりが地獄に封ぜられるまでの、以上が顛末である。かくして姉は地底旧都が地霊殿の初代当主と相なって、爾来、数百年の間一度も館を出ないまま今日に至ることとなる。姿の見えないものが往々にしてそうであるように、姉に関する風説もまた尾鰭が何十本とついた末、猛者揃いの旧都においてさえ、祟り神に対するような畏怖と侮蔑をもってその名が囁かれている。
しかしかれらは知らない。姉は館を出ないのではなく、出られないのだということを。衰弱しきった今の姉にはそれだけの力も残っていないのだということを。できることといえば、せいぜい相手の心の傷を拝借して武器にすることくらいだろう。いわば白紙の本に取っ替え引っ替え別々の表紙を付すようなものだ。姉自身はいつまでも白紙のままである。
姉は毎日部屋に籠って、誰かの生涯が綴られた誰かの物語を読む。時には自ら筆を執って、真っ白な原稿用紙をさらさら埋めてみたりもする。自分の心の代わりのように。
その姉に命を猶予されたこいしは、今日もふらふら地霊殿へ帰ってくる。第三の眼を棄ててからこっち、こいしの放浪癖はひどくなる一方だ。でもどういうわけか帰るのを忘れた日は一日もない。ドアを排して、見慣れた背中へいつものように声をかける。
ただいま。
おかえり。返ってくるのはいつものように聞き慣れた声である。遅かったわね、お腹空いたでしょう。今日はどこへ行ってきたの?
♥
愛って、何なのかな。
なあに、おかしなことを訊くわね。
ちょっと昔のこと思い出しちゃって。
昔?
うん。ずっと昔のこと。
ふむ。愛とは多分、期待でしょうね。
え? 期待?
見返りを望む利他行為、と言った方が近いかしら。
純粋な利他行為じゃなくて?
それは無償の愛というものよ。
無償の方がいいじゃない。
無償の愛なんてあなた、この世には存在しないわ。
そうかな。
母親が子供に抱く愛情だって、底を割ればあらかじめ設計された脳内の機構でしかないのよ。自分の遺伝子を後世に伝えるためのね。もっと血縁的に離れた愛なら尚更でしょう。埋火が灰なしには燃え続けてゆかれないのと同じように、愛はそれを与えてあげた相手からの返礼がなければ長持ちできない。少なくともその期待がなくてはね。
何だか現金な話だね。
愛は資本主義者なの。
愛はお金で買えちゃうの?
愛だけがお金で買えるのよ。一番経済的で、一番正直な仕組みだわ。
ふうん。
だからこいし、ほんとうを言うと私はね、あなたが眼を閉じてくれてよかったと思っているの。もう一度あなたの心が開いたらって考えると、怖くて怖くて堪らなくなってしまうのよ。
そ、そうなの?
そうなの。
どうして?
だって今のあなたなら、きっと心を完璧に読めるはずだもの。こんなに妖力を取り込んだあなたなら。
お姉ちゃんは、わたしに読まれたくないの?
読まれたらばれてしまうじゃない。
ばれる? 何が?
あなたのお母さんを殺した時のこと。そのあとでお腹に胎児のあなたがいるのに気づいて、仕方ないから私のお腹で育ててあげたこと。あなたを産んだ時のこと、
え、えええ??
うふふ。
もう。冗談は冗談らしく言ってよね。
あなたもいい加減慣れなさいな。
で、そういう感じの知られたくない過去が、実際のところわたしとお姉ちゃんの間にあるわけ?
さあ、どうでしょうね。でももしあったら今度こそあなたに殺されてしまうわ。何せお姉ちゃんは、もうどうやってもあなたには敵わないし。
そうだね。泣いて謝っても許してあげないから。
あらあら、恐ろしいこと。じゃあせめて、その時まであなたの殺意が錆びないように、たっぷり油を差してあげましょうね。
姉はとろとろ笑ってそう言うと、銃口みたいなこいしの瞳を見守りながら、親嘴を落としてみせるのだ。姉のやることなすことは、いつも本気なのか冗談なのかわからない。あの時姉が何を期待してこいしを生かしたのか、それも結局謎のままだ。ただ姉のくれた一発きりの銃弾が、今もまだこいしの胸に納まっていることだけは確かである。
だからこいしは慌てて身を離さねばならない。こんなに接近していては、きっと聞かれてしまうから。まるで恋い焦がれてでもいるかのように、うるさく高鳴っているこの音を。
♥
思えば姉は昔から、本気なのか冗談なのかわからないことを吹き込んで、こいしをからかうのが好きな人だった。ある時は物憂げな顔をして、ねえこいし、今まで黙っていたんだけど、実はあなた、覚りじゃなくて石ころの生まれ変わりなの。隠していてごめんね。またある時は楽しげに、なんだ、もう忘れてしまったの? 自分が賽の河原の幽霊だったこと。日もすがら小石を積んでいた可哀想なあなたを、私がわざわざ拾ってあげたのよ。だからあなたはずっと大きくなれないの。だってお化けなんだもの。姉は小さなこいしを抱き上げて、そんな話をたくさんして聞かせるのだった。ほとんど親子と見紛う背丈の差を、言葉で埋め合わせようとするように。
姉については、覚りだということを除いて何も知らない。こいしの記憶の始まりから姉はそこにいて、こいしをただ妹として持ち扱っていたけれど、姉が真実自分の姉なのか確かめる術はなかった。覚りとしてのこいしの力はひどく劣っていたからだ。その時々の心模様をなぞるのが精一杯で、姉の過去まで遡って覗くには、こいしの第三の眼は近視に過ぎた。
こいしはひそみに倣って、その人をお姉ちゃんと呼んだ。そう呼ぶと、何だか背中に翼の生えているような心地がしたものだった。いつもぴたりと寄り添って、後ろから自分を包み込んでくれる翼。それがあるだけで、できないことまでできそうな気になれる立派な翼。
でも想像の翼が立派であればあるほど、それを思う自分の身の貧弱なのに、こいしは気づかないわけにはゆかなかった。姉は翼などなくても空を飛ぶことができた。翼などなくても高みから、人の心をどこまでも見晴るかすことができた。わたしは違う。空を飛ぶだけの体力もなければ、胸のうちを暴いてみせるだけの妖力もない。二人は姉妹でありながら、互いからあまりにもかけ離れていた。
さあこいし、恋い焦がれるような殺戮をしましょうね。平和な方々を一伍一什、ことごとく殺掠して差し上げましょうね。
覚り一般から見れば、姉は衆に優れた力を備えていたのだと思う。大妖怪の末席に名を連ねるくらいには。その頃、姉はこいしを連れて国中を経巡っていた。旅をしながら人や妖怪の集落を気の向くままに襲っては、かれらを容赦なく手にかけた。どこへ行っても姉の周囲には、飼い慣らされた巨大な死が寝そべっていた。姉がその首筋をくすぐってやりさえすれば、尻尾の一薙ぎで、押し並べて人々は呆気なく生きることをやめてしまうのだった。
姉は仕事をこなすように淡々と村々を滅ぼした。時には休みを取って子供の遊び相手をするように、こいしの遊び相手をしてくれた。胸元を食べ零しみたいに赤く染めたまま、晴れやかに笑み栄える姉の姿は、こいしにはこよなく無邪気に見えた。こよなく無邪気な、悪そのものに。
覚りは概して小食の妖怪である。それは姉も、無論こいしも例外ではない。姉に敢えてかれらを損なわねばならない理由があったわけではないのだ。こいしはそれを知っていた。ただ姉には、かれらを損なわずにおく理由がなかっただけなのである。そうして姉は、きっとそれを知らなかった。
どこか怪我したの、お姉ちゃん?
どうして?
元気なさそうに見えるから。
そんなことないわよ。
でも、はあって顔してる。いつもはぱーって顔なのに。
こいしがぎゅってしてくれたらぱーって顔に戻るかも。
じゃしたげる。
どう?
あ、戻ったよ。
よかった。
お姉ちゃん?
なあに。
ちょっと苦しいかな。
そう?
離してくれる?
もう少しだけ。
わかった。
あのね、こいし。
うん。
皆がね、お姉ちゃんのこと心ない奴だって言うの。心ない人でなしだって。確かに私は人じゃないけど、心のことなら何でも知っているのに。なのに私に殺される時、皆そう言うのよ。どうしてかしらねえ。
姉には心が遍く見えていた。見え過ぎるほど見えていたと言ってもいい。こいしの力が海面の細波を読むようなものだとすれば、姉のそれは自ら水中へ潜って海と戯れるのに等しかった。魚の群れのように行き過ぎてゆく思念、当人さえ未だ下りたことのない水底、姉の眼にはそうしたことどもが、一瞥のうちに手もなく眺められるのだった。
それ故に、なのだろうか。
心の海原を自在に泳ぎ回る姉は、いつしか地上で呼吸することを忘れていた。姉の心、他者の感情に最も身を接している他ならぬ姉自身の心は、感情を抱くことができなくなっていた。それが姉に限ったことなのか、まっとうな覚りなら多かれ少なかれそうなるものなのか、こいしにはわからない。姉以外の覚りには一度も逢ったことがないし、当のこいしはいやしくもまっとうな覚りではなかったから。
いずれ食肉に供するべく家畜を飼う人の、筋道立った思考を理解するのは姉にとって易かった。けれどいざ屠る段になって突然躊躇う人の感情は、姉には不可解なものに相違なかった。感情を知らないのだからそれに共感できようはずはない。魚が陸に上がったところで歩く足を持たないように。
したがって姉は、人にせよ妖怪にせよ他者の命を損なうことを、ほんとうの意味で何とも思っていなかった。
姉の手にかかって死んでゆく者たちは、しばしば姉の眼には奇異としか映らない行動に出た。血の繋がらない赤の他人の子供のために、行く手を阻む者がいた。飼い犬を庇って、わざと背中を晒す者もいた。かれらは姉という死を前にして一様に立ち竦んだ。それでいて決して逃げ出そうとはしなかった。代わりに心という語を用いて姉に強い非難を投げかけたのである。姉には、筋の通らない行動によって自分を詰るかれらの言葉が理解できなかった。
それを心と呼ぶのなら、姉にはまさに、心がなかったのだから。
そのことはしかし、不思議とこいしを悲しませはしなかった。むしろそうして膨大な死を振り撒く姉を見つめている時が、一番幸福な時間だったかも知れない。事を済ませたあと、何事もなかったようにこいしの髪をくしゃくしゃ撫でる姉の掌の温かな氷結、唇に浮かべる微笑の穏やかな凄惨は、いつもこいしを優しく魅した。姉は強かった。姉に抱き締められていると、そのありあまる強さが自分の弱さを肯ってくれるような気がした。ひいては自分が生きること、この世にあって一つの空間を占めることを、それは無条件に承認してくれる抱擁なのだった。
でもそんなに強い姉がどうして自分を傍に置いているのか、そこへ来ると、こいしの甘い思慕はたちまち拭いがたい負い目で潮垂れてしまう。
姉は嫌われていた。人妖を問わず姉の死を望む者は大勢いた。姉の悪名が世間に広まってゆくごとに、かれらは続々と姉の討伐に乗り出した。襲撃は鳴り物入りで行なわれた。幼いこいしを抱えながらでは処理できないと、姉は判断したらしい。行く先々で手頃なねぐらを見つけてきてはこいしをそこに隠して、自分は一人で追っ手の始末をしに出かけてゆくのだった。
姉が帰ってくるのは日が落ちてからと決まっていた。ねぐらの場所を敵に気取られないためにはそうするしかなかったのだ。何日も帰らないことさえあった。そういう時、姉の体からは乾いた誰かの血の他に、乾ききらない姉自身の血の匂いがした。こいしは自分が足手纏いであることを幼心に悟った。荷厄介な自分がいなければ、あの姉が不覚を取って傷を負うなどということは到底考えられなかったから。
姉は度々こいしのために書物を持ち帰ってきた。諸国のお伽噺が収められた草紙だった。こいしを膝に乗せてそれを読んで聞かせる姉の語調が、いたく郷愁めいていたのをこいしは今でも覚えている。まるで二人の、あらかじめ失われた思い出話をするように。こいしはそれを一方ならず淋しい心持ちで聞いた。だってそこに登場する悪者たちは、姉にそっくりだったのだ。最後に必ず報いを受けて殺されてしまう悪者たちは。
どうしたの。怖かった?
ううん。
もうお休みする?
うん。
そうね。お姉ちゃんも少し疲れちゃった。
一つ訊いてもいい?
いいわよ。
お姉ちゃんは死なないよね。退治されたりなんかしないよね?
さあ、どうかしら。世の中の皆が私を嫌うようになったら、その時はきっと退治されてしまうわね。
その時はわたしが代わりに殺されてあげる。
優しい子ね、あなたは。でも皆はあなたじゃなくてお姉ちゃんに死んでほしいのよ。
わたしお姉ちゃんより悪い妖怪になるもん。
あら、ほんとう?
ほんとだよ。飛びっきり悪い奴になってやるから。
そう。じゃお姉ちゃんは悪いこいしをよしよししてやるのだ。こうやって。
くすぐったいよ、お姉ちゃん。
ある晩、ふと寝覚めたこいしは、夜空が仄かに明るんでいるのを見た。まだ夜明けの頃合いでないことは外から届くふくろうの囀りで察せられた。姉は帰っていない。俄かに胸騒ぎに駆られてねぐらを出た。四方は亭々と木々の連なる夜の森である。明かりはここへの来しなに通りがかった都の方角から差しているようだった。姉はあそこにいるのだろうか。しかしそれならあのお祭りみたいな賑やかな光は何だろうと、胸のざわつくままに思案するうち、こいしの足はおのずとそちらへ向けて踏み出していた。
都は燃えていた。火勢は天に迫るほど激しいのに、人声は一切聞こえない。夢の中の町が燃えているようだと思った。時折崩れ落ちてゆく家々の立てる音だけが、枕元で床板の軋むような現実味を辛うじて添えていた。無数に畳なわった骸の山を踏み分けて、こいしは姉の姿を探した。
姉は大路のさなかにいた。地べたに膝を突いて、最早男だか女だか判別のつかない骸を抱き起こしている。姉の周りには拳大の赤黒い塊が、無造作に何百と積み重ねてある。姉は原型を留めていない骸の唇に、自分のそれを重ねた。ややあって離れた時、姉の口元はねらりと真っ赤に染まっていて、頬は大量の水を含んだように大きく膨らんでいるのがこいしの眼に映じた。
姉は掌に口内のものを吐き出した。骸から吸い出した心臓だった。
それからその心臓を仔細らしく検め出したかと思えば、急に頬ずりをしたり、胸に押し当てたり、親嘴をしたり、矯めつ眇めつ弄り始める。それらを一渡りこなすと途端に興味を失ったもののごとく、そこいらへ放り投げてしまう。遊び方の不明な玩具を与えられた幼子のように。
棄てられた心臓の数から推して、姉はこの作業を随分長いこと繰り返していたらしい。何のためだかこいしには想像もつかない。ただ姉のしていることが、紛れもない罪、大気が凝って水滴となるように、世にある罪と名のつくものを一所に集めて端的に要約したような、一つの罪の塊に思いなされた。
あらあなた、来ちゃったの。
面を上げた姉がこいしに微笑みかけていた。こっそり摘み食いしているところを見咎められたような、悪戯っぽい微笑だった。こいしは姉の元に走り寄って、その胸と安堵を固く抱き締めた。罪はいつか相応の対価によって贖われねばならない。でも姉は、そもそも罪が罪であることを認識できないのだ。だったら姉が罰を受ける必要なんかない。もし何かを差し出さなくちゃいけない時が来たら、姉が手離すものはわたしの命だけでいい。こいしはその時密かにそう誓ったのである。姉の底意も知らぬまま。
今ならわかる。心を、姉は探していたのだろう。
畿内の山中にねぐらを構えた日のことだった。不意に姉が草紙を繰る手をとめて、板戸の隙間から麓の方を透かし見た。お姉ちゃん? おいで。覗いてごらん。見ると、踵を接して葛折りの山道を突き進んでゆく数多の人影が窺われた。いや、人ではない。屈強な体躯、頭部の角、まったき鬼である。いずれも種子島や短筒などの火縄筒を担っている。筒身に象嵌された複雑な紋様は、対妖怪用に施された呪術の類であるらしい。先頭には一人の少女の姿があった。燃え盛る輪入道に乗っているから、こいしとさして変わらない、あどけないその面差しが
あそこ、女の子がいる。
あの方は彼岸の閻魔様ね。
えんまさま?
死者を裁く偉い方よ。
どうして閻魔様がここにいるの?
お姉ちゃんを迎えに来たんでしょう。
迎えにって。連れてかれちゃうの?
捕まれば、そうね。
どこに?
地獄に。
死んじゃうってこと?
そうなるわね。
時を移さず、山は閻魔の手勢に取り囲まれた。姉は抜け道を探しにやはり一人で出ていった。空から逃げなかったのは、山上全域に地獄鴉が放たれていたからだ。
二人の日々に別段外見上の変化はなかった。相変わらず姉は暢気そうにこいしを構ってくれたし、こいしも姉が帰ってくると一時不安を忘れることができた。このまま時が過ぎれば、そのうち姉が安全な抜け道を首尾よく見つけてきてくれるように思われた。あるいは向こうが諦めて先に引き揚げるだろうと。ここ下りたら、次はどこ行こっか。気が早いこと。それならあなたが決めて頂戴。お姉ちゃんの行きたいところがいいの。ふむ、行きたいところねえ。下りるまでに決めておいてね。畏まりました、お嬢様。
そう、思っていたのに。
夜、怖い夢を見て眼が覚めた。堪らず姉の毛布に入って手を回すと、べったり濡れた感触がした。姉の腹部から、液状の夜のようにそれは暗く流れ出ていた。同時に思い出したのは、日中、遠くで何かの爆ぜるような音を耳にしたことだった。帰ってきた姉は顔色一つ変えず、食事を作って、読みさしの草紙を一節分読んでくれた。怪我をしている素振りなど、まったく見せなかったのに。
姉は床に伏した。大丈夫よ、すぐ治るから。でも血、たくさん出てるじゃない。風邪引いて洟の出る方が辛いわよ。そう嘯いて澄ましている姉は、しかし言葉に反して中々よくならなかった。閻魔の側ではまた、次第に包囲の網を絞ってきたらしく、一日に何度も足音がしたり、時によってはねぐらの間近で話し声がすることもあった。こいしはひねもすねぐらに籠って姉の介抱をした。こいしの幼い心は、自分が傷つくよりも、傷ついた姉を見ていることの方によほど耐えがたい苦痛を感じた。こいし、と姉が言った。
お姉ちゃんが捕まったらあなた、一人で行くのよ。
やめてよそんなこと言うの。行くところなんかないよ。
好きなところに行くといいわ。
ここしかないもん。わたしの好きなところはお姉ちゃんのいる場所だけだよ。
姉が眠ったのを確かめて、自分も床に就こうと腰を上げた時だった。複数の足音がねぐらの外をとよもした。音の大きさからして、五間と離れていない。思わず息を詰めたけれど、音はそのまま通り過ぎてゆく様子だったから、こいしは壁に寄ってそろりと外を見澄ました。
閻魔の横顔が見えた。数人の鬼が後ろに続いている。数間行ったところで彼女はつと立ち止まって、ねぐらの方を顧みた。外からではただの茂みにしか見えないはずなのに、閻魔はこの瞬間、こいしの視線をしかと捉えた。少なくともこいしにはそう感ぜられた。しかし閻魔は何も言わずに眼を逸らすと、それきり侍従の鬼とともに闇の中へ消えていった。
こいしが固まったまま動かずにいたのは、恐ろしかったためではない。面立ちの美しさに見惚れたためでもない。閻魔の表情、薄氷の下に閉ざされた溜まり水みたいな閻魔の表情が、姉のそれと徹底的に真逆だったことを見取ったからである。氷のうちにあって、そよとの風にも吹かれない無表情。感情を持たない姉の顔が、そのために何色にでも染まるのに対して、閻魔の微動だにしない無表情は、残る隈なく堅牢な一本の芯に貫かれていた。すなわち罰に。それ自体が一個の表情にまで高められた、いわば罰すら罰しかねない絢爛な罰に。こいしは一頻り凝然とそこに佇んでいた。やがておもむろに自分の毛布に潜り込むと、暗闇へそっと囁いた。
わかったよ。わたしの行く場所。
翌日、こいしは姉の起きないうちにねぐらを抜けて、辺りを警邏している鬼たちを遠目に瀬踏みした。そうして適当な一人を見定めると、居眠りの隙を突いて手持ちの短筒と火薬入れを掠め取った。ねぐらへ戻ってから、鉛弾の入っていないことに気がついた。今頃血眼で探し回っているだろう。また引き返すわけにはゆかない。得物を床下に隠しておいて、外から石ころを拾ってきた。その日からこいしは石ころの切削を始めた。
力の弱いこいしには重労働だった。弾を十個削り出すまでに数日かかった。夜もずっと起きて姉の寝息を聞いていた。わたしね、これからすっごく悪い妖怪になるんだ。そしたらお揃いだね、わたしたち。すべての弾があんじょう磨き上がった夜半、こいしは寝ている姉に初めて親嘴をしてみた。重ねるというより、茶碗の上に小皿を乗せるような、ぎこちない接触ではあったけれど。それから短筒を携えてねぐらの戸を開けた。
さよなら、お姉ちゃん。
♥
あなた。
んん、
あなた、起きなさい。
お姉ちゃん。んふふ。
私はお姉ちゃんではありませんよ。
え。あっ、お前!
よく眠れましたか、古明地こいし。
なんで、
なぜあなたの名前を知っているのか、ですか? 彼女が連れ回している唯一の存在ですからね、あなたのことは無論知っていますよ。恐らくあなたよりもね。それともなぜ私がまだ生きているのかと訊きたいのですか。残念ながら閻魔は心臓を撃たれた程度では死ねないのです。
そう。失敗したのね、わたし。
落ち込むことはありません。鉄砲一挺で容易く片のつくことなど、元来此岸にはあまりないのですから。
わたしを殺すのは簡単だよ。
まあ、そうでしょうね。
じゃあ早く殺してよ。
死にたいのですか。
その代わりお姉ちゃんには何もしないで。
はあ。
あなた閻魔様なんでしょ? わたしあなたを殺そうとしたの。それってとっても罪深いことよね。だからわたしに罰を与えてよ。
古明地こいし。あなたは自分が何者なのかわかっていますか。あなたの姉が一体どういう妖怪なのか、あなたは考えたことがありますか。
わかんないよそんなの。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもの。世界中の皆が嫌っても、わたしだけはお姉ちゃんの味方でいるわ。
そうですか。ともあれこちらとしては、あなたの姉を点鬼簿に加えるつもりはありませんので安心して下さい。ただあなたには少しばかり取引のお役に立って頂きますが。
取引?
ええ。あなたは人質なのですよ。
上空の地獄鴉が一斉に鳴きさざめいた。かれらの言葉はこいしには聞き分けることができないけれど、姉には届いているだろう。こいしが閻魔の手に落ちたこと、こいしの居場所、それらを直々に伝える閻魔の急報として。山裾の開けた草地に、こいしは両脇を鬼に挟まれたまま座していた。
空を仰いでいた閻魔がゆるりとこいしを見向いて、時に古明地こいし、あなたの姉は、あなたのためにちゃんとここへ来るでしょうね。透かし絵を見るような、わかりきっていることを訊くような口調だった。こいしは返事に詰まった。閻魔が考えているほど、それはこいしにとって明らかなことではなかった。いや、違う。姉なら万障繰り合わせて来てくれるだろう。でもこいし自身が姉に来てほしいのかというと、それには頷くことができない。閻魔は姉を殺さないと言ったけれど、当てになるかどうか。それでなくとも姉の傷は完治していないのだ。いっそのこと、知らせを聞かずにいてくれたら。かぶりを振る。そうではない。ほんとうは思いを致したくないだけなのだ。無断で飛び出して、あまつさえ捕まってしまった自分を、姉が見限ったかも知れないことに。見限って、棄ててしまったかも知れないことに。
鳴き声がやんだ。
敷き物の皺が伸ばされてゆくように、周辺の空気が端から張り詰めていった。鬼たちがすかさず振り向いた方へ、こいしも咄嗟に眼を向けた。水際立って丈高い杉の木の天辺に、弛緩した片頬笑みを浮かべながら、姉が腰をかけていた。この場にまるでそぐわないその笑みは、むしろけざやかに歪に見えた。綺麗に均された敷き物の縁に、最後に残された皺のようだった。
こんにちは、閻魔様。
お逢いできて嬉しいですよ、古明地さとり。
私はあんまり。
それは残念。しかし辛抱して頂かねばなりませんね、この子の命運は我々が握っておりますので。その上で、あなたに提案があるのです。
ああこいし、そこにいるのね。一人で遠くに行っちゃだめでしょう? 起きたら毛布が空っぽなんだもの、心配したのよ。
うん。こいしはおずおずとはにかんだ。ごめんなさい。
そういえば、と姉は人差し指を立てて、お姉ちゃん決めたわ。次の行き先。
ほんと?
ええ。幻想郷というところ。鬼さんたちの心に映っていたの。妖怪がたくさんいてね、皆心安らかに暮らしていたわ。きっと素敵な郷なんでしょう。
お伽噺の国みたいね。
そうよ。あなたも気に入ってくれると思うわ。一人残らず殺して、静かで誰もいない場所にして、それからそうだ、二人でおうちを建てましょうか。あなたはちっちゃいから、小さなおうちがいいかしら。だけどいつかお姉ちゃんより大きくなったら不便だろうし、やっぱりおっきなおうちがいいわねえ。
うん、うん。こいしは
生憎ですが、と閻魔が口を入れた。その希望は果たせないでしょう。
ああ閻魔様、ごめんなさい。お話が逸れてしまいました。
構いませんよ。あなたの救いがたい罪業、つくづく胸に沁みましたから。ところでこの子を返してほしいなら、一つ我々の提示する条件を呑んで下さいますか。
そう言って、閻魔は物差しのような視線を姉に据えた。あなたを地獄に封印します。あなたの行きたいという幻想郷の、地の底にある地獄です。あなたにはそこで生々世々、生きながら死者の統率を管掌して頂くことになります。
死者の統率。獄卒のようにですか。
ええ、獄卒のように。もっとも自ら獄に繋がれた獄卒ですがね。しかしこれはあなたにとっては破格の待遇ですよ。本来であればあなたの罪は、死をもってしか償い得ないほど甚深なものなのですから。あなたの非凡な力に眼をつけた十王連の酌量がなければ、今頃あなたは三途の川を渡っていたことでしょう。このような幸運にはこの先二度と巡り逢えぬものと心しなさい。これを機に、悔悟の上にも悔悟を重ねて、精進すること尼公のごとき日々を過ごすよう千万の努力を傾注し、ってあなた、聞いてますか。
でも私、幻想郷に行かなくちゃいけませんから。
何? 閻魔は眉をひそめた。何ですって?
幻想郷に行くと決めたのです。なので残念ですけど、地獄の管理者にはなれそうにありません。
あなたは自分が何を口走っているのか自覚していますか。これは提案と申しましたが、あなたにしてみれば選択の余地などないはずです。あなたを追っている者の大半は我々ほど寛容ではないのですよ。幼い妹を庇護しながらでは、あなたはあと十年生き延びることすらままならないでしょう。
それ以前に、と閻魔は続けた。この子は今、我々の手にあるのです。あなたが是と言わぬなら、難なく損なってしまえることをお忘れなく。我々に必要なのはあなたであって、この子ではないのですからね。まさか閻魔と鬼の小隊を相手取って、恙なく妹を奪還し、よもや逃げおおせるなどと考えているわけではないでしょう?
うーん、そうですねえ。
姉の声は至極伸びやかだった。じゃ仕方ないわ。そうして下さいな。
こいしの耳はその言葉をはっきりと聞き取った。地図にして手渡されたかのようにはっきりと。けれど何が仕方ないのか、何をそうしろと言ったのか、すぐには思い至ることができかねた。
姉は木の上から消えていた。次の瞬間、背後で重いものの崩折れる音がして、さとりッ! 閻魔の鋭い一声が飛んだ。街道へ続く坂道を塞いでいた二人の鬼が、胸に穴を開けて倒れていた。死んでいるのは明らかだった。その向こうに姉が立っていた。両手には鬼の心臓がある。鬼くらい強靭な種族なら、心臓を抜かれたからといってかくも素早く絶命することはない。抜かれる寸前に、姉から許容量を遥かに超える心的外傷を注ぎ込まれたのだ。それが掌の形をした幾多の痣となって、鬼の全身に死斑のように生じ始めていた。
正視に耐えないその姿が、自余の鬼たちの戦意を強制的に脱臼させた。暫時ではあったけれど、それでも緊張していた空気に致命的な裂傷が走ったのがわかる。恐らく閻魔でさえ、彼我の距離を一瞬で詰めることは叶わないだろう。姉の行く手を阻むものは既にない。刹那のうちに、姉のための退路が完成していた。
待ちなさい、古明地さとり。
何でしょう。
この子を、見棄てるつもりですか?
そうですよ。姉はにこやかに応えた。道を訊かれた人のように。
あなたは、この子を救うためにここへやってきたのではないのですか。
そうでしたけど、でもそしたら幻想郷に行けなくなってしまうじゃないですか。
幻想郷の罪もない者たちを殺めに行くために、それだけのために、あなたはこの子の命を棄てるというの。
ええ。
それで何とも思わないの。
残念だと思いますよ。二者択一を迫られるのはいつだって辛いものです。
あなたは、と言いさして閻魔はしばし押し黙った。この子は、あなたにとって何なのです。
何ってもちろん妹ですよ、と姉は事もなげに言った。
では閻魔様、私はそろそろ失礼致します。姉は慇懃に頭を下げたのち、淑やかにこいしへ眼を転じた。その赤色の瞳、窓から見える遠い火事のような、遠いということによってしか保てないあの広大な優しさを含んだ赤色の瞳が、こいしを仮借なく眺め下ろした。
じゃあね、こいし。
もし姉が背を向けて去ってゆかなかったなら、こいしは永遠に停止した時の中で、姉の微笑を見つめ続けていたに相違ない。そこにはいささかも常とたがうところがなかった。同じ柔軟、同じ温和に隈取られた笑顔、こいしの幸福の紛う方なき符丁に他ならなかった。姉とこいしの間にある一切が、まさしく今、決定的に変わってしまったにもかかわらず。
こいしは第三の眼で姉を見た。
何も映らなかった。
何もなかった。
姉は初めからわたしを愛していたのではなかったのだとこいしは思った。ただ世間一般の人々が身内に対して自然に施す世話を、見様見真似で与えてくれていたに過ぎなかった。心のない姉が心のある振りをするために。しかし元より心を知らない姉の行動に、いずれ綻びが現れるのは道理である。
たまたまそれが、今だったというだけのことなのだ、と。
半数で彼女を追います。あとの者はここに残ってこの子の監視に当たること。
閻魔が部下に呼びかけていた。逃げたと見せかけて連れ戻しに来るかも知れませんから。
ねえ。こいしは閻魔の裾を掴んだ。待って。
何です。
わたしを殺して。行く前に。
馬鹿なことを。あれはじきに戻ってきますよ。
お願いよ。
閻魔の足に縋りながら、こいしは命乞いをするように掠れた声を絞り出した。殺してほしいの。
捕まった際に放ったものとは、まるで意味を異にした言葉だった。閻魔はこいしを振り払わなかった。かえって己の身が痛むかのように顔を歪めた。屈んで、蹲っているこいしの体に腕を回した。あなたたちは、少し罪深過ぎる。そう言い残して、輪入道に飛び乗った閻魔は木々の葉籠りの奥を駆け抜けていった。姉が目指したどこかへ向かって。こいしの隣ではない、どこかへ向かって。
翌朝、こいしの姿は消えていた。残った鬼全員が見張っていたのに、こいしが消えた瞬間を見た者は一人もいなかった。こいしに宛てがわれた寝床には乱れた文色もなく、元々何も入っていなかったかのようである。
隅に一つ落ちているものがあった。うっすらと涙を纏って温かい、刳り貫かれたばかりの眼球だった。
♥
こいし。
呼ばれて、こいしは反射的に眼を開けた。真っ暗だ。突然の覚醒に思考が追い着かない。ほど経て目が慣れてくると、自分の立っている空間のたいそう狭いことが見て取れた。この暗さと狭さには覚えがあった。自分と姉が渡り歩いてきた、いくつものねぐらと同じそれだ。
傍らで人の立ち上がる気配がした。姉だと察するより先に、ふわりと体を包み込まれていた。なんで姉が自分の傍にいるのだろう? いや、なんで自分が姉の元にいるのだろう? あのあと何が起こったのか、まったく覚えていなかった。
閻魔が言った通り、こっそり戻ってきた姉が、眠っているわたしを助け出してくれたのだろうか。姉の行動は全部わたしのためのはったりで、姉は頭からわたしを救出するつもりでいたのだろうか。第三の眼に姉の思念が映らなかったのは? 眼の調子が悪かったせいかも知れない。どうせ碌に使えない役立たずだったのだし、見えない時があっても不思議ではない。そこまで考えてから胸に手をやって、ああ、もう棄ててしまったのだと思い出した。あのね、とこいしは水を向けた。わたしの眼、
なんだ、と姉の声がした。あなた、まだ生きていたのね。
こいしは口を噤んだ。生きていたのね、という一言が、逆にこいしの大部分を死んだように冷たく硬化させてゆく。どうやって逃げてきたの? と姉が訊く。わかんない。どうしてお姉ちゃんのいる場所がわかったの? 首を振る。あら。姉はこいしの胸を差し覗く。どうしたの、これは。こいしは応えない。そう、と姉は言う。聞いたことがあるわ。力を失くした覚りは本能のままに動くようになるのだって。あなたはきっと、お姉ちゃんの匂いを追ってきたのね。
拘束が強まって、愛おしそうに頭を撫でられる。すると涙がほとんど自動的に零れて、取り返しのつかない傷口のような深い線を引きながら、頬を伝い落ちていった。悲しかったのですらない。錆びついた自分の中身が、外側から一枚ずつ薄く剥落してゆくような、いわばしめやかな諦めの涙だった。姉にとってはこの愛撫も抱擁も、家畜に餌を与える行為と何ら変わらない瑣事でしかない。これまでもそうだったし、こいしがいつか世界に屠殺されるまで、それがこいしの望むものになることは、例えば愛になることは、決してあり得ないのだ。
その夜、こいしは姉の枕元にいざって短筒を翳した。
服の下に仕舞われていたそれは、閻魔の命を突き通すはずだった得物である。
静かな寝顔に銃口を向けた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
姉のために生きてきた心なのに。姉のために死ぬべき体なのに。そのはずなのにこいしは今、姉を弑することだけを考えていて、そんな恐ろしいことを願う自分に何の反発も抱けない。誰よりも姉を好きでいたい自分が、誰よりも姉を憎み始めている。そう思うと、この鈍色の凶器一つが、さながらお伽噺の途中に記された、どうしようもない誤字か何かのように感ぜられてならなかった。引き金にかけた指がとまった。
どうしたの。
赤い双眸がこいしを赤く見据えていた。やらないの。
さらさらと柔らかな声だった。子供の問いかけみたいに無邪気ですらあった。非難も失望もそこにはなかった。ないことに胸をひしがれた。いつだってわたしたちはそうだった。姉にあることすべてがわたしにはなく、わたしにあることすべてが姉にはなかった。筒身を握った手が萎れていって、だらりと膝の上にしな垂れた。そうして唐突に判ぜられたのは、姉はわたしを裏切ってなどいなかったということだった。裏切ったのは、わたしの方だ。
お姉ちゃん、わたしね。
なあに。
わたし、お姉ちゃんを殺そうとしたの。なんでかな、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったよ。
そうなの。
おかしいよね。変だよね。わたしもおかしいと思う。でもどうしようもないんだ。
どうしようもないならしょうがないわ。人が人を嫌うのは自然なことだもの。
違うよ、わたしがお姉ちゃんを嫌うのは、それだけは間違ってるの。絶対に間違ってるんだよ。
あなたは間違いたくないの。
間違いたくない。絶対に間違いたくないのに、自分で自分がとめられないの。
だから、とこいしは消え入りそうに言葉を継いだ。だからお願い、その前に、わたしを、
二つの赤はいつの間にか薄闇の下に畳まれていた。隠微な寝息がしろしろと立ち昇ってくるばかりである。妹の剥き身の殺意に晒されているにもかかわらず、それはあまりに穏やかな呼吸だった。火縄に点っていた火が絶えた。姉の寝姿も自分の手元もたちまち曖昧になった夜更けの底で、銃口がどちらを向いているのか、こいしにはもう見分けがつかなくなっていた。
姉は再びこいしを伴って旅を続けた。幻想郷、早く見たいわ。楽しみねえ。以前のようにこいしの手を引いて、隔意など微塵もなさげにはしゃぎ回る姉の姿は眩しかった。その眩しさは、日溜まりの下に投げ出された人が覚えるあの眼の痛み、痛みに言寄せた完全な疎外の感覚を、朝夕こいしに味わわせずにはおかなかった。真に痛みを感じるべき眼は既に失ってしまったというのに。うん、楽しみだね。
道中は陸路を取った。閻魔の一行は無論のこと、数知れぬ追っ手の眼に空旅は目立ち過ぎるからだ。徒歩の旅路はおのずと長引いた。こいしにとっては此岸と彼岸の距離ほどに。表面上は何もかもが元通りに復したような日々の中、裏では幾度姉の血を浴びる夢想に囚われたか知れない。そうしてかくも忌まわしい情動を、何遍この身ごと葬ってしまおうと思ったことだろう。
その度こいしは短筒を手にねぐらを飛び出した。どこか遠いところで密かに自分を殺すつもりだった。姉のために閻魔と刺し違えることを決めた時のような満足は、最早どこにも見出せなかった。ひたすら小石のようにありふれた死を死んで、姉のいる場所から自分を抉り取ってしまいたかった。けれど覚りをやめたこいしの体は、案に相違して、我に返ると必ず姉の元に立ち帰っているのだった。
まるで生きたがっているかのように。
そんなはずはなかった。こいしの心は切実に自らの死を欲しているべきだった。そうでなければいずれ自分が姉を害してしまうに違いないから。だからある日、姉のいない折を見計らって妖怪の一団がねぐらに踏み込んできた時も、こいしは短筒を脇に置いたきり、抵抗一つしなかった。裸に剥かれて
帰宅した姉は、荒らされたねぐらの中をゆっくりと見渡した。壁に凭れている小さな体に眼をとめた。体というより、破れかかった袋のようにそれは見えたことだろう。胸に開いた眼窩のような穴から、はらはらとこいしは命を垂れ流していた。両眼は使い物にならなくなっていたけれど、姉が眼の前に腰を屈める気配は感じ取ることができた。
こいしの体は鬼のように強くはない。心臓を失えば長くは保たない。時間はあまり残っていなかった。こいしは感覚のない唇を必死に動かした。最後に一言謝りたかった。でも声になってはくれなかった。息を吐くと、飛び出た眼球を直接握られるような、剥き出しの痛みが胸に沁みた。耐えきれずに少し震えた。押さえつけるように唇を動かし続けた。だめよ、と言い聞かせた。我慢しなきゃだめ。この痛みは、わたしの罰なんだから。
姉の手が、年月のようにそっとこいしの体に置かれた。どこに置かれたかわからないのに、置かれたことだけはわかる、不思議な触れ方だった。青褪めてゆく肌を、きれぎれの吐息に合わせてさすられた。涙のように血は溢れてとまらなかった。
苦しいのね。
薄れつつあるこいしの世界に、姉の声が際やかに響いた。それは確認ではなかった。慰撫でもなかった。そこにそんなものがあることに初めて気づいたような調子で、姉はその言葉を口にした。沈黙が二人の間を領した。続く声はなかった。代わりに姉の手が離れてゆくのを遠く感じた。
何かを毟り取るような音が聞こえたのはすぐあとのことだったと思う。
胸の空洞に、生温かいものを柔らかく押し込まれる感覚があった。同時に錠が外れて扉の開くように、視界が鮮明になった。そこからこぞって逃げ出してゆくもののごとく、全身を苛んでいた疼痛が引いていった。胸に手をやると、平べったい乳房のつるりとした肌触りがある。それしかない。傷も、傷の痕も見当たらない。途方もない妖力が体中を駆け巡っていた。それが瞬く間に傷を癒したのだということはわかった。
わからないのは。
血まみれの体で、姉はこいしを抱き寄せた。勢い寄りかかる格好になったのは、力が入らなかったからだろう。つい今し方までこいしの胸にあったものと同じような穴が姉の胸には開いていて、大きな花の模様みたいに服を赤く染めていた。姉はそれらに委細構わず、心なしやつれた笑みを浮かべてこいしを見た。我が身に移して子供の風邪を治した母親のような笑みだった。
よしよし、と姉は言った。これで苦しくないわねえ。
こいしに心臓を与えた姉は、結果として妖力の大半を失った。飛ぶことはおろか歩くこともままならず、間もなく閻魔に追い着かれると、かえって向こうが拍子抜けするほど呆気なく、己の身柄を明け渡した。時あって飛騨の国、幻想郷を目前に控えた、覚りの生国にてのことだった。
一天四海に隠れなき、
しかしかれらは知らない。姉は館を出ないのではなく、出られないのだということを。衰弱しきった今の姉にはそれだけの力も残っていないのだということを。できることといえば、せいぜい相手の心の傷を拝借して武器にすることくらいだろう。いわば白紙の本に取っ替え引っ替え別々の表紙を付すようなものだ。姉自身はいつまでも白紙のままである。
姉は毎日部屋に籠って、誰かの生涯が綴られた誰かの物語を読む。時には自ら筆を執って、真っ白な原稿用紙をさらさら埋めてみたりもする。自分の心の代わりのように。
その姉に命を猶予されたこいしは、今日もふらふら地霊殿へ帰ってくる。第三の眼を棄ててからこっち、こいしの放浪癖はひどくなる一方だ。でもどういうわけか帰るのを忘れた日は一日もない。ドアを排して、見慣れた背中へいつものように声をかける。
ただいま。
おかえり。返ってくるのはいつものように聞き慣れた声である。遅かったわね、お腹空いたでしょう。今日はどこへ行ってきたの?
♥
愛って、何なのかな。
なあに、おかしなことを訊くわね。
ちょっと昔のこと思い出しちゃって。
昔?
うん。ずっと昔のこと。
ふむ。愛とは多分、期待でしょうね。
え? 期待?
見返りを望む利他行為、と言った方が近いかしら。
純粋な利他行為じゃなくて?
それは無償の愛というものよ。
無償の方がいいじゃない。
無償の愛なんてあなた、この世には存在しないわ。
そうかな。
母親が子供に抱く愛情だって、底を割ればあらかじめ設計された脳内の機構でしかないのよ。自分の遺伝子を後世に伝えるためのね。もっと血縁的に離れた愛なら尚更でしょう。埋火が灰なしには燃え続けてゆかれないのと同じように、愛はそれを与えてあげた相手からの返礼がなければ長持ちできない。少なくともその期待がなくてはね。
何だか現金な話だね。
愛は資本主義者なの。
愛はお金で買えちゃうの?
愛だけがお金で買えるのよ。一番経済的で、一番正直な仕組みだわ。
ふうん。
だからこいし、ほんとうを言うと私はね、あなたが眼を閉じてくれてよかったと思っているの。もう一度あなたの心が開いたらって考えると、怖くて怖くて堪らなくなってしまうのよ。
そ、そうなの?
そうなの。
どうして?
だって今のあなたなら、きっと心を完璧に読めるはずだもの。こんなに妖力を取り込んだあなたなら。
お姉ちゃんは、わたしに読まれたくないの?
読まれたらばれてしまうじゃない。
ばれる? 何が?
あなたのお母さんを殺した時のこと。そのあとでお腹に胎児のあなたがいるのに気づいて、仕方ないから私のお腹で育ててあげたこと。あなたを産んだ時のこと、
え、えええ??
うふふ。
もう。冗談は冗談らしく言ってよね。
あなたもいい加減慣れなさいな。
で、そういう感じの知られたくない過去が、実際のところわたしとお姉ちゃんの間にあるわけ?
さあ、どうでしょうね。でももしあったら今度こそあなたに殺されてしまうわ。何せお姉ちゃんは、もうどうやってもあなたには敵わないし。
そうだね。泣いて謝っても許してあげないから。
あらあら、恐ろしいこと。じゃあせめて、その時まであなたの殺意が錆びないように、たっぷり油を差してあげましょうね。
姉はとろとろ笑ってそう言うと、銃口みたいなこいしの瞳を見守りながら、親嘴を落としてみせるのだ。姉のやることなすことは、いつも本気なのか冗談なのかわからない。あの時姉が何を期待してこいしを生かしたのか、それも結局謎のままだ。ただ姉のくれた一発きりの銃弾が、今もまだこいしの胸に納まっていることだけは確かである。
だからこいしは慌てて身を離さねばならない。こんなに接近していては、きっと聞かれてしまうから。まるで恋い焦がれてでもいるかのように、うるさく高鳴っているこの音を。
古明地姉妹を語るときに愛とか心とかはほんと欠かせないキーワードですなぁ
さとりは心を与えて、心を得られたのでしょうか。
こんな古明地姉妹も良いものですね。
もうちょっと映姫との下りで緊迫感が出てれば、と思ったけど、長さの割にガッツリ読み込めた文章だった。
でもさとりは一層あやふやになって、こいしは無意識になって、よくよく考えると結構だな・・・でもそんな危うさがナイス。
さとり様がカリスマすぎた
さとりがここまで無双してるSSは初めて読んだかもしれない。
この素晴らしい作品を読ませて頂いた事を、ただ感謝します。
一切の悪意もなくただ殺戮者たるさとりに心打たれました
これぞ妖怪よ