ズキリと、ふいに、ほんのすこしだけ頭が痛む。
前頭部を押さえて呻いたわたしに、机越しの向かい側に座る邪仙は、心もち心配そうな顔を見せた。
「頭痛かしら、豊聡耳様」
「いや……たいしたものじゃないよ。もう治った」
言葉のとおり、頭痛は一瞬で消え去っていた。おかしいなあと思って、しかしすぐに忘れてしまう。
里のなかでも特に評判の料理屋へ、わたしと霍青娥は外食に出ていた。布都と屠自古の姿はなく、わたしと青娥2人だけでの夕食だ。
飛鳥の時代にも、わたしたちはこういう機会をよく設けていたように思う。青娥から道教の秘術について教えてもらうことがほとんどであったけれど、時にはわたしが世間話をすることもあって、そのたびに青娥は楽しそうな顔で、わたしの話を聴いてくれた。
「幻想郷にやってきてからは、こういう場は初めてだね」
「ええ、昔はよくやっていたけれど。豊聡耳様の母上のお話はとてもおもしろかったですわ」
「また古い話だなあ」
「せっかくですし、また聴かせてくださいな。母上から受けたご寵愛の数々について」
もう、青娥に何度話したか分からないような話だ。青娥だってそろそろ飽きてもおかしくないと思うのだけど、わたしも話していてつまらないことはない。むしろ、母親への愛だけは誰にも負けない自信がある。
幼少のころ一緒に遊んでくれた母、辛いときにわたしを慰めてくれた母。その全ての記憶は美しく、尊いものだ。それを他人に伝えることは、母の尊厳をより深めるものだと、わたしは信じて疑わない。
「豊聡耳様も変わりませんね」
「復活前と復活後で性格が変わってしまっては、秘術も欠陥品だろう?」
「仰るとおりで」
にわかに青娥は水を一口飲んで、湯呑みを机に置きながら、切り出した。
「ところで、豊聡耳様。例の件について、顛末をお聞かせくださいな」
「……例の件?」
笑顔で言った青娥を目の前にして、わたしは小さく首を傾げる。彼女の言う例の件がなんのことなのか、分からなかったからだ。
それに気づいたか、青娥はなお笑顔のままで、補足する。
「水玉の人影。そうでしょう?」
「水玉の……ああ。そのことか」
見落としていた引き出しのなかから発見するかのごとく、わたしはそれを思い出す。
水玉の人影――ここ数日のあいだ、人里の民を賑わせ、惑わせ、恐怖させた、ごくささやかな異変。青娥は目を輝かせて、その話を聴きたいという。
少々長くなってしまうなあ、とは思ったが、体験談とか武勇伝のたぐいを人に話すのは、これまた大好きなことであった。こほんとわざとらしい咳払いをして、わたしは青娥に気障な笑顔を見せる。
「それでは、お話しさせてもらおうかな。あの異変の一部始終について」
ぱちぱちぱち、と青娥が手をたたいた。わたしは得意満面な表情をつくり、ゆっくりと語り手の気分に浸っていく。
思考世界のなかで、記憶の引き出しが、ぎしりと音を立てて開いた。
かさいでて、水玉模様
この先、グロテスクな描写に注意
◆
公園の隅で、ひとりの女の子が泣いていた。地べたに体操座りをして、顔をひざの頭にうずめたまま、大きな声を上げて泣きじゃくっている。
わたしがその女の子に声をかけたのは、純粋に少女への心遣いによるものだ。決して、泣いていることにかこつけて少女とお話したかったとか、布教を理由にして子どもたちの間で地盤を固めようとか、そういうセコいことはいっさい考えていない。この豊郷耳神子、お気に入りの少女を見つければ、問答無用で誘拐するに尽きるのである。
「せっかくのかわいい服を、そんな風にしては台無しだろう」
水玉のワンピース。最近は人里でも洋式の衣服が増えてきたようで、さして珍しい光景でもなくなった。わたしの声を聞いて、少女はひざの中にあった視線をわたしに向けてくる。涙でくしゃくしゃになった表情はとても痛ましい。ふと少女の手もとを見れば、ワンピースの裾をぎゅうと握りしめ、ひっぱったり、ねじったりしていた。
「服が傷んでしまうよ」
少女の手をつかんで、それをやめさせると、少女は再びめそめそと泣きはじめ、そして呟く。
「……だって、水玉だから」
「水玉?」
「水玉は化け物の証だって、みんなが言うんだもん。お前は化け物だ、とか、逃げろ、とか……」
説明しながら、悪ガキたちにいじめられたことを、また思い出してしまったのだろう。三度泣きじゃくり始めた少女の頭をなでながら、わたしは浅く思考にふけっていた。
――水玉模様。
それを化け物の証などとはやし立てる風潮は、あらかじめこの幻想郷に根付いていたものでは決してない。そうなった原因があるのだ。そしてわたしは、その原因を知っている。
この夏、深夜に人里を徘徊する怪しげな人影が、里中のうわさとなっていた。
人影のまといし装束は、水玉模様。
◆
これがいわゆる高級住宅街というやつなのだろうか。
人里のなかでも特に立派な家ばかりが立ち並ぶ団地。泣いていた少女を家まで送り、その母からお礼を言われているあいだも、わたしはこの異様な雰囲気に呑まれていた。
立ち並ぶ家という家が、褐色あざやかな木造の2階建て建築。現代的な風貌でわたしを四方八方から見下ろしてくる。
少女の家から離れ、いよいよ用事もなくなったところで、わたしは小さくため息をついた。自分の場違いさを実感していたのもあったが、なにより元々皇族であるわたしが、こんなことで怯んでいてはいけない、という自嘲の意味もあっただろう。
「あら、豊聡耳様」
ふいに、声をかけられる。振り向くと、青娥が驚いた顔で、しかし微笑のまま手を振っていた。
珍しい奴に会ったなあ、と思う。基本的に青娥は人里に寄り付かないイメージを持っていたし、わたしや布都たちと共同行動を取ること自体が少ないからだ。
試しに「人里にいるのも珍しいじゃないか」と問いかけてみると、「そうでもないですわ」と青娥は即答する。
「人間と話をするのは楽しいですし、観察するのもなかなか悪くなくて、人里はむしろよく来る方じゃないかしら」
「へえ。それじゃあここにも?」
「ええ。ここには特に」
軽やかに答える青娥に、わたしは思わず感心してしまう。
まあ、青娥は物怖じする性格ではないように見えるし、わたしのように場違いさを感じたりはしないのだろうか。いやいや、わたしだって感じてちゃいけないのだけども。
それより、特によく来ると言ったが、いったいなにをしに来るのだろう。すこし思考にふけって、それから嫌な想像をしてしまう。
「まさか、壁を抜けて空き巣でもしてるんじゃないだろうな」
「ふふ、欲しいバッグがあるときはつい」
「おいおい……」
キャピキャピした笑顔で言い放つから、邪悪さにもひときわ磨きがかかっている。
「冗談ですわ。我ながら物欲はほとんど無いと思っていますし」
「それじゃあ、どうしてここによく来るんだ?」
「この団地、血気盛んな旦那様がたが多いものですから。伴侶どうし幸せそうにしているのを見ると、つい……」
青娥は悪い顔をする。いよいよわたしもゲンナリしてしまった。こやつの『つい』に関しては深く言及しないほうがいいのかもしれない。
「そういう豊聡耳様こそ、どうしてここに?」
今度はわたしが答える番のようである。わたしは少女のことを話そうと思って、ふいに気が付いたことがあった。
くだんの一件について、青娥はなにか知っているかもしれない。
「泣いていた少女を送ってきたんだ。悪ガキどもにいじめられていてね」
「はあ」
胡散臭そうに目を細めた青娥へ、わたしは間髪入れずに続ける。
「水玉のワンピースを着ていたのが、いじめの理由さ」
水玉。その言葉に青娥は目を丸くして、しかしまもなく薄い笑いを浮かべた。
「……豊聡耳様も、知っていらしたのですね」
「宗教家たるもの、民の声には敏感でなくてはならないからね」
「あいかわらず意識がお高いようで。わたしの知っている太子様にお変わりはないみたい」
さり気ないお世辞の言葉であったが、それよりもわたしは情報が欲しかった。
人里で人間とよく話すというのならば、それなりに情報も入ってくるだろう。期待して問いかけるが、青娥は苦笑いで首をふった。
「残念ながら、今のところはなにも」
「むう。そうか」
「豊聡耳様は、興味がおありなのかしら?」
青娥の言葉に、もちろんと即座に返す。
「深夜に徘徊する謎の人影。民のあいだで不安が広がっているのは知っているだろう? そういったときに、頼られるべきものこそ宗教さ」
「……」
「まあ、それに――」
小さく頬をかいて続ける。
「もう、いたいけな幼女の涙は、見たくないからな」
わたしは青娥へ、静かに語らう。子どもの泣いている姿を見るのは、いつだって心が痛むものである。それを手ずから阻むのは、おかしなことじゃないはずだ。
珍しく真剣なことを言って、すこし恥ずかしいなあと思っているところで、青娥は温かさに満ちた表情をわたしに見せてくれる。
「流石は豊聡耳様ですわ。やはり意識の高さは変わらないのですね」
「ふふん。もちろんだとも」
「やっぱり、昔から変わらずロリコンなのねえ」
「おい馬鹿声がでかいぞ」
そんな事実無根の風説が広がっては我が道教はおしまいである。人里の奥様方からは二度と信頼されることがなくなり、向こう100年は『変態ロリコン道教士』とレッテルを貼られることになるだろう。なお『事実無根』の部分についてはより強調しておくべきところであり、わたしは幼女へ性的興奮を覚えることなど決してない。お気に入りの幼女は誘拐してぞんぶんに接待するものの、いかがわしいことだけは絶対にしないと改めて念を押しておこう。
「必死さがよく伝わってきますわ」
「それじゃあ青娥、君もこの件について調査してくれたまえよ。それじゃあ!」
これ以上ここにいると自爆しそうなので、早々と彼女の前から立ち去ることにしたのである。
◆
里の街道沿いに、ひときわ大きくて古めかしい屋敷がある。高級団地に立ち並んでいた家々よりもさらに巨大で、通りすがる者はみなそれに目をやってしまうほどだ。
屋敷の表札に書かれた、家主の名前を確認して、わたしはゆっくりと呼び鈴を鳴らす。しばらくして顔を出した家主は、門の前に立っているわたしを見て、怪訝な表情を浮かべた。
「貴女は……確か、道教の」
「存じてもらっていたようで光栄だ」
「……」
「上白沢慧音殿。本日は貴殿に折り入って話があり、参らせてもらった次第」
改まった、というよりも硬い口調で、わたしは目の前の家主に語りかける。
彼女はしばらく、鋭い視線でわたしを突き刺していた。わたしも彼女の目をまっすぐ見つめ返す。数秒ののち、彼女はなお警戒している風ではあったが、屋敷の門をぎいと開いてわたしを迎えた。
「話は中で聴かせてもらおう」
「かたじけない」
門をくぐり、玄関前の庭を通って、わたしは屋敷にお邪魔する。屋敷のなかを見てまわる時間もなく、一直線に客間まで案内され、大きなちゃぶ台の傍らに敷かれた座布団に腰を下ろした。
屋敷の奥に入っていった慧音は、少ししてから、お茶うけを両手に抱えて姿を見せる。ちゃぶ台を挟んで向かい合い、初めに口を開いたのは慧音だった。
「して、話とは?」
「上白沢殿は人里の守護者、という話をよく聞くのだが、それは間違いないだろうか」
「守護者とはたいそうな肩書きだが、決してそういうことではない。たしかに、人里に危険が及べばそれを守らない選択肢はないが、あくまでわたしの好きでやっていることで、公式にそういう立場があるというわけではないのだ」
「まあ、ようするに、事実上は守護者ということでいいのだろう?」
慧音が少し、ムッとした様子で眉をつり上げる。
「事実上は、そうかもしれないな」
「それを聞いて安心したよ。今日はそれに関わる話をしにきたのだからね」
「……」
「貴殿もそういう立場にいらっしゃるのならば、『水玉の人影』について、知らないことはないだろう?」
わたしの言葉に、慧音の表情はより硬くなる。わたしを見つめる目も、少しずつ鋭くなっているように見えた。
緊迫した雰囲気が部屋中を覆いつくし、お互い口をつぐみ続けていると、ふいに慧音が息をつく。
「貴女の言う水玉の人影が、ここ数日、深夜に里中を歩き回っているという正体不明のなにか、を指しているのならば」
「知っている、と」
慧音はほんの少しだけこうべを垂れて、深刻そうな口調のまま続ける。
「……里の民たちはみな怯えている。人里に妖怪が入りこむなど珍しいことではなくなったが、しかし人気のない深夜に、謎の人影が里中を歩き回っているとなれば、警戒するなというほうが無理だろう」
きっと、この屋敷にも里人の請願がいくつか届いているのだろう。里の守護者といわれる上白沢慧音に、彼女に任せればなにも心配はないと、そう信じている人間たちからの請願書が。
目の前で難しい顔をする彼女も、そういった民の声を無視できるほど冷たくはないだろう。なんらかの調査は、すでに始めているはずだ。わたしは、よりふかく探りを入れようと試みる。
「上白沢殿は、この騒ぎを妖怪の仕業と考えているか?」
人間と妖怪の関係を引き合いに出したあたりから、気になっていたことだ。彼女は、この騒ぎを妖怪によるものと断定しているのだろうか。
ところが、意外にも、慧音はわたしの問いかけに「いや」と即答する。
「そうと限った話ではないだろう。もちろん、人間のイタズラという可能性も頭に入れている。だが、動機が分からない。イタズラ目的でこのようなことをして、万が一捕まるなどということになれば、まず村八分は確実だろうし、それ以上の罰だって十分にあり得る。それほどのことに、なぜ手を染めようと思うのだろう?」
幻想郷での村八分は、すなわち死を意味すると誰かから聞いた覚えがある。妖怪からの隠れ蓑である人里に居場所を失えば、そうなってしまうのも必然なのだろう。
「貴女もだ」
彼女の言うことはもっともである、そう考えながら頷いているところに、慧音は突然低い声をあげた。
「何を考えているのか知らないが、貴女もさんざん人里を騒がせた立場だろう。そんな身分で、今度はいったい何をするつもりだ」
さんざん人里を騒がせた、というのは、あの信仰奪取合戦のことを言っているのだろう。強烈な妖気をぶつけられて、その威圧感に、全身の毛が逆立つ。
大したものだと内心呻りながら、しかしそれをおくびには出さず、あえてひょうひょうと答えを返した。
「信仰のためさ」
慧音の眉が少し動いたことをわたしは気に留めない。
「この騒ぎを解決すれば、民の心はわたしに傾くだろう。こんな素晴らしい機会を、むざむざ無駄にする阿呆がいるだろうか?」
挑発するつもりはないが、結果的にはそう受け止められてしまうかもしれない。ある種の賭けであったが、まあ、これで気を悪くされてしまうのならば、それまでだ。
慧音は、変わらずわたしを直視して、しばらく押し黙っていた。この屋敷で何度目か分からない沈黙。それを破ったのは、お茶を一口すすって、すっと妖気をしまいこんだ彼女だった。
「そういえば、貴女は宗教家だったな」
「それも野心十二割のね」
「間違いない」
慧音は少しだけ口角をつり上げる。今日初めて、わたしが見た彼女の笑顔だ。
「宗教家とは自らの欲望を表に出さないものだと思っていたのだがな。貴女はどうやら違うらしい」
「人間の欲はすぐに感じ取ることができるからね。それを満たしてやればいいのだから、わざわざ欺くまでもない話さ」
そうか、と彼女はもう一口湯呑みをあおる。
警戒心からの緊迫感はゆっくりと薄れていき、湯呑みを置くと同時に、「まだ詳しいことは分かっていないが」と慧音は切り出した。
「少なくともわたしは、人間の線は薄いと思っている」
「それではやはり妖怪の仕業だと?」
「おそらく。しかし、やはり動機が分からないし、行動の意図も掴めん。ただ人々を怖がらせるために人里を徘徊するのか。それとも、なにか別の目的を持っているのか」
確かに、古傘の付喪神でもあるまいし、怖がらせる意図だけで動いているとは考えづらい。
人里を徘徊して、なにをするつもりなのか。それを知る必要は確かにある。
「あとは目撃情報のあった地域くらいかな。それ以上はわたしも情報不足でね。お役に立てずすまない」
「いいや、十分だよ。むしろ協力してくれて礼を言う」
頭を下げると、慧音もあごを引き、微笑を浮かべて口を開く。
「わたしからもお願いしよう。怯える民を救うために、どうか力を貸してほしい」
「……ほう。信仰を集めようというだけの、偏狭な意識しかないというのに?」
ひねくれた言葉を返すが、「構わない」と慧音は続ける。
「それが解決につながるのならば、わたしはいくらでも協力しよう。それに」
「それに?」
「いまこの時から、貴女は人間たちの願いを背負ったのだ。決して偏狭というわけではないさ」
その言葉に、思わず目を丸くしてしまう。それを見て、慧音も悪戯めいた笑みを浮かべた。
どうにも気恥ずかしくなり、「それではこの辺りで」と強引に切り上げ、足早に上白沢邸を後にする。帰り際、門をくぐるときに1枚の紙片を受け取り、その紙片を握りしめながら、はあとため息をついた。
「……思いがけず、信仰を得てしまったな」
もちろん、この騒ぎを解決するまでは、完全な信仰を得ることは叶わないだろう。しかし、人々の願いを一身に受ける、これが信仰であらずして何という。
少なくとも、この異変を解決する動機は、先ほど慧音に話したそれとは違ったものになってしまった。似合わないなあ、と苦笑するものの、時にはこういうのも悪くない。
◆
人影が目撃されたという場所は多岐にわたった。北里の屋台で呑んでいた男たちが見たとか、街道のど真ん中を歩いていただとか。夜更かししていた子どもが集落のなかを徘徊しているのを見た、なんてものもある。慧音にもらった紙片をもとに、色々な場所を巡ってみたものの、それらの場所に共通点らしい共通点は見当たらない。
紙片に書かれている目撃場所も残りわずかとなり、しかし糸口はまったく見つからなかった。もはや、場所は関係ないのだろうか。里中を歩き回るというのだから、決まった場所などがあるわけではなく、さまざまな場所を見境なく徘徊していることだって考えられる。
「聖人様、どうか解決してくだせえ。みんなからのお願いだ」
「うちの主人はいつも帰りが遅いから、わたしも心配で眠れないのです」
「里中の子どもたちになにかあったら大変だ。聖人様、どうかよろしくおねがいします」
一方で、行く先々で人間にかけられる言葉は、ほとんどがこういうものだ。里の人間の不安はピークに達している。一刻もはやい異変の解決が望まれているところを、このようにノロノロとやっていては話にならない。どんな些細なことでもいい、なにかキッカケが欲しかった。
そのキッカケを掴むことができたのは、里のとある居酒屋で、女将に聞き込みをした際のことである。
「そういえば、西の街道の占い師が、いつもと比べて様子がおかしかったねえ」
酒の棚を掃除しながら、太った女将は大きな声で言った。
「様子がおかしかった?」
「ああ。4日前くらいにここへ来て、いつも通り酒を呑むのかと思ったら、そうじゃなくてねえ。普段は『占い』とか言って、あることないこと平気な顔で言うクセに、そのときだけは真っ青な顔して、『やばい、やばい』ばっかりさ」
やばい、やばい。
話を聞くかぎり、この店の常連である占い師の男は、そんな言葉ばかりを呟いていたという。なにが『やばい』というのか。それを女将に問い返そうとして、ふと気づいたことがあった。
「……もしかして、水玉の人影の?」
「ああ、そうだよ。いつまでもやばいやばいうるさいから、何がやばいんだい男らしくないねえハッキリしなよ! って怒鳴ってやったのさ。そうしたら、例の人影、あれがやばいんだって。占い師はそう言ってたね」
「もっとも、わたしは人影なんか騒ぐほどのことでもないと思うけどねえ」と笑い飛ばす女将を横目に、わたしは思考の波に身を任せていた。例の人影は、やばい。あまりにも漠然すぎて、思わず失笑してしまうほど幼稚なフレーズだ。
しかし、こんなことでも、わたしにとっては重要な手がかりである。女将に占い師の店の住所を訊ね、手帳に書き留めて、駆け足でその店へ急ぐ。十数分ほどで到着すると、息も落ち着かないうちに、わたしは店の呼び鈴を鳴らした。
「ごめんくださーい」
大きな声で呼びかける。返事はない。店の戸に手をかけると、案の定鍵がかかっていた。外出中なのだろうか。
ちょうどよく、ご老体の爺が通りかかったので、ここの家主についてなにか知らないかと問いかけた。すると爺は何度か頷いて、「占い師なら、ここ数日は店を閉めているよ」と教えてくれる。
帰ってくる目途は分かるか、どこへ行っているのか見当はつくか、そういうことも訊いてみたが、流石にそこまでは分からないらしく、諦めて引き下がった。その後、別の人間数人に同じことを質問したが、やはり結果は変わらない。
「困ったな……」
糸口が見えかけて、しかし手の届かない場所にある。占い師の行方がなんらかの手がかりにつながるはずだと、わたしの直感はそう告げていたが、行方を知る手段がないのではなにも意味がない。
気長に聞き込みをして行方を追うには時間がかかりすぎるし、里人の感情を考えれば、あまり悠長にしている暇はなかった。ぜいたくすぎると言われるかもしれないが、迅速かつ的確に解決へ突き進む方法が欲しいのだ。探偵という職を見くびっていたが、なるほど彼らはすごい存在である。
「……探偵か」
こんなとき、探偵ならどうするのだろう。そんなことを考える。袋小路に迷い込み、次の一手が打てないというとき、探偵ならどうする?
まず、見落としがないか再び確認するだろう。気付くことのできなかった、問題解決へつながる道を、改めて模索しようと試みるのだ。事件の発端までさかのぼり、状況を整理して、新しい観点から事件を観察する。観察し、考察して、新たな道筋を見出していく。
わたしの場合はどうだろう。ここまで見てきた目撃現場を、新たな観点から見る必要があるのだろうか。しかし、いくら現場とはいえ、なにひとつ関連がない場所ばかりでは、状況の考察などできやしない。これ以上、どんなことを調べろというのだろう――
「……いや」
なかば諦観していたわたしが、しかし、ひとつの事実に気がついた。
なにひとつ関連のない目撃現場。関連性がないがゆえに考察が不可能。はたして本当にそうだろうか。新しい観点で見る必要があると考えた。そう、たとえば、『関連のない場所ばかりで目撃される』という事実。
――わざと、関連のない場所ばかりを徘徊している?
街道から少し逸れて、団子屋の前に置かれた縁台へ腰をかける。
考えろ。関連のない場所を巡って、なんの意味がある? 人影はいったい、何を目的に徘徊している?
目をつぶり、頭を抱え、これまでにないほど深く思考にのめりこんだ。もしかしたら、通りすがる人間からは怪訝な視線を送られていたかもしれないが、それにすら気づかない程に集中していた。
そして、わたしはひとつの仮説にたどり着く。ぎゅっと閉じていた目を開いて、かすんだ視界に焦点が少しずつ定まってくる。
この仮説を確かめるには、現場へ行かなければならない。それも、これまでに巡ってきた現場ではなく、まったく新しい『現場』に。次への道筋は、しかとわたしの瞳に映っていた。
◆
深夜の人里は、昼間の活気とは打って変わって、飽和した静けさが台頭する。
民家のほとんどが灯りを消して、みな寝静まっている時間帯。それこそ活気を残しているのは、屋台で遅くまで酒を呑んでいる人間か、夜を活動の本分とする妖怪か。
そして、この深夜の人里こそが、まさしく異変の『現場』である。
「……現れないなあ」
里の中でも、昼間ですら人が寄り付かないような、狭い路地。
そこに転がっている小石の隙間に仙界を作っていたわたしだったものの、一向に目当てのそれが現れないため、しびれを切らして頭を出した。
仙界は、どんなに小さな隙間にでも無限の広がりを持つことができる空間だ。ゆえに、狭い隙間だから居心地が悪いということはなく、いつまでだって待っていても不具合はなかったのだが、ただ待っていたところでそれが来なければ仕方がない。
(人影を見つけるためには、待ち伏せしているだけではいけないようだな)
水玉の人影。それを実際にこの目で確認することこそ、真に『現場』を検証することである。それに気がついたのは、つい昼間のことだった。
目撃される場所に関連性がないのならば、その場所を見たところでなにも意味はない。むしろ、場所ごとに訪れる順番など、人影自身が取る行動のほうが重要だ。わたしは、夜中の張り込みを即断した。元々やろうと思っていたことだったけれど、目的がハッキリした状態なのか否か、その違いはとても大きいだろう。
「……」
口を真一文字に結び、足音も極力たてないように心がけ、わたしは深夜の里を歩き回る。人気のない路地などはやはり重点的に、ときどき見渡しのいい街道なども覗いて、人影に遭遇する瞬間を待つ。
周囲を警戒しながらも、わたしは人影の目的について考察していた。先ほど立てた、人影の目的についての仮説。
――人影は、なにかを探している。
ただひたすらにうろつく目的で徘徊する、ということが考えづらい以上、この仮説がもっとも論理的であるようにわたしは考えた。まったく関連性のない場所をうろつくのも、探しものの手がかりをまるで持っていないから、出鱈目な場所ばかりを探しているとすれば納得できる。
(ただ、それならば、人影はなにを探している?)
それが分からない。いや、分からなくて当然だ。人影さえまるで手がかりを持たない状態なのだから、絞り込むには範囲が広すぎる。
しかし、それを解き明かすのが今だ。徘徊する人影を捕捉し、尾行して、挙動を注意深く観察する。運が良ければ、人影が探しものを見つけることだってあるかもしれない。その探しものが何であれ、異変の解決にはぐっと近づく。我ら道教の信仰はこれまでにないほど大きくなり、……里の人々は平和を取りもどせる。
ふいに、里を分けるもっとも大きな街道から、物音が聞こえた。
「っ……」
わたしは路地にいて、その物音を聞いた。聞き間違いではない、聴力ならば誰よりも自信がある。わたしは路地の石壁に身体をつけて、ゆっくりと街道へ寄っていく。身体を曲げて、街道をひっそりと確認し、物音の正体を視界に入れようと試みる。
そして、ハッキリと視認した。そこにいたのは、ひとつの――いいや、複数の人影。
「……上白沢殿?」
上白沢慧音と、自警団と思われる数人の男たちが立っている。ひそひそと、なにか話をしている様子だった。
なぜこんな時間と一瞬思って、しかしすぐに得心する。彼女は里の守護者であり、自警団の彼らもまた同じだ。この騒ぎの中で、深夜の見回りを強化してもおかしいことではない。
しばらく観察していると、話し合いが終わったのか、慧音と男たちは四方に散っていった。あわてて仙界に身を隠しながら、わたしは少し落胆する。いよいよ人影に近づけたと思ったのに、ぬか喜びであった。今宵の夜はまだまだ長くなりそうだ。
「こればかりは、気長に行くしかないか」
仙界から出て、小さくため息をつきながら呟く。若干時間はかかるだろうが、見つけることさえできれば、異変の解決は目前なのだ。苛立ちがないわけではないが、落ち着いて、じっくりと探していこう。
再びわたしは歩き出す。路地を探すのはもうやめよう。目立たない場所に現れやすいというのはただの先入観かもしれない。わたしは、先ほど慧音たちがいた街道とは逆の街道に出る。飲食店が多く立ちならび、やはりここにも人影はない――
強烈な妖気が、わたしの身体を突き抜けて、心臓の鼓動を強く打ったのは、そんなことを考えた矢先のことである。
(っ――?!)
適当に仙界を生み出し、そこに隠れたのは、咄嗟の判断だった。
これまでに浴びたなかでも特段に強烈な妖気。慧音から受けたもの、いやそれ以上か。こんなものが里を出歩いているのは、どう考えても異常だ。
仙界から、ほんの少しだけ街道への視界を確保する。この爆弾のような妖気、その発現元をなんとか確認しなければならない。
そして、ビンゴだ。街道の遠く向こう側、いまだハッキリとは確認できない位置ではあったが、それはこちらに向かって歩いてくる。
「……水玉、の」
丈の長い、赤と紺で構成された水玉の着物。人影の顔を覆い隠すキツネのような仮面。
実物を見たのは、もちろん初めてだ。しかし、わたしは確信する。これが、噂の、水玉の人影。
「……くぅ」
近づいてくる人影からはあえて逃げず、仙界に身を隠したまま、近い場所を通り過ぎていくのを待った。遠く離れていても強烈だった妖気は、近寄られるとより破格の代物で、身体の芯までビリビリと震わされる心地である。
人影が通り過ぎて、その背中を見つめるようになってから、いよいよ行動開始だ。仙界はどのような場所へも瞬時に移動することができる。
それを利用して人影のあとを追っていき――探しものを、明らかにする。
◆
「青娥」
わたしの声は震えている。強い動悸が胸を打って、その振動が声帯をまともに機能させてくれないのだ。
机の向かいに座る青娥は、「どうしたの、豊聡耳様?」と変わらぬ笑顔を浮かべる。
「せっかくお話も佳境ではありませんか。そのあと、人影の探しものが何だったのか、わたし気になりますわ」
「……青娥、その、もうやめないか」
「?」
「なんというか、気分が悪いんだ。今日は早めに帰って休みたい」
自分でも驚くほどに適当な言い訳が口から出ていた。しかし、青娥を言いくるめられるほど精巧な嘘を、今この場で取り繕うことは、恐らく出来ないと思う。
無理やりな言い訳をつけてでもこの話を終わりにしたかったのは、わたしの心が警鐘を鳴らしていたからだった。記憶の引き出しは、先ほどからガタガタと音を立てて揺れ続けている。これ以上、引き出しの中身を漁ることが、わたしにとっては恐ろしくて仕方がない。
「自分で話してきてなんだが、すまない、今日はここで終わりに」
「豊聡耳様」
青娥の優しい声が耳に入る。優しくて、しかし心強い。
いや、心強いというよりも、わたしの心に直接語りかけるような、催させるような、甘い声。
「大丈夫ですわ」
青娥の目を見た。底の知れぬ何かを感じ取って、緊張感は高まる。
動悸はより強くなっているのに、わたしの口は再び動き始めてしまう。そんな。なぜ?
「大丈夫。大丈夫」
まどろむような感覚を覚えて、ところが意識はハッキリしていた。
矛盾した世界に身体を浸けたまま、わたしは再び話し始める。ガタガタと音を立てる引き出しを、またしても漁り始める。深く、深く――
◆
人影を追い続けて、どれだけの時間が経ったのだろう。
ふとそう思って、腕時計をちらりと覗くと、朝にはほど遠い時間だった。まだまだ、この尾行は続くことになるだろう。
ここまでにも、人影は色々な場所を巡った。目撃情報があった場所も含め、まったく新しい場所も通り過ぎていく。そこで人影がすることは、何もしない。何もせず、もちろん何かを探すそぶりもなく、ただ『通り過ぎる』のだ。そこに意図があるとは到底思えない。
(……ただ、徘徊しているだけなのか?)
もっとも否定的であった結論にたどり着きかけて、慌てて首をふる。その結論に至るにはいまだ尚早だろう。わたしにはうろついているだけに見えても、人影は、確かな意図をもって動いているかもしれない。
そうして、長い時間を人影の尾行に費やした。その間、やはり人影は歩き回るだけ。それでも辛抱強く、そのあとを追った。
すると、空が明るくなるのも間近というところになって、人影の動きに変化があった。歩き回っているだけ、という点は変わりがない。しかし、人影の歩き回る周囲の風景が変わっている。
少しずつ建物が無くなっていき、人の手が入っていないような荒れた野が視界の先に見える。自然のままの地帯。人影は――里からゆっくりと去ろうとしている。
「どこへ行く……?」
里から去るようだが、構わない。わたしは尾行を継続する。
荒れた野を越え、近くの林に入っていき、丘をのぼっていく。いまや、その動きは徘徊というものではなく、確かに目的地を目指して動くそれだった。
十数分ほど歩いただろうか。丘をのぼりきった先に、その小屋はあった。いや、小屋ではない。つつましい石の柱と、小屋の前に置かれた木製の箱。あれは、賽銭箱か。
「神社か?」
こんな場所に神社があるとは、聞いたことがない。わたしは幻想郷の中では新参であるから、知らなかっただけかもしれない。ただ、少なくとも、未だに信仰を集めているような神社には、到底見えなかった。
水玉装束の人影は、その神社の本殿付近で、すっと姿を消す。どこへ行ったのかは分からない。わたしも身を隠していた仙界から身体を出して、十分に周囲を警戒しながら、その神社に近づいていく。
博麗神社や、山の上にある神社に比べて、その大きさは遠く及ばない。どこかの神社の分社なのかもしれない。雑草の生い茂る石畳のうえに立ち、ここが境内かと考えながら、倒れて転がっている石柱をじっと観察する。何か文字が書いてあるようだが、風化しており、読み取れない。
「……」
わたしは本殿に目をやった。古びた木造建築の前には、朽ちた賽銭箱がぽつんと置かれている。ゆっくりと近づき、中を確かめると、予想とは裏腹に多くの硬貨が山を作っていた。
ただし、その硬貨のほとんどが、現在は使われていないような古い硬貨だ。以前は信仰を集めていた神社なのかもしれない。しかし、今はその面影を残すだけ、か。
「……あの人影は、この神社で祀られている神だったのか」
ようやく、結論に近づいた気がした。
あの水玉の人影は、この神社で祀られている神だったのだ。しかし、その信仰は現代へ近づくにつれて薄れていき、分社は寂れた廃墟と化した。
人影、もとい神は――それにやるせなさを感じたのかもしれない。だれも見てくれなくなった自分の姿を、自ら誇示しようと思ったのかもしれない。
結果として、それは人里を騒ぎに巻き込んだ。神は自分の存在を知ってほしかっただけかもしれない。それでも、里は混乱し、その規律は大きく乱れた。
「上白沢殿に伝えて、然るべき処分をしてもらうしかない、か」
ここまでの騒ぎとなり、このまま神社を放置しておくわけにもいかない。慧音や、それから博麗の巫女あたりに、お祓いをお願いするのが道理というものだろう。
虚しい気持ちが心を覆っていた。一度深く呼吸を整えて、わたしは本殿に背を向ける。
生者必衰の理は、この世のすべてに対して平等だ。それがこの神社の運命なのだ。
「……っ」
しかし、気持ちを整え、深呼吸をしたわたしが目を開けると――光景は先ほどと一変していた。
小さくこじんまりしていた境内が、伸びている。博麗神社の、いやそれ以上の長さになって、わたしを帰らせまいとしているかのごとく。
振り返ると、本殿もまた、巨大化していた。もはや分社の大きさではない。更に、人影の発していたものとよく似た妖気が、そこからは漏れだしている。
「……ただでは帰さない、ということか?」
わたしの感じていた同情心が、一気の発散していくのを感じた。
もはや、この神社の主は、正しき道を外れてしまっている。お祓いを他人任せにしようとしたわたしだったが、その必要はもうないらしい。この神は、わたしが退治する。
賽銭箱を乗り越え、本殿の朽ちた戸を開ける。ぎいと戸は軋み、その衝撃で本殿そのものが倒れてしまうかのようだった。わたしは土足のまま足を踏み入れ、これまた軋む床板の上をゆっくり進んでいく。
「この空間は……」
本殿の大きさから想像できない、大きく広がった空間。仙界によく似ている、と一瞬考えて、けれどすぐに否定した。仙界とは似ても似つかない邪悪さが、この空間からは滲み出している。
廊下のような通路を歩いていくと、突き当たりに出くわした。そこからは、左右に通路がつながっている。どちらへ進もうかと思案していると、その突き当たりに置かれた小さな壇に、四角い何かが置かれているのを見つけた。
「……本?」
一冊の本。妖術などがかけられていないか確認し、それからゆっくりと手に取る。
表紙に題名などは書かれておらず、一見では何の本か分からない。表紙を開き、初めの頁を見る。劣化した羊皮紙を彩るのは、墨で記述された文字の数々。
その頁に書かれていた言葉に、わたしはいきなり驚かされた。そこには、わたしが飛鳥の世で記述に用いていた言語が、文字列として並んでいたからだ。
「漢文体……大陸の書物か? いや、これは日本の……」
見覚えのある言葉が散見される。頁の隅々まで、わたし自身が把握している単語を探し、この書物の正体に近づこうとする。
初めの頁だけでは記述は終わらずに、わたしはぺらりと頁をめくった。変わらず、わたしの知っている単語のある記述ばかりを選んで、読んでいく。
そのとき、わたしは意図せずに、その記述を見てしまった。
わたしの心はなにも気付かずに、それを読んでしまった。
瞬間のことであった。心臓が止まるかのごとき、強烈な邪念の塊が、わたしの精神を襲った。
黒いヘドロのような、抽象的でうまく表現のできないそれが、わたしの心を埋め尽くす。
思わず悲鳴をあげて、手から書物が落ちた。朽ちた木の床板にそれは落ちて、床全体が音を立てる。
「な、なんだ……っ?!」
書物からつながりを切った今も、存在を危ぶむような、黒い衝撃が胸を覆っている。
聖人となり、人間とは反対に精神的な攻撃を警戒するようになっていた。それだけに、この衝撃は、間違いなく危険であると、直感が察知した。
息を荒げながら、なにがわたしをこの状況に追い込んだのか考える。あの書物なのか。あの書物を読んだことで、あの書物の記述が、わたしを……?
瘡(かさ)
発(い)でて
死(みまか)る者――
「うぐぁ」
駄目だ。考えるな。考えるな。考えた瞬間は、わたしは呑み込まれる。この黒い何かに。
痛むほどに首もとの皮膚を握りしめ、精神から異物を取り除こうと躍起になる。それだけ、これはわたしに危険を感じさせていた。
そうして、わたしが内面ばかりに気を取られていたことは、否定できないだろう。
涙のにじむ瞳を少し開くと、わたしが今まで立っていたはずの通路は、どこにもない。薄暗くて、広い空間に、わたしは立っていた。
「ここは……」
息を整えながら、周囲を確認する。上白沢邸で案内された客間よりもずっと広い、がらんと広がった空間。
突然の変化であったが、仙界に似た場所にいる以上、このような事象があってもおかしくはない。落ち着けと自分に言い聞かせ、わたしはゆっくりと一歩を踏み出す。
ざくりと、乾いた落ち葉を踏むような感覚を、靴の下から感じた。ちらりと足もとを確認するが、薄暗くてよく見えない。ただ、足場はしっかりしていた。気にせず、そのまま前へと進んでいく。
そうして、進んでいった先に、大きなステージのようなものが立っていた。暗いシルエットでしか見えないそれへ、更にわたしは近づいて、正体を確かめる。
「祭壇?」
広い空間の中心にあたる場所だったか。そこに立っていたものは、神を祀る、祭壇。
一気に緊張が高まるのを感じた。ここは、祀られた神が眠る総本山。ともなれば、そこには必ずいるのだ。祀られている、神そのものが。
背後で、落ち葉を踏むような足音がした。
「……っ」
咄嗟にふり返れば、やはり、いる。
薄暗いなかで、人影は松明のような何かをかざしていた。その明かりで、人影のまとう水玉の装束がハッキリと確認できる。ゆっくりと、わたしの立つ後ろに置かれた祭壇に、大きな身体で歩み寄ってくる。
先ほどから続いていた予想外の展開に、怯んでいた心を無理やり鼓舞する。今更怯んでいてどうする? こうなれば、もはや、わたしがこれを祓う以外に道はない!
「……覚悟するんだな、謎の神よ。お前の役目はずっと昔に終わっているんだ。さあ、大人しく祓われ――」
そのときだった。
人影は松明をにわかに投げ捨て、自由になった手で、顔面につけられたキツネの仮面を外した。
ぼうと、松明の明かりが、露わになった顔を下から照らす。
その顔は、人影のまとう装束と違わぬ水玉模様をしていて――
いや。あれは、模様ではない。
「……痂皮?」
顔を覆っていたものは、痂皮。すなわち、かさぶた。
人影は、顔面中を覆ったかさぶたを指で掻きまわす。かさぶたは痛々しくめくれて、血を含んだままに床へ落ちた。
考えたくなくても、考えざるを得なかった。そうだ。かさぶたは昔こう言われていた。瘡、と。
「……っあ」
黒い衝撃が、またわたしの心を犯す。しかも、書物の記述を見たときの比ではない。直接わたしの精神をえぐるかのような、えぐった先に穢れた何かを擦り付けられるような、決定的な汚染を受けていた。
脂汗が額から流れ落ちる。額だけではない、全身から汗が噴き出す。動悸は許容範囲内をとうに超えていた。視界がぐにゃりと曲がり、膝から身体が床に落ちる。
すでに危険な状態であることは明らかだ。このままでも間違いなく、わたしは死の世界へ堕ちる。
それであっても尚、残酷なことに、わたしは見なくてもいいものを見てしまった。膝から崩れ落ち、床に倒れこんだわたしは、床に散乱している落ち葉のような何かを見てしまう。
落ち葉などではなかった。すべて、かさぶただ。
「ぁ……ぅ……」
衝撃的な光景を目の前にして、しかし小さなうめき声しか出ない。
その間にも、わたしの心は深刻に穢されていく。知りたくもない、いいや、知っていたけれど、わたしが無理に忘れようとしていた、いくつもの事柄が、心の表層に溢れてでてくる。飛鳥の治世で、政敵などよりも、なによりも恐れられていたもの。一度罹ればそれは不治。全身を瘡で覆われ、痛みに苦しみぬき、やがて瘡は内臓をも覆って、死に至る。天皇であれ決して例外ではなく、生き延びたとしても、瘢痕は一生その者を苛む――
ふいに、愛する母の顔が、わたしの脳裏に浮かんだ。
「……や、めろ……」
幼少のころ一緒に遊んでくれた母、辛いときにわたしを慰めてくれた母。美しく、尊いはずの、全ての記憶。
なぜ、疑問に思わなかったのか。生者必衰、人はいつか必ず死ぬ。わたしはそのごく僅かな例外に過ぎないというのに、なぜわたしは、母との美しい記憶だけを保持し続けていたのだろう?
あふれ出す負の記憶のなかに、病床に伏す母の姿があった。わたしの愛した母の、美しい面貌は、水玉模様に覆われている。いいや、そんなものじゃない。分かっているはずだ。母は疱瘡に犯されたのだ。そして、ただ母を救う一心に看病をしたわたしも。
「……」
もはや、何も感じない。黒はわたしの全てを覆い尽くしている。この黒は、目の前にたたずむ人影の仕業だと思っていたのだが、そうではないらしい。
すべて、わたしの記憶の奥底に隠された、壁によって恣意的に封じ込められた、わたしの記憶そのものだったのだ。
人影がゆっくりと近づいてくる。ああ、どうせならひと思いにやってくれないか。わたしはもう終わりだ。精神を本分とする存在でありながら、こんな爆弾を抱えていて、そしてそれは爆発した。放っておいても、わたしの存在は消えてなくなるだろう。だから、さあ、わたしを喰いものにするといいさ、邪神よ――
そんなとき、突然、目の前を紅い閃光がほとばしる。
「……」
わたしはもうどうでもよかった。もはや、わたしは手遅れであるから。
ただ、目の前に立っていた人影が、苦しげに身体をねじらせているのが見えた。その先には、紅い閃光を発する、また別の人影。
それが、いつかわたしに道を教えてくれた女性だということに気付いて、その瞬間に、わたしの意識はぷつりと途絶えた。
◆
――さて、どこから語りましょうか。
まあ、結論から話すのがいいかしらね。
豊聡耳様が直面したあの人影は、『疱瘡神』。
数百年ほど前、北の地で疱瘡が流行した際、原住民が病気の発端と畏れ、そして崇めることで収束させようとした、いわゆる邪神ですわ。
疱瘡そのものはもう外の世界に存在しないけれど、だからこそ、この幻想郷に現れたのかもしれないわね。
ただ、疱瘡神はあくまで『偶像』。人々の畏怖を受けて、強烈な妖気をまとっていたことは間違いない。でも、現実的な影響を与える能力は持っていなかったはず。
それがどうして、豊聡耳様をここまで追いやったのか。それは、貴女が飛鳥の世を生きた豊郷耳王であったからに他ならない。
自らも疱瘡に罹患し、何よりも母上をその病で失ったこと――それが原因なのでしょう。貴女は、疱瘡に対して強烈なまでの過敏症を持っていた。それは今も昔も変わらない。だから、豊聡耳様はいつか、わたしにお願いしてきましたわ。
「眠りに就く前に、わたしから疱瘡の記憶をすべて消してほしい」
わたしも、それは合理的だと思った。復活後の豊聡耳様は人であり、人でない存在。すなわち、精神的な打撃を受けると、その不老不死は綻んでしまう。
だから、わたしは貴女の願いに応えた。術はうまくかかって、尸解仙として復活したあとも、しっかり効力を発揮し続けていた。
あの人影の騒ぎが起きるまではね。
あとは、まあ、説明しなくても分かってもらえるかしら。
一部の者は人影の正体を知っていたし、わたしもそのひとり。豊聡耳様が話してくれた占い師の男も、それを知っていたんでしょうね。今頃は疱瘡の恐怖に怯えながら、どこかで隠れ住んでいるはずでしょうね。
◆
里の某料理店。目の前の青娥は、すました顔で、つらつらと真相を話している。
対してわたしは、あの瞬間とまったく同じものを胸に感じていた。氾濫しきった黒いヘドロ。飛鳥の世で受けた心的外傷が、果てなく増幅されて、わたしの心を蝕んでいる。わたしは必死の思いで青娥を睨みつけ、胸を押さえたまま「なぜだ」と問うた。
「なぜ?」
「せっかく、忘れていたのに。どうして、わざわざ、それを思い出させる」
「忘れていた? わざわざ思い出させる? いやねえ、豊聡耳様」
けらけらと笑う青娥は、しかし次の瞬間、わたしに向かって憐憫の視線を向けていた。
「わたしが『忘れさせた』のですわ。つい先日のことを、そんなにすぐ忘れられるわけがないでしょう?」
「……っ!」
「でも、忘却術というのは不安定なものなの。心に壁を作って、不都合な記憶だけをシャットアウトする感じなのだけれど……この壁がなかなかうまく作れない。だいたいが欠陥工事になってしまう。だから、その都度確かめないといけないでしょう? 壁が、きちんと上手にできているかを」
わたしの記憶が、ひとつにつながる。
会食の初めに、青娥が問いかけてきたいくつかのこと。わたしの母の話、そして水玉の人影。
どうしてそんなことを問いかけてくるのか、一瞬考えて、結局思考の外へ放り投げてしまったものだった。あのとき青娥は、その話をしてもなお、わたしの心の壁が壊れてしまわないかどうか――『実験』していたのだ。
そして、今回、その実験は失敗に終わった。
「さて、そろそろ、今の豊聡耳様とはお別れね」
青娥の瞳が、いつか見たような、底の知れない光を湛えている。
ああ、そうか。これが術だったのか。わたしがこの先、一生隠れ蓑にして生きていくのであろう、忘却術。今度こそ、実験はうまく行くだろうか。
最後に見たのは、青娥が悲しげにわたしを見つめている景色。わたしの瞼はすうと重くなり、心を埋め尽くす黒が小さくなって、視界は真っ暗に暗転した。
ズキリと、ふいに、ほんのすこしだけ頭が痛む。
前頭部を押さえて呻いたわたしに、机越しの向かい側に座る邪仙は、心もち心配そうな顔を見せた。
「頭痛かしら、豊聡耳様」
「いや……たいしたものじゃないよ。もう治った」
頭痛は一瞬で消え去っていた。おかしいなあ、とわたしは小首を傾げる。
「そういえば、君とこうして会食をするのも久しぶりだね」
「ええ、昔はよくこういう場を設けていたものですけれど。その度、豊聡耳様のお話を聴かせていただいて、とても面白かったですわ」
露骨なお世辞であったが、なかなか悪くない気分である。
ふいに、青娥が声を上げる。何だろうと彼女を見ると、彼女は笑顔で、こう切り出した。
「また、あのお話が聴きたいですわ。豊聡耳様の、母上のお話」
<了>
神子の名前は豊「聡」耳 神子です。
作品自体は面白かったですが、事後処理というか結局解決できたのかということ。
人々の不安は解消されたのかどうか等、その後の人里の様子とかが描写されていないので、何かスッキリしない。
それを考慮してこの評価とさせていただきます。
しかし青娥、恐るべし。まさに邪仙。
たまげたなぁ…。
うむ、ちょっとだけ怖かった。これからも、もっとゾクゾクするホラーSS期待してます。
いやそれにしてもまさか娘々がホラーだとは思わなんだw
無限ループって怖くね?
惜しむらくは前半に公園とか団地とか、間違いではないにしても幻想郷にはあまり似つかわしくない表現が見られたことでしょうか。反射でブラウザバックしそうになりました。
後半のインパクトに比べれば些末なものかもしれませんが、前半がもう少し丁寧な作り込みが為されていればナイスどころかエクセレントなホラー作品に成りうると思われるだけに残念です。
長文失礼しました。
予想を超えた形で絡んできたので驚きでしたね。ここはポイント高いです。
ですが個人的にちょっと、と思う箇所もありました。
例えば神子=ロリコン疑惑みたいな箇所は全く必要なかったと思います(その箇所だけ話全体から浮いている感があります)、
天然痘のおぞましさはもっと読むのを躊躇うくらいに書き込んでもよかった、など。
全体としては良かったです。
水玉模様を水ぶくれ(跡)の隠喩として使う発想には感服しました。可愛らしいデザインの根源に不気味な荒れ狂う力があるってドキドキします。
娘娘が神子にかける催眠術も、出口のない正統派なホラーをうまく演出していると思います。