Coolier - 新生・東方創想話

三歳方土

2013/08/03 16:23:30
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 疲れたときは甘いものが欲しくなる。そんな時に饅頭を差し出されて喜色満面にかぶりついたら馬糞だった。
 狐狸の類がよくやる悪戯だが、さて、実際にやられたらどんな気持ちになるだろう?
 この問いに対していろいろ想像して答えることは可能だ。けれど、その体験もしくはそれに近い体験をした者でなければ適当なことしか言えないと思う。
 私は化かされたことはない。けれど、今なら確信して言える。「ずっとこびりつくほど嫌な気持ちになる」だ。

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 桜の花が散りきって、入れ替わるようにツツジの花がほころび始めた頃のことだった。
 里では軽く汗をかく陽気だったが、幾重にも葉の生い茂る森の中では冷気の方がまだ強い。まして川の中では身を切ると表現して差し支えないほどだ。山中の雪解け水を産地直送の冷たさそのままにお届けしているシロモノだけあって、人間が泳ごうものなら趣味の悪い口紅を塗らずとも紫に変色するだろう。自分にとっては屁の河童だけども。文字通り。
 難儀なのは川底が浅いことだ。腹を擦りそうになる。というか、何度かベルトのバックルや帽子のツバが石とかち合った。打撲に至る事態は避けられているがヒヤヒヤしっぱなしだ。このときばかりはマナ板な胸に感謝したくなる。
 しかし、泳ぐ速度を緩めるつもりは毛頭なかった。研究が煮詰まって徹夜続きの脳味噌も身体も、強い一つの目的に向かって全力を発揮している。
 チルノに会う。
 ただもうそれだけだった。
『おーい、にとりぃ、いるー?』
 この声が聞こえた瞬間、研究室で製図していた指先は止まり、全神経は聴覚に集中された。オン・ユア・マーク。
『ちょっと来てほしいんだけどー』
 「ど」の余韻が消えるか否かの段階で家から川へと飛び出していた。レディー・ゴー。
 あとはもう一心不乱に全速力でゴール目指して泳いでいたのだった。
 それほどの距離があるわけではないが、支流のさらに支流なため隘路の上に障害物も多い。
「っ!」
 カーブの先から急に立ちはだかった大岩を危うくかわす。危険を覚えたのも束の間、再び力の限り水をかく。
 岩・流木・水草・小魚などなど、擦れ違う全てを置き去りに、木漏れ日のちらつく水流を遡る。
 チルノは何のために自分を呼んだのだろう。また傷の手当てだろうか。それとも新しい発明品を見せてもらいたいとか。あるいは悪戯に付き合ってもらいたいとか。
 川の流れを利用すれば、河童である自分にはいくらだって言葉を受け取ることができるのに、いつも呼びかけは片言のみだ。
 不満を述べたことはない。むしろこのままであってほしいと願うからだ。
 ただ一言呼べば来てくれる。何を言っても喜んでやってくれる。そういう存在として、チルノにとっての河城にとりはあり続けてほしいのだ。
 そろそろ目的地だ。
 水しぶきと共に水面から顔を突き出して、荒い息を整えながら周囲を見回す。
 陽光は木々の葉を透過し滴るばかりの緑となっており、地面に落ちて跳ね返ったかのごとくシダ群が曲線に繁茂している。
 暗緑色の世界の中に…………いた。
 手を振って川沿いに勢いよく飛んでくる。その笑顔は薄暗い森の中でも光って見えた。
「おいっすー、にとりぃー!」
 大声を上げてから、青いワンピースの少女は目の前で急停止。白い山形模様の入った裾を川面の上で揺らす。
 その姿を間近にするだけで、鼓動が高まり目が潤む自分を感じる。
 強いて冷静さを形作って言葉を紡いだ。
「やあ、今日は何の用だい? 無茶振りしなけりゃ何でも承りますヨ」
 おどけた表現を入れたのが良かったか、造られた自然体は希望通り相手に受け取られたようだ。
 チルノはいつものように「やった!」という笑みを咲かせた。
 ただちょっといつもと違うのは、口に手を当て小首を傾げたことだ。青いリボンを付けた青髪が可愛らしく揺れる。
「うーん、でも、どうかなぁ……」
 自分のお願いを言っていいものかどうか迷っているようだった。どうも「無茶振り」の範疇に入る用件らしい。
 どんなものでも聞くつもりでいた。何であろうとしてあげたい。死ねと言われたらすぐ死ねる。
 想いは水と胸の下に沈め、川のせせらぎの中でチルノの言葉を待つ。
 やがて意を決したように氷精は口を開く。
「えーと、にとりさ、傷薬持ってたよね」
「もちろん。てことは、怪我したのかい?」
「そうそう」
「へえ?」
 今度は自分が首を傾げることになった。以前は膝に薬を塗ったことがあったが、今度はどこだろう。見たところどこにも傷は無いようだし、本人も痛がる素振りはしていない。いや、チルノは多少の怪我じゃむしろ笑ってしまうキャラか。
 でも、どこか薬の必要な所があるのは事実なわけで。服で隠れて見えないところなんだろうか。え、それってつまり?
「あのさ、どこに塗ればいいのかな、薬」
「ええっとね、うーん……」
 言いよどんでいる。言いにくそうさせる箇所だということで、予想を裏付ける。では、やはり、
(……あ、あんなところとか、こんなところとか? 塗っていいの? 自分が、そこに?!)
「にとり」
「ひゃい?!」
 不埒な思考を指摘されたかのように身体が跳ねる。素っ頓狂な返事をしてしまった。
「ちょっと来て!」
 右手を差し出されて反射的につかんでしまう。引っ張られた。
 生身の直接的な感触にドギマギするまま、川から上がり水を滴らせて森の奥へ連れられてゆく。土と緑の濃い匂いが身を包む。
「ど、どこへ行くんだい?」
「いいから!」
 やっぱり際どい箇所なのだ。だから、人目に付かない所へ移動している。でも、それでも、そんなところに自分が触れていいものなのだろうか。
「あの、ね、チルノ。どこを怪我したのさ」
「全身!」
「マジで?!」
 鼻血が出そうになるほどの衝撃。サンオイルのように全身くまなく塗りたくることになるのか。一糸まとわぬ氷精に? 全裸のチルノに? しかも、素手で直に!
 今までしてきた妄想の中でもそれは流石に無かった。けれど現実で起ころうとしている。今日この時、自分は一生分の運を使い切ってしまったのではないだろうか。
 混乱する思考のまま、草に覆われた多くの幹の間を抜けて、視界が開けた。
 丈の低い草むらのスペースがあった。畳二十畳分、太い木々に囲まれて存在している。倒木や土砂崩れ、地質の関係でできたものだろうか。
「えっ」
 思わず声を上げたのは、そこに誰かが倒れていたからだ。チルノは手を引いてそちらへ歩いていく。
 仰向けになって動かない。薄汚れた着流し。男だ、人間の。
 チルノはニッと白い歯を見せて指さす。
「見つけた!」
「うん。すごい、ですね」
 面食らってそれだけ言う。褒める要素がどこにあるかは置いておいて。
 この男、行き倒れだろうか。どうやらまだ生きてるらしいと判断したのは、息をしている様子が見てとれたからだ。
 年の程は三十前後と見える。野性的な顔つき。口の端が切れて、目には青痣、鼻血の跡まである。
 心配そうにチルノが言う。
「でも足りるかな、薬」
 ああ、そういうことか。
 今まで勘違いしていたことに肩が落ちた。全身に怪我していたのはこの男で、言いよどんでいたのは薬が足りるか心配してたからか。
 チルノは全身に怪我を負っている様子も無かったし、普通に考えればわかったことだ。いかに思考力が茹だっていたかという情けなさ。
「やっぱり足りないかなー。治せない?」
 再度の心配そうな声に慌てて手を振って返す。
「大丈夫、大丈夫、何とかなるよ」
 愛しい氷精にはちょっとでも負の気持ちを持ってほしくない。望みは何でも叶える。
「でもさ、でもさ、薬の入れ物、そんなに大きくなかったじゃん」
「薬なら他にもあるのさ。ちょっと手間が掛かるけど」
 それは事実だ。人一人治療できるほどには現在も携行薬として持っている。
(とはいえ……)
 改めて男を見る。顔だけでなく、手足やはだけた胸元にも痣や傷があった。チルノの言う通り負傷は全身に及んでいるのだろうが、一体彼に何があったというのか。ふと気づいたのは、手元に転がっている物……木刀だ。
 怪しすぎる。
 木こりでも猟師でもなく、こんなところで一人倒れている意味がわからない。
 チルノの頼みもあるし、人間は盟友だ。助けはする。助けはするが、得体の知れない不安がある。男の頬を指先でつついているチルノほどには脳天気になれない。
 杞憂であることを祈りつつ、「それじゃ、やるかな」と投薬のための準備をする。
 スカートの裾にズラリと付いているポケットから次々取り出していった。種種の金属音。そうしてコンロが組み上がっていく。
「おおーっ」
 目を輝かせて見つめてくれるチルノ。舞い上がりそうになる気持ちを抑えて、小さなコッヘルの中に水と消毒用エタノールを入れる。
「飲み薬があるんだ。温かいお酒と一緒に飲むんだよ」
 コンロの火を調節しながら、説明する。実は塗り薬を水に溶いても傷を治す分には問題ないのだが、男の服を脱がせて素肌に触れまくるなど乙女のすることじゃない。チルノだったら躊躇しないかもしれないけども、なおさらやらせたくない。
 コッヘルの中、適温となった液体の中に粉薬を入れ、かき混ぜる。
「よし、もういいかな」
「おいしそー」
「いや、不味いよ。良薬は口に苦しってね」
「なんだぁ」
「あはは、残念でした。でもね、お饅頭ならあるんだ。後で食べよう」
「ほんと? やっほーい!」
 お楽しみの時間が待っている。さっさと作業を終えてしまおう。
 男の頭の横に座り、脇にコッヘルを置く。スポイトを取り出して液体を吸い取る。何回かに分けて服用させるつもりだ。
「それじゃ、と。お口には合わないだろうけど」
 後頭部に手を回し、起こす。ぼさぼさの髪が総髪に結ってある。
(うぇえ……)
 脂と埃にまみれた手触りに口が波形に歪んでしまった。さらにすえた臭いが鼻孔を刺激して眉根も寄る。
 我慢して口にスポイトを差し込み、液体を注入する。さらにもう一度。そしてもう一度。
 男のまぶたがひくつく。うめき声も漏れる。意識が戻ってきたか。痣も目に見えて薄くなってきた。効果てきめんだ。河童の薬はやっぱりよく効く。
 男の頭を地面に置いて、手をはたく。わずかにだが脂でぬめった感触がして衣服でぬぐう。嫌悪感は顔には出さずに、距離を取った。
 不潔さからだけでそこまで忌避的になったわけではない。チルノには聞こえなかっただろうが、男のうめきには「……殺す」とのつぶやきが含まれていたのだ。
「はいっと、これでOK。後はほっときゃ勝手に治るよ」
「そっか、良かった」
「しかし、何だってまた、こんなとこでこんなの見つけたんだい?」
「えー、あたいの行いがいいからじゃないかなぁ。犬も歩けばバチが当たるって言うじゃん」
「神様は犬に引きこもれと言っているのかい? ことわざを正しく修正しても使い方が間違ってるし……」
 大方、いつものように無目的に徘徊していたら、たまたま遭遇したといったところだろう。そういう意味では「犬も歩けば棒に当たる」だ。
 そして、「行いがいい」というのもある意味では合っている。男を助けようとするのは普通はありえない。
 妖怪であれば食物と見なすだろうし、妖精であってもわざわざ助けようとはしない。からかったり、あるいは逆に虐待されたりする存在なのだ、妖精にとっての人間は。
 そういった価値観が普通である中、チルノは助けるという選択を特に逡巡もせず選んだ。妖怪や妖精の感覚からしてどうだかはともかく、人間規準からすればそれは「善行」だ。そして、人間を盟友と見なす河童の道義からしても。
 だから、チルノが自分を頼ったことは英断だった。川の流れを通してすぐに呼べ、傷を治す手段を持つ。さらに人間に友好的だという知り合いなど、自分以外にいないだろう。
 本人はそこまで深く考えてはいなかったに違いないが、行動として最善は最善。それに、すぐ自分を頼ってくれたことが純粋に嬉しい。
 ポケットの一つをまさぐる。出がけに放り込んでおいた饅頭が二つあった。もともと昼食代わりだったが、チルノと食べるおやつになるのなら、歩兵がと金に成るほどの昇格だ。
「じゃあ、その木の根っこの所に座ってさ、お饅頭食べようか」
「わーい、やっ……あ」
「やっあ?」
 口を開けたままになっているチルノの視線の先、自分の背後へと向き直った。
 男と至近距離で目が合った。
「うわぁああああああああああ?!」
「おおぉおおおおおおおおおお?!」
 思わず上げた叫び声に、男の方も声を上げた。
 いつの間に起きあがった?!
 チルノの前に腕を出し、かばいながら後に下がる。
 男は目を丸くしていたが、やがて手を振る。頭をボリボリかきながら、気まずそうに。
「あー、いや、驚かして済まない。怪しいものじゃないんだ」
「怪しい人に怪しくないと言われても、怪しさが増すばかりなんだけど」
「そうか……それはまあ、その通りか」
 男は腕を組んで考え込む。どう言ったものかな、とつぶやいて、それから言葉をたどたどしく出していく。
「俺は、イシダ村の出身で、ああ、そうじゃないな、何というか、ここがどこか教えてくれるか? チョウフの近くなんだろう?」
 聞いたことがない地名だ。だからこそ、男に対する疑念が少し晴れた。
「土手で気ぃ失ってから気づいたらここに……あいつら、寄ってたかって山に捨てやがったかな」
 幻想郷の外側から迷い込んできた人間なのだ、彼は。時空のひずみから結界を抜けてくる事例が稀にあるが、不幸にもその偶然性に巻き込まれてしまったわけだ。
 倒れていた場所、男の格好など、いろいろな不自然さはそれで説明がつく。
 もちろんそれでも不信感はぬぐいきれないので、警戒は解かないが。何より男からはピリピリとした攻撃性が漂ってくる。
 ふと、男が自分の腕を見る。不思議そうな顔になって、次は襟を引いて胸元を覗いた。
「傷が……?」
「すっげー、傷だらけがもう治ってる!」
「あっ、待っ」
 止める間もなくチルノが背から飛び出していった。読む空気など始めからなかったかのように、男へと接近。
「何だっ? 何だ、お前?!」
 男が戸惑うのにも構わず、羽を振るわせて宙を飛び回り、男の身体のあちこちを覗き込んだり、ペタペタ触ったりしている。警戒心の欠片もない。
 男は開いた口を何とかふさぐ形で言葉を漏らす。
「こ、おりの、水晶の……羽? 飛んで…………ああ、夢か。何だ、道理でチンドン屋みてぇな格好の餓鬼がいると思ったんだ」
(あんたよりはずっと年上だよ)
 などと心中でツッコミを入れつつ、口には出さない。
 夢と思ってるのか。アルコール度数が強めだったか、それとも意識が戻りきってないのか、現状を現実とは認識できなかったらしい。確かに何となく目に霞がかっているようにも思える。どちらにせよ、夢扱いするなら都合がいい。一々説明を求められても面倒だ。
「すっごいなー、やっぱりにとりの薬って効くんだぁ」
「薬? 俺に何かしたのか?」
 チルノの感嘆に、男はうさんくさそうに自身の身体を見回す。腕を近づけて鼻を鳴らしさえした。
 ムッとして、食ってかかるように言葉を投げつけてしまう。
「河童の秘薬だよ。噂くらいは聞かない?」
 チルノの前で侮辱されたと感じたのかもしれない。
 対する男は悪気も何もなく、すぐ感心したように驚いてみせる。
「へえ、嬢ちゃんが作ったのかい? 可愛らしい河童もあったもんだ。にしても、夢だから痛くないと思ったが、変に整合性は取れてんのな。河童の薬たぁ突飛に過ぎるけどな」
(だから、夢じゃないんだけどね)
 鼻で笑っていると、その鼻が鼻白むことを男は言った。
「ついでに作り方も聞いとこうか。薬屋の兄貴が参考にできるかもしれねぇし」
「はぁ?」
 とんでもないことをぬけぬけと。話の種程度の軽さで尋ねるつもりか。冗談じゃない。
「あのね、河童の秘薬は秘伝なんだ。おいそれと口に出せるもんじゃないよ」
「あー、あたいもそれ聞きたいなー」
「まず土用の丑の日にミゾソバを大量に摘んで、それから……」


「で、服用時は熱燗と一緒に。焼酎じゃない方がいいね」
「酒か。となると酒屋の爺さんと一緒に行商すりゃあ、売り上げが期待できるな。原料のミゾソバは実家近くのタマ川に腐るほど生えてるし……」
 男はやたらと熱心に聞いている。聞き始めのぞんざいな態度が嘘のように目をらんらんとさせてくるので、語るこちら側もつい熱を入れてしまった。
 男を見る目が少し変わった。純真に知識を求める態度にくぐもったものは感じられなかった。
 そういえば、チルノはどこへ行った?
 説明中は首を傾げたり、倒木に座って頬杖をついたり、トコトコ二人の周りを歩いたりしていたけれど。
 ガサッという音へ目を向ける。離れた所で、木刀で草を打つ氷精がいた。構えにもならない持たれ方でぶん、ぶん、と木刀は振られている。
 飛び散っている葉の数からすると、説明の半ばからは聞いていなかったようだ。
(えー……)
 脱力感。本来の趣旨がてんで外れてしまっていた。
 自分で聞いておいて、と思わないでもなかったが、第一にこちらの気遣いの欠如を反省すべきだろう。
 男との問答に意識が向いてしまい、専門用語を平易な言葉に修正するなどの配慮をしなかった。チルノが飽きてしまうのも当然だ。
 ため息をつこうとして、息を飲む。
 男の表情に不穏な気配が宿っている。木刀を振る少女を凝視する目はギラギラとある感情で……これは、敵意、いや、まさか殺意?
 混乱も収まらないうちに、男の足は一歩踏み出され、大股の歩みがズンズンと進んでゆく。先にはチルノ。
「……くっ!」
 静止する機会を逸し、焦りつつ水弾を撃とうとするも、狙いも威力も調節できるほどの集中ができない。
 窮まり、危険を伝える声を上げようとしたところで、
「おぅ、なかなか筋がいいな。いっぱしの侍みてぇだ」
 と朗らかに声を掛ける男に、つっかえ棒を外されたようになる。
(な、何だったんだ、さっきのは?)
 陰鬱な攻撃性を感じたのは錯覚だったのだろうか。しかし、汚泥にまみれた化け物が牙を剥くかのように、確かに思えたのだ。嫌悪、忌避した対象は確かにいた。今は幻と消え去っているはいるが。
 こちらの困惑も知らないで、二人は談笑している。
「サムライ? それって最強?」
「おお、最強だ、最強。こうやって振ればもっと最強になれるぜ」
 男はチルノから木刀を取り、上段に構えて振り下ろす。風切り音を鳴らしピタリと静止する木の刃。様になっていた。
「おぉー」
 「最強」に妙なこだわりを持つチルノに、男は木刀の振り方を教え始める。握り方から丁寧に。
 「目指せ、最強!」とばかりにチルノは熱心に聞いては、再び木刀を振ってみせる。男はまたアドバイスをして、振り方を修正していく。合間合間に笑声が入る、和やかな剣術鍛錬だった。
(……なんだよ、ったく)
 倒木に腰掛けて悪態をつく自分は、二人に忘れ去られたようになっている。光学迷彩スーツは着ていないってのに。
 あの男、何だってあんなに馴れ馴れしいんだ。しかも気安く身体に触って。チルノもチルノだ。初対面で得体の知れないヤツに何の警戒心もないのかい。……隣にいるのは私であるべきなのに。
 ポケットから取り出した饅頭にかぶりついた。何より甘いはずだったそれは、酷くまずい。無理矢理飲まされたせんぶりのようだ。
(くそっ!)
 呪いでもかけるようにもう一度悪態をつく。
 まさかその呪いが成就したわけでもないだろうが、男とチルノのやりとりに不協和音が混じることになった。
「そういえばおっちゃんはサムライなの?」
「ん? ……いや、違うな」
「まだ『最強』じゃないんだぁ」
「ああ、でも俺はそれになりたいんだ」
「じゃあ、いつなれる?」
「あ?」
 男の口がポカンと開いていた。目の前に突然大きなものを突き出された顔だった。
「なりたいんでしょ? いつ最強になれる?」
「は、ははっ、そう簡単になれりゃ苦労はしねぇよ」
「うん、でも簡単じゃなくても、なれるんでしょ」
 男の表情が険しくなる。出した声も明らかに怒気をはらんでいた。
「なりたいなりたいと馬鹿みてぇに繰り返してなれるほど、馬鹿みてぇな話もねぇよ」
 噛みつくような攻撃性。しかし、チルノは動じてなかった。キョトンとしたまま、疑問を突きつける。……その言葉は今でも妙に頭に残っている。
「なりたいものになろうとするのって、ダメなことなの?」
「     」
 男は何かを言おうとして何も言えなかった。時間が止まったようになっている。
 そして、自分も止まっていた。倒木に座ったまま凝固してしまっている。
 チルノの言葉に、何かが貫かれていたのだ。
 二人の思いなど気にも留めず、「ま、あたいは既に最強だけどね」とチルノは胸を張った。
 そのとき、高くで梢が鳴った。
 見上げるところで、「ようやく見つけました」と少女が降り立つ。
「新手の空飛ぶ童女か……」
 つぶやく男に、その銀髪のボブカットが軽く下げられ、黒いリボンが揺れる。
「初めまして。魂魄妖夢と申します。主たる幽々子様、並びに紫様の命により参上しました」
「あぁ、うん」
「さっそくですが同行してもらえますか。紫様のお力により、あなたを元の世界に送り返そうと思いますので」
「ん? ああ……」
 やっぱり外の世界の人間か。幻想郷の境界を司る八雲紫が迷い込んできた男を察知し、友人・西園寺幽々子の助力を依頼したのだろう。それで妖夢が出てくることに相成ったわけだ。やれやれ、これで厄介払いできる。
 男は事情も何も認識できていない様子だったが、妖夢は委細構わず男の手を引こうとする。
 ふと、そこで初めてチルノと自分に気づいたように、
「あ、お取り込み中でしたか? でしたら、申し訳ありません。なにぶん急ぎの用事でして」
 と言った。もう本当に「ついで」といった感じで。
 命じられた任務が第一にあり、その他は目に入らないのだろう。相変わらずの猪突猛進的忠誠心だ。迷ったり、悩んだりなんてしたことがないに違いない。
「あ、もうバイバイなの?」
「いや、よくわからないんだが……」
 チルノと妖夢を交互に見て首を傾げる男が、ある物に目を留めた。妖夢のそこに指を指す。
「おい、それは」
「はい?」
 白いシャツと青緑色のベストにスカート。それらの衣装に不釣り合いとも言える大小の刀を、妖夢は腰に帯びている。男が指さしているのはその刀だった。
「嬢ちゃん、二本差しなのか」
「はい、まぁ……この二振りは私の愛刀ですけれど、それが何か」
 男は口元に手をやり、ブツブツ言っている。
「女、しかも子どもが侍やってるわけがねぇ。しかし、こいつは夢だ。何があってもおかしかない。俺の中の『侍』はこれってことなのか。そうだな、よく見りゃ背筋は伸びてる。足取りも確かだ」
「あの……?」
「なあ、手合わせしようぜ」
 男は木刀を妖夢に突きつけた。
(……ッ!)
 ぞっとして、倒木から立ち上がる。チルノの方へ早足で寄った。あの不穏な気配が再び男に宿っていたのだ。
 妖夢は、しかし、平静なままだ。表情を崩すことなく告げる。
「先ほど申しましたように、急ぎの用事です。ご要望には添えられません」
「手間は取らせねぇよ。あんた強いんだろ、こっちは木刀、そっちは真剣でいいからよ」
「どうあってもなりません」
「強い侍のあんたを倒せれば、俺はそれ以上ってことになる。試させてくれ、俺がどれだけなのかを」
 チルノの斜め前でかばうように立ちながら、おや、と思った。
 男の口調にせっぱ詰まったものを感じたからだ。強圧的でありながら、何か、泣きそうな。
「ですから、」
 正対する妖夢は、
「それにはお付き合いできません」
 にべもなかった。
「はン、じゃあこれならどうだい」
 木刀が大上段に構えられた。薄笑いを浮かべているが、男の双眸にははっきりと殺気がみなぎっている。
「お前にやる気がなかろうが、俺はお前に打ちかかる。そうなりゃ抜かざるをえないよな」
 やっぱりこいつ、危険人物だ。誰彼構わず噛みつこうとする狂犬そのものだ。助けたことを改めて後悔した。
 妖夢は首を左右に振った。
「残念ですね」
「悪いとは思ってるよ」
「いえ、あなたのことです。残念なまでに無様だと」
「な、に?」
 それまで口調は丁寧だったのに、唐突に攻撃的な台詞が飛び出て、驚く。男もそうだったろう。聞き違いかとさえ思ったが、続く言葉はさらに辛辣なものだった。
「聞けば、袋叩きに遭って気絶していたのでしょう? その時点で自分の弱さを自覚してしかるべきでしょうに」
「あれは、あいつらが卑怯なんだ……一人を相手に大勢でかかってくるような奴らだから……!」
「言い訳ですね。あなたは実戦で負けた。それだけが事実ですよ。自分が弱いということを認められないんですか? ああ、だからこそ、今度は勝てそうな娘一人を相手にしようとしているわけですか。本当に弱いですね」
 妖夢はさらに言葉を重ねていく。
「誰しも鶏になる前はヒヨコですが、あなたの場合はヒヨコなのに加えて頭に殻が被った状態です。何も見えてないから、鶏になる前に頭をぶつけて死にますね。豆腐の角あたりに」
「てっ、てめぇッ」
「しかし、ぶつかる対象が私だとなると笑えないですよ。さあ、棒切れを下ろしてもらえますか。勝負しても結果は明らかですし、私もつまらないものは斬りたくない」
(そんな、挑発するような態度は……)
 自分が青ざめているのがわかった。男も青ざめている。怒りで、だが。
 案の定だった。森中に轟くような気合いを発し、男は少女の脳天に木刀を叩きつけた。叩きつけようとした。
 実際には、木刀が天を向くよりも速く、妖夢は男の背後に踏み込んでいた。抜ききった刀は短い方。
 ぐらり、と男は揺れて、どう、と地面に倒れた。
 そして、微動だにしない。
「え、おっちゃん、死んだ?」
「いや、まさか。血が出てないから峰打ちとかじゃ……?」
「いえ、確かに斬りました」
 妖夢は刀を鞘に収めて、こちらを向く。知己の間柄ながら、さすがに後へ下がりたくなった。
「この『白楼剣』は『迷い』のみを断ち切れます。先ほどの斬撃はそれです」
「な、んだ。驚いた。肉体は斬れないんだ」
「ついでに斬ることもできましたが」
「怖っ」
 それ、一歩間違ったら殺人の現行犯ご誕生ってことなんじゃ?
「今回は身体は傷つけずにおきました。けれど精神に強い衝撃はあったでしょうから、並の人間ならば一昼夜は覚醒しないでしょう」
「すっげー、よーむ、すっげー」
 チルノの率直な称賛に「う、うん」と同意はする。男だって木刀の振り方からして素人じゃ決してなかったはずだ。なのに、一瞬の間に斬ってみせた。確かにすごい。
 しかし、当の妖夢は言う。
「まだ未熟です」
 今後の剣術の上達を考えた謙遜、というわけではないようだった。
「感情を我が物としてこその剣客だというのに情けない。全くもって汗顔の至りです」
 表情は地蔵のように冷静そのものだが、口調が何となく速くなっているのは、一応動揺の現れなんだろうか。
 妖夢は男の方へかがみ込む。背を向けている形だったが、その背からかすかなつぶやきが耳に届いた。
「……昔の自分を見るようで、ついムキになってしまいました」
(え……?)
 何かを聞き間違ったのだろうか。妖夢が男と自分を重ねて見た、なんて。
 妖夢は男を肩に担ぎ上げている。
 聞き返そうかと考えるも、答えるはずがないと思い直す。結局は聞き違いだろうと処理した。
「災難だったね。最初から変な奴だったけど、いきなりケンカ売るなんてさ」
「あがいているんですよ。為したいことがある、でもそのためにどうしていいかわからない。方法も方向性も見出せないんです。だから、無闇な暴力を場当たり的に発してしまう。視野狭窄に陥っています」
 細かなことまで断定的に言うのが気になった。そこまでわかるものだろうか、あんな短いやり取りで。
「っや、やる前から、負けて、いたってか……」
 絞り出すような声にハッとする。男の声。見れば、妖夢の背中に垂れ下がっている男の頭、その目が薄く開いている。
 今にも意識を手放しそうになりながら、笑みを浮かべていた。
 妖夢の話だと、一昼夜は目覚めないはずではなかったか。
 そういえば、投薬した際も予想以上に早く復活していた。
「大したものですね。称賛に値します。強靱な精神力、そして安穏と寝ていられないだけの信念もある」
 皮肉の色はなかった。素直に認めているのだ。
「……ま、負けちゃあ意味ねぇよ。そうか、まだまだか、俺は……」
 絶え絶えの息だった。閉じられそうな瞳には、それでも光。
「大望を抱くなら手元ばかり見ないことです。私たちは井の中の蛙ではありません。尻尾の生えたままの蛙であっても、立っているのは開けた世界です」
「……ヒヨコの次、は、カエルかよ」
「『悠然として山を見る蛙かな』」
「……こ……やし、いっさ」
「御存知でしたか」
「……兄貴が好きで、な」
「あなたが『つまらないもの』でなくて良かった」
「……言ってろ」
 二人の間に険悪さはなく、むしろ和やかな雰囲気だった。ただし、互いに目を合わせない、逆さで、背中越しの会話なのだけど。
「……な、ぁ、嬢ちゃん」
 視線が私に、ではなく、その後のチルノに向けられていた。
「……言う通りやってみらァ。バカみてぇに侍目指してな……」
「おぅ! 目指せ、最強!」
 腕を突き上げて応じたチルノだったが、男の方は今度こそがっくりと妖夢の背に垂れ下がっていて微動だにしない。気力の限界だったらしい。
「おっちゃん、ダウン?」
「ダウンだね」
 こうまで意識のON・OFFが頻繁だと、夢か現か判別がつかないのではないだろうか。いや、そもそもが夢扱いだったか。
「では、大変お騒がせしました。これにて失礼させていただきます」
 会釈の後、妖夢は地面を軽く蹴って、宙に浮く。
 男性一人分の体重をものともせず、梢を鳴らし、あっという間に飛び去っていった。
 乱れた木漏れ日が落ち着いていく。それを森の緑の底から見上げていると、一連の出来事が過去のことになっていく実感が出てきた。
「やれやれ、妙にいろいろ疲れたねぇ、チルノ。……チルノ?」
 隣にいたはずなのに、いない。
 ガサゴソという音。見れば、離れた茂みの上に、氷の羽が突き出て動いている。あっちへ、こっちへと。屈み込んで地面を探っているようだ。
 自由だなぁ……と思いつつ、呼びかける。
「おーい、何を探しているんだい?」
「棒切れっ!」
 元気な声が返された。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 もう五・六年前になるのか。
 水流の中で苦々しく思い出す。
 わずかな時間の出来事だ。数百年単位で生きる妖怪にとって、取るに足らないことのはずなのに、なぜ今になって記憶の底から浮き上がってくるのか。
 シチュエーションが似ているから? チルノに呼ばれ、五月の午後で、川を溯っているという点で。しかし、川のルートはあの時と違うものだし、似たようなことは幾度もあった。
 じゃあ、なぜここで思い出す? そして、なぜ一過性の出来事に過ぎないものが、こんなにも顔をしかめさせる?
 トラウマになっているのだろうか。チルノとの楽しいひとときを、一転、最低の時間に変貌させられたからか。それは確かに事実で、こびりつく嫌な思い出だ。
 でも、と思う。
 あの時、あの場だけのことが理由になるのだろうか。男はすぐにいなくなったのに……いや、そうだった。あれは一過性というにはそれなりに長く続いたのだっけ。
 妖夢が男を連れ去ってから、チルノは落ちた木の枝を木刀に見立て、素振りを始めたのだった。
 男に教わったことを思い出しては、何度も繰り返していた。同時に嫌な思い出も反芻される。
 しかし、それだって、今なお残るトラウマとなった理由としては不十分だ。確かに一ヶ月ほど侍ごっこは続けられたけれど、チャンバラに付き合うことで二人だけの時間を過ごせたし、その一ヶ月以降はチルノの飽きっぽさゆえに木刀のボの字も出ることはなくなったのだから。
(じゃあ、なんで……?)
 答えは見つからない。
 そういえば、五・六年前のその時も不愉快な理由を考えたのだったが、考えても答えは見つからなかったし、より嫌な気分になるので思考の外へうっちゃってしまったのだった。
(やめよう)
 今回も結論はそれだ。
 美味しいジュースに苦い汁を混ぜる必要はない。今はチルノに会える喜びだけ感じていればいいんだ。
(そう、わざわざ辛いことをする意味なんて……)
 暗い思いを振り切るように、ザバッと水面から顔を突き出す。
 チルノの姿を認め、名を呼び、手を振った。穏やかな日光の射す河原から、チルノが大きく伸び上がって応答してくる。河原は丸い川石が敷き詰められていて、照り返しで白く輝いていた。
 チルノとの関係は変わっていない。依然として自分は、奥底に暗い火を抱えたまま、表面的な友情を貼り付けて接している。自分に嫌気が差して身を引こうとしたことは何度もあったが、どうしてもできなかった。何一つ変わらない。この先も、恐らく。
(ああ! ダメだ、ダメだ!)
 水面下で右拳を左掌にぶつける。
 悪感情は振り切ったはずなのに。
 ここのところ、一度落ち込むと立ち直るまでかなりの時間を要するようになっていた。当然といえば当然だろう。暗鬱の海が横たわっているのでは、黒い波は幾度となく押し寄せてくるに決まっている。そして、波を強く押し返そうとすればするほど、次の波はさらに大きく襲ってくるのだ。
(それでもチルノと接するときは平静を装わないと…………?)
 おや、と思った。
 いつもならこちらへ飛んでくるはずなのに、その場で手を振っているだけだ。飛び立つ気配がない。
 不思議に思っていると、チルノは横に身体をずらした。
「うっ」
 うめいてしまう。
 後に隠れていたものが目に入ったのだ。
 思えば予感があったのかもしれない。
 男が、倒れていた。
「チルノ、そいつは」
 岸から上がり、尋ねる。滴る水が乾いた石を変色させていく。
「見つけた!」
 得意気に言うところまでデジャヴ。
 まさか、と思う。そんなはずは、とも思う。
 外の世界から幻想郷に迷い込む人間には、迷い込みやすいタチの者がいると聞いたことがある。運だか特異点だかを有しているとか何とか……あの男がそうだというのか。
 信じられないことだったが、仰向けになっている顔の造形には見覚えがある。
「おっちゃん、かっこよくなったねー」
 チルノはごく自然に同一人物であることを認めている。
 男は、総髪に着流しだったのが、断髪に黒い洋装となっている。腰には、木刀でなく立派なあつらえの刀が一振り、鞘に収まっていた。
 まるで別人との印象を受けたのはなぜだろうか。格好が変わっただけで大きな差異が生じるはずもないのに。
「薬、大丈夫?」
「ん、ああ」
 用件はまたそれだ。男は傷つき、意識を失っている。想い人よりの指令、「民間人を治療せよ」か。
 幻想郷に再び迷い込むのと併せて、チルノが再び第一発見者になるのは、どれだけ低い確率なのか。始めから運命で決まっているのでもなければ、隕石に当たって死ぬほどの奇跡だろう。
 男の脇で携帯コンロを組み立てる。男の身体から汗と血の臭いが漂ってきた。そして煙の臭いも。
 男の左腕と右足には血の滲んだ包帯が巻かれている。さらに全身が泥とほこりにまみれていて、応急処置もそこそこに戦場で戦い続けていたことがわかる。煙の臭いは硝煙のそれだ。
「おっちゃん、ふっかーつ!」
 スポイトで投薬してからの男の復活は、前にも増して早かった。身体を起こし、後頭部を撫でさすりながら、目をしばたたかせて状況を認識しようとしている。
「大砲で吹っ飛ばされたと思ってたが……また夢か? それともこの川を渡っちゃいけないとかいうやつか?」
「ここが賽の河原だったら、あちこち石が積まれてるはずだろ」
 否定はしたが、死んだと勘違いしてもおかしくないのかもしれない。男の話が本当ならば、大砲の一撃を食らって昏倒程度で済んだのは幸運すぎる。いや、回復の早さからして、運だけでないものを男が持っているということか。
「ああ、河童の嬢ちゃんか。夢に出てくるのは久しぶりだな。お礼をいつ言ったものかと思ってたんだ」
「お礼? 治療したことかい?」
「そっちもだが、何より薬の作り方さ。河童に教わった秘薬ってんで売り出したら大評判でな。『イシダ散薬じゃなきゃ飲まねえ』って爺さんもいたくらいだ」
「安直なネーミングだね……売り方が上手かったのかな、人間が作ると効能はそこそこになっちゃうはずだし」
「そうなのか? 言われた通り、ちゃんと大量のミゾソバを黒焼きにして、」
「そこから違うよ!」
 わざわざ炭化させてどうするんだ。残った効能も失わせることになってしまう。買わされた人はプラシーボ効果しか得られないじゃないか。
「そんなんでよく売れたね。効き目がないって噂が立ったんじゃないの?」
「一番に売れたところは剣術の道場さ。大抵一回きりのご利用になるが、石を投げりゃ道場にぶつかるってくらいあちこちにあるしな」
「ああ、そこなら怪我人も多いだろうし、一回だけなら効き目がなくても不満は起こりにくいか」
「道場破りに行って、そこの奴ら全員叩きのめして、売りつけるんだ」
「不満どころか?!」
 押し売りより酷い。ほとんど強盗だ。危ない奴だと思っていたが、やっぱり危険人物だった。
 でも……どうしてだろうか。こうして話していて、以前と違ってピリピリとしたものを感じないのだ。イバラの如く、近づく者を誰彼構わず刺すようなあの感じは、まるでない。
 「角が取れた」? 「牙が抜けた」? どちらの言葉も当てはまらないような気がする。でなければ、さっきまで戦場にいたことと矛盾が生じるだろう。
 考えがまとまらないうちに、元気な声が空気を破った。
「じゃあ、おっちゃんは道場破りしまくって、最強になれたんだよね! サムライになってさ!」
「おお、バッタバッタと相手をなぎ倒してな」
「かっけー!!」
 チルノは、サムライとなった男を見回して、はしゃいでいる。刀の鞘を触って、目を輝かす。
(そうか、侍になれたのか……)
 なれるはずがないと自ら言っていたのを覆して。侍に、なれたのか。
「なれたぜ。お陰様でな」
 男の言葉にギョッとする。まさか、口に出してた?
 男はチルノの方を見ている。スカートを指さしていた。
「それ、真似させてもらった」
「これ?」
 チルノが持ち上げる水色のスカートの裾には、白い山形が並んでいる。
「浅葱色にダンダラ模様な。そういう服着てさ、やり抜こうと思ったわけよ、『バカみてぇに最強目指す』ってさ」
「あたいの真似かぁ。じゃあ、最強になるに決まってるね」
「ああ、嬢ちゃんの言った通りだ。うじうじ愚痴垂れてたって何にもならねぇ。ただ目指すものを目指せばいい。袖に手ぇ通す度に、胸が熱くなったぜ」
 まあ、隊服としちゃ評判はよくなかったけどな、と男は頭を掻いた。
「ねえねえ、おっちゃんさぁ、それ貸してくんない? あたい、振りたいなー」
「この刀か? 武士の魂だが、嬢ちゃんにならいいさ。賃料は意匠を頂いた代金ってことでな。にしても、カネサダに目を付けるたぁ、嬢ちゃんもお目が高いな」
「えへへー」
 渡された刀を鞘ごと振っているチルノ。男は拾った小枝でチャンバラを挑んだりしている。
 そのやり取りを見ているうち、胸が変に締めつけられるのを感じた。男に危険性はないように思えるし、自分が除け者にされた疎外感というのがあるわけでもない。なのに、嫌な気持ちが払拭されない。何だ、これは?
 声を掛けていた。
「ところで、どれくらいの侍になれたのさ。どんな意味で最強なんだい?」
 大して興味があったわけではない。今の状況を破りたいという気持ちから発した言葉かもしれなかった。
 しかし、男は小枝を振る手を止め、遠くを見るような目になった。
「そうだな……」と言葉を選んでいる。思うところのある事柄だったらしい。
「最強の人斬り集団と言われちゃいたが、刀や槍の時勢じゃなくなってたんだよな。それに、日の本の国を乱す輩を斬り捨てているうち、いつの間にやら俺たちが逆賊になっていた……」
 どんな意味での最強か、か。男はつぶやいて、しばし黙考する。
「うん」
 顔を上げたときには笑みが浮かんでいた。
「それでも後悔はねぇな。負け惜しみじゃねぇぞ。やるとこまでやった。やり尽くした。世の動きは変えられなかったし、武士って身分も消えちまうんだろうが……俺はやった。自分のなれる『最強の侍』に俺はなれたんだ」
 整った言葉ではない。だが、言っていることの意味はわかるような気がした。客観的に見れば大したことはないのかもしれないけれど、主観的に見れば満足いく結果であり……自分の中の「最強」になることができたということなのだろう。
 男の笑みは爽やかなものだった。
「『梅の花一輪咲いても梅は梅』ってな」
「……誰の句?」
「俺が作った」
「あまり上手くありませんね」
 凛とした声に振り向かされる。
 音もなく河原に降り立ったのは、白髪の少女。
「まあ、こればっかりは下手の横好きで終わったな。そっちの嬢ちゃんも久しぶりだ」
「またお目にかかれるとは奇縁です」
 妖夢だった。再び幻想郷に迷い込んだ男を外の世界へ帰す意向なのだろう。
「でもな、歌はともかくヤットウの方はいける口だぜ」
「そうですね。以前とは明らかに違うようにお見受けします」
「じゃ、手合わせ願おうか」
「お受けいたしましょう」
 男はチルノに持たせていた刀を腰に差し、白刃を抜いた。
 妖夢も長い方の刀を抜く。
 唖然とした。
「おおー、チャンバラだぁー!」
 チルノは脳天気だが、こっちは意味がわからず困惑してしまう。
「ど、どういうこと? 君たちそんな約束してたわけ?!」
「してねぇなあ」
「してませんね」
「じゃあ、何でっ? 本物でしょ、その剣! 下手したら死ぬよ!?」
「そうでしたね。言うまでもないかもしれませんが、殺す気で来ていいですよ」
「それはありがてぇな。けど、本当に殺してしまうかもしれねぇぞ」
 平然と死を述べる二人に、もう何も言えなくなってしまった。自分には理解の出来ない領域に、どちらも立っている。
「私は半分幽霊なので、全部幽霊になっても大して変わりません」
「ほぉ? 片手を切り落とされても戦場に立った小天狗なら知ってるが、そういうことか?」
「ただ、殺す気で来る以上、殺される気で来てください」
「元より承知、だ!」
 言い終わるが早く、男の突きが妖夢に襲いかかっていた。
 鋭い金属音が空気を裂く。
 二人の位置が入れ替わっていた。再び向かい合う男と妖夢。
「殺気の載った良い太刀筋です」
「だろう?」
「刃を寝かせて突きましたね」
「ああ、肋骨の間に刃が入りやすいのさ。ついでに言えば、かわされても斬撃に移行できる」
 実際に斬り合った後にも笑みを浮かべている。物騒なことをにこやかに話せることが信じられなかった。
「それに、一回弾いたのに同じ太刀筋で来る突きも面白いですね」
「いや、本当は三つ重ねるのが完成型なんだ」
 二回突いていたのか。全然わからなかった。ということは、仮に自分が剣を持って男と対峙していたら、やられていた……んだろうか?
「手加減は抜きと言ったはずですが」
「抜いてねぇよ。そいつを得意技にしていた天才もいたんだが、俺の手にゃ余る。免許皆伝まで行かなかったからな」
「途中で投げた、というわけでもなさそうですね。力及ばずというのも違うように思いますが」
「どっちも否定はしねぇさ。ただ一言だけ弁解させてもらっていいか?」
「何でしょう?」
「免許皆伝の奴らはたくさん斬ってきた!」
 再び斬り合いが始まった。妖夢の振り下ろした刀を横にかわし、さらに手首に迫る刃を鍔迫り合いで受け止める。互いに押し合って距離が取られる。また打ち合い。
 二人の身体が動く。金属音と気合いが入り乱れる。白い川石の上で影が踊る。
 気づけば、目を奪われていた。死に直結しうる斬り合いに。自分はおかしくなってしまったのだろうか。それを、美しいと、感じた。
 美しい。二人は美しい。男も、だ。
 妖夢は男を認めた。以前とは違う男の強さを、自分と斬り結べる男の力を。そのたたずまいから全てを察し、かつては拒否した勝負をあっさり受けた。
 男も妖夢を認めている。侮りもせず、自己を卑下することもせず、真っ直ぐ正面から一剣士を見ている。
 突然チルノが大きく叫んだ。
「がんばれーッ!!」
 全身を使っての大声は鼓膜に響いた。耳を押さえながら尋ねる。
「い、今のは……どっちを応援しているんだい?」
「どっちも!」
 明快な答えだった。
 互いを認めた者同士の戦いだから、美しく感じるのだろう。どちらも応援すべき対象だ。
 そして、自分も男を認めざるをえなかった。信じがたくはある。ただの人間がここまでできるなんて。五年前後でここまで変われるなんて。剣術だけでなく、人間そのものを大きく成長させるなんて。しかし、事実として目の前にあるものを否定するのは、自分を惨めにするだけだ。
 男に対して嫌悪感を抱いていた理由がやっとわかった。
 嫉妬だ。
 五・六年前の嫌悪感とは質が違う。あちらは、あのときの男は、身の内に潜む暗い炎を抱えて、ともすれば業火と燃えて自分も周囲も焼き尽くしかねない……自分と同じだった……つまりは同族嫌悪だ。
 しかし、男の暗い気持ちの根本は「侍になりたい」というものだ。全体として暗かったが、輝くものがあった。
 チルノはその輝きに惹かれて木刀を振った。自分は輝きから目を反らそうとした。同じ存在であるはずの者、その内面が、チルノに好かれていることなど直視したくはなかったのだ。
 今の男は暗さを微塵も感じさせない。わずかだった輝きは、今や全てを照らす光だ。男の動き、生き方、人間そのもの……全てが輝き光っている。
 胸元を強く握っていた。何一つ成長できなかった自分、忸怩たる思いが滲む。しかし、それ以上に「なりたい」と思った。光り輝く男のようになりたい。輝きを発したい。
「ハハッ、……はぁ、……いやぁ、俺も強くなったつもりだが、なあ」
 男が荒くなった呼吸の中で、言う。
「全然やられてくれねぇな、嬢ちゃん」
「私も、強くなっていますから」
 妖夢の息もまた速く、乱れている。息をつきながらの言葉が交わされた。
「そうこなくっちゃな。本物の侍ってのは、滅多にお目にかかれなくなっちまって、久しい。張り合いがねぇんだ。あんたとやってて、楽しませてもらってるぜ」
「私もです。私たちは、『純粋に楽しめる』ように、なれましたね」
 言葉に幾つもの意味が込められている。深いところは自分にはわからない。
 男は、細く、長く息を吐く。
 妖夢も息を落ち着けた。
 緊張感が高まっていく。
「けど、さすがに拮抗しすぎで疲れちまった。存外、長引くね。ま、いつものように一人を三人がかりでやりゃあ、話も違ってたかな」
「それが常套手段ですか」
「酒飲ませて、闇夜で不意打ちしたり、寝込みを襲ったりもしたぜ」
「なるほど」
「卑怯と言うかい?」
「まさか。ヤマトタケルや宮本武蔵を英雄視するのは不思議ではないでしょう。騙し討ちや心理戦も兵法の一つです」
「宗旨替えしてないようで安心したよ」
「あなたも、」
 瞬間、男の足が蹴り出された。足下の小石が妖夢の眉間に飛ぶ。
「ッ!」
 切っ先が上がり、石が弾かれる。男は蹴り出した足をそのまま踏み込ませ、間合いを詰めていた。
 鍔迫り合いを狙っているのか。勢いに任せ、押し倒さんばかりに接近する。一拍遅れた妖夢の分はやや悪い。
 男と妖夢の刀が合わさった瞬間。
「なっ?!」
「おおー!」
 自分とチルノから驚嘆の声が飛び出した。
 妖夢と男の間に刀が落ちる。男の刀だった。妖夢と男の位置は入れ替わっており、妖夢は地に膝を着けている。
 何が起こった?!
 男が手にしているのは鞘。記憶を反芻する。
 鍔迫り合いになろうという寸前、男は刀から手を離した。あまりのことに妖夢の反応が固まる。男の力に負けまいとして踏ん張ったことも災いした。
 手ぶらになった男は、妖夢の脇を擦り抜け、腰から鞘を抜く。振り返りざま、鞘を木刀として妖夢の後頭部へ叩きつけた。
 その時には妖夢は刀を持ったまま前転していた。男の鞘は空を切る。
 そして、今の状況。刹那の攻防だった。
「やりますね」
 妖夢が立ち上がり、切っ先を動かしたとき、男の掌が突き出された。新たな攻撃か。
「参った。俺の負けだ」
 ポカンという表現が適切な顔になる妖夢。自分も同じだろう。男にとって有利にことを運んでいたというのに、何でここで敗北宣言だ?
「まだやれるでしょう」
「無理だろ。脇差か拳銃でも持ってりゃ話は別だが、こんな鞘じゃあな」
「納得がいきませんね。先ほどの一撃、振り抜いていたら状況も違っていたでしょう」
 手加減があったということだろうか。全然わからなかった。
「だから、鞘じゃ無理さ。行けるかもと思ったが、振った瞬間にわかっちまった。あんたを倒しきれないってな」
「勝ち逃げですか」
「俺の負けさ」
 妖夢はわずかに目を伏せると、小さくため息をついた。再び目を合わせる。口元には苦笑。
「いいでしょう。こちらの勝ちということにしておきます」
「ありがたいね。半死半生にするまで納得しねぇんじゃかなわない」
 笑い合う。
 パチパチという音に目を向けると、チルノが手を叩いていた。勝敗は曖昧なものであったのに、はっきりと称賛すべきものを感じ取っているような。そんな無邪気な拍手だった。
 妖夢は刀を鞘に納めると、手を差し出した。
「西洋式か」
「再戦を約束しましょう。もっといい勝負ができると思います、あなたとなら」
「次ね。……走馬燈で会えたらそうしよう。俺は最後まで突っ走るからな。わずかな間でも、ちったぁ強くなってるだろうぜ」
 男も手を差し出す。その手が消えた。男そのものが消えていた。
「手品っ?!」
「違うよ、チルノ。下だ」
 地面に亀裂が生じている。得体の知れない色彩の裂け目。明らかに自然界のものではない。男はそこへ吸い込まれるように落ちたようだったが。
(見覚えがあると思ったら、八雲紫の「スキマ」か、これは)
 裏付けるように、裂け目から声がした。のんびりした女性のものだ。
「だめよぉ、妖夢ぅ、時間掛けすぎだわぁ」
 妖夢が頭を下げる。
「申し訳ありません、幽々子様」
「早く戻ってらっしゃいな」
「かしこまりました」
 スキマが閉じる。もう石の敷き詰められた河原しかない。
「怒られてしまいました。楽しみすぎたようですね」
 こちらを向いて、ペロッと小さく舌を出した。ここで可愛さアピールとは……あざとい。となぜか思う。
「では、これにて失礼させていただきます。急ぎ戻らなければ」
「ねー、おじちゃんにまた会えるよね?」
 チルノが聞く。
 普通ならありえない。二度あることは三度あるというが、そんなのは天文学的な確率だろう。しかし、信じられないことに、自分にも再会の予感があるのだった。
 妖夢は言った。
「ええ、恐らく、近々。白玉楼を訪れるようなことがあったら、お知らせします」
 では、またいずれ、と妖夢は青天の中を飛んでいった。
 広い青を目に染みこませるように眺めながら、思う。
(次に会うときには……)
 そのときには自分も変われているだろうか。五年以上経って少しも変わっていなかった自分にも。
 今までは悲観しかなかった。今は違う。意志があった。変わろうという意志だ。だから、これからは変われる、と言い切れはしないけれども、変われるという希望を抱くことができている。
 いや、きっと変わることができる。変わってみせる。「なりたい」という気持ちを強く持つんだ。
 私は、チルノのそばにいたい。ふさわしい存在になりたい。チルノに好かれる河城にとりになりたい。
 気持ちだけで簡単に行くとは思わない。けれど、何よりチルノは志の輝きに惹かれたのだ。まずはそこからでも始める価値がある。
 そうだな、今は、とりあえず……
「私もチャンバラやってみようかなぁ」
「おー、にとりもやるー? じゃあ待ってて、棒切れ拾ってくる!」
 チルノが走り出そうとするのを「ちょっとタンマ」ととどめて、ポケットを探る。
「その前に、さ」
「わぁ!」
 目の前に取り出した饅頭二つに、青い双眸が輝いた。
タグは参考資料。
チルノ×藍だと思った?
残念! 鬼の副長でした!
らいじう
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コメント



0.240簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
「新選組副長が幻想郷に用有とすれば、斬り込みに行くだけよ」
7.803削除
なんとなくこのにとりを見ていられないのは自分とかぶるからなのかなぁ。
あと一応語り手なのに全然目立ちませんねにとりさん。
一回目の幻想入りでは誰なのか分かりませんでしたが二回目でああ、この人か、と。