「あやややや、またしても私の勝ちのようですねぇ」
笑顔で私に笑いかける。
「ここのところ私ばっかり勝ってしまって、いやはやこれは驚きですねぇ」
さして驚いてる風でもないのに、仰々しく首を傾げる。
「前回負けたのはいつだったか、ちょっと思い出せないですねぇ」
唇に指を当てて何か考えている仕草。こういう時にわざと嫌みったらしく言うのがあんただってことはこの私が一番よくわかってる。新聞大会で私に勝って、口元が少しゆるんでるくせに、見せる笑顔はつんと澄ましてるとか、そういうところも。
「うるさいわね、ちょっと調子が出なかっただけじゃない。次やったら負けるはずないんだから!」
「あやや? 前回も同じようなセリフを聞いたような気がするのですが?」
おちょくるように私をのぞき込む。
「……」
私には返す言葉がない。
口先だけなら何とでも言い返せると思う。だって新聞記者だし。それくらい私にだってできる。あんたに負けないくらいの反論は、これまで飽きるくらい考えてきた。
でも、私はもっと別の意味でも、それになりたい。
新聞記者のあんたの、そのライバル。そんな新聞記者に。
言い争いに勝ったって、書いた新聞で負けちゃったらなんにもならない。どうやっても、私が勝つには、新聞で認めてもらう以外に方法はない、そう思ってる。だから、余計な口げんかはしない。
私はあんたの顔をじっと見る。
次こそは勝つ、とそう自分に誓って。
そうやってスカしてられるのも今だけなんだから――
そうしたら、あんたはふと笑顔を引っ込めて、私の傍に寄った。
ふわり、と羽音が聞こえるくらいの近さにまで来て、私と視線を合わせた。
「ねぇ……」
あんたの口と言葉が連動して重なる。少し手を伸ばせば届くくらいの距離。視線が釘付けで動かせない私にかまわず、あんたはさらに距離を詰める。
顔が近づく。下手をすると吐息が感じられるくらいに。
目と目が合ったまま逸らすことができない。
固まって動けず息を止める私の前で、その形のいい唇が開かれる。
「そんなに見つめられたら、さすがの私も照れるわよ?」
「……っ!」
堪えられなくて、思わず両手を突き出した。視線から解放された私は、ぶんぶん大きく頭を振った。
「ちょっと、何なのよ……!」
「何なのよって、見つめられたら照れるってこと、せっかくだから教えてあげようかしらと思って」
飄々と言ってのける顔色は素面で、対する私はきっと赤くなっている。私の意志に反して熱くなった顔を、思わず伏せる。
「まったく、もう」
やれやれ、といった調子で、あんたは私の肩に手を置いた。私は顔を少し上げて口元だけ見やる。そうしたら、ちょっとかがんで私の視界に、ずい、と入ってきて――
「かわいい子に見つめられたら、本気で照れちゃうわよ?」
「……っ!!」
どん。 今度は思いっきり突き飛ばした。
抵抗もせずにふわりと二、三メートル飛んで、中空に止まる。そうして、まるで何も無かったみたいに、かぶった兜巾の位置を気にして直している。
「あやや、本当のことを言っただけなのに」
「……馬鹿! 文の馬鹿!」
思いついた言葉をぶつけた。ああもう、きっと顔がまた真っ赤になってる。今突き飛ばしたのじゃ足りないくらい思いっきり叩いてやりたくなったけどなんとかそれだけは堪えて、その代わりにさっきよりもきつく、思いきり睨みつける。
私の視線の先で、あんたはまたいつもの澄ました笑みを浮かべている。
かなわないなぁ、とつくづく思う。
あんたに勝ちたいと思って、何度も挑戦して。
私なりのやり方で、あんたよりも高くへ行けるように。一切手を抜かずに。
それでも。
あんたは軽々と私に勝ってしまうし。
私はあんたに追いつけないし。あんたは、私が何をしようと、いつも変わらずに飄々と笑ってる。
いつからだろうか、あんたを見ている私のことをあんたが見ていないことに気付いた。私がむきになればなるほど、涼しい目で私のことを見てる。まるで、無理なんかしなくてもいいのに、とでも言いたいみたいに。私が負けっぱなしで張り合いを無くしたとか、そういうことじゃなくて、私が競り勝つことがあってもそれは同じだった。
たぶん、もう既に、私のことなど眼中になかったんだろうと思う。あんたは、目の前にいる私以外のものを見ていた。私は勝負している相手の視界にすら入っていない。そう考えると、なんだか無性にいたたまれなくなって。
自分のよく知る射命丸文に、そんなことをされたということが、寂しかった。
だから、私は決めた。私じゃなくて何を見てるのか、それを私も一緒に見てやる。そして、新聞大会でこてんぱんにとっちめてやる。それで、あんたのことしか見ていない私のことしか、見られないようにしてやる。
「次は、私が勝つ」
右手の人差し指で。今度こそ、負けない。私のライバルに向けて、そう宣言する。
「そんなこと言っても、私は烏天狗ですよ?」
「私だって烏天狗よ!」
「……それじゃあ期待させてもらおうかしらね」
あんたは後ろへ振り返った。そして私から顔を背けて、仰ぐようにして遠くを見やった。
私は一瞬だけ反応することが出来なかった。それは単純に、あんたがそんな反応をするのが珍しかったからだ。言葉は普段通り。でも、いつもみたいにはっきりした声じゃなくて、彼方へ向いた顔が、普段の挑発するような笑みではなくて、なにか別の顔をしているような気がして――
「ま、いづれはわかってしまうのでしょうね」
ぼそりとつぶやいた言葉を掻き消して、背中の黒い翼が広がる。
「……ちょっと、それ、どういう」
やっと口から漏れた私の問いかけに、あんたは答えなかった。ばさり、と静かな音を立てて飛び去っていく。
すぐに加速して姿が遠く見えなくなる後ろ姿に、気が付いたらカメラのファインダーを向けていた。
ボタンを押して、切り取る。
ぼやけていて、あんまり写りは良くなかった。
それがあんたとの最後になるとは、その時は思ってもいなかった。
* * *
私がそのことを知ったのは、今日の朝方だった。だいたいどんなことがあっても一晩寝ると調子が元に戻る体質で、目覚めもいつも通り気分が良かった。窓の外を見るとよく晴れてるし、のんびりしたいかんじだし、軽くひとっ飛びしてこようか、と思っていたところに、伝令の白狼天狗がやってきた。
「おはよう、って、椛じゃん。どうしたのこんな朝早くから?」
取材をさせてもらったこともある知り合いの哨戒天狗だ。白装束に黒の袴に朱の兜巾、哨戒の正装をしているということは任務中だろうか。椛は押し黙ったまま玄関口で立ち尽くしている。用事もないのに他人の家を無闇に訪れることは無いはずだから、何か用があるはずだ。
「椛? どうしたの? なにかあったの?」
もしやスクープの類だろうか。
「姫海棠様……」
椛はもごもごとなにやら言いよどんで、口をつぐんでしまう。何を言うべきか迷っているのか。
「どうしたの? 言わなきゃわかんないじゃない」
「その……。あのですね……」
どうもかなり言い出しづらい用件らしい。哨戒を務めて長いはずの椛が困るほどの何かなのだろうか。だとするとなんだろう。大きな事件でもあったんだろうか。
やっとのこと、小さな細い声で、眉をしかめた椛が口を開いた。
「射命丸様が……」
「文が。文がどうかしたの?」
「射命丸様が、その……」
「文が、まさか何かやらかしたとか?」
「いえ、射命丸様は悪いことなどひとつもしていなくて、そうではなくて、えっと……」
椛はまだ言いよどむようだった。一番言いづらい部分だろうか。というか、何かスクープがあるとしたらだいたい文が一番乗りに情報を掴んで駆けつけるから、わざわざ私を呼びにくるのも変な話だ。
お互い無言のまま玄関先で立ち尽くす。
たっぷり五分は苦い表情で固まっていた椛は、腹を決めたのかとうとう口を開いた。
「実は」
ひとつ大きく深呼吸を挟んで、言った。
「射命丸様が、いなくなりました」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げたのは言うまでも無く私だ。
「ですから、射命丸様が、いなくなりました」
「いなくなった、って、それいつものことじゃない」
なんだか拍子抜けして肩ががっくり下がった。勝手に山を飛び出して、どこにいるんだかわからない。でも事件があったらどこからでもやってきてまたどこかへ飛び去っていく。いつもの文そのまんまだ。
「心配させないでよー。あんまり深刻そうな顔してるから何かあったのかと思うじゃない」
へらへらと、椛に笑ってみせる。そう、なんにも大事なんか起きてない。心配して損した。
対する椛は、押し黙ったまま俯いている。
「ほら椛、しゃんとしなさいって。何にもないじゃない。顔上げて、そんな顔しないの」
笑いながら、椛の肩をぽんぽんと叩く。
椛は顔を上げた。近い距離で私と目があった。
椛の目はひどく真剣だった。冗談を言っているようには見えないくらいには。
眉尻を下げて、絞り出すようにして椛は言った。
「信じられないのは無理からぬことかもしれませんが、私はお伝えしました」
「……ねぇ、どういうこと? 文がいなくなった、って」
「そのまま、文字通りの意味です。射命丸様は、いなくなりました」
「だからそれって――」
「以上お伝えしました。大天狗様が、詳は聞けば教える、と仰っておられましたので。これにて失礼します」
椛はぴしゃりと言い放つと、踵を返して飛び去ってしまった。
椛の背中に備えられた哨戒用の大剣が、妙にぎらぎらして見えた。
* * *
椛が任務でふざけたことをするような天狗じゃないことは、知ってる。哨戒天狗が運ぶ伝令は、朝早くからわざわざ伝えられるだけの意味を持っている。最初から、椛の伝令が冗談なんかじゃないことは、わかってた。
だからこそ、信じられなかった。
『射命丸文がいなくなった』
信じたくはなかった。
けれど、特別に謁見を許された大天狗様のお話で、信じるしかなくなった。
大天狗様曰く、山のしきたりなのだという。上層部含め、一部の天狗しか知る者が居なくなって久しい旧い伝統なのだ、と。本来ならば私に伝えられる話では無かったそうなのだが、今回は特例である、と大天狗様は仰った。
どうやら妖怪の山に住まう天狗という種族は、知られているほど長生きではないらしい。
妖怪の山には天狗やら河童やら他の妖怪やら神様やら、多くの人ならざるものが住まう。天狗や河童は各の社会を成し、それに則った慣と文化を持っている。
だが、社会を形成する以上、それを構成する者が固定されていては停滞を迎える。その先に待つのは緩やかな腐敗。山が衰退するのを防ぐには、中身が固着するのを抑止しなければならない。山を存続させる為には、新たな同類を取り込むことを欠いてはならないのだ。
幻想郷がまだ外の世界と地続きであった頃には、老いも若きも、男も女も、玉石入り交じった妖が山に辿り着いては、契りの杯を酌み交わした。ここに今生きる多くの天狗も、そのようにして山を織り成す一要素となった。山でその身を癒し元の場所へと還る者もいれば、まだ見ぬ新天地を求めて飛び立つ者おり、残った者は妖怪の山の一部となった。あの頃は、山としての平衡が保たれながらも、内の天狗は絶えず動的な活を備えていた。
しかし、百数季前に大結界が張られて以降、山に新たな風が吹き込むことは無くなった。つい最近に乾と坤の神が渡って来たのは例の無い不測の事態だろう。閉ざされた山は外から活力を得ることが出来なくなったのだ。
ならば、取られる術はもう一方の選択肢。外から風の吹かなくなった山は、内に風を吹かすことにした。山の内側で流れを生み出す。世代を回し巡らすことで、絶えず妖が一所に留まることの無いようにする。それにより、山の構成要素に淀みの無いようにする。
それを実現するためには、必要なことは。
山の天狗が少しずついなくなること。
山を調律する最上部の天狗も含めて、己が生を全うした天狗が、その命に幕を引く。山の命によって。山を生かすために。そうしなければ、立ち行かない。
その掟、覚えている者も極僅かで、滅多に適用されるものではなく、今回が大結界の張られた後では初という。
この度、山の眼鏡に適った天狗が一名。
射命丸文
射命丸文は、いなくなった。
大天狗様の言うことは、思ったよりすんなりと私の頭に入ってきた。ふーん。そうなんだ。文はいなくなっちゃったんだ。山の決まりだもんね。しょうがないよね。私も文も天狗なんだし、そういうことだってあるよねえ、という風に。私が案外落ち着いてるから、大天狗様も驚いたようで、大天狗様が驚いてたことに私が逆に驚いたくらいで。
自分の家に戻っても同じで、ショックとか動揺とかいった類のことは思わなかった。ただ『射命丸文はいなくなった』という言葉だけが私の中に残って。
そんな言葉だけで、この私がどうこう慌てるわけがない。私は新聞記者で、私は天狗。当たり前のことは当たり前と受け止めることができるし、事実は冷静に観察しないといけない。さて、文もいないことだし、これはどんな風にして記事にまとめてやろうか。事件の発端から周りの反応まで、初動から終わりまで全部見届けてやって、号外だって出してやるんだから――
なんだか体に力が入らなくて、自室のベッドに倒れ込みながら、そんなことを考えていた。
* * *
そして今に至る。訳なのだけれど。
目を覚ましたら正面にいるこの子なんだけど。
「ほら、何をぼーっとしているのですか。あなたが新聞記者ならば、しなければならないことがあるでしょう。ほらほら、言ってごらんなさい。まず何をやらなければならないのですか?」
自室のベッドに座り込む私の頬をぺちぺちと叩く黒服のその子は、身の丈に合わない大きな声でそう言った。
というか、さっき部屋に転がり込んできてからずっとうるさく言葉を並べ立てているのを、私が上の空で耳に入れていなかっただけかもしれない。
「さあさあ、せっかく大スクープが目の前にいるというのに。これでは貴女の下に来た意味が無いじゃあないですか。もたもたしてると、わたしが自分で記事にしてしまいますよ」
「……ほんとに」
信じられない。
わりと大きなことでもすんなり受け入れられる自信はあるけれど、これにはさすがの私もショックを受ける。
ぱたぱたと忙しなく動くそれを呆然と見つめる。一体どういうこと。ビックリマークをつける余裕もなく、ただただ驚くしかない。
そんな私にお構いなく、それは休むことなくせっついてくる。
「信じられないなら何度でも言ってあげますよ」
くりくりとした両の目をまん丸に見開き、元気いっぱいの笑顔をぐぐいと私の顔に寄せた幼子は、言った。
「わたしが、射命丸文、です!」
射命丸文はこの山からいなくなった。山のために。山を絶えず動かすために。大天狗様が条文を読み上げるようにして言い放った言葉は、耳にこびりつくようにして残っている。
けれど、いなくなってそれで終わり、というわけではないらしい。
大天狗様曰く、この慣習によって山から天狗がひとりいなくなるごとに、新しい天狗がひとりあらわれるのだという。『社会を回す』という目的を果たすためには、必要なことなのだろう。
そして、このおぼこい烏天狗――射命丸文と名乗ったこの子――が新しい天狗。本人がそう言った。爛々と輝く子ども特有の眼差しで私を見つめてくる。私は目を逸らした。
この代替わりの慣習には、ひとつ特異な点がある。入れ替わるようにして生まれる新しい天狗は、いなくなった天狗と同じ名前を名乗るのだという。――目の前の幼天狗が『射命丸文』と名乗ったように。
天狗という妖の者ゆえに、その名が背負う意味にはひとかどでない重さがある。その名の秘める意味が妖怪を形容し、規定し、具現化させる。その名を名乗ることで、妖怪は妖怪であるところを保ち、天狗は天狗としての力を失わずにいられる。
したがって、一つの名前を長く存続させることは、天狗にとっての何にも代えられぬ至上命題だ。それならば、同じ名前を名乗るのは至極当然のことと言えるのかもしれない。名前には時を経るごとに伝統と畏怖が付随してゆき、その価値を高めていく。既に広く知れ渡った名であれば、それを新しく名乗る者も、その名に刻まれた力を身に纏うことができる。妖怪の山全体としての力を極力損失しないための措置として効率の良いシステム、ということなのだろう。
「さあさあしゃきっとして! ぐずぐずしているのは大嫌いなんですよ」
目の前の射命丸文は、私の良く知る射命丸文と同じようによく通る声でそう言った。ショックがいまだに残っている私は幼天狗をまじまじと見つめる。
黒い和装束は幼年の烏天狗の正装。ほのかに焼香のにおいが漂っている。頭に載せた兜巾は朱く染められ、右手には脇に差した八つ手団扇を持っている。黒い髪は襟口で短く切り揃えられ、良く梳かれて艶やかに光る。
いかにもわたしが天狗、と言わんばかりの装いで、どうだ、と言わんばかりに胸を張る。背丈なんて私よりも頭二つ分くらい小さいのに、私と同じくらいの背丈だった文に、似ていると言えば似ている。もちろん髪の毛とか声の調子とかそういう細かいところが似ているのは確かなのだけれど、それだけじゃない。この射命丸文と名乗った天狗はあの射命丸文に似ている。
「ほら、わたし、射命丸文! わかります!?」
「わかった、わかったから。あんたが射命丸文だっていうのは十分わかってるから」
私の部屋に突然やってきたこの幼い天狗が、姓を射命丸、名を文という烏天狗であるということを私はちゃんと理解していた。昨日の夕方に会った同輩烏天狗は射命丸文で、今私の左手をつかんで早く早くとぶんぶん振り回しているのも射命丸文だということも十分わかってる。
そして、自分に近い同類がこのような事態となっているというのに、私自身、驚くほど簡単に、その事実を事実として受け取っていることもわかってる。
冗談みたいなことなのに、案外すんなり受け入れ始めている自分がいる。観察していると、目の前の幼天狗のことさえ簡単に受け入れてしまうのではないかと錯覚を覚える。
私は一つ大きく深呼吸して思考をリセットする。吸って。吐いて。だんだんショックが抜けてきた。 いや、もしかしたら衝撃に飲み込まれて感覚が麻痺しているだけかもしれない。どっちでもいいや。
新聞記者として、まずは目の前のこの子をどうにかしないといけない。この子のことをもっとよく知りたい。そのために、話を聞かなくちゃいけない。だとしたら、新聞記者の私がすることはひとつ。
私はポケットからケータイ型のカメラを取り出した。いっつも写真を撮る側の相手を撮るのはなんだか変な感じがするけれど。
「それじゃ、取材させて」
やっと相手をする気になったか、と、彼女は我が意を得たような表情を浮かべた。
「で、射命丸さん」
「文でいいですよ」
「射命丸さん」
片手でカメラを構えた。モニターに顔が映る。フラッシュを焚かずにシャッターを切ろうとして――
やっぱり撮らずにカメラを下げた。
「……貴女のこと、いろいろ聞かせてくれるかしら」
「おや、わたしの写真、撮らなくていいのですか?」
「いいの、また後で撮るから」
「別に今撮ってもいいじゃないですか」
文は不服そうに唇を尖らせた。
「別に後で撮ったっていいじゃない」
「据え膳を前にして飛びつかないなんて新聞記者の名折れではありませんか?」
ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべる文。ひどく挑発的な物言いだが、私は応じなかった。小さいくせに、そういうところは似ている。
「あいにく、私はどこかの誰かとは違ってパパラッチみたいなことしないからねー」
「そんなこと言ってると、あとで後悔しますよ」
絶対撮ってもらいますからね、とかなんとかとぶつぶつ文はつぶやいている。
そんな文を見て、一瞬だけ、私の胸の内をざわざわしたものが掠めた気がした。ちょっと前の落ち着かない感覚が戻ってくる。記者なんだから、常に落ち着いていないといけないのに。
「それで、何から話せばいいのでしょう?」
「そうね……」
思考を断つように切り替えて、取材モードに入る。カメラ内蔵のメモ帳を起動。けれど、何から聞けばいいのだろう。
少し考えて、そもそもの大前提から聞くことにした。
「まずさ、あんたはほんとに文なの? 昨日までいた射命丸文は本当にもうどこにもいないの? 今日から射命丸文は本当にあなたになるの?」
「むむむ、いきなりそう聞かれますか~……」
文は頬に手を当てて首を傾げ、神妙な顔で考える。
「昨日までいた射命丸文はもういません。そして彼女がいなくなったと同時に私があらわれ、彼女と同じ名前を与えられてここにいるのです。これは山がそうなっている以上、他の説明をつけることはできないですね……。『そういうものだ』、としか言いようがないと言いますか」
「あの文がいなくなったってこと自体、にわかには信じがたいわ……」
「私と先代の射命丸文があなたを驚かせてやろうとしているわけでも勿論ありません。大天狗様やら他のみなさんまでこぞって嘘をついていることになってしまいます」
それはそうだろう。こくりと頷く私に、文は言葉を続ける。
「先代のわたしがいないことを証明するのは、それこそ悪魔の証明になってしまいますし、結局のところ今ある状況をそっくり信じてもらうしかない、といったかたちでしょうかね」
「そうよね……、聞いてみたら当たり前のことよね。ごめん」
文は、けろりとした笑みを浮かべた。
「いえいえ、日常に慣れている以上非日常に慣れないことなど多々あるものです。どうかお気になさらず」
文の言葉はオーバーなくらいに仰々しい。それに、
――にっと笑うその顔が、やっぱり似ている、と思った。
だから、余計なことを考えるな、私。
大げさに咳払いして、次の質問をする。
「そもそもなんでウチに来たの?」
「ここが姫海棠はたてさんのご自宅だからです」
「いや、そうじゃなくて……」
がくっと肩すかしを食らった気分。天然なのかわざとなのかわからないボケはよしてほしい。
「なんでわたしなの? 文の行きそうなところだったらもっと他にあるでしょう?」
「ああ、そういうことですか」
文はひとり得心した顔で頷く。天然だったのか。
「わかりません」
「は?」
「いえ、ですからわかりません。気が付いたらへんぴな場所に建つ姫海棠はたてと表札の出た家の前にいて、気が付いたら鍵がかかっていない玄関の扉を開けて、気が付いたら自室で気を遠くへ遣って呆けてるはたてさんを発見した、ということです」
「なっ、べ、別にこんな場所でも困ってないし! 念写に集中できる最高の場所よ! 鍵かけてないのは不用心だからじゃなくってこの辺の治安がいいからだし! ぼーっとしてたのは文のせいだし!」
「正確には先代の射命丸文のせい、ですね」
「いちいち指摘するな!」
「まあ、わたしも同じ文でありますから、その文句は甘んじて受けましょう」
文は涼しい顔で殊勝げに頭を下げた。
そういうところは変わってない……。思わずため息が出た。
「ていうか、なんで私のこと知ってるの?」
「勘です」
「は?」
「勘です。うすぼんやりとした記憶と照らし合わせて、姫海棠はたてという天狗は確か人畜無害でお気楽なおぼこい天狗だったから尋ねて行っても問題ないだろう、と判断しました」
いろいろ突っ込みたいところはあるが、今は無視する。
「今、ぼんやり記憶があるって言った?」
「ええ、言いましたね。わずかながら先代の記憶があります」
「どんなことを覚えてるの? どれくらい細かく記憶を引き継いでるの?」
「記憶は、どうでもいいことから大事なことまで様々ですね。射命丸文として最低限知っていなければいけないことから本当に些細な取るに足らないことまで。もちろん重要事項ほどしっかり覚えていて、そうでないものはだいたい忘れていますがね。少なくとも私の感覚の中では」
「大事なことほどはっきり覚えている?」
「ええ、幻想郷や天狗についての具体的な知識から、取材の仕方なんていう抽象的なものまで、覚えていなければならないことはほぼ漏らさず思い出すことができます」
文は首を傾げてふむふむと頷いている。今この場でも思い出すことが出来ているんだろう。
「なるほど……」
射命丸文として最低限必要なことは覚えている、と。この子がただの幼子ではない由縁は、やはり『射命丸文』だから。名前を背負っているから。
メモを取りつつ、じゃあさ、と私は質問を重ねる。
「文が写真を撮って取材して、文々。新聞っていう新聞を書いていたことは覚えてる?」
「ええ、覚えていますよ。清く正しい、社会の木鐸たる幻想郷最速の文々。新聞ですね」
「そ、そうね……」
「でも、内容まではさすがに覚えていないです。写真やバックナンバーを見たらかろうじて思い出せるくらいでしょうか……」
私は少しだけ胸をなでおろした。
この文は文々。新聞の内容を覚えていない。そのことがとても重要なことに思えた。この文は覚えていないが、あの文ならきっと覚えている。射命丸文は適当そうでいて、よくよく見ると見事に隙がない天狗だ。
あの文はこの文とは違う。その違いがあるのだとしたら、と考えると、なぜだか少しだけ安心する。さっきから私の内心をざわつかせる何かが引っ込んでくれる、そんな気がした。
「そう、わかった」
「確かに記憶が薄くなっていますが、私にとって文々。新聞が重要なものではないというわけではありませんよ?」
「わかってる。文にとって大事なもの。そうでしょ」
そう、あの文が書いた文々。新聞はあの文のものだ。だからこの文はあの文とは違う。
聞きたいことは、大方聞けた。文も少しばかり話し疲れたか、転がっていたクッションを敷いて座り込んでいる。記事を書くための質疑応答はこれくらいでいいか。
いや、一個だけ聞けていない。それを思い出した。
記事を書くためにもおそらく必要だし、それ以上に私個人が気になっていることがひとつ。けれど、他の質問をするにつれてだんだんと聞きたくなくなってきた。
だが、このまま聞かずに終わるわけにもいかない。文がこちらを見て、他に何か聞くことはないのか、と無言で語りかけてくる。仕方がない。気が進まないけれど、私は最後の質問をした。
「同じ名前っていうことは、やっぱり同じことが出来るの?」
射命丸文、その代名詞とも呼べる能力の数々はどこまで受け継がれているのか。
文は、待ってましたと言わんばかりに丸い瞳をきらりと輝かせた。
「よくぞ聞いてくださいました。能力的な差異というなら、先代とわたしには全く違いがありません。『風を操る程度の能力』、烏天狗としての力はわたしの名前の中に秘められています。わたしが射命丸文である限り、風を繰って幻想郷最速で空を駆け、幻想郷最速の取材をして、幻想郷最速の文々。新聞を書くことには変わりはないのです!」
つんと尖らせた唇を得意げに持ち上げて胸を張った。
良く通る、幼く黄色い声が、私の鼓膜の奥で反響した。
一度安堵した心が、急速に縮みあがる。
名乗ることで力を発揮し、その畏怖を名前に刻み込む。遙か古から天狗が行ってきた営み。それがこの幼い天狗にも宿っているということ。
ずきん、と、再び鈍い痛みを覚えた。
私は努めてゆっくりと、会話を続けようと、私の中に浮かんだ疑問を口に出した。
「じゃあ、あなたは、文と同じように風を起こすことができたりするの?」
「はい、そうですよ」
「あなたは、文と同じように写真を撮ることができるの?」
「はい、写真機さえあれば、ノウハウとテクニックは免許皆伝です」
「あなたは、文と同じように、文々。新聞を書くの?」
「はい、いつか新聞発行ランキングで一位の座を射止めて一流の人気新聞になってみせますよ!」
両の目と同じくらい丸い顔にニッコリと笑みを浮かべて、文は得意げに頷いた。
私はメモの手が止まるのも忘れて、知らずの内に文をじっと見つめていた。
文はいないのに、文がいる。文はいるのに、文がいない。
この文はあの文とすごく似ているのは認める。けれど、この文はあの文と違う、どこかではそう思っていたのに。
けれどこの文は、やっぱりあの文とまるで同じみたいで――
「……ふふふ」
文はくつくつと笑い声を漏らした。
「どうやらはたてさんはわたしの力を見てみたいようですね?」
文の両眼と目が合った。
「射命丸文を名乗るなら、それ相応の力があってしかるべき、と、そう仰るわけですね?」
ニッコリとした笑みが、ニヤリとした笑みに変わっていく。
その笑顔で、私の胸が、さぁ、と冷えるのを感じた。
待って、と一言口に出したかった。私の中を嫌な予感が広がっていく。
「いいでしょう!」
目の前の文は、宣誓するように言い放った。
「待っていました、ここからが取材の本番です。百聞は一見に如かず。一目見ただけで、立派な記事となるでしょう」
見開いた目が、朱く染まっていく。
「手加減しますから、本気で見ててください! 射命丸文の風神の威を!」
文は部屋を飛び出した。
「待って!」
わたしも後を追って部屋を駆け出る。廊下の先の開け広げられた玄関から出て行く影が一つ。
「ちょっと、お願い、待ってってば――」
突符『天狗のマクロバースト』
「きゃあっ!」
玄関を抜けると突然強い風が吹きすさび、私は思わず目を塞いだ。
「身体は小さくても、身についた力は、こうですよっ!」
周りを囲みながら、目に見えそうなほど圧を増した気流が押し寄せる。ツインテールが引っ張られそうになり、私は風圧で地面に押し付けられた。固められた姿勢のまま身動きがとれない。
「ちょっと、いきなり、何すんの、よっ――」
「自分で体験していただくのが一番でしょうから!」
目視できない上の方からちりぢりになった声が聞こえる。あまり肉体派でないとはいえ同じ天狗の私を、暴力的に制圧する風。正真正銘の『風を操る力』が耳に、肌に、目に、たたき込まれる。
「こん、のっ……!」
負けていられるか。この風圧に対抗できる術は一つ。地面にしがみついた両手でなんとかカメラを開き、レンズを上空に向ける。
「くら……、えっ!」
指の感覚だけで狙いを定めてシャッターボタンを押し、にらんだ上空に隙間ができるやいなや、そこをめがけて飛び立った。風の切り取られた空間に四方から乱れた気流が流れ込み、それに乗って私は風の檻から脱出した。
文の前に降り立つと、暴風など無かったかのように辺りは静けさを取り戻した。
「はぁ……、はぁ……」
時間にしてほんの三十秒も経っていないはずなのに、私の息は大きく乱れていた。
「どうです? まだ少しばかり馴染んでいないところもあるのですが、なかなかのものでしょう? あ、下降気流だったからスカートはめくれていませんでしたよ。そもそも周りに不埒な輩もいないようですから問題はありませんが」
文は澄ました顔で笑ってみせる。
なんでも知っているみたいに振る舞って、優越感を滲ませて、人を小馬鹿にするようなことを言って。
それがやっぱり似ているようにしか思えなくて……。
私は思わず目を逸らした。
「でも今のスペルをきちんと撮ってはくださらなかったですよねえ?」
調子づいたのか、文は目つきを鋭くした。
「しょうがないじゃない、いきなりすぎるでしょ……」
「臨機応変が肝でしょうに、そんなことでよく新聞記者が務まりますねぇ。次のスペルはちゃんとわたしの姿も撮ってくださいよ!」
「ちょっと、だから、まって――」
風神『風神木の葉隠れ』
文が団扇を威勢良く一振りすると、おびただしい数の木の葉が風の中から現れた。私めがけてなだれ込むように飛んでくる。強制的に第二ラウンドが始まる。
刃のような鋭さを持ったそれらの隙間を縫ってかわしつつ、次々に飛来する後続に集中する。大きな固まりが飛んでくるとそれをカメラで射抜いて道を開く。慎重に距離を詰めながら文に近づこうとするが、団扇から紡ぎ出される木の葉は文の周囲で一段と密度を増し、一筋縄での接近を許さない。
「ほらほらどうしたんですか? そんな暗い葉っぱ団子なんて撮ってても記事には出来ませんよ?」
挑発する声が厚い葉の弾幕を隔てて聞こえる。姿こそ見えないけれど、これだけ圧倒的な力を見せつけながら余裕を滲ませる様子が目に浮かぶ。
「こんな程度のまやかしですら突破できないなんて、あなたはそんなレベルの天狗なんですか? わたしの対抗新聞を名乗ったらしいですが、さすがにこんなんでは聞いてあきれますねぇ」
「くっ……」
視界の開けない中で私は思わず歯噛みした。
違う。そうじゃない。この弾幕を突破できないんじゃない。もう少し、ほんの少し、目の前の葉群を見極めて突っ込むことができれば、カメラと羽で射命丸の下へ辿り着いて、一撃食らわせてやれる。それが可能なのは、自分でわかっている。
けれど、それができない。
いや――この切羽詰まった状況でもなんとなくわかる――私はそれを、『できない』のではなくて、『したくない』のだ。
密度の薄い空間を飛び、葉っぱの弾幕をやり過ごす。
「ほんと、どーしようもない……」
塞がれた狭い視野の中で、私は胸のざわつきが強くなるのを覚えた。仮にこの分厚い木の葉たちをくぐり抜けて向こう側の文と対峙したとして、私はカメラを構えることができるだろうか? シャッターを押してその姿を撮ることができるだろうか? 背筋を嫌な汗が伝う。私の羽は中途半端に縮こまり、目は活路を見いだそうとするのを止めていた。
恐い。
ただ、恐いとだけ思った。 何が恐いのかわからないけれど、そう、思った。
葉群の中心から距離をとり、比較的疎らになった木の葉を避けていると、やがて時間が切れてスペルが終了した。
「どういうことですか!」
スペルを引っ込めて対峙した文は、怒りを露わにした。
「大怪我するわけじゃなし、迷うことなど何もないでしょう? 手加減してあげているのだから! 本気でかかってきてください!」
口を尖らせて腕を組み、怒らせた肩は小柄でも私を威圧して、ますます私を縮み上がらせる。
「だからいきなりにも程があるって……」
そう言いかけた私は、不意に胃のむかつきを覚えて空中にうずくまった。
「ごめん、ちょっと……」
なんか変なものでも食べたかな……。吐き気に襲われて、思考はどうでもいいことにかじりつこうとする。本当に対面しなきゃいけないものがあるのに、それから逃げるようにして。
「あんたのすごいのはよくわかったから……、もう、いいよ……」
強く目をつぶって眩暈を堪える。
無理だ。私はこの子の写真を撮ることが出来ない。
目を背けていたけれど、さっきの弾幕の中で見てしまった。自分の中の、今まで味わったことのない感覚。カメラのモニターに映して写真として一枚の平面に写すことに、忌避を覚えたのは初めてのことだった。頭が揺さぶられたみたいにくらくらする。あれほど面白いと思っていた写真撮影が。自分の見たことのないものを撮るのはあんなに楽しかったはずなのに。相対する幼い烏天狗は、格好の被写体であるはずなのに。
体験したことのない恐怖に、私は押し潰されていた。
「それは駄目です」
文はきっぱりと言い放った。
「いけません。私は貴女に写真を撮ってもらわなければいけないのです。そのためにここへ来たのですから」
「え……、どういう、こと?」
「しゃがみ込んでないでわたしの次のスペルを撮れということです!」
塞符『天孫降臨』
文のスペルの宣言とともに私は本能的に羽を開いた。『射命丸文』の名が背負うのは、速さと風。天孫降臨は射命丸文の操る風、それの究極形。私には持ちえない圧倒的な力を見せつけて、射命丸文は空にいる。適うはずがない。重い体を羽が引きずって、文を中心として巻き起こった巨大な竜巻からすんでのところで逃げ切る。
「だから、もう無理だって!」
「言い訳は無用! さあ早く、わたしを撮ってください!」
竜巻は止むことなく周囲の風を巻き込んで、刃のような気流を放ってくる。私はそれを避ける。ただそれを繰り返す。
こわい。無理。文の前では決して吐かなかったはずの弱音で心がいっぱいになる。これ以上対峙していたら、あんたの写真に撮ってしまいそうで。
かたかたと手が震えだし、私は畳んだカメラを両手で握りしめた。
「お願い……、もう止めて!」
「いい加減、こちらから攻めないとダメなんですかね?」
ぴたりと、竜巻が止んだ。中から姿を現した文は、赤くたぎった目で、こちらを見据え――
『幻想風靡』
姿を消した。
「だから、もう、やめて……」
私の掠れた声は突如巻き起こった轟音に掻き消された。先に見せた下降気流や竜巻とは比べものにならないほどの風。全方位を埋め尽くさんばかりに文が高速で飛行して弾幕をばらまく。音速を容易に超える文の速度は、烏天狗の肉眼を以てしても残像で捉えるのがやっとだ。身動きがとれず、髪も、服も、身の毛の先まで四方八方に引っ張られる。体を切るような強風の中へ必死の思いで叫ぶ。
「どうして、あんたを、撮らなきゃ、いけないのよっ……!」
「いけないものはいけないのです! 先代の遺志、わたしの預かり知らぬ、けれど全うせねばならない事なのです!」
「先代ってどういうことよ!?」
文は返答を寄越す代わりに高速の体当たりをぶつけてきた。私の右斜め後方、死角になる位置からの突撃は、この状況下でで張りつめた聴覚が無ければ避ける事はできなかっただろう。一拍の後に首筋を冷や汗が伝った。
文は本気で私を倒しにかかっている。文の『幻想風靡』は本来ならば高速で弾幕を散らすだけのスペルだ。決められた時間避けきることができれば文はそれ以上の攻撃を展開しない。散弾の密度が濃くなることはあっても、文が自ら攻撃を加えることはないのだ。
けれど、今は違う。避けきればいいなどという生易しさを吹いて飛ばすような強風を纏い、文は確実に私の身体めがけて、一切の妥協なく飛びかかってくる。
まるで、私の見たことのない、本気を出した文のように。
まるで、背負った名に宿した力を見せつけるように。
まるで、自分こそが射命丸文だと声高に叫ぶように。
うなる風音が一層強くなった。文の体当たりが少しずつ間隔を狭めて襲い来る。その度に風圧が身を薙ぎ、目に見えるほどの気流が視界を遮る。さながら暴風雨の中閉じ込めるかのように私から体力を奪っていく。
極限状況に放り込まれて限界まで研ぎ澄まされた私の五覚でも、とうとう連続の体当たりを避けられなくなってきた。文を避けながら暴風の中で必死に体勢を立て直す。
「こうなったら……」
記者の習慣が、震える両手でカメラを構えさせようとした。
「……!」
いや、駄目。
私は構えかけたカメラを両手で握りしめる。
文の写真を、撮ることができない。
だって、撮ってしまったら。あの文を撮ってしまったら――
「ほらほら何もしないんですか! いい加減撮らないと当たっちゃいますよ!」
まずい。手加減なしに、全力で私に体当たりを仕掛けてくる。もはや弾幕ごっこであることを認識しているのかさえ危うい。本気の殺意で何発も私に突撃を食らわそうとする。もし一発でも避けることができなければ……。
恐ろしい想像を振り払うのと同時に、ひときわ強い風圧が私の背後を駆け抜けた。当たってはいけない。けれど猶予も少ない。文の体当たりはぎりぎり掠って避けるのも辛いほどその速さを増している。後そう何回も避けられないことは考えなくともわかる。どうすればいい。
「あと五回!」
文は私のすねの辺りを駆けた。直撃までのカウントダウン。
「四回!」
腰の左後ろを掠る。
「三!」
右の二の腕のすぐ傍。
「二!」
左の肩口を抜け。
「一!」
カメラを構えた両手が風で押された。
零――
文のその声を聞く前に、正面から私の眼前に突っ込んでくる文の姿が見えた。スローモーションのように引き伸ばされ、文の右手の団扇が風を帯び、私に向かって振り上げられようとしていて――
指先の感覚一つ。正面に突きつけるように構えたカメラのシャッターボタンが押され、風景は一枚の画に切り取られた。
荒れ狂う風の中、残像を帯びた文がこちらへ突進してくる写真。カメラの画面からこちらを真っ直ぐ睨む文の目は翼の羽より黒く、兜巾の丹よりも赤かった。
「やっと、撮ってくれましたね」
暴風が嘘のように止み、文はその身の丈より幾分落ち着いた笑顔を浮かべていた。私のカメラは次なる被写体を求めて画面に風景を写し込んでいた。
「ありがとうございます!」
文の声で硬直が解け、顔を上げると目の前に文がいた。くっつかんばかりに顔を突き出し、肩の力が抜けたはにかむような笑顔を浮かべていた。
「撮ってくれなかったらどうしようかと思いました。手加減なしで目一杯やっても本気出そうとしてくれないんですもん。一体わたしを誰だと思っているのですか、まったく」
文は冗談めかして腰に手を当て頬を膨らませた。
だいたいこの射命丸文相手に手を抜いたままやり過ごそうっていう方がおかしいんですよ。幻想郷最速とはこういうことだ、って身をもってわからせるのも骨が折れるっていうのに。あきらめて最初から本気でかかって来てくれれば余計な労力がかからなかったんですよ本当にもう……。
文が饒舌に語る言葉は私の上を素通りしていった。
「聞いてますか? ねえ?」
文はこちらを振り返った。
その瞬間、私の中で何かのスイッチが入る音がした。それは思考を回転させるスイッチだったかもしれないし、押し潰されまいと硬直していた感情を再び動かすスイッチだったのかもしれない。
振り向いた文の顔が視界に入って、カチリと音がした。
その後、何をどうしたのか自分でもよくわからない。何がしたかったのかすらよくわからない。いや、わかってしまうのが恐ろしかったのかもしれない。ただ必死に声を押し殺して、涙を一滴もこぼすまいとだけ思っていた。一目散に文の傍から離れて、方向など考えもせず無茶苦茶に飛び出した。
新しくやってきた文の姿を、写真に撮りたくなかった。それは単に、嫌だったからだ。
撮影には、その目で見た風景を一枚の平面に切り取るという行為には、単なるそれ以上の意味がある。
景色を映し込んだ写真は、見た者の中にその景色を浮かび上がらせる。
写真に撮られなければ誰にも知られずに消え去っていく一瞬を手放さぬよう残すことができる。
あやふやな記憶の中で、掬った手から零れ落ちる砂粒のように消えてしまう瞬間を、少しでも繋ぎ留める。
それを叶えるために、写真を撮る。
どことも知らない上空を一心不乱に飛びながら、私の前を飛ぶ私より速い者がいないか探した。念写ばかりして何も思うところを持たなかったかつての私を諭してくれたのは、他でもないあの背中だ。白いブラウスから突き出た一対の黒翼は、私の方を見もせずに、何も言ってはくれなかったけれど、何よりも雄弁に語っていた。
そのとき、そこにあるもの。一瞬の後には二度と同じ姿を見せないそれを記憶に留めるために、写真を撮るのだ。
だから、私は今の文を写真に撮ることができない。できなかった。できないのだ。
文を撮ってしまったら、それが事実として残ってしまうから。私が今の文の存在を認めてしまうことになるから。昨日までのあの文が、もうここにはいないのだということを、認めてしまうことになるから――
烏天狗のくせにさして速くもない羽で一直線に飛び、少しでも思い当たるところを見て回った。人里、竹林、無縁の塚、太陽の畑、麓の神社、そこにいた者に声をかけて、幾度も尋ねた。
射命丸文が、どこに行ったか知らないか――
山に戻ってきた。文がどこに行ったのか、知っている者はいなかった。どうせくだらないネタを探しに行って、思い出した頃にまたやって来るんだろう。尋ねた皆は口を揃えてそう言った。麓の沢を通って見つけた河童に訊いても同じだった。本当に良くわからない方だ、と。
気が付いたら山の中腹の大滝が流れ落ちるところまで戻ってきており、迫る夕暮れに水飛沫もろとも朱く染まっていた。
滝を見上げる。霧のようにかかる飛沫の中で、その流れ出る先が霞んで見えた。
ここは、私と文が勝負した場所だ。後にも先にもこれきりの、お互いが被写体の撮影勝負。烏天狗の、同じ新聞記者として、お互いの新聞の名に懸けて、私は、確かにこの場所で文と真剣勝負をした。滝の高いところを見下すように飛ぶ文に、ひよっことからかわれ、引きこもりと馬鹿にされ、記事なんて誰も読まないと言われても、それでも私は食い下がった。最低の記事が載った新聞なんて要らない。誰もが記事まで読むような新聞を作って、あんたの対抗新聞になってやる! お互い対抗新聞同士になって最強を目指すよ! ――
大声を張り上げて、駄々をこねる子供のように、そう言ったのは自分でも良く覚えている。
なぜなら、振り向いてほしかったから。
率直に、認めてほしかったから。
どこまでも遠くへ行って世界を切り取ることのできるあんたが、素直に、うらやましかったから。
その飛んでいく先に、ちょっとでも、追いついてみたかったから。
私が飛ぶのは、あんたが目の前にいたから。
私が飛べるのは、あんたがいるから。
だから、お願いだから――
「帰ってきて……」
飛沫に濡れそぼる中で、両の頬が熱くなるのを感じた。顎のあたりが冷たいな、と思ったら、それは涙が流れているせいだと気付いた。夕陽の残照に照らされた視界が、橙色に歪んだ。
「はたてさん」
背後で声がした。振り向くと、沈む夕日の方を見ながら私に背を向ける小さな影がひとつ。表情は窺えない。黒く染め上げられた天狗装束から、それよりも黒く光る黒翼が突き出て、まぶしく朱に染まっていた。
「射命丸文はもういません」
文は呟いた。今日のおやつは美味しかった、とでも言うみたいに。
そんな軽い言葉が、私の体の中を幾度も反響し、染み渡っていく。
きっと、私のことなど、全部お見通しなのだ。
射命丸文は聡いから。射命丸文は速いから。
射命丸文は、私のライバルだから。
泣き顔を、見られたくないな、と思った。
「けれど」
文は一度言葉を切った。
滝の流れ落ちる音だけが辺りを包み込んだ。文の背中を見つめる。夕日に照らされた一対の翼を、目に染みるような強さの光を、目に焼き付ける。涙が流れ続けたまま、私はその背中が振り返るのを見た。逆光の中でも、飄々とした、どこか澄ましたような顔は、無性に懐かしくて――
その口は確かにこう言った。
「射命丸文は、ここにいますよ」
* * *
夢を見た。
ぱりっとした白いブラウスに、地味な黒いスカート。赤い兜巾に白い房をぶら下げて、全体的に洒落っ気のない格好。私と同じくらいの目線で、文は静かに笑った。声を出さないその微笑に、私は訊いた。
なんとか言いなさいよ。
いつもなら間髪入れずに言い返す文は、困ったように眉を下げ、肩をすくめるばかりで。そうか、あんたいなくなっちゃったんだっけ、と思い出した。自分のことながら忘れっぽくて困る。
そうよね、いなくなっちゃったんだから、しょうがないよね。もう新しい文も来ちゃったからね。あんたが戻ってくるわけにはいかないわよね。新しいあんたも、あんたに負けず劣らず生意気なんだから。迷惑かかる分は全部貸しにしとくからね。覚えときなさいよ。ていうかこっちは準備もできていないのにいきなり弾幕勝負させられたんだけど。文はちゃんと自分のことしつけときなさいよ、これも貸し一つだからね。
あと他にも言っときたいこといっぱいあるんだけどさ、いや、あんた絡みのことなんてくだらないことばっかりだから言いたいことなんて無いかもしれないんだけどさ……。
ああもう、何言おうとしたか忘れちゃったじゃない。文の馬鹿。大馬鹿。こっちの言いたいことまで忘れさせるなんて嫌がらせもいいとこよ。忘れられるのなんてあんただけで十分、もう文のことなんて忘れてやるから、絶対覚えといてなんかやらないから。もう新しい文の写真撮っちゃったし。『新たな射命丸来たる』って記事書いて号外にしてやるんだから。みんなあんたのことなんか忘れて、あの子が新しい文になるんだからね、あんたなんかどこにでも行っちゃえばいいわ。
そうよ、私は新しい文の写真なんて撮りたくなかったのよ。だって、写真を撮っちゃったら、、あの子のことを私が認めちゃうことになるじゃない。写真を撮らなければ、もしかしたら何かの手違いで間違えて出てきちゃったあの子がもしかしたらごめんなさい手違いでしたって言ってどっかに帰ってくかもしれないじゃない、そしたらあんたが帰ってくるかもしれないじゃない。写真を撮らなければまだあんたがどこかにいるって信じ続けられたじゃない。
でも、あの子の写真撮っちゃった。私が新しい文を撮ったから、新しい文は世界の一部として認められた。私がそう認めた。古いあんたはもうここにはいられなくなった。私が古いあんたを山にいられなくした。私があんたを山から追い出したのも同然なのよ。写真を撮るっていうのは、真実を切り取るっていうのは、そういうことよね。ねえ、新しい文は写真を撮れ撮れって言ってきたけど、あんたはどうだったの。私は、あの子の写真を撮って良かったの。
……あんまり怒ってないみたいね。さっきからずっと黙ってるけど。悲しいとか寂しいとか思わないわけ。あんたいなくなっちゃうんでしょ、こわくないの。私のせいでいなくなっちゃうのよ、嫌でしょそんなの。ちょっとは何とか言いなさいよ。速く飛びすぎて感覚が馬鹿になっちゃってるんじゃないの。ちょっとは動揺したらどうなのよ、余裕ぶってるだけなんでしょ、ここまできてやせ我慢してるとか頭おかしいんじゃないの。これじゃあ私がアホみたいじゃない。あんたは物知り顔でそそくさいなくなって、何も知らなかった私が置いてけぼり食らうだなんて。ずるい、不公平よ。あんたも少しくらい慌てたらどうなのよ。お利口ぶってないで、いやだとか、もっと生きたいとか、まだやりたいことが残ってるとか、なんとか言ったらどうなのよ!
文はずっと柔らかい微笑を浮かべていて、時折しょげたような苦笑いをした。まるで、子供が駄々をこねるのを見守る母親のような笑みで。
文は、ゆるゆると首を横に振った。
しょうがない。
無言で語りかけるような、そんな笑みだった。これでいいの、と。
しょうがない、これでいいの。
私の中に染み渡っていく。文の、無音の言葉として。
しょうがないなら、しょうがない、か。
本当は薄々わかっていたんだろう。気付きたくなかったんだけど、気付いてしまったら、しょうがない。文は全部をわかっていた。わかって、全部を受け入れた。これでいい、って、静かに笑いながら。
やっぱり、文にはかなわないなぁ。
文、と、私がもう一度呼びかけると、文は一歩下がってくるりと踵を返した。その背中には、見慣れた黒い烏天狗の翼が広がっていて。
ばさり、と音をたてて、文は飛び立った。
たぶん、振り返りはしなかったと思う。
* * *
目を覚ますと、私は毛布をかぶってベッドの中にいた。
「むぐ、ふあぁ……」
大きなあくびを一つ。伸びをしようと毛布から腕を出すと、枕元で肘が何かに当たった。なんだろう、と思って見ると、柔らかいそれは同じベッドで眠る幼天狗の顔だった。文は穏やかな寝顔で、すぅ、すぅ、と息をたてている。私がぶつかったからか少しむずかるそぶりを見せたが、また元の通り静かな呼吸に戻る。起きる気配はない。
私は、布団の中で短く縮こまらせた文の手に、そっと自分の手を重ねた。じんわりと温かさが伝わってくる。子ども独特の体温だ。
手をさすりながら、そういえばあっちの文は手先が冷たかったな、と思い出した。この子の手もいずれ冷えていくのだろうか。カメラを構え、ペンを握り、風を切って空を飛び、温かさを手放していくのだろうか。
「文……」
この文とあの文は、やっぱり同じ道を辿るのだろうか。この子の背中の黒い羽は、一体どこへ向かうつもりなんだろう。同じ空を目指すのだろうか、それとも、違う空を目指すのだろうか。この子の目には、どんな景色が映るのだろうか。
昨日の撮った写真を思い出す。幼い体に流れる烏天狗の血。この子に秘められた『射命丸文』の名前、力、謂われ。
昨日の言葉を思い出す。
『射命丸文は、ここにいますよ』
殊勝げに、飄々と浮かべる、澄ました笑み。
烏天狗の射命丸文は、今度はどんな世界を見るんだろうか。
「文……」
私はもう一度呼びかけた。文はむにゃむにゃと口を動かして、気持ちよさそうに眠り続ける。丸い寝顔は難しいことなんて何一つ考えていなくて、何の気負いもしょい込んでいないように見える。
そんな文を見ていたら、いてもいられなくなって。
文の背中に腕を回して、文を抱きしめた。
「文……」
文の見る世界を、私も見てみたい。
この文は、あの文なのか。そんなこと、わからない。
けれど、私はあの文と同じように、この文が見ていく世界を、見てみたい。
まだ、もう少しだけ、あんたのそばに、いるからね。
二人の体温で暖められた布団の中で、すやすやと眠る文の吐息を感じながら。
私は目を閉じて、文を抱いたままもう一眠りすることにした。
笑顔で私に笑いかける。
「ここのところ私ばっかり勝ってしまって、いやはやこれは驚きですねぇ」
さして驚いてる風でもないのに、仰々しく首を傾げる。
「前回負けたのはいつだったか、ちょっと思い出せないですねぇ」
唇に指を当てて何か考えている仕草。こういう時にわざと嫌みったらしく言うのがあんただってことはこの私が一番よくわかってる。新聞大会で私に勝って、口元が少しゆるんでるくせに、見せる笑顔はつんと澄ましてるとか、そういうところも。
「うるさいわね、ちょっと調子が出なかっただけじゃない。次やったら負けるはずないんだから!」
「あやや? 前回も同じようなセリフを聞いたような気がするのですが?」
おちょくるように私をのぞき込む。
「……」
私には返す言葉がない。
口先だけなら何とでも言い返せると思う。だって新聞記者だし。それくらい私にだってできる。あんたに負けないくらいの反論は、これまで飽きるくらい考えてきた。
でも、私はもっと別の意味でも、それになりたい。
新聞記者のあんたの、そのライバル。そんな新聞記者に。
言い争いに勝ったって、書いた新聞で負けちゃったらなんにもならない。どうやっても、私が勝つには、新聞で認めてもらう以外に方法はない、そう思ってる。だから、余計な口げんかはしない。
私はあんたの顔をじっと見る。
次こそは勝つ、とそう自分に誓って。
そうやってスカしてられるのも今だけなんだから――
そうしたら、あんたはふと笑顔を引っ込めて、私の傍に寄った。
ふわり、と羽音が聞こえるくらいの近さにまで来て、私と視線を合わせた。
「ねぇ……」
あんたの口と言葉が連動して重なる。少し手を伸ばせば届くくらいの距離。視線が釘付けで動かせない私にかまわず、あんたはさらに距離を詰める。
顔が近づく。下手をすると吐息が感じられるくらいに。
目と目が合ったまま逸らすことができない。
固まって動けず息を止める私の前で、その形のいい唇が開かれる。
「そんなに見つめられたら、さすがの私も照れるわよ?」
「……っ!」
堪えられなくて、思わず両手を突き出した。視線から解放された私は、ぶんぶん大きく頭を振った。
「ちょっと、何なのよ……!」
「何なのよって、見つめられたら照れるってこと、せっかくだから教えてあげようかしらと思って」
飄々と言ってのける顔色は素面で、対する私はきっと赤くなっている。私の意志に反して熱くなった顔を、思わず伏せる。
「まったく、もう」
やれやれ、といった調子で、あんたは私の肩に手を置いた。私は顔を少し上げて口元だけ見やる。そうしたら、ちょっとかがんで私の視界に、ずい、と入ってきて――
「かわいい子に見つめられたら、本気で照れちゃうわよ?」
「……っ!!」
どん。 今度は思いっきり突き飛ばした。
抵抗もせずにふわりと二、三メートル飛んで、中空に止まる。そうして、まるで何も無かったみたいに、かぶった兜巾の位置を気にして直している。
「あやや、本当のことを言っただけなのに」
「……馬鹿! 文の馬鹿!」
思いついた言葉をぶつけた。ああもう、きっと顔がまた真っ赤になってる。今突き飛ばしたのじゃ足りないくらい思いっきり叩いてやりたくなったけどなんとかそれだけは堪えて、その代わりにさっきよりもきつく、思いきり睨みつける。
私の視線の先で、あんたはまたいつもの澄ました笑みを浮かべている。
かなわないなぁ、とつくづく思う。
あんたに勝ちたいと思って、何度も挑戦して。
私なりのやり方で、あんたよりも高くへ行けるように。一切手を抜かずに。
それでも。
あんたは軽々と私に勝ってしまうし。
私はあんたに追いつけないし。あんたは、私が何をしようと、いつも変わらずに飄々と笑ってる。
いつからだろうか、あんたを見ている私のことをあんたが見ていないことに気付いた。私がむきになればなるほど、涼しい目で私のことを見てる。まるで、無理なんかしなくてもいいのに、とでも言いたいみたいに。私が負けっぱなしで張り合いを無くしたとか、そういうことじゃなくて、私が競り勝つことがあってもそれは同じだった。
たぶん、もう既に、私のことなど眼中になかったんだろうと思う。あんたは、目の前にいる私以外のものを見ていた。私は勝負している相手の視界にすら入っていない。そう考えると、なんだか無性にいたたまれなくなって。
自分のよく知る射命丸文に、そんなことをされたということが、寂しかった。
だから、私は決めた。私じゃなくて何を見てるのか、それを私も一緒に見てやる。そして、新聞大会でこてんぱんにとっちめてやる。それで、あんたのことしか見ていない私のことしか、見られないようにしてやる。
「次は、私が勝つ」
右手の人差し指で。今度こそ、負けない。私のライバルに向けて、そう宣言する。
「そんなこと言っても、私は烏天狗ですよ?」
「私だって烏天狗よ!」
「……それじゃあ期待させてもらおうかしらね」
あんたは後ろへ振り返った。そして私から顔を背けて、仰ぐようにして遠くを見やった。
私は一瞬だけ反応することが出来なかった。それは単純に、あんたがそんな反応をするのが珍しかったからだ。言葉は普段通り。でも、いつもみたいにはっきりした声じゃなくて、彼方へ向いた顔が、普段の挑発するような笑みではなくて、なにか別の顔をしているような気がして――
「ま、いづれはわかってしまうのでしょうね」
ぼそりとつぶやいた言葉を掻き消して、背中の黒い翼が広がる。
「……ちょっと、それ、どういう」
やっと口から漏れた私の問いかけに、あんたは答えなかった。ばさり、と静かな音を立てて飛び去っていく。
すぐに加速して姿が遠く見えなくなる後ろ姿に、気が付いたらカメラのファインダーを向けていた。
ボタンを押して、切り取る。
ぼやけていて、あんまり写りは良くなかった。
それがあんたとの最後になるとは、その時は思ってもいなかった。
* * *
私がそのことを知ったのは、今日の朝方だった。だいたいどんなことがあっても一晩寝ると調子が元に戻る体質で、目覚めもいつも通り気分が良かった。窓の外を見るとよく晴れてるし、のんびりしたいかんじだし、軽くひとっ飛びしてこようか、と思っていたところに、伝令の白狼天狗がやってきた。
「おはよう、って、椛じゃん。どうしたのこんな朝早くから?」
取材をさせてもらったこともある知り合いの哨戒天狗だ。白装束に黒の袴に朱の兜巾、哨戒の正装をしているということは任務中だろうか。椛は押し黙ったまま玄関口で立ち尽くしている。用事もないのに他人の家を無闇に訪れることは無いはずだから、何か用があるはずだ。
「椛? どうしたの? なにかあったの?」
もしやスクープの類だろうか。
「姫海棠様……」
椛はもごもごとなにやら言いよどんで、口をつぐんでしまう。何を言うべきか迷っているのか。
「どうしたの? 言わなきゃわかんないじゃない」
「その……。あのですね……」
どうもかなり言い出しづらい用件らしい。哨戒を務めて長いはずの椛が困るほどの何かなのだろうか。だとするとなんだろう。大きな事件でもあったんだろうか。
やっとのこと、小さな細い声で、眉をしかめた椛が口を開いた。
「射命丸様が……」
「文が。文がどうかしたの?」
「射命丸様が、その……」
「文が、まさか何かやらかしたとか?」
「いえ、射命丸様は悪いことなどひとつもしていなくて、そうではなくて、えっと……」
椛はまだ言いよどむようだった。一番言いづらい部分だろうか。というか、何かスクープがあるとしたらだいたい文が一番乗りに情報を掴んで駆けつけるから、わざわざ私を呼びにくるのも変な話だ。
お互い無言のまま玄関先で立ち尽くす。
たっぷり五分は苦い表情で固まっていた椛は、腹を決めたのかとうとう口を開いた。
「実は」
ひとつ大きく深呼吸を挟んで、言った。
「射命丸様が、いなくなりました」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げたのは言うまでも無く私だ。
「ですから、射命丸様が、いなくなりました」
「いなくなった、って、それいつものことじゃない」
なんだか拍子抜けして肩ががっくり下がった。勝手に山を飛び出して、どこにいるんだかわからない。でも事件があったらどこからでもやってきてまたどこかへ飛び去っていく。いつもの文そのまんまだ。
「心配させないでよー。あんまり深刻そうな顔してるから何かあったのかと思うじゃない」
へらへらと、椛に笑ってみせる。そう、なんにも大事なんか起きてない。心配して損した。
対する椛は、押し黙ったまま俯いている。
「ほら椛、しゃんとしなさいって。何にもないじゃない。顔上げて、そんな顔しないの」
笑いながら、椛の肩をぽんぽんと叩く。
椛は顔を上げた。近い距離で私と目があった。
椛の目はひどく真剣だった。冗談を言っているようには見えないくらいには。
眉尻を下げて、絞り出すようにして椛は言った。
「信じられないのは無理からぬことかもしれませんが、私はお伝えしました」
「……ねぇ、どういうこと? 文がいなくなった、って」
「そのまま、文字通りの意味です。射命丸様は、いなくなりました」
「だからそれって――」
「以上お伝えしました。大天狗様が、詳は聞けば教える、と仰っておられましたので。これにて失礼します」
椛はぴしゃりと言い放つと、踵を返して飛び去ってしまった。
椛の背中に備えられた哨戒用の大剣が、妙にぎらぎらして見えた。
* * *
椛が任務でふざけたことをするような天狗じゃないことは、知ってる。哨戒天狗が運ぶ伝令は、朝早くからわざわざ伝えられるだけの意味を持っている。最初から、椛の伝令が冗談なんかじゃないことは、わかってた。
だからこそ、信じられなかった。
『射命丸文がいなくなった』
信じたくはなかった。
けれど、特別に謁見を許された大天狗様のお話で、信じるしかなくなった。
大天狗様曰く、山のしきたりなのだという。上層部含め、一部の天狗しか知る者が居なくなって久しい旧い伝統なのだ、と。本来ならば私に伝えられる話では無かったそうなのだが、今回は特例である、と大天狗様は仰った。
どうやら妖怪の山に住まう天狗という種族は、知られているほど長生きではないらしい。
妖怪の山には天狗やら河童やら他の妖怪やら神様やら、多くの人ならざるものが住まう。天狗や河童は各の社会を成し、それに則った慣と文化を持っている。
だが、社会を形成する以上、それを構成する者が固定されていては停滞を迎える。その先に待つのは緩やかな腐敗。山が衰退するのを防ぐには、中身が固着するのを抑止しなければならない。山を存続させる為には、新たな同類を取り込むことを欠いてはならないのだ。
幻想郷がまだ外の世界と地続きであった頃には、老いも若きも、男も女も、玉石入り交じった妖が山に辿り着いては、契りの杯を酌み交わした。ここに今生きる多くの天狗も、そのようにして山を織り成す一要素となった。山でその身を癒し元の場所へと還る者もいれば、まだ見ぬ新天地を求めて飛び立つ者おり、残った者は妖怪の山の一部となった。あの頃は、山としての平衡が保たれながらも、内の天狗は絶えず動的な活を備えていた。
しかし、百数季前に大結界が張られて以降、山に新たな風が吹き込むことは無くなった。つい最近に乾と坤の神が渡って来たのは例の無い不測の事態だろう。閉ざされた山は外から活力を得ることが出来なくなったのだ。
ならば、取られる術はもう一方の選択肢。外から風の吹かなくなった山は、内に風を吹かすことにした。山の内側で流れを生み出す。世代を回し巡らすことで、絶えず妖が一所に留まることの無いようにする。それにより、山の構成要素に淀みの無いようにする。
それを実現するためには、必要なことは。
山の天狗が少しずついなくなること。
山を調律する最上部の天狗も含めて、己が生を全うした天狗が、その命に幕を引く。山の命によって。山を生かすために。そうしなければ、立ち行かない。
その掟、覚えている者も極僅かで、滅多に適用されるものではなく、今回が大結界の張られた後では初という。
この度、山の眼鏡に適った天狗が一名。
射命丸文
射命丸文は、いなくなった。
大天狗様の言うことは、思ったよりすんなりと私の頭に入ってきた。ふーん。そうなんだ。文はいなくなっちゃったんだ。山の決まりだもんね。しょうがないよね。私も文も天狗なんだし、そういうことだってあるよねえ、という風に。私が案外落ち着いてるから、大天狗様も驚いたようで、大天狗様が驚いてたことに私が逆に驚いたくらいで。
自分の家に戻っても同じで、ショックとか動揺とかいった類のことは思わなかった。ただ『射命丸文はいなくなった』という言葉だけが私の中に残って。
そんな言葉だけで、この私がどうこう慌てるわけがない。私は新聞記者で、私は天狗。当たり前のことは当たり前と受け止めることができるし、事実は冷静に観察しないといけない。さて、文もいないことだし、これはどんな風にして記事にまとめてやろうか。事件の発端から周りの反応まで、初動から終わりまで全部見届けてやって、号外だって出してやるんだから――
なんだか体に力が入らなくて、自室のベッドに倒れ込みながら、そんなことを考えていた。
* * *
そして今に至る。訳なのだけれど。
目を覚ましたら正面にいるこの子なんだけど。
「ほら、何をぼーっとしているのですか。あなたが新聞記者ならば、しなければならないことがあるでしょう。ほらほら、言ってごらんなさい。まず何をやらなければならないのですか?」
自室のベッドに座り込む私の頬をぺちぺちと叩く黒服のその子は、身の丈に合わない大きな声でそう言った。
というか、さっき部屋に転がり込んできてからずっとうるさく言葉を並べ立てているのを、私が上の空で耳に入れていなかっただけかもしれない。
「さあさあ、せっかく大スクープが目の前にいるというのに。これでは貴女の下に来た意味が無いじゃあないですか。もたもたしてると、わたしが自分で記事にしてしまいますよ」
「……ほんとに」
信じられない。
わりと大きなことでもすんなり受け入れられる自信はあるけれど、これにはさすがの私もショックを受ける。
ぱたぱたと忙しなく動くそれを呆然と見つめる。一体どういうこと。ビックリマークをつける余裕もなく、ただただ驚くしかない。
そんな私にお構いなく、それは休むことなくせっついてくる。
「信じられないなら何度でも言ってあげますよ」
くりくりとした両の目をまん丸に見開き、元気いっぱいの笑顔をぐぐいと私の顔に寄せた幼子は、言った。
「わたしが、射命丸文、です!」
射命丸文はこの山からいなくなった。山のために。山を絶えず動かすために。大天狗様が条文を読み上げるようにして言い放った言葉は、耳にこびりつくようにして残っている。
けれど、いなくなってそれで終わり、というわけではないらしい。
大天狗様曰く、この慣習によって山から天狗がひとりいなくなるごとに、新しい天狗がひとりあらわれるのだという。『社会を回す』という目的を果たすためには、必要なことなのだろう。
そして、このおぼこい烏天狗――射命丸文と名乗ったこの子――が新しい天狗。本人がそう言った。爛々と輝く子ども特有の眼差しで私を見つめてくる。私は目を逸らした。
この代替わりの慣習には、ひとつ特異な点がある。入れ替わるようにして生まれる新しい天狗は、いなくなった天狗と同じ名前を名乗るのだという。――目の前の幼天狗が『射命丸文』と名乗ったように。
天狗という妖の者ゆえに、その名が背負う意味にはひとかどでない重さがある。その名の秘める意味が妖怪を形容し、規定し、具現化させる。その名を名乗ることで、妖怪は妖怪であるところを保ち、天狗は天狗としての力を失わずにいられる。
したがって、一つの名前を長く存続させることは、天狗にとっての何にも代えられぬ至上命題だ。それならば、同じ名前を名乗るのは至極当然のことと言えるのかもしれない。名前には時を経るごとに伝統と畏怖が付随してゆき、その価値を高めていく。既に広く知れ渡った名であれば、それを新しく名乗る者も、その名に刻まれた力を身に纏うことができる。妖怪の山全体としての力を極力損失しないための措置として効率の良いシステム、ということなのだろう。
「さあさあしゃきっとして! ぐずぐずしているのは大嫌いなんですよ」
目の前の射命丸文は、私の良く知る射命丸文と同じようによく通る声でそう言った。ショックがいまだに残っている私は幼天狗をまじまじと見つめる。
黒い和装束は幼年の烏天狗の正装。ほのかに焼香のにおいが漂っている。頭に載せた兜巾は朱く染められ、右手には脇に差した八つ手団扇を持っている。黒い髪は襟口で短く切り揃えられ、良く梳かれて艶やかに光る。
いかにもわたしが天狗、と言わんばかりの装いで、どうだ、と言わんばかりに胸を張る。背丈なんて私よりも頭二つ分くらい小さいのに、私と同じくらいの背丈だった文に、似ていると言えば似ている。もちろん髪の毛とか声の調子とかそういう細かいところが似ているのは確かなのだけれど、それだけじゃない。この射命丸文と名乗った天狗はあの射命丸文に似ている。
「ほら、わたし、射命丸文! わかります!?」
「わかった、わかったから。あんたが射命丸文だっていうのは十分わかってるから」
私の部屋に突然やってきたこの幼い天狗が、姓を射命丸、名を文という烏天狗であるということを私はちゃんと理解していた。昨日の夕方に会った同輩烏天狗は射命丸文で、今私の左手をつかんで早く早くとぶんぶん振り回しているのも射命丸文だということも十分わかってる。
そして、自分に近い同類がこのような事態となっているというのに、私自身、驚くほど簡単に、その事実を事実として受け取っていることもわかってる。
冗談みたいなことなのに、案外すんなり受け入れ始めている自分がいる。観察していると、目の前の幼天狗のことさえ簡単に受け入れてしまうのではないかと錯覚を覚える。
私は一つ大きく深呼吸して思考をリセットする。吸って。吐いて。だんだんショックが抜けてきた。 いや、もしかしたら衝撃に飲み込まれて感覚が麻痺しているだけかもしれない。どっちでもいいや。
新聞記者として、まずは目の前のこの子をどうにかしないといけない。この子のことをもっとよく知りたい。そのために、話を聞かなくちゃいけない。だとしたら、新聞記者の私がすることはひとつ。
私はポケットからケータイ型のカメラを取り出した。いっつも写真を撮る側の相手を撮るのはなんだか変な感じがするけれど。
「それじゃ、取材させて」
やっと相手をする気になったか、と、彼女は我が意を得たような表情を浮かべた。
「で、射命丸さん」
「文でいいですよ」
「射命丸さん」
片手でカメラを構えた。モニターに顔が映る。フラッシュを焚かずにシャッターを切ろうとして――
やっぱり撮らずにカメラを下げた。
「……貴女のこと、いろいろ聞かせてくれるかしら」
「おや、わたしの写真、撮らなくていいのですか?」
「いいの、また後で撮るから」
「別に今撮ってもいいじゃないですか」
文は不服そうに唇を尖らせた。
「別に後で撮ったっていいじゃない」
「据え膳を前にして飛びつかないなんて新聞記者の名折れではありませんか?」
ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべる文。ひどく挑発的な物言いだが、私は応じなかった。小さいくせに、そういうところは似ている。
「あいにく、私はどこかの誰かとは違ってパパラッチみたいなことしないからねー」
「そんなこと言ってると、あとで後悔しますよ」
絶対撮ってもらいますからね、とかなんとかとぶつぶつ文はつぶやいている。
そんな文を見て、一瞬だけ、私の胸の内をざわざわしたものが掠めた気がした。ちょっと前の落ち着かない感覚が戻ってくる。記者なんだから、常に落ち着いていないといけないのに。
「それで、何から話せばいいのでしょう?」
「そうね……」
思考を断つように切り替えて、取材モードに入る。カメラ内蔵のメモ帳を起動。けれど、何から聞けばいいのだろう。
少し考えて、そもそもの大前提から聞くことにした。
「まずさ、あんたはほんとに文なの? 昨日までいた射命丸文は本当にもうどこにもいないの? 今日から射命丸文は本当にあなたになるの?」
「むむむ、いきなりそう聞かれますか~……」
文は頬に手を当てて首を傾げ、神妙な顔で考える。
「昨日までいた射命丸文はもういません。そして彼女がいなくなったと同時に私があらわれ、彼女と同じ名前を与えられてここにいるのです。これは山がそうなっている以上、他の説明をつけることはできないですね……。『そういうものだ』、としか言いようがないと言いますか」
「あの文がいなくなったってこと自体、にわかには信じがたいわ……」
「私と先代の射命丸文があなたを驚かせてやろうとしているわけでも勿論ありません。大天狗様やら他のみなさんまでこぞって嘘をついていることになってしまいます」
それはそうだろう。こくりと頷く私に、文は言葉を続ける。
「先代のわたしがいないことを証明するのは、それこそ悪魔の証明になってしまいますし、結局のところ今ある状況をそっくり信じてもらうしかない、といったかたちでしょうかね」
「そうよね……、聞いてみたら当たり前のことよね。ごめん」
文は、けろりとした笑みを浮かべた。
「いえいえ、日常に慣れている以上非日常に慣れないことなど多々あるものです。どうかお気になさらず」
文の言葉はオーバーなくらいに仰々しい。それに、
――にっと笑うその顔が、やっぱり似ている、と思った。
だから、余計なことを考えるな、私。
大げさに咳払いして、次の質問をする。
「そもそもなんでウチに来たの?」
「ここが姫海棠はたてさんのご自宅だからです」
「いや、そうじゃなくて……」
がくっと肩すかしを食らった気分。天然なのかわざとなのかわからないボケはよしてほしい。
「なんでわたしなの? 文の行きそうなところだったらもっと他にあるでしょう?」
「ああ、そういうことですか」
文はひとり得心した顔で頷く。天然だったのか。
「わかりません」
「は?」
「いえ、ですからわかりません。気が付いたらへんぴな場所に建つ姫海棠はたてと表札の出た家の前にいて、気が付いたら鍵がかかっていない玄関の扉を開けて、気が付いたら自室で気を遠くへ遣って呆けてるはたてさんを発見した、ということです」
「なっ、べ、別にこんな場所でも困ってないし! 念写に集中できる最高の場所よ! 鍵かけてないのは不用心だからじゃなくってこの辺の治安がいいからだし! ぼーっとしてたのは文のせいだし!」
「正確には先代の射命丸文のせい、ですね」
「いちいち指摘するな!」
「まあ、わたしも同じ文でありますから、その文句は甘んじて受けましょう」
文は涼しい顔で殊勝げに頭を下げた。
そういうところは変わってない……。思わずため息が出た。
「ていうか、なんで私のこと知ってるの?」
「勘です」
「は?」
「勘です。うすぼんやりとした記憶と照らし合わせて、姫海棠はたてという天狗は確か人畜無害でお気楽なおぼこい天狗だったから尋ねて行っても問題ないだろう、と判断しました」
いろいろ突っ込みたいところはあるが、今は無視する。
「今、ぼんやり記憶があるって言った?」
「ええ、言いましたね。わずかながら先代の記憶があります」
「どんなことを覚えてるの? どれくらい細かく記憶を引き継いでるの?」
「記憶は、どうでもいいことから大事なことまで様々ですね。射命丸文として最低限知っていなければいけないことから本当に些細な取るに足らないことまで。もちろん重要事項ほどしっかり覚えていて、そうでないものはだいたい忘れていますがね。少なくとも私の感覚の中では」
「大事なことほどはっきり覚えている?」
「ええ、幻想郷や天狗についての具体的な知識から、取材の仕方なんていう抽象的なものまで、覚えていなければならないことはほぼ漏らさず思い出すことができます」
文は首を傾げてふむふむと頷いている。今この場でも思い出すことが出来ているんだろう。
「なるほど……」
射命丸文として最低限必要なことは覚えている、と。この子がただの幼子ではない由縁は、やはり『射命丸文』だから。名前を背負っているから。
メモを取りつつ、じゃあさ、と私は質問を重ねる。
「文が写真を撮って取材して、文々。新聞っていう新聞を書いていたことは覚えてる?」
「ええ、覚えていますよ。清く正しい、社会の木鐸たる幻想郷最速の文々。新聞ですね」
「そ、そうね……」
「でも、内容まではさすがに覚えていないです。写真やバックナンバーを見たらかろうじて思い出せるくらいでしょうか……」
私は少しだけ胸をなでおろした。
この文は文々。新聞の内容を覚えていない。そのことがとても重要なことに思えた。この文は覚えていないが、あの文ならきっと覚えている。射命丸文は適当そうでいて、よくよく見ると見事に隙がない天狗だ。
あの文はこの文とは違う。その違いがあるのだとしたら、と考えると、なぜだか少しだけ安心する。さっきから私の内心をざわつかせる何かが引っ込んでくれる、そんな気がした。
「そう、わかった」
「確かに記憶が薄くなっていますが、私にとって文々。新聞が重要なものではないというわけではありませんよ?」
「わかってる。文にとって大事なもの。そうでしょ」
そう、あの文が書いた文々。新聞はあの文のものだ。だからこの文はあの文とは違う。
聞きたいことは、大方聞けた。文も少しばかり話し疲れたか、転がっていたクッションを敷いて座り込んでいる。記事を書くための質疑応答はこれくらいでいいか。
いや、一個だけ聞けていない。それを思い出した。
記事を書くためにもおそらく必要だし、それ以上に私個人が気になっていることがひとつ。けれど、他の質問をするにつれてだんだんと聞きたくなくなってきた。
だが、このまま聞かずに終わるわけにもいかない。文がこちらを見て、他に何か聞くことはないのか、と無言で語りかけてくる。仕方がない。気が進まないけれど、私は最後の質問をした。
「同じ名前っていうことは、やっぱり同じことが出来るの?」
射命丸文、その代名詞とも呼べる能力の数々はどこまで受け継がれているのか。
文は、待ってましたと言わんばかりに丸い瞳をきらりと輝かせた。
「よくぞ聞いてくださいました。能力的な差異というなら、先代とわたしには全く違いがありません。『風を操る程度の能力』、烏天狗としての力はわたしの名前の中に秘められています。わたしが射命丸文である限り、風を繰って幻想郷最速で空を駆け、幻想郷最速の取材をして、幻想郷最速の文々。新聞を書くことには変わりはないのです!」
つんと尖らせた唇を得意げに持ち上げて胸を張った。
良く通る、幼く黄色い声が、私の鼓膜の奥で反響した。
一度安堵した心が、急速に縮みあがる。
名乗ることで力を発揮し、その畏怖を名前に刻み込む。遙か古から天狗が行ってきた営み。それがこの幼い天狗にも宿っているということ。
ずきん、と、再び鈍い痛みを覚えた。
私は努めてゆっくりと、会話を続けようと、私の中に浮かんだ疑問を口に出した。
「じゃあ、あなたは、文と同じように風を起こすことができたりするの?」
「はい、そうですよ」
「あなたは、文と同じように写真を撮ることができるの?」
「はい、写真機さえあれば、ノウハウとテクニックは免許皆伝です」
「あなたは、文と同じように、文々。新聞を書くの?」
「はい、いつか新聞発行ランキングで一位の座を射止めて一流の人気新聞になってみせますよ!」
両の目と同じくらい丸い顔にニッコリと笑みを浮かべて、文は得意げに頷いた。
私はメモの手が止まるのも忘れて、知らずの内に文をじっと見つめていた。
文はいないのに、文がいる。文はいるのに、文がいない。
この文はあの文とすごく似ているのは認める。けれど、この文はあの文と違う、どこかではそう思っていたのに。
けれどこの文は、やっぱりあの文とまるで同じみたいで――
「……ふふふ」
文はくつくつと笑い声を漏らした。
「どうやらはたてさんはわたしの力を見てみたいようですね?」
文の両眼と目が合った。
「射命丸文を名乗るなら、それ相応の力があってしかるべき、と、そう仰るわけですね?」
ニッコリとした笑みが、ニヤリとした笑みに変わっていく。
その笑顔で、私の胸が、さぁ、と冷えるのを感じた。
待って、と一言口に出したかった。私の中を嫌な予感が広がっていく。
「いいでしょう!」
目の前の文は、宣誓するように言い放った。
「待っていました、ここからが取材の本番です。百聞は一見に如かず。一目見ただけで、立派な記事となるでしょう」
見開いた目が、朱く染まっていく。
「手加減しますから、本気で見ててください! 射命丸文の風神の威を!」
文は部屋を飛び出した。
「待って!」
わたしも後を追って部屋を駆け出る。廊下の先の開け広げられた玄関から出て行く影が一つ。
「ちょっと、お願い、待ってってば――」
突符『天狗のマクロバースト』
「きゃあっ!」
玄関を抜けると突然強い風が吹きすさび、私は思わず目を塞いだ。
「身体は小さくても、身についた力は、こうですよっ!」
周りを囲みながら、目に見えそうなほど圧を増した気流が押し寄せる。ツインテールが引っ張られそうになり、私は風圧で地面に押し付けられた。固められた姿勢のまま身動きがとれない。
「ちょっと、いきなり、何すんの、よっ――」
「自分で体験していただくのが一番でしょうから!」
目視できない上の方からちりぢりになった声が聞こえる。あまり肉体派でないとはいえ同じ天狗の私を、暴力的に制圧する風。正真正銘の『風を操る力』が耳に、肌に、目に、たたき込まれる。
「こん、のっ……!」
負けていられるか。この風圧に対抗できる術は一つ。地面にしがみついた両手でなんとかカメラを開き、レンズを上空に向ける。
「くら……、えっ!」
指の感覚だけで狙いを定めてシャッターボタンを押し、にらんだ上空に隙間ができるやいなや、そこをめがけて飛び立った。風の切り取られた空間に四方から乱れた気流が流れ込み、それに乗って私は風の檻から脱出した。
文の前に降り立つと、暴風など無かったかのように辺りは静けさを取り戻した。
「はぁ……、はぁ……」
時間にしてほんの三十秒も経っていないはずなのに、私の息は大きく乱れていた。
「どうです? まだ少しばかり馴染んでいないところもあるのですが、なかなかのものでしょう? あ、下降気流だったからスカートはめくれていませんでしたよ。そもそも周りに不埒な輩もいないようですから問題はありませんが」
文は澄ました顔で笑ってみせる。
なんでも知っているみたいに振る舞って、優越感を滲ませて、人を小馬鹿にするようなことを言って。
それがやっぱり似ているようにしか思えなくて……。
私は思わず目を逸らした。
「でも今のスペルをきちんと撮ってはくださらなかったですよねえ?」
調子づいたのか、文は目つきを鋭くした。
「しょうがないじゃない、いきなりすぎるでしょ……」
「臨機応変が肝でしょうに、そんなことでよく新聞記者が務まりますねぇ。次のスペルはちゃんとわたしの姿も撮ってくださいよ!」
「ちょっと、だから、まって――」
風神『風神木の葉隠れ』
文が団扇を威勢良く一振りすると、おびただしい数の木の葉が風の中から現れた。私めがけてなだれ込むように飛んでくる。強制的に第二ラウンドが始まる。
刃のような鋭さを持ったそれらの隙間を縫ってかわしつつ、次々に飛来する後続に集中する。大きな固まりが飛んでくるとそれをカメラで射抜いて道を開く。慎重に距離を詰めながら文に近づこうとするが、団扇から紡ぎ出される木の葉は文の周囲で一段と密度を増し、一筋縄での接近を許さない。
「ほらほらどうしたんですか? そんな暗い葉っぱ団子なんて撮ってても記事には出来ませんよ?」
挑発する声が厚い葉の弾幕を隔てて聞こえる。姿こそ見えないけれど、これだけ圧倒的な力を見せつけながら余裕を滲ませる様子が目に浮かぶ。
「こんな程度のまやかしですら突破できないなんて、あなたはそんなレベルの天狗なんですか? わたしの対抗新聞を名乗ったらしいですが、さすがにこんなんでは聞いてあきれますねぇ」
「くっ……」
視界の開けない中で私は思わず歯噛みした。
違う。そうじゃない。この弾幕を突破できないんじゃない。もう少し、ほんの少し、目の前の葉群を見極めて突っ込むことができれば、カメラと羽で射命丸の下へ辿り着いて、一撃食らわせてやれる。それが可能なのは、自分でわかっている。
けれど、それができない。
いや――この切羽詰まった状況でもなんとなくわかる――私はそれを、『できない』のではなくて、『したくない』のだ。
密度の薄い空間を飛び、葉っぱの弾幕をやり過ごす。
「ほんと、どーしようもない……」
塞がれた狭い視野の中で、私は胸のざわつきが強くなるのを覚えた。仮にこの分厚い木の葉たちをくぐり抜けて向こう側の文と対峙したとして、私はカメラを構えることができるだろうか? シャッターを押してその姿を撮ることができるだろうか? 背筋を嫌な汗が伝う。私の羽は中途半端に縮こまり、目は活路を見いだそうとするのを止めていた。
恐い。
ただ、恐いとだけ思った。 何が恐いのかわからないけれど、そう、思った。
葉群の中心から距離をとり、比較的疎らになった木の葉を避けていると、やがて時間が切れてスペルが終了した。
「どういうことですか!」
スペルを引っ込めて対峙した文は、怒りを露わにした。
「大怪我するわけじゃなし、迷うことなど何もないでしょう? 手加減してあげているのだから! 本気でかかってきてください!」
口を尖らせて腕を組み、怒らせた肩は小柄でも私を威圧して、ますます私を縮み上がらせる。
「だからいきなりにも程があるって……」
そう言いかけた私は、不意に胃のむかつきを覚えて空中にうずくまった。
「ごめん、ちょっと……」
なんか変なものでも食べたかな……。吐き気に襲われて、思考はどうでもいいことにかじりつこうとする。本当に対面しなきゃいけないものがあるのに、それから逃げるようにして。
「あんたのすごいのはよくわかったから……、もう、いいよ……」
強く目をつぶって眩暈を堪える。
無理だ。私はこの子の写真を撮ることが出来ない。
目を背けていたけれど、さっきの弾幕の中で見てしまった。自分の中の、今まで味わったことのない感覚。カメラのモニターに映して写真として一枚の平面に写すことに、忌避を覚えたのは初めてのことだった。頭が揺さぶられたみたいにくらくらする。あれほど面白いと思っていた写真撮影が。自分の見たことのないものを撮るのはあんなに楽しかったはずなのに。相対する幼い烏天狗は、格好の被写体であるはずなのに。
体験したことのない恐怖に、私は押し潰されていた。
「それは駄目です」
文はきっぱりと言い放った。
「いけません。私は貴女に写真を撮ってもらわなければいけないのです。そのためにここへ来たのですから」
「え……、どういう、こと?」
「しゃがみ込んでないでわたしの次のスペルを撮れということです!」
塞符『天孫降臨』
文のスペルの宣言とともに私は本能的に羽を開いた。『射命丸文』の名が背負うのは、速さと風。天孫降臨は射命丸文の操る風、それの究極形。私には持ちえない圧倒的な力を見せつけて、射命丸文は空にいる。適うはずがない。重い体を羽が引きずって、文を中心として巻き起こった巨大な竜巻からすんでのところで逃げ切る。
「だから、もう無理だって!」
「言い訳は無用! さあ早く、わたしを撮ってください!」
竜巻は止むことなく周囲の風を巻き込んで、刃のような気流を放ってくる。私はそれを避ける。ただそれを繰り返す。
こわい。無理。文の前では決して吐かなかったはずの弱音で心がいっぱいになる。これ以上対峙していたら、あんたの写真に撮ってしまいそうで。
かたかたと手が震えだし、私は畳んだカメラを両手で握りしめた。
「お願い……、もう止めて!」
「いい加減、こちらから攻めないとダメなんですかね?」
ぴたりと、竜巻が止んだ。中から姿を現した文は、赤くたぎった目で、こちらを見据え――
『幻想風靡』
姿を消した。
「だから、もう、やめて……」
私の掠れた声は突如巻き起こった轟音に掻き消された。先に見せた下降気流や竜巻とは比べものにならないほどの風。全方位を埋め尽くさんばかりに文が高速で飛行して弾幕をばらまく。音速を容易に超える文の速度は、烏天狗の肉眼を以てしても残像で捉えるのがやっとだ。身動きがとれず、髪も、服も、身の毛の先まで四方八方に引っ張られる。体を切るような強風の中へ必死の思いで叫ぶ。
「どうして、あんたを、撮らなきゃ、いけないのよっ……!」
「いけないものはいけないのです! 先代の遺志、わたしの預かり知らぬ、けれど全うせねばならない事なのです!」
「先代ってどういうことよ!?」
文は返答を寄越す代わりに高速の体当たりをぶつけてきた。私の右斜め後方、死角になる位置からの突撃は、この状況下でで張りつめた聴覚が無ければ避ける事はできなかっただろう。一拍の後に首筋を冷や汗が伝った。
文は本気で私を倒しにかかっている。文の『幻想風靡』は本来ならば高速で弾幕を散らすだけのスペルだ。決められた時間避けきることができれば文はそれ以上の攻撃を展開しない。散弾の密度が濃くなることはあっても、文が自ら攻撃を加えることはないのだ。
けれど、今は違う。避けきればいいなどという生易しさを吹いて飛ばすような強風を纏い、文は確実に私の身体めがけて、一切の妥協なく飛びかかってくる。
まるで、私の見たことのない、本気を出した文のように。
まるで、背負った名に宿した力を見せつけるように。
まるで、自分こそが射命丸文だと声高に叫ぶように。
うなる風音が一層強くなった。文の体当たりが少しずつ間隔を狭めて襲い来る。その度に風圧が身を薙ぎ、目に見えるほどの気流が視界を遮る。さながら暴風雨の中閉じ込めるかのように私から体力を奪っていく。
極限状況に放り込まれて限界まで研ぎ澄まされた私の五覚でも、とうとう連続の体当たりを避けられなくなってきた。文を避けながら暴風の中で必死に体勢を立て直す。
「こうなったら……」
記者の習慣が、震える両手でカメラを構えさせようとした。
「……!」
いや、駄目。
私は構えかけたカメラを両手で握りしめる。
文の写真を、撮ることができない。
だって、撮ってしまったら。あの文を撮ってしまったら――
「ほらほら何もしないんですか! いい加減撮らないと当たっちゃいますよ!」
まずい。手加減なしに、全力で私に体当たりを仕掛けてくる。もはや弾幕ごっこであることを認識しているのかさえ危うい。本気の殺意で何発も私に突撃を食らわそうとする。もし一発でも避けることができなければ……。
恐ろしい想像を振り払うのと同時に、ひときわ強い風圧が私の背後を駆け抜けた。当たってはいけない。けれど猶予も少ない。文の体当たりはぎりぎり掠って避けるのも辛いほどその速さを増している。後そう何回も避けられないことは考えなくともわかる。どうすればいい。
「あと五回!」
文は私のすねの辺りを駆けた。直撃までのカウントダウン。
「四回!」
腰の左後ろを掠る。
「三!」
右の二の腕のすぐ傍。
「二!」
左の肩口を抜け。
「一!」
カメラを構えた両手が風で押された。
零――
文のその声を聞く前に、正面から私の眼前に突っ込んでくる文の姿が見えた。スローモーションのように引き伸ばされ、文の右手の団扇が風を帯び、私に向かって振り上げられようとしていて――
指先の感覚一つ。正面に突きつけるように構えたカメラのシャッターボタンが押され、風景は一枚の画に切り取られた。
荒れ狂う風の中、残像を帯びた文がこちらへ突進してくる写真。カメラの画面からこちらを真っ直ぐ睨む文の目は翼の羽より黒く、兜巾の丹よりも赤かった。
「やっと、撮ってくれましたね」
暴風が嘘のように止み、文はその身の丈より幾分落ち着いた笑顔を浮かべていた。私のカメラは次なる被写体を求めて画面に風景を写し込んでいた。
「ありがとうございます!」
文の声で硬直が解け、顔を上げると目の前に文がいた。くっつかんばかりに顔を突き出し、肩の力が抜けたはにかむような笑顔を浮かべていた。
「撮ってくれなかったらどうしようかと思いました。手加減なしで目一杯やっても本気出そうとしてくれないんですもん。一体わたしを誰だと思っているのですか、まったく」
文は冗談めかして腰に手を当て頬を膨らませた。
だいたいこの射命丸文相手に手を抜いたままやり過ごそうっていう方がおかしいんですよ。幻想郷最速とはこういうことだ、って身をもってわからせるのも骨が折れるっていうのに。あきらめて最初から本気でかかって来てくれれば余計な労力がかからなかったんですよ本当にもう……。
文が饒舌に語る言葉は私の上を素通りしていった。
「聞いてますか? ねえ?」
文はこちらを振り返った。
その瞬間、私の中で何かのスイッチが入る音がした。それは思考を回転させるスイッチだったかもしれないし、押し潰されまいと硬直していた感情を再び動かすスイッチだったのかもしれない。
振り向いた文の顔が視界に入って、カチリと音がした。
その後、何をどうしたのか自分でもよくわからない。何がしたかったのかすらよくわからない。いや、わかってしまうのが恐ろしかったのかもしれない。ただ必死に声を押し殺して、涙を一滴もこぼすまいとだけ思っていた。一目散に文の傍から離れて、方向など考えもせず無茶苦茶に飛び出した。
新しくやってきた文の姿を、写真に撮りたくなかった。それは単に、嫌だったからだ。
撮影には、その目で見た風景を一枚の平面に切り取るという行為には、単なるそれ以上の意味がある。
景色を映し込んだ写真は、見た者の中にその景色を浮かび上がらせる。
写真に撮られなければ誰にも知られずに消え去っていく一瞬を手放さぬよう残すことができる。
あやふやな記憶の中で、掬った手から零れ落ちる砂粒のように消えてしまう瞬間を、少しでも繋ぎ留める。
それを叶えるために、写真を撮る。
どことも知らない上空を一心不乱に飛びながら、私の前を飛ぶ私より速い者がいないか探した。念写ばかりして何も思うところを持たなかったかつての私を諭してくれたのは、他でもないあの背中だ。白いブラウスから突き出た一対の黒翼は、私の方を見もせずに、何も言ってはくれなかったけれど、何よりも雄弁に語っていた。
そのとき、そこにあるもの。一瞬の後には二度と同じ姿を見せないそれを記憶に留めるために、写真を撮るのだ。
だから、私は今の文を写真に撮ることができない。できなかった。できないのだ。
文を撮ってしまったら、それが事実として残ってしまうから。私が今の文の存在を認めてしまうことになるから。昨日までのあの文が、もうここにはいないのだということを、認めてしまうことになるから――
烏天狗のくせにさして速くもない羽で一直線に飛び、少しでも思い当たるところを見て回った。人里、竹林、無縁の塚、太陽の畑、麓の神社、そこにいた者に声をかけて、幾度も尋ねた。
射命丸文が、どこに行ったか知らないか――
山に戻ってきた。文がどこに行ったのか、知っている者はいなかった。どうせくだらないネタを探しに行って、思い出した頃にまたやって来るんだろう。尋ねた皆は口を揃えてそう言った。麓の沢を通って見つけた河童に訊いても同じだった。本当に良くわからない方だ、と。
気が付いたら山の中腹の大滝が流れ落ちるところまで戻ってきており、迫る夕暮れに水飛沫もろとも朱く染まっていた。
滝を見上げる。霧のようにかかる飛沫の中で、その流れ出る先が霞んで見えた。
ここは、私と文が勝負した場所だ。後にも先にもこれきりの、お互いが被写体の撮影勝負。烏天狗の、同じ新聞記者として、お互いの新聞の名に懸けて、私は、確かにこの場所で文と真剣勝負をした。滝の高いところを見下すように飛ぶ文に、ひよっことからかわれ、引きこもりと馬鹿にされ、記事なんて誰も読まないと言われても、それでも私は食い下がった。最低の記事が載った新聞なんて要らない。誰もが記事まで読むような新聞を作って、あんたの対抗新聞になってやる! お互い対抗新聞同士になって最強を目指すよ! ――
大声を張り上げて、駄々をこねる子供のように、そう言ったのは自分でも良く覚えている。
なぜなら、振り向いてほしかったから。
率直に、認めてほしかったから。
どこまでも遠くへ行って世界を切り取ることのできるあんたが、素直に、うらやましかったから。
その飛んでいく先に、ちょっとでも、追いついてみたかったから。
私が飛ぶのは、あんたが目の前にいたから。
私が飛べるのは、あんたがいるから。
だから、お願いだから――
「帰ってきて……」
飛沫に濡れそぼる中で、両の頬が熱くなるのを感じた。顎のあたりが冷たいな、と思ったら、それは涙が流れているせいだと気付いた。夕陽の残照に照らされた視界が、橙色に歪んだ。
「はたてさん」
背後で声がした。振り向くと、沈む夕日の方を見ながら私に背を向ける小さな影がひとつ。表情は窺えない。黒く染め上げられた天狗装束から、それよりも黒く光る黒翼が突き出て、まぶしく朱に染まっていた。
「射命丸文はもういません」
文は呟いた。今日のおやつは美味しかった、とでも言うみたいに。
そんな軽い言葉が、私の体の中を幾度も反響し、染み渡っていく。
きっと、私のことなど、全部お見通しなのだ。
射命丸文は聡いから。射命丸文は速いから。
射命丸文は、私のライバルだから。
泣き顔を、見られたくないな、と思った。
「けれど」
文は一度言葉を切った。
滝の流れ落ちる音だけが辺りを包み込んだ。文の背中を見つめる。夕日に照らされた一対の翼を、目に染みるような強さの光を、目に焼き付ける。涙が流れ続けたまま、私はその背中が振り返るのを見た。逆光の中でも、飄々とした、どこか澄ましたような顔は、無性に懐かしくて――
その口は確かにこう言った。
「射命丸文は、ここにいますよ」
* * *
夢を見た。
ぱりっとした白いブラウスに、地味な黒いスカート。赤い兜巾に白い房をぶら下げて、全体的に洒落っ気のない格好。私と同じくらいの目線で、文は静かに笑った。声を出さないその微笑に、私は訊いた。
なんとか言いなさいよ。
いつもなら間髪入れずに言い返す文は、困ったように眉を下げ、肩をすくめるばかりで。そうか、あんたいなくなっちゃったんだっけ、と思い出した。自分のことながら忘れっぽくて困る。
そうよね、いなくなっちゃったんだから、しょうがないよね。もう新しい文も来ちゃったからね。あんたが戻ってくるわけにはいかないわよね。新しいあんたも、あんたに負けず劣らず生意気なんだから。迷惑かかる分は全部貸しにしとくからね。覚えときなさいよ。ていうかこっちは準備もできていないのにいきなり弾幕勝負させられたんだけど。文はちゃんと自分のことしつけときなさいよ、これも貸し一つだからね。
あと他にも言っときたいこといっぱいあるんだけどさ、いや、あんた絡みのことなんてくだらないことばっかりだから言いたいことなんて無いかもしれないんだけどさ……。
ああもう、何言おうとしたか忘れちゃったじゃない。文の馬鹿。大馬鹿。こっちの言いたいことまで忘れさせるなんて嫌がらせもいいとこよ。忘れられるのなんてあんただけで十分、もう文のことなんて忘れてやるから、絶対覚えといてなんかやらないから。もう新しい文の写真撮っちゃったし。『新たな射命丸来たる』って記事書いて号外にしてやるんだから。みんなあんたのことなんか忘れて、あの子が新しい文になるんだからね、あんたなんかどこにでも行っちゃえばいいわ。
そうよ、私は新しい文の写真なんて撮りたくなかったのよ。だって、写真を撮っちゃったら、、あの子のことを私が認めちゃうことになるじゃない。写真を撮らなければ、もしかしたら何かの手違いで間違えて出てきちゃったあの子がもしかしたらごめんなさい手違いでしたって言ってどっかに帰ってくかもしれないじゃない、そしたらあんたが帰ってくるかもしれないじゃない。写真を撮らなければまだあんたがどこかにいるって信じ続けられたじゃない。
でも、あの子の写真撮っちゃった。私が新しい文を撮ったから、新しい文は世界の一部として認められた。私がそう認めた。古いあんたはもうここにはいられなくなった。私が古いあんたを山にいられなくした。私があんたを山から追い出したのも同然なのよ。写真を撮るっていうのは、真実を切り取るっていうのは、そういうことよね。ねえ、新しい文は写真を撮れ撮れって言ってきたけど、あんたはどうだったの。私は、あの子の写真を撮って良かったの。
……あんまり怒ってないみたいね。さっきからずっと黙ってるけど。悲しいとか寂しいとか思わないわけ。あんたいなくなっちゃうんでしょ、こわくないの。私のせいでいなくなっちゃうのよ、嫌でしょそんなの。ちょっとは何とか言いなさいよ。速く飛びすぎて感覚が馬鹿になっちゃってるんじゃないの。ちょっとは動揺したらどうなのよ、余裕ぶってるだけなんでしょ、ここまできてやせ我慢してるとか頭おかしいんじゃないの。これじゃあ私がアホみたいじゃない。あんたは物知り顔でそそくさいなくなって、何も知らなかった私が置いてけぼり食らうだなんて。ずるい、不公平よ。あんたも少しくらい慌てたらどうなのよ。お利口ぶってないで、いやだとか、もっと生きたいとか、まだやりたいことが残ってるとか、なんとか言ったらどうなのよ!
文はずっと柔らかい微笑を浮かべていて、時折しょげたような苦笑いをした。まるで、子供が駄々をこねるのを見守る母親のような笑みで。
文は、ゆるゆると首を横に振った。
しょうがない。
無言で語りかけるような、そんな笑みだった。これでいいの、と。
しょうがない、これでいいの。
私の中に染み渡っていく。文の、無音の言葉として。
しょうがないなら、しょうがない、か。
本当は薄々わかっていたんだろう。気付きたくなかったんだけど、気付いてしまったら、しょうがない。文は全部をわかっていた。わかって、全部を受け入れた。これでいい、って、静かに笑いながら。
やっぱり、文にはかなわないなぁ。
文、と、私がもう一度呼びかけると、文は一歩下がってくるりと踵を返した。その背中には、見慣れた黒い烏天狗の翼が広がっていて。
ばさり、と音をたてて、文は飛び立った。
たぶん、振り返りはしなかったと思う。
* * *
目を覚ますと、私は毛布をかぶってベッドの中にいた。
「むぐ、ふあぁ……」
大きなあくびを一つ。伸びをしようと毛布から腕を出すと、枕元で肘が何かに当たった。なんだろう、と思って見ると、柔らかいそれは同じベッドで眠る幼天狗の顔だった。文は穏やかな寝顔で、すぅ、すぅ、と息をたてている。私がぶつかったからか少しむずかるそぶりを見せたが、また元の通り静かな呼吸に戻る。起きる気配はない。
私は、布団の中で短く縮こまらせた文の手に、そっと自分の手を重ねた。じんわりと温かさが伝わってくる。子ども独特の体温だ。
手をさすりながら、そういえばあっちの文は手先が冷たかったな、と思い出した。この子の手もいずれ冷えていくのだろうか。カメラを構え、ペンを握り、風を切って空を飛び、温かさを手放していくのだろうか。
「文……」
この文とあの文は、やっぱり同じ道を辿るのだろうか。この子の背中の黒い羽は、一体どこへ向かうつもりなんだろう。同じ空を目指すのだろうか、それとも、違う空を目指すのだろうか。この子の目には、どんな景色が映るのだろうか。
昨日の撮った写真を思い出す。幼い体に流れる烏天狗の血。この子に秘められた『射命丸文』の名前、力、謂われ。
昨日の言葉を思い出す。
『射命丸文は、ここにいますよ』
殊勝げに、飄々と浮かべる、澄ました笑み。
烏天狗の射命丸文は、今度はどんな世界を見るんだろうか。
「文……」
私はもう一度呼びかけた。文はむにゃむにゃと口を動かして、気持ちよさそうに眠り続ける。丸い寝顔は難しいことなんて何一つ考えていなくて、何の気負いもしょい込んでいないように見える。
そんな文を見ていたら、いてもいられなくなって。
文の背中に腕を回して、文を抱きしめた。
「文……」
文の見る世界を、私も見てみたい。
この文は、あの文なのか。そんなこと、わからない。
けれど、私はあの文と同じように、この文が見ていく世界を、見てみたい。
まだ、もう少しだけ、あんたのそばに、いるからね。
二人の体温で暖められた布団の中で、すやすやと眠る文の吐息を感じながら。
私は目を閉じて、文を抱いたままもう一眠りすることにした。
結界張られてから一度も行われず、すでに忘れ去られてるような慣習が、どうして守矢組という活力溢れる勢力がやって来た直後に実施されるんだろう?
後半は好きだっただけにちょっと気になってしまいました
ただちょっと文ちゃんが万能過ぎたかなぁ。あくまで他人って路線でいくならここまでしなくてよかった、というか素と役割が変わらん。せっかくようじょ転生(?)設定だからもっと生かしてよかった。
これからも期待しております。
作品としては面白いのに行き当たりばったりでした。
しかし、新たな種を取り入れなければならないってことは、この作品の天狗には繁殖能力がないってことなんでしょうかね。そこが良く分からない。
色々設定の面で難はありますが、初投稿でこれくらいのものが書けるなら上等だと思います・・・少なくとも自分よりは。
何というか、まだ全体的に書き慣れていないように感じました。