澄んだ春の空から降り注ぐ太陽光が、森の枝葉を抜けて木漏れ日を落とす。
鳥獣はさえずり、水は清らかで、はつらつとした生気に溢れている。
ここは、玄武の沢の外れに広がる森の一角。
人間の手も妖怪の手も入らない、自然の姿を留めるこの場所に、”それ”は大きな違和感を伴って存在していた。
「神奈子様、こちらです」
空を覆うように広がる木々の枝葉の間から、二人の影が降りてくる。
一人は、守矢神社の風祝、東風谷早苗。
それに続いて緩やか着地してきたもう一人は、守矢が一柱、八坂神奈子だった。
「あれですね。随分と錆びてしまっていますけど……」
早苗が指差して、神奈子に示しているその先には、森の雰囲気に沿わない不思議な物が鎮座していた。
端的に言えば、それは赤く錆びた鉄の塊だった。
横には大きな円盤がいくつもあって、それを囲うように帯状の物が巻きついている。その上には平底の鍋をひっくり返したような物体が乗り、さらに上面に鉢巻型の円環を広げていた。
全長は五メートル半程度で、全高と全幅は二メートルに及ぶ。全体を赤銅色の錆が覆い尽くし、古びたモニュメントのような雰囲気が漂う。
「おや、守矢神社の皆さん。その節はどうも」
「あ、ども」
「こんにちは。いつもお世話になっています」
着陸地点の近くにいた射命丸文は、降りてきた早苗たちを認めると、慇懃に会釈してきた。
その後ろにいた姫海棠はたても慌ててそれに続き目礼する。二人の挨拶を受け、早苗が丁寧にお辞儀を返す。
鴉天狗の二人はすでに先客として訪れていたらしい。
「神様まで連れて、わざわざこんな場所に来るなんて……やっぱり、目的はあれ? なんなのかしらね、ホント」
はたてが振り返ってツーテールを揺らしながら、ペン先で錆びた塊を示した。
鴉天狗の二人は新聞記者だ。
謎の錆びた塊について調べていたが、その正体がわからず途方に暮れていたのだった。
「あなたたちには馴染みがないでしょうね。早苗、これはあなたの言う通り、戦車よ」
「やっぱり! そうでしたか!」
錆びた塊に神奈子が歩み寄り、赤くざらざらとした表面を撫でる。
無邪気に喜ぶ早苗とは対照的に、錆びた塊を見つめる神奈子の表情は、どこか陰があった。
「戦車っていうと、昔の戦争で中国やローマが使ってたヤツ?」
「あなたの言うそれは、チャリオットという戦闘用の馬車でしょう。同じ戦車でも、これはタンクと呼ばれる、機械動力の兵器です」
疑問符を浮かべるはたてに、振り返って神奈子が答える。
「へぇ、タンクか……水槽みたいな名前ね。それにしても、機械動力の大型兵器だなんて、私ったら凄いもの見つけちゃったんじゃない?」
「よっぽど嬉しかったのね、はたて」
「そりゃそうよ。自分の翼で見つけたスクープなんだから……」
「確かはたてさんが、最初に見つけたんですよね?」
「そうよそうよ! 凄いでしょ!」
はたてが嬉しそうな表情を浮かべて自慢げに語る。その様子を、不出来な後輩を暖かく見守るような目で文が眺めている。
新聞のネタを探すために、文のように各地を飛び回って調べた帰途で、この赤錆びた塊を見つけたのだという。
そのことを、はたては自ら言いふらして回り、それが早苗の耳にも入ってきたのだ。
「ここに流れ着いたのはごく最近ね。履帯が切断されてるけど、外傷は少ない。これなら……」
はたてたちを尻目に、神奈子は戦車を観察した。
赤錆びた車体は年月を感じさせたが、ツタや葉が這うなどといった自然の侵食を受けていなかった。それどころか、まだ青い草地を下敷きにしている。
最近この場所に流れ着いたという推察は、間違いないだろう。
管理を放棄された鉄塔が幻想郷に現れたという話を神奈子は聞いたことがあった。同じように、この戦車も忘却の果てに幻想の一部となったのだろう。
「ねえねえ、この戦車について詳しそうだけど、他になんか知ってる?」
手帳を広げ、その前でペンを構えたはたてが問う。
神奈子が仔細な情報を握っていると確信して、取材攻勢に入ったようである。
「タンクには色んな種類があるけど、これは九七式中戦車……通称『チハ』と呼ばれるものね。七十年ほど前、第二次世界大戦で帝國陸軍が使った戦車よ」
「そのてーこくりくぐんってヤツは、世界を股にかけて戦ったってこと? どこだか知らないけど、ずいぶん派手なことしたわね」
「おそらく日本のことですよ」
「え、ていうことは、それってだいにっぽんてーこく? 新政府も思い切ったことするなぁ」
はたてが鳶色の目を瞬かせ、早苗が複雑そうな表情を見せる。
「昔の日本の戦車……」
早苗は呟き、「チハ」と呼ばれた戦車の残骸を見つめた。
彼女にとって戦車と言えば――当人は正式名称を知らないが――外界で陸上自衛隊が運用する九〇式戦車や七四式戦車だ。
大砲と思われる筒は短く、車体も小ぶり。
「チハ」と呼ばれたそれは、自衛隊の戦車と比べて、随分と頼りなさげに見えた。
「それで……神奈子様、本当にこれ、動かせるんですか?」
「動かす?」
「そんなことできんの? 錆でボロボロなのに……」
錆びた戦車から視線を戻して、早苗が神奈子に確認する。
実は、彼女らがここに来たのも、早苗から錆びた戦車の話を聞いた神奈子が、動かせるかもしれない、と言い出したのがきっかけであった。
これには鴉天狗二人も驚いた様子で、神奈子と「チハ」を等分に見て、疑問を呈した。
「もちろんこのままでは無理ね。だけど、原型は留めているし、修理すれば再び走れるようになるわ」
「……そうなると、記事もインパクトのあるものになりそうですね」
「よみがえる外界の機械兵器! ……これは部数取れそうね!」
胸の前で腕を組み、自信ありげに神奈子が笑む。
文とはたては互いに顔を合わせて狼狽したが、その影響力を皮算用すると、すぐに歓迎してきた。
このまま、名も知らぬ、故も知れぬ、では記事が寂しくなると思っていたのだ。
「私はこれを博麗神社の境内まで運ぶから、文とはたては外界の兵器に興味を持つ河童を何人か神社に連れてきてもらえないかしら?」
「守矢神社ではなく、博麗神社ですか。構いませんが、その代わり、取材の時にはご協力をお願いします」
「あ、私も私も!」
「ええ、いいわよ」
取材の約束を神奈子が快諾すると、二人の天狗は競うように飛び去ってしまった。そのあとには、一陣の風が吹き抜けたように、はらはらと若葉が舞い落ちた。
「早苗は麓の神社に行って、博麗の巫女に助力を頼んできなさい」
「霊夢さんを……。もしかして、また他の神様の力を借りるのですか?」
早苗が疑問に思って尋ねる。博麗の巫女こと、博麗霊夢には神様の力を借りる術がある。
前に一度、その術を頼みにして、神奈子は巫女に助力を求めたことがあった。
「パラジウム合金を作ったときみたいに、金属の神の力を借りるの」
「金属の神様……。なるほど、それならあの錆びも!」
得心が行ったように早苗は表情を明るくし、すぐに麓の神社目指して飛び立とうとした。だが、寸前で神奈子に呼び止められる。
「ああ、待ちなさい早苗。どうせあの巫女のことだから、ただ協力を求めても渋るでしょう」
「それは……そうですね」
霊夢は基本的に怠け者だ。自分の利益にならないことを嫌がる。
パラジウム合金の生産を依頼した時も、その場にいた仙人の口ぞえがなければ協力してくれなかったかもしれない。
早苗はその時のことを思い出して、説得するにはどうしたらと、思案する表情になったが、神奈子はその解決策も用意していた。
「だから、こう言っておきなさい」
神奈子の助言を聴き、早苗は不思議に思ったようだが、「わかりました」と告げると飛び立った。
それを見送ったあと、神奈子は神通力で「チハ」を浮遊させ、ともにゆっくりと高度を上げていく。
千切れた履帯が「チハ」から垂れて、青空に靡いた。
◇
鎮守の杜を貫く石段の坂を辿り、その頂上にある博麗神社の姿を認めると、神奈子はそこに向かいながら飛行速度を緩めた。
まず、千切れた履帯が境内の地面に垂れ、次いで車体が降りる。
「チハ」の装甲には無数の弾痕が穿たれ、履帯もひどい有様だが、それ以外に目立った損傷はない。
(大丈夫、これなら元通りにできる)
確信を抱きながら神奈子が「チハ」を見ていると、複数の話し声が近づいてきた。
めいめいの声の主は、先ほどの天狗と、連れてこられた河童たちだった。神社の巫女より先に見えるとは、本当に天狗の行動は早い。
「よっと、こんにちは。機械修理の依頼で間違いないね?」
「ええ、その通り」
「……私たちの技術力は保障するけど、それはもはや機械と呼べるのかしら?」
「まあ、待ってなさい。今、巫女が来るから」
数人の河童を代表して挨拶したのは、河城にとりという、神奈子たちとも付き合いのある少女だった。
しかしその声音には、疑わしいものが混じる。本当に修理できるのか、と言いたげだった。眼前に鎮座するそれは、見た目には巨大な錆びた塊にしか見えないのだから、無理もない。
そんな河童の不安とは裏腹に、神奈子は泰然と構えている。
「おや、博麗の巫女ではないですか。聞く限り、彼女の力も必要らしいですね」
言いつつ、ぱしゃり、と文が一枚写真を撮る。
横長のファインダーの向こう側には、神社の裏手から早苗が霊夢を連れ出してくる様子が伺える。
「なぜ守矢神社のほうに呼ばないのかしら?」
「あのねぇ、はたて。巫女を山に呼んだら警備がうるさいわよ。それとも、あなたも巫女の迎撃をやってみる?」
あきれた調子で文が言うと、はたてはむっと頬を膨らませた。
早苗と一緒に歩み寄ってきた霊夢は、不審と不機嫌をない交ぜにしたような表情を浮かべながら、神奈子たちをねめつける。
「神奈子様、霊夢さんを連れてきました」
「まったく、人が気持ちよく昼寝してたら、突然やってきて神様を呼び出せなんて言い出すし、よくわかんないガラクタは持ってくるし、妖怪をぞろぞろと引き連れてくるし……」
開口一番、霊夢は不満を漏らした。
下手をすればいきなり針やら札やらを取り出しかねない剣呑な雰囲気で、にとりが連れてきた数人の河童がたじろぐほどだったが、その視線はじっと「チハ」のほうに向けられた。
「あんたのいう戦車って、それのこと? 本当にそんなのを蘇らせて、神社に飾ったら参拝客が増えるの?」
「今までの幻想郷には影も形もなかった代物よ。集客力は保障するわ」
疑問を投げかける霊夢に、神奈子は答える。霊夢は早苗から、「チハ」を修理すれば、お披露目したあとに博麗神社で展示する、という見返りを約束されていた。
それは、神奈子が早苗へ霊夢を説得する口実として持たせていたものだった。
守矢神社は妖怪の山の上にあり、交通の便が悪い。しかも山は天狗の縄張りだ。常温核融合の公開実験を行ったとき、より多くの聴衆を集めるべく、博麗神社の敷地を借りた前例もある。
「しかし、良いんですか? この場合、参拝客はほとんど霊夢さんの神社に取られてしまいますけど」
「良いの良いの」
「そうですか……神奈子様がそうお考えならば」
早苗が神奈子に歩み寄り、霊夢を横目で見ながらそっと耳打ちした。
参拝客が博麗神社に集中し、信仰を得られる量が少なくなるのではないか。
「チハ」の修理を信仰獲得の方法と捉える早苗にとって、神奈子の意図は計りかねる。
(きっと、神奈子様には別の思惑があるのでしょう)
そう考えて、早苗はそれ以上追求しなかった。
「私は、参拝客が増えるってんなら何でもいいわ。じゃ、始めるわよ」
霊夢は「チハ」に歩み寄ると、目を瞑り、お払い棒を躍らせながら印を結び始めた。
正規の方法ではないが、神の力を借りる儀式だ。
「チハ」が、砂のような細かな粒子に変貌した――と思った直後、すぐにまたもとの形に戻っていく。そうして一瞬の出来事のあと、「チハ」は真新しい姿になっていた。
金山彦命の力を借りて、「チハ」の金属を再構成したのである。
「あいつの見よう見まねでやってみたけど、上手くいったわね」
印を解き、お払い棒を肩で支えながら霊夢が言う。成功したのに、少し複雑そうな表情だった。
「なるほどねぇ……でもこれって、私達の仕事は残ってるの?」
「心配はいらないわ。戦車は複雑な機械だから、まだまだ細かい作業が必要なの」
金山彦命の力によって錆びが取り除かれたとはいえ、これで「チハ」が動くわけではない。
細々とした整備点検は必要だし、欠落していたり、破損している部品は作り直さなければならない。
どうしても幻想郷随一の工業力を持つ河童の助けが必要となる。
「錆びた姿も趣ありましたが、こうして本当の姿になると、なかなかどうして、格好良いですね」
「よし、これで花果子念報の一面にいい写真が載せられるわ!」
フラッシュが瞬き、カメラの作動音が鳴る。
文とはたてはカメラと携帯電話を構え、かつての面影を取り戻す「チハ」の撮影を始めていた。
とくに、はたては第一発見者として、「チハ」を見る表情がほころんでいる。
「昔の日本に、こんなものがあったんですね……」
呟いて早苗は「チハ」に歩み寄り、装甲の表面に並ぶ尖頭ボルトの間に指を這わす。
でこぼことした真鉄の感触が伝わってくる。
神霊が大量に現れたときの異変に影響を受け、歴史を学びなおした(ただし小学校の教科書で)身としては、七十年前とはいえ、こうして過去の遺物がよみがえる姿に感慨深いものを覚える。
昔の姿を取り戻した「チハ」は、いかにも兵器的で冷たい迫力がある自衛隊の戦車と違って、どこか愛嬌があった。
「神奈子様、他に私に出来ることってありますか!?」
「うん、ない」
「わかりました! 何なりとお手伝いを……って、え?」
「ここからは危険な作業になるわ。早苗は参加させられない」
懇願するように視線を送る早苗だったが、神奈子の意思は変わらない。
神奈子も、決して意地悪で言っているわけではない。
だが、作業には危険が伴う。
例えば、「チハ」には機関室の断熱材としてアスベストが用いられており、人間が誤って吸引すれば健康に害を及ぼす可能性があるのだ。
「作業には、どれくらいかかりますか?」
「うーん……この人数だし、数ヶ月は見たほうがいいわね」
「結構かかりますね?」
「まずは念入りな点検が必要だし、必要に応じて部品も作らなければいけないし、思った以上に骨の折れる作業になりそうよ」
文の質問に横目で「チハ」を見やり、神奈子が言う。つられて早苗も「チハ」に目を向けながら、思案する表情になる。
と、ひらめいた、と言わんばかりの表情で早苗が手を叩いた。
「あ、そうだ! もしかしたら同じ戦車が幻想郷に流れ着いているかもしれませんし、それがあれば、さっきみたいに戻してニコイチ修理とか出来ませんか? 少なくとも、部品取りには使えるかもしれません!」
「それだったら、霖之助さんのところを尋ねてみるのもいいかもね。香霖堂にはよくわからない外の世界のガラクタがたくさんあるし……」
「命蓮寺の妖怪さんに頼むのもいいかもしれません。確か、探し物を探す能力を持っていたはずです」
途中で霊夢も口を挟む。早苗も良案が続けて思い浮かび、嬉しそうに笑った。
普通の少女にはなかなか思いつかない発想だ。
だが、神奈子は首を横に振って否定する。
「残念だけど、それも難しいと思うわ」
「え、ええ、なんでですか?」
狼狽する早苗に、神奈子は説明する。
当時は工作機械の精度が悪く、規格も統一されていないので、工業製品の品質が不安定だった。
工場が違えば、ネジの寸法も違う。
そんな有様なので、例え同じものがあったとしても、部品を流用するのは困難なのだ。
「チハ」だけではない。
戦前戦中の日本製兵器とは、小は拳銃から大は軍艦まで、そういうものであったという。
「んー……よくわかんないけど、結局、時間はかかりそうなのね。まぁ気長に待ってるわ。それにしても、七十年前の兵器ねぇ。七十年前は、まだ外の世界でも戦争をしていたのかな」
外界の過去に話が及んで、いよいよ理解が追いつかなくなった霊夢は、もう用が済んだとばかりに神社の裏手に戻っていった。
元々、降って沸いたような話であるし、約束が履行されるのならば急く必要はないと感じたのだ。
いっぽうで、早苗は衝撃を受けていた。
日本といえば、世界的にもトップクラスの技術力を持つ国だ。そう教わってきたし、テレビのニュースや新聞もそう報じていた。
しかし、神奈子が話す当時の日本の姿は、まるで違っている。
当時を生きて体験してきた者との、大きな認識の壁を感じてならなかった。
「わかりました……。私では手に負えないようなので、神奈子様に全てお任せします。でも、何か力になれることがあったら言ってくださいね」
自分の無力さを感じた早苗は、残念そうに言った。
肩を落として神社に去っていく早苗の背中に、神奈子は心が痛む想いだった。
しかし人間の早苗に、危険を伴う作業はさせられない。
彼女は神奈子にとって、己を祀る風祝というだけでなく、家族も同然の存在なのだから。
「うわっ、まるで埃の海……」
物音と話し声が聞こえ、神奈子は「チハ」に視線を戻す。
見れば、河童たちが興味津々といった様子で「チハ」の天蓋を開放して車内を調べていた。
その目は一様にらんらんと輝いている。まるで新しい玩具を与えられた子供だ。
ダム建設のときのように河童任せにするのではなく、修理を直接指導していく必要があるだろう。
「そうそう、チハについて、知っている逸話があったらじゃんじゃん教えて」
「良質な記事にするためにも、関係者の証言は不可欠ですからね」
「あんたの場合は、紙面が寂しくならないように字数を水増ししたいだけでしょ」
「失敬な。私だって、たまには記事の内容に拘りたいの。それで行間を埋められるのなら言うことないけど」
憎まれ口を叩きあう文とはたてだが、もちろん本気ではない。馴染みの友人と交わす冗談の類だ。
「まあまあ、構わないわよ。メモを取っておきなさい」
はたての頼みを快く引き受け、「チハ」に群がる河童たちに声をかけながら、神奈子はその中に加わっていく。
その後は、修理の音がうるさいという巫女の苦情、河童の交通の便、保守管理の容易さなどから作業場を守矢神社の近くに移し、修理が続けられた。
「チハ」の修理が完了するのは、それから実に三ヵ月後、暑さ絡む文月の頃であった。
◇
この日、人間の里では夏祭りが行われていた。
とくに由緒ある祭りではなく、疫病封じや農事の労わり、といった行事が複合した催しであった。
大通りには屋台が立ち並び、建物は提灯をぶらさげて飾られている。まだ日も高く、明かりは灯されていないが、夜になればきっと華やかだろう。
余興の浪花節や人情芝居も上演され、醸成されたにぎやかな祭りの雰囲気に、人々の表情は明るかった。
そんなときだった。活気の片隅から、悲鳴のような叫び声がつんざいたのは――。
「門が破られて、大きな妖怪が入ろうとしている!」
その知らせを受けて、真っ先に現場に急行したのが、人間の里で寺子屋教師をしている半人半獣の上白沢慧音だった。
花柄をあしらった浴衣を着つけ、人間たちと一緒に祭りを楽しんでいた彼女だったが、すわ一大事かと、文字通り飛んできたのだ。
しかし現場の手前に到着して間もなく、何か様子が変だと気付く。
「変だな。門が破られたと言われていたが、壊れた様子はない。どういうことだ?」
門は大口を開けて開放されていたが、無傷で破られたようには見えず、慧音は不思議に思った。
しかし、何か巨大な影が進入してくる様子が見えて、思考を打ち切って備える。
影は、地鳴りのような音を立てて進み、猛獣の唸り声のような重低音を震わせていた。周りには、生木を燻したような白煙がたゆたっている。
じょじょに影の姿がはっきりしてくると、それは全身を鉄で鎧った大型肉食獣のようにも見えた。
「これが妖怪だと……?」
だがそれは、妖怪どころか生物ですらなかった。
前方を見つめて自問しながら、慧音は冷静に混乱を整合していく。おぼろげながら状況を飲み込めたとき、慧音は思わず呆然として、力が抜けた。
もしものためにと佩いていた一振りの剣が、手から滑り落ちて甲高い音を立てた。
「おい! 守矢の! 人里にいきなりこんな大きな自動車を乗りつけてくるとは、非常識だろう!」
慧音が大音声を張り上げて叱咤する。
実物を見るのは初めてだが、慧音には眼前の自走する鉄の塊が”自動車”の一種だと判ったし、その持ち主が誰なのかも、即座に理解した。
かすかに白煙が晴れて、その自動車の側面に「守矢」の二文字が大書されていたのが見えたからだ。
呼びかけに応じるように”自動車”の天蓋が開放され、そこから神奈子が身を乗り出してきた。
「これはただの車ではなく、戦車『チハ』よ。皆々の協力のお陰で運転可能な状態になったから、感謝の気持ちを込めて、サプライズとして出してみました」
辺りを睥睨し、神奈子は得意そうに笑む。その様子からは、感謝の気持ちなど感じられない。
だが、皆々のお陰、という言葉は嘘ではない。「チハ」の修理を始めると、守矢神社は菜種油や廃油などを人間の里から集めるようになった。その目的は「チハ」のディーゼルエンジンを動かすためのバイオディーゼル燃料を作ることにあった。
「チハ」自体もバイオディーゼル燃料に適応するため、噴射系や燃料フィルターが小改造されている。
「なにがサプライズですか。まったく、人騒がせな……」
「ところで、あなたは寺子屋で歴史を教えているそうね。『チハ』……いや、戦車を知らないの?」
あきれて溜息混じりに呟く慧音に、神奈子は唐突に聞いた。
「戦車といえば、大陸方面で戦争や競技に使われたという馬車の一種ですが……。
……いや、そういえば、外の資料に書いてあったのですが、欧州の戦争で新たに開発された機械兵器も、また戦車と呼ばれていたとか。もしや、これがそうなのですか」
しばらく慧音はチハの車体をなぞるように見つめると、正直に答え、神奈子に尋ね返した。
「ご明察。この『チハ』は、七十年前に日本が作り上げた機械兵器の戦車です」
「これを日本が……。寡聞にして、存じませんでした。しかし七十年前といえば、すでに博麗大結界が成立していますから、そのときの外のことは私たちにはわからないのですよ」
博麗大結界が成立したのは百年以上も前のことである。
江戸の世も終焉を迎え、明治維新と文明開化が始まろうとしていた。そんな時代に結界は作られ、幻想郷は外界と隔絶された。
それ以降、外の世界から得られる情報は、ごく限られている。
結界があるとはいえ陸続きなので、稀に結界の綻びから人や物が流入してくることがあり、そこから得られる情報だけが外を知る唯一の頼りであった。
「寺子屋でも歴史を教えるとき、結界成立後は『幻想郷史』のみが語られます。もし、『日本史』や『世界史』を教えたいと思っても、資料が少なくて困難ですから」
「外界の歴史を知ったところで役に立つのか、という認識もあるでしょうね」
「はい、その通りです。なにしろ大多数は、一生関わることがありませんから」
そのとき、慧音の後ろから群集のざわめきと話し声が聞こえてきた。振り返って見れば、人々が遠巻きにこちらの様子を見つめている。
群集の中には、早苗もいた。身振り手振りを交え、「チハ」を指差して人々に何かを伝えている。
実は、早苗は「チハ」が衝撃的な登場をしたあと、人々を落ち着かせて事情を説明するように神奈子に言われていたのだ。
「ありがとう。……やはりここは、あの時代を知らないのね」
「チハ」の天蓋の上から慧音にそう言うと、神奈子は戦闘室内の操縦手に向かって、
「時速二キロ、前進よ。その後、群集の十メートル手前で停車して」
と、ディーゼルエンジンの音に負けないように言った。
「チハ」は人間がゆっくりと歩くような速さで前進を開始し、また群集がざわめいた。
神奈子は群集に向かってなだめすかすような身振りを交えつつ、格調高い弁舌を奮い、高らかに見栄を切る。
「これをみて驚愕し、我を崇めるが良い!」
◇
夏の夜も深まり、青い月明かりが守矢神社を染めていた。
そこに、神奈子と早苗が降りてきた。早苗は疲労の色を見せていたが、その表情は明るく、達成感に満ちている。
「今日はいっぱい信仰が集まりましたね!」
「早苗も、ご苦労様」
「えへへ……今日は本当に疲れました。先にお風呂入って休ませていただきます」
達成感にあふれた微笑を神奈子に向けると、早苗は神社の裏から中へ入っていった。
神奈子はおもむろに携えていた灰色の新聞紙を広げた。月明かりに照らされる見出しには、「鉄獅子現る!」の文字と「チハ」の写真が大きく載っていた。
射命丸文の発行する新聞、文々。新聞だ。
「チハ」のお披露目と時を同じくして、人間の里全域で配られたのだ。衝撃的なデビューを飾ったこともあり、人間の間で「チハ」は噂になって部数を伸ばしていると、文は喜んでいた。
(内容は正確とは言えないけど、あの天狗はいつもこうだし、まずは『チハ』の存在を周知させられれば、それでいいか)
ただし、その内容は誇大気味だった。
曰く、強力な大砲で堅牢な城砦を粉微塵にする。
曰く、どんな攻撃も跳ね返す特殊装甲で鎧う。
曰く、中国大陸を制覇した。
(そんなこと、私は教えてないわよ)
内心、突っ込みを入れる。神奈子は文とはたてに、「チハ」の説明――基本的なスペックに始まり、その主な戦歴などを紹介――をしていたが、誇大気味のほうが読者のウケが良い、と前者は考えたようだ。
いっぽうで、はたての花果子念報はそれに比べると正確な記述だった。
少しだけ新聞を見返して満足そうに折り畳むと、神奈子は鳥居の中央をくぐり、神社に帰った。まるで、凱旋するように誇らしげであった。
「そういえば、諏訪子のやつはどうしてるかな」
言いつつ神奈子は、明かりの灯った居間のふすまに手をかけた。
ふすまの向こう側には、外の世界にいた頃から使っている家具や家電が並ぶ、狭い空間がある。
その中央に鎮座するちゃぶ台の前に、目玉のついた特徴的な帽子を被る、金髪の少女――守矢が一柱、洩矢諏訪子が寛いでいた。
「おーっす、神奈子。呑むかい?」
「ああ」
諏訪子は猫のように背筋を丸め、ちゃぶ台にもたれかかるような、だらしない格好で酒を飲んでいた。ちゃぶ台の上に空の徳利が数本転がっている状況から察するに、少し前から飲んでいたらしい。
彼女は神奈子の姿を認めるや否や、開口一番で酒に誘ってきた。
畳に座りながら応じる神奈子の眼前に、芳醇な液体で満たされた盃が突き出される。神奈子はそれを受け取って、一口飲んだ。
「聞いたよ。流れ着いた戦車を修理して、人里でずいぶんと派手にやったらしいじゃないか」
「そうよ。戦車の名前は『チハ』というの。みんな驚いてたわ」
「酔狂ねぇ。なんだってまたそんなことを?」
「もちろん、神社の宣伝に使う為よ」
再びだらしない体勢に戻った諏訪子が、自分の盃に手酌しながら尋ねてくる。問われた神奈子は、干した盃を置くと雄弁に語りだした。
「常温核融合実験は成功を収めたけど、傍目にはお湯が沸いただけで視覚的な効果に乏しかった。昔、沈没した戦艦を改造して宇宙に行くアニメがあったでしょ?
あれに倣い、我々にも縁ある鉄器と火の力で動く戦車を蘇らせ、実動する姿を見せ付ける事で信仰を……」
「嘘だね」
朗々と語られる神奈子の話を遮り、諏訪子が言った。
ゆっくりと上体を起こした諏訪子から、心中を見透かしたかのような鋭い視線が射込まれ、たじろぐことなく神奈子は見返す。
わずかな沈黙を挟んで諏訪子はゆるりと視線を盃に戻し、静かに徳利を傾ける。盃に透明な液体が注がれ、満たされていく。
「あんなオンボロを直して見せたところで、一時的な物珍しさから注目が集まるだけ。どうせ視覚的にっていうなら、非想天則のような見栄えするもののほうがずっといい」
「…………」
「建前はいいよ。本当の目的は?」
ふっ、と神奈子が小さく苦笑を噛んだ。
「やっぱりわかるか」
「当然。何年の付き合いだと思ってんの?」
神奈子は居間に置かれたブラウン管のテレビジョンに目をやる。放送電波を受信しなくなって久しいそれは、漆黒を映し出すだけのインテリアと化していた。
その漆黒に、神奈子の顔が浮かび上がる。
先ほどまでの浮ついた気分は、きれいに消え去っていた。
目を閉じて、考え込むようにしばらく間を置いたあと、神奈子は静かに語りだした。
「幻想郷は結界で外との往来を断たれ、すでに百年以上が経過している。日清日露の戦い、第一次世界大戦、シベリア出兵、そして……『チハ』が戦った、第二次世界大戦。
そのいずれとも幻想郷は無関係で、ここの人間は戦争のことなんて露も知らないでいる」
これが飾りない神奈子の心中なのだと、付き合いの長い諏訪子にはすぐにわかった。
「一言で言えば、感傷よ。あの戦争のことを、『チハ』を通じて幻想郷に住まう者たちにも知っておいて欲しかった。思想的なものじゃなくて、語り継ぐべきものとして」
「そんな理由か」
諏訪子の反応は、淡白だった。
しかし決して冷淡ではなく、その語調には微妙な哀れみが漂っている。
「気持ちはわかるよ。でも、意味があるとは思えないね」
はっきりと断言し、諏訪子は酒気交じりの吐息を漏らす。
気持ちはわかると言ったのは、なだめるための枕詞ではない。ともにその時代に在った者として、納得できる感情だ。しかし現実味がない。
「わかるでしょ? 幻想郷では私たちがもといた場所を『外界』と――『外の世界』と呼ぶ。確かに日本とは地理的には地続きで、色んなモノも流れ着く。
だけど、結界によって隔絶されたときから、この地は全く異なる歴史を歩んできた。幻想郷にいるのは、もはや『幻想郷人』なのよ」
明治、大正、昭和の激動――その全てを、結界の庇護の下、幻想郷は無関係に過ごしてきた。
出征兵士を送ったこともない。
戦時下の困窮を味わったこともない。
空襲で家を焼かれたこともない。
進駐軍の占領を受けたこともない。
戦争の実感を持たない幻想郷で、あの時代をどのように語っても、恐らく真の理解は得られない。
神奈子の感傷は、浅慮に過ぎると諏訪子の目に映った。
「大体、外の世界だって、もうあの戦争の当事者は少ない。歴史では教えるけど、いずれ実感のないものとして忘れ去られていく。神奈子の考えは、時代錯誤よ」
「……そうかもしれない」
「それに、私たちは外の世界に見切りをつけてここにきた。あんただって、幻想郷が外の世界のエネルギーなしでもやっていけるように、地底に核融合炉を作ったり、常温核融合実験をしたんじゃないの?」
「確かに私は信仰の不足を懸念して、存続するために幻想郷にきたわ。だからといって、外の世界との繋がりすべてを断ち切ろうなんて、思ってはいない」
辛らつと言える批判を受けても、神奈子は頑固に意思を曲げようとはしなかった。
それを見て、これ以上の応答は不毛と見た諏訪子は、話題を打ち切って酒の続きを楽しむことにした。
「まあ、いいよ。少しでも信仰が増えるなら、それに越したことはないもの。勝手にすれば」
その後、二柱は沈黙して酒を呑んだ。しばらくして、用意してあった徳利が尽きると、自然と解散の流れになった。
神社の外に出て、夜陰に包まれながら神奈子は思索にふける。
――外の世界の人間が神を信じなくなったのはいつからだろう。
神社がパワースポットという変な名前で呼ばれだしたり、神徳が別な現象として神徳と認識されなくなったり、カルト宗教が流行したり、信仰が失われた理由は色々ある。
そうでなくとも、神を胡散臭いものと考える思想それ自体は、神が誕生したときからあるだろう。
文明が発達して時代が移り変わっていくうちに、人間は畏れをなくし、神を信じる心は自然と失われていったかもしれない。
――だが、人間と精神が科学と物量に圧倒されたあの戦争もまた、人心が神を喪くしていく、一つの契機になったのではないか。
酒で火照った体に夜風を受けながら、神奈子はどことも知れぬ虚空を見上げる。永遠に回答を得られない自問とたらればを繰り返していくうちに、夜はますます深けていく――。
◇
夏祭りから数日後、「チハ」は河童の技師による整備点検を受けたあと、博麗神社に展示される運びとなった。
なにしろ、人里で度肝を抜くような登場をしたばかりである。
博麗神社には大勢の参拝客が詰めかけ、神社の巫女たる霊夢は、ほくほくと満面の笑顔を浮かべていた。
「本当にこんなので参拝客が来るのか胡散臭かったけど、予想以上ねぇ」
「チハ」は普段、霊夢手製の少し手狭なお堂に飾られている。
その傍らには守矢神社から寄贈された――というか、無理やり押し付けられた――磨かれた鏡のように綺麗な石碑が設置されている。
碑文には、外の世界で起きた二度目の世界大戦と、その顛末が綴られている。
……目を留める者は、果たして何人いただろうか。
そのあとも展示された「チハ」は、ときどきお堂を出て走り回り、空砲を撃ち、その度に見物人が押し寄せた。
「チハ」が時速三〇キロ超で走れば人々は腰を抜かし、「チハ」が戦車砲の砲声を轟かせれば雷鳴のようだと口々に騒ぎ立てた。
そうして人々の噂になりながら、一月が過ぎた頃だった。
「……――早苗、もう一度、言いなさい」
守矢神社の一室で、神奈子が怒気をはらんだ剣幕で言った。
日頃から、気さくな神様を目指していて、笑顔を見せることが多かった神奈子の静かな怒りは、早苗をたじろがせた。
搾り出すようなか細い声で、早苗はもう一度告げた。
「その……『チハ』を……河童のサバイバルゲームに出して欲しいと言われて……つい……」
早苗は、おそろしくて最後まで言い切ることができなかった。
「……なぜ、引き受けてしまったの?」
「神奈子様は……河童の労組と揉めていましたよね。提案をしてきた方が、引き受けてくれたら、関係改善に繋がると……」
麓のダム建設のとき、神奈子は河童の労働組合と揉めたことがあった。それ以来、河童の力を頼った事業はやり辛くなっていた。
「チハ」を修理するときも本当はもっと河童の頭数を集めて臨みたかったが、労働組合の横槍が入って、にとりなどが個人的に協力する形でなんとか完成に漕ぎ着けたのだ。
神奈子の発案は、河童の技術力を頼りとするものが多く、このままではまずいと早苗は感じていた。
そこに、「チハ」をサバイバルゲームに参加させれば労働組合との関係を改善するとの提案がきて、早苗は引き受けてしまった。しかも、神奈子に事後承諾する形で――。
「…………」
神奈子は無言だった。早苗も、なにを言えばいいのかわからないという様子で、縮こまっている。
重い空気が滞留し、静寂が支配する。
しかしその沈黙はいつまでも続かなかった。戸を勢いよく開ける音がして、諏訪子が入ってきたからだ。
「早苗ー、のどが渇いちゃったよー、お水ちょうだーい」
「は、はい、諏訪子様」
「最近は暑くてねぇ。このままじゃアスファルトで伸びてる蛙みたいになって……って、なにかあったの?」
諏訪子は差し出されたコップ一杯の水を喉に流し込みながら、仏頂面の神奈子と、弱々しい早苗の様子を見て、重苦しい雰囲気に疑問を持った。
早苗が神奈子の様子を伺いながら、おずおずとして経緯を説明する。
「ああ、そういえば最近、山童になった河童があっちこっちでチャンバラやってるらしいね」
山童、というのは川を離れて暮らす河童のことである。近ごろ、何者かの手によって河童のアジトが荒らされ、やむなく山童になった者が多いという。
しかし急激に増加した山童を賄う水が不足しており、ルールに則ったサバイバルゲームで争奪戦を繰り広げているらしい。
雫が滴る空のコップを置いて、諏訪子は神奈子に向き直った。
「引き受けてあげればいいじゃん。別に壊れたって、また修理すればいいだけのこと。事後承諾ってのは確かに頂けないけど、そこまで目くじら立てることでもないでしょ?」
何でもないことのように言う諏訪子へ、じろり、と神奈子の赤い瞳が鋭い視線を突き立てた。
並の人間なら恐れおののき平伏してしまいかねないほどの圧力を持ったそれを、諏訪子は怯むことなく見つめ返す。
しかしそれは長く続かず、やがて根負けしたように神奈子のほうから視線を外してきた。
「私は……『チハ』を戦いに出したくないのよ……」
そう語る神奈子の目は、この場にはいない「チハ」を見ていた。
「『チハ』の装甲板には無数の弾痕があった……機関銃が飛び交う戦場にいた証よ……。車内には血錆もついていた……。
そこで『チハ』は何を見てきたのか……それを思うと、例えゲームでも戦いには出したくない。あの時代の語り部として、あり続けて欲しいと思った」
「ずいぶん身勝手ね。戦車の気持ちがわかるわけでもないのに」
「独善といわれようが、それが私の願いよ」
ちらり、と諏訪子は早苗を見やった。空のコップを下げる早苗の表情には、哀願するような色が混じっている。
「……早苗はさ、何の考えもなしに引き受けたわけじゃないんだよ。私や神奈子のことを慮って、良かれと思ったんだ」
「それもわかってる」
「それじゃあさ、いい加減に……」
「早苗」
急に話を遮り、神奈子が早苗を呼び止めた。弱々しい声で「はい」と応えて、早苗は振り返った。
そっと立ち上がり、諏訪子は早苗を庇うように隣に寄り添った。これ以上なにか言う気ならば、実力行使も辞さない構えでいた。
彼女は諏訪子にとって、己を祀る風祝というだけでなく、己の血筋を受け継ぐ家族なのだから。
……しかしその心配は杞憂だった。神奈子は早苗を正面から見つめると、深々と頭を垂れたのだ。
「……すまなかった」
顔を上げたとき、先ほどまでの剣幕は消え失せていた。
「……『チハ』をサバイバルゲームに出すという提案に、乗りましょう」
「え、で、でも……」
「早苗は、私たちのためを思って引き受けた。それを無碍にしたくないし、断ってはずかしめるような真似もできない」
「神奈子様……」
重苦しかった雰囲気の和らいでいく様が、はっきりとわかった。それを見てやれやれ、と諏訪子は肩を竦め、安堵の息を吐く。
その後、調整のために山童の住処を訪れた神奈子たちが、山童たちと揉めることになったのだが、それはまた別の話である。
◇
「『岳』チームは、池の周りの平地を占領して堅陣を築き上げている。で、明日、私たちの『山』チームが攻撃するんだけど……正直言って、今のままじゃ厳しいね」
山童の住処の一角に存在する「山」チーム本部にて、河城にとりがテーブル上に地図を広げながら言った。
「山」と「岳」の両チームは、幾度にも渡るゲームを経て、勢力を拡大してきた。
そしていまや山童の勢力を二分する有力な存在となっている。
しかし最近の戦いで「山」チームは「岳」チームに敗北し、両者の均衡は崩れつつあった。
「前にもこの堅陣を攻撃したことがあったんだけど、見事に返り討ちにされたんだって。幸い、相手は徹底した防御主義で全滅はしなかったし、得失点差も少なかったけどね」
サバイバルゲームでは、参加者は「松」「竹」「梅」の三種類のカードを持って戦うことになる。
カードにはそれぞれ得点が割り振られており、その内訳は「松」が三〇点、「竹」が二〇点、「梅」が一〇点である。
これを戦って奪い合い、敵を全滅させるか、制限時間までに相手より多く得点することで勝利となる。
「堅陣、というけど、具体的にはどのような?」
「ええとね……地面に書くよ」
「チハ」運用アドバイザーとして守矢神社から特別参加している――というのは名目で、実際に運用するのは彼女ら――神奈子の質問に、にとりは手頃な棒切れを拾ってきて、地面に描き始めた。
一〇秒ほどで棒切れを止めて地面から離したとき、そこには稲光のようにジグザグに折れ曲がった一本の線が刻まれていた。
「奴ら、土蜘蛛みたいに穴を掘って、こんな形の溝に身を潜めているのさ。そこで隠れながら弩と投石で攻撃するのが、相手の基本戦術」
「投石って……石を投げるんですか?」
神奈子と同じく、「チハ」運用アドバイザーとして同席する早苗が挙手して尋ねる。
「あら、投石は古代から有効な攻撃手段よ。戦国時代でも使われているわ」
「ちょっと、想像つきませんね」
いかめしい鎧武者が必死に石を投げる姿を思い描くが、滑稽で様にならないので、早苗は苦笑した。
「当たれば痛いし、馬鹿にしたもんじゃないよ。それで話を戻すけど、溝はこんな風に迷路みたいに広がってるんだ。下手に入り込むこともできないのさ」
にとりは棒切れで示しながら、さらなるジグザグの線を追加し、繋げ、広げていった。
そうして描きあがったのは、でたらめで複雑な図形だった。例えるならば、完成したジグソーパズルの合わせ目である。
さらに、その図形の前に、一定間隔で隙間を設けられた真っ直ぐな横線が書き加えられる。
「こっちの点線は、廃材とかを組み合わせて作った柵で……馬防柵みたいなものらしいよ。あんなもんで武田の赤備えは止められないと思うけど、山童の突撃を止めることはできたみたいだね」
「一応お尋ねしますが、空を飛んで攻撃するというのは、無しですか?」
「もちろん、反則だよ。能力の使用もね。……格好つけて跳躍するくらいなら見逃されてるけど」
早苗とにとりの受け答えのあと、地面の図形を興味深そうに見下ろしていた神奈子が口を開く。
「……相手は、築城術の知識を持っているようね。この塹壕陣地の図は、まるで第一次大戦のようだわ」
第一次世界大戦で、欧州の大地には無数の塹壕が構築されていた。
相手に迂回されないために、そして簡単に突破されないように、塹壕はどこまでも長く深く作られ、戦場の端から端まで伸びていったという。
それに比べれば遥かに小さく構造も単純だろうが、攻めるに難く護るに易い地形であることに違いはない。
「そういえば気になったのですが、『チハ』を使ってもルール的に大丈夫なんですか? 皆さん、刀や手裏剣といった武器しか持っていませんけど……」
第一次大戦、という言葉から「チハ」の時代背景を思い出した早苗の質問に、にとりが薄いルールブックを開きながら答えた。
「提案者はルールの文面的に問題ない、と判断したみたいだ。もともと身内でやるためのルールだから、抜け穴を探そうと思えばたくさんある」
ルールブックに向かってため息をつく。指で示された箇所には、「使用可能な武器は先の大戦までに実戦で用いられたものに限る」と書かれていた。
本来この文面における「先の大戦」というのは、関が原の戦いや、鳥羽伏見の戦いの辺りを想定したものだった。
しかし「チハ」投入の提案者は、これに目をつけて、「先の大戦」を「第二次世界大戦」と解釈することも可能と考えたらしい。
「でも、それでしたら鉄砲が使われていないのはおかしいですよね? 戦国時代に信長が鉄砲をたくさん使って長篠の戦で大勝利したって習いましたよ」
幻想郷でも猟師は火縄銃を使っているし、河童の技術力なら幕末のもっと近代的な銃を作ることもできるはず。
そんな早苗の疑問に、にとりはわずかに指を滑らせてルールブックの下方を示す。
「確かに河童の技術を以ってすれば、戦国時代の火縄銃や幕末のエンフィールド銃を再現するのは簡単だよ。でも銃器が使われていないのは……こっちのルールに抵触するから、と考えられている」
そこには先のルールに関連して「不必要な苦痛を与える武器は、例え実在のものであっても使用を厳に慎むこと」と書いてある。
これはサバイバルゲームの様相が陰惨にならないための配慮であると同時に、銃器の不使用を示すのだという。
山童は身体能力こそ人間と大差ないが、やはり妖怪である。その治癒力は人間とは比較にならず、謂れのない無銘の刀で斬りつけられたり、矢が刺さった程度では死なない。
だからこそ、人間の目から見れば危険極まりないサバイバルゲームが成立するのだが、銃弾は事情が異なる。
「銃弾が命中すると、貫通せずに体内に残ることがある。そうなると銃弾を摘出するためにエキストラクターっていう器具を用いた外科手術が必要になって……これが、すごく痛いんだ。だから銃器は使えない」
にとりは、真っ直ぐに立たせた人差し指を、ぐりぐりと自分の腕に押し当てた。
傷口を抉り、銃弾を摘出する手術の様子を思い浮かべて、早苗は顔を青くしながら納得した。想像するだけでも痛いし、精神的にも辛い。
「しかしまあ、おかしな話だよ。鉄砲は使えないのに戦車は使うって。いくらルール的にそう解釈できないことはないとはいえ、かなり強引な理屈だ」
にとりがあきれた様子で話す。
彼女は「チハ」投入に反対の立場で、神奈子たちが来るまで揉めていた。おかげで「チハ」操縦経験を持つ唯一の河童であるにも関わらず、乗員候補から外されていたのだ。
「けれども、そんな強引な理屈を通してまで、勝ちたかった理由ってのもあったらしいよ。敵の陣地の場所はここなんだけど、何か気付かない?」
地図の山の麓部分を指で示しながら、にとりが促す。
「……! すぐ近くに人里があるじゃないですか!?」
促されて地図を覗き込み、早苗が驚いた様子で言った。地図で示された場所の近くには、人間の里が表記されている。
「その通り。ちょっと出れば、刀の打ち合う音が聞こえても不思議じゃない距離だからさ、人間が怖がってんのよ。おかげで人里での商売に影響するって、労組が懸念してたの」
「で、その労組の回し者は、商売繁盛のために早く『岳』チームを壊滅させたいわけだ」
皮肉めいた語調を伴う神奈子の言葉に、にとりは肩を竦めながら頷いて肯定した。
「それに加えて、私が作っていた『チハ』グッズの売れ行きがいいから、今度工房を一つ借りて、新商品を作る予定だったらしい。『チハ』投入は、そのタイアップも兼ねてたんだとさ。天狗に従軍記者の手配まで頼んでたそうだ」
「あきれるくらいに商魂たくましいわね。そういえば、件の提案者はここにいないの?」
「……さあ、どこに行ったのやら」
あんたらが乗り込んできて脅かすから姿をくらましたんだよ、という言葉が喉から出かかったが、にとりはぐっと飲み込んだ。
「……まあいいわ。里が近くにあるのも問題だけど、ここは明らかに攻撃側に不利な地形よ。開けた場所に出るまで、細い道が一本しかない。別の場所で試合できないの?」
「あっちのほうが人数が多いし、今までの対戦成績のこともあるから、戦場の決定権は『岳』チームにあるの」
「本当に穴だらけのルールね……」
神奈子は思わず頭を抱えたが、本来身内で遊ぶためのルールと考えれば、致し方ないように思えた。
もともと、このサバイバルゲームは森の中でめいめいにチャンバラして打ち合うようなゲームであり、組織的な行動を取るチームというのはなかった。
そこに「岳」チームが登場して、陣地を構築し、戦術を整え、ルールの穴を突いてまで優位に立とうとしてきた。ルールの歪が問題になったのは、彼らのせいでもある。
「相手と同じようにルールの穴を突いて、というのは気乗りしないけど、一度引き受けたからには約束は違えない。『チハ』を出しましょう」
そして、これを最後に「チハ」には平穏な余生を過ごしてもらう。神奈子は心中で、そう固く決心した。
◇
山の麓のちょっとした広場に、数十人の山童が集結している。サバイバルゲーム開催を目前にして、夏の暑さとはまた違った熱気が立ち込めているようだった。
その中央には窓や天蓋を開けた「チハ」が太陽を照り返しながら佇み、ゲーム開始の瞬間を乗員が待ちわびていた。
「チハ」の乗員――神奈子と、早苗と、にとりの三人は、他の山童と同じように、迷彩色のコスチュームに腕を通していた。およそ、軍服として機能的とはいえない、半そでスカートの組み合わせだ。
「お、帰ってきたぞ。そろそろかな?」
指差してにとりが言った方向には、白旗を持たせて数十分前に送り出した山童がいた。
その山童は、言うなれば軍使であり、お互いに戦闘開始の日時と制限時間、注意事項などを確認するのが役割だ。
「予定通りに始めるってさ。ふふん、あいつらの驚く顔が目に浮かぶようだよ」
「では、そろそろ待機しよう」
そう言って神奈子は「チハ」の鉢巻型アンテナにつけた蚊帳を取り外し、雑納箱に畳むと、天蓋に収まった。
地味な迷彩色に塗られた「チハ」の側面には、新しく「山」チームのマークが書き加えられている。
「走行展示だと、思いっきり飛ばせなかったからねぇ。楽しみだよ」
「チハ」の操縦手はにとりが務める。人里で「チハ」を披露したときや走行展示を行った際も、にとりは操縦手をしていた。
彼女とて、手間隙かけて修理した「チハ」に愛着がある。
にとりが「チハ」投入に反対したとき、乗員はまったく経験のない山童に任せる方針になったが、彼女は「お前らなんかに扱えるものか!」と同僚たちを相手に暴れまわったほどだ。
「私は予定通り、前の座席で『岳』チームの様子を見ていればいいんですよね?」
「チハ」の前方銃手は早苗だ。銃手の名が示すように座席には重機関銃が設置してあるが、銃器は使用できないので弾は一発も用意されていない。
さらに本来、銃手は無線手も兼ねるのだが、連絡を交わす僚車も存在しないので、無線機が使われることはない。
そのため、覗視孔と呼ばれる小さな窓から敵の様子を伺うのが主な仕事になる。
「戦車は接近戦に弱いものだからね。それに、戦車砲を使うとき、私は照準に集中しなければならない。早苗の役割は重要よ」
「はい、神奈子様!」
「チハ」の砲手と戦車長は、神奈子が兼任することになっている。
もっとも、敵の様子を探るような作業は早苗が分担し、神奈子は指示を下すのと、五十七粍砲(正確には、九七式五糎七戦車砲を改造した改河童式五十七粍砲)を操作するのが主な役割になる。
「しかし、本当に戦車の大砲を使っても大丈夫なのでしょうか?」
「例え直撃をくらっても生きてるよ。妖怪の治癒力なら手足がもげても治るし、いざとなれば、秘薬を使えばすぐ元通りさ」
銃器が禁止されてるのに大砲はいいのか、という疑問は当然あったが、細かな破片を撒き散らさない砲弾にすればルール的には問題ない、と判断されている。
なので、「チハ」に搭載されている砲弾は全て徹甲弾である。
それにつけても過大な兵器だが、「岳」チームは焙烙玉というルール違反ぎりぎりの兵器を使用しており、その点に対する「山」チームの意趣返しの側面もあった。
「……やっぱり、いませんね、諏訪子様」
ゲームの開始時刻が迫り、視線をさまよわせた早苗が、誰に言うでもなく一人ごちた。
諏訪子は、「チハ」について神奈子ほどの思い入れもなければ、上手に動かす自信もないとして、参加しなかったのだ。
「松」のカードを持つ指揮官の山童が、懐中時計を改める回数が、目に見えて増えていく。
やがて、指揮官の山童は刀を振りぬいて、切っ先をかざした。
出陣の合図だ。
指揮官は何か掛け声を叫んでいるように見えたが、出撃に備えてエンジンを暖めていた「チハ」の乗員は上手く聞き取れなかった。
「戦車、前へ!」
神奈子の号令が飛ぶ。
「戦車、前へ。りょーかいっと」
変速ギヤーが入り、アクセルがぐっと強く踏まれた。起動輪が回転し、緩やかに、だが力強く、戦車は走り出した。
事前に冷却水の交換や、転輪、車輪の軸に給脂、給油するなどして整備を済ませていたので、トラブルもなく、快調な滑り出しだった。
「チハ」後部から大量に白い排気煙が噴出す。
神奈子は「チハ」の天蓋を閉じ、にとりと早苗も座席の前の窓を閉めた。
ルールブックには、山童以外の参加について明記されていないが、これは暗黙の了解の範疇であり、本来神奈子と早苗はいないはずの人員なので姿を見られたくなかった。
「早苗、今のうちに帽子を被っておきなさい」
「わかりました……」
後ろから神奈子に言われて、早苗がためらいがちになめし革の帽子を被る。もちろん、頭をぶつけて怪我をしないためだ。
装甲に囲まれた「チハ」の戦闘室は狭い。
中央の指揮台上に戦車長の神奈子が立ち、右前の席に操縦手のにとりが、その左に銃手の早苗が、窮屈な姿勢で座る配置になっている。
「山童たちは、着いてきているのかしら?」
展望塔の覗視孔から神奈子が背後の様子を伺うと、山童がばらばらに追随してくるのがわかった。
一抹の不安を覚えるが、戦車は陣地を突破できても制圧する力はないので、歩兵の存在は必要不可欠だった。
「うわっ、と」
どん、と衝撃に見舞われてにとりがうめいた。
両脇を森に挟まれた一本道は、整地されているわけでもなく、人間や獣の足が踏み固めただけの悪路に過ぎない。絶え間なく、大小の揺れが戦闘室を襲う。
(早苗は、大丈夫かしら?)
戦闘室の内部は密閉された鉄の箱であり、熱がこもりやすい。断熱材も無害で高性能な新素材に交換したが、機関室からの熱を完全に遮断するのは不可能だ。
ふと気になって、神奈子は早苗を覗き見る。
頬に流れる汗は玉のような形を成しているが、しかし、その表情は戦意を失っていなかった。
(……責任、感じてるのね。この暑さは、辛いでしょうに)
しかし、ここで戦車を止めても、早苗は気が済まないだろう。ならば、手早く片付けるしかない。
思いながら展望塔に目を戻し、そのまま森に挟まれた緩やかな勾配を進んでいくと、やがて、開けた場所が目に入ってきた。
同時に、進路上に立ちはだかる馬防柵の姿も見えた。
「バリケードはそのまま突進して、蹂躙しなさい!」
「了解っ! 揺れるから、舌を噛まない様に気をつけなよ!」
神奈子の命令に、にとりはさらに深くアクセルを踏んだ。木材と廃材を雑多に組み合わせた馬防柵の姿がぐんぐん近づいてくる。
――バリッ、バリッ。
十五トン余りの重量が、時速二十キロ超で激突し、馬防柵はあっけなく粉々に砕け散った。
「なんだ? なんだ?」
「こ、こっちに突っ込んでくる!」
「あいつ、『山』チームのマークをつけてるぞ!?」
馬防柵が破壊される様子と、爆音を鳴らして突撃してくる戦車の姿に、塹壕陣地はてんやわんやの大騒ぎになった。
梢の上にいた見張りから敵襲の報告がもたらされて、待ち構えていた彼らだったが、いまや混乱の極地にある。
恐慌に駆られ、持ち場を放棄して逃げ出す山童も多い。
しかし勇敢な数人の山童は、自己の役割を果たすべく、角の削られた丸石や手裏剣などを構え、投擲した。
――カンッ、カンッ、カンッ。
だが、「チハ」はまるで堪えた様子がなく、止まる気配を見せない。
鉄の獅子は猛進し、塹壕を蹂躙する。
そのとき、やっとの思いで巻き上げ器のハンドルを回しきって弦を引き、矢をつがえた山童がいた。
そして、鏃を「チハ」に向けて狙いを絞り、発射した。
距離次第で板金鎧をも貫く威力を持ったそれは、猛然と「チハ」目掛けて飛び――。
――カンッ。
しかし、今までと変わらず、装甲にかすり傷一つ負わせることができなかった。
「チハ」を覆う浸炭鋼は、中世の金属鎧など比較にならない硬度を誇る。それこそ大砲でも持ってこなければ、傷つけることすらできない。
何度発射しても結果は同じ。武器が通じないとわかると、塹壕陣地のパニックはさらに大きくなった。
「神奈子様、右のほうに、石の入ったかごがあります」
「印地打ち用に集められた石ね。あれを攻撃しましょう。にとり、一旦平坦な場所に停めて、射撃したらまた走り出しなさい」
早苗の報告を受け、神奈子は石が山積みになっているかごを確認すると、目標をそれに切り替えた。
「チハ」は速度を落とし、塹壕の間にある平地に向かう。
行進射――つまり、走りながらの射撃というのは、地形の波を上手に捉えなければならないので、命中させるのが非常に難しい。神奈子は停止状態での射撃を選択した。
「停めたよ!」
「チハ」が停止し、にとりの報告が飛ぶ。転把(ハンドル)を回すと、砲塔が鈍い音を立てて旋回を始めた。
拳骨で砲弾を押し込み、尾栓が閉じると、神奈子は五十七粍砲の肩当てを支えながら照準眼鏡を覗く。
照準眼鏡の内部には、十字線が浮かんでいる。その十字の縦線の横に、小さな線が垂直に並び、距離を示す数字が刻印されていた。十字線の交差を籠の中央に重ね、拳銃型の引き金に指を添える。
「情け無用! 発射!」
宣言とともに、五十七粍砲が火を噴いた。
本来、「チハ」の砲弾は秒速四二〇メートルという初速で撃ち出されるのだが、威力を抑えるために装薬量を調整され、速度は半分以下に落ちていた。
それでも凄まじい砲声がとどろき、目標となったかごと山積みの石はばらばらに四散し、近くにいた山童は衝撃で気絶した。
「もう駄目だ! あれはたった一両で大陸を制覇したっていうおそろしい兵器なんだ! 新聞に書いてあった!」
「そんなのに敵うわけがない! 逃げよう!」
圧倒的な力を持つ戦車の登場に、「岳」チームの士気は崩壊寸前だった。新聞の誇大な記事によって流布された武勇伝が、さらに彼らの戦意をくじいた。
そこに、遅れて到着した「山」チームの山童が現れ、追い討ちをかける。
「突撃! 突撃!」
「チェストォッ!」
「降伏するなら許してやる! イエスかノーか、はっきりしろ!」
恐れをなして塹壕から飛び出した「岳」チームの山童に、「山」チームの山童が白刃を躍らせて襲い掛かる。
刀と刀が切り結ぶ白兵戦になり、ちりぢりのところに攻撃を受けた「岳」チームの兵は次々と討ち取られ、「梅」や「竹」のカードを奪われていく。
もはや大勢は決したと、諦観しつつも冷静に戦況を見つめる一人の山童がいた。
「新聞に載ってた戦車というヤツか……。まさか、あんなものを持ち出してくるとは。やり過ぎた、か」
塹壕で気絶した山童の背に隠れ、無念そうに呟くのは、三〇点の「松」カードを持つ「岳」チームの指揮官だった。
すでにこのゲームの敗北を悟っている。
しかし悔しさはあまりない。「山」チームは、あのような非常識な兵器を持ち出さなければ、我々に勝てなかったと言っているようなものだからだ。
資材の不足と外界の歴史書をきっかけに、複雑なワジを掘り、それを防御陣地にするという発想は、ついに尋常の手段では破れなかった。
だが、このままでは終われない。
指揮官としての最後の意地で、せめて一矢報いなければ気が済まなかった。
じっと息を潜め、機会を待つ……。
そんな執念が実を結んだのか、その機会は唐突に訪れた。
にとりが操縦桿を引いてクラッチを繋いで旋回したとき、「チハ」を衝撃が襲ったかと思うと、車内が傾いて止まったのだ。
「うっ、なにが起こったの?」
「恐らく、溝に落ちてしまったものかと……」
砲塔内の突起に捕まって体勢を立て直した神奈子の問いに、早苗がなめし革の帽子を抑えながら答えた。
いっぽうで、したたかに頭を打って、一瞬、朦朧とした意識の中にいたにとりが立ち直った。
赤く腫れ上がった額をさすりながら、アクセルを踏む。が、狼狽した表情で叫んだ。
「しまった、戦車が動かないぞ!」
そこは、塹壕陣地の一角で、他の部分よりも広く、そして深かった。
最初から何らかの意図を持って作られた空間ではなく、単に杜撰な工事の産物だったが、それが功を奏した。
さらに、「チハ」の底面が放置された資材の上に乗り上げてしまい、一時的に走行不能に陥ったのだ。
「ここにきて、運命の女神が微笑んだか……!」
「岳」チームの指揮官は、しめた、とばかりに焙烙玉の導火線に点火を始める。
それも一つや二つではない。
焙烙玉には投擲をやり易くするために縄がついており、それを束ねて威力を上昇させた、いわば収束焙烙玉とでもいうべきものを作り上げて、土砂を巻き上げ空回りする履帯を狙ったのだ。
履帯は「チハ」のみならず、あらゆる戦車の普遍的な弱点だったので、目のつけどころは良い。
しかし運命の女神は、同じ神の側に寝返ったらしい。
「……! 動き出した!」
突き上げてくる衝撃とともに「チハ」の車体が持ち上がり、また猛然と走り出したのである。
「神奈子様、溝から脱出しました!」
乗員は驚いたが、外から見ていた指揮官の驚きは、それを凌駕した。地面が隆起したと思うと、「チハ」が塹壕から脱出したのだ。
収束焙烙玉が慌てて投擲され、「チハ」の傍らをかすめて炸裂する。
だが、装甲はおろか、高マンガン鋳鋼製の履帯に焦げ跡さえ残らない。
その直後、突撃してきた「山」チームの山童の白刃を脇に受けて、「岳」チーム指揮官は倒れた。
「ありゃりゃ、かわいそうに。にわか山童が慣れない土いじりをするから、こんなことになっちゃうのさ。次からはもっと丁寧な工事を心がけたまえ」
「岳」チーム指揮官が倒れて空を仰いだとき、森の中でも一際目立つ大木の梢に、金色の影を見た気がした。
◇
「山」チームと「岳」チームの決戦から、一週間が過ぎた。
山童たちのサバイバルゲームは、急激にその規模を収束させていき、終焉を迎えようとしていた。
その原因は鉄砲騒ぎと、博麗の巫女の介入だった。
ゲーム中に鉄砲が用いられ、里の人間を傷つけたという疑惑が持ち上がり、巫女が動いたのだ。
だが、山童の調査では鉄砲が使用された痕跡が認められず(戦車砲はあったが)、一度は巫女の疑惑を退けたものの、様々な出来事が重なり……。
巫女が激怒し、山童を討伐すると暴れだして、うやむやのうちにサバイバルゲームの開催は自粛されていったのである。
「いやぁ、儲かってるねぇ。やっぱりブームってのは大切だ」
博麗神社のお堂に納まった「チハ」の操縦手席から、汗と油にまみれてにとりが出てくる。
ふたたび山童から河童に鞍替えしたにとりは、「チハ」の空砲射撃と走行展示のイベントを終えて、一息ついた。
彼女の視線は、帰りの石段に向かう人間の集団に向けられている。
イベントを見届けた人間たちは、驚嘆して口々になにかを言い合いながら家路を目指しており、その中には河童謹製「チハ」グッズを買って帰る者も多い。
「今日もたくさん参拝客が訪れたわね。ご苦労」
お堂への駐車を誘導していた神奈子が、にとりを労う。
「神奈子様もお疲れ様です。さてと、冷たい川水を浴びながら、キュウリでも食べてリフレッシュしよう」
にとりは神奈子に目礼して応じると、手を組んで上に伸ばし、背筋を伸ばした。
「チハ」の活躍があるとはいえ、こうして商品が売れるのは自分の仕事が評価されたようで素直に喜ばしい。それが儲かるならなおさらである。
上機嫌でにとりは飛び去っていった。
「『チハ』も、お疲れ様」
あれから「チハ」は、神奈子が想定した元通りの暮らしを取り戻した。
ときどき、走行展示や空砲射撃のイベントを催す度に多くの人間が訪れており、これからも「チハ」は驚嘆と関心を集めていく存在になるだろう。
そして、あの時代の静かな語り部となるのだ。
お堂に納められた車体をなでながら、神奈子は物言わぬ「チハ」を労った。と、その瞬間だった。
――……た……い……。
それは、注意を留めなければ空耳として聞き逃されてしまうほどに、小さくて弱々しい響きだった。
すぐ側もいた神奈子も、最初は聞き間違いと思った。
しかし、心静かに耳を澄ませば、その響きは「チハ」から確かに聞こえてきたのだ。
(ん……何の音かしら……? もしや故障?)
考えた挙句、稼ぎ頭を失うことを渋る霊夢を説得して、神奈子は「チハ」を守矢神社に持ち帰った。
そして後日、すぐさま神社近くの作業場で調査が始まった。
異音の原因を探るべく、にとりを始め、何人もの河童の技師が点検を行ったが、しかし手がかりはなに一つ掴めず、数日が経過した。
「神奈子様、今日も遅くまで『チハ』を診てますね」
早苗が遠目に見ながら呟く。
今日も神奈子は「チハ」に付きっ切りとなり、何度も車内を出たり入ったりして、入念な整備を行っていた。
「ご苦労なことだねぇ」
鳥居の後ろにある石段の真ん中に座って足を組み、諏訪子はあきれた眼差しで眺めていた。
「諏訪子様……。諏訪子様には、わかりますか? 神奈子様がなぜあれほど『チハ』を大切にされるのか」
確かに「チハ」は信仰獲得の道具であるし、神奈子にとって感慨深いものであるのは違いない。
しかし、あれではまるで病床の子供を看病する母親のようだ。
何が神奈子をあそこまで執心させるのか、早苗には理解できなかった。
「んー……とねぇ、神奈子はさ、若いんだよね」
「あの、お言葉ですが、年齢は神奈子様も諏訪子様もあまり差はないのでは……」
脈絡なく飛躍した回答に、早苗は首を捻った。
「年齢じゃないんだ。なんていうかな、感性というか、気持ちというか、そういうのが若いんだよね。心残りだった過去の整理ができてないのさ」
「すみません、おっしゃる意味がよくわかりません」
抽象的な言葉が並び、早苗の混乱はますます深まる。
「……早苗はさ、学校であの戦争のことをなんて習った?」
急に諏訪子が話題を変えて、早苗に尋ねた。
漠然とした質問に、どう答えるべきかと、早苗は逡巡しつつ、
「えっと……日本がアメリカに負けて、たくさんの人が死んで、悲惨なことになって……だからもう、二度と繰り返してはいけない過ちだと……」
教科書の文章や教師の言葉を思い出しながら、しどろもどろに答えた。
「なるほど、それは人間の側の見方だね。でも神様にとっては、人間たちに存在を示す最後の猶予だったかもしれないんだ」
諏訪子は石段に足を放り出すと、仰ぐようにして、鳥居の形に切り取られた夕焼け空に目をやった。
早苗は聞き役になり、次の言葉を待つ。
山肌を渡る柔らかい風が、帽子を軽く持ち上げようとしてきて、諏訪子は手で抑えた。
「戦争も終わりに近づいて、アメリカ軍が迫ってきたとき、神の力で台風を起こそうという話が持ち上がったことがあった。元寇のときみたいにね。
そうすれば、人間は神の実在を確信し、信仰も獲得できるって目論見だったらしいよ。笑っちゃうよね。神様を食い物にする人間によって追い詰められた私たちも、人間の争いを食い物にしようとしてたんだ。そりゃどっかの妖怪も、神様は傲慢だって言うよ」
鮮やかな橙に染まった雲を仰ぎ、自身も黄昏の色に染まりながら、諏訪子は自嘲気味に呟いた。哀れみに似た感情が、黒い瞳をたゆたう。
「でも、風は吹かなかった」
と、諏訪子が視線を落とし、俯いた。
帽子の唾が作り出した黄昏の陰影に隠されて、諏訪子の表情は伺うことができなくなった。それをなぜか早苗は見てはいけない気がした。
「神様に助けてもらえなかった人間は、自分たちで神風を吹かせようとしたけど、ついに奇跡が起きることはなかった」
じんわりと、晩夏の暑さが身体をむしばんでくる。
風が、止んでいた。
口の中が干上がる錯覚を覚えて、早苗は生唾を嚥下した。
「しかし、本当に神の風が吹き荒れたところで、どれだけの意味があったんだろうね。船は再建され、またアメリカ軍は大挙してくるだろう。そして当時の日本に、反抗する力は残されていない」
諏訪子が顔を上げて、早苗の反応を伺うように見やる。しかし、乾いた喉からは、上手く言葉が出ない。
「私にはよくわかりません……でも……そうすれば、助かる人たちがいたのではないですか?」
ようやく搾り出せたのは、曖昧で整合性に欠けた思いの丈。
「そうだね、アメリカ人をたくさん殺せば、その分だけ生き残るやつがいるかもね。あるいは、もっと泥沼の戦争になって、死人が増えたかも」
何を言えばいいのだろう。様々な感情が交錯し、ぐるぐると頭の中を渦巻く。
早苗は返答に窮し、また押し黙ってしまった。
ぴょん、と諏訪子は跳ねるように石段から降りて、早苗の側に歩み寄った。
「はは、意地悪だったかな。とにかく、神にはもう戦局を覆す力はなかった。そして存在を誇示する機会を失い、今に至るってわけだよ」
肩を軽く叩き、諏訪子は早苗に笑いかけた。
それを見返した早苗は、諏訪子の笑顔にどこか寂しげなものを感じてならなかった。
「……神奈子にとってはさ、あの戦争の時代は葛藤と心残りの時代なんだ」
諏訪子の表情が、「チハ」に付き添う神奈子に向けられた。早苗もそれに倣って神奈子を見つめる。
「本人は割り切ったつもりでいたかもしれないけど、『チハ』を見て、またそのときのことを思い出したんだろうねぇ。別に『チハ』じゃなくても、ゼロ戦でもよかったかもしれない。あの時代の遺物なら、何でも」
不意に、「チハ」の車体が浮かび上がった。
神奈子の神通力によってゆっくりと持ち上げられ、「チハ」は岩肌を横にくり貫いた車庫へ、丁重に運ばれる。
遠目に見る神奈子の表情は、晴れないままだった。
「そうやって昔の気持ちに整理をつけられず、『チハ』に入れ込む姿が、若いっていうのさ」
「……上手く言えませんけど……そういうことを忘れずに考えていくのって、とても大切な気がします」
作業を終えた神奈子を迎えようと、早苗が歩き出した。諏訪子もそれに続く。
「そうだね、私も大切なことだと思うよ」
同意し、諏訪子は歩く間隔を早めて早苗の隣に並ぶ。
(でもね、早苗。私は……私の国を失ったときの記憶を、ほとんど覚えてない。きっと、色んな葛藤と心残りがあったはずだけど、忘れてしまった)
供物を捧げる人間も、祈りを捧げる人間もいたはずだ。
国は繁栄し、神を畏れ敬ったはずだ。
しかし、そのすべてが夢現のようで、しっかりと覚えていない。
神代を生きた証は、一振りの鉄器と、付き従う祟り神、そして神奈子だけ。
(神奈子は……自らの行いを感傷だと言ってた。うらやましいじゃないか、感傷に浸れるほど、覚えていられて。私はもう、感傷に浸ることすらできないんだから)
そよ風が、早苗と諏訪子の間をかすめ、二人の髪を靡かせていった。
◇
この日も、神奈子は「チハ」に付きっ切りで、夜遅くまで様子を見ていた。
食卓に夕食を並べて待っていたが、神奈子が神社に戻らないので、早苗と諏訪子が外まで呼びにきた。
「あのー、神奈子様ー、ご飯冷めちゃいますよー?」
「早く来ないと、神奈子の分も食べちゃうからねー。お腹空かせても知らないよー」
ああ、生返事をする神奈子。心配そうに歩み寄ってくる早苗と諏訪子。
全員同時に、それは聞こえた。
耳朶ではなく、心を打つ、儚い響き――。
「――……か……え……り……た……い」
響きが、神奈子の唇が象って「声」になった。
「これは、神霊……」
かつての異変で神霊を追った早苗が呟く。
その響きの正体は、神霊だった。
神霊とは、とても強い欲望や願い、想いから生み出される儚い存在である。
そして、神霊の発生源は「チハ」だった。つまり「チハ」は自我を持つ付喪神になっていたのだ。
「帰るって、どこに? まさか、外の世界へ?」
予想外の事態に狼狽する神奈子が問う。
しばらくして、「チハ」から生み出された神霊は、弱々しく、外の世界を想っていた。
神奈子は絶句する。
「チハ」に芽生えた自我は、結界の外への帰郷を望んでいたのだ。
「なぜ付喪神化を……」
突然のことに諏訪子も驚いていたが、神奈子が呆気に取られる様子を見て逆に落ち着きを取り戻すと、思考を巡らせた。
以前、諏訪子は未来水妖バザーの宣伝のために、全長一〇〇メートルに及ぶ巨大な人型アドバルーン「非想天則」を河童に作らせたことがある。
人の形をしたものには心が宿って付喪神と化しやすい。意味のある動きを伴えば、なおさらだ。
だから諏訪子は、「非想天則」に蒸気で手足を動かす機構を取り付けながらも、付喪神になるのを防ぐために、無意味な動作しかさせなかった。
(まさか、あのゲームがきっかけなの?)
もしかしたら「チハ」はなにか意味のある動きをすることによって、付喪神と化したのかもしれない。
では、「チハ」にとって、それは何か。
兵器である「チハ」にとって、意味のある動きというのは”戦い”そのもので、サバイバルゲーム参加が契機になったのではないか。可能性を探っていくうちに諏訪子はそのように推測した。
「それにしたって、早すぎる。あれが作られてから、七十年ほどしか経ってないはず。付喪神になるにはもっと膨大な時間が必要なのに……」
しかし、人の形をしたものに心が宿りやすいというのは、裏を返せば、人の形をしていないものが付喪神となるには長い年月が必要ということ。
それこそ、何百年何千年という、途方もない時間を要する。
神奈子も当然、そのことは知っていて、製造後わずか七十年ほどしか経過していない戦車が、付喪神になるとは思いもよらなかった。
あのゲームは見た目こそ派手だが、実際の戦場に比べれば、あまりにも遊びの様相が強かったし、一気に付喪神への変化をもたらすような意味のある戦いに思えなかった。
……だが、「チハ」の心に、神霊に触れていく度に、その理由がわかっていくような気がした。
(……『チハ』から、色んな意思を感じる……そうか、こいつは戦場の只中にいた……)
神霊から弾けてくる、儚き想い。それは一つや二つではなく、無数の感情が集合したものだ。
その根源は、戦場の兵士の思念と霊魂。
おそらく「チハ」は何処かの古戦場でそういったものの寄る辺になっていたのだろう。憑かれていた、という表現が正しいかもしれない。
もとより外の世界にいた頃からして、すでに半ば妖怪的な存在だったのだ。
それが結界を越えてくることで妖怪化が促進され、あのゲームが完全に付喪神に覚醒する最後の一押しとなったのだろう。
「ねえ、『チハ』。外の世界に帰っても、あなたの知る日本はもうないのよ」
子供に言い聞かせるような、優しい語り口で神奈子は告げた。
「今を生きる人々の価値観は、あの時代の人間とは違う。アメリカに負け、戦後に育まれた新しい価値観の中で、あなたのような存在は歓迎されないかもしれない」
人々の価値観と信仰の形が変遷する中で、居場所を失った神は言う。
「それに恐らく幻想郷を出れば、付喪神として芽生えかけた意思も消えてしまうでしょう。帰ったところで何もできない。そんなものはただの――」
――感傷に過ぎない。
神奈子はそう言いかけて、はっとなり、最後まで紡ぐことができなかった。
今までしてきた行いは、感傷だと、自ら言ったではないか。
神奈子は沈黙し、そっとリペット打ちの装甲を撫でていたが、最後に嘆願するような面持ちで「チハ」に確認した。
「それでも、あなたは帰りたいの?」
しばらくして、ふわり、と神霊が生み出され、神奈子はそれに手を触れた。
それに込められた、意思とも言えないほどの微弱で――しかし、確かな想いは、変わらず帰郷を希望していた。
(この感覚を私は知っている……)
神霊から想いを読み取る度に、神奈子は得も言われぬ懐かしさを覚える。
混迷深まる戦争の時代には、たくさんの人間が参拝し祈りを捧げてきた。神奈子のもとにはその謂れも手伝って、とくに軍人たちが訪れたのを覚えている。
(『チハ』を修理して動かせたのも、彼らの祈りがあればこそだった……)
軍人というのは、上に立つ者ほど神がかりを信じていなかったし、信じて頼ってはいけないと思っていた。それでも彼らや彼らの親類縁者は強く祈り、願いは神霊となって蓄積した。
神奈子の「チハ」に関する知識は、そうした者たちの祈りから生まれる神霊の蓄積の過程で得られたものだった。
こうして「チハ」から生み出される神霊は、あの時代を必死に生きる人々の祈りから生まれた神霊とよく似ている――。
「わかった。……今まで、付き合わせてすまなかったね。ありがとう」
神奈子はとても寂しそうに顔を歪めながら、「チハ」に笑いかけた。それは見送ることを決意した者の表情であった。
◇
幻想郷から「チハ」がいなくなって一月が経つ。
あれから「チハ」は幻想郷の存在を示唆するあらゆる部品を撤去したあと、外の世界に帰って行った。
「チハ」によって大量の参拝客を獲得していた霊夢は、外の世界への帰還に反対したものの、妖怪化したことを伝えると渋々と承諾した。
これ以上、妖怪神社の汚名を着せられたくない、と考えたからである。
「きっと、『チハ』は外の世界でも元気にしていますよ。確かに外の世界の人たちは神様を信じませんけど、悪い人ばかりじゃないです」
「ああ、そうだと良いな……」
早苗は守矢神社の縁側に腰掛ける神奈子にそう言ったが、返ってくるのは生返事だった。
あれから神奈子は、ときおり浮かない表情になる。
「チハ」がいなくなった寂しさもあるが、それよりも外の世界に帰った「チハ」の去就が気になるのだ。
もしも解体処分にでもされたら……。
「おや?」
ばたん、と音が玄関の方向から聞こえて、早苗は首を振った。神奈子に様子を見てくる旨を告げると、玄関へ急ぎ向かう。
すると、久しく使われていない郵便受けが開いて、灰色の新聞紙を挟んでいた。
「新聞? 珍しいですね」
天狗が発行した新聞を配るときは、たいてい空から騒々しく喧伝してばらまくのが通例だった。
それがなにも言わず、郵便受けに届けるだけというのは珍しい。
しかし新聞を広げて一目見ると、早苗は驚き、足早に神奈子のところへと戻った。
「神奈子様、これを見てください」
戻るなりそう言って、早苗は神奈子に新聞を手渡した。
「まさか、これは外の世界の新聞か? 早苗、どこでこんなものを?」
「郵便受けに入っていました」
それは外の世界の大手新聞で、神奈子も驚いたように目を見開いた。
新聞の日付も新しく、外の世界の暦で考えれば、今朝に発行されたばかりのものだろう。
ばさばさと紙の擦れる音をさせながら、神奈子は新聞をめくっていく。
「…………!」
政治家のスキャンダル、どこそこの企業の不祥事、経済の動向、プロスポーツの結果……。
紙面には、外の世界を離れる前と大差ないニュースが並ぶ。
しかし読み進めていくうち、普通ならば見逃してしまいそうな片隅の記事に、神奈子の目は釘付けとなる。
――旧日本軍の戦車並び立つ 自衛隊武器学校。
そこには、陸上自衛隊武器学校の駐屯地祭にて、レストアされた九七式中戦車が、先輩の八九式中戦車と隣り合って佇む写真が掲載されていた。
さらに末裔たる一〇式戦車もそこに加わって、三両が訪れた観客の前でグラウンドを走って回ったという。
「神奈子様、『チハ』ですよ!」
早苗が嬉しそうに目を輝かせ、小さな写真を指差す。
神奈子は早苗ほど表情には出さなかったが、やはり嬉しそうに顔をほころばせ、喜び合った。
(これは、アフター・サービスなのかしら?)
ふと、どこかで覗き見ている主犯の姿がいないかと神奈子は虚空を探すが、ついに空間の切れ目は見当たらなかった。
……幻想郷から「チハ」が去り、しばらく経って、人々の噂にのぼることも少なくなった。
その名残は、各家庭に残された河童謹製グッズだけのように見える。
ただ、寺子屋で用いられる教科書はその行数をわずかに増し、幽霊が大量に現れ花が狂い咲いた異変に関連して、少しだけ七十年前の外界の歴史に触れるようになったのだという。
神奈子様今です!我が主砲受けてみよ!とか期待したけどそんなことはなかった。
あと、稀少な趣味だと言う自覚があるならば、もっともっとディープな内容で書いても良いのよ?
おもしろかったです次作を待ってます。
幻想郷に渡る以前の時代の二柱の様子とか好物なので、感傷に浸る神奈子様もおいしかった。
最後、良い締めでした。ちょっとだけしんみりしちゃった。
とても面白かったです
作者さんの知識や愛がいいスパイスになっていて、なかなか楽しかったです。
山童のサバイバルゲームと組み合わせるとは凄いですね。
戦車の威圧感、半端無いですよね。戦場だったら倍ですね、倍。
「人の世はいつも戦争」ってどこかで聞きましたけど、チハのような戒めを与える過去の遺物が、この言葉を無くす、きっかけになってほしいです。
その時には鎮魂歌として六十年目の東方裁判が流れると嬉しいですね。
...っと、いけない。私も感傷的になってしまった。
まあ、なにはともあれ、守矢組の良い作品をありがとうございました。
これにて失礼いたします。
原隊の中隊長が武器学校の校長になって転勤してたなーw
元戦車乗りだったせいで結構感慨深かったです。
それにしても中隊長w何やってるんッスかw
サバイバルゲームの描写が細かく書かれていてよかったです。
物語も茨歌仙のエピソードとうまく絡めており、色々と納得しながら楽しく読めました。
八坂様が戦車に愛着を抱いたのは、やはり砲身持ちとして親近感が湧いたからですかねぇ。
この件で爆笑しました。……ドイツ軍贔屓としては、Ⅲ号かⅣ号のが良かったですがw
神風のくだりも諏訪大社の伝承を知ってたのでニヤリとできました。
大戦における二柱の心中は、色々な捉え方があって面白いですよね。
複雑な迷路のようにジグザグに、曲がり角だらけに作られる塹壕の取り合いでは、目と鼻の先の距離で突然敵兵や味方の兵士(ガスマスク標準装備)に出くわして、小銃など取り回す間もなくスコップや匕首で殺しあう、というまるで原始時代のような戦闘が起こっていました。同士討ちは頻発していたし、病原菌の溜まった不衛生な泥水に足を浸からせる不衛生な環境は戦闘での傷を化膿させ、破傷風を起こしたといいます。
そも戦車が塹壕を「突破」(ああ、19世紀以前の発想!)するための兵器として生み出されたことを思えば、この作品でチハの相手を誰あろう「塹壕」が務めたことは、適確であると言うより他ありません。
守谷の三人が三様の立場を取っていてそれがまたいい。
こういうSSは貴重なのでぜひまた読んでみたいですね。