「また会えたね雛、ここに来れば会えると思っていたよ」
「にとりさん、何でこんなところまで来たのですか?」
「河童の河流れ、流れ流れてこの海にまできたよ」
「言葉の使い方がおかしいような」
「うん、良く分からないけど」
「最近、郷はどうですか?」
「うん、良いこなのか悪いことなのか分からないことばかりだよ」
「たとえば、どんなことがありましたか?」
「魔理沙が種族魔法使いになって、橙が八雲姓を貰ったけど結局出家したりしたよ」
「なんだか、微妙なことばかりですね」
「でしょ、これが良いことなのか悪いことなのか分からないよ」
「それで? 海まで流れたこの流し雛の私になんのようですか? まさか、おしゃべりにきたわけじゃないですよね?」
「うん、ううん。言いにくいことなんだけどね」
「言いにくくても行ってくれなければ、分かりません」
「どうしようかな」
「にとりさん。あなたの服はぼろぼろ、手には擦り傷だらけ。ここまで来るのに、相当大変だったのでしょう?」
「えーとね。そうだよ。河の底の石に、服や手がすれてぼろぼろになったよ」
「そんな、思いまでしてきたのですから。言いたいことも言わないのですか?」
「そうだね。言わないといけないよね」
「そうですね。言って下さい」
「郷に、私のところに帰って来てくれないかな?」
「にとりさんが私を流したことを忘れたのですか?」
「ごめん、あの時はどうかしてた。雛のいうとおりだった」
「今さら、遅いと思いませんか?」
「遅いかもしれないけど、お願いだから。私が間違っていた」
「あの間違い認めるのですね?」
「うん、認めるよ。きゅうりはどんなに成長しても西瓜にはならなかったよ」
「やっと、分かってくれたのですね」
「時間が掛かちゃったけど、分かったよ。だから、帰ってきて欲しい」
「謝っただけで、許してもらえるとお思いですか?」
「分からない。分からないけど、償うことが出来るか。許してもらえるかわからないけど、帰ってきてよ!」
「……分かりました。郷ににとりの元に帰りましょう」
「雛、ありがとう。ありがとう」
「もう、私のこと流したりしないでくださいね」
雛とにとりの組み合わせを無理やり解釈するなら、技術と危険(厄)
間違いている危険性に対して、その心配を捨てたがやはり間違いがわかり、
間違いを認めるデメリットを受け入れ、その心配する考えを認めるということの暗喩ですかね?
つまり技術に関わるものは心配を洗い流しつつ、失敗したり間違いたらそれを素直に認め、心配を畏れを拾うべきみたいな(邪推)
違ってたらすみません
まさか本当に文字通り「きゅうりはどんなに成長しても西瓜にはならなかった」ことが原因ではないでしょう。
色々妄想の余地があると言えば、そうですが。