――眠れない。
規則正しい生活を心がけ、布団に入って五分で寝つき、日の出と共に目を覚ます。そんな毎日を過ごしている私でさえ、時にはこういうことがあるものだ。原因はよくわからない。今日は特に変わったこともなく、いつもと同じリズムを崩さずにいられた筈なのだが。
ともあれ、眠れないものは仕方がない。私の趣向でこの寝室に時計といったものは置いていないのだが、かなりの時間こうしていたということはわかる。にも関わらず、一向に眠気が来ないどころか、時と共に爛々と目が輝き出すのが自分でも感じられた。
「……はあ」
諦めたように息をつき、のそりと体を起こす。布団に包まれていた部分の肌を、温くなってきた空気がぬるりと舐めた。丁度体温と同じ程度の温かさであり、ひやりとした感触が恋しくもなってくるというものだ。
少しの間、そのままで佇んでみた。周囲は完全に夜の帳が下りてしまっているが、完全に慣れてしまった目にはあまり暗いとは感じられない。むしろ、考えていたよりも明るい、と感じるほどだった。
対して音と言えるものは一切なく、静寂そのものが広がっている。自分の呼吸や衣擦れがやけに大きな音だと感じられ、どこか身じろぎすることすら憚られるような雰囲気があった。
しかし、このままこうしていても仕方がないだろう。まだ日の出までは結構な時間がある筈で、それまでずっとこの姿勢でいることも、それはそれで退屈なものである。しかし、だからといって特にすることもない。そこで、私はふと外の空気を吸いたい気持ちになった。
私の下半身を飲み込んでいた布団から脱出し、立ち上がる。さりさりと轟音を立てるそれを尻目に、傍らの障子に手をかける。この薄い紙を一枚隔てた先には、屋外空間が広がっている。こんな脆弱なもので仕切っているだけなのに、屋内と屋外とではっきりとした境界が敷かれていることに、今更ながら奇妙な感覚を覚えた。
いくら私の目が冴えていようと、他の住民達がそうであるとは限らない。私はできるだけ音を立てないよう気をつけて、そっと障子を開けた。
――思わず、ほう、と感嘆する。
今夜はどうやら月がよく見える夜だったらしい。丁度目の前の空に浮かぶ弓張月が、煌々と光って見えたのだ。幽かに漂う雲がそれを隠し、少しだけ輪郭をぼやけさせている。
幽玄、とでも言うのだろうか。生憎私はそうした雅なことに疎いので、それを上手く表現する言葉が思い浮かばない。しかし、それを曖昧ながらも美しいと思う心は、辛うじて持っていたようだった。
「……いい月ね」
鋭利さと柔和さを併せ持った様を体現したような月を見て感嘆し、緩く流れる風に乗る空気を全身で感じる。やや湿気の強い空気ではあったが、寧ろそれが心地よいと思えた。
――ふと、その光景に違和感を感じる。
亀の如き歩みで空を舞っている雲の動きが、どこか不自然であるように感じられたのだ。具体的にどのあたりが、と言われても指摘することなど出来ないが、確かに感じる。
どのあたりが異様であるのか、それを見極めようと雲を凝視していると、その答えは自ずと解明された。
丁度私が見ていた、月を隠すように漂う雲。それが突然、ぞろりと活発に動き始めたのだ。それはまるで意思を持っているかのように蠢いている。じっと見ているとその動きは更に激しくなり、やがて明確に方向を決めて動き出したのだ。
その動きの先にあるのは、私だ。
まるでこの世の光景とは思えないそれを見ても尚、私の心が泡立つことはない。多くの人にとってそれは異常事態である筈のそれは、私にとっては気心の知れた、極日常的な光景だったからだ。
やがてその雲は私の元へと到達し、まとわりつくようにして私の周囲に位置すると、一部分に厳つい男性の顔を象って小さくなった。
「――なんだ、雲山だったの」
一見するとただの雲や霞にも見える彼は、私の相棒である。今は私の頭ほどの大きさで収まっているが、その気になれば村一つを覆い尽くす程の大きさにもなれる、入道という歴とした妖怪変化なのだ。
対する私はそうした者を操る、入道使いというこれまた妖怪である。私自身にこれといった力はないので、人間とどこが違うのかと問われたら返答に困るが、とにかく妖怪だ。
そうした間柄ではあるが、四六時中共に過ごしているというわけではない。例えば今回の就寝中や食事、風呂など、彼と離れて行動する機会は多い。その間彼がどう過ごしているのかを私は知らないが、彼にも一人の時間というものが欲しいのだろうと、特に用がある時でなければ放っておいているのだ。
「一体何をしていたの?――雲に混じって遊んでいた。変な遊びもあるものねえ」
彼の言葉は私達のような、声に出したり文字にしたりすることができるものではない。そもそも彼に発声器官というものは存在しないのだ。意思伝達は全て微妙な動きや表情で行う。この狭い幻想郷でそれを読み取れるのは、恐らく私だけだろう。
「私?ちょっと、眠れなくてね。どうしようかと思っていたところなの」
何か、よく眠れる方法はないかしら――そう尋ねると、彼は眉間に皺を寄せ、難しい顔をして黙り込んでしまった。
実のところ、それほど期待して聞いたわけでもない。先ほどまでの様子を鑑みればわかることだが、彼には睡眠や食事といったものが必要ではないのだ。恐らく、私が就寝している間は先ほどのようにふわふわと漂って時を過ごしていたのだろう。そんな彼に睡眠の導入について尋ねてみたところで、実のある答えはでないだろう、と考えていたのだ。
それでも真剣に考えている様子の彼を見て、私はくすりと微笑む。そして、何をするでもなく、煌々と輝く月を見上げた。こうなれば、この勢いのままに朝を待つとしようか、という心づもりでいたのだ。
変化が訪れたのは、その時だった。
「え――雲山?」
彼は突然その身を朧にしたかと思うと、わたしの周囲を取り囲むように広がり始めた。はじめは向こう側が透けて見えるほどの密度だったものが、徐々にその存在感を強くしていき、やがては手で触れることができるほどのものになっていく。
そうしている間も、私を包囲することはやめず、むしろその包囲は小さくなっていくようだった。
私はそんな光景を、微睡みの中にいるようなぼんやりとした気分で見ていた。彼のこうした行動は見たことがなく、私にとっても異質なものではあったが、長年連れ添ってきた相棒が今更私に危害を加えるはずもない、と為すがままだ。
やがて、雲山は私の体をすっぽりと覆い包むような形になる。全身に雲のようなふわふわとした感触があり、ほんのりと温かい。率直に言って、それはとても心地のよいものだった。
そうして私が感触を楽しんでいると、彼は突然私の体を包んだまま浮かび上がる。
「――わ、あ」
これには、私もたまらず声をあげた。一応、私も自分で空を飛ぶことはできるのだが、誰かに持ち上げられる、ということは久しくなかったことである。自分の視点がぐんぐんと高くなり、屋根を見下ろすまでになることには慣れていたが、それに自分の意思が伴っていないことは新鮮なものである。
高度はゆっくりとだが確実に高くなっていき、屋根はおろか、立ち並ぶ木々や山さえも見下ろせるくらいにまでなった。それでも彼は止まることを知らず、より高くへと上っていく。
「雲山、一体どうしたの?」
私がそう問いかけても彼は答えず、無言のままに私を高みへと運んでいく。そこに敵意や害意などがないことは私が一番よくわかっているのだが、何をしているのか、という困惑だけは隠すことができなかった。
徐々に速度を上げていっているのか、唯一彼に包まれていない部分である頭部にあたる風が、少し強くなっているように感じられた。しかし、その指標となりそうなものは既に遥か眼下にあり、自分のあやふやな感覚だけがそれを知らせる。
やがて高度は空を往く雲に手が届くほどになり、その中へと潜り込んでいく。雲の中に蓄えられた水分が私の髪にまとわりついて、にわかに頭が重くなった。
そして、雲を突き抜けたところで彼は上るのを止めた。いくら私が空を飛べるとはいえ、こんなところにまで来たのは初めてのことである。
「ねえ、雲山。こんなところに来て、何かあるの?」
私がそう問いかけると、彼は僅かな手振りで頭上を指し示した。私は素直に従い、頭を持ち上げる。
――そこあったのは、満天の星空、という表現が相応しい夜空だった。
まるで、夜空の黒い部分を塗りつぶそうとしているようだ。そう思えるほどに沢山の星が、この空に存在している。太陽が出ているわけでもないのに、その光で目が眩んでしまいそうだ。
数が多いことの例えとして、「星の数程」という言葉がよく用いられるが、これから私はおいそれとその言葉を使うことはできないだろう。何しろ、これに例えられる程多くの数といったら、木々の生い茂る森に存在する葉の数とか、この世界に存在する砂粒の数とか、そういうものくらいしか想像できないからだ。
視界を遮ってしまう雲の上にいるからか、それともずっと星に近い位置にいるからか。星空の中でも一際大きく輝く月は、地上からのそれよりもずっと強く輝いて見えて、周囲の星々を率いるように鎮座している。
私は、この目が草食動物のそれでないことを悔やんだ。人の持つそれと同じ形をした目は、この星空を一片に収めるにはあまりにも視野が狭すぎる。それでも私は、少しでも広く星空を捉えるため、その瞼をいっぱいまで広げて見つめていた。
ふと、視界の端に何かを捉える。半ば反射的にそちらを見ると、その正体は雲山だった。いつもと同じ男性の顔を作り出し、私の顔をのぞき込んでいるようだ。そして、その顔には僅かな笑みが湛えられている。
そこで、私は口をずっと開けっ放しにしていることに気づいた。自らの常識に余りあるこの光景に、呆気にとられていたらしい。そんな私の顔は、それはもう間抜けな顔だったに違いない。
慌てて口を閉じ、きりっとした表情を作ろうと試みるが、そんな仕草でさえ彼にとっては微笑ましいものだったらしい。先ほどよりも笑みを深め、じっとこちらを見つめている。私は気恥ずかしさと居心地の悪さを誤魔化そうと、なんとなく口を開いた。
「――雲山」
そう言って私はもう一度目を空に向ける。それを受けて、雲山も星空を見るのが気配でわかった。
「いつもこんな景色を見ていたの?」
肯定の意思が伝えられる。ついさっきまで雲に混じって浮かんでいたのは、きっとそういうことなのだろう。姿形が雲に似ているから、そんな風にしているのが落ち着くというのもあるのかもしれないが。
羨ましいものだ。彼は日頃から、こんな景色を独り占めしていたのだろうか。例え雨が降り、雲が空を覆ったとしてもその上を位置取ってしまえば関係はなくなる。寧ろ、雲が多い分彼にはいい環境なのかもしれない。
しかしどうして突然、こんなものを見せてくれたのだろう。これを発見できたことは嬉しいが、何か彼を掻き立てる出来事があっただろうか。そう思い、私は記憶を探ってみるが、これといったものは思い当たらない。
そんな私の様子に気づいたのか、彼はある意思を伝えてきた。
「私と一緒に見たかった?」
そんなもの、いつでも言ってくれれば――と考えた瞬間、それに思い至り苦笑した。
「そういや、私は夜寝ているものね」
そう、私は規則正しく清い生活を送る尼の端くれである。日の出と共に目を覚ますのであれば、床に就くのもそれなりに早い時間となる。そんな生活をしていては、ゆっくりと星空を眺める時間など余りないだろう。
元より彼は自身の考えや感情を表に出すことはあまりない。周期的なものとなっている私の生活を崩してまで、と考えたに違いない。
そうして、既に眠ってしまった私をよそに、一人寂しく夜空を見つめる雲山を夢想し、苦笑は微笑みに変わった。
「何よ、あなたの方が可愛いじゃない」
想像の中でそうしている雲山は、まるで主人に構ってもらえず隅っこで不貞腐れている犬のようだった。ちらちらとこちらの様子を窺う姿まで容易に思い浮かべることができる。
すると突然、雲山が体全体を身震いさせた。まさにその体に包まれている私にも振動は伝わり、少しだけ動揺する。それは先程から私が読み取っていた彼の言葉ではないが、意思表示には変わらない仕草である。人に例えるなら、口を尖らせることや眉間に皺をよせることが近いだろう。
私は可笑しさをこらえきれず、くすくすという声が漏れだした。どうやら雲山は少しへそを曲げてしまったようで、男性のそれを象った顔もそっぽを向いてしまっている。それを見た私はどうにか声を押し留め、もう一度空を見上げた。
先程と変わらないその光景は、果てしなく遠いはずなのにとても身近なものであるように見えた。それはきっと、私が生まれる前からそこにあり、いつか私が死んだ後にもずっとあり続けるからだろう。私のような存在など、この空に比べたらちっぽけなものなのだ。
美しく思うことと同時に、どこか懐かしさのようなものを感じる。その気持ちがどこから来たものなのか、私に正解を導き出すことはできるのだろうか。
「ねえ、雲山」
再三、私は彼の名を呼ぶ。顔は虚空へ向けたまま、彼は意識だけでこちらを見る。長年の付き合いだ、その程度言葉や身振りを介さなくても判る。
「――ありがとう」
そう言うと、彼は少しだけ体を動かしてより深く私を包み込んだ。同時に、じんわりとその温もりが伝わってくる。私はそれに抵抗することなく、体の力を抜いて身を彼に委ねた。
雲を思わせる彼の体は、羽毛や布団と似ているようで、少し違う感触だった。それらよりも遥かに軽く優しく、それでいてしっかりと私を包んでいる。
まるで胎内を思わせるその温もりは、私の瞼に重力を与えるに十分な威力を持っていた。
――胎内、か。
つま先だけで崖に立つような、そんなぎりぎりの意識で朧気に思う。
――変なの。
それが私の浮かべた最後の考えだった。
◆
――目が覚めると、そこは私の部屋だった。
自分がいつ目を開けたのかよくわからない、そんな目覚めだ。よもや目を開けて寝ていたのか、と考えてそんな筈はないと思い直す。
開かれた私の目には暖かな陽光が飛び込んでいた。どうやら今日はとてもいい天気のようだ。きっと洗濯物がよく乾くことだろう。しかし、それは同時に皆が汗だくになってしまうことも意味している。洗濯日和とは、洗濯に最適な日ではない。洗濯を強いられるという日のことだ。
――いや、そうじゃなくて。
私は横たえていた体を起こして布団をどける。やや多めに汗が染み込んだ襦袢は少し肌蹴、鎖骨から肩口までの線を艶かしく強調しているようだ。私はそんな自分の様相に気も留めず、障子から差し込む、少し――かなり強めの陽光を凝視していた。
戸惑いに胸を高鳴らせる。断じてこれは期待や高揚といったものではない。布団から這い出して障子の前に立つ。真っ白な紙が光を弾いて、目が眩んでしまいそうだ。
おそるおそる障子を開けてみると、日は既に中天へと昇っていた。
「――雲山」
呟くが、返事はない。どこかへ行っているのか、聞いていて姿を現さないのか。どちらにせよ、今は――たった今だけは重要なことではない。私は障子戸も閉めず、いつもの尼僧服へと着替えるべく襦袢を脱ぎ捨てた。
規則正しい生活を心がけ、布団に入って五分で寝つき、日の出と共に目を覚ます。そんな毎日を過ごしている私でさえ、時にはこういうことがあるものだ。原因はよくわからない。今日は特に変わったこともなく、いつもと同じリズムを崩さずにいられた筈なのだが。
ともあれ、眠れないものは仕方がない。私の趣向でこの寝室に時計といったものは置いていないのだが、かなりの時間こうしていたということはわかる。にも関わらず、一向に眠気が来ないどころか、時と共に爛々と目が輝き出すのが自分でも感じられた。
「……はあ」
諦めたように息をつき、のそりと体を起こす。布団に包まれていた部分の肌を、温くなってきた空気がぬるりと舐めた。丁度体温と同じ程度の温かさであり、ひやりとした感触が恋しくもなってくるというものだ。
少しの間、そのままで佇んでみた。周囲は完全に夜の帳が下りてしまっているが、完全に慣れてしまった目にはあまり暗いとは感じられない。むしろ、考えていたよりも明るい、と感じるほどだった。
対して音と言えるものは一切なく、静寂そのものが広がっている。自分の呼吸や衣擦れがやけに大きな音だと感じられ、どこか身じろぎすることすら憚られるような雰囲気があった。
しかし、このままこうしていても仕方がないだろう。まだ日の出までは結構な時間がある筈で、それまでずっとこの姿勢でいることも、それはそれで退屈なものである。しかし、だからといって特にすることもない。そこで、私はふと外の空気を吸いたい気持ちになった。
私の下半身を飲み込んでいた布団から脱出し、立ち上がる。さりさりと轟音を立てるそれを尻目に、傍らの障子に手をかける。この薄い紙を一枚隔てた先には、屋外空間が広がっている。こんな脆弱なもので仕切っているだけなのに、屋内と屋外とではっきりとした境界が敷かれていることに、今更ながら奇妙な感覚を覚えた。
いくら私の目が冴えていようと、他の住民達がそうであるとは限らない。私はできるだけ音を立てないよう気をつけて、そっと障子を開けた。
――思わず、ほう、と感嘆する。
今夜はどうやら月がよく見える夜だったらしい。丁度目の前の空に浮かぶ弓張月が、煌々と光って見えたのだ。幽かに漂う雲がそれを隠し、少しだけ輪郭をぼやけさせている。
幽玄、とでも言うのだろうか。生憎私はそうした雅なことに疎いので、それを上手く表現する言葉が思い浮かばない。しかし、それを曖昧ながらも美しいと思う心は、辛うじて持っていたようだった。
「……いい月ね」
鋭利さと柔和さを併せ持った様を体現したような月を見て感嘆し、緩く流れる風に乗る空気を全身で感じる。やや湿気の強い空気ではあったが、寧ろそれが心地よいと思えた。
――ふと、その光景に違和感を感じる。
亀の如き歩みで空を舞っている雲の動きが、どこか不自然であるように感じられたのだ。具体的にどのあたりが、と言われても指摘することなど出来ないが、確かに感じる。
どのあたりが異様であるのか、それを見極めようと雲を凝視していると、その答えは自ずと解明された。
丁度私が見ていた、月を隠すように漂う雲。それが突然、ぞろりと活発に動き始めたのだ。それはまるで意思を持っているかのように蠢いている。じっと見ているとその動きは更に激しくなり、やがて明確に方向を決めて動き出したのだ。
その動きの先にあるのは、私だ。
まるでこの世の光景とは思えないそれを見ても尚、私の心が泡立つことはない。多くの人にとってそれは異常事態である筈のそれは、私にとっては気心の知れた、極日常的な光景だったからだ。
やがてその雲は私の元へと到達し、まとわりつくようにして私の周囲に位置すると、一部分に厳つい男性の顔を象って小さくなった。
「――なんだ、雲山だったの」
一見するとただの雲や霞にも見える彼は、私の相棒である。今は私の頭ほどの大きさで収まっているが、その気になれば村一つを覆い尽くす程の大きさにもなれる、入道という歴とした妖怪変化なのだ。
対する私はそうした者を操る、入道使いというこれまた妖怪である。私自身にこれといった力はないので、人間とどこが違うのかと問われたら返答に困るが、とにかく妖怪だ。
そうした間柄ではあるが、四六時中共に過ごしているというわけではない。例えば今回の就寝中や食事、風呂など、彼と離れて行動する機会は多い。その間彼がどう過ごしているのかを私は知らないが、彼にも一人の時間というものが欲しいのだろうと、特に用がある時でなければ放っておいているのだ。
「一体何をしていたの?――雲に混じって遊んでいた。変な遊びもあるものねえ」
彼の言葉は私達のような、声に出したり文字にしたりすることができるものではない。そもそも彼に発声器官というものは存在しないのだ。意思伝達は全て微妙な動きや表情で行う。この狭い幻想郷でそれを読み取れるのは、恐らく私だけだろう。
「私?ちょっと、眠れなくてね。どうしようかと思っていたところなの」
何か、よく眠れる方法はないかしら――そう尋ねると、彼は眉間に皺を寄せ、難しい顔をして黙り込んでしまった。
実のところ、それほど期待して聞いたわけでもない。先ほどまでの様子を鑑みればわかることだが、彼には睡眠や食事といったものが必要ではないのだ。恐らく、私が就寝している間は先ほどのようにふわふわと漂って時を過ごしていたのだろう。そんな彼に睡眠の導入について尋ねてみたところで、実のある答えはでないだろう、と考えていたのだ。
それでも真剣に考えている様子の彼を見て、私はくすりと微笑む。そして、何をするでもなく、煌々と輝く月を見上げた。こうなれば、この勢いのままに朝を待つとしようか、という心づもりでいたのだ。
変化が訪れたのは、その時だった。
「え――雲山?」
彼は突然その身を朧にしたかと思うと、わたしの周囲を取り囲むように広がり始めた。はじめは向こう側が透けて見えるほどの密度だったものが、徐々にその存在感を強くしていき、やがては手で触れることができるほどのものになっていく。
そうしている間も、私を包囲することはやめず、むしろその包囲は小さくなっていくようだった。
私はそんな光景を、微睡みの中にいるようなぼんやりとした気分で見ていた。彼のこうした行動は見たことがなく、私にとっても異質なものではあったが、長年連れ添ってきた相棒が今更私に危害を加えるはずもない、と為すがままだ。
やがて、雲山は私の体をすっぽりと覆い包むような形になる。全身に雲のようなふわふわとした感触があり、ほんのりと温かい。率直に言って、それはとても心地のよいものだった。
そうして私が感触を楽しんでいると、彼は突然私の体を包んだまま浮かび上がる。
「――わ、あ」
これには、私もたまらず声をあげた。一応、私も自分で空を飛ぶことはできるのだが、誰かに持ち上げられる、ということは久しくなかったことである。自分の視点がぐんぐんと高くなり、屋根を見下ろすまでになることには慣れていたが、それに自分の意思が伴っていないことは新鮮なものである。
高度はゆっくりとだが確実に高くなっていき、屋根はおろか、立ち並ぶ木々や山さえも見下ろせるくらいにまでなった。それでも彼は止まることを知らず、より高くへと上っていく。
「雲山、一体どうしたの?」
私がそう問いかけても彼は答えず、無言のままに私を高みへと運んでいく。そこに敵意や害意などがないことは私が一番よくわかっているのだが、何をしているのか、という困惑だけは隠すことができなかった。
徐々に速度を上げていっているのか、唯一彼に包まれていない部分である頭部にあたる風が、少し強くなっているように感じられた。しかし、その指標となりそうなものは既に遥か眼下にあり、自分のあやふやな感覚だけがそれを知らせる。
やがて高度は空を往く雲に手が届くほどになり、その中へと潜り込んでいく。雲の中に蓄えられた水分が私の髪にまとわりついて、にわかに頭が重くなった。
そして、雲を突き抜けたところで彼は上るのを止めた。いくら私が空を飛べるとはいえ、こんなところにまで来たのは初めてのことである。
「ねえ、雲山。こんなところに来て、何かあるの?」
私がそう問いかけると、彼は僅かな手振りで頭上を指し示した。私は素直に従い、頭を持ち上げる。
――そこあったのは、満天の星空、という表現が相応しい夜空だった。
まるで、夜空の黒い部分を塗りつぶそうとしているようだ。そう思えるほどに沢山の星が、この空に存在している。太陽が出ているわけでもないのに、その光で目が眩んでしまいそうだ。
数が多いことの例えとして、「星の数程」という言葉がよく用いられるが、これから私はおいそれとその言葉を使うことはできないだろう。何しろ、これに例えられる程多くの数といったら、木々の生い茂る森に存在する葉の数とか、この世界に存在する砂粒の数とか、そういうものくらいしか想像できないからだ。
視界を遮ってしまう雲の上にいるからか、それともずっと星に近い位置にいるからか。星空の中でも一際大きく輝く月は、地上からのそれよりもずっと強く輝いて見えて、周囲の星々を率いるように鎮座している。
私は、この目が草食動物のそれでないことを悔やんだ。人の持つそれと同じ形をした目は、この星空を一片に収めるにはあまりにも視野が狭すぎる。それでも私は、少しでも広く星空を捉えるため、その瞼をいっぱいまで広げて見つめていた。
ふと、視界の端に何かを捉える。半ば反射的にそちらを見ると、その正体は雲山だった。いつもと同じ男性の顔を作り出し、私の顔をのぞき込んでいるようだ。そして、その顔には僅かな笑みが湛えられている。
そこで、私は口をずっと開けっ放しにしていることに気づいた。自らの常識に余りあるこの光景に、呆気にとられていたらしい。そんな私の顔は、それはもう間抜けな顔だったに違いない。
慌てて口を閉じ、きりっとした表情を作ろうと試みるが、そんな仕草でさえ彼にとっては微笑ましいものだったらしい。先ほどよりも笑みを深め、じっとこちらを見つめている。私は気恥ずかしさと居心地の悪さを誤魔化そうと、なんとなく口を開いた。
「――雲山」
そう言って私はもう一度目を空に向ける。それを受けて、雲山も星空を見るのが気配でわかった。
「いつもこんな景色を見ていたの?」
肯定の意思が伝えられる。ついさっきまで雲に混じって浮かんでいたのは、きっとそういうことなのだろう。姿形が雲に似ているから、そんな風にしているのが落ち着くというのもあるのかもしれないが。
羨ましいものだ。彼は日頃から、こんな景色を独り占めしていたのだろうか。例え雨が降り、雲が空を覆ったとしてもその上を位置取ってしまえば関係はなくなる。寧ろ、雲が多い分彼にはいい環境なのかもしれない。
しかしどうして突然、こんなものを見せてくれたのだろう。これを発見できたことは嬉しいが、何か彼を掻き立てる出来事があっただろうか。そう思い、私は記憶を探ってみるが、これといったものは思い当たらない。
そんな私の様子に気づいたのか、彼はある意思を伝えてきた。
「私と一緒に見たかった?」
そんなもの、いつでも言ってくれれば――と考えた瞬間、それに思い至り苦笑した。
「そういや、私は夜寝ているものね」
そう、私は規則正しく清い生活を送る尼の端くれである。日の出と共に目を覚ますのであれば、床に就くのもそれなりに早い時間となる。そんな生活をしていては、ゆっくりと星空を眺める時間など余りないだろう。
元より彼は自身の考えや感情を表に出すことはあまりない。周期的なものとなっている私の生活を崩してまで、と考えたに違いない。
そうして、既に眠ってしまった私をよそに、一人寂しく夜空を見つめる雲山を夢想し、苦笑は微笑みに変わった。
「何よ、あなたの方が可愛いじゃない」
想像の中でそうしている雲山は、まるで主人に構ってもらえず隅っこで不貞腐れている犬のようだった。ちらちらとこちらの様子を窺う姿まで容易に思い浮かべることができる。
すると突然、雲山が体全体を身震いさせた。まさにその体に包まれている私にも振動は伝わり、少しだけ動揺する。それは先程から私が読み取っていた彼の言葉ではないが、意思表示には変わらない仕草である。人に例えるなら、口を尖らせることや眉間に皺をよせることが近いだろう。
私は可笑しさをこらえきれず、くすくすという声が漏れだした。どうやら雲山は少しへそを曲げてしまったようで、男性のそれを象った顔もそっぽを向いてしまっている。それを見た私はどうにか声を押し留め、もう一度空を見上げた。
先程と変わらないその光景は、果てしなく遠いはずなのにとても身近なものであるように見えた。それはきっと、私が生まれる前からそこにあり、いつか私が死んだ後にもずっとあり続けるからだろう。私のような存在など、この空に比べたらちっぽけなものなのだ。
美しく思うことと同時に、どこか懐かしさのようなものを感じる。その気持ちがどこから来たものなのか、私に正解を導き出すことはできるのだろうか。
「ねえ、雲山」
再三、私は彼の名を呼ぶ。顔は虚空へ向けたまま、彼は意識だけでこちらを見る。長年の付き合いだ、その程度言葉や身振りを介さなくても判る。
「――ありがとう」
そう言うと、彼は少しだけ体を動かしてより深く私を包み込んだ。同時に、じんわりとその温もりが伝わってくる。私はそれに抵抗することなく、体の力を抜いて身を彼に委ねた。
雲を思わせる彼の体は、羽毛や布団と似ているようで、少し違う感触だった。それらよりも遥かに軽く優しく、それでいてしっかりと私を包んでいる。
まるで胎内を思わせるその温もりは、私の瞼に重力を与えるに十分な威力を持っていた。
――胎内、か。
つま先だけで崖に立つような、そんなぎりぎりの意識で朧気に思う。
――変なの。
それが私の浮かべた最後の考えだった。
◆
――目が覚めると、そこは私の部屋だった。
自分がいつ目を開けたのかよくわからない、そんな目覚めだ。よもや目を開けて寝ていたのか、と考えてそんな筈はないと思い直す。
開かれた私の目には暖かな陽光が飛び込んでいた。どうやら今日はとてもいい天気のようだ。きっと洗濯物がよく乾くことだろう。しかし、それは同時に皆が汗だくになってしまうことも意味している。洗濯日和とは、洗濯に最適な日ではない。洗濯を強いられるという日のことだ。
――いや、そうじゃなくて。
私は横たえていた体を起こして布団をどける。やや多めに汗が染み込んだ襦袢は少し肌蹴、鎖骨から肩口までの線を艶かしく強調しているようだ。私はそんな自分の様相に気も留めず、障子から差し込む、少し――かなり強めの陽光を凝視していた。
戸惑いに胸を高鳴らせる。断じてこれは期待や高揚といったものではない。布団から這い出して障子の前に立つ。真っ白な紙が光を弾いて、目が眩んでしまいそうだ。
おそるおそる障子を開けてみると、日は既に中天へと昇っていた。
「――雲山」
呟くが、返事はない。どこかへ行っているのか、聞いていて姿を現さないのか。どちらにせよ、今は――たった今だけは重要なことではない。私は障子戸も閉めず、いつもの尼僧服へと着替えるべく襦袢を脱ぎ捨てた。
丁寧な描写で魅力的な一輪・雲山でした
一輪と雲山はいいコンビですね
雲山氏、「見せてやりたかった」と言えば少しは格好がついたものをw
二人の関係も、守り守られし大輪、というのは少し違う、けれども素敵な関係でよかったです。