――なんか最近背筋がぞわぞわする。
肌に浮かぶ鳥肌を撫で擦り、洩矢諏訪子は鳥居の上で思わずぶるりとその身を縮めた。
鳥居から見下ろす景色はあんなにも夏の陽気に浮かれているというのに、理不尽だ。
そんな苛立ち紛れにピョンと跳ねて鳥居から飛び降りた諏訪子は、続けてピョンピョン拍子をつけて跳ねて行く。
そろそろお昼だし、早苗の御飯を食べれば少しは気分も明るくなるだろう、そんな目論見である。
跳ねて跳ねて本殿ではなく、早苗と共に起居する自宅の玄関口に立ち戸口を開ける。
「おーい早苗ー!! 御飯できてるー?」
「はーい、できてますよー。居間に持って行きますんでそっちで待ってて下さーい!!」
元気な声で諏訪子が叫ぶ。彼女らしいといえばらしいのだが今回ばかりはその声に幾分か空元気の意味が含まれていたかもしれない。
とは言ってもそれは当人すら気付かぬような微量な気持ちだったので帰ってくる早苗の声にはなんの変化も及ばさなかったようだが。
しかしそれにしてもタイミングがいい、小さなことだけど景気付けには十分だ。
ほんの少し気分を上向きにできた諏訪子はそれなりの上機嫌で居間に向かって駆けていく。
「おや諏訪子。随分いい時間に来るんだねぇ。狙ってたのかい?」
「狙ってなんかいないよ、偶然だよぐーぜん。多分日頃の行いがいいから神様が図らってくれたんじゃないかなぁ?」
「神様はお前さんだろ?」
「あはは、そうなんだけどね。私が信仰する半神様は私に御飯作ってくれる優しい子だからそんなの気にしないと思うな」
「御飯が対価とは随分安いな洩矢神の信仰。ミシャグジのボスが軽々にそんなこと言っていいのかい?」
諏訪子が居間に着くと守矢神社に祀られるもう一柱の神、八坂神奈子がおひつから茶碗に御飯をよそいつつ、そんな言葉をフランクな調子で投げてきた。信仰が集まりやすいからという理由の軽い口調らしいが、もしかするとこっちが地なのかもしれない。
「ミシャグジ? なにそれ、あんたが持ってるのの親戚? それより今日の献立はなんなのさ? お粥はもうやだよ」
「うわ、軽く本気っぽいよこの娘。あとお粥を蔑ろにすると守矢の祭神権限でご飯抜きだけどいいの?」
「う、あーうーそりゃ勘弁だよー」
神奈子は手にしたシャモジをおひつに放り込んで立ち上がり、本気で嫌がっている諏訪子に苦笑しながら大盛り白米をよそった茶碗を渡す。
「ま、お粥の奥深さをあんたに教えるのは今度にするとして……今日の献立は私も知らないんだよ。早苗がないしょって言うんでねぇ」
「おお、出たね早苗のシークレット料理。今度は当たりかな? 外れかな?」
「さぁ、どうだろうね……せっかくだ、賭けようか?」
「乗った。私は当たりに秘蔵の焼酎を賭けるよ」
「それじゃ私は外れに大吟醸を……はは、今日の晩酌が楽しみだねぇ」
「へん、そう言っていられるのも今の内だよ。勝つのは私だからね」
ニタリと勝負師の笑みを浮かべた神奈子が片膝立てて座布団に腰を据える。そんな神奈子を見て腹を括った諏訪子も座布団の上にどかりと腰を降ろした。
早苗が献立に対してないしょの四文字を使用した時、守矢神社は闇鍋会場と化す。早苗当人は珍しくて美味しい物を出しているつもりなのだが、どこかずれたところのある早苗がそういう事をするとどうしても当たり外れが出てしまうのだった。もっとも、守矢の祭神二柱はそのギャンブル性すら楽しんでいるのだが。
「あれで早苗は普通に料理上手だからね。二、三度当たりが続いてくると思うよ?」
「いやいや前回のキノコは結構な大当たりだったからね、きっと今回は外れだと私は読むね」
「……三連敗中の分際で吠えるね神奈子?」
「言ってろ蛙、ここ一番で私が勝つってのは昔からの決まり事だろ?」
それぞれの見解を卓上で披露して火花を散らす二人。献立当て勝負でそこらの妖怪なら卒倒するような戦意をぶつけ合うのは、軍神と祟り神の面目躍如といったところだろうか。迸る戦意に当てられポトリと落ちた庭のすずめ達がいとあわれ。
「はーい、今日のメインをお持ちしましたよー!!」
「「待ってました……!」」
そして、そんな二人の間に躊躇なく入っていけるのが守矢神社風祝の凄いところである。
早苗は銀色のクロッシュで中身を隠した大皿をにこにこ笑顔で丸いちゃぶ台の真ん中に据え置く。それを見る神二人の目付きは料理を楽しみにする美食人というより、麻雀で倍プッシュを宣言する雀士のようであった。
「今日の料理は今人里でもイチオシの品です。いやーこれを子供達に混じって川で獲ってくるのは大変でした」
(川ッ!? まずい!!)
(よしっ!! 四連勝達成!!)
早苗の前口上を聞いて明暗キッパリ分かれる二人の内心。
川で獲ってきたということは恐らく皿の中身は魚だろう。そして、得てしてゲテモノに分類される魚というのはどれも海産である。二人の内心の差はそんな事情から発した物であった。
「早苗早苗、大変だったのは解ったから早く開けようよ」
「く、そうね。敗北を受け入れる度量もまた、神には必要だものね……」
「え、ええと、なぜ神奈子様が落ち込まれているのか解りませんけど……とにかく開けますね!! はい、本日のメインはこちら『タガメの唐揚げ』です!!」
「勝ったぁーー!! ……え?」
「く、負けた……は?」
料理番組の司会のような通る声でそのラストワードを叫ぶ早苗。
喜色に満ちた諏訪子の笑顔がひび割れ、悔恨に染まる神奈子の目が驚きで見開かれる。
「「タ、タガメぇえ!?」」
「はい、タガメです。『外』ではタイやラオスで古くから食されてきた、由緒正しき食材です」
どこから取り出したのか愛用の御幣を振り回して早苗はタガメの素晴らしさを語る。
曰く結構美味しいらしい、曰く栄養価が高い、曰くカッコイイ、そしてなにより……
「今、人里ではタガメが大流行してるんです!! これに乗り遅れたら子供にも指さして笑われます!!」
(……それが一番の理由だね、間違いなく)
神奈子は熱意溢れる早苗をジト目で見やりつつ、そう結論付けた。
昔から早苗は流行り物に弱かった。幻想郷に来てからは何か変な方向にはっちゃけてしまい特にその傾向が増したように思う。常識が当てにならないなら流行りに乗ればいいのです!! とか言ってたし。言ってたっけ?
「という訳でどうぞ神奈子様!!」
「う、私からかい? うう……」
神奈子は恐る恐る大皿の中身に目をやる。実はこの神様、今の今まで大皿から目を逸らし続けてタガメが目に入らないようにしていたりする。
……文句あるか、虫はいやなんだ神の前に女子として。そんな思いを早苗の期待に満ちた視線を糧に封じ込め、神奈子は改めて大皿に向き直る。
「う……」
目、目があった~。神奈子は心の中で滂沱した。
早苗特製のタガメ唐揚げは衣が薄めで、タガメの虫っぽさが見た目の前面に押し出されており正直ちょっと直視するのも厳しいものがあった。
なんというかタガメの黒い目がジャコや海老のようにこちらを見ているのが怖い。立派な前肢とかも今にも動き出しそうでとても怖い。
「ぐ、こ、これは流石に……そ、そうだ!! 私より諏訪子に食べさせてやったらどうだ!? 諏訪子は虫好きだろう!?」
隣の蛙神ならきっとケロケロ笑ってこの虫達を食べてくれる!! そんな期待を胸に神奈子は諏訪子の方に早苗の勧めをスルーパス。
そして、そのパスを受けた諏訪子は見事に、
「す、諏訪子?」
「け、か、く……」
「す、諏訪子様? どうしました?」
「く、く、く、く……」
パスを顔面で受け止めキャッチ失敗。というより、その土気じみた顔色と滲み出る脂汗の量を見るに神奈子の言葉を聞いていたかどうかが怪しい。どういう原理か頭に被ったヘンテコ帽子まで白目を向いていた。そして……
「く、くぁがめだぁぁあぁぁあああああぁぁあああああぁああ!? いやーーー!!! ぎゃーーー!!!」
「諏訪子!? どこ行くんだい諏訪子ー!!」
咆哮一過、諏訪子がカエルジャンプで居間から縁側、そして庭までを一飛びで飛び越え走り去っていく。
その疾走が生み出す土煙は見る間に諏訪子の姿を覆い隠し、後には唖然とした神奈子と早苗の二人が寂しく取り残された。
「な、なんだって言うのよ? あいつは昔から虫とか結構いけた口のはずなのに……」
「……う、うわぁぁぁあん!!」
「こ、今度はなに!?」
突如として走り去った諏訪子に思わずポツリと漏れ出た神奈子の言葉を聞いて、早苗がちゃぶ台に突っ伏し泣き出した。
いい加減連続する突然の事態に混乱してきた神奈子だったが、目に入れても痛くない程可愛がっている早苗の涙は看過し得なかったようである。
「しくしく……せっかく、せっかく御二方に喜んで貰おうと思って用意した料理が……まさか、まさかピンポイントで諏訪子様の嫌いな物だったなんて!! 早苗はダメな子です!! 風祝じゃなくダメはふりですー!!」
「待った待った、そんな事無いから早苗!! あいつが好き嫌いとか有り得ないから!!」
「じゃ、じゃあなんで諏訪子様はあんな全力全開で逃げちゃったんですか?」
「ぐ、そ、それは……」
涙目でこちらを見上げる早苗の視線に神奈子はたじろぐ。
神奈子が知る限り諏訪子に好き嫌いという物は本当にない。元気になんでも良く食べる健啖家というのが神奈子が諏訪子に対して抱く食のイメージである。それを考えれば、たまたま出したタガメがたまたま諏訪子の嫌いな物だったというのは正に奇跡のような低確率の現象である。しかし諏訪子のあの反応を考えればタガメが諏訪子の嫌いなものだったというのが一番しっくりくる答えではあり……
(い、いかん。早苗が本当に逆奇跡を起こすダメはふりな方向で話が纏まってきた……あと、ダメはふりだと駄目なのは私にならないか?)
自身の思考が導く結論に、今度は神奈子が脂汗を垂らす。言えん、こんな残酷な結論は早苗に言えん。自身を祀る風祝の泣き顔を見下ろし神奈子は苦悶する。そして、
「ふんぬらっ!!」
「きゃ、か、神奈子様!?」
神奈子が奇怪な掛け声と共に頭をいきなり家の柱に叩きつけ、早苗はそれによって響いた頭か柱かが砕けたとしか思えない豪快な音に悲鳴を上げた。
そんな早苗を安心させるかのように神奈子は爽やか極まる笑顔で振り返る。その顔はあたかも悟りを開いたブッタのように清々しかった。
「だ、大丈夫ですか?」
「はっはっはっ、平気よ平気。ちょっとよろけてぶつけただけだから」
「平気って……思いっきり血が出てるんですけど……」
「大丈夫大丈夫、神様嘘付かない。それより早苗、諏訪子の事だけどあれは私に気を使っただけだから気にしなくていいよ」
「へ?」
どう見ても大丈夫じゃない量の血を流しながら、神奈子はそれでも快活に告げる。
「いや実は……タガメは私の大好物でね。私が沢山食べられるように遠慮してくれたんだろう。だから泣くのはお止めなさい」
「え、そ、そうだったんですか?」
「ああ、そうなんだ。うん、そうなのよ……」
それは愛の言葉であった。早苗を泣かせることとタガメを食すことを天秤に掛けて、早苗への愛がタガメに勝った証である優しき神の託宣であった。
神奈子は思う。悔いはない、今の曇空が晴れたかのような早苗の笑顔を見られたのだからタガメの一匹や二匹……
「そうですか!! それなら沢山食べてくださいね神奈子様!! 実は子供達にのせられて百匹くらい捕ってきちゃったんですタガメ!!」
「ひゃ、ひゃく……」
神奈子は一瞬、敵軍の桁違いの数に膝をつきそうになる。しかし、そこは神の威信にかけて堪えきる。百匹? ふん、諏訪子を、洩矢の王国を打ち破った私を倒したければその三倍は……
「早苗お姉ちゃーん、タガメ捕ってきたよー」
「私も私もー」
「おいらもほら、瓶一杯に捕ってきたぜー!!」
「あらあら、みんなありがとう。神奈子様も喜びます。あ、神奈子様、私このタガメ料理しちゃいますから先に食べちゃってて下さいね♪」
最近ロープウェイが出来てから、ちらほら見かけるようになった子供達が縁側越しに投網やらでかい瓶やらを早苗に渡す。
その中で蠢くタガメは早苗の捕ってきた量の五倍はかたいのではあるまいか? 神奈子はそれを見て一人静かに微笑んだ。
「子供達よ……」
「え? あ、神奈子様だ。こんにちはー」
「ああ、こんにちは。さて、突然だが今日は幻想郷の未来を担うそなたらに聞いて欲しい事がある」
「は、はい」
日頃、神奈子のフランクな姿しか見ていない子供達は威厳と神気を漂わせる神奈子の姿を見て思わず背筋を伸ばす。
「いいかい、子供達よ。女には、人には、神には、いやこの世全ての意志あるものには、いかに絶望的な状況であっても戦わねばならぬ時がある」
神奈子は厳かにちゃぶ台の前で坐禅を組み、瞑目する。
「その時いかに雄々しく戦うかでその者の魂の価値が決まるのだ。私はそなたらの魂がその時、黄金に勝る輝きを放つことを切に願う」
「……はい」
「解ってくれるか。ならばこの八坂神奈子、思い残すことは現世にあらず」
神奈子は四寸ばかりの短い箸を手に取りカッと開眼する。
衣を纏った虫達を見据え、短く呼気を吸い込み……
「守矢の風神の散り様!! とくと見さらせい!!」
叫ぶと同時に、猛然と山のように積まれた唐揚げ(タガメ)に挑みかかる。神奈子の永き生の中でも五指に入る厳しい戦いは今始まったばかりであった。
神奈子が守矢神社で絶望的な戦いに挑むそのころ、諏訪子は人里に続く道を走っていた。といっても人里が目的地という訳ではない、強いて言うなら足を踏み出す一歩先こそが目的地である。懸命に懸命に、目的地を踏んでは越え、踏んでは越えを繰り返す。そうしないと奴らが追いかけてくる気がして……。
思い出すのはかつてのグランギニョル。大好きな蛙達と遊ぼうと沼に訪れた時、蛙達がタガメに襲われ死んでいた。タガメは群れを作ることはないと聞く、ならば複数の蛙が複数のタガメに食われているところに出くわしたのは運が悪いとしか言い様がない。
ジュルジュルと肉を吸われ骨と皮だけに成り果てた蛙達の虚ろな目は今でも夢に見る。そう夢に見るのだ。蛙達の虚ろな目、そしてそんな蛙達を啜るタガメの無機質な目、それらが一斉にこちらを向いてこう語るのだ。次は、お前の番だと。夢の中で。
「ひ……」
後ろからタガメが迫ってくる気がして諏訪子は振り返る。が、当然そこには何もいない。その事に諏訪子はほっとして……
「あ!?」
力を抜いてしまったのが良くなかったのか、石に蹴躓き転んでしまう。曲がりなりにも神の全力疾走で転倒したため諏訪子は勢い良く転がり木に激突してようやく止まる。
「う、うう、痛いよぅ」
一瞬で擦り傷だらけになった諏訪子がその痛みに呻く。ちくしょう、タガメは幻想郷に来てから見たことなかったのに、なんで、なんで……。
目尻に涙をためて思わず子供のように泣き出しそうになった諏訪子だったが、
「おや? あれは諏訪子様でないかね、ばあさんや」
「ええ、そうですね、おじいさん。どうかなされたんでしょうかね?」
偶然諏訪子が転がったそばに居た老夫婦の声に反応して涙を流すのをどうにか堪えた。
諏訪子は今の声を知っていた。諏訪子が幼くして亡くなった孫に似ていると言って飴玉やらなにやらよくくれる二人だ。恐れ多くも神を孫扱いってどうなのさと思いつつも、どうにも憎めないこの老夫婦が諏訪子は好きだった。そんな二人の前で無様は晒せないという意地が諏訪子に涙と痛みを堪える力を与えた。
「く……あはは、なんでもないよ。ちょっと転んじゃっただけだから、ほら元気元気」
言いつつ立ち上がった諏訪子は老夫婦のそばにぴょこぴょこ跳ねて近付いていく。とはいえそれが良くなかった。タガメと転倒したことによる混乱のせいで、諏訪子は自分の見た目にまで気を配る余裕がなかったのである。自分が擦り傷だらけの泥だらけでとても元気そうには見えない姿だということを悟ったのは、二人に近付いてその顔が曇っていくことに気付いてからだった。
「……諏訪子様。儂にはとても貴方様が元気なようには見えんのですが」
「あは、あはは……やっぱり?」
「ええ、全然。諏訪子様、私達に気を使って下さるのは嬉しいですけど、変に強がるのはやめて下さいな。私達は諏訪子様がお辛そうなのが一番悲しいのですから」
そうして頭を撫でる二人にどう対応したものか悩みつつも、諏訪子は決して手を払わない。
諏訪子は純粋な信仰から生まれた土着神である。その為、当たり前だが親の顔というものを見たことがない。存在すらしない親という想像図を諏訪子はこの二人に重ねていたのかも知れない。
「まぁそんな訳で諏訪子様、よければ私達の家に寄って行かれては如何ですか? 簡単な手当ならできますし、湯浴みの用意もできますよ」
「おお、そりゃいい考えだな、ばあさんや。是非そうなさって下され諏訪子様」
「ん……じゃあそうしとく。ありがとね二人とも」
なんのなんのと笑う二人に手を引かれ諏訪子は人里に向かう道を歩いて行く。それは何も知らない者が見れば、親子は無理でも孫と祖父母には見えたであろう穏やかな光景。
……この時、諏訪子は完全に忘れていた。早苗がタガメの唐揚げを出したときに果たして何と言っていたのか。そして、それを覚えていれば気付けていただろう、彼女の行く先が決して向かっては行けない場所だと。しかし、今の諏訪子がそんなことに気付くはずもなく……かくして物語は転がり落ちる。騒々しきその先に。
………………
…………
……
「ぷはーいい湯じゃー、おばあちゃーん、いい湯加減だよー」
「はいはい、それはよう御座いました」
諏訪子が湯船につかって日取り窓から手を振ると、薪を手にしたおばあさんがそれを竈に入れて微笑んだ。ヒノキ造りの風呂場で諏訪子は完全に田舎に遊びに来た孫娘と化していた。最初、諏訪子は傷に染みるとからと言って風呂の勧めは事態しようと思っていたのだが、お婆さんが取り出した傷薬を塗ると5秒で全ての傷が塞がった。なんでも最近噂の竹林に住まう薬師が作った物らしいが……意外に流行ってるんだなーあの薬屋と思わず感心してしまった諏訪子であった。しかしそれはともあれ、
(あーそれにしてもいい湯だなー……なんか甘い匂いもするし……眠たく……)
「ところで諏訪子様」
「あう!? え、なに!? 寝てないよ私!!」
「おやおやそれはそれは、起こしてしまってすいませんでした」
「う、あーうー」
諏訪子は口を沈めて泡を、ぶくぶくさせる。
おばあさんが声を掛けたタイミングは、折悪くいい湯加減と薬師への小難しい思考が手をとりあって、諏訪子を夢の彼方へ連れていこうとしていたところであった。お風呂でうたた寝とか、うっかりか私は。そんな照れを隠すため諏訪子は必要以上の大声を窓の外に投げる。
「それでなに、おばあちゃん!? あともう一回言うけど寝てないからね私!!」
「ええはい、解っておりますとも。それでなんですが、実は近頃里で流行っている入浴剤がありまして宜しければと思いまして」
「入浴剤?」
そう聞いて諏訪子が思い出すのは早苗がはしゃいでお湯にぶち込んでいた固形の錠剤。あれは確か……覇王のバブ? だったけか。赤ん坊みたいな名前のくせにやたら強そうな肩書きだけど確かに按摩でもされたように気持ち良くなったような気もする。まぁそれ以上に覇王がシュワシュワ溶けていくのを見る方が面白かったのだが。そこまで思い出し、断わる理由は何一つないと結論を出した諏訪子はおばあさんに是非お願いと笑顔で承諾する。
「はい、それでは失礼しますよ。」
「うん、入って入って……って、なにそれ黒っ!?」
風呂場に入ってきたおばあさんが持っている、ザルに入った黒色のザラザラした粉末を見て諏訪子は思わずそう叫んだ。件の入浴剤は外から持ち込んできた物だったはずだからその物ズバリは出てくるまいと予想はしていたが……こんなのが出てくるのは流石に予想外だった。
「ええ、見た目は少し良くないんですが……効果は確かですよ。私はこれを使うようになってから腰の痛みがとれまして」
「へぇ~、おばあちゃんが言うならそうなのかな? いいや入れてみて。毒って訳じゃないんだし」
「ええ、はい。私が何度も使っているので、それは間違いないですよ。それでは」
ざざざ、とおばあさんが黒い粉末を湯船に注ぐ。それはどうやら湯に溶ける類いの物ではないようで湯船の中をふよふよ対流している。
それを見て諏訪子はなんだか大きな湯呑みに入ったみたいだ、と忍び笑い。確かに対流している粉末を茶葉と見るならそう見えなくもない。
「ふ~、あーなんだか本当に気分が良くなってきた気がするよ。ねぇおばあちゃん、この黒いのって一体なんなの? 見たことないんだけど」
「おや、見たことないということはないと思いますよ。それは今、里で一番の流行り物ですからねぇ」
その言葉を聞いて諏訪子の中で初めて疑念が首をもたげる。音にするなら、ん? と二文字で表せる小さなそれは諏訪子の中でたちまち膨れ上がっていく。嫌な予感がする、なにか確かめたいけど確かめてはいけないような、そんなどうにもならない嫌な予感がする。とは言えこのままじっとしてる訳にもいかない。そう思い自身に弾みをつけた諏訪子はどうにか口を開く。
「ええと、おばあちゃん? その流行り物って一体なんなのかな?」
「はい? はぁ、何かと言われましたら……これですが」
そう言っておばあさんが風呂場の扉の陰から取り出したそれは……
「ぴゃ!?」
「諏訪子様? どうされました?」
二本の腕が逞し過ぎるあんちくしょう。諏訪子が擦り傷まみれになる原因を作った張本人、タガメだった。どうやら水気が抜けるまで天日干したらしいそれは先程とは別のザルの上でガサガサと乾いた音を立てて群れを作っている。何故そうなるまで干しているのかと言えばそれは恐らく……
「お、おばあちゃん? まさかこの黒い粉って……」
お願いだから違っておくれと、諏訪子は早苗と神奈子に祈りつつ自分が浸かる湯船を指差す。
するとおばあさんは何故そんな解り切ったことを聞くのかと首を傾げて、
「はぁ、タガメですが」
「やっぱりぃぃぃぃいいい!!」
自身が驚愕のタガメ風呂に浸かっている事を知って諏訪子は絶叫して湯船から飛び上がる。その事実を知ってしまえば諏訪子にはもう湯船の粉末一欠片毎が自身をつけ狙うタガメの目にしか思えなかった。その幻の、しかしこの上なく恐ろしい視線を振り切るべく諏訪子は全力で風呂場を飛び出し走り去る。
「す、諏訪子様!?」
「タガメいやぁぁぁああああああ!!」
叫んだ諏訪子はてんでデタラメに老夫婦の家を走り回る。居間に台所、物置に書斎、あらゆる所を走って走って、そして息が切れてきた頃……
「諏訪子様? どうされました?」
たまたま廊下を歩いていたおじいさんと鉢合わせた。片手に持った煎餅の盛られている皿を見るに諏訪子に上げるお菓子を探してきたらしい。そんな優しき老いた痩身は今の諏訪子にとっては天の助けに見え、諏訪子は一も二もなくおじいさんに飛びついた。
「おじいちゃん!? タガメ田亀、TA☆GA☆MEがあぁぁぁああ!?」
「う、うむ? よ、よく解りませぬが……とりあえず、タガメならこちらに御座いますが」
「へ?」
そう言って差し出された小皿をよく見ると乗っていたのは煎餅でなく揚げられたタガメだった。それが揚げ物であることがはっきりと解る香ばしい匂いを思わず吸い込んでしまい、諏訪子は腰砕けになって尻餅をつく。
「な、な、な、タガメがこんな所にもーー!?」
「は、はぁ……こんな所というか、今や人里でタガメがいない所を探す方が難儀ではないかと思うのですが……」
「うそぉーーー!?」
おじいさんのあまりに衝撃的な言葉を聞いて諏訪子は思わず頭を抱えてカリスマガード。なんで? いつの間に人里はそんな魔境になっちゃたのさ!? そんな困惑をともなった絶望が諏訪子の頭を駆け巡る。
「あー諏訪子様?」
「待って!! これ以上のタガメニュースは頭に入らないからちょっと待って!!」
「いえ、タガメの事ではなく……考え事をするなら、せめてなにか御召しになってからの方が良いのではないかと思いまして」
「……あう?」
御召し? 御召しってなんだっけ、ええと、確か服を着ることの尊敬語だったような……え?
先程と同じく嫌な予感を感じつつも諏訪子は恐る恐る自分の身体を見下ろす。そこには風呂上りで薄く火照った肌色が諏訪子のなだらかな起伏の身体を覆っていた。もちろんその艶やかな色は布地などでは出しようもない色で、それは間違いなく諏訪子が現在裸であるという事の証左であった。
(そういえばお風呂飛び出してから服着た覚えがないーー!!!)
「す、諏訪子様? 儂の上着で申し訳ないのですが、とりあえずこちらの半纏でも……」
「い、い、いやぁぁあああああ!!」
「諏訪子様!?」
諏訪子は再び駆け出す。今度はきちんと明確な目的地、自身の服が置いてある風呂場に向かってである。そこに置いてあるタガメに関してはきっとまた風呂場に入った時点で仰天するのだろう。それぐらい今の諏訪子は前後不覚であった。
「な、なんなんじゃ一体?」
「おじいさん?」
「お、おう、ばあさんや。なにやら諏訪子様が裸で飛び出てきたと思ったら、えらい勢いで走って行ってしまったんじゃがあれは一体――!?」
「おじいさん?」
諏訪子に置いてきぼりを食らったおじいさんはくるりと振り向き、おばあさんが手に持つ竹刀に目を止めて驚愕する。
竹刀だけならまだ剣術道場の娘だったおばあさんが持っていても不思議はなかったのだが、その切っ先から迸る妖刀もかくやという剣呑な殺気は人生の酸いも甘いも噛み分けたおじいさんをして十分に驚愕せしめる物だった。
「ば、ばあさん? そ、その竹刀は……?」
「うら若き乙女が泣きながら裸で走り去り、その場に取り残される一人の男。何があったか察するには十分だと思いませんか、おじいさん?」
「んなっ!? いや待て待てばあさんや、儂ゃもう米寿を過ぎた年寄りじゃぞ!? 諏訪子様の裸見たってそりゃ孫の裸を見たようなもので!!」
「いえいえ、そんな事は関係ないのですよおじいさん。女を泣かせる男は皆、悪です。ましてや泣かされたのが諏訪子様なら弁明の余地などありません」
そんな無茶な!! おじいさんはおばあさんの言葉に思わず硬直する。いや確かに諏訪子様を泣かせる男などいたらそれは悪だと思うが、せめて儂の話ぐらいは聞いて欲しい――!!
「ふふ、聞く耳持ちません。我が生家の家訓は悪・即・斬。我が夫とはいえその例外にはできません」
「いやそこは例外にして欲しいのじゃが特に即の部分を!? ま、待てばあさん、落ち着いて話せば解り合え……」
「問答無用!! きぇぇええええい!!」
「ちょ、のぉあああああああ!!」
ごぉぉおんと、
服を着た諏訪子が玄関から外に飛び出すと同時、あたかも左片手一本平刺突で壁が突き破られたかのような音が響いていたがタガメの事で頭が一杯だった諏訪子には聞こえなかったそうな。諏訪子はそれぐらい懸命に逃げていたのである。
しかし、いみじくもおじいさんが言ったとおり、
「あ、諏訪子様。タガメの佃煮が上手くできたんですが如何ですか?」
「ぎゃーーー!?」
「いけー!! 雷電!!」
「なにおう!? 押し返せ常陸山!! あ、諏訪子様だ。一緒にタガメ相撲やりませんか?」
「びゃーーーーーーー!?」
「さぁタガメ十匹、セットでまとめ売りだ!! お、そこの神様どうだい、うちのタガメは活きがいいよ!!」
「あぅわーーー!? ワサワサ動いてるーーー!!」
人里を走れば10m毎に出くわすタガメ、タガメ、タガメの嵐。
タガメに、タガメに人里が占拠されてるーー!! そう叫びたくなるのをどうにか堪え、諏訪子は妙に甘い匂いが漂う人里の中をタガメの姿が見えない場所を探して走り回る。走るしかない、なにせ空を見れば今まで何故気付かなかったのか不思議な程タガメが大量に飛び交っている!!
「う、うぅ……じ、地獄だ。人里がタガメ地獄になっちゃったよぅ……一体なにがあったのさ人里で?」
どうにか見つけたタガメのいない茂みにしゃがんで隠れた諏訪子はさめざめと涙を流す。本当にどうしてこうなった? 前に人里に降りた時はなんともなかったのに……あの大量のタガメはどこから湧いて出た? そしてなんでこんなにも人里で流行っている? 諏訪子は答えの端っこすら想像できない問題を抱えて茂みをがさがさ揺らして思い悩む。
しかし……
「それには儂がお答えしましょうぞ、諏訪子様」
果たして日頃の行いか現人神の加護の賜物か、諏訪子の疑問は即座に解消されることになる。
「あんたは……長老?」
名を呼ばれ振り返った先に白鬚を伸ばした巨岩のような大蟇の姿を認めて、諏訪子はパチパチと瞬きした。
「お久しぶりで御座います。諏訪子様」
巨大な蝦蟇が深々と諏訪子に頭を垂れた。
………………
…………
……
幻想郷蛙妖怪長老が曰く、
現在の幻想郷という場所は幾つかの大規模なシステムが機能し、論理的に形作られている世界である。
その筆頭として上げられるのは勿論『外』との境界である博麗大結界であるが、それに準じる形で幾つものシステムが機能し幻想郷を支えており、その一つに幻と実体の境界というものがある。
このシステムの目的はかつて数を増した人間に押され気味だった妖怪達が『外』で勢力の弱まった妖怪を自動的に実体から引き離し幻として幻想郷に呼び寄せ勢力を強化しようという物であり、現在も新たな妖怪達を呼び寄せている……のだが、ここでシステムの構築者の意図とは違い、あるいは意図して起きている副次的な事象として妖怪変化や神仏の類でなくとも『外』の世界で忘れ去られ、存在が幻になりかかっている純然たる生物を呼び寄せてしまうという事象が上げられる。そうして呼び寄せられた生物は稀に度を越えて大量発生し、人里の者達はこれまであまり見なかった珍しい生き物が湧いてくる事を喜び持て囃し、一種の流行のようになることがある。
そして、それが今回は……
「タガメの番だった。そういう事? 長老?」
「はい。まぁ幻想郷における不定期の名物行事のようなものですかな。諏訪子様も空を行く鴇の群れをご覧になったことがあるのでは?」
「ん、それは流石にね。そっか、あれもその類なんだ」
人里から外れた森の中をびょんこ、びょんこと跳ねて移動する体長5mはあろうかと言う大蟇の背の上で諏訪子は静かに頷いた。
『外』ではとんと見なくなった鴇の群れに網を片手に突撃して行こうとする早苗を羽交い絞めにしつつそれを眺めたのは、諏訪子の記憶の中でもまだ新しい記憶である。
となれば長老が語ったタガメ大量発生の真相を疑う理由は何もない。いや、それがなくとも洩矢諏訪子の名を聞いてわざわざ手土産持参で挨拶に来た律義者の長老を疑うつもりは諏訪子にはなかった。それは今こうして長老にご案内したい所があるのですと言われ、素直に彼の背に乗っていることが証明していた。
「それでさ、長老」
「はい」
「そのー名物行事? っていつ頃終わるのかな? 怖いって訳じゃないんだけど、私タガメって苦手でさ」
「……」
「いやホントに怖いって訳じゃないんだよ!? けど、ほら、その、なんていうか……あーぅー」
諏訪子の強がり含みの言葉に沈黙で応える長老。それに対して諏訪子も言葉をすぼませ最後には黙ってしまう。諏訪子自身、茂みに隠れてたところを見られていたので無理のある強がりだったかなーと思っていたが故の撃沈であった。しかし……
「通常であれば」
「あう?」
「通常であれば、このような大量発生は長くは続きませぬ。長くとも一月あれば自然と、あるいは妖怪の賢者達の上位陣が対処して終息致します」
「……通常?」
通常、繰り返されたその言葉と思いのほか重い長老の声に諏訪子は真剣な声で返した。
長老の言い様はまるで今回の大量発生が通常ではないと言っているようで……と、
「……着きましたな。話はこの先を見て頂いてからという事に致しましょう」
森の木々が途切れ明かりが差し込む先に長老が一際強く跳んだ。巨体故の距離と高さ、上に乗った諏訪子が一瞬浮遊感を覚えるほどの跳躍でありながらその着地はふわりと静かだった。とはいえ衝撃がゼロと言う訳ではなかったのか帽子がずれて諏訪子の視界を一瞬塞いだ。そうして諏訪子が慌てて帽子を上げると……
「……なに、これ?」
帽子を直した諏訪子の目に飛び込んできたのは、澄んだ水を湛えた池を囲むちょっとした広場だった。妙に大きな花が椅子のように並んでいるからもしかすると妖精辺りの集会場なのかもしれない。そして、その広場には……
「ケロ~」
「うぅ、やめて刺さないで……」
「来る、奴が来る!! 後ろに、後ろにぃぃいいいいい!!」
「あ、暴れないで、お願いですから包帯を巻かせて下さい……大丈夫、大丈夫ですから」
「うう、うぅ……」
傷付いた蛙が、傷付いた大蛙が、傷付いた蛙の妖怪と思しき人型がひしめいていた。
戦場最前線の野戦病院、と言うと少し言い過ぎかも知れないが、少なくとも諏訪子はそんな言葉が思い浮かんだ。そんな広場の中を長老は諏訪子を乗せたままズシズシと歩いて進む。
「ちょ、長老? これって一体……?」
「……諏訪子様は外来種問題というものをご存知ですかな?」
「うえ? あーそういえば『外』にいた頃そんなの聞いたことがあったような……」
長老に問いかけられ諏訪子は記憶の奥底を浚う。
確か外来種問題というのは、ざっくり言ってしまえば閉鎖された生態系に外部の生態系から持ち込まれた動植物が入り込み、そのバランスを崩してしまうという問題……だったはずだ。となると長老の言いたいことは諏訪子にも理解できる。要するにこの傷付いた蛙達は、外来種として大量発生してきたタガメに襲われ避難してきたということなのだろう。
……と、そこまで考えて諏訪子はふむむと唸った。疑問があった。この説を通そうとするなら疑問が二つほど、小さいものと大きものが一つずつ。諏訪子はそのどちらから聞こうかと一瞬悩み、とりあえずジャブ的に小さい方から聞いてみた。
「長老は、がいらいしゅもんだいとか良く知ってたね。普通知らないでしょこっちの人は。……私もうろ覚えなのに」
「はは、いや何、儂はこれでも妖怪の賢者の末席でありますのでな。『外』に詳しい八雲紫殿と話す機会もあるのです」
「うえ!? 長老って賢者だったの!? え、私普通に乗っちゃってるけどいいの?」
「はっはっはっ、御心配なく諏訪子様。賢者といっても儂は末席も末席、水辺の妖怪の意見を集めるのに肩書きがあった方いいだろうと名乗ることを許されただけの使いっ走りの下っ端ですわい。今や幻想郷でも一勢力と数えられる守矢神社の祭神たる諏訪子様を乗せるのは、むしろ順当と言ったところでしょうな」
諏訪子が慌てて叫ぶと、長老はガラガラと渋みのある声で笑ってそう答えた。それを聞いて諏訪子はほっと息をつく。長老は至極あっさりというが妖怪の賢者とは幻想郷においても最上級の妖怪に与えられる称号にして役職で、その寄り合いは正に幻想郷の最高意思決定機関である。もちろん諏訪子とてかつては王国を統べた土着神の頂点であり、格、実力共に賢者に劣るものではないのだが……その辺の奴と揉めると政治的に面倒なのだ。その辺の折衝だの何だのが苦手で神奈子に丸投げしている諏訪子としては、ここで変に問題を起こすのは本意ではない。何せ問題を起こしたら神奈子と早苗の二人がかりで説教されるのだ。それは諏訪子としては絶対に避けたかった。だから……という訳ではないのだが、諏訪子は些か言葉を速くして次の大きな疑問をせかせかと長老に向けて投げた。
「ええと長老? ここの蛙達がタガメにやられたって言うのはなんかおかしくない? だってもう妖怪になってる子だっているよ? あの子達はただの虫ぐらいに負けたりしないでしょ?」
そう言って諏訪子が指差したのは木を背もたれにして座り込む一人の少年だった。額に血の滲んだ包帯を巻く少年は見た目こそ完全に人間だったが、身に纏った妖気と緑の衣服から察するに恐らく成り立ての雨蛙の妖怪だろう。そして子供のものとはいえ人間と同じ体格を持つ彼が『外』から来たばかりで妖怪化などしようもないタガメに負けるとは諏訪子には到底思えなかった。
そしてそんな諏訪子の当然の疑問を聞いて長老は大きな口から大きな溜息を吐いて諏訪子を落とさぬ程度に頭を緩く振った。
「そこが正に今回の通常ではない点でしてな、その辺りに関しましては実際に見てきた者を交えて話を……と居りましたな。おーい、チルノ殿ー」
「チ、チルノ!?」
長老の口から出た名前を聞いて、諏訪子は驚きの声を上げ慌ててそちらに目をやった。
果たしてそちらには長老よりは小さいが人間二人分はありそうな大蟇に乗った氷精チルノが怪我をした蛙を気の毒そうに覗き込んでいた。
そして呼びかけられたチルノは頭を上げて辺りを見回すと長老の巨体を認めて大蟇の上から離れ、こちらに向けて飛んできた。
「何か呼んだ? 超ガマ?」
「ええ、此度の件で心強い援軍になって頂けそうな方をお連れしましてな。件の襲撃について話を……」
「ああっ!! あんたはいつかのヘンテコ帽子!?」
「誰がヘンテコ帽子だ、このへっぽこ氷精!! また蛙凍らせに湧いて出たのか、こらぁ!!」
長老の頭の上に諏訪子を発見するや否やそちらを指差しチルノが叫んだ。そして、それに対し諏訪子もドタンと片膝立ててチルノに向けて指を突き付け、思い切り叫んだ。
そんな二人の声を聞いて長老は果てなと首を傾げた。
「ふむ、御二方は知り合いですかな?」
「知り合いじゃなくて敵!! 怨敵!!」
「なんか沼で遊んでたら、こいつにいきなり鉄の輪っかでぶん殴られたのよ超ガマ!! そいつ罪斬りだよ罪斬り!! ……あれ? なんかカッコいい?」
「ばーか、それを言うなら辻斬りだよ、辻斬り!! ばか、ばーか!! ……って誰が辻斬りじゃあ!?」
諏訪子とチルノが怒鳴り合い、睨み合う。
自らの目前と頭上で見えぬ火花を散らす二人にさしもの長老も目を白黒させる。古き土着神の威厳を投げ捨て、見た目相応の直情で怒る諏訪子。実力差など一顧だにせず、ひたすらな強気でその怒りを受け止め投げ返すチルノ。このような感情と感情をぶつけあうやり取りは自他共に認める老成した――あるいは枯れた――人格を持つ長老が割り込むには些か若さが足りなかった。……と、長老がそんな事情で発言を躊躇っている内に諏訪子とチルノの罵り合いが、ばかって言った方がばかなんだよ、ばーか!! 誰がそんな事決めたのさ、いつ、何時何分何秒地球が何回周った時!! と、着々とレベルを落とし地盤沈下していく。
そんな二人に、これはもう双方が言い疲れるのを待つしかあるまいか、と長老が諦めかかったところで……
「チルノちゃん!!」
「わひゃあ!?」
チルノの背後から救いの主が現れた。
諏訪子とチルノの言い合いを聞いて駆けつけて来た緑髪の妖精がジロリと睨むと、諏訪子にすら平気で噛み付いていたチルノが明らかな怯えを見せた。
「だ、大ちゃん……」
「チルノちゃん、そこに居るのって今朝言ってた諏訪子さんだよね? 謝るって言ってたのになんで喧嘩になってるの?」
「う、ううん……だってそいつ私の事へっぽこって……」
「……」
「ひっ!?」
チルノのへっぽこという言葉を聞いて大ちゃんと呼ばれた妖精が諏訪子の方にぎろりと視線を移す。本来妖精に睨まれた程度では、そよ風程の圧力も感じないはずの諏訪子が何故かその視線を受け小さいながらも悲鳴を上げた。
諏訪子を睨んだ妖精は浮遊して諏訪子と視線の高さを合わせる。
「洩矢諏訪子さん、ですよね? 初めまして、私はこの辺りで大妖精と呼ばれている者です」
「う、うん……初めまして」
「では早速ですけど」
「ひゅい!?」
思いのほか丁寧に挨拶され気を緩ませたところに再び怒気をぶつけられ、諏訪子は河童のような声を上げて怯んだ。
「さっきのチルノちゃんとの言い合いを聞かせてもらいましたけど、何ですかあれは? 洩矢諏訪子と言えば私のような妖精でもその名を聞く土着神の頂点なんでしょう? なのに地球が何回周った時とか、大人げないとは思わないんですか」
「うぐ、そ、それは……」
怯みっぱなしの諏訪子が更に更に押されて怯む。言い合ってる時は自覚がなかったが、確かに先程のやり取りはかなり恥ずかしい物だった気がする。少なくとも神奈子や早苗に聞かれれば羞恥のあまり百年単位でのフォーエバー冬眠できますを決行しかねない程度には。
痛いところを突かれその身を縮こまらせてしまった諏訪子。そんな諏訪子を見かね、黙っていた長老が助け舟を出す。
「いや大妖精殿、諏訪子様も頭に血が上ってしまっただけで他意はなかったのでしょう。ここは一つ穏便に……」
「そう思うなら!! なんで直ぐに止めに入らないんですか長老さんはっ!?」
「うぬぅ!? わ、儂ですかな?」
「他に長老はこの場に居ません!! 仮にも長老と呼ばれる方が、この火急の時に見た目子供のやり取りを眺めているだけでどうするんですか!?」
「む、むぅ……」
「み、見た目子供……」
反論の余地のない正論を叩きつけられ長老が、言葉の端にショックな単語を聞いて諏訪子がそれぞれに凹んだ。
妖精としては最強に等しいチルノ、末席であるとはいえ仮にも賢者である長老、そして押しも押されぬ土着神の頂点である諏訪子、その三人を纏めて撫で斬りにした大妖精が腰に手を当てふんすと息をつく。反論があるなら言ってみなさいと言った風情だったが、無論反論など誰一人出来ようはずもない。いや出来ない事はない、というより相手がただの妖精である以上、論など通さずとも力押しで主張を通す事がこの場にいる全員に可能であった。しかし、そんな横暴を働いて何の恥にも感じないという程の無法者はこの場に居なかったし、何より諏訪子ですらが先程暴れる相手に蹴られつつも包帯を巻くというナイチンゲールもかくやという姿勢で治療に励む大妖精の姿を見かけていた。そんな相手にグーで語る、まともな良心があるのならそんな真似が出来ようはずもない。
そして、もし仮にそこまで見越しての強気な、しかし素早く効果的な仲介であるのなら……なるほど、どうやらこの大妖精は妖精とは思えないほど頭が良いらしい。そしてそんな相手にこれ以上不毛な言い合いを続けるのは無意味。その事を諏訪子は違うことなく悟っていた。しかし……
「……でもそいつは蛙凍らせて遊んでるような奴なんだよ? そんな奴がこんな所に一体何の用なのさ?」
全てを悟って、それでも諏訪子が絞るように口にしたのはどうしても譲れない事だった。
はっきり言ってチルノの評判は蛙達の間ですこぶる悪い。何故かと言えば、チルノが氷の修行と称している行為に蛙を氷漬けにして元に戻すと言うものがあるからだ。蛙達からすれば凍らされるだけでもたまったものではないし、しかも元に戻すのに失敗すると砕け散り成仏するという強制ロシアンルーレット的な側面もある。
先程チルノは諏訪子を辻斬り呼ばわりしたが、蛙達からすればチルノこそが辻斬りであり、諏訪子がチルノを鉄輪で殴ったというのも、この現場に出くわした諏訪子が瞬時にブチ切れ止めに入ったというのが真相だったりする。そして、そんな真似をして悪びれもせず謝りもしないチルノを、もはや蛙を自らの眷属としてすら見ている諏訪子が許せるはずがなかった。
……と、そんな風にむくれている諏訪子に、
「ヘンテコ帽子」
「こんの、だから誰がヘンテコ……」
いつの間にやらそばに来ていたチルノに腹の立つ呼ばれ方をされ声を荒げかかった諏訪子だったが、その言葉は勢いを失くし最後まで発せられる事はなかった。何故かと言って、諏訪子をヘンテコ帽子呼ばわりするチルノの顔が見たことのない表情、もっと言うならどこか申し訳なさそうな表情で……
「ごめん」
「……へ?」
「蛙凍らせて、ごめん。もうやんないから」
それだけ言ってチルノはぷいと諏訪子から顔を逸らした。そして諏訪子はその事にも今度は腹立たしさを覚えなかった。その逸らした顔がこれもまた初めて見るバツの悪いような顔だったからだ。その上、さっきまで諏訪子を叱っていた大妖精までもが深々と諏訪子に頭を下げた。結構目にしそうで、しかしその実中々お目にかかれない妖精の謝罪の図を二つ並べられて諏訪子は二の句が継げずにパクパクと口を開け閉めした。更に……
「諏訪子様」
そう言って諏訪子に呼びかけた長老の声はひどく穏やかで優しかった。
「我らの事を思い怒って下さる事は、儂だけでなく蛙一同深く感謝しております。ですがチルノ殿もこうして頭を下げておる事ですし、話ぐらいは聞いて頂けませぬか?」
「……長老は」
「はい」
「長老は、それでいいの……?」
自らを頭に乗せる長老にまで諭され、諏訪子は震える声でそう言った。
自分は、別に良いのだ。チルノが謝るというのなら。いや、より精確に言うなら長老を始めとする蛙一同がチルノを許すと言うのに自分が怒るというのは筋違いだと思うのだ。しかし、本当にそれでいいのか? 蛙達は自分の親兄弟を遊び半分で凍らされているのにたった一言のごめんで本当にチルノを許せると言うのか? 許してしまってもいいのか? ……そんな押し殺した感情をたった一言に込めた、諏訪子の短い、けれど切実な問いだった。
長老はそれを聞いてふーと、一つ大きく息を吐き出して口火を切った。
「確かに我が同族の命を弄ばれたことへの怒りは未だあります」
長老の重い言葉にチルノの身体が硬直する。
幾星霜の時を生きてきた長老は決して言葉を荒げるような事はしなかったが、しかし代わりにその声はくたびれたかのようにひび割れ、その隙間から深い悲しみが滲んでくるのが感じられた。
そんな表面的でない深い嘆きは心が幼いチルノには重過ぎた。
「しかし……これもまた悲しいことですが、我ら蛙がそのように虐げられるというのは別段珍しい話ではないのです。人間の童子に捕まった者の中には氷漬けよりも悲惨な末路を辿る者も珍しくありませぬ」
解剖やら、尻に爆竹を詰められるやらは有名な話ですな、と長老が再び大きな溜息をつき、チルノと大妖精があまりに残酷な話に顔を青くする。
ただ……
「ただ、そのような嗜虐性は妖精や人間に限ったものではありませぬ。猫はネズミを甚振りますし、シャチなどは子に狩りの訓練をさせる為にアザラシを痛めつけるという話もあります。かく言う我ら蛙とて舌で捕獲した獲物を丸呑みし、目で胃へと押し込む。その時の食われた側の絶望は如何程のものか、トドメを刺さずに食すその方法もまた残酷といえば残酷でしょうな。……結局の所、この世は弱肉強食。肉の嘆きを考慮する種族など強者の側には居らんのでしょう」
苔むした巌のような長老のその言葉は、ありきたりなようでいて、しかしやはり彼の生きた年月の分酷く重かった。
そして、そんな長老の目がぎょろりとチルノに向けられる。視線を向けられたチルノは驚き怯み、次いでキョトンと不思議そうに首を傾げた。何故かと言ってチルノに向けられて長老の目はどうしてかとても優しげで……
「故に儂は思うのです。もし弱者の嘆きを考慮する必要のない強者が、それでもなお己が踏みつけてきた命に価値があったのだと気付いたのなら、それは尊いことではないかと。尊重されるべきではないかと。失われてきた命に意味はあったのではないかと」
「……」
「そして残された者は、そうして強者が己を省みるというのなら、それが真摯なものならば、許すべきだと思うのです。そうでなければ……我らには"先"がない。未来永劫、弱肉強食などという野蛮な輪廻に捕らわれたまま、同じ所をグルグルと愚かに回り続けるのでしょう。故に……」
諏訪子様、どうかチルノ殿を許してやっては貰えませぬか? そう言って長老はチルノの方に向けて歩み寄る。長老に乗った諏訪子とチルノの距離がごく間近まで狭まる。
「……」
「……」
無言のまま互いに見つめ合う諏訪子とチルノ。
諏訪子も、そしてチルノも顔を背けたりはしなかった。諏訪子はチルノの目を、その奥にある何かを見透かそうとするかのように見つめ、チルノはその諏訪子の視線を真っ直ぐに受け止める。二人はただただ静かで、むしろ二人を見守る長老と大妖精の方がハラハラと目を泳がせていた。
そして……
「うぅ~」
先に沈黙を破ったのは諏訪子の方だった。どこか悔しそうな唸り声を上げて、帽子を目深に下ろして目元を隠し身体ごと真横を向いた。
そんな諏訪子を見てまさかの決裂かと大妖精と長老が息を呑む。と、
「ヘンテコ」
「む」
諏訪子がポツリと四文字零してチルノの方にスッと握った手を出した。
「ヘンテコって言わないなら。……握手は嫌だけど」
ん、とそう言って諏訪子が差し出したグーを揺らした。
それを見て、聞いて、チルノはじんわりと大きく笑って、
「うん!! よろしくねっ諏訪子!!」
諏訪子の手に自分も握った手をコツンと打ち合せた。
……帽子のつばで目元を隠した諏訪子の口が緩く綻んだ。
………………
…………
……
氷精チルノ語りて曰く。
事が起きたのは、氷の修行と称して沼で蛙を凍らせていた時のことだったらしい。
いつになく調子が良く、上機嫌で蛙を凍らせては戻しを繰り返していたチルノと逃げる蛙達の頭上を突如小さなけれどあまりにも多すぎる影が覆った。
チルノと蛙達が思わず頭上を見上げたのと、その影達が急降下し襲いかかって来たのはほとんど同時だった。虫類特有の羽音を幾つも重ならせてタガメ達が上空から襲いかかって来たのだ。
雨のように、礫のように降り注ぐタガメに襲われた蛙達の狂乱ぶりはチルノ相手の比ではなかった。目が見えていないのではないかと思うほど無思慮に逃げ回る蛙達は当然のようにあっさりとタガメ達に狩られていった。それはもはや自然界では見られないレベルであるはずの乱獲であり、虐殺であった。
チルノはそんな狂乱の中で置いてきぼりにされ一時呆然としていたが、蛙達の断末魔の合唱を聞いて己を取り戻し咄嗟に叫んでいた。
『あんたらこっちに逃げて来なさい!!』
……と。タガメの襲撃はチルノには関係がなかったが、それでも逃げ惑う蛙達の姿はチルノの心の何かに触れた。それはあるいは義侠心とか、正義感とか呼ばれるものだったのかもしれない。しかし、その声を聞いた蛙達はチルノの方へ向かうどころか全く逆の方へと一斉に逃げ始めた。無思慮な逃走の数少ない利点、必然的な散開が失われ一方向に固まってしまった蛙達は更に勢いを増して狩られていった。
それを見てチルノは更に叫ぶ。それを聞いて蛙達は更にチルノを避けて逃げる。そんな悪循環を何度か繰り返し、遂に業を煮やしたチルノが自分から動こうとしたところで……
『蛙達よ!! こちらに逃げい!!』
張りのあるバリトンの声が辺りに響き渡った。
チルノと蛙達が慌ててそちらに目をやれば、いつの間にかチルノも見覚えのある大蟇が森の茂みを踏み潰し姿を見せていた。……赤い血を流しながら。全身にタガメをびっしりと張り付け、それでも必死に叫ぶ大蟇の姿は壮絶の一言に尽きた。宿敵である大蟇の満身創痍の姿にチルノは思わず動きを止め、そして……
『タガメと氷精を避けるには森しか道はない!! 急げい!!』
『――――!!』
その一言で、チルノは頭が真っ白になった。
飛び回るタガメも、森に向けて駆け出す蛙も、舌を繰り出しタガメを撃ち落とす大蟇もどこか遠くに感じられ辺りの音が薄くなった。
知恵が足りない種族と記される妖精であるチルノでも理解できた。蛙達にとって、大蟇にとって、自分はこのタガメ達と何も変わらない襲撃者なのだと。いや、それは知っていたはずの事だった。なんとなればチルノは蛙を凍らせている間、狐狩りにも似た強者の愉悦を味わっていたのだから。
けれど……
(……違う)
圧倒的な強さで蛙達を蹂躙していくタガメ達。その姿はチルノが自身に重ねていたイメージとは何かが違っていた。
容赦もなく躊躇もなくただただ蹂躙を続けるその姿。それは、その姿は……
『……ッ雪符!! ダイアモンドブリザード!!』
瞬間放たれたその弾幕はあまりにも精確な軌道で撃ち出された。全弾が"完全にタガメにだけ"着弾するという問答無用の戦果で旗幟を鮮明にしたチルノに、それまで全く向けられていなかったタガメ達の黒い眼と、蛙達の驚いた視線が一斉に向けられた。
その場の小さな、しかし確かな命達の視線を受けてチルノは俯いていた顔を振り上げ……
『お前らぁ!!』
叫んだ。
『それでも最強かぁぁぁああああ!!』
……傍から聞けば、きっと何を言っているのか解らない言葉だっただろう。実際チルノ自身、他者の理解を求めての言葉ではなかった。ただ己の中に溜まった違和感を、怒りを、感情のままに叫んだだけの言葉だった。しかし……それ故にその言葉は届いた。
『蛙達よ!! 進路変更、氷精の方に進めい!!』
落雷のような大蟇の叫びに蛙達は戸惑いつつも反射的に従った。鳴き声も上げずに必死で跳ねてくる蛙達とそれを追い立てるタガメ。そのタガメに向けて再び足止めの氷弾を放つチルノ、今度こそ明確に向けられるタガメの群れの敵意の瞳。それに一瞬怯みながらもチルノは決意を胸に立ちはだかる。そんなチルノの隣に轟音が落ちる。跳躍しチルノの隣に並んだ大蟇が流血しながらジロリと一瞥を送る。
この沼の主である大蟇は蛙を守るために不本意ながらもチルノと対戦してきた経験があった。それ故に理解した。チルノの先程の叫びがタガメ達と、そして自分自身に向けられたものであったことに。チルノが時折口にする最強という言葉、その言葉が持つはずの在り方へ己が反していた事への怒り。子供じみた、しかし確かな矜持をチルノの総身に感じた大蟇はこの日初めてチルノと対峙するのではなく同じ方を向いて構えた。姿形はまるで違う両者だったがその身に宿る決意は同じ、ここより先には断じて通さぬ。背中に逃げる蛙達を負った両者は天に届かんばかりの気炎を立ち上らせていた。そして……
『凍符!! マイナスK!!』
チルノが最強のスペルを放つと同時に大蟇が、タガメ達が動き始めた。
ちっぽけな沼の、しかし数多の命が懸かった撤退戦の幕が切って落とされた。
………………
…………
……
「それで何回かそんな感じで蛙助けて、みんなで集まったのがここ」
「……」
一応の和解を経てチルノがつっかえつっかえ言葉足らずながらも語った話を聞き、諏訪子はおとがいに手をやって無言でチルノを見返していた。
そんな諏訪子の視線を受けるチルノは居た堪らなそうな様子でソワソワと手を握ったり開いたりしていた。話の最初で蛙を凍らせていたと言ったのを気にしているようだった。チルノの隣に居る大妖精もそれに気付いているのか不安そうな顔だった。しかし、
「……長老」
「はい」
「どういうこと?」
「……」
真剣な顔のままチルノを見つめている諏訪子が話しかけたのは長老だった。
諏訪子が視線を据え続けるチルノの最強という自称は、実はそれほど的外れなものではない。頭に妖精の中では、と付けてやればそれは確かな事実となるのだから。と、こう言うと妖精という種族のか弱さから大した事のないように思えてしまうが、それは違う。何せ妖精というのは幻想郷の中でも指折りに数が多い種族なのだから。恐らく河童や天狗などのメジャーな妖怪とて総数という点では妖精に劣る。それが土地に異常に力が満ちる異変時であるのなら劣るという言葉では全く足りず十倍、下手をすれば百倍は行くだろう。そんなデタラメな数を誇る妖精達の中で最強の力を持ち、そして更にその最大値を伸ばし続けているチルノ、その力は並の妖怪を軽く凌駕する。
例えば、諏訪子の見立てでは蛙の妖怪も見かけるこの広場でチルノより上の力を持っているのは自身と長老、それに先程見かけた大蟇ぐらいのものだろう。にも関わらず……
「チルノ、怪我してるよね? さっきの大蟇も。ただのタガメにそんな事出来るはずない」
チルノと言い合っていた時は頭に血が上っていたので気付かなかったが、チルノの腕や頭には包帯が巻かれそれが大袈裟ではないことを示すように血が滲んでいた。はっきり言ってチルノと大蟇の組み合わせに怪我を負わせるというのはヒグマが十頭纏めてかかって行くぐらいでないと戦力的に難しい。
いや、というよりチルノが語ったような空からの襲撃というのがまず有り得ない。水生昆虫であるタガメにそんな高度な飛行能力は断じてない。
薄々感じてはいたことだったが、今回のタガメ大量発生は何かがおかしい。それも土着神の頂点たる諏訪子が些か気を引き締めねばならない程に。その事を、今や諏訪子は確信の域で感じ取っていた。そして……
「諏訪子様は夜道怪という妖怪を御存知ですかな?」
「夜道怪?」
「はい」
長老の唐突な言葉に諏訪子は不思議そうな声を出して応えた。
「夜道怪は、かつての武州周辺で語られる妖怪でしてな。人間の子供を浚っていく、神隠しのような妖怪であると言われております」
「……それで?」
「はい、そしてその夜道怪の正体なのですが、幻想に依らぬ『外』の人間達は高野聖と呼ばれる最下層の僧侶達であったと解釈しています。伝えられている見た目が似ていることや、遊行僧たる高野聖が宿を借りる時、やどうか、と問うていたという事、そしてこの者達の素行がすこぶる悪く嫌われていた事からの解釈らしいですが……そして更にここが重要なのですが、この高野聖という呼び名は、実は"タガメの別称"でもあるのです」
「うぇ? え、なんで?」
「高野聖は遊行僧であるので、多くの荷を笈という箱に入れて背負っていたのですが、この笈の模様がタガメの背の模様に似ているから、というのが所以であるようです。……さてそこでです諏訪子様、タガメの別称である高野聖、これを聞いて何か思いつく事……否、人は御座らんかな?」
「……人?」
意味ありげに長老に問いかけられ、諏訪子の目が何かを思い出すかのように上を向いて記憶を探る。
……ヒット。検索結果は思いの外早く出た。しかし、それも当然だろう。なにせその人物が住んでいるのは諏訪子が手を入れた土地なのだから。
「聖、白蓮?」
聖白蓮、先頃地底より復活した尼公にして魔法使い。
彼女が新たな寺を開くにあたり能力で土地を地均ししたのは他ならぬ諏訪子自身である。そして、神奈子が調べた所によると彼女のルーツは真言宗の寺院にあるらしい。……高野聖、僧侶で高野の名を冠する以上こちらも真言宗と無関係ではないだろう。
同じ一字を冠し、かつ仏教の同宗派。細々と分ければまた違うのかも知れないが、少なくとも神道閥の諏訪子から見れば両者の関係性は強いように思えた。
そして、その連想は間違っていなかったのか長老は諏訪子が呟いた聖の名を聞いて深々と頷いた。
「はい、ついでに言うなら聖住職の服の格子状の部分、あれもまた笈の模様と似ております。意識しての事かは解りませぬが、これもまた関係性を強めておるのでしょうな。見た目というのは重要ですからな、こういう場合は」
「……」
長老の言葉に無言で応えた諏訪子の顔には苦い色が乗っている。諏訪子とて伊達に長生きしていない。長老がこれまで語った話を聞いて、今回の大量発生が異常である所以に気付いていた。つまり……
「幻想郷で強い信仰を得ている聖白蓮に似てるから、タガメにその信仰が一部流れた……? そして、夜道怪っていう妖怪化する為の道がはっきりしていたからタガメが急速に妖怪化した……?」
「……御明察で御座います」
つまり"聖白蓮≒高野聖≒タガメ"かなり無理があるが、概念上ほんの僅かながらも成り立ってしまうこの式、経路に従って幻想郷新参のタガメがいきなり妖怪並に強化された。もちろん一匹一匹は少し強い虫程度なのかもしれないが、現在タガメはイナゴか異変時の妖精かという勢いで大量発生している。その強化具合が仮にスズメバチや軍隊アリのレベルだったとしたら、その危険度は熊や狼などの獣を軽く上回る。そんな凶悪な群れに襲われれば無論蛙……どころか人間や下級妖怪であってもひとたまりもない。
「そもそも聖住職は妖怪の保護を標榜する方ですからな、そのように妖怪を増やす方向へは力が流れて行きやすいのでしょう。いや、この場合は加護と言うべきですかな」
長老が大きく息を吐いて首をゆるゆると振る。その頭の上に乗った諏訪子も当然一緒になって揺れ……
「む、諏訪子様……?」
「あ、あ……」
自身が首を振るのをやめても諏訪子がプルプルと震えているのに気付いた長老が、訝しげな声を上げた。そして、諏訪子はその声には答えずに……
「あんのアマぁぁぁぁぁぁあああああーーーーー!!」
「アマて、いえ確かに尼ですが」
突然の叫びについて行けす逆に冷静にツッコんだ長老を置いてきぼりにして諏訪子は更に叫びを重ねる。
「ひーとーがー宗教違いも忘れて家建てんの手伝ってやったのに恩を仇で返すか!! ああ、人は何故こんなにも容易く他者の思いやりを忘れるのか!! 誠に自侭で忘恩負義であるッ!!」
「諏訪子様、諏訪子様、言いつつ発言が南無三風味になっておりますぞ。御身は土着神でありましょうぞ」
「頭来た!! あったま来ちゃったもんね!! こうなったら地均しした土地元に戻してあの船寺埋めてやる!! 地均ししたからあのケロちゃん用済みだよねーとか思ってたらお慰みだコノヤロー!!」
言いつつ諏訪子はその身から洒落にならないレベルの神気を立ち上らせ不吉に笑う。
諏訪子が手を入れた土地というのは諏訪子の意のままに荒廃も豊穣も操れる"諏訪子の"土地である。もちろんそれは現在命蓮寺が建っている土地も例外ではなく、その地形を元に戻すこともまた諏訪子には容易いことである。命蓮寺が信仰を集めるようになって商売敵となってもこの最終手段を取らなかったのは実は諏訪子の純粋な善意であったのだが……頭から湯気を噴きそうな諏訪子にそんな善意を求めるのは無謀というものであろう。
……と、
「わぁぁあああ!! ちょっと待ったちょっと待ったーー!!」
命蓮寺を土の津波で飲み込もうとする諏訪子に横合いから待ったをかけて飛びついた人影があった。
その人影は黒いワンピース姿で、矢印のような触手のような奇妙な形の翼を生やしており……
「出おったかタガメ寺在住ーー!!」
「誰がタガメ寺在住よ!!」
諏訪子の腰元にタックルで貼り付いたのは、今話題沸騰中の命蓮寺在住、封獣ぬえだった。
自身の住処を埋め立てられる寸前のぬえは藻掻く諏訪子に必死で取り縋る。
「放せ馬鹿ー!! 私はあんたのとこの寺埋めるので忙しいんだー!!」
「馬鹿はそっち!! その理由で私が放す訳ないでしょ!!」
ジタバタと組んず解れつ長老の頭の上で暴れる二人。諏訪子と長老の話を大人しく聞いていたチルノと大妖精の二人が突然の展開に目を丸くする。
……と、そこで暴れていた二人が当然の帰結として、
「あぅ!?」
「わぁっ!?」
足を滑らし踏み外し、長老の頭の上から転げ落ちた。
ぬえは膝を抱えて皿~、皿割れた~と呻いて転がり、諏訪子は打った頭を抱えてうずくまり、必死に涙を堪えていた。そしてそんな二人を見下ろす人影が現れる。
「で、出おったなタガメ寺二号~」
「……はぁ、タガメ寺うんぬんは置いておくけど、とりあえず家の寺を埋めるのはやめた方がいいよ。予想していた事態の一つだから対策済みだし、しかも上手く行ったとしても君と蛙達にとって無意味、というか極めて有害だからね」
「……あぅ?」
悶えつついつの間にか現れたタガメ寺二号ことナズーリンの言葉を聞いて首を傾げる諏訪子。
しかし、そんな諏訪子からあっさり目線を逸らし、ナズーリンは自身の倍はある高さの長老の顔を見上げて口を開いた。
「長老、確かに彼女なら戦力として申し分ないけど肝心の連携に不安が出るようじゃ困ると思うんだけれど?」
「いやいやナズーリン殿、意地悪を申さんで下され。お言葉は最もですが、その不安を埋める為に御足労願ったというのは貴殿も解っていることでしょう?」
「……その通りだけど、ならもっと早くに止めて欲しかったね。お陰で家の戦力が使う前から傷んでしまったじゃないか」
「ううむ、それに関しては確かに儂が出遅れた事が原因ですな。ぬえ殿、申し訳ない」
「しくしく、うぅ何故だろう。膝よりナズーリンの言葉の方が痛い」
「気のせいだと思うよ。戦力A」
「そこはせめて名前で呼んでよ!!」
しれっと言ったナズーリンに脚を抱えつつ抗議の叫びを上げるぬえ。そして長老も交えたいやにフレンドリーな一連のやり取りに更に深く首を傾げる諏訪子。
膝小僧をさすって浮かびながら詰め寄るぬえとそれをあしらうナズーリンを尻目に、諏訪子は首を傾げたまま長老に不思議そうに問いを投げた。
「長老? これってどういうこと?」
「ううむ、申し遅れましたが此度のタガメ大量発生に対処するにあたり、我ら蛙一同は命蓮寺の方々と共同歩調を取ることになっております」
「なんでさ!? こいつらタガメが強くなったのの元凶なんでしょ!?」
「まぁ、ある意味ではその通りなのですが……」
「元凶だからと言ってそれが望んだことだとも、被害を被らないとも限らない、ということだよ。洩矢諏訪子」
「む」
詰め寄るぬえの額を押しやり引き離し、ナズーリンが話に参入する。
「まず第一に家への信仰がタガメに流れるということは、その分、家への信仰が減ってしまうという事だ。馴染んできてはいるけど家もまだまだ新参だからね。それを許容する余裕は残念ながらない。そして更にもう一つ大きな問題なのが、妖怪化したタガメ達が人里を囲ってしまいつつあるという事だ」
「……へ?」
「夜道怪というのは人攫いの妖怪だからね。得てしてそういう妖怪というのはハーメルンの笛吹きに代表されるようにこっそりと人を浚うための能力を持ち合わせている。そして今回のタガメ達も実にタガメらしい形でそういう能力を獲得していてね」
「諏訪子様、御身は先程人里に居られたようですが人里中に漂う甘い匂いに気付きませんでしたかな?」
「あー、そういえば確かあったような……」
僅かな思案の後に、確かに嗅ぎとった覚えのある甘い匂いを思い出し、諏訪子は曖昧に頷いた。
「あれは実はタガメが発する匂いなのです」
「えぇ!? タガメが!?」
「別段驚くことじゃないよ。タガメは分類的にはカメムシの仲間だからね。東南アジアではタガメの匂い袋から取り出したフェロモンを香辛料として使うぐらいだ」
驚く諏訪子にナズーリンは肩を竦めて新たなタガメ知識を披露する。そして更にその先も。
「幻想入りして妖怪化したタガメ達はどうやらこの匂いを使った能力を身につけたようでね。あの果物のような甘い匂いを嗅ぎ続けると思考が鈍り、タガメ達に行動を操られるようになる。と言っても、タガメ一匹一匹は私にすら遠く及ばないような超弱小妖怪だ。本当にハーメルンの笛吹きのように浚えるようなレベルで操るにはニ、三年かかるだろうね。ただ……」
「た、ただ……?」
「彼らを直接"食べてしまった"場合は話が別なんだ。この場合ただ匂いを嗅ぐのとは段違いのレベルで洗脳が進む。効率としては十倍、二十倍と言った所だろうね。そして……君も知っているだろう? 今やタガメは……」
「ひ、人里で大人気の売れっ子食材……」
人里で勧められたタガメ料理の数々を思い出し諏訪子は顔を青くする。
そんな諏訪子の言葉にナズーリンと長老が重々しく頷く。
「完全に後手に回った形ですな。此度のタガメの流行り具合は以前の大量発生と比べても異常な程です。恐らくタガメ達が能力で後押ししたのでしょう」
「流石に食べられることは予想していなかっただろうけど、それを利用して一気に洗脳を進めた感じだろうね。お陰で異常に気付いた人里の退治屋連中は村八分で叩きだされて家に逗留中だよ。はぁ、妖怪達と揉めに揉めてえらい事に……」
ナズーリンが額に手を当て頭を緩く振る。
そんなナズーリンを目を見開いて見ている諏訪子はあんぐりと開いた口が塞がらない。なにせ……
「そ、それってまずくない?」
「まずいよ。一切疑問を差し挟む余地なく非常にまずいよ。このまま行けば人里の信仰を新参のタガメ達に独占される。そうなれば家も、君の所も商売上がったりだ」
ナズーリンは両手を上げて溜息をつく。
「と、まぁそういう訳で直接被害を受けている蛙達と、大きな市場を独占されそうな私達命蓮寺で同盟が組まれたという訳さ。他にも生態系を崩されそうな妖蟲達とか妖獣達とか利害が一致している勢力に話を振って合流して貰っている」
「ちょっと待った。それ家には話来てないよ?」
「ん……いや実はこの同盟の話が持ち上がったのは昨日でね。君の所にも今日、一応使いは出したんだが……神社には誰も居なかったらしいんだけど、むしろ君以外はどこに行ったんだい?」
私としては是非同盟に参加して欲しいんだけれど。
そう若干困惑して返したナズーリンに諏訪子は更に困惑した顔で言葉を詰まらせた。
諏訪子の記憶では神奈子と早苗が二人して神社を空ける予定はなかったはずだが……一体どこで油を売っているのかあの二人は。歯噛みする諏訪子の姿を見て、これは埒が明かないなと判断したナズーリンは改めて口を開いた。
「そんな訳で、現状はかなり絶望的な訳だが打つ手が無い訳じゃない。これはそっちの長老からの情報なんだけど……」
ナズーリンがそう言って水を向けると長老が受けて答える。
「我が蛙達の斥候活動の成果なのですが、どうやらタガメ達には全体を統率している頭領がおるようです」
「頭領?」
「はい、その者は他に比べて圧倒的に優れた能力を持っているようで、本来群れることのないタガメが集団で動いているのも、この者の統率あってこそのようです」
「……ふーん、ってことは打つ手っていうのは……」
「ああ、簡単だ。私達の手でその頭領を退治する。そもそも人里に居るタガメの知能は普通に虫レベルだからね。頭領さえ抑えれば、集団で動くこともなくなるはずだ。そうなれば後はちょっと手強い虫として駆除出来る」
「……頭領がどこに居るのかってのは解ってるの?」
「調べによると、どうやら魔法の森の外れの大沼に居るようだ。把握しているタガメの群れの全てが一定周期でその沼に立ち寄っているからね。恐らくそこで新しい指示を受け取っているんだろう」
そう言ってナズーリンはゴソゴソとポケットから地図を取り出し諏訪子の前に広げ、一点を指差す。
「ここが件の大沼だ。そして私達の現在地がここ」
「……長老、ちょっと近過ぎない? これじゃここが襲われたら逃げ切れないよ?」
「は、お言葉はごもっともですが今の所は問題有りませぬ。ここはタガメの群れが巡回しているルートの隙を付いた場所ですので、少なくとも明朝までは持つかと」
「明朝って、それなら今から動いた方が……」
「心配要らないよ、その明朝で決着を付けるからね。私がここに来たのは君との顔合わせと、その反撃作戦の打ち合わせの為だ」
「あぅ?」
「タガメの能力上、時間の経過はそのまま向こうの有利に繋がるからね。速攻の電撃戦でケリを付ける、という事ですでに作戦は立案され採択されているんだ。その辺、新しく加わった君には悪いと思うけど……これが間違いなく最善だからね、そっちの長老も同意しているということで納得してくれると助かる」
「……解った。で、作戦ってどうするの?」
長老と一瞬アイコンタクトで確認を取り、諏訪子は不承不承ながらも頷いた。
その事に気付いてはいるのだろうが知らぬ振りをして、ナズーリンはポケットから抜き出したペンを手の中で回して、地図に大きく矢印を書き込んだ。
「これが予定されている私達命蓮寺とそこに合流した勢力の侵攻路だ。ご覧の通り、一直線に沼に向けて侵攻する」
「……流石に正直過ぎない、これ?」
「正直でいいんだよ。というより私達命蓮寺はタガメ達に徹底的にマークされているからね。どんな進路を取ったところで進発した瞬間に察知される」
私がここまで抜け出してくるのもぬえの正体不明の能力が無ければ不可能だっただろうね。
そう言ってナズーリンはすっかりしょげて、チルノと大妖精に慰められているぬえに一瞬視線を向ける。
「という訳で、ぬえに怪我をさせた事については本当は強く抗議したいんだけど?」
「それについては私も頭打ったからお相子だよ。……でもまぁごめんとは言っとく。それでいい?」
「ああ、じゅうぶ……なんだい、その顔は?」
「べっつにー、命蓮寺のネズミさんは意外と可愛いんだなーって。ダンスコンテストじゃカッコいい系だったのにね」
諏訪子がからかうようにクスクスと笑う、見れば長老も大きな口に緩い笑みを浮かべていた。
チームフロッグの二人に生温い視線を向けられてナズーリンは顔を赤くして怯んだような顔になる。
「ぐっ、ええい続けるよ。とにかくタガメは私達を監獄レベルで監視してる。恐らく向こうも最初に自分達の力の元になった聖に気付いて、警戒しているんだろうね。……だからこっちはその警戒を逆手に取る」
「……そっちは囮ってこと?」
「話が早くて助かるね。そう、私達命蓮寺の侵攻は陽動だ。だから真っ向から突き進んで正面決戦を挑む。幸い家に今いる戦力はそのまま正面突破も見込める大戦力だからね。本拠地と頭領の護衛に回っているタガメも釣り出せるだろう。そこで本拠地が手薄になったところで……」
「本拠地に近い私達が奇襲をかける」
諏訪子のポツリとした言葉に頷き、ナズーリンが現在地からタガメの大沼へと矢印を一本引き足す。
完成した作戦図面を眺めて諏訪子は頤に手をやって思案に耽る。
「……二つ、確認したい事があるんだけど」
「ああ、構わないよ」
「一つ目、もし仮にタガメの頭領が本拠地から打って出て、そっちに行ったら私達はどう動けばいいの? その頭領が向こうの頭で、同時にエースだって言うんなら可能性はあるよね?」
その諏訪子の問いに、ナズーリンは一瞬感心したような顔を見せ、そして即座に引き締めた。
大妖精に見た目子供と言われるような幼い外見の諏訪子だが、その正体はかつて一国を率いた亡国の王者である。戦略、戦術にある程度通じているのはむしろ当然のことだろう。その事を失念していたナズーリンは毘沙門天の賢将として恥ずかしくない答えを返すべく、改めて背筋を伸ばしたのだ。
「君の言う通り、その可能性はあるだろうね。一人一人の戦力差が大きい妖怪にとって、それは常套戦術だから。その場合はこちらから合図を出すから相手の背後を突いて挟撃してくれ。さっきも言ったように陽動側の戦力は十分過ぎる程大きいからね。背後で撹乱してくれればそれで押し切れるはずだ。ただ、私はその可能性は低いと見ている。タガメ達の行動は今の所、働き蜂と女王蜂のそれに似ているからね。戦になっても恐らくその傾向は変わらないと思う」
「……ん、解った」
ナズーリンの答弁を頭の中で転がし、諏訪子は短く了承の返事を返し頷いた。それを見てナズーリンは内心でほっと安堵の息を付いた。
「それで二つ目の質問というのは?」
「んー……陽動だって言うならやっぱりこの進路は安易過ぎない? 陽動からの奇襲作戦で一番怖いのは、作戦読まれての各個撃破だよ?」
「……」
若干悩みながら諏訪子はナズーリンに二つ目の疑問を投げた。ただ、諏訪子が悩んだのはこの意見の正しさについてでなく、もう一つ上の段階、つまりこのぐらいの事貴方なら解ってるよね? という意味での悩みだった。
諏訪子が言ったのは本当に戦術としては初歩の初歩の話で、なんなら軍略に造詣のない素人でもちょっと頭を巡らせば思い付くレベルの話である。その程度の事を昨日の今日で同盟の話を取りまとめ、明日には反撃に転じるなどという離れ業をやってのけた知恵者が気付かぬはずがない。故に諏訪子はこちらの質問にこそ、即答で何らかの返事があるかと思っていたのだが……
「あーそれは……何というか……」
「……?」
初めて歯切れの悪い調子になり、言葉を濁すナズーリン。
予想とは違うその反応に諏訪子は目を訝しげに細める。そして、その目には少なからず剣呑な光も宿っていた。もし仮にこのネズミがこの程度の事に気付けぬような愚か者なら、その作戦に乗るのは危険過ぎる。今からでも同盟破棄、とまではいかなくとも少なくとも作戦の見直しはするべきだ。
……と、諏訪子がそんな事を口にしようとしたところで、
「それについては儂から申しましょう。ナズーリン殿では口にしづらいでしょうからな」
「……長老?」
長老が渋い声で助け舟を出した。諏訪子はそれを聞いて意外そうな顔で長老を見上げた。何故かと言って長老の声がチルノにすら向けられなかった怒りを孕んでいるようで……
「仮に命蓮寺方の侵攻が陽動とバレても"我ら"の奇襲が読まれることは有り得ないのですよ。タガメ達にとっては我ら蛙は芥子粒程も恐れる必要がない純粋な餌ですからな。結集して反撃に転じようなどとは夢にも思わないでしょう。……現にあれだけの無体を働いておきながら我らに監視の手は一切割いておりませぬからな。ああ全く、実に好都合な事ですな」
くくくと、長老は押し殺したような笑声を零す。
それを聞いてナズーリンは顔を引き攣らせる。以前から賢者達の使い役として付き合いはあったが、この長老がここまで怒っているのは初めて見る。そしてもう一つ、一歩引いた態度と謙遜で誤解されがちだが、この長老は恐らくかなり強い。ナズーリンが戦力的に不安がある蛙達に奇襲部隊という要の役を任せたのも、いざとなればこの長老一人で新参妖怪程度どうにでもなるだろうという見込みがあっての事だった。そして更に……
「……へーそっか、そういう事か。ふーん、私の可愛い蛙達がそんな扱いなんだー、あはははははは」
不吉さと不気味さしか感じられない虚ろな笑声を上げる諏訪子。恐らく蛙絡みの幻想郷ツートップの笑いに似た何かに挟まれ、自他共に認める軍師系(武力低型)であるナズーリンは身を竦ませる。そしてそんな内心ビビリまくりのナズーリンに追い打ちをかけるように諏訪子がぎょりんと首を巡らし、見開いたギラギラした目でナズーリンを見据える。祟り神の洒落になっていない眼光を浴びて、ナズーリンは思わずびくりと肩を跳ねさせた。
「うん、ネズミさんの作戦は理解したよ。私としてはこのままヤっていいかな。っていうかタガメの頭領とやらを直接私がヤっちゃいたいから、このままじゃなきゃ嫌かな」
「うむ、儂も諏訪子様と同意見ですな。ナズーリン殿、それで構いませぬかな?」
辺りの景色をプレッシャーで歪ませている二人に促され、ナズーリンはこくこくと必死に頷いた。彼女の脳裏にはそういえば大型の蛙ってネズミぐらいなら食べるんだよなーと思い出したくもない知識が浮上していた。
「そ、それじゃあ君達の同意も得られたところで……作戦の決行は明朝六時だ。私達命蓮寺組はその時刻を以って大沼へと進発する。タガメは基本的に夜行性だからね、こちらが自然に動け、かつ向こうが寝入った辺りの朝駆けでいく。……異存はないかい?」
ナズーリンの確認の言葉に、諏訪子と長老は重々しく頷いた。それを見てナズーリンは地図を手早くクルクルと巻取りポケットに放り込み立ち上がる。
「うん、それじゃあ君達は明日タガメ達が釣り出された頃を見計らって、ここから大沼へ進発してくれ。そのタイミングは流石に命蓮寺からじゃ計れないからね、任せるよ」
「承知。すでに抜かりなく斥候を放っておりますからな、お任せ下され」
「うん。……それと、洩矢諏訪子」
「ん?」
ナズーリンが長老と頷きを交わして諏訪子に改めて向き直る。
「この打ち合わせを最後に、私が打てる手、打つべき手は全て打ち終えた形になる。自分で言うのもなんだけど、余程の計算外でもない限り必勝を見込めるだけの手を打ったつもりだ」
「それは……うん、そうだね」
即席とは思えぬ程集められた戦力、決まれば相手の強みである数を無効化できる陽動戦術、どちらも武神毘沙門天の名に恥じぬレベルで講じられた軍事行動であり、諏訪子もこれ以上の策を出せる自信は正直なかった。しかし……
「ただ計算外をどうこう言うなら、そもそも大量発生したタガメが妖怪化して人里を囲ってしまうというのが、すでに常識外れの計算外だからね。幻想郷では常識に捕らわれてはならないというのは、確か君の所の巫女の台詞だったと思ったけど……けだし名言だね」
ナズーリンが気取った調子で肩を竦めて見せる。
この慎重で臆病な賢将は、どうやらこれだけの策を並べてもまだ勝利を確信できていないらしかった。故に先程恐れた諏訪子の目を、それでも真正面から見つめて念を押す。
「そしてその計算外が起きた時、頼りになるのは君だけだ、洩矢諏訪子。君以外の戦力は余すことなく私の計算の上に乗ってしまっている。此方がたの戦力で私の計算外に位置している戦力は、今日いきなり参陣して来た君だけだ」
「……私、だけ」
「ああ、今の所確定しているのはね」
そうして頷き、ナズーリンはと静かに言葉を繋ぐ。
「だから、今ここに居る者の中で本当に覚悟がいるのはもしかすると君かもしれない。その事だけ最後に言って、謝っておきたかった。計算外の責任を誰かに押し付けるのは賢将としての私の不手際だからね」
すまない。
そう率直に言って頭を下げるナズーリンの姿は、商売敵ながら諏訪子にも潔く気持ちのいいものに感じられた。だから諏訪子はそんなナズーリンに気にするな、任せとけと一声……
「あ……ぅ……?」
「……? どうかしたのかい、洩矢諏訪子?」
「え、あ……ううん、何でもない」
一声掛けようとしたところで、どうしてか身体が口ごと固まった。そんな諏訪子に気付いたナズーリンの言葉を聞いて、そこで初めて諏訪子は身体が動くようになった。
「そうかい? ……まぁ、とりあえず作戦決行は明日だからね。今日はゆっくり休むといい。君ほどの者なら半日休めばだいたい何とかなるだろう?」
家のご主人様も、そんな感じだからね。
そう言ってナズーリンは軽やかに、ここに来て初めての笑顔を見せ、そして踵を返した。
「さて、それじゃあ私は命蓮寺に戻らせて貰うよ。実はこうしている今も向こうが揉めてないか気が気じゃなくてね。マミゾウを置いて来たから平気だとは思うけど、彼女は気分次第で煽り役にもなりかねない」
と、ナズーリンは本当に気が急いているのか、しゃがんでチルノ達と話し込んでいるぬえに足早に近付き、別れを惜しむぬえの背中を押しやって、せかせかと森の中に消えていった。
そんな忙しないタガメ寺在住じゃなかった二人の背中を見送り、そこで諏訪子は空が茜色に染まっている事に気付いた。
「うあ、いつの間に……そっか、もうこんな時間だったんだ」
「そうですな。話し込んでいて気付きませんでしたが、宵の帳が落ちるのもすぐでしょう。もう……」
明日は、すぐ間近に。
長老のその言葉を聞いて、諏訪子は帽子のツバを深く下ろした。長老の言葉を聞いてまた口が動かなくなったのを知られたくなかったから。
………………
…………
……
パシャパシャと、水を緩く叩く音がした。
細い三日月を映す水面が揺れ、池に静かな波が立つ。素足を冷たい水に差し入れている諏訪子は、その感触を確かめるようにそうやって幾度も水を蹴立てていた。パシャパシャと、パシャパシャと。
「眠れないの?」
「……誰か起きてるなーとは思ってたけど、お前さんか。ちょっと意外だったかな」
子供はもう寝る時間だっていうのに。
そう言って諏訪子が半分だけ振り向いた先に立っていたのは、氷精のチルノだった。日付が変わるか変わらないか、これぐらいの時間を遅いと考えるか早いと考えるかは人それぞれだろうが、少なくともチルノ程の背丈の年齢ならば自然に床に就く時間であろう。
「む、それを言うなら諏訪子だって子供なのに寝てないじゃん。あのネズミに休めって言われたのに」
「私とあんたを一緒にしないの。見た目はこんなでも、こちとら子持ちの土着神だよ」
何より私に今必要な休憩ってのはこうして静かに落ち着く時間だからね。
諏訪子はそう言ってチルノに再び背を向け、水を足でかき回す。一回転、二回転……そうしてしばらくして諏訪子はもう一度チルノの方を振り向いた。その目には再び意外そうな光があった。チルノの性格なら子供扱いしたような言葉にすぐに反駁してくると思っていたからだった。しかし、諏訪子の予想に反してチルノは幼い怒りとは反対の何かを案じるような顔で、
「気にしてるの? あのネズミに言われたこと」
「……聞いてたんだ。ま、そりゃね。私の愛する蛙達を雑魚扱いされたからね」
「ん? いやそっちじゃなくて、計算外がどったらこったらの方」
「……」
チルノがスタスタ歩いて諏訪子の横に座る。
そうしてチルノと並んだ諏訪子はひどく平静な顔で池の方を見つめていた。いや、この場合不自然なほど平静な顔というべきか。実際諏訪子は作った表情とは裏腹に、心の水面をさざめかせ動揺していた。
「んー、あんまり気にしなくて良いと思うよ? なんてったって明日は最強のあたいが居るからね。勝つのは決まってるんだし」
笑顔で胸を張るチルノの発言は恐らく無根拠なものだったのだろうが、その笑顔には確かに見る者を元気づけるような力強さがあった。
故に諏訪子は思わず口にしてしまった。
「はぁ、なんでよりによってあんたに気付かれるかな」
心のさざめき、その一端を。そして一度流れだせば、容易には止まらないのが水の理。
「久しぶりだったんだよね。あんな風に頼られるのって……それこそ神奈子に負けて以来初めてかも」
池に広がる波紋を見つめながら諏訪子は語る。
幾星霜を経て今日まで生きてきた諏訪子であるが、もちろんそんな彼女にも見た目さながらな若年の時分というものがあった。
その頃の諏訪子は洩矢の王国の者に讃えられ、力と権威と信仰を最高の水準で保持していた。諏訪子の最盛期がいつかと問われれば彼女は迷うことなくこの頃だと答えるだろう。しかし、
「それでも私は負けた。神奈子には勝てなかった」
それはある意味あっさりと、しかしその実どうしようもなく圧倒的な敗北だった。
諏訪子が鉄輪で攻撃し、神奈子がそれを無効化する。その短いやりとりで諏訪子は悟った、悟らされた。どうしようもない力の差を。
あの時諏訪子は確かに、蛇に睨まれた蛙の心境を理解した。蛇に似たミシャグジを従えながらも、自身が雨蛙のように縮み、神奈子が巨大な大蛇のように膨れ上がる様を幻視した。そうなってしまえば、もう戦意を保つのは無理だった。諏訪子は抵抗を諦め、潔く身を引いた。
「ぶっちゃけて言うと私も明日は勝てると思ってる。新参のヒヨッコ相手に、私とか長老とか……うん、チルノが言う通りチルノが負けることだってまずない。普通に考えて明日は負けるはずなんかない。絶対に、ない」
けれど……
「あのネズミさんじゃないけど、それを言うなら私は神奈子にだって負けるとは思ってなかった。絶対勝てると思って、実はちょっとだけ前の日にお酒呑んだりもしてた」
「だから……怖いの?」
「……うん、怖い」
チルノの問いに、諏訪子はコクリと頷いた。
ナズーリンにそんな意図はなかっただろう。けれど諏訪子はあの君だけだ、という言葉で思い出してしまった。それこそ唯一無二の王であり、背中に多くの者の命運を背負い、そして敗れた過去を。
そして、それ以来表には出ずに神奈子に信仰集めを投げっぱなしだった理由も。
「私は、怖い。もう一度何かを背負って戦うのが、負けるのが。……忘れてたのに、思い出しちゃった」
諏訪の王国は諏訪子が負けても大してひどいことにはならなかった。
けれどそれはあくまで相手が神奈子で、そして彼女の柔軟な戦後処理が図に当たったからに過ぎない。要するに侵略者が気の利いた侵略者だったという望外の幸運の賜物だったのだ。そして今回のタガメ騒動において、それは当然のように望めない幸運だろう。
かつて神奈子の力を目の当たりにした時の絶望、そして今またかつてのように背負った他者の命運。その二つがもたらす圧力が、二匹の大蛇のように諏訪子の身に絡みついていた。そして諏訪子の経験は告げる。この自縄自縛を払わねば、それこそ明日は負けかねないと。
諏訪子は重い懸念を振り払うように軽く首を振って、無理やり淡い笑顔を作りチルノの方を向いた。
「ん、ごめん。あんたにはちょっと難しい話だったかも。まぁ多少調子が悪くても私はタガメ程度に負けたりしないから安心し」
「ちぇりお!!」
「トガメっ!?」
淡く大人びた微笑をあえなく崩し、諏訪子が鼻を押さえ、腰を折り曲げうずくまった。
何故かと言えばチルノが唐突に諏訪子の鼻っ柱に頭突きを叩き込んだためである。余程当たりどころが良かったのか、諏訪子はその痛みの程を示すようにプルプルと震えていた。
「こ、このお馬鹿は……いきなりなに、」
「馬鹿にすんな!!」
「んむっ……」
「勝手に背負うな!! あたい達はあんたなんか当てにしてない!!」
「……う、え?」
チルノが諏訪子に人差し指を突き付け発した叫びはとても力強かった。諏訪子が黙り、戸惑うほどに。
「あたいも、ここの蛙も、あんたがここに来なくたって戦ってた。怪我してるやつだって初めからそのつもりでここに居るんだ。自分が戦うためにここに居るんだ!! だからっ!!」
チルノが立ち上がり、後ろに振り向いて、森に向けて一際大きく叫ぶ。
「あんたに感謝してるやつはいてもっ!! あんたが負けて責めるようなやつは、ここには一人もいないっ!!」
叫びの余韻が森に染み込み消えていく。
妖精のくせに静寂という自然に反したチルノの声が消え、後には唖然とした諏訪子だけが……
ケ……k……
否、まだ声はあった。
その声は小さかった。故に最初は木々のざわめきに紛れ消えかかっていた。諏訪子も聞き違いかと思った。けれど……
ケロ、ケロ……
ケロケロ……ケロケロ……
ケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロ……
ケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロ……
ザザザザと、幾つもの小さな声が重なって静寂を吹き飛ばす。夜の森の中で並んだ目玉が幾つも幾つも燃え盛っていた。瞳の篝火の上に蛙達の命の賛歌が満ち溢れる。
「は、はは……そっか、そりゃそうだよね。あれだけ叫べば、みんな起きて……」
予期せぬ大合唱に呆然としている諏訪子が思わず呟く。そして震えた。だって、この合唱はきっとチルノの言葉への賛意で……
「馬鹿にすんな」
蛙の歌を背景にチルノが再び小さく零す。
「神頼みがやぶれて恨むほど、あたい達は弱くない。……特にあたいは最強だからねっ!!」
「――――は」
チルノが傲然と胸を反らして、自慢気に笑う。
諏訪子はそれを見て口を丸く空け、そして……
「はは、は、はははははは……そっか、そっか」
諏訪子はバタリと後ろに倒れ込み、背中を地につける。
結局、自分は心の底の底までチルノに見透かされていた。そう、諏訪子は怖かったのだ。自分が負けて蛙達が酷い目にあうのと同じくらいに、負けた時に蛙達に恨まれるのが。諏訪の王国の時も同じだった。神奈子に負けて以来、ミシャグジの制御だけやって碌に表に顔を出さなかったのも恨みの言葉を投げられるのが怖かったからだ。けど……
(もしかしたら、そんなことはなかったのかな。あの頃のみんなも、この子達みたいに……)
諏訪子は響き続ける蛙達の歌に耳を傾ける。そうしていると思い出すことが一つ、そう言えば……
「ははっ、やっぱりあんたは凄いよ神奈子。信仰集めに幻想郷に来たのは間違いじゃなかった」
信じ仰ぎ、されど縋らず背を伸ばす。信仰は、本物の信仰は……
「ここにあった。そんで……」
もしかすると、かつてにも。
星空を仰ぐ諏訪子が穏やかに笑う。その胸の内には、もう明日への不安など一片もなかった。
こういう作品を待ってました。
いやいや面白くなってきましたよー。
さて、作品自体のコメントは後編にて。
果たしてどうなるのか。
心待ちにしながら、後編にいってきます。
後半に行ってきます