∇ _Exordium
「さて、それじゃあ自己紹介からいってみようか。ほら恥ずかしがらず。裸の心で」
始まりにあたり周囲に己を正しく知ってもらうことは、言うまでもなく基礎の基礎である。だというのに子供たちは。
「やだあ。なんかやらしー」
「最低ですね」
「……ばーか」
赤面。軽蔑。無関心。三様の反応は全てが期待はずれもいいところだ。いや赤面はいいな。うん。初々しくて。そういう子は先生大好きだ。
「いいから。自分の言葉で自分を伝える。大事なことだぞ。お前たちの家族や友達も皆やってることだ」
初めての教室。初めての級友。今日は寺子屋の特別授業である。生徒は三人。いずれも寺子屋どころか里にすらあまり来ない類の幼女たちだ。慣れない子たちに囲まれて、教師であるこの私も身の引き締まる思いでいっぱいだった。
「ほら立って。裸の心で」
うえー、とか言いながら三人の子供たちは立ち上がった。うむ。幼女は素直が一番である。
「んーと……フランドール・スカーレット、です。えっと、お姉さまが行ってこいって言ったの。テラコヤで雑種どもの話でも聞いて余計な見聞を広めてきなさいって」
吐露される肉親の傲慢。王様か。姉。
「古明地こいしです。私もお姉ちゃんに勧められてここに来ました。ザリガニとサンタクロースの区別が付いたら帰っていいそうです」
水の中に潜むキチン質がザリガニ。煙突の中で藻掻く不審者がサンタクロースだ。
「……封獣ぬえ。……行かないと食事抜きだってムラサが。……香霖堂のメガネにセーラー服を売ったくらいで、あんなに怒らなくてもいいのに……」
香霖堂の店主は気骨あふれる真の商売人である。客の笑顔をこそ至上の報酬と心得る彼は、その身で品質を確かめた逸品のみを店舗に飾る職人気質を誇りとしている。今頃はムラサのセーラー服をパリっと着こなしたメガネの店主が、満ち足りた笑顔で接客をこなしているのだろう。そのお眼鏡にさえ適えば、セーラー服はひと月と待たずショーウィンドウに並ぶはずだ。最高の着心地を保証するという、店主手ずからの手書きのポップなど添えられて。
「よし。三人ともよく出来たな。いや、どちらかというとダメなところの猛プッシュだったけどな。いいんだ。先生そういうの気にしない。裸の心をさらけ出した幼女に罪はない。先生夜な夜なそう言って里を回ってる」
お陰で先月は二回も公僕に職質を受けた。小さなお子様をもつ母親たちからの評価は発情期の猫以下だ。寺子屋から人間の子たちが去っていったのも、母の会の反対に因るらしい。おかしな話だ。私は誰よりも子供を愛している。ただそれだけのことだというのに。今や寺子屋はすっかり妖怪たちの集う場所。チルノにルーミア、リグル、ミスティアといった幼い妖怪たちこそが、最近の生徒の顔ぶれである。
「ねー、けーね」
「ん、どうしたフランドール?」
だがそうした小さな妖怪たちの中でも、今日の生徒はまた異質。ぬえ、こいし、フランドール。彼女たちの家族に頼まれて、今日は臨時の特別授業なのだった。
「テラコヤのせんせーって、けーねのこと?」
「ああそうだ。今日は先生って呼ぶんだぞ」
「はーい」
両手を上げるフランドール。良い返事だ。
「それからな、フランドール。私からも質問だ」
「?」
「……その椅子は何だ」
紙と木で出来た簡素な寺子屋。教壇すらない、畳の上に小さな文机を並べただけという慎ましくも暖かな師弟の輪の中。金銀煌めく玉座の上で、無邪気に笑う吸血幼女がゆったりと足を組んでいた。
「先生玉座を知らないの?」
「なぜ学び舎に玉座があるのかを問うているんだ」
「えっと、お姉さまがこういうのは形から入るものだって」
「違う。その形は大いに違う」
玉座はフランドールの身体に合わせた特注品なのだろう。柔らかな毛皮で編まれたオットマンに脚を乗せることで、少女の腰は無理なくレザーに包まれている。色とりどりの宝石と艶やかな紅で彩られた貴種の高御座。その肘掛けに優雅に体重を預けたフランドールが、畳に正座した教師を睥睨する午後一時の昼の寺子屋。
「いやいや、それはない。それはないだろう」
このまま土下座でもして頭を踏んでいただきたくなるシチュエーションだ。それはそれで素敵な思い出となりそうな気もするが、二人はやはり教師と生徒。上下関係はキッチリしておくべきである。
「私物の持ち込みは許可制だ。玉座の持ち込みは許可できない。さあフランドール、玉座を降りて、皆と同じように畳に正座するんだ」
「正座はキライ」
玉座からは降りたものの、畳の上で足を伸ばすフランドール。
「こら。ダメだ。こいしとぬえを見てみろフランドール。ちゃんと二人とも正座をして……いないな」
ぬえはあぐらをかき、こいしはふんわりと足を崩している。
「むぅ……」
良くない。実に良くないが、とても良い。あぐらをかくぬえがちらりと見せる色気のない白いショーツは、だからこそそれがとても良い。
「……まあ正座はいい。玉座は先生が預かっておくぞ。放課後返してやるから取りに来い」
「うーん……重いからやだなあ」
「重いからって……うわ、ほんとに重いなこれ!」
今夜が満月じゃなかったらとても一人では持ち上げられない重量だった。どうやって持ってきたんだこれ。
「美鈴が持ってくれたの」
「ああ、『軍曹』か……」
紅魔館の門番、紅美鈴はジャージのよく似合う華やかな女性だ。たまに体育の講師として寺子屋にお招きすることもあるのだが、そういう時は厳しい指導で子供たちを鍛えてくれるのでとても助かっている。
『弾幕に華がない! たまには輝けマメ電球!』
『走れ! カスれ! ハーゲンダッツ!』
『回避が遅い! ピリッと羽ばたけスパイシーチキン!』
『サー! イエスサー!』
弾幕ごっこの指導までしてくれる紅先生と、彼女をサーと仰ぐリグルやチルノ、ミスティア達。その一見して過酷な授業風景にも拘わらず生徒たちからの信頼篤い紅先生に感服し、ご近所の方々は敬意を込めて彼女を『軍曹』と呼ぶのである。
「まあいい。玉座は教室の隅に置いておこう」
あとで軍曹が持って帰ってくれるだろう。
「それじゃそろそろ授業に入るが……その前に一つ確認しておこう」
小首を傾げるフランドール。ぽえっとこちらを見るこいし。めんどくさそうに頭をかくぬえ。今日の特別授業の生徒たち三人をゆっくりと見渡す。
「うん。みんな可愛いな」
「は?」
「い、いや、そうじゃない。そうじゃなくてだな」
はっはっは、と乾いた笑いで誤魔化しに入る。
「今日は待ちに待った特別授業だ。知っての通り、寺子屋に来たことのないお前たちを案じた者の提案によって、今日の授業は成り立っている。レミリア・スカーレット。古明地さとり。村紗水蜜。皆、知識と教養の素晴らしさを知っている智者たちだ。そしてお前たちがそれらを身につけ、より良い今を生きられるようにと、骨を折り頭を下げてくれた人徳者たちだ。三人とも感謝を忘れてはいけないぞ」
実際は札束で頬を張られたり、心の歴史の奥底にしまい込んだ水泳授業の隠し撮りを公開されそうになったり、妖怪寺の納会で酔った勢いに任せて尻を撫でたキャプテンに泣かれたりした挙句の授業成立なのだが、それらは総じてどうでもいいことだ。買収。脅迫。贖罪。子供たちの笑顔に比べれば、そんな大人の事情など些事にすぎないのである。
「さあそれじゃあ授業を始めよう。ああ、授業といってもそう構えることはないぞ。別に難しい学問を修めろということじゃあない。そうだな。レミリアの言ったように、今日はそれぞれ少しだけ見聞を広げてくれればいいんだ」
雑種共とのたまうレミリアの言い様は最悪だが、要はそういうことだ。普段の生活では得られない刺激を受け、ほんの少しでも視野を広げてほしい。その胸のうちに新しい何かを見つけ、育む喜びを知ってほしいという願いが、今日この場に集まっているのだ。そして願わくば、少女たちが気負うことなく里で笑い合えるように。
三人に少しでも寺子屋を好きになってもらい、またいつか、今度は自分からここに来たいと思ってもらう為の切っ掛けとする。それが今日の特別授業における、私自身の目標だった。故に多少のやんちゃは見逃すつもりだ。頭突きも封印する。三人は我侭で天然な天邪鬼であるし、何よりも今日はまず寺子屋で楽しい思い出を作ってほしい。さしあたり初対面に近いのであろう三人の仲を深めてもらいたいものだが、そこは寺子屋の空気に慣れながら、徐々に打ち解けあうしかないのだろう。
「一時間目は世界史の授業だ。三人とも、教科書の5ページを開け」
ちなみに二時間目は日本史の授業。最後の三時間目は幻想郷史の授業の予定だ。
「歴史ばっかり」
「先生の専門だからな。歴史はいいぞぉ。先生芭蕉の句でゴハン三杯はいける」
鳴かないホトトギスとか、何羽目に入れても痛くない。
「そのかわり先生算数が大嫌い」
球体の表面積とか求められた瞬間、ニーバズーカで応戦せずにはいられない。何が3.14だ。3.14といえば明治元年に五箇条の御誓文が宣布された記念すべき日だろうが。ああ、だがもしかしたら、円周率に籠絡された里長の細長いアゴを膝でカチ上げたのもいけなかったのだろうか。翌日から寺子屋に通う子供の数がグッと減った気がする。
「いいか、くれぐれも私にグレープフルーツの表面積を尋ねたりするんじゃないぞ。先生お前たちの顎を傷つけたくないからな」
「なんか誇らしげな顔してるけど、別にいい台詞じゃないからね、それ」
アゴを砕かれ、8週間のICU暮らしを満喫した里長は、今も流動食に頼る生活だ。健康な日常生活に算数を持ち込んだ愚を、彼は毎食ごとに噛み締めているに違いない。
「ふん……孫の前で格好つけてパイアールとか言い出すのがそもそも悪いのだ。果実の表面積など巻尺を巻きまくれば自ずと知れよう」
「チルノ並……」
ぬえの呟き。だがそれは大きな間違いだ。
「馬鹿な。お前はあいつを過小評価しているぞ」
氷点下のIQを誇る氷精チルノは、足し算と迷津慈航斬の区別がつかない本物だ。混同の理由を『どっちもガード不能だから』と不敵に笑うチルノだが、残念ながら迷津慈航斬はガード可能な良心的スペルであり、そして足し算がガード不能という現実は最早医者の出番であろう。
月の頭脳とまで称された名医永琳をして、月まで届けとスプーンをを射出せしめたチルノの数学的低空飛行に隙はなく、伝説のパーフェクトさんすう病室を主席で退院した氷結少女は、三角定規とドライアイスで組み上げたご自慢のイカダに乗り込んで、今日も架空のボンヴォヤージュに応えて威勢の良い掛け声と共に、湖の底に沈んでいくのだ。なんと力強い蛮勇。九九の中盤戦、四の段あたりで紅魔館行きのバスが飛び出してくるチルノに比すれば、この私の算数嫌いなど可愛いものである。
「⑨も才能だ。先生あいつを見てると時々無性に抱きしめたくなる」
馬鹿な子ほど可愛いものだ。歴史的なそれならば愛しさも一入というものだろう。
「まあ、ともあれ歴史だ。人は過去から学ぶ唯一無二のタンパク質だ。その特質を遺憾なく発揮するのが、今日のお前たちの喜びだ。だからさあ、教科書を開くんだ」
ぱんぱんと手を叩き三人を促す。
「そうだぬえ。その本だ」
かったるそうにぬえが広げた分厚い歴史の教科書は、香霖堂と鈴奈庵より手に入れた結界外の歴史書を、私自らが咀嚼再編したものである。我らは幻想に生きる者だが、幻想は現実より生まれし夢路の果てだ。現実に起きた歴史を学ぶことが、そのまま幻想の住人のルーツを辿ることにもなるのである。
「うん、違うぞこいし。その本は教科書じゃない」
こいしの広げる『肉球のススメ』は、九尾の狐がその半生における情熱の全てをブチ撒けたという、猫好きの猫好きによる猫好きのための薄い本である。ショッキングピンクが眩しいラメ入りの装丁は、学び舎の書棚にあっていい彩色では断じてない。
まったくもってけしからん。誰だ。私のバイブルを学級文庫に加えたおませさんは。
「よし皆開いたな。それじゃあ世界史5ページだ。まずは……ふむ、お前たち。この絵の人知ってるか? そうだな……フランドールはどうだ?」
フランドールは欧州出身と聞いている。三名の中では最も知っていておかしくない子だ。
「オジさん?」
「ああ、まあ……そうだが……知らないか。凄いんだぞこのオジさんは。なんと死後蘇ったんだ。どうだ。凄かろう?」
「もこのお父様?」
「……いや、あいつの親父は永遠と須臾の求婚バスターに引っかかって再起不能になった。あともこ言ってやるな」
相変わらず子供に好かれる奴だ。
「というか、え? お前キリスト教圏の出身じゃないのか?」
知らないのか、イエス様。
「どーだろ」
「む……」
きょとんと首を傾げるフランドール。そういやこいつは悪魔の妹だ。神を奉ずる教えとは相反するものかもしれない。ならば知らなくて当然だろうか。
「こいしは知ってるか? キリスト様」
早速教科書の偉人達にサードアイを書き足そうとしていたこいしを制止し、振ってみる。
「うん。馬小屋で生まれたんでしょ?」
だというのにいつの間にかサードアイや虹色の羽、蒼黒のワンピースで武装したナポレオンが、不可能の文字のない落丁本とミニスカートをはためかせ、睡眠時間がどうとか叫びながら愛馬に跨りワーテルロー目掛けて突撃していった。恐ろしい。これが無意識を操る程度の能力か。
「そ、そうだ。よく知ってるな」
裸の心をさらけ出した皇帝による渾身の一騎駆けに阿鼻叫喚のワーテルローから目を背けて授業を続ける。
「お姉ちゃんがお話してくれた」
「なるほどな」
たしかにさとりは妹に本を読み聞かせたりしそうなイメージだ。
「じゃあぬえはどうだ? キリスト教、知ってるか? ぬえの家はお寺だからな。難しいか?」
「む……し、知ってるわよ。それくらい」
への字の口を尖らせるぬえ。素直じゃない奴である。
「ほう……それじゃ問題だ。右の頬を打たれたら、キリスト様はどうした?」
「五針縫った」
「お前……メシアのご尊顔に……」
重傷じゃねえか。
「ダメージの話じゃない。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと彼は言ったんだ」
打たれることが運命ならば、逆らうことなく打たれなさいと。ただ主の望まれるがままに生きることを潔しとする聖者の美学だろう。
「それ聖も言ってたよ。命蓮の遺した十戒の一だって」
思いっきりパクリじゃねえか。
「……それじゃもう一問。東方より来たりし三博士マギ。彼らの名前は?」
「ぐ、ぐりとぐら……」
「……ぐりとぐらと?」
「……え?」
「三博士と言っただろう。ぐりと、ぐらと、後一人は誰だ?」
「……じゅ、寿限無」
「……ぐりとぐらと寿限無?」
「……うん」
言いながら赤い顔を逸らすぬえ。ああもう、可愛いなあ。
「……よし、それじゃ三人は何をしにきたか分かるか?」
「何をって……」
「ヒントはさっきのこいしの回答だ。賢者たちはキリスト様が馬小屋で生まれた時にやってきたんだ。ほらぬえ。こういうときお前なら何をしに行く?」
「あ……キリスト様が生まれたから……」
「生まれたから?」
「お祝いに……」
「お祝いに?」
「……ホットケーキを焼きに来た」
はるか昔。熱砂の彼方より遥々シルクロードを踏破してきた顔色の悪いげっ歯類が、長旅の不満とオチのない落語を呟きながら、ハッピーバースディもそこそこに人様のキッチンで手軽なホームベーカリーに挑戦し始めた。
「何しに来たんだお前ら……」
キッチンを占拠され荒れるマリア。見事な点前で差し出された雑巾の絞り汁を床にブチ撒けるその姑。ぐりとぐらのお陰で聖なる家は一触即発の有様だ。
「いや姑はいないか……」
処女受胎ならば嫁の天下だ。
「ふむ。処女受胎、か……」
いい言葉だ。弾幕少女に偏る幻想郷の未来は、その辺りに光がある気がしてきた。何しろ幻想郷における雄性体といえば、半裸でガラクタの出張買取に現れる気さくなメガネや、網タイツの補充に出かけたまま二度と戻らなかった半人半霊の老剣士など、玄人向けのユニットばかり。百合に未来を託したほうが、ナンボか健全な社会が営まれると言うものである。
「いやまあいい。惜しいぞぬえ。東方の三博士であるメルキオール、バルタザール、カスパールの三人はキリスト誕生の祝福に、贈り物を持ってきたんだ」
「ぅ……」
「いやすまん。少し意地悪な問題だったな。別に名前を全て暗記する必要なんてないんだ」
ぬえの頭を撫でる。
「だがな。知らないものは知らないと言っていいんだぞ。皆分からないから寺子屋に来るんだ。生徒たちが初めからなんでも知っていたら、先生廃業してしまう」
無知の知は賢者の第一歩である。尤もチルノのように、知らぬ存ぜぬと仁王立ちで胸を張られても困るのだが。
「ちなみにメルキオールは王を、バルタザールは神を、カスパールは死を体現する者だという。お前たちの誕生日に神子と神奈子と幽々子が来てくれたようなものだな」
「うーん……嬉しいような」
「そうでもないような……」
微妙な反応。贅沢な子たちだ。
「よし、じゃあ折角だ。世界史はキリスト教の勉強にしよう。異なる価値観の理解は大切だぞ。いろんな人と仲良くなれるからな」
そうでない者達が最近蜃気楼の名を模して空を舞い、黄昏の下で殴り合った。隣人の理解と寛容を忘れた末世の相だが、それすらも楽しんでのける少女たちには脱帽する他ないのだろう。尤も、実際ZUN帽を脱ぐとアイデンティティが半分くらいなくなる者もいるのだが。だから寺子屋は授業中でも着帽可だ。幼女の存在意義を奪って何が教育か。
「キリスト教の大きな特徴の一つは一神教、即ちたった一人の神様しか存在しない世界観ということだ」
三位一体は厳密には単一の個ではないが、神道のような八百万の神を許容する価値観ではない。
「じゃあカナコとスワコは一人しか神様になれないの?」
「ん……そうか。こいしは守矢神社に出入りしていたな。……まあ簡単にいえばその通りだな。日本固有の神道や遠くインドから伝来した仏教とは違い、崇め奉る対象はたった一人だ」
そもそも一人二人と数えることすら不遜なのだろう。
「勿論それは乾の風神八坂神奈子でも、坤の地母神洩矢諏訪子でもない」
「でもカナもスワもいるよ? なのに神様じゃないの?」
「神とは呼ばれないということだ」
「じゃあなんて呼んでもらえるの?」
「……さあ、どうだろうな。特に決まった呼び方があるわけじゃないだろう」
外から見れば異教の神だ。十中八九良い扱いは受けないだろう。だがそれを少女たちに告げる意味は無い。一時間目で伝えたいのは宗教対立の現実などではない。自らとは異なる立脚点を持つ者の存在を知ってほしい。それだけなのだ。
「かわいそう」
「そう思うのはこいしが彼らとは別の文化で生きているからだ」
「わたしは今のままでいいかなあ」
「自らの所属する文化を好ましく思うのは悪いことではない。だが、だからといって相手を否定してはいけない。その為に人は他者を理解する必要があるんだ」
「ザリガニは?」
「……時間が余ったら理解してやるといい」
「がにぃー」
二本の指で作ったハサミで隣に座るフランドールの耳たぶを挟むこいし。くすぐったそうに髪を揺らすフランドールからはミルクのような香りがした。幼女っていいなあ。
「先生よだれ」
「おっと」
ぬえの声。慌てて手の甲で拭う。
「なんか変なこと考えてたでしょ」
「そ、そんなことないぞ」
「“幼女の妄想は日が暮れてから”命蓮十戒の二だよ」
「えらくピンポイントな戒めだな……」
第一とのギャップが凄い。あの寺の開祖、そんな戒めが必要な人だったんだ。
「と、兎も角だ。沢山の神様ではなく、唯一神に祈るという信仰が彼らのスタイルなんだ。つまり古典的なキリスト教的思想においては、多様な価値観の並列よりも、統一された一つの真理こそが尊いということだろう。バベルタワーの話を知っているか? あれは正にそういうことだ」
「おっきな塔を建てたら神様に怒られた話?」
「そうだ。それもさとりに聞いたのか?」
「うん。でもお姉ちゃんはあんまり好きなお話じゃないって」
「……そうか」
地底の妖怪たちは、その多くが能力や思想を嫌われ排斥された者達だ。絶対者によるコミュニティの崩壊を結末とするストーリーが鼻につくのは当然か。
「フランドールとぬえにも分かりやすく言うとだ、『バベルの塔』というのは昔々の寓話でな。神に挑戦するために高い塔を作ろうとした人間に怒った神様が、それまで一つだった人々の言語をバラバラにして、塔の建設を不可能にしてしまったという話だ。幻想郷にいると分かりづらいが、世界には千を超える言語がある。互いに異なる言葉を用いた意思疎通は当然難しく、また思考のベースとなる言語が異なれば、そこから生まれる文化は他と全く違うものとなる。『バベルの塔』とは、そういう言語がバラバラである現状は、神罰によるものであるとする話なんだ」
言葉がたった一つであれば、今よりもより良い世界であったのに。そういう前提のストーリーである。一つの言語、一つの思考からでは生まれ得ない、多様な世界の可能性を否定する主義は、国境や海を越え奪うことで栄えてきた時代には必要な正義だったのだろう。思想だけを考えるなら、それが悪いとは思わない。そも、善悪で括るものでもない。唯一、外から見て良し悪しを断じていいものではないと、それだけは子供たちに伝えておきたい。
「言葉が違うとお話できないの?」
膝を抱えたフランドールが小首を傾げる。
「難しいな」
「お姉さまとも?」
「そうだな」
「咲夜とも?」
「ああ。誰とでもだ」
「つまんない」
「……ああ、そうかもな」
言語の共有は意思疎通を可能とするだけでなく、共有者間の仲間意識をも高めてくれる。方言や身内同士のスラングなどは、その効果をこそ期待され発達した言葉だろう。早苗が時折野良妖怪相手に口にしては、神奈子や諏訪子が平謝りしている懐かしのMK3(貢げ神様3人分)などがその例だ。
「別にいいんじゃないの。相手の言葉なんてなんだってさ。よくわかんない方が面白いって」
「そういう考え方もあるかもな」
流石に鵺。正体不明を信条に恐怖を喰らう千の夢。白日の下にはない、闇の向こうにこそ存在する価値もあると、ぺったりと机に頬を付けたまま言ってのける。
「そういう考え方もあるかもしれんが、もう少しシャキっと授業を受けろ」
「シュァキッッ」
「声だけじゃダメだ」
「むぅ……」
のそりと起き上がった。
「眠い」
「起きろ」
「“金で買える睡眠時間は迷わず買え”が命蓮十戒の三なのに……」
そんな締切間近の同人作家みたいな坊主がいるか。
「寺子屋でのあらゆる売買は禁止されている。ここで出来る交換行為は日記と友情に限られると知れ」
「体液は?」
「たっ、体液はどうしようかなっ……せっ、先生となら、おっ、おっけーかなっ!」
幼い問いかけに不意を突かれ本音が転げ落ちる。
「いただきます」
「イターッ!」
かぷりとフランドールに指を噛まれた。
「あんま美味しくない」
ペッと舌を出す吸血少女。
「美味しくないってお前……」
「咲夜のが美味しい」
「ぬぅ……」
人間と半人半妖の差だろうか。それ以外の原因であってほしくない自分が少し悔しい。
「血液も禁止だっ!」
「しょんぼり」
味のせいか大して残念な風も見せないフランドール。
「血以外の体液はいいの?」
「一向に構わんっ!」
こいしの質問に、弁髪の拳法家のように力強く叫んだ。
「いいんだって」
「んん……っ!?」
首を伸ばしてぬえに口付けするこいし。面食らうぬえの頭を抱いて水っぽく唇を吸い始めた。
「こ、こらこいし!」
引き剥がす。
「先生と! 先生とって言っただろ!」
こいしの顔を掴んで唇を突き出す。
「ガニィー」
「があああ!」
迸る激痛。
「先生はサンタさんとしてて」
「これはザリガニだ!」
猛々しくハサミを振り上げるザリガニを唇からひっぺがして教室の水槽に放り込む。
「難しい」
ゆっくりと首を振るこいし。今度はフランドールの唇をついばみだした。
「ちゅー」
「ちゅー」
楽しげな二人。
「そういうのはおうちでやんなさい!」
襖を開けるように二人の顔を離す。
「まったく……もういい。体液も全面禁止だ。寺子屋での交換行為は日記と友情のみ解禁とする。これ以外は罷り成らん」
「残念」
「それは先生の台詞だ」
「ダメ教師……」
「授業に戻るぞ」
ぬえの呟きを黙殺し、正規のカリキュラムへと回帰する。
「フランドールとぬえの意見が違うように、価値観というものは人によって大きく異なる。多様性よりも統一性を良しとする文化をどう考えるかは人それぞれだ。お前たちがどう考えてもいい。だが自分と違う考えの者を悪く言ってはいけない。考え方が違うのならその根拠を聞いてみるんだ。それで納得出来ずとも、そのロジックは理解するんだ。それだけで、お前たちはたくさん友達が出来るからな」
先生が保証しよう、と微笑んでみせる。幻想郷は多様な種族の住まう箱庭だ。他者と交わり生きていくならば、理解は絶対に必要になる。地底に、地獄に、地下室に、それぞれ篭っていた年月の長い少女たちには、覚えておいてほしかった。
「む……もうあまり時間もないな。三人とも、何か質問はあるか?」
寺子屋の授業は一コマ二十五分。ホットケーキだ体液だと騒げば、そりゃあ残り時間もなくなる。
「んー……こっちの絵はなに?」
「どれだ? ああ、『最後の晩餐』か。……授業の最初にキリストは復活したと言ったな。つまりキリストは一度亡くなっている。処刑されてな。彼の声望を妬む者の陥穽だったという。この絵は彼と彼を慕う者達による最後の情景を描いたものだ。この時、『この中に私を売る者がいる』とキリストは言った。これを境に彼らは一枚岩ではなくなり、その後キリストは捕まってしまう。つまり最期の晩餐だ。十四世紀、レオナルド・ダ・ヴィンチの手がけた名画だな」
しばし目を瞑る。この日のキリストの心情を想うことは、果たして不敬なのだろうか。
「晩餐ってなあに?」
「ん……ああ、皆で食べる夕食のことだ」
「ふーん。何を食べたの?」
「はは、何だろうな。何だと思う?」
一説にはパンと魚料理だったと言われている。
「カツ丼?」
「展開早いなオイ」
なんでもう拘留後のメニューが並んでるんだ。
「何にしろ裏切りを告発するテーブルだ。どんな料理でも砂の味だったろう。お前たちも旨い飯が食べたかったら、家族や友達を裏切ったりするんじゃないぞ」
はーい、という素直な声を合図に、一時間目を終了とした。
∇ _Excerpt
十五分の休み時間を挟み、二時間目の始まりである。世界史に続く日本史の授業を最高のモチベーションで迎えるために、コップ一杯のガラナをほうじ茶で割ったスペシャルドリンク(通称ハクタク汁。妹紅に近づくのも嫌だと眉を顰められた赤茶色のアーティファクト)を飲み干し、元気いっぱい教室のドアを開けた。
「待たせたな! 二時間目の日本史を始めよう!」
小鳥のように窓辺で何やら話していた三人を席に呼び戻す。ふむ、どうやら早速打ち解けてきているようだ。先ほどのキスの効果だろうか。ならばこの唇の鈍痛も我慢出来るというものだが。
「さあ早速いくぞ。教科書の、そうだな……」
一時間目のように頭から、というのも芸がないか。今日は一度きりの特別授業。どちらにしろ教科書一冊読み込む事は出来ないのだ。
「お前たち、スペルカードは持ってきているか?」
「スペルカード?」
「ああ。お前もほら、恋の麻袋だったか? いろいろ持っていただろう」
「恋の迷路?」
「ああ、それだ」
我ながら酷い記憶力。歴史の教師として猛省せねば。
「持ってきてる中で好きなものを一つ出せ。くれぐれも弾幕として解放はするなよ。カードを見せるだけだ」
ここは里の真ん中だ。弾幕をブッ放される訳にはいかない。かつて特別講師としてお招きしたパチュリーが授業を爆発オチで〆た際にフッ飛んだ屋根が、美少女フィギュア満載の里長のプレハブ小屋を直撃してからというもの、里の者達は寺子屋の爆発には敏感なのだ。
それにしても里長が世襲制で本当に良かった。砕け散ったフィギュアの中心で泣き叫んだ里長の人望は未だ回復の兆しも見せず、その役職が公選制であったならば、次期落選は確実だったろう。落選した政治家に価値などはない。そんな唐変木に責任を問われ付きまとわれでもしたら、健全な寺子屋の運営に支障が出るに違いないのだ。
ちなみに全壊した屋根の修繕費を求められたパチュリーは、突如訴えた体調不良により保健室に運ばれた直後、保健医の尻を撫で窓から飛び出し、カモシカのように走り去っていった。自分の都合や煩悩に合わせて喘息の発作と全速前進を繰り返す七曜の魔女は、今日も窓のない図書館の奥で喘鳴を気遣い寄ってきた小悪魔の尻を撫でては、力強い快走でバラ園に逃げ込み花粉に悶絶したりしているのだろう。その静と動の滑らかな切り換えには、南米の食虫植物も膝を折らずにはいられまい。
「んー。じゃあ、これ」
「わたしはこれかな」
「……ん」
少女たちはそれぞれ一枚カードを取り出し、机に置いた。
「どれどれ……ふむ」
机上のカードは“記憶「DNAの瑕」”、“恨弓「源三位頼政の弓」”そして“秘弾「そして誰もいなくなるか?」”。
「なるほどな。それじゃあ今日は……平家物語について少し教えてやるとしようか」
三十分足らずの授業で伝えられることには限りがある。どうせパーツしか教えられないのなら、縄文時代を一から触るよりもこの子たちの好みに近いものを題材にしたほうが良かろう。
「どうして平家物語なのよ」
露骨に嫌そうなぬえの声。
「お、ぬえは知ってそうだな。平家物語」
「物語は知らないよ。でも平氏の時代は……」
「ああそうだな。“源三位頼政の弓”。それ自体平家物語の一幕だ」
源頼政による妖怪鵺退治。『恨弓』と名付けるように、ぬえがその話を好まぬことはよく分かる。だがそれでもスペルカードとして形にし、最も好きなものとして挙げたのならば、少なくとも袈裟まで憎い訳ではないだろう。
「大丈夫。その部分を授業で扱うつもりはない。今日はもっと全体の話。そのほんのさわりのところだ」
「……ならいいけど」
「平家物語と言えば、寧ろ彼らの零落が結末だ。お前には痛快な面もあろう?」
「……別にあいつらが嫌いだったわけじゃないよ。中には面白い奴も……いた」
「……そうか。軽率だったな。すまない。謝罪する」
ぷい、と横を向くぬえに頭を下げる。歴史にはそれを知るものにしか分からぬ機微と重みがある。外から見て断ずるな、とは一時間目の私自身の言葉ではないか。我が身の不肖に恥じ入るばかりである。
「ぬえちゃんのカードで、平家物語?」
「……ん、いや、それだけじゃないぞ。今言ったように、平家物語とは当時隆盛を極めた平氏の盛衰を追う軍記物だからな。見方によっては平氏という一族の終焉、血の運命、遺伝子の断絶を眺めるようなものだ。お前の“DNAの瑕”とは、そういう意味もあろう?」
「んー。わかんない」
「そうか……」
昏い腑分けだ。分からぬ方が良いのかもしれない。
「わたしのカードは?」
「“そして誰もいなくなるか?”か。勿論意味があるさ。寧ろ飛び切り重要だ。栄枯盛衰。生者必滅。そして誰もいなくなるのが、平家物語の美しさだよ」
英国人は老いる過程を楽しむというが、日本人は儚き滅びにこそ美を見出す。寿命の長い妖怪だからこそ、少女たちにはその心を知って貰いたい。
「欧州生まれのフランドールにはもしかしたら分かり辛いかもしれないが、いずれ滅びる、或いは既に滅びたものを偲ぶ寂びの美学だ。終焉を愛でるエレジーともまた違う趣だが……まあなんとなくの好き嫌いで構わないさ。こういうのは」
一族の絶えた古城に差す白い曙光。もはや惜しまれる事もなく消えゆく弱者の文明。欧羅巴にも連なる雅趣はあろう。
「平家物語は鎌倉時代に纏められた軍記物だ。個人的には寂の文学というか……この時代の特徴なのかな。徒然草や方丈記など、鎌倉時代の作には共通する心性を感じる。最も顕著なのはやはり書き出しだろうな。祗園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり……とな」
当時を知らぬ私にもありありと情景が浮かぶ、珠玉の一文だ。
「鐘の声ってどんな声?」
「ん? 鐘の声か。はは、これは別に……」
「あ、わたし知ってるー」
別に鐘が喋るわけじゃない。ぬえの質問にそう答えるより早く、フランドールがひらりと窓から外へと飛び出した。
「お、おいフランドール……?」
華麗な着地とともに日傘を広げたフランドールは、おもむろに懐から取り出した分厚い札束で、折よく向こうから歩いてきた『ビューティサロン・イベリコ豚』の店主、堤谷氏の頬を、快音と共に張り飛ばした。
「オイィ! イキナリ何やってんだ小娘ェェ!」
ビューティサロン・イベリコ豚は『父にありがとう、豚におめでとう』をキャッチフレーズに、幻想郷のマダム達に一つ上の美を約束し、店主が食肉加工センターで閃いたという清潔なエステマシンで客の体毛を引き毟る、幻想郷初の全自動無人脱毛ファクトリーである。
サロンを彩るは機械油の饐えた臭いとディーゼルエンジンの駆動音。軽快に踊るベルトコンベアの各ポイントでマダムを待ち構える赤茶けた大型チョッパーは、ムダ毛どころか首から上が丸ごと飛びかねない勢いで唸りを上げるルナティックモードを常態とし、プロペラの轟音に合わせて流れる『廃獄ララバイ』の援護射撃を受けて、巷で惨殺換気扇の名を恣にしている機械仕掛けのマダムキラーだ。
そんな屠殺場の店主、堤谷氏は、しかし惨憺たるイベリコ豚の客の入りにも音を上げることなく、武士は喰わねど高楊枝を地で行く志の高い里の名士である。
「この資本主義の豚! お金が欲しいんでしょ!」
幼女の手により降り注ぐ百万ドルの往復ビンタ。電話帳の如く分厚い札束が名士の頬に炸裂する。
「やめろォォ! 堤谷さんは寺子屋の恩人だぞォ!」
悪化の一途をたどるイベリコ豚の経営状態にもかかわらず、堤谷氏はかつての豪商の後裔に相応しく、地域の発展と子供たちの笑顔を何よりも願う真の紳士だ。母の会に去勢と強制退去の二択を迫られた我らが寺子屋の危機にあっては、その疲れたミッキーマウスのような風貌に似合わぬ実直な人柄による熱心な説得を母たちに続け、見事完全廃校の悲劇から子供たちを守ってくれたのだ。正に寺子屋の守護聖人。今もここに通う妖怪の子供たちは、その努力と献身に敬意を表し、氏を聖豚(セント・イベリコ)と呼び慕っている。
「鳴くのよ! チュチュモラさん!」
「チュチュモラさんじゃなくてツツミヤさんん!」
だが正確に名を呼んだところで何が好転するものでもない。
「お鳴き!」
「ィングラブリィィ!」
厚さ十五センチを誇る諭吉の束に、高潔な氏が遂に崩れる。札束を咥え、いななく堤谷氏。武士の高楊枝がへし折れる音が里の端まで響き渡った。
「おー。里の名士から資本主義の豚にジョブチェンジだね」
「これが金の声か。確かに諸行無常の響きね」
なるほど、と深く頷くこいしとぬえ。
「鐘! 祇園精舎の声は鐘!」
こんな時だけしっかりメモをとる二人に叫ぶ。
「声が小さい!」
そして四つん這いになった堤谷氏の尻を、学級菜園のバナナの葉で叩くフランドール。閑静な里の昼下がりにも諸行無常の乾いた音が鳴り響く。
「フライハイ!」
札束を咥えたまま、フランドールの号令で天を目指し駆けて行く堤谷氏。もはや子供のために家々を廻り、暴論を説き伏せた紳士の姿はどこにもない。
「バイバーイ!」
いい仕事をしたとばかり、その背中に屈託なく手を振ったフランドールが再び窓から帰ってきた。
「鐘の声って、こんな声?」
寺子屋どころかこの辺りの土地を丸ごと買ってなお釣りが出るような大金を、惜しげもなく豚にくれてやった少女が微笑む。
「おまえ……」
「ん?」
あってるかな? と期待に目を輝かせるフランドール。
「……」
気付く。ああ、悪いのはこの子じゃない。悪いのはイベリコ豚の経営難だ。堅忍不抜の堤谷氏をここまで追い詰めたワケの解らんキャッチフレーズなのだ。何が『父にありがとう、豚におめでとう』だ。そんな嫌がらせのような台詞で食肉加工センターに来店するマダムがいたらお目にかかりたいものである。
「……ああ、八十点だ」
わーい、と両手を上げるフランドール。
「すごい」
「やるね」
素直に感嘆するこいしとぬえ。
「えへへ」
……堤谷氏は子供の笑顔を守ったのだ。少女たちの笑いあう寺子屋と懐の大金。二兎を得た氏に何の不満があろうか。
「……うむ。彼も本望だろう」
永久に還らない氏の社会的信用から目を逸らして、日本史の教科書をそっと閉じた。
「いやいやいかん。閉じちゃダメだ」
我に返り教科書を開き直す。堤谷氏の奇行は諸行無常の実演としてはなかなかだったが、それで満ち足りてしまっては教師の立場がない。
「聖豚の体を張った講義に感謝しつつ、授業に戻るぞ」
「ハーイ」
明るい声。やはり堤谷氏は子供の心を潤してくれる。
「うむ。守護聖豚の名に相応しい男だったな」
既に過去形。諸行無常の響きである。
「さてその無常感だ。こいつは言われて理解するようなものでもないからな。感覚としてはさっき言ったとおりだから、それぞれ本を読んで実感するといい。勿論平家物語や方丈記などに限らず読書は大切だぞ? 時間のあるうちに乱読しておくと後々後悔が減るからな」
「本はスキ」
「お、フランドールはどんな本が好きなんだ?」
「えっとね。シンデレラ。お姉さまが絵本を読んでくれたの」
「そうかそうか」
うんうんと頷く。仲睦まじく絵本を読む姉妹の姿は大変愛らしいに違いない。咲夜の輸血パックも相当消耗したことだろう。
「やっぱり女の子だな。魔法の力で王子様と結ばれるところがいいのか?」
「うんっ! お城に忘れてきた耳を王子様が届けてくれるところで少し泣いちゃった」
「……それは耳なし芳一だ」
脳裏で金髪イケメンの王子が叫ぶ。
『この耳にピッタリの坊主を我が生涯の伴侶とする!』
これが俺だと誇らしげに響く残念な絶叫に驚愕する乙女たち。頬を染め野太い声で名乗りを上げる僧衣の男。前代未聞の座禅系ボーイズラブがここに爆誕。花の乙女が憧れるには少々酸味の強いジャンルである。
「二の腕に般若心経を刻み込んだシンデレラが夏野菜を小脇に抱えて、身代わりに捕まったホウイチのために地平線の彼方から走ってくるところでお姉さまも感極まってたわ。目にゴミが入ったって誤魔化してたけど。バレバレなの。かわいい」
「それは本当に目にゴミが入っただけだと思うぞ……」
そんなフットワークの軽いシンデレラがいるか。だが、汗だくで飛び込んだ宮廷晩餐会でスポーツドリンクをガブ飲みするような女がヒロインならば、王子が衆道に奔るのも無理は無い。
「そもそもシンデレラの面影が夏野菜にしか残ってないじゃないか」
小脇に抱える必要あんのかそれは。せめて馬車にしてスピーディに芳一を救い出せよ。
「いや、いい。乱読しろといったのは私だしな。そんな酸っぱいランナーズハイがシンデレラの称号を賜るとは釈然とせんが、どんな本にも価値はある。読書に貴賎はないのだからな」
そう、八雲藍氏渾身の力作、『肉球のススメ』にも煩悩の自覚と発散を促すという重要な意味が存在するのである。
「良い経験をしたなフランドール。読み聞かせてくれた姉に感謝するんだ」
「うんっ」
にっこりと笑うフランドール。レミリアも妹のこんな顔が見たくて絵本を読んでやったのだろう。
「ふーん……そっか。フランもこいしも、絵本とか読んでもらってるんだ……」
「心配するなぬえ。村紗や白蓮も頼めば読んでくれるよ」
「ううん、命蓮寺はそういうのないから」
「む……そんなことはないだろう。決めつけは良くないぞ。何なら先生から頼んでやってもいい」
「無理だよ」
「何故だ」
命蓮寺は紅魔館に負けず劣らず、バラエティ豊かな変態どもがバランス良く配置された魔窟であるが、幼女の頼みを無下にするほど落ちぶれてはいないはずだ。
「“薄い本は一人で楽しめ”。命蓮十戒の四があるからね」
またその坊主の戒めか!
「……薄くない本ならいいんじゃないか?」
「……え? そんな本あるの?」
「オイィ! お前んち薄い本しかないんかい!」
正に欲情の摩天楼。桃色の煩悩開花宣言。どんな寺だ。
「ぬえ。今度遊びに行くからな」
夢の国の発見に少々荒い息でぬえの肩を掴んだ。
「い、いいけど……なんで急に?」
「今は分からなくていい。いつか分かる。それがオトナになるということなんだ」
優しく微笑む。
「わ、芳香ちゃんに地獄への移住を提案した時のお燐とおんなじ顔してる」
「失礼だな、こいし。先生あそこまで下心満載の笑顔はしてないはずだぞ」
腐臭豊かなキョンシーを独占せんとするお燐の執着は凄まじく、芳香の耳元で灼熱地獄の魅力を延々囁く阿鼻叫喚の不動産営業は、堪忍袋の爆散した青娥による裸締めが炸裂するまで、たっぷり7週間は続いたという。
「してる」
「してない」
「証拠」
ばらっと写真を並べられる。一枚は不思議そうな顔のキョンシーの腐臭によだれを拭く蕩けた笑顔のお燐。もう一枚は不思議系幼女の肩を掴み荒い息を吐くニヤけたこの私。何故この一瞬に写真が撮れる……。カメラシャイローズ? いやあれは寧ろ激写から逃げるさとりのテクニックのはず……まさかはたての念写か? いやそれよりも今は……。
「……おんなじ顔しとる」
「ね」
「ぐぅ……」
証拠写真の前にぐうの音も出ない。出たが。
「ダメ教師」
「妄想天皇」
「欲情戻り橋」
幼女たちは言いたい放題だ。いかん。このままでは教師の威厳が。
「そ、そういえばお燐は元気か、こいし? 最近見ないがまた死体でも集めているのかな……は、はは、程々にしないと小町に叱られるからな。気をつけるよう言っておきなさい、うん」
露骨に話を逸らしにかかる。
「んー。最近は死体だけじゃなくて甘いものも好きみたい」
些か強引に過ぎるかと思ったが、小さな顎に指を当てて、こいしはあっさり話に乗ってきた。
「そ、そうか。興味の幅が広がることはいいことだ」
誘導成功。うむ。子供は素直が一番だ。
「今日もペニーオークションでココナッツサブレを競り落とすんだってハリキってた」
「やめさせろォォ! 今すぐあの猫を止めろォォォ!」
おやつならその辺の店で買えよ!
「どうして? 大丈夫。お燐は一秒間に十六連射できるんだよ」
「泥沼だァァァ!」
ペニオクは連射速度を競うスポーツではない。おやつ一つに一体いくらかける気だ。
「こいし。即刻お燐を止めるんだ。一秒を争う事態だ」
小さな両肩を掴み真顔で告げた。
「わかった」
こくん、と頷くこいし。スマホで自宅に連絡をとる。
「間に合うといいが……」
ちなみにスマホとはスマイルフォンの略であり、ボタン一つで呼び出したオッサンに伝言を頼むと笑顔で相手の家までメッセージを届けてくれるという、河童の技術と核融合エネルギーを活用出来なかった低速人力通信システムの端末であるメッセンジャーボーイの通称だ。汎用性、即時性、利便性の全てに劣るスマイルフォンは、毘沙門天代行の提供するへにょりレーザーを用いた高速通信サービス(LTE : Laser-Tiger-Evolution)にそのシェアを奪われるまでもなく、一件の契約も獲得できずに歴史の闇へと消えていった伝説の次世代ネットワークサービスである。
「ゴー! ポパイ!」
「イエス、マム!」
こいしの命を受けて、中肉中背の男が地獄を目指して飛び出して行く。
「おお、ポパイも元気そうだな」
沢田ポパイ(59)。スマイルフォン発表の折、その斬新なサービス形態に感銘を受けまくった挙句、メッセンジャーボーイとして以降の人生の全てをサービス利用者に捧げようと、脱サラして山に篭り笑顔の練習を始めた情熱的な男である。
暗転は半年後だった。ゼロ契約によるサービスの無期延期を知ったポパイの消沈は凄まじく、失意のあまり地下に身投げした彼は土蜘蛛の巣に『卍』みたいなポーズで引っかかっているところをヤマメに発見された。その後珍しいペットとして拾われた地霊殿にて彼はさとりに謁見。その少年のように繊細な心と、アタマの悪いサービスに容易く人生をベットする先見性のない情熱を買われたポパイは、地霊殿で望みどおりメッセンジャーボーイとしての職を与えられ、彼は見事社会復帰を果たしたのである。
「あいつは元々里の者だからな。地底で暮らし始めたと聞いて心配だったが、元気そうでなによりだ」
現在スマイルフォンは古明地家のみで利用されるウルトラローカルネットワークサービスだ。ポパイの居場所は地下にしかない。彼のために不便なサービスを利用してくれる地霊殿の主には、いつか改めて礼を言わねばならないだろう。
「先生も使う? スマホ」
「……機会があったらな」
言葉を濁す。流石に伝書鳩以下のサービスに月額七千円は払えなかった。
「あ、私使いたいかも」
「なぬ!? 正気かぬえ! ……あ、いや良いサービスだぞスマホは。良いサービスだがそれなりに値の張るシステムだ。命蓮寺の小遣いがいくらだか知らんが、月に七千円はきついんじゃないか?」
妖怪とはいえ、子供に払える額ではないと思うのだが。
「お金は平気だよ。命蓮十戒の五、“幼女につぎ込む金は惜しむな”のお陰でお小遣いには困ってないから」
優遇政策による富の偏在が明らかに。さほど繁盛しているとも思えない寺院の大所帯、年長の居候であるマミゾウあたりが割を食っている気がするのだが、どうだろう。まあ星の能力があればなんとでもなるのかもしれないが。
「お寺にいるとあんまり使い道もないしね。命蓮十戒の六、“恵まれないオヤジに愛の手を”を守れって聖も煩いし」
「……全体的に何なんだ。お前んとこの開祖は」
一体どのあたりに人妖を導こうとしているのかまるで理解できん。理解したいとも思わせないあたりが高僧たる所以なのだろうか。
「まあ金銭的余裕があるなら止めはしないが」
寧ろ礼を言う筋合いだ。ポパイも顧客が増えて喜ぶだろう。
「あー、いいなあ。ぬえちゃんとこいしちゃんがやってるなら私もやろうかなあ……。うーん……でもお金足りるかなあ……」
ツールによる連帯感には敏感な年頃の少女たちだ。羨ましげに唇に指をあてるフランドールも、うんうん言いながら財布を覗き込んでいる。
「足りる。お前のそれは徹底的に不要な心配だ」
ちらと見えたフランドールの財布は、ちっちゃな蝙蝠羽が可愛らしい如何にもお子様向けなデザインであるにもかかわらず、咲夜により内部空間が拡張されたそれには最上級紙幣の束がギッシリと詰め込まれていた。聖豚に数百枚くれてやってなおこの威容。ブルジョワとシスコンがバランス良く配分された彼女の姉により、フランドールの懐は常に暖かく潤っているのである。
「うんうん。皆でやろうよ。夜寝る前とかさ。三人でスマホでおしゃべりしよ?」
決まりー、とフランドールとぬえの手を握るこいし。どうやら二人も乗り気らしい。
「ふふ。お前たち、夜更かしは程々にしておけよ」
はしゃぐ少女たち。微笑ましさに思わず頬が緩むが、心配なのはそろそろ還暦を迎えるポパイの体力だ。
地獄の底にある地霊殿から湖畔の紅魔館、そして山一つ越えた先の命蓮寺を結ぶネットワークとなれば、一周数十キロでは済まない超長距離だ。山篭りして笑顔の練習に励んでいた頃のポパイならばいざ知らず、こいしとさとりの部屋の往復が主任務となった最近の彼には、些か過酷なトライアスロン(地獄からのロッククライミング・湖の遠泳・輪廻の果てへの長距離走)ではなかろうか。ポパイは生身の人間である。自慢の健脚にも限界はあろう。先ほどのこいしによるメッセージのように片道ならばまだしも、止めどない会話のキャッチボールを全て担うとなれば、これはメロスやシンデレラでさえも辞退しかねない走行距離である。
カラフルなパジャマ。甘いお菓子と尽きぬ他愛のないおしゃべり。三人の少女を結ぶキーパーソンは沢田ポパイ(59)だ。
日付も変わろうかという月夜の真ん中。地獄の底で預かった幼女の伝言と手作りのお菓子を握り締めて、心臓を押さえて弱々しく扉を叩く脱水症状ギリギリの中年男性。汗だくの手で溶け落ちた預かり物のチョコレートを差し出しながら、息も絶え絶えポパイは声を絞り出す。
『ハァ……ハァ……、ァッ、アの……ミ、水を一杯……。ハァ……ッ、アッ、あと……フラッ、フランちゃんは……ハァ、ハァ、ゴザ、ご在宅、デスッ……かァ……?』
パンパンの腿を擦りながら提示される汗を吸ってふやけた名刺。酸素不足に舌を出し凄惨な笑顔で幼女の在宅を確認する短パンの男。果たして彼は夜更けに少女を訪ねる資格があると見做されるだろうか。……難しいだろう。おそらくは軍曹や一輪などによって敷地から叩き出されるに違いない。
「むぅ……それはまずいな」
真面目な男だ。任務失敗ともなれば辞世の句でも書きかねない。
「あー、お前たち。スマホもいいが、本を読むのも忘れるなよ。本一冊読了につき一回スマホでご連絡。このくらいにしておくといい」
「えー」
「えーじゃない。子供のうちの読書は大事なんだ。それこそ時間を買ってまで読んでもいいくらいにな」
不満気な三人だがここは譲れない。ポパイの命が懸かっているのだ。人間の守護者を自認する半妖として、退く訳にはいかないのである。
「それよりも授業だ。エライ勢いで脱線してるからな。可及的速やかな回帰が必要だ」
一行しか進んでいない教科書を指で指す。
「『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』そして『沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらわす』と続く。……いつか終わりは来る。そういうことだな」
永遠などはない。そんな当たり前を訴えるたった二節がこれほど美しく胸を打つのは、妹紅や輝夜達と交わる私だからだろうか。
「平家物語の美しさは冒頭で終焉を謳う心象から既に見て取れる。退廃の賛美とも違う、これから終わるものの儚さが一時の隆盛をより彩るんだ。あらゆる悲喜が静寂に傾く枯淡の趣。そして誰もいなくなる物語なればこそ、武威も驕りも痛ましい。それを舞い散る桜のように慈しむ心性は、決して人間にしか理解できないものではない筈だ」
美とは咲き誇るばかりではない。そう知れば他者に優しくなれる。それは半分妖のこの身にも、妖魔たる少女たちにも当て嵌まると願っている。
「分かるか、フランドール?」
「わかんない」
しゃらしゃらと羽と首を振るフランドール。
「そうだな。自分自身で読まねば分からん。だから本を読むんだ。そして残った余韻がお前自身の価値となる」
「んー。シンデレラでいい?」
「なんでもいいんだ。お前のうちには立派な図書館があるだろう。そこでレミリアや咲夜に選んでもらってもいい」
「図書館かあ。パチェに怒られないかな」
「パチュリーが図書館で本を貪るのも、それが自分自身の価値を高めると知っているからだよ。書の意味を知り大切に読むなら同好の士だ。喜びこそすれ、怒ったりはしないさ」
古今東西のあらゆる史実、研究、理論に空想。乱読を重ねるパチュリーはそれら全てを咀嚼し血肉と成す。そんな叡智の結晶たる百年の魔女が、どうして春の有明を目指して博麗大結界をバットで叩き割ったりするのか得心いかぬが、結界守護を任とする藍の配置した十二神将を尽くフライングニールキックで蹴散らし、毎年揚々と外界へ飛び出していく益荒男ぶりを、体制に抗う闘士のそれと見るならば、彼女こそは魔法とスポーツ用品を武器に進化のデッドロックを破壊する革命の寵児なのかもしれない。
「ねー、沙羅双樹の花ってどんな花?」
「うん? 沙羅はこの国で言う夏椿だな。椿の花、分かるか? こればかりは実物を見るのが一番なのだが……ああ、ぬえ、もしかして命蓮寺にあったりしないか?」
沙羅双樹はもともと仏道の用語だ。二対の沙羅の内一つずつが、釈迦の入滅を憂い花の色を変えたという。仏の道を説く命蓮寺ならばあってもおかしくないと思うのだが。
「うち? んー、ないと思うよ。『花は百合に限る』って。命蓮十戒の七があるからね」
「……ほう」
いかん。少し気が合いそうだ。
「それじゃ今度幽香に見せてもらうとするか」
「ゆーか?」
「知らないか? 花を操る妖怪だ。普段は太陽の畑あたりにいるようだが、たまにふらりと里にも現れる。今度見かけたら特別講師を頼んでおこう」
風見幽香は太陽の光をたっぷり浴びて育った常夏のターミネーターだが、花を愛でる喜びを知る子供の頼みだけは無碍にしない女だ。尤も、足元に子供たちが集まっている時も、花泥棒の尻に園芸用シャベルをねじ込む時と同じ顔をしているので、その心の内で何を思っているのかは分からない。だが大人の感情に最も敏感な子供たちが花のお姉ちゃんと慕う事実、幽香も幼子を疎んじている訳ではないのだろう。
「あ、もしかして赤いチェックでライトグリーンのパンツのおねーさん?」
「いやパンツの色は未確認だが……こいしは幽香のこと知ってるのか?」
「んー、たぶん。あったかかった」
「詳しく」
ずい、とこいしの前に出る。幽香。パンツ。あったかい。捨て置けないフレーズだ。この三つの単語だけで私の心は容易く明日への活力に溢れだすと、知る由もなく口にするこいしはなるほど確かに無意識の申し子と言えるだろう。
「ん?」
「ハリー。ユウカ。アッタカイ」
些か荒い息を、朗らかな笑顔でコーティングして問う。
「またあの笑顔だ」
「なんで片言……」
「静かにしろ。大事な話だ」
フランドールとぬえの呟きを抑える。
「せんせい興奮してる? おねえちゃんのペットみたい」
「私のことはいい。幽香の話をしてくれ」
「うーん。いいにおいだったから」
「だったから?」
「もぐりこんだ」
「何処に!?」
ベッド!? ベッドなの!?
「スカートの中」
「うおお! あのウォール・マリアを突破したのか!」
「あったかかった」
「ありがとう!」
こいしの小さな手を熱く握る。鉄壁を誇る幽香のタータンチェックを突破せしめた少女の無意識に、少しでも感謝を伝えたかった。これは歴史に残る偉業であると、その功績を称える気持ちを形にしたかったのだ。
「どういたしまして」
しかし言葉とは裏腹に、ペッと手を振りほどかれる。
「な、なぜだこいし。歴史喰いとして称賛を贈らせてくれ」
幽香の下着は難攻不落の未編纂領域だったのだ。私の能力、歴史喰いは、事象がある程度の客観性をもって観測された時点で、初めてそれを歴たる史実として対象とすることが出来る。如何な事実とて観測する第三者がなければ、それは歴史とは呼べないのである。
「にゃんにゃんが芳香ちゃんを作ったって聞いた時のお燐と同じ顔してる」
「ぐっ……そ、そんなことないだろう。先生あそこまで邪な期待に目を輝かせてはいないはずだ」
裸締めでオトされはしたものの、動く死体の製作者が青娥であることを聞いたお燐は飛びつかんばかりに喜び勇み、彼女を地霊殿の賓客として迎える約束を勝手に結び、案の定さとりに叱られ中庭でしょんぼりしていたという。
「し、しかしよく潜り込めたな。最後まで気付かれなかったのか?」
弟子入りしたい。無意識ってスゲェなあ。
「ううん。気付かれたよ。怒られた」
「なぬ? お、怒られたって……尻は大丈夫なのか、こいし?」
這いつくばり、こいしのスカートの中を覗き込もうとしてぬえに頬を踏まれ阻止される。これはこれでご褒美だった。
「わたしのおしり?」
「ああ、もう痛くないのか?」
「?」
きょとんとするこいし。おかしい。まさかシャベルの洗礼を受けていないというのか。
「……何もされてないのか? 幽香に」
「んー、メッてされた」
「……それだけ?」
「それだけだよ」
「なんだと……」
にわかには信じられないが、こいしの目に嘘はない。一体こいしの何が幽香の寛容を導いたのか。
「見た目か。このぽえっとした不思議系美少女なら許されると、そういうことか」
私など紳士的に金銭契約による色彩の確認を申し出ただけで、極太の弾幕開花宣言の憂き目にあったというのに。あのアマ、満月じゃなければ死んでたぞ。
「ねえ、どうでもいいけどもう時間ないよ?」
「どうでもいいことないだろう! いいかフランドール、少女の下着にはな、かのローマ法王も……!」
が、唾を飛ばした所で気付く。あかん。ほんとに時間ない。記念すべき少女たちの初授業二時間目を、パンツに対する煮え滾る執着でシメるわけにはいかないというのに。
「……っと、ま、まあそういうわけで、夏椿の件、幽香には伝えておくから。お前たちはスマホばっかりやってないで本を読んで、自分の意志で知識を吸収するんだぞ」
強引に纏め、逃げるように教室を出た。くそ、次の授業で失った威厳を取り戻さねば。だがこいしはいい仕事をしてくれた。彼女のお陰で幻想郷史の編纂はまた一歩完成に近づいたと言えよう。
「うむ。花丸をやろう」
うんうん頷いて、休憩室の扉を開けた。
∇ _Exodus
「さて、三時間目は幻想郷史だ。ここからは真面目な話だぞ」
三時間目の始まり。数分前の狂態を払拭するかの如く、隙のない居住まいで生徒たちを前にする。瞳は閉じたまま。清澄な闇が初志を脳裏に呼び戻してくれるようだった。
「今までは真面目にやってなかったんだ」
「いや真面目にやってましたけどね」
鐘の声に超反応して通りすがりのオッサンの人生を破壊されたりすると、軌道修正にも時間が要るのである。
「兎も角幻想郷史だ。外の歴史も無論重要だが、やはり我らは幻想の民。今日はこの授業を以ってお前たちの蒙を啓き、眼から鱗の滂沱を呼び覚ましてやるつもりだから覚悟しておけ」
『眼から鱗』あたりの単語に合わせて目を開ける。一流の教師はやはり一流の演出家でもあるのだ。瞬間、溢れだす光。知に飢えた生徒たちの逸る歓声。明るい世界で私を迎えてくれた子供たちは、もはや待ちきれぬとばかり歴史への興味に目を輝かせ、上気した頬で極上の葡萄酒を嗜んでいた。
「やあやあお待ちかね、ここからが慧音先生の……って、オイィ! なんで寺子屋で生徒がワイン呑んでんだ!」
ぱっと開いた『童女とは天使なりや』と毛筆した扇子をへし折り叫ぶ。
「あ、起きた」
何人もの生徒たちを迎えては送り出し、その傷の数だけ子供たちを見守ってきた寺子屋の文机。その上に置かれた肉厚ガラスのワインクーラーの中で、大粒のクラッシュアイスと最高級のロートシルトがひんやりと微笑んでいた。
「のどごし爽やか」
「やかましい!」
慣れた手つきで酒を嗜むこいしからワイングラスをひったくる。
「ひどい」
「うるさい! 飲み物は水筒で持参しろと事前に伝えておいただろう! なんで極上のワインセットが机の三分の二を占拠してるんだ!」
「『貧相な教室で心の栄養が不足しないように』ってお姉ちゃんが」
「いらない! そういう気遣いはいらないから!」
幻想郷の姉は残念な過保護ばっかりだ。
「没収だ没収」
「えー。先生が目を覚まさないのが悪いのに」
「あれは寝てたんじゃない。まったく……これも玉座と一緒に先生が預かっておくから、授業が終わったら取りに来なさい」
「重いからやだなあ」
「お前もか」
このブルジョワっ子どもが……。
「こんなかさばるもの、お前もどうやって持ってきたんだ」
「フランちゃんちの紅さんが持ってくれたの」
「軍曹ォ……」
働き者だよ、あんた。
これが小町ならヤマトの当日便にねじ込んでおしまいだろう。かの死神は三途の向こうから五十人分の魂を大型軽量品の輸送に定評のある『はこBOON』で発送し、映姫の大目玉を食った前科者である。
『輪切りのソルベじゃねえんだよ!』
日ごろ温厚な映姫がそう叫び小町をハタいた様は、是非曲直庁における伝説の一つとなっている。
「流石は軍曹。日に二度のシエスタも無理はないな」
過酷な労働。少しくらいの昼寝が何だ。そんなことで叱りつけるメイド長がいたなら、この私から言ってやる。軍曹は子供に酒を飲ませる為にガンバったんだ。シスコン達のワケのわからん気配りを受けて、遠路はるばる死ぬほど重い玉座を担いで歩いてきたんだ。お酒はハタチからとか知ったことか。労働の汗は等しく尊い。軍曹には労いが必要なのだ。
「フランドール。軍曹は今どこに?」
後で笹餅でも差し入れてやろう。
「んー。咲夜におこづかい貰ってたから、メイド喫茶かなあ」
「メイドに貰ったお駄賃でメイド喫茶かよ……」
無駄遣いここに極まれり。日頃あんな完璧なメイドが側にいるというのに、一体何が不満でそんなとこ通ってるんだ。
「たまにそこでアルバイトしてる咲夜に会いに行くんだって」
「ひぃぃ、悪魔のメリーゴーランド!」
廻り巡って金は再び咲夜のもとへ。恐ろしい。循環型社会が幸福だなんて誰が言ったんだ。出口のないシステムをハムスターのように回し続ける軍曹を想い、目尻の涙をそっと拭った。
「でも咲夜も嬉しそうだったよ。美鈴に膝枕とかしてあげるんだって」
「……ほう」
それはアレか。会いに来いと。小遣いをやるのはそういうことだろうか。
「それはまあ、なんとも……」
なんとも迂遠なご褒美だ。膝枕くらい紅魔館でしてやればいいのに、とも思うが、それが彼女たちの遊び方なら文句をつける筋合いでもない。
「軍曹も春か……まあ、幸せそうならなによりだ」
「うん。美鈴ね、オムライスにケチャップで文字を書いてもらったんだって。笑ってた」
ね、と写真を見せられる。なるほど、美鈴の日頃の運動量を考えたのであろう、大きな大きなオムライスには、赤く瀟洒な明朝体で大きく『減俸』と書かれていた。
「……照れ隠し、か? ……まあ、幸せの形は人それぞれだからな」
美鈴にとって金などどうでもいいのだろう。たまのオフ。日々忙しい咲夜が自分の為だけに料理を作ってくれるという事実が嬉しいのだ。
「まあそれはともかく、ワインは没収だ、こいし」
「むー」
「むーじゃない」
「のどかわいた」
「渇いてもダメだ」
「うぅ……ひからびる」
「干からびるかっ……仕方ないな。ぬえ、フランドール。お前たちは水筒を持ってきたか? 少しこいしに分けてやってくれ」
頬杖をつくぬえと、ぴこぴこ羽を動かしているフランドールに振った。
「仕方がないわね……」
「はーい」
温度差はあるが、二人とも吝かではないようだ。
「お、二人とも可愛い水筒だな。フランドールのそれは麦茶か?」
「ブランデー」
「アホウ! ワインと変わらんわ!」
「だってお姉さまが『きっと寒々しい寺子屋だから、せめて体の中から温まるように』って」
「馬鹿ばっかりだ! お前たちの姉は!」
おかしい。幻想郷では妹こそが、姉に輪をかけた問題児の通称だった筈なのに。
「これも没収だ!」
カップを兼ねた蓋の部分にプラスチックの蝙蝠羽をあしらった、ピンク色の水筒をひったくる。しかし可愛いな。咲夜のハンドメイドか……?
「まったく……ぬえは何だ? まさか般若湯とかじゃないだろうな」
「……違うわよ」
「じゃあ何だ」
「せ、センブリ茶……」
「お、おぅ……」
渋い……。
「凄いなぬえ……ニガいの平気なのか?」
「……平気じゃないけど、体にいいからってムラサが無理やり……」
「おお……いいお姉さんじゃないか」
これですよこれ。これこそ私の求めていた姉妹愛。
「む、ムラサとはそんなんじゃ……」
「姉妹のようなものだろう。心配してたぞ。ぬえのこと」
相談に乗りつつ酔っ払って尻を撫でた私が言うのも何だが、命蓮寺の納会で私の酌をしてくれた村紗は、最初から最後までぬえのことばかり話していたのだ。好き嫌いが激しくて困るとか、友だちが少なくて心配だとか。それは友というより最早過保護な姉のようで、その初々しい母性の萌芽につい手が出てしまったのも無理からぬ事と、ご理解いただければ幸いである。
「ともあれ、今日の寺子屋のオフィシャルドリンクはセンブリ茶にキマリだ。こいしとフランドールは喉が渇いたらぬえに分けてもらうこと」
「うへーぃ」
肯定とも否定とも取れぬ溶けた声が返ってきた。良しとする。休憩室にはハクタク汁しかないからな。子供たちの喉は自前で潤してもらう必要があるのだ。
「む、いかん。もうズレてるな。話を戻そう」
咳払いを一つ入れて空気を切り替える。
「さっきも言ったが、ここからが今日の本番だ。勿論一二時間目とて遊んでいたわけじゃない。一時間目では他者への理解と寛容を、二時間目では自ら学ぶことの意味をお前たちは知った筈だ。そして三時間目の幻想郷史、我らに最も身近な過去から世界のなんたるかを明らかにし、お前たちが本心から寺子屋で学ぶことを楽しいと思えるように、私も全力であたる所存だ」
へし折った扇子を拾い上げ『く』の字に曲がった『童女とは天使なりや』を掲げる。
「ここは全ての始まりである幻想郷の成り立ちからいこうと思う。お前たち、そもそも幻想郷とは何だ? なんとなくでいい。我らの世界をどう考えている?」
三人を見回す。
「血を吸う幼女の空中庭園」
「日が昇る無意識」
「正体不明の宴会場」
真顔で唯我独尊を即答する少女たち。あまりにも自然に吐き出された自己中心的世界観に、いっそ清々しく口元が緩む。
「お前たちは可愛いな」
己こそが世界の中心であるという幼き独善。半端に悟った矮小な世界を口にされるより余程好ましい。子供とはこうでなくてはいけない。かつて異端審問所にて宇宙の真理と自己を否定されたガリレオ・ガリレイは、それでもなお力強いビールマンスピンをキメながら叫んだものだ。『それでも俺は回っている』と。適度な自己中心性は寧ろ健全な精神の現れなのである。
「そしてあながち間違いでもない。庭園、無意識、宴会場。どれも内外を区切られた無法地帯だ。それじゃあ幻想郷の中と外を線引するものは何だ?」
子供たちは奔放ながら世界の揺籃を理解している。十分に回答可能な問題だろう。
「博麗大結界」
「定例大宴会」
「ときめき大僧正」
伝言ゲームか。最後はもう『大』しか合ってねえ。
「博麗大結界。こいしが正解だ。この幻想と実像を分かつ壁こそが、幻想郷という世界を形作っている。だが知っているか? 楽園を自称する幻想郷にはもう一つ結界がある。今日はこれら結界の成り立ちをお前たちに伝えたいと思う」
前衛的な羽で包むようにこいしを祝福するぬえとフランドール。二人の羽はどちらも柔らかさに欠ける造形だが、こいしはまんざらでもなさそうだ。
「世界を二つに分ける結界。まずはこのような仕組みを、誰が、何故必要としたのか、そこから始めよう」
断絶にも統合にも必ず理由が存在する。それが人の世ともなればなおのことだ。
「古来より人と妖は相争い生きてきた。それは互いを否定しあうという意味だけではない。人を攫い、それを取り戻さんとする英雄との戦いを楽しむ鬼のような種族もあった。人間の側にも妖怪との友誼をこそ尊ぶ種類の者も少数ながら存在した。……だが人は徐々に妖怪たちについていけなくなったのだ。あらゆる場所と時代に英雄がいるとは限らない。攫われた妻子を、ただ涙して諦めた人間が増えるにつれて、その慟哭を楔に人は剣を捨て新たな武器を手に入れたんだ。……そうだな、こいし、それがなんだか分かるか?」
ぬえに分けてもらったセンブリ茶に舌を浸しては、『><』みたいな目でぷるぷると震えていたこいしに問いかける。少女は少しだけ首を傾げ、すぐに閃いた回答を満面の笑みで口にした。
「ニガウリ」
脳裏で炸裂する裂帛の咆哮。年老いた農夫たちが会心の出来栄えに胸を張る、瑞々しいニガウリで武装した七人のサムライが雄叫びを上げて、朝日に輝くあぜ道の果てからお揃いのトラクターで進撃してきた。
「かっこいい」
「かっこ良くない! なんでわざわざ剣を捨てた男たちが野菜を仕入れて襲いかかってくるんだ!」
切れ味が増したのは奇声のみ。純粋な劣化に限りなく近い。ウリ科の野菜に余程の愛着がなければ出来ない蛮勇だろう。だが、そんなもんを手に鬼に立ち向かう斜め向こうの気概があったなら、鬼たちも人間に失望し去っていくことはなかったのかもしれない。
「苦味は味わい楽しむものだ。棒状に固めて鈍器にしてはいけない」
少しだけだぞ、とセンブリの茶請けに雪平を切って、こいしの頭をわしわしと撫でてやった。
「あ、ずる」
「分かってる。ほら」
「わーい」
ぬえとフランドールの机にもそれぞれ置いてやる。我侭で甘味が大好き。子供らしくて大変結構。
「寺子屋っておやつが出るんだ」
むぐむぐ言いながら意外そうなぬえ。
「今日は特別授業だからな。普段は食事禁止だ」
知識と栄養は同時に摂るものではない。学習に対する姿勢の問題である。加えて最近は妖怪の子ばかりの寺子屋だ。あまりブラッディなおやつなどを持ち込まれると、こんどこそ里に寺子屋の居場所は無くなってしまうかもしれない。
「おやつはいくらまで?」
「今日だけだと言っただろ」
凶器のような札束を残念そうに仕舞うフランドール。
「マウスピースはおやつに含まれますか?」
そして異次元の食欲を見せつけるこいし。一度神子にこいつのデザイアドライブ(欲望格納領域)をスキャンして貰った方がいい気がしてきた。
「マウスピースはいいよ、先生。旧都では結婚式で新郎新婦が交換するからね。女の子の憧れの一品なんだよ」
「ほう」
脳裏に浮かぶは壮麗なる教会。主役を寿ぐ縁者一同。歓喜の涙を目尻に湛え生涯の愛を誓うと同時、恋人たちが互いの口に優しくマウスピースをねじ込んだ瞬間、年老いた神父が歯を剥き出して絶叫する。
『ファイッ!』
パパ、ママ、ありがとう。私この人と幸せになります。そんな思いを乗せて、女の夢をガッチリ掴んだ力強い拳が唸る。喝采するオーディエンス。炸裂したブライダルクロスカウンターにより宙を舞う新郎のマウスピース。見舞い品の桃の缶詰と共にオープンカーに引き摺られていく血塗れのマウスピースこそが、彼が恋人の全力の愛を受け止めた証なのである。アスファルトに点々と残る赤い染みを見た旧地獄の住人たちは、今正にボンネットで白目を剥いて時速80キロで空港に向かっていく彼ならば、安心して新婦を任せられるだろうと、二人を笑顔でハネムーンに送り出すのだ。
「ふむ、噂には聞いていたが、地底の結婚式は情熱的だな」
勇儀が男からのプロポーズを尽く拒絶する理由の一つがこの様式美だ。彼女は男どもの頚椎を心配する優しさを持った女性なのである。
「いつか式を拝見したいものだな」
空になった雪平の皿を三枚重ねて回収する。
「そして逸れに逸れた話を戻すと、『数』が正解だ。人は妖怪に比べ圧倒的にその数を増やし、世界に対する存在密度を高めることで、相対的に妖怪達を駆逐していった。十人に一人が妖怪に襲われる世界と十万人に一人が襲われる世界とでは、妖怪という災厄の脅威度は全く違う。そうして妖怪に対する自らの警戒心をあえて緩め、彼らを意識的に忘却したのさ。妖という天敵を、幻想の彼方に放逐する為にな」
妖怪、特に人の恐怖から生まれた種族にとって、それは致命的な攻撃となった筈だ。肉体よりも精神を軸とする生命が妖怪である。忘却はどんな霊刀、神槍よりも確実に存在を蝕む毒となるのだ。
「人間は加速度的に数を増やし、反比例して妖怪たちは消えていった。人と妖の立場は完全に逆転し、やがて人は意識すらすることなく妖怪を排除するようになったんだ。そんな中……500年程前のことだな。妖の消滅を憂う一人の妖怪が策を講じた。他に比べ妖怪の個体数の多かった幻想郷という土地を、『幻と実体の境界』と名付けた結界で覆い、世界を中と外に隔てたのだ。この境界は博麗大結界とは違い、物理的に内外を遮断するものではなかった。外の世界で幻想と成り果て存在を保てなくなった妖怪を、境界の内側に呼び込み消滅の危機から救済する。幻と実体の境界とはただそれだけのフィルターだ」
ただそれだけとは言うものの、それを実現するのは巫術の秘奥と演算の極地を刹那にパッケージし続ける独自の魔術だ。余人には異形とすら映るその立体的概念と思考速度は、空間や個人の才能にまで至るあらゆる改変を可能とし、それは結界や式神という形を得て自ら進化するノードと化す。そうして術を手放し完全なる自由を得た術者は暇を持て余し、結界の外にドーナツを買いに行っては自らの式に叱られたり、唐揚げを食った直後に冬眠して増えた体重にしょんぼりしたりしている。進化の結果、退化した。そんな無様を、どうか誰も晒さぬようにと、彼女は日々身を持って我らに先人の知恵を授けてくれているのである。
「妖怪とは強いようで儚いものだ。誰かに認めてもらえなければ、存在すら出来ないのだからな。人は自らの戒めとして妖怪を生み出した。そうして闇を遠ざけ種を保ち、やがて我らを忘れていった。まるで成長した子供が玩具を置いて部屋を出て行くようにな。……人は最早妖怪を必要とはしないのかもしれん。彼らにとって妖怪とは、進化の奇貨として自らに課した克服すべき命題に過ぎなかったのかもしれないな」
瞼を伏せて想いを馳せる。
必要とされて生み出された。天敵として恐れられた。邪悪と罵られても、それでも良かった。ただ人の敵であることに意味を与えられた我らが始祖。もはや不要と捨てられた彼らはどんな思いで消えていったのか。怨嗟か諦観か、或いは本懐と笑って逝ったのだろうか。
「だが由来はどうあれ、個として生まれ存在する以上、妖怪にも生きる意思と意味がある。座して死を待つばかりを潔しとは受け入れられない。生きる為に、食物連鎖の最上位種として与えられた存在理由を守る為に、彼の者は世界を二つに分けたのだ。……我々は感謝すべきだろうな。八雲紫という賢者の智慧と功績に」
先人に学び奉謝する。それこそが歴史であると、僅かな矜持を言の葉に乗せて静かに語る。ああ、子供たちの清聴に祝福を。この思いが伝わるならば、きっと未来は過去を糧に出来るのだ。
「先生。おしっこ」
「おしっこ!? この熱弁のさなかに排尿ですか!?」
衝撃のあまり敬語が迸る。500年の重みが尿意に敗北した瞬間だった。
「ふ、フランドール……先生今とってもいいことを言っていたんだが……」
「ながいの。眠い」
「だからってお前……」
軽い目眩。何がショックかって、幼女のおしっこなら仕方ないかと納得しそうな自分にショック。
「しょうがないよ。『寝る前におしっこを忘れずにネ』って、命蓮十戒の八にもあるし」
「オイそんなお母さんとの約束みたいな戒めが混じってんのかよ」
なにがネだ。なんでそんな戒めが必要なオッサンの妄想が、未だに戒律として遵守されているのか。あの寺は魔窟だ。ファイトクラブと老人ホームを足して二で割った惨状の摩天楼だ。
「はあ……まったく仕方ないな。行ってこいフランドール。厠は廊下を出て右だ。一人で行けるな」
「無理」
「無理!? ふ、普段どうしてるんだ」
「咲夜が連れてってくれるの」
あのメイドうらやま……いや、甘やかしすぎだろう。
「分かった。こいし、連れてってやってくれ。本当なら私が連れて行ってやりたいところだけどな。どっと疲れた。カメラも修理中だし、こいし、頼む」
折れた扇子を胸に入れ小さな溜息を付いた。
「ん。いこ。フランちゃん」
「あ、私も」
「ああ、行ってこい行ってこい」
結局揃って出て行った三人娘にひらひらと手を振る。
「ふう……」
しばし懊悩。少し反省。幻想、忘却、消滅と子供たちには少し抽象的で退屈だったかもしれない。これからはもっと話に個人名など入れて、具体的にイメージしやすくしたほうがいいだろうか。択一のクイズ形式なんてのもいいかもしれない。
そういえばいつか里長に『先生の授業はつまらない』と言われたことがある。里長の首を振る仕草と柔和なアルカイックスマイルが気に食わなかったので、当時は教育機関への理不尽な冒涜であると、クレーマー対策のマニュアル通りにテーザーガンとエフェメラリティ137で追い返したのだが、思えばあれは純粋な老婆心からくる助言だったのかもしれない。
「ふむ、長に悪いことをしたかな」
全治二ヶ月の詫びとして明日にでも鈴仙のフィギュアをプレゼントしてやろう。長は里に薬を売りに来る鈴仙の隠れファンなのだ。
かつて新参ホイホイと口を滑らせた住民を演説用のマイクでブン殴った彼の勇姿は早速文々。新聞の一面を飾り、その修羅も道を譲るであろう鬼神の形相に新手の妖怪爆誕と解した阿求は彼を即日求聞史紀にノミネート。危険度極高、人間友好度最悪のニューカマーとして稗田式ブラックリストに名を残した里長は暫く自宅に引き篭もり、趣味の美少女フィギュアで傷心を癒す日々だったが、それでも彼を慕う家族によれば普段と大差ない生活だったという。
ちなみに求聞史紀に記載された里長の種族は『油すまし』で、能力は『油を操る程度の能力』、二つ名は『小さな小さな短小』だったが、パテントを主張するナズーリンの猛抗議により二つ名は変更。紆余曲折の末『空飛ぶガンコな油汚れ』に落ち着いた。阿求も適当な女である。
「タダイマ」
「ああ、おかえり」
出て行った時と同じように三人揃って帰ってきた少女たち。挨拶を自然に交わせる程度には寺子屋にも慣れてもらえたかと、少し嬉しくなる。まあ最初からマイペースな少女たちではあったのだが。
「さあ授業を再開するぞ」
「もう?」
「当たり前だ。授業中だったんだぞ」
集中力が切れてしまったらしいこいしを窘めるも、少女はぺったりと机に身を投げ出した。
「飽きた」
「飽きたって……」
「森林セラピーに行きたい」
「どんだけストレスが溜まるんだ、私の授業は……」
失礼な話である。だがやはり先程の話は子供向けではなかったということなのだろう。今日の目的はあくまで寺子屋の楽しさを知ってもらうことだ。イキナリ飽きられてしまっては元も子もない。
「分かった。それじゃあ楽しく授業が受けられるよう、ここからはクイズを取り入れることにしよう」
「クイズぅ?」
「なんだ。クイズは嫌いか、ぬえ?」
「嫌いじゃないけど……面倒」
「大丈夫。そんなに難しいことは聞かんよ」
「ならまあいいけど」
不承不承といった様子だが、ぬえは頷いた。
「うむ。まずはおさらいだ。第一問。数を増やし、妖怪を忘れ去ることで勢力を拡大していった人間達。彼らから妖怪を守るために八雲紫が作ったのは何だった? ①幻と実体の境界 ②苦瓜と南瓜のサラダ ③外神田一丁目のメロンブックス」
「「「外神田一丁目のメロンブックス」」」
炸裂する一糸乱れぬメロニックハーモニー。
「オィィ! なんで全員迷いなく同人ショップに入店してくんだァァ!」
あの煩悩渦巻く地下店舗で誰をどう救おうというのか。
「「「果肉も美味しいよ」」」
「ココナッツ! それはココナッツの魅力をアピールする台詞! っていうかなんでそこまで連携ピッタリなんだ! 打ち合わせでもしてきたのかお前らァァ!」
「不正解?」
「当然だァァ!」
年甲斐のない私の絶叫に首を振るぬえ。
「難しいね」
「難しくない! どう見てもサービス問題じゃないか! ここで稼いでトップ賞を狙えよ!」
「今週のトップ賞なに?」
「玉座と高級ワインだ」
「生徒の私物じゃん……」
寺子屋に自前の貴重品などないのである。
「まったく……困った奴だなお前たちは。迅速な通販サービスを武器にする果肉書店はこの時代まだ存在しない。正解は①の幻と実体の境界だ。紫はこいつで幻想郷を囲い、妖怪を集め、人妖のバランスを旧来のそれに保ったエリアを作り出したんだ」
溜息とともに正解を告げた。出来れば鐘の声のようにメモをとってほしいところだが、まあ今日はいいだろう。繰り返すが、知識そのものよりも寺子屋で皆と学ぶ楽しさを知ってもらう事が、今日の第一の目的なのだ。
「それが今の幻想郷?」
「その雛形だな。場所は同じだ。妖怪を集める性質も変わらん。ただ博麗大結界が出来るまでは物理的な出入りは容易だったようだ」
ふーん、と頬杖をつくぬえ。その横のこいしはフランドールの羽にサードアイを引っ掛けて嬉しそうにしている。……まあ、森林セラピーに行かれるよりはマシか。
「ときめき大僧正は何時出来たの?」
「それはお前んとこのフライング開祖だ。博麗大結界な。これの敷設は今より百数十年前と言われる。常識と非常識を分かつ壁であり、人妖の物理的侵入を阻む障囲だが、結界自体は物理的なものではないようだ」
こちらは幻と実体の境界よりも遥かに強固な結界だ。現状、これを容易に行き来するのは境界を操るスキマ妖怪と、七曜の全てを詰め込んだバットのフルスイングで結界を叩き割る紅魔のピンチヒッターだけである。
「この結界、一説にはかつて人間の僧侶達が張ったものを再展開したとも言われている。幻と実体の境界により妖の増え続ける幻想郷を、やはり近隣の人間たちは警戒していたということだな」
欧州全土から暗黒大陸まで、世界中の魑魅魍魎を呼び寄せる幻想の郷だ。人類全体から見れば妖怪たちの敗走に等しくとも、舞台となる極東の島国にとっては悪夢に他ならなかったのだろう。
「とはいえ最早趨勢は変わらん。人の世は栄え、夜から闇が消えるにつれて、人の影たる妖も世界から幻想として葬られていったのだよ」
“少女幻葬 ~ Necro-Fantasy” 境界の賢者は何を思い、寵愛する式の装飾にその名を与えたのか。
「皮肉なものだ。妖怪を恐れた人間の結界を、時を経て今度は妖怪たちが自らの存続のために起動させたのだからな」
生きる為、手段は選べない。人も妖も、神様だって変わりはしない。
「……ん、今のアレって妖怪が作った結界なんだ。博麗って付いてるし、霊夢がなんか守ってるし、アイツが張ったのかと思ってた」
羽に絡まったサードアイのコードを、ちっちゃい手で解こうとしているフランドールとこいしを手伝いながら、ぬえが言った。
「ああ、確かに博麗は人間側の結界管理を担っている。当代巫女の博麗霊夢も出涸らしのポリフェノールを燃料に空を飛び、裕福な妖怪の胸ぐらを掴むファンタジスタだが、アレでも一応人間だ。よし、それじゃあこれを問題にしよう。第二問。博麗の巫女はどうして結界を管理しているのか? ①妖怪は人間と相談して結界を張り直したから ②博麗は結界の外側の管理者だから ③博麗はやっぱり人外。霊夢が人間というのは、スマン、ありゃ嘘だった」
「「「スマン、ありゃ嘘だった」」」
再び木霊するキレイなソプラノ三重唱。
「ああもう! それを選ぶと思ったわ! そりゃあ先生だって時々思うさ! 寺子屋の昼飯時を狙って古井戸から這い出してくる緋袴の何処が人間なのかってなあ! 返せ! 妹紅の作ってくれた弁当を返せよう!」
濡れた髪を引き摺ってヒタヒタとミートボールに近づいてくる餓鬼道草紙を思い出し、泣き叫ぶ。
「よしよし」
大人げない慟哭に、しかし二種類の羽とザリガニのハサミで慰められた。
「うぅ……ぬえ、フランドール、ありがとうな」
「わたしは?」
「こいしは……」
期待に満ちた目。
「……うん……ありがとう」
「どういたしまして」
満面の笑みが返ってきた。……まあいいか。少々生臭いが。
「すまんな。取り乱した。もう大丈夫だ」
「いいよ。『辛い時は泣きなさい』って、命蓮十戒の九もあるし」
「もう戒めでもなんでもないな……」
適当に思いついた言葉をブチ込んだ感が凄い。飽き症の坊主が筆を投げ出した様が鮮やかに目に浮かぶ。
「それじゃあお待ちかねの正解だが……一般的には①だと言われる。妖怪にとっての人間とは、捕食対象であると同時に自らの存在を確定させる想念の光源だ。妖とは人の影。人間にいなくなってもらっては困るのだよ。だから妖怪の賢者は人間たちに、共生のルールを持ち掛けたんだ。幻想郷という箱庭を、真実隔離された楽園にしようとな」
人妖の共生。それはスペルカードルールにも見られる幻想郷の特性である。
「それって幻想郷の人間になんかイイコトあるの?」
「あるとも。幻想郷の人間というのは妖怪に食われるだけの存在じゃない。妖怪退治の英雄でもある。妖怪がいなくなれば彼らは食うに困るし、既に妖怪の能力を拠り所にした技術や社会のシステムが構築されていた。そしてなにより、幻想郷の人間達には変わり者が多かったのさ。翼を持ち、炎を操る異形の隣人。それでも言葉を交わせるならば、呑めば理解るという大馬鹿者がな」
それはコミュニティにおける進化だろう。一方が他方を喰い潰す短命社会からの脱却。幻想郷の先人たちは歴史に学んだのである。力による妖怪の優勢も、数による人間の栄華も、行き着く先は孤独と虚飾の砂漠であると。
「だが②である可能性もなくはないと思っている。博麗神社は結界の中と外の境界に位置するという。ならば厳密には幻想郷内部の土地ではないということだ。幻想郷内外を遮断する結界再設にあたり、妖怪たちが外部の人間と協定を結ぶ理があり得ないとは断ぜない。考えても見ろ。博麗は結界の外から迷い込んだ人間を送り返すが、同時に結界を破ろうとする内側の妖怪をも叩き返す。妖怪を外に出さないための番人とも見えなくはないだろう」
そのような存在を積極的に欲するのは、第一に外部の人間だろう。妖怪の手による結界を信用しきれなかった外の人間たちが、監視役として博麗を置いたというのもあり得る話だ。博麗の巫女があらゆる者と一定の距離をおくという観測も、彼の者が外側から任を帯びてやって来たというならば頷ける部分もある。
「……だが、勘違いするなよお前たち。それは全て有り得るというだけの推測だ。そして仮にそうであったとて、外からやって来たのは初代博麗の監視者だ。今代博麗の霊夢とは血の縁すらない赤の他人。博麗霊夢は正真正銘、お前たちの良く知る楽園の素敵な米泥棒だよ」
霊夢は霊夢。我らが愛すべき傍若無人の妖怪バスターは間違いなく幻想郷の住人である。
「そういえば一昨日お姉さまのところに、果実酒と間違えて除草剤を強奪していった霊夢がクーリングオフを求めて怒鳴りこんできたわ」
「うちにはキャットフードを寄越せって」
「あー、そういや星の能力を活かしてダイヤモンドカルテル相手に一儲けしないかって、真顔で聖の手を握って関節をキメられてたなあ」
何やってんだあいつはホント。それでも皆に愛されてやまないところが凄いといえば凄いのだが。
「……そしてお前たちが選んだ③も、実はあり得なくはないのかもしれん。博麗の巫女は、その先代と妖怪の賢者たちの指名で襲名することが多いという。殆どの場合、襲名前の素性は不明のままだ。……里ではない何処かに住む人間など、そうはいないというのにな」
博麗の巫女となる少女が何処で生まれ育ったのか。少なくとも私の知る所ではない。
「たまーにお寺に来るよ。山かなんかに篭ってたって人間も」
「……そうか。まあ今の幻想郷において人かそうでないかなど些細なことかもしれん。人間を自称するなら、その者は即ち人間なのだろう」
相手が何者であろうと理解し受け入れる。それが一時間目の教訓であると、子供たちには気づいて欲しい。
「そういえば一時間目の……」
おっ?
「ぐりとぐらは何処から来たの?」
「何処だっていいわ!」
ぐりとぐらはぬえの脳内で卵をかき混ぜるだけの架空の賢者だ。出身地など知ったことではなかった。
「……こんなクイズを出したのは、別に霊夢のプレデターっぷりを確認したかったわけじゃない。歴史とは考察だ。記憶の残滓と記録の残骸をロマンティックに止揚した結果が、所謂史実というやつだ。多くの場合、それは決して真実ではなく、また根拠とした記憶や記録すら過去現在の誰かによる加工品だ。事実とは時系を遡る程に実証を困難にする性質を持つ。故に史家には精密な思考と慎重な思慮が求められるのだ。過去を学び語るならば、あらゆる可能性を検証しなくてはならない。そしてそれを楽しめるのが学徒の特権なんだ。……よく学び、考えて、楽しめ。三時間目で言いたかったのはそういうことだ」
クイズを三択にしたのもそういう意図だ。過去を語るにあたり、一の真実が得られることなど殆ど無い。多くは確率と消去法による推論である。歴史を蓄える私の能力とて、絶対を認知するのは私一人。上白沢慧音の喰らった歴史がいかに真理であろうと、この口を介し語られた時点で余人に真偽の別がつく筈もない。私の説く史実を事実と受け入れるのは、それが真実である確信を得た訳ではなく、媒介となる私の人格を信頼してくれているからに過ぎないのである。
「いいかお前たち。一時間目からの……」
そろそろシメをと口を開いた所で、窓から八つ時を知らせる鐘が聞こえてきた。慌てて時計を見る。いかん、時間をオーバーして話をしていたようだ。
「ふむ……時間切れか。よし、それじゃ纏めは後に回すとしよう。十分の休憩を挟んでホームルームにするから、お手洗いなどは済ませておくんだぞ」
「さっき行ったよ」
「……そうだったな」
それじゃあ羽に絡まったサードアイを解くのに専念してくれと言い残し、一時教室を後にした。結び目を囲んでぺたんと座り込む少女たちを眺めていたいのはやまやまなのだが、教師のいない子供たちだけの時間というのも大切なものなのである。
∇ _Extolment
「さて、特別授業はこれにて完了というわけだが……どうだったお前たち。寺子屋での授業は」
ホームルーム開始と同時、三人を前に正座で問うた。少女たちはそれぞれの席ではなく一箇所に固まり座っている。結局サードアイは解けなかったらしい。何処をどう間違ったのかぬえの羽まで絡まっている始末。ぴたりと身を寄せ合う少女たちに、しかしそれを嫌がる様子はまったくない。こういう打ち解け方を期待していたわけではなかったのだが……まあ仲が良いのはいいことである。
「美味しかった」
「いやこいし、おやつの感想ではなくてだな……」
「んー、雄々しかった?」
天駆ける聖豚(セント・イベリコ・インザスカイ)の感想でもない。
「……まあいい。日本史、世界史、幻想郷史。今日の三時間でお前たちは様々なことを学んだはずだ。異質な隣人を受け入れ、自ら学び、あらゆる角度から思考する。各授業の教訓は、そのまま級友と机を並べる寺子屋の授業風景に他ならない。授業で得た知識も大切だが、私は寧ろこれらを楽しむことを学びとってもらいたい」
異なる種族。異なる思想。様々な妖怪が集う現在の寺子屋は正に幻想郷の縮図である。子供たちにはこのマルチな環境で過去を咀嚼し、明日への翼としてほしいのだ。……リアルな翼はなんか卑猥に絡み合っているようだが。
「とまあ、真面目な話はここまでにしよう。今日は記念すべき特別授業だからな。初めての教室。慣れない授業。三人ともよく頑張った。そこで私からお前たちに、今日という日を祝して賞典を用意させてもらった」
わーとかおーとかはしゃぐ声。うむうむ。やはり子供は素直が一番だ。
「今日だけ、特別だからな。クラスの皆には内緒だぞ」
「うんっ」
「それじゃあまずはぬえ。お前からだ」
「え? 私から?」
「ああそうだ。立つんだ。ささやかだが副賞としてプレゼントもある」
授与のマナーとしてぬえを起立させる。羽とサードアイが絡まっている為、結果三人とも立ち上がった。
「よし。それじゃあ、ぬえ。お前にはノーベル論究賞を与えよう」
「のーべる?」
「菊池ノーベル。寺子屋の創立者だ。当代里長、菊池モンゴメリの義理の兄でもある。ノーベルの方は正真正銘の妖怪で、能力は爆発を操る程度の能力だった。求聞史紀の二つ名は『普通の核弾頭』」
その能力により一代で財を成したノーベルは、己の資産の全てを子供の為に活かしたいと寺子屋を建てるようモンゴメリに命じ、行方不明の妖忌を追って里から姿を消したという。莫大な富を惜しげも無く他者に捧げ、生死も分からぬ老剣士を求めた偉人の奇行に、人々は称賛を贈ると同時に首を傾げたものだったが、後に発行された求聞史紀の彼の項に刻まれたゲイの二文字により謎は氷解。彼の築き上げた尊敬と尊厳は瞬く間に地に落ちた。無論彼の義理の弟である里長のモンゴメリにも男色の噂がたち、里長はその事実無根の払拭に四年の歳月をかけたという。言わぬが花ということもあろうに、阿求も罪な女である。だがそれはそれ、金は金。彼の財産は今も寺子屋の運営基金として立派に役立っているのである。
「ぬえ。お前は一番ダルそうな顔をして、その実授業をよく聞いていたな。適切な質問も多数あった。よってその探究心を讃え、ここに論究賞を贈ることとする」
「べ、べつにそんな真面目に聞いてた訳じゃないし……」
顔を赤くしてチラチラとフランドールとこいしを見るぬえ。二人は笑ってぬえの頭を撫でたり抱きついたりしている。既に羽とコードで結ばれているというのに仲のよろしいことだ。
「謙遜はいらんぞ。二人も喜んでくれているじゃないか。さあ、ぬえ。受け取れ。これは賞状を兼ねた扇子と……副賞のホットケーキだ」
『童女とは不可思議なりや』と書かれた扇と、熱々のホットケーキを入れた重箱を手渡す。
「ホットケーキはついさっき妹紅が竈で焼き上げたばかりだ。あいつの作るおやつは絶品だぞ。高温で一気に焼き上げるから表面はカリッとしてるのに中はフワフワなんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の食を妹紅に預けて生きている。ピンクのエプロンに長い銀髪を滑らせてヒモと主婦の違いを力説する妹紅は、正直誰かに自慢したいほどカワイイのだ。
「あ、ありがと……」
一際顔を赤くするぬえ。
「礼など。熱心な生徒には教え甲斐がある。こちらこそ感謝したいくらいだよ」
生誕の祝福に真っ先にホットケーキを挙げたぬえだ。おそらく命蓮寺の誰かにそうやって祝ってもらったことがあるのだろう。自らの受けた祝福を他の誰かにしてあげたいという願いは、少女がその実誰よりも真っ直ぐに成長した証である。
「うむ。これからもしっかりな」
がっちりとぬえの手を握った。
「ああ、そうだ。ついでと言ってはなんだが、折角九番目まで来たんだ。十戒の最後の一つを教えてくれないか」
フレキシブルなオッサンの戯言だと思っていても、それなりに徳を積んだ高僧の言葉である。一つくらいは含蓄のある言葉が混入しているのではないかと期待したのだ。
「えっと……命蓮十戒の十は『一個くらい自分で考えろ』だったかな」
「……」
【命蓮寺拾ノ戒】
其壱、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すべし
其弐、幼女の妄想は日が暮れてから
其参、金で買える睡眠時間は迷わず買え
其肆、薄い本は一人で楽しめ
其伍、幼女につぎ込む金は惜しむな
其陸、恵まれないオヤジに愛の手を
其漆、花は百合に限る
其捌、寝る前におしっこを忘れずにネ
其玖、辛い時は泣きなさい
其拾、一個くらい自分で考えろ
……このダメ坊主、飽きた挙句に投げっぱなしやがった。自ら考えよというのは私自身も信奉する教えだが、宗教家の戒律としてそれはどうなのか。
「……そうか。聖白蓮は実に我慢強いな」
常人ならば二秒で破棄する戒めばかりだ。この健康な地域社会との親和性に著しく欠ける十の妄言に殉じた寺で、一体どんな説法を日々檀家にカマしているのだろうか。
「何が?」
「いや……ご住職によろしくな。もうお店の子の尻を触ったりしないから、また納会に呼んでくださいと」
「それよろしくじゃなくてごめんなさいだよね。っていうかお店の子って誰?」
「い、いや、なんでもない。なんでもないぞぬえ。む、村紗にもよろしくな」
「……いーけど」
いかんいかん。こう見えてぬえはかなりの末っ子属性だ。姉のような存在である村紗の尻を撫でて泣かせたなどと知れば、正体不明のパンケーキで寺子屋ごと押し潰されてしまうかもしれない。
「う、うむ。それじゃ次にフランドール。お前に賞を贈ろう」
「わたしにもくれるの?」
「勿論だ。お前は札束で聖豚のワケの分からん商魂を、尿意でこの私の独り善がりな講義を破壊してくれた。おかげで少し目が覚めたよ」
どれほどの恩義があろうとも、いや、大恩あるからこそ、食肉加工センターは美容追求の場ではないと、私は彼に言ってやらねばならなかったのだ。そして授業とは教師の自己満足で終えるものではない。まず生徒の理解こそが第一であるという、大切な初志をフランドールは思い出させてくれたのだ。
「フランドールには他者の過ちを破壊する力がある。自覚がなくともな。その幼き知的クーデターに感謝を捧げ、ノーベル革命賞を贈らせてもらおう」
ノーベルはかつてその能力を用い、キュウリを爆弾に変えて河童の長老の暗殺を企てたこともあるシリアルボマーだ。晩年の著書『隣の芝を食い千切れ』は、今や世のテロリスト達のバイブル的妄言集となっている。彼と革命は切っても切れない関係なのである。
「お姉さま喜んでくれるかな?」
「喜んでくれるとも。さあ、これが賞品だ」
真っ白な下地に極太の毛筆書き。『童女とは小悪魔なりや』と書かれた扇はフランドールにこそ相応しい。そして副賞のガラスの靴をそっと差し出す。
「わー。ダイヤモンド?」
「馬鹿な。ガラスだよ。お前は知らないだろうが、この世の九割のシンデレラは城にガラスの靴を忘れてくるんだ。そしてシンデレラを見初めた王子様は、この靴にピッタリの足をした少女を国中回って探し出した。ハッピーエンドの王道だ」
「シンデレラの足を求めて歓楽街を這い回ったの?」
「稀代の足フェチみたいに言うな。なんでシンデレラがそんな如何わしいとこにいるんだ」
這い回る必要もない。王子をなんだと思ってるんだ。芳一の耳といい、いちいち鬼胎なお子様である。
「何にせよおまえの家のシンデレラは野菜を抱えて駆け出すスプリンターらしいからな。軽量で通気性に優れたランニングシューズしか履くまい。このガラスの靴はお前が持っているといい。……分かっているだろうがオブジェだからな。お前が履くなよ? 怪我するからな」
ちんまり差し出された両の手のひらに、左右の靴を揃えて乗せてやる。それなりに厚みのある芸術品だ。見た目より重いのでゆっくり手を離した。
「わー」
手のひらに乗せたまま窓の外の天に掲げ、陽の光に透かすフランドール。きらきらと光を弾くガラスの靴は、同じく煌めく少女の羽によく似合っていた。まあ今はごっちゃりといろいろ絡まっているのだが。
「どうだ綺麗だろう。そのガラスの靴はついさっき妹紅が坩堝で焼き上げたばかりだ。あいつの作るガラス細工は絶品だぞ。高温で一気に焼きあげるから深みのある澄んだ透明が実現するんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の住を妹紅に預けて生きている。坩堝に珪砂とソーダ灰、フェニックスの尾をブチ込んで、うっかり私が『三種の神器 淫』で叩き割った窓ガラスを一から補修してくれる妹紅には、正直頭が上がらない日々である。
「お姉さまと一個ずつしようかなあ」
「それがいい。フランドールとお揃いならレミリアもきっと喜ぶぞ」
血を好み破壊を成す吸血鬼。世間知らずの悪魔の妹。だが少女はきっと誰よりも優しく出来ているのだ。
「水と夢、そして優しさこそが我らの生に色をもたらす。問おう。フランドール、これ以上の必需品がお前の人生に存在するか?」
あろう筈がない。世間知らずとはいえフランドールは聡い子だ。聞かずとも答えは分かっている。あえて聞いたのは少女の自覚を促す為である。
「優しい音声ガイダンス」
「な、なに……!?」
だというのに不意打ちが返ってきた。
「……お前の人生にはガイドボイスが付いているのか」
ご冗談を。貴族とはいえ、それはイージーモードが過ぎるだろう。
「うん」
「えっ!?」
「えっ!?」
肯定される。マジか。それも姉が操った運命なのか。
「ど、どんな声がするんだ……?」
もしや幻聴ではありませんかと恐る恐る聞いてみる。
「えっとね、朝起きた時とか聞こえるの。今から歯を磨きましょうとか、スカートをはきましょうとかって。咲夜の裏声みたいな音声ガイダンスが」
「咲夜の裏声だ、それは!」
あのメイドどんだけ甘やかせば気が済むんだ。というか着替えを覗いてるのか……?
「えー? でもたまに興奮気味の魔女みたいなボイスも出るよ?」
「それも役得に狂喜して図書館から走ってきたパチュリーの声だ……」
「うーん……そうかな」
うんうん唸って首を捻るフランドール。ダメだあの館は。幼女を甘やかすことに命を懸けるメイドがいる限り、紅魔館の幼女は堕落まっしぐらだ。
「全く……今度私から言ってやる。もう少し子供の自主性を尊重しろとな。お前も今日から自分の意思で歯を磨くんだ」
尤も咲夜といえば、おはようからおやすみまで幼女の暮らしを見守り、邪魔する者があればその者の人生におやすみをプレゼントする本物である。言って聞くタマでもないのだが。
「さて、咲夜の説得は今夜一晩じっくり対策を練るとして、最後はこいし、お前だ。こいしには栄えあるノーベル解脱賞を進呈しよう」
「げだつ?」
翼とコードにぐるぐる巻きにされたまま小首を傾げるこいし。
「うむ。大悟徹底、悟道到達。意識に融着する自我の滅尽こそが、輪廻の軛の超越となる。鉄壁のタータンチェックを突破するお前の無意識、この歴史喰いがしかと記憶に受け取った。ライトグリーンの勲章を胸に、どうかこれからもアグレッシブなスニーキングをよろしく頼む」
武運長久を祈ります、と『童女とは盲目なりや』と書き刻まれた扇を贈呈する。
「心眼失明こそが涅槃開眼の捷路とは、世の宗教家も盲点だったことだろうよ。その無垢な頓悟で、なんとかお燐も救い出してやって欲しい」
『足の遅いチーター』の異名をとるポパイのことだ、おそらくペニオクの終了時間には間に合わなかっただろう。六桁の金額で競り落とされた原価七十円のココナッツサブレの存在が露見すれば、流石にさとりのお説教は免れ得ない。
「これは副賞だ。これを着てさとりの心を癒し、正座で痺れたお燐の猫足を開放してやってくれ」
恭しくサンタクロースの衣装を手渡した。
「スカート短いね」
「可愛いだろう。その服はついさっき妹紅が鳳翼天翔で焼き上げたばかりの不審者のスタイルを元に仕立てたものだ。弾幕によるセント・ニコラウスのアフロは絶品だぞ。高温で焼きあげるから表面はカリッとしてるのに中はフワフワなんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の衣を妹紅に預けて生きている。母性本能溢れる妹紅は、冬ともなれば夜なべして手袋や露出度の高いコスを作ってくれるのだ。
「それを着ていればサンタとザリガニの違いも理解できるだろう。さとりもお前の帰還に納得してくれる筈だ」
信じて送り出した愛する妹がミニスカサンタの衣装で帰ってきた。健康なシスコンにとってこれ以上の朗報はあるまい。
「え? 私が着るの?」
「他に誰が着るんだ」
「お姉ちゃん」
「やれやれ。お前は姉心がわかってな……」
いや待て。大人しいさとりのサンタコス。それはそれで珠玉のご褒美だ。
「よろしい。これも持っていけ」
後で妹紅に着せて楽しもうと隠し持っていた、もう一着のコスチュームを進呈する。
「そして姉妹揃って着用の上、今年のクリスマスには是非とも我が家にご来訪頂きたい」
丈の短いスカートに頬を赤らめ、恥ずかしさを噛み殺すようにもじもじとプレゼントを配る姉のさとり。必死にスカートを押さえるさとりの後をちょこちょこと付いて回っては、プレゼントをザリガニとすり替える妹のこいし。赤と白の衣装に身を包み、ひらひらと雪に舞う姉妹は正に地底の天使たち。朝起きたら靴下にザリガニが入っているという約束されたナイトメアを差し引いたとしても、極上のメリークリスマスの爆誕である。
「ケーキと春菊♪」
「寿限無とチキン♪」
「真っ赤なお鼻のひよこ豆♪」
聖夜の妄想に心が躍る。こいしの歌う謎のクリスマスソングに合わせて腰を振り、勢い余って玉座の角に尻をしたたかに打ち付けた。
「ぉぉぉ……」
「馬鹿じゃないの」
悶絶する私に浴びせられる冷たいぬえの声。ごもっともな呟きに抗弁の余地もない。涙を堪え、尻をさすりながら弱々しく笑顔を作る。
「い、今のは無意識だ。無意識のダンスは醜態には含まれない。そうだろう? こいし」
「真っ赤なお尻のダメ教師♪」
こいしは二番を歌っていた。
「ぐう……ま、まあ兎も角、表彰はこれで終いだ。皆それぞれの賞に溺れず、これからも弛まぬ努力を重ねてほしい」
しっかりな、という頷きを、おまえがしっかりしろという眼差しに臆さず繰り返す。教壇に立つ者には相応の肝の太さも求められるのだ。月齢や発情期に応じてキモけーねとさえ称される私の肝は、相当に太く逞しい。
「それじゃあホームルームも終わりにしよう。本当は校歌でも高らかに歌い上げて別れの挨拶としたいところだが、生憎寺子屋にそんなものはないからな」
かつて眠れぬ夜など使い校歌作成に挑んだこともあったのだが、歌詞の三割が卑語で占められるという出来栄えに目眩を覚えてからというもの、私はミューズの嘲笑にそっぽを向いて生きているのだ。
「そして最後の最後。お前たちに聞きたいことがある」
「……またあ?」
「授業はおしまいって言ったのに」
子供たちから不満気な声が上がる。だが撤回はできない。これが本日最終にして、最も大切な問いなのだから。
「すまない。今日はいろいろ問題を出したからな。皆疲れたと思う。だが一つだけ答えてほしい。一言でいい。お前たちにとって、そして私にとっても、何よりも大事なことなのだから」
ぬえ。こいし。フランドール。口をとがらせ、歌いながら、覗きこむようにこちらを見る三者三様の少女たちに、決して目を逸らさず問いかける。年甲斐もない緊張。不甲斐なくも跳ねる心臓。まるでこちらが少女のようだと笑いたくなる気持ちを抑えて、どうか答えをと希った。
「寺子屋は、楽しかったか?」
伝えたかったものは知識ではなく、倫理でもない。たった一つ心に決めた抱負の行方を、気付けば縋るように求めていた。
「……」
答えはない。歌も止まった。子供たちは不思議そうに私を見ている。……無理もない。教師とは綱紀を一に信奉する者だ。どれだけ笑い、戯けようともその本質は規律と教養の拡声器。子供たちとは立場の違う大人なのだ。その大人が最後に一つと縋りつく切望が、規範や歴史とは無関係の歓びだという。呆れ返り、言葉を失ったとて責められはしない。……だというのに子供たちは。
「……まあね、そりゃこんな先生なら」
「森林セラピーの次くらいには」
「うん、楽しかったよ」
赤面、破顔、歓呼の声。三様の反応は全て私の期待を越えて、今日という日を受け入れてくれていた。
「そ、そうか……そうか」
不覚にも声が詰まる。思えば人の子の絶えた寺子屋に、チルノや小傘たちが来てくれた時もこんな感情を味わっている。
「それは良かった。……本当に」
……成長していないな、私は。
「先生泣いてる?」
「どこか痛いの?」
「ば、馬鹿を言うな。……これはハクタク汁だ。ガラナとほうじ茶を絶妙にブレンドした文科省公認の興奮剤だ」
「……もう少し健全に強がってよ」
涙など零さない。そんなもの人代の昔時を喰らううち疾うに底まで枯れ果てた。そう見えたとすれば、それは子供たち自身の優しさがそう錯覚させたのだ。だから一日の終わり、別れの言葉は決まっていた。
「ありがとう三人とも。お前たちが来てくれて、本当に嬉しかったよ」
また来てくれとは言わない。再開は少女が自ら望むべきであり、私の願いなど彼女らにとうに筒抜けだろう。願わくば三人揃って、いつか寺子屋の仲間に加われるようにと、心の中に幸せな景色を浮かべる。今はそれだけでよかった。
「うんっ」
「ん」
「んー」
少女にはそれぞれ家庭がある。他人の目があり、過去がある。自由といえば、寺子屋の教師なんて稼業で食っている私の半分もないのかもしれない。だがそれでも家族に愛され、今この瞬間笑ってくれた彼女たちなら、再び寺子屋に集まる願いも決して夢物語に終わりはしないと、私はそう信じている。
「元気でな。スマホでも何でもいい。連絡をとり合って、三人の輪は繋いでおけよ」
適度な休憩と給水所、そして孫に近い年頃の少女の笑顔があれば、ポパイはどこまでも走っていける。少女愛をこじらせた白髪交じりのスプリンターに想いを託し、どうか今日生まれた新たな絆を永久のものにしてほしい。ぬえ、こいし、フランドールの顔を見つめて、最後に一度頷いた。
「よし、それじゃあとりあえず……解くか」
永久の絆の前に物理的結合を果たした少女たちの羽の結び目。そのままでは家にも帰れまいと、わきわきと十指を開閉してにじり寄った。
「ガニィー」
「がああ」
ザリガニ再誕。
「痛い!」
「変態」
「そのままじゃ帰れないだろ!」
「かえれる」
「何処にだ!」
某教義の体現の如く、少女らは正に三位一体。それぞれの家路につくには無理がある。
「今日はフランちゃんちにお泊りする」
「パジャマパーティー」
「寿限無とチキン」
「なにぃ、まさか繋がったままでか……?」
いつの間にそんな楽しげな企画を。
「いや待て、それはまさかお風呂も……」
「一緒」
「ベッドも……」
「一緒」
「おお……」
ヘブン? そこはヘブンなの?
「先生も行く!」
「紅魔館に変態さんは入れません」
「何故だ!? 門番の軍曹なら説得する自信はあるぞ!?」
「変態さんはもう間に合ってます」
「ああ、そうか……そうだな」
なんという説得力。幼女を核に集う紅魔の精鋭たちは、各々がオンリーワンを誇る変態どもだ。歪んだ性癖の見本市のような窓の少ない館に私などが飛び込めば、そのレベルの違いに打ちのめされてしまうだろう。里の寺子屋などでぬくぬくと生きてきた私と違い、紅魔館の変態どもは幻想郷の外で体格に恵まれた世界の強豪と張り合ってきた抜き身の剣。結界の中に身を置く今も、その刃は錆びることなく研ぎ澄まされているのだ。
「それじゃ仕方ないな……。分かった、行ってこい。それとフランドール、後で軍曹に玉座とワインを取りに来るよう伝えてくれ」
紅魔館は変態と淑女の完全同期を実現したパーフェクトスクウェアだ。こいしもぬえも歓待を受けこそすれ、危険な目に合うことはないだろう。
「楽しむといい。命蓮寺と地霊殿には私から連絡しておこう」
佳き日を、とLTE端末を取り出して三人を促した。草履をつっかけ、寺子屋の門まで見送る。
「……じゃ」
「バイバイ」
「ガニィー」
ひら、と手を振るぬえ。にっこりと笑うフランドール。威嚇を続けながらも帽子を振ってぴょこぴょこ飛び跳ねるこいし。
「仲良くな」
こちらも手を振り返し、三人を送り出した。
「……ふふ。全く、見た目通りの子供たちだよ、お前らは」
緩む口元を無理やり引き締め首を振る。
「おっと、忘れないうちに伝えてやらないとな」
手の中の端末に気づき、さとりと村紗に連絡をとる。心は軽い。寺子屋で友達が出来ましたと、そう教えてやれるのだから。
「まずは地霊殿に、と……うむ。流石はレーザータイガーエヴォリューション。快適だな……ん?」
門に近づいてくる人影。
「やあ、どうじゃね慧音先生? 良ければ今日はこの南国生まれのファニーボーイの……」
性懲りもなくアルフォンソマンゴーの体積を求めんと、最高のタイミングで寺子屋の門を叩いた里長の頬を掠め、黄金のへにょりレーザーが端末から飛び出していく。ホストサーバである星の宝塔を目指すレーザー。レーザー回避の目測を誤り、精度の低いチョン避けで通りすがりのマッチョの胸に吸い込まれていく里長・菊池モンゴメリ。通話可能を知らせる電子音と、年老いたノンケの絶叫が往来に響き渡った。ふははん。自業自得である。門を閉め、気分良く保護者に幼女の外泊を告げる。
『肉体的に結ばれたお宅のお子さんは、窓の少ない建物にお泊りするので今日は帰りません』
熱心に言葉を尽くせば尽くすほどお怒りを買った初夏の夕暮れ。即決で求聞史紀に採用された『歴史喰いの半獣改め、初物喰いの淫獣』という識者とやらのご注進。誤解と撤回を訴えるも夏コミの準備で忙しいと聞く耳持たない阿求の説得を早々に断念した私は、一八世紀の放蕩貴族にあやかって満月の晩に黒歴史を完食し、事無きを得た。
『理解がないなら歴史を食べればいいじゃない』
先人に学び奉謝する。それこそが歴史であると僅かな矜持を言の葉に乗せて、くの字に折れた扇子で小さく涼を取る。
『童女とは天使なりや』
真に然りと、深く静かに頷いた。
「さて、それじゃあ自己紹介からいってみようか。ほら恥ずかしがらず。裸の心で」
始まりにあたり周囲に己を正しく知ってもらうことは、言うまでもなく基礎の基礎である。だというのに子供たちは。
「やだあ。なんかやらしー」
「最低ですね」
「……ばーか」
赤面。軽蔑。無関心。三様の反応は全てが期待はずれもいいところだ。いや赤面はいいな。うん。初々しくて。そういう子は先生大好きだ。
「いいから。自分の言葉で自分を伝える。大事なことだぞ。お前たちの家族や友達も皆やってることだ」
初めての教室。初めての級友。今日は寺子屋の特別授業である。生徒は三人。いずれも寺子屋どころか里にすらあまり来ない類の幼女たちだ。慣れない子たちに囲まれて、教師であるこの私も身の引き締まる思いでいっぱいだった。
「ほら立って。裸の心で」
うえー、とか言いながら三人の子供たちは立ち上がった。うむ。幼女は素直が一番である。
「んーと……フランドール・スカーレット、です。えっと、お姉さまが行ってこいって言ったの。テラコヤで雑種どもの話でも聞いて余計な見聞を広めてきなさいって」
吐露される肉親の傲慢。王様か。姉。
「古明地こいしです。私もお姉ちゃんに勧められてここに来ました。ザリガニとサンタクロースの区別が付いたら帰っていいそうです」
水の中に潜むキチン質がザリガニ。煙突の中で藻掻く不審者がサンタクロースだ。
「……封獣ぬえ。……行かないと食事抜きだってムラサが。……香霖堂のメガネにセーラー服を売ったくらいで、あんなに怒らなくてもいいのに……」
香霖堂の店主は気骨あふれる真の商売人である。客の笑顔をこそ至上の報酬と心得る彼は、その身で品質を確かめた逸品のみを店舗に飾る職人気質を誇りとしている。今頃はムラサのセーラー服をパリっと着こなしたメガネの店主が、満ち足りた笑顔で接客をこなしているのだろう。そのお眼鏡にさえ適えば、セーラー服はひと月と待たずショーウィンドウに並ぶはずだ。最高の着心地を保証するという、店主手ずからの手書きのポップなど添えられて。
「よし。三人ともよく出来たな。いや、どちらかというとダメなところの猛プッシュだったけどな。いいんだ。先生そういうの気にしない。裸の心をさらけ出した幼女に罪はない。先生夜な夜なそう言って里を回ってる」
お陰で先月は二回も公僕に職質を受けた。小さなお子様をもつ母親たちからの評価は発情期の猫以下だ。寺子屋から人間の子たちが去っていったのも、母の会の反対に因るらしい。おかしな話だ。私は誰よりも子供を愛している。ただそれだけのことだというのに。今や寺子屋はすっかり妖怪たちの集う場所。チルノにルーミア、リグル、ミスティアといった幼い妖怪たちこそが、最近の生徒の顔ぶれである。
「ねー、けーね」
「ん、どうしたフランドール?」
だがそうした小さな妖怪たちの中でも、今日の生徒はまた異質。ぬえ、こいし、フランドール。彼女たちの家族に頼まれて、今日は臨時の特別授業なのだった。
「テラコヤのせんせーって、けーねのこと?」
「ああそうだ。今日は先生って呼ぶんだぞ」
「はーい」
両手を上げるフランドール。良い返事だ。
「それからな、フランドール。私からも質問だ」
「?」
「……その椅子は何だ」
紙と木で出来た簡素な寺子屋。教壇すらない、畳の上に小さな文机を並べただけという慎ましくも暖かな師弟の輪の中。金銀煌めく玉座の上で、無邪気に笑う吸血幼女がゆったりと足を組んでいた。
「先生玉座を知らないの?」
「なぜ学び舎に玉座があるのかを問うているんだ」
「えっと、お姉さまがこういうのは形から入るものだって」
「違う。その形は大いに違う」
玉座はフランドールの身体に合わせた特注品なのだろう。柔らかな毛皮で編まれたオットマンに脚を乗せることで、少女の腰は無理なくレザーに包まれている。色とりどりの宝石と艶やかな紅で彩られた貴種の高御座。その肘掛けに優雅に体重を預けたフランドールが、畳に正座した教師を睥睨する午後一時の昼の寺子屋。
「いやいや、それはない。それはないだろう」
このまま土下座でもして頭を踏んでいただきたくなるシチュエーションだ。それはそれで素敵な思い出となりそうな気もするが、二人はやはり教師と生徒。上下関係はキッチリしておくべきである。
「私物の持ち込みは許可制だ。玉座の持ち込みは許可できない。さあフランドール、玉座を降りて、皆と同じように畳に正座するんだ」
「正座はキライ」
玉座からは降りたものの、畳の上で足を伸ばすフランドール。
「こら。ダメだ。こいしとぬえを見てみろフランドール。ちゃんと二人とも正座をして……いないな」
ぬえはあぐらをかき、こいしはふんわりと足を崩している。
「むぅ……」
良くない。実に良くないが、とても良い。あぐらをかくぬえがちらりと見せる色気のない白いショーツは、だからこそそれがとても良い。
「……まあ正座はいい。玉座は先生が預かっておくぞ。放課後返してやるから取りに来い」
「うーん……重いからやだなあ」
「重いからって……うわ、ほんとに重いなこれ!」
今夜が満月じゃなかったらとても一人では持ち上げられない重量だった。どうやって持ってきたんだこれ。
「美鈴が持ってくれたの」
「ああ、『軍曹』か……」
紅魔館の門番、紅美鈴はジャージのよく似合う華やかな女性だ。たまに体育の講師として寺子屋にお招きすることもあるのだが、そういう時は厳しい指導で子供たちを鍛えてくれるのでとても助かっている。
『弾幕に華がない! たまには輝けマメ電球!』
『走れ! カスれ! ハーゲンダッツ!』
『回避が遅い! ピリッと羽ばたけスパイシーチキン!』
『サー! イエスサー!』
弾幕ごっこの指導までしてくれる紅先生と、彼女をサーと仰ぐリグルやチルノ、ミスティア達。その一見して過酷な授業風景にも拘わらず生徒たちからの信頼篤い紅先生に感服し、ご近所の方々は敬意を込めて彼女を『軍曹』と呼ぶのである。
「まあいい。玉座は教室の隅に置いておこう」
あとで軍曹が持って帰ってくれるだろう。
「それじゃそろそろ授業に入るが……その前に一つ確認しておこう」
小首を傾げるフランドール。ぽえっとこちらを見るこいし。めんどくさそうに頭をかくぬえ。今日の特別授業の生徒たち三人をゆっくりと見渡す。
「うん。みんな可愛いな」
「は?」
「い、いや、そうじゃない。そうじゃなくてだな」
はっはっは、と乾いた笑いで誤魔化しに入る。
「今日は待ちに待った特別授業だ。知っての通り、寺子屋に来たことのないお前たちを案じた者の提案によって、今日の授業は成り立っている。レミリア・スカーレット。古明地さとり。村紗水蜜。皆、知識と教養の素晴らしさを知っている智者たちだ。そしてお前たちがそれらを身につけ、より良い今を生きられるようにと、骨を折り頭を下げてくれた人徳者たちだ。三人とも感謝を忘れてはいけないぞ」
実際は札束で頬を張られたり、心の歴史の奥底にしまい込んだ水泳授業の隠し撮りを公開されそうになったり、妖怪寺の納会で酔った勢いに任せて尻を撫でたキャプテンに泣かれたりした挙句の授業成立なのだが、それらは総じてどうでもいいことだ。買収。脅迫。贖罪。子供たちの笑顔に比べれば、そんな大人の事情など些事にすぎないのである。
「さあそれじゃあ授業を始めよう。ああ、授業といってもそう構えることはないぞ。別に難しい学問を修めろということじゃあない。そうだな。レミリアの言ったように、今日はそれぞれ少しだけ見聞を広げてくれればいいんだ」
雑種共とのたまうレミリアの言い様は最悪だが、要はそういうことだ。普段の生活では得られない刺激を受け、ほんの少しでも視野を広げてほしい。その胸のうちに新しい何かを見つけ、育む喜びを知ってほしいという願いが、今日この場に集まっているのだ。そして願わくば、少女たちが気負うことなく里で笑い合えるように。
三人に少しでも寺子屋を好きになってもらい、またいつか、今度は自分からここに来たいと思ってもらう為の切っ掛けとする。それが今日の特別授業における、私自身の目標だった。故に多少のやんちゃは見逃すつもりだ。頭突きも封印する。三人は我侭で天然な天邪鬼であるし、何よりも今日はまず寺子屋で楽しい思い出を作ってほしい。さしあたり初対面に近いのであろう三人の仲を深めてもらいたいものだが、そこは寺子屋の空気に慣れながら、徐々に打ち解けあうしかないのだろう。
「一時間目は世界史の授業だ。三人とも、教科書の5ページを開け」
ちなみに二時間目は日本史の授業。最後の三時間目は幻想郷史の授業の予定だ。
「歴史ばっかり」
「先生の専門だからな。歴史はいいぞぉ。先生芭蕉の句でゴハン三杯はいける」
鳴かないホトトギスとか、何羽目に入れても痛くない。
「そのかわり先生算数が大嫌い」
球体の表面積とか求められた瞬間、ニーバズーカで応戦せずにはいられない。何が3.14だ。3.14といえば明治元年に五箇条の御誓文が宣布された記念すべき日だろうが。ああ、だがもしかしたら、円周率に籠絡された里長の細長いアゴを膝でカチ上げたのもいけなかったのだろうか。翌日から寺子屋に通う子供の数がグッと減った気がする。
「いいか、くれぐれも私にグレープフルーツの表面積を尋ねたりするんじゃないぞ。先生お前たちの顎を傷つけたくないからな」
「なんか誇らしげな顔してるけど、別にいい台詞じゃないからね、それ」
アゴを砕かれ、8週間のICU暮らしを満喫した里長は、今も流動食に頼る生活だ。健康な日常生活に算数を持ち込んだ愚を、彼は毎食ごとに噛み締めているに違いない。
「ふん……孫の前で格好つけてパイアールとか言い出すのがそもそも悪いのだ。果実の表面積など巻尺を巻きまくれば自ずと知れよう」
「チルノ並……」
ぬえの呟き。だがそれは大きな間違いだ。
「馬鹿な。お前はあいつを過小評価しているぞ」
氷点下のIQを誇る氷精チルノは、足し算と迷津慈航斬の区別がつかない本物だ。混同の理由を『どっちもガード不能だから』と不敵に笑うチルノだが、残念ながら迷津慈航斬はガード可能な良心的スペルであり、そして足し算がガード不能という現実は最早医者の出番であろう。
月の頭脳とまで称された名医永琳をして、月まで届けとスプーンをを射出せしめたチルノの数学的低空飛行に隙はなく、伝説のパーフェクトさんすう病室を主席で退院した氷結少女は、三角定規とドライアイスで組み上げたご自慢のイカダに乗り込んで、今日も架空のボンヴォヤージュに応えて威勢の良い掛け声と共に、湖の底に沈んでいくのだ。なんと力強い蛮勇。九九の中盤戦、四の段あたりで紅魔館行きのバスが飛び出してくるチルノに比すれば、この私の算数嫌いなど可愛いものである。
「⑨も才能だ。先生あいつを見てると時々無性に抱きしめたくなる」
馬鹿な子ほど可愛いものだ。歴史的なそれならば愛しさも一入というものだろう。
「まあ、ともあれ歴史だ。人は過去から学ぶ唯一無二のタンパク質だ。その特質を遺憾なく発揮するのが、今日のお前たちの喜びだ。だからさあ、教科書を開くんだ」
ぱんぱんと手を叩き三人を促す。
「そうだぬえ。その本だ」
かったるそうにぬえが広げた分厚い歴史の教科書は、香霖堂と鈴奈庵より手に入れた結界外の歴史書を、私自らが咀嚼再編したものである。我らは幻想に生きる者だが、幻想は現実より生まれし夢路の果てだ。現実に起きた歴史を学ぶことが、そのまま幻想の住人のルーツを辿ることにもなるのである。
「うん、違うぞこいし。その本は教科書じゃない」
こいしの広げる『肉球のススメ』は、九尾の狐がその半生における情熱の全てをブチ撒けたという、猫好きの猫好きによる猫好きのための薄い本である。ショッキングピンクが眩しいラメ入りの装丁は、学び舎の書棚にあっていい彩色では断じてない。
まったくもってけしからん。誰だ。私のバイブルを学級文庫に加えたおませさんは。
「よし皆開いたな。それじゃあ世界史5ページだ。まずは……ふむ、お前たち。この絵の人知ってるか? そうだな……フランドールはどうだ?」
フランドールは欧州出身と聞いている。三名の中では最も知っていておかしくない子だ。
「オジさん?」
「ああ、まあ……そうだが……知らないか。凄いんだぞこのオジさんは。なんと死後蘇ったんだ。どうだ。凄かろう?」
「もこのお父様?」
「……いや、あいつの親父は永遠と須臾の求婚バスターに引っかかって再起不能になった。あともこ言ってやるな」
相変わらず子供に好かれる奴だ。
「というか、え? お前キリスト教圏の出身じゃないのか?」
知らないのか、イエス様。
「どーだろ」
「む……」
きょとんと首を傾げるフランドール。そういやこいつは悪魔の妹だ。神を奉ずる教えとは相反するものかもしれない。ならば知らなくて当然だろうか。
「こいしは知ってるか? キリスト様」
早速教科書の偉人達にサードアイを書き足そうとしていたこいしを制止し、振ってみる。
「うん。馬小屋で生まれたんでしょ?」
だというのにいつの間にかサードアイや虹色の羽、蒼黒のワンピースで武装したナポレオンが、不可能の文字のない落丁本とミニスカートをはためかせ、睡眠時間がどうとか叫びながら愛馬に跨りワーテルロー目掛けて突撃していった。恐ろしい。これが無意識を操る程度の能力か。
「そ、そうだ。よく知ってるな」
裸の心をさらけ出した皇帝による渾身の一騎駆けに阿鼻叫喚のワーテルローから目を背けて授業を続ける。
「お姉ちゃんがお話してくれた」
「なるほどな」
たしかにさとりは妹に本を読み聞かせたりしそうなイメージだ。
「じゃあぬえはどうだ? キリスト教、知ってるか? ぬえの家はお寺だからな。難しいか?」
「む……し、知ってるわよ。それくらい」
への字の口を尖らせるぬえ。素直じゃない奴である。
「ほう……それじゃ問題だ。右の頬を打たれたら、キリスト様はどうした?」
「五針縫った」
「お前……メシアのご尊顔に……」
重傷じゃねえか。
「ダメージの話じゃない。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと彼は言ったんだ」
打たれることが運命ならば、逆らうことなく打たれなさいと。ただ主の望まれるがままに生きることを潔しとする聖者の美学だろう。
「それ聖も言ってたよ。命蓮の遺した十戒の一だって」
思いっきりパクリじゃねえか。
「……それじゃもう一問。東方より来たりし三博士マギ。彼らの名前は?」
「ぐ、ぐりとぐら……」
「……ぐりとぐらと?」
「……え?」
「三博士と言っただろう。ぐりと、ぐらと、後一人は誰だ?」
「……じゅ、寿限無」
「……ぐりとぐらと寿限無?」
「……うん」
言いながら赤い顔を逸らすぬえ。ああもう、可愛いなあ。
「……よし、それじゃ三人は何をしにきたか分かるか?」
「何をって……」
「ヒントはさっきのこいしの回答だ。賢者たちはキリスト様が馬小屋で生まれた時にやってきたんだ。ほらぬえ。こういうときお前なら何をしに行く?」
「あ……キリスト様が生まれたから……」
「生まれたから?」
「お祝いに……」
「お祝いに?」
「……ホットケーキを焼きに来た」
はるか昔。熱砂の彼方より遥々シルクロードを踏破してきた顔色の悪いげっ歯類が、長旅の不満とオチのない落語を呟きながら、ハッピーバースディもそこそこに人様のキッチンで手軽なホームベーカリーに挑戦し始めた。
「何しに来たんだお前ら……」
キッチンを占拠され荒れるマリア。見事な点前で差し出された雑巾の絞り汁を床にブチ撒けるその姑。ぐりとぐらのお陰で聖なる家は一触即発の有様だ。
「いや姑はいないか……」
処女受胎ならば嫁の天下だ。
「ふむ。処女受胎、か……」
いい言葉だ。弾幕少女に偏る幻想郷の未来は、その辺りに光がある気がしてきた。何しろ幻想郷における雄性体といえば、半裸でガラクタの出張買取に現れる気さくなメガネや、網タイツの補充に出かけたまま二度と戻らなかった半人半霊の老剣士など、玄人向けのユニットばかり。百合に未来を託したほうが、ナンボか健全な社会が営まれると言うものである。
「いやまあいい。惜しいぞぬえ。東方の三博士であるメルキオール、バルタザール、カスパールの三人はキリスト誕生の祝福に、贈り物を持ってきたんだ」
「ぅ……」
「いやすまん。少し意地悪な問題だったな。別に名前を全て暗記する必要なんてないんだ」
ぬえの頭を撫でる。
「だがな。知らないものは知らないと言っていいんだぞ。皆分からないから寺子屋に来るんだ。生徒たちが初めからなんでも知っていたら、先生廃業してしまう」
無知の知は賢者の第一歩である。尤もチルノのように、知らぬ存ぜぬと仁王立ちで胸を張られても困るのだが。
「ちなみにメルキオールは王を、バルタザールは神を、カスパールは死を体現する者だという。お前たちの誕生日に神子と神奈子と幽々子が来てくれたようなものだな」
「うーん……嬉しいような」
「そうでもないような……」
微妙な反応。贅沢な子たちだ。
「よし、じゃあ折角だ。世界史はキリスト教の勉強にしよう。異なる価値観の理解は大切だぞ。いろんな人と仲良くなれるからな」
そうでない者達が最近蜃気楼の名を模して空を舞い、黄昏の下で殴り合った。隣人の理解と寛容を忘れた末世の相だが、それすらも楽しんでのける少女たちには脱帽する他ないのだろう。尤も、実際ZUN帽を脱ぐとアイデンティティが半分くらいなくなる者もいるのだが。だから寺子屋は授業中でも着帽可だ。幼女の存在意義を奪って何が教育か。
「キリスト教の大きな特徴の一つは一神教、即ちたった一人の神様しか存在しない世界観ということだ」
三位一体は厳密には単一の個ではないが、神道のような八百万の神を許容する価値観ではない。
「じゃあカナコとスワコは一人しか神様になれないの?」
「ん……そうか。こいしは守矢神社に出入りしていたな。……まあ簡単にいえばその通りだな。日本固有の神道や遠くインドから伝来した仏教とは違い、崇め奉る対象はたった一人だ」
そもそも一人二人と数えることすら不遜なのだろう。
「勿論それは乾の風神八坂神奈子でも、坤の地母神洩矢諏訪子でもない」
「でもカナもスワもいるよ? なのに神様じゃないの?」
「神とは呼ばれないということだ」
「じゃあなんて呼んでもらえるの?」
「……さあ、どうだろうな。特に決まった呼び方があるわけじゃないだろう」
外から見れば異教の神だ。十中八九良い扱いは受けないだろう。だがそれを少女たちに告げる意味は無い。一時間目で伝えたいのは宗教対立の現実などではない。自らとは異なる立脚点を持つ者の存在を知ってほしい。それだけなのだ。
「かわいそう」
「そう思うのはこいしが彼らとは別の文化で生きているからだ」
「わたしは今のままでいいかなあ」
「自らの所属する文化を好ましく思うのは悪いことではない。だが、だからといって相手を否定してはいけない。その為に人は他者を理解する必要があるんだ」
「ザリガニは?」
「……時間が余ったら理解してやるといい」
「がにぃー」
二本の指で作ったハサミで隣に座るフランドールの耳たぶを挟むこいし。くすぐったそうに髪を揺らすフランドールからはミルクのような香りがした。幼女っていいなあ。
「先生よだれ」
「おっと」
ぬえの声。慌てて手の甲で拭う。
「なんか変なこと考えてたでしょ」
「そ、そんなことないぞ」
「“幼女の妄想は日が暮れてから”命蓮十戒の二だよ」
「えらくピンポイントな戒めだな……」
第一とのギャップが凄い。あの寺の開祖、そんな戒めが必要な人だったんだ。
「と、兎も角だ。沢山の神様ではなく、唯一神に祈るという信仰が彼らのスタイルなんだ。つまり古典的なキリスト教的思想においては、多様な価値観の並列よりも、統一された一つの真理こそが尊いということだろう。バベルタワーの話を知っているか? あれは正にそういうことだ」
「おっきな塔を建てたら神様に怒られた話?」
「そうだ。それもさとりに聞いたのか?」
「うん。でもお姉ちゃんはあんまり好きなお話じゃないって」
「……そうか」
地底の妖怪たちは、その多くが能力や思想を嫌われ排斥された者達だ。絶対者によるコミュニティの崩壊を結末とするストーリーが鼻につくのは当然か。
「フランドールとぬえにも分かりやすく言うとだ、『バベルの塔』というのは昔々の寓話でな。神に挑戦するために高い塔を作ろうとした人間に怒った神様が、それまで一つだった人々の言語をバラバラにして、塔の建設を不可能にしてしまったという話だ。幻想郷にいると分かりづらいが、世界には千を超える言語がある。互いに異なる言葉を用いた意思疎通は当然難しく、また思考のベースとなる言語が異なれば、そこから生まれる文化は他と全く違うものとなる。『バベルの塔』とは、そういう言語がバラバラである現状は、神罰によるものであるとする話なんだ」
言葉がたった一つであれば、今よりもより良い世界であったのに。そういう前提のストーリーである。一つの言語、一つの思考からでは生まれ得ない、多様な世界の可能性を否定する主義は、国境や海を越え奪うことで栄えてきた時代には必要な正義だったのだろう。思想だけを考えるなら、それが悪いとは思わない。そも、善悪で括るものでもない。唯一、外から見て良し悪しを断じていいものではないと、それだけは子供たちに伝えておきたい。
「言葉が違うとお話できないの?」
膝を抱えたフランドールが小首を傾げる。
「難しいな」
「お姉さまとも?」
「そうだな」
「咲夜とも?」
「ああ。誰とでもだ」
「つまんない」
「……ああ、そうかもな」
言語の共有は意思疎通を可能とするだけでなく、共有者間の仲間意識をも高めてくれる。方言や身内同士のスラングなどは、その効果をこそ期待され発達した言葉だろう。早苗が時折野良妖怪相手に口にしては、神奈子や諏訪子が平謝りしている懐かしのMK3(貢げ神様3人分)などがその例だ。
「別にいいんじゃないの。相手の言葉なんてなんだってさ。よくわかんない方が面白いって」
「そういう考え方もあるかもな」
流石に鵺。正体不明を信条に恐怖を喰らう千の夢。白日の下にはない、闇の向こうにこそ存在する価値もあると、ぺったりと机に頬を付けたまま言ってのける。
「そういう考え方もあるかもしれんが、もう少しシャキっと授業を受けろ」
「シュァキッッ」
「声だけじゃダメだ」
「むぅ……」
のそりと起き上がった。
「眠い」
「起きろ」
「“金で買える睡眠時間は迷わず買え”が命蓮十戒の三なのに……」
そんな締切間近の同人作家みたいな坊主がいるか。
「寺子屋でのあらゆる売買は禁止されている。ここで出来る交換行為は日記と友情に限られると知れ」
「体液は?」
「たっ、体液はどうしようかなっ……せっ、先生となら、おっ、おっけーかなっ!」
幼い問いかけに不意を突かれ本音が転げ落ちる。
「いただきます」
「イターッ!」
かぷりとフランドールに指を噛まれた。
「あんま美味しくない」
ペッと舌を出す吸血少女。
「美味しくないってお前……」
「咲夜のが美味しい」
「ぬぅ……」
人間と半人半妖の差だろうか。それ以外の原因であってほしくない自分が少し悔しい。
「血液も禁止だっ!」
「しょんぼり」
味のせいか大して残念な風も見せないフランドール。
「血以外の体液はいいの?」
「一向に構わんっ!」
こいしの質問に、弁髪の拳法家のように力強く叫んだ。
「いいんだって」
「んん……っ!?」
首を伸ばしてぬえに口付けするこいし。面食らうぬえの頭を抱いて水っぽく唇を吸い始めた。
「こ、こらこいし!」
引き剥がす。
「先生と! 先生とって言っただろ!」
こいしの顔を掴んで唇を突き出す。
「ガニィー」
「があああ!」
迸る激痛。
「先生はサンタさんとしてて」
「これはザリガニだ!」
猛々しくハサミを振り上げるザリガニを唇からひっぺがして教室の水槽に放り込む。
「難しい」
ゆっくりと首を振るこいし。今度はフランドールの唇をついばみだした。
「ちゅー」
「ちゅー」
楽しげな二人。
「そういうのはおうちでやんなさい!」
襖を開けるように二人の顔を離す。
「まったく……もういい。体液も全面禁止だ。寺子屋での交換行為は日記と友情のみ解禁とする。これ以外は罷り成らん」
「残念」
「それは先生の台詞だ」
「ダメ教師……」
「授業に戻るぞ」
ぬえの呟きを黙殺し、正規のカリキュラムへと回帰する。
「フランドールとぬえの意見が違うように、価値観というものは人によって大きく異なる。多様性よりも統一性を良しとする文化をどう考えるかは人それぞれだ。お前たちがどう考えてもいい。だが自分と違う考えの者を悪く言ってはいけない。考え方が違うのならその根拠を聞いてみるんだ。それで納得出来ずとも、そのロジックは理解するんだ。それだけで、お前たちはたくさん友達が出来るからな」
先生が保証しよう、と微笑んでみせる。幻想郷は多様な種族の住まう箱庭だ。他者と交わり生きていくならば、理解は絶対に必要になる。地底に、地獄に、地下室に、それぞれ篭っていた年月の長い少女たちには、覚えておいてほしかった。
「む……もうあまり時間もないな。三人とも、何か質問はあるか?」
寺子屋の授業は一コマ二十五分。ホットケーキだ体液だと騒げば、そりゃあ残り時間もなくなる。
「んー……こっちの絵はなに?」
「どれだ? ああ、『最後の晩餐』か。……授業の最初にキリストは復活したと言ったな。つまりキリストは一度亡くなっている。処刑されてな。彼の声望を妬む者の陥穽だったという。この絵は彼と彼を慕う者達による最後の情景を描いたものだ。この時、『この中に私を売る者がいる』とキリストは言った。これを境に彼らは一枚岩ではなくなり、その後キリストは捕まってしまう。つまり最期の晩餐だ。十四世紀、レオナルド・ダ・ヴィンチの手がけた名画だな」
しばし目を瞑る。この日のキリストの心情を想うことは、果たして不敬なのだろうか。
「晩餐ってなあに?」
「ん……ああ、皆で食べる夕食のことだ」
「ふーん。何を食べたの?」
「はは、何だろうな。何だと思う?」
一説にはパンと魚料理だったと言われている。
「カツ丼?」
「展開早いなオイ」
なんでもう拘留後のメニューが並んでるんだ。
「何にしろ裏切りを告発するテーブルだ。どんな料理でも砂の味だったろう。お前たちも旨い飯が食べたかったら、家族や友達を裏切ったりするんじゃないぞ」
はーい、という素直な声を合図に、一時間目を終了とした。
∇ _Excerpt
十五分の休み時間を挟み、二時間目の始まりである。世界史に続く日本史の授業を最高のモチベーションで迎えるために、コップ一杯のガラナをほうじ茶で割ったスペシャルドリンク(通称ハクタク汁。妹紅に近づくのも嫌だと眉を顰められた赤茶色のアーティファクト)を飲み干し、元気いっぱい教室のドアを開けた。
「待たせたな! 二時間目の日本史を始めよう!」
小鳥のように窓辺で何やら話していた三人を席に呼び戻す。ふむ、どうやら早速打ち解けてきているようだ。先ほどのキスの効果だろうか。ならばこの唇の鈍痛も我慢出来るというものだが。
「さあ早速いくぞ。教科書の、そうだな……」
一時間目のように頭から、というのも芸がないか。今日は一度きりの特別授業。どちらにしろ教科書一冊読み込む事は出来ないのだ。
「お前たち、スペルカードは持ってきているか?」
「スペルカード?」
「ああ。お前もほら、恋の麻袋だったか? いろいろ持っていただろう」
「恋の迷路?」
「ああ、それだ」
我ながら酷い記憶力。歴史の教師として猛省せねば。
「持ってきてる中で好きなものを一つ出せ。くれぐれも弾幕として解放はするなよ。カードを見せるだけだ」
ここは里の真ん中だ。弾幕をブッ放される訳にはいかない。かつて特別講師としてお招きしたパチュリーが授業を爆発オチで〆た際にフッ飛んだ屋根が、美少女フィギュア満載の里長のプレハブ小屋を直撃してからというもの、里の者達は寺子屋の爆発には敏感なのだ。
それにしても里長が世襲制で本当に良かった。砕け散ったフィギュアの中心で泣き叫んだ里長の人望は未だ回復の兆しも見せず、その役職が公選制であったならば、次期落選は確実だったろう。落選した政治家に価値などはない。そんな唐変木に責任を問われ付きまとわれでもしたら、健全な寺子屋の運営に支障が出るに違いないのだ。
ちなみに全壊した屋根の修繕費を求められたパチュリーは、突如訴えた体調不良により保健室に運ばれた直後、保健医の尻を撫で窓から飛び出し、カモシカのように走り去っていった。自分の都合や煩悩に合わせて喘息の発作と全速前進を繰り返す七曜の魔女は、今日も窓のない図書館の奥で喘鳴を気遣い寄ってきた小悪魔の尻を撫でては、力強い快走でバラ園に逃げ込み花粉に悶絶したりしているのだろう。その静と動の滑らかな切り換えには、南米の食虫植物も膝を折らずにはいられまい。
「んー。じゃあ、これ」
「わたしはこれかな」
「……ん」
少女たちはそれぞれ一枚カードを取り出し、机に置いた。
「どれどれ……ふむ」
机上のカードは“記憶「DNAの瑕」”、“恨弓「源三位頼政の弓」”そして“秘弾「そして誰もいなくなるか?」”。
「なるほどな。それじゃあ今日は……平家物語について少し教えてやるとしようか」
三十分足らずの授業で伝えられることには限りがある。どうせパーツしか教えられないのなら、縄文時代を一から触るよりもこの子たちの好みに近いものを題材にしたほうが良かろう。
「どうして平家物語なのよ」
露骨に嫌そうなぬえの声。
「お、ぬえは知ってそうだな。平家物語」
「物語は知らないよ。でも平氏の時代は……」
「ああそうだな。“源三位頼政の弓”。それ自体平家物語の一幕だ」
源頼政による妖怪鵺退治。『恨弓』と名付けるように、ぬえがその話を好まぬことはよく分かる。だがそれでもスペルカードとして形にし、最も好きなものとして挙げたのならば、少なくとも袈裟まで憎い訳ではないだろう。
「大丈夫。その部分を授業で扱うつもりはない。今日はもっと全体の話。そのほんのさわりのところだ」
「……ならいいけど」
「平家物語と言えば、寧ろ彼らの零落が結末だ。お前には痛快な面もあろう?」
「……別にあいつらが嫌いだったわけじゃないよ。中には面白い奴も……いた」
「……そうか。軽率だったな。すまない。謝罪する」
ぷい、と横を向くぬえに頭を下げる。歴史にはそれを知るものにしか分からぬ機微と重みがある。外から見て断ずるな、とは一時間目の私自身の言葉ではないか。我が身の不肖に恥じ入るばかりである。
「ぬえちゃんのカードで、平家物語?」
「……ん、いや、それだけじゃないぞ。今言ったように、平家物語とは当時隆盛を極めた平氏の盛衰を追う軍記物だからな。見方によっては平氏という一族の終焉、血の運命、遺伝子の断絶を眺めるようなものだ。お前の“DNAの瑕”とは、そういう意味もあろう?」
「んー。わかんない」
「そうか……」
昏い腑分けだ。分からぬ方が良いのかもしれない。
「わたしのカードは?」
「“そして誰もいなくなるか?”か。勿論意味があるさ。寧ろ飛び切り重要だ。栄枯盛衰。生者必滅。そして誰もいなくなるのが、平家物語の美しさだよ」
英国人は老いる過程を楽しむというが、日本人は儚き滅びにこそ美を見出す。寿命の長い妖怪だからこそ、少女たちにはその心を知って貰いたい。
「欧州生まれのフランドールにはもしかしたら分かり辛いかもしれないが、いずれ滅びる、或いは既に滅びたものを偲ぶ寂びの美学だ。終焉を愛でるエレジーともまた違う趣だが……まあなんとなくの好き嫌いで構わないさ。こういうのは」
一族の絶えた古城に差す白い曙光。もはや惜しまれる事もなく消えゆく弱者の文明。欧羅巴にも連なる雅趣はあろう。
「平家物語は鎌倉時代に纏められた軍記物だ。個人的には寂の文学というか……この時代の特徴なのかな。徒然草や方丈記など、鎌倉時代の作には共通する心性を感じる。最も顕著なのはやはり書き出しだろうな。祗園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり……とな」
当時を知らぬ私にもありありと情景が浮かぶ、珠玉の一文だ。
「鐘の声ってどんな声?」
「ん? 鐘の声か。はは、これは別に……」
「あ、わたし知ってるー」
別に鐘が喋るわけじゃない。ぬえの質問にそう答えるより早く、フランドールがひらりと窓から外へと飛び出した。
「お、おいフランドール……?」
華麗な着地とともに日傘を広げたフランドールは、おもむろに懐から取り出した分厚い札束で、折よく向こうから歩いてきた『ビューティサロン・イベリコ豚』の店主、堤谷氏の頬を、快音と共に張り飛ばした。
「オイィ! イキナリ何やってんだ小娘ェェ!」
ビューティサロン・イベリコ豚は『父にありがとう、豚におめでとう』をキャッチフレーズに、幻想郷のマダム達に一つ上の美を約束し、店主が食肉加工センターで閃いたという清潔なエステマシンで客の体毛を引き毟る、幻想郷初の全自動無人脱毛ファクトリーである。
サロンを彩るは機械油の饐えた臭いとディーゼルエンジンの駆動音。軽快に踊るベルトコンベアの各ポイントでマダムを待ち構える赤茶けた大型チョッパーは、ムダ毛どころか首から上が丸ごと飛びかねない勢いで唸りを上げるルナティックモードを常態とし、プロペラの轟音に合わせて流れる『廃獄ララバイ』の援護射撃を受けて、巷で惨殺換気扇の名を恣にしている機械仕掛けのマダムキラーだ。
そんな屠殺場の店主、堤谷氏は、しかし惨憺たるイベリコ豚の客の入りにも音を上げることなく、武士は喰わねど高楊枝を地で行く志の高い里の名士である。
「この資本主義の豚! お金が欲しいんでしょ!」
幼女の手により降り注ぐ百万ドルの往復ビンタ。電話帳の如く分厚い札束が名士の頬に炸裂する。
「やめろォォ! 堤谷さんは寺子屋の恩人だぞォ!」
悪化の一途をたどるイベリコ豚の経営状態にもかかわらず、堤谷氏はかつての豪商の後裔に相応しく、地域の発展と子供たちの笑顔を何よりも願う真の紳士だ。母の会に去勢と強制退去の二択を迫られた我らが寺子屋の危機にあっては、その疲れたミッキーマウスのような風貌に似合わぬ実直な人柄による熱心な説得を母たちに続け、見事完全廃校の悲劇から子供たちを守ってくれたのだ。正に寺子屋の守護聖人。今もここに通う妖怪の子供たちは、その努力と献身に敬意を表し、氏を聖豚(セント・イベリコ)と呼び慕っている。
「鳴くのよ! チュチュモラさん!」
「チュチュモラさんじゃなくてツツミヤさんん!」
だが正確に名を呼んだところで何が好転するものでもない。
「お鳴き!」
「ィングラブリィィ!」
厚さ十五センチを誇る諭吉の束に、高潔な氏が遂に崩れる。札束を咥え、いななく堤谷氏。武士の高楊枝がへし折れる音が里の端まで響き渡った。
「おー。里の名士から資本主義の豚にジョブチェンジだね」
「これが金の声か。確かに諸行無常の響きね」
なるほど、と深く頷くこいしとぬえ。
「鐘! 祇園精舎の声は鐘!」
こんな時だけしっかりメモをとる二人に叫ぶ。
「声が小さい!」
そして四つん這いになった堤谷氏の尻を、学級菜園のバナナの葉で叩くフランドール。閑静な里の昼下がりにも諸行無常の乾いた音が鳴り響く。
「フライハイ!」
札束を咥えたまま、フランドールの号令で天を目指し駆けて行く堤谷氏。もはや子供のために家々を廻り、暴論を説き伏せた紳士の姿はどこにもない。
「バイバーイ!」
いい仕事をしたとばかり、その背中に屈託なく手を振ったフランドールが再び窓から帰ってきた。
「鐘の声って、こんな声?」
寺子屋どころかこの辺りの土地を丸ごと買ってなお釣りが出るような大金を、惜しげもなく豚にくれてやった少女が微笑む。
「おまえ……」
「ん?」
あってるかな? と期待に目を輝かせるフランドール。
「……」
気付く。ああ、悪いのはこの子じゃない。悪いのはイベリコ豚の経営難だ。堅忍不抜の堤谷氏をここまで追い詰めたワケの解らんキャッチフレーズなのだ。何が『父にありがとう、豚におめでとう』だ。そんな嫌がらせのような台詞で食肉加工センターに来店するマダムがいたらお目にかかりたいものである。
「……ああ、八十点だ」
わーい、と両手を上げるフランドール。
「すごい」
「やるね」
素直に感嘆するこいしとぬえ。
「えへへ」
……堤谷氏は子供の笑顔を守ったのだ。少女たちの笑いあう寺子屋と懐の大金。二兎を得た氏に何の不満があろうか。
「……うむ。彼も本望だろう」
永久に還らない氏の社会的信用から目を逸らして、日本史の教科書をそっと閉じた。
「いやいやいかん。閉じちゃダメだ」
我に返り教科書を開き直す。堤谷氏の奇行は諸行無常の実演としてはなかなかだったが、それで満ち足りてしまっては教師の立場がない。
「聖豚の体を張った講義に感謝しつつ、授業に戻るぞ」
「ハーイ」
明るい声。やはり堤谷氏は子供の心を潤してくれる。
「うむ。守護聖豚の名に相応しい男だったな」
既に過去形。諸行無常の響きである。
「さてその無常感だ。こいつは言われて理解するようなものでもないからな。感覚としてはさっき言ったとおりだから、それぞれ本を読んで実感するといい。勿論平家物語や方丈記などに限らず読書は大切だぞ? 時間のあるうちに乱読しておくと後々後悔が減るからな」
「本はスキ」
「お、フランドールはどんな本が好きなんだ?」
「えっとね。シンデレラ。お姉さまが絵本を読んでくれたの」
「そうかそうか」
うんうんと頷く。仲睦まじく絵本を読む姉妹の姿は大変愛らしいに違いない。咲夜の輸血パックも相当消耗したことだろう。
「やっぱり女の子だな。魔法の力で王子様と結ばれるところがいいのか?」
「うんっ! お城に忘れてきた耳を王子様が届けてくれるところで少し泣いちゃった」
「……それは耳なし芳一だ」
脳裏で金髪イケメンの王子が叫ぶ。
『この耳にピッタリの坊主を我が生涯の伴侶とする!』
これが俺だと誇らしげに響く残念な絶叫に驚愕する乙女たち。頬を染め野太い声で名乗りを上げる僧衣の男。前代未聞の座禅系ボーイズラブがここに爆誕。花の乙女が憧れるには少々酸味の強いジャンルである。
「二の腕に般若心経を刻み込んだシンデレラが夏野菜を小脇に抱えて、身代わりに捕まったホウイチのために地平線の彼方から走ってくるところでお姉さまも感極まってたわ。目にゴミが入ったって誤魔化してたけど。バレバレなの。かわいい」
「それは本当に目にゴミが入っただけだと思うぞ……」
そんなフットワークの軽いシンデレラがいるか。だが、汗だくで飛び込んだ宮廷晩餐会でスポーツドリンクをガブ飲みするような女がヒロインならば、王子が衆道に奔るのも無理は無い。
「そもそもシンデレラの面影が夏野菜にしか残ってないじゃないか」
小脇に抱える必要あんのかそれは。せめて馬車にしてスピーディに芳一を救い出せよ。
「いや、いい。乱読しろといったのは私だしな。そんな酸っぱいランナーズハイがシンデレラの称号を賜るとは釈然とせんが、どんな本にも価値はある。読書に貴賎はないのだからな」
そう、八雲藍氏渾身の力作、『肉球のススメ』にも煩悩の自覚と発散を促すという重要な意味が存在するのである。
「良い経験をしたなフランドール。読み聞かせてくれた姉に感謝するんだ」
「うんっ」
にっこりと笑うフランドール。レミリアも妹のこんな顔が見たくて絵本を読んでやったのだろう。
「ふーん……そっか。フランもこいしも、絵本とか読んでもらってるんだ……」
「心配するなぬえ。村紗や白蓮も頼めば読んでくれるよ」
「ううん、命蓮寺はそういうのないから」
「む……そんなことはないだろう。決めつけは良くないぞ。何なら先生から頼んでやってもいい」
「無理だよ」
「何故だ」
命蓮寺は紅魔館に負けず劣らず、バラエティ豊かな変態どもがバランス良く配置された魔窟であるが、幼女の頼みを無下にするほど落ちぶれてはいないはずだ。
「“薄い本は一人で楽しめ”。命蓮十戒の四があるからね」
またその坊主の戒めか!
「……薄くない本ならいいんじゃないか?」
「……え? そんな本あるの?」
「オイィ! お前んち薄い本しかないんかい!」
正に欲情の摩天楼。桃色の煩悩開花宣言。どんな寺だ。
「ぬえ。今度遊びに行くからな」
夢の国の発見に少々荒い息でぬえの肩を掴んだ。
「い、いいけど……なんで急に?」
「今は分からなくていい。いつか分かる。それがオトナになるということなんだ」
優しく微笑む。
「わ、芳香ちゃんに地獄への移住を提案した時のお燐とおんなじ顔してる」
「失礼だな、こいし。先生あそこまで下心満載の笑顔はしてないはずだぞ」
腐臭豊かなキョンシーを独占せんとするお燐の執着は凄まじく、芳香の耳元で灼熱地獄の魅力を延々囁く阿鼻叫喚の不動産営業は、堪忍袋の爆散した青娥による裸締めが炸裂するまで、たっぷり7週間は続いたという。
「してる」
「してない」
「証拠」
ばらっと写真を並べられる。一枚は不思議そうな顔のキョンシーの腐臭によだれを拭く蕩けた笑顔のお燐。もう一枚は不思議系幼女の肩を掴み荒い息を吐くニヤけたこの私。何故この一瞬に写真が撮れる……。カメラシャイローズ? いやあれは寧ろ激写から逃げるさとりのテクニックのはず……まさかはたての念写か? いやそれよりも今は……。
「……おんなじ顔しとる」
「ね」
「ぐぅ……」
証拠写真の前にぐうの音も出ない。出たが。
「ダメ教師」
「妄想天皇」
「欲情戻り橋」
幼女たちは言いたい放題だ。いかん。このままでは教師の威厳が。
「そ、そういえばお燐は元気か、こいし? 最近見ないがまた死体でも集めているのかな……は、はは、程々にしないと小町に叱られるからな。気をつけるよう言っておきなさい、うん」
露骨に話を逸らしにかかる。
「んー。最近は死体だけじゃなくて甘いものも好きみたい」
些か強引に過ぎるかと思ったが、小さな顎に指を当てて、こいしはあっさり話に乗ってきた。
「そ、そうか。興味の幅が広がることはいいことだ」
誘導成功。うむ。子供は素直が一番だ。
「今日もペニーオークションでココナッツサブレを競り落とすんだってハリキってた」
「やめさせろォォ! 今すぐあの猫を止めろォォォ!」
おやつならその辺の店で買えよ!
「どうして? 大丈夫。お燐は一秒間に十六連射できるんだよ」
「泥沼だァァァ!」
ペニオクは連射速度を競うスポーツではない。おやつ一つに一体いくらかける気だ。
「こいし。即刻お燐を止めるんだ。一秒を争う事態だ」
小さな両肩を掴み真顔で告げた。
「わかった」
こくん、と頷くこいし。スマホで自宅に連絡をとる。
「間に合うといいが……」
ちなみにスマホとはスマイルフォンの略であり、ボタン一つで呼び出したオッサンに伝言を頼むと笑顔で相手の家までメッセージを届けてくれるという、河童の技術と核融合エネルギーを活用出来なかった低速人力通信システムの端末であるメッセンジャーボーイの通称だ。汎用性、即時性、利便性の全てに劣るスマイルフォンは、毘沙門天代行の提供するへにょりレーザーを用いた高速通信サービス(LTE : Laser-Tiger-Evolution)にそのシェアを奪われるまでもなく、一件の契約も獲得できずに歴史の闇へと消えていった伝説の次世代ネットワークサービスである。
「ゴー! ポパイ!」
「イエス、マム!」
こいしの命を受けて、中肉中背の男が地獄を目指して飛び出して行く。
「おお、ポパイも元気そうだな」
沢田ポパイ(59)。スマイルフォン発表の折、その斬新なサービス形態に感銘を受けまくった挙句、メッセンジャーボーイとして以降の人生の全てをサービス利用者に捧げようと、脱サラして山に篭り笑顔の練習を始めた情熱的な男である。
暗転は半年後だった。ゼロ契約によるサービスの無期延期を知ったポパイの消沈は凄まじく、失意のあまり地下に身投げした彼は土蜘蛛の巣に『卍』みたいなポーズで引っかかっているところをヤマメに発見された。その後珍しいペットとして拾われた地霊殿にて彼はさとりに謁見。その少年のように繊細な心と、アタマの悪いサービスに容易く人生をベットする先見性のない情熱を買われたポパイは、地霊殿で望みどおりメッセンジャーボーイとしての職を与えられ、彼は見事社会復帰を果たしたのである。
「あいつは元々里の者だからな。地底で暮らし始めたと聞いて心配だったが、元気そうでなによりだ」
現在スマイルフォンは古明地家のみで利用されるウルトラローカルネットワークサービスだ。ポパイの居場所は地下にしかない。彼のために不便なサービスを利用してくれる地霊殿の主には、いつか改めて礼を言わねばならないだろう。
「先生も使う? スマホ」
「……機会があったらな」
言葉を濁す。流石に伝書鳩以下のサービスに月額七千円は払えなかった。
「あ、私使いたいかも」
「なぬ!? 正気かぬえ! ……あ、いや良いサービスだぞスマホは。良いサービスだがそれなりに値の張るシステムだ。命蓮寺の小遣いがいくらだか知らんが、月に七千円はきついんじゃないか?」
妖怪とはいえ、子供に払える額ではないと思うのだが。
「お金は平気だよ。命蓮十戒の五、“幼女につぎ込む金は惜しむな”のお陰でお小遣いには困ってないから」
優遇政策による富の偏在が明らかに。さほど繁盛しているとも思えない寺院の大所帯、年長の居候であるマミゾウあたりが割を食っている気がするのだが、どうだろう。まあ星の能力があればなんとでもなるのかもしれないが。
「お寺にいるとあんまり使い道もないしね。命蓮十戒の六、“恵まれないオヤジに愛の手を”を守れって聖も煩いし」
「……全体的に何なんだ。お前んとこの開祖は」
一体どのあたりに人妖を導こうとしているのかまるで理解できん。理解したいとも思わせないあたりが高僧たる所以なのだろうか。
「まあ金銭的余裕があるなら止めはしないが」
寧ろ礼を言う筋合いだ。ポパイも顧客が増えて喜ぶだろう。
「あー、いいなあ。ぬえちゃんとこいしちゃんがやってるなら私もやろうかなあ……。うーん……でもお金足りるかなあ……」
ツールによる連帯感には敏感な年頃の少女たちだ。羨ましげに唇に指をあてるフランドールも、うんうん言いながら財布を覗き込んでいる。
「足りる。お前のそれは徹底的に不要な心配だ」
ちらと見えたフランドールの財布は、ちっちゃな蝙蝠羽が可愛らしい如何にもお子様向けなデザインであるにもかかわらず、咲夜により内部空間が拡張されたそれには最上級紙幣の束がギッシリと詰め込まれていた。聖豚に数百枚くれてやってなおこの威容。ブルジョワとシスコンがバランス良く配分された彼女の姉により、フランドールの懐は常に暖かく潤っているのである。
「うんうん。皆でやろうよ。夜寝る前とかさ。三人でスマホでおしゃべりしよ?」
決まりー、とフランドールとぬえの手を握るこいし。どうやら二人も乗り気らしい。
「ふふ。お前たち、夜更かしは程々にしておけよ」
はしゃぐ少女たち。微笑ましさに思わず頬が緩むが、心配なのはそろそろ還暦を迎えるポパイの体力だ。
地獄の底にある地霊殿から湖畔の紅魔館、そして山一つ越えた先の命蓮寺を結ぶネットワークとなれば、一周数十キロでは済まない超長距離だ。山篭りして笑顔の練習に励んでいた頃のポパイならばいざ知らず、こいしとさとりの部屋の往復が主任務となった最近の彼には、些か過酷なトライアスロン(地獄からのロッククライミング・湖の遠泳・輪廻の果てへの長距離走)ではなかろうか。ポパイは生身の人間である。自慢の健脚にも限界はあろう。先ほどのこいしによるメッセージのように片道ならばまだしも、止めどない会話のキャッチボールを全て担うとなれば、これはメロスやシンデレラでさえも辞退しかねない走行距離である。
カラフルなパジャマ。甘いお菓子と尽きぬ他愛のないおしゃべり。三人の少女を結ぶキーパーソンは沢田ポパイ(59)だ。
日付も変わろうかという月夜の真ん中。地獄の底で預かった幼女の伝言と手作りのお菓子を握り締めて、心臓を押さえて弱々しく扉を叩く脱水症状ギリギリの中年男性。汗だくの手で溶け落ちた預かり物のチョコレートを差し出しながら、息も絶え絶えポパイは声を絞り出す。
『ハァ……ハァ……、ァッ、アの……ミ、水を一杯……。ハァ……ッ、アッ、あと……フラッ、フランちゃんは……ハァ、ハァ、ゴザ、ご在宅、デスッ……かァ……?』
パンパンの腿を擦りながら提示される汗を吸ってふやけた名刺。酸素不足に舌を出し凄惨な笑顔で幼女の在宅を確認する短パンの男。果たして彼は夜更けに少女を訪ねる資格があると見做されるだろうか。……難しいだろう。おそらくは軍曹や一輪などによって敷地から叩き出されるに違いない。
「むぅ……それはまずいな」
真面目な男だ。任務失敗ともなれば辞世の句でも書きかねない。
「あー、お前たち。スマホもいいが、本を読むのも忘れるなよ。本一冊読了につき一回スマホでご連絡。このくらいにしておくといい」
「えー」
「えーじゃない。子供のうちの読書は大事なんだ。それこそ時間を買ってまで読んでもいいくらいにな」
不満気な三人だがここは譲れない。ポパイの命が懸かっているのだ。人間の守護者を自認する半妖として、退く訳にはいかないのである。
「それよりも授業だ。エライ勢いで脱線してるからな。可及的速やかな回帰が必要だ」
一行しか進んでいない教科書を指で指す。
「『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』そして『沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらわす』と続く。……いつか終わりは来る。そういうことだな」
永遠などはない。そんな当たり前を訴えるたった二節がこれほど美しく胸を打つのは、妹紅や輝夜達と交わる私だからだろうか。
「平家物語の美しさは冒頭で終焉を謳う心象から既に見て取れる。退廃の賛美とも違う、これから終わるものの儚さが一時の隆盛をより彩るんだ。あらゆる悲喜が静寂に傾く枯淡の趣。そして誰もいなくなる物語なればこそ、武威も驕りも痛ましい。それを舞い散る桜のように慈しむ心性は、決して人間にしか理解できないものではない筈だ」
美とは咲き誇るばかりではない。そう知れば他者に優しくなれる。それは半分妖のこの身にも、妖魔たる少女たちにも当て嵌まると願っている。
「分かるか、フランドール?」
「わかんない」
しゃらしゃらと羽と首を振るフランドール。
「そうだな。自分自身で読まねば分からん。だから本を読むんだ。そして残った余韻がお前自身の価値となる」
「んー。シンデレラでいい?」
「なんでもいいんだ。お前のうちには立派な図書館があるだろう。そこでレミリアや咲夜に選んでもらってもいい」
「図書館かあ。パチェに怒られないかな」
「パチュリーが図書館で本を貪るのも、それが自分自身の価値を高めると知っているからだよ。書の意味を知り大切に読むなら同好の士だ。喜びこそすれ、怒ったりはしないさ」
古今東西のあらゆる史実、研究、理論に空想。乱読を重ねるパチュリーはそれら全てを咀嚼し血肉と成す。そんな叡智の結晶たる百年の魔女が、どうして春の有明を目指して博麗大結界をバットで叩き割ったりするのか得心いかぬが、結界守護を任とする藍の配置した十二神将を尽くフライングニールキックで蹴散らし、毎年揚々と外界へ飛び出していく益荒男ぶりを、体制に抗う闘士のそれと見るならば、彼女こそは魔法とスポーツ用品を武器に進化のデッドロックを破壊する革命の寵児なのかもしれない。
「ねー、沙羅双樹の花ってどんな花?」
「うん? 沙羅はこの国で言う夏椿だな。椿の花、分かるか? こればかりは実物を見るのが一番なのだが……ああ、ぬえ、もしかして命蓮寺にあったりしないか?」
沙羅双樹はもともと仏道の用語だ。二対の沙羅の内一つずつが、釈迦の入滅を憂い花の色を変えたという。仏の道を説く命蓮寺ならばあってもおかしくないと思うのだが。
「うち? んー、ないと思うよ。『花は百合に限る』って。命蓮十戒の七があるからね」
「……ほう」
いかん。少し気が合いそうだ。
「それじゃ今度幽香に見せてもらうとするか」
「ゆーか?」
「知らないか? 花を操る妖怪だ。普段は太陽の畑あたりにいるようだが、たまにふらりと里にも現れる。今度見かけたら特別講師を頼んでおこう」
風見幽香は太陽の光をたっぷり浴びて育った常夏のターミネーターだが、花を愛でる喜びを知る子供の頼みだけは無碍にしない女だ。尤も、足元に子供たちが集まっている時も、花泥棒の尻に園芸用シャベルをねじ込む時と同じ顔をしているので、その心の内で何を思っているのかは分からない。だが大人の感情に最も敏感な子供たちが花のお姉ちゃんと慕う事実、幽香も幼子を疎んじている訳ではないのだろう。
「あ、もしかして赤いチェックでライトグリーンのパンツのおねーさん?」
「いやパンツの色は未確認だが……こいしは幽香のこと知ってるのか?」
「んー、たぶん。あったかかった」
「詳しく」
ずい、とこいしの前に出る。幽香。パンツ。あったかい。捨て置けないフレーズだ。この三つの単語だけで私の心は容易く明日への活力に溢れだすと、知る由もなく口にするこいしはなるほど確かに無意識の申し子と言えるだろう。
「ん?」
「ハリー。ユウカ。アッタカイ」
些か荒い息を、朗らかな笑顔でコーティングして問う。
「またあの笑顔だ」
「なんで片言……」
「静かにしろ。大事な話だ」
フランドールとぬえの呟きを抑える。
「せんせい興奮してる? おねえちゃんのペットみたい」
「私のことはいい。幽香の話をしてくれ」
「うーん。いいにおいだったから」
「だったから?」
「もぐりこんだ」
「何処に!?」
ベッド!? ベッドなの!?
「スカートの中」
「うおお! あのウォール・マリアを突破したのか!」
「あったかかった」
「ありがとう!」
こいしの小さな手を熱く握る。鉄壁を誇る幽香のタータンチェックを突破せしめた少女の無意識に、少しでも感謝を伝えたかった。これは歴史に残る偉業であると、その功績を称える気持ちを形にしたかったのだ。
「どういたしまして」
しかし言葉とは裏腹に、ペッと手を振りほどかれる。
「な、なぜだこいし。歴史喰いとして称賛を贈らせてくれ」
幽香の下着は難攻不落の未編纂領域だったのだ。私の能力、歴史喰いは、事象がある程度の客観性をもって観測された時点で、初めてそれを歴たる史実として対象とすることが出来る。如何な事実とて観測する第三者がなければ、それは歴史とは呼べないのである。
「にゃんにゃんが芳香ちゃんを作ったって聞いた時のお燐と同じ顔してる」
「ぐっ……そ、そんなことないだろう。先生あそこまで邪な期待に目を輝かせてはいないはずだ」
裸締めでオトされはしたものの、動く死体の製作者が青娥であることを聞いたお燐は飛びつかんばかりに喜び勇み、彼女を地霊殿の賓客として迎える約束を勝手に結び、案の定さとりに叱られ中庭でしょんぼりしていたという。
「し、しかしよく潜り込めたな。最後まで気付かれなかったのか?」
弟子入りしたい。無意識ってスゲェなあ。
「ううん。気付かれたよ。怒られた」
「なぬ? お、怒られたって……尻は大丈夫なのか、こいし?」
這いつくばり、こいしのスカートの中を覗き込もうとしてぬえに頬を踏まれ阻止される。これはこれでご褒美だった。
「わたしのおしり?」
「ああ、もう痛くないのか?」
「?」
きょとんとするこいし。おかしい。まさかシャベルの洗礼を受けていないというのか。
「……何もされてないのか? 幽香に」
「んー、メッてされた」
「……それだけ?」
「それだけだよ」
「なんだと……」
にわかには信じられないが、こいしの目に嘘はない。一体こいしの何が幽香の寛容を導いたのか。
「見た目か。このぽえっとした不思議系美少女なら許されると、そういうことか」
私など紳士的に金銭契約による色彩の確認を申し出ただけで、極太の弾幕開花宣言の憂き目にあったというのに。あのアマ、満月じゃなければ死んでたぞ。
「ねえ、どうでもいいけどもう時間ないよ?」
「どうでもいいことないだろう! いいかフランドール、少女の下着にはな、かのローマ法王も……!」
が、唾を飛ばした所で気付く。あかん。ほんとに時間ない。記念すべき少女たちの初授業二時間目を、パンツに対する煮え滾る執着でシメるわけにはいかないというのに。
「……っと、ま、まあそういうわけで、夏椿の件、幽香には伝えておくから。お前たちはスマホばっかりやってないで本を読んで、自分の意志で知識を吸収するんだぞ」
強引に纏め、逃げるように教室を出た。くそ、次の授業で失った威厳を取り戻さねば。だがこいしはいい仕事をしてくれた。彼女のお陰で幻想郷史の編纂はまた一歩完成に近づいたと言えよう。
「うむ。花丸をやろう」
うんうん頷いて、休憩室の扉を開けた。
∇ _Exodus
「さて、三時間目は幻想郷史だ。ここからは真面目な話だぞ」
三時間目の始まり。数分前の狂態を払拭するかの如く、隙のない居住まいで生徒たちを前にする。瞳は閉じたまま。清澄な闇が初志を脳裏に呼び戻してくれるようだった。
「今までは真面目にやってなかったんだ」
「いや真面目にやってましたけどね」
鐘の声に超反応して通りすがりのオッサンの人生を破壊されたりすると、軌道修正にも時間が要るのである。
「兎も角幻想郷史だ。外の歴史も無論重要だが、やはり我らは幻想の民。今日はこの授業を以ってお前たちの蒙を啓き、眼から鱗の滂沱を呼び覚ましてやるつもりだから覚悟しておけ」
『眼から鱗』あたりの単語に合わせて目を開ける。一流の教師はやはり一流の演出家でもあるのだ。瞬間、溢れだす光。知に飢えた生徒たちの逸る歓声。明るい世界で私を迎えてくれた子供たちは、もはや待ちきれぬとばかり歴史への興味に目を輝かせ、上気した頬で極上の葡萄酒を嗜んでいた。
「やあやあお待ちかね、ここからが慧音先生の……って、オイィ! なんで寺子屋で生徒がワイン呑んでんだ!」
ぱっと開いた『童女とは天使なりや』と毛筆した扇子をへし折り叫ぶ。
「あ、起きた」
何人もの生徒たちを迎えては送り出し、その傷の数だけ子供たちを見守ってきた寺子屋の文机。その上に置かれた肉厚ガラスのワインクーラーの中で、大粒のクラッシュアイスと最高級のロートシルトがひんやりと微笑んでいた。
「のどごし爽やか」
「やかましい!」
慣れた手つきで酒を嗜むこいしからワイングラスをひったくる。
「ひどい」
「うるさい! 飲み物は水筒で持参しろと事前に伝えておいただろう! なんで極上のワインセットが机の三分の二を占拠してるんだ!」
「『貧相な教室で心の栄養が不足しないように』ってお姉ちゃんが」
「いらない! そういう気遣いはいらないから!」
幻想郷の姉は残念な過保護ばっかりだ。
「没収だ没収」
「えー。先生が目を覚まさないのが悪いのに」
「あれは寝てたんじゃない。まったく……これも玉座と一緒に先生が預かっておくから、授業が終わったら取りに来なさい」
「重いからやだなあ」
「お前もか」
このブルジョワっ子どもが……。
「こんなかさばるもの、お前もどうやって持ってきたんだ」
「フランちゃんちの紅さんが持ってくれたの」
「軍曹ォ……」
働き者だよ、あんた。
これが小町ならヤマトの当日便にねじ込んでおしまいだろう。かの死神は三途の向こうから五十人分の魂を大型軽量品の輸送に定評のある『はこBOON』で発送し、映姫の大目玉を食った前科者である。
『輪切りのソルベじゃねえんだよ!』
日ごろ温厚な映姫がそう叫び小町をハタいた様は、是非曲直庁における伝説の一つとなっている。
「流石は軍曹。日に二度のシエスタも無理はないな」
過酷な労働。少しくらいの昼寝が何だ。そんなことで叱りつけるメイド長がいたなら、この私から言ってやる。軍曹は子供に酒を飲ませる為にガンバったんだ。シスコン達のワケのわからん気配りを受けて、遠路はるばる死ぬほど重い玉座を担いで歩いてきたんだ。お酒はハタチからとか知ったことか。労働の汗は等しく尊い。軍曹には労いが必要なのだ。
「フランドール。軍曹は今どこに?」
後で笹餅でも差し入れてやろう。
「んー。咲夜におこづかい貰ってたから、メイド喫茶かなあ」
「メイドに貰ったお駄賃でメイド喫茶かよ……」
無駄遣いここに極まれり。日頃あんな完璧なメイドが側にいるというのに、一体何が不満でそんなとこ通ってるんだ。
「たまにそこでアルバイトしてる咲夜に会いに行くんだって」
「ひぃぃ、悪魔のメリーゴーランド!」
廻り巡って金は再び咲夜のもとへ。恐ろしい。循環型社会が幸福だなんて誰が言ったんだ。出口のないシステムをハムスターのように回し続ける軍曹を想い、目尻の涙をそっと拭った。
「でも咲夜も嬉しそうだったよ。美鈴に膝枕とかしてあげるんだって」
「……ほう」
それはアレか。会いに来いと。小遣いをやるのはそういうことだろうか。
「それはまあ、なんとも……」
なんとも迂遠なご褒美だ。膝枕くらい紅魔館でしてやればいいのに、とも思うが、それが彼女たちの遊び方なら文句をつける筋合いでもない。
「軍曹も春か……まあ、幸せそうならなによりだ」
「うん。美鈴ね、オムライスにケチャップで文字を書いてもらったんだって。笑ってた」
ね、と写真を見せられる。なるほど、美鈴の日頃の運動量を考えたのであろう、大きな大きなオムライスには、赤く瀟洒な明朝体で大きく『減俸』と書かれていた。
「……照れ隠し、か? ……まあ、幸せの形は人それぞれだからな」
美鈴にとって金などどうでもいいのだろう。たまのオフ。日々忙しい咲夜が自分の為だけに料理を作ってくれるという事実が嬉しいのだ。
「まあそれはともかく、ワインは没収だ、こいし」
「むー」
「むーじゃない」
「のどかわいた」
「渇いてもダメだ」
「うぅ……ひからびる」
「干からびるかっ……仕方ないな。ぬえ、フランドール。お前たちは水筒を持ってきたか? 少しこいしに分けてやってくれ」
頬杖をつくぬえと、ぴこぴこ羽を動かしているフランドールに振った。
「仕方がないわね……」
「はーい」
温度差はあるが、二人とも吝かではないようだ。
「お、二人とも可愛い水筒だな。フランドールのそれは麦茶か?」
「ブランデー」
「アホウ! ワインと変わらんわ!」
「だってお姉さまが『きっと寒々しい寺子屋だから、せめて体の中から温まるように』って」
「馬鹿ばっかりだ! お前たちの姉は!」
おかしい。幻想郷では妹こそが、姉に輪をかけた問題児の通称だった筈なのに。
「これも没収だ!」
カップを兼ねた蓋の部分にプラスチックの蝙蝠羽をあしらった、ピンク色の水筒をひったくる。しかし可愛いな。咲夜のハンドメイドか……?
「まったく……ぬえは何だ? まさか般若湯とかじゃないだろうな」
「……違うわよ」
「じゃあ何だ」
「せ、センブリ茶……」
「お、おぅ……」
渋い……。
「凄いなぬえ……ニガいの平気なのか?」
「……平気じゃないけど、体にいいからってムラサが無理やり……」
「おお……いいお姉さんじゃないか」
これですよこれ。これこそ私の求めていた姉妹愛。
「む、ムラサとはそんなんじゃ……」
「姉妹のようなものだろう。心配してたぞ。ぬえのこと」
相談に乗りつつ酔っ払って尻を撫でた私が言うのも何だが、命蓮寺の納会で私の酌をしてくれた村紗は、最初から最後までぬえのことばかり話していたのだ。好き嫌いが激しくて困るとか、友だちが少なくて心配だとか。それは友というより最早過保護な姉のようで、その初々しい母性の萌芽につい手が出てしまったのも無理からぬ事と、ご理解いただければ幸いである。
「ともあれ、今日の寺子屋のオフィシャルドリンクはセンブリ茶にキマリだ。こいしとフランドールは喉が渇いたらぬえに分けてもらうこと」
「うへーぃ」
肯定とも否定とも取れぬ溶けた声が返ってきた。良しとする。休憩室にはハクタク汁しかないからな。子供たちの喉は自前で潤してもらう必要があるのだ。
「む、いかん。もうズレてるな。話を戻そう」
咳払いを一つ入れて空気を切り替える。
「さっきも言ったが、ここからが今日の本番だ。勿論一二時間目とて遊んでいたわけじゃない。一時間目では他者への理解と寛容を、二時間目では自ら学ぶことの意味をお前たちは知った筈だ。そして三時間目の幻想郷史、我らに最も身近な過去から世界のなんたるかを明らかにし、お前たちが本心から寺子屋で学ぶことを楽しいと思えるように、私も全力であたる所存だ」
へし折った扇子を拾い上げ『く』の字に曲がった『童女とは天使なりや』を掲げる。
「ここは全ての始まりである幻想郷の成り立ちからいこうと思う。お前たち、そもそも幻想郷とは何だ? なんとなくでいい。我らの世界をどう考えている?」
三人を見回す。
「血を吸う幼女の空中庭園」
「日が昇る無意識」
「正体不明の宴会場」
真顔で唯我独尊を即答する少女たち。あまりにも自然に吐き出された自己中心的世界観に、いっそ清々しく口元が緩む。
「お前たちは可愛いな」
己こそが世界の中心であるという幼き独善。半端に悟った矮小な世界を口にされるより余程好ましい。子供とはこうでなくてはいけない。かつて異端審問所にて宇宙の真理と自己を否定されたガリレオ・ガリレイは、それでもなお力強いビールマンスピンをキメながら叫んだものだ。『それでも俺は回っている』と。適度な自己中心性は寧ろ健全な精神の現れなのである。
「そしてあながち間違いでもない。庭園、無意識、宴会場。どれも内外を区切られた無法地帯だ。それじゃあ幻想郷の中と外を線引するものは何だ?」
子供たちは奔放ながら世界の揺籃を理解している。十分に回答可能な問題だろう。
「博麗大結界」
「定例大宴会」
「ときめき大僧正」
伝言ゲームか。最後はもう『大』しか合ってねえ。
「博麗大結界。こいしが正解だ。この幻想と実像を分かつ壁こそが、幻想郷という世界を形作っている。だが知っているか? 楽園を自称する幻想郷にはもう一つ結界がある。今日はこれら結界の成り立ちをお前たちに伝えたいと思う」
前衛的な羽で包むようにこいしを祝福するぬえとフランドール。二人の羽はどちらも柔らかさに欠ける造形だが、こいしはまんざらでもなさそうだ。
「世界を二つに分ける結界。まずはこのような仕組みを、誰が、何故必要としたのか、そこから始めよう」
断絶にも統合にも必ず理由が存在する。それが人の世ともなればなおのことだ。
「古来より人と妖は相争い生きてきた。それは互いを否定しあうという意味だけではない。人を攫い、それを取り戻さんとする英雄との戦いを楽しむ鬼のような種族もあった。人間の側にも妖怪との友誼をこそ尊ぶ種類の者も少数ながら存在した。……だが人は徐々に妖怪たちについていけなくなったのだ。あらゆる場所と時代に英雄がいるとは限らない。攫われた妻子を、ただ涙して諦めた人間が増えるにつれて、その慟哭を楔に人は剣を捨て新たな武器を手に入れたんだ。……そうだな、こいし、それがなんだか分かるか?」
ぬえに分けてもらったセンブリ茶に舌を浸しては、『><』みたいな目でぷるぷると震えていたこいしに問いかける。少女は少しだけ首を傾げ、すぐに閃いた回答を満面の笑みで口にした。
「ニガウリ」
脳裏で炸裂する裂帛の咆哮。年老いた農夫たちが会心の出来栄えに胸を張る、瑞々しいニガウリで武装した七人のサムライが雄叫びを上げて、朝日に輝くあぜ道の果てからお揃いのトラクターで進撃してきた。
「かっこいい」
「かっこ良くない! なんでわざわざ剣を捨てた男たちが野菜を仕入れて襲いかかってくるんだ!」
切れ味が増したのは奇声のみ。純粋な劣化に限りなく近い。ウリ科の野菜に余程の愛着がなければ出来ない蛮勇だろう。だが、そんなもんを手に鬼に立ち向かう斜め向こうの気概があったなら、鬼たちも人間に失望し去っていくことはなかったのかもしれない。
「苦味は味わい楽しむものだ。棒状に固めて鈍器にしてはいけない」
少しだけだぞ、とセンブリの茶請けに雪平を切って、こいしの頭をわしわしと撫でてやった。
「あ、ずる」
「分かってる。ほら」
「わーい」
ぬえとフランドールの机にもそれぞれ置いてやる。我侭で甘味が大好き。子供らしくて大変結構。
「寺子屋っておやつが出るんだ」
むぐむぐ言いながら意外そうなぬえ。
「今日は特別授業だからな。普段は食事禁止だ」
知識と栄養は同時に摂るものではない。学習に対する姿勢の問題である。加えて最近は妖怪の子ばかりの寺子屋だ。あまりブラッディなおやつなどを持ち込まれると、こんどこそ里に寺子屋の居場所は無くなってしまうかもしれない。
「おやつはいくらまで?」
「今日だけだと言っただろ」
凶器のような札束を残念そうに仕舞うフランドール。
「マウスピースはおやつに含まれますか?」
そして異次元の食欲を見せつけるこいし。一度神子にこいつのデザイアドライブ(欲望格納領域)をスキャンして貰った方がいい気がしてきた。
「マウスピースはいいよ、先生。旧都では結婚式で新郎新婦が交換するからね。女の子の憧れの一品なんだよ」
「ほう」
脳裏に浮かぶは壮麗なる教会。主役を寿ぐ縁者一同。歓喜の涙を目尻に湛え生涯の愛を誓うと同時、恋人たちが互いの口に優しくマウスピースをねじ込んだ瞬間、年老いた神父が歯を剥き出して絶叫する。
『ファイッ!』
パパ、ママ、ありがとう。私この人と幸せになります。そんな思いを乗せて、女の夢をガッチリ掴んだ力強い拳が唸る。喝采するオーディエンス。炸裂したブライダルクロスカウンターにより宙を舞う新郎のマウスピース。見舞い品の桃の缶詰と共にオープンカーに引き摺られていく血塗れのマウスピースこそが、彼が恋人の全力の愛を受け止めた証なのである。アスファルトに点々と残る赤い染みを見た旧地獄の住人たちは、今正にボンネットで白目を剥いて時速80キロで空港に向かっていく彼ならば、安心して新婦を任せられるだろうと、二人を笑顔でハネムーンに送り出すのだ。
「ふむ、噂には聞いていたが、地底の結婚式は情熱的だな」
勇儀が男からのプロポーズを尽く拒絶する理由の一つがこの様式美だ。彼女は男どもの頚椎を心配する優しさを持った女性なのである。
「いつか式を拝見したいものだな」
空になった雪平の皿を三枚重ねて回収する。
「そして逸れに逸れた話を戻すと、『数』が正解だ。人は妖怪に比べ圧倒的にその数を増やし、世界に対する存在密度を高めることで、相対的に妖怪達を駆逐していった。十人に一人が妖怪に襲われる世界と十万人に一人が襲われる世界とでは、妖怪という災厄の脅威度は全く違う。そうして妖怪に対する自らの警戒心をあえて緩め、彼らを意識的に忘却したのさ。妖という天敵を、幻想の彼方に放逐する為にな」
妖怪、特に人の恐怖から生まれた種族にとって、それは致命的な攻撃となった筈だ。肉体よりも精神を軸とする生命が妖怪である。忘却はどんな霊刀、神槍よりも確実に存在を蝕む毒となるのだ。
「人間は加速度的に数を増やし、反比例して妖怪たちは消えていった。人と妖の立場は完全に逆転し、やがて人は意識すらすることなく妖怪を排除するようになったんだ。そんな中……500年程前のことだな。妖の消滅を憂う一人の妖怪が策を講じた。他に比べ妖怪の個体数の多かった幻想郷という土地を、『幻と実体の境界』と名付けた結界で覆い、世界を中と外に隔てたのだ。この境界は博麗大結界とは違い、物理的に内外を遮断するものではなかった。外の世界で幻想と成り果て存在を保てなくなった妖怪を、境界の内側に呼び込み消滅の危機から救済する。幻と実体の境界とはただそれだけのフィルターだ」
ただそれだけとは言うものの、それを実現するのは巫術の秘奥と演算の極地を刹那にパッケージし続ける独自の魔術だ。余人には異形とすら映るその立体的概念と思考速度は、空間や個人の才能にまで至るあらゆる改変を可能とし、それは結界や式神という形を得て自ら進化するノードと化す。そうして術を手放し完全なる自由を得た術者は暇を持て余し、結界の外にドーナツを買いに行っては自らの式に叱られたり、唐揚げを食った直後に冬眠して増えた体重にしょんぼりしたりしている。進化の結果、退化した。そんな無様を、どうか誰も晒さぬようにと、彼女は日々身を持って我らに先人の知恵を授けてくれているのである。
「妖怪とは強いようで儚いものだ。誰かに認めてもらえなければ、存在すら出来ないのだからな。人は自らの戒めとして妖怪を生み出した。そうして闇を遠ざけ種を保ち、やがて我らを忘れていった。まるで成長した子供が玩具を置いて部屋を出て行くようにな。……人は最早妖怪を必要とはしないのかもしれん。彼らにとって妖怪とは、進化の奇貨として自らに課した克服すべき命題に過ぎなかったのかもしれないな」
瞼を伏せて想いを馳せる。
必要とされて生み出された。天敵として恐れられた。邪悪と罵られても、それでも良かった。ただ人の敵であることに意味を与えられた我らが始祖。もはや不要と捨てられた彼らはどんな思いで消えていったのか。怨嗟か諦観か、或いは本懐と笑って逝ったのだろうか。
「だが由来はどうあれ、個として生まれ存在する以上、妖怪にも生きる意思と意味がある。座して死を待つばかりを潔しとは受け入れられない。生きる為に、食物連鎖の最上位種として与えられた存在理由を守る為に、彼の者は世界を二つに分けたのだ。……我々は感謝すべきだろうな。八雲紫という賢者の智慧と功績に」
先人に学び奉謝する。それこそが歴史であると、僅かな矜持を言の葉に乗せて静かに語る。ああ、子供たちの清聴に祝福を。この思いが伝わるならば、きっと未来は過去を糧に出来るのだ。
「先生。おしっこ」
「おしっこ!? この熱弁のさなかに排尿ですか!?」
衝撃のあまり敬語が迸る。500年の重みが尿意に敗北した瞬間だった。
「ふ、フランドール……先生今とってもいいことを言っていたんだが……」
「ながいの。眠い」
「だからってお前……」
軽い目眩。何がショックかって、幼女のおしっこなら仕方ないかと納得しそうな自分にショック。
「しょうがないよ。『寝る前におしっこを忘れずにネ』って、命蓮十戒の八にもあるし」
「オイそんなお母さんとの約束みたいな戒めが混じってんのかよ」
なにがネだ。なんでそんな戒めが必要なオッサンの妄想が、未だに戒律として遵守されているのか。あの寺は魔窟だ。ファイトクラブと老人ホームを足して二で割った惨状の摩天楼だ。
「はあ……まったく仕方ないな。行ってこいフランドール。厠は廊下を出て右だ。一人で行けるな」
「無理」
「無理!? ふ、普段どうしてるんだ」
「咲夜が連れてってくれるの」
あのメイドうらやま……いや、甘やかしすぎだろう。
「分かった。こいし、連れてってやってくれ。本当なら私が連れて行ってやりたいところだけどな。どっと疲れた。カメラも修理中だし、こいし、頼む」
折れた扇子を胸に入れ小さな溜息を付いた。
「ん。いこ。フランちゃん」
「あ、私も」
「ああ、行ってこい行ってこい」
結局揃って出て行った三人娘にひらひらと手を振る。
「ふう……」
しばし懊悩。少し反省。幻想、忘却、消滅と子供たちには少し抽象的で退屈だったかもしれない。これからはもっと話に個人名など入れて、具体的にイメージしやすくしたほうがいいだろうか。択一のクイズ形式なんてのもいいかもしれない。
そういえばいつか里長に『先生の授業はつまらない』と言われたことがある。里長の首を振る仕草と柔和なアルカイックスマイルが気に食わなかったので、当時は教育機関への理不尽な冒涜であると、クレーマー対策のマニュアル通りにテーザーガンとエフェメラリティ137で追い返したのだが、思えばあれは純粋な老婆心からくる助言だったのかもしれない。
「ふむ、長に悪いことをしたかな」
全治二ヶ月の詫びとして明日にでも鈴仙のフィギュアをプレゼントしてやろう。長は里に薬を売りに来る鈴仙の隠れファンなのだ。
かつて新参ホイホイと口を滑らせた住民を演説用のマイクでブン殴った彼の勇姿は早速文々。新聞の一面を飾り、その修羅も道を譲るであろう鬼神の形相に新手の妖怪爆誕と解した阿求は彼を即日求聞史紀にノミネート。危険度極高、人間友好度最悪のニューカマーとして稗田式ブラックリストに名を残した里長は暫く自宅に引き篭もり、趣味の美少女フィギュアで傷心を癒す日々だったが、それでも彼を慕う家族によれば普段と大差ない生活だったという。
ちなみに求聞史紀に記載された里長の種族は『油すまし』で、能力は『油を操る程度の能力』、二つ名は『小さな小さな短小』だったが、パテントを主張するナズーリンの猛抗議により二つ名は変更。紆余曲折の末『空飛ぶガンコな油汚れ』に落ち着いた。阿求も適当な女である。
「タダイマ」
「ああ、おかえり」
出て行った時と同じように三人揃って帰ってきた少女たち。挨拶を自然に交わせる程度には寺子屋にも慣れてもらえたかと、少し嬉しくなる。まあ最初からマイペースな少女たちではあったのだが。
「さあ授業を再開するぞ」
「もう?」
「当たり前だ。授業中だったんだぞ」
集中力が切れてしまったらしいこいしを窘めるも、少女はぺったりと机に身を投げ出した。
「飽きた」
「飽きたって……」
「森林セラピーに行きたい」
「どんだけストレスが溜まるんだ、私の授業は……」
失礼な話である。だがやはり先程の話は子供向けではなかったということなのだろう。今日の目的はあくまで寺子屋の楽しさを知ってもらうことだ。イキナリ飽きられてしまっては元も子もない。
「分かった。それじゃあ楽しく授業が受けられるよう、ここからはクイズを取り入れることにしよう」
「クイズぅ?」
「なんだ。クイズは嫌いか、ぬえ?」
「嫌いじゃないけど……面倒」
「大丈夫。そんなに難しいことは聞かんよ」
「ならまあいいけど」
不承不承といった様子だが、ぬえは頷いた。
「うむ。まずはおさらいだ。第一問。数を増やし、妖怪を忘れ去ることで勢力を拡大していった人間達。彼らから妖怪を守るために八雲紫が作ったのは何だった? ①幻と実体の境界 ②苦瓜と南瓜のサラダ ③外神田一丁目のメロンブックス」
「「「外神田一丁目のメロンブックス」」」
炸裂する一糸乱れぬメロニックハーモニー。
「オィィ! なんで全員迷いなく同人ショップに入店してくんだァァ!」
あの煩悩渦巻く地下店舗で誰をどう救おうというのか。
「「「果肉も美味しいよ」」」
「ココナッツ! それはココナッツの魅力をアピールする台詞! っていうかなんでそこまで連携ピッタリなんだ! 打ち合わせでもしてきたのかお前らァァ!」
「不正解?」
「当然だァァ!」
年甲斐のない私の絶叫に首を振るぬえ。
「難しいね」
「難しくない! どう見てもサービス問題じゃないか! ここで稼いでトップ賞を狙えよ!」
「今週のトップ賞なに?」
「玉座と高級ワインだ」
「生徒の私物じゃん……」
寺子屋に自前の貴重品などないのである。
「まったく……困った奴だなお前たちは。迅速な通販サービスを武器にする果肉書店はこの時代まだ存在しない。正解は①の幻と実体の境界だ。紫はこいつで幻想郷を囲い、妖怪を集め、人妖のバランスを旧来のそれに保ったエリアを作り出したんだ」
溜息とともに正解を告げた。出来れば鐘の声のようにメモをとってほしいところだが、まあ今日はいいだろう。繰り返すが、知識そのものよりも寺子屋で皆と学ぶ楽しさを知ってもらう事が、今日の第一の目的なのだ。
「それが今の幻想郷?」
「その雛形だな。場所は同じだ。妖怪を集める性質も変わらん。ただ博麗大結界が出来るまでは物理的な出入りは容易だったようだ」
ふーん、と頬杖をつくぬえ。その横のこいしはフランドールの羽にサードアイを引っ掛けて嬉しそうにしている。……まあ、森林セラピーに行かれるよりはマシか。
「ときめき大僧正は何時出来たの?」
「それはお前んとこのフライング開祖だ。博麗大結界な。これの敷設は今より百数十年前と言われる。常識と非常識を分かつ壁であり、人妖の物理的侵入を阻む障囲だが、結界自体は物理的なものではないようだ」
こちらは幻と実体の境界よりも遥かに強固な結界だ。現状、これを容易に行き来するのは境界を操るスキマ妖怪と、七曜の全てを詰め込んだバットのフルスイングで結界を叩き割る紅魔のピンチヒッターだけである。
「この結界、一説にはかつて人間の僧侶達が張ったものを再展開したとも言われている。幻と実体の境界により妖の増え続ける幻想郷を、やはり近隣の人間たちは警戒していたということだな」
欧州全土から暗黒大陸まで、世界中の魑魅魍魎を呼び寄せる幻想の郷だ。人類全体から見れば妖怪たちの敗走に等しくとも、舞台となる極東の島国にとっては悪夢に他ならなかったのだろう。
「とはいえ最早趨勢は変わらん。人の世は栄え、夜から闇が消えるにつれて、人の影たる妖も世界から幻想として葬られていったのだよ」
“少女幻葬 ~ Necro-Fantasy” 境界の賢者は何を思い、寵愛する式の装飾にその名を与えたのか。
「皮肉なものだ。妖怪を恐れた人間の結界を、時を経て今度は妖怪たちが自らの存続のために起動させたのだからな」
生きる為、手段は選べない。人も妖も、神様だって変わりはしない。
「……ん、今のアレって妖怪が作った結界なんだ。博麗って付いてるし、霊夢がなんか守ってるし、アイツが張ったのかと思ってた」
羽に絡まったサードアイのコードを、ちっちゃい手で解こうとしているフランドールとこいしを手伝いながら、ぬえが言った。
「ああ、確かに博麗は人間側の結界管理を担っている。当代巫女の博麗霊夢も出涸らしのポリフェノールを燃料に空を飛び、裕福な妖怪の胸ぐらを掴むファンタジスタだが、アレでも一応人間だ。よし、それじゃあこれを問題にしよう。第二問。博麗の巫女はどうして結界を管理しているのか? ①妖怪は人間と相談して結界を張り直したから ②博麗は結界の外側の管理者だから ③博麗はやっぱり人外。霊夢が人間というのは、スマン、ありゃ嘘だった」
「「「スマン、ありゃ嘘だった」」」
再び木霊するキレイなソプラノ三重唱。
「ああもう! それを選ぶと思ったわ! そりゃあ先生だって時々思うさ! 寺子屋の昼飯時を狙って古井戸から這い出してくる緋袴の何処が人間なのかってなあ! 返せ! 妹紅の作ってくれた弁当を返せよう!」
濡れた髪を引き摺ってヒタヒタとミートボールに近づいてくる餓鬼道草紙を思い出し、泣き叫ぶ。
「よしよし」
大人げない慟哭に、しかし二種類の羽とザリガニのハサミで慰められた。
「うぅ……ぬえ、フランドール、ありがとうな」
「わたしは?」
「こいしは……」
期待に満ちた目。
「……うん……ありがとう」
「どういたしまして」
満面の笑みが返ってきた。……まあいいか。少々生臭いが。
「すまんな。取り乱した。もう大丈夫だ」
「いいよ。『辛い時は泣きなさい』って、命蓮十戒の九もあるし」
「もう戒めでもなんでもないな……」
適当に思いついた言葉をブチ込んだ感が凄い。飽き症の坊主が筆を投げ出した様が鮮やかに目に浮かぶ。
「それじゃあお待ちかねの正解だが……一般的には①だと言われる。妖怪にとっての人間とは、捕食対象であると同時に自らの存在を確定させる想念の光源だ。妖とは人の影。人間にいなくなってもらっては困るのだよ。だから妖怪の賢者は人間たちに、共生のルールを持ち掛けたんだ。幻想郷という箱庭を、真実隔離された楽園にしようとな」
人妖の共生。それはスペルカードルールにも見られる幻想郷の特性である。
「それって幻想郷の人間になんかイイコトあるの?」
「あるとも。幻想郷の人間というのは妖怪に食われるだけの存在じゃない。妖怪退治の英雄でもある。妖怪がいなくなれば彼らは食うに困るし、既に妖怪の能力を拠り所にした技術や社会のシステムが構築されていた。そしてなにより、幻想郷の人間達には変わり者が多かったのさ。翼を持ち、炎を操る異形の隣人。それでも言葉を交わせるならば、呑めば理解るという大馬鹿者がな」
それはコミュニティにおける進化だろう。一方が他方を喰い潰す短命社会からの脱却。幻想郷の先人たちは歴史に学んだのである。力による妖怪の優勢も、数による人間の栄華も、行き着く先は孤独と虚飾の砂漠であると。
「だが②である可能性もなくはないと思っている。博麗神社は結界の中と外の境界に位置するという。ならば厳密には幻想郷内部の土地ではないということだ。幻想郷内外を遮断する結界再設にあたり、妖怪たちが外部の人間と協定を結ぶ理があり得ないとは断ぜない。考えても見ろ。博麗は結界の外から迷い込んだ人間を送り返すが、同時に結界を破ろうとする内側の妖怪をも叩き返す。妖怪を外に出さないための番人とも見えなくはないだろう」
そのような存在を積極的に欲するのは、第一に外部の人間だろう。妖怪の手による結界を信用しきれなかった外の人間たちが、監視役として博麗を置いたというのもあり得る話だ。博麗の巫女があらゆる者と一定の距離をおくという観測も、彼の者が外側から任を帯びてやって来たというならば頷ける部分もある。
「……だが、勘違いするなよお前たち。それは全て有り得るというだけの推測だ。そして仮にそうであったとて、外からやって来たのは初代博麗の監視者だ。今代博麗の霊夢とは血の縁すらない赤の他人。博麗霊夢は正真正銘、お前たちの良く知る楽園の素敵な米泥棒だよ」
霊夢は霊夢。我らが愛すべき傍若無人の妖怪バスターは間違いなく幻想郷の住人である。
「そういえば一昨日お姉さまのところに、果実酒と間違えて除草剤を強奪していった霊夢がクーリングオフを求めて怒鳴りこんできたわ」
「うちにはキャットフードを寄越せって」
「あー、そういや星の能力を活かしてダイヤモンドカルテル相手に一儲けしないかって、真顔で聖の手を握って関節をキメられてたなあ」
何やってんだあいつはホント。それでも皆に愛されてやまないところが凄いといえば凄いのだが。
「……そしてお前たちが選んだ③も、実はあり得なくはないのかもしれん。博麗の巫女は、その先代と妖怪の賢者たちの指名で襲名することが多いという。殆どの場合、襲名前の素性は不明のままだ。……里ではない何処かに住む人間など、そうはいないというのにな」
博麗の巫女となる少女が何処で生まれ育ったのか。少なくとも私の知る所ではない。
「たまーにお寺に来るよ。山かなんかに篭ってたって人間も」
「……そうか。まあ今の幻想郷において人かそうでないかなど些細なことかもしれん。人間を自称するなら、その者は即ち人間なのだろう」
相手が何者であろうと理解し受け入れる。それが一時間目の教訓であると、子供たちには気づいて欲しい。
「そういえば一時間目の……」
おっ?
「ぐりとぐらは何処から来たの?」
「何処だっていいわ!」
ぐりとぐらはぬえの脳内で卵をかき混ぜるだけの架空の賢者だ。出身地など知ったことではなかった。
「……こんなクイズを出したのは、別に霊夢のプレデターっぷりを確認したかったわけじゃない。歴史とは考察だ。記憶の残滓と記録の残骸をロマンティックに止揚した結果が、所謂史実というやつだ。多くの場合、それは決して真実ではなく、また根拠とした記憶や記録すら過去現在の誰かによる加工品だ。事実とは時系を遡る程に実証を困難にする性質を持つ。故に史家には精密な思考と慎重な思慮が求められるのだ。過去を学び語るならば、あらゆる可能性を検証しなくてはならない。そしてそれを楽しめるのが学徒の特権なんだ。……よく学び、考えて、楽しめ。三時間目で言いたかったのはそういうことだ」
クイズを三択にしたのもそういう意図だ。過去を語るにあたり、一の真実が得られることなど殆ど無い。多くは確率と消去法による推論である。歴史を蓄える私の能力とて、絶対を認知するのは私一人。上白沢慧音の喰らった歴史がいかに真理であろうと、この口を介し語られた時点で余人に真偽の別がつく筈もない。私の説く史実を事実と受け入れるのは、それが真実である確信を得た訳ではなく、媒介となる私の人格を信頼してくれているからに過ぎないのである。
「いいかお前たち。一時間目からの……」
そろそろシメをと口を開いた所で、窓から八つ時を知らせる鐘が聞こえてきた。慌てて時計を見る。いかん、時間をオーバーして話をしていたようだ。
「ふむ……時間切れか。よし、それじゃ纏めは後に回すとしよう。十分の休憩を挟んでホームルームにするから、お手洗いなどは済ませておくんだぞ」
「さっき行ったよ」
「……そうだったな」
それじゃあ羽に絡まったサードアイを解くのに専念してくれと言い残し、一時教室を後にした。結び目を囲んでぺたんと座り込む少女たちを眺めていたいのはやまやまなのだが、教師のいない子供たちだけの時間というのも大切なものなのである。
∇ _Extolment
「さて、特別授業はこれにて完了というわけだが……どうだったお前たち。寺子屋での授業は」
ホームルーム開始と同時、三人を前に正座で問うた。少女たちはそれぞれの席ではなく一箇所に固まり座っている。結局サードアイは解けなかったらしい。何処をどう間違ったのかぬえの羽まで絡まっている始末。ぴたりと身を寄せ合う少女たちに、しかしそれを嫌がる様子はまったくない。こういう打ち解け方を期待していたわけではなかったのだが……まあ仲が良いのはいいことである。
「美味しかった」
「いやこいし、おやつの感想ではなくてだな……」
「んー、雄々しかった?」
天駆ける聖豚(セント・イベリコ・インザスカイ)の感想でもない。
「……まあいい。日本史、世界史、幻想郷史。今日の三時間でお前たちは様々なことを学んだはずだ。異質な隣人を受け入れ、自ら学び、あらゆる角度から思考する。各授業の教訓は、そのまま級友と机を並べる寺子屋の授業風景に他ならない。授業で得た知識も大切だが、私は寧ろこれらを楽しむことを学びとってもらいたい」
異なる種族。異なる思想。様々な妖怪が集う現在の寺子屋は正に幻想郷の縮図である。子供たちにはこのマルチな環境で過去を咀嚼し、明日への翼としてほしいのだ。……リアルな翼はなんか卑猥に絡み合っているようだが。
「とまあ、真面目な話はここまでにしよう。今日は記念すべき特別授業だからな。初めての教室。慣れない授業。三人ともよく頑張った。そこで私からお前たちに、今日という日を祝して賞典を用意させてもらった」
わーとかおーとかはしゃぐ声。うむうむ。やはり子供は素直が一番だ。
「今日だけ、特別だからな。クラスの皆には内緒だぞ」
「うんっ」
「それじゃあまずはぬえ。お前からだ」
「え? 私から?」
「ああそうだ。立つんだ。ささやかだが副賞としてプレゼントもある」
授与のマナーとしてぬえを起立させる。羽とサードアイが絡まっている為、結果三人とも立ち上がった。
「よし。それじゃあ、ぬえ。お前にはノーベル論究賞を与えよう」
「のーべる?」
「菊池ノーベル。寺子屋の創立者だ。当代里長、菊池モンゴメリの義理の兄でもある。ノーベルの方は正真正銘の妖怪で、能力は爆発を操る程度の能力だった。求聞史紀の二つ名は『普通の核弾頭』」
その能力により一代で財を成したノーベルは、己の資産の全てを子供の為に活かしたいと寺子屋を建てるようモンゴメリに命じ、行方不明の妖忌を追って里から姿を消したという。莫大な富を惜しげも無く他者に捧げ、生死も分からぬ老剣士を求めた偉人の奇行に、人々は称賛を贈ると同時に首を傾げたものだったが、後に発行された求聞史紀の彼の項に刻まれたゲイの二文字により謎は氷解。彼の築き上げた尊敬と尊厳は瞬く間に地に落ちた。無論彼の義理の弟である里長のモンゴメリにも男色の噂がたち、里長はその事実無根の払拭に四年の歳月をかけたという。言わぬが花ということもあろうに、阿求も罪な女である。だがそれはそれ、金は金。彼の財産は今も寺子屋の運営基金として立派に役立っているのである。
「ぬえ。お前は一番ダルそうな顔をして、その実授業をよく聞いていたな。適切な質問も多数あった。よってその探究心を讃え、ここに論究賞を贈ることとする」
「べ、べつにそんな真面目に聞いてた訳じゃないし……」
顔を赤くしてチラチラとフランドールとこいしを見るぬえ。二人は笑ってぬえの頭を撫でたり抱きついたりしている。既に羽とコードで結ばれているというのに仲のよろしいことだ。
「謙遜はいらんぞ。二人も喜んでくれているじゃないか。さあ、ぬえ。受け取れ。これは賞状を兼ねた扇子と……副賞のホットケーキだ」
『童女とは不可思議なりや』と書かれた扇と、熱々のホットケーキを入れた重箱を手渡す。
「ホットケーキはついさっき妹紅が竈で焼き上げたばかりだ。あいつの作るおやつは絶品だぞ。高温で一気に焼き上げるから表面はカリッとしてるのに中はフワフワなんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の食を妹紅に預けて生きている。ピンクのエプロンに長い銀髪を滑らせてヒモと主婦の違いを力説する妹紅は、正直誰かに自慢したいほどカワイイのだ。
「あ、ありがと……」
一際顔を赤くするぬえ。
「礼など。熱心な生徒には教え甲斐がある。こちらこそ感謝したいくらいだよ」
生誕の祝福に真っ先にホットケーキを挙げたぬえだ。おそらく命蓮寺の誰かにそうやって祝ってもらったことがあるのだろう。自らの受けた祝福を他の誰かにしてあげたいという願いは、少女がその実誰よりも真っ直ぐに成長した証である。
「うむ。これからもしっかりな」
がっちりとぬえの手を握った。
「ああ、そうだ。ついでと言ってはなんだが、折角九番目まで来たんだ。十戒の最後の一つを教えてくれないか」
フレキシブルなオッサンの戯言だと思っていても、それなりに徳を積んだ高僧の言葉である。一つくらいは含蓄のある言葉が混入しているのではないかと期待したのだ。
「えっと……命蓮十戒の十は『一個くらい自分で考えろ』だったかな」
「……」
【命蓮寺拾ノ戒】
其壱、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すべし
其弐、幼女の妄想は日が暮れてから
其参、金で買える睡眠時間は迷わず買え
其肆、薄い本は一人で楽しめ
其伍、幼女につぎ込む金は惜しむな
其陸、恵まれないオヤジに愛の手を
其漆、花は百合に限る
其捌、寝る前におしっこを忘れずにネ
其玖、辛い時は泣きなさい
其拾、一個くらい自分で考えろ
……このダメ坊主、飽きた挙句に投げっぱなしやがった。自ら考えよというのは私自身も信奉する教えだが、宗教家の戒律としてそれはどうなのか。
「……そうか。聖白蓮は実に我慢強いな」
常人ならば二秒で破棄する戒めばかりだ。この健康な地域社会との親和性に著しく欠ける十の妄言に殉じた寺で、一体どんな説法を日々檀家にカマしているのだろうか。
「何が?」
「いや……ご住職によろしくな。もうお店の子の尻を触ったりしないから、また納会に呼んでくださいと」
「それよろしくじゃなくてごめんなさいだよね。っていうかお店の子って誰?」
「い、いや、なんでもない。なんでもないぞぬえ。む、村紗にもよろしくな」
「……いーけど」
いかんいかん。こう見えてぬえはかなりの末っ子属性だ。姉のような存在である村紗の尻を撫でて泣かせたなどと知れば、正体不明のパンケーキで寺子屋ごと押し潰されてしまうかもしれない。
「う、うむ。それじゃ次にフランドール。お前に賞を贈ろう」
「わたしにもくれるの?」
「勿論だ。お前は札束で聖豚のワケの分からん商魂を、尿意でこの私の独り善がりな講義を破壊してくれた。おかげで少し目が覚めたよ」
どれほどの恩義があろうとも、いや、大恩あるからこそ、食肉加工センターは美容追求の場ではないと、私は彼に言ってやらねばならなかったのだ。そして授業とは教師の自己満足で終えるものではない。まず生徒の理解こそが第一であるという、大切な初志をフランドールは思い出させてくれたのだ。
「フランドールには他者の過ちを破壊する力がある。自覚がなくともな。その幼き知的クーデターに感謝を捧げ、ノーベル革命賞を贈らせてもらおう」
ノーベルはかつてその能力を用い、キュウリを爆弾に変えて河童の長老の暗殺を企てたこともあるシリアルボマーだ。晩年の著書『隣の芝を食い千切れ』は、今や世のテロリスト達のバイブル的妄言集となっている。彼と革命は切っても切れない関係なのである。
「お姉さま喜んでくれるかな?」
「喜んでくれるとも。さあ、これが賞品だ」
真っ白な下地に極太の毛筆書き。『童女とは小悪魔なりや』と書かれた扇はフランドールにこそ相応しい。そして副賞のガラスの靴をそっと差し出す。
「わー。ダイヤモンド?」
「馬鹿な。ガラスだよ。お前は知らないだろうが、この世の九割のシンデレラは城にガラスの靴を忘れてくるんだ。そしてシンデレラを見初めた王子様は、この靴にピッタリの足をした少女を国中回って探し出した。ハッピーエンドの王道だ」
「シンデレラの足を求めて歓楽街を這い回ったの?」
「稀代の足フェチみたいに言うな。なんでシンデレラがそんな如何わしいとこにいるんだ」
這い回る必要もない。王子をなんだと思ってるんだ。芳一の耳といい、いちいち鬼胎なお子様である。
「何にせよおまえの家のシンデレラは野菜を抱えて駆け出すスプリンターらしいからな。軽量で通気性に優れたランニングシューズしか履くまい。このガラスの靴はお前が持っているといい。……分かっているだろうがオブジェだからな。お前が履くなよ? 怪我するからな」
ちんまり差し出された両の手のひらに、左右の靴を揃えて乗せてやる。それなりに厚みのある芸術品だ。見た目より重いのでゆっくり手を離した。
「わー」
手のひらに乗せたまま窓の外の天に掲げ、陽の光に透かすフランドール。きらきらと光を弾くガラスの靴は、同じく煌めく少女の羽によく似合っていた。まあ今はごっちゃりといろいろ絡まっているのだが。
「どうだ綺麗だろう。そのガラスの靴はついさっき妹紅が坩堝で焼き上げたばかりだ。あいつの作るガラス細工は絶品だぞ。高温で一気に焼きあげるから深みのある澄んだ透明が実現するんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の住を妹紅に預けて生きている。坩堝に珪砂とソーダ灰、フェニックスの尾をブチ込んで、うっかり私が『三種の神器 淫』で叩き割った窓ガラスを一から補修してくれる妹紅には、正直頭が上がらない日々である。
「お姉さまと一個ずつしようかなあ」
「それがいい。フランドールとお揃いならレミリアもきっと喜ぶぞ」
血を好み破壊を成す吸血鬼。世間知らずの悪魔の妹。だが少女はきっと誰よりも優しく出来ているのだ。
「水と夢、そして優しさこそが我らの生に色をもたらす。問おう。フランドール、これ以上の必需品がお前の人生に存在するか?」
あろう筈がない。世間知らずとはいえフランドールは聡い子だ。聞かずとも答えは分かっている。あえて聞いたのは少女の自覚を促す為である。
「優しい音声ガイダンス」
「な、なに……!?」
だというのに不意打ちが返ってきた。
「……お前の人生にはガイドボイスが付いているのか」
ご冗談を。貴族とはいえ、それはイージーモードが過ぎるだろう。
「うん」
「えっ!?」
「えっ!?」
肯定される。マジか。それも姉が操った運命なのか。
「ど、どんな声がするんだ……?」
もしや幻聴ではありませんかと恐る恐る聞いてみる。
「えっとね、朝起きた時とか聞こえるの。今から歯を磨きましょうとか、スカートをはきましょうとかって。咲夜の裏声みたいな音声ガイダンスが」
「咲夜の裏声だ、それは!」
あのメイドどんだけ甘やかせば気が済むんだ。というか着替えを覗いてるのか……?
「えー? でもたまに興奮気味の魔女みたいなボイスも出るよ?」
「それも役得に狂喜して図書館から走ってきたパチュリーの声だ……」
「うーん……そうかな」
うんうん唸って首を捻るフランドール。ダメだあの館は。幼女を甘やかすことに命を懸けるメイドがいる限り、紅魔館の幼女は堕落まっしぐらだ。
「全く……今度私から言ってやる。もう少し子供の自主性を尊重しろとな。お前も今日から自分の意思で歯を磨くんだ」
尤も咲夜といえば、おはようからおやすみまで幼女の暮らしを見守り、邪魔する者があればその者の人生におやすみをプレゼントする本物である。言って聞くタマでもないのだが。
「さて、咲夜の説得は今夜一晩じっくり対策を練るとして、最後はこいし、お前だ。こいしには栄えあるノーベル解脱賞を進呈しよう」
「げだつ?」
翼とコードにぐるぐる巻きにされたまま小首を傾げるこいし。
「うむ。大悟徹底、悟道到達。意識に融着する自我の滅尽こそが、輪廻の軛の超越となる。鉄壁のタータンチェックを突破するお前の無意識、この歴史喰いがしかと記憶に受け取った。ライトグリーンの勲章を胸に、どうかこれからもアグレッシブなスニーキングをよろしく頼む」
武運長久を祈ります、と『童女とは盲目なりや』と書き刻まれた扇を贈呈する。
「心眼失明こそが涅槃開眼の捷路とは、世の宗教家も盲点だったことだろうよ。その無垢な頓悟で、なんとかお燐も救い出してやって欲しい」
『足の遅いチーター』の異名をとるポパイのことだ、おそらくペニオクの終了時間には間に合わなかっただろう。六桁の金額で競り落とされた原価七十円のココナッツサブレの存在が露見すれば、流石にさとりのお説教は免れ得ない。
「これは副賞だ。これを着てさとりの心を癒し、正座で痺れたお燐の猫足を開放してやってくれ」
恭しくサンタクロースの衣装を手渡した。
「スカート短いね」
「可愛いだろう。その服はついさっき妹紅が鳳翼天翔で焼き上げたばかりの不審者のスタイルを元に仕立てたものだ。弾幕によるセント・ニコラウスのアフロは絶品だぞ。高温で焼きあげるから表面はカリッとしてるのに中はフワフワなんだ」
家事全般を少々苦手とする私は、衣食住の衣を妹紅に預けて生きている。母性本能溢れる妹紅は、冬ともなれば夜なべして手袋や露出度の高いコスを作ってくれるのだ。
「それを着ていればサンタとザリガニの違いも理解できるだろう。さとりもお前の帰還に納得してくれる筈だ」
信じて送り出した愛する妹がミニスカサンタの衣装で帰ってきた。健康なシスコンにとってこれ以上の朗報はあるまい。
「え? 私が着るの?」
「他に誰が着るんだ」
「お姉ちゃん」
「やれやれ。お前は姉心がわかってな……」
いや待て。大人しいさとりのサンタコス。それはそれで珠玉のご褒美だ。
「よろしい。これも持っていけ」
後で妹紅に着せて楽しもうと隠し持っていた、もう一着のコスチュームを進呈する。
「そして姉妹揃って着用の上、今年のクリスマスには是非とも我が家にご来訪頂きたい」
丈の短いスカートに頬を赤らめ、恥ずかしさを噛み殺すようにもじもじとプレゼントを配る姉のさとり。必死にスカートを押さえるさとりの後をちょこちょこと付いて回っては、プレゼントをザリガニとすり替える妹のこいし。赤と白の衣装に身を包み、ひらひらと雪に舞う姉妹は正に地底の天使たち。朝起きたら靴下にザリガニが入っているという約束されたナイトメアを差し引いたとしても、極上のメリークリスマスの爆誕である。
「ケーキと春菊♪」
「寿限無とチキン♪」
「真っ赤なお鼻のひよこ豆♪」
聖夜の妄想に心が躍る。こいしの歌う謎のクリスマスソングに合わせて腰を振り、勢い余って玉座の角に尻をしたたかに打ち付けた。
「ぉぉぉ……」
「馬鹿じゃないの」
悶絶する私に浴びせられる冷たいぬえの声。ごもっともな呟きに抗弁の余地もない。涙を堪え、尻をさすりながら弱々しく笑顔を作る。
「い、今のは無意識だ。無意識のダンスは醜態には含まれない。そうだろう? こいし」
「真っ赤なお尻のダメ教師♪」
こいしは二番を歌っていた。
「ぐう……ま、まあ兎も角、表彰はこれで終いだ。皆それぞれの賞に溺れず、これからも弛まぬ努力を重ねてほしい」
しっかりな、という頷きを、おまえがしっかりしろという眼差しに臆さず繰り返す。教壇に立つ者には相応の肝の太さも求められるのだ。月齢や発情期に応じてキモけーねとさえ称される私の肝は、相当に太く逞しい。
「それじゃあホームルームも終わりにしよう。本当は校歌でも高らかに歌い上げて別れの挨拶としたいところだが、生憎寺子屋にそんなものはないからな」
かつて眠れぬ夜など使い校歌作成に挑んだこともあったのだが、歌詞の三割が卑語で占められるという出来栄えに目眩を覚えてからというもの、私はミューズの嘲笑にそっぽを向いて生きているのだ。
「そして最後の最後。お前たちに聞きたいことがある」
「……またあ?」
「授業はおしまいって言ったのに」
子供たちから不満気な声が上がる。だが撤回はできない。これが本日最終にして、最も大切な問いなのだから。
「すまない。今日はいろいろ問題を出したからな。皆疲れたと思う。だが一つだけ答えてほしい。一言でいい。お前たちにとって、そして私にとっても、何よりも大事なことなのだから」
ぬえ。こいし。フランドール。口をとがらせ、歌いながら、覗きこむようにこちらを見る三者三様の少女たちに、決して目を逸らさず問いかける。年甲斐もない緊張。不甲斐なくも跳ねる心臓。まるでこちらが少女のようだと笑いたくなる気持ちを抑えて、どうか答えをと希った。
「寺子屋は、楽しかったか?」
伝えたかったものは知識ではなく、倫理でもない。たった一つ心に決めた抱負の行方を、気付けば縋るように求めていた。
「……」
答えはない。歌も止まった。子供たちは不思議そうに私を見ている。……無理もない。教師とは綱紀を一に信奉する者だ。どれだけ笑い、戯けようともその本質は規律と教養の拡声器。子供たちとは立場の違う大人なのだ。その大人が最後に一つと縋りつく切望が、規範や歴史とは無関係の歓びだという。呆れ返り、言葉を失ったとて責められはしない。……だというのに子供たちは。
「……まあね、そりゃこんな先生なら」
「森林セラピーの次くらいには」
「うん、楽しかったよ」
赤面、破顔、歓呼の声。三様の反応は全て私の期待を越えて、今日という日を受け入れてくれていた。
「そ、そうか……そうか」
不覚にも声が詰まる。思えば人の子の絶えた寺子屋に、チルノや小傘たちが来てくれた時もこんな感情を味わっている。
「それは良かった。……本当に」
……成長していないな、私は。
「先生泣いてる?」
「どこか痛いの?」
「ば、馬鹿を言うな。……これはハクタク汁だ。ガラナとほうじ茶を絶妙にブレンドした文科省公認の興奮剤だ」
「……もう少し健全に強がってよ」
涙など零さない。そんなもの人代の昔時を喰らううち疾うに底まで枯れ果てた。そう見えたとすれば、それは子供たち自身の優しさがそう錯覚させたのだ。だから一日の終わり、別れの言葉は決まっていた。
「ありがとう三人とも。お前たちが来てくれて、本当に嬉しかったよ」
また来てくれとは言わない。再開は少女が自ら望むべきであり、私の願いなど彼女らにとうに筒抜けだろう。願わくば三人揃って、いつか寺子屋の仲間に加われるようにと、心の中に幸せな景色を浮かべる。今はそれだけでよかった。
「うんっ」
「ん」
「んー」
少女にはそれぞれ家庭がある。他人の目があり、過去がある。自由といえば、寺子屋の教師なんて稼業で食っている私の半分もないのかもしれない。だがそれでも家族に愛され、今この瞬間笑ってくれた彼女たちなら、再び寺子屋に集まる願いも決して夢物語に終わりはしないと、私はそう信じている。
「元気でな。スマホでも何でもいい。連絡をとり合って、三人の輪は繋いでおけよ」
適度な休憩と給水所、そして孫に近い年頃の少女の笑顔があれば、ポパイはどこまでも走っていける。少女愛をこじらせた白髪交じりのスプリンターに想いを託し、どうか今日生まれた新たな絆を永久のものにしてほしい。ぬえ、こいし、フランドールの顔を見つめて、最後に一度頷いた。
「よし、それじゃあとりあえず……解くか」
永久の絆の前に物理的結合を果たした少女たちの羽の結び目。そのままでは家にも帰れまいと、わきわきと十指を開閉してにじり寄った。
「ガニィー」
「がああ」
ザリガニ再誕。
「痛い!」
「変態」
「そのままじゃ帰れないだろ!」
「かえれる」
「何処にだ!」
某教義の体現の如く、少女らは正に三位一体。それぞれの家路につくには無理がある。
「今日はフランちゃんちにお泊りする」
「パジャマパーティー」
「寿限無とチキン」
「なにぃ、まさか繋がったままでか……?」
いつの間にそんな楽しげな企画を。
「いや待て、それはまさかお風呂も……」
「一緒」
「ベッドも……」
「一緒」
「おお……」
ヘブン? そこはヘブンなの?
「先生も行く!」
「紅魔館に変態さんは入れません」
「何故だ!? 門番の軍曹なら説得する自信はあるぞ!?」
「変態さんはもう間に合ってます」
「ああ、そうか……そうだな」
なんという説得力。幼女を核に集う紅魔の精鋭たちは、各々がオンリーワンを誇る変態どもだ。歪んだ性癖の見本市のような窓の少ない館に私などが飛び込めば、そのレベルの違いに打ちのめされてしまうだろう。里の寺子屋などでぬくぬくと生きてきた私と違い、紅魔館の変態どもは幻想郷の外で体格に恵まれた世界の強豪と張り合ってきた抜き身の剣。結界の中に身を置く今も、その刃は錆びることなく研ぎ澄まされているのだ。
「それじゃ仕方ないな……。分かった、行ってこい。それとフランドール、後で軍曹に玉座とワインを取りに来るよう伝えてくれ」
紅魔館は変態と淑女の完全同期を実現したパーフェクトスクウェアだ。こいしもぬえも歓待を受けこそすれ、危険な目に合うことはないだろう。
「楽しむといい。命蓮寺と地霊殿には私から連絡しておこう」
佳き日を、とLTE端末を取り出して三人を促した。草履をつっかけ、寺子屋の門まで見送る。
「……じゃ」
「バイバイ」
「ガニィー」
ひら、と手を振るぬえ。にっこりと笑うフランドール。威嚇を続けながらも帽子を振ってぴょこぴょこ飛び跳ねるこいし。
「仲良くな」
こちらも手を振り返し、三人を送り出した。
「……ふふ。全く、見た目通りの子供たちだよ、お前らは」
緩む口元を無理やり引き締め首を振る。
「おっと、忘れないうちに伝えてやらないとな」
手の中の端末に気づき、さとりと村紗に連絡をとる。心は軽い。寺子屋で友達が出来ましたと、そう教えてやれるのだから。
「まずは地霊殿に、と……うむ。流石はレーザータイガーエヴォリューション。快適だな……ん?」
門に近づいてくる人影。
「やあ、どうじゃね慧音先生? 良ければ今日はこの南国生まれのファニーボーイの……」
性懲りもなくアルフォンソマンゴーの体積を求めんと、最高のタイミングで寺子屋の門を叩いた里長の頬を掠め、黄金のへにょりレーザーが端末から飛び出していく。ホストサーバである星の宝塔を目指すレーザー。レーザー回避の目測を誤り、精度の低いチョン避けで通りすがりのマッチョの胸に吸い込まれていく里長・菊池モンゴメリ。通話可能を知らせる電子音と、年老いたノンケの絶叫が往来に響き渡った。ふははん。自業自得である。門を閉め、気分良く保護者に幼女の外泊を告げる。
『肉体的に結ばれたお宅のお子さんは、窓の少ない建物にお泊りするので今日は帰りません』
熱心に言葉を尽くせば尽くすほどお怒りを買った初夏の夕暮れ。即決で求聞史紀に採用された『歴史喰いの半獣改め、初物喰いの淫獣』という識者とやらのご注進。誤解と撤回を訴えるも夏コミの準備で忙しいと聞く耳持たない阿求の説得を早々に断念した私は、一八世紀の放蕩貴族にあやかって満月の晩に黒歴史を完食し、事無きを得た。
『理解がないなら歴史を食べればいいじゃない』
先人に学び奉謝する。それこそが歴史であると僅かな矜持を言の葉に乗せて、くの字に折れた扇子で小さく涼を取る。
『童女とは天使なりや』
真に然りと、深く静かに頷いた。
芳香ちゃんの名前をまちがえるのは、めっ!
Ex三人娘は世の男どもに「お兄ちゃん」と話しかけては独身がためこんだ預金通帳の数字を目減りさせるのに適したかわいい容姿をしているけれど、年齢的には人間の男にたいして「坊や」と呼ぶのが正しいわけで是非とも子供扱いされてされるがままのちょっと早い介護生活を送るのにふさわしい女の子だね。
真剣に話を始めたかと思えばいきなり落としてきたりして、クツクツと笑ってしまいました。
フルスイングで空振りして、ストライクコールの
アンパイアにそのままの勢いで殴りかかるような、
そんなハイテンションをありがとう。
慧音先生のハチミツ課外授業、私も一緒に受講したいですね。
しかしよくこんな空恐ろしいテンションでこの長さの物語を書けた物だと
ぬえ可愛い。
面白かった!
とても面白かったです。
でもハロウィンの時の慧音はどこにいったんだ!
面白かったです! あとこいしがかわいくて何よりです。
里長とか沢田さんの存在に圧倒されます
沢田ポパイ(59)の存在感に圧倒されましたw
しかしそれでも三人娘は可愛い、という。
あいかわらず幼女がじつに幼女可愛くてGOODでした
なのになぜ私はこれほどさわやかな読後感を味わっているのだろうか……
顔を歪ませながら読み進めていましたが、ビューティサロン・イベリコ豚の部分に差しかかった瞬間、私は敗北しました
隣の女の子の視線が痛かったです
しかし、社会的信用と引き換えに私は名状しがたき読了感を得ることができました
何もかもが素晴らしかったです
幼女愛に満ち満ちた素晴らしい世界。
豊富な言い回しと語彙力に圧倒されっぱなしでした。
圧倒的な存在感を放つ里長と沢田ポパイ氏のことは忘れられそうにありません。
うれしすぎるわー。 ここまで完成度の高い文章は売り物でも中々ないですよ。
面白かったですが、羊羹はお茶うけ程度に食べるのがいいなと思いました。
一から読みなおしてそれだけではないちゃんとしたお話、大好きです。
今作も面白かったです。独特のギャグはもちろん好きですが、話自体の展開の上手さにとてもひきつけられます。
この幻想郷が大好きです。
やっぱりあなたの書く幻想郷が大好きだ。
みんないいキャラしすぎでしょう...w
久しぶりに声だして笑いました。面白かったです!
あ、ところで鈴仙ファンだという長には寺子屋裏で話つけますんで、ええ。
今回も一呼吸ごとに笑わせていただきました。
キャラも可愛いし、慧音先生は救いようが無いし、突発で出てきたのに妙な印象を残すオリキャラもなんかアレだし。
また、また次の作品を、心待ちにしてますわ!!
この切れ味!頭いいのが伝わってくるのに
最高に頭悪いこの切れ味が最高なんだ!
さりげなく阿求大活躍。
三人娘に対するけーねのツッコミが最高
なかなか笑わせてもらいました。皆かわいいよ。
どうでもいいけど流石の博麗さんでも体術では聖には敵わないのが面白かったです。