1
それが私だといったい誰が決めたのだろう。
線引きしたのは誰だろう。
その一線が、その境界が、私を私にしてしまう。
――このよくわからないカタチが。
白い肢体が、薄紫の髪の毛が、十本の指先が、つつましやかな胸が、のっぺりとした無表情のはりついた顔が、私というもののカタチだった。
縁日のお店にこっそりと小さなお面をかけたことがある。
それは、たぶん私の欠片であり、小さな不安をあらわしたものであったが、誰もそれが私であるとは気づかなかった。
逆に、私が往来を歩いていると、お面を洋服の中にこっそり隠していても私は私であると認識された。
つまり、私はこのカタチであって、お面ではなかった。
どうして、そう定められたのだろう。
「つまり、あなたは心を持つことが怖いのかしら?」と、古明地さとりは訊いた。
「わからぬ」
秦こころは簡潔に答えた。
正直なところ、こころの心はさとりであっても読みにくい。
本体がお面だからというわけでもないだろうが、瞬時にマスカレイドされていって感情が変化する。
感情は心の色合いのようなもの。
もちろん、さとり妖怪が感得する感情は人間が外形的に観察する感情よりもさらに緻密で機械的な数値だ。
ただ、普通であれば感情には揺れ幅のようなものがあり、そこには脈絡がある。
例えば人間が哀しくなって涙を流すときも、その前に泣きそうな段階があったり、感情が急変するときも一瞬の溜めがあったりするのが普通だ。
感情は飛翔することもあるが、基本的には飛翔の前のジャンプの溜めのようなものが存在する。
しかし、いま目の前にいるこころという少女のカタチをした妖怪は、一言で言って溜めにあたるものがない。
これは飛翔ではなく、ワープ。
感情が瞬間移動しているようなもので、心自体を見失う。
ただ、なんとなくの予想はついた。
これはさとりが心理のゆくえを追う経験値が単純に高いためである。
「それで、あなたはいったいなぜこんなところに来たのかしら?」
「こいしに拉致られた」
「あの子ったら……」
厄介ごとを押しつけてと小声でさとりはつぶやいた。
まさしくそのとおりであった。
さとりがいつものように小さな躰に不釣り合いな大きな机でデスクワークをやっていると、なんのきなしに……、そう無意識的にドアのほうに視線をやると、スッとそのドアが開いて、そこにこころが立っていたのだ。
若干の困惑の心をもって。
だが、完全な無表情のままで。
さとりは当然、こいしの姿を追ったが、なぜかこいし自体は見つからなかった。
こころの心を追えば、どうしてこういう経緯に至ったのか少しだけわかった。
こいしはこころに興味を持ち、そして心が読める姉に会わせてみたいと思ったのだろう。
おそらくは、なぜか縁日のお面売り場にこっそりと自分のお面をのせているこころを見つけて、
どうしてそんな『無意識的な』行動をするのか気になって、興味をもって、わくわくして、ドキドキして、あるいはキャーとか黄色い声をあげつつ、お持ち帰りしたに違いない。
だったら、すぐに姿を見せてもいいはずなのだが、こいしにはもとより脈絡なんてものはありえない。
だから、さとりのもとまで連れて行って、それで何か他のものに興味がでて、どこかに行ってしまったのではないだろうか。
さとりとしては、こんな見も知らぬ、今日会ったばかりのこころのことなんか放っておいても、たいして問題はなかったのだが、
――なんとなく
そう、なんとなく気になった。
少しだけ、こいしと相似形。
だから、放っておけなかったのかもしれない。
それもまた無意識の領分であり、さとりには窺い知ることのできないところだ。
「あなたは自分がどうしてお面を縁日のお面のなかにまぎれこませたのか、自分自身でわかっていない?」
「うーん。確信がほしかったからでしょうか?」
「疑問符をつけてるわね。それにしてもあなたの心はひどく読みにくいわ」
「それは誠に申し訳ない」
たじたじ。
「怒ってるわけではないわよ。むしろ……、そうね、あなたをどうにかしてあげたいと思いはじめているのかも」
「どうにか、したい。それはもしやいたいけな少女をいじめるという鬼畜仕様なのでは!」
ぺちり。
さとりは第三の目のコードを伸ばして、こころの頭を軽く小突いた。
「おおう鬼畜仕様」
「こいしの影響なのか、会話がふわふわ浮いているわね。ご迷惑をおかけしましたと謝るべきなのかしら」
さとりは小さく溜息をつき、それからまた机に体重を預けた。
それにしてもこの放っておけない感覚は、生まれたての幼児をあやすような感覚といえるだろうか。
こいしも同じようなものだ。
あの子の場合は、自分で自分の成長を止めているような節もあるが……。
「そこに座ったらどうかしら? 立ちっぱなしもつかれるでしょう」
「かたじけない」
赤いサイドアームがついた椅子にちょこんと座るこころ。
さとりはまるで面接をしているような気分になる。
「で? お面をつけたのは何かの確信を得たいがためだったわね。なんの確信かしら?」
「私の起源はお面だ」
「面霊気なのだから当然ね」
「だから、お面が無くなれば、私は私ではなくなる」
「自殺でもしたかったのかしら」
「違う!」怒りのお面。「むしろ逆だ」
「生きたかった?」
「そうそう♪」
わかってもらえてうれしいらしい。
せわしない子である。
「生きたかったから、自分の一部を手放そうとしたって、意味がわからないわ。どれ……少し見てみましょうか。ふむふむ」
こころの心は――
無数の感情を選び出そうとしているようであり、
無数のお面がそれぞれ呼応しているようだった。
いくつもあるお面とそれに付随する心が、主格となるこころに固着することにより意思が形成される。
見る、と。
深い闇を覗いているようだった。
だが、いくつかの光明が見える。
「端的に言えば、心は星のようなものよ」と、さとりは言う。
「よくわからぬ」
「わからなくて当然。ただの印象論なのだから」
「印象論?」
「なんとなく感じたまま述べているだけ」
「感情の赴くままにか。わかる。わかるぞ!」
「少し違うような気もするけど、まあいいわ」
「わかってもらえてうれしい」
「ともかく、あなたの心を見ると、完全な闇ではなく、いくつかの光明が見える。星があるということは心があるということ」
「星が無いということは心がないということ?」
「そうではないわ」
そうではないと思いたいが、正確だった。
こいしにも心がないということになってしまうから。
「またたかない星もまたあるでしょう」
「そうかなー?」
こころはわからない様子だったが、わからないなりに考えているようだった。
「ともかくあなたには心が在る。そう私には観察できる。問題はあなた自身が漠然と感じている不安のほうね」
「不安なんてない。我は不死身ぞ!」
「不安なのは、お面が無くなればどうなるかというより、その躰があなたなのかどうかということかしら」
「うーん? というより、なんとなく?」
「なんとなくだと、無意識の領分ということになって、私ではどうしようもないこと。どちらかというと私の妹になんとかしてもらったほうが解決しやすい」
「こいしは、かわいければどうでもいいんじゃないかなって言ってた」
「ふむ、確かにかわいさは七難隠すといいますが……」
「もしかして、この躰かわいいのか?」
顎に手を当てて、無表情のまま熟考するこころ。
「そうですね。あなたの躰はともかくとして、あなたの心のカタチは幼女のそれですね。かわいらしいですよ」
「なん……だと?」
「そうです。あなたの場合、『躰は少女、心は幼女』ですよ」
「困った困った!」
「特に困りませんし、どうやらあなたには保護者らしき方がたくさんいらっしゃるようですので問題ないでしょう。いつその方たちがこちらに来るかとひやひやするレベルです」
「ひゃっこい?」
「ちょっと意味が違う気がしますが……、ごほん。脱線しましたね。ともかく、あなたが感じてる不安というのは、実はお面のほうのことではなくてその躰のことではないかしら」
「うーん?」
「心が定まっていないわね。これではわたしが見たところで意味はない」
「わからないからこころみるのだろう?」
「そうね。それは正しい。私は他人の心が見えるから、こころみる必要がない。だから時々わからないことがあれば、どうしようもなくなってしまうのだけど、あなたは試行錯誤したいのね?」
こいしもそうだった。
あるいは、こいしはそうしようとしているようにさとりには見えた。
試行錯誤。
生きようとしてもがいているように見えた。
逃避ではなく闘争である。
こいしは誰かと会話したかったのだ。
「あなたの心はわかりにくい。だから、あなたとは会話ができるような気がするわ」
「半目隠し状態なのか?」
「そう、それに近い」
「印象論?」
「そう、印象論」
「どうやらかわいいらしい私の躰を目隠し触手プレイする気だな!」
「しません!」
「ちなみにこいしにはされた……」
「ちょ」
閑話休題。
2
ロールシャッハテスト。箱庭テスト。ソンディ検査。絵画欲求不満検査。
どんな方法を用いても、心の存在を証明することはできないよね?
つまるところ
「こころなんてありそうでないよね?」
と、こいしは言った。
突然の帰還に驚くと同時に、さとりは周りを見渡してみる。
先ほどまで会話をしていた少女の姿を探す。
いくつかの試験をした。
いくつかの質問をした。
その結果、どうしても曖昧な部分がでてしまい、さとりの能力ではどうしようもなかった。
こころに心があるのは見えるから自明である。
しかし、その意思決定のタイミングが見えない。
意識の発生は超新星の爆発のようなものか。
「それは違う。それは違うよ。お姉ちゃん。意識は確かに爆発するけど、見えないところでも活動しているの。この星だって爆発なんかしてないけど、奥底では熱いマグマで煮えたぎっているでしょう?」
そうかもしれない。
さとりは、ふと横に視線をやった。
そこには柔らかなソファの上に身を横たえて眠るこころの姿があった。
いつのまにか夜中になっていて、いつのまにか眠っていたらしい。
「会話をしていて眠っていたの? ありえない」
「そうでもないよ。ほんのちょっとだけ、お姉ちゃんは意識の外側に視線をやっただけ。だから、お姉ちゃんではその膨大なデータを解釈しきれなくなったんじゃないかな」
「ふむ」さとりは少しの間考え「それはそうと、こいし、帰ってきたなら、ちゃんと」
「ん? ああ、ただいまお姉ちゃん」
「おかえりなさい。こいし」
「地上は楽しかったかしら」
「とても。お姉ちゃんにも見せてあげたかったよ」
「私はよいのです」
「お姉ちゃんは基本的に瞳を閉じているからね」
「閉じてるのはあなたのほうでしょう?」
「本当にそう思う?」
こいしの言葉は意味不明なことが多い。
しかし、今日のこいしは一段と迫力があるようだ。
「お姉ちゃんは忘れているんだよ」
何を?
「お姉ちゃんは昔はもっと闘っていたんだよ?」
誰と。
「私と」
そんなはずはない。
「本当に?」
だって、こいしは私の妹で。
「いつから錯覚していた?」
え?
「古明地こいしは108人いるぞ」
ええええ?!
3
想起――古明地さとりの世界――
古明地さとりの仕事は「閻魔庁地底支部地霊殿」の公務員で毎日遅くとも夜八時までには帰宅する。
たばこは吸わない。
酒はたしなむ程度。
夜十一時には床につき必ず八時間は睡眠をとるようにしている。
――ってこれなんですか?
想起だけど?
しかし、私にはこんな記憶ありませんが。
本当にお姉ちゃんってわすれんぼさんだね?
……。
古明地さとりはその日も夜の十一時になり就寝した。
そして、パチリと目を覚ます。
ぴったりと午前零時になって。
なぜなら、さとりは覚りであり、覚りは心をシェアしているからだ。
覚り妖怪とはその躰が主格として保存されているとともに、その目を通じて心をシェアすることができる。
脳みそが二つあるようなものだ。
だから、主格が眠れば、他の主格がその躰をシェアリングできるのである。
さとりが目を覚ました理由も、そのためだった。
この躰はいま、どこぞの覚り妖怪がひとりの躰では足りないワークを成し遂げるために使われようとしているのである。
さとりの意識はないが、ここは躰に着目してさとりという主格を使おう。
さとりは、むくりと起き上った。
そして手慣れた手つきで、服を着込むと、ドアを開けて、静かにでていく。
さとり以外の、たとえば古明地こいしも同じようにシェアされることはあるが、彼女のほうは今日は元気にはしゃぎまわり、その躰は疲れ果てているから、
いわゆるビジー状態となって、シェアリングができない状態だったのだろう。
さとりの向かった先は、村のはずれにある墓地だった。
そこではすでに幾人もの覚りが集まっていた。みんな手にスコップやらクワやらを持ち、地面に穴を掘っていた。
そういえば、老いた覚りの躰が先日動かなくなったのだった。さとりは主格の中の二割程度の思考で、そのように思い出す。
だから、その躰を廃棄するために、いま動いている。
スコップで穴を掘る。
小さな躰ではたいした深さも掘れないが、いくつもの躰が一体となって動くから、時間はそんなにかからなかった。
さとりは動かなくなった屍体の足先を持つ、この躰は既に参入できなくなったものである。
だが、どうしてだろう。
穴に落ちていく屍体を見ながら、さとりはその思考の数パーセントを使い、自分も屍体になりたいと考えていた。
朝、起きると、さとりは自分の家に帰っていた。当然である。覚りの不文律として躰は元の場所に帰しておくということがあげられる。
主格はあくまで躰にあり、シェアリングできる瞳によるネットワークはあくまでも補助的なものであるからだ。
しかし――、
さとりは爪先に土が挟まっているのを見て、限りない不快感を覚えた。
「お姉ちゃん」
「どうしたのです?」
「どうして怒ってるの?」
「怒ってなんていませんよ」
さとりは主格の感情を押し殺し、瞳の感情を前面に押し出す。
心の中の大きな部分を押し出せば、小さな心を覗きみることは覚り妖怪であっても難しい。
といっても、それはこいしが幼いからこそごまかしきれた部分も大きいだろう。
こいしは半分くらいは自分で考えていない。
などというと、まるで⑨のようだが、真実である。
こいしはまだ半分くらいは自分の躰で考えず、瞳のネットワークに代替してもらうことによって生存しているのである。
その日から、さとりはこいしをほんの少し遠ざけた。
どうしてかわかる?
「自分の躰が欲しかったから?」と、さとりは答えた。
そう、さとりは自分だけの専用の躰が欲しかった。
自分という存在が他者に侵されることなく、完全な状態で保持されたかった。
そのためにはネットワークにつながる瞳は邪魔だった。
覚りの第三の瞳は優秀で、主格である躰が起きていようが寝ていようが常時接続である。
ずっと寝ていればよいという問題ではないのは先ほどの墓の一件からも明らかだ。
どうすれば、完全な私の……、私だけの躰が得られるのだろう。
それは恋多き少年がかわいらしいひとりの女の子を独占したい気持ちに似ていた。
――私の躰を得る。
それがさとりの至上命題になった。
しかし、考えるまでもないことであるが、ネットワークから切断されることは覚りの世界においては非常に難しい。
覚りのネットワークはさとりが生まれる前にはすでにその原型ができあがっていて、その遺伝子にしたがって、少しずつ進化を重ねてきたものであるからだ。
生まれる前から存在する『前提』を突き崩すことは今のさとりの能力では難しい。
さとりではネットワークそのものを破壊することはほとんど不可能だ。それに別に他の覚りがどうなろうとさほどの興味はない。覚りのネットワークを壊してしまおうとか、そういう気持ちは一切なかった。
できれば放っておいて欲しいという、ただそれだけの想いしかなかった。
けれど、この覚りの王国では、それすらも難しいことなのである。
それでも、自分を得たい場合はどうすればよいか。
今の幼いさとりにできることは、ひとまずできる限り夜更かしすることに他ならなかった。
主格である躰が起きている限り、ネットワークの接続は極限まで制限される。
接続の可能性はあるものの、たえずビジーであれば、その可能性もなくなる。
さとりの目元には青白い隈ができ、目元は誰かを呪い殺しそうなほどに鋭くなった。
こいしはいぶかしむ。
「どうしたのお姉ちゃん。どうしてそんなに夜更かしするの」
「少し仕事があるのよ」
「公務員がサービス残業なんてありえないよ。お姉ちゃん」
「世の中を知らない子ですね。公務員だろうがなんだろうがサービス残業はあります」
「でも、ちょっとは眠らないと、躰に悪いよ」
「躰に悪い?」
さとりは口元をゆがませた。
「それは好都合だわ」
「なにがなんだかわからないよ」
「わからなくて結構よ」
「どうして?」
「なぜ、こいしはどうしてなんて聞くのかしら。私の心を読めば一目瞭然のはずでしょう?」
「え、わからない。どうして? お姉ちゃんの心がわからないよ」
「それはおかしいですね。もしかして瞳に不具合でもあるのかしら」
さとりはゆっくりとした歩調で、こいしに近づき、第三の瞳を手にとった。
ながめすがめつする。
こいしは第三の瞳が不意に握りつぶされるのではないかと思った。
しかし、さとりは風船から手を離すように、ふわりとこいしを放った。
「お姉ちゃんは少し忙しいの。わかったわね? こいし」
「わかったよ……。お姉ちゃん」
たとえ眠らないように気をつけていても、限界はある。
妖怪の躰は丈夫ではあるが、不死系の妖怪とは違い、眠りを必要とする。
数か月もする頃には、さとりは気絶するように眠りに落ちていることがあった。
そのたびに、いくつかの思考の残滓が第三の瞳にデータとして蓄積されている。
ぼーっとする躰を起こし、なんとはなしに鏡を覗いてみると、
頬に糊のようにてらてらと光るものがあった。
何かがこびりついたような跡。
細い爪先でこすってみると、ぱりぱりとした感覚とともに零れ落ちた。
さとりは怒りが一周して、逆に血の気が引いた。
思考を追い、何に使われたのかをトレースする。
長い命題達成の試行錯誤の中で、他の思考というものを追うことは既に可能になっている。
――思いっきりお餅を食べたかったなんて、バカですか。
まあ、そういうこともあった。
どうやらお腹も膨れているらしいし、悪くないが、少々胃が痛い。
あまりの痛さに、その痛みをシェアして分散しようと考えたほどだ。
だが、しない。
さとりのさとりとしての矜持がそれを許さない。
私は私でありたいのだから。
意識が低いとか、意識が高いという言葉を聞いたことがあるだろうか。
さとりが同僚から最近言われたことは、このところさとりの仕事が遅く、効率が悪く、だらだらとしているように見えて、それが意識が低いということらしかった。
意識が低いとは、文字通り意識レベルが低いということではない。
ここでいう意識とは、共感する心や配慮する心であり、つまりは他人を慮る能力のことをいうのである。
したがって、『意識が低い』とは『他人を思いやる心が少ない』ということを意味している。
なんてくだらない表現だろう。
さとりは抑えきれないほどの呪詛を心の中に展開したが、それも躰のなかにおさめて、表面上は瞳の心として共感の意を展開していた。
この世界の大多数にとって、他人を思いやることは良いことだとされている。
しかし、本当にそうだろうか。
その『他人』というのは大方の場合、発言しているその人であって、『意識が低い』=『他人を思いやれ』とは、実のところ『私をもっと思いやれ』ということに他ならないのではないだろうか。
――私をアイしなさいという強迫にすぎないのではないだろうか。
愛することは本当に良いことなのか、さとりは疑問に思っていた。
そうやって、共感し、配慮し、他人の身になって考えてみても、結局、それは私を損なうだけではないか。
もちろん、それが我儘とされていることを知っているし、世の中の大多数にとっては、愛することが良いとされているが、しかし、その愛することが良いとされていることそのものが私を殺していく。
私はただ私でいたいだけ。
それがそんなに悪いことなのだろうか。
4
さとりはこいしの想起の世界から帰還する。
そして、少しだけこいしの心に触れた気がして嬉しかった。
「こいし、私の考えを述べますと、確かに誰かの心に侵犯されるのはあまり心地よい気分ではありませんね」
「でしょでしょ?」
「しかし、私としては繋がるといった感覚も捨てがたいと思うのですよ。だから、あなたはあの想起の世界で設定した私が、私の心のありようだと思っているのならば、私という存在を誤解しています」
「そうかな。つながるのが好きなら、もっと無意識の世界に目を向けてもいいのに」
「無意識の世界に目を向けるってどうすればいいんです」
「あはは。そうだったね。お姉ちゃんは瞳を閉じてるからできないんだった」
「瞳を閉じてるのはあなたのほうでしょう?」
「違うよ。お姉ちゃん。私が言ってるのは」
――無意識の瞳のほう。
こいしは有意識とも呼べる第三の瞳を閉じた。
それと相対するように、無意識の瞳を開いた。
さとりは有意識とも呼べる第三の瞳を開いている。
それと相対するように、無意識の瞳を閉じている。
そう言いたいのだろうか。
こいしは再び想起の世界を展開した。
さとりは無意識の世界にひきずりこまれる感覚がして不気味さを禁じ得なかった。
5
さとりの王国で、さとりがさとりだけの躰を得たのは、それから五百と十四年の月日が流れてのことだった。
方法は単純だ。
一度死ねばよい。
覚りの瞳はもとよりその身体的機構として心を受容し、シェアする能力が備わっている。
たとえ、瞳を閉じてネットワークから切れたところで、それは異常自体であるから、他の覚りにすぐ気づかれてしまう。
瞳を壊せば?
そうすれば、確かにネットワークからはずれることができるだろう。
ただし、さとりはさとりの躰を得たいのであって、自分の躰を、独占したいと思える躰を傷つけるつもりはなかった。
そもそもあまり強くもない覚りが覚りの王国の外で生きていける見込みは少ない。
そうだとすれば、方法は限られていた。
ネットワークを騙す。
覚りの瞳は断続的にアクセスしてくるから、そのアクセスを完全に遮断することは不可能だ。
しかし、屍体であれば、そのネットワークからははずれることができる。
ここで問題となるのは、死んだままでいることはできないということだ。当然だろう。他の覚りからすれば、ネットワークからはずれた屍体が好き勝手生きているようなものなのだ。
だから、死ぬのは一瞬。
そのアクセスが完全に無い状態で、誤情報を絶えず送る器質情報を刻みこむ。
私はビジー状態です、と。
常に、そういうふうに嘘の情報を送るのだ。
その日、さとりは自分の部屋で仮死状態になるクスリを一気に飲み干した。
瞳に対する改造は、死亡直後のブート処理で自動的に行われるようセットした。
数時間ののち、さとりは目を覚まし、これ以上ない爽快感でゆっくりとのびをした。
すばらしい目覚め。
新しい朝が来た。希望の朝だ!
こころおどる。
希望の朝!
「お姉ちゃんおはよう」
「おはようこいし」
「ん。お姉ちゃん。今日はなにか嬉しそうだけど、なにかあったの?」
「特に何もないの。ただ、気持ちの良い目覚めを迎えただけよ」
「ふうん。そうなんだ。よかった」
「え?」
「お姉ちゃんが嬉しそうでよかった」
「そう、ありがとう」
さとりはこいしの頭を優しく撫でた。
そうすると、こいしは少し不思議そうな表情になる。
「どうしたの? こいし」
「なにか優しいなーって思って」
「そうかしら。余裕がでたのかしらね」
「余裕?」
「自分が余裕があって、はじめて他人に優しくできるのよ」
「いままで余裕がなかったの?」
「そうね。いままでの私は忙しかったから」
「忙しくなくなるの?」
「そうね。これからはこいしといっしょにいる時間も長くなるわ」
「そうなんだ」
嬉しそうにこいしは笑った。
さとりはこいしの心が読めなくなったわけではないし、他の覚りもさとりの心が読めなくなったわけではない。
ただ、さとりは自分の心を嘘の情報で隠ぺいすることが可能になっただけのことだ。
それで?
それでどうなったか?
わかるでしょう、お姉ちゃん。
「排斥された」
はい正解。
覚り妖怪にとって、覚りの瞳によるシェアリングは公共財の分配に他ならなかったの。
だから、他の覚り妖怪にとって、さとりの行動は裏切りにほかならなかった。
許容できるものではなかった。
放っておいてくれ、なんて虫のいい主張が通るわけもなかったの。
覚り妖怪たちは、ある日群れを成し、どこかの大きな倉庫のようなところにさとりを連れ出して、
棒切れで、その躰を滅多打ちにした。
当然のことながら、第三の瞳も原型をとどめないほどにぐちゃぐちゃにつぶされ、痛みで朦朧する意識のなか、
その呪いを、誰かに伝播したかった。
そして定まることのない視線で、誰でもいいから、ターゲットを探す。
「死ね!」
ぐちゃぐちゃに引き裂かれた思考で、ただ一念、その想いをシェアしようとする。
「ぐひゅ」
そいつは喉のあたりを押さえて絶命した。
妹だった。
さとりはめまいを覚え、自分の手が震えていることを自覚する。
なぜ。
なぜここにこいしがいるのか。
棒切れをもった暴漢どものなかに、こいしの姿があるのか。
さとりのなかの冷静な部分が、簡単に答えをはじきだす。
こいしがリークしたからじゃないだろうか。
物言わぬ骸になってしまった今となっては、真実は永久にわからない。
それに、もはやどちらでもよかった。
うなるような音をあげて、棍棒がさとりの頭蓋にたたきおとされる。
それで終わりだった。
めでたし。めでたし。
6
「毎回思うのですが、全然めでたくないです……」
「そうかな。裏切りはよくないよ仲よくしようという素敵に思いやりあふれるお話だったじゃない」
「ともかくあなたの言いたいことも少しはわかりました。想起の世界での私はこいし、あなたのことだったのですね?」
「うーん。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」
「違うのですか?」
「だって、私は無意識を信じているのよ?」
「無意識、すなわちネットワークの世界を信じているのですか?」
「そうそう♪」
ちょっとだけこころの物真似をしているらしい。
「では、あなたは心なんて要らないと、そういいたいのですか?」
「そうかなぁ……」
「それもまた違うのですか」
「たぶん」
「煮え切らないですね」
「お姉ちゃん。私の心なんてたいしたことないんだよ」
こいしはいつものとおり微笑を浮かべている。
だって、と続いた。
だって、私には命を懸けてまで主張したい思想もなければ、想いもなくて、ほんのちょっとだけ放っておいてほしくて、あまり関係性はもたなくてもよくて、ただ、見たいものを見たいときに見て、そして、ちょっと、だけ。
そう、ほんのちょっとだけ共感してほしいなってときに共感してもらえればいいの。
自由に、恋したいだけなの。
自由に、そうだね、ほんのちょっとだけ、文字数にすれば140文字程度もあれば十分かな。
それくらいで、『私』はいいんだよ?
「お姉ちゃんは!」さとりは無意識に絶叫に近い声を出していた。お姉ちゃんは、もっともっとこいしと会話したいです」
こいしはびっくりしていた。
「ふやー。びっくりしたー。急に大声出さないでよ」
「すみません。ほんのちょっとだけ叫びたい気分だったので」
「べつにいいけどね」
「私はこいしのことが心配なんですよ」
「どうして、私はこんなに強いのに」
「いえ。あなたの想起は矛盾していますよ」
「そうかしら?」
「そうです。あなたは無意識を信望しているといいながら、その実、その無意識を嫌悪しているじゃないですか。あなたはひとりになりたくないといいながら、ひとりになりたかったりするじゃないですか」
「そうだね」
こいしは素直にうなずいた。
透徹した微笑は、これ以上なくはかなげで、いつ消え去ってもおかしくないほどに存在感が無かった。
結局、こいしもまた有意識と無意識の中を漂う存在なのだろう。
世の大多数がそうであるように。
ただ、自分であることにそれほど頓着がないのは、こいしの個性とも呼べるものだった。
「お姉ちゃん。私、外の世界に行ってみたことがあるの」
こいしは楽しそうに、また別の話題を持ち出し始める。
7
そこでは、人間たちはスタンドアロンのマシンじゃなくてね、ネットワークにつながれたブラウザなんだよ。
人間がマシン? ブラウザ?
そう。人間はだんだんブラウザ化していってるの。少しずつ自分なんてどうでもよくなっていってるの。
あなたはどうしたいんですか。マシンになりたいのですか。それともブラウザになりたいのですか?
迷ってるの。
だから、こころみたかった?
そう、結局スタートがどちら側かってだけで、目指す場所はいっしょなのかもしれないね。
有意識は無意識を無意識は有意識を目指すのでしょうか。
きっとそうだよ。それが私の愛なんだ。
前半は分かりやすかったのに、後半はもう何が何やら。もしかすると前半さえ理解してないのかも。
それでも楽しめてはいるんだからよくわかんないなあ。
そんな現代の人間達には心が無いように見えてしまいますね。うん、納得。
さとこいは良かったけど、こころちゃんが蚊帳の外にされてるのがちょっとなー。
けどこころちゃんの寝顔は見てみたいな...
みたいな感じでしょうか。理解できてないかもしれませんが。
そそわでは珍しいタイプのお話で楽しめました。
あと、こころちゃんマジ天使。
こころを捨ててみんなで「ハーモニー」。あるいは、人の心をネットの向こうに移してしまえばよい。
そうするメリットも理解できよう筈が無い
ただ、妖怪ならば、人間のエゴによって生み出され、その通りに生きる妖怪こそ
私を手に入れているのかもしれない
せっかく登場させたのだからもうすこし後半にこころちゃんが絡んでいればなー と思いました
こころが完全に前座なのが寂しいですな。