「あの灯が見えますか?」
神子が言った。
「ええ。とてもよく」
白蓮が答えた。
それは、ある七夕の夜のこと。
※
時は、一週間ほど前に遡る。
なんとはなしに人里にフラリと来ては、そこいらの人々の話を聞く。なんとはなしにブラリとその辺の店に入っては、甘味や食事などに舌鼓を打ちつつ、店主や客たちと語らう。仙人――――豊聡耳神子は、今日も今日とて、そんないつも通りの行動原理で以って人里にいた。ちょうどお昼を過ぎた刻限。いわゆる、おやつタイム、とやらに合わせての行動であった。ちなみに今日のお目当ては、とある団子屋である。
「店主、お団子を四本お願いします」
神子は店の軒先に並べられた長椅子の一つに腰掛け、年配の店主に声をかける。
「はーいよ」
と愛想の良い返事を返して去っていく店主を見送り、神子はぼんやりと辺りを見回した。
店は空いていた。外の長椅子は空席をいくつも残しており、店内でも団子を待つ客の姿は一人か二人程度。往来を行く人々は皆、先に進むことに夢中で、団子屋で羽を休める余裕もないようである。
「……みんな忙しそうねぇ」
惚けた声でそう漏らしながら、神子はそれでも、たまにはこういう日もいいだろう、なんて思っていた。店の経営状態的にはどうかと思うが、一人でのんびりと団子を食べるのだって悪くはない。
「お待ちどーう」
「ありがとうございます」
店主の持ってきた団子と茶を受け取ると、神子はまず茶で一服。じんわりとした温かさで芯から心が満たされたのを確認してから、次にようやく本命の団子の串に手を伸ばす。
「さて、では早速いただきましょうか」
にへ、と自然に顔が緩むのを感じながら、神子は早速一つ、団子を口に放り込んだ。
「……おいひい」
そう。美味しいのである。ここの団子は、傲慢なのを承知で言って、聖徳太子のお墨付きを与えられるほどの美味しさなのだった。
この店に最初に来た時は最悪だった。あの時は余計な邪魔が入ったせいで、都合四本ほど頼んだ団子の内、実際は一本ほどしか食べられなかったのだ。今日ここに来たのは、ある意味、それのリベンジだという側面もあり、故にこそ、神子の満足感もひとしおなのだった。
「っと、いけないいけない」
せっかくの幸せなひと時だ。わざわざ嫌な思い出で台無しにすることはあるまい。そう考えて、神子は新たな団子を口の中に放り込んだ。
「うーむ、やっぱりおいひい……」
頬に手を当てて、感無量といった体で呟く神子。甘さが心を溶かしていく。やはりモノを食べるというのは、こうでなくては。自由で、静かで、豊かで。そう、救われてなきゃダメなんだ。
難しい理屈をこねくり回さずとも、自分を捨てて人に捧げずとも、ただの甘味一つで人を幸せにできる。こういう些細なものこそが、真の救いなのかもしれなかった。
そうして、神子は団子の持つ可能性と全能性に心打たれつつ、新たな救いを得ようと、団子をもう一つ口中に放り込んだ。
それと同時。
「あら、太子様ではありませんか」
ささやかな救いを切り裂くようにして、そんな声がかけられた。
「んぐう!?」
それを聞いて神子は、口に入れたばかりの団子を思わず飲み込んでしまう。だってそれは、今の神子にとって、一番聞きたくない声でもあったから。
「ぐっ、はっ――――」
案の定、団子は喉に詰まった。呼吸が乱れる。息が止まる。胸を叩きながら、神子は上半身を弓なりに折って呻いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
突然の事態に、焦った様子の声が被る。それに前後して、神子の背に触れる感触もある。
「しっかり、しっかりしてください!」
慈愛に満ちた、心地よく柔らかな声。儚さと芯の強さが同居した、女性の声。その響きは苦しみに喘ぐ意識の中であっても、まるで一筋の剣閃の如き鋭さで神子の耳を貫いた。
ああ、この声はきっと。
すべてをかき消すような、どれだけ強烈な光の中でも。すべてを飲み込むような、どれだけ静かな闇の中でも。そして、死に瀕した瀬戸際のまさにその瞬間であっても、必ず神子の耳に届いて、離さないであろう。
そう、神子はその声の主を知っていた。
「――――」
神子はその名を呼ぼうとして顔を上げ、しかし声を出せなかった。
その代わり、顔が見えた。よく知った顔が、近くに見えた。微かに潤んだ瞳で、心配そうにこちらをのぞきこんでいるのが分かる。それと同時に、慈しみに満ちたその近さは、神子の心を抉る記憶を否応なしに想起する。
「――――――――」
神子は視界がぼやけるのを感じた。まずい。本格的に意識も朦朧としてきた。一四〇〇年の眠りの結末がこれとは、屠自古や布都や青娥が聞いたらどう思うだろう。呆れるか、怒るか、案外馬鹿にしてくれた方が気が楽かもしれない。
「いけない!」
近くにあった顔が、滲むように離れた。最後の瞬間にそれを見ていられないのは、少し残念な気がした。
それに続いて、背中に触れていた手も離れる。柔らかな感触が遠ざかるのを、神子は名残惜しく思った。
だが、次の瞬間。
「失礼します!」
そんな声と共に背中に凄まじい衝撃を喰らって、神子は完璧に意識を刈り取られていた。
※
「―――さま」
声が聞こえた。
「――――し様!」
神子を呼ぶ、声が聞こえた。
「――――太子様!」
それは、いつも神子が浴びていた声と同じようで。いつも聞こえていた声と同じようで。しかし、どこかが少し違う声だった。縋りつくようでいて、なのに救おうともしているようで。そんな、歯がゆさを感じさせる声だった。
「太子様!起きてください!」
未だまぶたを開けずとも、その声からは今にも泣き出しそうな彼女の顔が、神子にはありありと想像できた。自分が関わると彼女は、いつもそんな顔をしているような気がする。そうするのは本意ではないのに、何故かそうなってしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、少し強くやりすぎました、ごめんなさい」
なにを落ち込んでいるのです。君程度の攻撃で、私が倒せるとでも思ったの?自惚れるもはなはだしいわね。濁った意識の中で、ぼんやりと幾つかの言葉が浮かぶ。
でも、本当に言いたいのは多分、そんな言葉ではなくて。
ただ。
そう。ただ、笑いなさい、と。
花のように美しく。蝶のように可憐に。その名のように咲いて、笑いなさいと。
なぜなら自分は、そんな君の笑顔こそが――――
とそこまで思考が至りそうになったところで、
「いいんですかっ!?このまま起きないと、人工呼吸しちゃいますよ!?ちゅーしちゃいますよ!?こんな人目の多い場所で、みんなに見られちゃいますよ!?」
「――――ッ!!??」
とんでもない彼女の一言に、神子はバネ仕掛けのように起き上がった。
「な、なにを言っているんですか君はッ!?」
眠気をすっ飛ばして急速に覚醒する意識と共に、神子は声の主に向き直った。危ないところだった。あともう少しで、神子の評判に甚大なダメージが加わっていたかもしれない。
「た、太子様!ご無事で!」
「ええ、そりゃあ、無事ですよ。無事ですとも……」
でもそれよりも。もう一つの無意識のイメージが形になって、言葉になっていたかもしれない方が、神子にはよっぽど恐ろしかった。あのタイミングで目覚めていなかったらと思うとゾッとする。だからそれを忘れさせてくれる背中の痛みが、今はだけ少しありがたかった。
「あつつつ……」
いや、ありがたくない。勢いつけて起き上がったせいで、結構普通に痛いぞこれ。神子が苦い顔でそんなことを思っていると、
「だ、大丈夫ですか!?」
まるで掴みかかるような勢いで、その元凶が神子の両肩を握ってきた。
「どこが痛むのですか?意識ははっきりなさっていますか?喉は平気ですか?苦しくはありませんか?」
「いだいいだいいだい!」
ガクガクと揺らされながら、神子は肩と背中の痛みに思わず絶叫する。いやほんと、なんて馬鹿力なんだこの僧侶は。
「私は大丈夫ですから!平気ですから!むしろ今が痛いですから!は、離しなさいってば、聖ぃ!」
「あああ、これは失礼いたしました太子様!」
「うわっ!?」
ぱっ、と突然手が離されて、神子は派手にすっ転びそうになった。だが、そんな情けない姿を彼女に見せたくなかったので、全身全霊をかけてなんとか体勢を立て直す。
「――――っとと」
ようやく落ち着いたところで目に入ってきたのは、今まで神子を揺さぶっていた両手を胸の前で合わせながら、心配そうにこちらを見る聖白蓮の姿だった。声だけはずっと聞いていたのに、その姿をきちんと認識するのにずいぶんな時間がかかった気がする。
「まったく、起き抜けにいきなりこれとは、君は余程私に恨みがあるようね?」
そして、開口一番神子の口をついて出たのは、先程の夢現の中で抱いたイメージ通りの言葉だった。そう、これが神子と彼女の当たり前であり、断じて笑って欲しいとかそんなことは考えていなかったのだ。
「う、恨みなんてありません!」
心外な、という調子で答える白蓮。
「なんですか、人が心配していたというのにその物言い。やはり太子様は、心が芯から歪んでいるのではありませんか?」
「ふむ。それはそうかもしれませんね」
だって、と神子は意地悪な笑みを浮かべた。
「先程、意識を失うほどに思いっきり背中を打たれましたからね。背骨が無事だとは考えづらいですから」
「うぐ……いや、だって、喉になにかを詰まらせた時は、背中を叩くのが良いと昔から言うではありませんか……」
どこか拗ねたような響きで、白蓮が言い訳じみた言葉を漏らす。
「昏倒させろ、というのは、私はあいにく聞いたことがありませんが」
「ええと、それは、その。私もちょっと動転してしまいまして、力の加減を誤ったというかなんというか……」
「ちょっと、ですか。意識を失った時点で、かなり、だと思うのですけど」
「うっ……うぐぐぐぐ……」
ついには言葉を亡くす白蓮であった。
しかし彼女は少し潤んだ目で、それでも神子の方をしっかり見つめて離さない。神子もそれに応えるように、腕組みをして見返す。言葉のない二人の間を、ただ視線と視線だけが交錯して、火花を散らした。うむ。これでいい。こうでなくては。
やがて二人は、どちらからともなく視線を外した。神子としても期待通りの満足感は一時のもので、ずっと続けるほどには心が躍らなかったのだった。
「――――はぁ。どうしてこうなってしまうのかしら」
すっ、と神子の隣に座りながら、白蓮がなにか言った気がした。しかし神子は、なにも聞こえなかったと自分に言い聞かせた。
「店主、お茶をください。できるだけ熱いのを」
「はーいよ」
気分を切り替えるためにそんな注文を投げかけて、神子は昏倒させられる前の行動に戻ろうとした。茶の熱さで気分をリセットして、ここの団子の甘さによる癒しを受ければ、心も元に戻るだろうと思ったのである。
そうした考えの下、次に神子は、食べかけだった団子を探すことにした。最初に頼んだ四本の内、一本すら完食する前に昏倒させられたのだ。捨て置くには勿体無さすぎる量が残っているはずである。
実際、団子は三本と二つほど残っていた。いたのだが――――
「…………」
それは、とんでもないところにあった。神子が寝かされた時に位置をずらされたのだろう。団子の皿は、今神子が座っている長椅子の端に追いやられていた。もっと詳しくいうと、白蓮を挟んでちょうど神子と対称にあたる位置である。
まずいことになった、と神子は静かに唸る。わざわざ立って取りに行くのも露骨すぎて変だし、かといって白蓮に、取ってくれ、と言うのもなんだか憚られた。行儀の悪さを気にせずに寝転がればギリギリ届きそうだが、これもまた白蓮が巨大な壁となって立ち塞がっている。
と、
「――――――――」
一瞬脳裏に、白蓮の膝にダイブする自分の像が浮かんで、神子はそれを慌てて掻き消した。さすがにない。ありえない選択肢である。
しかし、あまりにもじっと団子を見続けていたせいだろう。
「あら?」
神子の視線に気づいた白蓮は、首を傾げながらその先を追い、団子の姿を認めていた。
「あ、ごめんなさい。太子様を寝かせるために、端に寄せてしまっていましたね。はい、どうぞ」
邪気のない笑顔で、白蓮が団子の皿を差し出してきた。神子が反射的にそれを受け取ってしまったら、今度は置き去りにされた湯飲みもこちらに運んでくる。
「どうも――――」
素直に感謝するのも恥ずかしくて、神子はぶっきらぼうにそう言った。白蓮との間にわずかな隙間を空けて、そこに団子の皿を下ろす。
「いえいえ」
白蓮は気にした様子もなく、皿の横、神子側に湯飲みを置いた。
「お待ちどーう」
それを待ち構えたかのように、店主が姿を現した。手には神子が頼んだ茶の急須と、もう一つ。湯飲みを持っていた。
湯飲みが、皿の横、白蓮の側に置かれる。次いで、トポポ、と湯気を立てながら、店主の手でそれぞれの湯飲みに注がれていく若草色の液体を、神子と白蓮は二人、沈黙と共に眺めた。
やがて店主が去っていくと、神子は早速、自分の湯飲みに口をつけた。痺れる熱さが口中を襲い、神子は気分が晴れるのを感じた。
「温まりますねぇ……」
同じく茶を飲みながら、白蓮がそんなことを言った。この夏始めの暑さの中にあって、確かに彼女は少しだけひんやりとして見えたので、温まるのは悪くないことだと神子には思えた。
しかしこの団子屋に来たのに、それだけで幸せを感じるのは早計というものだ。
「奢りますから、貴方も食べなさい。私だけが食べるのは座りが悪いし」
白蓮と目を合わせずにそう言って、神子は皿を白蓮の方に寄せた。真正面から勧めるのは舞い上がっているみたいで嫌だったが、この甘美な幸せを知らせず彼女を去らせるのは、もっと嫌な気がしたのだ。
「まあ……ふふ、ありがとうございます」
白蓮は最初驚いたようで、神子と団子を見比べるようにしていたが、最終的には嬉しそうに笑って、そう答えた。
皿に載っている団子は、神子の食べかけのものが一串と、手が付けられていないのが三串だった。神子としては、そういう場合は当然のように新しい方を取るものだと考えていたのだが。
「では、いただきますね」
そう言って白蓮が取ったのは、神子が食べ残した一串であった。そう、あの、神子が喉に詰まらせた団子が刺さっていたのと同じ串である。
「あ――――」
と思わず声を漏らしてしまった神子の視線の先で、白蓮の唇が団子の表面に触れた。どこか妖艶なその雰囲気を直視できなくて、神子は再び目を逸らした。
「あぁ、本当に美味しいですねぇ……」
白蓮の暢気な声が、何故だか妙に耳に絡んだ。ヘッドホンなんて、こういう時になんの意味も果たしやしない。神子は湯飲みを握り締めながら、自分の顔が映った液面をじっと凝視した。若草の色が、少し赤くなっている気がした。
「あ、いけないいけない。私が先に食べてしまいました」
そんな神子の穏やかならざる心中を知る由もない白蓮は、変わらぬ暢気さでそう言って、もう一度神子の眼前に皿を差し出してきた。
「はい、どうぞ」
む、と顔を上げる神子をニコニコと見返しながら、白蓮がそう告げた。彼女のこういうところが、神子は少し苦手だった。
「いただきますっ!」
ひったくるように皿上の一本を取って、神子は同時に二つの団子を口に放り込んだ。一刻も早く甘さで心を治めねば、どうにかなってしまいそうだった。
「今度は詰まらせないでくださいね?」
皿を置きながら、白蓮が悪戯っぽくそう言った。言われなくても、神子はそのつもりだった。あんな無様なヘマ、もう死ぬまでだって二度としない。それは不老不死の身からすれば、永遠にしないのと同義である。
口中に甘さが広がる。じんわりと、優しく広がる。ただ量が増えただけのはずなのに、神子にとってその甘さは、今まで食べたどの団子よりも強いものと感じた。
「ここのお団子、すごく美味しいと評判ですよね」
無言で団子を味わう神子に対して、白蓮は世間話を始めた。
「村紗や一輪がよく買いに来ているみたいで、私もお土産で何度か食べたことがありましたけど、実際にお店で食べたのは初めてでした」
「―――――――」
どうだった?と神子は視線だけで訊ねる。
「もちろん、先程も言ったとおり、とても美味しかったですよ。こう、なんというか。ただ甘いだけじゃなくて、心が洗われるような味で……」
「――――ふむ。それに関しては、少なくとも私と貴方は同志のようね」
ごくり、とようやく団子を飲み込んで、神子は頷いてみせた。自分が作ったものではないが、勧めたものを褒められるのは素直に嬉しいことだ。同じような思いを抱いたならば、尚更である。
「貴方も、もう一本食べなさい。それでちょうどですから」
気分が良くなったので、神子は再び白蓮に団子を勧めた。数的にはちっとも釣り合ってはいないが、なにか理由をつけたほうが彼女も食べやすいだろう、といらぬ配慮をする。
「ふふ。いただきます」
神子の言葉にまた笑って、白蓮が串を取った。その笑みにまるで心中を見透かされているような思いを感じて、神子はまた視線を逸らした。手中の串に残った二つの団子を口に放り込んで、波打ち始めた心の表面を均す。
そうして幸せな空気の下、無言の時間がしばらく流れた。二人なにも言わず、視線も合わせず。ただ横に並んで団子を食べながら、往来を行く人の流れを見続けた。たまにどちらかが茶を飲む、ず、という微かな音だけが、相手がまだそこにいるのを証明していた。
その沈黙を打ち破ったのは、空に高く響く一つの鐘の響きであった。時刻を知らせる鐘。時の鐘の音であった。
「ん?」
それに合わせて往来に起こった変化に、神子は首を傾げた。今までぼんやりと移ろっていた人の流れに、ある一つの方向性が生まれていたのだった。
「なにやら、里の中心へ向かう人の流れができているようだけど、今日はなにかあるのかしら?」
「ああ。それは多分、七夕のお祭りがあるからですよ」
神子の何気ない疑問に答えて、白蓮が続けた。
「なんでも今日は、祭りの縁日で出す屋台の折衝があるようですから。皆さん、逸る気持ちを抑えられないのかもしれません」
怪我などしなければいいのですけど、と白蓮は言葉を結んだ。どういうことかと訊けば、毎年場所取りで揉め事が起こるのだ、という話だった。そうやって見ず知らずの他人を本気で心配できる彼女の精神性は、神子は嫌いではない。
「しかし、七夕、ですか……」
神子がこの幻想郷に復活して、もう三年目ともなる。七夕の祭りも、ちょうど今年が三回目となるのだが、その祭りの性質を神子はまだ完全に理解してはいなかった。
「太子様は、七夕はお嫌いですか?」
「いえ、嫌い、というよりも、分からない、というのが正直なところです」
分からない?と白蓮が首を傾げたのを見て、神子は慌てて次の言葉を継いだ。
「いや、もちろん織姫と彦星の話自体は知っていますよ?あれは道教由来の逸話ですから」
織姫と彦星の二人は、道教の最高神たる天帝の娘夫婦である。それにちなんだ説話を知らないとあっては、仙人失格だ。
「ですよね。少しびっくりしました」
安堵するように胸に手を当てる白蓮を見つつ、神子は己の中の七夕の知識を整理する。
つまるところ、七夕の織姫と彦星というのは、親に別居させられた夫婦の話である。機織を生業としていた天帝の娘――――すなわち織姫は、仕事に熱中する余りに自身の生活や容姿に気を配らなかった。その様を女として哀れに思った天帝は、牽牛を生業とした彦星に嫁がせることで、織姫に幸せを与えてやろうとした。そして結果的に、その目論見は成功する。ただし、あまりの幸せに織姫は機織をやめてしまった。天帝はそれに激怒して、織姫と彦星を川の両岸に離れ離れで住まわせることにした。一年に一度、七月七日だけ会うことを許して。
うん、確かこんな感じの話だったはずだ。では、神子が一体なにに疑問を抱いているのかというと。
「短冊に願い事、というくだりがよく分からないんですよ」
この織姫と彦星の話というのは、大陸においては、針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)という祭りに関連付けられていたようである。そういう意味では、願い事というのもあながち的外れではないのかもしれないが。
「私も専門家ではないので詳しくは知りませんけど……」
神子の疑問にそう前置きしてから、白蓮は話し始めた。
「この国において七夕が定着したのは、奈良時代の頃といわれています。この国に元々あった豊作を祖霊に祈る祭りが、大陸から入ってきた乞巧奠や仏教の影響を受け、その結果、宮中行事として始まったとか」
「ふむ」
最初の頃はどうやら、神子の知っているものと大差がない祭りであったようである。
「しかし江戸時代になって七夕行事が庶民に広がる過程で、乞巧奠の針仕事上達という祈願が芸事全般に置き換えられたようでして。この時同時に、五行や仏教の施餓鬼幡から着想を得て、願いを書くための五色の短冊というものが考案されたようです」
「……ふーん」
仏教、ね。神子は言葉に出さず、心中でそう呟いた。自分で広めておいてなんだが、仏教というものは本当にどこにでも入り込んでいるな、と感心する。嫌な言い方をするなら、根が深い、というヤツだ。
「でもそう考えると、元々の機織女であった織姫とは、もうなんの関係もないわね」
「まあ、確かにそうかもしれません」
でも、と苦笑しながら、白蓮は言った。
「一応、織姫と彦星が出会えるように祈る、という側面も残ってはいるのです。そのために、祭りは六日の夜から七日の朝にかけて行われますし」
「そうだっけ」
あまり興味を持って参加した記憶がないので、神子はその辺を知らなかった。仙人は早寝早起き。つまり、夜は基本的に寝ているのである。
「でも、夜通し行うとなると、それは大変そうですねぇ」
祭りといえば、主に安全面の確保が重視されるが、この幻想郷においては、妖怪相手にそれをどうするか、という対処が加わる分厄介だ。特に夜ならば尚更である。
「まぁ、そちらの方は毎年のことですし、ある程度話はついているのです。妖怪たちは気まぐれですが、規則は結構きちんと守ってくれますし、里にいる限りは安全です」
命名決闘法の例を見ても、それは明らかであった。恐らく、先程白蓮が言っていた、場所を巡る喧嘩の理由も、その辺りが根っこにあるのだろう。
「しかし聖。君は妙に七夕について詳しいね」
いかに仏教行事の影響も含まれているとはいえ、少々知識が深すぎやしないだろうか。江戸、とか言っていたが、彼女もつい最近復活した身のはすなのに、これはどうしたことか。
「それはまあ、私も無関係ではないので」
話が見えなかった。故に神子は、もっと詳しく訊こうと口を開いて。
「えっと、それはどういう――――」
「そうだ!」
突然トーンを上げた白蓮の声に、見事に遮られた。
「太子様。七夕のことについてもっと詳しく知りたいのでしたら、少し歩きませんか?実際の人々の間を巡ってこそ、見えるものがあると思いますし」
「は?いや、ここで座って話せばよい話では――――」
「駄目です!」
間髪いれず、駄目出しされた。
「いくらお団子が美味しいといっても、食べる量には限界がありますし。それなのにいつまでも席を占有したままでは、店の方にも迷惑がかかりますから」
「む」
正論であった――――じゃない!納得してどうする。別に神子は、七夕にそこまで興味があるわけでもないし、なによりこうして白蓮に押し切られて里に繰り出すという形がそもそも気に入らない。
しかし白蓮は、一瞬神子が黙り込んだのをいいことに、とんとん拍子で話を進める。
「では、決まりですね。私はお勘定を払ってきますので、少々お待ちください」
そんなことを言い残して、彼女は風のように店内に入っていった。止める暇もない。
「えぇー」
神子は呆然と立ち尽くす。団子を勧める時、奢る、とか言っておきながら、なんともみっともない状況であった。
「お待たせしました」
やがて白蓮が戻ってきた。財布の中身が余計に減ったというのに、その顔はとても嬉しそうである。
「楽しそうですね……」
しかし恨みがましい目つきで神子がそう言うと、白蓮は、そうですか?、なんて涼しい顔を作って答えてみせた。慎みは美徳だが、この場合にそれは適用されないな、と神子はぼんやり考えた。
「さて、では太子様?」
白蓮が再び笑顔を作って、神子の前に立った。
「準備はよろしいですか?私が、貴方の知らない七夕のことを、全部教えて差し上げます」
「お、お手柔らかにね」
鬼気迫るような白蓮の笑顔に、そんな面白みの欠片もない台詞を吐くしかできない神子であった。
※
結論から言えば、神子の選択は間違っていなかった。
「そもそも、この国における七夕行事というのは、道教の乞巧奠、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)、神道の祖霊信仰が交じり合ってできた行事なのです」
共に歩き出してすぐに、聖は張り切った様子で説明を始めた。
「ですから、いわゆるお盆の行事のさきがけとしての役割を持っているんですね。知っていましたか?願いを書いた短冊をかける笹は、祖先の霊が宿る依り代としての役割があるそうですよ」
「へぇ……」
と頷きながら、神子は並んで歩く白蓮の横顔をチラリと見る。
「つまり、お盆には祖霊が戻ってくる、という考え方がこの国では当たり前ですが、それは七夕の時にすでに始まっているというわけですね」
柔和に話す白蓮は、やはりどこか楽しそうに見えた。どこがどう、とはっきり分かるわけではない。でも、話口が少し浮ついているようだとか、いつもより笑顔の比率が多いとか、何気ない仕草から伝わってくる気配が、神子にそう感じさせているのだった。
「それで貴方たちは、七夕の祭りにも関わってくる、というわけか」
「そういうことです」
神子の言葉に、ふふ、と笑いながら頷いて、白蓮は続けた。
「お盆に行われる仏教行事の一つに、施餓鬼会、というものがあるのですが、これには無縁仏や成仏できていない魂を迎えるための行事という側面もあるのです。ですから、そういった魂の状況を把握しておくためにも、七夕は重要な意味を持っているんですよ」
「ふむ、施餓鬼会。聞いたことのない行事ね」
「太子様が知らないのも無理はありませんよ」
首を傾げる神子をフォローするように、白蓮が言った。
「施餓鬼会が行われ始めたのは鎌倉の頃かららしいですし、私も復活してから知りましたから。そのきっかけだって慧音さんの、人里に早く馴染めるように、という勧めですしね」
「へぇ、そうなの」
慧音、というのはこの人里の守護者をやっている半獣である。妖怪だらけの寺に対する、彼女らしい気遣いだと神子は思った。
しかし発端が慧音だとすると、きっと白蓮は相当に苦労したのではないだろうか。彼女には若干、いやかなりの歴史マニアの気があるので、それこそ七夕関連の手持ちの資料をすべて寄越す、ぐらいのことはやりかねない。
「貴方は本当、勉強熱心ねぇ」
その様を想像し、神子は素直に感心した。実際の行事を執り行うのに関係ない部分まで調べる辺り、白蓮の生来の真面目さが出ていた。全部教えてやる、と豪語しただけのことはある。
「ありがとうございます。太子様にこうしてお教えできたことで、勉強した価値もあったというものです」
神子の言葉に対して、白蓮は冗談めかしてそう答えながら、また笑った。
「大げさな」
と苦笑して、神子も笑った。そうしてお互い笑い合いながら、次に神子は、自分でも思いがけない言葉を発していた。
「じゃあ次は、実際の七夕祭りのことを聞かせてもらおうかしらね」
言ってしまって、その言葉に自分で驚く神子。これは一体どうしたことか。団子屋で誘われた当初、自分は早くこの場を切り上げて帰りたいと思っていたはずなのに。
「――――」
案の定、というかなんというか。白蓮も少し驚いたような顔をしていた。まさか神子からそんなことを言われるとは思っていなかった、とでも言うように。
しかし彼女は、すぐに笑みを浮かべて、こう言った。
「そうですね。じゃあ方々をを回りながら、色々と話しましょうか」
その笑顔は、まさに花の咲くような美しさであった。神子が、思わず見とれてしまうほどに。
それから神子と白蓮は、人里の中を目的もなく歩き回った。
やれ、そこの辺りで去年の祭りに出ていた砂糖菓子が美味しかっただの。やれ、リンゴ飴が美味しかっただの。やれ、金魚すくいが難しかっただの。とりとめのないお祭りの話の一つ一つを、白蓮は楽しそうに話した。神子は、自分の知らない庶民の祭りの話に聞き入りながら、やはりどこか舞い上がっている、と感じていた。
そうした話が途切れると、今度はいつものようにお互いの宗教観の話をしたりもした。大体そういうことを話すと喧嘩じみた感じになってしまうものだったが、今は不思議と穏やかに話すことができた。こういうところも、なにか浮ついているような気配を感じさせた。
でも神子にも、その感覚はなんとなく分かるのだった。こうして話しながら目的もなく人里を歩いていて、お祭りの話をして。それに飽きたら今度は、なんの面白味もなさそうな宗教のことを話題に話していても。それでも神子も、この時間が決して嫌ではなかった。
そう、恐らくこの時間は間違いなく、よいひと時、であったのだろう。そして、もう少しこの時間が続くことを、神子もどこかで望んでいたのかもしれない。
「あら、珍しい組み合わせね」
だから神子は、突然背後から浴びせられたその声に、まるで冷や水を浴びせられたような思いを抱いた。
「道教と仏教が揃って、なんの悪巧みをしているの?」
続いたその言に、神子は渋々と振り返る。神子と同じような感情を抱いたのか、少し戸惑ったような顔で白蓮も振り返った。
「別になにも企んでなどいませんよ、霊夢」
そこにいたのは、幻想郷の調停者たる博麗の巫女。霊夢であった。
「どうだか。なんだか、ずいぶん宗教がかった会話をしていたようじゃない」
彼女は調停者然とした揺るがなさで以って、二人の間にやすやすと割り込んできた。会話を聞かれていた気恥ずかしさよりも反感が勝って、神子はつい険しい口調で答える。
「邪推はやめて欲しいわね。私たちは、今度の七夕祭りについて話していただけよ」
それに便乗するように、白蓮も続けた。
「そうです。神道と道教と仏教が密接に関わっている行事ですから、多少宗教がかった話になるのも道理でしょう」
「ちょ、ちょっとなによ。そんなにムキにならなくても、いつもの軽い挨拶じゃないの」
ややたじろいだ様子で霊夢が答える。それを見て神子は、少々大人気ない態度だったと密かに反省した。
「そういう霊夢は、人里でなにをしているんです?」
この話題を引きずらないことでせめてもの罪滅ぼしとしよう、という心持ちで、神子は強引に話を変えた。
「んー?買い出しに来たのよ、私は」
霊夢はそう答えると、腕組みをして唸ってみせた。
「最近、ウチに一人増えたからねぇ。その分買い出しに出る機会も二倍ってわけなのよ。おかげで家計も大変なことになってきててねぇ」
「あぁ、なるほど……」
白蓮が気の毒そうに頷いた。霊夢の下に増えたその一人に、彼女も心当たりがあるからだ。だが神子の方としては、霊夢の言い分を丸々信じる気にはなれない。
「なにを言っているの。こころは、自分の分ぐらいは舞で稼いでいたでしょう。それがどうして金欠になるのですか」
霊夢の下に居ついた、秦こころ。彼女は、神子が作り出した面が変じた妖怪で、その生まれの経緯からして舞の達人であった。紆余曲折を経て博麗神社に居候することとなった彼女の舞で、霊夢は結構な賽銭を集めていたと、神子は記憶している。
「そりゃまあ、確かにあの時は大盛況だったけどね……」
霊夢は、分かってないのね、とでも言いたげに首を振って、溜め息を吐いた。
「人は飽きる生き物だし、ただでさえ七夕が近いでしょ?みんなそっちの用意に忙しくて、最近はすっかり閑古鳥なのよ」
妖精や妖怪や魔理沙は賽銭を入れないしね、と霊夢は愚痴っぽく締めくくる。
「ふむ。要は、七夕の祭りから博麗神社は切り離されているということなのね」
「そうそう!そうなのよ!」
何気ない神子の言葉に、霊夢が突進するような勢いで近づきながら、そう言ってきた。
「さっきあんたたちが言っていたように、神道だって七夕に関わっているはずなのに、どうしてウチに屋台出そうって人間が一人もいないのよ!」
「いやまあ、それは……」
人間が一人とか二人しかいないからじゃないか、と神子は白蓮と目を見合わせた。さすがに口には出さなかったが、あそこはあまりにも妖怪が多すぎる。
「言いたいことは分かってるわよ、私も」
さすがに自覚があるのか、霊夢が渋い顔をしながら続けた。
「神社は妖怪だらけだから、善良な里の人々が寄り付かない、って言いたいんでしょう?でもそれが言い訳に過ぎないことを、今回の件で学んでしまったのよ私は」
それはつまり、こころの舞で一時的にせよ盛況になったことで、逆に普段の自分の怠けぶりを自覚してしまった、ということだろうか。
「ええと、そういうのを、自業自得、と言うのではありませんか?」
「ぐはあっ!?」
白蓮の容赦の欠片もない正論に、霊夢は胸を押さえながらうずくまった。当人が分かっているのに抉りこむとは、これはもう一種の精神攻撃といえる。
「うわぁ、容赦ないですね君は」
いっそ感心する、と驚きをこめて神子は言った。
「ち、違います!そんなつもりで言ったわけではありません!」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬ」
そうやって言い訳をする白蓮だったが、地の底の餓鬼のごとき視線を向けながら唸る霊夢の姿を見ると、素直に、ごめんなさい言い過ぎました、と頭を下げた。
ふん、とその謝罪を一応は受け入れて立ち上がりながら、霊夢は溜め息交じりに呟いた。
「……はぁ、寺はいいわよね、人里の近くにあって」
あんだけ妖怪まみれなのに受け入れられてるし、と追加で愚痴るのも忘れない霊夢だった。
「ふむ」
面白い着眼点だな、と神子は一人頷いた。いかに妖怪と人の共存を掲げているとはいえ、確かに命蓮寺は明らかな妖怪寺だった。もっといえば、住職たる白蓮とて人間ではない。なのに命蓮寺は人里で受け入れられて、博麗神社は恐れられる。アンバランスといえばアンバランスな話だった。
「いっそのこと七夕の時期は、里から神社までを屋台で埋め尽くしてくれればいいのに」
神子が一人で考え込むのを他所に、失意の霊夢は、ついにはそんな寝ぼけたことまで口にし始めた。
「いや、あの。七夕の祭りは夜がメインですから、里の外はちょっと……」
「聖、真面目に相手することはありませんよ。霊夢だって分かっているからこそ、こう言って――――」
いるのです、と続けようとして、神子はふとした違和感を覚えた。それと同時に脳内に想起されるのは、先刻の団子屋での会話だ。
あの時白蓮は、屋台の折衝で毎年揉め事が起こる、と言っていた。それはつまり、今の七夕祭りが限界ギリギリの規模で運営されていることを示している。
では、何故場所が空いているのに外に拡大しないのか。簡単だ。大抵の祭りは夜がメインで、なおかつ七夕はその性質上、さらに深夜まで行われる。そんな夜中に人里の外をうろつくことは、基本的に命知らずの馬鹿者がすることだからだ。
ならば、逆に考えてみてはどうか。
「霊夢。ひょっとしたら、貴方は天才かもしれませんね」
「は?なにを言い出すの?」
いきなりの神子の転換に、霊夢が目を白黒させて問うた。その疑問に、神子は一人で頷きながら答える。
「先程の、神社に屋台を出す話です。考えてみれば、たった一つのことをクリアするだけで皆が得をするようになる、ということではありませんか」
「んん?」
話が読めない、という様子で、白蓮と霊夢が目を見合わせる。
「つまりですね」
困惑する二人を見て、神子は得意げに人差し指を立てると、
「妖怪に、夜、里の外で人を襲わないでもらえばよいのです。それも、一晩だけね」
右目でウインクをしてみせながら、そう言ったのだった。
※
即決即断。鉄は熱いうちに打て。思い立ったら即行動。行動の機敏さを奨励し、称える言葉は、この国に幾つもあった。そして神子は、それを真理だと思っていた。もちろん、いくつかの手順や、根回し、機を待つ、というのが必要な場面はある。だが、こと最初の動き出しに関しては、早ければ早いほどいいものだ。
故に神子は白蓮や霊夢を伴い、人里をうろうろとしていたその足で以って、早速、会合の行われていた寺子屋に向かった。
結果は、保留。提案の内容は悪くないが、妖怪を抑える目処が立たないままでは採用はできない、ということであった。
「まあ、そりゃあそうよね」
少し先を行く霊夢が、頭の後ろで両手を組みながら、投げやりにそう言った。
「さすがに、いきなりすぎたのではありませんか?」
横を歩く白蓮が、胸に手を当てて、気の毒そうに言った。
「いきなりでいいのですよ」
だが神子は、あっけらかんとそう答えた。往来を流しながら、手に持った笏の裏面ををぽちぽちと叩く。そこには、神子の使う仙術を統括する一種のデバイス画面が表示されていた。いつもは使うことがないが、精密な移動や仙界の管理などには必須のアイテムであった。
今、そこに表示されているのは、とある場所の座標であった。いや、正確には、表示されるはずなのは、か。
「やはり――――」
神子は、画面に踊るエラーの文字に目をやり、にやりと笑った。そこには本来、博麗神社の座標が表示されているべきなのだった。そういう風に、神子が設定したのだから。
博麗神社は幻想郷の要で、博麗の巫女という楽園の調停者がいるにも関わらず、空間的セキュリティはザルも同然だったと神子は記憶している。だがどうしてか、今はそこへ直接空間を繋げることができない。ならば、そこには――――
「待っている、ということでしょうね」
神子は一人頷くと、デバイスを消して笏を仕舞いこんだ。
これでいいのだ。こうして相手の目に留まるように、あえて急ぎで動いたのだ。人里での急激な変化を、彼女は――――楽園の〝管理者″は望まないだろうから。
「二人とも、次は博麗神社に行きますよ」
神子はそう言うと、おもむろに仙術ゲートを開いてみせた。直通はできないが、近くまでならなんとか移動はできる。充分な時間短縮にはなるだろう。
「は?なんなのよ唐突に」
「私もお話が読めないのですが……」
困惑の声を上げる二人に、神子は悪戯っぽい笑みを浮かべて、答える。
「簡単な話です。妖怪のことは妖怪の賢者に話すのが一番、ということですよ」
「んんん?」
なおも首を傾げる二人の背中をぐいぐい押しながら、神子は続けた。
「ほらほら。あまり待たせるのは礼儀知らずですよ。通った通った」
そして三人は揃って、仙術で生み出された門の中へ入っていった。
※
「ようこそ。そしてお帰りなさい」
博麗神社へ着いた神子と白蓮、そして帰ってきた霊夢を迎えたのは、そんな涼しげな声であった。顔は見えない。彼女はこちらに背を向けており、大きな日傘と大きく広がった黄金の髪が、その姿を酷く不明瞭なものにしていた。
「なんであんたがここにいるのよ、紫?」
その不明瞭さを補正するように、まずは調停者たる霊夢が動いた。ずかずかと無遠慮に進んで、紫と呼ばれた人物の向こうに回りこむ。
「私は呼ばれただけですわ。ここに来たのは、ただの気まぐれ」
「どっちなのよ、それ」
腰に手を当ててうんざりしたように呟く霊夢に、紫はころころと笑った。
「さて」
ひとしきり笑うと、次に紫は、ゆるりとした動作で神子たちの側に振り向いた。傘の装飾が揺れ、金の髪が揺れる。しかしその輪郭と世界の境目は、先程までよりもどこかはっきりして見えた。
とはいえ、彼女も一筋縄でいく存在ではない。
「なかなかのお手前ね。まさか、霊夢を同伴させるなんて」
白々しくそう言う彼女の口元は、右手に握られた扇子によって覆い隠されていた。ついに振り向いても、これでは彼女の表情を完全に掴むことはできない。扇子の上部から覗く目は笑っているようにも見えたが、その歪みがかえって、不気味な印象を神子に与えていた。
「こうでもしなければ、話を聞いてももらえないでしょうから」
内心の動揺を抑えて、神子は不敵に笑った。
「お初にお目にかかります。妖怪の賢者――――八雲紫」
「こちらこそ、いつも見ていたわ。聖徳太子――――豊聡耳神子」
そう。彼女こそ、幻想郷のもう一つの要。霊夢と対を為す、幻想郷の管理者であった。
そうやってお互いの名乗りを済ませ、とりあえずの会談の格好が整ったところで。
「それで、いかがですか?」
前後一切の情報を挟まずに、神子はそう切り出した。彼女は、いつも見ていた、と言ったのだ。ならば、訊ねるのは答えだけでいいはず。
「そうね」
紫は、なんのこと、とは訊き返さなかった。最初からすべて知っていたように、思案に入った。神子の予想が当たったということだ。
「私個人としては、一晩ぐらいなら構わないと思うけれどね」
でも、と言って、紫は扇子をパチンと閉じた。瑞々しさと毒々しさを湛えた妖艶な口元が露わになる。笑みに歪んだような目元とは対照的に、その唇には感情の色が微塵も浮かんでいなかった。
彼女はそんなアンバランスな表情のまま、スッと扇子を持った手を伸ばすと。
「貴方は、どう思っているのかしら?」
迷いなく線を引くような動きで以って、こちらを指し示した。否、指しているのは神子ではない。その横にいる――――
「私、ですか?」
白蓮であった。彼女は突然話題の渦中に放り込まれて、戸惑ったような様子をみせた。
「妖怪というものは、そのあり方の中に人間相手のリアクションというルーチンが存在している。どれだけ弱くとも、どれだけ結果がしょうもなくとも、この基本ロジックは変わらない」
目元にだけ笑みを浮かべた不気味な表情のままで、紫が続ける。
「妖怪の保護と救済を掲げる貴方は、このロジックをたった一晩とはいえ破壊することに、なにも思うところはないのかしら?それは言い換えれば、七夕の一晩だけ妖怪という存在が消滅することでもあると思うけれど?」
「詭弁だ。たった一晩で、その存在の在り様が変じるはずが――――」
「私は、聖白蓮、貴方に訊いているのです」
思わず神子が反論しようとしたのを遮って、紫が冷徹に言葉を紡いだ。それはただの音であるはずなのに、不思議な威圧感で神子の動きを妨げる。それでようやく、神子は気づく。今、ひょっとして自分は、無意識の内に前に出て、白蓮を庇おうとしていた?
思いがけない自分の行動に、今度は別の意味で硬直する神子と対照をなして。
「そうですね」
と、今度は白蓮が前に出ながら答えた。
「でも、祭りの気配――――つまりハレの気は、神に捧げられるものです。そして妖怪たちは、人の思い次第で神にも魔にも変じる存在。ならば、充分に周知を行った上で祭りの範囲を広げることは、むしろ畏れと共にハレの気を受けて、妖怪たちにもプラスになると思います」
ハレとケ。非日常と日常の境界。それは、妖怪と神の間に引かれた境界を曖昧にするための武器にもなりえる。つまり、妖怪が消滅するのではない。むしろ、より力をつける結果になるのではないか。
「ふふふ」
白蓮の物言いに、今度こそ紫は笑った。扇子で口元を隠すこともなく、目元と口元のアンバランスもなく。感情の境界を画定して、確かに笑った。
「なるほど。確かに、筋は通っているわ。打ち合わせなしでこれなんて、ホント、羨ましい限りね」
「?」
彼女の笑いどころが分からずに、神子と白蓮は顔を見合わせた。これは、どういうことだ。許可が出たのか?
「あら、気づいていないのね」
顔に浮かんだ笑みの形を一段と濃くして、紫は扇子を動かした。その向かう先は、わずかな真横。神子の位置であった。
「貴方が今やろうとしていること。それって、要するに誰のためなのかしら?」
「誰のため、って――――」
ドクン、と。紫の言葉で鼓動が一際強くなるのを、神子は感じていた。
なんだ、この感情は。胸を押さえてやや俯きながら、神子は自問自答する。だって自分は、皆が幸せになる提案として、これを考えただけなのに。皆が笑う瞬間のために、これを考えただけなのに。なのにどうして、こんなに鼓動が増すのだろう。なのにどうして、顔を上げられないのだろう。
――――なのにどうして、少しだけ顔の熱量が増したような気がするのだろう。
「その辺にしておきなさい」
神子の思考を打ち切ったのは、巫女のそんな声であった。
「あいたっ!?」
続いて響く、紫の情けない声。
神子がようやく顔を上げてみれば、お払い棒を手に持って渋い顔を浮かべている霊夢と、その前で頭を押さえてうずくまっている紫の姿があった。
「なにするのよぅ、霊夢」
「あのね、紫。私だって、そこまで鈍感じゃないのよ?何事にも、突っ込んじゃいけない領域ってものがあるでしょうが」
「だって、私、その境界だって操れるし」
「下世話、っていうのよ、そういうの」
いつの間にか腕組みをしてお説教のような体の霊夢と、痛み故か目に涙を浮かべて情けなく抗弁する紫。そこには、先程までの強大な管理者の威厳はなかった。むしろ管理するはずの側が、見事に調停されていた。
「あのー、紫……さん?」
おずおずと右手を上げて、神子はその、突然出現した不思議空間に割り込んでいく。
「つまりは、ええと。私の提案は、許可、ということでよろしいのでしょうか?」
「ええ、そうね。許可します」
あたた、とまだ頭を押さえながら言って、紫が立ち上がった。
「きちんと後で、書類も作りましょう。妖怪同士の契約の様式で。やるからには半端では気持ちが悪いし、妖怪相手の通告は私が行いましょう」
「そ、そこまでしていただけるのですか?」
思いもかけない親切に、白蓮が驚きの声を上げた。許可する代わりに後は全部お前たちでやれ、と。それぐらい言われるのは当然覚悟していたので、神子も同様に驚いた。
「ふふふ、最初に言ったでしょう?私個人としては、一晩ぐらいなら構わないと思っているって」
それに対して紫は、再び扇子で口元を隠しながら笑った。きちんと声まで聞こえているので、今度はちゃんと笑っているのだと思えて、不気味さは大分薄れていた。
「だから、ね。人間相手に祭りを盛り上げるのは、貴方たちの仕事よ。少しでも霊夢の窮乏を助けられるように、せいぜい頑張ってちょうだい」
「一言余計!」
と霊夢が振り下ろしたお払い棒を、紫はヒラリと横に避けた。
「む」
と口を引き結ぶ霊夢に、じゃあね、と声を残して。八雲紫は、虚空に生まれた漆黒の闇の中へと消えていった。
※
八雲紫からの書類は、翌日に早速届いた。
七夕祭りについて、と題された一枚の書状は、非常に簡潔であった。
曰く、『来る七月六日から七日にかけての夜、幻想郷すべての領域において、人妖あい争うのを禁ず』
しかしその書状の効果は絶大であったようで、神子がそれを慧音に持っていくと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いていた。なんでも、問題なのは内容よりもその紙の質にあったようで、これは妖怪同士が正式な契約を結ぶ時に使用される、霊験あらたかなものなのだそうだ。妖怪相手に霊験を現してどうするのか、と神子は思わないでもなかったが、つまりはそれだけ格の高いものなのだろう。
そうして賢者直々のお墨付きが出たのなら、次は里の民への布告である。妖怪にも悪い話ではない、と啖呵を切ったからには、きちんと里の外にも祭りを広めて彼らに恩恵を与えなければ、ただの不義理となってしまう。こちらの方については、
「広く情報を報せるためには、やはり新聞が有効でありましょうな。結構面白いものですぞ、太子様」
という布都の助言を取り入れて、人里での〝発行″部数トップである文々。新聞を利用することにした。幸いこちらには、神子、白蓮、霊夢と最近話題になった宗教家三人が揃っていたので、射命丸文は二つ返事で請け負ってくれた。もちろん、余計な私見を交えないように、発行前には検閲を行わせてもらったが。
ちなみにその新聞の反応は、上々であった。我先に、と博麗神社までの沿道の屋台はすぐさま埋まったそうだし。境内に至っては、こころの舞が奉納されるという広告を添えていたおかげで、場所の取り合い寸前にまでいったという話であった。もっとも、巷で聞こえているのは、
「あの聖徳王が言うなら安心だろう」
「あの白蓮僧正が言うなら安心だろう」
という声ばかりで、博麗の巫女に拠り所を求める声がほぼ皆無だったのは、皮肉というより他にない。
ともあれ、団子屋での偶然の出会いから動き出した流れは、一度動き出したら止まることを知らず。まさに激流のような激しさで以って、実現へと突き進んでいった。
ちなみにあの日以来、神子は白蓮と会っていない。神子は慧音が行う祭りの裏方仕事を、乗りかかった船だ、とばかりに手伝って忙しかったし。白蓮の方も、神社までの沿道を念のために警備するのだ、とかなんとかで、寺の門下の妖怪や檀家の人々を回っていて忙しかったようだ。
心配性め、だの。余計怖がらせるんじゃない?、だの。神子としては言ってやりたいことがないわけではなかったが、わざわざ言いに行くことはしなかった。自分が忙しかったから、その暇がなかったからそうしただけで、神子としては深い意味のある行動ではない。別に、彼女が頑張っているのに冷や水を浴びせたくなった、とかそういうのではない。断じて。
忙しさは、時を加速させた。気づけば、三日が過ぎ、四日が過ぎ、五日が過ぎ、六日が過ぎ。そして、ついに七日目。
祭りの日が。
七夕の夜が、すぐそこまで来ていた。
※
七月六日。夕刻。
ついに始まった祭りの喧騒の中を、神子は一人寂しく、人里の外れに向かって歩いていた。どうして一人なのかといえば、答えは簡単である。単純に、一緒に歩く人間の算段をつけていなかったのだ。
「うーむ。こうなるとは思ってなかったわねぇ」
方々で上がるハレの声を浴びながら、しかしイマイチ乗り切れない体で、神子はそう呟いた。
そもそもなんでこうなったかと言えば、すべての元凶は慧音であった。最近の忙しさもあって、神子は当然のように祭りの最中も事務仕事をするつもりでいたのだが、いざ当日になって事務所に向かうと。
「ああ、聖徳王。せっかく来ていただいたところ恐縮ですが、今日は私たちでなんとか回しますので、王は是非に祭りの実際をお楽しみください。本来は部外者でありながらここまでの貢献をしてくださったのですから、その結実したものをご自身の目で見ていただきたいのです」
事務を取り仕切っていた慧音に、そんなことを言われたのだった。正直、断りたかった。そんなこと、考えてもいなかったから。だが、慧音のみならず、短い間とはいえ共に仕事をしてきた事務所の皆から、まったく同じ思いのこもった視線を向けられては。
「そ、そうですか。じゃあ、そうしましょうかね」
さすがの神子も、そう答えざるを得なかった。あそこで断ったら、空気が読めないにも程がある故、致し方なかったのだ。
そうやって事務所を追い出された格好の神子は、元々祭りを楽しむという予定を持ち合わせていなかったので、正直途方に暮れた。仕方がないので、慧音に言われた通りに、自分の動きによって実現した里外の祭りを見に行こうとして動き出したのが、ついさっきのこと。実際の成果を見れば、少しは楽しむ気も湧いてくるかな、と思ってのことだった。
「――――――――」
人ごみでごった返す道を行きながら、神子はかすかに己のヘッドホンを撫でた。雑音を遮り、自らの聞きたい音を選別するためのそれは、しかし今日はほとんど役に立っていなかった。
だって、聞こえてくる声は、皆、楽しそうであったから。
通り過ぎていく、男女二人連れの恋人たちも。男衆だけで集まったり女子だけで集まったりと、独り身でありながら、騒々しく姦しい者たちも。長年連れ添って、趣きある風情を醸す老夫婦も。はては、ここを商売時と声を張り上げ、売り上げで鎬を削る屋台の店主たちも。皆が皆、ハレの楽しそうな欲を放っていた。
いや、それだけではない。いつしか人里を離れ、博麗神社へ向かう沿道へと差し掛かっていた神子は、その歩みの途上で人間以外の姿も認めていた。
「いっちゃん、はいこれ」
「焼きそば、って……ちょっと、水蜜。貴方、持ち場はどうしたのよ?」
「いいじゃんいいじゃん。一人より二人のがよく見えるし、むしろ索敵精度は二倍だし。それにせっかくの祭りだよ?これをぶち壊そうなんてヤツ、きっといないって」
「調子いいわね。じゃあせめて、移動しながら食べましょう」
「お行儀悪いんだー、いっちゃん。後で聖に言いつけてやろ」
「そっちも同罪だけどね。一緒に食べるんだし」
そんな会話をしながら、笑顔で人ごみに消えていく舟幽霊と入道使い。彼女たちからも、辺りの人間からのものと同じハレの欲を、神子は感じ取っていた。この空気の下では、神と妖怪どころか、人間と妖怪の境すらあやふやになっているようだった。
「壊れてしまったのかしら」
神子はぼんやりと、そんなことを呟く。ヘッドホンのことではない。自分の耳の、ひいては自分自身のことだ。
欲を聞き、それを力に変えるのが生業であるはずの神子は、しかし今、どうにもその工程を上手く消化できなかった。この場で聞こえる欲の声は一つのはずなのに、どうしてもそれに乗っかることができない。
それはまるで。
今、この世界の中で、自分ひとりだけが取り残されているような感覚だった。
と。
「おお!太子様ではありませんか!」
その感覚を吹き飛ばすような快活な声が、どこからか聞こえてきた。え、と顔を上げる神子の視界の中に、ブンブンと派手に揺れる手が映る。
「布都?」
声からすれば、それは間違いなく物部布都であった。しかし彼女はその小柄さ故に、この人通りの中では姿を認めることはできなかった。
「ったく、なにやってんの、あんたは」
次いで聞こえてきたのは、どこかぶっきらぼうな声だった。よく知った、愛しさすら覚える声。蘇我屠自古の声であった。
その声と同時に、神子の視界で揺れる手がにゅっと高さを増した。恐らく屠自古が布都を抱きかかえたのであろう。往来の人々の頭からわずかな余裕を持って布都の顔がせり出してくるのを、神子は確認する。
突然の動きに、なんだ、と違和感を覚えた人々の波が、自然と布都の視界を辿って割れた。
「おお、良い働きだな屠自古。後で射的の景品をくれてやろう」
「どうせ当たらないわよ。弓とはわけが違うんだし」
その向こうに現れた、予想通りの二人を見て。神子は何故だか、無性に泣きたくなった。ひょっとしたらそれは、ようやくこの場で、自分にだけ向けられた声というものを自覚できたからかもしれなかった。
「二人とも、来ていたんですね」
そんな内心を悟られないようにしながら、神子は平素の体で二人に近づいていった。この二人の前では、太子様、でいる必要がなくとも。それでもやっぱり、カッコ悪いところは見せたくないのだ。
「ふっふっふっ、もちろん来ていましたとも」
屠自古に抱えられたままで腕を組みながら、布都が勝ち誇ったように言った。
「なんでも今回の祭りは前例のないことずくめで、一部では妖怪たちが警備に駆り出されているという話でしたからな。いかに賢者の布告があったとはいえ、奴らは所詮ケダモノよ。いつ暴れださないとも限らぬ。それ故に――――ッ!」
そして布都は、カッ、と目を見開き。バッ、とその両手を広げてみせると。
「それ故我は、監視者としてこの地を回っていたのである!」
最後に、キリッ、と音が聞こえてきそうなほどに不敵な笑顔を浮かべて、派手に大見得を切った。それは彼女のよく好むポーズであったが、今は屠自古に抱えられているため、足が所在なさげにフラフラと動いていて、どうにも締まりがなかった。
「買い食いばっかりしていた輩が、どの口で言うか」
けっ、と馬鹿にするように言って、屠自古が手を離す。急に支えを失った布都は自然の摂理の通りに落下を始めたが。
「うわっ、と、と、と!」
かろうじてバランスを取って着地し、二・三歩を移動したところでなんとか止まった。
「あ、危ないであろうが屠自古!離すなら離すと言わぬか!」
「太子様に見つけてもらう、って役目はもう果たしたでしょ。なのにいつまでも人を使えると思ってるのが、そもそも間違ってんのよ」
「ほほう、そういうことを言うのだな、お主は」
布都は再び腕組みをして、揶揄するようにそんな言葉を投げかける。
「我がせっかく、もっともらしい理由をつけてやったというのにのう。こうしておけば、我が馬鹿なことをしでかさないように、という理由もつけられたのにのう。いやはや、ここまで阿呆の子だったとはのう」
「ちょ、布都、あんた……」
屠自古の顔が、見る見る青ざめていく。いや、元来亡霊は青いものだが、それに輪をかけて、である。
「いやぁ、良かったのう。太子様が最近構ってくれない、お祭りにも誘ってくれない、どっか他の女と仕事してる、だのと仙界の片隅でのたまう可哀想な乙女は、どうやらいなかったようで。これは我が出てくる必要など、微塵もなかったかのう」
「ああああああああああああああ!」
突然叫びだしながら、屠自古が布都の口を塞いだ。もはや若干遅かった気もするが。
「違う違う全然違う!そんなこと言ってないから!空耳だから!ただ多忙だからお身体の心配をしていただけだから!」
そして矢継ぎ早にそう言うなり、屠自古は涙目で神子の方を振り向いた。
「ですからね!分かってますよね!?なにも聞いてませんよね!?」
「え、ええ。心配してくれて、ありがとうございます……」
あまりの剣幕に、こくり、とただ頷くことしかできない神子であった。
と。
「ごうがーいごうがーいごうがーい!清く正しい文々。新聞の号外ですよー!」
頭上からそんな声と共に、幾つかの紙片が撒き散らされた。何気なくそれを取って覗き込むと、どうやら祭りの進行に合わせて配布される、これからの行事のお報せのようだった。
「どれどれ?」
と神子が覗き込んでみると、『第百二十八季文々。新聞号外 まだ間に合う七夕イベント!!』というタイトルの横に、協賛:文々。新聞の文字があった。さすがにあの天狗。ちゃっかりしている。
「なにか面白い記事でもありました?」
布都を羽交い絞めにしたままの姿で、屠自古が横から覗き込んでくる。もがもが、と何事か喚いている布都を放って、そうねぇ、と神子はそれに答えた。
「もう少しで、博麗神社で舞の奉納が始まるわね。最近は閑古鳥だった、って霊夢は言っていたけど、あそこで七夕のイベントが行われるのは今年が初めてだからね。結構、盛り上がるんじゃないかしら」
「ふむふむ」
「――――っぷはああ!それはつまり、面霊気の舞であるな!?」
頷く屠自古の手をようやく引っぺがして、布都が叫んだ。
「太子様のお膳立てした祭りにきちんと貢献するとは、なかなか憎いヤツではないか。どれ、我らも見に行ってやりましょうぞ」
その布都の大声に、辺りからどよめきが生まれた。「おお、あの舞か」「最近すっかり忘れていたが」「初の行事であるし見に行こうか」そんな声が、あちこちから上がる。
そうして火が点けば、次の動きは一つだった。今まで統一感のなかった人々の流れが、博麗神社へと収束を始める。そしてその流れは、人を通じて際限なく伝播していき。
「おおう。あっという間に大洪水であるな」
布都の言う通り、神子たちの目の前には人の洪水が生じていた。図らずも、宣伝となってしまった形である。
「神社の宣伝してどうするのよ」
呆れた目で、屠自古がツッコミを入れた。対する布都は、あっけらかんと笑って答える。
「なに、心配するでない。面霊気は太子様作の面より生じた妖故、そこを通して集まる信仰の一部は太子様に還元されようぞ」
「そうなんですか?」
「さて。どうでしょうね」
神子がそう言って悪戯っぽく笑うと、ほれ見なさい、とばかりに屠自古が布都へ振り向いた。
「いやまあ、あはは。我、神社とも縁が深いのでな。そっちはそっちで、まあ頑張ってもらおうではないか」
「あーんたーはー!そうやって調子が良いことばっか言いやがって!」
ぐにぃ、と布都の頬を両手で引っ張る屠自古。
「いはいいはい!ひゃ、ひゃめにゅは!ひ、ひいのは?まひかもうふぐはしまっへしまふそ!」
「なに言ってるのか全然分からんわ!」
「まあまあ」
と二人の間に割って入りながら、神子は言った。
「確かに布都の言う通り、そろそろ舞が始まります。私も興味があるので、移動を開始しましょう」
「――――ったく」
渋々といった様子で、屠自古が手を離す。
「さ、さすがは太子様。話が分かりますな!」
開放された頬をさすりながら、うんうん、と頷いてみせる布都だったが、それは解読能力のことなのかなんなのか。
「では、善は急げと申しますし、早速行きましょう。先頭は我にお任せを!」
妙な張り切りを見せて、布都が宣言通りに先頭立って歩き出した。ほれ屠自古も、と振り返りながら合図するのに従って。
「はいはい。ついていってやんよ」
軽く溜め息を吐きながらも、決して嫌そうではない体で答える屠自古。
そんな二人の後について自らも歩き出しながら、神子は最後に一度だけ、人里の方を振り向いた。そして、その視線の先にいるであろう人物に向けて、まるで誘いをかけるように、一言だけ呟く。
「戯れは、まだまだこれからよ」
と。
※
博麗神社の舞は、大盛況だった。
押し寄せる人、人、人。そしてその狭間に当たり前に混ざる、妖怪や妖精。普段、妖怪の姿しか見かけることのない神社の境内は、まさに幻想郷を象徴するような光景に支配されていた。
こころの舞が、人妖を引きつけるのか。はたまた、祭りの空気が人妖怪を引きつけるのか。それとも、その両方なのか。この賑わいの正体を看破することは、非常に難しい。
しかしどちらであるにせよ、神子が作り出した流れが、今まさにここに結実しているのは変わらない事実だった。そしてその中心を成しているのがこころであることは、どこか彼女に運命的なものを感じさせた。
つまり、一四〇〇年の眠りの果てに、自らの作り出したもので人々の心を魅了する聖徳太子。自分勝手な行いや物言いをせず人々を導く、英雄で偉人で聖人である、私の愛しい聖徳太子様。
それは間違いなく、彼女の憧れの姿であるはずで。そして、その想いがあったからこそ、復活して勝手なことを言う豊聡耳神子に幻滅もしたはずなのに。
なのに、それでも何故か。
彼女は――――聖白蓮は、どこかで釈然としないものを感じていた。
※
「はふ、すごい人だかりね」
神社の境内からわずかに外れた木陰で、白蓮は、ふう、と一息を吐いた。彼女もまた、号外でこころの舞があるのを知って、全力でここにまで来ていたのであった。
人を捨てた結果のこの身体は、運動で汗をかくことはない。この夏の夜の蒸した空気の中ではそれは地味にありがたいことで、恐らく境内にひしめく多くの人々より、白蓮は体感環境は相当いいはずであった。
「でも、ね」
にも関わらず、今、白蓮はこうして木陰に避難してきているのだった。彼女は、人ごみというものが苦手だった。
僧侶なんてやっているから、白蓮だって注目を浴びるのには慣れている。大晦日や三が日ともなれば、寺に年越しや初詣の人々がわんさか押し寄せてくるし、彼らの前で話したり読経したりするのは、なんの苦でもない。
だが、こうして大衆の中に混ざるというのは、どうしても駄目だった。なんというか、別の神経を使うような感じで、妙に気疲れしてしまうのだった。
きっとこんなことを言ったら、あの人は笑うだろう。これだからお高くとまった坊主ってヤツは、なんて馬鹿にしながら。そして、いかに自分が人を導く存在として優れているのかを、お高くとまりながら説明してくれるに違いない。
そんな自分の想像に、白蓮は、ふふ、と小さく笑った。あまりにもその絵面が容易に想像できて、なんだかおかしかったのだ。
笑って少し元気が出たので、白蓮は木の幹に預けていた背を離した。これからどうしましょう、と顎に手を当てて考える。警備をしてくれている村紗や一輪の様子を見に行くのもいいし、自身で屋台を出すと言っていたマミゾウを冷やかしに行くのもいい。寺で留守番をしている響子や星のためにお土産を買っていくのもいいし、こんな時でも露骨に一人でいるだろうナズーリンの家を訪れてみるのもいいかもしれない。
そう。会おうと思えば会える者は、白蓮にはいくらでもいた。この祭りの中にあって、皆が皆、それぞれに動き回っていても。それでも、ここに行けば会えるだろう、と思える者たちがたくさんいたのだった。
もちろん、白蓮の身体は一つしかないため、どうしても会いに行く順番というものはできてしまう。ひょっとしたら、時間の関係で祭りの間には会えない者も出るかもしれない。しかし、その中に序列をつけることなどは、彼女は絶対にしないし、そもそもできない。一人に会ったなら、時間を超えてしまっても、必ず全員に会いに行く。白蓮は、そういう生き方しかできない存在であった。
それを自覚しているものだから、白蓮は次に自分が取った行動に、少なからぬ驚きを覚えた。どうしてかは知らないが、本当になんとなくで。彼女は、喧騒渦巻く神社の境内の方ではなく、深い闇が広がっている鎮守の森の中へと向かっていたのだった。
どうして、と。自問をする。
分からない、と。答えはすぐに。
でも、何故だかじっとしていられなくて。何故だか、こちらに向かわなくてはいけないような気がして。そんな衝動に身を任せて、白蓮は歩き出していた。
と。
暗闇のみだった白蓮の視界が、突然に煌いた。漆黒に代わって広がるのは、満天の星空。織姫と彦星を分かつ、天の川であった。
そして、その大河が起こる袂には。
「あ――――」
白蓮は思わず、惚けたような声を漏らしていた。だって、そこにいたのは。
「――――――――」
二つに跳ねた癖っ毛と、華奢な体躯。天の中心を刀身に刻まれ、太陽を象った柄尻の宝剣を佩きながら立つ、彼女は。
白蓮が今、最も会いたかった人であったから。
白蓮はすぐさまいつものように、太子様、と声をかけようとして。しかし、すんでのところで思いとどまった。
「――――――――」
神子は今、天頂に手を伸ばして立っていた。まるで、星々を掴もうとでもするように。まるで、天の理を掴もうとでもするかのように。そんな、一見するといつもと変わらぬ貪欲な姿勢で以って、立っていた。
だが、白蓮には分かっていた。それが、そういう欲望の果てにある姿ではないと。何故なら、今そこにいる豊聡耳神子という人物は――――
いつものような、すべてを照らそうとする太陽の如き輝きは鳴りを潜めていて。このまま星々の輝きに、逆に飲み込まれてしまいそうな。月の輝きに、逆にかき消されそうな。そんな儚さを、持っていたから。
このままでは、彼女がここからいなくなりそうで。それを、なんとしてでも繋ぎ止めておかねば、とそう思って。
「太子様!」
白蓮は思わず、叫んでいた。心臓がいつのまにか、早鐘を打っていた。かかないはずの汗が浮かんでいるのを感じた。
「――――おや、聖。奇遇ですね、こんなところで」
白蓮の焦りを他所に、こちらを振り返った神子はいつもの調子であった。手を引っ込めて、ふっ、と気障な笑顔を浮かべてみせる。
「どうしたのです?舞なら、あちらの境内の方ですよ」
「それはこっちの台詞です」
余りにも変わらないその態度に少し苛立ちながら、白蓮は答えた。
「太子様こそ、こんなところで一体、なにをなさっているのですか?まさか人ごみに当てられた、なんてつまらない言い訳はしませんよね?」
「ふふ。それは貴方の方でしょう?」
「なっ――――」
見透かされた、と感じて、白蓮は顔が熱くなるのを感じた。きっと神子のことだ。この後、情けない、とか色々と言ってくるに違いない。そう思って、白蓮は密かに身構える。
だが、いくら待てども、いつものような言葉は返ってくることはなかった。代わりに。
「いえ、私も、なのかもしれないわね」
ポツリ、と神子が漏らすそんな言葉だけが、暗闇の中に消えていった。
「実はね。はぐれちゃったのよ。一緒に舞を見に来た、布都や屠自古と」
屠自古、という名を聞いた時、白蓮は自分の胸がかすかに痛んだ気がした。しかし、それを白蓮自身が自覚する前に、神子が次なる言葉を投げかけていた。
「短冊に願い事はした?」
「ええ。人と妖怪が仲良く幸せに暮らせるように、と」
「――――それ、毎年書いてるでしょ?」
またしても、図星だった。でも仕方がないだろう。それこそが、自分の一〇〇〇年前から変わらぬ願いなのだから。
「そういう太子様は、どうなんですか?なにか願い事をしたのですか?」
あまりにも神子のいいようにされているのが気になって、白蓮は訊ねた。きっと彼女だって、いつものように変な不老不死の野望とかを言うに違いない。そうしたら今度は、こっちが笑ってやろう。そう思っての問いだった。
「私?私はね――――」
しかし神子は途中で言葉を切ると、こちらに背を向けた。そして、右手だけをこちらに差し出して、手招きするような動きを始める。
「?」
怪訝な顔をしつつも、それに従って歩みを進める白蓮。暗闇で歩いている間は気づかなかったが、どうやら森のこの辺りはわずかな傾斜を持っていて、ちょうど神子がいる辺りの位置で最高点を迎えているようであった。
「ほら、ここにおいで」
「なんですか、一体」
顔も向けない神子の様子にムッとしながらも、白蓮はその隣に並んだ。そして、
「まぁ、これは――――」
次の瞬間、喜びを含んだ驚きの声を上げていた。
そこには、幻想郷があった。
いつもなら夜の闇に沈むはずのあちこちで、ボウ、と提灯の灯りが揺れている。恐らく初めてであろう、夜通し行われる七夕祭りは、その全土に広がる幽玄の灯りで以って、幻想郷全体の姿を闇の中に浮かび上がらせていた。
「博麗神社は、幻想郷を見渡せるように、この位置に立っていると聞くわ」
神子が静かな声で言った。ああ道理で、と白蓮は納得する。幻想郷を見渡せる博麗神社の、その周りに広がる鎮守の森の、さらに先端。今、二人が立っているのは多分、地上から最も近い位置で幻想郷を見渡せる場所なのだった。
「座りませんか?」
突き出した崖の突端に向かいながら、神子が訊ねてきた。大丈夫ですか、と白蓮が問うと、
「補強しておきました。なんとなく、こうなるような気がしていたので」
なんてことを言って、神子は悪戯っぽく笑った。きっとその時の力の動きを感じたから、あの時自分はこっちが気になったのだろうな、と白蓮は思った。
「では、ご一緒しましょう」
仕方のない人だ、と溜め息混じりに言って、白蓮は神子の後に続いた。
「よいしょっと」
「横、失礼しますね」
二者二様の声と共に、崖の縁に座る。二人の間には、ほんの掌の厚さぐらいの隙間が開けられていた。
そうして二人、並んで座りながら、しばしの沈黙が流れた。祭りの喧騒も、ここまでは届かない。間に横たわる夜の闇が、恐らく騒がしさのすべてを飲み込んでしまっているのだと思えた。
しかしその沈黙が、白蓮は嫌ではなかった。かすかに横から聞こえる息遣いだけで、相手がいる充分な証明となっていたから。
と。
「あの灯が見えますか?」
唐突に沈黙を破って、神子が言った。いつの間にか上げられていた彼女の右の人差し指が示すのは、人里から博麗神社へと向かう一筋の光の道だった。
「ええ。とてもよく」
それを目で辿りながら、白蓮は静かに答えた。その輝きは、まるで地上に出現した天の川のようだと、白蓮は思った。
「私は、実は願い事はしなかったんです」
そういうのは性に合いませんし、と。地上の天の川に向けて、神子は静かに呟いた。
「ですが、あの灯は。あれこそまさに、この幻想郷を象徴しているものだ、と。貴方は、そうは思いませんか?」
「――――――――」
突然に神子が発したその言葉に、どう答えるのが正解なのかが分からず、白蓮は一瞬、息を詰めた。彼女の言いたいこと自体は、分かっている。人と妖怪の共存。一晩だけとはいえそれを実現したこの光景は、貴方にとって理想でしょう、と。つまり神子は、そう言っているのだった。
でも、それは。
それはあくまでも、白蓮の願いであって。
神子の願いなどでは、決してなくて。
「私は、私の答えしか、返すことができません」
だったら、神子が色々と動き回って実現したこの祭りを、白蓮が評するということは。それはもう、一種の冒涜のようなものではないか。そう感じて、白蓮はやんわりと拒絶の意思を示した。だが、神子は、それに不快を訴えることもなく、軽い調子で言った。
「いいんですよ、私になど気兼ねしなくても。私は、貴方の言葉こそを訊きたいのです」
「そ、そんな――――」
よく恥ずかしげもなく、そんな台詞が吐けるものである。白蓮は少し俯いて、神子から顔を隠した。ひょっとしたら今の自分は、この薄闇の中でも分かるぐらいに、赤面しているかもしれなかったから。
「ねぇ、聞かせてちょうだい」
とはいえ、どうやら神子は、答えるまで許す気はないようだった。白蓮もそこまで意地になる気はなかったので、仕方ない、と観念して口を開いた。
「正直に言うなら、とても……ええ、とても素晴らしい光景だと思います。人と妖怪が共存する、幻想郷の理想の姿。夜でも色あせることのない、本当の理想郷」
そんな白蓮の答えに対して、次に神子が放った言葉は。今まで彼女と話してきて聞いたどの言葉よりも、白蓮を驚かせた。
そう、よりにもよって彼女は。
「――――ああ、良かった」
と。
まるで、心の底から満足した者が、死に際に発するような言葉で以って、白蓮に答えたのだった。
「よ、良かった……?」
白蓮は慌てて訊き返す。それは、どういうことだ。つまり神子は、まさか――――
脳裏に浮かびかけた妄想を、白蓮は頭を振って掻き消した。ありえない。そう、そんなはずはないのだから。だって神子は、いつだって白蓮の理想を小馬鹿にしていて、自分勝手で、王様みたいな性格で、それで誰にだって優しくて――――
「あの、太子様?」
それでも。それでもどこかで、消しがたくて。
「太子様こそ、どうですか?この、光景を見て――――?」
つい、そんなことを、白蓮は訊ねていた。言ってしまって、思う。これに自分は、どんな答えを望んでいたのか。拒絶して欲しかったのか、褒めて欲しかったのか。それすら、白蓮には分かっていなかった。
「そうですねぇ」
神子は暢気な調子で、白蓮の疑問に答えた。その声には、いつものような覇気がなくて。
「悪く、ないかもしれませんね……」
だから、そんな声と共に突然肩にかかってきた重さに、白蓮は最初気恥ずかしさよりも、心配の感情を強く抱いた。
「た、太子様!?どうなさいました!?」
華奢な身体を抱きとめるようにしながら、白蓮は神子の顔を覗き込んだ。そして、
「すぅー……すぅー……」
規則正しく上下する貧相な胸と、口から漏れる呼吸の音を聞いて、思わずずっこけそうになった。
「ね、寝るんですか……このタイミングで……」
なんだか釈然としないものを感じて、白蓮は思わず叩き起こしてやろうかとも考えた。だが、その幸せそうな顔を見ていると、どうにもそんな気も削がれてきてしまって。
「もう、仕方ありませんね」
渋々、自分の肩に神子の頭が乗るのを受け入れた。寝かせるだけなら膝に誘導するべきだったのかもしれないが、どうしても恥ずかしくて、それはできなかった。
そうやって再び、場からは動きがなくなった。動くに動けないし他にやることもなかったので、白蓮は一人、ぼんやりと眼下を見つめることにした。しかし、
「お、落ち着きません……」
こうして静かにしていると、どうしても肩に当たるかすかな吐息を意識してしまう。柔らかな感触を意識してしまう。開いていたはずの隙間がこんなに大事なものだったのか、と白蓮は今では永遠に失われたものに追悼の意を抱いた。
と。
「わふぅ……」
いきなり神子が、そんな動物的な寝言を漏らし始めた。
「い、犬かしら?」
平静を装いながら、白蓮はその口元に耳を寄せる。すると、
「むにゃ……うん、楽しい、ですねぇ……」
今度はまっとうな寝言が聞こえてきて、白蓮はなんとなく安堵した。うん、こちらの方が、まだ精神に優しい。
しかしその思いは。
「分かります、よ……みんな、笑顔で……楽しそうな、欲が、伝わって……きて……」
次に続いた言葉で。
「ほんと、に……良かったですね、聖……」
見事に、バラバラに砕かれることとなった。
「え……?」
聞き間違え、だと思いたかった。いや、たとえ本当のことであっても、それはただの寝言で現実とはなんの関係もないとか。はたまた、本当は起きていて、白蓮をからかうためにわざと言っているとか。白蓮の頭の中に、この言葉が彼女の本心ではないのだ、と思い込ませるための状況が、いくつも浮かぶ。
なのに神子は、続く言葉で。
「がんばり、ました、ね……ひじり……」
そんなことを言い出すものだから。
次の瞬間、白蓮はまるで茹蛸のように、耳たぶまで真っ赤になっていた。
「そ、そんな、嘘……?」
なおも心のどこかで、そのこと、を認められない白蓮の耳に。
『あら、気づいていないのね』
神社で聞いた八雲紫の声が、時を越えて響いてきた。
『貴方が今やろうとしていること。それって、要するに誰のためなのかしら?』
まさか、ひょっとして。
ひょっとして、この人は。豊聡耳神子は。
全部。これを全部、私のためにやっていたの?
『私は、実は願い事はしなかったんです』
心臓の鼓動が、痛いほどに早くなる。顔だけじゃなくて、全身が沸騰したように熱い。汗をかかないはずの身体が、またじんわりと濡れるのを、白蓮は感じていた。
でも、真っ先に浮かんでくるのは、喜びよりも。
「どうして……」
という、そんな疑問であった。だって白蓮には、神子にそうまでして尽くしてもらう理由がない。どちらかというと宗教敵として、疎まれる方が正しいとさえ思える関係だ。
でも、この人は。
「うふふ……ひじりぃ……楽しそう、ですねぇ……」
そういう相手だって、当然のように、笑顔にしたいと思うような。できるならば、その欲を満たしてやりたいと思うような。そんな、どうしようもない聖人なのだった。
白蓮が七夕から盆にかけて忙しいのはいつものことだし、それはそもそも自分の宗教に関係することだから苦ではない。こうして教えを広めることが理想への道となるのだし、命蓮寺の妖怪たちを人里と関わらせるのは、双方にとって悪いことではないからだ。
でも、神子は違う。彼女は道教の仙人で、しかし別に道教を布教する目的などなく。ただ、自分の思うままにこの世を生きるのだ、と言ってのけて、勝手に不老不死を求めて生活をしているはずで。故に彼女には、白蓮を助ける意味も、道理も、ましてや、こうして疲れ果てて眠るぐらいまで忙しく働く必要なんて、微塵もなかったはずなのに。
「それでも貴方は、そうしてしまうのですね」
絶望的な気持ちでそんな言葉を漏らしながら、白蓮は思わず、ぎゅっ、とその両手を握り締めた。そうだ。これは自分のせいでもあった。どうして気づかなかったのだろう。どこから気づかなかったのだろう。団子屋で話してから、八雲紫に出会うまで。そのどこかで、彼女を止められたはずなのに。
「太子様……」
スッ、と。白蓮は右手で、柔らかな神子の頬を撫でた。人を捨てたはずでありながら、その身は充分に温もりを湛えていて、それ故に白蓮の胸に痛みを与えた。
彼女の、豊聡耳神子の行いは、きっと誰にも評価されない。
『人は飽きる生き物だし――――』
霊夢の言葉が、脳裏に響く。そう。この国の礎を作った偉大な聖人だって、一四〇〇年の時の流れの果てには忘れ去られるのだ。
祭りは、ハレだ。ハレの気はケの日常に戻れば忘れ去られるもので、ならば今、神子が実現したかつてない祭りを楽しんでいる人々だって、明日の昼にでもなればすべてを忘れてしまうことだろう。
でも。
「私は、覚えています」
でも、白蓮は忘れない。一週間前のあの日にあった出来事を。今日あった出来事を。そして、今話した出来事を、日常に戻っても、決して忘れない。どんなに時が経っても、人々の記憶が風化しても、必ずその姿を見つけて、観測し続ける。
だってきっと。
きっとそれだけが、白蓮にできる、救いだから。
しかし、仏の道が謳うのは、一切衆生悉有仏性。すべてのものは仏の性質を持っていて救われるべきであるという考え方だ。それは裏を返せば、仏の前にはすべてが平等であるということでもある。仏の救いに選別はなく、あらゆる者は平等に救われねばならない。
なのに今、白蓮は、彼女を。この、豊聡耳神子という一人の聖人を。その人だけを、救いたいと思っている。
「ああ、これは――――」
これは、本当ならば、許されない想いかもしれない。仏の道に反する、悪魔の所業かもしれない。
だけど、今だけ。
空の彼方で織姫と彦星が出会い。
世界中のすべての皆がそれに目を向けて。
きっと、天頂におわす天帝さえも、そこに注目している今だけ。
こうして私が、彼女の止まり木となることを、許して欲しい。見逃して欲しい。
歪に隣り合っていた、二つの影が重なる。
全身で神子を支えて、その温もりを感じながら。
白蓮は最後に、こう願うのだった。
どうか。どうか世界よ、まぶたを閉じて。
神子が言った。
「ええ。とてもよく」
白蓮が答えた。
それは、ある七夕の夜のこと。
※
時は、一週間ほど前に遡る。
なんとはなしに人里にフラリと来ては、そこいらの人々の話を聞く。なんとはなしにブラリとその辺の店に入っては、甘味や食事などに舌鼓を打ちつつ、店主や客たちと語らう。仙人――――豊聡耳神子は、今日も今日とて、そんないつも通りの行動原理で以って人里にいた。ちょうどお昼を過ぎた刻限。いわゆる、おやつタイム、とやらに合わせての行動であった。ちなみに今日のお目当ては、とある団子屋である。
「店主、お団子を四本お願いします」
神子は店の軒先に並べられた長椅子の一つに腰掛け、年配の店主に声をかける。
「はーいよ」
と愛想の良い返事を返して去っていく店主を見送り、神子はぼんやりと辺りを見回した。
店は空いていた。外の長椅子は空席をいくつも残しており、店内でも団子を待つ客の姿は一人か二人程度。往来を行く人々は皆、先に進むことに夢中で、団子屋で羽を休める余裕もないようである。
「……みんな忙しそうねぇ」
惚けた声でそう漏らしながら、神子はそれでも、たまにはこういう日もいいだろう、なんて思っていた。店の経営状態的にはどうかと思うが、一人でのんびりと団子を食べるのだって悪くはない。
「お待ちどーう」
「ありがとうございます」
店主の持ってきた団子と茶を受け取ると、神子はまず茶で一服。じんわりとした温かさで芯から心が満たされたのを確認してから、次にようやく本命の団子の串に手を伸ばす。
「さて、では早速いただきましょうか」
にへ、と自然に顔が緩むのを感じながら、神子は早速一つ、団子を口に放り込んだ。
「……おいひい」
そう。美味しいのである。ここの団子は、傲慢なのを承知で言って、聖徳太子のお墨付きを与えられるほどの美味しさなのだった。
この店に最初に来た時は最悪だった。あの時は余計な邪魔が入ったせいで、都合四本ほど頼んだ団子の内、実際は一本ほどしか食べられなかったのだ。今日ここに来たのは、ある意味、それのリベンジだという側面もあり、故にこそ、神子の満足感もひとしおなのだった。
「っと、いけないいけない」
せっかくの幸せなひと時だ。わざわざ嫌な思い出で台無しにすることはあるまい。そう考えて、神子は新たな団子を口の中に放り込んだ。
「うーむ、やっぱりおいひい……」
頬に手を当てて、感無量といった体で呟く神子。甘さが心を溶かしていく。やはりモノを食べるというのは、こうでなくては。自由で、静かで、豊かで。そう、救われてなきゃダメなんだ。
難しい理屈をこねくり回さずとも、自分を捨てて人に捧げずとも、ただの甘味一つで人を幸せにできる。こういう些細なものこそが、真の救いなのかもしれなかった。
そうして、神子は団子の持つ可能性と全能性に心打たれつつ、新たな救いを得ようと、団子をもう一つ口中に放り込んだ。
それと同時。
「あら、太子様ではありませんか」
ささやかな救いを切り裂くようにして、そんな声がかけられた。
「んぐう!?」
それを聞いて神子は、口に入れたばかりの団子を思わず飲み込んでしまう。だってそれは、今の神子にとって、一番聞きたくない声でもあったから。
「ぐっ、はっ――――」
案の定、団子は喉に詰まった。呼吸が乱れる。息が止まる。胸を叩きながら、神子は上半身を弓なりに折って呻いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
突然の事態に、焦った様子の声が被る。それに前後して、神子の背に触れる感触もある。
「しっかり、しっかりしてください!」
慈愛に満ちた、心地よく柔らかな声。儚さと芯の強さが同居した、女性の声。その響きは苦しみに喘ぐ意識の中であっても、まるで一筋の剣閃の如き鋭さで神子の耳を貫いた。
ああ、この声はきっと。
すべてをかき消すような、どれだけ強烈な光の中でも。すべてを飲み込むような、どれだけ静かな闇の中でも。そして、死に瀕した瀬戸際のまさにその瞬間であっても、必ず神子の耳に届いて、離さないであろう。
そう、神子はその声の主を知っていた。
「――――」
神子はその名を呼ぼうとして顔を上げ、しかし声を出せなかった。
その代わり、顔が見えた。よく知った顔が、近くに見えた。微かに潤んだ瞳で、心配そうにこちらをのぞきこんでいるのが分かる。それと同時に、慈しみに満ちたその近さは、神子の心を抉る記憶を否応なしに想起する。
「――――――――」
神子は視界がぼやけるのを感じた。まずい。本格的に意識も朦朧としてきた。一四〇〇年の眠りの結末がこれとは、屠自古や布都や青娥が聞いたらどう思うだろう。呆れるか、怒るか、案外馬鹿にしてくれた方が気が楽かもしれない。
「いけない!」
近くにあった顔が、滲むように離れた。最後の瞬間にそれを見ていられないのは、少し残念な気がした。
それに続いて、背中に触れていた手も離れる。柔らかな感触が遠ざかるのを、神子は名残惜しく思った。
だが、次の瞬間。
「失礼します!」
そんな声と共に背中に凄まじい衝撃を喰らって、神子は完璧に意識を刈り取られていた。
※
「―――さま」
声が聞こえた。
「――――し様!」
神子を呼ぶ、声が聞こえた。
「――――太子様!」
それは、いつも神子が浴びていた声と同じようで。いつも聞こえていた声と同じようで。しかし、どこかが少し違う声だった。縋りつくようでいて、なのに救おうともしているようで。そんな、歯がゆさを感じさせる声だった。
「太子様!起きてください!」
未だまぶたを開けずとも、その声からは今にも泣き出しそうな彼女の顔が、神子にはありありと想像できた。自分が関わると彼女は、いつもそんな顔をしているような気がする。そうするのは本意ではないのに、何故かそうなってしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、少し強くやりすぎました、ごめんなさい」
なにを落ち込んでいるのです。君程度の攻撃で、私が倒せるとでも思ったの?自惚れるもはなはだしいわね。濁った意識の中で、ぼんやりと幾つかの言葉が浮かぶ。
でも、本当に言いたいのは多分、そんな言葉ではなくて。
ただ。
そう。ただ、笑いなさい、と。
花のように美しく。蝶のように可憐に。その名のように咲いて、笑いなさいと。
なぜなら自分は、そんな君の笑顔こそが――――
とそこまで思考が至りそうになったところで、
「いいんですかっ!?このまま起きないと、人工呼吸しちゃいますよ!?ちゅーしちゃいますよ!?こんな人目の多い場所で、みんなに見られちゃいますよ!?」
「――――ッ!!??」
とんでもない彼女の一言に、神子はバネ仕掛けのように起き上がった。
「な、なにを言っているんですか君はッ!?」
眠気をすっ飛ばして急速に覚醒する意識と共に、神子は声の主に向き直った。危ないところだった。あともう少しで、神子の評判に甚大なダメージが加わっていたかもしれない。
「た、太子様!ご無事で!」
「ええ、そりゃあ、無事ですよ。無事ですとも……」
でもそれよりも。もう一つの無意識のイメージが形になって、言葉になっていたかもしれない方が、神子にはよっぽど恐ろしかった。あのタイミングで目覚めていなかったらと思うとゾッとする。だからそれを忘れさせてくれる背中の痛みが、今はだけ少しありがたかった。
「あつつつ……」
いや、ありがたくない。勢いつけて起き上がったせいで、結構普通に痛いぞこれ。神子が苦い顔でそんなことを思っていると、
「だ、大丈夫ですか!?」
まるで掴みかかるような勢いで、その元凶が神子の両肩を握ってきた。
「どこが痛むのですか?意識ははっきりなさっていますか?喉は平気ですか?苦しくはありませんか?」
「いだいいだいいだい!」
ガクガクと揺らされながら、神子は肩と背中の痛みに思わず絶叫する。いやほんと、なんて馬鹿力なんだこの僧侶は。
「私は大丈夫ですから!平気ですから!むしろ今が痛いですから!は、離しなさいってば、聖ぃ!」
「あああ、これは失礼いたしました太子様!」
「うわっ!?」
ぱっ、と突然手が離されて、神子は派手にすっ転びそうになった。だが、そんな情けない姿を彼女に見せたくなかったので、全身全霊をかけてなんとか体勢を立て直す。
「――――っとと」
ようやく落ち着いたところで目に入ってきたのは、今まで神子を揺さぶっていた両手を胸の前で合わせながら、心配そうにこちらを見る聖白蓮の姿だった。声だけはずっと聞いていたのに、その姿をきちんと認識するのにずいぶんな時間がかかった気がする。
「まったく、起き抜けにいきなりこれとは、君は余程私に恨みがあるようね?」
そして、開口一番神子の口をついて出たのは、先程の夢現の中で抱いたイメージ通りの言葉だった。そう、これが神子と彼女の当たり前であり、断じて笑って欲しいとかそんなことは考えていなかったのだ。
「う、恨みなんてありません!」
心外な、という調子で答える白蓮。
「なんですか、人が心配していたというのにその物言い。やはり太子様は、心が芯から歪んでいるのではありませんか?」
「ふむ。それはそうかもしれませんね」
だって、と神子は意地悪な笑みを浮かべた。
「先程、意識を失うほどに思いっきり背中を打たれましたからね。背骨が無事だとは考えづらいですから」
「うぐ……いや、だって、喉になにかを詰まらせた時は、背中を叩くのが良いと昔から言うではありませんか……」
どこか拗ねたような響きで、白蓮が言い訳じみた言葉を漏らす。
「昏倒させろ、というのは、私はあいにく聞いたことがありませんが」
「ええと、それは、その。私もちょっと動転してしまいまして、力の加減を誤ったというかなんというか……」
「ちょっと、ですか。意識を失った時点で、かなり、だと思うのですけど」
「うっ……うぐぐぐぐ……」
ついには言葉を亡くす白蓮であった。
しかし彼女は少し潤んだ目で、それでも神子の方をしっかり見つめて離さない。神子もそれに応えるように、腕組みをして見返す。言葉のない二人の間を、ただ視線と視線だけが交錯して、火花を散らした。うむ。これでいい。こうでなくては。
やがて二人は、どちらからともなく視線を外した。神子としても期待通りの満足感は一時のもので、ずっと続けるほどには心が躍らなかったのだった。
「――――はぁ。どうしてこうなってしまうのかしら」
すっ、と神子の隣に座りながら、白蓮がなにか言った気がした。しかし神子は、なにも聞こえなかったと自分に言い聞かせた。
「店主、お茶をください。できるだけ熱いのを」
「はーいよ」
気分を切り替えるためにそんな注文を投げかけて、神子は昏倒させられる前の行動に戻ろうとした。茶の熱さで気分をリセットして、ここの団子の甘さによる癒しを受ければ、心も元に戻るだろうと思ったのである。
そうした考えの下、次に神子は、食べかけだった団子を探すことにした。最初に頼んだ四本の内、一本すら完食する前に昏倒させられたのだ。捨て置くには勿体無さすぎる量が残っているはずである。
実際、団子は三本と二つほど残っていた。いたのだが――――
「…………」
それは、とんでもないところにあった。神子が寝かされた時に位置をずらされたのだろう。団子の皿は、今神子が座っている長椅子の端に追いやられていた。もっと詳しくいうと、白蓮を挟んでちょうど神子と対称にあたる位置である。
まずいことになった、と神子は静かに唸る。わざわざ立って取りに行くのも露骨すぎて変だし、かといって白蓮に、取ってくれ、と言うのもなんだか憚られた。行儀の悪さを気にせずに寝転がればギリギリ届きそうだが、これもまた白蓮が巨大な壁となって立ち塞がっている。
と、
「――――――――」
一瞬脳裏に、白蓮の膝にダイブする自分の像が浮かんで、神子はそれを慌てて掻き消した。さすがにない。ありえない選択肢である。
しかし、あまりにもじっと団子を見続けていたせいだろう。
「あら?」
神子の視線に気づいた白蓮は、首を傾げながらその先を追い、団子の姿を認めていた。
「あ、ごめんなさい。太子様を寝かせるために、端に寄せてしまっていましたね。はい、どうぞ」
邪気のない笑顔で、白蓮が団子の皿を差し出してきた。神子が反射的にそれを受け取ってしまったら、今度は置き去りにされた湯飲みもこちらに運んでくる。
「どうも――――」
素直に感謝するのも恥ずかしくて、神子はぶっきらぼうにそう言った。白蓮との間にわずかな隙間を空けて、そこに団子の皿を下ろす。
「いえいえ」
白蓮は気にした様子もなく、皿の横、神子側に湯飲みを置いた。
「お待ちどーう」
それを待ち構えたかのように、店主が姿を現した。手には神子が頼んだ茶の急須と、もう一つ。湯飲みを持っていた。
湯飲みが、皿の横、白蓮の側に置かれる。次いで、トポポ、と湯気を立てながら、店主の手でそれぞれの湯飲みに注がれていく若草色の液体を、神子と白蓮は二人、沈黙と共に眺めた。
やがて店主が去っていくと、神子は早速、自分の湯飲みに口をつけた。痺れる熱さが口中を襲い、神子は気分が晴れるのを感じた。
「温まりますねぇ……」
同じく茶を飲みながら、白蓮がそんなことを言った。この夏始めの暑さの中にあって、確かに彼女は少しだけひんやりとして見えたので、温まるのは悪くないことだと神子には思えた。
しかしこの団子屋に来たのに、それだけで幸せを感じるのは早計というものだ。
「奢りますから、貴方も食べなさい。私だけが食べるのは座りが悪いし」
白蓮と目を合わせずにそう言って、神子は皿を白蓮の方に寄せた。真正面から勧めるのは舞い上がっているみたいで嫌だったが、この甘美な幸せを知らせず彼女を去らせるのは、もっと嫌な気がしたのだ。
「まあ……ふふ、ありがとうございます」
白蓮は最初驚いたようで、神子と団子を見比べるようにしていたが、最終的には嬉しそうに笑って、そう答えた。
皿に載っている団子は、神子の食べかけのものが一串と、手が付けられていないのが三串だった。神子としては、そういう場合は当然のように新しい方を取るものだと考えていたのだが。
「では、いただきますね」
そう言って白蓮が取ったのは、神子が食べ残した一串であった。そう、あの、神子が喉に詰まらせた団子が刺さっていたのと同じ串である。
「あ――――」
と思わず声を漏らしてしまった神子の視線の先で、白蓮の唇が団子の表面に触れた。どこか妖艶なその雰囲気を直視できなくて、神子は再び目を逸らした。
「あぁ、本当に美味しいですねぇ……」
白蓮の暢気な声が、何故だか妙に耳に絡んだ。ヘッドホンなんて、こういう時になんの意味も果たしやしない。神子は湯飲みを握り締めながら、自分の顔が映った液面をじっと凝視した。若草の色が、少し赤くなっている気がした。
「あ、いけないいけない。私が先に食べてしまいました」
そんな神子の穏やかならざる心中を知る由もない白蓮は、変わらぬ暢気さでそう言って、もう一度神子の眼前に皿を差し出してきた。
「はい、どうぞ」
む、と顔を上げる神子をニコニコと見返しながら、白蓮がそう告げた。彼女のこういうところが、神子は少し苦手だった。
「いただきますっ!」
ひったくるように皿上の一本を取って、神子は同時に二つの団子を口に放り込んだ。一刻も早く甘さで心を治めねば、どうにかなってしまいそうだった。
「今度は詰まらせないでくださいね?」
皿を置きながら、白蓮が悪戯っぽくそう言った。言われなくても、神子はそのつもりだった。あんな無様なヘマ、もう死ぬまでだって二度としない。それは不老不死の身からすれば、永遠にしないのと同義である。
口中に甘さが広がる。じんわりと、優しく広がる。ただ量が増えただけのはずなのに、神子にとってその甘さは、今まで食べたどの団子よりも強いものと感じた。
「ここのお団子、すごく美味しいと評判ですよね」
無言で団子を味わう神子に対して、白蓮は世間話を始めた。
「村紗や一輪がよく買いに来ているみたいで、私もお土産で何度か食べたことがありましたけど、実際にお店で食べたのは初めてでした」
「―――――――」
どうだった?と神子は視線だけで訊ねる。
「もちろん、先程も言ったとおり、とても美味しかったですよ。こう、なんというか。ただ甘いだけじゃなくて、心が洗われるような味で……」
「――――ふむ。それに関しては、少なくとも私と貴方は同志のようね」
ごくり、とようやく団子を飲み込んで、神子は頷いてみせた。自分が作ったものではないが、勧めたものを褒められるのは素直に嬉しいことだ。同じような思いを抱いたならば、尚更である。
「貴方も、もう一本食べなさい。それでちょうどですから」
気分が良くなったので、神子は再び白蓮に団子を勧めた。数的にはちっとも釣り合ってはいないが、なにか理由をつけたほうが彼女も食べやすいだろう、といらぬ配慮をする。
「ふふ。いただきます」
神子の言葉にまた笑って、白蓮が串を取った。その笑みにまるで心中を見透かされているような思いを感じて、神子はまた視線を逸らした。手中の串に残った二つの団子を口に放り込んで、波打ち始めた心の表面を均す。
そうして幸せな空気の下、無言の時間がしばらく流れた。二人なにも言わず、視線も合わせず。ただ横に並んで団子を食べながら、往来を行く人の流れを見続けた。たまにどちらかが茶を飲む、ず、という微かな音だけが、相手がまだそこにいるのを証明していた。
その沈黙を打ち破ったのは、空に高く響く一つの鐘の響きであった。時刻を知らせる鐘。時の鐘の音であった。
「ん?」
それに合わせて往来に起こった変化に、神子は首を傾げた。今までぼんやりと移ろっていた人の流れに、ある一つの方向性が生まれていたのだった。
「なにやら、里の中心へ向かう人の流れができているようだけど、今日はなにかあるのかしら?」
「ああ。それは多分、七夕のお祭りがあるからですよ」
神子の何気ない疑問に答えて、白蓮が続けた。
「なんでも今日は、祭りの縁日で出す屋台の折衝があるようですから。皆さん、逸る気持ちを抑えられないのかもしれません」
怪我などしなければいいのですけど、と白蓮は言葉を結んだ。どういうことかと訊けば、毎年場所取りで揉め事が起こるのだ、という話だった。そうやって見ず知らずの他人を本気で心配できる彼女の精神性は、神子は嫌いではない。
「しかし、七夕、ですか……」
神子がこの幻想郷に復活して、もう三年目ともなる。七夕の祭りも、ちょうど今年が三回目となるのだが、その祭りの性質を神子はまだ完全に理解してはいなかった。
「太子様は、七夕はお嫌いですか?」
「いえ、嫌い、というよりも、分からない、というのが正直なところです」
分からない?と白蓮が首を傾げたのを見て、神子は慌てて次の言葉を継いだ。
「いや、もちろん織姫と彦星の話自体は知っていますよ?あれは道教由来の逸話ですから」
織姫と彦星の二人は、道教の最高神たる天帝の娘夫婦である。それにちなんだ説話を知らないとあっては、仙人失格だ。
「ですよね。少しびっくりしました」
安堵するように胸に手を当てる白蓮を見つつ、神子は己の中の七夕の知識を整理する。
つまるところ、七夕の織姫と彦星というのは、親に別居させられた夫婦の話である。機織を生業としていた天帝の娘――――すなわち織姫は、仕事に熱中する余りに自身の生活や容姿に気を配らなかった。その様を女として哀れに思った天帝は、牽牛を生業とした彦星に嫁がせることで、織姫に幸せを与えてやろうとした。そして結果的に、その目論見は成功する。ただし、あまりの幸せに織姫は機織をやめてしまった。天帝はそれに激怒して、織姫と彦星を川の両岸に離れ離れで住まわせることにした。一年に一度、七月七日だけ会うことを許して。
うん、確かこんな感じの話だったはずだ。では、神子が一体なにに疑問を抱いているのかというと。
「短冊に願い事、というくだりがよく分からないんですよ」
この織姫と彦星の話というのは、大陸においては、針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)という祭りに関連付けられていたようである。そういう意味では、願い事というのもあながち的外れではないのかもしれないが。
「私も専門家ではないので詳しくは知りませんけど……」
神子の疑問にそう前置きしてから、白蓮は話し始めた。
「この国において七夕が定着したのは、奈良時代の頃といわれています。この国に元々あった豊作を祖霊に祈る祭りが、大陸から入ってきた乞巧奠や仏教の影響を受け、その結果、宮中行事として始まったとか」
「ふむ」
最初の頃はどうやら、神子の知っているものと大差がない祭りであったようである。
「しかし江戸時代になって七夕行事が庶民に広がる過程で、乞巧奠の針仕事上達という祈願が芸事全般に置き換えられたようでして。この時同時に、五行や仏教の施餓鬼幡から着想を得て、願いを書くための五色の短冊というものが考案されたようです」
「……ふーん」
仏教、ね。神子は言葉に出さず、心中でそう呟いた。自分で広めておいてなんだが、仏教というものは本当にどこにでも入り込んでいるな、と感心する。嫌な言い方をするなら、根が深い、というヤツだ。
「でもそう考えると、元々の機織女であった織姫とは、もうなんの関係もないわね」
「まあ、確かにそうかもしれません」
でも、と苦笑しながら、白蓮は言った。
「一応、織姫と彦星が出会えるように祈る、という側面も残ってはいるのです。そのために、祭りは六日の夜から七日の朝にかけて行われますし」
「そうだっけ」
あまり興味を持って参加した記憶がないので、神子はその辺を知らなかった。仙人は早寝早起き。つまり、夜は基本的に寝ているのである。
「でも、夜通し行うとなると、それは大変そうですねぇ」
祭りといえば、主に安全面の確保が重視されるが、この幻想郷においては、妖怪相手にそれをどうするか、という対処が加わる分厄介だ。特に夜ならば尚更である。
「まぁ、そちらの方は毎年のことですし、ある程度話はついているのです。妖怪たちは気まぐれですが、規則は結構きちんと守ってくれますし、里にいる限りは安全です」
命名決闘法の例を見ても、それは明らかであった。恐らく、先程白蓮が言っていた、場所を巡る喧嘩の理由も、その辺りが根っこにあるのだろう。
「しかし聖。君は妙に七夕について詳しいね」
いかに仏教行事の影響も含まれているとはいえ、少々知識が深すぎやしないだろうか。江戸、とか言っていたが、彼女もつい最近復活した身のはすなのに、これはどうしたことか。
「それはまあ、私も無関係ではないので」
話が見えなかった。故に神子は、もっと詳しく訊こうと口を開いて。
「えっと、それはどういう――――」
「そうだ!」
突然トーンを上げた白蓮の声に、見事に遮られた。
「太子様。七夕のことについてもっと詳しく知りたいのでしたら、少し歩きませんか?実際の人々の間を巡ってこそ、見えるものがあると思いますし」
「は?いや、ここで座って話せばよい話では――――」
「駄目です!」
間髪いれず、駄目出しされた。
「いくらお団子が美味しいといっても、食べる量には限界がありますし。それなのにいつまでも席を占有したままでは、店の方にも迷惑がかかりますから」
「む」
正論であった――――じゃない!納得してどうする。別に神子は、七夕にそこまで興味があるわけでもないし、なによりこうして白蓮に押し切られて里に繰り出すという形がそもそも気に入らない。
しかし白蓮は、一瞬神子が黙り込んだのをいいことに、とんとん拍子で話を進める。
「では、決まりですね。私はお勘定を払ってきますので、少々お待ちください」
そんなことを言い残して、彼女は風のように店内に入っていった。止める暇もない。
「えぇー」
神子は呆然と立ち尽くす。団子を勧める時、奢る、とか言っておきながら、なんともみっともない状況であった。
「お待たせしました」
やがて白蓮が戻ってきた。財布の中身が余計に減ったというのに、その顔はとても嬉しそうである。
「楽しそうですね……」
しかし恨みがましい目つきで神子がそう言うと、白蓮は、そうですか?、なんて涼しい顔を作って答えてみせた。慎みは美徳だが、この場合にそれは適用されないな、と神子はぼんやり考えた。
「さて、では太子様?」
白蓮が再び笑顔を作って、神子の前に立った。
「準備はよろしいですか?私が、貴方の知らない七夕のことを、全部教えて差し上げます」
「お、お手柔らかにね」
鬼気迫るような白蓮の笑顔に、そんな面白みの欠片もない台詞を吐くしかできない神子であった。
※
結論から言えば、神子の選択は間違っていなかった。
「そもそも、この国における七夕行事というのは、道教の乞巧奠、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)、神道の祖霊信仰が交じり合ってできた行事なのです」
共に歩き出してすぐに、聖は張り切った様子で説明を始めた。
「ですから、いわゆるお盆の行事のさきがけとしての役割を持っているんですね。知っていましたか?願いを書いた短冊をかける笹は、祖先の霊が宿る依り代としての役割があるそうですよ」
「へぇ……」
と頷きながら、神子は並んで歩く白蓮の横顔をチラリと見る。
「つまり、お盆には祖霊が戻ってくる、という考え方がこの国では当たり前ですが、それは七夕の時にすでに始まっているというわけですね」
柔和に話す白蓮は、やはりどこか楽しそうに見えた。どこがどう、とはっきり分かるわけではない。でも、話口が少し浮ついているようだとか、いつもより笑顔の比率が多いとか、何気ない仕草から伝わってくる気配が、神子にそう感じさせているのだった。
「それで貴方たちは、七夕の祭りにも関わってくる、というわけか」
「そういうことです」
神子の言葉に、ふふ、と笑いながら頷いて、白蓮は続けた。
「お盆に行われる仏教行事の一つに、施餓鬼会、というものがあるのですが、これには無縁仏や成仏できていない魂を迎えるための行事という側面もあるのです。ですから、そういった魂の状況を把握しておくためにも、七夕は重要な意味を持っているんですよ」
「ふむ、施餓鬼会。聞いたことのない行事ね」
「太子様が知らないのも無理はありませんよ」
首を傾げる神子をフォローするように、白蓮が言った。
「施餓鬼会が行われ始めたのは鎌倉の頃かららしいですし、私も復活してから知りましたから。そのきっかけだって慧音さんの、人里に早く馴染めるように、という勧めですしね」
「へぇ、そうなの」
慧音、というのはこの人里の守護者をやっている半獣である。妖怪だらけの寺に対する、彼女らしい気遣いだと神子は思った。
しかし発端が慧音だとすると、きっと白蓮は相当に苦労したのではないだろうか。彼女には若干、いやかなりの歴史マニアの気があるので、それこそ七夕関連の手持ちの資料をすべて寄越す、ぐらいのことはやりかねない。
「貴方は本当、勉強熱心ねぇ」
その様を想像し、神子は素直に感心した。実際の行事を執り行うのに関係ない部分まで調べる辺り、白蓮の生来の真面目さが出ていた。全部教えてやる、と豪語しただけのことはある。
「ありがとうございます。太子様にこうしてお教えできたことで、勉強した価値もあったというものです」
神子の言葉に対して、白蓮は冗談めかしてそう答えながら、また笑った。
「大げさな」
と苦笑して、神子も笑った。そうしてお互い笑い合いながら、次に神子は、自分でも思いがけない言葉を発していた。
「じゃあ次は、実際の七夕祭りのことを聞かせてもらおうかしらね」
言ってしまって、その言葉に自分で驚く神子。これは一体どうしたことか。団子屋で誘われた当初、自分は早くこの場を切り上げて帰りたいと思っていたはずなのに。
「――――」
案の定、というかなんというか。白蓮も少し驚いたような顔をしていた。まさか神子からそんなことを言われるとは思っていなかった、とでも言うように。
しかし彼女は、すぐに笑みを浮かべて、こう言った。
「そうですね。じゃあ方々をを回りながら、色々と話しましょうか」
その笑顔は、まさに花の咲くような美しさであった。神子が、思わず見とれてしまうほどに。
それから神子と白蓮は、人里の中を目的もなく歩き回った。
やれ、そこの辺りで去年の祭りに出ていた砂糖菓子が美味しかっただの。やれ、リンゴ飴が美味しかっただの。やれ、金魚すくいが難しかっただの。とりとめのないお祭りの話の一つ一つを、白蓮は楽しそうに話した。神子は、自分の知らない庶民の祭りの話に聞き入りながら、やはりどこか舞い上がっている、と感じていた。
そうした話が途切れると、今度はいつものようにお互いの宗教観の話をしたりもした。大体そういうことを話すと喧嘩じみた感じになってしまうものだったが、今は不思議と穏やかに話すことができた。こういうところも、なにか浮ついているような気配を感じさせた。
でも神子にも、その感覚はなんとなく分かるのだった。こうして話しながら目的もなく人里を歩いていて、お祭りの話をして。それに飽きたら今度は、なんの面白味もなさそうな宗教のことを話題に話していても。それでも神子も、この時間が決して嫌ではなかった。
そう、恐らくこの時間は間違いなく、よいひと時、であったのだろう。そして、もう少しこの時間が続くことを、神子もどこかで望んでいたのかもしれない。
「あら、珍しい組み合わせね」
だから神子は、突然背後から浴びせられたその声に、まるで冷や水を浴びせられたような思いを抱いた。
「道教と仏教が揃って、なんの悪巧みをしているの?」
続いたその言に、神子は渋々と振り返る。神子と同じような感情を抱いたのか、少し戸惑ったような顔で白蓮も振り返った。
「別になにも企んでなどいませんよ、霊夢」
そこにいたのは、幻想郷の調停者たる博麗の巫女。霊夢であった。
「どうだか。なんだか、ずいぶん宗教がかった会話をしていたようじゃない」
彼女は調停者然とした揺るがなさで以って、二人の間にやすやすと割り込んできた。会話を聞かれていた気恥ずかしさよりも反感が勝って、神子はつい険しい口調で答える。
「邪推はやめて欲しいわね。私たちは、今度の七夕祭りについて話していただけよ」
それに便乗するように、白蓮も続けた。
「そうです。神道と道教と仏教が密接に関わっている行事ですから、多少宗教がかった話になるのも道理でしょう」
「ちょ、ちょっとなによ。そんなにムキにならなくても、いつもの軽い挨拶じゃないの」
ややたじろいだ様子で霊夢が答える。それを見て神子は、少々大人気ない態度だったと密かに反省した。
「そういう霊夢は、人里でなにをしているんです?」
この話題を引きずらないことでせめてもの罪滅ぼしとしよう、という心持ちで、神子は強引に話を変えた。
「んー?買い出しに来たのよ、私は」
霊夢はそう答えると、腕組みをして唸ってみせた。
「最近、ウチに一人増えたからねぇ。その分買い出しに出る機会も二倍ってわけなのよ。おかげで家計も大変なことになってきててねぇ」
「あぁ、なるほど……」
白蓮が気の毒そうに頷いた。霊夢の下に増えたその一人に、彼女も心当たりがあるからだ。だが神子の方としては、霊夢の言い分を丸々信じる気にはなれない。
「なにを言っているの。こころは、自分の分ぐらいは舞で稼いでいたでしょう。それがどうして金欠になるのですか」
霊夢の下に居ついた、秦こころ。彼女は、神子が作り出した面が変じた妖怪で、その生まれの経緯からして舞の達人であった。紆余曲折を経て博麗神社に居候することとなった彼女の舞で、霊夢は結構な賽銭を集めていたと、神子は記憶している。
「そりゃまあ、確かにあの時は大盛況だったけどね……」
霊夢は、分かってないのね、とでも言いたげに首を振って、溜め息を吐いた。
「人は飽きる生き物だし、ただでさえ七夕が近いでしょ?みんなそっちの用意に忙しくて、最近はすっかり閑古鳥なのよ」
妖精や妖怪や魔理沙は賽銭を入れないしね、と霊夢は愚痴っぽく締めくくる。
「ふむ。要は、七夕の祭りから博麗神社は切り離されているということなのね」
「そうそう!そうなのよ!」
何気ない神子の言葉に、霊夢が突進するような勢いで近づきながら、そう言ってきた。
「さっきあんたたちが言っていたように、神道だって七夕に関わっているはずなのに、どうしてウチに屋台出そうって人間が一人もいないのよ!」
「いやまあ、それは……」
人間が一人とか二人しかいないからじゃないか、と神子は白蓮と目を見合わせた。さすがに口には出さなかったが、あそこはあまりにも妖怪が多すぎる。
「言いたいことは分かってるわよ、私も」
さすがに自覚があるのか、霊夢が渋い顔をしながら続けた。
「神社は妖怪だらけだから、善良な里の人々が寄り付かない、って言いたいんでしょう?でもそれが言い訳に過ぎないことを、今回の件で学んでしまったのよ私は」
それはつまり、こころの舞で一時的にせよ盛況になったことで、逆に普段の自分の怠けぶりを自覚してしまった、ということだろうか。
「ええと、そういうのを、自業自得、と言うのではありませんか?」
「ぐはあっ!?」
白蓮の容赦の欠片もない正論に、霊夢は胸を押さえながらうずくまった。当人が分かっているのに抉りこむとは、これはもう一種の精神攻撃といえる。
「うわぁ、容赦ないですね君は」
いっそ感心する、と驚きをこめて神子は言った。
「ち、違います!そんなつもりで言ったわけではありません!」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬ」
そうやって言い訳をする白蓮だったが、地の底の餓鬼のごとき視線を向けながら唸る霊夢の姿を見ると、素直に、ごめんなさい言い過ぎました、と頭を下げた。
ふん、とその謝罪を一応は受け入れて立ち上がりながら、霊夢は溜め息交じりに呟いた。
「……はぁ、寺はいいわよね、人里の近くにあって」
あんだけ妖怪まみれなのに受け入れられてるし、と追加で愚痴るのも忘れない霊夢だった。
「ふむ」
面白い着眼点だな、と神子は一人頷いた。いかに妖怪と人の共存を掲げているとはいえ、確かに命蓮寺は明らかな妖怪寺だった。もっといえば、住職たる白蓮とて人間ではない。なのに命蓮寺は人里で受け入れられて、博麗神社は恐れられる。アンバランスといえばアンバランスな話だった。
「いっそのこと七夕の時期は、里から神社までを屋台で埋め尽くしてくれればいいのに」
神子が一人で考え込むのを他所に、失意の霊夢は、ついにはそんな寝ぼけたことまで口にし始めた。
「いや、あの。七夕の祭りは夜がメインですから、里の外はちょっと……」
「聖、真面目に相手することはありませんよ。霊夢だって分かっているからこそ、こう言って――――」
いるのです、と続けようとして、神子はふとした違和感を覚えた。それと同時に脳内に想起されるのは、先刻の団子屋での会話だ。
あの時白蓮は、屋台の折衝で毎年揉め事が起こる、と言っていた。それはつまり、今の七夕祭りが限界ギリギリの規模で運営されていることを示している。
では、何故場所が空いているのに外に拡大しないのか。簡単だ。大抵の祭りは夜がメインで、なおかつ七夕はその性質上、さらに深夜まで行われる。そんな夜中に人里の外をうろつくことは、基本的に命知らずの馬鹿者がすることだからだ。
ならば、逆に考えてみてはどうか。
「霊夢。ひょっとしたら、貴方は天才かもしれませんね」
「は?なにを言い出すの?」
いきなりの神子の転換に、霊夢が目を白黒させて問うた。その疑問に、神子は一人で頷きながら答える。
「先程の、神社に屋台を出す話です。考えてみれば、たった一つのことをクリアするだけで皆が得をするようになる、ということではありませんか」
「んん?」
話が読めない、という様子で、白蓮と霊夢が目を見合わせる。
「つまりですね」
困惑する二人を見て、神子は得意げに人差し指を立てると、
「妖怪に、夜、里の外で人を襲わないでもらえばよいのです。それも、一晩だけね」
右目でウインクをしてみせながら、そう言ったのだった。
※
即決即断。鉄は熱いうちに打て。思い立ったら即行動。行動の機敏さを奨励し、称える言葉は、この国に幾つもあった。そして神子は、それを真理だと思っていた。もちろん、いくつかの手順や、根回し、機を待つ、というのが必要な場面はある。だが、こと最初の動き出しに関しては、早ければ早いほどいいものだ。
故に神子は白蓮や霊夢を伴い、人里をうろうろとしていたその足で以って、早速、会合の行われていた寺子屋に向かった。
結果は、保留。提案の内容は悪くないが、妖怪を抑える目処が立たないままでは採用はできない、ということであった。
「まあ、そりゃあそうよね」
少し先を行く霊夢が、頭の後ろで両手を組みながら、投げやりにそう言った。
「さすがに、いきなりすぎたのではありませんか?」
横を歩く白蓮が、胸に手を当てて、気の毒そうに言った。
「いきなりでいいのですよ」
だが神子は、あっけらかんとそう答えた。往来を流しながら、手に持った笏の裏面ををぽちぽちと叩く。そこには、神子の使う仙術を統括する一種のデバイス画面が表示されていた。いつもは使うことがないが、精密な移動や仙界の管理などには必須のアイテムであった。
今、そこに表示されているのは、とある場所の座標であった。いや、正確には、表示されるはずなのは、か。
「やはり――――」
神子は、画面に踊るエラーの文字に目をやり、にやりと笑った。そこには本来、博麗神社の座標が表示されているべきなのだった。そういう風に、神子が設定したのだから。
博麗神社は幻想郷の要で、博麗の巫女という楽園の調停者がいるにも関わらず、空間的セキュリティはザルも同然だったと神子は記憶している。だがどうしてか、今はそこへ直接空間を繋げることができない。ならば、そこには――――
「待っている、ということでしょうね」
神子は一人頷くと、デバイスを消して笏を仕舞いこんだ。
これでいいのだ。こうして相手の目に留まるように、あえて急ぎで動いたのだ。人里での急激な変化を、彼女は――――楽園の〝管理者″は望まないだろうから。
「二人とも、次は博麗神社に行きますよ」
神子はそう言うと、おもむろに仙術ゲートを開いてみせた。直通はできないが、近くまでならなんとか移動はできる。充分な時間短縮にはなるだろう。
「は?なんなのよ唐突に」
「私もお話が読めないのですが……」
困惑の声を上げる二人に、神子は悪戯っぽい笑みを浮かべて、答える。
「簡単な話です。妖怪のことは妖怪の賢者に話すのが一番、ということですよ」
「んんん?」
なおも首を傾げる二人の背中をぐいぐい押しながら、神子は続けた。
「ほらほら。あまり待たせるのは礼儀知らずですよ。通った通った」
そして三人は揃って、仙術で生み出された門の中へ入っていった。
※
「ようこそ。そしてお帰りなさい」
博麗神社へ着いた神子と白蓮、そして帰ってきた霊夢を迎えたのは、そんな涼しげな声であった。顔は見えない。彼女はこちらに背を向けており、大きな日傘と大きく広がった黄金の髪が、その姿を酷く不明瞭なものにしていた。
「なんであんたがここにいるのよ、紫?」
その不明瞭さを補正するように、まずは調停者たる霊夢が動いた。ずかずかと無遠慮に進んで、紫と呼ばれた人物の向こうに回りこむ。
「私は呼ばれただけですわ。ここに来たのは、ただの気まぐれ」
「どっちなのよ、それ」
腰に手を当ててうんざりしたように呟く霊夢に、紫はころころと笑った。
「さて」
ひとしきり笑うと、次に紫は、ゆるりとした動作で神子たちの側に振り向いた。傘の装飾が揺れ、金の髪が揺れる。しかしその輪郭と世界の境目は、先程までよりもどこかはっきりして見えた。
とはいえ、彼女も一筋縄でいく存在ではない。
「なかなかのお手前ね。まさか、霊夢を同伴させるなんて」
白々しくそう言う彼女の口元は、右手に握られた扇子によって覆い隠されていた。ついに振り向いても、これでは彼女の表情を完全に掴むことはできない。扇子の上部から覗く目は笑っているようにも見えたが、その歪みがかえって、不気味な印象を神子に与えていた。
「こうでもしなければ、話を聞いてももらえないでしょうから」
内心の動揺を抑えて、神子は不敵に笑った。
「お初にお目にかかります。妖怪の賢者――――八雲紫」
「こちらこそ、いつも見ていたわ。聖徳太子――――豊聡耳神子」
そう。彼女こそ、幻想郷のもう一つの要。霊夢と対を為す、幻想郷の管理者であった。
そうやってお互いの名乗りを済ませ、とりあえずの会談の格好が整ったところで。
「それで、いかがですか?」
前後一切の情報を挟まずに、神子はそう切り出した。彼女は、いつも見ていた、と言ったのだ。ならば、訊ねるのは答えだけでいいはず。
「そうね」
紫は、なんのこと、とは訊き返さなかった。最初からすべて知っていたように、思案に入った。神子の予想が当たったということだ。
「私個人としては、一晩ぐらいなら構わないと思うけれどね」
でも、と言って、紫は扇子をパチンと閉じた。瑞々しさと毒々しさを湛えた妖艶な口元が露わになる。笑みに歪んだような目元とは対照的に、その唇には感情の色が微塵も浮かんでいなかった。
彼女はそんなアンバランスな表情のまま、スッと扇子を持った手を伸ばすと。
「貴方は、どう思っているのかしら?」
迷いなく線を引くような動きで以って、こちらを指し示した。否、指しているのは神子ではない。その横にいる――――
「私、ですか?」
白蓮であった。彼女は突然話題の渦中に放り込まれて、戸惑ったような様子をみせた。
「妖怪というものは、そのあり方の中に人間相手のリアクションというルーチンが存在している。どれだけ弱くとも、どれだけ結果がしょうもなくとも、この基本ロジックは変わらない」
目元にだけ笑みを浮かべた不気味な表情のままで、紫が続ける。
「妖怪の保護と救済を掲げる貴方は、このロジックをたった一晩とはいえ破壊することに、なにも思うところはないのかしら?それは言い換えれば、七夕の一晩だけ妖怪という存在が消滅することでもあると思うけれど?」
「詭弁だ。たった一晩で、その存在の在り様が変じるはずが――――」
「私は、聖白蓮、貴方に訊いているのです」
思わず神子が反論しようとしたのを遮って、紫が冷徹に言葉を紡いだ。それはただの音であるはずなのに、不思議な威圧感で神子の動きを妨げる。それでようやく、神子は気づく。今、ひょっとして自分は、無意識の内に前に出て、白蓮を庇おうとしていた?
思いがけない自分の行動に、今度は別の意味で硬直する神子と対照をなして。
「そうですね」
と、今度は白蓮が前に出ながら答えた。
「でも、祭りの気配――――つまりハレの気は、神に捧げられるものです。そして妖怪たちは、人の思い次第で神にも魔にも変じる存在。ならば、充分に周知を行った上で祭りの範囲を広げることは、むしろ畏れと共にハレの気を受けて、妖怪たちにもプラスになると思います」
ハレとケ。非日常と日常の境界。それは、妖怪と神の間に引かれた境界を曖昧にするための武器にもなりえる。つまり、妖怪が消滅するのではない。むしろ、より力をつける結果になるのではないか。
「ふふふ」
白蓮の物言いに、今度こそ紫は笑った。扇子で口元を隠すこともなく、目元と口元のアンバランスもなく。感情の境界を画定して、確かに笑った。
「なるほど。確かに、筋は通っているわ。打ち合わせなしでこれなんて、ホント、羨ましい限りね」
「?」
彼女の笑いどころが分からずに、神子と白蓮は顔を見合わせた。これは、どういうことだ。許可が出たのか?
「あら、気づいていないのね」
顔に浮かんだ笑みの形を一段と濃くして、紫は扇子を動かした。その向かう先は、わずかな真横。神子の位置であった。
「貴方が今やろうとしていること。それって、要するに誰のためなのかしら?」
「誰のため、って――――」
ドクン、と。紫の言葉で鼓動が一際強くなるのを、神子は感じていた。
なんだ、この感情は。胸を押さえてやや俯きながら、神子は自問自答する。だって自分は、皆が幸せになる提案として、これを考えただけなのに。皆が笑う瞬間のために、これを考えただけなのに。なのにどうして、こんなに鼓動が増すのだろう。なのにどうして、顔を上げられないのだろう。
――――なのにどうして、少しだけ顔の熱量が増したような気がするのだろう。
「その辺にしておきなさい」
神子の思考を打ち切ったのは、巫女のそんな声であった。
「あいたっ!?」
続いて響く、紫の情けない声。
神子がようやく顔を上げてみれば、お払い棒を手に持って渋い顔を浮かべている霊夢と、その前で頭を押さえてうずくまっている紫の姿があった。
「なにするのよぅ、霊夢」
「あのね、紫。私だって、そこまで鈍感じゃないのよ?何事にも、突っ込んじゃいけない領域ってものがあるでしょうが」
「だって、私、その境界だって操れるし」
「下世話、っていうのよ、そういうの」
いつの間にか腕組みをしてお説教のような体の霊夢と、痛み故か目に涙を浮かべて情けなく抗弁する紫。そこには、先程までの強大な管理者の威厳はなかった。むしろ管理するはずの側が、見事に調停されていた。
「あのー、紫……さん?」
おずおずと右手を上げて、神子はその、突然出現した不思議空間に割り込んでいく。
「つまりは、ええと。私の提案は、許可、ということでよろしいのでしょうか?」
「ええ、そうね。許可します」
あたた、とまだ頭を押さえながら言って、紫が立ち上がった。
「きちんと後で、書類も作りましょう。妖怪同士の契約の様式で。やるからには半端では気持ちが悪いし、妖怪相手の通告は私が行いましょう」
「そ、そこまでしていただけるのですか?」
思いもかけない親切に、白蓮が驚きの声を上げた。許可する代わりに後は全部お前たちでやれ、と。それぐらい言われるのは当然覚悟していたので、神子も同様に驚いた。
「ふふふ、最初に言ったでしょう?私個人としては、一晩ぐらいなら構わないと思っているって」
それに対して紫は、再び扇子で口元を隠しながら笑った。きちんと声まで聞こえているので、今度はちゃんと笑っているのだと思えて、不気味さは大分薄れていた。
「だから、ね。人間相手に祭りを盛り上げるのは、貴方たちの仕事よ。少しでも霊夢の窮乏を助けられるように、せいぜい頑張ってちょうだい」
「一言余計!」
と霊夢が振り下ろしたお払い棒を、紫はヒラリと横に避けた。
「む」
と口を引き結ぶ霊夢に、じゃあね、と声を残して。八雲紫は、虚空に生まれた漆黒の闇の中へと消えていった。
※
八雲紫からの書類は、翌日に早速届いた。
七夕祭りについて、と題された一枚の書状は、非常に簡潔であった。
曰く、『来る七月六日から七日にかけての夜、幻想郷すべての領域において、人妖あい争うのを禁ず』
しかしその書状の効果は絶大であったようで、神子がそれを慧音に持っていくと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いていた。なんでも、問題なのは内容よりもその紙の質にあったようで、これは妖怪同士が正式な契約を結ぶ時に使用される、霊験あらたかなものなのだそうだ。妖怪相手に霊験を現してどうするのか、と神子は思わないでもなかったが、つまりはそれだけ格の高いものなのだろう。
そうして賢者直々のお墨付きが出たのなら、次は里の民への布告である。妖怪にも悪い話ではない、と啖呵を切ったからには、きちんと里の外にも祭りを広めて彼らに恩恵を与えなければ、ただの不義理となってしまう。こちらの方については、
「広く情報を報せるためには、やはり新聞が有効でありましょうな。結構面白いものですぞ、太子様」
という布都の助言を取り入れて、人里での〝発行″部数トップである文々。新聞を利用することにした。幸いこちらには、神子、白蓮、霊夢と最近話題になった宗教家三人が揃っていたので、射命丸文は二つ返事で請け負ってくれた。もちろん、余計な私見を交えないように、発行前には検閲を行わせてもらったが。
ちなみにその新聞の反応は、上々であった。我先に、と博麗神社までの沿道の屋台はすぐさま埋まったそうだし。境内に至っては、こころの舞が奉納されるという広告を添えていたおかげで、場所の取り合い寸前にまでいったという話であった。もっとも、巷で聞こえているのは、
「あの聖徳王が言うなら安心だろう」
「あの白蓮僧正が言うなら安心だろう」
という声ばかりで、博麗の巫女に拠り所を求める声がほぼ皆無だったのは、皮肉というより他にない。
ともあれ、団子屋での偶然の出会いから動き出した流れは、一度動き出したら止まることを知らず。まさに激流のような激しさで以って、実現へと突き進んでいった。
ちなみにあの日以来、神子は白蓮と会っていない。神子は慧音が行う祭りの裏方仕事を、乗りかかった船だ、とばかりに手伝って忙しかったし。白蓮の方も、神社までの沿道を念のために警備するのだ、とかなんとかで、寺の門下の妖怪や檀家の人々を回っていて忙しかったようだ。
心配性め、だの。余計怖がらせるんじゃない?、だの。神子としては言ってやりたいことがないわけではなかったが、わざわざ言いに行くことはしなかった。自分が忙しかったから、その暇がなかったからそうしただけで、神子としては深い意味のある行動ではない。別に、彼女が頑張っているのに冷や水を浴びせたくなった、とかそういうのではない。断じて。
忙しさは、時を加速させた。気づけば、三日が過ぎ、四日が過ぎ、五日が過ぎ、六日が過ぎ。そして、ついに七日目。
祭りの日が。
七夕の夜が、すぐそこまで来ていた。
※
七月六日。夕刻。
ついに始まった祭りの喧騒の中を、神子は一人寂しく、人里の外れに向かって歩いていた。どうして一人なのかといえば、答えは簡単である。単純に、一緒に歩く人間の算段をつけていなかったのだ。
「うーむ。こうなるとは思ってなかったわねぇ」
方々で上がるハレの声を浴びながら、しかしイマイチ乗り切れない体で、神子はそう呟いた。
そもそもなんでこうなったかと言えば、すべての元凶は慧音であった。最近の忙しさもあって、神子は当然のように祭りの最中も事務仕事をするつもりでいたのだが、いざ当日になって事務所に向かうと。
「ああ、聖徳王。せっかく来ていただいたところ恐縮ですが、今日は私たちでなんとか回しますので、王は是非に祭りの実際をお楽しみください。本来は部外者でありながらここまでの貢献をしてくださったのですから、その結実したものをご自身の目で見ていただきたいのです」
事務を取り仕切っていた慧音に、そんなことを言われたのだった。正直、断りたかった。そんなこと、考えてもいなかったから。だが、慧音のみならず、短い間とはいえ共に仕事をしてきた事務所の皆から、まったく同じ思いのこもった視線を向けられては。
「そ、そうですか。じゃあ、そうしましょうかね」
さすがの神子も、そう答えざるを得なかった。あそこで断ったら、空気が読めないにも程がある故、致し方なかったのだ。
そうやって事務所を追い出された格好の神子は、元々祭りを楽しむという予定を持ち合わせていなかったので、正直途方に暮れた。仕方がないので、慧音に言われた通りに、自分の動きによって実現した里外の祭りを見に行こうとして動き出したのが、ついさっきのこと。実際の成果を見れば、少しは楽しむ気も湧いてくるかな、と思ってのことだった。
「――――――――」
人ごみでごった返す道を行きながら、神子はかすかに己のヘッドホンを撫でた。雑音を遮り、自らの聞きたい音を選別するためのそれは、しかし今日はほとんど役に立っていなかった。
だって、聞こえてくる声は、皆、楽しそうであったから。
通り過ぎていく、男女二人連れの恋人たちも。男衆だけで集まったり女子だけで集まったりと、独り身でありながら、騒々しく姦しい者たちも。長年連れ添って、趣きある風情を醸す老夫婦も。はては、ここを商売時と声を張り上げ、売り上げで鎬を削る屋台の店主たちも。皆が皆、ハレの楽しそうな欲を放っていた。
いや、それだけではない。いつしか人里を離れ、博麗神社へ向かう沿道へと差し掛かっていた神子は、その歩みの途上で人間以外の姿も認めていた。
「いっちゃん、はいこれ」
「焼きそば、って……ちょっと、水蜜。貴方、持ち場はどうしたのよ?」
「いいじゃんいいじゃん。一人より二人のがよく見えるし、むしろ索敵精度は二倍だし。それにせっかくの祭りだよ?これをぶち壊そうなんてヤツ、きっといないって」
「調子いいわね。じゃあせめて、移動しながら食べましょう」
「お行儀悪いんだー、いっちゃん。後で聖に言いつけてやろ」
「そっちも同罪だけどね。一緒に食べるんだし」
そんな会話をしながら、笑顔で人ごみに消えていく舟幽霊と入道使い。彼女たちからも、辺りの人間からのものと同じハレの欲を、神子は感じ取っていた。この空気の下では、神と妖怪どころか、人間と妖怪の境すらあやふやになっているようだった。
「壊れてしまったのかしら」
神子はぼんやりと、そんなことを呟く。ヘッドホンのことではない。自分の耳の、ひいては自分自身のことだ。
欲を聞き、それを力に変えるのが生業であるはずの神子は、しかし今、どうにもその工程を上手く消化できなかった。この場で聞こえる欲の声は一つのはずなのに、どうしてもそれに乗っかることができない。
それはまるで。
今、この世界の中で、自分ひとりだけが取り残されているような感覚だった。
と。
「おお!太子様ではありませんか!」
その感覚を吹き飛ばすような快活な声が、どこからか聞こえてきた。え、と顔を上げる神子の視界の中に、ブンブンと派手に揺れる手が映る。
「布都?」
声からすれば、それは間違いなく物部布都であった。しかし彼女はその小柄さ故に、この人通りの中では姿を認めることはできなかった。
「ったく、なにやってんの、あんたは」
次いで聞こえてきたのは、どこかぶっきらぼうな声だった。よく知った、愛しさすら覚える声。蘇我屠自古の声であった。
その声と同時に、神子の視界で揺れる手がにゅっと高さを増した。恐らく屠自古が布都を抱きかかえたのであろう。往来の人々の頭からわずかな余裕を持って布都の顔がせり出してくるのを、神子は確認する。
突然の動きに、なんだ、と違和感を覚えた人々の波が、自然と布都の視界を辿って割れた。
「おお、良い働きだな屠自古。後で射的の景品をくれてやろう」
「どうせ当たらないわよ。弓とはわけが違うんだし」
その向こうに現れた、予想通りの二人を見て。神子は何故だか、無性に泣きたくなった。ひょっとしたらそれは、ようやくこの場で、自分にだけ向けられた声というものを自覚できたからかもしれなかった。
「二人とも、来ていたんですね」
そんな内心を悟られないようにしながら、神子は平素の体で二人に近づいていった。この二人の前では、太子様、でいる必要がなくとも。それでもやっぱり、カッコ悪いところは見せたくないのだ。
「ふっふっふっ、もちろん来ていましたとも」
屠自古に抱えられたままで腕を組みながら、布都が勝ち誇ったように言った。
「なんでも今回の祭りは前例のないことずくめで、一部では妖怪たちが警備に駆り出されているという話でしたからな。いかに賢者の布告があったとはいえ、奴らは所詮ケダモノよ。いつ暴れださないとも限らぬ。それ故に――――ッ!」
そして布都は、カッ、と目を見開き。バッ、とその両手を広げてみせると。
「それ故我は、監視者としてこの地を回っていたのである!」
最後に、キリッ、と音が聞こえてきそうなほどに不敵な笑顔を浮かべて、派手に大見得を切った。それは彼女のよく好むポーズであったが、今は屠自古に抱えられているため、足が所在なさげにフラフラと動いていて、どうにも締まりがなかった。
「買い食いばっかりしていた輩が、どの口で言うか」
けっ、と馬鹿にするように言って、屠自古が手を離す。急に支えを失った布都は自然の摂理の通りに落下を始めたが。
「うわっ、と、と、と!」
かろうじてバランスを取って着地し、二・三歩を移動したところでなんとか止まった。
「あ、危ないであろうが屠自古!離すなら離すと言わぬか!」
「太子様に見つけてもらう、って役目はもう果たしたでしょ。なのにいつまでも人を使えると思ってるのが、そもそも間違ってんのよ」
「ほほう、そういうことを言うのだな、お主は」
布都は再び腕組みをして、揶揄するようにそんな言葉を投げかける。
「我がせっかく、もっともらしい理由をつけてやったというのにのう。こうしておけば、我が馬鹿なことをしでかさないように、という理由もつけられたのにのう。いやはや、ここまで阿呆の子だったとはのう」
「ちょ、布都、あんた……」
屠自古の顔が、見る見る青ざめていく。いや、元来亡霊は青いものだが、それに輪をかけて、である。
「いやぁ、良かったのう。太子様が最近構ってくれない、お祭りにも誘ってくれない、どっか他の女と仕事してる、だのと仙界の片隅でのたまう可哀想な乙女は、どうやらいなかったようで。これは我が出てくる必要など、微塵もなかったかのう」
「ああああああああああああああ!」
突然叫びだしながら、屠自古が布都の口を塞いだ。もはや若干遅かった気もするが。
「違う違う全然違う!そんなこと言ってないから!空耳だから!ただ多忙だからお身体の心配をしていただけだから!」
そして矢継ぎ早にそう言うなり、屠自古は涙目で神子の方を振り向いた。
「ですからね!分かってますよね!?なにも聞いてませんよね!?」
「え、ええ。心配してくれて、ありがとうございます……」
あまりの剣幕に、こくり、とただ頷くことしかできない神子であった。
と。
「ごうがーいごうがーいごうがーい!清く正しい文々。新聞の号外ですよー!」
頭上からそんな声と共に、幾つかの紙片が撒き散らされた。何気なくそれを取って覗き込むと、どうやら祭りの進行に合わせて配布される、これからの行事のお報せのようだった。
「どれどれ?」
と神子が覗き込んでみると、『第百二十八季文々。新聞号外 まだ間に合う七夕イベント!!』というタイトルの横に、協賛:文々。新聞の文字があった。さすがにあの天狗。ちゃっかりしている。
「なにか面白い記事でもありました?」
布都を羽交い絞めにしたままの姿で、屠自古が横から覗き込んでくる。もがもが、と何事か喚いている布都を放って、そうねぇ、と神子はそれに答えた。
「もう少しで、博麗神社で舞の奉納が始まるわね。最近は閑古鳥だった、って霊夢は言っていたけど、あそこで七夕のイベントが行われるのは今年が初めてだからね。結構、盛り上がるんじゃないかしら」
「ふむふむ」
「――――っぷはああ!それはつまり、面霊気の舞であるな!?」
頷く屠自古の手をようやく引っぺがして、布都が叫んだ。
「太子様のお膳立てした祭りにきちんと貢献するとは、なかなか憎いヤツではないか。どれ、我らも見に行ってやりましょうぞ」
その布都の大声に、辺りからどよめきが生まれた。「おお、あの舞か」「最近すっかり忘れていたが」「初の行事であるし見に行こうか」そんな声が、あちこちから上がる。
そうして火が点けば、次の動きは一つだった。今まで統一感のなかった人々の流れが、博麗神社へと収束を始める。そしてその流れは、人を通じて際限なく伝播していき。
「おおう。あっという間に大洪水であるな」
布都の言う通り、神子たちの目の前には人の洪水が生じていた。図らずも、宣伝となってしまった形である。
「神社の宣伝してどうするのよ」
呆れた目で、屠自古がツッコミを入れた。対する布都は、あっけらかんと笑って答える。
「なに、心配するでない。面霊気は太子様作の面より生じた妖故、そこを通して集まる信仰の一部は太子様に還元されようぞ」
「そうなんですか?」
「さて。どうでしょうね」
神子がそう言って悪戯っぽく笑うと、ほれ見なさい、とばかりに屠自古が布都へ振り向いた。
「いやまあ、あはは。我、神社とも縁が深いのでな。そっちはそっちで、まあ頑張ってもらおうではないか」
「あーんたーはー!そうやって調子が良いことばっか言いやがって!」
ぐにぃ、と布都の頬を両手で引っ張る屠自古。
「いはいいはい!ひゃ、ひゃめにゅは!ひ、ひいのは?まひかもうふぐはしまっへしまふそ!」
「なに言ってるのか全然分からんわ!」
「まあまあ」
と二人の間に割って入りながら、神子は言った。
「確かに布都の言う通り、そろそろ舞が始まります。私も興味があるので、移動を開始しましょう」
「――――ったく」
渋々といった様子で、屠自古が手を離す。
「さ、さすがは太子様。話が分かりますな!」
開放された頬をさすりながら、うんうん、と頷いてみせる布都だったが、それは解読能力のことなのかなんなのか。
「では、善は急げと申しますし、早速行きましょう。先頭は我にお任せを!」
妙な張り切りを見せて、布都が宣言通りに先頭立って歩き出した。ほれ屠自古も、と振り返りながら合図するのに従って。
「はいはい。ついていってやんよ」
軽く溜め息を吐きながらも、決して嫌そうではない体で答える屠自古。
そんな二人の後について自らも歩き出しながら、神子は最後に一度だけ、人里の方を振り向いた。そして、その視線の先にいるであろう人物に向けて、まるで誘いをかけるように、一言だけ呟く。
「戯れは、まだまだこれからよ」
と。
※
博麗神社の舞は、大盛況だった。
押し寄せる人、人、人。そしてその狭間に当たり前に混ざる、妖怪や妖精。普段、妖怪の姿しか見かけることのない神社の境内は、まさに幻想郷を象徴するような光景に支配されていた。
こころの舞が、人妖を引きつけるのか。はたまた、祭りの空気が人妖怪を引きつけるのか。それとも、その両方なのか。この賑わいの正体を看破することは、非常に難しい。
しかしどちらであるにせよ、神子が作り出した流れが、今まさにここに結実しているのは変わらない事実だった。そしてその中心を成しているのがこころであることは、どこか彼女に運命的なものを感じさせた。
つまり、一四〇〇年の眠りの果てに、自らの作り出したもので人々の心を魅了する聖徳太子。自分勝手な行いや物言いをせず人々を導く、英雄で偉人で聖人である、私の愛しい聖徳太子様。
それは間違いなく、彼女の憧れの姿であるはずで。そして、その想いがあったからこそ、復活して勝手なことを言う豊聡耳神子に幻滅もしたはずなのに。
なのに、それでも何故か。
彼女は――――聖白蓮は、どこかで釈然としないものを感じていた。
※
「はふ、すごい人だかりね」
神社の境内からわずかに外れた木陰で、白蓮は、ふう、と一息を吐いた。彼女もまた、号外でこころの舞があるのを知って、全力でここにまで来ていたのであった。
人を捨てた結果のこの身体は、運動で汗をかくことはない。この夏の夜の蒸した空気の中ではそれは地味にありがたいことで、恐らく境内にひしめく多くの人々より、白蓮は体感環境は相当いいはずであった。
「でも、ね」
にも関わらず、今、白蓮はこうして木陰に避難してきているのだった。彼女は、人ごみというものが苦手だった。
僧侶なんてやっているから、白蓮だって注目を浴びるのには慣れている。大晦日や三が日ともなれば、寺に年越しや初詣の人々がわんさか押し寄せてくるし、彼らの前で話したり読経したりするのは、なんの苦でもない。
だが、こうして大衆の中に混ざるというのは、どうしても駄目だった。なんというか、別の神経を使うような感じで、妙に気疲れしてしまうのだった。
きっとこんなことを言ったら、あの人は笑うだろう。これだからお高くとまった坊主ってヤツは、なんて馬鹿にしながら。そして、いかに自分が人を導く存在として優れているのかを、お高くとまりながら説明してくれるに違いない。
そんな自分の想像に、白蓮は、ふふ、と小さく笑った。あまりにもその絵面が容易に想像できて、なんだかおかしかったのだ。
笑って少し元気が出たので、白蓮は木の幹に預けていた背を離した。これからどうしましょう、と顎に手を当てて考える。警備をしてくれている村紗や一輪の様子を見に行くのもいいし、自身で屋台を出すと言っていたマミゾウを冷やかしに行くのもいい。寺で留守番をしている響子や星のためにお土産を買っていくのもいいし、こんな時でも露骨に一人でいるだろうナズーリンの家を訪れてみるのもいいかもしれない。
そう。会おうと思えば会える者は、白蓮にはいくらでもいた。この祭りの中にあって、皆が皆、それぞれに動き回っていても。それでも、ここに行けば会えるだろう、と思える者たちがたくさんいたのだった。
もちろん、白蓮の身体は一つしかないため、どうしても会いに行く順番というものはできてしまう。ひょっとしたら、時間の関係で祭りの間には会えない者も出るかもしれない。しかし、その中に序列をつけることなどは、彼女は絶対にしないし、そもそもできない。一人に会ったなら、時間を超えてしまっても、必ず全員に会いに行く。白蓮は、そういう生き方しかできない存在であった。
それを自覚しているものだから、白蓮は次に自分が取った行動に、少なからぬ驚きを覚えた。どうしてかは知らないが、本当になんとなくで。彼女は、喧騒渦巻く神社の境内の方ではなく、深い闇が広がっている鎮守の森の中へと向かっていたのだった。
どうして、と。自問をする。
分からない、と。答えはすぐに。
でも、何故だかじっとしていられなくて。何故だか、こちらに向かわなくてはいけないような気がして。そんな衝動に身を任せて、白蓮は歩き出していた。
と。
暗闇のみだった白蓮の視界が、突然に煌いた。漆黒に代わって広がるのは、満天の星空。織姫と彦星を分かつ、天の川であった。
そして、その大河が起こる袂には。
「あ――――」
白蓮は思わず、惚けたような声を漏らしていた。だって、そこにいたのは。
「――――――――」
二つに跳ねた癖っ毛と、華奢な体躯。天の中心を刀身に刻まれ、太陽を象った柄尻の宝剣を佩きながら立つ、彼女は。
白蓮が今、最も会いたかった人であったから。
白蓮はすぐさまいつものように、太子様、と声をかけようとして。しかし、すんでのところで思いとどまった。
「――――――――」
神子は今、天頂に手を伸ばして立っていた。まるで、星々を掴もうとでもするように。まるで、天の理を掴もうとでもするかのように。そんな、一見するといつもと変わらぬ貪欲な姿勢で以って、立っていた。
だが、白蓮には分かっていた。それが、そういう欲望の果てにある姿ではないと。何故なら、今そこにいる豊聡耳神子という人物は――――
いつものような、すべてを照らそうとする太陽の如き輝きは鳴りを潜めていて。このまま星々の輝きに、逆に飲み込まれてしまいそうな。月の輝きに、逆にかき消されそうな。そんな儚さを、持っていたから。
このままでは、彼女がここからいなくなりそうで。それを、なんとしてでも繋ぎ止めておかねば、とそう思って。
「太子様!」
白蓮は思わず、叫んでいた。心臓がいつのまにか、早鐘を打っていた。かかないはずの汗が浮かんでいるのを感じた。
「――――おや、聖。奇遇ですね、こんなところで」
白蓮の焦りを他所に、こちらを振り返った神子はいつもの調子であった。手を引っ込めて、ふっ、と気障な笑顔を浮かべてみせる。
「どうしたのです?舞なら、あちらの境内の方ですよ」
「それはこっちの台詞です」
余りにも変わらないその態度に少し苛立ちながら、白蓮は答えた。
「太子様こそ、こんなところで一体、なにをなさっているのですか?まさか人ごみに当てられた、なんてつまらない言い訳はしませんよね?」
「ふふ。それは貴方の方でしょう?」
「なっ――――」
見透かされた、と感じて、白蓮は顔が熱くなるのを感じた。きっと神子のことだ。この後、情けない、とか色々と言ってくるに違いない。そう思って、白蓮は密かに身構える。
だが、いくら待てども、いつものような言葉は返ってくることはなかった。代わりに。
「いえ、私も、なのかもしれないわね」
ポツリ、と神子が漏らすそんな言葉だけが、暗闇の中に消えていった。
「実はね。はぐれちゃったのよ。一緒に舞を見に来た、布都や屠自古と」
屠自古、という名を聞いた時、白蓮は自分の胸がかすかに痛んだ気がした。しかし、それを白蓮自身が自覚する前に、神子が次なる言葉を投げかけていた。
「短冊に願い事はした?」
「ええ。人と妖怪が仲良く幸せに暮らせるように、と」
「――――それ、毎年書いてるでしょ?」
またしても、図星だった。でも仕方がないだろう。それこそが、自分の一〇〇〇年前から変わらぬ願いなのだから。
「そういう太子様は、どうなんですか?なにか願い事をしたのですか?」
あまりにも神子のいいようにされているのが気になって、白蓮は訊ねた。きっと彼女だって、いつものように変な不老不死の野望とかを言うに違いない。そうしたら今度は、こっちが笑ってやろう。そう思っての問いだった。
「私?私はね――――」
しかし神子は途中で言葉を切ると、こちらに背を向けた。そして、右手だけをこちらに差し出して、手招きするような動きを始める。
「?」
怪訝な顔をしつつも、それに従って歩みを進める白蓮。暗闇で歩いている間は気づかなかったが、どうやら森のこの辺りはわずかな傾斜を持っていて、ちょうど神子がいる辺りの位置で最高点を迎えているようであった。
「ほら、ここにおいで」
「なんですか、一体」
顔も向けない神子の様子にムッとしながらも、白蓮はその隣に並んだ。そして、
「まぁ、これは――――」
次の瞬間、喜びを含んだ驚きの声を上げていた。
そこには、幻想郷があった。
いつもなら夜の闇に沈むはずのあちこちで、ボウ、と提灯の灯りが揺れている。恐らく初めてであろう、夜通し行われる七夕祭りは、その全土に広がる幽玄の灯りで以って、幻想郷全体の姿を闇の中に浮かび上がらせていた。
「博麗神社は、幻想郷を見渡せるように、この位置に立っていると聞くわ」
神子が静かな声で言った。ああ道理で、と白蓮は納得する。幻想郷を見渡せる博麗神社の、その周りに広がる鎮守の森の、さらに先端。今、二人が立っているのは多分、地上から最も近い位置で幻想郷を見渡せる場所なのだった。
「座りませんか?」
突き出した崖の突端に向かいながら、神子が訊ねてきた。大丈夫ですか、と白蓮が問うと、
「補強しておきました。なんとなく、こうなるような気がしていたので」
なんてことを言って、神子は悪戯っぽく笑った。きっとその時の力の動きを感じたから、あの時自分はこっちが気になったのだろうな、と白蓮は思った。
「では、ご一緒しましょう」
仕方のない人だ、と溜め息混じりに言って、白蓮は神子の後に続いた。
「よいしょっと」
「横、失礼しますね」
二者二様の声と共に、崖の縁に座る。二人の間には、ほんの掌の厚さぐらいの隙間が開けられていた。
そうして二人、並んで座りながら、しばしの沈黙が流れた。祭りの喧騒も、ここまでは届かない。間に横たわる夜の闇が、恐らく騒がしさのすべてを飲み込んでしまっているのだと思えた。
しかしその沈黙が、白蓮は嫌ではなかった。かすかに横から聞こえる息遣いだけで、相手がいる充分な証明となっていたから。
と。
「あの灯が見えますか?」
唐突に沈黙を破って、神子が言った。いつの間にか上げられていた彼女の右の人差し指が示すのは、人里から博麗神社へと向かう一筋の光の道だった。
「ええ。とてもよく」
それを目で辿りながら、白蓮は静かに答えた。その輝きは、まるで地上に出現した天の川のようだと、白蓮は思った。
「私は、実は願い事はしなかったんです」
そういうのは性に合いませんし、と。地上の天の川に向けて、神子は静かに呟いた。
「ですが、あの灯は。あれこそまさに、この幻想郷を象徴しているものだ、と。貴方は、そうは思いませんか?」
「――――――――」
突然に神子が発したその言葉に、どう答えるのが正解なのかが分からず、白蓮は一瞬、息を詰めた。彼女の言いたいこと自体は、分かっている。人と妖怪の共存。一晩だけとはいえそれを実現したこの光景は、貴方にとって理想でしょう、と。つまり神子は、そう言っているのだった。
でも、それは。
それはあくまでも、白蓮の願いであって。
神子の願いなどでは、決してなくて。
「私は、私の答えしか、返すことができません」
だったら、神子が色々と動き回って実現したこの祭りを、白蓮が評するということは。それはもう、一種の冒涜のようなものではないか。そう感じて、白蓮はやんわりと拒絶の意思を示した。だが、神子は、それに不快を訴えることもなく、軽い調子で言った。
「いいんですよ、私になど気兼ねしなくても。私は、貴方の言葉こそを訊きたいのです」
「そ、そんな――――」
よく恥ずかしげもなく、そんな台詞が吐けるものである。白蓮は少し俯いて、神子から顔を隠した。ひょっとしたら今の自分は、この薄闇の中でも分かるぐらいに、赤面しているかもしれなかったから。
「ねぇ、聞かせてちょうだい」
とはいえ、どうやら神子は、答えるまで許す気はないようだった。白蓮もそこまで意地になる気はなかったので、仕方ない、と観念して口を開いた。
「正直に言うなら、とても……ええ、とても素晴らしい光景だと思います。人と妖怪が共存する、幻想郷の理想の姿。夜でも色あせることのない、本当の理想郷」
そんな白蓮の答えに対して、次に神子が放った言葉は。今まで彼女と話してきて聞いたどの言葉よりも、白蓮を驚かせた。
そう、よりにもよって彼女は。
「――――ああ、良かった」
と。
まるで、心の底から満足した者が、死に際に発するような言葉で以って、白蓮に答えたのだった。
「よ、良かった……?」
白蓮は慌てて訊き返す。それは、どういうことだ。つまり神子は、まさか――――
脳裏に浮かびかけた妄想を、白蓮は頭を振って掻き消した。ありえない。そう、そんなはずはないのだから。だって神子は、いつだって白蓮の理想を小馬鹿にしていて、自分勝手で、王様みたいな性格で、それで誰にだって優しくて――――
「あの、太子様?」
それでも。それでもどこかで、消しがたくて。
「太子様こそ、どうですか?この、光景を見て――――?」
つい、そんなことを、白蓮は訊ねていた。言ってしまって、思う。これに自分は、どんな答えを望んでいたのか。拒絶して欲しかったのか、褒めて欲しかったのか。それすら、白蓮には分かっていなかった。
「そうですねぇ」
神子は暢気な調子で、白蓮の疑問に答えた。その声には、いつものような覇気がなくて。
「悪く、ないかもしれませんね……」
だから、そんな声と共に突然肩にかかってきた重さに、白蓮は最初気恥ずかしさよりも、心配の感情を強く抱いた。
「た、太子様!?どうなさいました!?」
華奢な身体を抱きとめるようにしながら、白蓮は神子の顔を覗き込んだ。そして、
「すぅー……すぅー……」
規則正しく上下する貧相な胸と、口から漏れる呼吸の音を聞いて、思わずずっこけそうになった。
「ね、寝るんですか……このタイミングで……」
なんだか釈然としないものを感じて、白蓮は思わず叩き起こしてやろうかとも考えた。だが、その幸せそうな顔を見ていると、どうにもそんな気も削がれてきてしまって。
「もう、仕方ありませんね」
渋々、自分の肩に神子の頭が乗るのを受け入れた。寝かせるだけなら膝に誘導するべきだったのかもしれないが、どうしても恥ずかしくて、それはできなかった。
そうやって再び、場からは動きがなくなった。動くに動けないし他にやることもなかったので、白蓮は一人、ぼんやりと眼下を見つめることにした。しかし、
「お、落ち着きません……」
こうして静かにしていると、どうしても肩に当たるかすかな吐息を意識してしまう。柔らかな感触を意識してしまう。開いていたはずの隙間がこんなに大事なものだったのか、と白蓮は今では永遠に失われたものに追悼の意を抱いた。
と。
「わふぅ……」
いきなり神子が、そんな動物的な寝言を漏らし始めた。
「い、犬かしら?」
平静を装いながら、白蓮はその口元に耳を寄せる。すると、
「むにゃ……うん、楽しい、ですねぇ……」
今度はまっとうな寝言が聞こえてきて、白蓮はなんとなく安堵した。うん、こちらの方が、まだ精神に優しい。
しかしその思いは。
「分かります、よ……みんな、笑顔で……楽しそうな、欲が、伝わって……きて……」
次に続いた言葉で。
「ほんと、に……良かったですね、聖……」
見事に、バラバラに砕かれることとなった。
「え……?」
聞き間違え、だと思いたかった。いや、たとえ本当のことであっても、それはただの寝言で現実とはなんの関係もないとか。はたまた、本当は起きていて、白蓮をからかうためにわざと言っているとか。白蓮の頭の中に、この言葉が彼女の本心ではないのだ、と思い込ませるための状況が、いくつも浮かぶ。
なのに神子は、続く言葉で。
「がんばり、ました、ね……ひじり……」
そんなことを言い出すものだから。
次の瞬間、白蓮はまるで茹蛸のように、耳たぶまで真っ赤になっていた。
「そ、そんな、嘘……?」
なおも心のどこかで、そのこと、を認められない白蓮の耳に。
『あら、気づいていないのね』
神社で聞いた八雲紫の声が、時を越えて響いてきた。
『貴方が今やろうとしていること。それって、要するに誰のためなのかしら?』
まさか、ひょっとして。
ひょっとして、この人は。豊聡耳神子は。
全部。これを全部、私のためにやっていたの?
『私は、実は願い事はしなかったんです』
心臓の鼓動が、痛いほどに早くなる。顔だけじゃなくて、全身が沸騰したように熱い。汗をかかないはずの身体が、またじんわりと濡れるのを、白蓮は感じていた。
でも、真っ先に浮かんでくるのは、喜びよりも。
「どうして……」
という、そんな疑問であった。だって白蓮には、神子にそうまでして尽くしてもらう理由がない。どちらかというと宗教敵として、疎まれる方が正しいとさえ思える関係だ。
でも、この人は。
「うふふ……ひじりぃ……楽しそう、ですねぇ……」
そういう相手だって、当然のように、笑顔にしたいと思うような。できるならば、その欲を満たしてやりたいと思うような。そんな、どうしようもない聖人なのだった。
白蓮が七夕から盆にかけて忙しいのはいつものことだし、それはそもそも自分の宗教に関係することだから苦ではない。こうして教えを広めることが理想への道となるのだし、命蓮寺の妖怪たちを人里と関わらせるのは、双方にとって悪いことではないからだ。
でも、神子は違う。彼女は道教の仙人で、しかし別に道教を布教する目的などなく。ただ、自分の思うままにこの世を生きるのだ、と言ってのけて、勝手に不老不死を求めて生活をしているはずで。故に彼女には、白蓮を助ける意味も、道理も、ましてや、こうして疲れ果てて眠るぐらいまで忙しく働く必要なんて、微塵もなかったはずなのに。
「それでも貴方は、そうしてしまうのですね」
絶望的な気持ちでそんな言葉を漏らしながら、白蓮は思わず、ぎゅっ、とその両手を握り締めた。そうだ。これは自分のせいでもあった。どうして気づかなかったのだろう。どこから気づかなかったのだろう。団子屋で話してから、八雲紫に出会うまで。そのどこかで、彼女を止められたはずなのに。
「太子様……」
スッ、と。白蓮は右手で、柔らかな神子の頬を撫でた。人を捨てたはずでありながら、その身は充分に温もりを湛えていて、それ故に白蓮の胸に痛みを与えた。
彼女の、豊聡耳神子の行いは、きっと誰にも評価されない。
『人は飽きる生き物だし――――』
霊夢の言葉が、脳裏に響く。そう。この国の礎を作った偉大な聖人だって、一四〇〇年の時の流れの果てには忘れ去られるのだ。
祭りは、ハレだ。ハレの気はケの日常に戻れば忘れ去られるもので、ならば今、神子が実現したかつてない祭りを楽しんでいる人々だって、明日の昼にでもなればすべてを忘れてしまうことだろう。
でも。
「私は、覚えています」
でも、白蓮は忘れない。一週間前のあの日にあった出来事を。今日あった出来事を。そして、今話した出来事を、日常に戻っても、決して忘れない。どんなに時が経っても、人々の記憶が風化しても、必ずその姿を見つけて、観測し続ける。
だってきっと。
きっとそれだけが、白蓮にできる、救いだから。
しかし、仏の道が謳うのは、一切衆生悉有仏性。すべてのものは仏の性質を持っていて救われるべきであるという考え方だ。それは裏を返せば、仏の前にはすべてが平等であるということでもある。仏の救いに選別はなく、あらゆる者は平等に救われねばならない。
なのに今、白蓮は、彼女を。この、豊聡耳神子という一人の聖人を。その人だけを、救いたいと思っている。
「ああ、これは――――」
これは、本当ならば、許されない想いかもしれない。仏の道に反する、悪魔の所業かもしれない。
だけど、今だけ。
空の彼方で織姫と彦星が出会い。
世界中のすべての皆がそれに目を向けて。
きっと、天頂におわす天帝さえも、そこに注目している今だけ。
こうして私が、彼女の止まり木となることを、許して欲しい。見逃して欲しい。
歪に隣り合っていた、二つの影が重なる。
全身で神子を支えて、その温もりを感じながら。
白蓮は最後に、こう願うのだった。
どうか。どうか世界よ、まぶたを閉じて。
あのお団子屋さん好きなんだなぁ、
と思ったり、
白蓮の膝にダイブって…
と笑ったり、
今度は聖が赤面する番か…と、
楽しく読めました。
一作目を読んで、丁度七夕のついさっき投稿されたようなので読ませていただきました。
この作品たちのひじみこのイメージが自分の中のイメージになりそうです。
ひじみこタグ占拠の日を楽しみにしています。
やっぱり相も変わらず貴方様が提供するひじみこは素晴らしいです。
単純にデレデレしちゃって、もう結婚してしまえよ。って思ってしまう程のひじみこでした。
誤字報告
神はが→神子が
あと誤字ではないですが、村沙は基本的に皆からは上の名前でしか呼ばれていなかったはずです(星蓮船.キャラ設定text)。
細かいことですので(違っていてたら必然的に)、無視して構いません。
霊夢と紫との絡みも中々面白かったです。
できればこころちゃんにも登場して欲しかったんですが、贅沢言ってられませんよね。すみません。
何はともあれ、七夕にちなんだ素晴らしいひじみこをありがとうございました。
次回も良いひじみこを期待してます。
もっとひじみこ流行れ!
早く結婚しちゃいなよ。
ひじみこ最高!
地上の天の川とは実に素晴らしいアイディア。幻想郷の中でも実に幻想的な風景なのでしょうね。
聖視点も見てみたいと思っていので良かったです。あまーい。
屠自古もまけるな。
紫との対話で自分に違和感を感じる神子様が良いですね…。
自分の中で答えが出ない感情に戸惑う姿はかわいらしいです。
ふとじこのやりとりに癒されつつもラストシーンでひじみこうおぉぉぉぉ!と内心とても荒ぶりました!!
ごちそうさまです!!
次も是非ひじみこを…ひじみこを…!
>1
拙作がイメージ構築の土台になるなんて、非常にありがたいです。照れる。
>2
こころちゃんは個人的にもお祭りのところで入れたかったんですが、どうにも締まりがなくなりそうで
泣く泣く出番なしになってしまいました。申し訳ない。
あと、村紗を一輪が下の名前で呼ぶのは、完全な独自設定です。そういう感じがいいのでそうしただけです。
>5、7
もうさっさと結婚して欲しくもあり、そっと寄り添って欲しくもあり。この二人は書く側にも不思議なジレンマを呼び起こす。
だが、それが良い。
>16
アイディア的なものを褒められたのは初めてでとても嬉しい。ありがとうございます。
>21
聖視点で〆るのがこの作品の最も重要な部分だと思って書いたので、気に入っていただけたならこんなに嬉しいことはありません。
>22
自覚してない恋心による戸惑いって、いいですよねぇ。
>39
ちゅーかどうかはご想像にお任せするスタイル、とだけ言っておこう。
その他の方も、本当にコメントどうもありがとうございました。
この二人は書けば書くほど好きになっていく。もっと書きたいと思う。やはり、ひじみこはイイ……
すてきなひじみこに顔筋崩壊。楽しませていただきました、ありがとうございます。
今まであまりひじみこ、もっと言えば聖も神子も特別思い入れのあるものではなかったのですが、
作者様の作品を読んでじわりじわりと株を上げてきているのが実感できます。
あと
>オフなのについ仕事をしてしまう仕事中毒の旦那を、妻が最後に労う感じになってしまった。
が実に的確ですごいなと。
ひじみこサイコーーーー!!!!
やや違う方向を見据えながらもたれ掛かり合う様な望みと望みがこうして通じ合う瞬間をこそりと覗かせていただきました。ありがてぇ…ありがてぇ…。