蓮子が猫にはじめて会ったのは、春の日の夕方だった。大学に合格したてで、入学式をひかえたはじめてのひとり暮らしのアパートの部屋に、あたたかく、柔らかな夕陽が、洪水のように流れ込んでいた。買い物から帰ってきたところで、部屋の中に風を入れたかったから、窓をすこし開けた。すると、猫がいっぴき、そのすこしの隙間からぴょいと入ってきた。
蓮子はおどろいて、その場から二、三歩後ろに飛び退いた。すると、さっきまで蓮子が立っていた場所に、猫が位置をしめて、目をそらさずにじっと蓮子を見つめる。おそるおそる、蓮子は猫に近寄った。猫は動じる様子もなく、撫でられ、そして、抱き上げられた。
飼い猫なのかな、と蓮子は思った。ずいぶん人に慣れていて、逃げる素振りがまったくない。人間なんかが自分に危害をくわえるとは、思ってもいない様子だ。蓮子は正座し、猫を膝の上に乗せて、とっくりと猫を観察した。毛並みの片側にオレンジ色の夕陽が強くあたっていて、金色に輝いているようだった。陽があたっていないところは、これは不思議な色で、うすい紫色のように見えた。猫のあごの下に手をやって、顔を持ち上げて自分のほうに向ける。猫にしては顔に険のない、ちょっとおっとりした感じの美猫だった。瞳の色は、これも夕陽の光の中で見ると、青にも赤にも、金色にも見える。
手をはなしても、猫は逃げなかったので、蓮子はお皿を用意してやって、猫といっしょに夕飯を食べた。のりや、煮干しを買ってきてよかったと思った。おやつとして買ってきたブルガリアヨーグルトをちょっと与えてみたら、猫はそれをとても気に入ったようで、あっという間にぺろぺろ舐めて食べてしまった。
その夜、蓮子は不用心だな、と思いながらも、猫のためにわずかに窓を開けて眠った。朝起きると、猫はいなくなっていた。
窓の外を見る。蓮子の部屋は二階にあって、外にある大きな桜の木の枝が窓の外のすこし手前まで張り出している。まるで『赤毛のアン』の、アン・シャーリーが眠った部屋みたいで、それが好みで蓮子はこの部屋を借りることに決めたのだった。猫はその桜の枝を伝って入ってきて、同じようにして出て行ったのだろう。
アンが、雪の女王(スノー・ホワイト)と名付けた桜の木は、とても真っ白な花を咲かせたのだという。あの猫は、と蓮子は思った。真っ白って感じじゃなかったわ。金色にも見えたし、うす紫にも見えたし……まるで夢のなかで見るみたいな、不思議な色に見えたわ。
あんな猫に会えたのだから、自分の新生活は幸先がいいぞ、と蓮子は思った。近くに住んでいる猫だったら、また会う機会もあるだろう。そのときに備えて、なにか猫にあげる用の食べものを買っておこうか。そんなわけで、蓮子はその日キャットフードと、何種類かのヨーグルトを買って家に帰った。
その日の夜は、猫はあらわれなかった。けれどはたして、次の日には姿を見せた。はじめの日と同じように、窓から入ってきた猫を見て、蓮子は嬉しくなって、抱きしめて頬ずりしてしまった。猫はニャア、ニャアと鳴いた。それで蓮子は、猫をニャアと名付けた。
◆
猫はそれから、平均すると、三日にひと晩は蓮子の部屋にやってきて、泊まっていくようになった。とても人に慣れた猫なので、やはり飼い猫なのだろう、と蓮子は考えて、近隣の住民にそれとなく聞きこみをしてみたが、誰に聞いても、そんな猫は知らないし、見かけたこともないし、このあたりでは誰も猫を飼っていないのだ、という返事が返ってきた。あんなに美しくて目立つ猫なのに、おかしなことだと思った。
猫はだいたい、夕方にやってきて、夜のうちに帰っていった。蓮子より早く眠り、早く起きだして、朝になるといつもいなくなっている。ご飯をねだるときに、ニャアオと鳴く。行儀の良い猫なので、それほど強引にねだるわけではないけども、鳴きだしてもご飯をあげずにほうっておくと、だんだん声を大きくして、ニャアオから、マーーーーーーォ、マーーーーーーーーーォと、声を長くして鳴くようになる。それで立っている蓮子の足や、座卓で勉強をしている蓮子の腰に体をすりすりすりつけてくる。可愛くて気持ちが良くて、蓮子は頭が馬鹿になってしまいそうになる。
猫を後ろ側から見て、尻尾を上に持ち上げてやると、おしりの穴の下にコーヒー豆のような外陰がある。つまり、雌の猫だった。猫の年齢は、蓮子にはよくわからないけども、子猫ではないし、かといって経験を積んだ老猫でもないのはわかった。ちょうど大人になったばかり、といったふうの、若くてしなやかな体つきをしている。
はじめて猫に出会ってから、三週間がすぎた。猫は定期的に蓮子の部屋にやってくる。蓮子は悩みながらも、ニャアに首輪をつけることに決めた。
誰かの飼い猫だったら、と思うと、勝手なことをしているようで気が引けたが、所属不明の猫としてあたりをうろついているのだとすると、保健所の野良猫狩りに引っかかってしまうかもしれない。蓮子はペットショップに行き、首輪を買ってきた。皮でできた、ピンク色の上に白や赤の花びらの模様がついている、おしゃれなものを選んだ。貧乏学生の蓮子からすると、それは高価なものだったけど、気に入ってしまったのだから仕方ない。首輪をつけられるとき、猫は多少、窮屈そうにしていたが、すぐに気にならなくなったようだった。その夜、首輪をつけた猫といっしょに、蓮子は眠った。朝になると、猫はやっぱりいなくなっていた。
次にニャアがやってきたとき、蓮子は自分がつけた首輪に、小さく折りたたまれた紙がくくりつけられているのを見つけた。取り外して、紙を開くと、それは手紙で、内容はこういうものだった。
『
ミィの飼い主様へ
はじめまして。私はこの子に、ときどきご飯をあげていた者です。勝手なことをしていたようで、ごめんなさい。もしかすると、私がご飯をあげたせいで、あなたがあげるご飯を食べられなかった日があったかもしれません。どうぞお許しください。
この子がとても可愛いのが、いけないんです。この子がミィミィと鳴くのを聞くと、どうしたって、ご飯をあげたり、背中を撫でて眠らせてやったり、せずにはいられませんでした。あなたの家に帰らなかった晩、この子は私のところで眠っていたんです。
私はこれまで、猫を飼ったことがないので、猫と寝るのははじめてでした。とても体温が高くて、あたたかいと思いました。この子がいれば、春用のお布団の一枚は、いらないんじゃないかと思ったくらいでした。でも、朝になると、この子はいなくなってしまいます。あなたの家で、朝ごはんを食べていたのでしょうね。
失礼なことを書きます。私はあなたがうらやましくて、嫉妬しています。こんな素敵な猫を飼えるなんて、ほんとうに果報だと思います。ねたましくって、身悶えしてしまいます。
私はこの子を、ミィと呼んでいます。ミィミィと鳴くので、そう呼ぶことにしたのです。ありきたりな名前すぎて、自分でもおもしろみがないと思うけど、でも最初にそう思い込んでしまったのだから、しかたがありません。
この子の飼い主様へ。あなたがつけた、この子のほんとうの名前は、なんというのでしょうか。教えてもらえれば、私もこの子を、その前で呼びたくなるかもしれません――思わないかもしれません。
いま、時間をおいて、上の文章を読み返しました。どうにも身勝手で、失礼な文章だと思いました。ごめんなさい。
でも、悔しいから消さないで、このまま読んでもらおうと思います。
もうひとつ、失礼なお願いをします。この子がまた私の家に来たら、いままでのように、ご飯をあげたり、いっしょに眠ったりしてもかまわないでしょうか? お願いです。私はこの子が大好きなのです。
かしこ
素敵なミィの飼い主様へ
』
◆
蓮子はおどろいてしまった。つまり、ニャアは自分の部屋のほかにも泊まる部屋をもっている。そしてそれは、蓮子が想像していたような、責任を持った、正規の飼い主ではなくって、蓮子と同じように、おっかなびっくり猫の世話をしている相手なのだ。いるのかどうかもわからないほんとうの飼い主に遠慮し、そして嫉妬しているところまで、蓮子とそっくり同じだった。
どうしようか。自分が猫に首輪をつけたせいで、手紙の相手は、自分を猫の飼い主だと勘違いしてしまった。手紙をもう一度、繰り返して読んだ。自分で書いているとおり、なんだか失礼な手紙だった。猫の飼い主にたいして申し訳なく思う気持ちと、うらやましい気持ちと、猫とこれまでと同じ関係をつづけたい気持ちがないまぜになっていて、とても混乱しているのが読み取れる。とにかく、この人の誤解を解いてやらねばいけないだろう。
蓮子はニャアを見た。お前、あっちでは、ミィ、ミィ、と鳴くの、と問いかけてみた。猫は黙って、はじめて会った日と同じように、不思議そうな目をしてこちらを見返している。可愛いけれど、厚かましい猫だわね、と蓮子はため息をついた。それからもらった手紙と同じような大きさの紙に、返事を書きはじめた。長い時間をかけて、何度も推敲し、やっとできあがったころには、もう猫は眠っていた。蓮子は手紙をニャアの首輪にくくりつけ、ぐったりとした。なんだかうらめしい気持ちだった。
『
ニャアの飼い主ではない私より
はじめまして。お手紙、ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。あなたの家では、この子はどんな様子でしょうか。私の家では、ご飯をせがむとき以外は、わりとおとなしい猫です。ただ、私が書きものをしていると、私の右手の先で動いているペンのおしりに飛びかかってきて、レポートを台無しにしてしまうことがあります。でも、猫ってそんなものなんじゃないかな、と、少ない経験から勝手にそう考えています。
私も、猫を飼ったことがないのです。私はこの子の飼い主ではありません。
ニャアの首輪は、保健所の野良猫狩りに捕まってはいけない、という理由で、私がつけました。三日に一度くらいやってくるこの子を、まるで恋人を待つように(この比喩表現を、私は大変悩んだ末に書きました。どうにも恥ずかしくて、照れてしまいますが、でも、ぴったりだと思います)、いつもじりじりとした気持ちで待っています。あなたが書いたように、この子はまったく可愛い猫です。可愛すぎて、私もあなたも、この子のとりこになってしまったようですね。そう考えると、なぜかうらめしい気持ちになってしまいます。つまり、私もあなたに嫉妬しているのです。
ニャアの好物はブルガリアヨーグルトと、焼きいりこ(小魚を特殊な製法で薄くパリパリに圧縮して引き伸ばした、人間用のおつまみです。小さい丸い缶にはいっているもので、880円)です。あなたの家では、どんなものを食べますか?
すいません、先に謝っておきます。気分を害されるといけませんが、でも、この子の鳴き声は、ミィミィではなく、ニャアニャアだと思います。
ネーミングセンスに関しては、私もあまり自信がありません。
かしこ
ニャアの飼い主ではないどなたかへ
』
◆
蓮子が手紙を出してから、三日が過ぎた。その間、蓮子はとてもドキドキしながら返事を待っていた。はじまりたての大学で、はじまりたての授業を聞いていても、あまり身が入らず、入学早々こんなことでは先が危ぶまれるぞ、と、自分で思うほどだった。四月が終わり、五月になろうとしていた。桜はとっくに散っていて、みずみずしい葉桜が白い花のかわりに息をはじめていた。もうすぐ梅雨がやってくる。
その日の夕方になっても、ニャアはやってこなかったので、蓮子は半ばあきらめながら、窓をいっぱいに開けてそこから外に顔を出し、夜の空を見た。春らしいおぼろ月夜で、月とそのまわりの星が夜のなかでほのかに霞んでいる。蓮子は自分の位置を知り、心のなかで時刻をかぞえた。自分はとても変な、他の人とはちがう目を持っている。けれどそれは、猫を見つけるのには役に立たないのだと思った。
そのまましばらく待っていたけれど、やっぱり、ニャアはやってこなかった。しかたがないので、蓮子は窓に背を向けて、座卓の上で開きっぱなしの教科書に向かった。蓮子が所属しているのはかなり難しい部類の学部で、優秀な頭脳をもっている蓮子といえど、予習なしに授業に臨むのは無謀というものだ。
しばらくの間、かりかりという筆記用具がたてる音が蓮子の小さな部屋のなかに響き、白いノートがはじめからじゅんじゅんに文字や数字で埋まっていった。右手が疲れるくらいまで、蓮子は勉強をつづけて、それからうーんと座ったまま背伸びをした。かすかに、猫の声が聞こえた気がした。首を回して、もう一度窓の外を見ると、葉桜になった桜の太い木の枝に、猫が座っていた。
夜のなかで見る猫は、部屋のなかで見るときのそれよりも、いっそう神秘的に見えた。月の光を浴びた毛並みは、電灯の下で見るよりもずっと色が濃くて、そしてやっぱり変な色をしていた。月のような金色にも、夜のような紫色にも見える。しっかりと見つめつづけていないと、夜のなかに溶けて消えてしまいそうだった。
「ニャア、ニャア。おいで」
と声を出して、蓮子は猫を呼んだ。猫はそれを待っていたかのように、ぴょんと飛んで、蓮子の腕のなかに入ってきた。ぎゅっと体を抱きしめると、外気を含んだ毛皮がすこし冷たく思えた。でも、その下には、しなやかで弾力を持った、とてもあたたかな獣の体がある。
ご飯をねだらなかったので、今夜はもうどこかで食べてきたのかなと思った。蓮子がつけた首輪に、また、紙が挟まっていた。蓮子はわくわくしながら手紙を読んだ。
『
ミィもしくはニャアの飼い主ではない誰かさんへ
お手紙ありがとうございます。大変おどろきました。私はてっきり、あなたをこの子の飼い主だと思っていたの。
してみると、この子はやっぱり、飼い主のいない野良猫なのでしょうね。首輪は、いいアイデアだと思います。可愛いミィが、保健所なんかに捕まったら、悔やんでも悔やみきれないもの。
あなたのお手紙を読んでから、私は注意して、この子の鳴き声を聞いてみたわ。でも、やっぱり、ミィミィとしか聞こえない。これは私とあなたの育った環境のちがいかもしれません。犬の鳴き声だって、日本ではワンワンだけど、英語圏ではバウワウでしょう。だから、私がこの子をミィと呼ぶのを、許してくださいね。
今日はミィは、缶詰のキャットフードと、少量のハムを食べました。ほんとうはキャットフード以外の食べものはあまり猫に良くないそうなんですけど、ちょっとであれば大丈夫だそう。しっかり食事をしたと思ったけれど、もしかしたら、量が足りなかったのかもしれません。というのも、今夜私は勉強をしながらテレビの料理番組を見ていたのですが、そのテレビの中華料理の炒めものにミィはとても興味をしめし、中華鍋のなかで野菜や肉がリズミカルに踊るのをじっと眺め、料理が皿に盛り付けられると、爪を出した前肢をさっと伸ばして画面のなかの料理をかすめとろうとしました。チッ、と爪がテレビの画面に当たる小さな音がするだけで、爪の先に何もひっかからないものだから、猫はアニャ? というような顔をしました。食べられないと理解するまで、真面目な顔でそれを繰り返すものだから、私はついつい、あのねミィは猫舌だから中華料理は無理よ、と声をかけてしまいました。
いま、ミィは私の布団の上で、丸くなって寝ています。はじめは気にならなかったけど、ミィと暮らしていると、お布団や、洋服に猫の毛がつくのが困りものです。ブラシを買ってきたけれど、毛を落とすのはとても面倒。あなたはどうしているかしら?
かしこ
ニャアまたはミィの飼い主ではない私より
』
◆
『
なんとお呼びすればよいのかうんうん悩んだけれどけっきょく良い呼び方が見つからない
あなたへ
ニャアは今日、頭の上に小さな葉っぱをつけて私の部屋にやってきました。小さなニャアの頭の上に乗るくらいの小さな、私の小指の爪くらいの大きさの葉っぱで、とても濃い緑色をしていました。このあたりはすこし歩けば山があって、その山にはたくさんの草木が生えています。昼間はそっちで遊んでいるのかな、と考えて、なにやら面白い気持ちがしました。私がニャアと会うのは、いつも夕方から夜にかけての時間で、彼女が私の部屋にやってくるのをただ待つばかりですので、昼の間ニャアが何をしているのか、どんな遊びをして、どこで眠っているのか、ちっとも知らないのです。ちょっとしたことですけど、ニャアについて新しいことを知ることができたのでした。きれい好きなのに、頭の上についた葉っぱに気づかずにやってくるなんて、抜けたところがあります。
猫の毛の掃除については、私は粘着テープのコロコロ転がす掃除用具を使っています。それと、もちろん掃除機ですけど、これはニャアがいるときにかけると、ニャアは嫌がって部屋の隅に行って家具の隙間に隠れてしまいます(その様子が、またかわいい)。
これからあたたかくなるにつれて、ニャアの抜け毛も増えていくのでしょうね。何か、もっとちゃんとした対策を考えないとなのかも。それほどおしゃれな服を着ているわけではありませんが、やはり、猫の毛がついた服を着て出かけるのは、格好わるいものです。
ああ、ニャアの毛皮に、ノミがついていたらどうしよう。今まで気が付かなかったけど、きっといるんだろうなあ。
かしこ
なんと名乗ればよいのかよくわからない
私より
』
『
親愛なる
Lady-Long-Legsさま
おどろきです! ミィが、蛇を捕まえてきました!
今日、私が料理をしていると、窓のほうから「ボタッ」とも「ズダッ」ともつかない、重く柔らかなものらしい何かが落ちる鈍い音がしました。つづけてすぐに、窓から入ってきたミィが飛びおりるときの、聞き慣れた「ボトン」という音が聞こえました。首を回してそちらを向くと、キッチンの床に、全長七十センチくらいの大きな蛇がとぐろを巻いていました。ミィが前肢の爪をむき出して、その蛇の頭をひっぱたいているのを見たときには、おどろいたのと、うんざりするので、体から力が抜けてしまうような気分でした。
さて、ミィがこの蛇をどこで捕まえてきたのかというと、どうも隣の家の庭のようです。私の部屋はアパートの二階なのですが、坂の途中にあるという地形の関係上、隣の一戸建ての家の庭が私たちのアパートの一階の窓の下あたりの高さにあることになります。そこからすこし移動すると、ミィは私の部屋のキッチンの窓と同じ高さにある土地まで、たどり着くことができるわけです。
隣の家も途中から傾斜して、なだらかな坂になって下の道に面した石垣につづいています。こうした高台の外れの斜面は地盤がゆるいので、地震のときにはかなりゆれるだろうし、大地震が起きたら大変だ、と、この部屋を契約するときについてきてくれた、私の祖母は心配していました。私としても、心配にならないわけではありませんが、あまり気にしてもしかたのないことだと思うし、地震が起きたらミィはきっと私より先に逃げてしまうだろうし――と書いたところで、実家がなつかしくなってしまいました。いったんペンを置いて、電話をかけて祖母の声を聞こうと思います。
電話を切りました。またしてもおどろきです。なんと私のいとこが結婚するというのです! いとこは私よりもすこし年上の女の子で、結婚なんてまだまだ先のことかと思っていたんだけど、彼女にはハイスクール時代からずっと付き合っていた恋人がいて、その恋人が――
ええと、今日は、いろんなことが起こって、あまり落ち着いた手紙を書けないみたいです。もっとたくさん、おしゃべりしたいところなんですけど、このへんでやめておきます。最後に、謎めいた――というふうになったと、私は信じているんですけど――あなたへの冒頭の呼びかけについて、解説をしたいと思います。
ね、気になっていたでしょう?
Lady-Long-Legsさま、というのが、私がつけたあなたのお名前です。『Daddy-Long-Legs』を、読んだことがあるかしら。この国では、『あしながおじさん』と訳されています。十六歳のジュディ・アボットは、彼女を孤児院から連れだしてくれた「とてもせいの高い、お金持ちの、女の子ぎらいのおじさま」へ向けて、たくさんの手紙を出しつづけます。残念ながら、私はジュディ・アボットではないですし、あなただってきっと「おじさん」ではないでしょうけど――きっと、若い女性なんだと思います! それで私は、あなたをDaddyではなく、Ladyと呼ぶことに決めました。もしも、あなたのせいが高ければ、これはぴったりのお名前になると思います。
"I hope you won't mind. It's just a private pet name we won't tell Mrs. Lippett."
私はひとり暮らしで、もちろん、ここには私を監督するような、おっかないリペット院長はいませんが――かわりに、明日の一限目の授業が私の気持ちを引き締めるのです。どんなにきちんと規則をまもっているか、これでおわかりでしょう(Observe with what precision I obey rules ? due to my training in the John Grier Home.)。
かしこ
偽物のジェルーシャ・アボットより
足の長い、かわいい女性のスミスさまへ
』
『
私の三毛子さんへ
あしながスミスより
今、ニャアは私の布団の足元のほうで眠っています(いつもそのあたりで眠るのです)。今日はめずらしいことに、ご飯を食べたあとでまた出かけました。もしかすると、今日は帰ってこないかな、別のところで眠るのかな(あなたのところとか)と思っていたら、しばらくすると帰ってきて、激しい冒険に疲れ果てたとでもいうふうにうつむき加減でゆっくりと歩き、お気に入りの寝場所までやってくるととても大儀そうにため息をつき(胸のあたりがふくらんで柔らかい毛が微かにふるえるので、それとわかります)、それからどたりと四肢を投げ出し、そのままの格好で眠ってしまいました。なるほど、欲も得もなく眠りこける、というのはこういうことか、といったふうです。
それでニャアが眠ってしまってから――この手紙を書きはじめるのに、もう二時間もかかってしまいました。理由はおわかりでしょう。冒頭に書いた、あなたへの呼びかけについて悩んでいたのです。
あしながおじさん!
文学少女とはほど遠い私ですが、その書名は知っています。もちろん読んだことも……白状すると、小学生のときに、子ども用の簡約のものを読んだだけ。だからジェルーシャの年齢なんておぼえてなかったし、リペット院長の名前なんて、頭の片隅にも残っていませんでした。私がおぼえていたのは、本の中ほどに描いてあった挿絵の、ジュディがおたふく風邪をひいたときの腫れ上がった顔だけ。でもそれを思い出した瞬間に、小説のおおまかなあらすじや、ジュディの生活上のさまざまなこと――孤児院育ちのジェルーシャ・アボットが、墓石からとられたという自分の名前を嫌って、ジュディという愛称をみずからつけたことなど――を、つづけざまに思い出すことができました。
こんな呼び方を思いつくなんて、あなたはそうとうにロマンチックな女の子にちがいありません。だから私のほうでも、あなたにぴったりの愛称を考えようとしたのです――その結果が、冒頭のあなたへの呼びかけであるわけです。三毛子さんというのは、(あしながおじさんに比べれば、世界的な知名度の点で、残念ながら劣ってはいるけれど)この国の猫文学でまず第一にあげられる、夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる、主人公の猫が恋する美人猫の名前です。三毛子さんは「この近辺で有名な美貌家」で、主人公の猫は彼女を訪問していろいろな話をすると、「いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。」のです――ちょうど、あなたのお手紙を読んでいるときの、私のように。
気に入ってくれるでしょうか? どうも、外国の猫であるらしいあなたに、似合うかどうかは自信がないんですけど。それに、実は三毛子さんは、物語がはじまってすぐに風邪をこじらせて死んでしまうのです(思いついたあとに、本棚をひっくりかえして小説を探して、確認したところそうなっていました。展開を忘れていたんです。ごめんなさい)。ねえ、文句があったら、きっと言ってくださいね。
でもそうしたら、また新しい愛称を考えることを、ぜひお許しください。
かしこ
』
『
三毛子より
あしながスミスさまへ
私の毛並みのことをお教えしましょう。あなたの推定通り、私は外国産の猫で、髪の毛は金髪です――ふわふわしていてきれいな色で、けっこう自慢なんですよ――それで、いつも帽子をかぶっています。帽子の色は白が多いです。洋服は、これはいろいろあるけれど、いちばん気に入っているのはうすい紫色の服だわ――だから、金色と、白と、うす紫色で、三色を構成しています。三毛猫といってまちがいないんじゃないかしら?
明日、学校の帰りに、あなたが教えてくれた小説を買ってくるわ。きっと、私には難しいだろうけど――私はこのとおり、けっこう不自由なく日本語をつかうことができますが、でも昔の小説の文体についてはやっぱり慣れていなくて――でも、少しずつ読んでいきます。小説を読み切るころに、あなたにお会いできたらいいな。そう思います。
今日は夕方から雨が降りはじめたので、うちに来てから、ミィはどこにも出かけることができませんでした。ご飯を食べたあと、まず東側のベランダの窓に向かって歩きます。そこから外に出るつもりだったところ、雨が降っているので引き返し、今度は西側にあるキッチンの窓から出て行こうとして、閉まっているから開けてくれ、とばかりにミィミィ鳴きたてるので、しかたなく開けてやります。すると、そちら側でも雨が降っているのに気づいて戻ってきます。次に北側の玄関を開けろとせがみ、そちらもだめだとわかると――また東側の窓から外に出ようとして、やっぱり雨が降っているのを確かめては、不満そうな顔をするのです。どの方角の扉を開けても、雨が降っているのだと、じゅうぶんに納得するまで何度でも繰り返すので、私はいいかげんくたびれてしまいます。
さて、いつものように、ミィの首輪にこの手紙をくくりつけましょう。朝には、雨はあがっているかしら。この手紙を読んで、あなたは私に会おうって、思ってくれるかしら?
かしこ
』
『
あしながスミスより
三毛子さんへ
ほんとうに不思議。上の「三毛子さんへ」を書いたあと、あなたへのお返事をどのようにして書きだそうか、私は迷いに迷って、迷っても何も書けないものだから、ひとまず頭をすっきりさせようと思って、テーブルの上に紙とペンを置きっぱなしにしたままお風呂に入りました。体を洗って髪を洗って(私の髪は、あなたの素敵な髪とちがって真っ黒です。それにまっすぐで、長く伸ばすと幽霊のようになってしまうので、いつも肩にかかる前に切りそろえてしまいます)、部屋に戻ると、この紙の真ん中に、ほんとのあしなが蜘蛛がちょこんと居座っていたの! そしていつもは虫を見つけるとすぐに殺してしまうニャアが、なにもしないまま、じっと黙ってその蜘蛛を見つめているのよ。
猫と蜘蛛はしばらくの間、お行儀よく見つめ合っていたわ(蜘蛛の目がどこにあるのか知らないけど、とにかくそういうふうに見えたの)。なんだかすごく静謐で、神秘的な雰囲気だった。でも、ずっとそうしておくわけにもいかないから(お手紙が書けなくなっちゃうし)やがて私はあしなが蜘蛛の脚を一本そっとつまんでやって、窓から放してやりました。そんなわけで、あなたへのお返事の書き出しに困らなくなったと、まあそういうわけです。
私は大学の一年生です。もちろん、ご承知のとおりの(!)女の子だから、女子大生というやつです。今年の春からそうなりました。純粋な日本産の猫で、服装は白いブラウスに、黒いロングスカートを合わせていることが多く……というかそればっかり着ていて……あと、私もいつも帽子をかぶっています。黒い中折れ帽がトレードマークよ。
なんとかして、手紙に私の写真をくくりつけようとしましたが、うまくいかないのでやめちゃった。ろくな写真がないし……ええと、送ろうとした写真は、高校生のときに友達といっしょに撮ったもので、三人いる女の子の真ん中の、髪を顔のほうに吹きなびかせているのが私――あしながスミスさんは、ほんとうはもうちょっと美人なんだけど、このときは目に日が当たってまぶしかったのよ。
送らないけど。
かしこ
追伸
私もあなたに会いたい。あまりにも当たり前すぎて、書き忘れるところだったわ。
恥ずかしいことを書きます。この前夢のなかに、あなたが出てきたの。
あなたはとても美人の、背の低い女の子だったわ。でも、私だって、実はそんなに大きいほうじゃないのよ。がっかりさせちゃったかしら?
』
◆
最後の手紙をニャアの首輪にくくりつけてから、ふた晩がすぎた。いつもどおりの間隔だったら、今夜か、明日の夜には猫が泊まりに来るはずだった。買い置きのキャットフードには、まだ余裕があるけども、そのほかにも何かニャアがよろこぶような食べものを仕入れておこう。
そう考えて、蓮子は午後の授業を終えたあと、大学を出てちょっと大きめのペットショップに向かった。天気の良い日だった。ぶらぶら歩いていると、長袖ではすこし暑さを感じるくらいだった。お店の近くまで行って、いくつか曲がり角を曲がると、民家の塀の上に、ニャアがちょこんと座っているのを見つけた。
おどろいてしまった。自分の部屋以外で、ニャアを見たのははじめてだった。あんたこのあたりにいたの、私の家からけっこう遠いじゃないの、と話しかけながら近寄って手を伸ばすと、猫は前肢をそろえてきゅっと立ち上がり、塀から降りてたたっと逃げ出してしまった。
蓮子から離れたところで猫は立ち止まり、振り向いて、体の半分をこちらに向けて観察するように蓮子を見る。蓮子の部屋で出会った最初のときと、同じような視線だった。近づくと、そのぶんだけ逃げる。まるきりどこかへ逃げてしまうわけではないし、いつものようにさわらせてくれるわけでもない。距離を保ったまま、猫は町を縫うようにして進んでいく。蓮子をどこかに連れていこうとしているみたいだった。
蓮子は猫を追いかけた。外で出会ったものだから、警戒しているのかしら、と思った。行き先だったペットショップから、どんどん離れていく。蓮子はだんだん不安になって、猫はほおっておいて帰ったほうがいいのかしら、と考えはじめた。すると、あるひとつの大きな門のなかに、するりと吸い込まれるようにニャアは入っていった。
住宅街の真ん中に、不釣り合いなほど大きく、そして寂しげな森がとつぜんあらわれたように見えた。猫が入っていったのはその森につづく敷地で、どきまぎしながら門を観察してみると、そこは神社だった。境内に入ると、背の高い欅が両脇に並んだ石の道があり、まっすぐ進んで行き当たったところで左に折れると、御社殿があった。
うす紫色の服を着た、金髪の女性がそこにいて、蓮子に背を向けて木造の建築物をながめていた。外人さんが見物にでも来たのかしら、と蓮子は頭のなかで言葉にして考えてみたが、頭のなかの声ですらふるえていた。呼吸が浅くなり、心臓が爆発しそうなほど高鳴った。つばを何度も飲み込み、おそるおそる歩を進めて、女性の近くまで行った。足元の砂利がじゃりじゃり鳴り、蓮子の存在を知らせた。女性は振り向かなかった。
あのう、猫を見かけませんでしたか。蓮子はそう声をかけた。神社に入ってから、ニャアを見失っていた。声をかけたあと、蓮子は目を閉じてしまった。砂利の音がして、女性が振り向いたのがわかった。私も、猫を探してここに来たの。
夢のなかで聞いた声と、同じだったように思った。あるいは、あまりにも蓮子の好みにぴったりした声だったので、都合のいいように記憶が塗り替えられてしまったのかもしれない。おそるおそる目を開けると、ふわふわした金髪の、美しい女の子がそこにいた。蓮子と同じくらい顔を真赤にしている。ふたりはすこしずつ、お互いの事情を話した。私の名前はマエリベリー・ハーンです、と女の子が自己紹介をしたのは、それからずいぶんたってからだった。
◆
そういうふうにして蓮子とメリーは出会い、学部こそちがうものの同じ大学の新入生同士であることがわかったので、次の日からつるむようになり、あれよあれよという間に秘封倶楽部が結成された。
ふたりはそれから、猫に会うことはなかった。蓮子とメリーが顔を合わせてから、猫はふっつりと、両方の部屋にやってこなくなってしまった。ふたりは大変悲しんで、いろいろな場所を探し回ったが、まるで幻のなかに消えてしまったみたいに、猫はどこにもいなくなってしまっていた。お互いの不思議な目のことを教え合ったのは、いっしょに猫を探している最中だった。
他にも不思議なことがあった。猫について情報交換をすすめていると、メリーのほうで、「自分がお世話をしていた猫は黒い猫だった」と言う。
「全身が黒じゃなくって、上半身の胸の部分は白かったけど、でもおおよそは黒い猫だったわ。頭と下半身は真っ黒で、とてもつややかな毛並みをしていた。眼の色はうすい緑のなかに黒い真珠が浮かんでいるようだったわよ。それに、絶対ミィ、ミィって鳴いてたわよ。ニャアニャアじゃなくって」
してみると、どうも別の猫だったように思われる。けれど蓮子が買ってあたえた首輪は同じものにまちがいがなくって、それを通じてふたりが文通していたのも、たしかなことだった。お互いに保管していた手紙を見せ合うと、たしかにこれは自分が書いたものだ、と両方がみとめる。
それからふたりはサークル活動として、さまざまなオカルトに挑み、いくつもの境界を発見しては、不思議な体験をしてきたが、けれどニャアまたはミィの秘密については、その後もずっと解かれることがなかった。今でも茶飲み話に、蓮子とメリーは猫の話をする。ふたりで新しく別の猫を飼おうか、と話をすることもあるけれど、その提案はいつもうやむやになってしまい、ただなつかしい猫の思い出を、おかしなかたちで共有するばかりである。
(了)
蓮子はおどろいて、その場から二、三歩後ろに飛び退いた。すると、さっきまで蓮子が立っていた場所に、猫が位置をしめて、目をそらさずにじっと蓮子を見つめる。おそるおそる、蓮子は猫に近寄った。猫は動じる様子もなく、撫でられ、そして、抱き上げられた。
飼い猫なのかな、と蓮子は思った。ずいぶん人に慣れていて、逃げる素振りがまったくない。人間なんかが自分に危害をくわえるとは、思ってもいない様子だ。蓮子は正座し、猫を膝の上に乗せて、とっくりと猫を観察した。毛並みの片側にオレンジ色の夕陽が強くあたっていて、金色に輝いているようだった。陽があたっていないところは、これは不思議な色で、うすい紫色のように見えた。猫のあごの下に手をやって、顔を持ち上げて自分のほうに向ける。猫にしては顔に険のない、ちょっとおっとりした感じの美猫だった。瞳の色は、これも夕陽の光の中で見ると、青にも赤にも、金色にも見える。
手をはなしても、猫は逃げなかったので、蓮子はお皿を用意してやって、猫といっしょに夕飯を食べた。のりや、煮干しを買ってきてよかったと思った。おやつとして買ってきたブルガリアヨーグルトをちょっと与えてみたら、猫はそれをとても気に入ったようで、あっという間にぺろぺろ舐めて食べてしまった。
その夜、蓮子は不用心だな、と思いながらも、猫のためにわずかに窓を開けて眠った。朝起きると、猫はいなくなっていた。
窓の外を見る。蓮子の部屋は二階にあって、外にある大きな桜の木の枝が窓の外のすこし手前まで張り出している。まるで『赤毛のアン』の、アン・シャーリーが眠った部屋みたいで、それが好みで蓮子はこの部屋を借りることに決めたのだった。猫はその桜の枝を伝って入ってきて、同じようにして出て行ったのだろう。
アンが、雪の女王(スノー・ホワイト)と名付けた桜の木は、とても真っ白な花を咲かせたのだという。あの猫は、と蓮子は思った。真っ白って感じじゃなかったわ。金色にも見えたし、うす紫にも見えたし……まるで夢のなかで見るみたいな、不思議な色に見えたわ。
あんな猫に会えたのだから、自分の新生活は幸先がいいぞ、と蓮子は思った。近くに住んでいる猫だったら、また会う機会もあるだろう。そのときに備えて、なにか猫にあげる用の食べものを買っておこうか。そんなわけで、蓮子はその日キャットフードと、何種類かのヨーグルトを買って家に帰った。
その日の夜は、猫はあらわれなかった。けれどはたして、次の日には姿を見せた。はじめの日と同じように、窓から入ってきた猫を見て、蓮子は嬉しくなって、抱きしめて頬ずりしてしまった。猫はニャア、ニャアと鳴いた。それで蓮子は、猫をニャアと名付けた。
◆
猫はそれから、平均すると、三日にひと晩は蓮子の部屋にやってきて、泊まっていくようになった。とても人に慣れた猫なので、やはり飼い猫なのだろう、と蓮子は考えて、近隣の住民にそれとなく聞きこみをしてみたが、誰に聞いても、そんな猫は知らないし、見かけたこともないし、このあたりでは誰も猫を飼っていないのだ、という返事が返ってきた。あんなに美しくて目立つ猫なのに、おかしなことだと思った。
猫はだいたい、夕方にやってきて、夜のうちに帰っていった。蓮子より早く眠り、早く起きだして、朝になるといつもいなくなっている。ご飯をねだるときに、ニャアオと鳴く。行儀の良い猫なので、それほど強引にねだるわけではないけども、鳴きだしてもご飯をあげずにほうっておくと、だんだん声を大きくして、ニャアオから、マーーーーーーォ、マーーーーーーーーーォと、声を長くして鳴くようになる。それで立っている蓮子の足や、座卓で勉強をしている蓮子の腰に体をすりすりすりつけてくる。可愛くて気持ちが良くて、蓮子は頭が馬鹿になってしまいそうになる。
猫を後ろ側から見て、尻尾を上に持ち上げてやると、おしりの穴の下にコーヒー豆のような外陰がある。つまり、雌の猫だった。猫の年齢は、蓮子にはよくわからないけども、子猫ではないし、かといって経験を積んだ老猫でもないのはわかった。ちょうど大人になったばかり、といったふうの、若くてしなやかな体つきをしている。
はじめて猫に出会ってから、三週間がすぎた。猫は定期的に蓮子の部屋にやってくる。蓮子は悩みながらも、ニャアに首輪をつけることに決めた。
誰かの飼い猫だったら、と思うと、勝手なことをしているようで気が引けたが、所属不明の猫としてあたりをうろついているのだとすると、保健所の野良猫狩りに引っかかってしまうかもしれない。蓮子はペットショップに行き、首輪を買ってきた。皮でできた、ピンク色の上に白や赤の花びらの模様がついている、おしゃれなものを選んだ。貧乏学生の蓮子からすると、それは高価なものだったけど、気に入ってしまったのだから仕方ない。首輪をつけられるとき、猫は多少、窮屈そうにしていたが、すぐに気にならなくなったようだった。その夜、首輪をつけた猫といっしょに、蓮子は眠った。朝になると、猫はやっぱりいなくなっていた。
次にニャアがやってきたとき、蓮子は自分がつけた首輪に、小さく折りたたまれた紙がくくりつけられているのを見つけた。取り外して、紙を開くと、それは手紙で、内容はこういうものだった。
『
ミィの飼い主様へ
はじめまして。私はこの子に、ときどきご飯をあげていた者です。勝手なことをしていたようで、ごめんなさい。もしかすると、私がご飯をあげたせいで、あなたがあげるご飯を食べられなかった日があったかもしれません。どうぞお許しください。
この子がとても可愛いのが、いけないんです。この子がミィミィと鳴くのを聞くと、どうしたって、ご飯をあげたり、背中を撫でて眠らせてやったり、せずにはいられませんでした。あなたの家に帰らなかった晩、この子は私のところで眠っていたんです。
私はこれまで、猫を飼ったことがないので、猫と寝るのははじめてでした。とても体温が高くて、あたたかいと思いました。この子がいれば、春用のお布団の一枚は、いらないんじゃないかと思ったくらいでした。でも、朝になると、この子はいなくなってしまいます。あなたの家で、朝ごはんを食べていたのでしょうね。
失礼なことを書きます。私はあなたがうらやましくて、嫉妬しています。こんな素敵な猫を飼えるなんて、ほんとうに果報だと思います。ねたましくって、身悶えしてしまいます。
私はこの子を、ミィと呼んでいます。ミィミィと鳴くので、そう呼ぶことにしたのです。ありきたりな名前すぎて、自分でもおもしろみがないと思うけど、でも最初にそう思い込んでしまったのだから、しかたがありません。
この子の飼い主様へ。あなたがつけた、この子のほんとうの名前は、なんというのでしょうか。教えてもらえれば、私もこの子を、その前で呼びたくなるかもしれません――思わないかもしれません。
いま、時間をおいて、上の文章を読み返しました。どうにも身勝手で、失礼な文章だと思いました。ごめんなさい。
でも、悔しいから消さないで、このまま読んでもらおうと思います。
もうひとつ、失礼なお願いをします。この子がまた私の家に来たら、いままでのように、ご飯をあげたり、いっしょに眠ったりしてもかまわないでしょうか? お願いです。私はこの子が大好きなのです。
かしこ
素敵なミィの飼い主様へ
』
◆
蓮子はおどろいてしまった。つまり、ニャアは自分の部屋のほかにも泊まる部屋をもっている。そしてそれは、蓮子が想像していたような、責任を持った、正規の飼い主ではなくって、蓮子と同じように、おっかなびっくり猫の世話をしている相手なのだ。いるのかどうかもわからないほんとうの飼い主に遠慮し、そして嫉妬しているところまで、蓮子とそっくり同じだった。
どうしようか。自分が猫に首輪をつけたせいで、手紙の相手は、自分を猫の飼い主だと勘違いしてしまった。手紙をもう一度、繰り返して読んだ。自分で書いているとおり、なんだか失礼な手紙だった。猫の飼い主にたいして申し訳なく思う気持ちと、うらやましい気持ちと、猫とこれまでと同じ関係をつづけたい気持ちがないまぜになっていて、とても混乱しているのが読み取れる。とにかく、この人の誤解を解いてやらねばいけないだろう。
蓮子はニャアを見た。お前、あっちでは、ミィ、ミィ、と鳴くの、と問いかけてみた。猫は黙って、はじめて会った日と同じように、不思議そうな目をしてこちらを見返している。可愛いけれど、厚かましい猫だわね、と蓮子はため息をついた。それからもらった手紙と同じような大きさの紙に、返事を書きはじめた。長い時間をかけて、何度も推敲し、やっとできあがったころには、もう猫は眠っていた。蓮子は手紙をニャアの首輪にくくりつけ、ぐったりとした。なんだかうらめしい気持ちだった。
『
ニャアの飼い主ではない私より
はじめまして。お手紙、ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。あなたの家では、この子はどんな様子でしょうか。私の家では、ご飯をせがむとき以外は、わりとおとなしい猫です。ただ、私が書きものをしていると、私の右手の先で動いているペンのおしりに飛びかかってきて、レポートを台無しにしてしまうことがあります。でも、猫ってそんなものなんじゃないかな、と、少ない経験から勝手にそう考えています。
私も、猫を飼ったことがないのです。私はこの子の飼い主ではありません。
ニャアの首輪は、保健所の野良猫狩りに捕まってはいけない、という理由で、私がつけました。三日に一度くらいやってくるこの子を、まるで恋人を待つように(この比喩表現を、私は大変悩んだ末に書きました。どうにも恥ずかしくて、照れてしまいますが、でも、ぴったりだと思います)、いつもじりじりとした気持ちで待っています。あなたが書いたように、この子はまったく可愛い猫です。可愛すぎて、私もあなたも、この子のとりこになってしまったようですね。そう考えると、なぜかうらめしい気持ちになってしまいます。つまり、私もあなたに嫉妬しているのです。
ニャアの好物はブルガリアヨーグルトと、焼きいりこ(小魚を特殊な製法で薄くパリパリに圧縮して引き伸ばした、人間用のおつまみです。小さい丸い缶にはいっているもので、880円)です。あなたの家では、どんなものを食べますか?
すいません、先に謝っておきます。気分を害されるといけませんが、でも、この子の鳴き声は、ミィミィではなく、ニャアニャアだと思います。
ネーミングセンスに関しては、私もあまり自信がありません。
かしこ
ニャアの飼い主ではないどなたかへ
』
◆
蓮子が手紙を出してから、三日が過ぎた。その間、蓮子はとてもドキドキしながら返事を待っていた。はじまりたての大学で、はじまりたての授業を聞いていても、あまり身が入らず、入学早々こんなことでは先が危ぶまれるぞ、と、自分で思うほどだった。四月が終わり、五月になろうとしていた。桜はとっくに散っていて、みずみずしい葉桜が白い花のかわりに息をはじめていた。もうすぐ梅雨がやってくる。
その日の夕方になっても、ニャアはやってこなかったので、蓮子は半ばあきらめながら、窓をいっぱいに開けてそこから外に顔を出し、夜の空を見た。春らしいおぼろ月夜で、月とそのまわりの星が夜のなかでほのかに霞んでいる。蓮子は自分の位置を知り、心のなかで時刻をかぞえた。自分はとても変な、他の人とはちがう目を持っている。けれどそれは、猫を見つけるのには役に立たないのだと思った。
そのまましばらく待っていたけれど、やっぱり、ニャアはやってこなかった。しかたがないので、蓮子は窓に背を向けて、座卓の上で開きっぱなしの教科書に向かった。蓮子が所属しているのはかなり難しい部類の学部で、優秀な頭脳をもっている蓮子といえど、予習なしに授業に臨むのは無謀というものだ。
しばらくの間、かりかりという筆記用具がたてる音が蓮子の小さな部屋のなかに響き、白いノートがはじめからじゅんじゅんに文字や数字で埋まっていった。右手が疲れるくらいまで、蓮子は勉強をつづけて、それからうーんと座ったまま背伸びをした。かすかに、猫の声が聞こえた気がした。首を回して、もう一度窓の外を見ると、葉桜になった桜の太い木の枝に、猫が座っていた。
夜のなかで見る猫は、部屋のなかで見るときのそれよりも、いっそう神秘的に見えた。月の光を浴びた毛並みは、電灯の下で見るよりもずっと色が濃くて、そしてやっぱり変な色をしていた。月のような金色にも、夜のような紫色にも見える。しっかりと見つめつづけていないと、夜のなかに溶けて消えてしまいそうだった。
「ニャア、ニャア。おいで」
と声を出して、蓮子は猫を呼んだ。猫はそれを待っていたかのように、ぴょんと飛んで、蓮子の腕のなかに入ってきた。ぎゅっと体を抱きしめると、外気を含んだ毛皮がすこし冷たく思えた。でも、その下には、しなやかで弾力を持った、とてもあたたかな獣の体がある。
ご飯をねだらなかったので、今夜はもうどこかで食べてきたのかなと思った。蓮子がつけた首輪に、また、紙が挟まっていた。蓮子はわくわくしながら手紙を読んだ。
『
ミィもしくはニャアの飼い主ではない誰かさんへ
お手紙ありがとうございます。大変おどろきました。私はてっきり、あなたをこの子の飼い主だと思っていたの。
してみると、この子はやっぱり、飼い主のいない野良猫なのでしょうね。首輪は、いいアイデアだと思います。可愛いミィが、保健所なんかに捕まったら、悔やんでも悔やみきれないもの。
あなたのお手紙を読んでから、私は注意して、この子の鳴き声を聞いてみたわ。でも、やっぱり、ミィミィとしか聞こえない。これは私とあなたの育った環境のちがいかもしれません。犬の鳴き声だって、日本ではワンワンだけど、英語圏ではバウワウでしょう。だから、私がこの子をミィと呼ぶのを、許してくださいね。
今日はミィは、缶詰のキャットフードと、少量のハムを食べました。ほんとうはキャットフード以外の食べものはあまり猫に良くないそうなんですけど、ちょっとであれば大丈夫だそう。しっかり食事をしたと思ったけれど、もしかしたら、量が足りなかったのかもしれません。というのも、今夜私は勉強をしながらテレビの料理番組を見ていたのですが、そのテレビの中華料理の炒めものにミィはとても興味をしめし、中華鍋のなかで野菜や肉がリズミカルに踊るのをじっと眺め、料理が皿に盛り付けられると、爪を出した前肢をさっと伸ばして画面のなかの料理をかすめとろうとしました。チッ、と爪がテレビの画面に当たる小さな音がするだけで、爪の先に何もひっかからないものだから、猫はアニャ? というような顔をしました。食べられないと理解するまで、真面目な顔でそれを繰り返すものだから、私はついつい、あのねミィは猫舌だから中華料理は無理よ、と声をかけてしまいました。
いま、ミィは私の布団の上で、丸くなって寝ています。はじめは気にならなかったけど、ミィと暮らしていると、お布団や、洋服に猫の毛がつくのが困りものです。ブラシを買ってきたけれど、毛を落とすのはとても面倒。あなたはどうしているかしら?
かしこ
ニャアまたはミィの飼い主ではない私より
』
◆
『
なんとお呼びすればよいのかうんうん悩んだけれどけっきょく良い呼び方が見つからない
あなたへ
ニャアは今日、頭の上に小さな葉っぱをつけて私の部屋にやってきました。小さなニャアの頭の上に乗るくらいの小さな、私の小指の爪くらいの大きさの葉っぱで、とても濃い緑色をしていました。このあたりはすこし歩けば山があって、その山にはたくさんの草木が生えています。昼間はそっちで遊んでいるのかな、と考えて、なにやら面白い気持ちがしました。私がニャアと会うのは、いつも夕方から夜にかけての時間で、彼女が私の部屋にやってくるのをただ待つばかりですので、昼の間ニャアが何をしているのか、どんな遊びをして、どこで眠っているのか、ちっとも知らないのです。ちょっとしたことですけど、ニャアについて新しいことを知ることができたのでした。きれい好きなのに、頭の上についた葉っぱに気づかずにやってくるなんて、抜けたところがあります。
猫の毛の掃除については、私は粘着テープのコロコロ転がす掃除用具を使っています。それと、もちろん掃除機ですけど、これはニャアがいるときにかけると、ニャアは嫌がって部屋の隅に行って家具の隙間に隠れてしまいます(その様子が、またかわいい)。
これからあたたかくなるにつれて、ニャアの抜け毛も増えていくのでしょうね。何か、もっとちゃんとした対策を考えないとなのかも。それほどおしゃれな服を着ているわけではありませんが、やはり、猫の毛がついた服を着て出かけるのは、格好わるいものです。
ああ、ニャアの毛皮に、ノミがついていたらどうしよう。今まで気が付かなかったけど、きっといるんだろうなあ。
かしこ
なんと名乗ればよいのかよくわからない
私より
』
『
親愛なる
Lady-Long-Legsさま
おどろきです! ミィが、蛇を捕まえてきました!
今日、私が料理をしていると、窓のほうから「ボタッ」とも「ズダッ」ともつかない、重く柔らかなものらしい何かが落ちる鈍い音がしました。つづけてすぐに、窓から入ってきたミィが飛びおりるときの、聞き慣れた「ボトン」という音が聞こえました。首を回してそちらを向くと、キッチンの床に、全長七十センチくらいの大きな蛇がとぐろを巻いていました。ミィが前肢の爪をむき出して、その蛇の頭をひっぱたいているのを見たときには、おどろいたのと、うんざりするので、体から力が抜けてしまうような気分でした。
さて、ミィがこの蛇をどこで捕まえてきたのかというと、どうも隣の家の庭のようです。私の部屋はアパートの二階なのですが、坂の途中にあるという地形の関係上、隣の一戸建ての家の庭が私たちのアパートの一階の窓の下あたりの高さにあることになります。そこからすこし移動すると、ミィは私の部屋のキッチンの窓と同じ高さにある土地まで、たどり着くことができるわけです。
隣の家も途中から傾斜して、なだらかな坂になって下の道に面した石垣につづいています。こうした高台の外れの斜面は地盤がゆるいので、地震のときにはかなりゆれるだろうし、大地震が起きたら大変だ、と、この部屋を契約するときについてきてくれた、私の祖母は心配していました。私としても、心配にならないわけではありませんが、あまり気にしてもしかたのないことだと思うし、地震が起きたらミィはきっと私より先に逃げてしまうだろうし――と書いたところで、実家がなつかしくなってしまいました。いったんペンを置いて、電話をかけて祖母の声を聞こうと思います。
電話を切りました。またしてもおどろきです。なんと私のいとこが結婚するというのです! いとこは私よりもすこし年上の女の子で、結婚なんてまだまだ先のことかと思っていたんだけど、彼女にはハイスクール時代からずっと付き合っていた恋人がいて、その恋人が――
ええと、今日は、いろんなことが起こって、あまり落ち着いた手紙を書けないみたいです。もっとたくさん、おしゃべりしたいところなんですけど、このへんでやめておきます。最後に、謎めいた――というふうになったと、私は信じているんですけど――あなたへの冒頭の呼びかけについて、解説をしたいと思います。
ね、気になっていたでしょう?
Lady-Long-Legsさま、というのが、私がつけたあなたのお名前です。『Daddy-Long-Legs』を、読んだことがあるかしら。この国では、『あしながおじさん』と訳されています。十六歳のジュディ・アボットは、彼女を孤児院から連れだしてくれた「とてもせいの高い、お金持ちの、女の子ぎらいのおじさま」へ向けて、たくさんの手紙を出しつづけます。残念ながら、私はジュディ・アボットではないですし、あなただってきっと「おじさん」ではないでしょうけど――きっと、若い女性なんだと思います! それで私は、あなたをDaddyではなく、Ladyと呼ぶことに決めました。もしも、あなたのせいが高ければ、これはぴったりのお名前になると思います。
"I hope you won't mind. It's just a private pet name we won't tell Mrs. Lippett."
私はひとり暮らしで、もちろん、ここには私を監督するような、おっかないリペット院長はいませんが――かわりに、明日の一限目の授業が私の気持ちを引き締めるのです。どんなにきちんと規則をまもっているか、これでおわかりでしょう(Observe with what precision I obey rules ? due to my training in the John Grier Home.)。
かしこ
偽物のジェルーシャ・アボットより
足の長い、かわいい女性のスミスさまへ
』
『
私の三毛子さんへ
あしながスミスより
今、ニャアは私の布団の足元のほうで眠っています(いつもそのあたりで眠るのです)。今日はめずらしいことに、ご飯を食べたあとでまた出かけました。もしかすると、今日は帰ってこないかな、別のところで眠るのかな(あなたのところとか)と思っていたら、しばらくすると帰ってきて、激しい冒険に疲れ果てたとでもいうふうにうつむき加減でゆっくりと歩き、お気に入りの寝場所までやってくるととても大儀そうにため息をつき(胸のあたりがふくらんで柔らかい毛が微かにふるえるので、それとわかります)、それからどたりと四肢を投げ出し、そのままの格好で眠ってしまいました。なるほど、欲も得もなく眠りこける、というのはこういうことか、といったふうです。
それでニャアが眠ってしまってから――この手紙を書きはじめるのに、もう二時間もかかってしまいました。理由はおわかりでしょう。冒頭に書いた、あなたへの呼びかけについて悩んでいたのです。
あしながおじさん!
文学少女とはほど遠い私ですが、その書名は知っています。もちろん読んだことも……白状すると、小学生のときに、子ども用の簡約のものを読んだだけ。だからジェルーシャの年齢なんておぼえてなかったし、リペット院長の名前なんて、頭の片隅にも残っていませんでした。私がおぼえていたのは、本の中ほどに描いてあった挿絵の、ジュディがおたふく風邪をひいたときの腫れ上がった顔だけ。でもそれを思い出した瞬間に、小説のおおまかなあらすじや、ジュディの生活上のさまざまなこと――孤児院育ちのジェルーシャ・アボットが、墓石からとられたという自分の名前を嫌って、ジュディという愛称をみずからつけたことなど――を、つづけざまに思い出すことができました。
こんな呼び方を思いつくなんて、あなたはそうとうにロマンチックな女の子にちがいありません。だから私のほうでも、あなたにぴったりの愛称を考えようとしたのです――その結果が、冒頭のあなたへの呼びかけであるわけです。三毛子さんというのは、(あしながおじさんに比べれば、世界的な知名度の点で、残念ながら劣ってはいるけれど)この国の猫文学でまず第一にあげられる、夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる、主人公の猫が恋する美人猫の名前です。三毛子さんは「この近辺で有名な美貌家」で、主人公の猫は彼女を訪問していろいろな話をすると、「いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。」のです――ちょうど、あなたのお手紙を読んでいるときの、私のように。
気に入ってくれるでしょうか? どうも、外国の猫であるらしいあなたに、似合うかどうかは自信がないんですけど。それに、実は三毛子さんは、物語がはじまってすぐに風邪をこじらせて死んでしまうのです(思いついたあとに、本棚をひっくりかえして小説を探して、確認したところそうなっていました。展開を忘れていたんです。ごめんなさい)。ねえ、文句があったら、きっと言ってくださいね。
でもそうしたら、また新しい愛称を考えることを、ぜひお許しください。
かしこ
』
『
三毛子より
あしながスミスさまへ
私の毛並みのことをお教えしましょう。あなたの推定通り、私は外国産の猫で、髪の毛は金髪です――ふわふわしていてきれいな色で、けっこう自慢なんですよ――それで、いつも帽子をかぶっています。帽子の色は白が多いです。洋服は、これはいろいろあるけれど、いちばん気に入っているのはうすい紫色の服だわ――だから、金色と、白と、うす紫色で、三色を構成しています。三毛猫といってまちがいないんじゃないかしら?
明日、学校の帰りに、あなたが教えてくれた小説を買ってくるわ。きっと、私には難しいだろうけど――私はこのとおり、けっこう不自由なく日本語をつかうことができますが、でも昔の小説の文体についてはやっぱり慣れていなくて――でも、少しずつ読んでいきます。小説を読み切るころに、あなたにお会いできたらいいな。そう思います。
今日は夕方から雨が降りはじめたので、うちに来てから、ミィはどこにも出かけることができませんでした。ご飯を食べたあと、まず東側のベランダの窓に向かって歩きます。そこから外に出るつもりだったところ、雨が降っているので引き返し、今度は西側にあるキッチンの窓から出て行こうとして、閉まっているから開けてくれ、とばかりにミィミィ鳴きたてるので、しかたなく開けてやります。すると、そちら側でも雨が降っているのに気づいて戻ってきます。次に北側の玄関を開けろとせがみ、そちらもだめだとわかると――また東側の窓から外に出ようとして、やっぱり雨が降っているのを確かめては、不満そうな顔をするのです。どの方角の扉を開けても、雨が降っているのだと、じゅうぶんに納得するまで何度でも繰り返すので、私はいいかげんくたびれてしまいます。
さて、いつものように、ミィの首輪にこの手紙をくくりつけましょう。朝には、雨はあがっているかしら。この手紙を読んで、あなたは私に会おうって、思ってくれるかしら?
かしこ
』
『
あしながスミスより
三毛子さんへ
ほんとうに不思議。上の「三毛子さんへ」を書いたあと、あなたへのお返事をどのようにして書きだそうか、私は迷いに迷って、迷っても何も書けないものだから、ひとまず頭をすっきりさせようと思って、テーブルの上に紙とペンを置きっぱなしにしたままお風呂に入りました。体を洗って髪を洗って(私の髪は、あなたの素敵な髪とちがって真っ黒です。それにまっすぐで、長く伸ばすと幽霊のようになってしまうので、いつも肩にかかる前に切りそろえてしまいます)、部屋に戻ると、この紙の真ん中に、ほんとのあしなが蜘蛛がちょこんと居座っていたの! そしていつもは虫を見つけるとすぐに殺してしまうニャアが、なにもしないまま、じっと黙ってその蜘蛛を見つめているのよ。
猫と蜘蛛はしばらくの間、お行儀よく見つめ合っていたわ(蜘蛛の目がどこにあるのか知らないけど、とにかくそういうふうに見えたの)。なんだかすごく静謐で、神秘的な雰囲気だった。でも、ずっとそうしておくわけにもいかないから(お手紙が書けなくなっちゃうし)やがて私はあしなが蜘蛛の脚を一本そっとつまんでやって、窓から放してやりました。そんなわけで、あなたへのお返事の書き出しに困らなくなったと、まあそういうわけです。
私は大学の一年生です。もちろん、ご承知のとおりの(!)女の子だから、女子大生というやつです。今年の春からそうなりました。純粋な日本産の猫で、服装は白いブラウスに、黒いロングスカートを合わせていることが多く……というかそればっかり着ていて……あと、私もいつも帽子をかぶっています。黒い中折れ帽がトレードマークよ。
なんとかして、手紙に私の写真をくくりつけようとしましたが、うまくいかないのでやめちゃった。ろくな写真がないし……ええと、送ろうとした写真は、高校生のときに友達といっしょに撮ったもので、三人いる女の子の真ん中の、髪を顔のほうに吹きなびかせているのが私――あしながスミスさんは、ほんとうはもうちょっと美人なんだけど、このときは目に日が当たってまぶしかったのよ。
送らないけど。
かしこ
追伸
私もあなたに会いたい。あまりにも当たり前すぎて、書き忘れるところだったわ。
恥ずかしいことを書きます。この前夢のなかに、あなたが出てきたの。
あなたはとても美人の、背の低い女の子だったわ。でも、私だって、実はそんなに大きいほうじゃないのよ。がっかりさせちゃったかしら?
』
◆
最後の手紙をニャアの首輪にくくりつけてから、ふた晩がすぎた。いつもどおりの間隔だったら、今夜か、明日の夜には猫が泊まりに来るはずだった。買い置きのキャットフードには、まだ余裕があるけども、そのほかにも何かニャアがよろこぶような食べものを仕入れておこう。
そう考えて、蓮子は午後の授業を終えたあと、大学を出てちょっと大きめのペットショップに向かった。天気の良い日だった。ぶらぶら歩いていると、長袖ではすこし暑さを感じるくらいだった。お店の近くまで行って、いくつか曲がり角を曲がると、民家の塀の上に、ニャアがちょこんと座っているのを見つけた。
おどろいてしまった。自分の部屋以外で、ニャアを見たのははじめてだった。あんたこのあたりにいたの、私の家からけっこう遠いじゃないの、と話しかけながら近寄って手を伸ばすと、猫は前肢をそろえてきゅっと立ち上がり、塀から降りてたたっと逃げ出してしまった。
蓮子から離れたところで猫は立ち止まり、振り向いて、体の半分をこちらに向けて観察するように蓮子を見る。蓮子の部屋で出会った最初のときと、同じような視線だった。近づくと、そのぶんだけ逃げる。まるきりどこかへ逃げてしまうわけではないし、いつものようにさわらせてくれるわけでもない。距離を保ったまま、猫は町を縫うようにして進んでいく。蓮子をどこかに連れていこうとしているみたいだった。
蓮子は猫を追いかけた。外で出会ったものだから、警戒しているのかしら、と思った。行き先だったペットショップから、どんどん離れていく。蓮子はだんだん不安になって、猫はほおっておいて帰ったほうがいいのかしら、と考えはじめた。すると、あるひとつの大きな門のなかに、するりと吸い込まれるようにニャアは入っていった。
住宅街の真ん中に、不釣り合いなほど大きく、そして寂しげな森がとつぜんあらわれたように見えた。猫が入っていったのはその森につづく敷地で、どきまぎしながら門を観察してみると、そこは神社だった。境内に入ると、背の高い欅が両脇に並んだ石の道があり、まっすぐ進んで行き当たったところで左に折れると、御社殿があった。
うす紫色の服を着た、金髪の女性がそこにいて、蓮子に背を向けて木造の建築物をながめていた。外人さんが見物にでも来たのかしら、と蓮子は頭のなかで言葉にして考えてみたが、頭のなかの声ですらふるえていた。呼吸が浅くなり、心臓が爆発しそうなほど高鳴った。つばを何度も飲み込み、おそるおそる歩を進めて、女性の近くまで行った。足元の砂利がじゃりじゃり鳴り、蓮子の存在を知らせた。女性は振り向かなかった。
あのう、猫を見かけませんでしたか。蓮子はそう声をかけた。神社に入ってから、ニャアを見失っていた。声をかけたあと、蓮子は目を閉じてしまった。砂利の音がして、女性が振り向いたのがわかった。私も、猫を探してここに来たの。
夢のなかで聞いた声と、同じだったように思った。あるいは、あまりにも蓮子の好みにぴったりした声だったので、都合のいいように記憶が塗り替えられてしまったのかもしれない。おそるおそる目を開けると、ふわふわした金髪の、美しい女の子がそこにいた。蓮子と同じくらい顔を真赤にしている。ふたりはすこしずつ、お互いの事情を話した。私の名前はマエリベリー・ハーンです、と女の子が自己紹介をしたのは、それからずいぶんたってからだった。
◆
そういうふうにして蓮子とメリーは出会い、学部こそちがうものの同じ大学の新入生同士であることがわかったので、次の日からつるむようになり、あれよあれよという間に秘封倶楽部が結成された。
ふたりはそれから、猫に会うことはなかった。蓮子とメリーが顔を合わせてから、猫はふっつりと、両方の部屋にやってこなくなってしまった。ふたりは大変悲しんで、いろいろな場所を探し回ったが、まるで幻のなかに消えてしまったみたいに、猫はどこにもいなくなってしまっていた。お互いの不思議な目のことを教え合ったのは、いっしょに猫を探している最中だった。
他にも不思議なことがあった。猫について情報交換をすすめていると、メリーのほうで、「自分がお世話をしていた猫は黒い猫だった」と言う。
「全身が黒じゃなくって、上半身の胸の部分は白かったけど、でもおおよそは黒い猫だったわ。頭と下半身は真っ黒で、とてもつややかな毛並みをしていた。眼の色はうすい緑のなかに黒い真珠が浮かんでいるようだったわよ。それに、絶対ミィ、ミィって鳴いてたわよ。ニャアニャアじゃなくって」
してみると、どうも別の猫だったように思われる。けれど蓮子が買ってあたえた首輪は同じものにまちがいがなくって、それを通じてふたりが文通していたのも、たしかなことだった。お互いに保管していた手紙を見せ合うと、たしかにこれは自分が書いたものだ、と両方がみとめる。
それからふたりはサークル活動として、さまざまなオカルトに挑み、いくつもの境界を発見しては、不思議な体験をしてきたが、けれどニャアまたはミィの秘密については、その後もずっと解かれることがなかった。今でも茶飲み話に、蓮子とメリーは猫の話をする。ふたりで新しく別の猫を飼おうか、と話をすることもあるけれど、その提案はいつもうやむやになってしまい、ただなつかしい猫の思い出を、おかしなかたちで共有するばかりである。
(了)
うまくこのどきどきとワクワクとした感動を表現できないことが悔しく思えますが、すごく、良かったです。
だから、じっとしていられなくなって、思わず家の猫をわしわし撫でて怒られたのも、私のせいではないのだ。
ちびまることかARIAみたいな。面白かったです。
さらにはその日の夢にまで猫が出てきて、しかも一匹は人語を口にしていました。
夢には三匹の猫が出てきて、一匹は灰色と白の縞模様、もう一匹は茶色と白の縞模様の猫で、主にこの二匹が出てきて来ました。三匹目はすぐに私から離れていって、ほとんど現れなかったので覚えていません。
人語がしゃべれた猫は灰色と白の縞模様の猫で、正直何を話し、どんな言葉を交わしたのか覚えていません。
ただ、この作品の連子のように、やけにその猫を可愛がって抱き締めたり、頬ずりしてた記憶があります。
茶色と白の猫はそれを眺めてただけといった感じだったような気がします。(正直覚えていない)
昨日の夜はまさしく猫づくしの夜でした。
そう思いながらこの作品を読み終えましたが、猫の魅力は恐ろしいものだと思いました。(苦笑)
まあとにかく良い作品でした。
こういう出会いもロマンチックで素敵だなって思いました。
では長文失礼いたしました。
こんなふうに知り合った蓮子とメリーもいいですね。
二人による、見え方の違う猫の正体は何でありましょうか。
その不思議が心地良いです。
こういう出会い方をしたのなら、あれだけ仲がいいのも納得ですw
大満足です。
少し不思議で、文通という情緒ある方法で親交を深める過程が心温まりました。
秘封倶楽部の良さをとても良く表現できていると思います。
あたいの胸の中はハートがフルでいっぱいになった!
こんなにあったかくなったのははじめてだ!
この二人の手紙のやり取りも面白かったです
どこか奥ゆかしさを感じました
素敵な話をありがとうございます。
素敵なお話でした
素敵な作品をどうもありがとうございました。
でも“三人目”も二人の手紙のやり取り全部を見たとは、はっきりとは言えない。
だから“三人目”なんかいなくて、猫ちゃんは野宿してたのかも。
ニャアの毛並みがメリーっぽいのにはどんな意味があるのかな、と思っていたら、ミィは蓮子を表していたというのが、わかった途端に蛇を捕まえてきたという描写を思い出してははぁとなりました。
秘封俱楽部の出会いをこんなに素敵に書いた作品は初めて読みました。素敵。
オカルトサークルの出会いとしては申し分ない素敵なものでした。
心地よい読後感を伝える語彙が無いのが悔しいです
蓮子とメリーの運命的な出会いのふしぎがぎゅっと詰まったとても素敵な作品でした