氷雪をそのまま水にしたような流れが、正面から当たってくる。人間ならばものの数秒で氷地蔵と化す冷たさだが、自分には平素の水流と変わりない。
逆流を滑るように泳いでいく。走るより、飛ぶより、速く。水を得た河童という言葉そのままに。
つと頬を小魚に撫でられた。しかし、それがウグイかタナゴか確認することもなく、ただ前を向いたまま泳ぐ。呼ばれた場所へ向かうことしか考えられなかった。
速く、早く。
角張った石の敷き詰められた川底が後方へ飛び去っていく。時折立ちふさがる岩をすり抜けてかわし、流れの彼方を目指す。
疲労を溜める腕と脚が、意識の無視に抗議するかのようにその動きを鈍くさせていくが、さらに無視。目的地へ近づく喜びこそが今の自分の全てだった。
気ばかりが急く。早く会いたかった。ああ、でも……!
はやる感情を振り切って、川面から顔を突き出した。
上流ともなると流れは強く、冷たい水流は勢いよくぶつかってきて、しぶきを上げる。
流されず、前にも進まない速度に泳ぎを調節して、辺りを眺める。
青みがかった白と黒ばかりの世界だった。
白いものは雪だ。川を挟む崖、横からまばらに生える枝ばかりの木々、水流から頭を出すごつごつした岩。それら全てを雪は撫で、温度を奪う。奪った後に落ち、解け、流れた。そうでないものもある。貼り付いたり、溜まったり、被さったままのものが。それらは、温度を奪い続けていて、白い。
雪のないところは黒かった。沈黙の黒だ。岸壁も川岩も木々も一様に白をまとわりつかせ、黒く押し黙っている。
音を立てるのは自分が顔を出している黒い水流と、そして遠く吹雪いた音を届ける高く細長い空である。朝とも昼ともつかない鈍い白に光っており、かすかな雪の欠片を落としてくる。
川も空も、立てる音は普段ならば気にも留めない。だが、今に限ってはどうにも耳障りだった。空気を震わせるだけのものが、神経を逆撫でして仕方ない。
息と鼓動が上がっている。全力で泳いできただけが理由ではない。
こんな状態で会えるわけがなかった。自分の内面の端さえ気取られてはいけない。ずっと隠しておきたいのだ。でなければ、全てが終わる。それだけは耐え難かった。
一本の木に目が留まる。ミズナラだろうか。猫の額ほどの岸が川の端にへばりつくようにあり、そこから生えている。わずかな光と少ない養分で、それでも根腐れせず、流されもせず、育ったもののようだ。
空をつかむように伸ばした枝枝に雪が白くまとわりついている。思いついたように飛んでくる幾片かの雪が、枝の間を通り過ぎた。……そう、つかもうとしたって、つかめるはずがない。
あの木は私だ、と河城にとりは思う。
色黒な、無骨な姿で、ただ一本立ちつくしている。女らしい魅力も可愛らしさもない。そんな自分の姿を飾り立てることもできずにさらしている。
わかっている。好かれるはずがないのだ。誰にも。彼女にも。
特別な一人になんてなれるはずがない。
ならばせめてあの木になりきろう。人知れず寒風に吹きつけられても、何も言わず黙って立ちつくす一本に。
息を大きく吸い、吐く。
胸に手を当てる。ささやかな膨らみの向こうから、一拍、一拍が伝わってきた。
感情は収まったように思える。現実を認識したからだろう。
そもそもこちらの一方的な想いだ。相手は単なる用事で呼びつけているだけ。来なかったら来なかったで、大して気にもしないだろう。
呼ばれた途端に家から飛び出した自分の気持ちなど、彼女にとっては一切関わりのないことだ。身勝手に押しつけるつもりは毛頭ない。
帽子の載った頭を水流に沈める。
さあ、ただの友人として会いにいこう。心を木石と化して。あと一泳ぎでそこに着く。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
再び水面から顔を出すと、相も変わらず白と黒の世界が青みがかって広がっている。
彼女は、そこにいた。岩の上で片膝を立てて座っている。青い髪と青と白のワンピースを着ており、景色に紛れていた。
しかし、自分の目にはくっきりと際だって見える。宵の口の一番星のように存在感を発揮して見える。
視覚を通しての認識が脳に染み渡る心地良さも束の間、せっかく沈めた鼓動が胸を内側から叩き始めるのを感じる。
くそっ、と心中で悪態をつく。心臓を直接握り込んでしまいたい。
下を向くと流れる水面に歪な表情が映る。そうだ、これが私だった。好かれるはずのない私。何も期待してはならない自分。
気持ちが急速に冷めて、流水と共に下方へ去っていく。それでいい。平生の声を出せる確信を得て、私は彼女に呼びかけた。
「チルノ」
顔が上げられ、視線が水面をなぞり、私を見つけた。笑顔が花のように開く。
「にとりぃ!」
氷の羽を広げてこちらに飛んでくる。私も泳いで近づいていった。
「来てくれたんだ。ちょっと遅いから来ないかと思った」
「遅かったって、ねぇ。ここからどれだけ離れていると思ってるんだい?」
人里近くの自宅から山奥のここまで相当ある。人間がまともに歩いたら何時間かかるだろう。その距離を躊躇せずに泳ぎ切った自分も大概だが。
河童は川の流れを通して呼びかけられれば、遠い近いに関係なく呼びかけを受け取ることができる。水流による糸電話みたいものだ。これを利用して河童同士なら会話もできるが、
「相手がチルノじゃあ断ろうにもこっちから話しかけられないしね。しょうがないから来たよ」
ため息混じりに首を振ると、チルノは悪びれずに言った。
「えへへへ。だって、いっつも呼んだら来てくれるからさ」
それは相手がチルノ、君だからだよ。
言葉とは裏腹な本心が答える。
いつでもどこでも理由の如何を問わず、私はチルノに呼ばれれば駆けつけるだろう。
なぜこれほどの情動を持つに至ったのか。正直よくわからない。
当初は鬱陶しいとしか思えなかった。騒がしい挙動、短絡的な思考。誰彼構わず迷惑を振りまいて、反省することもない。自分もまたいざこざに巻き込まれて、帰宅したときはいい迷惑をしたと腹立ち紛れに嘆息したものだ。
しかし、一人研究室にいて設計図に向かっていると、頭に浮かんでくる姿がある。良くも悪くも印象深いキャラクターだったからな、と「悪く」の部分を強調して考えていた。だが、その後もチルノと接し、家で彼女を思い出すのを繰り返すことで、単なる妙な妖精というだけの認識とは違ってきていることに気づいてしまう。
いつでも元気で、誰に対してもにこやかに駆け寄って、好きなことを思う存分やっている。その姿を脳裏で浮かべる際、口元が微笑みの形になっていた。ああ、そうか、と思った。好意を抱いているのか、私は、チルノに。
それからは日々が新しい照明器具をとりつけたようになった。いつもの世界が明るくなり、楽しいものになった。一緒に遊び、おしゃべりし、笑い合い、その思い出を微笑みと共に反芻した。幸せだった。……だった。
どこから歯車が狂いだしたのだろう。
深夜、無性に会いたくなって目を覚ますようになったときからか。それとも、遠目に彼女が誰かと遊んでいるのを見て、胸をかきむしられるような思いにさいなまれるようになったときか。人には言えない劣情を持つようになってしまったときか、あるいはそれに一人身を任せてしまったときか。
「でねー、呼んだのはさぁ」
意識が現実に戻る。目の前の氷精は自分の後ろ暗い感情に気づかずに、天真爛漫そのままに語りかけている。
「ここなんだけどね」
空中でスカート部分の裾を持ち上げる。前触れなく白い脚が露わになって、にとりは慌てた。
「ちちちちチルノ?!」
川面から見上げる位置関係のため、とんでもなく奥まで見えてしまう。視点をどこに置いていいか、あたふたする。履いてないのにそれは大胆過ぎる……!
「コケてすりむいちゃった。全然治んなくって」
「え、ええ?」
落ち着いて見れば、確かに右膝に血が滲んでいる。さっき膝を立てていたのはそういうことか。
「ああ、こりゃ痛そうだ。『全然治んなくって』ってすぐに治るわけないだろう」
「ツバつけときゃ治るってよく言うじゃん」
「まさか、舐めたのか?」
「汚くないよ。ちゃんと洗ってから舐めたもん、ペロペロって」
「いや、そういう問題じゃ」
傷口の周辺がてらてらと光っている。念入りに舌を這わせたようだ。やれやれ、唾液に殺菌効果がないわけではないが、応急処置として正しいのだろうか。かえって雑菌が入ることになりかねないのではないか。全然考えていないのだろうな、そういうことは。
「薬持っていたよね。あれよく効いたからさ。ねっ?」
白い歯をニッと見せる。
河童の薬は有名だ。どんな傷でもたちどころに治癒される。細胞を驚異的な速度で再生させるのだ。対象は人間も妖怪も妖精も問わない。以前チルノには額に塗ってあげたことがあった。その塗り薬は今回もポケットに携帯してある。
「わかった、わかった。塗ってあげるから、あっちに行こう」
手頃な岩を指さす。
チルノが「うん!」と飛んでいき、降り立つ。にとりは川から這い上がった。
雪が薄く積もっていたが、チルノは頓着なく腰を据えた。膝を立てて、薬の塗布を待つ。
にとりは薬を取り出して蓋を開け、適量を人差し指ですくった。
「じゃあ、たっぷりよろしく!」
「おうどんの七味じゃないんだからさ」
苦笑しながら指を傷口に近づける。
触れると、チルノが詰まった息をかすかに漏らす。
「しみたら、言って」
指を動かす。できるだけ意識しないようにして塗っていく。ただの作業するマシーンとして動くことを心がける。
何でもないことだ。傷ついた箇所を安心感を持たれて触らせてもらっていることなど。皮膚の向こう側にある彼女の肉体に指を入れていることなど。舐められた部分に滑らかな軟膏を塗り込んでいることなど。
意志に反して火がともった。
かすかに雪の舞う凍りついた渓谷の下で、それでも消えることなく奥深いところで燃える、暗い炎。
チロチロと内部からあぶってくる。
あぶり出される映像は、劣情にまみれた妄想だ。幾度となくチルノを汚したぬかるみの悪夢。
今すぐに脚をつかみ、水中へ引きずり込む。尻から手を突き入れ魂をつかみ出す。川の底にある自室に幽閉する。永久に。永遠に。誰にでも笑顔を見せる彼女を、チルノを、自分だけのものにする……!
「おおー、治った治った。すっごー!」
「ん、それは良かった」
慌てて身体を離す。チルノはカサブタさえ残らずきれいになった膝にはしゃいでいる。その姿を背にして、川に飛び込んだ。
「にとり?」
怪訝そうに声を掛けるチルノに、肩越しに答える。上ずらないように注意を払って。
「まだあまり触らない方がいいよ。真新しい皮膚だからね」
もうここにはいられない。薄汚い欲望で燃える火は、もうどうしようもなくなっている。取り返しの着かないことをする前に立ち去らなくては。
いや、彼女のそばにいるだけで私は大事なものを汚しているのだ。劣情の対象としていることで侮辱しているのだ。今すぐ消えなければならない。
それじゃあ、と言って水面下に沈もうとする。涙でにじむ瞳を水に浸す前に、しかし、頭に触れるものがあった。
目で確認するまでもなくわかる。チルノの手だった。頭部を抱えるようにして接触している。混乱はにとりの動きを止めた。
「あのさー、あたい、すごいの知ってんだよねー」
にとりの葛藤などどこ吹く風といった調子で、チルノは無邪気な言葉を紡ぐ。後頭部の間近から鼓膜を振るわせる。
「この先にでっかい滝、それが凍ってんのっ。そのまんまだよ! そのまんま凍ってんのっ」
それほど珍しくもない現象だが、さも世紀の大発見をしたかのようにアピールしてくる。
しかし、つまり何が言いたいのだろう。意図を量りかねていると、
「だからさ、一緒に行こっ!」
そうチルノは言ったのだった。
にとりは胸に手を当てていた。奥底を焦がされなくなっていた。
火は消えたわけじゃない。未だ存在し続けているのがわかる。けれど、燃えてはいない。氷結されている。チルノが触れてくれたことで。一緒にいると言ってくれたことで。
「……うん、行こう」
答えて、泳ぎ出す。前を向いたまま。チルノを頭にくっつけたまま。
チルノは自分の雰囲気が常のものとは違うことを察して、それで氷の滝へと誘ったのだろうか。あるいは何も考えていないのかもしれない。
どちらでもいい。今、彼女のそばにいていいのだと思うことができている。
凍りついた炎はいずれ解け、再び暗く燃えるだろう。自分は選ばなければならない。炎を消すか、自身を消すか。
だけど、今は何も考えずにチルノのそばにいよう。近くで彼女を感じていよう。それは何より大切なことだと思うから。
先ほどとは別の涙を瞳に浮かばせながら、にとりは水をかいだ。
逆流を滑るように泳いでいく。走るより、飛ぶより、速く。水を得た河童という言葉そのままに。
つと頬を小魚に撫でられた。しかし、それがウグイかタナゴか確認することもなく、ただ前を向いたまま泳ぐ。呼ばれた場所へ向かうことしか考えられなかった。
速く、早く。
角張った石の敷き詰められた川底が後方へ飛び去っていく。時折立ちふさがる岩をすり抜けてかわし、流れの彼方を目指す。
疲労を溜める腕と脚が、意識の無視に抗議するかのようにその動きを鈍くさせていくが、さらに無視。目的地へ近づく喜びこそが今の自分の全てだった。
気ばかりが急く。早く会いたかった。ああ、でも……!
はやる感情を振り切って、川面から顔を突き出した。
上流ともなると流れは強く、冷たい水流は勢いよくぶつかってきて、しぶきを上げる。
流されず、前にも進まない速度に泳ぎを調節して、辺りを眺める。
青みがかった白と黒ばかりの世界だった。
白いものは雪だ。川を挟む崖、横からまばらに生える枝ばかりの木々、水流から頭を出すごつごつした岩。それら全てを雪は撫で、温度を奪う。奪った後に落ち、解け、流れた。そうでないものもある。貼り付いたり、溜まったり、被さったままのものが。それらは、温度を奪い続けていて、白い。
雪のないところは黒かった。沈黙の黒だ。岸壁も川岩も木々も一様に白をまとわりつかせ、黒く押し黙っている。
音を立てるのは自分が顔を出している黒い水流と、そして遠く吹雪いた音を届ける高く細長い空である。朝とも昼ともつかない鈍い白に光っており、かすかな雪の欠片を落としてくる。
川も空も、立てる音は普段ならば気にも留めない。だが、今に限ってはどうにも耳障りだった。空気を震わせるだけのものが、神経を逆撫でして仕方ない。
息と鼓動が上がっている。全力で泳いできただけが理由ではない。
こんな状態で会えるわけがなかった。自分の内面の端さえ気取られてはいけない。ずっと隠しておきたいのだ。でなければ、全てが終わる。それだけは耐え難かった。
一本の木に目が留まる。ミズナラだろうか。猫の額ほどの岸が川の端にへばりつくようにあり、そこから生えている。わずかな光と少ない養分で、それでも根腐れせず、流されもせず、育ったもののようだ。
空をつかむように伸ばした枝枝に雪が白くまとわりついている。思いついたように飛んでくる幾片かの雪が、枝の間を通り過ぎた。……そう、つかもうとしたって、つかめるはずがない。
あの木は私だ、と河城にとりは思う。
色黒な、無骨な姿で、ただ一本立ちつくしている。女らしい魅力も可愛らしさもない。そんな自分の姿を飾り立てることもできずにさらしている。
わかっている。好かれるはずがないのだ。誰にも。彼女にも。
特別な一人になんてなれるはずがない。
ならばせめてあの木になりきろう。人知れず寒風に吹きつけられても、何も言わず黙って立ちつくす一本に。
息を大きく吸い、吐く。
胸に手を当てる。ささやかな膨らみの向こうから、一拍、一拍が伝わってきた。
感情は収まったように思える。現実を認識したからだろう。
そもそもこちらの一方的な想いだ。相手は単なる用事で呼びつけているだけ。来なかったら来なかったで、大して気にもしないだろう。
呼ばれた途端に家から飛び出した自分の気持ちなど、彼女にとっては一切関わりのないことだ。身勝手に押しつけるつもりは毛頭ない。
帽子の載った頭を水流に沈める。
さあ、ただの友人として会いにいこう。心を木石と化して。あと一泳ぎでそこに着く。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
再び水面から顔を出すと、相も変わらず白と黒の世界が青みがかって広がっている。
彼女は、そこにいた。岩の上で片膝を立てて座っている。青い髪と青と白のワンピースを着ており、景色に紛れていた。
しかし、自分の目にはくっきりと際だって見える。宵の口の一番星のように存在感を発揮して見える。
視覚を通しての認識が脳に染み渡る心地良さも束の間、せっかく沈めた鼓動が胸を内側から叩き始めるのを感じる。
くそっ、と心中で悪態をつく。心臓を直接握り込んでしまいたい。
下を向くと流れる水面に歪な表情が映る。そうだ、これが私だった。好かれるはずのない私。何も期待してはならない自分。
気持ちが急速に冷めて、流水と共に下方へ去っていく。それでいい。平生の声を出せる確信を得て、私は彼女に呼びかけた。
「チルノ」
顔が上げられ、視線が水面をなぞり、私を見つけた。笑顔が花のように開く。
「にとりぃ!」
氷の羽を広げてこちらに飛んでくる。私も泳いで近づいていった。
「来てくれたんだ。ちょっと遅いから来ないかと思った」
「遅かったって、ねぇ。ここからどれだけ離れていると思ってるんだい?」
人里近くの自宅から山奥のここまで相当ある。人間がまともに歩いたら何時間かかるだろう。その距離を躊躇せずに泳ぎ切った自分も大概だが。
河童は川の流れを通して呼びかけられれば、遠い近いに関係なく呼びかけを受け取ることができる。水流による糸電話みたいものだ。これを利用して河童同士なら会話もできるが、
「相手がチルノじゃあ断ろうにもこっちから話しかけられないしね。しょうがないから来たよ」
ため息混じりに首を振ると、チルノは悪びれずに言った。
「えへへへ。だって、いっつも呼んだら来てくれるからさ」
それは相手がチルノ、君だからだよ。
言葉とは裏腹な本心が答える。
いつでもどこでも理由の如何を問わず、私はチルノに呼ばれれば駆けつけるだろう。
なぜこれほどの情動を持つに至ったのか。正直よくわからない。
当初は鬱陶しいとしか思えなかった。騒がしい挙動、短絡的な思考。誰彼構わず迷惑を振りまいて、反省することもない。自分もまたいざこざに巻き込まれて、帰宅したときはいい迷惑をしたと腹立ち紛れに嘆息したものだ。
しかし、一人研究室にいて設計図に向かっていると、頭に浮かんでくる姿がある。良くも悪くも印象深いキャラクターだったからな、と「悪く」の部分を強調して考えていた。だが、その後もチルノと接し、家で彼女を思い出すのを繰り返すことで、単なる妙な妖精というだけの認識とは違ってきていることに気づいてしまう。
いつでも元気で、誰に対してもにこやかに駆け寄って、好きなことを思う存分やっている。その姿を脳裏で浮かべる際、口元が微笑みの形になっていた。ああ、そうか、と思った。好意を抱いているのか、私は、チルノに。
それからは日々が新しい照明器具をとりつけたようになった。いつもの世界が明るくなり、楽しいものになった。一緒に遊び、おしゃべりし、笑い合い、その思い出を微笑みと共に反芻した。幸せだった。……だった。
どこから歯車が狂いだしたのだろう。
深夜、無性に会いたくなって目を覚ますようになったときからか。それとも、遠目に彼女が誰かと遊んでいるのを見て、胸をかきむしられるような思いにさいなまれるようになったときか。人には言えない劣情を持つようになってしまったときか、あるいはそれに一人身を任せてしまったときか。
「でねー、呼んだのはさぁ」
意識が現実に戻る。目の前の氷精は自分の後ろ暗い感情に気づかずに、天真爛漫そのままに語りかけている。
「ここなんだけどね」
空中でスカート部分の裾を持ち上げる。前触れなく白い脚が露わになって、にとりは慌てた。
「ちちちちチルノ?!」
川面から見上げる位置関係のため、とんでもなく奥まで見えてしまう。視点をどこに置いていいか、あたふたする。履いてないのにそれは大胆過ぎる……!
「コケてすりむいちゃった。全然治んなくって」
「え、ええ?」
落ち着いて見れば、確かに右膝に血が滲んでいる。さっき膝を立てていたのはそういうことか。
「ああ、こりゃ痛そうだ。『全然治んなくって』ってすぐに治るわけないだろう」
「ツバつけときゃ治るってよく言うじゃん」
「まさか、舐めたのか?」
「汚くないよ。ちゃんと洗ってから舐めたもん、ペロペロって」
「いや、そういう問題じゃ」
傷口の周辺がてらてらと光っている。念入りに舌を這わせたようだ。やれやれ、唾液に殺菌効果がないわけではないが、応急処置として正しいのだろうか。かえって雑菌が入ることになりかねないのではないか。全然考えていないのだろうな、そういうことは。
「薬持っていたよね。あれよく効いたからさ。ねっ?」
白い歯をニッと見せる。
河童の薬は有名だ。どんな傷でもたちどころに治癒される。細胞を驚異的な速度で再生させるのだ。対象は人間も妖怪も妖精も問わない。以前チルノには額に塗ってあげたことがあった。その塗り薬は今回もポケットに携帯してある。
「わかった、わかった。塗ってあげるから、あっちに行こう」
手頃な岩を指さす。
チルノが「うん!」と飛んでいき、降り立つ。にとりは川から這い上がった。
雪が薄く積もっていたが、チルノは頓着なく腰を据えた。膝を立てて、薬の塗布を待つ。
にとりは薬を取り出して蓋を開け、適量を人差し指ですくった。
「じゃあ、たっぷりよろしく!」
「おうどんの七味じゃないんだからさ」
苦笑しながら指を傷口に近づける。
触れると、チルノが詰まった息をかすかに漏らす。
「しみたら、言って」
指を動かす。できるだけ意識しないようにして塗っていく。ただの作業するマシーンとして動くことを心がける。
何でもないことだ。傷ついた箇所を安心感を持たれて触らせてもらっていることなど。皮膚の向こう側にある彼女の肉体に指を入れていることなど。舐められた部分に滑らかな軟膏を塗り込んでいることなど。
意志に反して火がともった。
かすかに雪の舞う凍りついた渓谷の下で、それでも消えることなく奥深いところで燃える、暗い炎。
チロチロと内部からあぶってくる。
あぶり出される映像は、劣情にまみれた妄想だ。幾度となくチルノを汚したぬかるみの悪夢。
今すぐに脚をつかみ、水中へ引きずり込む。尻から手を突き入れ魂をつかみ出す。川の底にある自室に幽閉する。永久に。永遠に。誰にでも笑顔を見せる彼女を、チルノを、自分だけのものにする……!
「おおー、治った治った。すっごー!」
「ん、それは良かった」
慌てて身体を離す。チルノはカサブタさえ残らずきれいになった膝にはしゃいでいる。その姿を背にして、川に飛び込んだ。
「にとり?」
怪訝そうに声を掛けるチルノに、肩越しに答える。上ずらないように注意を払って。
「まだあまり触らない方がいいよ。真新しい皮膚だからね」
もうここにはいられない。薄汚い欲望で燃える火は、もうどうしようもなくなっている。取り返しの着かないことをする前に立ち去らなくては。
いや、彼女のそばにいるだけで私は大事なものを汚しているのだ。劣情の対象としていることで侮辱しているのだ。今すぐ消えなければならない。
それじゃあ、と言って水面下に沈もうとする。涙でにじむ瞳を水に浸す前に、しかし、頭に触れるものがあった。
目で確認するまでもなくわかる。チルノの手だった。頭部を抱えるようにして接触している。混乱はにとりの動きを止めた。
「あのさー、あたい、すごいの知ってんだよねー」
にとりの葛藤などどこ吹く風といった調子で、チルノは無邪気な言葉を紡ぐ。後頭部の間近から鼓膜を振るわせる。
「この先にでっかい滝、それが凍ってんのっ。そのまんまだよ! そのまんま凍ってんのっ」
それほど珍しくもない現象だが、さも世紀の大発見をしたかのようにアピールしてくる。
しかし、つまり何が言いたいのだろう。意図を量りかねていると、
「だからさ、一緒に行こっ!」
そうチルノは言ったのだった。
にとりは胸に手を当てていた。奥底を焦がされなくなっていた。
火は消えたわけじゃない。未だ存在し続けているのがわかる。けれど、燃えてはいない。氷結されている。チルノが触れてくれたことで。一緒にいると言ってくれたことで。
「……うん、行こう」
答えて、泳ぎ出す。前を向いたまま。チルノを頭にくっつけたまま。
チルノは自分の雰囲気が常のものとは違うことを察して、それで氷の滝へと誘ったのだろうか。あるいは何も考えていないのかもしれない。
どちらでもいい。今、彼女のそばにいていいのだと思うことができている。
凍りついた炎はいずれ解け、再び暗く燃えるだろう。自分は選ばなければならない。炎を消すか、自身を消すか。
だけど、今は何も考えずにチルノのそばにいよう。近くで彼女を感じていよう。それは何より大切なことだと思うから。
先ほどとは別の涙を瞳に浮かばせながら、にとりは水をかいだ。
にとりが自分の気持ちを確認しただけで終わっています。
我々にとっては馴染みのある欲望ですが、それを妖怪にとりに結ぶあと何か、が欲しい気も。
流石にもっと点数入ってもいいんじゃないかなぁ。