注意! シリーズものです!
以下の作品を先にご覧いただくことをお勧めいたします。
1.メリー「蓮子を待ってたら金髪美女が声をかけてきた」(作品集183)
2.蓮子「メリーを待ってたら常識的なOLが声をかけてきた」(作品集183)
3.蓮子「10年ぶりくらいにメリーから連絡が来たから会いに行ってみた」(作品集183)
4.蓮子「紫に対するあいつらの変態的な視線が日に日に増している」(作品集184)
5.メリー「泊まりに来た蓮子に深夜起こされて大学卒業後のことを質問された」(作品集184)
6.メリー「蓮子と紫が私に隠れて活動しているから独自に調査することにした」(作品集184)
7.メリー「蓮子とご飯を食べていたら金髪幼女が認知しろと迫ってきた」(作品集184)
8.魔理沙「霊夢が眠りっぱなしだから起きるまで縁側に座って待ってみた」(作品集184)
9.メリー「未来パラレルから来た蓮子が結界省から私を救い出すために弾幕勝負を始めた」(作品集185)
10.メリー「蓮子と教授たちで八雲邸を捜索していたら大変な資料を見つけてしまった」(作品集185)(←いまここ!)
11.魔理沙「蓮子とメリーのちゅっちゅで私の鬱がヤバい」(作品集185)
12.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」前篇(作品集186)
13.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」中篇(作品集186)
14.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」後篇(作品集187)
15.メリー「結界資源を奪い合って魔理沙と結界省たちが弾幕勝負を始めた」(作品集187)
16.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」前篇(作品集187)
17.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」中篇(作品集188)
「防護結界が必要? なんでだ?」
「攻撃性のある結界なの。ずっと昔に張られたもののようでね」
「張ったのは人間か? それとも妖怪か?」
「結界師が窮地に追い詰められて、自分の身を守るために、ね」
「なるほど、相当長持ちだな。夢符か何かか?」
「詳しい事は知らない。それで、防護結界はどれくらいで作れる?」
徹が歩きながら紫煙を燻らす。
煙は街灯に照らされながら上って行き、夜闇に溶けて消える。
「防護結界にも色々な種類があるんだ。何を作るか見極めなきゃいけないな」
「すぐには作れないんだ? 時間がかかる物なの?」
「銃弾は防弾チョッキで防げるが、光線銃の照射はそれじゃあ防げないだろ」
「作る防護結界の種類を間違えると、攻撃から身を守れない?」
「そうだな。結界にどんな種類の攻撃性があるのか調査する必要がある」
「調査するのにどれくらい時間がかかる?」
「調査自体は簡単だ。問題は、受ける攻撃の火力と、どの程度まで身を守るかだ」
「できれば現場に長くとどまって居られるようにしたいな。じゃあ作るのにはどれくらいの時間が?」
「結界の完成度による。完全に身を守りたいならば、しっかり作らなきゃならない」
「3日以内に欲しいかな」
「3日あれば余裕だな。ところでその期限はだれが決めたんだ?」
「3日前にさ、1週間後に結界が割れるって聞いたから」
「結界の実物を調査がしたいってことだな?」
「そそ。まあ私は割れた後でもいいんだけどね」
「どうせ白骨化した遺体だが、結界の研究の面で、実物を見たい?」
「だって気になるじゃん」
「ふむ」
上方に向かって煙を吐き、携帯灰皿で煙草を消す徹。
「一週間後に割れるって、その話は誰から聞いたんだ? 独自調査か?」
「多分信じて貰えないだろうけど、って前置きはしておきたい」
「真実ならばそれを言うしかないだろうに」
「八雲蓮子って言う、多次元宇宙の旅行者と接触したの」
徹が、教授を見た。教授は手を打ち、両腕でガッツポーズを作った。コロンビア。
「――――、それで?」徹が教授を無視して先を促す。
「八雲蓮子はどうやら、結界の保護が趣味みたいでね。知楽ビルのオーナーだって」
「よし、知楽ビルを買い取るぞ。いや、本当に地下に結界があるか調べるのが先か」
「4日後に結界が割れたら、建物は売り渡すって言ってたわ」
「売り渡す相手は? 相手も関係者なんだろ?」
「AQNグループの登記になるって言ってた」
「…………ビル買取は少し難しいかも知れないな。資本の額が桁外れだ」
「それで八雲蓮子は、結界が解けたら遺体を回収するつもりだって」
「圭、これは、――大当たりか?」
「そのようだね兄ちゃん」
徹は一番後ろを歩いていた圭へ目配せをし、頷いた。
「知楽書店ビル地下の結界は、メリーの神隠し、」
「マエリベリー・ハーン」蓮子が割り込む。
「マえりベリー・ハーん」徹が言った。
「徹さん。正しく発音できない人は、“さん”をつけて。メリーさん、よ」
「そうなのか」
「そうなのよ」
「そうみたいだね」
「メリーさん、の神隠しを回避する手がかりだ。明日からの方針は決まったな」
「? なんで知楽結界が神隠しを回避する手がかりなの?」私が聞く。
徹がバチンと指を鳴らし、圭を指した。
「博麗大結界には、結界の外にある“非常識”を取り込む性質があるんだ」
「唯心結界ってやつだな。結界外の人間から否定された常識を、片っ端から吸い込む」
「知楽結界が取り込まれなかったという事は、大結界に対抗できるって事だから」
「なるほど。私たちは結界を調べればいいってことね」私は納得した。理にかなっている。
「………………」
私は無言のまま歩く蓮子を見た。私の視線に気づくと、瞬きをしてこちらを見る。
ごくごく声のトーンを落として、私は蓮子へ言った。
「知楽結界の話を聞いて、学校を辞めようと思ったの?」
「後半はそうだけど、前半はそうじゃない」
「私がメリースペシャルを飲み終わって、散歩してる間に八雲蓮子に会ったのね」
「うん、そうだね。話しかけられたの。それで15分だけ会話をね」
「さっきの話の、何があなたをそこまで傷心させたの?」
「――、ここで何でもないとか言ってごまかしても、メリーは気にするだけだよね」
「そうだね」
蓮子が私のうなじに手を伸ばし、揉んでくる。私のツボは完全に理解されているようだ。
いつもはこれで安心するところだが、今回は全く不安が拭えない。むしろ心配になるだけだった。
快感に視線が外れそうになるのを、誤魔化されないぞと眼に力を込めてぐっと耐える。
私の確固たる決意が通じたのだろう。蓮子がふうと息をつき、観念したように喋り始めた。
「八雲蓮子は、秘封倶楽部の未来を予言したの。聞いた直後は話半分だったけれど」
「どんな予言? 酷い話? それとも、良い話?」
「メリーが妖怪化して、神隠しに会うって話よ。でもその予言は、」
私の割り込みを防ぐように妙なところで言葉を区切ってから。
「私が学校をやめて、教授就任の夢を諦めたことで、回避できたと思う」
「そんな予言を信じたの? 論理的なあなたらしくないわね」
「でも今になってつじつまが合った。そうだよね」
その通りである。博麗大結界は非常識を吸い込むというピースが鍵だったのだ。
私は妖怪化し、非常識になる。そうしたら結界に呼び寄せられて神隠しになるのだ。
「そうしたら今度はあなたが人柱に選ばれるって予言が出てきた」
「こっちに会いに来た八雲蓮子は」と教授が話に入ってくる。
「蓮子に会った後の様ね。私が人違いだって言うのを、知楽ビルで会ったでしょって言ってきたから」
「八雲蓮子の目的は何なんだろう? メリーの妖怪化で神隠しの後、今度は人柱になるって言い出す」
「博麗大結界の作用の話みたいに、私たちが知らない事実がまだあるのね」
「うーん、きっとそうなんだろうなぁ」
蓮子が渋い声で唸った。そうして、頭をがりがり掻きながら。
「ねえ徹さんと圭さん、さっきの話みたいなこと、まだいろいろ隠してるんだよね?」と言う。
八雲兄弟は互いの顔を見合った。
そうして圭が弁解するように言う。
「極秘情報なんだよ。分かるだろ?」
「まだ隠し事をしてるのは認めるんだ?」
「悪いが、言えない。口外禁止なんだから仕方がないだろう」
「なんで極秘なの? なんで秘密にしなきゃいけないの?」
「極秘だから、極秘なんだよ。君たちの為だ」
「君たちの為? 違うでしょ? メリーの為でしょ?」
「当然、メリーさんの保護のためだよ。だけど秘密なことは喋れない」
「私も教授もいるのに、こっちには秘密なんだ?」
「民間人と関係者の違いだ。知らない方が良いこともある」
「知ってることは全部言ってよ。メリーと国家機密、どっちが大切なの?」
徹と圭が、蓮子を同時に睨んだ。なぜかその視線を受けて、蓮子が怯んだ。
蓮子が、口を噤んだ。五人の足音だけが聞こえる静寂の中、ややあってから。
「ごめん、ちょっと熱くなった」と穏やかな口調で言った。
私は、少しだけ不安になった。
さっきの蓮子の反応、八雲兄弟の弱みを蓮子が握っているのは、事実なようだ。
そしてその弱みは、私と教授には内緒にしている。
蓮子も八雲兄弟以外にこの弱みを知られたくないと考えている。
八雲兄弟は良い。どうせ民間人には話せない事を沢山知っているから。
だけど、蓮子に秘密にされたのは、ショックだ。
少し卑屈になりかけるのをぐっとこらえる。
昨日のトンカツ屋での事を思い出す。私は、言葉が足りないのだ。
それが後々蓄積して、物事を破綻に導く。内向的すぎると言い換えても良い。
フラストレーションを溜めこまないコツは、言葉に直して外に出すという事を、私は学んだのだ。
「蓮子、ねえ蓮子」私は蓮子の肩を借りたまま耳打ちする。
「八雲兄弟のことで私に言えない、秘密なことがあるのね?」
蓮子がこっちを見た。顔と顔、30センチほどしか離れていない。吐息がかかりそうだ。
少し表情を曇らせ、進行方向に視線を戻す。蓮子の癖だ。辛くなると視線を逸らす。
「言えないならば、言えないでいいよ」責めるつもりなど無いので、フォローした。
「ごめん」と謝って見せる蓮子。「時期が来たら、向こうから言って来ると思うから」
蓮子がそう判断したのならば仕方がないと思い「わかった」とだけ返した。
八雲邸に到着した。豪華な正門が開き、庭園を抜ける。
蓮子と腕を組み歩き、エントランスへ入る。
カーペット敷き、左右対称の木造階段、天井にはシャンデリア。
感嘆の声を上げてしまう。国や県の所有ではない、個人所有の建築物だと言うのだから驚きだ。
公開されている伯爵邸をいくつが見学しているが、それらと比べても八雲邸の造りは美しかった。
正面の階段の前で立ち止まる。小間使いさんが奥から出てきた。台車を転がしている。
「荷物を運びます。どうぞこちらへ」と言われて、蓮子がそこへ置いた。
「シングルとツイン、どっちがいい?」と徹。
「準備が出来てる方が良い」蓮子が答えた。
「なんだ、遠慮してるのか?」
「違う、メリーが辛そうだから、早く休ませたいの」
そうなのだ。ここに来る間にもPTSDの症状は悪化の一途を辿っている。
幻覚と幻聴がひどい。時々いきなり耳元で「隠れ里」とか聞こえたりするのだ。重症である。
いわばびっくり系のホラー映画で静寂な演出が続き、いつ爆音を鳴らされるか常に身構えている、そんな心境だ。
「どちらも準備できております」と小間使いさんが言った。若い成人男性だ。
この人、どこかで見たことがある顔だと思ったが、思い出せない。
「じゃあ、ツインでよろしく、」蓮子が小間使いさんに言う
「――ところであなた」
「はい、なんでしょうか」
「クラバリで会ったよね? メリー間違いないよね?」
「ああ、」私はここでやっと思い出した。「呪文オプションを頼んでたわね」
私がメリースペシャルを頼んだ後に、この人が注文していた。
この顔、そのとおりである。間違いない。
しかし小間使いさん、ぱちくりとするだけである。
「あら? 人違い? そっくりさんだった?」
「呪文オプションと言いますと、物凄く長いカスタムコーヒーですか」
「そうそう! それそれ! 60文字くらいある長いコーヒー!」
「なるほど」と首をかしげ、横を向く。その横顔にも見覚えがあった。
「あ、それにあなた、警察署の休憩所でコーヒー飲んでたよね」あの咽ていた人である。
「へぇ、よく覚えてるねメリー」
「お恥ずかしい所を見られてしまいました」と小間使いさん。
「ですが、クラバリの方はきっと、私の双子の弟ですね」
「どうりでそっくりだと思ったら双子かぁ。ところでなんでまた警察署に?」
「本来は警察署からこちらまで、お二人をお連れする予定だったのですが、圭様がいたので」
傍で話している圭と徹をちらりと見てから、
「実は私、一昨日からこちらでお仕えさせて頂くことになったばかりでして」
「なるほど」と蓮子が頷いた。
きっと、先に館に帰っていろと言われたのだろう。
「お部屋にご案内しますね」荷物を載せた台車から手を放し、徹へ向き直り。
「では、お連れします」
「オレと圭は書斎にいる。何かあったら呼ぶ」
「かしこまりました」
「教授はどうする?」
ここまでついてきてしまった教授は、手の甲で顎をこする。
「んー、タイマ切れまで10分程度余ってるのよね。じゃあ秘封の二人と一緒に行こうか」
荷物を台車でゴロゴロ運ぶ小間使いさんの後ろに付き、三人で歩く。
「ねえ教授、書斎ってどこ?」蓮子が私を支えながら言った。
「八雲邸は、西階段と中央階段と東階段がある地上3階、地下1階建て。書斎は東階段の3階ね」
「今私たちが歩いているのは、どっち方向?」
「2階西にある二人用の客室よね?」
「そうですね」と小間使いさん
「書斎とは反対方向よ」
「資料室ってどこにあるの?」
「私が知ってるのは、地下にある一室だけね」
「部屋に荷物を置いたらすぐに資料を見に行きたい」
「案内するわ。じゃあ、鍵を受け取る為に書斎へ――、」
小間使いさんが、荷物運搬用のエレベータを開けた時である。
いきなり徹の声が聞こえた。「圭! 捕縛結界だ!」
同時に、何百本もの針が飛び出した。こちらに飛んでくる!
「ああああああ! れんこよけてええええ!」
素早く身をかがめようとする。が、蓮子に肩を抱かれていた為、避けられなかった。
私に! 蓮子に! 針が殺到する! 何百もの針が全身に突き刺さる!
腕にも! 肩にも! 腹にも! 余すことなく全身に!
そこで、はっと我に返る。
蓮子と教授が、私の顔を覗き込んでいる。
全身が緊張していた。驚くほど強い力で、蓮子にしがみついていた。
自分の体を見下ろしてみるが、もちろん怪我などしていない。蓮子も正常だ。
「あ、ああ、幻覚、ね。何百もの針が、こう、飛んできて、さ。避けようと思って」
耳のすぐ裏側で心臓が早鐘を打っていた。息も上がっている。
「びっくりした。えへへ、ああびっくりした」
体温が上がり、額にじっとりと汗をかいていた。
手の甲でそれをぬぐい、心拍を安定させるべく深呼吸を繰り返す。
蓮子がそんな私の様子を見て、真剣な声を出した。
「早く休んだ方が良いね。こういう時って、どうするのが良いんだろう?」
「心の傷が原因で、緊張が解けないのね。鎮静剤があった方が良いかも知れない」
「市販の物ですが買い置きがあります。ご案内した後にお持ちしますね」
小間使いさんが荷物をエレベーターに乗せながら言った。
「ありがたい。よろしく頼むわ」
部屋は階段を上がってすぐのところだった。扉を開けて中に入る。
私は驚きに目を疑った。蓮子も「アメージンッ!」と声を上げた。
デラックスランクのツインルーム、いやそれ以上だろうか。とても豪華な設備だった。
テレビ囲むようにソファが置いてある。パウダールームがある。
両手足を広げられるほどもある浴槽。トイレも広い。
あとなんかいい匂いするし、こりゃすげぇテンションあがる!
「これで何平米くらいあるの?」
「65平米です。気に入っていただけたでしょうか」
「うん、凄い部屋ね、恐縮するわ。ホントにここで寝ていいのかしら」
「どうぞご自由にお使いください。それでは、鎮静剤を取ってきますね」
小間使いさんが下がって行く。
私はベッドに腰掛け、部屋全体を改めて観察していた。
蓮子がその場でくるりと回りながら言う。
「65平米、さらに三食食事つき。メリー、こんなサービス受けたことある?」
「家族旅行で泊まりに行った部屋でも、こんな広さは無かったよ。スゴイ設備ね」
「ちょっと浮かれちゃうね。わはは、こりゃすごいわ」
「でもここって、本当に大事な客人にしか解放しない部屋よ。不思議ね」
八雲邸の内部事情を知る教授が腕を組んで訝しんだ。
リビングの入り口に立ち、眼だけを動かしてあちこちを見ている。
「盗聴器とか仕掛けられてるかも」とぼそりと言う。
「え? マジで? そんなことする人たちなの?」
「大丈夫よ。事情を知ってる私が保障するわ」
蓮子が口笛を吹きながら家具を漁っている。グリニッジっぽい曲だ。
クローゼットを開けたり、戸棚を開けたり、忙しない。
「八雲兄弟は、メリーの機嫌を取らなきゃなの」
「機嫌を取る? なんで?」教授が聞く。
「今は言えない。おいおい分かるわ。だけど、心配ないって事だけ分かってくれれば」
「蓮子がそう言うなら安心だよね教授?」
「まあ、そうね。変なこと言ってごめんなさい」
教授が謝った。
「でも喜んで貰えて何よりだわ」
「教授のおかげだね、感謝しなきゃ。私自身に感謝するのもおかしな話だけど」
「四年間一緒に居る私の勘だと、あんまりほめ過ぎると調子に乗るわよ」
「ふっふっふ、もっと褒めて構わんぞ。くるしゅうない崇め敬え奉れ」
「ぐへ、だめだこのワタシ、早く何とかしないと」
「わはははは、期間が終わった後、ワンルームマンションに戻れるかしら」
「いっそのことメリー、ここに住んじゃえば?」
「うん、ベッドが2つあるけどこれ、1つでいいわね」
「うわあ、住む気満々だこの人!」
「え? 誤解してない? あなたも一緒よ?」
「こっちのパラレルの秘封はちゅっちゅっぷりがッパネェ、嫉妬しちゃうわ。うぎぎぎぎ」
「なんなら教授も混ざる?」
「新しい! それは新しい! おいで教授! ちゅっちゅしよう!」
「遠慮しよう! 私にはマエリベリー・八雲がいるからな!」
「わははははははは!」
――「結界省は、」――
――「あなたたちを利用するわよ」――
幻聴が唐突に鳴った。耳元で怒鳴りつけられたかのような大音量だった。
驚きに息を呑み身を固くする。幻聴だと分かっていても、周囲を見回してしまう。
蓮子がそんな私の様子を見て、ふざけた態度を瞬時に改めると、隣に腰掛けてくる。
私に触れて良いものか逡巡しているようだった。
蓮子を安心させるべく、こちらから隣の肩へ頭を寄りかからせた。
「まだ、大丈夫。いきなり始まる症状は怖いけれど、精神的にはまだ余裕があるから」
「少し休息を取れば、よくなるはずだから」蓮子が私を慰める様に言った。
その直後である。教授の隣にあるクローゼットが激しく叩かれた。
開錠を急かす荒くれ者が扉を叩くような乱暴さだ。私は驚きに蓮子へしがみついた。
教授が全く反応しないから、当然これも幻聴なのだろうと分かる。
「きょ、教授」声が震えていた。みっともないと思いつつ。
「そのクローゼット、中に人がいる。ドンドン叩いてるわ」
教授が目を向け、ぱっと開く。それと同時に殴打の音は消える。
空っぽのクローゼットが露わになるだけだった。
「わたし、一体どうしちゃったんだろう。もう何だか、頭がおかしくなったみたい」
「うーん、やっぱり資料探しは明日にするよ。今日は休むことにしよう」
「そうだね。メリーがその調子じゃ、一人にさせない方が良いし」
教授もそれに賛成するように頷いた。
「うん、ありがとう」私は助かった気持ちだった。
幻覚の作用がこれから長期間に及び、精神的に参ってきたら、相当厳しくなるだろうなと思う。
それ以前に、PTSDの後遺症が発症している時点で、余裕があるとは言い難いんだけどね。
部屋の扉がノックされた。教授が応対する。
小間使いさんの声がする。一階の休憩所に、常に誰かが待機しているそうだ。
何か用があったら電話で呼び出してほしいと言う。頼もしい限りだ、と思った。
教授が戻って来て、ベットサイドテーブルへ錠剤を置いた。
1錠、市販されている鎮静剤だが、常用性があるから、丸々は飲まないほうが良いと言う。
4等分し、1かけらだけ飲んであとは捨ててしまう飲み方をするようにとのこと。
数時間で効果が出る。翌日には残らない。
四分の一の量で効かなければ、明日言ってほしいそうだ。
鎮静剤、少し恐ろしい気もするが、PTSDの症状から解放されて眠れるのならば、と思う。
そうして、明日の昼過ぎにまた来ることを約束して、教授は帰って行った。
その後は、私が先に風呂に入った。
蓮子が電話で、朝食の時間は何時かと聞いた。
何時でも食堂に来てくれればご希望の食事を作りますと言う。
蓮子が風呂に入り、その間私は鎮静剤を飲んだ。薬の名称で調べてみたら、かなり弱い部類のようだった。
4等分して残った3欠片は、ティッシュに包んでベッドサイドテーブルの引き出しに入れた。
部屋の照明を落し、先にベッドに横になった。
少しすると、蓮子が風呂から出てきた。
涼みながら薄暗い部屋で端末を操作し、何か記録を取っているようだ。
幻覚と幻聴の発作が、何度か来た。私は布団にもぐり、じっと耐えていた。
0時を過ぎた。眠気は全くやってこない。
蓮子が無段階調節のつまみを弄り、部屋の照明をずっと小さくした。
そうして、もう一方のベッドへ静かに横になった。
それを確認した私は、すぐに起き出した。
蓮子の枕元に立った。蓮子の正面に回り込んだ。
私の目を見て、蓮子が横になったまま掛布団を手で持ち上げてくれた。
直後、幻聴が、来た。
扉が開き、足音、大勢の人間が部屋に駆け込んでくる。
私はその足音から逃げる様に、蓮子の隣へもぐりこんだ。
怒声を上げながら部屋中の物をひっくり返し、投げ飛ばし、荒らしている。
症状が悪化しているのだと思った。こわい。凄くこわい。
恐怖に耐えるべく蓮子にしがみつく。
「蓮子、そこで、大勢の人が、部屋を荒らしてるわ」
「大丈夫、何もないよ。何もない」背中をさすってくれた。
私は蓮子に励まされながら、震えて耐えるしかなかった。
鎮静剤は全く効かなかった。結局そんな発作が繰り返し、眠ったのは外が明るくなり始めてからだった。
夢を見た。
倶楽部活動で地方の民宿に泊まったことが、何度もある。
古い日本家屋の形を残しているのが売りの、個人経営の宿だ。
南向きの温かな縁側。つやつやとした木の柱。
鎧戸と障子は開け放たれ、広々とした庭が見える。
舗装はされていない。地肌が丸出しになっている。
私はその地面に立っていた。
ああ倶楽部活動の記憶だな、となんとなく思った。
これが夢であるとはっきりわかった。明晰夢である。
16畳ほどの広さの居間が見える。そちらへ接近する。
身体は、浮いていた。スライドするように移動する。
縁側も通過。そのまま居間へふわふわと進入する。
誰かが眠っていた。布団を敷いて横になり、こちらに背を向けている。
掛布団に潜る後ろ頭。黒い髪が結ばれて頭頂部に纏められている。
もう日も完全に上った昼間なのに、静かな寝息を立てている。
誰かしら? 眠っているのは。
正面に回り込み、顔を覗き込もうとした、そこで、である。
船にでも乗っているかのように、体が揺れた。大きくぐわりぐわり。
目が覚めた。眠りから覚醒した。八雲邸のベッドの上だった。
部屋が明るくなっている。きっと寝つけてから1時間もたっていないだろう。
蓮子が、ベッドから降りようとしている。それで揺れたのだと分かった。
私は咄嗟に手を伸ばし、蓮子のシャツを掴んだ。
「おうっ」と蓮子が言う。振り返って私を見た。
「あらら、起こしちゃったね」
「行かないで。少し、一緒に居て」
鼻の根元まで掛布団に潜りながら、私は蓮子に甘えた。
観念したように蓮子が戻って来て、私の隣に寝転がる。
蓮子が仰向けになったので、右手を貰い、自分の頬の上に置いた。
意識はまだ半覚醒だ。睡眠時間が足りていないので、当然ながら、体がだるい。
蓮子の掌のにおいを嗅ぎながら、うつらうつらした。
昨日の精神的な摩耗を、今日に持ってきてしまった。
いや、肉体的にも疲労が蓄積している。休息が絶対的に、足りていない。
これから起床するのが途轍もなく億劫だ。ずっと、寝ていたい。何もせず眠っていたい。
「蓮子、今なんじ?」
「7時24分」
「今起きても、小間使いさん身支度してる途中だよ」
「まあそうなんだけどね」
蓮子が起きたそうにしていた。せわしなく体を動かしている。
私は蓮子を捕まえるべく、首に手を回し、押さえつけた。10分ほどそのままで居た。
「メリーは寝てていいよ。私は資料を見に行くから」
覚醒と昏睡の境にいた私へ、蓮子が言った。
資料室へ行きたかったのだとここでやっと分かった。
「そんなに急ぐ必要がある?」
「メリーは、寝てていいよ」蓮子が繰り返した。
――「共有するって言うけど、」――
――「殆どを隠しちゃうでしょうね」――
幻聴の程度は、そこまでひどくなかった。耳打ちのように聞こえ、さざ波のように引いて行く。
夢現の安らかな気分が台無しになる。一度、深呼吸をする。意識がはっきりした。
「そっか、あいつら資料を隠すつもりなのかぁ」声もしっかり出た。
「まあどうせ、昨日の夜の時点で移されちゃったと思うけど」
「この屋敷についたら、部屋につく前に資料室へ行くべきだった?」
「ぶぶー」蓮子が不正解を表す擬音を放つ。
「居候が決定した時点で、移されてると思う」
「気づかなくてごめん」
「メリーが謝ることじゃないよ」
蓮子の右手を弄って観察する。
人体の手首と言うのは、内の方向には曲がるが、逆にはあまり曲がらないものだ、とか。
案外力を加えなければ筋肉を伸ばすことは出来ないんだなとかという事が、分かった。
蓮子の右手小指の第一関節が、少し曲がっている。関節を司る皿が外を向いている。
そこを念入りに触って居たら、蓮子が「子供の頃にペンの持ち方がおかしくて、曲がったの」と言った。
無理やりに元の位置に戻そうとするが、手を放すと戻ってしまう。
「ちょっと考えたんだけどさ」そんなことをやっていたら、蓮子が口を開いた。
「うん?」
「昼過ぎに資料探しやっても同じ気がする」
「でも確かに、隠し物は私たちがここに来る前にやるよね」
「あと3時間くらいこのままゴロゴロしてようかな」
蓮子が寝返りを打ちこちらを向いて、私の顔を覗き込んでくる。
そうして、眼を閉じた。程なくして、寝息を立て始めた。寝つき良いなお前。
蓮子の寝顔を見ていたら、安らかな気分になってきた。
さらに10分ほどが経ってから、蓮子が唐突に眼を開ける。
「トイレ」と寝起きの低い声で言って、ベッドから出て行く。
「………………」
一人寝具の上に残された。隣に誰も寝ていないだけで、途端に寂しくなるから不思議なものである。
PTSDの症状は昨日の夜よりも軽くなっているようだ。
一人で寝転がっていても症状が全く出てこない。しかし、睡眠時間が足りていない。
症状が軽い内に寝続けなければならない。何となく憂鬱な気分で寝返りを打つ。
仰向けになる。
そうして、天井に寝転がる妖怪メリーと目が合った。
「おはようメリー。よく眠れた?」と手を振ってくる。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!?」
掛布団を蹴っ飛ばして跳ね起き、ベッドから跳躍し胸倉を掴み、天井から引きずりおろす。
「お前のせいで! おまえのせいで私はああぁぁあああ!」
頸部と両手足の五体を一枚の布団で結び拘束する。
蓮子から教えて貰った拘束方法だ。身動きはとれまい。
そしてついでに二発ほど蹴ってやった。
「な、なに!? さっきの叫び声は!?」
「蓮子、みてこれ。捕獲したよ」トイレから出てきた蓮子へ報告する。
「八雲兄弟が手も足も出なかった半妖怪を、掛布団一枚だけで!?」
「痛い! 痛いわ! 結びをもう少し緩くしてちょうだい!」
「うっさい。叫ぶなこの妖怪め。ねえ蓮子も一発蹴る?」
「いや、遠慮しておくわ。かわいそうだし」
私はミノムシのようになっている妖怪メリーの背中へ手を置き、ぐりぐりと圧迫した。
「ねえ今どんな気持ち? ぐるぐる巻きにされて拘束されて、どんな気持ち?」
「私の忠告、役立ったでしょ? 感謝の言葉が欲しいわ」
「はあ? 役立った? あんたのせいで、昨日の夜が、どれだけ、大変だったか!」
「痛い! 痛い! 蹴らないで! 役立ったでしょうに。資料室と言い博麗の巫女と言い」
「あ、資料室は午後から見に行く予定だよ」蓮子が言った。
「え? 見に行ってないの?」
「うん」
「マジで?」
「だって、メリーのトラウマの症状がひどかったから」
「ここにきてすぐに見に行かないと、資料隠されちゃうわよ」
「でしょうね」
「どうすんの?」
「今考えてるところ」
「ふうん。じゃあ、博麗の巫女は? 結界の話はちゃんと聞けた?」
「博麗の巫女? 巫女って、博麗大結界を守る人?」
「そうよ。神社に行ったでしょ? 夢に見たでしょ?」
ほんの先ほどまで見ていた夢を思い出した。
あれは神社の社務所だったのか。
それでこちらに背を向けて眠っていたのは、巫女か。
「寝てたわ」
「寝てた?」
「うん。真昼間から寝てた」
「マジで?」
「マジで」
「じゃ、喋ってないってこと?」
「布団に包まる後ろ頭を見ただけね」
「博麗大結界の話を聞けるチャンスを逃したのよ、あなた」
「でしょうね」
「どうすんの?」
「今考えてるところ」
妖怪メリーは拘束されたまま、はぁとため息をついた。
「私がこれだけ苦労してるのに、あなた達はダメダメね」
「それはこっちのセリフだこの年増妖怪!」
「痛い! 年増だなんて、18を超えたらみんなおばさんよ。あなたも私も」
私はベッドサイドテーブルにある電話へ手を伸ばした。
「あ、もしもし、包丁持ってきてもらっていいですか? デカければデカいほどいいです」
「え? ちょっといきなり電話して包丁だなんて、何に使うの?」蓮子が聞いてくる。
「こいつをここで解体する。生き胆を食べたら私も半妖怪になれるかも」
「もしもーし! さっきの包丁キャンセルで! ああ鎮静剤は結構です! ちょっと興奮してるだけなんで!」
蓮子が電話を切った。抗議の声を上げる私を無視して、蓮子が妖怪メリーに聞く。
「それであなた、何の用? 挨拶しに来たの?」
「そうそう。それなのよ。謝りに来たの」
「昨日の事?」
「も、そうだけど。私の右ポケットに入ってる物を返しに来たの」
「右のどのポケット? ワンピース?」
「ワンピースの腰にあるポケット。ああ、逆よ」
「蓮子、全裸にひん剥いた方が早いわ」
「このポケットでいいの?」
「そうそうそれそれ。うっひひひひ、うっくくくく、くすぐったいわ」
私は身悶えする妖怪メリーをもう一発蹴った。
蓮子が指示されたポケットから取り出したのは――。
――蓮子のキャミソールだった。
一昨日に私の部屋から持って行った物である。
私も完全に忘れてた。こいつが下着ドロボーだという事を。
蓮子は妖怪メリーを蹴った。
「この下着ドロボー! なんで持って行ったの? バカなの? 死ぬの?」
「ちょ、ちょっと出来心で、ね。ごめんなさい」
「出来心で済めば警察は要らないのよ!」
「ふふふ、警察なんかで私を逮捕できると思ってるの?」
「どこで知ったかは知らないけど、たとえ教授の真似をしても、あんたがやったことは下着ドロボーだからね!?」
手に持っているキャミソールをゴミ箱に投げ入れる蓮子。
「えー? 着ないの?」妖怪メリーが残念そうに言う。
「着るか! 気持ち悪いわ!」
「と、言うのが用件」
「え? それだけ?」
「うん、それだけ。それじゃあもうそろそろ時間だから、帰ろうかしら」
妖怪メリーがうつ伏せの状態から起き上がった。――“起き上がった”?
見てみると、掛布団の拘束がいつの間にか緩み、ほどけていた。
「捕縛の術式が無いと妖怪には縄抜けされちゃうわよ。覚えておいてね」
結びには間違い無く、きつくて正確で良かったわと言う。
「いくつか、質問がある」と蓮子。
「どうぞ?」
「あなたは、どこまで知ってる?」
「何も知らない」
「何も知らないの? すべてお見通しな風に見えるけど」
「予測してるだけね。ああでもこの状態だと人間離れした計算能力があるから」
「メリーは博麗大結界の人柱になるの?」
「ええ、多分なるわね」
「人柱になったらどうなるの?」
「死ぬまで結界の狭間に閉じ込められる」
「半妖怪にもなる?」
「なるわ」
「メリーは死ぬまで閉じ込められるのに、1300年前に飛ばされる?」
「ええ、飛ばされる可能性のが高い」
「私も一緒なんだよね?」
「そうね。そうしないと矛盾が発生しちゃうから」
「博麗の巫女が行方不明になるの?」
「なる可能性が高い」
「今質問したすべての事が同時に起こる?」
「起こる場合もある」
「ねえ、全く想像できないんだけど、説明してよ」
「うーんそれじゃあ」
扇子を取り出す妖怪メリー。
「可能性を挙げるとするならば、知楽結界を調べるのは時間の無駄」
「あの結界が人柱回避の手掛かりだって聞いたけれど」
「それは事実。だけど、時間の無駄。あと、徹と圭は死ぬ」
「え?」私と蓮子が同時に言う。「死ぬの?」
「あくまでも、可能性の話よ。さっき説明しろって言ったじゃん」
「もっと噛み砕いて、分かり易く」私は歯噛みしながら言う。
「全部想像だって言ってるわ。予言じゃないのよ。ズレることもある」
ああもう10秒しかない、と扇子でうなじを掻く。
「二人はまず、博麗大結界の事を調べなさい」扇子で私を指して、
「あなたは、博麗の巫女と接触しなさい。いいわね?」
「全くわけわからんけど、分かった」
よろしいと頷くと、妖怪メリーは未来に帰って行った。
現在時刻を確認する。8時前だった。
PTSDの発作はほぼ解消されたようだと蓮子に言ったら、あいつが調節したのねと返された。
昨夜だけ心身不安定になるよう、プレッシャーをかけたのだろうと蓮子は推理する。
もしかしたら今夜もまた発作が出るかもねとも言った。ありうる。
「もしそうだとしたら、ちょっと怖いわ」
「一緒に寝れば大丈夫よ」
なんとなく恥ずかしくなってしまい、蓮子のこの発言は無視した。
私は気持ちの切り替えの意味で、もう一度シャワーを浴びた。
歯を磨いて服を着替えて軽く化粧をして、冷蔵庫に入っていたスポーツドリンクを飲んだ。
そうしたら気分がさっぱりした。と同時に、やはり睡眠時間が足りない。眠くなってきた。
「朝食くらいは食べよう。一日の予定はそれから考える感じで」
その時点で9時15分になっていた。
蓮子が下に電話すると、朝食の用意は出来ているらしい。
ご飯かパンか選べると言うので、多数決でパンになった。即ち、満場一致だ。
睡眠不足ではっきりしない愚鈍な頭で部屋を出て、電話で聞いた食堂へ降りる。
蓮子が廊下を歩きながら廊下の装飾が美しいとか言っていたが、眠くてそれどころではなかった。
階段を下りて曲がった所で、昨日お世話になった小間使いさんが立っていた。
食堂はこちらですと案内される。両開きの板チョコみたいな扉を手の平で指し示す。
中をのぞいてみて、ああこりゃ完全にホテルだわ、と思った。
どこかファンタジー映画に出てくるような長机、白いテーブルクロス、片側五人掛け。
カゴの中にバゲットやらクロワッサンやらが入っている。
その周囲には、ジャムやらクリームやら、パンに塗り付ける用の物。
上座に二人分の席が用意されているので、そこへ腰かけた。
飲み物は何が良いか聞かれたので、蓮子はコーヒー、私はカフェオレを頼んだ。
「徹と圭は? もうご飯食べたの?」
「ええ、一時間ほど前にはもう朝食を終えて、今は書斎にいるかと」
一時間前と言ったら、妖怪メリーを縛り上げてどったんばったんやってた時分だ。
「あの二人の予定って聞いてる?」
「昼過ぎまでは書斎にいると聞いています。急ぎの用事ですか?」
「いやいや、姿が見えないから……。あはは、寝過ぎたかもね」
小間使いさんはニコリと笑い。「さあ冷めないうちにどうぞ」
私はクロワッサンを手に取り、がぶりとやった。
さくさくのカリカリで、パン屑がぱらぱらと落ちた。
そこら辺のパン屋で食べる物よりも数段美味い。なんだこれすげぇ!
齧りついた部分をカフェオレに浸し、一口。やべぇこれ、めちゃくちゃうめぇ。
「え? クロワッサンってそうやって食べるの?」
「そうやってって、どうやって?」
「カフェオレに浸しちゃっていいんだ?」
蓮子は皿にクロワッサンを置き、ナイフとフォークで切っているではないか。
まあ確かに、そうすればパン屑が落ちなくていいかも知れないけれども――。
「ナイフとフォーク使うの、めんどくさいじゃん」
「いやまあ、そうなんだけどね。正式な食べ方ってどうなの?」
「さあ、知らない」
「え? 知らないの?」
「そんなこと気にして餓死するのはイヤよ」
「餓死ってあんた…………」
私はスクランブルエッグを受け皿に盛り、フォークでクロワッサンに乗せた。
一口かぶりつく。ああうめぇ、やべぇこれ。超っパネェ。マジやべぇ。
「そうやって食べるの!? クロワッサンってそうやって食べるの!?」
「うっさいなぁ、なによ? あなたは国王級の貴族とでも朝食を食べるの?」
「いやだってさ、気になるじゃん。こういう所で食べるならばなおさら、ね」
「食べたい様に食べればいいんじゃね? あ、蓮子、そこのピーナッツバターとって」
「ピーナッツバター!? クロワッサンにピーナッツバター!?」
「えー? つけない?」
「付けないよ! 見たことないよ!」
「じゃあなんでこの食卓に並んでるの?」
「え? えっと、さあ。なんでだろ。でもあなた、いっつもつけてるの?」
「基本はバターとかジャムとかだけど、あるのならばピーナッツバターもつけるよ」
「――――、バゲットを食べよう。こっちならば難しくは無い」
「バゲットって夕食用なのよ。クロワッサンは朝食用」
「へ、へぇ、知らなかったなあ。あはは」
「なんでカゴに戻すのよ。食べたいなら食べればいいじゃん。あ、牛乳お代わりくださーい」
小間使いさんがピッチャーに牛乳を持って来た。
「あ、あの! ちょっと聞きたいんだけど!」蓮子が手を挙げる。
「はいなんでしょう?」
「クロワッサンの正しい食べ方って、どうすんの?」
小間使いさんは私のコップへ牛乳を注ぎ終えてから、斜め上に視線を向けて、やや沈黙の後。
「食べたい様に食べて頂ければ結構ですよ」と言った。
「ぱらぱら汚れちゃってもいいの?」
「ええ、お気になさらず。掃除しますので」
「いや、そうじゃなくてさ、そうじゃなくてさあ!」
「そりゃあんた、テーブルに寝転がって食べたらいけないだろうけどね」
私はバゲットにマーガリンを塗りながら言った。「誰も気にせんって」
蓮子は、皿の上で二等分されているクロワッサンへ、少しいじけた様に視線を落とした。
「私は、正しい食べ方を知りたくて、さ」
「じゃああんた、ご飯をフォークの背にのせて食べる? 食べにくいっしょ」
「それが食事の作法ならそうするけれど。そ、そこらへんは文明の違いだっていう話じゃん?」
「ここは日本よ。イギリスに行ったらフォークの背に乗せなさいな。笑われるだろうけど」
「イギリスでは料理にライスは出ないって聞いたけれどなぁ」
「え? それってホント?」
「知らなかったの!?」
「い、いやね、知らない筈ないじゃん。もちろん知ってたわよ」
「知らなかったのかー、へえー、あんなに偉そうに言っておきながらねー」
こんな話をしながら食事を終えた。満腹になったし料理もおいしかったしで、満足した。
一度部屋に戻る。蓮子がトイレに入っている間に、私は荷物の準備を始める。
ハンカチ、ティッシュ、財布に携帯端末。メールは来てるかしら、と画面を確認すると。
「はやくここから出してください。狭いです」と九尾の尻尾のアイコンがフキダシで言っていた。
なんじゃこりゃ、と思いつつ大して意識せずに起動する。
そうして、目の前に九尾の狐美女が現れた。
「こんにちはマエリベリー様、一昨日ぶりです」グラボスである。
「うおおおおおぉぉぉおおお!?」
ついに実体化したのかと思ったら、違った。半透明で、いつも通りのホログラムである。
携帯端末を操作したらホログラムが消えて、九尾の狐美女が画面に映った。
「なんで仕舞うんですか。狭くていやだって言ってるでしょうに」と勝手に出てくる。
「なに!? また下着ドロボー妖怪が出た!?」と蓮子がトイレから出てきた。
「こんにちは宇佐見様。本日もよろしくお願いします」何故か蓮子には恭しく挨拶する。
「あれ? なんでグラボスがいるの? ここってサービス範囲外でしょ?」
「10時30分から八雲邸も範囲に入ったんです。八雲徹様が専用線を引いたらしくて」
「専用線? そんなほいほい引けるものなの?」
「特別施設工事なので、工事費から権利費も込めて、200万以上は掛かってると思いますが」
「はあ、なるほど。財は力ね。この為だけに200万を惜しまず出せるなんて」と蓮子が頭を抱える。
「え? どういうこと? なんで徹はグラボスの専用線を八雲邸に?」
「うん、多分今日中に分かるから、徹から聞きなさい。でも、これで実感したでしょ」
蓮子がお気に入りの中折れ帽子を人差し指で回しながら。
「徹はあなたのご機嫌取りに必死だって、ね」
「徹様は、色々と便利だから専用線を引こうって言ってますけど」
「はいはい、たかが会話型操作インタフェースを導入するために200万も払いますかってね」
「それもそうですね。マエリベリー様は会話相手がいなくてかわいそうなので、仕方がありません」
「ねえその話って、私に不利益になる話なの? 待ってるだけでいいの?」
「ええ、メリーは安心していいよ。グラボスは想像つくでしょ」
「はいなんとなくですが」
「私を圭の嫁にするって?」
「え? あなた圭と結婚するつもりなの?」
「いや、無理。1億積まれても無理。ただパラレルの私が圭と婚姻してるっていうから連想しただけよ」
「繰り返しになるけど、メリーが思い込んで悩むことじゃないよ。まあ待ってなさいって」
そこで、扉がノックされた。グラボスが反応した。
「宇佐見様、扉を開けてはいけません。あのノック方法は要注意のデータベースに入っています」
「なんで? 開けちゃいけないならどうしたらいいの?」
「警察を呼びましょう。私が仲介するので、」
「ああ、なるほどね」
それを聞いた蓮子が構わず扉を開ける。入ってきたのは――。
「ハロー! ちょっと早かった?」教授と。
「お家って何も変わらないね」紫だった。
「宇佐見様! ああなんて言う事を! 窓から逃げられますさあこちらへ!」
グラボスが蓮子を見て、教授を見て、紫を見て、最後に私を見た。
「逃げるんです、アンノウンですよぉーって、――あれ? なんでですか?」
「紹介するわ。これがこの時代のGLaBOSよ。グラボスって呼んでね」
「メリー、先にグラボスへ二人を紹介してあげなさいよ。かわいそうじゃん」
「いやだって、こういう時にいじめてやらないとさ」
「ねえグラボス、この二人はタイムトラベラーなの。だから不審者じゃないわ」
「タイムトラベラー? そんなの、前例がありません」
「この二人が初めてだからね」
「どこから来たんですか?」
「13年後だったっけ?」
「そうね。よろしくグラボス。でもさすがメリーね、グラボスキャラが成熟してる」
「13年後までにあと3世代バージョンアップするんだよね! ねえグラボス、あなたのバージョンはいくつ?」
「タイムトラベラーだってことは分かりました。では、ちゃんと説明してください。英語で言うと、Next is explain.」
「Next, explain.ね。テンパってるって事だけは分かったわ」
超高速な処理速度を誇るグラボスが、指でこめかみを揉んでいる。
やはり、相当理解に苦しんでいるようだ。
教授と紫と蓮子、三人がかりでグラボスへ説明した。
「要約します。マエリベリー様の神隠しを回避するため、13年後のパラレルからやってきたと」
「ええ、そうね、大正解。優秀ねグラボス」
「でもさ、ちょっと要約しすぎじゃない?」紫が口を尖らせる。
「タイムトラベラーだという時点で矛盾が発生してるんですよ」
「大丈夫? エラーとか出てない?」蓮子が聞いた。
「論理サーバが2千万件のクリティカルエラーを出してダウンしました。リブート中です」
「今あなたになぞなぞとか出したら解けない? 矛盾解決問題とか出してあげよっか」
「フェイルオーバしたので大丈夫です。ただ、データセンタは上を下への大騒ぎですね」
「あらら、まあ運用に問題が出ないならばいっか。ちょっと申し訳ない事しちゃったな」
「ねえ教授、なんか13年後でも解けてない矛盾問題とかない? ダウンさせてみたいな」
「だめよ、システム運用って驚くほどお金がかかるんだから、不謹慎なことを言わないの」
「ところで本当にあなたはドSですねだから友達が出来ないんです」
「大地震の地盤沈下で生き埋めになってしまえ」
この調子なら大丈夫そうだ。
「それで、朝ご飯は食べた? もう外出する支度は出来てるんだね?」
「うん。これから書斎に行って資料室の鍵を貰いに行くところ」
「それはちょうどいい。じゃあ一緒に行こうか」
廊下に出て書斎を目指す。
紫はグラボスに興味があるようで、色々と質問している。
「ところで八雲メリーに聞いてみたよ。トラベルしたかって」
「朝にもこっちに来たよ。ちょっと挨拶がてらね。なんか言ってた?」
「あなた達が昼食にトンカツを食べに行ったタイミングで飛んだのが最後だってさ」
私は首をかしげた。
「ん? もう三回もこっちに来てるのに、一回しか飛んで無いの?」
「いやあり得るよ。残ってる二回は、まだ教授から見たら未来の八雲メリーの話なんだ」
「そそ。だから博麗大結界がうんぬんとか、博麗の巫女がうんぬんって話は、聞かないことにした」
なるほどと思った。
自宅でプレッシャーをかけてきた回と、下着を返しに来た回は、更に未来の八雲メリーなのだ。
あらゆる予測が完成しているように聞こえたが、次の接触は当分期待できないという事だ。
教授が未来の八雲メリーの時間軸に追いつくか、こちらに八雲メリーが飛んでくるかしなければ、である。
何かしらの助言を貰おうと思ったのだけれど、それあてには出来ないだろう。
「ほいよ。ここが書斎」
銀色のドアノブと、やはり板チョコみたいな扉。
食堂の物とは違い、片側の一枚扉である。
「こういう扉って空けるとき、どうするのがマナーなの?」蓮子が聞いた。
「堅苦しく考えなくていいよ。とりあえずノックして」
「またマナーって、蓮子は真面目ね」
「郷に入っては郷に従えってことよ」
蓮子が、ノックをする。二回。
やや待つが、反応が無い。
「もしもーし、秘封倶楽部の宇佐見でーす」再度ノック。次は四回。やはり反応なし。
「某は宇佐見蓮子と申すー、たのもー、誰かおらぬかー」と拳で扉を連打する。
「ちょっと蓮子、郷はどこいったのよ郷は」
「だって、反応が無いみたいなんだもの」
「あ、空いてるよ」
教授が扉を開けて中に入って行く。後ろにぞろぞろと続く。
室内のレイアウトは、大統領の執務室と言った感じ。
演台のような大きめの机に、ペンやらPCやらが置かれている。
そして卓上の中央になにやら書置きと、鍵。
「あらら、置いて行かれちゃったみたいね」
書置きを見た教授が言った。私は書かれた文章を読んで、顔を顰めた。
“知楽結界を見に行く。これが書斎の鍵だ。場所は小間使いに聞け”
「なにこれ! 協力しろって言ってきておいて、情報だけ聞いたら置き去り!?」
「あはは、まあ確かにそう解釈することもできるね」教授が相好を崩した。
「よし、PCを起動しよう。あらゆる情報を盗み見るのよ」とPCを起動する蓮子。
グラボスと紫はバイオOSの構成技術について話している。
「ねえ教授。これから知楽ビルに行ったらどうかな?」私は書置きを引っ掴んで言った。
「多分八雲兄弟は関係者以外進入禁止ゾーンの向こう側にいるだろうから」
「私たちが結界省の関係者であることを証明出来ないから、合流するのは難しい?」
「そうね。無駄足になると思うよ」
「ぐあ、ログインパスワードが分からない! くそう!」
「ねえメリー、隠し部屋探してみる?」
「隠し部屋? あるの!?」
「圭の部屋にあるんだから、徹の部屋にもあるでしょ」
「よっしゃぁ、宝探しだぁ、どんなふうに隠されてるもんなの?」
「例えば本棚の裏側にボタンが隠されてあったり」
「ぐあああ、引き出しは全部鍵が掛かってる!」
「あの、宴もたけなわですが、一つだけよろしいでしょうか?」
グラボスが控えめに手を挙げて、しかし無表情で言った。
「この部屋の様子は、音声付きで録画されてますが、――分かってますよね?」
隠し部屋を探していた私と教授。
引き出しを開けようとしていた蓮子。
動きをぴたりと止めた。
「よし、それじゃあ」
「資料室に」
「行こっか」
以心伝心した。
すべて綺麗に戻す。そう、来た時よりも美しく、である。
書斎を出て、廊下を歩きながら鍵を観察する。
鍵の頭の部分がひし形になっている。
「ああ、そのカギは地下の資料室ね。まあ、紫が居れば鍵なんて要らないんだけど」
「鍵なんて要らない? それってどういうこと?」
「そうか、まだしっかり紹介してなかったわね、紫の能力。紫、こっちにおいで」
後ろを振り向くと、紫が得意そうに笑っていた。
教授から紫を紹介してもらった。
八雲メリーが圭を夫に選んだ理由。
卒業後に秘封倶楽部が一度解散してしまった理由。
そして教授から紫の能力を説明してもらった。
空間を繋げる、手の平サイズの穴を空けられること。
二つの穴を好きな位置に生成し、空間に固定させられること。
「本当は5号室でこれを紹介するつもりだったんだけど、遅くなっちゃったね」
「そっちのパラレルの私って、スッゴク上手く行ってるんだね。私の理想像だ」
「ところで紫ちゃん、壁の向こう側にも作れるのね?」
「私から5メートル範囲ならばどこでもって感じだね」
「制約はある? たとえば、一日に使える限度回数とか」
「特にないね。でも空間把握してない場所には作れないかな」
「ほほうそれは具体的にどういう事?」
「例えば、上の階の隣の部屋とか、位置関係が把握しづらいでしょ?」
「精密な操作が出来なくなるのね。その感覚は、理解できるな」
「片目をつぶって指先をぴたりと合わせようとしても上手く行かない、この感じかな」
「それでも優秀な能力ね。頼りにさせてもらうわ」
教授の案内で地下の資料室へ到着。時刻を確認すると11時前だった。
鍵を使って開錠。資料室の中へ入る。教授が中を見て、おやと言った。
「未来の方はただの本が詰まってる感じだったんだけど、こっちはキングファイルなのね」
「やっぱり資料移されちゃったか」と蓮子が予想通りといった感じで頷いた。
「ははーん、読まれたくない物は別の部屋に? なるほどその発想は無かった」
「一概に信用できるって訳じゃないって、分かったでしょ」
縦に6段の高さがあるキャビネットに、紙媒体のキングファイルが収納されていた。
1段につき9ファイル。そのキャビネットが横に8個、奥に10個。
レールの上に乗っている。側面についているハンドルを操作する事で動く可動式である。
教授曰く、未来の資料室では紙媒体の本がそのまま棚に入っていたのだと言う。
それがキングファイルに入れられているのだから、当然隠蔽の痕跡があるという事だ。
「でも、結界の資料であることは変わり無いみたいよ」
「よしそれじゃあ、関係がありそうなところから読んでいこうかな」
と私が舌なめずりをして適当に一冊手に取り、ペラペラと捲る。
かなり古い書式で、楷書の文字にぎっしりと書かれている。読むのに時間がかかりそうだ。
教授は「こんな資料、未来にあったかな」と見覚えがある物を探している。
対して紫はやはりグラボスと会話をしている。
「――ところで、これ今日1日で終わるかしら?」
「あなた、1日で終わると思ってるの?」蓮子もげっそりという様子だ。
「いやまあ、こんな数の紙媒体を扱うことがそもそも初めてだし」
「そうだね。ちょっとどころか、かなり面倒だわ」
そうなのだ。資料は量子化がされ、その資料の検索も全てが管理されている昨今。
紙媒体の数百万ページをはいと渡されて、好きに読んでいいよと言われても、どこから手をつければいいのか、である。
「ねえみんなして、なにやってるの?」紫がグラボスとの会話を辞め、少し呆れたように言って来る。
「なにやってるのって紫、あなたも座ってないで手伝いなさい」教授が紫の態度を窘める。
「手伝う? 手伝うって、それを?」
「そうよ。神隠しの回避方法を調べるんでしょうが」
「一冊一冊、全部見ていくの? どれくらい時間がかかるの?」
「仕方ないでしょ。紙媒体なんだから」
「もっと良い方法があるじゃん」
紫がグラボスの尻尾を撫でる様に、手を動かした。
「グラボス使おうよ」
はっとした。確かにその通りである。
グラボスの正式名称を直訳すると、遺伝的生物を利用したバイオ操作システム、だ。
画像から文字を判別し量子化させることなど、朝飯前だろう。
「グラボス、ここに有る資料って電子化か量子化ってされてる?」紫が聞く。
「されているものとされていない物があるようですね」
「じゃ、されていない物をインプットしていこう」
紫が座っていた物置台からぴょんと飛び降りて、右手を挙げた。
「新生秘封倶楽部部長、八雲紫がこれより臨時に指揮を執る。皆の衆、黙って従えい」
グラボスのデータベースに登録されていない資料を入力する。
手順は簡単。携帯端末の動画撮影機能を使い、広げておいたキングファイルを撮影する。
背表紙と表紙を撮影して、あとはカメラでページを撮影する。やることは肉体労働である。
10ページ9秒で計算し、キングファイル1つが800ページで12分。
そのキングファイルが単純計算で4320個あるのだから、864時間。
「違うわ! その計算間違えてるよメリー! 3人でやれば288時間よ!」
「なるほど! 一週間と半分で出来るのね! 凄い画期的!」
「休憩無し睡眠無しの24時間フルでやっての計算ね! なんて良心的なのかしら!」
蓮子が中折れ帽子を床に叩きつけた。
「ねえ教授、同じ人が同じ時間に複数回トラベルって出来ないの?」蓮子が提案する。
「それは出来ないわ。っていうか、出来てたらもっと早くやってるし」
「もし同じ人が同じタイミングにトラベルしてきたらどうなるの?」
「二つが一つになるわ。物理的にね」
「ぐっちゃあ! って感じ?」
「もうすごい速度で二つが引き寄せられるから、バァン! って感じ」
「なるほど」とりあえず教授が無事では済まされないという事は分かった。
「それじゃあ、こっちの物質を未来に持って帰ることは?」
「無理ね。逆に、未来から持って来たものをこっちに置いておくことも不可能」
タイマが切れたら戻ってしまうと言う。
そして、飛ばしたものを把握したいから、あまり長い時間留めておきたくはないそうだ。
「八雲メリーは能力を駆使して下着ドロボーしたのね」
「え? 私の相棒がなんかしたの?」
「いや、何でもないわ」と蓮子はごまかした。
5分も経たない内に教授がキングファイルを乱暴に閉じた。
「紫、あなたもっと良い方法を思いついてるでしょ」
「えへへ、愚鈍な方法でせっせと汗を流して働く人を眺めるのは面白いなぁとね」
「あんたも手伝わせるわよ」
「私は部長だもん。ところで、タイマってあと少しで切れるでしょ?」
「そうね。短めで設定する方が、メリットがあるから」
「それじゃあお二人には数秒ほどお時間いただきまして」
「うん、じゃあ一度向こうに帰るわね。すぐこっちに来るわ」
「部屋の右奥に飛んでくるから、場所空けておいてね」
教授と紫が一度姿を消す。
数秒後、部屋の隅にオーロラが出現。範囲はごくごく狭い。
まず、抱えられるほどの大きさの箱が、どすんと着地した。
2箱、3箱、4箱。ごろごろと続けて飛ばされてくる。
ついで、今度は動画撮影用のカメラと、上空から撮影するための無脚カメラ設置台。
こちらも凄い量である。まるでゴミの様だ。
そうしてやっと現れた二人は服装が変わっていた。
「よっし、お待たせ」と気合が入った様子の教授と。
「大人の頭って固くてダメね」と生意気な紫。
「やっぱり、物量に頼るんだ」
「こんな作業さっさと終わらせましょう」
まず多数送られてきた箱を開封した。
数えきれないほどの数のブックスタンドである。
「まずこのブックスタンドは、自動にページを送る機能がある。速度は調節可能」
キングファイルをブックスタンドに設置し、スイッチを入れると、自動で捲り始める。
私も蓮子も「おおおおおお!」と歓声を上げた。
「あとは無脚浮遊型の設置台でカメラを上から撮影させて、グラボスへインプット! どやぁ」
「きょ、教授! 画期的な方法だわ!」
「あの労力を完全に自動化させた!」
「素晴らしい!」
「驚異的!」
「夢のようだ!」
「科学の勝利!」
「悲鳴をあげたいくらいだ!」
「えっへん。新生秘封倶楽部なめんじゃないわよ」
胸を張る教授の横で、紫が言った。
「ま、もっと低リスク低コストで高パフォーマンスの方法があるんだけどね」
教授が紫の頭をげんこつで叩いた。
次に飛ばされてきたのは、何の変哲もないスキャン装置である。
「いちいちグラボスを利用するよりも、さっさとスキャンしようよ」
私と蓮子と教授の三人で、キングファイルから書類を外し、台へ置く。
そして紙束の状態の書類は、電源を入れたスキャン台へ次々と投入していく。
もちろんキングファイルは元に戻す。スキャン情報のインプット先はグラボスだ。
「このスキャン台は私のポケットマネーよ。えっへん」
「きょ、教授! 画期的な方法だわ!」
「あの労力を完全に自動化させた!」
「素晴らしい!」
「驚異的!」
「夢のようだ!」
「科学の勝利!」
「悲鳴をあげたいくらいだ!」
「ふふふ、もっと褒めろ、崇め敬え奉れ」
紫がこちらに近づいてきて言う。
「ねえ、なんで一台だけでやってんの? バカなの?」
教授が紫の頭をげんこつで叩いた。
結局、スキャン装置は2台用意した。
1枚に付き0.01秒なので、滞りなく済めば44分で終わる計算になる。
紙をせっせと運ぶのは大変だったが、最終的には1時間ほどで完了した。
14時、全ての後片付けを終えて、一度食堂へ降りて、昼食にした。
2時間近い肉体労働を行い、ヘトヘトである。それは蓮子も教授も同じようだった。
ただ一人、紫だけ元気だった。座って見ていたのだから当然と言えば当然である。
グラボスと仲良く喋っている。気が合うようである。
さて14時30分になってから作業再開である。
まずは自室に戻って作戦会議としゃれ込む。
「次にやるべきことは2つある。何か分かる?」と教授。
「博麗大結界の調査!」私が手を挙げて答えた。
「よろしい、あと一つは?」
「敵勢力により隠蔽された情報の捜索!」紫が答える。
「うむそのとおり。前者に関しては、情報をインプットしたグラボスから、いつでも聞ける」
「基本的にはどの情報も機密ですが」グラボスが頷く。「はい、徹様から閲覧の許可は出てるので」
「問題は後者ね。徹と圭がいない時じゃないと捜索できない。即ち、今でしょ!」
「一つ、質問なんだけれども」と蓮子が言う。
「屋敷の中を捜索するとか、グラボスの前で言っていいの? グラボスって政府の物よ?」
鋭い。私たち一同はグラボスへ視線を向けた。
ここでグラボスの判断によっては、徹と圭へ通報され、ややこしいことになるだろう。
「齟齬が生じない様に、状況を整理します」「うん」
「徹様と圭様は、“資料室の中にある物は自由に見て良い”と言ったんですね?」「そうだね」
「それで資料室の鍵を、書斎に置いて行った」「うんそう」
「午前に入った資料室は、そのカギで開いた部屋なわけですね?」「そうだね」
「ではそのカギは、いわば参照権限のような物です」「そそ」
「渡されたカギで開かない部屋を捜索しようと言う発想は、通報対象ですね。通報します」
「ちょっとまってよグラボス、その判断はおかしいわ」
紫が待ったをかけた。遺伝的バイオOSを相手に、である。
「例えば資料室にある物を自由に見て良い、っていう参照権限があるじゃん」「はい」
「その参照権限を渡された時点では、資料室にある資料を見て良い約束なのよ」「はい」
「それがこっちの承認もなしに一方的に見れなくされたら、約束不履行は徹の方でしょ」「はい」
「資料を別の場所に移されたなら、移された先を探すのはごくごく自然な流れでしょ」「なるほど分かりました」
グラボスが一度頷いた。
「昨日の約束の時点で資料室にあった資料は、どこに移動されていようと参照は許可されます」
「流石グラボス、話を分かってくれて助かるわ」
「いいえ、紫様の言うとおりです。私が間違えてしまいました。ただ――」
グラボスが人差し指を立てる。
「移動された資料が本当に資料室にあった物か証明しなければ、参照は出来ませんよ」
「うん、だから部屋の中に入って資料を手に取って見てみるの」
「それはダメです。資料室以外の部屋に進入する事は、参照権限には含まれていないので」
「それもおかしいよグラボス。許可されたものを見るために部屋に入るのよ。それがいけない事なの?」
「なるほど、おっしゃる通りです」
グラボスが頷く。
「資料室の中にあったであろう資料を探すためにならば、屋敷の全フロアへの侵入を許可します」
「さっすがグラボス! 本当に賢いなぁ!」
呆気にとられる私達3人を、紫が振り返った。
「じゃ、いこっか、宝探し」
八雲邸、通常だったら歩けない場所も、グラボスを入れた五人で大手を振って進行する。
小間使いさんが注意しようとして来ると、グラボスが「徹様の許可は出ていますので」と一蹴する。
さらに食い下がってくるようならば、徹の録画をホログラムで突きつけるのだから、強いものである。
「1階の資料室です。どうぞ」とグラボスが立ち止まり示したのは、扉ではなくただの壁である。
「え? こんなところに隠し部屋が?」教授さえもこの様子。
「知らなかったの? 私ずっと前から知ってたよ?」と紫。
「声紋認証です。本来ならば一部の人間の“ひらけごま”で開くのですが、」
と、壁が勝手に動きだし、通路を形成する。
「今回は認証登録された人がいないので、私が開けますね。どうぞ進んでください」
窓も無く、薄暗いじめじめとした通路。
私は蓮子にしがみつき、ゆっくりゆっくり進んだ。
「本来あった通路を壁で潰して作ったんですね。だから足元が悪いかも知れません」
通路が終わり、広い空間に出た。
真っ暗闇。何も見えない。
「はい、電気をつけます。どうぞ」
と、周囲が明るくなる。室内は、地下の資料室と似たような作りだった。
キャビネットが並び、キングファイルが収納されている。
紫が小走りで中へ進み、ファイルの背表紙を指差しで確認してゆく。
「ああ、なあんだ、ここに有る本は見たことある物ばっかりね」やれやれ、と首を振って見せる。
「あなた、どこまで知ってるの? 私たちに報告した? 独自に調査しすぎじゃない?」
「だって、結界省の目的を調べたいんでしょ? ここにあるのは、それ以外の資料だよ」
「紫、はあ、――あのね」と教授は頭を抱えて「今度からは私が居ない時は活動禁止ね」
「うん、それはともかく、ここには博麗大結界に関する資料は無いよ。別のところに行こっか」
「こんな風に隠してしまうんだから、何か意味があるんでしょ?」
「ま、そうなんだけどね。うーん、知りたい?」
「知りたいって言うか、知識の共有を図りなさいよ」
「たとえばそうね、このファイルを見れば、どんな資料がここにあるのか大体わかるかな」
と、紫が背伸びをしてキングファイルを取り出す。私と蓮子へ差し出してくる。
背表紙には“535126463-46245567236”と書かれている。
思わずぞっとした。不気味だ。人間の感覚とは思えない。
「な、なにこの背表紙、なにかの暗号?」私は蓮子にしがみつき、寒気に耐えながら聞いた。
「ちがうよ、色字共感覚者用のコードだね。怖がることないよママ」
文字や数字に色が見える、という頭脳を持つ人がいる。
そういった能力者用のコードだというのだ。
分かり易い例えで言えば、“キーキー”と言う擬音は刺々しい印象があるし。
“プワプワ”と言う擬音は、丸く軽い印象がある。これが共感覚だ。
共感覚能力者間で、この印象を数字で表す。
難しい暗号を考えなくて済むのだから、手っ取り早い。
「あなたって色字共感覚者だったの?」
「いんや。でも、“535126463”は葉の色っぽいし、“46245567236”は台風が過ぎた後の空の色っぽくない?」
「それを色字共感覚って言うのよ。大人になるにつれて失うかもしれないから、大事にしなさいね」
私はキングファイルを開こうとして、「開くな!」――蓮子に止められた。
力づくで表紙を押さえつけられた。開きかけたファイルがボン! と音を立てた。
「グラボス、ここでこの資料を開いたら?」
「通報ですね。徹様を即刻呼びます」
「資料を見る為には?」
「その資料がもともと資料室の物だという事を証明してください」
「証明する前に中を見たらダメって事ね」
「そういうことになりますね」
「メリー、何か見た?」
「いいえ、って言わなきゃアウトよね」
「ならばセーフです」とグラボスが言う。
「うーん、それじゃあ」紫が親指で顎を掻いた。
「ねえあのさ、“資料室の資料は”見て良いんだよね」「はい」
「“535126463-46245567236”が資料室の資料だという事を証明しなきゃなんだよね?」「はい」
「これは、資料室の資料よ。これじゃだめ?」「ダメです」
「じゃ、こうしよう。“535126463-46245567236”を資料室の蔵書に変更するわ」「ダメです」
「資料室まで持って行って読むわ。これもダメ?」「室外への持ち出しは禁止です」
「うーん。わかった。じゃあ資料室の定義ってなに?」「そのカギで開く部屋、という事です」
紫がポケットからカギを取り出した。
このカギこそが、参照権限を証明する物なのだ。
「分かった。じゃあ、“535126463-46245567236”は一度戻して、外に出よう」
紫の言うとおり、一度資料室から廊下へ出る。
紫の指示で施錠。通路が閉まり、壁と一体化する。
「あら大変、鍵が挟まっちゃったわ」と紫がわざとらしく言う。
鍵が壁に挟まっていた。資料室の参照権限が、壁に挟まっているのだ。
「グラボス、もう一度開けて」「分かりました」と、壁が開き、通路を構成する。
「ここは、資料室よ。だよねグラボス」「はい、定義上間違えではありません」
「だから、ここに有る資料は、全て見ていいんだよね?」「はい、そのとおりです」
屁理屈である。って言うか、それでホントにいいのかグラボス。
紫は同じところから“535126463-46245567236”を取出し、私に手渡してくる。
「開くわよ? グラボス?」
「はい。参照権限は認められていますので、どうぞ。オススメはしませんが」
グラボスの忠告を無視する。
適当な椅子に座り、4人でファイルを囲む。
中を開いて、思わず、――目を背けた。
ページの下半分に張られているモノクロ写真は――。
――針が腕に刺さっている写真だった。
何の針か? 分かる。徹が投げていたあの針だ。
教授が「退魔針の効果を、実験してるんだわ」と言った。詳しい描写は、憚れる。
針だけではない。その身体へ、火で炙り、電気を流し、薬物を塗り付け――。
各体部位を刻んで潰し、その効果を、変化の経緯を記録している
「実験の資料だね」紫がファイルをペラペラと捲る。「ショックだった?」
「私は、耐性があるから大丈夫。もっとひどい写真なら山ほど見たことがあるから」
燻した豆は効果覿面だという注釈、皮膚が水膨れになっていた。
蓮子はその写真から目も離さずそう言った。声色に嘘は無い。
喋り方は通常通りだし、手の震えも無い。
それに対し私は、寒気が止まらない。気分が落ち込んでいくのを感じる。
感情的になってはいけないと思い、客観的な言葉を選び、口から出す。
「私は、実験の資料なんかよりも驚いたのが」
「こういう写真?」
「うん。写真の目的が別のところにあるから、信憑性がある」
全裸にされた成人男性が、後ろ向きに立たされている。
その背中には夥しい傷の痕と、両腕を広げたほどの大きさの、――翼が生えていた。
黒色の羽、高速で滑空するのに適した形をしている。
まるで、――カラスの羽のようだ。
ページを捲る。アップで顔が写っている。眼の色がおかしい。失明させたのだろう。
注釈を見ると、劇薬を目に点滴したと言う。効果は良好らしい。程なくして目の細胞が死滅したそうだ。
ページを捲る。膝が曲がっており、片足で立っている。
骨の強度は人間よりもはるかに強靭だという。万力で潰したと書いてある。
ページを捲る。衰弱が進行している。全身痩せ衰えてあばら骨が浮かんでいる。
この時点で、40日間絶食させられているそうだ。
そう、ここに記録されている実験は、人間に対して行われたものではない。
翼があったり、歯が三列あったり、尻尾があったり、犬のような耳があったり。
人型の、別の生き物である。
これが何か、分かる。
結界省が何を研究しているか、分かる。
否、“分かった”のだ。たった今、分かった。
妖怪だ。
――妖怪の体の造りを、外道な方法で研究しているのだ。
生きたまま、麻酔さえも掛けず、どのような反応を示すのか、何が弱点なのか。
「――なんて、――なんて、かわいそうに」
見るに耐えられなくなって私は椅子を立った。机に背を向けて距離を開ける。
あの傷、光を失った瞳、曲がった膝、浮き上がったあばら骨。
尊厳を奪い取られた絶望を想像して、その痛みを想像して、わが身が張り裂けそうだ。
肩に手を置かれた。びくりとして振り返ると、蓮子が居た。
「メリー、ちょっと外の空気を吸って来よう」
入口のスイッチを作動させる。壁が左右に分かれ、通路が出来る。
肩を借りて連れ添われて歩き明るい廊下へ出た所で、蓮子が「あちゃあ」と言った。
通路のすぐ脇へ隠れる様に、男性用スーツを着た男の二人組が立っていた。
徹と圭が、廊下で待ち伏せしていたのだ。
私は平静を装い、二人を睨み付けてやる。
精神的に消耗した顔を二人に見られるのが嫌だったのだ。
「中の資料を――、」
徹が壁によりかかっていた体を起こし、口を開いた。
「ここに保管されていた資料の中身を、――見たのか」
「……………」「……………」蓮子は黙秘。私もそれに倣う。
「見たんだな。そうか。気分が悪くなっただろう。大丈夫か?」
「……………」「……………」
「心の傷になっただろう。一刻も早く忘れたほうが良い」
「……………」「……………」
烈火のごとく怒り、声を張り上げ怒鳴られることを覚悟した私だったが。
徹の声色は思いのほか優しく、責める気配は微塵も無かった。
なぜ極秘資料を読まれてもそれを叱責しないのだろう?
「宇佐見蓮子」
「うん」名前を呼ばれて蓮子が反応する。
「お前が大丈夫でも、相棒にはダメージになるんだ」
「いやまさかこんな資料が出てくるとは思わなくて」
「予想できた筈だし、予想した筈だ。そうだろう」
「うん」
「回避させてくれ。味方してくれるんだろう?」
「うん。ごめん。配慮が足りなかった」
徹がはあとため息をついた。そうして、圭に指示した。
「どうせ室内に教授が居るんだ。つまみ出して封鎖するぞ」
「了解」とだけ答えて通路へ入っていく圭。
「秘封倶楽部の二人は、食堂にでも行って、甘いものでも食って来ると良い」
「そんなの要らない。真実を教えてよ」
私は涙声になるのを必死に抑え、言った。
「あの資料はなに? なんで背中に翼を持ってる人に、残酷な実験をしてるの?」
そう喋りながら、言葉が徐々に強くなる。声を出すことに慣れてきた。
「結界省ってあんな非人道的なことをする集団なの? 同じ人間とは思えない! 人でなし! 呪われろこの悪魔!」
「少し、落ち着け。な? いまの君は少し動揺してるんだ」
「君とか馴れ馴れしく呼ぶな! 汚らわしい! こんな、こんな人だとは思わなかったわ!」
徹が手を伸ばしてくるのを、私は叩くように払いのけた。
「頭どうかしてる! どうして平然としてられるの!? あれだけの罪を犯して、どうして普通に生活ができるの!?
鬼畜よ! 畜生以下よ! 死ぬまで呪われ続けろ! 怨念に呪い殺されてしまえ! 地獄に落ちろ! そうなればざまぁみろだわ!」
思い付く限りの最上の非難をした筈なのに、徹は涼しい顔で。
「少し、気分転換をした方が良いな。21時に書斎に来ると言い。質問に答えるよ」
そう一方的に言い残して、徹が資料室に入って行ってしまった。
徹を追い、あの背中に持参してるペンでも突き立ててやろうとしたが。
「メリー、確かにちょっと気分転換した方が良いよ」と腕を掴まれ、断念するしかなかった。
その後、食堂に行ったら小間使いさんが歓迎してくれた。
「おお! ちょうど呼びに行こうと思ってた所です! どうぞ座って!」
「あれ? なんか約束してたっけ?」蓮子がおやと言う。
「いえいえ、とりあえずコーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
と言われ、ホットコーヒーを二人分貰う。
気分が落ち込んでしまい会話も無く、二人でコーヒーを啜っていたが。
程なくして甘ったるい香りが漂ってきた。美味しそうな匂いである。
「はいお待たせ! シロップは山ほどありますから、好きなだけかけてくださいね!」
私と蓮子の前に置かれたのは、大サイズのふわふわな、――ホットケーキだった。
しかもシロップが入っているものがおちょこのような容器ではなく、なんとタンブラーグラスである。
「え? これ食べていいの?」蓮子が聞く。
「ええどうぞ。お二人の為に焼いたんです」
「でもわたしたち、そんな気分じゃないの」私が言うが。
「じゃあ一口だけでも食べてください。それから決めて頂ければと」
確かに、せっかく焼いてくれたのだから、少しでも食べなければ失礼だろう。
ナイフとフォークを持ち、一口サイズに切り、シロップも掛けずにそのまま頬張る。
表面はカリカリしていて、中はしっとりしていた。甘くてふわふわしていて、至高だった。
そう、すごく、おいしかったのだ。
「あはは、メリー、泣くほどおいしかった?」
蓮子が私を見て言った。なるほど、私は声も出さずに泣いていた。
言われなければ自分が泣いていることにさえ気付けなかっただろう。
それだけ静かな、そして自然な涙だった。
「違うの、きっとこの涙は、あれだね」と袖でぬぐいながら。
「あの写真の人にも、これを食べてほしかったわ」
私は、フォークとナイフを皿に置いた。
蓮子の顔を見た。蓮子はフォークを口に運びかけた格好で、固まっていた。
「きっと、人間を呪って死んだはずよ。文明も、文化も、人間の全てを呪ってね。
だからこれを食べたら、すごく喜んだはずだって思う。でもそれさえももう、出来ないんだわ」
ややあってから「メリーは、やさしいね」と言ってくれた。
ホットケーキを食べ終えたら、幾分か元気を取り戻した。
しかし、調査に出る気力などもはや到底残っていないので、自室に戻ることにした。
15時30分だった。段々と日が傾きかけてくる時分である。
グラボスは利用不能になっていた。ブロックをかけられたのだろう。
蓮子は、クラウドストレージへ接続しようとしていたが、弾かれてしまうようだった。
資料室でスキャンしたファイルの保存先である。
教授も紫も、音沙汰が無い。徹と圭の目の届くところで軟禁されているのだろう。
同じパラレルの同じ時間へ、複数回トラベルが出来ないことを知られたならば、もう手も足も出まい。
やることが無い。いや、何かをやろうという気力がわいてこない。全てが億劫だ。
ソファに腰掛け、開け放たれたテラスから吹き込んでくる風を感じながら、私は言った。
「蓮子、あなたって、どこまで知ってたの?」
「どこまでって言うと、なにが?」
「結界省が妖怪を捕まえて、残酷な実験をしていたってこと」
「八雲メリーがあなたの自宅にいた時、“妖怪は捕獲する”って徹が言ったじゃん」
「言ったっけな、覚えてないや。私はそれどころじゃなかったし」
「うん。あそこで、ああ結界省って妖怪を捕まえるんだなぁ、って何となくね」
「資料探しで、過激な内容が出てくるってことは、予想したんだ」
「ちょっとは、予想したかな。でもまさか本当に見つかるとは思わなかったの」
「だから、あの写真を見ても冷静だったんだ」
「いや人が傷付くのを見て動揺しない訳じゃないけれどね」
「うん。でもあの資料は、とても忌まわしい記録だわ」
「配慮が足りなかったね。ごめん、メリー」
「気にしないでいいよ」
私は目を閉じ、背凭れに頭を預けた。
興奮と高揚から覚めると、途端に睡魔が襲ってきた。
思い返してみたら、一昨日は5時間、昨日は1時間しか眠れていないのだ。
ホットケーキを食べながら沢山泣いたから、眼が腫れぼったい。
疲労が、蓄積している。むしろ、よくぞ今まで緊張が続いたものである。
ソファの背もたれを後ろへ倒し、日差し避けにタオルを目の上に乗せる。
「蓮子、ごめん、ちょっと眠いから、寝るわ」
蓮子が「わかった」とだけ答えた。
周囲が明るいのだから、当然眠りは浅いものだった。
夢を見た。
今度は、神社の賽銭箱の前に立っていた。
天気のよい境内。幼い巫女装束の少女が、箒で石畳を掃除している。
私は少女へ近寄り、声をかけた。
「ねえ、そこのあなた」
「あ、こんにちは」と人見知りもせず、礼儀正しく頭を下げてくる。
「おっと、こんにちは」私もお辞儀を返す。
「あのね、博麗の巫女を探してるんだけれども」
「巫女様なら、寝ていらっしゃいます」と箒を片手で持ち、残った片手で指し示す。
少し、舌足らずなしゃべり方だった。紫よりも一回り幼いくらいである。
未成熟な手足に、柔らかそうな色白の頬。素直で言葉を覚えたての、一番かわいい年頃だ。
「どこで寝てるのかしら?」
「居間で寝ていらっしゃいます。境内裏に回っていただければ」
「え? 起こしちゃっていいの?」
「巫女様の友人の皆様は例外なく」
「叩き起こす?」
「はい」
「いいの?」
「あなた様も、妖怪さんですよね?」
「ええ、まあ、うん。いやごめん、これでも人間よ」
「あ、どうも失礼しました。巫女様の友人は妖怪ばかりなもので」
「そうなんだ」
「訪問客に対しては“適当でいい”とも聞いているので」
「分かった。それじゃあ、ちょっと案内してもらってもいい?」
「いいですよ。こちらです」
少女が自分の背丈ほどもある箒を持って、私を先導する。
小さな背中を追い、私も歩く。
と、そこで体が揺れる。ゆっさゆっさ。
「起きて、起きてメリー、そろそろ身支度して書斎に行くわよ」
蓮子が私の肩を揺さぶっていた。八雲邸自室のベランダ際、ソファの上。
窓が閉められ、カーテンに閉ざされている。蓮子がやってくれたのだろう。
時計を見ると、19時45分。20時になったら書斎へ行く約束だ。
「ああ、そうか。約束したのね。あの鬼畜と」
寝ぼけ眼をこすりながら、最初に出た言葉がそれだった。
そのまま一度伸びをしてから姿勢正しく座り、傍らに立つ蓮子を見る。
「ねえ蓮子。この徹との話が終わったら、家に帰ろう」と提案した。
「え? 一体どうして?」
「どうしてって、こんな屋敷にはいられないよ」
当然な発想だと思っていたのに、蓮子は納得がいかないようだ。
「博麗大結界はどうするの? あなた、人柱になるのよ?」
「それはそれで、私たちが独自に調査すればいいよ」
「どうやって調査するつもり?」
「結界省の許可は得ているんだもの。あらゆることが出来るよ」
「たとえば?」
「グラボスも使えるし、公共の資料だって読めるし、機密資料も読めるし」
「圭の説明を忘れたの? 博麗大結界の中は、反国家武装勢力の集まりかも知れないのよ?」
「未来の私が言ってたじゃん。“決して反国家勢力の集まりじゃない”って」
「どちらかの言葉を10割鵜呑みにはできないよ。両方の可能性を考慮しないと」
「そりゃまあそうだけれど」
「テロリストがあなたを拉致しに来るかもしれない」
「拉致されたら、結界省が助けに来るよ」
「拉致される危険があるのに保護下を抜けるのは、いけない」
「………………………」
私は蓮子の足元へ視線を外し、説得の糸口を探した。
その様子が蓮子には、不貞腐れて黙ってしまったように見えたのだろう。
蓮子が両手を腰につけ、妥協案を示してくる。
「うん、とにかく、っていうかとりあえず、徹のところに行こうよ。それが今の課題だよ」
「わたし、徹と話す事なんてないわ。顔も見たくない」
「メリー、それじゃあどうするの?」
「このまま屋敷を出ようよ。家に帰ろうよ」
「きっと私達は結界省を誤解してると思うのよ」
「あんな資料を見たのに?」
「あの資料がなんなのか、全く説明を聞いてないじゃん」
「でも、八雲邸に保管されていたことは事実。結界省の研究資料だよ」
「その確証を得たわけじゃないし、私たちの想像でしょ」
「グラボスにさえ登録されていない紙媒体資料が、個人所有の物じゃないって言うの?」
「所有は個人だろうけど、内容が結界省執筆だとは限らないわ」
確かに、その通りだ。
「徹は資料を隠そうとしてなかったでしょ。ただ精神的なダメージになるから、避けさせただけよ」
「私たちが資料室から出ても、あの知識を口外禁止だとは言わなかったよね」
「自分にとって不利益なことならば、何かしらの言い訳と弁解をするのが先だろうから」
「………………………」
蓮子の説得を受けて、嫌々ながらも、徹と話をするべきだという気になってきた。
私はソファから立ち上がると、「分かった。じゃあ徹と話をしよう」と蓮子に言う。
髪の毛を櫛で梳かし、歯を磨いて、化粧を簡単に直し身支度をする。
パウダールームから戻ると、蓮子が何か携帯端末を操作していた。
文章を打ち、メッセージを誰かに送っているようだ。
はっと私を振り返る蓮子。少し、挙動不審だった。
「あて先はだれ?」大して深刻には受け止めず、なんとなく聞いておく。
蓮子は観念したように画面を開き、私に見せてきた。
「徹にメッセージを送ったの。これから行くって」
「なるほど」見せてくれた表示を見ると、確かにその通りだった。
「準備できた? じゃあ、行きましょう」
21時10分、夜の帳が下り夜間用の照明がついた八雲邸廊下。
雰囲気が昼の時とは変わり、ひっそりと静まり返り、厳かな感じがする。
廊下にある家具や装飾が、歩いて行く私と蓮子を見送っているように見える。
書斎の扉。蓮子がノックをする為に、右手で拳を作り、そっと持ち上げた。
昼にもここを訪れている筈なのに、全く違う場所のようだった。
どこか、非現実的だ。この感覚をどこかで味わったことがある。
勘、というのだろうか。ある種の危機察知能力とでも言うのだろうか。
書斎で私は徹から、とても重大な事実を聞かされそうな予感がする。
脳の奥がちりちりとしている。首筋が焼け焦げそうだ。扉がまるで私を引き離そうとしているかのように。
人生のターニングポイントの時に感じる、危機の予感である。
前回はどこで感じたっけと思い出そうとして、真っ先に浮かんだのが。
まず、母に眼の能力を告白し、私は病気なのだろうかと相談したとき。
次に、高校の入試結果を見に行ったとき。
高校1年生の時に男子から付き合ってくれと言われた時は――。
第六感が動かなかったから、適当な理由を言って断ったなあ。
あとは――、大学の入試結果を見に行ったとき。
そして――、次が最後だ――、ごくごく数年前の――。
蓮子が扉をノックする。コンコン、二回だった。
扉の質が良いのだ。ノックの音も上品でとても良い響きである。
昼も蓮子がノックをしたのに、おかしなことだと思った。
「どうぞ」徹の声が聞こえてくる。
蓮子が、扉を開く。書斎へ入る。
――そうだ。蓮子に声をかけられた時。否、蓮子と大学の食堂で目が合った時。
その時その瞬間だ。ああ、あの人私に声をかけてくるな。そして私は肯定的な返事をする。
それも否、するのではなく、しなければならない。この第六感である。
始まりは大学の食堂で、いまや京都を代表する結界師の末裔の、その長男と話すため。
八雲邸の書斎をノックし、どうぞと言われ、蓮子の後を追い、私も、中へ入ろうとしているのだ。
なんとなく、どころではない。とても、おかしなことだと思った。
書斎へ入る。室内の様子は昼時のまま。
変わっている事と言えば――。
正面の巨大な書き物机に、徹が腰かけている点だ。
そして真っ先に、机に置かれている結界に目が行った。
「知楽結界用の防護符を作ってるんだ。見てごらん、どうなってるか分かるかい?」
口調が、違う。いつもの乱暴でガサツな話し方ではなく、優しく諭すような口ぶりだ。
私と蓮子は無言で机に近づき、結界を観察する。
「分からない」と蓮子が言った。「メリーは?」
私は結界を指差した。「防護符ってこうやって作るんだ」
「そうだよ」と徹。「観察して分かる限りのことを言ってごらん」
試されている。
いいだろうその挑戦、受けてたとう。
結界は二重になっていた。
まず中央に札がある。その札を20センチ四方ほどの結界が封じている。
そしてその上から全てを封印するようにして、30センチ四方の結界がある。
札からは悪意が感じられる。内側の結界がそれを浴びている。
外側の結界は、内側の悪意を完全に遮断しているようだ。
「ワクチンの作り方と一緒なんだ」
「そのとおり」
「沢山の結界札を用意して、攻撃を浴びさせて、汚染されなかったものだけを持って帰ってくる。
その札が持つ抵抗力を、別の結界札に覚え込ませて量産する」
私は内側の札を指差して言った。
「この札が持つ抵抗力を、内側の結界が学んでるんだ。
外側の結界は、私達から守ってくれてる」
「大正解。そこそこ時間はかかるが、強力な結界を作ることができるんだ」
明日には完成するだろうから、そいつを成熟させたら調査に行ける、という。
「なんで私たちを置いて行ったの?」私は徹を非難した。
「危険が予想された」
「実際は?」
「あまり危険じゃなかった」
「私も蓮子も、結界を実際に見てみたかったのよ」
「本当に安全じゃなければ、連れてはいけないよ」
「保護者面するのは辞めて。調査に協力するって約束を忘れたの?」
「すまなかった。君の熱意をないがしろに」
「君って呼ぶな。メリーとも呼ぶな。馴れ馴れしい。私は、あなたを――、」
徹の目を睨み付ける。「私たちは、あなたを、軽蔑してるのよ」
続けて激しく罪を問おうかと思ったが、辞めた。
そのまま、少しだけ待とうと思った。
室内の静寂の中。小間使いさんが下の階を歩いているのだろうか。
くぐもった足音が数歩分だけ、聞こえてくる。
こことは別の世界の音を聞いているようだな、と思った。
ややあってから。
「質問に答えるよ」と徹が言う。
「あの資料はなに?」私は素早く問う。
「過去の結界省の、いや過去の八雲家の研究資料だ」
「過去の? どれくらい前の?」
「かなり昔。1200年、いや1300年くらい前かな」
「今もあんなことやってるの?」
「妖怪がいないよ。昔のようにはね」
「どこに行ったの?」
「きっと、隠れてる」
「どこに隠れてるの?」
「博麗大結界の中、幻想郷にいると考えられてる」
蓮子はもちろん、私も徹も黙った。沈黙があった。
傍らの結界から、細く息を吐きだすときのような音が、聞こえてくるだけだった。
「妖怪達は」と徹が口を開く「大結界を作って、そこに隠れ住んでるんだ」
「なぜ? どうしてそんなことを?」
「多分、生き辛くなったんだろうね」
「具体的には?」
「科学が進み、人間が妖怪を恐れなくなったんだ」
もう数百年も前の話だけどね、と徹。
「妖怪達は、国に提案した。隠れ里を作るから、土地をくれと」
「国は土地を分けてあげた?」
「いや、ついこの間言ったとおり、どこにあるのかわからないから」
「拒否したのね。野垂れ死ねと言ったんだ」
「だから妖怪達は自力で結界を作ったんだよ。博麗大結界を」
強力な結界を張って隠れるに至ったのだ。
「目星はついてるんでしょ? もう数百年も前の結界なら、技術ではレガシーよ」
「妖怪達は技術を常に研究して、結界を強固にしてる。さっぱりわからないんだ」
「土地が無ければ結界は張れないならば――」
「いや、地図に乗らない離れ小島かも知れないし、地下や上空にあるのかも」
「測位システムですぐに分かる筈よ。衛星写真だって使えるはず」
「結界の秘匿技術が科学に勝っていれば、隠すことが可能だ」
「ならばこっちも結界を研究すれば良い、――ああ」
「そう、だから作ったんだ。幻想郷を探すために、作ったんだよ」
徹が机を人差し指でトンと突いた。
「結界省をね」
さて、導入は終わりだと徹が言う。
書類ケースを持ち椅子から立ち上がると、脇にあるソファを私達へ勧めた。
私は立ったままが良かったが、蓮子が座ったので隣に腰掛けることにした。
コーヒーと紅茶はどちらが良いかと聞かれて、蓮子はコーヒーを頼んだ。
私は、水と言った。この話を聞いたらすぐに眠るつもりだから、カフェインは避けたいと説明した。
蓮子が笑って、じゃあ私も水にしようかしらと言った。
徹は一階に電話し、温めた麦茶と、コーヒーを頼んだ。
自分自身はコーヒーをどうしても飲みたいらしい。
お茶用の湯呑みは4人分と言った。なぜ4人なのだろうか?
「教授はどこに行ったの?」蓮子が理解したように質問した。
「多分、隠し扉から盗み聞きしてるよ。ほら出てこい。麦茶が飲めなくなるぞ」
急須から麦茶を注ぐ小間使いさんを観察している私だったが。
傍らの床が持ち上がったのでぎょっとした。そこから教授と紫が出てきた。
「ふっ、よくぞ分かったな。流石は八雲家長男!」
と格好をつけているが、中折れ帽子にクモの巣がくっついている。
紫はさっさと私の隣へ腰を下ろした。
「ママが馴れ馴れしく呼ぶなって言った時に、隠し通路で教授がコケたのよ。足音聞こえた?」
私は階下での小間使いさんの足音だと思った。
「教授と紫君からは、話を聞いた。紫君はもう資料の存在を知っていたそうだね」
「うん、知ってたよ。壁を叩きながら探検してたら、音が違ったからね。すぐ分かった」
「今度補強しておくよ。やっぱり大人は子供にかなわないな」
「引き続き別の隠し部屋を探す予定よ。色々と別の方法もあるの」
「おいおい、本当に心の傷になる資料室が、たくさんあるんだぞ」
「妖怪の臓器のホルマリン漬けとか?」
「――もう見つけてるじゃないか」
私は一気に気分が悪くなった。
蓮子が「想像しない方が良いね」と肩を擦ってくれる。
「紫君、そういうのがダメな人もいるんだ。少し配慮してくれ」
徹がコーヒーを一口飲む。
「分かるだろう。負の遺産なんだ。八雲家の血筋は、呪われている。妖怪達の怨念にね」
「幻想郷を見つけて、何をするつもりなの? 結界省の目的は?」と蓮子。
「圭にも同じ質問をしただろう。なんて答えた?」
「昔から続く由緒ある技術の保全だって言ってた」
「ふむ、安全な答えだ。宇佐見君は、どんな目的があると思う?」
「妖怪って、人間を襲うんでしょ? 主食とは言わないまでも、人肉を食べるんだ」
「と、言われてるね。歴史上の資料としてはそういうことになってる」
「妖怪達が自治体を作って日本を転覆しようとしているならば、対抗策が必要だね」
「なぜ結界を暴くと罰せられるか、もう説明できるだろう?」
「結界に隠れてる妖怪達との紛争を避けるためだ」
「その通り。今は拮抗状態だから、そっとしておいたほうが良い」
「でも、妖怪達は?」
「人間を恨んでいるだろうね。資料を見ただろう?」
きっと人間たちの過去の罪を清算させる為、いずれ結界を解除し、そして一挙に襲ってくるだろう。
結界の技術で武装した妖怪達に、科学兵器は通用しない。
「結界省はいわば、結界術特化の特殊部隊だ。妖怪から人間を守るためのね」
徹はコーヒーを一口。
「これが、結界省の本当の目的。いささかの戦力不足は否定できないけれども」
なにか質問ある? と聞かれ。
「ちょっと疑問に思ったんだけど」と蓮子が。
「今回はメリーだったけれど、今までにも博麗大結界の犠牲になった人はいるの?」
「博麗大結界どころか、幻想郷の妖怪達に連れ去られた人が山ほどいるよ」
「え? それってどういうこと?」私が聞く。
「結界の中だけで食料を都合出来ればいいんだろうけどね」
神隠しと言う便利な言葉が大昔からあるだろう、と徹。
はっとした。妖怪は、人間を襲うのだ。
「だから、反国家武装勢力って言ったんだ」
「テロリストとは少し違うけれど、まあ似たようなものだな」
今まで話を濁されていただけで、嘘は無かったのだ。
繋がった。一本に。矛盾は、無い。
「さて、こちらの誠意は見せた。応えてくれとは言わないが、一考してほしい」
徹が傍らに置いていた書類ケースから、二枚の紙を取り出す。それを、机に置く。私たちに見せる。
「あら」と教授が言った。「へえ」と紫が言った。「ふむ」と蓮子が言った。私は言葉を失っていた。
“内定書”と行書で書かれていた。
一枚には、マエリベリー・ハーン。
もう一枚には、宇佐見蓮子。
「勝手ながら、オレが推薦した」と徹がいつも通りの口調に戻る。
「今日の17時に役員会議で、内定が出た。おめでとう」
机に置かれた紙を、手に取る。
しっかりとしている、厚くてざらざらとした紙だ。
「学校の生徒管理部へは、明日の朝一で、結界省から連絡が行くだろう」
「んな勝手な。メリーを勧誘するって言ってたけど、私は聞いてないよ」
私は、蓮子を見た。ちょっとまて、それはおかしいだろ。
「どうして蓮子がその話を知ってるの? 私、言って無いわよ」
「ぐあ、しまった。口が滑った」
蓮子が両手で口を押える。当然もう遅い。
「オレが宇佐見に言ったんだ」と徹。「ネットでメッセージを交換していた」
「いつから? そんなそぶり、してた?」
「5号室に行った時にね、実は、交換してたの」
「でもあなた、私が結界省と接触してたって聞いて、ナチュラルに驚いてたじゃん」
「警察の人だって言ったのよ。結界省の人間だとは思わなかったし、それに、」
「宇佐見にその事実を教えたのは、八雲邸を目指して5人で歩いてる時だったからな」
蓮子が内定書を机に置いた。そうして、それを人差し指で突いて。
「メリー、実はね、もうずっと前から私達、知らずに結界省の試験を受けてたのよ」
「結界省の試験? あの録音機能が付いた結界の事?」
「いいえ、あのね、もう5号室で交換したアドレスは、私の端末に登録されてたわ」
「もう登録されてた? 知らずの内に蓮子は徹と接触してたって事?」
「私も、騙されたのよ。気づかなかった。もっと疑うべきだった。ごめん、これを見て」
蓮子が携帯端末のメッセージ欄を開く。
“秘封倶楽部”と言うフォルダを開き、パスワードを入力する。
表示された写真は、秘封倶楽部の“裏ルート”で手に入れた画像である。
「実はこの“裏ルート”の差出人が」
「オレだ」と徹。「毎回アドレスは違うが、文字の並びを変えただけのアナグラムだ」
――「秘封倶楽部は例外だ。もう捜査の技術ならば、結界省を凌いでる」――
――「罠とは人聞きの悪い。安全に暴くだけの実力があるかどうか、テストしたんだ」――
――「まあそうなるね。君たちがいくつの結界を暴いたか、統計を取ってるよ」――
――「私は、聞き込みがメイン。昔話を沢山知ってるつてがあるもの」――
――「いいけれど、調べる方法が思いついたら私に聞いてね。危険かどうか判断するから」――
蓮子が就職活動を始めた途端、結界省がなぜあんなにも完全なタイミングで接触してこれたのか。
ずっと、見られていたのだ。いつから? 最初から、だろう。
――「大学の図書館は?」――
――「もっとヤバいっしょ。大学に結界省の関係者がいない訳無いし」――
私が蓮子から、秘封倶楽部をやろうと勧誘を受けたのは、大学だ。
「分かったようだな」と徹が繰り返した。
「秘封倶楽部を結界省へ勧誘するために、どれだけの労力がつぎ込まれたか」
「それを私が、蓮子と一緒じゃなきゃイヤだって言ったから」
「じゃ、一緒に勧誘だってところだな」
「極秘資料を見られて、口封じをしなかったのも」
「どうせ今日中に全て話すつもりだった。順番が逆になったが」
「グラボスがあんなにもポンコツだったのも」
「こういう背景が無けりゃ、結界省の極秘資料を部外者には見せんだろ」
「八雲邸に客人として招き入れたのも」
「囲い込めるからだな。こちらとしては好都合だった」
私は、内定書に目を落とす。
気が遠くなるような手間とお金が、ここにつぎ込まれてきたのだ。
そして私も蓮子も、とても危険な綱渡りをしていたのだ。
一歩間違えば即逮捕。一生を棒に振る。そんなことをずっとやってきたのだ。
草原を歩いていたら、実は自分が踏んだところ以外は奈落だった、という感じだ。
「あ! それじゃあ徹さん、メリーの神隠しっていうのも実は!?」
「いや、それは結界省の手間じゃない。多分、本当の事だ」
「そう」教授ががくりとした。「じゃあ、残念だ」
「だが、当然この人材を幻想郷の妖怪に渡すわけにはいかない」
徹がぐっと拳を握りしめる。
「この逸材を手放したら被害は甚大だ。妖怪どもが何を考えているかは知らんが、阻止する」
徹が前かがみの姿勢から脱力し、背凭れによりかかった。
「それと、最後になったが、――八雲の呪われた資料に関してだ」
「あ、あああ、ごめんなさい。罵ったことは、謝らないと」
「違う、罵られるべきことなんだ。蔑まされるべきだ。ありがたい事なんだ」徹がため息をつく。
「八雲家が結界の研究を続けるのも、あの過去があるからだ。妖怪達の復讐を、八雲家は受けなければならん」
それが償いだ、と徹が言った。
「話は終わりだ。一週間以内に返事をくれ。規則なんでな」それと、と教授を見て。
「紫君はともかく、部外者には当然口外禁止の話だ。秘密だぞ」
書斎を出てすぐ、教授たちは未来へ帰って行った。会話は挨拶くらいしかなかった。
私は蓮子と八雲邸の廊下を歩きながら、徹との会話を反芻していた。
徹の話を要約すると、こうである。
人間は妖怪達と戦争をしていた。
劣勢になった妖怪達は、隠れ住むための土地が欲しいと、国に要請した。
国はそれを断った。妖怪の提案を、無下にした。勝手に行き倒れろと、見捨てたのだ。
妖怪達は自らの自治体を作った。結界を独自に張って、姿を晦まし、人間を恨んだ。
妖怪達は、人間を拉致し、喰らい続けることで、今の時代を生きている。
結界省でさえも感知できない強力な結界を張って、着実に力をつけている。
いずれ妖怪達は人間を滅ぼすため、人間の文明を支配する為、こちらへ攻め込んでくる。
その前に、妖怪達と和平を結ぶか、幻想郷を見つけ出さなければならない。
それが結界省の目的。だから、結界省は作られた。
結界省は人材を探している。結界を暴き、幻想郷を探し出せる人材を。
その人材に、私たちが選ばれた。実力を認められたのだ。
自室に帰ったら21時45分だった。
蓮子は20時の段階でもう風呂に入ったらしい。なので、私が入った。
湯船につかりながら今日一日の出来事を、繰り返し繰り返し、思い出していた。
妖怪達の凄惨な傷が、頭を過った。
私の家族があんなことをされて死んだとしたら、絶対に許せない。
徹を刃物でズタズタにし、内臓を掻っ捌いてぐちゃぐちゃにしても、まだ足りないだろう。
八雲家全員を皆殺しにしたいと思うはずだ。いやそれどころか、人間を根絶やしにしようと思うのが道理の筈。
――あまり長風呂をしても思考の悪循環に陥るだけだ。
風呂から上がり、体を拭き、寝間着に着替えた。
リビングに戻ると、蓮子がベッドに腰掛け、物憂げに考え込んでいた。
蓮子の視線の先には、机に置かれた二枚の内定書。
「珍しいわ」と私が言った。蓮子が目を上げて私を見た。“なにが?”らしい。
「蓮子がそういう表情を作るの。凄く怠そうだから」
「そうかな? いつもこんな感じだと思うけど」
「いつもはもっと精力的よ。常に最適解を求め続けてる感じ」
「買い被りだよ。すっげぇ疲れた、ああマジでだるいわーって感じ」
私は蓮子の隣へ腰かけた。
「結界省に内定おめでとう。酒でも飲む?」
「酒? 部屋に置いてあったっけ?」
「冷蔵庫にあったよ。きっと、昼の掃除の時に入れてくれたんだね」
「んー、いいや、今日は寝よう。騒ぐのは明日だ」
「あっそう、残念だな」
私はそのままベッドにもぐりこんだ。
もう二人で寝ることがデフォだなと、少し笑った。
「ああー、眠いわー、マジでやばい睡魔だわー」
「嘘つけメリーお前、さっきまで寝てたじゃねぇか」
「おやすみ、ぐー」
目を瞑ると、今度は妖怪の事だけじゃなく、様々なことを思い出す。
半ばポンコツのグラボス。紫の頭をげんこつする教授。ファイルを整理する私達。
廊下の壁が動きだし、通路を形成する。と思ったら、天井から大量の水が落ちてくる。
驚きではっと目を開けたら、蓮子が私の隣で横になり、顔を覗き込んでいた。
部屋の照明が落ちている。幻覚も幻聴も無い、静かな夜だった。
「ありゃ? 何分経った?」どうやら寝ていたらしい。
「もう30分たったよ。寝つき良すぎだろお前」
「今日の朝だってあなた、速攻で寝てたわよ」
「あれは狸寝入り。寝たふり」
「マジか、くそう。騙された」
枕元の時計を見ると、本当に30分経っていた。
「蓮子、内定受ける?」
「受けないでどうするの。他にやりたいことあるの?」
「無いよね。うん、無いわ」
「結界省なんて、入りたくても入れないよ」
「そうだね。超エリートだ」
「エリート、というか。まあ安泰だね」
蓮子が仰向けに寝返りを打つ。
「蓮子、ねえ蓮子蓮子」
「なによ」
「なんか、凄い事になってきたね」
「凄いも何も、もう何百年も前から続いてる事なんでしょ?」
「そうだね」
「知らなかっただけだよ。私たちが、ね」
「うん」
蓮子が仰向けになったまま目を瞑った。
「蓮子、蓮子蓮子蓮子」
「なによ」両目を閉じたまま返事をする。
「この先どうなるのかな」
「不安?」
「いいえ、楽しみ」
「それは良かった」
蓮子が、寝息を立て始めた。
「蓮子、蓮子蓮子蓮子蓮子」
穏やかに呼吸を続けるだけだった。
「………………」
すこし興奮して眠れそうになかったのでベッドから抜け出し、鎮静剤を一かけら飲んだ。
スポーツドリンクで嚥下し、蓮子の隣にもぐりこみ、その頬にそっとキスをした。
「おやすみなさい」
薬を飲んでまだ5分も経っていないのに、睡魔がやってきた。
夢を見た。
私は、鳥居の下に立っていた。
幼い少女が、自分の背丈ほどもある箒で、石畳を掃き清めている。
はっとした。それと同時に私は走り出していた。
「ねえ! 巫女さん借りていくわね! 寝てるの!?」
「わかりました。はい、居間で変わらず寝ていらっしゃいますので」
横を通り過ぎざま宣言すると、少女がそう言って来る。
走っては、いない。宙に浮いている。速度が出る! 速い!
時速40キロくらいは出てるんじゃなかろうか!
裏手に回り縁側、居間を覗き込む。
布団で寝ている後ろ頭がある。
私はそこへ飛び付き、体を揺らした。
「博麗の巫女さん! ねえ巫女さん! 起きて! 話を聞きたいの!」
「えー? むにゃむにゃ、眠いわぁ。夕方にもう一度来てくれる?」
「今すぐ! 今じゃなきゃダメなのよ! そうしないと!」
と言っている間にも、眠りが覚めてくるのを感じる。
ああもう時間が無い。結界の話を聞かなければ!
「巫女さん! お願い起きて! 巫女さん! 話を聞かせて!」
布団を捲り、巫女さんの肩を直接揺さぶる。
そこで、眼が覚めた。
どん、と押された。ついで、浮遊感。衝撃。
声を出す余裕も無く、肩を強く打つ。
目を開けると八雲邸の自室だった。
起き上がると、自分がベッドから押し出されたのだと気づいた。
ベッドには後ろ頭。蓮子てめぇ、よくも落としやがったな。
もう少しで博麗の巫女と話が出来たというのに。
今もすやすやと寝息を立てる黒髪の後頭部へ呪詛を送り込む。
朝の7時。昨日は22時に寝たから、9時間睡眠をとった計算になる。
睡眠は十分だろう。さてトイレにでも行くかと歩き出したら、水洗の音。
扉が開き、なんと蓮子が出てくる。
「あ、おはよメリー、起きたのね」
「ん? んんん? 蓮子が二人いるわ。ドッペル?」
「え? なに言ってんの? 私は一人よ?」
「じゃ、じゃあ、――あそこで寝てるのはだれ?」
私はベッドで眠っている後ろ頭を指差した。
蓮子が私を見て、後ろ頭を見て。
「そんなっ! 私と言うものがありながらっ!」と蓮子。
「どんな早業よ。あんたがトイレに行ってる間にとか」
二人で接近。前方に回り込み、そっと掛布団を持ち上げて顔を見る。
知らない顔だ。しかしノーメイクだと言うのに、日本人形めいた美しい顔立ちをしている。
歳は、私達よりも上だろう。20代半ば。大人の女性の顔立ちだ。
黒髪の成人女性である。旅館で風呂上りに着るような、白色無地の浴衣を着ている。
「蓮子、知ってる?」
「いんや、知らん。メリーは?」
「知らないね。どうしようこの人」
「うーん、とりあえず、人物判別システムかな」
蓮子が携帯端末を取出し、グラボスを起動する。
「おはようございます。宇佐見様と、マエリベリー様と、――おや修羅場ですか?」
「うっさいわこのポンコツ。さっさと人物判別しなさい」
「粘菌労働基準法に抵触する発言ですね。パワハラですよ。はい結果が出ました」
「どこのだれ? またアンノウン?」
「いいえ、どこから連れてきたのかわかりませんが、マッチした情報だけをお伝えすると」
グラボスは手の平を女性に向けて指し示し、真顔のまま、言った。
「博麗の巫女です」
私が食堂で朝食の準備をしている時だった。
蓮メリ部屋のちゅっちゅの気配が、唐突に一つ増えた。
私は手を一時止め、意識を集中し、そして事態を把握して家事を再開した。
――なんだ、巫女さんが来たのか。じゃ、大丈夫だ。
以下の作品を先にご覧いただくことをお勧めいたします。
1.メリー「蓮子を待ってたら金髪美女が声をかけてきた」(作品集183)
2.蓮子「メリーを待ってたら常識的なOLが声をかけてきた」(作品集183)
3.蓮子「10年ぶりくらいにメリーから連絡が来たから会いに行ってみた」(作品集183)
4.蓮子「紫に対するあいつらの変態的な視線が日に日に増している」(作品集184)
5.メリー「泊まりに来た蓮子に深夜起こされて大学卒業後のことを質問された」(作品集184)
6.メリー「蓮子と紫が私に隠れて活動しているから独自に調査することにした」(作品集184)
7.メリー「蓮子とご飯を食べていたら金髪幼女が認知しろと迫ってきた」(作品集184)
8.魔理沙「霊夢が眠りっぱなしだから起きるまで縁側に座って待ってみた」(作品集184)
9.メリー「未来パラレルから来た蓮子が結界省から私を救い出すために弾幕勝負を始めた」(作品集185)
10.メリー「蓮子と教授たちで八雲邸を捜索していたら大変な資料を見つけてしまった」(作品集185)(←いまここ!)
11.魔理沙「蓮子とメリーのちゅっちゅで私の鬱がヤバい」(作品集185)
12.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」前篇(作品集186)
13.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」中篇(作品集186)
14.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」後篇(作品集187)
15.メリー「結界資源を奪い合って魔理沙と結界省たちが弾幕勝負を始めた」(作品集187)
16.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」前篇(作品集187)
17.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」中篇(作品集188)
「防護結界が必要? なんでだ?」
「攻撃性のある結界なの。ずっと昔に張られたもののようでね」
「張ったのは人間か? それとも妖怪か?」
「結界師が窮地に追い詰められて、自分の身を守るために、ね」
「なるほど、相当長持ちだな。夢符か何かか?」
「詳しい事は知らない。それで、防護結界はどれくらいで作れる?」
徹が歩きながら紫煙を燻らす。
煙は街灯に照らされながら上って行き、夜闇に溶けて消える。
「防護結界にも色々な種類があるんだ。何を作るか見極めなきゃいけないな」
「すぐには作れないんだ? 時間がかかる物なの?」
「銃弾は防弾チョッキで防げるが、光線銃の照射はそれじゃあ防げないだろ」
「作る防護結界の種類を間違えると、攻撃から身を守れない?」
「そうだな。結界にどんな種類の攻撃性があるのか調査する必要がある」
「調査するのにどれくらい時間がかかる?」
「調査自体は簡単だ。問題は、受ける攻撃の火力と、どの程度まで身を守るかだ」
「できれば現場に長くとどまって居られるようにしたいな。じゃあ作るのにはどれくらいの時間が?」
「結界の完成度による。完全に身を守りたいならば、しっかり作らなきゃならない」
「3日以内に欲しいかな」
「3日あれば余裕だな。ところでその期限はだれが決めたんだ?」
「3日前にさ、1週間後に結界が割れるって聞いたから」
「結界の実物を調査がしたいってことだな?」
「そそ。まあ私は割れた後でもいいんだけどね」
「どうせ白骨化した遺体だが、結界の研究の面で、実物を見たい?」
「だって気になるじゃん」
「ふむ」
上方に向かって煙を吐き、携帯灰皿で煙草を消す徹。
「一週間後に割れるって、その話は誰から聞いたんだ? 独自調査か?」
「多分信じて貰えないだろうけど、って前置きはしておきたい」
「真実ならばそれを言うしかないだろうに」
「八雲蓮子って言う、多次元宇宙の旅行者と接触したの」
徹が、教授を見た。教授は手を打ち、両腕でガッツポーズを作った。コロンビア。
「――――、それで?」徹が教授を無視して先を促す。
「八雲蓮子はどうやら、結界の保護が趣味みたいでね。知楽ビルのオーナーだって」
「よし、知楽ビルを買い取るぞ。いや、本当に地下に結界があるか調べるのが先か」
「4日後に結界が割れたら、建物は売り渡すって言ってたわ」
「売り渡す相手は? 相手も関係者なんだろ?」
「AQNグループの登記になるって言ってた」
「…………ビル買取は少し難しいかも知れないな。資本の額が桁外れだ」
「それで八雲蓮子は、結界が解けたら遺体を回収するつもりだって」
「圭、これは、――大当たりか?」
「そのようだね兄ちゃん」
徹は一番後ろを歩いていた圭へ目配せをし、頷いた。
「知楽書店ビル地下の結界は、メリーの神隠し、」
「マエリベリー・ハーン」蓮子が割り込む。
「マえりベリー・ハーん」徹が言った。
「徹さん。正しく発音できない人は、“さん”をつけて。メリーさん、よ」
「そうなのか」
「そうなのよ」
「そうみたいだね」
「メリーさん、の神隠しを回避する手がかりだ。明日からの方針は決まったな」
「? なんで知楽結界が神隠しを回避する手がかりなの?」私が聞く。
徹がバチンと指を鳴らし、圭を指した。
「博麗大結界には、結界の外にある“非常識”を取り込む性質があるんだ」
「唯心結界ってやつだな。結界外の人間から否定された常識を、片っ端から吸い込む」
「知楽結界が取り込まれなかったという事は、大結界に対抗できるって事だから」
「なるほど。私たちは結界を調べればいいってことね」私は納得した。理にかなっている。
「………………」
私は無言のまま歩く蓮子を見た。私の視線に気づくと、瞬きをしてこちらを見る。
ごくごく声のトーンを落として、私は蓮子へ言った。
「知楽結界の話を聞いて、学校を辞めようと思ったの?」
「後半はそうだけど、前半はそうじゃない」
「私がメリースペシャルを飲み終わって、散歩してる間に八雲蓮子に会ったのね」
「うん、そうだね。話しかけられたの。それで15分だけ会話をね」
「さっきの話の、何があなたをそこまで傷心させたの?」
「――、ここで何でもないとか言ってごまかしても、メリーは気にするだけだよね」
「そうだね」
蓮子が私のうなじに手を伸ばし、揉んでくる。私のツボは完全に理解されているようだ。
いつもはこれで安心するところだが、今回は全く不安が拭えない。むしろ心配になるだけだった。
快感に視線が外れそうになるのを、誤魔化されないぞと眼に力を込めてぐっと耐える。
私の確固たる決意が通じたのだろう。蓮子がふうと息をつき、観念したように喋り始めた。
「八雲蓮子は、秘封倶楽部の未来を予言したの。聞いた直後は話半分だったけれど」
「どんな予言? 酷い話? それとも、良い話?」
「メリーが妖怪化して、神隠しに会うって話よ。でもその予言は、」
私の割り込みを防ぐように妙なところで言葉を区切ってから。
「私が学校をやめて、教授就任の夢を諦めたことで、回避できたと思う」
「そんな予言を信じたの? 論理的なあなたらしくないわね」
「でも今になってつじつまが合った。そうだよね」
その通りである。博麗大結界は非常識を吸い込むというピースが鍵だったのだ。
私は妖怪化し、非常識になる。そうしたら結界に呼び寄せられて神隠しになるのだ。
「そうしたら今度はあなたが人柱に選ばれるって予言が出てきた」
「こっちに会いに来た八雲蓮子は」と教授が話に入ってくる。
「蓮子に会った後の様ね。私が人違いだって言うのを、知楽ビルで会ったでしょって言ってきたから」
「八雲蓮子の目的は何なんだろう? メリーの妖怪化で神隠しの後、今度は人柱になるって言い出す」
「博麗大結界の作用の話みたいに、私たちが知らない事実がまだあるのね」
「うーん、きっとそうなんだろうなぁ」
蓮子が渋い声で唸った。そうして、頭をがりがり掻きながら。
「ねえ徹さんと圭さん、さっきの話みたいなこと、まだいろいろ隠してるんだよね?」と言う。
八雲兄弟は互いの顔を見合った。
そうして圭が弁解するように言う。
「極秘情報なんだよ。分かるだろ?」
「まだ隠し事をしてるのは認めるんだ?」
「悪いが、言えない。口外禁止なんだから仕方がないだろう」
「なんで極秘なの? なんで秘密にしなきゃいけないの?」
「極秘だから、極秘なんだよ。君たちの為だ」
「君たちの為? 違うでしょ? メリーの為でしょ?」
「当然、メリーさんの保護のためだよ。だけど秘密なことは喋れない」
「私も教授もいるのに、こっちには秘密なんだ?」
「民間人と関係者の違いだ。知らない方が良いこともある」
「知ってることは全部言ってよ。メリーと国家機密、どっちが大切なの?」
徹と圭が、蓮子を同時に睨んだ。なぜかその視線を受けて、蓮子が怯んだ。
蓮子が、口を噤んだ。五人の足音だけが聞こえる静寂の中、ややあってから。
「ごめん、ちょっと熱くなった」と穏やかな口調で言った。
私は、少しだけ不安になった。
さっきの蓮子の反応、八雲兄弟の弱みを蓮子が握っているのは、事実なようだ。
そしてその弱みは、私と教授には内緒にしている。
蓮子も八雲兄弟以外にこの弱みを知られたくないと考えている。
八雲兄弟は良い。どうせ民間人には話せない事を沢山知っているから。
だけど、蓮子に秘密にされたのは、ショックだ。
少し卑屈になりかけるのをぐっとこらえる。
昨日のトンカツ屋での事を思い出す。私は、言葉が足りないのだ。
それが後々蓄積して、物事を破綻に導く。内向的すぎると言い換えても良い。
フラストレーションを溜めこまないコツは、言葉に直して外に出すという事を、私は学んだのだ。
「蓮子、ねえ蓮子」私は蓮子の肩を借りたまま耳打ちする。
「八雲兄弟のことで私に言えない、秘密なことがあるのね?」
蓮子がこっちを見た。顔と顔、30センチほどしか離れていない。吐息がかかりそうだ。
少し表情を曇らせ、進行方向に視線を戻す。蓮子の癖だ。辛くなると視線を逸らす。
「言えないならば、言えないでいいよ」責めるつもりなど無いので、フォローした。
「ごめん」と謝って見せる蓮子。「時期が来たら、向こうから言って来ると思うから」
蓮子がそう判断したのならば仕方がないと思い「わかった」とだけ返した。
八雲邸に到着した。豪華な正門が開き、庭園を抜ける。
蓮子と腕を組み歩き、エントランスへ入る。
カーペット敷き、左右対称の木造階段、天井にはシャンデリア。
感嘆の声を上げてしまう。国や県の所有ではない、個人所有の建築物だと言うのだから驚きだ。
公開されている伯爵邸をいくつが見学しているが、それらと比べても八雲邸の造りは美しかった。
正面の階段の前で立ち止まる。小間使いさんが奥から出てきた。台車を転がしている。
「荷物を運びます。どうぞこちらへ」と言われて、蓮子がそこへ置いた。
「シングルとツイン、どっちがいい?」と徹。
「準備が出来てる方が良い」蓮子が答えた。
「なんだ、遠慮してるのか?」
「違う、メリーが辛そうだから、早く休ませたいの」
そうなのだ。ここに来る間にもPTSDの症状は悪化の一途を辿っている。
幻覚と幻聴がひどい。時々いきなり耳元で「隠れ里」とか聞こえたりするのだ。重症である。
いわばびっくり系のホラー映画で静寂な演出が続き、いつ爆音を鳴らされるか常に身構えている、そんな心境だ。
「どちらも準備できております」と小間使いさんが言った。若い成人男性だ。
この人、どこかで見たことがある顔だと思ったが、思い出せない。
「じゃあ、ツインでよろしく、」蓮子が小間使いさんに言う
「――ところであなた」
「はい、なんでしょうか」
「クラバリで会ったよね? メリー間違いないよね?」
「ああ、」私はここでやっと思い出した。「呪文オプションを頼んでたわね」
私がメリースペシャルを頼んだ後に、この人が注文していた。
この顔、そのとおりである。間違いない。
しかし小間使いさん、ぱちくりとするだけである。
「あら? 人違い? そっくりさんだった?」
「呪文オプションと言いますと、物凄く長いカスタムコーヒーですか」
「そうそう! それそれ! 60文字くらいある長いコーヒー!」
「なるほど」と首をかしげ、横を向く。その横顔にも見覚えがあった。
「あ、それにあなた、警察署の休憩所でコーヒー飲んでたよね」あの咽ていた人である。
「へぇ、よく覚えてるねメリー」
「お恥ずかしい所を見られてしまいました」と小間使いさん。
「ですが、クラバリの方はきっと、私の双子の弟ですね」
「どうりでそっくりだと思ったら双子かぁ。ところでなんでまた警察署に?」
「本来は警察署からこちらまで、お二人をお連れする予定だったのですが、圭様がいたので」
傍で話している圭と徹をちらりと見てから、
「実は私、一昨日からこちらでお仕えさせて頂くことになったばかりでして」
「なるほど」と蓮子が頷いた。
きっと、先に館に帰っていろと言われたのだろう。
「お部屋にご案内しますね」荷物を載せた台車から手を放し、徹へ向き直り。
「では、お連れします」
「オレと圭は書斎にいる。何かあったら呼ぶ」
「かしこまりました」
「教授はどうする?」
ここまでついてきてしまった教授は、手の甲で顎をこする。
「んー、タイマ切れまで10分程度余ってるのよね。じゃあ秘封の二人と一緒に行こうか」
荷物を台車でゴロゴロ運ぶ小間使いさんの後ろに付き、三人で歩く。
「ねえ教授、書斎ってどこ?」蓮子が私を支えながら言った。
「八雲邸は、西階段と中央階段と東階段がある地上3階、地下1階建て。書斎は東階段の3階ね」
「今私たちが歩いているのは、どっち方向?」
「2階西にある二人用の客室よね?」
「そうですね」と小間使いさん
「書斎とは反対方向よ」
「資料室ってどこにあるの?」
「私が知ってるのは、地下にある一室だけね」
「部屋に荷物を置いたらすぐに資料を見に行きたい」
「案内するわ。じゃあ、鍵を受け取る為に書斎へ――、」
小間使いさんが、荷物運搬用のエレベータを開けた時である。
いきなり徹の声が聞こえた。「圭! 捕縛結界だ!」
同時に、何百本もの針が飛び出した。こちらに飛んでくる!
「ああああああ! れんこよけてええええ!」
素早く身をかがめようとする。が、蓮子に肩を抱かれていた為、避けられなかった。
私に! 蓮子に! 針が殺到する! 何百もの針が全身に突き刺さる!
腕にも! 肩にも! 腹にも! 余すことなく全身に!
そこで、はっと我に返る。
蓮子と教授が、私の顔を覗き込んでいる。
全身が緊張していた。驚くほど強い力で、蓮子にしがみついていた。
自分の体を見下ろしてみるが、もちろん怪我などしていない。蓮子も正常だ。
「あ、ああ、幻覚、ね。何百もの針が、こう、飛んできて、さ。避けようと思って」
耳のすぐ裏側で心臓が早鐘を打っていた。息も上がっている。
「びっくりした。えへへ、ああびっくりした」
体温が上がり、額にじっとりと汗をかいていた。
手の甲でそれをぬぐい、心拍を安定させるべく深呼吸を繰り返す。
蓮子がそんな私の様子を見て、真剣な声を出した。
「早く休んだ方が良いね。こういう時って、どうするのが良いんだろう?」
「心の傷が原因で、緊張が解けないのね。鎮静剤があった方が良いかも知れない」
「市販の物ですが買い置きがあります。ご案内した後にお持ちしますね」
小間使いさんが荷物をエレベーターに乗せながら言った。
「ありがたい。よろしく頼むわ」
部屋は階段を上がってすぐのところだった。扉を開けて中に入る。
私は驚きに目を疑った。蓮子も「アメージンッ!」と声を上げた。
デラックスランクのツインルーム、いやそれ以上だろうか。とても豪華な設備だった。
テレビ囲むようにソファが置いてある。パウダールームがある。
両手足を広げられるほどもある浴槽。トイレも広い。
あとなんかいい匂いするし、こりゃすげぇテンションあがる!
「これで何平米くらいあるの?」
「65平米です。気に入っていただけたでしょうか」
「うん、凄い部屋ね、恐縮するわ。ホントにここで寝ていいのかしら」
「どうぞご自由にお使いください。それでは、鎮静剤を取ってきますね」
小間使いさんが下がって行く。
私はベッドに腰掛け、部屋全体を改めて観察していた。
蓮子がその場でくるりと回りながら言う。
「65平米、さらに三食食事つき。メリー、こんなサービス受けたことある?」
「家族旅行で泊まりに行った部屋でも、こんな広さは無かったよ。スゴイ設備ね」
「ちょっと浮かれちゃうね。わはは、こりゃすごいわ」
「でもここって、本当に大事な客人にしか解放しない部屋よ。不思議ね」
八雲邸の内部事情を知る教授が腕を組んで訝しんだ。
リビングの入り口に立ち、眼だけを動かしてあちこちを見ている。
「盗聴器とか仕掛けられてるかも」とぼそりと言う。
「え? マジで? そんなことする人たちなの?」
「大丈夫よ。事情を知ってる私が保障するわ」
蓮子が口笛を吹きながら家具を漁っている。グリニッジっぽい曲だ。
クローゼットを開けたり、戸棚を開けたり、忙しない。
「八雲兄弟は、メリーの機嫌を取らなきゃなの」
「機嫌を取る? なんで?」教授が聞く。
「今は言えない。おいおい分かるわ。だけど、心配ないって事だけ分かってくれれば」
「蓮子がそう言うなら安心だよね教授?」
「まあ、そうね。変なこと言ってごめんなさい」
教授が謝った。
「でも喜んで貰えて何よりだわ」
「教授のおかげだね、感謝しなきゃ。私自身に感謝するのもおかしな話だけど」
「四年間一緒に居る私の勘だと、あんまりほめ過ぎると調子に乗るわよ」
「ふっふっふ、もっと褒めて構わんぞ。くるしゅうない崇め敬え奉れ」
「ぐへ、だめだこのワタシ、早く何とかしないと」
「わはははは、期間が終わった後、ワンルームマンションに戻れるかしら」
「いっそのことメリー、ここに住んじゃえば?」
「うん、ベッドが2つあるけどこれ、1つでいいわね」
「うわあ、住む気満々だこの人!」
「え? 誤解してない? あなたも一緒よ?」
「こっちのパラレルの秘封はちゅっちゅっぷりがッパネェ、嫉妬しちゃうわ。うぎぎぎぎ」
「なんなら教授も混ざる?」
「新しい! それは新しい! おいで教授! ちゅっちゅしよう!」
「遠慮しよう! 私にはマエリベリー・八雲がいるからな!」
「わははははははは!」
――「結界省は、」――
――「あなたたちを利用するわよ」――
幻聴が唐突に鳴った。耳元で怒鳴りつけられたかのような大音量だった。
驚きに息を呑み身を固くする。幻聴だと分かっていても、周囲を見回してしまう。
蓮子がそんな私の様子を見て、ふざけた態度を瞬時に改めると、隣に腰掛けてくる。
私に触れて良いものか逡巡しているようだった。
蓮子を安心させるべく、こちらから隣の肩へ頭を寄りかからせた。
「まだ、大丈夫。いきなり始まる症状は怖いけれど、精神的にはまだ余裕があるから」
「少し休息を取れば、よくなるはずだから」蓮子が私を慰める様に言った。
その直後である。教授の隣にあるクローゼットが激しく叩かれた。
開錠を急かす荒くれ者が扉を叩くような乱暴さだ。私は驚きに蓮子へしがみついた。
教授が全く反応しないから、当然これも幻聴なのだろうと分かる。
「きょ、教授」声が震えていた。みっともないと思いつつ。
「そのクローゼット、中に人がいる。ドンドン叩いてるわ」
教授が目を向け、ぱっと開く。それと同時に殴打の音は消える。
空っぽのクローゼットが露わになるだけだった。
「わたし、一体どうしちゃったんだろう。もう何だか、頭がおかしくなったみたい」
「うーん、やっぱり資料探しは明日にするよ。今日は休むことにしよう」
「そうだね。メリーがその調子じゃ、一人にさせない方が良いし」
教授もそれに賛成するように頷いた。
「うん、ありがとう」私は助かった気持ちだった。
幻覚の作用がこれから長期間に及び、精神的に参ってきたら、相当厳しくなるだろうなと思う。
それ以前に、PTSDの後遺症が発症している時点で、余裕があるとは言い難いんだけどね。
部屋の扉がノックされた。教授が応対する。
小間使いさんの声がする。一階の休憩所に、常に誰かが待機しているそうだ。
何か用があったら電話で呼び出してほしいと言う。頼もしい限りだ、と思った。
教授が戻って来て、ベットサイドテーブルへ錠剤を置いた。
1錠、市販されている鎮静剤だが、常用性があるから、丸々は飲まないほうが良いと言う。
4等分し、1かけらだけ飲んであとは捨ててしまう飲み方をするようにとのこと。
数時間で効果が出る。翌日には残らない。
四分の一の量で効かなければ、明日言ってほしいそうだ。
鎮静剤、少し恐ろしい気もするが、PTSDの症状から解放されて眠れるのならば、と思う。
そうして、明日の昼過ぎにまた来ることを約束して、教授は帰って行った。
その後は、私が先に風呂に入った。
蓮子が電話で、朝食の時間は何時かと聞いた。
何時でも食堂に来てくれればご希望の食事を作りますと言う。
蓮子が風呂に入り、その間私は鎮静剤を飲んだ。薬の名称で調べてみたら、かなり弱い部類のようだった。
4等分して残った3欠片は、ティッシュに包んでベッドサイドテーブルの引き出しに入れた。
部屋の照明を落し、先にベッドに横になった。
少しすると、蓮子が風呂から出てきた。
涼みながら薄暗い部屋で端末を操作し、何か記録を取っているようだ。
幻覚と幻聴の発作が、何度か来た。私は布団にもぐり、じっと耐えていた。
0時を過ぎた。眠気は全くやってこない。
蓮子が無段階調節のつまみを弄り、部屋の照明をずっと小さくした。
そうして、もう一方のベッドへ静かに横になった。
それを確認した私は、すぐに起き出した。
蓮子の枕元に立った。蓮子の正面に回り込んだ。
私の目を見て、蓮子が横になったまま掛布団を手で持ち上げてくれた。
直後、幻聴が、来た。
扉が開き、足音、大勢の人間が部屋に駆け込んでくる。
私はその足音から逃げる様に、蓮子の隣へもぐりこんだ。
怒声を上げながら部屋中の物をひっくり返し、投げ飛ばし、荒らしている。
症状が悪化しているのだと思った。こわい。凄くこわい。
恐怖に耐えるべく蓮子にしがみつく。
「蓮子、そこで、大勢の人が、部屋を荒らしてるわ」
「大丈夫、何もないよ。何もない」背中をさすってくれた。
私は蓮子に励まされながら、震えて耐えるしかなかった。
鎮静剤は全く効かなかった。結局そんな発作が繰り返し、眠ったのは外が明るくなり始めてからだった。
夢を見た。
倶楽部活動で地方の民宿に泊まったことが、何度もある。
古い日本家屋の形を残しているのが売りの、個人経営の宿だ。
南向きの温かな縁側。つやつやとした木の柱。
鎧戸と障子は開け放たれ、広々とした庭が見える。
舗装はされていない。地肌が丸出しになっている。
私はその地面に立っていた。
ああ倶楽部活動の記憶だな、となんとなく思った。
これが夢であるとはっきりわかった。明晰夢である。
16畳ほどの広さの居間が見える。そちらへ接近する。
身体は、浮いていた。スライドするように移動する。
縁側も通過。そのまま居間へふわふわと進入する。
誰かが眠っていた。布団を敷いて横になり、こちらに背を向けている。
掛布団に潜る後ろ頭。黒い髪が結ばれて頭頂部に纏められている。
もう日も完全に上った昼間なのに、静かな寝息を立てている。
誰かしら? 眠っているのは。
正面に回り込み、顔を覗き込もうとした、そこで、である。
船にでも乗っているかのように、体が揺れた。大きくぐわりぐわり。
目が覚めた。眠りから覚醒した。八雲邸のベッドの上だった。
部屋が明るくなっている。きっと寝つけてから1時間もたっていないだろう。
蓮子が、ベッドから降りようとしている。それで揺れたのだと分かった。
私は咄嗟に手を伸ばし、蓮子のシャツを掴んだ。
「おうっ」と蓮子が言う。振り返って私を見た。
「あらら、起こしちゃったね」
「行かないで。少し、一緒に居て」
鼻の根元まで掛布団に潜りながら、私は蓮子に甘えた。
観念したように蓮子が戻って来て、私の隣に寝転がる。
蓮子が仰向けになったので、右手を貰い、自分の頬の上に置いた。
意識はまだ半覚醒だ。睡眠時間が足りていないので、当然ながら、体がだるい。
蓮子の掌のにおいを嗅ぎながら、うつらうつらした。
昨日の精神的な摩耗を、今日に持ってきてしまった。
いや、肉体的にも疲労が蓄積している。休息が絶対的に、足りていない。
これから起床するのが途轍もなく億劫だ。ずっと、寝ていたい。何もせず眠っていたい。
「蓮子、今なんじ?」
「7時24分」
「今起きても、小間使いさん身支度してる途中だよ」
「まあそうなんだけどね」
蓮子が起きたそうにしていた。せわしなく体を動かしている。
私は蓮子を捕まえるべく、首に手を回し、押さえつけた。10分ほどそのままで居た。
「メリーは寝てていいよ。私は資料を見に行くから」
覚醒と昏睡の境にいた私へ、蓮子が言った。
資料室へ行きたかったのだとここでやっと分かった。
「そんなに急ぐ必要がある?」
「メリーは、寝てていいよ」蓮子が繰り返した。
――「共有するって言うけど、」――
――「殆どを隠しちゃうでしょうね」――
幻聴の程度は、そこまでひどくなかった。耳打ちのように聞こえ、さざ波のように引いて行く。
夢現の安らかな気分が台無しになる。一度、深呼吸をする。意識がはっきりした。
「そっか、あいつら資料を隠すつもりなのかぁ」声もしっかり出た。
「まあどうせ、昨日の夜の時点で移されちゃったと思うけど」
「この屋敷についたら、部屋につく前に資料室へ行くべきだった?」
「ぶぶー」蓮子が不正解を表す擬音を放つ。
「居候が決定した時点で、移されてると思う」
「気づかなくてごめん」
「メリーが謝ることじゃないよ」
蓮子の右手を弄って観察する。
人体の手首と言うのは、内の方向には曲がるが、逆にはあまり曲がらないものだ、とか。
案外力を加えなければ筋肉を伸ばすことは出来ないんだなとかという事が、分かった。
蓮子の右手小指の第一関節が、少し曲がっている。関節を司る皿が外を向いている。
そこを念入りに触って居たら、蓮子が「子供の頃にペンの持ち方がおかしくて、曲がったの」と言った。
無理やりに元の位置に戻そうとするが、手を放すと戻ってしまう。
「ちょっと考えたんだけどさ」そんなことをやっていたら、蓮子が口を開いた。
「うん?」
「昼過ぎに資料探しやっても同じ気がする」
「でも確かに、隠し物は私たちがここに来る前にやるよね」
「あと3時間くらいこのままゴロゴロしてようかな」
蓮子が寝返りを打ちこちらを向いて、私の顔を覗き込んでくる。
そうして、眼を閉じた。程なくして、寝息を立て始めた。寝つき良いなお前。
蓮子の寝顔を見ていたら、安らかな気分になってきた。
さらに10分ほどが経ってから、蓮子が唐突に眼を開ける。
「トイレ」と寝起きの低い声で言って、ベッドから出て行く。
「………………」
一人寝具の上に残された。隣に誰も寝ていないだけで、途端に寂しくなるから不思議なものである。
PTSDの症状は昨日の夜よりも軽くなっているようだ。
一人で寝転がっていても症状が全く出てこない。しかし、睡眠時間が足りていない。
症状が軽い内に寝続けなければならない。何となく憂鬱な気分で寝返りを打つ。
仰向けになる。
そうして、天井に寝転がる妖怪メリーと目が合った。
「おはようメリー。よく眠れた?」と手を振ってくる。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!?」
掛布団を蹴っ飛ばして跳ね起き、ベッドから跳躍し胸倉を掴み、天井から引きずりおろす。
「お前のせいで! おまえのせいで私はああぁぁあああ!」
頸部と両手足の五体を一枚の布団で結び拘束する。
蓮子から教えて貰った拘束方法だ。身動きはとれまい。
そしてついでに二発ほど蹴ってやった。
「な、なに!? さっきの叫び声は!?」
「蓮子、みてこれ。捕獲したよ」トイレから出てきた蓮子へ報告する。
「八雲兄弟が手も足も出なかった半妖怪を、掛布団一枚だけで!?」
「痛い! 痛いわ! 結びをもう少し緩くしてちょうだい!」
「うっさい。叫ぶなこの妖怪め。ねえ蓮子も一発蹴る?」
「いや、遠慮しておくわ。かわいそうだし」
私はミノムシのようになっている妖怪メリーの背中へ手を置き、ぐりぐりと圧迫した。
「ねえ今どんな気持ち? ぐるぐる巻きにされて拘束されて、どんな気持ち?」
「私の忠告、役立ったでしょ? 感謝の言葉が欲しいわ」
「はあ? 役立った? あんたのせいで、昨日の夜が、どれだけ、大変だったか!」
「痛い! 痛い! 蹴らないで! 役立ったでしょうに。資料室と言い博麗の巫女と言い」
「あ、資料室は午後から見に行く予定だよ」蓮子が言った。
「え? 見に行ってないの?」
「うん」
「マジで?」
「だって、メリーのトラウマの症状がひどかったから」
「ここにきてすぐに見に行かないと、資料隠されちゃうわよ」
「でしょうね」
「どうすんの?」
「今考えてるところ」
「ふうん。じゃあ、博麗の巫女は? 結界の話はちゃんと聞けた?」
「博麗の巫女? 巫女って、博麗大結界を守る人?」
「そうよ。神社に行ったでしょ? 夢に見たでしょ?」
ほんの先ほどまで見ていた夢を思い出した。
あれは神社の社務所だったのか。
それでこちらに背を向けて眠っていたのは、巫女か。
「寝てたわ」
「寝てた?」
「うん。真昼間から寝てた」
「マジで?」
「マジで」
「じゃ、喋ってないってこと?」
「布団に包まる後ろ頭を見ただけね」
「博麗大結界の話を聞けるチャンスを逃したのよ、あなた」
「でしょうね」
「どうすんの?」
「今考えてるところ」
妖怪メリーは拘束されたまま、はぁとため息をついた。
「私がこれだけ苦労してるのに、あなた達はダメダメね」
「それはこっちのセリフだこの年増妖怪!」
「痛い! 年増だなんて、18を超えたらみんなおばさんよ。あなたも私も」
私はベッドサイドテーブルにある電話へ手を伸ばした。
「あ、もしもし、包丁持ってきてもらっていいですか? デカければデカいほどいいです」
「え? ちょっといきなり電話して包丁だなんて、何に使うの?」蓮子が聞いてくる。
「こいつをここで解体する。生き胆を食べたら私も半妖怪になれるかも」
「もしもーし! さっきの包丁キャンセルで! ああ鎮静剤は結構です! ちょっと興奮してるだけなんで!」
蓮子が電話を切った。抗議の声を上げる私を無視して、蓮子が妖怪メリーに聞く。
「それであなた、何の用? 挨拶しに来たの?」
「そうそう。それなのよ。謝りに来たの」
「昨日の事?」
「も、そうだけど。私の右ポケットに入ってる物を返しに来たの」
「右のどのポケット? ワンピース?」
「ワンピースの腰にあるポケット。ああ、逆よ」
「蓮子、全裸にひん剥いた方が早いわ」
「このポケットでいいの?」
「そうそうそれそれ。うっひひひひ、うっくくくく、くすぐったいわ」
私は身悶えする妖怪メリーをもう一発蹴った。
蓮子が指示されたポケットから取り出したのは――。
――蓮子のキャミソールだった。
一昨日に私の部屋から持って行った物である。
私も完全に忘れてた。こいつが下着ドロボーだという事を。
蓮子は妖怪メリーを蹴った。
「この下着ドロボー! なんで持って行ったの? バカなの? 死ぬの?」
「ちょ、ちょっと出来心で、ね。ごめんなさい」
「出来心で済めば警察は要らないのよ!」
「ふふふ、警察なんかで私を逮捕できると思ってるの?」
「どこで知ったかは知らないけど、たとえ教授の真似をしても、あんたがやったことは下着ドロボーだからね!?」
手に持っているキャミソールをゴミ箱に投げ入れる蓮子。
「えー? 着ないの?」妖怪メリーが残念そうに言う。
「着るか! 気持ち悪いわ!」
「と、言うのが用件」
「え? それだけ?」
「うん、それだけ。それじゃあもうそろそろ時間だから、帰ろうかしら」
妖怪メリーがうつ伏せの状態から起き上がった。――“起き上がった”?
見てみると、掛布団の拘束がいつの間にか緩み、ほどけていた。
「捕縛の術式が無いと妖怪には縄抜けされちゃうわよ。覚えておいてね」
結びには間違い無く、きつくて正確で良かったわと言う。
「いくつか、質問がある」と蓮子。
「どうぞ?」
「あなたは、どこまで知ってる?」
「何も知らない」
「何も知らないの? すべてお見通しな風に見えるけど」
「予測してるだけね。ああでもこの状態だと人間離れした計算能力があるから」
「メリーは博麗大結界の人柱になるの?」
「ええ、多分なるわね」
「人柱になったらどうなるの?」
「死ぬまで結界の狭間に閉じ込められる」
「半妖怪にもなる?」
「なるわ」
「メリーは死ぬまで閉じ込められるのに、1300年前に飛ばされる?」
「ええ、飛ばされる可能性のが高い」
「私も一緒なんだよね?」
「そうね。そうしないと矛盾が発生しちゃうから」
「博麗の巫女が行方不明になるの?」
「なる可能性が高い」
「今質問したすべての事が同時に起こる?」
「起こる場合もある」
「ねえ、全く想像できないんだけど、説明してよ」
「うーんそれじゃあ」
扇子を取り出す妖怪メリー。
「可能性を挙げるとするならば、知楽結界を調べるのは時間の無駄」
「あの結界が人柱回避の手掛かりだって聞いたけれど」
「それは事実。だけど、時間の無駄。あと、徹と圭は死ぬ」
「え?」私と蓮子が同時に言う。「死ぬの?」
「あくまでも、可能性の話よ。さっき説明しろって言ったじゃん」
「もっと噛み砕いて、分かり易く」私は歯噛みしながら言う。
「全部想像だって言ってるわ。予言じゃないのよ。ズレることもある」
ああもう10秒しかない、と扇子でうなじを掻く。
「二人はまず、博麗大結界の事を調べなさい」扇子で私を指して、
「あなたは、博麗の巫女と接触しなさい。いいわね?」
「全くわけわからんけど、分かった」
よろしいと頷くと、妖怪メリーは未来に帰って行った。
現在時刻を確認する。8時前だった。
PTSDの発作はほぼ解消されたようだと蓮子に言ったら、あいつが調節したのねと返された。
昨夜だけ心身不安定になるよう、プレッシャーをかけたのだろうと蓮子は推理する。
もしかしたら今夜もまた発作が出るかもねとも言った。ありうる。
「もしそうだとしたら、ちょっと怖いわ」
「一緒に寝れば大丈夫よ」
なんとなく恥ずかしくなってしまい、蓮子のこの発言は無視した。
私は気持ちの切り替えの意味で、もう一度シャワーを浴びた。
歯を磨いて服を着替えて軽く化粧をして、冷蔵庫に入っていたスポーツドリンクを飲んだ。
そうしたら気分がさっぱりした。と同時に、やはり睡眠時間が足りない。眠くなってきた。
「朝食くらいは食べよう。一日の予定はそれから考える感じで」
その時点で9時15分になっていた。
蓮子が下に電話すると、朝食の用意は出来ているらしい。
ご飯かパンか選べると言うので、多数決でパンになった。即ち、満場一致だ。
睡眠不足ではっきりしない愚鈍な頭で部屋を出て、電話で聞いた食堂へ降りる。
蓮子が廊下を歩きながら廊下の装飾が美しいとか言っていたが、眠くてそれどころではなかった。
階段を下りて曲がった所で、昨日お世話になった小間使いさんが立っていた。
食堂はこちらですと案内される。両開きの板チョコみたいな扉を手の平で指し示す。
中をのぞいてみて、ああこりゃ完全にホテルだわ、と思った。
どこかファンタジー映画に出てくるような長机、白いテーブルクロス、片側五人掛け。
カゴの中にバゲットやらクロワッサンやらが入っている。
その周囲には、ジャムやらクリームやら、パンに塗り付ける用の物。
上座に二人分の席が用意されているので、そこへ腰かけた。
飲み物は何が良いか聞かれたので、蓮子はコーヒー、私はカフェオレを頼んだ。
「徹と圭は? もうご飯食べたの?」
「ええ、一時間ほど前にはもう朝食を終えて、今は書斎にいるかと」
一時間前と言ったら、妖怪メリーを縛り上げてどったんばったんやってた時分だ。
「あの二人の予定って聞いてる?」
「昼過ぎまでは書斎にいると聞いています。急ぎの用事ですか?」
「いやいや、姿が見えないから……。あはは、寝過ぎたかもね」
小間使いさんはニコリと笑い。「さあ冷めないうちにどうぞ」
私はクロワッサンを手に取り、がぶりとやった。
さくさくのカリカリで、パン屑がぱらぱらと落ちた。
そこら辺のパン屋で食べる物よりも数段美味い。なんだこれすげぇ!
齧りついた部分をカフェオレに浸し、一口。やべぇこれ、めちゃくちゃうめぇ。
「え? クロワッサンってそうやって食べるの?」
「そうやってって、どうやって?」
「カフェオレに浸しちゃっていいんだ?」
蓮子は皿にクロワッサンを置き、ナイフとフォークで切っているではないか。
まあ確かに、そうすればパン屑が落ちなくていいかも知れないけれども――。
「ナイフとフォーク使うの、めんどくさいじゃん」
「いやまあ、そうなんだけどね。正式な食べ方ってどうなの?」
「さあ、知らない」
「え? 知らないの?」
「そんなこと気にして餓死するのはイヤよ」
「餓死ってあんた…………」
私はスクランブルエッグを受け皿に盛り、フォークでクロワッサンに乗せた。
一口かぶりつく。ああうめぇ、やべぇこれ。超っパネェ。マジやべぇ。
「そうやって食べるの!? クロワッサンってそうやって食べるの!?」
「うっさいなぁ、なによ? あなたは国王級の貴族とでも朝食を食べるの?」
「いやだってさ、気になるじゃん。こういう所で食べるならばなおさら、ね」
「食べたい様に食べればいいんじゃね? あ、蓮子、そこのピーナッツバターとって」
「ピーナッツバター!? クロワッサンにピーナッツバター!?」
「えー? つけない?」
「付けないよ! 見たことないよ!」
「じゃあなんでこの食卓に並んでるの?」
「え? えっと、さあ。なんでだろ。でもあなた、いっつもつけてるの?」
「基本はバターとかジャムとかだけど、あるのならばピーナッツバターもつけるよ」
「――――、バゲットを食べよう。こっちならば難しくは無い」
「バゲットって夕食用なのよ。クロワッサンは朝食用」
「へ、へぇ、知らなかったなあ。あはは」
「なんでカゴに戻すのよ。食べたいなら食べればいいじゃん。あ、牛乳お代わりくださーい」
小間使いさんがピッチャーに牛乳を持って来た。
「あ、あの! ちょっと聞きたいんだけど!」蓮子が手を挙げる。
「はいなんでしょう?」
「クロワッサンの正しい食べ方って、どうすんの?」
小間使いさんは私のコップへ牛乳を注ぎ終えてから、斜め上に視線を向けて、やや沈黙の後。
「食べたい様に食べて頂ければ結構ですよ」と言った。
「ぱらぱら汚れちゃってもいいの?」
「ええ、お気になさらず。掃除しますので」
「いや、そうじゃなくてさ、そうじゃなくてさあ!」
「そりゃあんた、テーブルに寝転がって食べたらいけないだろうけどね」
私はバゲットにマーガリンを塗りながら言った。「誰も気にせんって」
蓮子は、皿の上で二等分されているクロワッサンへ、少しいじけた様に視線を落とした。
「私は、正しい食べ方を知りたくて、さ」
「じゃああんた、ご飯をフォークの背にのせて食べる? 食べにくいっしょ」
「それが食事の作法ならそうするけれど。そ、そこらへんは文明の違いだっていう話じゃん?」
「ここは日本よ。イギリスに行ったらフォークの背に乗せなさいな。笑われるだろうけど」
「イギリスでは料理にライスは出ないって聞いたけれどなぁ」
「え? それってホント?」
「知らなかったの!?」
「い、いやね、知らない筈ないじゃん。もちろん知ってたわよ」
「知らなかったのかー、へえー、あんなに偉そうに言っておきながらねー」
こんな話をしながら食事を終えた。満腹になったし料理もおいしかったしで、満足した。
一度部屋に戻る。蓮子がトイレに入っている間に、私は荷物の準備を始める。
ハンカチ、ティッシュ、財布に携帯端末。メールは来てるかしら、と画面を確認すると。
「はやくここから出してください。狭いです」と九尾の尻尾のアイコンがフキダシで言っていた。
なんじゃこりゃ、と思いつつ大して意識せずに起動する。
そうして、目の前に九尾の狐美女が現れた。
「こんにちはマエリベリー様、一昨日ぶりです」グラボスである。
「うおおおおおぉぉぉおおお!?」
ついに実体化したのかと思ったら、違った。半透明で、いつも通りのホログラムである。
携帯端末を操作したらホログラムが消えて、九尾の狐美女が画面に映った。
「なんで仕舞うんですか。狭くていやだって言ってるでしょうに」と勝手に出てくる。
「なに!? また下着ドロボー妖怪が出た!?」と蓮子がトイレから出てきた。
「こんにちは宇佐見様。本日もよろしくお願いします」何故か蓮子には恭しく挨拶する。
「あれ? なんでグラボスがいるの? ここってサービス範囲外でしょ?」
「10時30分から八雲邸も範囲に入ったんです。八雲徹様が専用線を引いたらしくて」
「専用線? そんなほいほい引けるものなの?」
「特別施設工事なので、工事費から権利費も込めて、200万以上は掛かってると思いますが」
「はあ、なるほど。財は力ね。この為だけに200万を惜しまず出せるなんて」と蓮子が頭を抱える。
「え? どういうこと? なんで徹はグラボスの専用線を八雲邸に?」
「うん、多分今日中に分かるから、徹から聞きなさい。でも、これで実感したでしょ」
蓮子がお気に入りの中折れ帽子を人差し指で回しながら。
「徹はあなたのご機嫌取りに必死だって、ね」
「徹様は、色々と便利だから専用線を引こうって言ってますけど」
「はいはい、たかが会話型操作インタフェースを導入するために200万も払いますかってね」
「それもそうですね。マエリベリー様は会話相手がいなくてかわいそうなので、仕方がありません」
「ねえその話って、私に不利益になる話なの? 待ってるだけでいいの?」
「ええ、メリーは安心していいよ。グラボスは想像つくでしょ」
「はいなんとなくですが」
「私を圭の嫁にするって?」
「え? あなた圭と結婚するつもりなの?」
「いや、無理。1億積まれても無理。ただパラレルの私が圭と婚姻してるっていうから連想しただけよ」
「繰り返しになるけど、メリーが思い込んで悩むことじゃないよ。まあ待ってなさいって」
そこで、扉がノックされた。グラボスが反応した。
「宇佐見様、扉を開けてはいけません。あのノック方法は要注意のデータベースに入っています」
「なんで? 開けちゃいけないならどうしたらいいの?」
「警察を呼びましょう。私が仲介するので、」
「ああ、なるほどね」
それを聞いた蓮子が構わず扉を開ける。入ってきたのは――。
「ハロー! ちょっと早かった?」教授と。
「お家って何も変わらないね」紫だった。
「宇佐見様! ああなんて言う事を! 窓から逃げられますさあこちらへ!」
グラボスが蓮子を見て、教授を見て、紫を見て、最後に私を見た。
「逃げるんです、アンノウンですよぉーって、――あれ? なんでですか?」
「紹介するわ。これがこの時代のGLaBOSよ。グラボスって呼んでね」
「メリー、先にグラボスへ二人を紹介してあげなさいよ。かわいそうじゃん」
「いやだって、こういう時にいじめてやらないとさ」
「ねえグラボス、この二人はタイムトラベラーなの。だから不審者じゃないわ」
「タイムトラベラー? そんなの、前例がありません」
「この二人が初めてだからね」
「どこから来たんですか?」
「13年後だったっけ?」
「そうね。よろしくグラボス。でもさすがメリーね、グラボスキャラが成熟してる」
「13年後までにあと3世代バージョンアップするんだよね! ねえグラボス、あなたのバージョンはいくつ?」
「タイムトラベラーだってことは分かりました。では、ちゃんと説明してください。英語で言うと、Next is explain.」
「Next, explain.ね。テンパってるって事だけは分かったわ」
超高速な処理速度を誇るグラボスが、指でこめかみを揉んでいる。
やはり、相当理解に苦しんでいるようだ。
教授と紫と蓮子、三人がかりでグラボスへ説明した。
「要約します。マエリベリー様の神隠しを回避するため、13年後のパラレルからやってきたと」
「ええ、そうね、大正解。優秀ねグラボス」
「でもさ、ちょっと要約しすぎじゃない?」紫が口を尖らせる。
「タイムトラベラーだという時点で矛盾が発生してるんですよ」
「大丈夫? エラーとか出てない?」蓮子が聞いた。
「論理サーバが2千万件のクリティカルエラーを出してダウンしました。リブート中です」
「今あなたになぞなぞとか出したら解けない? 矛盾解決問題とか出してあげよっか」
「フェイルオーバしたので大丈夫です。ただ、データセンタは上を下への大騒ぎですね」
「あらら、まあ運用に問題が出ないならばいっか。ちょっと申し訳ない事しちゃったな」
「ねえ教授、なんか13年後でも解けてない矛盾問題とかない? ダウンさせてみたいな」
「だめよ、システム運用って驚くほどお金がかかるんだから、不謹慎なことを言わないの」
「ところで本当にあなたはドSですねだから友達が出来ないんです」
「大地震の地盤沈下で生き埋めになってしまえ」
この調子なら大丈夫そうだ。
「それで、朝ご飯は食べた? もう外出する支度は出来てるんだね?」
「うん。これから書斎に行って資料室の鍵を貰いに行くところ」
「それはちょうどいい。じゃあ一緒に行こうか」
廊下に出て書斎を目指す。
紫はグラボスに興味があるようで、色々と質問している。
「ところで八雲メリーに聞いてみたよ。トラベルしたかって」
「朝にもこっちに来たよ。ちょっと挨拶がてらね。なんか言ってた?」
「あなた達が昼食にトンカツを食べに行ったタイミングで飛んだのが最後だってさ」
私は首をかしげた。
「ん? もう三回もこっちに来てるのに、一回しか飛んで無いの?」
「いやあり得るよ。残ってる二回は、まだ教授から見たら未来の八雲メリーの話なんだ」
「そそ。だから博麗大結界がうんぬんとか、博麗の巫女がうんぬんって話は、聞かないことにした」
なるほどと思った。
自宅でプレッシャーをかけてきた回と、下着を返しに来た回は、更に未来の八雲メリーなのだ。
あらゆる予測が完成しているように聞こえたが、次の接触は当分期待できないという事だ。
教授が未来の八雲メリーの時間軸に追いつくか、こちらに八雲メリーが飛んでくるかしなければ、である。
何かしらの助言を貰おうと思ったのだけれど、それあてには出来ないだろう。
「ほいよ。ここが書斎」
銀色のドアノブと、やはり板チョコみたいな扉。
食堂の物とは違い、片側の一枚扉である。
「こういう扉って空けるとき、どうするのがマナーなの?」蓮子が聞いた。
「堅苦しく考えなくていいよ。とりあえずノックして」
「またマナーって、蓮子は真面目ね」
「郷に入っては郷に従えってことよ」
蓮子が、ノックをする。二回。
やや待つが、反応が無い。
「もしもーし、秘封倶楽部の宇佐見でーす」再度ノック。次は四回。やはり反応なし。
「某は宇佐見蓮子と申すー、たのもー、誰かおらぬかー」と拳で扉を連打する。
「ちょっと蓮子、郷はどこいったのよ郷は」
「だって、反応が無いみたいなんだもの」
「あ、空いてるよ」
教授が扉を開けて中に入って行く。後ろにぞろぞろと続く。
室内のレイアウトは、大統領の執務室と言った感じ。
演台のような大きめの机に、ペンやらPCやらが置かれている。
そして卓上の中央になにやら書置きと、鍵。
「あらら、置いて行かれちゃったみたいね」
書置きを見た教授が言った。私は書かれた文章を読んで、顔を顰めた。
“知楽結界を見に行く。これが書斎の鍵だ。場所は小間使いに聞け”
「なにこれ! 協力しろって言ってきておいて、情報だけ聞いたら置き去り!?」
「あはは、まあ確かにそう解釈することもできるね」教授が相好を崩した。
「よし、PCを起動しよう。あらゆる情報を盗み見るのよ」とPCを起動する蓮子。
グラボスと紫はバイオOSの構成技術について話している。
「ねえ教授。これから知楽ビルに行ったらどうかな?」私は書置きを引っ掴んで言った。
「多分八雲兄弟は関係者以外進入禁止ゾーンの向こう側にいるだろうから」
「私たちが結界省の関係者であることを証明出来ないから、合流するのは難しい?」
「そうね。無駄足になると思うよ」
「ぐあ、ログインパスワードが分からない! くそう!」
「ねえメリー、隠し部屋探してみる?」
「隠し部屋? あるの!?」
「圭の部屋にあるんだから、徹の部屋にもあるでしょ」
「よっしゃぁ、宝探しだぁ、どんなふうに隠されてるもんなの?」
「例えば本棚の裏側にボタンが隠されてあったり」
「ぐあああ、引き出しは全部鍵が掛かってる!」
「あの、宴もたけなわですが、一つだけよろしいでしょうか?」
グラボスが控えめに手を挙げて、しかし無表情で言った。
「この部屋の様子は、音声付きで録画されてますが、――分かってますよね?」
隠し部屋を探していた私と教授。
引き出しを開けようとしていた蓮子。
動きをぴたりと止めた。
「よし、それじゃあ」
「資料室に」
「行こっか」
以心伝心した。
すべて綺麗に戻す。そう、来た時よりも美しく、である。
書斎を出て、廊下を歩きながら鍵を観察する。
鍵の頭の部分がひし形になっている。
「ああ、そのカギは地下の資料室ね。まあ、紫が居れば鍵なんて要らないんだけど」
「鍵なんて要らない? それってどういうこと?」
「そうか、まだしっかり紹介してなかったわね、紫の能力。紫、こっちにおいで」
後ろを振り向くと、紫が得意そうに笑っていた。
教授から紫を紹介してもらった。
八雲メリーが圭を夫に選んだ理由。
卒業後に秘封倶楽部が一度解散してしまった理由。
そして教授から紫の能力を説明してもらった。
空間を繋げる、手の平サイズの穴を空けられること。
二つの穴を好きな位置に生成し、空間に固定させられること。
「本当は5号室でこれを紹介するつもりだったんだけど、遅くなっちゃったね」
「そっちのパラレルの私って、スッゴク上手く行ってるんだね。私の理想像だ」
「ところで紫ちゃん、壁の向こう側にも作れるのね?」
「私から5メートル範囲ならばどこでもって感じだね」
「制約はある? たとえば、一日に使える限度回数とか」
「特にないね。でも空間把握してない場所には作れないかな」
「ほほうそれは具体的にどういう事?」
「例えば、上の階の隣の部屋とか、位置関係が把握しづらいでしょ?」
「精密な操作が出来なくなるのね。その感覚は、理解できるな」
「片目をつぶって指先をぴたりと合わせようとしても上手く行かない、この感じかな」
「それでも優秀な能力ね。頼りにさせてもらうわ」
教授の案内で地下の資料室へ到着。時刻を確認すると11時前だった。
鍵を使って開錠。資料室の中へ入る。教授が中を見て、おやと言った。
「未来の方はただの本が詰まってる感じだったんだけど、こっちはキングファイルなのね」
「やっぱり資料移されちゃったか」と蓮子が予想通りといった感じで頷いた。
「ははーん、読まれたくない物は別の部屋に? なるほどその発想は無かった」
「一概に信用できるって訳じゃないって、分かったでしょ」
縦に6段の高さがあるキャビネットに、紙媒体のキングファイルが収納されていた。
1段につき9ファイル。そのキャビネットが横に8個、奥に10個。
レールの上に乗っている。側面についているハンドルを操作する事で動く可動式である。
教授曰く、未来の資料室では紙媒体の本がそのまま棚に入っていたのだと言う。
それがキングファイルに入れられているのだから、当然隠蔽の痕跡があるという事だ。
「でも、結界の資料であることは変わり無いみたいよ」
「よしそれじゃあ、関係がありそうなところから読んでいこうかな」
と私が舌なめずりをして適当に一冊手に取り、ペラペラと捲る。
かなり古い書式で、楷書の文字にぎっしりと書かれている。読むのに時間がかかりそうだ。
教授は「こんな資料、未来にあったかな」と見覚えがある物を探している。
対して紫はやはりグラボスと会話をしている。
「――ところで、これ今日1日で終わるかしら?」
「あなた、1日で終わると思ってるの?」蓮子もげっそりという様子だ。
「いやまあ、こんな数の紙媒体を扱うことがそもそも初めてだし」
「そうだね。ちょっとどころか、かなり面倒だわ」
そうなのだ。資料は量子化がされ、その資料の検索も全てが管理されている昨今。
紙媒体の数百万ページをはいと渡されて、好きに読んでいいよと言われても、どこから手をつければいいのか、である。
「ねえみんなして、なにやってるの?」紫がグラボスとの会話を辞め、少し呆れたように言って来る。
「なにやってるのって紫、あなたも座ってないで手伝いなさい」教授が紫の態度を窘める。
「手伝う? 手伝うって、それを?」
「そうよ。神隠しの回避方法を調べるんでしょうが」
「一冊一冊、全部見ていくの? どれくらい時間がかかるの?」
「仕方ないでしょ。紙媒体なんだから」
「もっと良い方法があるじゃん」
紫がグラボスの尻尾を撫でる様に、手を動かした。
「グラボス使おうよ」
はっとした。確かにその通りである。
グラボスの正式名称を直訳すると、遺伝的生物を利用したバイオ操作システム、だ。
画像から文字を判別し量子化させることなど、朝飯前だろう。
「グラボス、ここに有る資料って電子化か量子化ってされてる?」紫が聞く。
「されているものとされていない物があるようですね」
「じゃ、されていない物をインプットしていこう」
紫が座っていた物置台からぴょんと飛び降りて、右手を挙げた。
「新生秘封倶楽部部長、八雲紫がこれより臨時に指揮を執る。皆の衆、黙って従えい」
グラボスのデータベースに登録されていない資料を入力する。
手順は簡単。携帯端末の動画撮影機能を使い、広げておいたキングファイルを撮影する。
背表紙と表紙を撮影して、あとはカメラでページを撮影する。やることは肉体労働である。
10ページ9秒で計算し、キングファイル1つが800ページで12分。
そのキングファイルが単純計算で4320個あるのだから、864時間。
「違うわ! その計算間違えてるよメリー! 3人でやれば288時間よ!」
「なるほど! 一週間と半分で出来るのね! 凄い画期的!」
「休憩無し睡眠無しの24時間フルでやっての計算ね! なんて良心的なのかしら!」
蓮子が中折れ帽子を床に叩きつけた。
「ねえ教授、同じ人が同じ時間に複数回トラベルって出来ないの?」蓮子が提案する。
「それは出来ないわ。っていうか、出来てたらもっと早くやってるし」
「もし同じ人が同じタイミングにトラベルしてきたらどうなるの?」
「二つが一つになるわ。物理的にね」
「ぐっちゃあ! って感じ?」
「もうすごい速度で二つが引き寄せられるから、バァン! って感じ」
「なるほど」とりあえず教授が無事では済まされないという事は分かった。
「それじゃあ、こっちの物質を未来に持って帰ることは?」
「無理ね。逆に、未来から持って来たものをこっちに置いておくことも不可能」
タイマが切れたら戻ってしまうと言う。
そして、飛ばしたものを把握したいから、あまり長い時間留めておきたくはないそうだ。
「八雲メリーは能力を駆使して下着ドロボーしたのね」
「え? 私の相棒がなんかしたの?」
「いや、何でもないわ」と蓮子はごまかした。
5分も経たない内に教授がキングファイルを乱暴に閉じた。
「紫、あなたもっと良い方法を思いついてるでしょ」
「えへへ、愚鈍な方法でせっせと汗を流して働く人を眺めるのは面白いなぁとね」
「あんたも手伝わせるわよ」
「私は部長だもん。ところで、タイマってあと少しで切れるでしょ?」
「そうね。短めで設定する方が、メリットがあるから」
「それじゃあお二人には数秒ほどお時間いただきまして」
「うん、じゃあ一度向こうに帰るわね。すぐこっちに来るわ」
「部屋の右奥に飛んでくるから、場所空けておいてね」
教授と紫が一度姿を消す。
数秒後、部屋の隅にオーロラが出現。範囲はごくごく狭い。
まず、抱えられるほどの大きさの箱が、どすんと着地した。
2箱、3箱、4箱。ごろごろと続けて飛ばされてくる。
ついで、今度は動画撮影用のカメラと、上空から撮影するための無脚カメラ設置台。
こちらも凄い量である。まるでゴミの様だ。
そうしてやっと現れた二人は服装が変わっていた。
「よっし、お待たせ」と気合が入った様子の教授と。
「大人の頭って固くてダメね」と生意気な紫。
「やっぱり、物量に頼るんだ」
「こんな作業さっさと終わらせましょう」
まず多数送られてきた箱を開封した。
数えきれないほどの数のブックスタンドである。
「まずこのブックスタンドは、自動にページを送る機能がある。速度は調節可能」
キングファイルをブックスタンドに設置し、スイッチを入れると、自動で捲り始める。
私も蓮子も「おおおおおお!」と歓声を上げた。
「あとは無脚浮遊型の設置台でカメラを上から撮影させて、グラボスへインプット! どやぁ」
「きょ、教授! 画期的な方法だわ!」
「あの労力を完全に自動化させた!」
「素晴らしい!」
「驚異的!」
「夢のようだ!」
「科学の勝利!」
「悲鳴をあげたいくらいだ!」
「えっへん。新生秘封倶楽部なめんじゃないわよ」
胸を張る教授の横で、紫が言った。
「ま、もっと低リスク低コストで高パフォーマンスの方法があるんだけどね」
教授が紫の頭をげんこつで叩いた。
次に飛ばされてきたのは、何の変哲もないスキャン装置である。
「いちいちグラボスを利用するよりも、さっさとスキャンしようよ」
私と蓮子と教授の三人で、キングファイルから書類を外し、台へ置く。
そして紙束の状態の書類は、電源を入れたスキャン台へ次々と投入していく。
もちろんキングファイルは元に戻す。スキャン情報のインプット先はグラボスだ。
「このスキャン台は私のポケットマネーよ。えっへん」
「きょ、教授! 画期的な方法だわ!」
「あの労力を完全に自動化させた!」
「素晴らしい!」
「驚異的!」
「夢のようだ!」
「科学の勝利!」
「悲鳴をあげたいくらいだ!」
「ふふふ、もっと褒めろ、崇め敬え奉れ」
紫がこちらに近づいてきて言う。
「ねえ、なんで一台だけでやってんの? バカなの?」
教授が紫の頭をげんこつで叩いた。
結局、スキャン装置は2台用意した。
1枚に付き0.01秒なので、滞りなく済めば44分で終わる計算になる。
紙をせっせと運ぶのは大変だったが、最終的には1時間ほどで完了した。
14時、全ての後片付けを終えて、一度食堂へ降りて、昼食にした。
2時間近い肉体労働を行い、ヘトヘトである。それは蓮子も教授も同じようだった。
ただ一人、紫だけ元気だった。座って見ていたのだから当然と言えば当然である。
グラボスと仲良く喋っている。気が合うようである。
さて14時30分になってから作業再開である。
まずは自室に戻って作戦会議としゃれ込む。
「次にやるべきことは2つある。何か分かる?」と教授。
「博麗大結界の調査!」私が手を挙げて答えた。
「よろしい、あと一つは?」
「敵勢力により隠蔽された情報の捜索!」紫が答える。
「うむそのとおり。前者に関しては、情報をインプットしたグラボスから、いつでも聞ける」
「基本的にはどの情報も機密ですが」グラボスが頷く。「はい、徹様から閲覧の許可は出てるので」
「問題は後者ね。徹と圭がいない時じゃないと捜索できない。即ち、今でしょ!」
「一つ、質問なんだけれども」と蓮子が言う。
「屋敷の中を捜索するとか、グラボスの前で言っていいの? グラボスって政府の物よ?」
鋭い。私たち一同はグラボスへ視線を向けた。
ここでグラボスの判断によっては、徹と圭へ通報され、ややこしいことになるだろう。
「齟齬が生じない様に、状況を整理します」「うん」
「徹様と圭様は、“資料室の中にある物は自由に見て良い”と言ったんですね?」「そうだね」
「それで資料室の鍵を、書斎に置いて行った」「うんそう」
「午前に入った資料室は、そのカギで開いた部屋なわけですね?」「そうだね」
「ではそのカギは、いわば参照権限のような物です」「そそ」
「渡されたカギで開かない部屋を捜索しようと言う発想は、通報対象ですね。通報します」
「ちょっとまってよグラボス、その判断はおかしいわ」
紫が待ったをかけた。遺伝的バイオOSを相手に、である。
「例えば資料室にある物を自由に見て良い、っていう参照権限があるじゃん」「はい」
「その参照権限を渡された時点では、資料室にある資料を見て良い約束なのよ」「はい」
「それがこっちの承認もなしに一方的に見れなくされたら、約束不履行は徹の方でしょ」「はい」
「資料を別の場所に移されたなら、移された先を探すのはごくごく自然な流れでしょ」「なるほど分かりました」
グラボスが一度頷いた。
「昨日の約束の時点で資料室にあった資料は、どこに移動されていようと参照は許可されます」
「流石グラボス、話を分かってくれて助かるわ」
「いいえ、紫様の言うとおりです。私が間違えてしまいました。ただ――」
グラボスが人差し指を立てる。
「移動された資料が本当に資料室にあった物か証明しなければ、参照は出来ませんよ」
「うん、だから部屋の中に入って資料を手に取って見てみるの」
「それはダメです。資料室以外の部屋に進入する事は、参照権限には含まれていないので」
「それもおかしいよグラボス。許可されたものを見るために部屋に入るのよ。それがいけない事なの?」
「なるほど、おっしゃる通りです」
グラボスが頷く。
「資料室の中にあったであろう資料を探すためにならば、屋敷の全フロアへの侵入を許可します」
「さっすがグラボス! 本当に賢いなぁ!」
呆気にとられる私達3人を、紫が振り返った。
「じゃ、いこっか、宝探し」
八雲邸、通常だったら歩けない場所も、グラボスを入れた五人で大手を振って進行する。
小間使いさんが注意しようとして来ると、グラボスが「徹様の許可は出ていますので」と一蹴する。
さらに食い下がってくるようならば、徹の録画をホログラムで突きつけるのだから、強いものである。
「1階の資料室です。どうぞ」とグラボスが立ち止まり示したのは、扉ではなくただの壁である。
「え? こんなところに隠し部屋が?」教授さえもこの様子。
「知らなかったの? 私ずっと前から知ってたよ?」と紫。
「声紋認証です。本来ならば一部の人間の“ひらけごま”で開くのですが、」
と、壁が勝手に動きだし、通路を形成する。
「今回は認証登録された人がいないので、私が開けますね。どうぞ進んでください」
窓も無く、薄暗いじめじめとした通路。
私は蓮子にしがみつき、ゆっくりゆっくり進んだ。
「本来あった通路を壁で潰して作ったんですね。だから足元が悪いかも知れません」
通路が終わり、広い空間に出た。
真っ暗闇。何も見えない。
「はい、電気をつけます。どうぞ」
と、周囲が明るくなる。室内は、地下の資料室と似たような作りだった。
キャビネットが並び、キングファイルが収納されている。
紫が小走りで中へ進み、ファイルの背表紙を指差しで確認してゆく。
「ああ、なあんだ、ここに有る本は見たことある物ばっかりね」やれやれ、と首を振って見せる。
「あなた、どこまで知ってるの? 私たちに報告した? 独自に調査しすぎじゃない?」
「だって、結界省の目的を調べたいんでしょ? ここにあるのは、それ以外の資料だよ」
「紫、はあ、――あのね」と教授は頭を抱えて「今度からは私が居ない時は活動禁止ね」
「うん、それはともかく、ここには博麗大結界に関する資料は無いよ。別のところに行こっか」
「こんな風に隠してしまうんだから、何か意味があるんでしょ?」
「ま、そうなんだけどね。うーん、知りたい?」
「知りたいって言うか、知識の共有を図りなさいよ」
「たとえばそうね、このファイルを見れば、どんな資料がここにあるのか大体わかるかな」
と、紫が背伸びをしてキングファイルを取り出す。私と蓮子へ差し出してくる。
背表紙には“535126463-46245567236”と書かれている。
思わずぞっとした。不気味だ。人間の感覚とは思えない。
「な、なにこの背表紙、なにかの暗号?」私は蓮子にしがみつき、寒気に耐えながら聞いた。
「ちがうよ、色字共感覚者用のコードだね。怖がることないよママ」
文字や数字に色が見える、という頭脳を持つ人がいる。
そういった能力者用のコードだというのだ。
分かり易い例えで言えば、“キーキー”と言う擬音は刺々しい印象があるし。
“プワプワ”と言う擬音は、丸く軽い印象がある。これが共感覚だ。
共感覚能力者間で、この印象を数字で表す。
難しい暗号を考えなくて済むのだから、手っ取り早い。
「あなたって色字共感覚者だったの?」
「いんや。でも、“535126463”は葉の色っぽいし、“46245567236”は台風が過ぎた後の空の色っぽくない?」
「それを色字共感覚って言うのよ。大人になるにつれて失うかもしれないから、大事にしなさいね」
私はキングファイルを開こうとして、「開くな!」――蓮子に止められた。
力づくで表紙を押さえつけられた。開きかけたファイルがボン! と音を立てた。
「グラボス、ここでこの資料を開いたら?」
「通報ですね。徹様を即刻呼びます」
「資料を見る為には?」
「その資料がもともと資料室の物だという事を証明してください」
「証明する前に中を見たらダメって事ね」
「そういうことになりますね」
「メリー、何か見た?」
「いいえ、って言わなきゃアウトよね」
「ならばセーフです」とグラボスが言う。
「うーん、それじゃあ」紫が親指で顎を掻いた。
「ねえあのさ、“資料室の資料は”見て良いんだよね」「はい」
「“535126463-46245567236”が資料室の資料だという事を証明しなきゃなんだよね?」「はい」
「これは、資料室の資料よ。これじゃだめ?」「ダメです」
「じゃ、こうしよう。“535126463-46245567236”を資料室の蔵書に変更するわ」「ダメです」
「資料室まで持って行って読むわ。これもダメ?」「室外への持ち出しは禁止です」
「うーん。わかった。じゃあ資料室の定義ってなに?」「そのカギで開く部屋、という事です」
紫がポケットからカギを取り出した。
このカギこそが、参照権限を証明する物なのだ。
「分かった。じゃあ、“535126463-46245567236”は一度戻して、外に出よう」
紫の言うとおり、一度資料室から廊下へ出る。
紫の指示で施錠。通路が閉まり、壁と一体化する。
「あら大変、鍵が挟まっちゃったわ」と紫がわざとらしく言う。
鍵が壁に挟まっていた。資料室の参照権限が、壁に挟まっているのだ。
「グラボス、もう一度開けて」「分かりました」と、壁が開き、通路を構成する。
「ここは、資料室よ。だよねグラボス」「はい、定義上間違えではありません」
「だから、ここに有る資料は、全て見ていいんだよね?」「はい、そのとおりです」
屁理屈である。って言うか、それでホントにいいのかグラボス。
紫は同じところから“535126463-46245567236”を取出し、私に手渡してくる。
「開くわよ? グラボス?」
「はい。参照権限は認められていますので、どうぞ。オススメはしませんが」
グラボスの忠告を無視する。
適当な椅子に座り、4人でファイルを囲む。
中を開いて、思わず、――目を背けた。
ページの下半分に張られているモノクロ写真は――。
――針が腕に刺さっている写真だった。
何の針か? 分かる。徹が投げていたあの針だ。
教授が「退魔針の効果を、実験してるんだわ」と言った。詳しい描写は、憚れる。
針だけではない。その身体へ、火で炙り、電気を流し、薬物を塗り付け――。
各体部位を刻んで潰し、その効果を、変化の経緯を記録している
「実験の資料だね」紫がファイルをペラペラと捲る。「ショックだった?」
「私は、耐性があるから大丈夫。もっとひどい写真なら山ほど見たことがあるから」
燻した豆は効果覿面だという注釈、皮膚が水膨れになっていた。
蓮子はその写真から目も離さずそう言った。声色に嘘は無い。
喋り方は通常通りだし、手の震えも無い。
それに対し私は、寒気が止まらない。気分が落ち込んでいくのを感じる。
感情的になってはいけないと思い、客観的な言葉を選び、口から出す。
「私は、実験の資料なんかよりも驚いたのが」
「こういう写真?」
「うん。写真の目的が別のところにあるから、信憑性がある」
全裸にされた成人男性が、後ろ向きに立たされている。
その背中には夥しい傷の痕と、両腕を広げたほどの大きさの、――翼が生えていた。
黒色の羽、高速で滑空するのに適した形をしている。
まるで、――カラスの羽のようだ。
ページを捲る。アップで顔が写っている。眼の色がおかしい。失明させたのだろう。
注釈を見ると、劇薬を目に点滴したと言う。効果は良好らしい。程なくして目の細胞が死滅したそうだ。
ページを捲る。膝が曲がっており、片足で立っている。
骨の強度は人間よりもはるかに強靭だという。万力で潰したと書いてある。
ページを捲る。衰弱が進行している。全身痩せ衰えてあばら骨が浮かんでいる。
この時点で、40日間絶食させられているそうだ。
そう、ここに記録されている実験は、人間に対して行われたものではない。
翼があったり、歯が三列あったり、尻尾があったり、犬のような耳があったり。
人型の、別の生き物である。
これが何か、分かる。
結界省が何を研究しているか、分かる。
否、“分かった”のだ。たった今、分かった。
妖怪だ。
――妖怪の体の造りを、外道な方法で研究しているのだ。
生きたまま、麻酔さえも掛けず、どのような反応を示すのか、何が弱点なのか。
「――なんて、――なんて、かわいそうに」
見るに耐えられなくなって私は椅子を立った。机に背を向けて距離を開ける。
あの傷、光を失った瞳、曲がった膝、浮き上がったあばら骨。
尊厳を奪い取られた絶望を想像して、その痛みを想像して、わが身が張り裂けそうだ。
肩に手を置かれた。びくりとして振り返ると、蓮子が居た。
「メリー、ちょっと外の空気を吸って来よう」
入口のスイッチを作動させる。壁が左右に分かれ、通路が出来る。
肩を借りて連れ添われて歩き明るい廊下へ出た所で、蓮子が「あちゃあ」と言った。
通路のすぐ脇へ隠れる様に、男性用スーツを着た男の二人組が立っていた。
徹と圭が、廊下で待ち伏せしていたのだ。
私は平静を装い、二人を睨み付けてやる。
精神的に消耗した顔を二人に見られるのが嫌だったのだ。
「中の資料を――、」
徹が壁によりかかっていた体を起こし、口を開いた。
「ここに保管されていた資料の中身を、――見たのか」
「……………」「……………」蓮子は黙秘。私もそれに倣う。
「見たんだな。そうか。気分が悪くなっただろう。大丈夫か?」
「……………」「……………」
「心の傷になっただろう。一刻も早く忘れたほうが良い」
「……………」「……………」
烈火のごとく怒り、声を張り上げ怒鳴られることを覚悟した私だったが。
徹の声色は思いのほか優しく、責める気配は微塵も無かった。
なぜ極秘資料を読まれてもそれを叱責しないのだろう?
「宇佐見蓮子」
「うん」名前を呼ばれて蓮子が反応する。
「お前が大丈夫でも、相棒にはダメージになるんだ」
「いやまさかこんな資料が出てくるとは思わなくて」
「予想できた筈だし、予想した筈だ。そうだろう」
「うん」
「回避させてくれ。味方してくれるんだろう?」
「うん。ごめん。配慮が足りなかった」
徹がはあとため息をついた。そうして、圭に指示した。
「どうせ室内に教授が居るんだ。つまみ出して封鎖するぞ」
「了解」とだけ答えて通路へ入っていく圭。
「秘封倶楽部の二人は、食堂にでも行って、甘いものでも食って来ると良い」
「そんなの要らない。真実を教えてよ」
私は涙声になるのを必死に抑え、言った。
「あの資料はなに? なんで背中に翼を持ってる人に、残酷な実験をしてるの?」
そう喋りながら、言葉が徐々に強くなる。声を出すことに慣れてきた。
「結界省ってあんな非人道的なことをする集団なの? 同じ人間とは思えない! 人でなし! 呪われろこの悪魔!」
「少し、落ち着け。な? いまの君は少し動揺してるんだ」
「君とか馴れ馴れしく呼ぶな! 汚らわしい! こんな、こんな人だとは思わなかったわ!」
徹が手を伸ばしてくるのを、私は叩くように払いのけた。
「頭どうかしてる! どうして平然としてられるの!? あれだけの罪を犯して、どうして普通に生活ができるの!?
鬼畜よ! 畜生以下よ! 死ぬまで呪われ続けろ! 怨念に呪い殺されてしまえ! 地獄に落ちろ! そうなればざまぁみろだわ!」
思い付く限りの最上の非難をした筈なのに、徹は涼しい顔で。
「少し、気分転換をした方が良いな。21時に書斎に来ると言い。質問に答えるよ」
そう一方的に言い残して、徹が資料室に入って行ってしまった。
徹を追い、あの背中に持参してるペンでも突き立ててやろうとしたが。
「メリー、確かにちょっと気分転換した方が良いよ」と腕を掴まれ、断念するしかなかった。
その後、食堂に行ったら小間使いさんが歓迎してくれた。
「おお! ちょうど呼びに行こうと思ってた所です! どうぞ座って!」
「あれ? なんか約束してたっけ?」蓮子がおやと言う。
「いえいえ、とりあえずコーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
と言われ、ホットコーヒーを二人分貰う。
気分が落ち込んでしまい会話も無く、二人でコーヒーを啜っていたが。
程なくして甘ったるい香りが漂ってきた。美味しそうな匂いである。
「はいお待たせ! シロップは山ほどありますから、好きなだけかけてくださいね!」
私と蓮子の前に置かれたのは、大サイズのふわふわな、――ホットケーキだった。
しかもシロップが入っているものがおちょこのような容器ではなく、なんとタンブラーグラスである。
「え? これ食べていいの?」蓮子が聞く。
「ええどうぞ。お二人の為に焼いたんです」
「でもわたしたち、そんな気分じゃないの」私が言うが。
「じゃあ一口だけでも食べてください。それから決めて頂ければと」
確かに、せっかく焼いてくれたのだから、少しでも食べなければ失礼だろう。
ナイフとフォークを持ち、一口サイズに切り、シロップも掛けずにそのまま頬張る。
表面はカリカリしていて、中はしっとりしていた。甘くてふわふわしていて、至高だった。
そう、すごく、おいしかったのだ。
「あはは、メリー、泣くほどおいしかった?」
蓮子が私を見て言った。なるほど、私は声も出さずに泣いていた。
言われなければ自分が泣いていることにさえ気付けなかっただろう。
それだけ静かな、そして自然な涙だった。
「違うの、きっとこの涙は、あれだね」と袖でぬぐいながら。
「あの写真の人にも、これを食べてほしかったわ」
私は、フォークとナイフを皿に置いた。
蓮子の顔を見た。蓮子はフォークを口に運びかけた格好で、固まっていた。
「きっと、人間を呪って死んだはずよ。文明も、文化も、人間の全てを呪ってね。
だからこれを食べたら、すごく喜んだはずだって思う。でもそれさえももう、出来ないんだわ」
ややあってから「メリーは、やさしいね」と言ってくれた。
ホットケーキを食べ終えたら、幾分か元気を取り戻した。
しかし、調査に出る気力などもはや到底残っていないので、自室に戻ることにした。
15時30分だった。段々と日が傾きかけてくる時分である。
グラボスは利用不能になっていた。ブロックをかけられたのだろう。
蓮子は、クラウドストレージへ接続しようとしていたが、弾かれてしまうようだった。
資料室でスキャンしたファイルの保存先である。
教授も紫も、音沙汰が無い。徹と圭の目の届くところで軟禁されているのだろう。
同じパラレルの同じ時間へ、複数回トラベルが出来ないことを知られたならば、もう手も足も出まい。
やることが無い。いや、何かをやろうという気力がわいてこない。全てが億劫だ。
ソファに腰掛け、開け放たれたテラスから吹き込んでくる風を感じながら、私は言った。
「蓮子、あなたって、どこまで知ってたの?」
「どこまでって言うと、なにが?」
「結界省が妖怪を捕まえて、残酷な実験をしていたってこと」
「八雲メリーがあなたの自宅にいた時、“妖怪は捕獲する”って徹が言ったじゃん」
「言ったっけな、覚えてないや。私はそれどころじゃなかったし」
「うん。あそこで、ああ結界省って妖怪を捕まえるんだなぁ、って何となくね」
「資料探しで、過激な内容が出てくるってことは、予想したんだ」
「ちょっとは、予想したかな。でもまさか本当に見つかるとは思わなかったの」
「だから、あの写真を見ても冷静だったんだ」
「いや人が傷付くのを見て動揺しない訳じゃないけれどね」
「うん。でもあの資料は、とても忌まわしい記録だわ」
「配慮が足りなかったね。ごめん、メリー」
「気にしないでいいよ」
私は目を閉じ、背凭れに頭を預けた。
興奮と高揚から覚めると、途端に睡魔が襲ってきた。
思い返してみたら、一昨日は5時間、昨日は1時間しか眠れていないのだ。
ホットケーキを食べながら沢山泣いたから、眼が腫れぼったい。
疲労が、蓄積している。むしろ、よくぞ今まで緊張が続いたものである。
ソファの背もたれを後ろへ倒し、日差し避けにタオルを目の上に乗せる。
「蓮子、ごめん、ちょっと眠いから、寝るわ」
蓮子が「わかった」とだけ答えた。
周囲が明るいのだから、当然眠りは浅いものだった。
夢を見た。
今度は、神社の賽銭箱の前に立っていた。
天気のよい境内。幼い巫女装束の少女が、箒で石畳を掃除している。
私は少女へ近寄り、声をかけた。
「ねえ、そこのあなた」
「あ、こんにちは」と人見知りもせず、礼儀正しく頭を下げてくる。
「おっと、こんにちは」私もお辞儀を返す。
「あのね、博麗の巫女を探してるんだけれども」
「巫女様なら、寝ていらっしゃいます」と箒を片手で持ち、残った片手で指し示す。
少し、舌足らずなしゃべり方だった。紫よりも一回り幼いくらいである。
未成熟な手足に、柔らかそうな色白の頬。素直で言葉を覚えたての、一番かわいい年頃だ。
「どこで寝てるのかしら?」
「居間で寝ていらっしゃいます。境内裏に回っていただければ」
「え? 起こしちゃっていいの?」
「巫女様の友人の皆様は例外なく」
「叩き起こす?」
「はい」
「いいの?」
「あなた様も、妖怪さんですよね?」
「ええ、まあ、うん。いやごめん、これでも人間よ」
「あ、どうも失礼しました。巫女様の友人は妖怪ばかりなもので」
「そうなんだ」
「訪問客に対しては“適当でいい”とも聞いているので」
「分かった。それじゃあ、ちょっと案内してもらってもいい?」
「いいですよ。こちらです」
少女が自分の背丈ほどもある箒を持って、私を先導する。
小さな背中を追い、私も歩く。
と、そこで体が揺れる。ゆっさゆっさ。
「起きて、起きてメリー、そろそろ身支度して書斎に行くわよ」
蓮子が私の肩を揺さぶっていた。八雲邸自室のベランダ際、ソファの上。
窓が閉められ、カーテンに閉ざされている。蓮子がやってくれたのだろう。
時計を見ると、19時45分。20時になったら書斎へ行く約束だ。
「ああ、そうか。約束したのね。あの鬼畜と」
寝ぼけ眼をこすりながら、最初に出た言葉がそれだった。
そのまま一度伸びをしてから姿勢正しく座り、傍らに立つ蓮子を見る。
「ねえ蓮子。この徹との話が終わったら、家に帰ろう」と提案した。
「え? 一体どうして?」
「どうしてって、こんな屋敷にはいられないよ」
当然な発想だと思っていたのに、蓮子は納得がいかないようだ。
「博麗大結界はどうするの? あなた、人柱になるのよ?」
「それはそれで、私たちが独自に調査すればいいよ」
「どうやって調査するつもり?」
「結界省の許可は得ているんだもの。あらゆることが出来るよ」
「たとえば?」
「グラボスも使えるし、公共の資料だって読めるし、機密資料も読めるし」
「圭の説明を忘れたの? 博麗大結界の中は、反国家武装勢力の集まりかも知れないのよ?」
「未来の私が言ってたじゃん。“決して反国家勢力の集まりじゃない”って」
「どちらかの言葉を10割鵜呑みにはできないよ。両方の可能性を考慮しないと」
「そりゃまあそうだけれど」
「テロリストがあなたを拉致しに来るかもしれない」
「拉致されたら、結界省が助けに来るよ」
「拉致される危険があるのに保護下を抜けるのは、いけない」
「………………………」
私は蓮子の足元へ視線を外し、説得の糸口を探した。
その様子が蓮子には、不貞腐れて黙ってしまったように見えたのだろう。
蓮子が両手を腰につけ、妥協案を示してくる。
「うん、とにかく、っていうかとりあえず、徹のところに行こうよ。それが今の課題だよ」
「わたし、徹と話す事なんてないわ。顔も見たくない」
「メリー、それじゃあどうするの?」
「このまま屋敷を出ようよ。家に帰ろうよ」
「きっと私達は結界省を誤解してると思うのよ」
「あんな資料を見たのに?」
「あの資料がなんなのか、全く説明を聞いてないじゃん」
「でも、八雲邸に保管されていたことは事実。結界省の研究資料だよ」
「その確証を得たわけじゃないし、私たちの想像でしょ」
「グラボスにさえ登録されていない紙媒体資料が、個人所有の物じゃないって言うの?」
「所有は個人だろうけど、内容が結界省執筆だとは限らないわ」
確かに、その通りだ。
「徹は資料を隠そうとしてなかったでしょ。ただ精神的なダメージになるから、避けさせただけよ」
「私たちが資料室から出ても、あの知識を口外禁止だとは言わなかったよね」
「自分にとって不利益なことならば、何かしらの言い訳と弁解をするのが先だろうから」
「………………………」
蓮子の説得を受けて、嫌々ながらも、徹と話をするべきだという気になってきた。
私はソファから立ち上がると、「分かった。じゃあ徹と話をしよう」と蓮子に言う。
髪の毛を櫛で梳かし、歯を磨いて、化粧を簡単に直し身支度をする。
パウダールームから戻ると、蓮子が何か携帯端末を操作していた。
文章を打ち、メッセージを誰かに送っているようだ。
はっと私を振り返る蓮子。少し、挙動不審だった。
「あて先はだれ?」大して深刻には受け止めず、なんとなく聞いておく。
蓮子は観念したように画面を開き、私に見せてきた。
「徹にメッセージを送ったの。これから行くって」
「なるほど」見せてくれた表示を見ると、確かにその通りだった。
「準備できた? じゃあ、行きましょう」
21時10分、夜の帳が下り夜間用の照明がついた八雲邸廊下。
雰囲気が昼の時とは変わり、ひっそりと静まり返り、厳かな感じがする。
廊下にある家具や装飾が、歩いて行く私と蓮子を見送っているように見える。
書斎の扉。蓮子がノックをする為に、右手で拳を作り、そっと持ち上げた。
昼にもここを訪れている筈なのに、全く違う場所のようだった。
どこか、非現実的だ。この感覚をどこかで味わったことがある。
勘、というのだろうか。ある種の危機察知能力とでも言うのだろうか。
書斎で私は徹から、とても重大な事実を聞かされそうな予感がする。
脳の奥がちりちりとしている。首筋が焼け焦げそうだ。扉がまるで私を引き離そうとしているかのように。
人生のターニングポイントの時に感じる、危機の予感である。
前回はどこで感じたっけと思い出そうとして、真っ先に浮かんだのが。
まず、母に眼の能力を告白し、私は病気なのだろうかと相談したとき。
次に、高校の入試結果を見に行ったとき。
高校1年生の時に男子から付き合ってくれと言われた時は――。
第六感が動かなかったから、適当な理由を言って断ったなあ。
あとは――、大学の入試結果を見に行ったとき。
そして――、次が最後だ――、ごくごく数年前の――。
蓮子が扉をノックする。コンコン、二回だった。
扉の質が良いのだ。ノックの音も上品でとても良い響きである。
昼も蓮子がノックをしたのに、おかしなことだと思った。
「どうぞ」徹の声が聞こえてくる。
蓮子が、扉を開く。書斎へ入る。
――そうだ。蓮子に声をかけられた時。否、蓮子と大学の食堂で目が合った時。
その時その瞬間だ。ああ、あの人私に声をかけてくるな。そして私は肯定的な返事をする。
それも否、するのではなく、しなければならない。この第六感である。
始まりは大学の食堂で、いまや京都を代表する結界師の末裔の、その長男と話すため。
八雲邸の書斎をノックし、どうぞと言われ、蓮子の後を追い、私も、中へ入ろうとしているのだ。
なんとなく、どころではない。とても、おかしなことだと思った。
書斎へ入る。室内の様子は昼時のまま。
変わっている事と言えば――。
正面の巨大な書き物机に、徹が腰かけている点だ。
そして真っ先に、机に置かれている結界に目が行った。
「知楽結界用の防護符を作ってるんだ。見てごらん、どうなってるか分かるかい?」
口調が、違う。いつもの乱暴でガサツな話し方ではなく、優しく諭すような口ぶりだ。
私と蓮子は無言で机に近づき、結界を観察する。
「分からない」と蓮子が言った。「メリーは?」
私は結界を指差した。「防護符ってこうやって作るんだ」
「そうだよ」と徹。「観察して分かる限りのことを言ってごらん」
試されている。
いいだろうその挑戦、受けてたとう。
結界は二重になっていた。
まず中央に札がある。その札を20センチ四方ほどの結界が封じている。
そしてその上から全てを封印するようにして、30センチ四方の結界がある。
札からは悪意が感じられる。内側の結界がそれを浴びている。
外側の結界は、内側の悪意を完全に遮断しているようだ。
「ワクチンの作り方と一緒なんだ」
「そのとおり」
「沢山の結界札を用意して、攻撃を浴びさせて、汚染されなかったものだけを持って帰ってくる。
その札が持つ抵抗力を、別の結界札に覚え込ませて量産する」
私は内側の札を指差して言った。
「この札が持つ抵抗力を、内側の結界が学んでるんだ。
外側の結界は、私達から守ってくれてる」
「大正解。そこそこ時間はかかるが、強力な結界を作ることができるんだ」
明日には完成するだろうから、そいつを成熟させたら調査に行ける、という。
「なんで私たちを置いて行ったの?」私は徹を非難した。
「危険が予想された」
「実際は?」
「あまり危険じゃなかった」
「私も蓮子も、結界を実際に見てみたかったのよ」
「本当に安全じゃなければ、連れてはいけないよ」
「保護者面するのは辞めて。調査に協力するって約束を忘れたの?」
「すまなかった。君の熱意をないがしろに」
「君って呼ぶな。メリーとも呼ぶな。馴れ馴れしい。私は、あなたを――、」
徹の目を睨み付ける。「私たちは、あなたを、軽蔑してるのよ」
続けて激しく罪を問おうかと思ったが、辞めた。
そのまま、少しだけ待とうと思った。
室内の静寂の中。小間使いさんが下の階を歩いているのだろうか。
くぐもった足音が数歩分だけ、聞こえてくる。
こことは別の世界の音を聞いているようだな、と思った。
ややあってから。
「質問に答えるよ」と徹が言う。
「あの資料はなに?」私は素早く問う。
「過去の結界省の、いや過去の八雲家の研究資料だ」
「過去の? どれくらい前の?」
「かなり昔。1200年、いや1300年くらい前かな」
「今もあんなことやってるの?」
「妖怪がいないよ。昔のようにはね」
「どこに行ったの?」
「きっと、隠れてる」
「どこに隠れてるの?」
「博麗大結界の中、幻想郷にいると考えられてる」
蓮子はもちろん、私も徹も黙った。沈黙があった。
傍らの結界から、細く息を吐きだすときのような音が、聞こえてくるだけだった。
「妖怪達は」と徹が口を開く「大結界を作って、そこに隠れ住んでるんだ」
「なぜ? どうしてそんなことを?」
「多分、生き辛くなったんだろうね」
「具体的には?」
「科学が進み、人間が妖怪を恐れなくなったんだ」
もう数百年も前の話だけどね、と徹。
「妖怪達は、国に提案した。隠れ里を作るから、土地をくれと」
「国は土地を分けてあげた?」
「いや、ついこの間言ったとおり、どこにあるのかわからないから」
「拒否したのね。野垂れ死ねと言ったんだ」
「だから妖怪達は自力で結界を作ったんだよ。博麗大結界を」
強力な結界を張って隠れるに至ったのだ。
「目星はついてるんでしょ? もう数百年も前の結界なら、技術ではレガシーよ」
「妖怪達は技術を常に研究して、結界を強固にしてる。さっぱりわからないんだ」
「土地が無ければ結界は張れないならば――」
「いや、地図に乗らない離れ小島かも知れないし、地下や上空にあるのかも」
「測位システムですぐに分かる筈よ。衛星写真だって使えるはず」
「結界の秘匿技術が科学に勝っていれば、隠すことが可能だ」
「ならばこっちも結界を研究すれば良い、――ああ」
「そう、だから作ったんだ。幻想郷を探すために、作ったんだよ」
徹が机を人差し指でトンと突いた。
「結界省をね」
さて、導入は終わりだと徹が言う。
書類ケースを持ち椅子から立ち上がると、脇にあるソファを私達へ勧めた。
私は立ったままが良かったが、蓮子が座ったので隣に腰掛けることにした。
コーヒーと紅茶はどちらが良いかと聞かれて、蓮子はコーヒーを頼んだ。
私は、水と言った。この話を聞いたらすぐに眠るつもりだから、カフェインは避けたいと説明した。
蓮子が笑って、じゃあ私も水にしようかしらと言った。
徹は一階に電話し、温めた麦茶と、コーヒーを頼んだ。
自分自身はコーヒーをどうしても飲みたいらしい。
お茶用の湯呑みは4人分と言った。なぜ4人なのだろうか?
「教授はどこに行ったの?」蓮子が理解したように質問した。
「多分、隠し扉から盗み聞きしてるよ。ほら出てこい。麦茶が飲めなくなるぞ」
急須から麦茶を注ぐ小間使いさんを観察している私だったが。
傍らの床が持ち上がったのでぎょっとした。そこから教授と紫が出てきた。
「ふっ、よくぞ分かったな。流石は八雲家長男!」
と格好をつけているが、中折れ帽子にクモの巣がくっついている。
紫はさっさと私の隣へ腰を下ろした。
「ママが馴れ馴れしく呼ぶなって言った時に、隠し通路で教授がコケたのよ。足音聞こえた?」
私は階下での小間使いさんの足音だと思った。
「教授と紫君からは、話を聞いた。紫君はもう資料の存在を知っていたそうだね」
「うん、知ってたよ。壁を叩きながら探検してたら、音が違ったからね。すぐ分かった」
「今度補強しておくよ。やっぱり大人は子供にかなわないな」
「引き続き別の隠し部屋を探す予定よ。色々と別の方法もあるの」
「おいおい、本当に心の傷になる資料室が、たくさんあるんだぞ」
「妖怪の臓器のホルマリン漬けとか?」
「――もう見つけてるじゃないか」
私は一気に気分が悪くなった。
蓮子が「想像しない方が良いね」と肩を擦ってくれる。
「紫君、そういうのがダメな人もいるんだ。少し配慮してくれ」
徹がコーヒーを一口飲む。
「分かるだろう。負の遺産なんだ。八雲家の血筋は、呪われている。妖怪達の怨念にね」
「幻想郷を見つけて、何をするつもりなの? 結界省の目的は?」と蓮子。
「圭にも同じ質問をしただろう。なんて答えた?」
「昔から続く由緒ある技術の保全だって言ってた」
「ふむ、安全な答えだ。宇佐見君は、どんな目的があると思う?」
「妖怪って、人間を襲うんでしょ? 主食とは言わないまでも、人肉を食べるんだ」
「と、言われてるね。歴史上の資料としてはそういうことになってる」
「妖怪達が自治体を作って日本を転覆しようとしているならば、対抗策が必要だね」
「なぜ結界を暴くと罰せられるか、もう説明できるだろう?」
「結界に隠れてる妖怪達との紛争を避けるためだ」
「その通り。今は拮抗状態だから、そっとしておいたほうが良い」
「でも、妖怪達は?」
「人間を恨んでいるだろうね。資料を見ただろう?」
きっと人間たちの過去の罪を清算させる為、いずれ結界を解除し、そして一挙に襲ってくるだろう。
結界の技術で武装した妖怪達に、科学兵器は通用しない。
「結界省はいわば、結界術特化の特殊部隊だ。妖怪から人間を守るためのね」
徹はコーヒーを一口。
「これが、結界省の本当の目的。いささかの戦力不足は否定できないけれども」
なにか質問ある? と聞かれ。
「ちょっと疑問に思ったんだけど」と蓮子が。
「今回はメリーだったけれど、今までにも博麗大結界の犠牲になった人はいるの?」
「博麗大結界どころか、幻想郷の妖怪達に連れ去られた人が山ほどいるよ」
「え? それってどういうこと?」私が聞く。
「結界の中だけで食料を都合出来ればいいんだろうけどね」
神隠しと言う便利な言葉が大昔からあるだろう、と徹。
はっとした。妖怪は、人間を襲うのだ。
「だから、反国家武装勢力って言ったんだ」
「テロリストとは少し違うけれど、まあ似たようなものだな」
今まで話を濁されていただけで、嘘は無かったのだ。
繋がった。一本に。矛盾は、無い。
「さて、こちらの誠意は見せた。応えてくれとは言わないが、一考してほしい」
徹が傍らに置いていた書類ケースから、二枚の紙を取り出す。それを、机に置く。私たちに見せる。
「あら」と教授が言った。「へえ」と紫が言った。「ふむ」と蓮子が言った。私は言葉を失っていた。
“内定書”と行書で書かれていた。
一枚には、マエリベリー・ハーン。
もう一枚には、宇佐見蓮子。
「勝手ながら、オレが推薦した」と徹がいつも通りの口調に戻る。
「今日の17時に役員会議で、内定が出た。おめでとう」
机に置かれた紙を、手に取る。
しっかりとしている、厚くてざらざらとした紙だ。
「学校の生徒管理部へは、明日の朝一で、結界省から連絡が行くだろう」
「んな勝手な。メリーを勧誘するって言ってたけど、私は聞いてないよ」
私は、蓮子を見た。ちょっとまて、それはおかしいだろ。
「どうして蓮子がその話を知ってるの? 私、言って無いわよ」
「ぐあ、しまった。口が滑った」
蓮子が両手で口を押える。当然もう遅い。
「オレが宇佐見に言ったんだ」と徹。「ネットでメッセージを交換していた」
「いつから? そんなそぶり、してた?」
「5号室に行った時にね、実は、交換してたの」
「でもあなた、私が結界省と接触してたって聞いて、ナチュラルに驚いてたじゃん」
「警察の人だって言ったのよ。結界省の人間だとは思わなかったし、それに、」
「宇佐見にその事実を教えたのは、八雲邸を目指して5人で歩いてる時だったからな」
蓮子が内定書を机に置いた。そうして、それを人差し指で突いて。
「メリー、実はね、もうずっと前から私達、知らずに結界省の試験を受けてたのよ」
「結界省の試験? あの録音機能が付いた結界の事?」
「いいえ、あのね、もう5号室で交換したアドレスは、私の端末に登録されてたわ」
「もう登録されてた? 知らずの内に蓮子は徹と接触してたって事?」
「私も、騙されたのよ。気づかなかった。もっと疑うべきだった。ごめん、これを見て」
蓮子が携帯端末のメッセージ欄を開く。
“秘封倶楽部”と言うフォルダを開き、パスワードを入力する。
表示された写真は、秘封倶楽部の“裏ルート”で手に入れた画像である。
「実はこの“裏ルート”の差出人が」
「オレだ」と徹。「毎回アドレスは違うが、文字の並びを変えただけのアナグラムだ」
――「秘封倶楽部は例外だ。もう捜査の技術ならば、結界省を凌いでる」――
――「罠とは人聞きの悪い。安全に暴くだけの実力があるかどうか、テストしたんだ」――
――「まあそうなるね。君たちがいくつの結界を暴いたか、統計を取ってるよ」――
――「私は、聞き込みがメイン。昔話を沢山知ってるつてがあるもの」――
――「いいけれど、調べる方法が思いついたら私に聞いてね。危険かどうか判断するから」――
蓮子が就職活動を始めた途端、結界省がなぜあんなにも完全なタイミングで接触してこれたのか。
ずっと、見られていたのだ。いつから? 最初から、だろう。
――「大学の図書館は?」――
――「もっとヤバいっしょ。大学に結界省の関係者がいない訳無いし」――
私が蓮子から、秘封倶楽部をやろうと勧誘を受けたのは、大学だ。
「分かったようだな」と徹が繰り返した。
「秘封倶楽部を結界省へ勧誘するために、どれだけの労力がつぎ込まれたか」
「それを私が、蓮子と一緒じゃなきゃイヤだって言ったから」
「じゃ、一緒に勧誘だってところだな」
「極秘資料を見られて、口封じをしなかったのも」
「どうせ今日中に全て話すつもりだった。順番が逆になったが」
「グラボスがあんなにもポンコツだったのも」
「こういう背景が無けりゃ、結界省の極秘資料を部外者には見せんだろ」
「八雲邸に客人として招き入れたのも」
「囲い込めるからだな。こちらとしては好都合だった」
私は、内定書に目を落とす。
気が遠くなるような手間とお金が、ここにつぎ込まれてきたのだ。
そして私も蓮子も、とても危険な綱渡りをしていたのだ。
一歩間違えば即逮捕。一生を棒に振る。そんなことをずっとやってきたのだ。
草原を歩いていたら、実は自分が踏んだところ以外は奈落だった、という感じだ。
「あ! それじゃあ徹さん、メリーの神隠しっていうのも実は!?」
「いや、それは結界省の手間じゃない。多分、本当の事だ」
「そう」教授ががくりとした。「じゃあ、残念だ」
「だが、当然この人材を幻想郷の妖怪に渡すわけにはいかない」
徹がぐっと拳を握りしめる。
「この逸材を手放したら被害は甚大だ。妖怪どもが何を考えているかは知らんが、阻止する」
徹が前かがみの姿勢から脱力し、背凭れによりかかった。
「それと、最後になったが、――八雲の呪われた資料に関してだ」
「あ、あああ、ごめんなさい。罵ったことは、謝らないと」
「違う、罵られるべきことなんだ。蔑まされるべきだ。ありがたい事なんだ」徹がため息をつく。
「八雲家が結界の研究を続けるのも、あの過去があるからだ。妖怪達の復讐を、八雲家は受けなければならん」
それが償いだ、と徹が言った。
「話は終わりだ。一週間以内に返事をくれ。規則なんでな」それと、と教授を見て。
「紫君はともかく、部外者には当然口外禁止の話だ。秘密だぞ」
書斎を出てすぐ、教授たちは未来へ帰って行った。会話は挨拶くらいしかなかった。
私は蓮子と八雲邸の廊下を歩きながら、徹との会話を反芻していた。
徹の話を要約すると、こうである。
人間は妖怪達と戦争をしていた。
劣勢になった妖怪達は、隠れ住むための土地が欲しいと、国に要請した。
国はそれを断った。妖怪の提案を、無下にした。勝手に行き倒れろと、見捨てたのだ。
妖怪達は自らの自治体を作った。結界を独自に張って、姿を晦まし、人間を恨んだ。
妖怪達は、人間を拉致し、喰らい続けることで、今の時代を生きている。
結界省でさえも感知できない強力な結界を張って、着実に力をつけている。
いずれ妖怪達は人間を滅ぼすため、人間の文明を支配する為、こちらへ攻め込んでくる。
その前に、妖怪達と和平を結ぶか、幻想郷を見つけ出さなければならない。
それが結界省の目的。だから、結界省は作られた。
結界省は人材を探している。結界を暴き、幻想郷を探し出せる人材を。
その人材に、私たちが選ばれた。実力を認められたのだ。
自室に帰ったら21時45分だった。
蓮子は20時の段階でもう風呂に入ったらしい。なので、私が入った。
湯船につかりながら今日一日の出来事を、繰り返し繰り返し、思い出していた。
妖怪達の凄惨な傷が、頭を過った。
私の家族があんなことをされて死んだとしたら、絶対に許せない。
徹を刃物でズタズタにし、内臓を掻っ捌いてぐちゃぐちゃにしても、まだ足りないだろう。
八雲家全員を皆殺しにしたいと思うはずだ。いやそれどころか、人間を根絶やしにしようと思うのが道理の筈。
――あまり長風呂をしても思考の悪循環に陥るだけだ。
風呂から上がり、体を拭き、寝間着に着替えた。
リビングに戻ると、蓮子がベッドに腰掛け、物憂げに考え込んでいた。
蓮子の視線の先には、机に置かれた二枚の内定書。
「珍しいわ」と私が言った。蓮子が目を上げて私を見た。“なにが?”らしい。
「蓮子がそういう表情を作るの。凄く怠そうだから」
「そうかな? いつもこんな感じだと思うけど」
「いつもはもっと精力的よ。常に最適解を求め続けてる感じ」
「買い被りだよ。すっげぇ疲れた、ああマジでだるいわーって感じ」
私は蓮子の隣へ腰かけた。
「結界省に内定おめでとう。酒でも飲む?」
「酒? 部屋に置いてあったっけ?」
「冷蔵庫にあったよ。きっと、昼の掃除の時に入れてくれたんだね」
「んー、いいや、今日は寝よう。騒ぐのは明日だ」
「あっそう、残念だな」
私はそのままベッドにもぐりこんだ。
もう二人で寝ることがデフォだなと、少し笑った。
「ああー、眠いわー、マジでやばい睡魔だわー」
「嘘つけメリーお前、さっきまで寝てたじゃねぇか」
「おやすみ、ぐー」
目を瞑ると、今度は妖怪の事だけじゃなく、様々なことを思い出す。
半ばポンコツのグラボス。紫の頭をげんこつする教授。ファイルを整理する私達。
廊下の壁が動きだし、通路を形成する。と思ったら、天井から大量の水が落ちてくる。
驚きではっと目を開けたら、蓮子が私の隣で横になり、顔を覗き込んでいた。
部屋の照明が落ちている。幻覚も幻聴も無い、静かな夜だった。
「ありゃ? 何分経った?」どうやら寝ていたらしい。
「もう30分たったよ。寝つき良すぎだろお前」
「今日の朝だってあなた、速攻で寝てたわよ」
「あれは狸寝入り。寝たふり」
「マジか、くそう。騙された」
枕元の時計を見ると、本当に30分経っていた。
「蓮子、内定受ける?」
「受けないでどうするの。他にやりたいことあるの?」
「無いよね。うん、無いわ」
「結界省なんて、入りたくても入れないよ」
「そうだね。超エリートだ」
「エリート、というか。まあ安泰だね」
蓮子が仰向けに寝返りを打つ。
「蓮子、ねえ蓮子蓮子」
「なによ」
「なんか、凄い事になってきたね」
「凄いも何も、もう何百年も前から続いてる事なんでしょ?」
「そうだね」
「知らなかっただけだよ。私たちが、ね」
「うん」
蓮子が仰向けになったまま目を瞑った。
「蓮子、蓮子蓮子蓮子」
「なによ」両目を閉じたまま返事をする。
「この先どうなるのかな」
「不安?」
「いいえ、楽しみ」
「それは良かった」
蓮子が、寝息を立て始めた。
「蓮子、蓮子蓮子蓮子蓮子」
穏やかに呼吸を続けるだけだった。
「………………」
すこし興奮して眠れそうになかったのでベッドから抜け出し、鎮静剤を一かけら飲んだ。
スポーツドリンクで嚥下し、蓮子の隣にもぐりこみ、その頬にそっとキスをした。
「おやすみなさい」
薬を飲んでまだ5分も経っていないのに、睡魔がやってきた。
夢を見た。
私は、鳥居の下に立っていた。
幼い少女が、自分の背丈ほどもある箒で、石畳を掃き清めている。
はっとした。それと同時に私は走り出していた。
「ねえ! 巫女さん借りていくわね! 寝てるの!?」
「わかりました。はい、居間で変わらず寝ていらっしゃいますので」
横を通り過ぎざま宣言すると、少女がそう言って来る。
走っては、いない。宙に浮いている。速度が出る! 速い!
時速40キロくらいは出てるんじゃなかろうか!
裏手に回り縁側、居間を覗き込む。
布団で寝ている後ろ頭がある。
私はそこへ飛び付き、体を揺らした。
「博麗の巫女さん! ねえ巫女さん! 起きて! 話を聞きたいの!」
「えー? むにゃむにゃ、眠いわぁ。夕方にもう一度来てくれる?」
「今すぐ! 今じゃなきゃダメなのよ! そうしないと!」
と言っている間にも、眠りが覚めてくるのを感じる。
ああもう時間が無い。結界の話を聞かなければ!
「巫女さん! お願い起きて! 巫女さん! 話を聞かせて!」
布団を捲り、巫女さんの肩を直接揺さぶる。
そこで、眼が覚めた。
どん、と押された。ついで、浮遊感。衝撃。
声を出す余裕も無く、肩を強く打つ。
目を開けると八雲邸の自室だった。
起き上がると、自分がベッドから押し出されたのだと気づいた。
ベッドには後ろ頭。蓮子てめぇ、よくも落としやがったな。
もう少しで博麗の巫女と話が出来たというのに。
今もすやすやと寝息を立てる黒髪の後頭部へ呪詛を送り込む。
朝の7時。昨日は22時に寝たから、9時間睡眠をとった計算になる。
睡眠は十分だろう。さてトイレにでも行くかと歩き出したら、水洗の音。
扉が開き、なんと蓮子が出てくる。
「あ、おはよメリー、起きたのね」
「ん? んんん? 蓮子が二人いるわ。ドッペル?」
「え? なに言ってんの? 私は一人よ?」
「じゃ、じゃあ、――あそこで寝てるのはだれ?」
私はベッドで眠っている後ろ頭を指差した。
蓮子が私を見て、後ろ頭を見て。
「そんなっ! 私と言うものがありながらっ!」と蓮子。
「どんな早業よ。あんたがトイレに行ってる間にとか」
二人で接近。前方に回り込み、そっと掛布団を持ち上げて顔を見る。
知らない顔だ。しかしノーメイクだと言うのに、日本人形めいた美しい顔立ちをしている。
歳は、私達よりも上だろう。20代半ば。大人の女性の顔立ちだ。
黒髪の成人女性である。旅館で風呂上りに着るような、白色無地の浴衣を着ている。
「蓮子、知ってる?」
「いんや、知らん。メリーは?」
「知らないね。どうしようこの人」
「うーん、とりあえず、人物判別システムかな」
蓮子が携帯端末を取出し、グラボスを起動する。
「おはようございます。宇佐見様と、マエリベリー様と、――おや修羅場ですか?」
「うっさいわこのポンコツ。さっさと人物判別しなさい」
「粘菌労働基準法に抵触する発言ですね。パワハラですよ。はい結果が出ました」
「どこのだれ? またアンノウン?」
「いいえ、どこから連れてきたのかわかりませんが、マッチした情報だけをお伝えすると」
グラボスは手の平を女性に向けて指し示し、真顔のまま、言った。
「博麗の巫女です」
私が食堂で朝食の準備をしている時だった。
蓮メリ部屋のちゅっちゅの気配が、唐突に一つ増えた。
私は手を一時止め、意識を集中し、そして事態を把握して家事を再開した。
――なんだ、巫女さんが来たのか。じゃ、大丈夫だ。
設定に混乱することもあったけど話の大筋は理解した、と思ってる。しかしどう纏めるんだこれ……
誤字脱字少々
ホットケーキ後 幼い巫女収束→装束
盗み聞きしてた教授 よくぞ分かった→分かったな
毎回楽しませてもらってるよ。気持ちのい結末をお願いします。
wktkが止まらない!
謎が広がってるようでいて、実は伏線の回収も進んでいるので話にまとまりがあります。追いつける。
それにしても13年後組のキャラが濃くていいなあ。
幻覚で弱って蓮子にしがみつくメリーが不謹慎だけど可愛かった…。
あとあの野郎ついに蓮メリと会話するとか羨ましすぎ!
誤字と言えば、化学は全体的に科学の間違いかな?と思った。
しかしメリー→蓮子は明確なのに蓮子→メリーがあんまり見えなくて二人の関係がどうなっていくのか心配でたまらない