「お前さんが面の呪縛から逃れられないのは、お前さん本人に表情がないからじゃ。感情を、手に入れるんじゃよ」
――指摘するだけなら誰だってできる。
――重要なのはその方法を提示することだろうに。
「それはお前さんが考えるんじゃ。儂ぁもう年でな。耄碌してしまってよう分からんわい」
――都合のいいときだけ媼のふりとかズルイし。
――ヒント位はあってもいいと思うの。
「儂が知っている方法としては、あれじゃ。頭のイカれた人形に恋でも語ってもらうことじゃな。それで大爆笑できるようになるらしいぞえ?」
――何を言っているのか分かりません。
「うむ。儂もよぅ分からぬ」
――なら……言わないで……ほしい。
「アハハ、すまんすまん。そうじゃな……ではなるべく表情が豊かで、しかもこの馬鹿騒ぎに踊らされてなくて、知性的で、落ち着いたふいんきの奴でも探してみてはどうじゃろ?」
――表情が豊かで落ち着いた、奴?
――そんな矛盾した条件を満たす奴がいるもんか。
◆ ◆ ◆
「いました」
黒南風なびく夕方の河川敷。
練習なのか、一人ヴァイオリンを奏でていた女性に目をやれば、あらまあ、なんと。
右手の弓とねじった左手を巧みに操りながら、時に激しく、時に悠然と。
すわ焦燥に駆られたか? と思った次の瞬間には、御仏のように柔和な表情を浮かべる。
――うん、表情が豊かで、信仰云々で喧嘩をフっかけられたこともなくて、知性的っぽく見える。
神社で化け狸に敗れて以降、一人幻想郷中をさまよって。
ようやく見つけた条件に合致する人影は、しかし渦中の妖怪たる面霊気を目にしても、構うことなく演奏を続ける。
で、あるならば。
「私の表情はお前か!!」
「演奏中はお静かにお願いします」
「はい」
なるほど、あに真の淑女に非ずや。
喧嘩をフっかけてきた奴の中にも、黒服金髪はいた。
だが、ろくに話も聞かずにヒャッハー言いながらミリ秒パルシングするアレと、目の前の奏者では大違いだ。
これならば、うん。もしや期待しちゃっても良いのではなかろうか。
そう、判断して。
奏者からそう遠くない土手の上に、秦こころはそっと腰を下ろし。
ヴァイオリンの調べに耳を傾けながら、再び声をかける機会を待つことにした。
◆
ふいに、演奏が中途半端に途切れる。
「これは、ちょっと危なかったか」
「何が?」
「その手の内にある、それね」
言われて目線を落とした顔に、猿の仮面がピタリと張り付く。
「やや! これは!」
ぞわり、とこころの背筋が粟立つ。
なぜ、己は薙刀の刃を自身の喉もとに突きつけているのだろうか?
「気付いてなかったの?」
「う、うん。私は一体何を……」
「自分で観衆を散らすのもなんだけど」
こころのそばへと歩み寄ってきた奏者は、自嘲するように小さく肩をすくめる。
「悩みがあるときに私のソロを鑑賞しないほうがいいわ」
「なぜだ」
「分かるでしょう? さっきの貴方みたいに鬱っちゃうからよ」
鬱だと? 仮面を被っていないのに鬱であると?
それはまさしくエモーション。こころの求める感情そのものではないか!
「鬱っていたのか! 私は!」
ふわり、と大飛出の面がこころの額に舞い降りる。
「多分ね」
「すると! 貴女は!」
「うん?」
「感情を、操れるのか!」
「一応ね。陰気のみだけれど」
「素晴らしい!」
いちいちオーバーリアクションを決める変人を相手に、奏者は動じた風もない。
こころの存ぜぬことではあるが、なにせ彼女は蝶変人、西行寺幽々子とも付き合いの長いチンドン屋の顔役なのだ。
音速が遅い冥界で明後日な発言をする亡霊を基準にすれば、こころなどはトンチキの枠にすら入れないのである。
「ぜひ、お姉様、と呼ばせていただきたい」
「うーん……その呼称は雛さんのものかも」
「じゃあ、先輩?」
「まぁ、じゃ、それでいこう。秦こころさん」
いきなり名前を呼ばれたこころは仰天した。白狐の面を手に立ち上がる。
「なぜ私の名前を知っている!? さては貴様、間者か!」
「いや、新聞にも大々的に名前が載ってたし……ルナサ・プリズムリバー。よろしく」
「こちらともよろしゅう、先輩」
白狐面を小面に変えて、こころは差し出された手をそっと握る。
さっきまで憤っていたかと思いきや、驚くほどにあっさりと。
斯様に平然と握手をかわすことができるのは、やはりその心が着せ替えだからなのだろう。
「で、なにゆえ私は先輩なの?」
「同じ感情を操れる者同士ゆえ」
「ああ、そういうこと。……でも貴方、千年遺物の付喪神じゃなかったっけ?」
「社会進出一年目の新人であるによって」
そう、と特に深く追求することもなく頷く。
なるほど、流石ルナサはタイトスカートが似合うレディであろう。
なにかあるとすぐに鉄拳を飛ばしてくる、どこかのブルンバスト達とは大違いである。
「それで、こころは私に何か用でも?」
「はい。私に感情というものを与えてほしいのです」
「ゴメン、無理」
「もうちょっと……話を……聞いてくれてもいいと……思うの。新人イジメ……よくない」
もっとも、拳が飛んでこないだけで容赦がないのは、それはそれ。
幻想郷の連中に容赦を求めるのがそもそもの間違いだ。
ああ。もうこうなったらまどろっこしい手段はやめだ!
こころは白狐面を額にシャキンと薙刀を抜き放つ。
困ったときは力ずく、もまた幻想郷のルールである。賢くていい子なこころは既にそう学習を済ませているのだ。
「さて、いきなり薙刀突き付けられてる私の方が、逆にいじめられっ子っぽいと思うのだけど?」
「私は学んだ。遠慮をすると負けるのだ! もう負けるのは嫌だ!」
おやおや、と軽く目をしばたかせたルナサは、こころのそばを周遊する仮面群に視線を向けて、品定めをする。
しかる後に手を伸ばして白式尉の面をエイヤと捕まえると、それをベチンとこころの顔面に叩きつけた。
「素の表情がほしいのです。お面に頼らない、秦こころの感情が」
ふむ、こうかはばつぐんだ。
「なるほど。面に頼らない、ね」
「貴女はただ立っているだけで、次々と表情を変えられる奇人変人でした。是非薫陶を頂きたいのです」
「言っておくけど貴方、それ全然私を褒めてないよ?」
「すみ……ません……なの」
「まあ、どうでもいいんだけど」
テンションの低い姥面を引っぺがすと、ルナサは土手に腰を下ろす。
「別に私も意地悪で無理って言ったわけじゃなくてね、ちゃんと理由はある。二つほど」
手振りで座るように促され、無表情のこころもまた、素直に隣へ腰掛けた。
「まず一つに、私は操れるだけだからね。響かせることはできても、作り出すことはできないわ」
「響かせる」
仮面をつけることなく呟いたその声は、無感情。
されどそこにルナサは、こころには気付けぬ何かを感じ取ったのだろうか? 然りと頷いてみせる。
「そしてもう一つ。貴方には既に感情がある」
「え」
慌てて大飛出の面を被る。
ビシッと、ポーズつきで、
「え!?」
「言い直さなくていいからね。ほら、一番最初に貴方、鬱って自刃しようとしてたでしょう?」
「あ!」
「ポーズもいらないってば……つまり、アレだ」
どこからともなくギターを取り出したルナサは、それをベベンとかき鳴らしてみせる。
「私の演奏に影響されたってことは、貴方の中には既に感情がある」
「馬鹿な、そんな馬鹿な!?」
「何が?」
「だって! 仮面を取れば、ほら」
こころの声から感情の色がストンと落ちる。
「こんなわたしに、感情があるとは思えない」
「私達のメロディは心を揺さぶるの。心は嘘をつかないよ。嘘をつくのは、いつだって意識のほうだから」
「では、なぜ」
「うん?」
「なぜ、私の感情は表に出ないのか」
「感情に働きかけられる私が言うのもなんだけど」
簡単に糸巻を調節。すっと薄く息を吸い込み、演奏開始。
「心っていうのは、本来自然と湧き出でるもの。出そうと思って出るものではないわ」
「湧き出でる」
「そう。例えば……あ、仮面をつけちゃ駄目だよ? あの夕日だけど」
熱情を片手間に奏でながら、ルナサは沈む夕日に目を向ける。
「どう思う?」
「凄く……赤いです……」
「それだけ?」
「丸いです」
「他には?」
「……」
「もう終わり? なるほど、これは困った」
まったく困っているようには聞こえないギターの調べが、どこか哀愁を漂わせる朱の世界に音の楽を添える。
「心を自覚できない者に何を言えばいいか。これは正直、私もよく分からない」
「そんな」
「だから、これが多分私ができる最後の質問になるけど」
夕日に目をやり、口はこころのために開き。
しかし指先では繊細で複雑、かつ情熱的なリズムを奏でながら。
「時計があった。男の子が生まれた日からずっと、その子のために時を数えるのが全て。だからその子が亡くなったときに、ただの木片に戻って、共に墓に入った」
何の話か、と首を傾げるこころをやんわりと流し目で制して、続ける。
「ヴァイオリンがあった。女の子の願いに応じて曲を奏でるためだけに存在した。しかしその子が亡くなったときに、ただの木片に戻るのを拒否して、共に棺には入れなかった」
真摯な、射抜くような目でこころの瞳を覗きこんで、問う。
「こころ。貴方はどっち?」
「……わからない」
「そっか」
そう返されたルナサの声色には特に落胆した風もない。
だが、そう返してしまったこころはなぜか、何か自分が大切なものを投げ出してしまったかのような感覚に襲われた。
なぜ、己はどちらとも答えられなかったのだろうか?
もしかしたら、ただの仮面に戻りたくないとの思いすら、あくまで仮面の感情なのだろうか?
それすらも分からないこころには沈黙するより他はない。
ああ。再びこの音色に身を委ねれば、己が心のままに在れるのだろうか。
たとえそれが、無理やり響かされたものであっても。
たとえその結果、己に刃を向けることになっ「ヘェーラロロォールノォーノナーァオオォー!」
……色々と台無しである。
「なんぞ!?」
大飛出の面が奇声のする方を眺めやれば、
「アノノアイノノォオオオォーヤ…… ッとまずい」
土手上の提道。カラカラと音を立てて、小さな屋台がこちらへと向かって来る。
奇声は、そこから発されていたようだ。
「こんばんは女将。今日はどこで店開き?」
「ちょっと早いけどこんばんは、団長。……うん。迷ってたんだけど、いいもの聴いたから今日はここにしようかなって」
ステージ衣装時の華やかさとは正反対。
和服姿にしめやかさを纏った八目鰻屋の女将。
ミスティア・ローレライは夕日に目をすがめて、朱に染まる土手に足を留める。
「それはどうも。手伝おうか?」
川裏側の提道脇で屋台の位置を調節していた女将だったが、しっくり来る配置を見つけたのだろう。
車輪をロックして赤提灯をベリッと広げると、二人に振り向いてニコリと微笑む。
「助かるわ。お水汲んでくるから、注文台の展開をお願い」
「了解。じゃあ、続きは屋台でね。ちょっと待ってて」
「いや、私も何か手伝う」
自ら助力を申し出たこころが、しかしあまりに無感情なものだから、女将は一瞬面食らった。
が、そこは屋台で客商売。すぐさま笑顔を浮かべて、
「ありがとう。それじゃこころさんには椅子の用意をお願いしようかな」
「すわ貴様も間者か!」
「それはもういいから」
ひょいと大飛出を白式尉にすり替えられたこころは、悄々とルナサの後に続く。
なるほど、まるでルナサに新たな妹ができたようである、と。
微笑ましさについ見入ってしまうが、さりとて客を働かせて店主が遊んでいるわけにもいくまい。
手早く割烹着を身につけた女将は手桶を4つ、両の腕にぶら下げると、しなやかな裾捌きで川縁へと向かって行った。
◆
「夕日とは何か!」
「どうしたの? 急に」
日が沈みきる前に赤提灯に明かりを灯し、のれんをかけて屋台の設置は完了。
お通しを準備している最中にそう問われた女将は、可愛らしく小首を傾げた。
「そうね。手本はあってもいいかも。女将はあの夕日を眺めて、何を想う?」
「そういう質問かぁ。うーん」
僅かに、考え込んだ後。
女将はお通しを盛り付ける手を止めると、屋台の外に回って、大声で
「あ、ま、ぞーーーーん!!!!」
なんて。
花ほころぶような笑顔で、
「以上」
「なんでだぁああああ!!」
思わずこころは注文台をバンと叩いて立ち上がる。
「あ、アマゾンって単語は知ってるんだ」
段々と手馴れてきたルナサが、手際よく般若の面をひっぺがす。
沈黙し、腰を下ろしたこころの前に戻ってきた女将は、
「なんていうかね。今の私にとって、もっとも印象的な夕日はアマゾンなんだ」
チラリ、と視線を横に流す。
つられてこころも屋台の壁に視線を向ける。
「外界を旅行してきたの。半年前に」
目に映ったのはお品書きに混じってピンで留められている、一枚の写真。
写真の中、知っている顔は三人。目の前の女将と、星屑煩い金髪の少女。
そしてここ数日のギャラリーの中では一番やかましかった、どこぞの青い巫女である。
「おやつの時間からずっとね、皆で川を眺めていたの。『青い水と茶褐色の水が境界を作って、川が二色になるんだ』っていう光景を見に行ったんだけど、アマゾンってすごく大きな河で、『境界面なんて陸からじゃ見えない』なんて魔理沙が怒り出して。昼間なのに空を飛ぼうとする彼女を皆で引き止めつつね、缶ビールを開けて。早苗がろくに言葉も通じないのに、YNMとやら(ヤマトナデシコミラクルだそうです)で、どんどん現地の男達から色んな物をかき集めてくれるから、食べ物には困らなくって。そうこうしているうちに夕日が沈んできて、酔いも回ったせいでいい気分になってきたから、歌ったの。そしたら現地の人達とコーラスになって」
――オージンジ、ってね。
写真の中。
巫女と金髪の少女はとてもいい顔で笑いながら囃している。
女将は歌っていた。
一シーンを切り取った一フレームであるのに、それが囃しているのだ、歌っているのだ、と確信できたのはなぜだろう。
――Ceu, tao grande e' o ceu...
女将は歌っていた。
ルナサもまたギターを爪弾いて、女将の歌唱に伴奏を重ねる。
女将は遠くを見ていた。ここではないどこかを。
彼女はここにいながら、別のものを見ているのだろう。そして今、ルナサもそれを共有している。
こころだけがそこに入っていくことができない。
それに、気がついたのか。
女将が途中で歌を中断する。
「っと、ごめんね。でも、これが私にとっての夕日」
「……少しも夕日の説明になっていなかった」
「いや、あれでいいんだよ」
なにがいいのか、こころにはさっぱり分からない。
何が夕日の説明だ、結局歌っていただけではないか、と。
だが、女将もルナサも微笑むばかりで。
「じゃあ、こころさんの夕日を作ろうか。一杯目はおごり。なにがいい?」
「お酒はよく分からないの」
「じゃ、流れに乗ってカイピリーニャを2つ」
「またマニアックなものを……」
「そう言いつつも受け入れてくれる女将は大好きさ」
「はいはい」
頬杖からの流し目。いい表情だ。
向けられた秋波に形ばかりの憮然を返しつつ、女将は手際よく三人分の酒を用意する。
「女将も飲むんだ?」
「今日は、記念になるからね。一杯だけ」
「何の記念なの?」
その質問には答えずに、女将がコップを掲げる。
仕方なしにこころが、次いでルナサもまたグラスを手に取って、
「乾杯」「「乾杯」」
クッ、と飲み干す。
一気に空にしたグラスを、トンと屋台に戻すと、
「女将は」
「うん?」
「時計? それともヴァイオリン?」
「なに、それ? 今度は何のリドル?」
「いいから答えてほしいの。どっち?」
酒にはそんなに強くないのだろうか? それとも一気にあおったのがまずかったのか?
無表情ながらも瞳を潤ませるこころと、一杯程度では小揺るぎもしないルナサの視線を受けて、女将は、
「ヴァイオリン。いつだって私は、好きなときに歌うもの」
◆ ◆ ◆
「あら、初めて見る顔がいるわね」
「いらっしゃい。今日のオススメは豆腐とトマトのサラダね」
「じゃ、串焼き二本とそれ一つ。それと響12年ダブル。ロックで」
(こころ、何を言われても絶対に挑発に乗らないように)
耳元でルナサに囁かれ、改めて新たな来客に視線を向ける。
現れたのはお目出度カラーのギンガムチェック。ともすれば古臭いと言ってもいい衣装の中身は、しかし一級品。
骨格と脂肪と筋肉の均衡が取れた肢体。長い睫毛と紅玉の瞳に、薔薇の唇。花のかんばせ。
フラワーマスターが腰を下ろすさまは優雅で、何気ない所作であってすら人目を惹いて憚らない。
「たしか……能楽師だったわね、貴女」
「うん。秦こころ。よろしゅう」
「芸をしなさい。にぎやかしに」
「なぜそうなる!?」
白狐面を額に立ち上がるこころを前に、さも当然とばかりに腕を、膝を組んで。
「新人歓迎会の出し物よ」
「そうやって若者をいじめるから、社会進出一年目にして挫折する新人が後を絶たないのだ! 老害め!」
「いじめる」という言葉を耳にして、幽香は眉をひそませた。が、それは怒りの表情ではない。
こころへと向けられる瞳には、どこかしら哀れみの色が浮かんでいるようにも見える。
「分かってない奴。女将、団長」
「ん。では一番手、いただくわね。メンデルスゾーン "シンフォニア"」
言うが早いか、離席が早いか。
僅かに屋台から離れたルナサは手早くヴァイオリンの調整を済ませると、川岸に立っていたときと同じようにそれを構え、弓を弦に当てる。
四本ある弦の振動が駒を伝わりヴァイオリン全体を震わせ、豊かなハーモニーとなって土手の上からあふれ出す。
最初は硬めだ、と感じたメロディが、すぐに耳をくすぐる心地よい音色となってこころの内に染み込んでくる。
時に激しく、時にしなやかに身体を揺らしながら、十分強。
望月の下にメロディを躍らせたルナサは、弦から弓を放すと大きく息を吐いてお辞儀をした。
満足げに、額の汗をぬぐう。
「悪くない」
「ま、お題の幅が広すぎたもの。余裕」
「はーい、じゃあ二番手。"木こりの歌"」
「演奏してもいい?」
「もちろん」
焼きあがった串焼きを全て皿に移し、炭火の上を空にした女将もまた、屋台を離れて、
――I'm a lumberjack and I'm OK. I sleep all night and I work all day...
歌いだす。
この人は和服を着ているくせに、どうして洋楽ばかり歌うのだろうか?
そんな疑問がこころの頭をよぎるが、それも一瞬のこと。
すぐさまその歌声に演奏が絡み合って、軽快な歌唱にさらなる華を添える。
およそ三分ほどで歌い終えた女将は、両手を前に揃えて小さくお辞儀。
羽が生えたかのような足取りで屋台へと戻ってくる。
「いまいち」
「幽香が植物びいきだからよね、それ」
「うーん、選択間違ったかなぁ?」
「いや、いいんじゃない? ほら」
実際、なにやらさっきから屋台のまわりでポツラポツラと囁き声。
騒がしい空気をキャッチしたか、妖精達が集まりつつあるようだ。
「でも、近寄っては来ないのね」
「ほら見なさいな」
「もう一押し、かな」
三人は顔をつき合わせてのんびりと批評なんかを行っている。
それが、こころには理解できない。
ヒタリ、と白狐面を装着したこころにルナサが気がついた。チラリと視線を向ける。
それで、思い出したかのように、
「ほら、次。早くしなさいな新入り」
「なぜだ」
「なぜって」「何が?」
「なんで、先輩も女将もそんな言われるがままにこいつの言うことを聞くのだ? はっ! さてはこの凶悪な面構えの妖怪に弱味でも!?」
吠えるこころを横目に流して、ルナサは色々と諦めた。
自らの美を信じてやまない幽香に「凶悪な面構え」は流石に禁句であろう。もう、なるようにしかなるまい。
それに、うん。このタイミングでこれは悪くないかもしれないし。
「あのね、お嬢さん」
だが、今日の幽香は――幽香からすれば――きわめて淑女的に対応した。
「馬鹿相手に無駄な時間は使いたくないの。いい? そのお口にチャックをかけてこの場を去るか、素直に土下座するか、ブッ飛ばされるか。十秒以内に選びなさい」
ああ、なんという――こころからすれば――上から目線の言い草なのだろう!
初対面の相手にそんな風に言われて黙ってられるほど、こころは付喪神ができちゃいない。
ならば、とこころは屋台の長椅子を離れ、土手の上で仁王立ちする。
ホント馬鹿なやつ、と呟いた幽香もまた、気だるげな表情で日傘を長椅子に置いて立ち上がった。
その、余裕どころか億劫さすら覗かせる幽香の様子に、流石に不安を覚えたか、
「あまり使いたくはなかったが見せてやろう。この新たなる希望の面の力を」
棒読みの台詞と共にこころは、とっておきを。
常人であればそれを身に付けることに嫌悪と恥辱を覚えるほどに、極限まで美が削ぎ落とされたそれを。
希望とは名ばかりの呪われし暗黒面を、仰々しい動作で装着すると、ああ! 道の世界に光が満ちる!!
「ハハッ! 宇宙の真理は我が手の内にある。ゆえに君の敗北はもはや定まった! さあ、この正義の光の前にひれ伏すがよい!」
今やキラッキラに輝くこころには、宇宙は見えても世界は見えていないのだろう。
だから女将とルナサが己に向けている視線が、養鶏場から運ばれてきた哀れな鶏を見るそれであることに気がつけないのだ。
「やぁやぁ我こそは、秦こころなるぞぉー!!」
薙刀を構えて突撃するこころは暴君に挑む勇者だった。
ただ、その内に秘めた勇気はまったくもって不要であるばかりか、こころが平穏無事に生きるためには害悪ですらあった。
「そういえば名乗ってなかったわね」
なにせ相手は怪物、
「風見幽香よ。一秒で死ね、こころ」
この戦闘経過を描写する必要はおそらく、これっぽっちもないだろう。
一方的な戦闘、人それを蹂躙と言う。
◆
特に理由のない暴力(主に赤くて白い)に襲われるなんて幻想郷では日常茶飯事だ。
だからそこら辺にひょいと敗者が転がっていても、大半のものは気にも留めない。
「…………」
「陸上でも、頑張ればスケキヨになれるのね」
「引っこ抜いてあげたらどうかな、先輩」
「あ、豆腐サラダ上がってるわね。いただきます」
サラダを小鉢に取り分けた後、幽香は土手から突き出た足に視線を向けた。
幽香とこころの戦闘で妖精達は蜘蛛の子と散ってしまったから、闇を見通す妖怪の目に映るのは一つ? だけ。
グルグルとカボチャの上を周遊する仮面の群れ。
レタスを食み食みしつつ顔をしかめる。あれは、そう、まるで。
「団長。あれ、腐肉にたかるハ「幽香さん」……ゲタカみたいで見てて気分悪いから、何とかして」
「自分でやったことは、最後まで自分で面倒見てほしいものだけど」
抗議の意を込めて幽香のウィスキーを一口啜った後、ルナサは地上に生えたカボチャのもとへと向かう。
ちなみにこころのスカートは弾力と張りがあるため、逆さまになってもきちんと重力に逆らえるのである。
過度な期待はせず、腹チラ程度を眼福として楽しむが節度ある幻想郷ライフであろう。
「よいしょ、っと」
太もも辺りに手を回し、よっこらしょっと力を込めて引っこ抜くと、
「また、負けた」
抑揚のない、しかしどこかしら悔しげにも聞こえる呟きがルナサの耳へと届く。
悪くない、なんて心の中で呟いて、くるりと抱いていた体躯を半回転させる。
向き合った顔はしかし、相変わらずの無表情。
「ま、今回は相手が悪かっただけね。幽香にガチで挑むのは少なくとも百年は早い……ほら、じっとして」
ぽんぽん、とルナサは背中や髪の毛についている土を払ってやる。
覇気を挫かれたか、こころは言われたとおり、大人しくされるがままだ。
「あら、千年の間違いでしょう? それはそれとして、ほら。残ることにしたんなら芸やんなさい。能楽師」
「私そろそろ泣きたい」
「ん。仮面つけずに泣けるならいいんじゃない? ただね」
屋台には聞こえないように、そっとこころの耳元に口を近づける。
(あれで幽香も多少は期待しているところがあるんじゃないかな。彼女、美しくないものには全然興味がないから)
(私は! 美しいのか!)
大仰にのけぞる大飛出に、苦笑する。
無論、美しいか美しくないかで言えば……いや、やめておこうとルナサは首を振った。
仮面によるこころの感情表現は、中途半端がないゆえに尖りすぎている。
下手を思い込ませるとろくなことになるまい。
(……どうだろう、少なくとも能楽という伝統芸能そのものには美を見出しているのかも)
「はい、顔ふいて」
「ん」
女将が宅配してくれたおしぼりで顔をぬぐえば、これで一応は元通りの秦こころだ。
「それはそれとしてほら、三番手。舞ってみない?」
「あ、舞うなら客引きになるように、盛大にお願いね」
「むむむ……それではまことに遺憾ながらも、演目、『翁』」
「地味に喧嘩売ってるわね」
幽香の毒はさらりと無視して、こころは土手を下る。
平坦に開けた川岸で足を止めて深呼吸し、片手にパシリと、
――とうとうたらりたらりら たらりあがりららりとう
――ちりやたらりたらりら たらりあがりららりとう
――所千代までおはしませ
――我等も千穐さむらはう
――鶴と亀との齢にて
――幸ひ心にまかせたり
扇を携え、能を舞う。
◆
――千秋万歳の 歓の舞なれば 一舞まはう万歳楽
――万歳楽
――万歳楽
――万歳楽
ふう、と小さな深呼吸。トテトテと土手を上って、再び屋台の長椅子に腰を下ろす。
そんなこころに送られるは、二人分の小さな拍手。
「お疲れ様。客寄せにはならなかったみたいだけれど」
「いい声で謡うのね。厚みのある声って羨ましい。まぁ、客寄せにはならなかったけれど」
「ほら幽香。リクエストしたんだから何か言うべきじゃない?」
ルナサに脇をつつかれるが、幽香は憮然ともとれる表情で黙したまま、ウィスキーグラスをクイッと煽る。
残ったロックアイスをカラカラとグラスの中で回して、
「貴女、何で能楽なんかやってるの?」
「お前が! やれと! 言ったのだろう!?」
己の存在意義を否定されたと感じたのだろうか? 面の反応は実に素早かった。
即座に舞い降りてきた白狐面がふかーと牙を剥く。
が、壁のお品書きを追う幽香はもう、チラリともこころに視線を向けない。
「馬鹿みたい。つまらないならやんなきゃいいのに。……女将、フォアローゼズ、ダブル。ロックで。あとアボカドわさび」
「先輩、私こいつ殴りたい!」
「うん。頑張ってあと千年生きようね」
すがり付くこころをルナサはよしよしと宥めるが、一方で女将はどこか納得したふしで、
「でも、うん。幽香さんの言うことも分かるなぁ」
「なぜだ女将!」
幽香と、サパッとポーズを決める白狐面の前にも、おまけで。
「おごり」と言って、琥珀が揺れるウィスキーグラスを置いて。
「フォアローゼズとかけまして」
女将は小さく息を吸うと、
――Sah ein Knab' ein Roslein stehn, Roslein auf der Heiden,
歌い出す。
はて、と小首を傾げたこころが耳をすませていると、
「お先に」
気づけば右隣で弓が踊っていた。
右に左にと揺れる弓が奏でる調べは、女将の声と絡み合って一つの流れとなり、
「では三番手」
左隣の幽香がトン、とつま先で大地を叩くと、その足元から蔦が這い始める。
それらは見る見るうちに広がっていって、
――Roslein, Roslein, Roslein rot,
屋台の周囲に薔薇の絨毯を敷き詰める。
――これは……
ふわり、と風が舞うと、薔薇の芳香が鼻腔をくすぐる。
それは目の前にあるウィスキーの香りと混ざり合い、耳を流れる旋律と溶け合っていく。
五感を埋め尽くす圧倒的な情報量に酔っていたこころだったが、
ふと、三者三様の視線が己へと向けられていることに気がついた。
――??
その、視線の意味が分からない。
面を幾つか取り替えてみるが、結局は何も変わらない。理解が及ばない。
仕方無しにウィスキーを啜ってみたりもするが、琥珀色の液体もまた、美味以外の何も教えてはくれない。
「呆れた。貴女それでも楽師なの?」
ポツリと。
間奏中に呟かれた言葉がなぜか、こころの内に突き刺さる。
「そんなだからポッと出に油揚げを掻っ攫われるのよ」
「え?」
幽香の台詞に首を傾げ、女将の手振りに従って背後を振り向くと。
土手を下った先。見れば、川岸の一部が薔薇の絨毯から取り残されている。
恐らくは意図的、舞台として半円形に足の踏み場が残されたその場所に、誰かがいる。
数千数百の薔薇の向こう。
天より降り注ぐ月光と、それを複雑に乱反射する川面の光を浴びて、彼女は踊っていた。
僅かに欠けたる望月も。
鏤められたる綺羅星も。
天に湧き立つ入道雲も。
緑を撫で往く夏の風も。
全ては己を彩るための舞台装置にすぎぬのだ、とばかりに。
普段は薄衣の下に隠されている、妖艶かつ官能的なボディラインを主張するかのように、赤い薔薇の海より紅く。
踊り子が一人、月夜に踊る。
◆
歌唱が途切れ、演奏が終わり。
ひらり舞っていた人影もまた、ピタリと初夏の月夜に動きを止める。
続いて、『ワァッ!!』という歓声と拍手。
場の騒がしさが増したせいだろうか?
薔薇が織り成す絨毯の上には、今や大小さまざまな野良妖精達が集まってきていた。
瞬く間に周囲を席捲し、掌握した人影は残心を解くと、観衆の声援に小さく手を振って応える。
然る後に帽子を手にとって胸に当て、深々と会釈。再び拍手の嵐。
「お呼びでないわよ」
「呼ばれずとも!」
薔薇の絨毯を踏みしめながら、妖精達をモーゼのように切り開いて。
舞姫は勝利者の表情で土手に上がってくる。
「薔薇を踏むな」
「なら舞台だけでなく橋懸も残しておいてくださいな」
「飛べばいいじゃない」
「役者は花道を歩くものです。そうでしょう? 猿楽師」
怒れるフラワーマスターに臆する素振りも見えないのは、果たして空気が読めるがゆえだろうか?
……多分、その逆なのだろうが。
「だれ?」
「歌あるところ調べあり。調べあるところ踊りあり。天空よりの使者、永江衣玖と申します。以後お見知りおきを」
帽子を軽く浮かし、これまた軽い会釈をこころに返す。
皆が黙って椅子を少しずつ詰めた……後。長椅子の脇に停まっていた夏虫をルナサは指で救い上げ、フッと息を吹きかけて追い払う。
一仕事終えたような実に晴れやかな表情で、天女は空いたスペースに腰を下ろした。
「サングリアとサラダ。後はお任せで」
「……一応、うちは串焼き屋なんだけどなぁ」
日本酒か焼酎を頼んでよ、なんて女将はかるく一同を見渡すが、
「そう言いつつも常連の好みをキープしてくれてる女将は大好きですよ」
「はいはい」
結局は呆れたように肩をすくめると、ワインボトルのキーパーをポンっと引っこ抜いた。
ロックアイスを落としたグラスが心地よい音と共に、真紅の液体で満たされていく。
シトラスのさわやかな香りが……そろそろ色んな香りと交じり合ってカオスの様相を呈してきた。
「どうぞ」
「ありがとう……ああ、一踊りした後はやはりこれだ」
満ち足りた表情でコクコクと衣玖は喉を鳴らす。
永江衣玖がこの世で生きるためにはただ、これだけがあればよい。
そんな気配が周囲にギュンギュン伝わってくる振舞いである。
「で、貴女はなぜ舞わないのですか? 猿楽師さん」
カラリと軽快にグラスを揺らし、しかしこころに向ける視線は刺すようなそれ。
「貴方が先に踊ったからでしょうに」
「それは詭弁ですよ団長。私が踊らずとも、彼女は舞わなかった」
そんな視線から逃れるかのように、こころは猿面を手に取った。
「舞うことが楽しくないのですか? 貴女は」
装着しようとして、一瞬迷う。
「舞うことは楽しいの?」
「何を馬鹿なことを。決まっているじゃないですか」
そう応じてから、衣玖は何か考えるような表情を浮かべた。
こころが首を傾げていると、衣玖はサングリアをえいやっ、と一気に飲み干して立ち上がる。
「何がお望み?」
「団長のセンスで」
「歌っても?」
「もちろん」
また踊りに行くのか。
そんなことを考えていたこころは、急にバックドロップの要領で長椅子から引っこ抜かれる。
「な、何? 何のつもり?」
「お馬鹿な発言をした貴女には、罰として一曲付き合っていただきましょう」
「無理。私はダンスなんて分からない」
「いいんですよ、そんなのは」
もはや屋外ステージとして定着した感のある川岸にてこころを解放すると、衣玖はさらりとその手を取る。
もう片方の手をこころの腰に回して、
「まずは、これが基本姿勢」
微笑んで、ゆったりとステップを踏む。
そんな二人を目にして、未だ残っていた野良妖精達から、第二幕のこれあるを期待した歓声が上がる。
「本番は十分後です。皆さん、おひねりの準備、よろしくゥ!」
『はーーーーーい!』
「……さ、今のうちに練習しましょうか」
こころの頭越しに妖精達を追い払った衣玖は、ステップを踏みながら、
「これがチェンジ」
腰から手を離し、高く掲げた逆の手を潜って半回転。
再び逆回転して元の位置に戻る。
「そしてスピン」
こころの手を離してその場でくるっと一回転。
赤い羽衣がふわりと羽毛のように宙を舞う。
「以上です」
「少なくない?」
「無論、これ以外にもいっぱいありますが、とりあえずこれだけあればダンスっぽくなりますので」
むむっと唸っていると、さっそくルナサが演奏を始めてしまう。
動揺して、たたらを踏んだ状態から開始とは縁起が悪い。
「まって、ちょっとまって」
「ええ、舞ってますよ」
制止するこころの声は無視し、しかし動きは相方に合わせてゆっくりと、かつ優雅に衣玖はステップを踏む。
それに追従する足運びは、お世辞にも優雅とは言い難い。
「上手く踊ろうなんて思わないでください。それはもっともっと先のことです。いいですか?」
こころの腰から手を離して、ゆるりと優雅に一回転。
「ダンスの根幹は技術ではありません」
すっ、と一度手を取って、すぐさま離す。
それが何を意味しているのかなんとなく分かったから、こころもまた不器用ながらもくるりと回る。
再び手を取った衣玖はよくできました、とばかりにこころの腰に手を回して、ギュッと抱き寄せる。
鼻の頭が触れ合わんばかりに顔を近づけて、にっこりと。
「ダンスは、楽しむものです。それが全てですよ」
囁いて、ステップを踏む。
――ダンスは、楽しむもの。
そう言われても、こころは少しも楽しくなんか踊れてない。
このステップで合っているのか? 右、左、右ときて、どうして右へ行くコノヤロウ。
どうして私が一回転する間にお前は二回転してるんだコンチクショウ。
さりげなく私に体重を預けるな。こいつ筋肉がしっかりついてて地味に重い。体脂肪率10%以下に違いない。
ああ、もしかしてこいつはプロポーションを維持するために食事制限でもしているのだろうか。
そんなことばかりが頭をよぎって、少しも楽しくない。
ふと周囲を見回すと、目に留まるは少しずつ数を増やしていくセニョリータスの視線。
興味に貪欲で情熱的。ともすれば純粋に好奇のみを追い求めるさまは威嚇的ですらある。
そんな視線を集めるのは、一つのペアとなって踊るステージ上の二人。
……いや、その表現は世辞がすぎるだろう。
正確には、視線を集めているのはただ一人。この状況を作り出した永江衣玖その人だけだ。
――私はダンスは初心者だから、仕方ないもん。
そんな風に心中で言いわけして、思う。
ならば、能楽ならどうなのだ?
能ならば、己はこの、情熱的に踊る永江衣玖のように妖精達の視線を集められるのか?
……無理だ、無理無理。無理に決まっている。
――客寄せにはならなかったけれど
さっきの時点でそれはもう証明されているじゃないか。
こころの舞には人を惹きつける魅力がないのだ。魅力があれば、妖精達はその時点で集まってきたはずだ。
……いや、そんなことはない。
今、永江衣玖は一人で踊っているわけではない。
女将の歌唱があって。
先輩の演奏があって。
憎いあんちくしょうの花舞台があって。
それらが混じり合い昇華されて、この状況を作り上げているのではないか!
――だったら、私にだって、できるもん。
むくむくと、心の奥底から緑目も怪しく輝く毒蛇が鎌首を擡げてくる。
ルナサ・プリズムリバーの演奏が、暗い情念をグラグラと揺すぶってくる。
ここ数日、こころは負けっぱなしだ。
神道に負けて。
仏法に負けて。
道教に負けて。
無宗教に負けて。
もう負けるのは嫌だ。
どいつもこいつも言いたい放題言ってくれて。
悩む己をボッコボコにして、人々の視線を掻っ攫っていくのだ。
そうとも。
敗者は地に落ちて、視線を集めることもできない。
能楽師たる秦こころにとってそれは屈辱。それは憤怒。それは嫉妬。それは怨嗟。
勝つのだ。
勝って、奪い取れ。
視線を。
興味を。
希望をこの手に。
耳を捉えずして何が謡か。
視線を集めずして何が舞か。
興味を惹けずして何が能か。
笑いを取れずして何が狂言か。
周囲を見回してみろ。今なら最初から観客が集まっているぞ。
◆
さあ、秦こころよ。仕切りなおしが必要だ。お前はなんだ。何者だ。
――能楽師だ。
何のために仮面を被る。
――感情を操作するためだ。
仮面で、感情を操るのか。
――逆。能楽師の舞が、謡が。表情を変えぬ仮面に、感情を乗せるのだ。
笑わせる。我々は付喪神だ。仮面こそが本体だろうに。
――否。我は新たな妖怪として自己を確立した、面霊気なるぞ。
……ならば、お前はなんだ。何者だ。
――我は、我こそは!
唐突に、理解した。
こころもまたヴァイオリンである。
この内にある旋律を封じ込めたまま、ただの
趣くままに心を一本、そこに通して奏でるのだ!
「秦こころなるぞ!!!」
◆ ◆ ◆
「我こそは秦こころなるぞ!!!」
ドン、と大地を踏み締める。
下は檜舞台ではなくて緑薫る川岸。踏みつけたとて音は出ないはずが……
鈍!! と。
木戸を木槌でぶっ叩いたような音が響き渡ったのに続いて、ボッ、ボッ、ボッ、と。
右手に三つ、左手に三つ。
かがり火が焚かれ、川岸のステージをゆらゆらと照らす。
ほうっ、と虚空を見つめるこころの目に映ったのは、ルナサと同じような衣装を纏った二人の騒霊。
「へっへー、どうよ! さっきの音は? わりといいセンいってたとユー思っちゃわない!?」
「イィヤッホォオオーッ! 久々のゲリラライブゥ! 照明も設置したし、燃えるわぁー燃えてきたわぁ!!」
「設営ご苦労様。蟲の知らせがちゃんと届いたようで何より。さあ、奏でようか」
ルナサを始めとする楽団員はそれぞれが手に楽器を手に、川縁ぎりぎり、後座に腰を下ろす。
見れば踊りの相方を務めていた永江衣玖もまた、憎いあんちくしょうを連れて、彼女達の近くに座してくれている。
――演目は?
屋台を放置してこちらに来てくれた女将に目で問われて、そっと口を動かす。
コクリと頷いて、女将が凛とした声を響かせる。
「それでは、これより開演の運びとさせていただきます」
(さあ、こころ。準備はいい?)
いかなる技術なのだろうか? こころの耳元にルナサの声が小さく届けられる。
周囲をチラリと見回しても、他の誰にもその声が聞こえている風はない。
そんな、囁く声が、
「シテ、秦こころ。ツレ、永江衣玖。後見、風見幽香。地謡、ミスティア・ローレライ。囃子、プリズムリバー三姉妹」
(そう、迷うことなんてない。どうせ私達アーティストというものは、度し難いまでに愚かしいのだから。哲学者ではいられないがゆえ、感情を、己の内面を世界へ解き放たずにはいられない。奏者も、歌手も、花師も、舞姫も皆同じ穴の狢)
こころの内に染み込んで、その内情を掻き鳴らす。
そう、感情の平定なんてものは不要。
厳粛も禁欲も無意味。波打ち、荒れ狂って止まない心こそが原動力。
「開演に先立ちまして、ご参集の皆様方に一つお願いがございます」
(芸能というものに貴賤の区別なんてない。あるのはたった一つ。楽しめるか否か、それだけが全て)
観客の歓声が。
観客の笑い声が。
観客の拍手が。
観客の感心が。
礼賛こそが芸能者の力。
「他の皆様の迷惑にならぬよう、ポケベル、MOVA端末はマナーモードに設定するか、電源をお切り頂けますよう、ご協力願います。と、言うか切らないやつは帰れ」
(さあ魅了しよう? こころ。観客の目に、耳に、私達以外を認識させちゃいけない。会場を統べて、纏めて、思うがままに我がままに)
もとよりこころはそのつもりだ。
さあ、私の舞を見ろ。
私の謡を聞け。
宗教なんて必要ない。私の心の中にはすでに神がいて、その神の声に従っている。
現世も来世も、善も悪も、徳も仁も義も慈も関係ない。
「それでは、『暗黒能楽――心綺楼――』。心ゆくまでお楽しみください」
心の修行も悪くはないが、そればっかりでは息が詰まる。そんなときこそ我らが出番。
一時の安楽を求める者達に、享楽を与えることを悦楽とせよ。
「楽」を生み出す者こそが、アーティストだ!
重心を落とし、扇を手にして、
――これはこの辺に住まい致すものでござる
秦こころは楽を舞う。
己が心の世界を見せるために。
――藍様藍様、申し申し
――何事じゃ
――巫女が巫女が、負けてしまいそうにござる
――負けてしまいそうと申すか。どれ、ならば少しばかり賽銭をまいてきやうぞ。軽いややゆえ、それで浮かび上がろうて
世界に享楽を振りまくために。
――やい物部よ、我はどうして勝てぬのか
――あなや太子様、あなや太子様、申し上げ難きに存じますが
――だんないだんない、申すがよいぞ
――この際、外套を赤く染め抜いてはいかがと
己が楽しみを生み出すために。
――入道冠者、入道冠者
――何事にござる
――我は斯様に勝ちつつあるのに、なぜに御仏の信仰が増えぬのか。これは合点のいかぬことじゃ
――いや、いや、信者は増えておりまする。阿闍梨の双丘は今も信者を集めておりますぞ
己が心で世界を魅せるために。
――夜遊の舞楽も時去りて
――夜も明け白む時鼓
――今宵お見せしは心綺楼
――心が織り成す泡沫の夢
◆ ◆ ◆
ひときわ高く響いた鼓の音と共に、ヒタリと残心、舞い終える。
全て出し切れただろうか? 拍手と歓声が今も鼓膜を叩いているから、できたと思う。
なんとなく先程の衣玖のときより拍手が少ないような気がするのは、やはり悔しくもある。
だから、もっと上手くやれるはずだ、とも思う。まだまだ、もっと見せたい。もっと魅せられるはずだ、と。
胸の内に去来する様々な感情の奔流に揉まれていると、背中をトン、と叩かれる。
「お疲れ様、こころ。どうだった?」
楽しかった、ありがとう、と。
協力してくれたルナサ達に礼を返そうとして、しかし。
こころは心の赴くまま、ちょっとひねくれてみたくなった。
「後見が何もしてくれなくて、私は実に悲しい」
「やかましい。と言うか貴女、妖精相手なんだから口語で謡いなさい。そんなんだから魚ごときに負けるのよ」
「ぐっ……」
ま、その程度の皮肉なんて容易く弾かれてしまうのだが。
おひねりのつもりなのだろうか? さっきから木の実や果実などが飛び交うステージで、芸術家達は七種七様に笑う。
さすがに茸がべちっと顔に張りついたのは気持ち悪かったが、そこはぐっと我慢だ。
だって、観客が、
「笑ってる。よかった」
「こころも」
「え?」
顔に手を当ててみるが、よく分からない。
それはそうだろう。表情の変化など体感したことがないのだから。
「女なら鏡の一つくらい持ち歩きなさいな。ほら」
幽香がポケットから手鏡を取り出して、ひょいとこころに投げ渡す。
受け取り、己の顔を写してみて、ああ。
「ひどい顔だ」
初めて浮かべた笑顔は、唇が引きつっているだけにしか見えなかった。
「いずれいい笑顔になるわ」
思わず嫉妬したくなる位に可愛らしい笑顔で、女将が皆に何かを手渡して回る。
手に取ったそれに視線を落とすと、それは小さなシャンパンボトルだ。
「大盤振る舞いですね。よろしいのですか?」
「後でみんな、おひねりの回収手伝ってね。木の実と茸はおつまみに、果実は漬けて果実酒にするから」
「女将しっかりしてるぅ!」
「姉さん達が私の分まで頑張りまーっ……ちょっと待ひでぶ!?」
この場合、非難されるべきはサボろうとした妹か、はたまた妹の頭におひねりの西瓜を叩きつけた姉か。
だがまあ、特に理由のない――以下略。何も問題はあるまい。
誰もがそれをスルーしたし、こころもめでたくこれでスルーを覚えたようだから、言うことなしだ。
「で、何に乾杯するのかしら?」
「夕日だ!」
即座に返された答えに、幽香を筆頭とした四人が馬鹿にしたような目線を投げつけてきた。
残る二人は顔を見合わせて小さく苦笑している。
「それはまた次の機会に。できれば今ここにあるものにしよう」
「ここにあるもの……」
こころは考え込む。
今この場にあって、かつもっとも尊いものはなんだろうか?
……そんなの、決まってるじゃないか。
「乾杯しよう!」
ヒクリと、引きつったような笑顔を浮かべて。
「みんなの笑顔に、乾杯!」
「「「「「「乾杯!」」」」」」
狙いすましたかのように、六つのコルクがこころを襲う。
「新人イジメ反対~!」
「「「アハハハハハ!!」」」
たまらずこころは頭を抱えて舞台から退散する。
そうやって舞台を乗っ取った、
「さあ、プリズムリバー楽団は主役を譲っちゃったせいで未だ欲求不満よね?」
「もち! いっちゃう?」「いっちゃえ!」
三姉妹が楽器を片手にシャンパンボトルをくいっとあおる。
片手が塞がっていたって、どうせ彼女達の演奏には支障はない。
「私も些か踊り足りませぬゆえ、共にイかせていただきましょう」
天女はいつだってクライマックスだ。
これ見よがしにくびれた腰をクイッと捻って天を指す。
「落ち着きのない奴ら。女将、戻って白州12年ダブル、ロックで」
「……空けるの早いよ、幽香さん」
杯が乾く速度は、感情の揺れ幅とイコールだ。良くも悪くも。
《さあ、ベイビー!》
「「Ola, nina! Ea! 」」「しからばこれよりエキシビジョン。みんな、おひねりの追加は持ったかな?」
『オオオオォォォオオーーーー!!!』
妖精達も準備万端。今が栗や胡桃の旬でない初夏で実によかった。
「よし。先のを踏み潰しちゃ勿体ないから、ここからは空中ライブで。それではエキシビジョン『プリズムセッション』……」
「「「開幕!!」」」
「イィイーヤッホォオオーーーウ!! ようやく主役が回ってきたぁ!!」
「ちょっと姉さん! テンション高すぎィ!! 合わせらんねェエエ!」
セッションなんてどこへやら。三姉妹が好き勝手に楽器を奏で始める。
無茶苦茶なメロディにもかかわらず、天女はそこいらの妖精達と手に手を取って、空中でも見事な舞を披露する。
屋台の長椅子から川岸を見下ろす花師が指を鳴らせば、あら不思議。花の赤と蔓の緑、二色だけだった絨毯に薄桃、白、黒、黄の色が差す。
女将はいつもどおり。屋台の中で幸せそうに歌を口ずさむ。
◆
そして、こころはと言えば。
「青薔薇がないわ。行ってきなさい」
眼前に広がる世界の美しさに見とれ、自然と湧き出してきた涙を袖で拭った後に、うん、と頷いて。
扇を両手に、
「我こそは、秦こころなるぞぉお!」
抒情的な、酔わせるような、なめらかな、情熱的なセッションの一つとなるべく、舞台上へと踊り込んでいくのだ。
~終幕~
リグルは地味にご苦労様
ところで冒頭のマミゾウさんのふいんき(なぜかryは意図的?
ゲージュツは楽しむものであるという結論は、それもまた是であるが、
まるきゅーとしては、抑制も必要だと感じる
無表情→アマゾンだから良いのであって、
アマゾン→アマゾンでは助走のないジャンプのようなものだからだ
また、苦を表現するということも、それはそれでありだと感じる
あえて言えば、ゲージュツとは美しいものを表現することにある……ような気がしている。
苦しいのも場合によっては美しい。
幽香にぶん殴られたりするのも、美しいし、ゲージュツだ。
構成からすれば、無表情→アマゾンなので、作者さんは無意識的にかあるいは意識的にかはわからないが
無表情→アマゾンの変遷こそが美しいと感じているのではないだろうか。
それにも関わらず、アマゾン部分にだけ目を向けているように感じた。
だから、こころちゃんが心ゲットしてよかったねという意味では確かにそうなのだが、
その結論にはちょっとだけ否定したい気分も含まれていたりする。
図解すれば
無表情→アマゾンの『アマゾン』部分がゲージュツだと感じているのが作者さんで
無表情→アマゾンの『無表情→アマゾン』部分がゲージュツだと感じているのがまるきゅーである。
誤読かしら。
素晴らしかったです!
手鏡は貸したんじゃなくてあげたんでしょうね。そう思っておきます。
しかしこの作品に限らず、そもそも原作もですが、みんなに寄って集って優しくされるのがこころちゃんの役割となってるみたいですね。
思わず優しくしてあげたくなるってのが、あの子の魅力なのかもしれませんね。
幻想郷のいろんなひとが投げたサイコロは、いつか角が取れて丸くなって、元々持っている彼女自身の色や形になれたら素敵ですね。
「ヘェーラロロォールノォーノナーァオオォー!」には爆笑してしまいました。
やっぱり最後は盛大に、華やかにお祭り騒ぎですね。
表情は変わらずとも感情豊かでリアクションがころころ変わる
こころちゃんの様子が見えました。
また、サラリと雛お姉さま言われたり、熱情の律動が出たり、お堅そうな古語で
コメディじみたこと言ってたりでクスリときました。
そして安定の後書きクオリティ。芸達者オールスターのラストスペルは
虹のように様々な色が伺える最高の楽舞なんでしょうね。
踊りにとことん人生捧げちゃってる衣玖さんかっこいい
もっと楽しく活動してほしいものです。
観客に心綺楼の自機メンバーが居ればもっと盛り上がると思うけどな。
こころちゃん、可愛くてかっこよかったです。
良い作品でした。
ただ、蝶変人は聞き捨てならないな。
もっと適切な表現はなかったのか。
その辺で減点いたします。
ほんとに聞き捨てならないな(怒)。
こうした芸術家とふれあい、一緒に活動をすることでこころが感情に気づいていくというのは実に素敵だと思います
みんな格好良かった!
しかしなんてひどい暗黒能楽だ(概ね褒め言葉)
どいつもこいつも皆魅力的。いいなぁ!
こころ、これを機会に変われるといいね。
芸術家たちの感性とプライドに惚れ込みます。絶対の自信。鮮やかな色彩。豊かな記憶と経験。六感を全開で使って得た経験と感情が、人を惹きつけるのでしょう。そう考えれば、こころが最初にルナサに目をつけたのは正しかった。
とても熱くて、愉快で、素敵な作品でした。大好きです。