例えば私が猫になって
あなたの膝で転がったら
あなたは柔らかく微笑んで
優しく撫でてくれるだろうか
煙がひとすじ揺らめいて浮かんで、空気に混じって消えた。けだるい熱に包まれた、夏の夕闇が辺りを覆った。
裏庭に面した廊下の端で、マミゾウは座り込んでいた。夕食が出来るまでの退屈な時間を、煙草をくゆらせて過ごしている。
近頃は連れ合いがいる。マミゾウの膝に上がり込んでいる、首輪もつけていない真っ黒な獣。人に慣れた、餌を欲しがって近寄る黒猫。飼っている訳でもなく、よその猫という訳でもなく、気ままに生きているようだ、とマミゾウは決めつけている。マミゾウもまた(恩義には報いるだの、集団生活ではルールを守るだの、人くさいところも持ち合わせてはいたが)猫のように気まぐれだから、猫に餌をくれてやったりやらなかったりしながら、暇潰しに付き合ってやっていた。
少しばかり悪戯な気分の時は、持ち上げてみたり、しっぽがゆったりと動くのを遮ってみたり、猫を玩具にしてしまうこともあるが、気分の乗らない時は、猫のしたいように、膝の上に転がるままにしておく。
煙管の脇から漏れる煙が、細くゆっくりと空中にたなびく情景をぼんやりとマミゾウは眺め続けている。
ふ、と気付くと、隣に聖白蓮がしゃがみ込んでいた。猫を見つめている。
「近頃、良く一緒にいますね。その猫」
マミゾウが答えないでいると、白蓮は無遠慮に猫の頭を撫でた。白蓮の掌の動きに合わせて、猫の耳がぐりぐりと押しのけられて動いた。慣れている猫だったから、嫌がるでも暴れるでもなく、されるがままにしていた。
しばらく、猫はそうしていた。白蓮もそうしていた。マミゾウも、一人と一匹に構うこともなく、したいようにさせておいた。
「マミゾウさーん、ぬえさーん、聖さーん、ごはんですよー」
「あっ、いけないいけない。マミゾウさん、ごはんですよ。呼びに来たんでした」
「そうだと思ったよ」
「こっちにぬえは来てます?」
「いや、見とらんのう」
響子の声が聞こえて、白蓮が立ち上がる。マミゾウも猫の腹をぐいぐい押して、足から飛び降りるのを待って、よっこいと立ち上がった。
一輪ははーと溜息をついた。家計、お布施、出費に入費……寺の会計は星が空き時間を見つけてするようにしているけれど、勿論一人では追いつかない。星一人にやらせているのも悪いという気持ちもあって、一輪は手伝うようにしていた。寺のこまごまとした雑務もあるし、修行だって勿論怠ってもいられないのに、手の空いている奴も手伝ってくれない。例えばよくぼうっとしてる新入りの二人とか……
仕事が一段落した一輪はそんなことを考えながら廊下を歩いていると、縁側に猫が転がっているのを発見した。股を大きく開いて、首をいっぱいに伸ばして、ちろちろと舌でもって足の毛繕いをしていた。猫は首をゆらりと動かして一輪の姿を見、何事でもなかったようにふいと毛繕いに戻った。一輪がしゃがみ込むと、猫はもう一度一輪を見た。
(お前のことなんてどうとも思っちゃいないんだ。撫でたいのか? 俺は逆らわんぞ、勝手にしな。痛くしたら承知しないぞ)
そんな風に言っているように一輪は思った。猫はどんな猫でも、いつだってふてぶてしい。あからさまに怯え逆らう奴でなくても、自分の方が偉いと思っているかのようだ。一輪は猫よりも分かりやすく懐く犬の方が好みだった。昔は時々食べたなあ。飼い慣らせば猟もできて、飯に困ったら絞めたらいいし……雲山は鈍くて肉の多い人の方が好みだったかな。ぼうっと考えながら、猫を自然に撫でていた。物騒な一輪の考えも、猫はおかまいなしだ。自分勝手に毛繕いを続けている。一輪が喉を撫でると、気持ちよさげに目を細めた。
一輪は割合しっかりしている。気ままな連中……聖も申し訳ないが一輪からすれば組織の運営やらということには無頓着で、方針を示すという意味合いとしての長ならそれでよいのだけど、優しい言い方をすれば気ままだ。星はしっかりしているけれどどこか抜けているところがあるし、ナズはいつまで経ってもよそよそしいところがあるし、村紗は聖以外はどうでもよく見える。新入りのぬえとやらとは仲が良くないみたいだけど。新入りの二人組、ぬえとマミゾウは二人してよくサボっている。やれやれ、と一輪は思う。
一輪がしっかりしているから、皆が安心して抜けていられるのだ、という考え方もできる。一輪は一人でも生きていられた。聖に出会い、聖が人間と妖怪の中間にいる危うい奴だと気付いた。同時に、聖といると、自分の居場所に悩まなくていい。そういう風に考えている自分に、一輪は気付いた。
妖怪を恐れなくなった一輪は、人間でも妖怪でもなかったからだ。彼女は一人になった。
……そうは言っても、元々一人だから。寂しいと思うことも少なかったのだけど。聖についていくようになってから、そんなことを考える暇もなくなった。聖はいつでも、一輪を楽しませてくれる。
……一輪がぼうっと、何も考えずに猫を撫でているうちに、猫は毛繕いを済ませて、ぐだりと身体を横たわらせて、一輪が撫でるままに、したいようにさせていた。
一輪が廊下でしゃがんで猫を撫でているのを、廊下の端から村紗が見つけて、声をかけた。
「あっ、一輪。ぬえを見なかった?」
「んー……見てないよ」
一輪は猫を撫でながら、心ここにあらずという感じで答えた。村紗はもう、と呟いて、またぬえを探しに行った。
身体を突然ぐいっと持ち上げられても、猫は慌てふためきはしなかった。自分を持ち上げたものの方をぎろっと見た。
首元の皮を掴んで、猫を自分の視線のところまで持ち上げたのは寅丸星だった。星は力のある妖怪なのだけど、昔から力の使い方を今ひとつ分かっていないところがある。昔から一緒にいた聖は星がいくら全力で接しようと普通に受け止めてしまえるし、一輪は頑張って耐えている。村紗は少し沈んだ雰囲気があるから、星の方でも全力でぶつかるということはしない。ナズーリンはというと……さっくりと言うと愛情の一言になるのだが、星の方では、『ナズは私のすることを嫌がったことは一度もない』からということになる。勿論、小言はいつでも言われているのだが……それとこれとは、星の中では別らしい。
星は猫を興味津々な目つきで眺めた。勿論見るのは初めてではない。星は何か面白そうなものを見つけた時、いつもこんな目つきになる。
いくら懐っこくても、嫌がって猫は暴れた。星はおかまいなしにぐわしと脇腹を掴んだ。猫が悶絶して鳴き声を上げ、手に爪を立てても、星の方ではじゃれているように思ったらしく、膝を突いて腹に顔を埋めた。肘も突いて、四つん這いになって、猫の腹を舐めた。星にとってはじゃれているつもりでも、猫の方ではたまったものではない。
廊下の端で四つん這いになっている星を見つけた時、やれやれまたご主人はとナズーリンは歩み寄った。
「何をしてるんだ、ご主人。廊下で転がって。服が汚れるじゃないか」
「あ、ナズ」
星の持っているものを見た時、ナズはひっ、と怯え声を上げた。嫌がって、廊下に爪を立てて逃げようとしている猫を、星が馬鹿力で掴んでいる。
「こ、怖くないぞ。普通の猫じゃないか」
「どうかしましたか? 可愛いですよ」
「うひっ」
猫はぶん回されてふぎゃーと悲鳴を上げた。ナズーリンの目の前にぐわっと飛んできた(ようにナズーリンには思えた)猫を見て、ナズーリンも悲鳴を上げた。でもナズーリンはなんとか震える声を抑えて、目を逸らしながら、主人に忠告した。
「ご、ご主人、嫌がってるじゃないか。離しておあげよ」
「でも、さっきまで楽しく遊んで」
「嫌がってるんだって」
うーん、と考えながら、星は猫を離した。空中から支えを失っても、猫は本能のままにぱっと着地して、自身を縛るものが何もないと分かると廊下を飛ぶように駆け抜けていった。
行っちゃった、と星が呟く。
「行ったんじゃなくて、逃げたんだ。ご主人は乱暴なんだ。小さいものをいじめるんじゃない」
「いじめたんじゃなくて、可愛がってたんです」
「あんなに暴れてたのに」
「ナズにいつもしてるようにしてただけなのになあ」
ナズーリンが黙り込むと、星はどうしたんです、と顔を見た。何でもない、とナズーリンは顔を背けた。
「そう言えば、ご主人。ぬえを見なかったかい? 村紗が探してたみたいなんだが」
「そうなのですか? 見てないなあ……そのロッドで探してみたらどうです?」
そうだね、それもいい。退屈な時に試してみよう、とナズは答えた。
廊下の隅で、マミゾウがぼうっとしているのは、もはや命蓮寺の人々にとって見慣れたものだ。その膝元でごろごろと休む黒猫も。
その隣に聖がいるのは、ちょっと珍しい光景と言えた。マミゾウは煙草を吸って、聖は近頃居着くようになった小動物が可愛いらしく、マミゾウの膝の上の猫をしきりに撫でている。
元々、マミゾウは聖が呼んだ者ではない。聖の方では来る者拒まず、マミゾウの方では呼んだ張本人のぬえと聖の間に齟齬が合ったらしいことを知っているだけで、呼ばれたのだから来たと大きな顔をして、平気でいるから、互いが微妙な間柄であることを伺わせるものは感じられない。マミゾウの膝の上で安らぐ猫のように、自然な空気を漂わせている。
ぬえが、聖とマミゾウを繋いだ。奇妙な巡り合わせだとマミゾウは思う。一方は人の身でありながら人から背かれて封じられ、一方は獣の身でありながら人の姿を得、人に混じって人の世に存在した。一方は人に封印を解かれ、一方は妖怪に誘われて幻想郷に来た。聖に会うまでは自身の巡り合わせを考えもしなかったし、ぬえもぬえ自身が巡り合わせた二人のことについて、深く考えることはなかっただろう。
「ぬえのことを考えていました」
「儂もじゃよ。可愛い奴じゃ、あいつは」
くすくすと聖は笑い、猫の背を撫でた。
「寂しがりじゃ。あやつはお主の為に儂を呼んだとかぬかしておったがの。正直なところ、寂しかったんじゃろ」
「ええ。そうかもしれませんね。あの子のすることはいつも逆回りする。良いことも…悪いことも……」
「トラブルメーカーじゃ」
「外から来た方は色んな言葉を知っているのですね」
煙を吐き出して輪っかを作ると、煙は魔法のように変化して、ぬえの背の羽根の形、蛇、それからぬえの顔の輪郭を描き出して、爆発するようにぼやけて消えた。聖がぱちぱちと拍手した。
「あやつはいつでもそうだった。顔を出すだけで騒ぎになる、昔からそうじゃ」
「だからいつも、誰もが怯えて、遠巻きで……迫害されて。今は誰かと居られる分良いのかも知れないですけど」
「さてさて。どうかの。近しいと深まるものじゃ、理解も不理解ものう」
ところで、知っています、と聖はマミゾウに声をかけた。
「うちの村紗と……ぬえが、古い知り合いだってこと……」
「うむ、薄々は聞いておるよ。何か…ぬえは隠しておるようじゃが…ただならぬ仲らしいのう……」
二人してうひひひと、内緒話をする二人らしい嫌らしい声をあげた。変化の少ない幻想郷では、ゴシップはいつでも大歓迎なのだ。
「好きなのかしら? ぬえちゃんから何か聞いてませんか? 面白そうなこと……」
「さあてどうかのう? ぬえもそこまではっきりとは吐き出さんのう」
「またまた、知って隠しているんじゃないですか……?」
二人の後ろで、襖が開いた。足音がして、聖、と足音の主は声をかけた。
「聖、すみません、ぬえを見ませんでしたか?」
二人は一瞬背後に立った姿を見て、にやりと顔を合わせた。
「噂をすれば」
「だの」
「?」
村紗は、疑問符を頭に浮かべて、二人を見た。
村紗は、ぬえのことが好きだった。
そんな風に、明確には言い切れないかも知れない。村紗が想っている、ぬえの姿は、地上で聖の復活を邪魔した姿、命蓮寺に現れて仲間になりたいと言った姿よりも、ずっともっと昔……遠い昔、村紗が一人、地底でただただ泣いていた時……ぬえがずっと、側にいてくれた時の姿のままだ。村紗の想うぬえの姿は、その時から全く変わらないのだった。
ぬえの方では、もっと単純だった。ぬえにとっては、村紗はいつまでも、あの時泣いていた村紗のままなのだ。
ただ、ぬえは臆病だから。村紗の側にはいたいけれど、聖の復活を邪魔したことが、村紗に悪いことをしたと思っている。側にいたい。でも、ぬえは臆病だし、村紗は怒っていると思っている。
だから……
聖とマミゾウに挟まれて、村紗は座っていた。
「ぬえのことを探しているの?」
「ええ。あいつもう一週間ほど姿を見せてないんです」
「心配なのか?」
「そうじゃない」
マミゾウの言葉を言下に否定して、ただ、と言いにくそうに声を潜めた。
「あんまり自分勝手だから。聖を復活させるのを邪魔しておいて、寺に居着いて……それでまた勝手に出て行くなんて」
「あらあら」
「あらあらじゃありませんよ。聖に喧嘩を売ってきたらと思うと……」
これは確実じゃないですか奥さんと聖が声を潜めると、そうかもしれん、じゃが確信するには時期尚早じゃとマミゾウも声を潜める。
「何をこっそり話してるんですか」
「まあまあ」
「まあまあ」
「もう……」
それで、とマミゾウは先を促した。
「村紗とやら、お主はぬえを探してどうしたいのじゃ」
「別にどうこうって訳ではないけど……変なこと考えてるなら、やめさせないと」
「変なこと……のう。あやつは大概変わっておると思うがのう」
「いや……変だけど、悪い奴じゃないんだから。聖のもとできちんと修行したら、あいつだって普通に過ごせると思ってて……」
「お主はぬえのことを考えておるんじゃのう」
「な」
「その割には、仲良くしておる風でないのが不思議じゃ」
「だ、だって」
肩を落として、村紗は俯いた。
「あいつは聖の復活を邪魔した」
「気にしていませんよ?」
「私だって、もう許してるんです。終わったことだし……でも、ぬえが気にしてるんだ。ぬえの方で、私を避ける」
「そうかのう。まあ、ぬえは不器用だからの」
マミゾウは膝の上の猫を一つ、撫でた。猫はくぁぁとあくびをした。マミゾウが猫をひょい、と持ち上げて、村紗の膝の上に置いた。
「まあまあ猫でも撫でてやりなよ。落ち着くよ」
ううん、と村紗は考えた。村紗は誰にでも遠慮をする。猫に対しても、いいのかな、という気分がある。
村紗は拒む、という性質がある。水死した瞬間の恨みが成仏を拒み、人を集めては、その魂が成仏して、自分の元から去ってゆくのをまた拒み、そして自身が死んでいることを拒み……受け入れたのは、聖が最初だった。
というよりも、聖が村紗を受け入れた。村紗に与えられた聖を、何度も村紗は拒んだ。だけど、聖は死にもせず、成仏もせず、ただ村紗に自身を与え続けた。
聖に付き従うようになっても、村紗は聖に依存している部分がある。
村紗自身が誰かを受け入れることができない。だから、誰かが胸襟を開いても、踏み込むことができない。地底で出会い、言葉を交わした封獣ぬえに対しても、そうだった。
猫は村紗を見上げて、にぁ、と鳴いた。猫がいいよ、と言ったようだった。村紗が手を伸ばして額に触れると、猫は気持ちよさそうに瞳を細めた。
一度、二度、額と首元を往復すると、猫は身体を持ち上げて、村紗の元に入った。小さく驚きの声を上げて、村紗は猫を受け入れた。猫を両手で抱くと、暖かさが村紗の身体に直接伝わった。
村紗は何だかそれだけで満たされた気分になって、両手で猫に触れていた。片手で手持ち無沙汰に猫の身体を撫でながら、ずっとそうしていた。
例えば私が猫になって、
あなたの膝で転がったら、
あなたは柔らかく微笑んで、
私の肌を撫でる。
あなたはそれで満足し、
私もそれで満足する。
言葉を交わすこともなく、
煩雑な事柄を思うこともなく、
撫でさする行為をその場でおこない、
私は秘やかな充足を受け取る。
私は思考も何もかも捨て去って、
自分が何であったかも捨て去って、
この場にいる私とあなただけを残し、
世界を私とあなたで埋めてしまいたい。
……だけど、私は欲張りだから、
もっと村紗を求めている。
ねぇ。
いっそ互いに獣になって、交わってしまいましょうか?
村紗、こないだ、猫、いたでしょう。
あれ、私だよ。
聞き捨てなりませんな
ほのかなびゃくいちの可能性も最高
むらぬえの良さってこういうことなんだなと思う
ああいうほのぼのとした雰囲気は私好みです。
素敵な作品でした。
それとマミゾウと聖の会話が個人的にツボでした。
あの雰囲気とてもいい。
いいものを読ませていただきました。
ぬえがいつ出てくるのかと思ったら…!
素直じゃない二人に乾杯。
面白かった。
さっさと結ばれてしまえ!
ぬえが出てきていないのにぬえがメインのSS。これがまず面白い。
命蓮寺の面子全員……あ、響子は居ないな……にスポットが当たって、それぞれの立場が出ているのも良いです。