幻想郷には、多々良小傘と言う、ちょっと変わった妖怪がいる。
「よ~し……!」
時刻は夜中。とある人里の裏道にて。
闇に潜み、隠れた彼女は、明るい通りからこちらに向かって歩いてくる酔客を見つけた。
暗がりに隠れて息を潜め、彼らが目の前を通るところで、
「おばけだぞ~!」
と、飛び出してみるのだが。
「おお! かわいいお嬢ちゃんじゃないか!」
「こんなところで、こんなかわいらしいお嬢ちゃんに逢えるとは、俺達、運がいいや!」
「わっはっは!
お嬢ちゃん、もう夜も遅いからな。気をつけて帰るんだぞ~」
――と、見事に相手にもされなかったり。
「今度こそ……!」
時刻と場所変わって、人里から延びる細い街道。
そこの草の陰に隠れた彼女は、目の前を子連れの母親が通りかかったところで、
「おばけだぞ~! がお~!」
と、飛び出してみるのだが。
「うわぁ、お姉ちゃん、この傘かっこいい! 僕にちょうだい!」
「へっ? あ、いや、あの……」
「こら、ダメでしょう。お姉ちゃんの大切なものを欲しがったら。
すみません。悪い子で。ちゃんと、あとで言って聞かせますので」
「あ、は、はい……」
「ほら、お姉ちゃんにばいばいしましょうね」
「うん! お姉ちゃん、ばいば~い!」
「ば、ばいば~い……」
――と、何だか子供に懐かれたり。
「さ、三度目の正直っ……!」
またもや場所と時間変わって夕暮れ時。
足下に長く伸びる影。その影が、ゆぅらりゆらりと揺れながら近づいてくる。
影の数は三つ。うち一つは形が小さいため、きっと子供だろう。
「おばけだぞ~! が……!」
「……あら、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの言う『おばけ』っていうのは、もしかして、こんな顔なのかな?」
飛び出したら、いきなり目の前にのっぺらぼうが現れて、『ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?』と悲鳴を上げてへたりこんでしまったり。
「こら、ぬえ。他人を脅かすなって言ってるだろ」
「え~? だって、こいつ、驚かすと面白いし~」
「ぬえ、ダメでしょう。もう。
あら、小傘ちゃんじゃない。脅かしてごめんなさいね。お詫びにご飯、食べてく?」
――という具合に、実は相手が知り合いだったりなんかして。
「……はぁ。
どうして、みんな、ちっとも驚いてくれないんだろう……」
しょんぼり肩を落として、とぼとぼと、小傘は道を行く。
他人を驚かすことに命をかけている(色んな意味で)妖怪である彼女にとって、誰一人、自分の行動に『びっくりする』と言う反応をしてくれないのは、大層不満であると共に、情けない事実であった。
そもそも、驚かす方法が古すぎるだの、見た目がかわいすぎるのが悪いといった意見は受け付けてないのであしからず。
「困ったなぁ……。
ご飯食べてればお腹一杯になるから、それはいいんだけど……」
このままでは、妖怪の沽券に関わる、と彼女はぐぐっと拳を握った。
妖怪とは、人間を驚かすもの。それが出来ないで何の妖怪か。
彼女の決意は、実に固かった。
「どこか、誰か、人を驚かすいい方法を知ってる人、いないかな?」
そこで他人に頼ってしまう辺りが、彼女が彼女らしい所以であったりするのだが。
――と。
「……あれ?」
目の前を、一人の少女が歩いていることに、彼女は気付いた。
後ろ姿から察するに、子供だろう。自分よりも小さなその姿に、彼女は首をかしげる。
人里を離れた道。
この世界では、里を一歩出れば、妖怪が跳梁跋扈する世界が広がっている。当然、小さな子供は、大人から『里の外に出る時は、必ず、大人を連れて行くこと』と学ぶものだ。
にも拘わらず、である。
――どっきりかな? どこかに誰か隠れてるのかな?
何だかずれたことを考えつつも、小傘はとことこ、こっそり、相手の背後に忍び寄っていく。
そうしていると、むらむらと、『相手を驚かせたい』と言う欲求が盛り上がってくる。
彼女は意を決すると、大きく息を吸い込んで、
「お化けだぞ~!」
と、相手の後ろで大声を上げた。
相手が振り返る。
その相手――小柄な女の子は、感情の読めない表情と瞳で、じーっと、小傘を見つめてくる。
しばし流れる気まずい時間。
あらゆる意味で、その瞬間、二人の間で時間が停止していた。
引っ込みがつかない小傘は、相手を驚かせたようとしたその表情のまま、「……えっと、驚いてくれた?」と問いかける。
それにも返答なし。
いよいよどうにもならなくなってきたところで、目の前の少女は、なぜか一枚のお面を取り出した。
それの表情は、人間が驚いた時に見せるようなものである。それを顔にかけて、彼女は「わぁ」と、何だかずれた反応をしてくれる。
「……えーっと……。
もしかして、驚いた?」
相手の少女は小さくうなずいた。
そこで、小傘はようやく、『本当!?』と目を輝かせる。
「化け傘妖怪として苦節何百年……! ようやく、誰かを驚かせることに成功っ! やったー!」
何百年もの間、誰一人、まともに驚かすことの出来なかった彼女。
何だかよくわからない喜び方をする彼女を見て、少女は尋ねる。
「幸せそう」
「え?」
「あなた、幸せ?」
「うん、今、すっごく幸せ!」
「そう」
何だか抑揚のない喋り方だ。
表情も今ひとつ変わらないため、相手の感情を推し量るのが難しい。
「ありがとう! 驚いてくれて!」
「それ、お礼?」
「そう! お礼!」
「……よくわからない」
あらゆる意味で、意味不明の行動とはこういうことを言うのだろう。
その対象にされた少女は、あまり変化しない表情ながら、わずかに雰囲気を変えてつぶやく。
「あなた、妖怪?」
「そうだよ? あなたも?」
「あなた、どこかで見たことある」
「え?
……えーっと」
とりあえず、記憶を探ってみる。
ここしばらくの情けない戦果を無理やり脳の片隅に押しのけ、しばし頭を駆動させて、小傘はぽんと手を打った。
「この前、あの巫女たちと大騒ぎしてた?」
「うん」
「ああ、うん! わたし、あれ、見てた!」
忘れていたことを思い出すというのは、彼女にとって嬉しいことなのだろう。
そっかそっか、とうなずきながら、彼女は相手に向かって右手を差し出す。
「わたし、多々良小傘! よろしくね!」
差し出された手を見ていた少女は、しばしの沈黙の後、それを握り返して「秦こころ」と小さな声でつぶやいたのだった。
場所を移動して、ここはとある人里。
そこの茶屋に、二人の姿はあった。
「そっか。こころちゃんも付喪神なんだ」
「うん」
そこの茶屋の主人も、小傘に夜道で『驚かされた』人物である。
彼はその後、小傘にずいぶんな好意を持ち、『お腹がすいたらうちの店にこいよ!』と声をかけていた。
「ほらよ、お嬢ちゃん達。腹いっぱい食べな」
「わーい! おじさん、ありがとう!」
お値段無料。
差し出されるお団子3本とお茶を受け取り、小傘は人懐っこい笑みを浮かべる。
対するこころは無表情のまま、ぺこりと頭を下げるだけだ。
「ここのお団子、すっごく美味しいんだよ!」
それを一口、口にして、表現できないほどの幸せそうな顔を浮かべる彼女。
こころはそんな彼女をじっと見ながら、同じように、もぐもぐお団子を頬張るだけ。表情は変わらない。
「美味しいでしょ!」
「美味しい」
「よかった~!」
そんな彼女を見つめて、こころは尋ねる。
「あなたは幸せそうね?」
「うん、今、幸せ!」
「どうして?」
「美味しいから! あと、驚かせられたから!」
何だかよくわからない回答である。
整理されてない言葉と言うのはこういうものなのだろう。
しかし、
「……そう」
こころはそれで納得してしまう。
「ねぇねぇ、こころちゃん。
こころちゃんは、どうして付喪神になったの?」
「長い年月を経たから。あと、わたしを作った人が、わたしに力を込めてくれたから」
「へぇ~!」
すごいね! と小傘。
こころはきょとんとして「すごいって、何?」と尋ねてくる。
「え? だって、わたし、普通に付喪神になったんだもん。
こころちゃんみたいに、特別な付喪神じゃないんだ~」
てへへ、と笑う彼女に、こころはますます首を傾げてしまう。
「……特別な付喪神?」
「うん」
「それって何?」
「ん~っと……。
何かすごい付喪神!」
さっぱり、わからない。
話が通じない相手を前にしたこころの困惑やいかほどのものか。
対する小傘は、何が楽しいのか、にこにこと笑っている。
「あらゆる器物は99年の時を経ると付喪神になると言われている。つくも――九十九神というのは、それが由縁の一つ」
「うん」
「だから、わたしもあなたも99歳以上。そこに違いなんてない」
「あるよ」
「どうして?」
「わたしはね、誰にも使ってもらえない忘れ傘だったの」
変わらない笑顔で、彼女はそんなことを言った。
「誰にも見てもらえない、誰にも使ってもらえない傘の化身――それがわたしなんだ。
ずーっとほったらかしにされてて、ある時、ぱって。自分の足で歩けるようになったの。
けど、こころちゃんは違うでしょ?」
「違う?」
「こころちゃんは誰かに力をもらって、付喪神になったんだよね?
それって、使ってくれていた人に、ずっと大切にしてもらっていたってことだよね?」
「……」
「羨ましいな」
お茶を飲みながら、小傘。
「その人のそばに、ずっといられたから、力を分け与えてもらえたんだよね。
それって、一年や二年じゃない。今、こころちゃんも言ったけれど、99年、その人と一緒にいられたってことでしょ?
それだけ大切にされて付喪神になれたんだもん。特別だよ」
いいなぁ、羨ましいなぁ、と小傘。
向けられる視線、感情。その二つに、こころは何を感じたのだろう。
「そうね。羨ましいでしょ」
そう、彼女は言った。
ほとんど変わらないその表情に、口許だけに、わずかに笑みを浮かべて。相手の表情と感情を値踏みするように。
「うん、羨ましい。すごい!」
小傘の反応は予想通りだった。
それを見て、こころは表情を収める。
――彼女は正直者だ。そして、変わり者だ。
こころは、そう、彼女を評した。
「あのね、わたし、あちこちで捨てられたものとか集めてるの。
まだまだ使えるものばっかりで……それなのに、捨てられてしまったかわいそうな子達。
わたしね、ずっと、付喪神ってそういうかわいそうな子たちばっかりなんだなって思ってたんだけど、違うんだね」
長く持ち主に愛されたから、付喪神になったものもいるのだ、と。
小傘はそう言って、まるで自分のことのように笑顔を浮かべて、「こころちゃんって幸せなんだね」と言った。
「けどね、わたし達だって負けてないよ!
わたし、捨てられていた子達を直して売ってるの! 色んな人が買っていってくれるんだよ!
そういう子達は、今度は悲しい思いをしないで、こころちゃんみたいに使ってくれる人に愛されて、きっと、付喪神になるんだよ」
みんな、きっと、今から恩返しのこととか考えているんだろうな、と。
小傘は言う。
「だけど、それとこれとは関係ないかな。
同じ付喪神どうし、仲良くしようね!」
向けられる笑顔、差し出される手。
それを拒否することなく、こころは受け止めた。
二人は互いにしっかりと握手を交わして、『それでね、それでね、ここ、お団子よりあんみつの方が美味しいんだよ!』と小傘お勧めのメニューに舌鼓を打つ。
店の店主は、かわいい少女二人の注文に気をよくしたのか、「ほら、大盛りだ! しっかり食べるんだぞ! わっはっは!」と威勢のいい笑顔を向けてくれる。
その笑顔に小傘は笑顔を返し、こころは小さく頭を下げる。
そんな楽しい時間も終わりを告げて、二人は店を後にする。
「こころちゃん、これからどこか行くの?」
「うん」
「そっか。じゃ、またね」
「……あ」
小さく、こころが声を上げた。
彼女の指が『あれ』と何かを示す。
示された先に小傘が視線をやると、一人の聖人が宗教の布教に努めている姿が目に入る。
彼女は手にしたチラシを『お願いしま~す』と笑顔で配っていた。ああいう地味な活動も必要なんだなぁ、と小傘は無意味に納得していたりする。
「あれがどうしたの?」
「あの人が、わたしを作った」
「……へぇ~」
それだけ、とこころは言って、踵を返す。
自分を創ってくれた主人の下に向かうのではなく、人里の雑踏の中に姿を消していく。
小傘はしばらくの間、その後ろ姿を見送った後、小さく『……そっか』とつぶやいた。
ぽつぽつと、雨が降り出す。
昼間はあんなに天気がよかったのに、と軒下に避難した人々はつぶやく。
その雨の中、彼女は一人、ぽつんと佇んでいた。
「……ご主人様、か」
自分にとって、そう呼べる人はどんな人だっただろう。
記憶を探っても、もう思い出せない。
思い出せるのは、誰もいない、通りがかることもない、どこか暗い場所に捨て置かれた光景だけだ。
日が昇って日光に照らされ、夜が来て闇に包まれる。
それを、何度繰り返しただろう。
こうして雨が降った日にも、彼女は一人、そこで忘れられていた。
誰にも使ってもらえない、存在意義を失った一本の傘。
自分は雨に濡れたって、それを持ってくれる人はぬらさない、一本の傘。
けれど、誰にも、目を向けてすらもらえない、一本の忘れ傘。
「……ああ」
手にした化け傘を、くるりくるりと回してみせる。
雨の日は、羨ましかった。
たまに通りすがる人たちを、彼女は見ていた。
彼ら、彼女らは、皆、傘を持っていた。
色とりどりの傘。大きくて重たくて、しっかりとした傘。風が吹けばすぐに壊れてしまう透明な傘。誰かから借りたのか、明らかに不釣合いな傘を持って歩く人もいた。
――そんな傘より、自分の方がすごいんだぞ!
何度、そう叫んだことか。
しかし、彼女に声を出すことは出来なかった。通り行く人を、彼らに持って使われる傘を、ただ羨ましく眺めることしか出来なかった。
――わたしだってすごいんだぞ! だから、わたしを使ってよ!
月日がたって、彼女の見た目が変わってしまうと、さらに誰も、彼女を使うことはなくなった。
たまに、彼女を見つけてくれる人がいた。
しかし、彼ら彼女らは、古ぼけて、みすぼらしくなった彼女を見て、顔をしかめて立ち去るだけだった。
――まだ使えるのに。まだ、あなたを雨から守ってあげられるのに。
くるり、くるりと傘は回る。
99年の歳月は長かった。
通り行く人々の姿も変わり、景色も変わり、様々なものが移り変わっていく中、彼女は変わらない。
その見た目だけがどんどん年老いていくだけで、何も変わらない。
雨の中、誰かを守ってあげられる――その『傘』としての姿すら、変わらないのに。
誰も、彼女を使ってくれなかった。
――歩けるようになって、嬉しかった。
――声を出せるようになって、とても嬉しかった。
――わたし、小傘って言うんです! そう、名乗ることが出来た日は、すごく嬉しかった。
冷たい雫が頬を伝う。
時を経て、歩けるようになって、声を出せるようになって、自分の姿を誰かに認識させることが出来るようになったのに。
彼女は今も、何も変わらない。
「ああ……」
灰色の空を見上げて、彼女はつぶやく。
わたしは傘なんだ、と。
傘は誰かに使ってもらわないといけない。誰かを雨から守ってこその傘なんだ。なのに、自分には、守ってあげる人は誰もいない。
毎日、楽しく生きていると思っても、結局、それはごまかしだということに、自分自身、薄々気付いている。
「こころちゃん……いいなぁ」
99年の長い歳月を、持っていてくれる人に使ってもらって、見守ってもらえて過ごした彼女。
99年の長い歳月を、誰にも使ってもらえず、忘れられたまま過ごした自分。
どうして、同じ『道具』なのに、こんなに違うんだろう。
「わたし……何か悪いことしたのかな……」
他人を脅かしてばっかりいるからばちが当たったのだろうか。彼女はそう思う。
――わたし、悪いことなんてしてないよ! だから――!
今まで胸の中にためてきたものを、こらえきれずに吐き出してしまいそうになった、その瞬間。
「あら、小傘ちゃん」
後ろから声がした。
「あ……」
「どうしたの? そんなずぶぬれになって」
「……お姉ちゃん」
少し前に知り合った人間。名前は確か、東風谷早苗と言ったか。
その彼女は、小傘に言った通り、ずぶぬれになっていた。
「急な雨って大変よね。
ほら、小傘ちゃんもこっちにおいで。雨宿りしないと」
くるり、くるりと回っていた傘は、今、地面に落ちて雨受けとなっていた。
早苗に手を引かれ、小傘は一緒に、近くの家の軒下に避難する。
「こんなに濡れたら、風邪、引いちゃうわね」
「……」
「小傘ちゃん? どうしたの?」
「……あのね、お姉ちゃん……。
わたし……わたしね……傘、なんだよね……」
「うん」
「……けどね、今までずっと……わたしだけしか濡れてこなくて……。
誰かをぬらさないように守ってあげないといけないのに……。わたしだけ、いつもずぶぬれで……。
誰も……誰もわたしのこと……!」
嗚咽をこらえながら、つぶやく少女。
そんな彼女を見て、早苗は何を思ったのだろう。
唐突に、彼女は小傘が持っている化け傘を手に取ると、それの水気をぱっと払ってしまった。
そして、それを『はい』と小傘に手渡す。
「じゃあ、わたしを雨から守ってくれる? 小傘ちゃん」
「……え?」
「わたし、傘を忘れちゃったの。ああ、忘れたと言っても、家に、よ。
だから、このままじゃ濡れて帰ることになっちゃうから、傘があるとすごく助かるの。
いいかな?」
ぽかんとする小傘の了解を得ずに、彼女は小傘の手を引いて歩き出す。
人々の視線が、早苗と小傘に向く。
奇妙な形の化け傘の下、雨に濡れず、歩いていく二人を見つめている。
「やっぱり、傘があるといいわよね」
「……お姉ちゃん、あの……」
「小傘ちゃん、帰ったら、お礼に美味しいご飯を食べさせてあげるね。今日のご飯を作ったのは諏訪子さまだから。ああ見えて、諏訪子さま、料理がとっても上手なの。
それから、あったかいお風呂に入って、せっかくだから泊まっていきなさい。
ね?」
冷たくなってる小傘の手を握って、早苗は言う。
優しい笑顔を、彼女に向けて。
「小傘ちゃん。
前も言ったかもしれないけれど、わたしはね、絶対に小傘ちゃんのこと、忘れたりなんてしないから。
いつまででも、必ず、覚えている。
だからね、小傘ちゃん。わたしがこうやって、雨の日、困っていたら、傘を差しに来て欲しいの。
わたしはよく忘れ物をするから。だから、こうやって、雨の日に傘を忘れて困るのなんてしょっちゅう。
そんな時に小傘ちゃんがいてくれると助かるな。どう? もちろん、御礼はするから」
「……お礼なんていらないよ」
「そう?」
「だって……」
誰かを雨から守るのが仕事の『傘』である自分にとって、誰かに傘として使ってもらえるのが一番嬉しいのだから。
それが何よりも嬉しくて大切な、彼女にとっての『お礼』となるのだから。
そう伝えようとした時、さっと雨がやんでいく。
一瞬、小傘は悲しそうな顔を見せた。雨が終わってしまえば、自分は用無しとなってしまう――それを恐れたのだろう。
しかし、
「小傘ちゃん、ほら、虹」
「……きれいだね」
「そうね。
小傘ちゃん。あなたは、誰かを雨から守るための傘なのだから。その傘が、いつまでも、自分をぬらしていたらダメだよ」
「え?」
「こんな風にね、やまない雨なんてないの。
そして、雨がやんだ後にはきれいな虹が出るし、地面だってしっかり固められて、今よりもずっと頑丈になる。
小傘ちゃんの中でも、きれいな虹を出して欲しい。それから、こうやって固められた地面みたいに、わたしのこともしっかり覚えていて欲しい。
他人に自分を忘れないでと言うのなら、自分は相手のことを、決して忘れたらダメよ」
わたしは絶対に、あなたのことを忘れない。
早苗の言葉を反芻する。
それは、雨がやんだからといって、小傘をどこかに置き忘れたりなどしないということだ。
雨がやんだくらいで、自分は早苗に忘れられたりなどしない――そう信じていなくてはいけない。他人に自分を忘れないでと願うなら、自分も相手のことを忘れてはならない。その姿、その声、その言葉。その心。その全部を、覚えていなくてはいけない。
「ああ……」
小傘はつぶやいた。
忘れ傘。
それは、自分にも当てはまっている。
自分は、自分を使ってくれたご主人様のことなんて、もう覚えていない。
自分がそれを覚えていないのだから、相手だって覚えているはずがない。
こころは違った。
彼女は主人のことを覚えていた。99年の歳月を経て、付喪神となり、一人、主人から離れていたはずなのに。
しっかりと、彼女は主人のことを覚えていた。
大事に使ってくれた人のことだから覚えていたのだろう――そう思って、小傘は慌てて、そんな自分を否定する。
違う。
どんな主人だって、最初は自分のことを大切に使ってくれる。たとえその主人に忘れられても、自分の中に、その主人が大切にしてくれていた頃の記憶は残るはずなのに。
小傘は、それすら忘れていた。
忘れていたのだから、誰も覚えているはずなどない。
もう一度、彼女はそれをつぶやいた。
「さあ、小傘ちゃん。帰りましょ。美味しいご飯とあったかいお風呂が待ってるよ」
差し出される笑顔と手を、もう一度、彼女は見た。
その先にある、大切な人の姿を。声を。言葉を。心を。
何度も何度も自分の中の記憶に刻み込み、彼女は叫んだ。
――絶対に、わたし、忘れない!
差し出された手を取る。
向けられた笑顔に瞳を向けて、言葉を返す。
「うん!」
弾けるように。
まぶしさで、見る人が驚いてしまうくらいに。
彼女は一杯の笑顔を浮かべて、早苗と一緒に帰路につくのだった。
「よ~し……!」
時刻は夜中。とある人里の裏道にて。
闇に潜み、隠れた彼女は、明るい通りからこちらに向かって歩いてくる酔客を見つけた。
暗がりに隠れて息を潜め、彼らが目の前を通るところで、
「おばけだぞ~!」
と、飛び出してみるのだが。
「おお! かわいいお嬢ちゃんじゃないか!」
「こんなところで、こんなかわいらしいお嬢ちゃんに逢えるとは、俺達、運がいいや!」
「わっはっは!
お嬢ちゃん、もう夜も遅いからな。気をつけて帰るんだぞ~」
――と、見事に相手にもされなかったり。
「今度こそ……!」
時刻と場所変わって、人里から延びる細い街道。
そこの草の陰に隠れた彼女は、目の前を子連れの母親が通りかかったところで、
「おばけだぞ~! がお~!」
と、飛び出してみるのだが。
「うわぁ、お姉ちゃん、この傘かっこいい! 僕にちょうだい!」
「へっ? あ、いや、あの……」
「こら、ダメでしょう。お姉ちゃんの大切なものを欲しがったら。
すみません。悪い子で。ちゃんと、あとで言って聞かせますので」
「あ、は、はい……」
「ほら、お姉ちゃんにばいばいしましょうね」
「うん! お姉ちゃん、ばいば~い!」
「ば、ばいば~い……」
――と、何だか子供に懐かれたり。
「さ、三度目の正直っ……!」
またもや場所と時間変わって夕暮れ時。
足下に長く伸びる影。その影が、ゆぅらりゆらりと揺れながら近づいてくる。
影の数は三つ。うち一つは形が小さいため、きっと子供だろう。
「おばけだぞ~! が……!」
「……あら、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの言う『おばけ』っていうのは、もしかして、こんな顔なのかな?」
飛び出したら、いきなり目の前にのっぺらぼうが現れて、『ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?』と悲鳴を上げてへたりこんでしまったり。
「こら、ぬえ。他人を脅かすなって言ってるだろ」
「え~? だって、こいつ、驚かすと面白いし~」
「ぬえ、ダメでしょう。もう。
あら、小傘ちゃんじゃない。脅かしてごめんなさいね。お詫びにご飯、食べてく?」
――という具合に、実は相手が知り合いだったりなんかして。
「……はぁ。
どうして、みんな、ちっとも驚いてくれないんだろう……」
しょんぼり肩を落として、とぼとぼと、小傘は道を行く。
他人を驚かすことに命をかけている(色んな意味で)妖怪である彼女にとって、誰一人、自分の行動に『びっくりする』と言う反応をしてくれないのは、大層不満であると共に、情けない事実であった。
そもそも、驚かす方法が古すぎるだの、見た目がかわいすぎるのが悪いといった意見は受け付けてないのであしからず。
「困ったなぁ……。
ご飯食べてればお腹一杯になるから、それはいいんだけど……」
このままでは、妖怪の沽券に関わる、と彼女はぐぐっと拳を握った。
妖怪とは、人間を驚かすもの。それが出来ないで何の妖怪か。
彼女の決意は、実に固かった。
「どこか、誰か、人を驚かすいい方法を知ってる人、いないかな?」
そこで他人に頼ってしまう辺りが、彼女が彼女らしい所以であったりするのだが。
――と。
「……あれ?」
目の前を、一人の少女が歩いていることに、彼女は気付いた。
後ろ姿から察するに、子供だろう。自分よりも小さなその姿に、彼女は首をかしげる。
人里を離れた道。
この世界では、里を一歩出れば、妖怪が跳梁跋扈する世界が広がっている。当然、小さな子供は、大人から『里の外に出る時は、必ず、大人を連れて行くこと』と学ぶものだ。
にも拘わらず、である。
――どっきりかな? どこかに誰か隠れてるのかな?
何だかずれたことを考えつつも、小傘はとことこ、こっそり、相手の背後に忍び寄っていく。
そうしていると、むらむらと、『相手を驚かせたい』と言う欲求が盛り上がってくる。
彼女は意を決すると、大きく息を吸い込んで、
「お化けだぞ~!」
と、相手の後ろで大声を上げた。
相手が振り返る。
その相手――小柄な女の子は、感情の読めない表情と瞳で、じーっと、小傘を見つめてくる。
しばし流れる気まずい時間。
あらゆる意味で、その瞬間、二人の間で時間が停止していた。
引っ込みがつかない小傘は、相手を驚かせたようとしたその表情のまま、「……えっと、驚いてくれた?」と問いかける。
それにも返答なし。
いよいよどうにもならなくなってきたところで、目の前の少女は、なぜか一枚のお面を取り出した。
それの表情は、人間が驚いた時に見せるようなものである。それを顔にかけて、彼女は「わぁ」と、何だかずれた反応をしてくれる。
「……えーっと……。
もしかして、驚いた?」
相手の少女は小さくうなずいた。
そこで、小傘はようやく、『本当!?』と目を輝かせる。
「化け傘妖怪として苦節何百年……! ようやく、誰かを驚かせることに成功っ! やったー!」
何百年もの間、誰一人、まともに驚かすことの出来なかった彼女。
何だかよくわからない喜び方をする彼女を見て、少女は尋ねる。
「幸せそう」
「え?」
「あなた、幸せ?」
「うん、今、すっごく幸せ!」
「そう」
何だか抑揚のない喋り方だ。
表情も今ひとつ変わらないため、相手の感情を推し量るのが難しい。
「ありがとう! 驚いてくれて!」
「それ、お礼?」
「そう! お礼!」
「……よくわからない」
あらゆる意味で、意味不明の行動とはこういうことを言うのだろう。
その対象にされた少女は、あまり変化しない表情ながら、わずかに雰囲気を変えてつぶやく。
「あなた、妖怪?」
「そうだよ? あなたも?」
「あなた、どこかで見たことある」
「え?
……えーっと」
とりあえず、記憶を探ってみる。
ここしばらくの情けない戦果を無理やり脳の片隅に押しのけ、しばし頭を駆動させて、小傘はぽんと手を打った。
「この前、あの巫女たちと大騒ぎしてた?」
「うん」
「ああ、うん! わたし、あれ、見てた!」
忘れていたことを思い出すというのは、彼女にとって嬉しいことなのだろう。
そっかそっか、とうなずきながら、彼女は相手に向かって右手を差し出す。
「わたし、多々良小傘! よろしくね!」
差し出された手を見ていた少女は、しばしの沈黙の後、それを握り返して「秦こころ」と小さな声でつぶやいたのだった。
場所を移動して、ここはとある人里。
そこの茶屋に、二人の姿はあった。
「そっか。こころちゃんも付喪神なんだ」
「うん」
そこの茶屋の主人も、小傘に夜道で『驚かされた』人物である。
彼はその後、小傘にずいぶんな好意を持ち、『お腹がすいたらうちの店にこいよ!』と声をかけていた。
「ほらよ、お嬢ちゃん達。腹いっぱい食べな」
「わーい! おじさん、ありがとう!」
お値段無料。
差し出されるお団子3本とお茶を受け取り、小傘は人懐っこい笑みを浮かべる。
対するこころは無表情のまま、ぺこりと頭を下げるだけだ。
「ここのお団子、すっごく美味しいんだよ!」
それを一口、口にして、表現できないほどの幸せそうな顔を浮かべる彼女。
こころはそんな彼女をじっと見ながら、同じように、もぐもぐお団子を頬張るだけ。表情は変わらない。
「美味しいでしょ!」
「美味しい」
「よかった~!」
そんな彼女を見つめて、こころは尋ねる。
「あなたは幸せそうね?」
「うん、今、幸せ!」
「どうして?」
「美味しいから! あと、驚かせられたから!」
何だかよくわからない回答である。
整理されてない言葉と言うのはこういうものなのだろう。
しかし、
「……そう」
こころはそれで納得してしまう。
「ねぇねぇ、こころちゃん。
こころちゃんは、どうして付喪神になったの?」
「長い年月を経たから。あと、わたしを作った人が、わたしに力を込めてくれたから」
「へぇ~!」
すごいね! と小傘。
こころはきょとんとして「すごいって、何?」と尋ねてくる。
「え? だって、わたし、普通に付喪神になったんだもん。
こころちゃんみたいに、特別な付喪神じゃないんだ~」
てへへ、と笑う彼女に、こころはますます首を傾げてしまう。
「……特別な付喪神?」
「うん」
「それって何?」
「ん~っと……。
何かすごい付喪神!」
さっぱり、わからない。
話が通じない相手を前にしたこころの困惑やいかほどのものか。
対する小傘は、何が楽しいのか、にこにこと笑っている。
「あらゆる器物は99年の時を経ると付喪神になると言われている。つくも――九十九神というのは、それが由縁の一つ」
「うん」
「だから、わたしもあなたも99歳以上。そこに違いなんてない」
「あるよ」
「どうして?」
「わたしはね、誰にも使ってもらえない忘れ傘だったの」
変わらない笑顔で、彼女はそんなことを言った。
「誰にも見てもらえない、誰にも使ってもらえない傘の化身――それがわたしなんだ。
ずーっとほったらかしにされてて、ある時、ぱって。自分の足で歩けるようになったの。
けど、こころちゃんは違うでしょ?」
「違う?」
「こころちゃんは誰かに力をもらって、付喪神になったんだよね?
それって、使ってくれていた人に、ずっと大切にしてもらっていたってことだよね?」
「……」
「羨ましいな」
お茶を飲みながら、小傘。
「その人のそばに、ずっといられたから、力を分け与えてもらえたんだよね。
それって、一年や二年じゃない。今、こころちゃんも言ったけれど、99年、その人と一緒にいられたってことでしょ?
それだけ大切にされて付喪神になれたんだもん。特別だよ」
いいなぁ、羨ましいなぁ、と小傘。
向けられる視線、感情。その二つに、こころは何を感じたのだろう。
「そうね。羨ましいでしょ」
そう、彼女は言った。
ほとんど変わらないその表情に、口許だけに、わずかに笑みを浮かべて。相手の表情と感情を値踏みするように。
「うん、羨ましい。すごい!」
小傘の反応は予想通りだった。
それを見て、こころは表情を収める。
――彼女は正直者だ。そして、変わり者だ。
こころは、そう、彼女を評した。
「あのね、わたし、あちこちで捨てられたものとか集めてるの。
まだまだ使えるものばっかりで……それなのに、捨てられてしまったかわいそうな子達。
わたしね、ずっと、付喪神ってそういうかわいそうな子たちばっかりなんだなって思ってたんだけど、違うんだね」
長く持ち主に愛されたから、付喪神になったものもいるのだ、と。
小傘はそう言って、まるで自分のことのように笑顔を浮かべて、「こころちゃんって幸せなんだね」と言った。
「けどね、わたし達だって負けてないよ!
わたし、捨てられていた子達を直して売ってるの! 色んな人が買っていってくれるんだよ!
そういう子達は、今度は悲しい思いをしないで、こころちゃんみたいに使ってくれる人に愛されて、きっと、付喪神になるんだよ」
みんな、きっと、今から恩返しのこととか考えているんだろうな、と。
小傘は言う。
「だけど、それとこれとは関係ないかな。
同じ付喪神どうし、仲良くしようね!」
向けられる笑顔、差し出される手。
それを拒否することなく、こころは受け止めた。
二人は互いにしっかりと握手を交わして、『それでね、それでね、ここ、お団子よりあんみつの方が美味しいんだよ!』と小傘お勧めのメニューに舌鼓を打つ。
店の店主は、かわいい少女二人の注文に気をよくしたのか、「ほら、大盛りだ! しっかり食べるんだぞ! わっはっは!」と威勢のいい笑顔を向けてくれる。
その笑顔に小傘は笑顔を返し、こころは小さく頭を下げる。
そんな楽しい時間も終わりを告げて、二人は店を後にする。
「こころちゃん、これからどこか行くの?」
「うん」
「そっか。じゃ、またね」
「……あ」
小さく、こころが声を上げた。
彼女の指が『あれ』と何かを示す。
示された先に小傘が視線をやると、一人の聖人が宗教の布教に努めている姿が目に入る。
彼女は手にしたチラシを『お願いしま~す』と笑顔で配っていた。ああいう地味な活動も必要なんだなぁ、と小傘は無意味に納得していたりする。
「あれがどうしたの?」
「あの人が、わたしを作った」
「……へぇ~」
それだけ、とこころは言って、踵を返す。
自分を創ってくれた主人の下に向かうのではなく、人里の雑踏の中に姿を消していく。
小傘はしばらくの間、その後ろ姿を見送った後、小さく『……そっか』とつぶやいた。
ぽつぽつと、雨が降り出す。
昼間はあんなに天気がよかったのに、と軒下に避難した人々はつぶやく。
その雨の中、彼女は一人、ぽつんと佇んでいた。
「……ご主人様、か」
自分にとって、そう呼べる人はどんな人だっただろう。
記憶を探っても、もう思い出せない。
思い出せるのは、誰もいない、通りがかることもない、どこか暗い場所に捨て置かれた光景だけだ。
日が昇って日光に照らされ、夜が来て闇に包まれる。
それを、何度繰り返しただろう。
こうして雨が降った日にも、彼女は一人、そこで忘れられていた。
誰にも使ってもらえない、存在意義を失った一本の傘。
自分は雨に濡れたって、それを持ってくれる人はぬらさない、一本の傘。
けれど、誰にも、目を向けてすらもらえない、一本の忘れ傘。
「……ああ」
手にした化け傘を、くるりくるりと回してみせる。
雨の日は、羨ましかった。
たまに通りすがる人たちを、彼女は見ていた。
彼ら、彼女らは、皆、傘を持っていた。
色とりどりの傘。大きくて重たくて、しっかりとした傘。風が吹けばすぐに壊れてしまう透明な傘。誰かから借りたのか、明らかに不釣合いな傘を持って歩く人もいた。
――そんな傘より、自分の方がすごいんだぞ!
何度、そう叫んだことか。
しかし、彼女に声を出すことは出来なかった。通り行く人を、彼らに持って使われる傘を、ただ羨ましく眺めることしか出来なかった。
――わたしだってすごいんだぞ! だから、わたしを使ってよ!
月日がたって、彼女の見た目が変わってしまうと、さらに誰も、彼女を使うことはなくなった。
たまに、彼女を見つけてくれる人がいた。
しかし、彼ら彼女らは、古ぼけて、みすぼらしくなった彼女を見て、顔をしかめて立ち去るだけだった。
――まだ使えるのに。まだ、あなたを雨から守ってあげられるのに。
くるり、くるりと傘は回る。
99年の歳月は長かった。
通り行く人々の姿も変わり、景色も変わり、様々なものが移り変わっていく中、彼女は変わらない。
その見た目だけがどんどん年老いていくだけで、何も変わらない。
雨の中、誰かを守ってあげられる――その『傘』としての姿すら、変わらないのに。
誰も、彼女を使ってくれなかった。
――歩けるようになって、嬉しかった。
――声を出せるようになって、とても嬉しかった。
――わたし、小傘って言うんです! そう、名乗ることが出来た日は、すごく嬉しかった。
冷たい雫が頬を伝う。
時を経て、歩けるようになって、声を出せるようになって、自分の姿を誰かに認識させることが出来るようになったのに。
彼女は今も、何も変わらない。
「ああ……」
灰色の空を見上げて、彼女はつぶやく。
わたしは傘なんだ、と。
傘は誰かに使ってもらわないといけない。誰かを雨から守ってこその傘なんだ。なのに、自分には、守ってあげる人は誰もいない。
毎日、楽しく生きていると思っても、結局、それはごまかしだということに、自分自身、薄々気付いている。
「こころちゃん……いいなぁ」
99年の長い歳月を、持っていてくれる人に使ってもらって、見守ってもらえて過ごした彼女。
99年の長い歳月を、誰にも使ってもらえず、忘れられたまま過ごした自分。
どうして、同じ『道具』なのに、こんなに違うんだろう。
「わたし……何か悪いことしたのかな……」
他人を脅かしてばっかりいるからばちが当たったのだろうか。彼女はそう思う。
――わたし、悪いことなんてしてないよ! だから――!
今まで胸の中にためてきたものを、こらえきれずに吐き出してしまいそうになった、その瞬間。
「あら、小傘ちゃん」
後ろから声がした。
「あ……」
「どうしたの? そんなずぶぬれになって」
「……お姉ちゃん」
少し前に知り合った人間。名前は確か、東風谷早苗と言ったか。
その彼女は、小傘に言った通り、ずぶぬれになっていた。
「急な雨って大変よね。
ほら、小傘ちゃんもこっちにおいで。雨宿りしないと」
くるり、くるりと回っていた傘は、今、地面に落ちて雨受けとなっていた。
早苗に手を引かれ、小傘は一緒に、近くの家の軒下に避難する。
「こんなに濡れたら、風邪、引いちゃうわね」
「……」
「小傘ちゃん? どうしたの?」
「……あのね、お姉ちゃん……。
わたし……わたしね……傘、なんだよね……」
「うん」
「……けどね、今までずっと……わたしだけしか濡れてこなくて……。
誰かをぬらさないように守ってあげないといけないのに……。わたしだけ、いつもずぶぬれで……。
誰も……誰もわたしのこと……!」
嗚咽をこらえながら、つぶやく少女。
そんな彼女を見て、早苗は何を思ったのだろう。
唐突に、彼女は小傘が持っている化け傘を手に取ると、それの水気をぱっと払ってしまった。
そして、それを『はい』と小傘に手渡す。
「じゃあ、わたしを雨から守ってくれる? 小傘ちゃん」
「……え?」
「わたし、傘を忘れちゃったの。ああ、忘れたと言っても、家に、よ。
だから、このままじゃ濡れて帰ることになっちゃうから、傘があるとすごく助かるの。
いいかな?」
ぽかんとする小傘の了解を得ずに、彼女は小傘の手を引いて歩き出す。
人々の視線が、早苗と小傘に向く。
奇妙な形の化け傘の下、雨に濡れず、歩いていく二人を見つめている。
「やっぱり、傘があるといいわよね」
「……お姉ちゃん、あの……」
「小傘ちゃん、帰ったら、お礼に美味しいご飯を食べさせてあげるね。今日のご飯を作ったのは諏訪子さまだから。ああ見えて、諏訪子さま、料理がとっても上手なの。
それから、あったかいお風呂に入って、せっかくだから泊まっていきなさい。
ね?」
冷たくなってる小傘の手を握って、早苗は言う。
優しい笑顔を、彼女に向けて。
「小傘ちゃん。
前も言ったかもしれないけれど、わたしはね、絶対に小傘ちゃんのこと、忘れたりなんてしないから。
いつまででも、必ず、覚えている。
だからね、小傘ちゃん。わたしがこうやって、雨の日、困っていたら、傘を差しに来て欲しいの。
わたしはよく忘れ物をするから。だから、こうやって、雨の日に傘を忘れて困るのなんてしょっちゅう。
そんな時に小傘ちゃんがいてくれると助かるな。どう? もちろん、御礼はするから」
「……お礼なんていらないよ」
「そう?」
「だって……」
誰かを雨から守るのが仕事の『傘』である自分にとって、誰かに傘として使ってもらえるのが一番嬉しいのだから。
それが何よりも嬉しくて大切な、彼女にとっての『お礼』となるのだから。
そう伝えようとした時、さっと雨がやんでいく。
一瞬、小傘は悲しそうな顔を見せた。雨が終わってしまえば、自分は用無しとなってしまう――それを恐れたのだろう。
しかし、
「小傘ちゃん、ほら、虹」
「……きれいだね」
「そうね。
小傘ちゃん。あなたは、誰かを雨から守るための傘なのだから。その傘が、いつまでも、自分をぬらしていたらダメだよ」
「え?」
「こんな風にね、やまない雨なんてないの。
そして、雨がやんだ後にはきれいな虹が出るし、地面だってしっかり固められて、今よりもずっと頑丈になる。
小傘ちゃんの中でも、きれいな虹を出して欲しい。それから、こうやって固められた地面みたいに、わたしのこともしっかり覚えていて欲しい。
他人に自分を忘れないでと言うのなら、自分は相手のことを、決して忘れたらダメよ」
わたしは絶対に、あなたのことを忘れない。
早苗の言葉を反芻する。
それは、雨がやんだからといって、小傘をどこかに置き忘れたりなどしないということだ。
雨がやんだくらいで、自分は早苗に忘れられたりなどしない――そう信じていなくてはいけない。他人に自分を忘れないでと願うなら、自分も相手のことを忘れてはならない。その姿、その声、その言葉。その心。その全部を、覚えていなくてはいけない。
「ああ……」
小傘はつぶやいた。
忘れ傘。
それは、自分にも当てはまっている。
自分は、自分を使ってくれたご主人様のことなんて、もう覚えていない。
自分がそれを覚えていないのだから、相手だって覚えているはずがない。
こころは違った。
彼女は主人のことを覚えていた。99年の歳月を経て、付喪神となり、一人、主人から離れていたはずなのに。
しっかりと、彼女は主人のことを覚えていた。
大事に使ってくれた人のことだから覚えていたのだろう――そう思って、小傘は慌てて、そんな自分を否定する。
違う。
どんな主人だって、最初は自分のことを大切に使ってくれる。たとえその主人に忘れられても、自分の中に、その主人が大切にしてくれていた頃の記憶は残るはずなのに。
小傘は、それすら忘れていた。
忘れていたのだから、誰も覚えているはずなどない。
もう一度、彼女はそれをつぶやいた。
「さあ、小傘ちゃん。帰りましょ。美味しいご飯とあったかいお風呂が待ってるよ」
差し出される笑顔と手を、もう一度、彼女は見た。
その先にある、大切な人の姿を。声を。言葉を。心を。
何度も何度も自分の中の記憶に刻み込み、彼女は叫んだ。
――絶対に、わたし、忘れない!
差し出された手を取る。
向けられた笑顔に瞳を向けて、言葉を返す。
「うん!」
弾けるように。
まぶしさで、見る人が驚いてしまうくらいに。
彼女は一杯の笑顔を浮かべて、早苗と一緒に帰路につくのだった。
最初は、雨に濡れて帰るかなー とか言ってたくせにねぇ……
いつか付喪神同士で小傘ちゃんとこころちゃんの絡みがあるお話が読んでみたいなあーと思っていましたので、読めて大変満足しております。
内容も心理描写も充実してて、小傘ちゃんの寂しさが痛いほど伝わってきました。
小傘ちゃん、私も貴女を忘れたりしないよ。絶対に!
早苗にこころちゃんに小傘ちゃん。皆可愛かったです!
それでは良い作品をありがとうございました!
小傘は出生が「忘れられた」ものだから、救いのある終わり方でとても嬉しいです。
心情変化が上手く書かれていたのではないでしょうか。
そしてこがさなは好きだ。だが私個人的にはお姉ちゃん呼びは無しだな(何いってんだか