「そういえば最近、霊夢を見ないわね。すっぴんのシワがどれくらい増えたかって、茶化してやりたいんだけど」
そう喋りかけられたのだが、私はちらりと一瞥しただけで、それを無視した。
文は私の反応に対して、不服そうに唇を尖らせる。視界の中、文は向かいの椅子に座り、目の前に見つけた緑茶へ手を伸ばした。
「……ん、お茶が私好みの具合だから、その反応も許してあげましょう」
満足そうに笑う。その顔は、私と違って表情筋が健康的だ。運動能力だってそう。私も天狗のはしくれだが、翔ける速さで文に勝る天狗など、未だ山には存在しない。
対して私は。
お世辞にも健康だなんて、とても。そうそう病を知らぬ妖怪の身でありながら、薬の世話になっている。
医者からは、是非とも誰か、同棲して介助してやったほうがいいと勧められた。
だから私、姫海棠はたてと射命丸文は今、食住を共にしている。
「それにしてもはたて、顔色悪いわよ。大丈夫? ……あっ、お茶があるけど、飲む?」
「……要らない」
医者の勧めとはいえ――独りを好んできた私にとって、やはり二人暮らしというのは多少、負担が大きい。
始めのうちはまだ楽しめたけれど、今では毎日、寝ても覚めても疲れが取れない。本当に私は文と一緒に居るべきなのか? 少なからずしょっちゅう、考える。
まあ。ここだけの話、同棲の相手が文だからこそ、最初のうちは楽しめていたのもある。
だけど、相手が文だからこそ。
私は、疲れてしまった。
「……最近、霊夢を見ないわねぇ」
文が、独り言のように呟いた。呆ける文の意識を呼ぶため、私は机を指先で叩いた。
「そろそろ薬を飲まなきゃいけないから、ちょっと戸棚から持ってきてくれない? あと、水も」
「もう、しょうがないわね。相変わらず、はたては私が居ないとダメなんだから」
苦笑しながら、文は席を立つ。
「そういうとこも、嫌いじゃないんだけどね」
そして歯が浮くような台詞を残して、台所へ消えた。
深く、息を吐く。
――ネズミは寿命が短い。
小動物は得てして、心拍数が多い。また寿命を迎える時までに刻んだ心拍数は、ほとんどの動物が同じくらいの回数に集約するらしい。
身体が小さければ小さいほど、死はすみやかに訪れる。
そしてそれはきっと、心拍数が多くなる結果だけを見るならば。
速く、強く、激しく――動けば、動くほどに。
……いや。
はっきり言ってそれは、些細な問題だった。
「はたて、お薬よ」
文の脳は壊れてしまった。
時間の残酷さがそうさせた。身体が強い妖怪にとって、寿命が近づくことでまず衰え始めるのは、知性だった。
今の文の脳は、新しいことを覚えることが出来ない。
そして昔のことを思い出すことが出来ない。
知性を失い始めた妖怪は、今を生きることしかしなくなる。
反射的に、刹那的に、淀むしかない水溜りのように。
目に見えている一瞬。今考えている一瞬。何かを咥えたら、それを飲み込むまでが『一瞬』だ。
その一瞬を積み重ねることなく生きていく。原稿用紙を一枚、埋めては捨てて、埋めては捨てる。肉体が朽ちて果てるまで、文はそんな世界を生きていく。
あのお茶だって、文が自分で淹れたものだ。自分が一番好きな具合に。少し茶葉をケチったような、薄めで、だけど香りは立派に立ち上るお茶。
博麗神社の巫女が淹れたかのような。
「ねえはたて、最近、霊夢を見ないと思わない?」
記憶の螺子が緩んだ脳は、一体、文に何を見せているのか。
答えは簡単だった。尤も私はその簡単を『認める』までに、結構な時間をかけてしまったけれど。
脳が選んで見せているのは、思い出すためのストレスが最もかからない記憶。
それはつまり、思い出す必要がないくらい、いつでも、いつまでも『今この瞬間』であり続けるような。
果てしないほど、鮮明な――文が一番愛した時間。
文は、博麗霊夢が生きていた頃の時代を、生きているのだ。
長寿の天狗の脳が壊れてしまうほど、それほどの歳月を経てもなお。
文の一番深いところに、博麗霊夢は生きて『居る』のだ。
「……文」
「どうしたの?」
「身体、だるいの。お薬飲ませて」
「……もおー。甘えん坊め」
頼んだら文は来てくれる。行動の善悪や好き嫌いを判断する記憶がないから。
難しいことを考えられない。文は私に、『何か』を『頼まれた』から『やる』のだ。
私の口に薬を放り込んで、優しく水の入ったコップを持たせてくれる、この『一瞬』。
明確な行動指針がある間は、昔と変わらない、あの頃の文だ。
でも、それが終わると――文の心の中に、私に薬を飲ませたという思い出は残らない。
またきっと、博麗霊夢のことを考えるのだ。
普段の文に、『はたてと何かをした』という記憶は、思い出は、存在しない。
医者曰く、記憶は絶対に出来ないものではなく、特に『矛盾した出来事』というのは残るらしい。
防衛反応の一つらしい。本来であれば絶対に許容するはずがないであろう出来事が起こったとき、文の脳はそれを『バグ』として蓄積させる。
そしてそのバグが、限界まで積み重なったときに、身体はその矛盾を否定する行動を起こす。
「ねえ、はたて――」
博麗霊夢のことを考え続けているのに。
博麗霊夢を決して認識出来ないという、バグ。
「最近、霊夢を見ないわよね?」
文は、『博麗霊夢が居ない』という事実によって積み重なるバグを、この質問でリセットするのだ。
もう何百年も、博麗霊夢の姿を見ていないという事実を。この質問によってまるで、たった数日見かけていないだけであるかのように、認識し直すのだ。
私が疲れを覚え始めるようになったのは、文がこの質問をするようになってからだった。
これから一生、誰よりも長く文と共に生きても、私は決して、文の永遠になれない。
一瞬を、決して残ることがない一瞬を。
ただ文が、私の存在を識ってくれているという事実に、喜びながら――
「……そろそろ」
生きていかなければならないと悟って。私はただただ、疲弊し、消耗していった。
「薬の時間だわ。持ってきてくれないかしら」
それでも文と一緒に居たいから。壊れそうになる心を薬で支えながらでも。
「もう、しょうがないわね」
そんなことをしていたらいつの間にか、薬の量は多くなり、その作用は強くなっていった。
文が戸棚から取り出してくる。例えばこの薬は精神を安定させるものだ。しかし決まった時間を空けて投与しなければ、その効果は無制限に増幅し、服用者を二度と昏睡から目覚めさせなくする。
「……文、この薬は健常者にはキツすぎるから間違っても飲んじゃダメだからね」
「ふぅん、そうなんだ。まあ私には無縁だし、頼まれても飲みたくないわ」
文の脳は記憶を放棄したが、それでも文に何かを教える方法はある。
条件反射というものだった。今の会話も、まるで文は初めて聞いたかのような反応を見せたが、実はこの話はもう、何百回と聞かせてある。文の身体はこの薬を危険なものと認識して、絶対に飲もうと考えない。
お茶の淹れ方も、身体が覚えているもの。私の薬を取ってくる動きもそうだ。もう、『戸棚』というキーワードを教えなくても、文は戸棚から薬を持ってくる。戸棚の中に薬があるなんて、脳は覚えてないはずなのに。
医者が『同棲の必要』と言ったのはこれが理由だった。私は、文の調教師になるべく、共に生きなければならなかった。
お陰で文は、全てが全て思いついたものを買うという衝動買い方式だが、買い物が出来るようになった。料理をすることが出来るようになった。服が、身体がくさいと感じたら、洗濯も出来るしお風呂にも入ることが出来る。
私はきっと、誇っていい。成し遂げたのだと、誇っていいのかもしれない。
でも、ダメだ。
結局私は言えなかった。何百年と時間があって。何億回と機会があった。それでも私は言えなかった。
当然だ。そんなことをしても意味がない。そう、思ったから。私は、せめて私は日常の中で、文に変わって欲しかった。
その可能性に、賭け続けた。
『射命丸文は、姫海棠はたてを愛している』と。
洗脳のように、催眠のように、何も覚えることが出来ない文に向かって、骨身に染み込ませるために。
その言葉を伝え続けるなんて、私には、とても。
「……文」
今日はもう、何度博麗霊夢の名を聞いただろう。
日に日に、文の質問回数は増えていく。文が愛した博麗霊夢に会えない矛盾、そのバグが、蓄積するスピードが上がっていく。
私は疲れた。もう諦めた。だけど私は成し遂げたのだ。愛する人のために。
息をして餌を食らうだけになるはずの化け物を。
私は、射命丸文にしたのだ。
「身体、だるいから。……お薬、飲ませて」
最後に、もう一度だけ賭けてみる。
たった数分前の行動。その一瞬がもし、僅かでも、文の中に残っているなら。この薬の危険性を知っている文は、条件反射が鳴らす警鐘を、私に伝えてくる。私から薬を遠ざけてくれるはずだ。
もし、文の中で。私が自分の身と等しいほどに大切な――失うことが出来ない、存在ならば。
「もう。甘えん坊め」
文は笑顔で、そう言った。
薬を私の口に放り込み、水の入ったグラスを持たせる。そのグラスを、私の手の上から、そっと優しく包んでくれた。
「ねぇ……文……」
文がこうやって手を包んでくれている。
最愛の人が私のそばにいる。
そうやって死ねるなら、私はきっと幸せに違いない。
悲しいけれど、涙は出ない。
涙なんてもう、何年前に。
何十年前に、枯れ果てただろう。
もう、いいよね。
「……文……もう一つ、お願いがあるんだけど」
「どうしたの?」
いや、ダメだ。
このまま死ぬなんてダメに決まってる。これじゃあ私は聖人君子だ。私はそんなにいい子じゃない。
せめて最期の一瞬だけは。
「グラス、持ち上げるのもきついから――口移しでさ、飲ませてよ」
我侭を言わせて。
「……全く、はたては相変わらず」
苦笑い。文は私からコップを取り上げると、その中の水を口へ含む前に、言った。
「私が居ないとダメなんだから」
文が、水を口に含む。座る私の横に居る。
私の顎に手を当てて、文の顔が近づいてくる。
目を閉じる。
互いの吐息が混ざってすぐに。唇同士が、触れ合った。
口の中に流れてくる、生ぬるい水。
その水が零れたわけでもないのに、私の頬を、同じ温度の水が伝った。
涙が出てる。枯れたはずの涙が。悲しくないのに溢れ出す。
そうだ、これは違う。悲しくないから、私は泣いてる。
こんなに満ち足りている。満ち溢れなければおかしいくらいに。
最愛の人の口づけで。
私は今、最高に幸せなんだ。
涙が満ち溢れるくらい。
私はこんなにも、嬉し――
快活な文が痴呆か
でも不思議と読後感が
良いのは作者さんの力量か
良いもの読ませてもらいました
悲しいなぁ・・・
取り残された文ははたてが死んだとも分からずにずっと反射的に生きるのだろうか。
って言うか、霊夢の世代が居なくなった幻想郷ってそんなに退屈なのか。
しかし最後の一文を見るにはたては誇っていいのだろう
はたての懸命さが伝わってくるよ。あと愛情も。
これで寿命ネタでさえなければ満点だったんだけどなあ...
夫の健忘症が本当かを試すため生命をかけて
日課になってる自分へのインスリン注射を繰り返させ
結果急性低血糖で死んでしまう妻。
読み終えてみるとタイトルもなかなか深い
とても良かったです
胸にくる話ですねぇ。
そしてあとがきの文の独り言で涙が。
しかし心にくる面白いお話でした
いい終末感を味わわせていただきました
なんだかんだ言ってラブラブじゃないですか
辛うじて『射命丸文』を保っている文ちゃんでしたが、はたてを失ってもそれを維持できるんでしょうか
はたての亡骸の前で延々とバグり続けるんでしょうか
それを思うと、愛って偉大
BADENDの筈なのに、不思議と読後感は悪くない。
素敵な作品でした。
それのせいで外なのに泣いた
彼女の歪んだ努力は、決して実らなかった訳ではないのですね。
私は今、最高に幸せなんだ。
そんなことをわざわざ自分自身に言い聞かせなければならなかった、ということは……ですね
ありがとうございました
お見事です。
これは切ない
はたてちゃんが少しは報われてる気がした
このいつかやってくるかもしれない二人だけの世界がとても儚く美しく感じました。
胸が締め付けられるかのようです。
読んだ後なんとも言えない虚無感が胸を支配しています。