今日、寅丸星が博麗神社へ訪れたのは、決して掃除の手伝いをする為ではない筈だった。
お歳暮の菓子折りを渡し、適当に挨拶を交わしたら、それでお終いの筈だった。
しかし、例えそれが毘沙門天の代理であろうと、妖怪が博麗神社を訪れ、そう簡単に帰れるわけもない。去り際、霊夢に首根っこを掴まれ、有無を言わさず薄暗い祭殿へ連れ込まれ、箒と雑巾を押し付けられ、今に至る。
何か理不尽な気もしないでもないが、とにかく星は床板の隅から隅まで、ばたばたと雑巾がけに精を出していた。
「やい、トラ。それが終わったら、次は物置の整理だからね」
「手伝ってあげてるんだから、ちゃんと名前で呼ぶくらいしてくださいよ」
「何よ、『トラ』で十分じゃない。トラ! トラ! トラ!」
「確かに、貴方の戦いは奇襲みたいなものですけどね……」
物置の中は、眩暈を引き起こす有様だった。
博麗神社は土地柄、外の世界の道具が結界を越えて流れてきやすい。しかし、そのほとんどは壊れて動かないものか、使い方のさっぱり分からないものばかりだ。香霖堂でさえ引き取ってくれないものも多く、それらは古くて使われなくなった祭具とともに出鱈目に放り込まれている。
まさに魔界の深淵を思わせる様相であった。
その魔界を構成するガラクタたちを、一旦すべて外へ運び出す。そして、物置の中の埃を掃き出す。ガラクタを点検し、使えそうなものがあれば綺麗に磨き上げる。その後、処分しようにも処分先がないため、使えるものも使えないものも一緒くたに、外に出したガラクタすべてを元通り出鱈目に物置へ投げ込む。それで物置の整理は完了となる。
「何たる徒労か!」
そう声を上げたくなる星だったが、巫女に睨まれては大人しく徒労に就くより仕方ない。全く、牙を折られた虎とはかくも情けないものかと、心の内で自虐の言葉を吐きながら、霊夢に従いガラクタを運ぶ。
すると、何やら気になるものを発見した。
一枚の肖像画。
写真機というものが無い時代に描かれたものだと一目でわかる。そこに描かれた人物の名前は記されていたようだが、上から墨でつぶされ、知ることはできない。
しかし、星はこの人物を知っている。
知っているなどというものではない。
思い出したくはなかった。
忘れたままにしておきたかったその人物を、しかし星は憎しみをもって睨みつける。
かつての辛苦を忘れ平穏に浸っていた星にとっては、その顔はあまりにも冒涜的で破滅的で禍々しい。
「霊夢。……この絵に描かれた方はどなたですか?」
「あん? 多分、何代も前の博麗の巫女じゃないの? 何、あんたの知り合い?」
「ええ。およそ千年前に……」
およそ千年前、私は聖白蓮と数人の妖怪仲間と共に、放浪の旅を続けていた。
聖の説く教義は、「人と妖が平らかとなり、穏やかな世を成すべし」というもの。それはあまりに甘美的であるが、破戒的でもあり、それ故に布教は苦難を極めた。
ひとところに長く留まることは常に叶わず、逃亡ともいえる行脚をひたすらに続けていた。
聖を慕い付き従ってくれていた人妖たちも、辛い旅に耐え兼ね少しずつ減り続け、もう我々数名の妖怪だけとなってしまってからどれ程年月が経ったかも分からない。
旅路の果てに辿り着いた土地は、山間にある小さな部落。周囲を高く険しい山々で囲まれたこの地に続く道はなく、外界とは全く隔絶されていた。名は××郷と呼ぶそうだ。
聖の布教は、ここでようやく成功を収めることとなる。
そもそも、行く先々の町村に住む住民に理解を得るのは、案外容易なことだったのだ。しかしながら、外から見ると、我々が都合よく妖怪の下僕や餌にせんと人間どもを誑かしていると、そう見えるらしい。村の中ではどんなにうまくいっていても、必ず外から流れてきた来訪者に『退治』され、追い出されてしまう。
ここでは、その心配はまるでなかった。
閉ざされた箱庭のような村。結界で囲われたように『来訪者』を拒むこの村の環境は、我々の心強い味方となってくれた。
望み続けた理想が、今、目の前に作られた。
人の及ばぬ力を用い、妖怪はあらゆる力仕事を手助けする。妖怪には足りぬ知恵を用い、人は妖怪に『暮らし』というものを提供した。
人妖の垣根無く、平等に幸福と平穏を分かち合えた。
そうした日々のある日、村に『異変』が現れる。
それは、私が聖と共に寺に集まった人妖相手に説法を説いていた最中、騒々しく舞い込んだ。
「聖! 聖! 山の中で、行き倒れの人間が……!」
「あら、困ったわね。無縁仏は管理が大変なのよ」
「いやいや、まだ死んではおらん様ですよ?」
「であれば、私ではなく、お医者様のところへ駆け込むべきでしょう。何故私のところへ?」
「それが……その行き倒れというのが……」
行き倒れの人間の名は、博麗の何某。巫女であった。
我々はその名を知っていた。妖怪連中には、一部の人間にとっても、有名な人物だ。日本中を回り、妖怪退治の修行を行っている巫女である。
行き倒れの理由は、曰く、満足な準備の無いまま山越えを試みた為であるという。
聖は巫女を招き入れ、十分な食事と住居の世話を行った。
私は、妖怪退治を行う巫女というので警戒し反対したが、追い出した末また山道で遭難でもされればその責は負いかねると聖は言った。また、妖怪を敵視するものの胸中というものを知ることのできる貴重な機会であるとも。
巫女の方も、妖怪に囲まれ居心地が悪そうにはしていたが、命を救われ、衣食住を提供された手前、すぐに大きな行動を起こそうという気は無い様子であった。
そう、『すぐには』……
巫女が住み着き、数日が経った頃、私は周囲の『変化』を感じた。
表層的には、今までと何も変わらない。人妖助け合い平穏な日常が続いていた。しかし、人間が妖怪へ向ける『目』が、日増しに厳しいものになっていっているように思えた。
まるで、何かを見極めようとするかのような、我々を品定めをするような『目』。
私と聖だけは、いまだに信仰の対象として見てもらえているが、門徒の妖怪を連れての外出は次第に容易ではなくなってしまった。
じきに、あからさまな迫害の『目』に変わるのだろう。いつもの如く。
あの巫女の仕業であるのは明白だった。
しかし、これほどまでに尽力して、まだ足りぬとは。
激しい無力感と脱力感がのしかかる。
しかし、博麗の巫女はそれだけで済まさなかった。
我々はどこまでも救われず、赦されない。
思いもよらぬ絶望は、何時如何にして襲ってくるかわからないものだ。
自室でひとり放心していると、訪ねてくる者があった。
夜分遅く、人目を忍ぶように現れたのは、博麗の巫女であった。
「どうしました? 我々を追い出す算段でも告げに来ましたか?」
「追い出す? 妖怪どもが、どうしてそれだけで済まされようか。
告げに来たのは、妖怪狩りの算段だよ」
「何……!? そんな……、我々が何をしたと……」
「今はそうかもしれん。だが、ここに住む妖怪の内、一度も人間を襲ったことのない奴が一匹でもいるか?
いや、そんな問答をしに来たのではない。今夜此処に来たのはな……」
巫女は全てを見透かすような、濁りの無い瞳で私を見据えた。
「お前に、妖怪狩りの助力を乞いに来た」
霊夢と星による倉庫内のガラクタの運び出し作業は、およそ半ばといったところであった。外来の品と思われるものは、本当に何が何やら分からぬものばかりである。
鞄のように肩から下げられるが、荷物を中へ入れられるようにはなっておらず、そのくせズッシリと重い。筋力を鍛える器具か何かかもしれない。紐でつながっているこの部分はいよいよもって訳が分からないが。
香霖堂で鑑定してもらったところ「ショルダーホン」なる代物らしい。
黒い小さな真四角の板切れだ。なんという素材で出来ているかは皆目分からないが、本当にただの薄っぺらい板切れである。むしろこれ自体が何かの素材なのだろうか。この板切れに張り付けられた紙には『東方靈異伝』と記されている。
香霖堂で鑑定してもらったところ「フロッピーデスク」なる代物らしい。
片手で持てるサイズの立方体。側面にはいくつもの穴が開けられている。硬くてなかなかに頑丈そうだ。手で持てるように取ってもついている。鈍器か何かであろうか。
香霖堂で鑑定してもらったところ「ゲエムキュウブ」なる代物らしい。
とにかくこれらの奇々怪々な道具達を外へ運び出す作業は依然進んでいる。
ここで、ようやく星もよく知っているものが出てきた。
ぼろぼろに日焼けした一冊の絵本だ。アルファベットで綴られたタイトルと可愛らしい少女の絵が、くすんだ表紙を賑わせている。洋書というわけではなく、中身は全て幼児向けの日本語で書かれていた。
「気に入ったならあげるわよ?」
「まさか。私も寺の皆さんもそんな年じゃありませんよ」
そういいながら、しかし読んでる間しばしの休憩は与えてもらえるのだろうかと思いながら、星は絵本のページをゆっくりめくっていく。
絵本に登場する少女は、実に信心深い娘であった。病める時も貧しき時も、神様へのお祈りと捧げものを忘れない。
ある日、そんな少女のもとに神様が姿を現した。感心なその少女にご褒美をあげようというのだ。
「願い事を何でも一つかなえてあげよう。言ってごらん?」
少女は「動物と話がしたい」と願った。
「リスさんや、きつねさんや、うさぎさんたちとお喋りができたら、それはとっても素敵だと思うの!」
目を輝かせる少女に、神様は訊いた。
「それは良いことだ。しかし、君が気味悪がっている虫たちなどとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女は少し黙り、答えた。
「でも、もしかしたら、話してみると気の良い虫さんも多いかもしれないわ」
神様はそれに頷き、また訊ねた。
「では、君を食べてしまうかもしれない獰猛な獣たちなどとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女は先程よりも長く考え、答えた。
「でも、言葉を話せれば「私を食べないで」ってお願いすることもできるし、仲良くなればボディーガードにもなってくれるかもしれないわ」
神様はそれに頷き、また訊ねた。
「では、君の食卓にいつもならんでいる、牛豚鶏などの家畜たちとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女はいつまでも黙って俯き続け……
「嫌だ」と、私は巫女がこの村に現れてから、二度発した。
一度目は、聖が巫女をこの村に住まわせることを決めた時だ。
聖の言うことは尤もではあったが、それでも、聖の慈愛は残酷なほど深すぎる。毒と分かって取り込むこともなかろうにと私は再三進言したが、結局私の声は届かなかった。
二度目は、巫女に妖怪狩りの助力を乞われた時だ。
妖怪狩りの決起を村人へ呼びかけたが、やはりこれまでの日々を振り返れば、妖怪への恩を幾らかは感ずるというので、反応が悪い。そこで、毘沙門天として信仰される私を御旗とし、団結を図ろうというのが、巫女の考えだった。
三度目は……言えなかった。
聖のもとへ駆け込み、巫女との話を報告し、即刻この村から逃げるべきだと進言した時だ。
聖は逃げることを拒否した。遅かれ早かれ、このような日は来るだろうと、何年も前から覚悟していたと。門徒の妖怪たちは可能な限り逃がすつもりだが、自分に逃げる意思はないと。そして私へは、毘沙門天として生き延びるべきであり、その為に巫女に協力すべしと。
全てを受け入れた、あまりにも穏やかな顔をした聖を前にして、私は「嫌だ」と我を通すことができなかった。
きっと、巫女は聖がこう言うことも、私が弱いことも、分かっていたのだろう。
宝塔の加護があろうと、何の力も持てない。
私は、本当にただの『お飾り』に過ぎないのか。
何故、こんな私が、毘沙門天様の代理などしているのだろう。
何故、ただ一つ、『平和』というささやかな理想が、これほどまでに遠いのだろう。
何故、こんなに苦しみもがいているのに、毘沙門天様は何もお告げになってくれないのだろう。
何故、我々の罪はこれほどまでに深いのだろう。
あの時、私へ向けられた巫女の瞳は、恐ろしく澱みなく澄んだものだった。
どこまでも、いつまでも、これが『理』で、『正義』であるとするならば……
「ああ……毘沙門天様、何故、我々妖怪は……!」
「あの、宜しいでしょうか」
突如、声を掛けられ、体を強張らせる。
「戸が開いていたもので……申し訳ありません」
いつも私の食事を運んでくれる、人間の娘だった。
聞かれただろうか。私が妖怪だと告白してしまったあの言葉を。
「御夕食をお持ちしまして、その……こちらに置いておきますので」
聞かれたとすれば、如何すれば良い?
私は、この娘を、如何すれば……
「あの……毘沙門天様は……その……」
他へ知られぬ為に、私は、この娘の命を……
「毘沙門天様は、妖怪でいらっしゃるのですか?」
やはり……!
……いや、そこまでする必要はない。一言、たった一言弁解すれば済むのだ。「そんなわけがなかろう」と。「何か聞こえたかもしれんが、それはお前の勘違いだ」と。
言わねばならないのはわかっているのに、口が動いてくれない。
声が出ない。
体が硬直して動かない。
「あ……いや……」
「失礼致しました。では、私はこれで」
「こら! トラ! 体を動かせ!」
絵本を読みふけっていた星への、霊夢の怒声が響いた。
まったく、巫女のくせに毘沙門天をなんだと思っているのか。あ、そうか、宗教が違うのだったか。
「はいはい。今作業に戻りますよー」
星は、渋々立ち上がり、手に持っていた絵本を、『廃棄』と書かれた箱の中へ放り込んだ。
――――言語は雄弁の才能と同様に、神からのじかの贈り物である。
ノア・ウェブスター――――
事が全て終わった後、私は聖の墓標の前に立った。墓標といっても、ここに聖の亡骸は埋まっていない。実際、この妖怪狩りを心から納得して参加した者はむしろ少数派だったようで、村人の意を多少なりとも汲んだと見える博麗の巫女は、聖及び妖怪たちに対して『滅殺』ではなく『封印』という形をとった。そのため、彼女らの亡骸は一つたりとも残っていない。
妖怪の大半は、逃げなかったのだ。
私はこの仮の墓標を前に誓う。
たとえ何百年何千年とかかろうと、彼女らをこの封印から解き放とうと。
何度も聖から救われたこの身を賭して、今度は私が彼女を救うのだと。
その想いを硬く胸に刻み振り返ると、里の方角にある西の空は、燃えるような色に染まっていた。
……いや、しかし、何かがおかしい。
いつの間に、日の入りの時刻になってしまったのだろうか。
それに、あの赤い色は、日の光にしては余りにも鮮やかすぎる。
そして縦に伸びる黒い雲。……違う。あれは、煙か?
「妖怪は例外無く皆殺しだ。そして、それに与した人間も死すべきだ」
背後から、巫女の声が聞こえた。
背筋を這い回る冷たい気配を感じ振り向こうとした瞬間、私の目の前は暴力的に赤く染められ、体には燃えるような激痛が走る。
「神仏の名を騙った妖怪は特に許せんな。封印などと生易しいことは期待するな」
再び、そして三度、訳も分からぬまま、私は巫女に体を切り刻まれる。
力の差は、悔しくも歴然である。私にどうすることができようか。
地に伏し動けなくなるまで、惨めな私は何一つとして抵抗することがかなわなかった。
「さて、次で止めだな。
何か言いたいことがあるのなら、言うだけ言って死んでしまえ」
ああ、それならば、一つ聞きたいことがある。
仏門に帰する私がこの問いを発することを、嗤いたくば嗤ってくれて構わない。
妖怪は確かに人間の恐怖を体現せんがための存在だろう。
そしてその妖怪を人間が討伐することが世の常識であることも確かかもしれん。
いかなる時にあっても、妖怪が人間に屠られるためだけの存在であるのなら、ならば何故……
「なぜ神は! 妖怪に人の言葉をお与えになったのだ!!」
「知るか。あの世で神とやらに訊け」
致命的な一撃を受けたらしい私は、ここで意識が途切れたのだった。
再び目を覚ましたのは、どれ程時間が経った後であろうか。もはや指ひとつ動かす気力も残っておらぬというのに、意識を取り戻したことを激しく後悔した。
「……毘……天様……」
何やら声が聞こえる。誰だろう。もう目も霞んでよく見えぬ。
でも、もう良いだろう。このまま死なせてくれないか。
「……毘沙門天様……。
毘沙門天様は、妖怪でいらっしゃるのですか?」
なるほど。あの時の娘か。よく生き残ったものだ。
そうだとも。私は只の妖怪だ。君らを騙し続けた妖怪だ。どうぞ私を呪っておくれ。
「毘沙門天様が妖怪であられるのならば……
妖怪ならば、人の肉を食らうことでその身を癒す事ができると聞きます」
その言葉とともに、生娘の首筋が、芳醇な柔肌の匂いと感触が、私の口に押し付けられた。
……そんな。何ということだ。まさか……
「どうか私をお食べください」
私は彼女の首に食らいついた。
牙を肌に食い込ませ、骨を砕き、肉を引きちぎりながら、啜り、しゃぶり、貪りついた。
暖かな血が喉を潤す。
柔らかな肉が舌を喜ばせる。
久しく忘れていた妖怪としての感覚、妖怪としての満足を、私は甘美な体の震えとともに思い出した。
私の顔のすぐ横で、彼女が官能的な吐息を漏らしている。
「ん……んはあ……あん……」
どうやら、私の食事を邪魔せぬようにと、その信心深い娘は、口を両手で強く抑え、必死に声を押し殺しているようだ。
でも、良いんだ。どうか君の声を、私に聞かせてくれないか。
娘の腕を掴み下ろしてやると、耳を劈く絶叫が、娘の口から止め処なく放たれた。
「あああがあああああああああああああああああああああああああああああああがあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
そうだ。その声だ。何とも心地良く私の鼓膜を揺さぶってくれる、良い叫び声だ。
溢れ出る恍惚が、私の身を包みこむ。
脳髄に走る愉悦が、私の脳を優しく痺れさせる。
悦びのままに、娘の首、頭、腕、胸、はらわた、脚を丹念に食い尽くしていく。しかし、首からというのは失敗したかもしれない。あの悲痛で麗しい声を、長く聞くことができなかったからだ。
血の一滴零すことなく飲み干し、肉の一片余すことなく食らい、娘の全てを味わい尽くした。
しかして私は、妖怪として死の淵から立ち上がることができた。
足元には毘沙門天より授かった宝塔が転がっている。
仏の道を歩み、己の信条に生き、正義をその胸に宿す者には、慈悲をもって心を照らす輝かしいその灯。しかし、今の私には何よりも忌々しく禍々しく、心の影を鮮明に浮かび上がらせる恐ろしいものに見えた。
もはや私にこれを持つ資格はないということだろう。
宝塔を捨てた私は、毘沙門天の弟子などではなく、ましてや仏の門徒などでもない。
道に迷った、只一匹の、飢えた虎と成り果てた。
博麗霊夢と寅丸星は、どうにか日が落ちきる前に全ての掃除を終えることができた。
寒い冬の時期といえど、あれだけ動けば体も強く火照る。縁側に腰掛け涼んでいた星に、霊夢は一本の瓶を差し出した。
「ごくろうさん。これ、お礼に一本あげるわ。霖之助さんのお店で見つけた『コーラ』という飲み物よ」
星は瓶の栓を抜き一気に飲もうとしたが、激しい刺激に襲われむせ返してしまった。
「なんですかこれは!? 何か喉に刺さりましたよ」
「一気にいくからよ。この刺激が癖になるんだから」
そう言うと霊夢は同じ瓶をもう一本取り出し、少しづつ口に含みながら飲んでいく。
どうやら毒や劇物ではないようだが……。星も今度はおそるおそる、『こおら』をちびちびと舐めてみる。慣れると確かに、不思議な甘さが心地良い。
冷えた『こおら』が喉を潤す。
軽やかな風味が舌を喜ばせる。
ふと、星は独り言のように呟いた。
「霊夢……。なぜ神様は、私たち妖怪に、人の言葉を与えたのでしょうか」
「知らないわよ、そんなの。神様にでも訊きに行けば?」
一言つれなく答えた霊夢だったが、しばし考えた様子を見せ、再度星の顔を覗き込み、こう付け足した。
「……でも、そうね。言葉が通じなきゃ、今日みたいに掃除を手伝わせることもできなかったわけだし。
ありがたく思っとけば良いんじゃないの?」
そう言いながら、霊夢は星へ、屈託のない無邪気な笑顔を向ける。
その瞳は、とても清々しく澄んでいた。
お歳暮の菓子折りを渡し、適当に挨拶を交わしたら、それでお終いの筈だった。
しかし、例えそれが毘沙門天の代理であろうと、妖怪が博麗神社を訪れ、そう簡単に帰れるわけもない。去り際、霊夢に首根っこを掴まれ、有無を言わさず薄暗い祭殿へ連れ込まれ、箒と雑巾を押し付けられ、今に至る。
何か理不尽な気もしないでもないが、とにかく星は床板の隅から隅まで、ばたばたと雑巾がけに精を出していた。
「やい、トラ。それが終わったら、次は物置の整理だからね」
「手伝ってあげてるんだから、ちゃんと名前で呼ぶくらいしてくださいよ」
「何よ、『トラ』で十分じゃない。トラ! トラ! トラ!」
「確かに、貴方の戦いは奇襲みたいなものですけどね……」
物置の中は、眩暈を引き起こす有様だった。
博麗神社は土地柄、外の世界の道具が結界を越えて流れてきやすい。しかし、そのほとんどは壊れて動かないものか、使い方のさっぱり分からないものばかりだ。香霖堂でさえ引き取ってくれないものも多く、それらは古くて使われなくなった祭具とともに出鱈目に放り込まれている。
まさに魔界の深淵を思わせる様相であった。
その魔界を構成するガラクタたちを、一旦すべて外へ運び出す。そして、物置の中の埃を掃き出す。ガラクタを点検し、使えそうなものがあれば綺麗に磨き上げる。その後、処分しようにも処分先がないため、使えるものも使えないものも一緒くたに、外に出したガラクタすべてを元通り出鱈目に物置へ投げ込む。それで物置の整理は完了となる。
「何たる徒労か!」
そう声を上げたくなる星だったが、巫女に睨まれては大人しく徒労に就くより仕方ない。全く、牙を折られた虎とはかくも情けないものかと、心の内で自虐の言葉を吐きながら、霊夢に従いガラクタを運ぶ。
すると、何やら気になるものを発見した。
一枚の肖像画。
写真機というものが無い時代に描かれたものだと一目でわかる。そこに描かれた人物の名前は記されていたようだが、上から墨でつぶされ、知ることはできない。
しかし、星はこの人物を知っている。
知っているなどというものではない。
思い出したくはなかった。
忘れたままにしておきたかったその人物を、しかし星は憎しみをもって睨みつける。
かつての辛苦を忘れ平穏に浸っていた星にとっては、その顔はあまりにも冒涜的で破滅的で禍々しい。
「霊夢。……この絵に描かれた方はどなたですか?」
「あん? 多分、何代も前の博麗の巫女じゃないの? 何、あんたの知り合い?」
「ええ。およそ千年前に……」
およそ千年前、私は聖白蓮と数人の妖怪仲間と共に、放浪の旅を続けていた。
聖の説く教義は、「人と妖が平らかとなり、穏やかな世を成すべし」というもの。それはあまりに甘美的であるが、破戒的でもあり、それ故に布教は苦難を極めた。
ひとところに長く留まることは常に叶わず、逃亡ともいえる行脚をひたすらに続けていた。
聖を慕い付き従ってくれていた人妖たちも、辛い旅に耐え兼ね少しずつ減り続け、もう我々数名の妖怪だけとなってしまってからどれ程年月が経ったかも分からない。
旅路の果てに辿り着いた土地は、山間にある小さな部落。周囲を高く険しい山々で囲まれたこの地に続く道はなく、外界とは全く隔絶されていた。名は××郷と呼ぶそうだ。
聖の布教は、ここでようやく成功を収めることとなる。
そもそも、行く先々の町村に住む住民に理解を得るのは、案外容易なことだったのだ。しかしながら、外から見ると、我々が都合よく妖怪の下僕や餌にせんと人間どもを誑かしていると、そう見えるらしい。村の中ではどんなにうまくいっていても、必ず外から流れてきた来訪者に『退治』され、追い出されてしまう。
ここでは、その心配はまるでなかった。
閉ざされた箱庭のような村。結界で囲われたように『来訪者』を拒むこの村の環境は、我々の心強い味方となってくれた。
望み続けた理想が、今、目の前に作られた。
人の及ばぬ力を用い、妖怪はあらゆる力仕事を手助けする。妖怪には足りぬ知恵を用い、人は妖怪に『暮らし』というものを提供した。
人妖の垣根無く、平等に幸福と平穏を分かち合えた。
そうした日々のある日、村に『異変』が現れる。
それは、私が聖と共に寺に集まった人妖相手に説法を説いていた最中、騒々しく舞い込んだ。
「聖! 聖! 山の中で、行き倒れの人間が……!」
「あら、困ったわね。無縁仏は管理が大変なのよ」
「いやいや、まだ死んではおらん様ですよ?」
「であれば、私ではなく、お医者様のところへ駆け込むべきでしょう。何故私のところへ?」
「それが……その行き倒れというのが……」
行き倒れの人間の名は、博麗の何某。巫女であった。
我々はその名を知っていた。妖怪連中には、一部の人間にとっても、有名な人物だ。日本中を回り、妖怪退治の修行を行っている巫女である。
行き倒れの理由は、曰く、満足な準備の無いまま山越えを試みた為であるという。
聖は巫女を招き入れ、十分な食事と住居の世話を行った。
私は、妖怪退治を行う巫女というので警戒し反対したが、追い出した末また山道で遭難でもされればその責は負いかねると聖は言った。また、妖怪を敵視するものの胸中というものを知ることのできる貴重な機会であるとも。
巫女の方も、妖怪に囲まれ居心地が悪そうにはしていたが、命を救われ、衣食住を提供された手前、すぐに大きな行動を起こそうという気は無い様子であった。
そう、『すぐには』……
巫女が住み着き、数日が経った頃、私は周囲の『変化』を感じた。
表層的には、今までと何も変わらない。人妖助け合い平穏な日常が続いていた。しかし、人間が妖怪へ向ける『目』が、日増しに厳しいものになっていっているように思えた。
まるで、何かを見極めようとするかのような、我々を品定めをするような『目』。
私と聖だけは、いまだに信仰の対象として見てもらえているが、門徒の妖怪を連れての外出は次第に容易ではなくなってしまった。
じきに、あからさまな迫害の『目』に変わるのだろう。いつもの如く。
あの巫女の仕業であるのは明白だった。
しかし、これほどまでに尽力して、まだ足りぬとは。
激しい無力感と脱力感がのしかかる。
しかし、博麗の巫女はそれだけで済まさなかった。
我々はどこまでも救われず、赦されない。
思いもよらぬ絶望は、何時如何にして襲ってくるかわからないものだ。
自室でひとり放心していると、訪ねてくる者があった。
夜分遅く、人目を忍ぶように現れたのは、博麗の巫女であった。
「どうしました? 我々を追い出す算段でも告げに来ましたか?」
「追い出す? 妖怪どもが、どうしてそれだけで済まされようか。
告げに来たのは、妖怪狩りの算段だよ」
「何……!? そんな……、我々が何をしたと……」
「今はそうかもしれん。だが、ここに住む妖怪の内、一度も人間を襲ったことのない奴が一匹でもいるか?
いや、そんな問答をしに来たのではない。今夜此処に来たのはな……」
巫女は全てを見透かすような、濁りの無い瞳で私を見据えた。
「お前に、妖怪狩りの助力を乞いに来た」
霊夢と星による倉庫内のガラクタの運び出し作業は、およそ半ばといったところであった。外来の品と思われるものは、本当に何が何やら分からぬものばかりである。
鞄のように肩から下げられるが、荷物を中へ入れられるようにはなっておらず、そのくせズッシリと重い。筋力を鍛える器具か何かかもしれない。紐でつながっているこの部分はいよいよもって訳が分からないが。
香霖堂で鑑定してもらったところ「ショルダーホン」なる代物らしい。
黒い小さな真四角の板切れだ。なんという素材で出来ているかは皆目分からないが、本当にただの薄っぺらい板切れである。むしろこれ自体が何かの素材なのだろうか。この板切れに張り付けられた紙には『東方靈異伝』と記されている。
香霖堂で鑑定してもらったところ「フロッピーデスク」なる代物らしい。
片手で持てるサイズの立方体。側面にはいくつもの穴が開けられている。硬くてなかなかに頑丈そうだ。手で持てるように取ってもついている。鈍器か何かであろうか。
香霖堂で鑑定してもらったところ「ゲエムキュウブ」なる代物らしい。
とにかくこれらの奇々怪々な道具達を外へ運び出す作業は依然進んでいる。
ここで、ようやく星もよく知っているものが出てきた。
ぼろぼろに日焼けした一冊の絵本だ。アルファベットで綴られたタイトルと可愛らしい少女の絵が、くすんだ表紙を賑わせている。洋書というわけではなく、中身は全て幼児向けの日本語で書かれていた。
「気に入ったならあげるわよ?」
「まさか。私も寺の皆さんもそんな年じゃありませんよ」
そういいながら、しかし読んでる間しばしの休憩は与えてもらえるのだろうかと思いながら、星は絵本のページをゆっくりめくっていく。
絵本に登場する少女は、実に信心深い娘であった。病める時も貧しき時も、神様へのお祈りと捧げものを忘れない。
ある日、そんな少女のもとに神様が姿を現した。感心なその少女にご褒美をあげようというのだ。
「願い事を何でも一つかなえてあげよう。言ってごらん?」
少女は「動物と話がしたい」と願った。
「リスさんや、きつねさんや、うさぎさんたちとお喋りができたら、それはとっても素敵だと思うの!」
目を輝かせる少女に、神様は訊いた。
「それは良いことだ。しかし、君が気味悪がっている虫たちなどとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女は少し黙り、答えた。
「でも、もしかしたら、話してみると気の良い虫さんも多いかもしれないわ」
神様はそれに頷き、また訊ねた。
「では、君を食べてしまうかもしれない獰猛な獣たちなどとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女は先程よりも長く考え、答えた。
「でも、言葉を話せれば「私を食べないで」ってお願いすることもできるし、仲良くなればボディーガードにもなってくれるかもしれないわ」
神様はそれに頷き、また訊ねた。
「では、君の食卓にいつもならんでいる、牛豚鶏などの家畜たちとも話ができるようになるが、構わないかね?」
少女はいつまでも黙って俯き続け……
「嫌だ」と、私は巫女がこの村に現れてから、二度発した。
一度目は、聖が巫女をこの村に住まわせることを決めた時だ。
聖の言うことは尤もではあったが、それでも、聖の慈愛は残酷なほど深すぎる。毒と分かって取り込むこともなかろうにと私は再三進言したが、結局私の声は届かなかった。
二度目は、巫女に妖怪狩りの助力を乞われた時だ。
妖怪狩りの決起を村人へ呼びかけたが、やはりこれまでの日々を振り返れば、妖怪への恩を幾らかは感ずるというので、反応が悪い。そこで、毘沙門天として信仰される私を御旗とし、団結を図ろうというのが、巫女の考えだった。
三度目は……言えなかった。
聖のもとへ駆け込み、巫女との話を報告し、即刻この村から逃げるべきだと進言した時だ。
聖は逃げることを拒否した。遅かれ早かれ、このような日は来るだろうと、何年も前から覚悟していたと。門徒の妖怪たちは可能な限り逃がすつもりだが、自分に逃げる意思はないと。そして私へは、毘沙門天として生き延びるべきであり、その為に巫女に協力すべしと。
全てを受け入れた、あまりにも穏やかな顔をした聖を前にして、私は「嫌だ」と我を通すことができなかった。
きっと、巫女は聖がこう言うことも、私が弱いことも、分かっていたのだろう。
宝塔の加護があろうと、何の力も持てない。
私は、本当にただの『お飾り』に過ぎないのか。
何故、こんな私が、毘沙門天様の代理などしているのだろう。
何故、ただ一つ、『平和』というささやかな理想が、これほどまでに遠いのだろう。
何故、こんなに苦しみもがいているのに、毘沙門天様は何もお告げになってくれないのだろう。
何故、我々の罪はこれほどまでに深いのだろう。
あの時、私へ向けられた巫女の瞳は、恐ろしく澱みなく澄んだものだった。
どこまでも、いつまでも、これが『理』で、『正義』であるとするならば……
「ああ……毘沙門天様、何故、我々妖怪は……!」
「あの、宜しいでしょうか」
突如、声を掛けられ、体を強張らせる。
「戸が開いていたもので……申し訳ありません」
いつも私の食事を運んでくれる、人間の娘だった。
聞かれただろうか。私が妖怪だと告白してしまったあの言葉を。
「御夕食をお持ちしまして、その……こちらに置いておきますので」
聞かれたとすれば、如何すれば良い?
私は、この娘を、如何すれば……
「あの……毘沙門天様は……その……」
他へ知られぬ為に、私は、この娘の命を……
「毘沙門天様は、妖怪でいらっしゃるのですか?」
やはり……!
……いや、そこまでする必要はない。一言、たった一言弁解すれば済むのだ。「そんなわけがなかろう」と。「何か聞こえたかもしれんが、それはお前の勘違いだ」と。
言わねばならないのはわかっているのに、口が動いてくれない。
声が出ない。
体が硬直して動かない。
「あ……いや……」
「失礼致しました。では、私はこれで」
「こら! トラ! 体を動かせ!」
絵本を読みふけっていた星への、霊夢の怒声が響いた。
まったく、巫女のくせに毘沙門天をなんだと思っているのか。あ、そうか、宗教が違うのだったか。
「はいはい。今作業に戻りますよー」
星は、渋々立ち上がり、手に持っていた絵本を、『廃棄』と書かれた箱の中へ放り込んだ。
――――言語は雄弁の才能と同様に、神からのじかの贈り物である。
ノア・ウェブスター――――
事が全て終わった後、私は聖の墓標の前に立った。墓標といっても、ここに聖の亡骸は埋まっていない。実際、この妖怪狩りを心から納得して参加した者はむしろ少数派だったようで、村人の意を多少なりとも汲んだと見える博麗の巫女は、聖及び妖怪たちに対して『滅殺』ではなく『封印』という形をとった。そのため、彼女らの亡骸は一つたりとも残っていない。
妖怪の大半は、逃げなかったのだ。
私はこの仮の墓標を前に誓う。
たとえ何百年何千年とかかろうと、彼女らをこの封印から解き放とうと。
何度も聖から救われたこの身を賭して、今度は私が彼女を救うのだと。
その想いを硬く胸に刻み振り返ると、里の方角にある西の空は、燃えるような色に染まっていた。
……いや、しかし、何かがおかしい。
いつの間に、日の入りの時刻になってしまったのだろうか。
それに、あの赤い色は、日の光にしては余りにも鮮やかすぎる。
そして縦に伸びる黒い雲。……違う。あれは、煙か?
「妖怪は例外無く皆殺しだ。そして、それに与した人間も死すべきだ」
背後から、巫女の声が聞こえた。
背筋を這い回る冷たい気配を感じ振り向こうとした瞬間、私の目の前は暴力的に赤く染められ、体には燃えるような激痛が走る。
「神仏の名を騙った妖怪は特に許せんな。封印などと生易しいことは期待するな」
再び、そして三度、訳も分からぬまま、私は巫女に体を切り刻まれる。
力の差は、悔しくも歴然である。私にどうすることができようか。
地に伏し動けなくなるまで、惨めな私は何一つとして抵抗することがかなわなかった。
「さて、次で止めだな。
何か言いたいことがあるのなら、言うだけ言って死んでしまえ」
ああ、それならば、一つ聞きたいことがある。
仏門に帰する私がこの問いを発することを、嗤いたくば嗤ってくれて構わない。
妖怪は確かに人間の恐怖を体現せんがための存在だろう。
そしてその妖怪を人間が討伐することが世の常識であることも確かかもしれん。
いかなる時にあっても、妖怪が人間に屠られるためだけの存在であるのなら、ならば何故……
「なぜ神は! 妖怪に人の言葉をお与えになったのだ!!」
「知るか。あの世で神とやらに訊け」
致命的な一撃を受けたらしい私は、ここで意識が途切れたのだった。
再び目を覚ましたのは、どれ程時間が経った後であろうか。もはや指ひとつ動かす気力も残っておらぬというのに、意識を取り戻したことを激しく後悔した。
「……毘……天様……」
何やら声が聞こえる。誰だろう。もう目も霞んでよく見えぬ。
でも、もう良いだろう。このまま死なせてくれないか。
「……毘沙門天様……。
毘沙門天様は、妖怪でいらっしゃるのですか?」
なるほど。あの時の娘か。よく生き残ったものだ。
そうだとも。私は只の妖怪だ。君らを騙し続けた妖怪だ。どうぞ私を呪っておくれ。
「毘沙門天様が妖怪であられるのならば……
妖怪ならば、人の肉を食らうことでその身を癒す事ができると聞きます」
その言葉とともに、生娘の首筋が、芳醇な柔肌の匂いと感触が、私の口に押し付けられた。
……そんな。何ということだ。まさか……
「どうか私をお食べください」
私は彼女の首に食らいついた。
牙を肌に食い込ませ、骨を砕き、肉を引きちぎりながら、啜り、しゃぶり、貪りついた。
暖かな血が喉を潤す。
柔らかな肉が舌を喜ばせる。
久しく忘れていた妖怪としての感覚、妖怪としての満足を、私は甘美な体の震えとともに思い出した。
私の顔のすぐ横で、彼女が官能的な吐息を漏らしている。
「ん……んはあ……あん……」
どうやら、私の食事を邪魔せぬようにと、その信心深い娘は、口を両手で強く抑え、必死に声を押し殺しているようだ。
でも、良いんだ。どうか君の声を、私に聞かせてくれないか。
娘の腕を掴み下ろしてやると、耳を劈く絶叫が、娘の口から止め処なく放たれた。
「あああがあああああああああああああああああああああああああああああああがあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
そうだ。その声だ。何とも心地良く私の鼓膜を揺さぶってくれる、良い叫び声だ。
溢れ出る恍惚が、私の身を包みこむ。
脳髄に走る愉悦が、私の脳を優しく痺れさせる。
悦びのままに、娘の首、頭、腕、胸、はらわた、脚を丹念に食い尽くしていく。しかし、首からというのは失敗したかもしれない。あの悲痛で麗しい声を、長く聞くことができなかったからだ。
血の一滴零すことなく飲み干し、肉の一片余すことなく食らい、娘の全てを味わい尽くした。
しかして私は、妖怪として死の淵から立ち上がることができた。
足元には毘沙門天より授かった宝塔が転がっている。
仏の道を歩み、己の信条に生き、正義をその胸に宿す者には、慈悲をもって心を照らす輝かしいその灯。しかし、今の私には何よりも忌々しく禍々しく、心の影を鮮明に浮かび上がらせる恐ろしいものに見えた。
もはや私にこれを持つ資格はないということだろう。
宝塔を捨てた私は、毘沙門天の弟子などではなく、ましてや仏の門徒などでもない。
道に迷った、只一匹の、飢えた虎と成り果てた。
博麗霊夢と寅丸星は、どうにか日が落ちきる前に全ての掃除を終えることができた。
寒い冬の時期といえど、あれだけ動けば体も強く火照る。縁側に腰掛け涼んでいた星に、霊夢は一本の瓶を差し出した。
「ごくろうさん。これ、お礼に一本あげるわ。霖之助さんのお店で見つけた『コーラ』という飲み物よ」
星は瓶の栓を抜き一気に飲もうとしたが、激しい刺激に襲われむせ返してしまった。
「なんですかこれは!? 何か喉に刺さりましたよ」
「一気にいくからよ。この刺激が癖になるんだから」
そう言うと霊夢は同じ瓶をもう一本取り出し、少しづつ口に含みながら飲んでいく。
どうやら毒や劇物ではないようだが……。星も今度はおそるおそる、『こおら』をちびちびと舐めてみる。慣れると確かに、不思議な甘さが心地良い。
冷えた『こおら』が喉を潤す。
軽やかな風味が舌を喜ばせる。
ふと、星は独り言のように呟いた。
「霊夢……。なぜ神様は、私たち妖怪に、人の言葉を与えたのでしょうか」
「知らないわよ、そんなの。神様にでも訊きに行けば?」
一言つれなく答えた霊夢だったが、しばし考えた様子を見せ、再度星の顔を覗き込み、こう付け足した。
「……でも、そうね。言葉が通じなきゃ、今日みたいに掃除を手伝わせることもできなかったわけだし。
ありがたく思っとけば良いんじゃないの?」
そう言いながら、霊夢は星へ、屈託のない無邪気な笑顔を向ける。
その瞳は、とても清々しく澄んでいた。
星ちゃんには今の幻想郷がどう見えるんでしょうかね。
おおむね理想に近いんでしょうか。
大人しくしてないでひと暴れしちゃえばいいのにひじりん。
もっとモンクタイプでガンガンいけば良かったのにとつくづく思う
星強く生きろ……