「ぬえさん。」
白蓮の澄んだ声に呼び止められて、ぬえは足を止めた。
振り返って、廊下の向こう側からこちらを見据える、背の高い白蓮の顔を見上げる。
どうやら、少し怒っているらしい。
「何?」
ぶっきらぼうに答えながら、床のきしむ暗い廊下を白蓮の方へ歩いていく。
自分が今日、白蓮に呼ばれるということがどういうことか、ぬえにはよくわかっていた。
今白蓮が扉を開けて顔をのぞかせているのは通称『説教部屋』と呼ばれ、普段は白蓮が書き物をする際等に使っている小部屋である。
命蓮寺のやんちゃな妖怪達でさえ、滅多なことでは、この部屋まで招き入れられることはなく、ぬえはこの寺に居候するようになってから一度も、この部屋に白蓮以外の誰かが入ることを見たことがない。
そんな曰く付きの小部屋に招き入れられつつある私は、自分ではわからないままに、白蓮にとっての、「滅多なこと」をしてしまったのだろうか?
無言で微笑みを浮かべている白蓮の表情と、その隙間からこぼれ落ちる幽かな妖気が、これから自分に降り掛かる運命を物語っているかのようにぬえには感じられた。
聖に招かれるがままに入ったその部屋は、こじんまりとした茶室のような空間で、隅々まで手入れが行き届いていた。
大きな黒い座敷机の上には既に急須と湯のみに注がれたお茶が用意されており、ふかふかとした羽毛の座布団が、
その両側に対面するような形でセッティングされていた。
朱塗りの盆の上に置かれた湯のみから漂う芳醇なお茶の香りと、漆塗りの茶器に盛られた高級そうな茶菓子は、
しかしどちらかというと、これから始まる時間の優雅さというよりは、その果てしない長さを表しているようで、
その周到な準備の痕跡のようなものに、ぬえは敗北のようなものを感じた。出口はない。飾りのような小窓はあるが、あんなところから出ようものなら、両方の翼が完全に引っかかってしまう。天井も完全に密室だ...。そしてこの部屋はどこか暗く感じられた。
「ぬえさん、そちらに。」
いつの間にか腰を下ろし、ぬえの方に湯のみを置きながら、白蓮が相変わらずの澄んだ声で声をかけてくる。
ここで座ってしまうと、もう二度と立ち上がれないような気がしたぬえだが、白蓮の声の魔力のようなものに負けて、
促されるままにしぶしぶ座布団の上にあぐらをかいた。
何も気づかないふりをして、茶菓子をぺろりと平らげ、ふぅふぅと息を吹きかけながら熱いお茶を口に運ぶ。
その間の白蓮の完全な沈黙が、ぬえには内心怖くてたまらない。
「ぬえさん、最近あなたの噂を耳にしました。」
ぬえがお茶を飲み終わり、湯のみを机に置くタイミングを見計らって、聖が静かに話をはじめた。
ごくっとつばを飲み込む音が、白蓮にも聞こえたのではないかと思えるほど、大きくぬえの中で響く。
もう、お茶はない。退路は断ち切られた。
「な、何の話だよ。」
「...霧の湖。」
「!」
「...魔法の森。」
「えっ!?」
「...迷いの竹林。」
「!!!」
「博麗神社。」
「!!!!」
「...守矢神社も。」
「!!!!!」
「...ナズーリン。」
「!!!!!!」
「...星。」
「!!!!!!!」
「..いろんな話を...です。..ズズッ...」
口から漏らすひとつひとつの言葉に対するぬえの反応を眺めつつ、念入りに観察していた聖はやがて何かをつかんだのか、熱いお茶をさっとすすり、ゆっくりと湯のみを置いた。静かな部屋にことん、という音が響く。
「...もうやめましょうか。これ以上しては『!』マークが尽きてしまいますね。」
「な、なんで聖...そんなに..知って...」
ぬえの心に、緊張と悪寒が走る。
「知っていますよ。あなたは知らないのですか?今はこういう新聞があるのです。」
そういって白蓮は、座敷机の横にある小物箪笥からまだ古くない紙の束をいくつか取り出し、
そのうち一枚を広げてみせた。
そこにはぬえが、霧の湖で氷の妖精をでかいカエルの口の中に頭から押し込んで、それを止めようとする妖精の手を乱暴に振りほどきつつ、高らかに天に向かって勝利のポーズを決めている姿が、ほぼ真横に近いアングルから捉えられていた。
「うっ....!!??」
「まだまだありますよ。」
言葉を失い、写真というものをその時生まれてはじめてみたぬえは、自分の姿が何故ありのまま、まるで風景をそのまま切り取って紙に貼ったように目の前に存在しているのか全く理解できず、新聞紙をめくって紙の裏から写真を確かめようとする。
その動きをそっと制止するように、白蓮は次の新聞をカエルの口からおしりだけ出してぐったりしている哀れなチルノの姿の上に重ねて広げた。
そこには魔法の森で、アリスの家の煙突に、延々キノコを投げ入れ続けるぬえの姿が今度はほぼ真正面のアングルから激写されていた。そしてその写真の横に、『魔法の森きのこ事件、犯人は白黒の魔法使いではない!?』との小見出しが踊っている。大見出しは『人形使いの家、きのこでぱんぱん』だ。
そういえば、湖の時も、誰かの家の煙突にキノコを入れて遊んでいたときも、へんな機械をもった天狗の女が、じっとそれをこちらに向けて、近くを飛び回っていたような気がする。うちでも見たことがないやつだし、危険もなさそうなやつだったので放って置いたが、もしかするとあいつの持っていた機械のようなものが、とんでもなく不吉な道具だったのかもしれない。
つまり、このように、今私の目の前で、あいつが立って道具をこちらに向けていたアングルから目で見たような風景が、この絵なのかなんなのかわからないへんな形でこうして紙の上に、しっかりと自分の姿まで刻印して何かを映し出しているのだから...
大昔に人間から受けた矢の古傷が、再び痛みだすような感覚を、ぬえは体の中に感じ始めていた。
「この新聞は、幻想郷中に出回っているものです。少なくともここに出てくる人たちは、みんな読んでいると考えてよいよでしょう。ぬえさん、あなたはこの新聞をご存知でしたか?」
...ぬえは言葉が出なかった。答えは“知らなかった”だが、なぜか今は単語がしゃべれるような気分ではないし、そのことも悔しい。というより、もはや何の知識もないままのうのうと幻想郷にいる自分が恨めしいほどだった。
天狗にあんな機械が使えたとなると、あいつと一緒にいた記憶を思い出していく限り、次のこともすでに完全にバレているものと考えてよいだろう。
1.迷いの竹林で、正体不明の力を使い、人間の道案内をしている白髪の女を誘導して人間ごと道に迷わせ、その信頼を大いに低めてやったこと。
2.神社の賽銭箱を正体不明の実でいっぱいにしてやったこと。
3.幻想郷にある守矢神社の分社の扉を片っ端から開き、中にカエルの卵とオタマジャクシを詰めてまわったこと。
それらも全部、白蓮が脇に控えている、まだ開かれていない新聞のどれかに載っているに違いない。そうだとすれば、誰一人自分に復讐にすらこないことが、かえってさみしく思われるほどである。それに、罪状はそれだけではない。
ナズーリンの無縁塚の掘っ立て小屋を解体したこと、星の掃除したあとをひたすら汚してまわったり、寝ている時にこっそり宝塔を別の場所に移したりしたこと。響子のライブのバックステージに忍び込んで、アンプの設定を変えたり、PAの電源を落としまくったりしたこと、一輪の髪の毛を寝てる間に少しだけバリカンで剃ったり、雲山でわたがしを作って村紗の帽子の中に押し込んだこと等、それらもすべて、もう聖にはばれているに違いない。
「..全部、知ってたの?」
ぬえはもう、震えが止まりそうになかった。
というより、自分の感情がもうわからない。
「ええ、知っていましたよ。だからあなたを今日ここに呼んだのです。
あなたは自分がしたことが、悪いことだと思いますか?」
わからない...。
「わからないよ。私はただ退屈だから暇をつぶしていただけだ。
ただ、聖はこれを知ったら、怒るだろうなという気はしていたよ。」
そう、怒られそうな気だけは、ずっとしていたんだった...。
「ぬえさん。私は今、それを知っている状態ですね。」
白蓮は、しずかにぬえに語りかける。
「...うん。」
「私は怒っているように見えますか?」
ぬえは白蓮の顔を見る。おだやかな表情で、何を考えているか全くつかみ所がないようだ。
「私に聖の表情は読めないよ。聖のことよくわからないから。」
けれど不思議と、恐怖のようなものは感じない。
「でも、あなたはそれをすると、私が怒ると思ったのでしょう?」
再び白蓮が、やさしい声でぬえに語りかけた。
「...うん。」
ぬえは、急ごしらえのつもりで精一杯しおらしく見せようとしていた自分の演技が、いつの間にか本当の感情に変わりつつあることに気がついて、心の中で驚いた。
「それはあなたが私のことを思ってくれたからということではないですか?
最も、あなたはそれを思うことで、必然的に他の多くの妖怪や、人間のことを思うことになっていたのですけどね。」
「...やっぱり聖の言うことはわからない。」
「ぬえ、それでは一言だけあなたにお尋ねします。あなたは、自分のしたことを悪いことだと思いますか?」
「...」
ぬえには答えられなかった。
それはぬえにとって、とても難しい問題である。ぬえはそういうふうにしないと、他の誰かと関わることができなかった。
そもそも自分の能力がそういうものであるし、そういう自分である以上、それを消してまで、何か他の方法を見つけようと思うことはなかった。けれどもそうした結果は、かつて、ある一人の人間の手による、『退治』という手段をどうしても惹き起こさざるを得ず、そのとき弓矢に射られることによってはじめて、ぬえの心の中に「これではいけない」という自己否定の感情を呼び覚ますことになった。
それから永い封印の歳月が過ぎ、もう一度こうして幻想郷という不思議な場所で生活することになって、その罪悪感のようなものは、複雑に他の感情や環境とからまり、もつれあいながら自分の生き方をどうしてよいかわからない、一種の自暴自棄のような投げやりさとなって、『いたずら』という瑣末なかたちに解消されたのかもしれなかった。
そういう意味ではぬえは、自分のしたことを、はっきりと悪いことだとはわかっていたのである。
というより自分はこのままではいけないと、ぬえはずっとずっとわかっていたのだった。
うつむいたまま何も言おうとしないぬえの態度から、ぬえのそういう気持ちを見抜いた白蓮は、そっと言葉を紡いだ。
「わかりました。ぬえ、それではあなたはこれから、これらの人たちに謝ってきなさい。そして帰ってきたら、みんなでごはんを食べましょう。」
「あなたの言葉でいいから、ごめんなさいという気持ちを、相手の方々にお伝えするのです。」
白蓮の言葉は少しばかり強制の色を帯びていたにもかかわらず、ぬえにはそれが自分の一番欲しかったもののように感じられた。
ぬえは、白蓮に言いくるめられつつある自分を、一方では不満に思いながらも、もう一方では受け入れつつあった。
「...順番に?」
「そう。」
「どういう順番で?」
「それはあなたが決めればいいでしょう。大切なのは、思いを伝えることです。」
「全員に?」
「そう。全員に。」
「ぬえさん、前に進みましょう。」
「...」
私はこんな言葉がほしかったのかもしれない、とぬえは思った。自分では破れなかった、破ろうとしなかったであろう自分の殻を、一緒に突き破ってくれるような、そんな言葉。
乗せられている、ということは、ぬえにもわかっている。これが、宗教をしている人間のやり口だ。これまでの説教の流れで、自分に、自分から謝りに行かせることが、そもそもの白蓮の企みだったということは、ここまでくるともうわかってしまう。けれども、企みとわかっても、この企みは、白蓮には何の益もない企みである。
そこから、やはりこれは自分との戦いなのではないか?という気もする。
しかし、それによって自分が何かしらの益を得るなど、本当にあり得るだろうか?
謝ったところで、私はぬえのままであり、私がぬえであるかぎり、誰かにいたずらをしたり、正体不明の力を使わないなら、私はもはやぬえとは呼べないのではないだろうか?
けどもそんな即席のプライドも、今、目の前の白蓮の、全力の慈愛のようなものに満ちた神々しいオーラを見ていると、なんだかものすごく気恥ずかしい、子供染みた言い訳のように感じてしまう。
天の邪鬼なぬえの心は自分の中を二転三転して、それからゆっくりと身体を動かして座布団の上から立ち上がった。
「...」
無言で、白蓮と向き合い、見つめる。見上げる白蓮の顔。言葉は何を言えばいいのかわからないので、出せない。白蓮の目に何か嘘がないか探ってしまうが、そこには自分に対する信頼のようなものしか見当たらない。ぬえは静かに部屋の入り口に向かい、ゆっくりと扉をあけた。
「いってらっしゃい。」
後ろから白蓮の声がする。その声が背中にのしかかる。その重さは、この宇宙の質量とは比べ物にならないほど苦しい。もうこうなってしまっては、行くしかないのだ。「いってきます。」といい、自分自身のこのもやもやとした気持ちに、決着をつけるしかない。
「...じゃっ。」
結局、「いってきます。」だけはどうしても言えなかったぬえは、顔を赤らめながら扉を閉めると、ぱたぱたと床のきしむ廊下を渡り、強い日差しにまゆをそばめながら、日のあたる縁側から、そのまま一気に飛び立った。
ぬえが霧の湖の方角へ飛んでいくのを小窓から見送ってから、白蓮はゆっくりと身繕いをして立ち上がった。笑顔で部屋の反対側の壁に向かい、そこに向かって4、5回、一定のリズムでコンコンとノックをする。
と、とたんにどこからともなく木の葉が4、5枚ふわっと宙を漂ってきて、「どろん」というマンガのような音がしたかと思うと、机の上の新聞紙が葉っぱへと変わった。スーッと開いた扉から、中へ入ってくるのは天狗の新聞記者の姿をしたマミゾウである。
「あっはっは。あいつめ、すっかり騙されおったな。」
お尻からポンとしっぽを出し、そのままどろんと宙返り、狭い部屋に埃を舞わせて、マミゾウはもとの姿へ戻る。
「マミゾウさん、ご協力感謝いたします。」
「なんのなんの。儂もあいつの振る舞いには喝を入れてやらんといかんと思っとったんじゃ。これで大成功じゃな。罰ゲームじゃ。あっはっは。」
「それにしてもマミゾウさん、よくぬえさんに見破られませんでしたね。」
「あはは。儂とあいつでは化かし合いの年季が違うわい。」
今回の事柄は、全て白蓮とマミゾウの練った周到な計画であった。
弟子の日頃の行状に心を痛めていた白蓮と、幻想郷での生活になじめないぬえを見かねたマミゾウは、ある日二人でこっそりと示し合わせ、家人の寝静まった夜に、この部屋で会談を開いた。そこで、まず天狗の変装をしたマミゾウがぬえの行動を追跡し、その内容を記した偽物の新聞を葉っぱで作り、次に白蓮が説教と題してぬえにそれらの偽の新聞を見せて反省を促す、という作戦が完成した。
ぬえに悪いことを悪いと認識させ、幻想郷の住民に、ぬえから積極的に声をかけていくような、そういう機会を作ってやるという作戦である。
「ただ説教するだけじゃ、あいつのことじゃ、テキトーに自分もごまかしてなかったことにしてしまっていたじゃろう。
そして儂がいくら友達を作れといってもあいつは儂にべったりじゃからな。今回のことはあいつにとってもいい機会になったじゃろうて。」
天狗の新聞など天狗以外誰も読まないわけだから、ぬえさえ事前にそれを読んでいないことさえ確認できれば、好きなように記事を作れたし、また、ぬえが謝りに行った誰かに、ぬえが新聞のことを話しても、被害じたいが実際にあった以上、それが新聞に載っているかいないかなど、おそらく誰も気にしないはずである。実際の新聞に実際のぬえのいたずらが載っていたとしても、それもまた、ぬえにとっても相手にとっても同じことであろう。
「けれど、ぬえさん、ちゃんと謝りに行けたでしょうか?」
「うーん。たしかにあいつは小心者じゃからな。道草くらい食っとるかもしれん..。
しかしまあ大丈夫じゃろう。...○○神社とか××神社とか、一番やっちゃいけない級のいたずらも何個かしとるからの。」
「...そうですね...南無三。」
「ま、ここは弟子の修行をあたたかく見守ってやることじゃろうな。」
そう言ってマミゾウは、ぬえの座っていた座布団にどっかと腰を下ろし、おもむろに懐からお猪口と徳利を取り出し、さっそく注ぐ。やることさえやってしまえば、あとはもう他人事なのである。
「それにしてもあんたはやはり策士じゃな。だてに魔界に封印されてはおらんのう。さすがは妖怪寺の住職じゃ。そうやってぬえのことを気にかけているように見せかけて、だんだんとぬえの心を仏教の方に向けていこうという魂胆じゃろ?なんせあいつはもう餌のついた針に食いついてしまったからのう。」
「私はただあの子がもっとこの場所で楽しく暮らせるようにと思っているだけですよ。」
「それが本心からの言葉だからタチが悪いんじゃが...。はは。ま、あいつがお経を唱える姿も見ものじゃろうて。」
酒の臭いに辟易しながらも、同じ一匹の妖怪を思う同士に向けて、白蓮は笑顔で声をかける。
「マミゾウさんは仏教にご関心は?」
「儂は化け狸じゃからの。坊主にぐらいいつでも化けられるよ。あっはっは。なんなら儂があいつにお経を教えてやろうかの。」
南無三、南無三...。
ぬえが忙しげに幻想郷中を飛び交う中、命蓮寺の屋根の下ではそのような会話が繰り広げられていた。
おしまい
白蓮の澄んだ声に呼び止められて、ぬえは足を止めた。
振り返って、廊下の向こう側からこちらを見据える、背の高い白蓮の顔を見上げる。
どうやら、少し怒っているらしい。
「何?」
ぶっきらぼうに答えながら、床のきしむ暗い廊下を白蓮の方へ歩いていく。
自分が今日、白蓮に呼ばれるということがどういうことか、ぬえにはよくわかっていた。
今白蓮が扉を開けて顔をのぞかせているのは通称『説教部屋』と呼ばれ、普段は白蓮が書き物をする際等に使っている小部屋である。
命蓮寺のやんちゃな妖怪達でさえ、滅多なことでは、この部屋まで招き入れられることはなく、ぬえはこの寺に居候するようになってから一度も、この部屋に白蓮以外の誰かが入ることを見たことがない。
そんな曰く付きの小部屋に招き入れられつつある私は、自分ではわからないままに、白蓮にとっての、「滅多なこと」をしてしまったのだろうか?
無言で微笑みを浮かべている白蓮の表情と、その隙間からこぼれ落ちる幽かな妖気が、これから自分に降り掛かる運命を物語っているかのようにぬえには感じられた。
聖に招かれるがままに入ったその部屋は、こじんまりとした茶室のような空間で、隅々まで手入れが行き届いていた。
大きな黒い座敷机の上には既に急須と湯のみに注がれたお茶が用意されており、ふかふかとした羽毛の座布団が、
その両側に対面するような形でセッティングされていた。
朱塗りの盆の上に置かれた湯のみから漂う芳醇なお茶の香りと、漆塗りの茶器に盛られた高級そうな茶菓子は、
しかしどちらかというと、これから始まる時間の優雅さというよりは、その果てしない長さを表しているようで、
その周到な準備の痕跡のようなものに、ぬえは敗北のようなものを感じた。出口はない。飾りのような小窓はあるが、あんなところから出ようものなら、両方の翼が完全に引っかかってしまう。天井も完全に密室だ...。そしてこの部屋はどこか暗く感じられた。
「ぬえさん、そちらに。」
いつの間にか腰を下ろし、ぬえの方に湯のみを置きながら、白蓮が相変わらずの澄んだ声で声をかけてくる。
ここで座ってしまうと、もう二度と立ち上がれないような気がしたぬえだが、白蓮の声の魔力のようなものに負けて、
促されるままにしぶしぶ座布団の上にあぐらをかいた。
何も気づかないふりをして、茶菓子をぺろりと平らげ、ふぅふぅと息を吹きかけながら熱いお茶を口に運ぶ。
その間の白蓮の完全な沈黙が、ぬえには内心怖くてたまらない。
「ぬえさん、最近あなたの噂を耳にしました。」
ぬえがお茶を飲み終わり、湯のみを机に置くタイミングを見計らって、聖が静かに話をはじめた。
ごくっとつばを飲み込む音が、白蓮にも聞こえたのではないかと思えるほど、大きくぬえの中で響く。
もう、お茶はない。退路は断ち切られた。
「な、何の話だよ。」
「...霧の湖。」
「!」
「...魔法の森。」
「えっ!?」
「...迷いの竹林。」
「!!!」
「博麗神社。」
「!!!!」
「...守矢神社も。」
「!!!!!」
「...ナズーリン。」
「!!!!!!」
「...星。」
「!!!!!!!」
「..いろんな話を...です。..ズズッ...」
口から漏らすひとつひとつの言葉に対するぬえの反応を眺めつつ、念入りに観察していた聖はやがて何かをつかんだのか、熱いお茶をさっとすすり、ゆっくりと湯のみを置いた。静かな部屋にことん、という音が響く。
「...もうやめましょうか。これ以上しては『!』マークが尽きてしまいますね。」
「な、なんで聖...そんなに..知って...」
ぬえの心に、緊張と悪寒が走る。
「知っていますよ。あなたは知らないのですか?今はこういう新聞があるのです。」
そういって白蓮は、座敷机の横にある小物箪笥からまだ古くない紙の束をいくつか取り出し、
そのうち一枚を広げてみせた。
そこにはぬえが、霧の湖で氷の妖精をでかいカエルの口の中に頭から押し込んで、それを止めようとする妖精の手を乱暴に振りほどきつつ、高らかに天に向かって勝利のポーズを決めている姿が、ほぼ真横に近いアングルから捉えられていた。
「うっ....!!??」
「まだまだありますよ。」
言葉を失い、写真というものをその時生まれてはじめてみたぬえは、自分の姿が何故ありのまま、まるで風景をそのまま切り取って紙に貼ったように目の前に存在しているのか全く理解できず、新聞紙をめくって紙の裏から写真を確かめようとする。
その動きをそっと制止するように、白蓮は次の新聞をカエルの口からおしりだけ出してぐったりしている哀れなチルノの姿の上に重ねて広げた。
そこには魔法の森で、アリスの家の煙突に、延々キノコを投げ入れ続けるぬえの姿が今度はほぼ真正面のアングルから激写されていた。そしてその写真の横に、『魔法の森きのこ事件、犯人は白黒の魔法使いではない!?』との小見出しが踊っている。大見出しは『人形使いの家、きのこでぱんぱん』だ。
そういえば、湖の時も、誰かの家の煙突にキノコを入れて遊んでいたときも、へんな機械をもった天狗の女が、じっとそれをこちらに向けて、近くを飛び回っていたような気がする。うちでも見たことがないやつだし、危険もなさそうなやつだったので放って置いたが、もしかするとあいつの持っていた機械のようなものが、とんでもなく不吉な道具だったのかもしれない。
つまり、このように、今私の目の前で、あいつが立って道具をこちらに向けていたアングルから目で見たような風景が、この絵なのかなんなのかわからないへんな形でこうして紙の上に、しっかりと自分の姿まで刻印して何かを映し出しているのだから...
大昔に人間から受けた矢の古傷が、再び痛みだすような感覚を、ぬえは体の中に感じ始めていた。
「この新聞は、幻想郷中に出回っているものです。少なくともここに出てくる人たちは、みんな読んでいると考えてよいよでしょう。ぬえさん、あなたはこの新聞をご存知でしたか?」
...ぬえは言葉が出なかった。答えは“知らなかった”だが、なぜか今は単語がしゃべれるような気分ではないし、そのことも悔しい。というより、もはや何の知識もないままのうのうと幻想郷にいる自分が恨めしいほどだった。
天狗にあんな機械が使えたとなると、あいつと一緒にいた記憶を思い出していく限り、次のこともすでに完全にバレているものと考えてよいだろう。
1.迷いの竹林で、正体不明の力を使い、人間の道案内をしている白髪の女を誘導して人間ごと道に迷わせ、その信頼を大いに低めてやったこと。
2.神社の賽銭箱を正体不明の実でいっぱいにしてやったこと。
3.幻想郷にある守矢神社の分社の扉を片っ端から開き、中にカエルの卵とオタマジャクシを詰めてまわったこと。
それらも全部、白蓮が脇に控えている、まだ開かれていない新聞のどれかに載っているに違いない。そうだとすれば、誰一人自分に復讐にすらこないことが、かえってさみしく思われるほどである。それに、罪状はそれだけではない。
ナズーリンの無縁塚の掘っ立て小屋を解体したこと、星の掃除したあとをひたすら汚してまわったり、寝ている時にこっそり宝塔を別の場所に移したりしたこと。響子のライブのバックステージに忍び込んで、アンプの設定を変えたり、PAの電源を落としまくったりしたこと、一輪の髪の毛を寝てる間に少しだけバリカンで剃ったり、雲山でわたがしを作って村紗の帽子の中に押し込んだこと等、それらもすべて、もう聖にはばれているに違いない。
「..全部、知ってたの?」
ぬえはもう、震えが止まりそうになかった。
というより、自分の感情がもうわからない。
「ええ、知っていましたよ。だからあなたを今日ここに呼んだのです。
あなたは自分がしたことが、悪いことだと思いますか?」
わからない...。
「わからないよ。私はただ退屈だから暇をつぶしていただけだ。
ただ、聖はこれを知ったら、怒るだろうなという気はしていたよ。」
そう、怒られそうな気だけは、ずっとしていたんだった...。
「ぬえさん。私は今、それを知っている状態ですね。」
白蓮は、しずかにぬえに語りかける。
「...うん。」
「私は怒っているように見えますか?」
ぬえは白蓮の顔を見る。おだやかな表情で、何を考えているか全くつかみ所がないようだ。
「私に聖の表情は読めないよ。聖のことよくわからないから。」
けれど不思議と、恐怖のようなものは感じない。
「でも、あなたはそれをすると、私が怒ると思ったのでしょう?」
再び白蓮が、やさしい声でぬえに語りかけた。
「...うん。」
ぬえは、急ごしらえのつもりで精一杯しおらしく見せようとしていた自分の演技が、いつの間にか本当の感情に変わりつつあることに気がついて、心の中で驚いた。
「それはあなたが私のことを思ってくれたからということではないですか?
最も、あなたはそれを思うことで、必然的に他の多くの妖怪や、人間のことを思うことになっていたのですけどね。」
「...やっぱり聖の言うことはわからない。」
「ぬえ、それでは一言だけあなたにお尋ねします。あなたは、自分のしたことを悪いことだと思いますか?」
「...」
ぬえには答えられなかった。
それはぬえにとって、とても難しい問題である。ぬえはそういうふうにしないと、他の誰かと関わることができなかった。
そもそも自分の能力がそういうものであるし、そういう自分である以上、それを消してまで、何か他の方法を見つけようと思うことはなかった。けれどもそうした結果は、かつて、ある一人の人間の手による、『退治』という手段をどうしても惹き起こさざるを得ず、そのとき弓矢に射られることによってはじめて、ぬえの心の中に「これではいけない」という自己否定の感情を呼び覚ますことになった。
それから永い封印の歳月が過ぎ、もう一度こうして幻想郷という不思議な場所で生活することになって、その罪悪感のようなものは、複雑に他の感情や環境とからまり、もつれあいながら自分の生き方をどうしてよいかわからない、一種の自暴自棄のような投げやりさとなって、『いたずら』という瑣末なかたちに解消されたのかもしれなかった。
そういう意味ではぬえは、自分のしたことを、はっきりと悪いことだとはわかっていたのである。
というより自分はこのままではいけないと、ぬえはずっとずっとわかっていたのだった。
うつむいたまま何も言おうとしないぬえの態度から、ぬえのそういう気持ちを見抜いた白蓮は、そっと言葉を紡いだ。
「わかりました。ぬえ、それではあなたはこれから、これらの人たちに謝ってきなさい。そして帰ってきたら、みんなでごはんを食べましょう。」
「あなたの言葉でいいから、ごめんなさいという気持ちを、相手の方々にお伝えするのです。」
白蓮の言葉は少しばかり強制の色を帯びていたにもかかわらず、ぬえにはそれが自分の一番欲しかったもののように感じられた。
ぬえは、白蓮に言いくるめられつつある自分を、一方では不満に思いながらも、もう一方では受け入れつつあった。
「...順番に?」
「そう。」
「どういう順番で?」
「それはあなたが決めればいいでしょう。大切なのは、思いを伝えることです。」
「全員に?」
「そう。全員に。」
「ぬえさん、前に進みましょう。」
「...」
私はこんな言葉がほしかったのかもしれない、とぬえは思った。自分では破れなかった、破ろうとしなかったであろう自分の殻を、一緒に突き破ってくれるような、そんな言葉。
乗せられている、ということは、ぬえにもわかっている。これが、宗教をしている人間のやり口だ。これまでの説教の流れで、自分に、自分から謝りに行かせることが、そもそもの白蓮の企みだったということは、ここまでくるともうわかってしまう。けれども、企みとわかっても、この企みは、白蓮には何の益もない企みである。
そこから、やはりこれは自分との戦いなのではないか?という気もする。
しかし、それによって自分が何かしらの益を得るなど、本当にあり得るだろうか?
謝ったところで、私はぬえのままであり、私がぬえであるかぎり、誰かにいたずらをしたり、正体不明の力を使わないなら、私はもはやぬえとは呼べないのではないだろうか?
けどもそんな即席のプライドも、今、目の前の白蓮の、全力の慈愛のようなものに満ちた神々しいオーラを見ていると、なんだかものすごく気恥ずかしい、子供染みた言い訳のように感じてしまう。
天の邪鬼なぬえの心は自分の中を二転三転して、それからゆっくりと身体を動かして座布団の上から立ち上がった。
「...」
無言で、白蓮と向き合い、見つめる。見上げる白蓮の顔。言葉は何を言えばいいのかわからないので、出せない。白蓮の目に何か嘘がないか探ってしまうが、そこには自分に対する信頼のようなものしか見当たらない。ぬえは静かに部屋の入り口に向かい、ゆっくりと扉をあけた。
「いってらっしゃい。」
後ろから白蓮の声がする。その声が背中にのしかかる。その重さは、この宇宙の質量とは比べ物にならないほど苦しい。もうこうなってしまっては、行くしかないのだ。「いってきます。」といい、自分自身のこのもやもやとした気持ちに、決着をつけるしかない。
「...じゃっ。」
結局、「いってきます。」だけはどうしても言えなかったぬえは、顔を赤らめながら扉を閉めると、ぱたぱたと床のきしむ廊下を渡り、強い日差しにまゆをそばめながら、日のあたる縁側から、そのまま一気に飛び立った。
ぬえが霧の湖の方角へ飛んでいくのを小窓から見送ってから、白蓮はゆっくりと身繕いをして立ち上がった。笑顔で部屋の反対側の壁に向かい、そこに向かって4、5回、一定のリズムでコンコンとノックをする。
と、とたんにどこからともなく木の葉が4、5枚ふわっと宙を漂ってきて、「どろん」というマンガのような音がしたかと思うと、机の上の新聞紙が葉っぱへと変わった。スーッと開いた扉から、中へ入ってくるのは天狗の新聞記者の姿をしたマミゾウである。
「あっはっは。あいつめ、すっかり騙されおったな。」
お尻からポンとしっぽを出し、そのままどろんと宙返り、狭い部屋に埃を舞わせて、マミゾウはもとの姿へ戻る。
「マミゾウさん、ご協力感謝いたします。」
「なんのなんの。儂もあいつの振る舞いには喝を入れてやらんといかんと思っとったんじゃ。これで大成功じゃな。罰ゲームじゃ。あっはっは。」
「それにしてもマミゾウさん、よくぬえさんに見破られませんでしたね。」
「あはは。儂とあいつでは化かし合いの年季が違うわい。」
今回の事柄は、全て白蓮とマミゾウの練った周到な計画であった。
弟子の日頃の行状に心を痛めていた白蓮と、幻想郷での生活になじめないぬえを見かねたマミゾウは、ある日二人でこっそりと示し合わせ、家人の寝静まった夜に、この部屋で会談を開いた。そこで、まず天狗の変装をしたマミゾウがぬえの行動を追跡し、その内容を記した偽物の新聞を葉っぱで作り、次に白蓮が説教と題してぬえにそれらの偽の新聞を見せて反省を促す、という作戦が完成した。
ぬえに悪いことを悪いと認識させ、幻想郷の住民に、ぬえから積極的に声をかけていくような、そういう機会を作ってやるという作戦である。
「ただ説教するだけじゃ、あいつのことじゃ、テキトーに自分もごまかしてなかったことにしてしまっていたじゃろう。
そして儂がいくら友達を作れといってもあいつは儂にべったりじゃからな。今回のことはあいつにとってもいい機会になったじゃろうて。」
天狗の新聞など天狗以外誰も読まないわけだから、ぬえさえ事前にそれを読んでいないことさえ確認できれば、好きなように記事を作れたし、また、ぬえが謝りに行った誰かに、ぬえが新聞のことを話しても、被害じたいが実際にあった以上、それが新聞に載っているかいないかなど、おそらく誰も気にしないはずである。実際の新聞に実際のぬえのいたずらが載っていたとしても、それもまた、ぬえにとっても相手にとっても同じことであろう。
「けれど、ぬえさん、ちゃんと謝りに行けたでしょうか?」
「うーん。たしかにあいつは小心者じゃからな。道草くらい食っとるかもしれん..。
しかしまあ大丈夫じゃろう。...○○神社とか××神社とか、一番やっちゃいけない級のいたずらも何個かしとるからの。」
「...そうですね...南無三。」
「ま、ここは弟子の修行をあたたかく見守ってやることじゃろうな。」
そう言ってマミゾウは、ぬえの座っていた座布団にどっかと腰を下ろし、おもむろに懐からお猪口と徳利を取り出し、さっそく注ぐ。やることさえやってしまえば、あとはもう他人事なのである。
「それにしてもあんたはやはり策士じゃな。だてに魔界に封印されてはおらんのう。さすがは妖怪寺の住職じゃ。そうやってぬえのことを気にかけているように見せかけて、だんだんとぬえの心を仏教の方に向けていこうという魂胆じゃろ?なんせあいつはもう餌のついた針に食いついてしまったからのう。」
「私はただあの子がもっとこの場所で楽しく暮らせるようにと思っているだけですよ。」
「それが本心からの言葉だからタチが悪いんじゃが...。はは。ま、あいつがお経を唱える姿も見ものじゃろうて。」
酒の臭いに辟易しながらも、同じ一匹の妖怪を思う同士に向けて、白蓮は笑顔で声をかける。
「マミゾウさんは仏教にご関心は?」
「儂は化け狸じゃからの。坊主にぐらいいつでも化けられるよ。あっはっは。なんなら儂があいつにお経を教えてやろうかの。」
南無三、南無三...。
ぬえが忙しげに幻想郷中を飛び交う中、命蓮寺の屋根の下ではそのような会話が繰り広げられていた。
おしまい
ひねくれぬえちゃん可愛いです。
聖さんは何故か策士であることが似合う
校正も良いんだが、その上で白連の名前さえ間違えなければ満点だったんだが。
私は東方が好きならば、「キャラの名前は絶対に間違えるべからず」という信念がありますので、その辺を考慮して評価しております。
この作品でのコメントを期に、名前の誤字が無くなれば幸いです。
話の感想としてはぬえの存在意義?(使い方間違えてるかも)と言うか考えさせられる話だと思いました。
ぬえもだけど小傘も相手を驚かすのを生きがいとしてる妖怪が楽園に来たらどうするか、生き方を変えていくのかそんなことを考えてしまう話でした
まさか自分もよりによって白蓮の蓮ならともかく、白の方を間違えるとは思ってもみませんでした…
話としては聖とぬえがどんな会話をしているのかがよくわからず、聖の口調もあちこちで違うため悩みました。
マミゾウ氏は完全に鈴奈庵に依拠しております!
次回はもう少しおもしろい話を投稿したいと思いますのでよろしくお願いいたします。
偉そうなことを言ってすみませんでした!
しかし雲山が綿菓子からできているという驚愕には及ばない。
実際にぬえはいろいろ悩んでこういうことしそう。