Coolier - 新生・東方創想話

ひこぼし

2013/06/10 02:32:18
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 頃は白昼。
 地上八〇〇メートルにある扉が背後で閉まり、京都地表への唯一の帰り道が塞がれた。振り返った宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが呆気にとられる間も、施設入り口に置いてあるモニターはエレベーターに関する注意事項を写している。
 二人の向こうへ広がるのは、昼の陽光を欲しいままに浴びる草地。高空の猛烈な風雨に耐え、柔軟性に富む透明な半球の天蓋にすっぽりと覆われた空間内は、申し分のない気温と湿度に保たれている。
 なだらかな起伏のある人工の丘の右手にあるのは、白い素朴な建物と、唯一の異常――数世紀前の意匠で建てられた、木造の平屋。その異常が、秘封倶楽部というオカルトサークルをやっている彼女たちの目的地だった。その名は牛舎。
 今日、二人は本物の生きた牛を見に来たのだった。
 四方(よも)には京都を見下ろす全景が広がり、盆地を囲む山々の尾根ひとつひとつを見ることもできた。
 京都と東京間を地下新幹線が五十三分で繋ぐこの時代、科学力は光学迷彩で包まれた不可視の浮遊地の存在を可能としていた。観光事業が大きな収入源である都市であったため、景観には細心の注意が払われているのだ。
 さて、この科学の結晶を訪れた彼女たちは十一歳の大学生であり、蓮子は超統一物理学を、メリー(蓮子は彼女をそう呼んだ)は相対性精神学を専攻している。
 浮遊実験地は彼女達の通う大学自慢の施設の一つではあったが、使用は都市計画科と食物造形科にほぼ限られていたため、本来は二人が目の当たりにすることは無いはずだった。
 偶然知らされた施設の空白期間が、行動的な蓮子の好奇心に火を点けなければ。未知の施設を覗き見るチャンスであり、前に計画した月面ツアーよりは遙かに現実的でもある。
 この侵入を提案されたメリーと言えば、困った顔をしながらも瞳は蓮子と同じ輝きを宿していた。春のとりどりの花さながらに。

『母校自慢の研究施設を、たっぷり覗き見して来ましょうか』

 こうして二人の子供は、勇気と少しの嘘を使って目的地へ乗り込み、警告もなく閉じ込められた。
 透明金属の扉が沈黙を守り続ける中、彼女たちの心に状況への理解が緩やかに広がり、閉じこめられたのではないかと疑惑が生まれる。我に返った蓮子とメリーは、真っ先に世界中へ張り巡らされた電子の情報網を立ち上げようと、端末の起動認証を行った。角膜に貼り付けられた人工樹脂のレンズへ映し出されるウィンドウには、外部からのアクセスが全て遮断されている状態を示すサインがありありと浮かぶ。
 躍起になって探し当てた利用可能な情報網は施設内で使用するデータベースのみで、この情報経路も外部に繋がっているのが当然であるにも関わらず、どう探っても出口は見つからなかった。
 次に物理的、電子的な鍵やスイッチを全て調べ、手当たり次第に切り替えようと試み、全てが効果なしとみるや二人は顔を見合わせた。

「困ったわね」

 蓮子が馬鹿げた厚さの扉を肘で四度小突いた後、足を振り上げて蹴りつけんとしたためにメリーは制止して、忍耐が必要だと説いた。

「相談しましょう」
「いいわよ。私、どうしてこうなったのか解らないわ」
「私もよ」
「終わったわね」

 すぐさま扉を蹴りつけようとする蓮子の身体を、メリーは強く引き止めた。

「防犯警報が鳴る前に足を挫くわよ」
「それも込みで蹴るの。私たちのバイタルサインに異常があれば緊急要請が行くでしょ」
「外へ通信が繋がってない状態で、どこに要請が行くのよ。そういう時は、レトロな方法を試すべきよ。おーい! 誰か助けてぇ!」

 素っ頓狂な大声を上げたメリーに目を白黒させて、今度は蓮子が友人の口を掌で塞ぐ。

「ちょっと、バカみたいな声出さないで。多分無理よ。無人の日を狙ってやって来たんだから」
「ちぇっ」

 ふと風に運ばれてきた肥堆(こえづか)の臭いに、メリーは鼻をつまむ。

「それにしても酷い臭いねぇ! 天然の牛って、こんなに臭いの?」
「ラフレシアじゃないんだから」
「なにそれ」
「昔どこかの観光地に生えてた、腐敗臭で人間を引き寄せる花だったかしら? ともかく、このきついのは多分、動物由来の肥料だと思う。美味しい肉を作るために、餌も随分と古い方法で育ててるんですって」
「ふぅん」

 眉をしかめたままメリーは辺りを見回し、牛舎の横にある白い建物を指さした。

「あの建物に避難しましょう。えーと、設備利用者用の家ですって。中まで臭いは来ないでしょうし、お茶もあるからその香りで相殺よ」

 瞳に映る仮想現実の表示を確認しながらの提案だったが、蓮子は渋い顔をする。

「勝手に使ったら怒られるわよ」
「ズルして入り込んだのよ。どっちにしろ、後でこっぴどく叱られるわ」
「このまま静かに黙ってても、お茶を飲み散らかしても一緒?」
「一緒ね。だから、あそこでゆっくりしましょうよ」
「メリーって図太いわよね。ああ、でも、この牧場では珍しい連休は確か三日間あったはずだから、しばらく過ごさなきゃいけないかもしれない。となると、食料と寝床の有無を調べるのは合理的かしら」
「そうならないように努力しましょう」
「こういう時のために、無線に頼らない、レトロな通信手段とか装備されてるべきよ」
「紙飛行機とか?」
「光信号が現実的かしら」
「なるほどすごいわね。光学迷彩をオフにできればだけど」

 素朴に過ぎる道を辿って二人は白い建物の中へ入り、リビングに飲食物を始めとする生活品をたっぷりと見つけて安堵した。

「ベッドがあって良かったわ。藁を積んだ上にシーツをかけて寝るスタイルだったらどうしようかと」
「そこまでいくと、古いというより雰囲気に浸りたいだけじゃない。まぁ、ちょっとだけやってみたいけど」

 勝手に淹れたコーヒーをラウンドテーブルで飲みながら、蓮子が窓の外を眺める。

「牛の姿が見えないわね。放牧してるって話なのに」
「寝てるんじゃない?」
「もう昼の三時よ」
「牛だからね」
「なるほど。私はもう少し建物の中を探検してくるわ。シャワーとか、トイレとか。そして今日はさっさと寝ましょう。牛の見物は明日よ、明日」
「同感ね。じゃあその間、もう少しデータ相手に足掻いてみるわ」

 再び起動した仮想現実の向こう、蓮子にだけ見える四角い電子の玻璃に透けて、メリーは腰に手をやり胸を張った。

「家探しは任せて頂戴」

 いつもの秘封倶楽部に戻った二人であったがその後も進展は望めず、気晴らしに黒檀のごとき夜空を一緒に眺めてから、眠りに就いた。





 部屋に入り込む太陽の光で目覚めた蓮子は、こっそり一人で牛を見に行くことにした。合成砂糖がたっぷりの紅茶を静かに淹れて飲むと、前日に見つけておいた、サイズがぴったりな備え付けの作業服に着替えて厩舎へ向かった。
 この格好にはミスマッチであるいつもの黒い帽子を被って来たのは、ひとつくらい身に馴染んだものを身に着けたかったのと、愛着あるこれにも天然の牛を見せてやりたかったからだ。

「きっと、とても大きくて臭いのよ。それに、モーと鳴いて、尻尾でおしりをペシリとやるんだわ」

 独りごちて行く蓮子が踏む草に夜露は降りていない。あえて道から外れて歩く蓮子のブーツが濡れていないのもそのせいであり、温度が管理された浮遊牧場において、この夜の落し物が見られる事は稀だった。
 空気が綺羅めいているように錯覚させるほど輝いている朝の中を、蓮子は夜色の髪を揺らし、草を踏み鳴らす音を盛大に立てながら歩く。
 牛舎の中を入り口からそっと覗いた蓮子だが、どうも様子がおかしいことに首をひねった。何かの繊維で整えられたマットの上で(藁でないことに蓮子は驚いた)、三匹の牛が膝を折って休んでいたのだが、どの牛も妙にせわしなく耳や目を動かしたと思えば、緩慢な動きで首をもたれさせたりしているのだ。
 ストレスの観点から、牛にはバイタルサインを送信する機能が取り付けられていないとの説明が、牧場のデータベースへ入っていた今期実験要項にはあった。そのために飼育員は目視で牛の体調管理を行わねばならず、その指標とノウハウもまとめてあったのだ。
 詳細なデータをすでに流し見ていた蓮子は、牛の様子に違和感を覚えることができた。彼女はゆっくりとした歩調で中へ入り込み、獣の黒い瞳が自らへ注目することに緊張しながらも、辺りをじっくりと観察する。
 異常は直ちに見つかった。舎内の地図の中には『飲用水場』という文字があったはずだが、見た限りでは何処にもそんな物が無かった。牛が首を伸ばすにはちょうどいい高さにある、空っぽな箱型のオブジェはあったが。『餌箱』はどうであろう。同じく草の入った箱など皆無。
 たちどころに状況を見抜いた蓮子は踵を返し、早足で出口を抜けると小走りになり、小走りは二秒で駆け足に変わった。牛舎のすぐ隣にある飼育員用の建物へ、昨晩、自分達がたっぷりと食事をした家の中へ大声を上げながら、黒い髪がたなびく程の速さで蓮子は飛び込んでいった。

「メリー! メリー! メリー!」

 大騒ぎする少女は寝ていた相棒を揺すって起こすなり、すぐさま二人分の簡易食料と飲み物、もう一着の作業着を用意して、寝ぼけたメリーの顔を濡らしたタオルで甲斐甲斐しく拭った。

「とりあえず食べて。飲んで。他にも用は済ませて。服はそこ。お願い、できるだけ速くして頂戴。私は調べる事があるから、全部終わったら声をかけてね」

 ジト目のメリーは、それでも素早く要求されたことをこなすと、さっさと玄関まで歩いて行った。片足を靴に通してからようやく蓮子に声をかけ、二人は言い合いながら同時に扉を潜り抜ける。それから、秘封倶楽部の二人は太陽が昇る中を、牛のために水と食草を集め回り、牛舎の掃除を行った。

「何か手違いがあったんだわ」

 作業が一段落した蓮子は牛舎の壁によりかかり、日当りの中で考え込んでいた。天高く昇った太陽が、地上へ惜しみなく麦房(むぎふさ)のごとき光を与える最中であり、彼女よりも多くの餌と水を運んだメリーは、転がった猫車に寄りかかり、肩で息をしている。

「インド人だって、いまどき牛の排泄物をスコップで処理なんてしない。これはもう、古いというより原始的よ。なんで牛の世話をする部分が機械化されてないの」
「そんな事はプロジェクトの設計者に聞いてよ」
「もうノスタルジックな実験牧場も、牛もたくさん。たっぷり見たからお開きにしましょう」
「その二つ、これからもっと眺めることになるわよ。まさかとは思うけど、貴方、餌の世話をしないなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「もー」
「さっきから『もう、もう』ばっかりね、メリー」

 笑いながらもせわしなく動く蓮子の指が、手荷物から持ち出してきたメモ帳をめくる。彼女はアナログな記録媒体も使うタイプの人間であり、浮遊牧場に関しての走り書きに何か手がかりがあるかもしれないと淡い期待を抱いたのだ。ある意味において、この行動は功を奏する事となった。とある頁をめくると、地面へ軽やかに落ちる物があったのだ。
 それは鳥の羽根であった。羽毛すら骨でできた鳥がいるとすればだが。
 宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン、二人だけのオカルトサークル『秘封倶楽部』の主な活動は、禁じられている結界暴きだ。常識の向こう側を、多くの不可思議を見てきた彼女達がいま目にしている物は、一番最近の活動で見た覚えのある物だった。
 ヘンテコな神社にまつわる、なぜか陰陽道で組まれたと目された結界を抜けた先で待っていた冒険。
 その顛末はさておき、二人にとって忘れがたい奇妙な羽根、インク染みのない羽根ペンが、草と共に陽を浴びている。

「なんで魔女のペンがあるの」

 半ば理解した口調で蓮子が聞く。

「なんでかしらね」

 半ば理解できていない口調でメリーが応える。

「この前会った奴よね。たしか、あらゆる本を、転じてあらゆる文字をどうこうできるって豪語してた」
「数式もどうこう自慢してたわね」
「コーヒーを頭からかぶって、別れ際に『呪ってやる』とか言ってた気もしてきた」

 二人はしばしば目を合わせながら、羽根を見つめていた。

「原因はこいつね」
「持って帰りましょう」

 メリーが羽根を拾い、帽子の中へ納めた。

「ちょっと、何してるの」
「作業着のポケットの中へ忘れたら大変じゃない。一応、呪物なんだろうし。ここなら大丈夫。地上へ降りたら、お祓いしてくれるところを探して行きましょう」
「西洋産の呪いに強い神社なんてあったかなぁ」
「西洋なの? ああ、魔女だったわね」
「無かったら、結界の向こう側にある場所でもいいんじゃない?」

 瞬間、二人は不敵な笑みを浮かべた。自信と傲慢の区別が付いていない笑みではあったが、お互いの瞳へ情熱がきらめくのを少女らは見たかもしれぬ。手慣れた、乗り越えられるかもしれない道筋の発見は秘封倶楽部を高揚させた。

「データが混乱させられるという形ですでに呪いは降り懸かったんだし、これ以上の厄介事は無いと思うんだけど」
「牛が呪われたりしないわよね」
「言葉や数式を使う牛がいたら危ないかもしれないけど、そんなサイバー牛はいないでしょ。それより次よ、次」

 メリーは辟易とした表情を浮かべた。

「次は蓮子が動いてよ。私は少な目に動くから」
「大丈夫よ。牛を柵から出して、草を食べさせるだけだもの」
「あら、それはだめよ。まず先に私たちが食べないと、まいっちゃうわよ」

 二人はしばしの休憩の後、牛舎へ戻り柵を外して解放、牛たちにリードを取り付けて外へと導いた。学生が短期間で実験や実習を行う事も多いためか、設備利用に関しては洗練されたマニュアルが用意してあり、部外者である秘封倶楽部の二人でもなんとか操ることができたのだ。設備に関しては、だが。

「ちょっと! なんでおとなしくしないのよ!」

 三番にナンバリングされた牛のリードを、メリーが全力を使って引っ張るが、牛はびくともせぬ。

「こんなの一人で動かせるわけないわ」
「資料だと、誘導は一人でも十分行えますって書いてあるけど」
「蓮子は嘘つきね」

 身体がくの字になるまで引っ張っても、三番は動こうとしない。太いリードはメリーの全力にも十分に耐え、やがて先にまいった彼女の腕が力を抜いてしまい、尻餅をつく形で盛大に転んだ。

「嘘つき!」

 座り込んだメリーは大声で怒鳴り、怒りの冷めやらぬまま牛を睨みつけると、三番は視線を逸らして柵の奥へと歩いていった。

「あら?」

 メリーの怒りが霧散する。三番の動きは、嫌がるというより怖がっているように見えたからだ。

「ねぇ、蓮子。牛にも性格ってあるのかしら」
「そりゃあ、あるでしょう」

 腕組みをした蓮子を見上げながら、座ったままのメリーはしばらく考えた。

「外で他の牛を見てて。私、あの子を連れて行くから」
「いいけど、怒った牛に撥ねられたりしないでよ」
「そんな事しないわ。多分。そういう性格よ」

 メリーは立ち上がると、足音を殺してゆっくりと牛へ近づき、見つめてくる動物の少し前で猫のごとく密やかに座った。牛の瞳と少女の瞳が合い、動物の方から視線を逸らすと胴を落ち着かぬ様子で揺すり、やがて静かな顔をして頭を垂れる。
 心配する蓮子が様子を見極めるよりも先に、三番は首から伸びたリードを自ずからメリーの側へ引きずり、彼女はそれを握るや立ち上がり、今度は引っ張る素振りさえ見せず牛を外へと牽いた。こうして全ての牛が光り溢れる緑の原へと連れ出され、たらふく草を食む様子を蓮子とメリーは見守っている。

「三番、人間が嫌いなのかしら」

 蓮子が屈んでむしった草を空へ放ると、メリーは首を振った。

「臆病なのよ」





 翌朝、眠りから覚めた蓮子はまた一人で紅茶を飲んでいた。メリーはいま牛舎だ。正確には、牛舎と扉ひとつで隔てられた仮眠室に居る。どうやら牛が、特に三番が気になってしょうがないらしい。

「牛に結界でも見えてるのかしら」

 思いついた事をそのまま呟いて、合成小麦から作られたパンを噛みちぎる。

(私も、牛の黒い部分に星や月が浮かんでいないか探そうかな)

 他愛もない妄想を脳裏に描いていると、電話の着信表示が視界の隅に現れた。見たことのない番号に蓮子は一瞬警戒を覚え、すぐさま興奮した。外部からの連絡なのだ。

「助かった!」

 そそくさと通話を開始しようとして、数秒だけ自分に落ち着く時間を与える。言うべき事を整理しながら、少女は今日という日を笑った。
 先方は事情を聞くや(ほんの少しだけ、蓮子とメリーにとって都合よく湾曲されていたが)、直ちに彼女たちを開放すべく手続きをとってくれた。その後の事は詳しく記すまでもない事だろう。
 魔女の呪いが消え去ったなどと、決めつけたのは誰であったか?
 見たこともない、文字化けとしか思えない言語で組まれたプログラムが管制システムに混ぜられており、除去にもう一日かかると判断が下ったのはそれから暫くしての事だった。
 空中牧場の破壊に繋がるような危険物ではないと目星はついたものの、いま話している、食物造形科絡みの企業の一電話からしか外部のアクセスが許可されていないのも、これが悪さをしているからだと説明された蓮子の耳に、魔女の悪意ある声が蘇るようだった。

「コーヒーを浴びるのは苦手だったのね」

 説明を聞きながら、蓮子は送話器から口を離し、呟いた。
 もう一日牛飼いの真似ができるなら、それも面白いだろうと少女が考えていると、電話口の向こうが不意に口を噤んだ。
 話も終わり、さよならの言葉を口にしてもいいタイミングでの沈黙に対し、蓮子は無意識に手の甲を唇に押し当てた。寂しさや不安を感じた時に、彼女がやる仕草だ。
 企業の担当者が頼んできた用件、そもそもの電話をかけてきた用件を聞いた時、蓮子は咄嗟に窓の外を見た。完璧に調整された環境。太陽が柔らかい朝日を投げかけ、草はたなびく緑柱石。美しい、人造の風景が少女の瞳に映っている。
 牛の屠殺をしてほしい、と相手は願った。蓮子が無言でいると、受話器の向こう側に居る大人は静かに話し始めた。
 合成色の味を変更、改良するためには想像以上の手間が掛かること。そのための設備や都合は現代においてあまりにも限られており、一度決定してしまったスケジュールの変更は、そのまま長い予約待ちの列に並び直すことになるということ。
 「数ヶ月でしょう?」と言う蓮子には、牛肉の味が時期を逸するには充分な時間だと返された。しばらく前から、浮遊牧場との連絡にささいな行き違いが多々発生するようになっており、予定されていた期日までになんとか手配を終わらせたのが今日なのだ、とも相手は言った(魔女の笑い声が聞こえなかっただろうか?)。
 蓮子はさよならを言って電話を切り、建物の外へと歩き出した。どの牛が処理されるのかは決められていた。恐らくは施設の前任者たちが、あらかじめ嚆矢を放っていたものとみえる。
 新しい肉の味は多くの人の楽しみになる事だろう。それを味わえなくなるのは、牛が生まれてきた理由を変えることだと蓮子は考える。
 真っ直ぐ牛舎へ向かうと、入り口に何故かメリーが立っていた。彼女の勘が冴えているのはいつもの事。蓮子に驚きはなかったが、踏み出す一歩ごとに気が重くなるのは避けようがない。

「おはよう」
「おはよう」

 風がどこからか吹いた。もしくは何かが、二人の瞳を揺らした。

「三番はね」
「うん」
「立ち上がるとき、身体が右へ傾ぐの。横たわるにしても、右から寝る。足が悪いわけじゃなくて、癖」
「うん」
「私が一日でわかったのはこれだけよ。一番と二番の事をどう感じているだとか、鳴くのは多いのか少ないのか、人間のどんな仕草に怯えるのか、どの草が好きなのか」

 メリーの指が絡まり合う。

「私、わからないまま」

 蓮子は肯くだけだ。どうする、とも聞かなかった。

「殺すの?」
「うん」

 メリーは少しだけ不思議そうな顔をして、指と指を離した。

「夢みたいな事言うのね」
「じゃあ、現実にしちゃいましょう。いつもの秘封倶楽部のように」

 蓮子は腕を伸ばし、メリーの掌を握った。常に夢幻を遊んできた秘封倶楽部は、楽しみがいつかは終わるという事を、喜びの苦さを知っていた。

「ええ」

 二人は一旦宿舎に戻って屠殺のマニュアルを確認し、工程を頭に入れてから全てのエサ箱に草を詰め込むと、三番の柵を開いた。
 蓮子とメリーに牽かれた牛が一頭、牧草地に付けられた道を横切っていく。途中で草を食べようともせず、真っ直ぐに歩いた。

「なんで抵抗しないのよ」

 目的地まで、メリーの呟きを除いて声は無い。
 屠殺施設は浮遊牧場の出口付近、エレベーターから地下へ入った所にあった。空調は外と同じく完璧だったが、通路を照らすのが人工光に替わっただけで何かが失われている。
 靴と蹄の音が最後の部屋を求めて鳴り続き、到着した処置室の台の上に三番を乗せると、二人は隣の操作室に入って機器の点検を始める。二人が離れて不安になったのか、一時的に三番が大きく足を踏み鳴らしたが、巨大なガラス越しにメリーに見つめられると再びおとなしくなった。

(信頼があるのは間違いないわ)

 ガイドシステムが指示する通りに仮想現実のコンソールを動かしながら、蓮子は考えている。

(でも、それはどの種類の信頼? 友人だけじゃなく、死神に対しても信頼は生まれるもの。三番にメリーはどう見えているのかしら)

 同様に中空へ指を走らせるメリーを横目で盗み見ながら、蓮子は結論を用意しないようにして指を動かす。
 こうして、最後のスイッチを押すだけになると、蓮子とメリーは黙って顔を見合わせた。相手の顔を見て、それから蓮子がそっとボタンへ指を伸ばそうとした矢先、メリーの唇が言葉を呟いた。蓮子の動きが固まる。彼女が紡いだのは名前だったゆえ。
 蓮子がメリーへ向き直ると同時、彼女の綺麗な横顔と流れる金の髪を見ながら、蓮子の足へ大きなものが床へ叩きつけられる振動が伝わってきた。
 メリーの白い指がスイッチから離れ、蓮子は小さな小さな息を吐く。すでにガラスの向こう側に、脳をイオンで撃ち抜かれ転倒したはずの牛の身体は無かった。ただ、ぽっかりと開いた台の床があるだけであり、それもまた、ゆっくりと閉まっていく。
 仮想現実の状態ウィンドウが映す『解体』という二文字を振り払うように最小化させると、蓮子はさっさと出口へ向かい、ドアを開きっぱなしにしてからメリーを待った。じっと床を見つめて。





 空中牧場から京都の地面へ戻ってきて二ヶ月後、蓮子とメリーは外食をすべく夜の街を並んで歩いていた。予約をしていたレストランの奥へ通されると、帽子を脱ぎながらメリーが言った。

「本当にここの予約が取れたのね」
「さっきも聞いたわよ。疑いは晴れたかしら」
「どんな手を使ったのよ」

 ただの大学生が、予約でいっぱいの有名店にて晩餐をとれるとは考えてもいなかったのだ。いち早く最新の味が楽しめる店。

「頼み込んだのよ。『友人がどうしても故郷の肉料理を食べたいって言うんです。日本の牛肉も美味しいんだけど、赤身で柔らかな甘みのある肉を食べたいわ、って。何とかなりませんか』ってね。
 そうしたら、キャンセル待ちで良ければって事になって、現在に至るわけ」
「あらあら、外人の友人がいて良かったわね。で、その友人って誰のこと」
「知らない」

 穏やかに話していると薔薇水の鉢が手すすぎに出され、やがて料理が出てきた。コースではなかったために数々の皿が一度に並べられたが、彼女たちが揃って最初に口に運んだのは主菜のステーキだった。
 一口食べ終わるまでは蓮子の方が遅く、メリーは目を閉じて待った。

「美味しいわね」
「ええ。美味しい」

 蓮子が言うと、メリーは嬉しそうにナイフを動かした。牛肉の合成食に新しい味が追加されるのは、大体二ヶ月周期なのだという。いま楽しんでいる味が、あの浮遊牧場にいた三番の肉から生まれた保証はないが、二人は食べずにいられなかった。

『赤身の肉は日本だとあまり受けないし、ケースの更新と取捨選択も、そこまで頻繁じゃないはずよ』

 少し前に立てた蓮子の仮定に、メリーは言った。

『じゃあ食べに行きましょう。赤身の牛肉』

 約束は果たされた。口へ運んでいる合成蛋白質も、おそらく何かの生き物が元となっているのだと二人は想像できるようになった。知ってはいたが。
 蛋白質と味。昔と違い、現代人はふたつの故郷を持つ料理を食べている。彼女達が生きる時代が生んだ贅沢なのかもしれない。

「ありがとう、蓮子」
「うん」

 料理をあらかた片付けたメリーの言葉に、蓮子は考えるふりをして水の入ったグラスを傾ける。今夜、メリーは祈るように食事をしていた。失われた生命への敬意を、蓮子が手に入れられなかった心の在り方を、相棒はさりげなく見せつけたのだ。
 小さな胸から出ようとする言葉を呑み込むべく、押し流すべく、蓮子はもう一度水を飲む。

『メリーだけ、ずるいわ』

 言えるはずもなかった。秘封倶楽部のマエリベリー・ハーンとは、常に世界を共有しようとしてきた蓮子ではあるが、メリーの全てが欲しいわけでは無いのだ。こうした場合、蓮子はどうするのかを知っている。

「見習わないとね」
「ちょっと、口に出てるわよ。テーブルマナーの事?」
「正解。相変わらず勘だけはいいんだから」

 困ったわね、と蓮子は笑った。
読んでいただきありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。

追記・コメントありがとうございます。
熱をいただいてます。感謝です。

http://twitter.com/kawagopo
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コメント



0.490簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
 
3.70非現実世界に棲む者削除
家畜の生命って儚いよねえ...。
とても新鮮な秘封倶楽部でした。
8.80奇声を発する程度の能力削除
これはこれで良い秘封でした
15.100名前が無い程度の能力削除
ああ、みごとな落着だなあ……。
大好きで、興味深いテーマでした。彼女らの感覚と、皮さんの筆致で味わえたことに感謝します。
16.無評価名前が無い程度の能力削除
蓮子を呼び止めて、自分からボタンを押したメリー。
本当の命の重さは屠殺の覚悟をした者だけが得られるわけだ。

>>『メリーだけ、ずるいわ』
この一言で、覚悟が出来なかった蓮子のキャラも立たせる構成。
ただ単に感謝するだけのじゃなく、秘封らしい感受性豊かな落着。お見事でした。
点数は、一ヶ月前にノーコメで100入れてしまったので、フリーにて失礼。

執筆頑張ってください。応援しております。
17.803削除
新しいタイプの秘封倶楽部という印象です。
何がと聞かれると困るのですが。