「彼女は、自らを閉じ込める狭い檻の中から抜け出したかったのでしょうな……
それも極めて偏執的なまでに。
……しかし、残念ながらその願望は生涯叶う事は無かった。
……そして、死後一世紀を経過した今でも、彼女はその檻の中にいる……」
──"自称"天才犯罪心理学者『M.Christophe Jean-Jacques Saint-Laurent』曰く
コポコポと嫌な音を立てて溢れる血を、魔女は他人事のように眺めていた。
鮮やかでない赤がお気に入りだったネグリジェを染めてゆく。
紫色を真紅に。
空気の混じった血は泡を成し、ぷつぷつと割れてゆく。
人のいのちのように、儚く。
私は死ぬのかしらん、と喉に何かが絡んだような声で魔女が呟くと、隣でティーカップに口をつけていた吸血鬼が乾いた笑い声を上げた。
──あんたは魔女でしょう。そんなことで死ぬものですか。
声を出すことに不自由していた魔女は、けほんと一つ咳をして血を外に吐くと口を開いた。
──随分不便な体だこと。このまま血が全て流れ尽きても私は生きるのかしら。
吸血鬼は赤く染まった歯をちらつかせてニッと笑った。魔女の姿を見て楽しんでいるようだった。
図書館は非常に静かである。魔女が呼吸する度ひゅうひゅうと喉を鳴らす以外、音は一切しなかった。
たった二人の世界。鍵の掛かった密室空間。
誰も外から干渉できず、誰も内から出ようとしない。
魔女は再び、咳をした。
──この後あんたはどうするの? 私を放ったまま外へ逃げる?
──殺人未遂のお嬢様を完璧で瀟洒で優秀な従者は許してくれると思う?
さあ、と首を傾げると、口の端に滴る血が顎を伝い、鎖骨にぽたりと溜まる。
過保護気味の彼女なら大切なお嬢様を犯罪者として差し出すことはしないだろうな、と魔女は思った。
──それじゃあ優しい優しい友人さんは、私を助けてくれるのかしら。
──他人に助けてもらわないといけないなんて、魔女も堕ちたものね。
頭が痺れて仕方がないの、という声は喉に引っかかってそのまま消えた。
確かに堕落しているに違いなかった。術式を組めなくなるに至る前に治癒しておけば大したことはないはずだった。
もしかしたらと彼女は思う。
──もしかしたら、私は死を求めたのかもしれない。
魔女の生は円環であった。
埃っぽい寝室で朝を迎え、
従者の注ぐ紅茶を飲み、
膨大な図書の海に一日を溶かし、
再び埃っぽい寝室で眠る。
毎日同じ生活がくるくると回り続けるのみの円い環。
彼女は退屈していたのだ。だから死ぬことによって軌道を外れ螺旋に、あわよくばそこからすら脱出しようとしたのかもしれない。
──甘い。
吸血鬼の手が魔女の喉に絡む。かは、と呼吸が断絶されて酸素の供給が止まる。圧迫された血管が新たな血を吐き、それを押さえつけるように吸血鬼の手に力が籠もる。行き場を失ったそれは漏れだすようにして溢れ、吸血鬼の手を赤く赤く赤く濡らしてゆく。魔女の頭に送られるべきものは全て絶たれ、痺れが加速する。体中の感覚器が狂い、キーンという耳鳴りに聴覚を、氷のような冷たさに触覚を、赤黒い斑点に視界を奪われる。赤の絵の具をたっぷりと付けた絵筆を乱れ打つように世界が染まってゆく。空気を求めて胸が上下し、大して動かぬ腕が吸血鬼の手に重なる。
息が出来ない。
頭が痺れる。
手が冷たい。
迫り来る黒のイメージ。
死。
魔女が求めたもの。
──これで私は
ぐいと絞め付けが増し、呻き声すら出なくなった。魔女は血の海の中で意識が遠のいてゆくのを感じていた。目蓋を閉じるように目の前が暗くなっていく。吸血鬼の冷たい顔を見ながら自身の命が事切れるのをじっと待っていた。
──一リットル。
激しい耳鳴りの中、ぼそりと吸血鬼の呟いたその声はなぜか魔女の元に届いた。
──あんたみたいな紫もやしが致死するはずの出血量。
吸血鬼が血溜まりに膝をつく。ぴしゃんと音がして、赤い液体が跳ねる。
喉を絞める手を緩めぬまま吸血鬼は反対の手で魔女の顎に触れる。慈悲を以て、まるで対照的に。
汚れた青白い肌を愛しげに撫でる。陶器を触るように。
虚ろな魔女の瞳と、吸血鬼の爛々とした視線が交わる。
──ねえ、苦しいでしょう。痛いでしょう。でもあなたは生きている。
あなたは死なない。身体中の血を吐き切っても、酸素が肺から抜け切っても死なない。
ただ苦しいだけ。いくら死を待ち続けても、そこには長い苦しみしかない。
何故ならあなたは魔女だから。
それに、死で円環は抜け出せないわ。ただ他の円環に移り、再び回り始めるの。
ぐるぐるぐるぐると、同じ平面を何度も何度も回り続ける。
何故ならあなたは魔女だから。
吸血鬼は両手で魔女の頬に触れた。魔女は激しく咳き込み、吸血鬼のドレスを汚す。
──魔女は成長しないから、同じ場所にとどまっている。人間のように螺旋を描けない。
残念ながら、ね。
吸血鬼はくいと顔を寄せた。
──死ぬことは退屈なの。だからどうせなら、もう少し積極的に生きたらどうかしら。
例えば──
言葉を遮るようにがしゃんと音がして、暗く沈んだ図書館に日光が差した。
吸血鬼は眩しさに眉をひそめ、振り向いて来訪者を認めると口端を歪めて笑った。
──人間の魔法使いさんの、お出ましよ。
彼女は魔女に自らの唇を重ねた。魔女は驚いたように目を見開き、なされるがままにしていた。
どうして、と魔女は呟く。
──
血に濡れた舌を覗かせると、彼女は図書館を去って行った。
残された魔女はぽかんとした顔のままでいたが、やがて人間の魔法使いが驚いた風体で駆け寄ってきたのを認めると柔らかく微笑み、そのまま意識を失った。
ぬらぬらと鈍い色をしていた血が、壊れた扉から照らす光で少しずつ乾き始めていた。
──例えば、恋をしてみるだとか。
いや、既に一回はしているか。
永き時を共に歩んできた友人と。
しかしなんとなくありそうな関係でありますな。
面白かったです