兵の手にする矛から、光がぎらりとはね返る。無機質な、しかし確実な“威し(おどし)”を突き出され、初老の行商人は「ひぃ!?」と腰を抜かして尻餅を突いた。乾いた土が舞い上がり、埃が人々の足下を洗っていく。そして彼のその動きが潮となったか、周りを取り巻いていた他の者たちも、めいめいに悲鳴を発して各々数歩の後ずさり。数十人がいちどに声を発したものだから、その響きはどこかくぐもったものがある。
やがて、商人のひとりがおずおずと前に進み出た。
こころなしか、姿勢が低い。矛を突きつける兵に頭を下げるような格好だ。媚びている、というよりも、機嫌を損ねて血を見ないよう気をつけたがっているといったところだろう。
「何ゆえ、このように急な仰せを。上諏訪の商館をしばらくのあいだ閉鎖するなぞ、聞いてはおりませぬぞ」
周りで見ていた他の商人たちも、程度の差こそあれ一様にうなずきを見せる。そのうち何人かは人数の多さで気が大きくなったのか、「そうだ、そうだ!」と大声を上げて兵たちを非難した。……弓矢を負った兵が弓弦をびんと弾く仕草を見せると、そんな人々もまた黙り込んでしまう。怒りよりも困惑の方が大きかったに違いない。人々で賑わう上諏訪商館に、突如、何の前触れもなく百以上の兵が押し込んできては。そのうえ兵たちは取引の停止と商人たちの解散、さらには品物の差し押さえを宣言したのだから。これで暴動や乱闘などが起きていない方が、むしろ奇跡と言い得るものがある。
あれよと言う間に商人たちは、弓矢で脅され、矛で突っつかれそうになりながら、上諏訪商館から追い出されようかという状況に陥ってしまっている。とはいえ、そこは抜け目ない世渡りを是とする“彼ら”だ。命じられるまま直ぐに解散するような臆病さはない。何せ、せっかく持ちこんだ品物をそのまま差し押さえられては大損以外のなにものでもない。矛や弓矢を向けられることにはへっぴり腰になりながら、それでも抗議の声は緩めなかった。わあぎゃあと、瞬きほどのあいだにどんどん兵たちへの非難が大きくなっていく。
「ええッ、落ち着け! 詳しいことはわれらも解らぬ! ただ、この商館での取引において、何らかのただならぬ不正があったということだ。事態が解決するまで商館は閉鎖、すべての商取引も停止せよとの仰せ」
「不正だと!? 誰が何の不正をしたと言うのか?」
「だから、われらも解らぬと言うのだ!」
商人と兵たちのあいだは、すでに無為な押し問答の状況に陥りつつある。
商人のうち血の気の多い何人かは、石を拾い上げて兵たちに投げつけ始めた。胸元を覆う甲冑にごツりとぶち当たる音がし、その音までも、まるで商人たちの側からの挑発のようでもある。が、攻撃と呼ぶにも足らないような散発的な投石に、兵たちは努めて反撃に出ようとはしない。無用な騒乱を起こすなと厳命されているのであろう。もっとも、顔の方にはいら立ちがありありと滲み出ていたが。ただ矛先だけがゆらゆらと揺れ、弓弦がびんと鳴り、商人たちの接近を阻む。
しばらくのあいだ、商館を返す返さぬの小競り合いが続くなか、誰かがふいと口にした。
「ギジチどのは!? 商館の長たるギジチどのは何処?」
今まで出てこなかったのが不思議なくらい、当たり前の疑問である。
周辺いっぱいを満たすような喧々諤々の喧騒のさなか、それはまるで天から下ったひと声かのように響き渡る。ギジチ。その名は、最初は葉っぱのざわめきめいた小さくつまらぬ響きながらも、やがてこの騒ぎを収めるに足る唯一の理として、ひとり、またひとりとして唱和の態へと入っていく。ギジチ、ギジチ、ギジチ! ギジチを出せ! この商館の長たる水内の豪族、ギジチを!
「落ち着かれよ、商人方。私なら、ここに居る」
一触即発の大騒ぎのなかでも、不思議と、よく通る声であった。
怒号も悲嘆もすべてがいちどきに静まった。まるで大気に巨大な穴が開き、その内側へ向かって何もかも吸い込まれてしまったようだ。感情も、注目も。商人たちを抑え込みたい兵士たちのいら立ちでさえ。突き出された矛のあいだを縫うようにして兵士たちに組みついていた商人たちもまた、声のした方に眼を向ける。ほゥと、幾人もの口から漏れた溜め息は、ひょっとすると安堵のそれだ。互いの怒りが連なり合って、行き先を失くしていたせいだ。少々の滑稽さを伴う商人と兵の群れを、しかし、商館の奥の館からようようやって来たギジチその人は、どこか退屈げに見守っている。
「此は、いかなる騒ぎか」
と、問うて、答えが返って来る間も待たず、ギジチは口髭を指先で撫でながら首を傾ぐ。
「商館の閉鎖は、王権による上意であるには違いない。此に何ぞ不満のあろう」
「何の説明もないではないか! 商館の閉鎖について、何の説明も!」
涼しい顔をして一同を眺めるギジチに、髭面をした男の怒号が飛んだ。
何もない中空を見つめ、水内の豪族は苦虫を噛み潰したような顔。
「王権が侵されんとするときに、自らの都合ばかりを言い立てるわけにもいくまい。――昨今、伊那辰野にて当地の豪族が土地を巡り、争いを起こしているという話を存じておる者は?」
ちらほらと挙手する者が居た。知ってる、と、声を上げる者も居た。何も言わずにうなずきだけを返す者も。おおよそ、その場に集まっていた数十人のうちでは、辰野での騒動を知らぬ者の方が少数派のようである。よろしい、と、片手を上げてギジチは応ずる。よく飼い慣らされた猟犬に何かの合図を送っているみたいな、そんな仕草であった。
「この商館で行われた取引が、そうした忌むべき土地争いを煽り立てていた。八坂の神に叛き奉る不埒なる者に、武器兵糧を届ける役目を負うていた者が居たのだ。そうした報せのゆえに――まことに遺憾ながら――、此度は私も、商館を閉鎖すると言う命には従わざるを得ぬ。此は八坂の神、洩矢の神におかれても、やむを得ぬ仕儀であるには相違ない」
ギジチの言葉に、その場の皆がおとなしく耳を傾けていた。
不利益を被った商人たちだけではない。彼らを抑え込むためにやって来た兵たちもまた、突如として始まったこの『演説』を無視するだけのことはできなかった。矛の穂先はすると地面に向けて下がっていく。代わりに、視線がギジチへと引きつけられる。ともあれ、彼我ともに何の事情あって商館が突如閉鎖されるのかを知らぬ人々である。現在(いま)、唯一の情報源たるものは、ギジチの言葉のみである。その情報への飢餓感にも似た焦りが、ギジチの言葉に奇妙な信憑性と、そして威厳を与えていた。
「むろん、私が王権より諏訪に商館を置く許しを賜りしうえは、この場にて行われる商いなるものは、天地の道理に照らして何ら恥ずるところなき公明なものであるとの確信を持っておる。だが、それが此度は穢された。われらの利益にも傷が入った。斯様にわれらの信頼と利益に許しがたい毀損を与えたはいったい何者か? 伊那辰野の騒乱を煽り立て、科野諸州の平穏を裏から踏み荒らす大逆の徒は?」
長々とした台詞を吐くと、ギジチは大きく溜め息を吐いた。彼が観衆へ説くにつけ、その身体のなかには確かに熱が溜まっている。吐き出された息は、冬の冷たい空気と混ざって白い霧になる。あたかも彼の吐く息は、その心にて燃える正義の怒りが凝集されたのだと訴えるごとく。
「其は伊那飯島の商人、オンゾである。辰野での此度の土地争いを操り、叛逆者を裏から助け、それに引きずられるようにしてこの商館を閉鎖に追い込んだ原因(もと)は。王権は、心悪しきこの男に取引の停止を命じたと聞く。しかし、かの者は卑劣にもそれを拒んだ。そのうえは、すべての取引を兵力でもって抑え込むより他にない。ゆえに私も、皆も、諏訪での商業の機を逃す羽目になったのだ。冬控えてのこの時期に」
両の拳を握り締め、演説者は自らを取り巻く観衆たちを端から端まで見渡した。ひとりひとりの顔までも、見逃さないようにと努めるみたいに。そのうち、人々のなかから疑義を呈する声も幾つか挙がってきた。「オンゾどのといえば、南科野随一の大商人。斯様なお人が、まことにか……?」と。しかし、ギジチは、何ら動ずることもなく言葉を返す。
「否、南科野の商業の元締めなればこその目論見と言えよう。かのオンゾは、元より北科野の商人が南科野での取引に入り込むことを快く思うてはおらぬ。当地での取引への参入には莫大な進物を支払わねばならず、ゆえにわれら北科野の商人輩は、長きに渡りて不利益を被り続けてきたではないか。このギジチの見るところ、此度の辰野への援助は騒乱をいたずらに長引かせて南科野情勢を不穏ならしめ、いくさを見越した取引をオンゾらが行うことによりて北科野の商人を締め出し、結果として自らを利する策略ではなかったかと思う」
そして一歩進み、彼は最後のひと刺しを口にした。
「此は、神明の下に裁かるるべきものと心得る。心に恥ずることなき方々は、このギジチの為す挙にその名を連ねていただきたい。私はオンゾの不正を、公の場にて改めて訴え出るつもりである。皆の商いの場は、皆で取り戻そうではないか」
熱狂は、なかった。
ただ、今この状態で取るべき最善の手段を知った人々の、静かな賛同が満ちる気配があった。
――――――
「私はオンゾの不正を、公の場にて改めて訴え出るつもりである……」
何とも達者な“道化ぶり”だと、諏訪子は輿の上で苦笑をせざるを得ない。
ひっそりと商館の周りに忍ばせておいたミシャグジたちが、その眼を通して騒動の様子を、逐一、諏訪子に伝えてくるのである。“向こう”と繋がった感覚が、こちらに流れ込んで来れば来るほど、諏訪子が噛み殺す笑いの度合いは大きくなる。ギジチのやつめ、口ではさも善人ぶりながら、裏ではいくさ起こるを見越して自分も武器を売りさばいているくせに、と。
とは申せ、そこはギジチを引き込むために、諏訪子自身が黙認したところではある。
今はその結果――あらかじめ示し合わせた通り、ギジチは商人たちを上手く扇動して味方につけてくれるだろうかと、その点に気を払うべきだろう。いや、きっと成功すると思っておこう。ギジチが王権に提出するオンゾへの弾劾状は、此度の商館閉鎖で不利益を被った商人たちが、その名を多く連ねていればいるほど良い。しょせん『敵の敵は味方』の論理に拠った拙い連携だが、それでも『矢』の数は多くなる。公の権威を背景に、奸賊成敗を掲げるには好都合。成功させてくれなければ、わざわざ下諏訪御所で人払いをしてまで策を授けた意味がない。
薄茶色く枯れた、しかし背の高い草叢――ほとんど茂みだ――に身を隠すようにして展開した百近くの軍勢のさなか、諏訪子はフいと空を見上げた。冬の曇り空は、分厚い雲のそのなかに数え切れぬほどの雪の粒を孕んでいるに違いない。その兄弟のように吹きすさぶ寒風が、彼女の襟巻きの端を揺らす。袖のなかに引っ込めた両手の指を擦り合わせ、なけなしの温かみを求めながら、次第に終息しつつある商館の騒ぎを意識の端に引っかけていた。退屈なひととき。だが、眠気は兆してこない。ギジチからの書状に記されていた、オンゾの動向が代わりに頭に蘇ってくる。
この南科野の大商人は、月に二、三度ばかり、自らも諏訪にやって来るのだという。そしてちょうどそれが今日に当たる。当初の予定では、八坂の神に進物を献上する手筈になっているともいう。傘下の商人や奴婢たち、さらには護衛にと雇い込んだ私兵の類まで引き連れたオンゾの列は、運ばれる品物の多さも相まって、並の豪族などにも見劣りせぬほどの威容を持つらしい。ならば、見分けるのは容易だろう。兵たちには、せいぜい派手に動いてもらわなければならない。
やがて雲間から切れ込む日の光が、幾らか角度を沈めるだけの時間が流れた。
相も変わらず風は寒いことこの上もなし。矛を携えて草叢に身を潜める兵たちにも、手に息を吐きかける者がいる。一方の諏訪子は襟巻きに口元を隠し、今度こそあくびを噛み殺す。滲む視界の向こうには、時季の流れに葉をむしられた木々の群れ。峠道から平地への道標のように立ち並ぶ樹木たちを介しては、向こう側への見通しがいやに良い。諏訪と南科野との、ちょうど境界に当たるこの場所、山沿いの道筋を辿って人は入って来るのである。
そして、ついに“目当て”の者がやって来た。
「諏訪子さま」
「んん」
「向こうから、長々とした行列がやって参りまする。おそらく、オンゾかと」
身を乗り出し、側近の兵が指し示す方角に眼を走らす。
数頭の騎馬に先導された人々が、こちらに向かって進み来るのがはっきりと見えた。
奴婢と思しき男たちが荷を満載した車を引き、あるいは甕や木箱を背負子に負い、黙々と列を連ねて歩んでいる。それを取り巻くようにして、矛や弓を手にした軽装の兵たちも従っている。そのさなかに、輿に身を落ちつけたひとりの男が居た。年のころは五十も近いだろうか。後ろ頭に向けて油で撫でつけたかたちの髪形は、そのせいで、後退しつつある生え際を余計に際立たせているようにも見える。その男を中心とした行列の規模は、ごく適当に見立てただけでも百人を下らない。威容、という点で言えば、確かに中小の豪族と肩を並べると称しても過言ではないだろう。間違いない。この列の中心たる、輿の男こそがオンゾだ。
自らもまた兵の担う輿の上で件の行列を睨めながら、諏訪子はすばやくうなずいた。
眠気に傾いでいた姿勢をしゃんと戻すと、襟巻きを指先で手繰って口元を冬風に晒し、兵たちに改めて指示を発する。
「頃合いぞ。皆、姿を見せよ。オンゾの行列は、ひとりたりとも諏訪入りさせてはならぬ」
兵たちが、諏訪子に従って鬨(とき)の声を上げる。
とはいっても、ごく小さな粛々としたものである。あらかじめ打ち合わせておいた手筈通り、およそ百人の兵たちは数人ごと数十の班となり、身を屈めたまま動き始める。ある者は木々の根を辿るように。ある者は崖の際(きわ)を登るみたいな勢いで。“布陣”を終えたとき、軍勢はごく層が薄いながらも、馬蹄型に近い鶴翼(かくよく)の陣形をかたちづくっていた。そして、その蹄のかたちの底に、オンゾの列の先頭である騎馬が入り込もうと言うとき。
「止まれ! ここから先へ足を踏み入れること、まかりならん!」
諏訪子側の将が、力の限りに大声を張り上げた。
それと時を同じくして、各方面に展開していた兵たちが一斉に姿を表し、オンゾの行列に対して矢を――害意のない、あくまで威嚇と牽制だが――射かけ始める。矛を持った者はその穂先を揃え、じりじりと包囲を狭めていく。風切る矢羽のいななきが馬のいななきとも重なり合って、にわかに辺りは騒がしくなる。矢の飛来を怖れた先導の騎馬は途端に色めき立ち、騎手は興奮して暴れる馬を御するべく、懸命に手綱を引き始める。オンゾ側の兵たちも多少は動揺をしたようだが、それでも武器を取る者なりの度胸、騒ぎ始める奴婢たちを矛の石突きで小突いて制し、自らも武器をかざして威嚇を返す。
「お、おお……。これはいかなる仕儀じゃ。斯様に、無体な。われらは、ただ諏訪にて八坂の神への拝礼を行わんと思いしが」
オンゾは、輿の端の部分に突き刺さった矢から逃れるようにして姿勢を乱しながら、自分たちを取り巻く諏訪側の兵を見回した。さっきの騒ぎで担ぎ役の奴婢のひとりが逃げ出し、彼の乗る輿は一方向へだけ“がくり”と傾いている様子。おののいてはいるが、しかし、冷静であろうとする声音。そして、どうにか姿勢をも正そうと努めている。だが、どうにもそんな努力も空回りしているようである。輿の手すりに、彼の腹の肉が着物越しにだらりと触れる。極端な肥満というほどでもないが、年経たために突き出てきた腹の膨らみは、傾いた輿の上で、着物で覆ってはいてもより顕著な不格好さとなっているのだった。
「無体はどちらか、己に問うが良かろうよ」
輿の上からオンゾをきッと見据え、少女もまた草叢から姿を現す。洩矢亜相諏訪子の、出座であった。
「おや、あなたは確か、」
「洩矢諏訪子。オンゾ、顔突き合わせて話をするは、おそらくこれが初めてであろう」
「は、はあ。なぜそのような方が、このような辺鄙な峠道に。それに、この兵らはいったい。オンゾ相手にいくさでも始めるおつもりにございまするか?」
「そうよな。まこと、いくさよな。直に矢風を吹かせぬ者同士であったとしても、裏からいくさに関わるのなら、いくさする者であろう」
唇を舐めながら、オンゾは諏訪子をじいと睨む。
何を言っているのかという、訝りといら立ちの混ざった眼である。
「畏れながら。こちらの問いにお答えくださいませ。何ゆえ、斯様に兵をくり出してオンゾの諏訪入りを妨げられまする?」
媚びを含んだ薄笑いを見せるオンゾに、諏訪子もまた唇の両端を吊り上げて応じた。白い歯を剥き出し、冷笑の態。
「白々しいにも程があろう。よう聞け、オンゾ。其許が伊那辰野で騒ぎを起こしておる豪族ユグルに対し、裏から手を回して武器糧食を提供せるはすでに明らかとなっておる」
「なんとしたことを」
「そして、此を理由として其許の諏訪との商取引を禁ずるという旨、上諏訪商館のギジチを通して確かに伝えたはず。にも関わらず其許はこの布告を拒んだ。此はもはや諏訪王権へ叛き奉るにも等しき仕儀なり。かくなるうえは、こちらも兵を動員してオンゾの諏訪入りを断固として阻止する以外に道はなし。もってすべての取引を停止させるため、今この場でおとなしく其許を捕らえられるならば良し。受け容れねば討ち参らせると通告致す」
驚きのあまりか一瞬に両目を見開いたオンゾだったが、直ぐさま、またも媚びを薄い膜として張りつけたかのような表情に変わる。命乞いか、あるいは弁解の類か。いずれどちらであろうとも諏訪子に容れるつもりはない。片手をがばりと振りかざし、「押し出せ!」と命ずる。兵たちは雄叫びを上げるさえもどかしく、オンゾの列に向けて矢を浴びせること三度、続いて山肌を駆け下りて突撃を仕掛ける。言うまでもなく、この攻撃にオンゾの顔は真っ青になった。声にもならぬ震えた音で「応戦じゃ、応戦!」と喉から命令を絞り出す。彼の下に在る私兵たちも、めいめいに弓や矛、剣を振りかざして諏訪側の兵と衝突し始めた。
が、練度の差かそれとも人数の違いのせいか、オンゾ側の護衛たちはたちまち矛で転ばされ剣の柄で殴られ、運の悪い者は矢が肩に刺さる痛みで武器が持てなくなり、さほど時間を掛けることなく無力化されていく。元より、統一された武装や軍装の下にある兵たちではない。しょせんは雇われの私兵であり、一軍というにしては規律が保たれているとも言いがたく、士気もまた“まちまち”である。矛で腿を突かれた数人が悲鳴を上げて剣を放り出し、何処へともなく逃げ出すと、他の数十人まで一気に戦意を喪失して当てどのない退却を開始する。残った連中も、逃げ出さないまでも多分に怖れを為している。数の不利を覆さんとするほどの勇敢さは、かけらも残っていなかった。足並みを乱して逃げ回る奴婢たちと入り乱れ、途端にオンゾの行列は掻き回された鍋の底じみた混沌に陥ってしまった。
防衛網とも呼べないようなオンゾ側の防御を破ると、諏訪側の兵たちは彼の乗る輿に向けて突き進む。一応、忠義心はあるらしい奴婢たちが、体当たりで兵たちを押し返そうと試みる。が、いくさ慣れした兵たち相手では、まるで大人と子供の相撲である。あっという間に転ばされ、通り過ぎた矛先が彼らの主であるオンゾへ向けて迫っていく。
「は、謀じゃ! 此は謀にござる! 諏訪王権が、オンゾを陥れようとしておるのじゃ! わしは負けんぞ、斯様な謀に!」
揺れ続ける輿の上で、オンゾはしきりに叫んでいた。
力づくでの突破や押し返しは不可能だと、輿を担ぐ奴婢たちはさすがに気づいていたようである。抗議と抗戦がない交ぜになった悲鳴を戴きながら、かろうじて残った奴婢と兵たちは、四苦八苦しながらも方向を転換、元来た道への逆走を開始した。とはいえ、再び列をつくり直すような余裕も統率もすでに喪われていた。完全に敗残となったオンゾたちは、追撃の矢が背に向けて飛んでくる気配に恐怖しながら、ほうほうの態で逃げ去って行った。後には、退却に際して重荷と判断され、打ち捨てられてしまった種々の荷が残るばかり。
「追うな、よし追うな。オンゾを諏訪に入れぬという当初の目的は果たした。ようやってくれた、置き去りにされた荷は後々に差し押さえておけ」
退却を開始したオンゾへの、もはやこれ以上の攻撃は必要ないと見た諏訪子は、手を掲げて兵たちを制した。直ぐさま鉦が数度ほど鳴らされ、それが末端にまで伝わっていく。戦闘の終了を告げる合図だった。『快勝』に終わったことに安堵しつつ戻ってくる兵たち。彼らを見渡しながら、――諏訪子もまた、仕事をひとつ終えたと息を吐いた。
と、そこへ、
「よろしいのですか」
側近の兵が問うてくる。
「ん、何が」
「オンゾを捕らえることも、討ち参らすことも叶いませんでしたが」
「いいや、これで良い。後で皆をようく労っておいてくれ」
はあ、と、気の抜けた返事をする側近に、諏訪子は思わず微笑してしまう。
しかし、まあ側近の呈する疑問にも無理はあるまい。捕縛か殺害というかたちであれだけの大見得を切り、戦闘まで行っておきながら、実際の『戦果』はオンゾの諏訪入りを阻んで追い返すに留まっているのだから。つけ加えるなら、向こうの面目を潰したといったところか。
だが、この戦果は理の通らぬことではなかった。
すべては、想定せるところである。
本当は、オンゾに対して諏訪との取引停止を命ずる権限など諏訪子にはない。洩矢神は、あくまで八坂神から伊那辰野の騒乱の収拾を任された身でしかないのであり、商業の司に任じられているわけでもない。むろん、商館の閉鎖をさせるなどという大それたこともできはしない。すべて王権の在るを奉り、その御名を借りて行った、ただの“ハッタリ”である。そもそもこの数日来、下諏訪御所に引きこもって隠然と策を巡らしていたのはそれが理由だったのだ。
言うまでもなく、己の職分を逸脱した越権行為であるには違いない。だが、オンゾの関わる取引が不正なものであり、それが結果として伊那辰野のユグルを利するものである以上、ただのハッタリでも射るに足る矢はつがえるまでということだ。
「……問題は、神奈子にどう謝ろうかということだな」
どうにか当たってはくれた策だが、毒をもって毒を制した以上、手放しに褒められるのを期待するわけには、当然いくまい。なれば、諸方の豪族どもを見習って、神奈子に対しては手土産のひとつでも持参して、ご機嫌取りを行うのが筋というものであるかもしれないのだが。
ふんふんと、襟巻きの布越しに顎に手を当て思案する諏訪子。
さて手土産は――南科野攻略の道を拓くという、その一事か。
ようやく大魚の影が見えてきた。そして、優れた餌も手に入りつつある。オンゾには、せいぜい美味そうな『生餌』となって泳いでもらうより他あるまい。
「さてさて。“大物”が上手いこと針に掛かってくれるのを願うのみか」
――――――
諏訪の柵にオンゾを糾弾する弾劾状が提出されたのは、上諏訪商館閉鎖から二日と明けぬ、十一月八日早朝のことだ。
訴訟問題の窓口たる決断所(けつだんどこ)を通して八坂神奈子の手に渡った弾劾状は、その筆頭に水内郡のギジチが名を連ね、ほか北科野諸方の商人の名が数十名ほど添えられていた。さらには南科野の商人たちまでも、若干ながらその名を連ねていたのである。
この一条の竹簡に込められた糾弾の文意はさして複雑なものでもなく、『諏訪王権の御名の下、洩矢神が主導せる上諏訪商館の閉鎖によって、科野諸方の商人は多大なる不利益を被った。しかし元をただせば、商館が閉鎖されたのはオンゾが伊那辰野での騒乱に関わり、不正を犯したことを認めぬがためである。かかる悪人を棄て置くことは天地の道理に反することであるため、諏訪王権に然るべき処遇を願う』というものでしかない。
が、この弾劾状の提出はもちろんのこと、諏訪の軍勢が商館を閉鎖したばかりか、諏訪の柵へ八坂神への謁見に訪れるはずだったオンゾを追い返したことさえも、神奈子の耳には寝耳に水以外の何ものでもあり得なかった。決断所から届けられた弾劾状の中身を、彼女は万が一にも見落としなどないよう、じっくりと眼を通した。それこそ、穴の開くほど。何度も何度もだ。元より、執務室で処理すべき訴訟の業務は今日も多かったが、そのなかに紛れるようにして入り込んでいたとはいえ、手に取る前から件の竹簡は、奇妙な威圧ともいうべき何かを神奈子の感覚には訴えかけていたのかもしれない。
そして、都合十度も弾劾状を読み尽くしたときだろうか。
神奈子はおもむろにウンウンとうなずくと、紐で竹簡を再び括る。そして、それをかたわらの稗田に投げ渡す。祐筆は、しばし眼を白黒させていた。未だその竹簡の中身が何であるかを承知してはいないのである。
「いかがなされました、八坂さま」
この王の逆鱗に触れぬためには、いま慎重に言葉を選ぶ必要があろう。そう判断したからこそ、稗田はごく薄い笑みだけを浮かべて問いを発する。同時に、自らも書状の内容を検めようと竹簡を開きかけた瞬間だった。
「誰か、誰かある! いま直ぐ諏訪子をここに…否、評定だ! 皆を評定堂に呼び集めよ!」
烈しい音声が、空気だけでなく侍する舎人の肩までもびくりと震わせた。
命令を受けた者は、いちども神奈子の顔を窺うことなく諏訪子を探しにすっ飛んでいく。
怒気に衝かれた神奈子の命は、直ぐさま城中を駆け巡った。四半刻とも掛けることなく、諏訪子を含めた評定の衆は、評定堂まで集結することになる。冬のあいだ板張りの床はさすがに底冷えがし、誰も皆いちどはぶるりと肩を震わせる。それは、上座に着座せる神奈子でさえも例外ではない。そして、諏訪子でさえも。
……が。もうひとつだけ、その日の評定では違うことがあった。
いつもは神奈子の横に席を占める諏訪子が、今回は他の評定衆同様、一段下の場への着座を命じられていたのである。
当然、皆の視線は諏訪子を、それから神奈子を交互に見遣る。
しかし神奈子は険しい顔を、諏訪子の方は涼しい顔をして評定の始まりを待っているに過ぎない。この異様な状況は、好奇心をいや増しにかき立てるには十分すぎた。評定の衆のうち他と比べて未だ歳若いと言える者たちは、互いに突っつき合って何があったかと噂話を始める始末。
「……これより、評定を始める」
そんな噂話の応酬を押し潰すように、神奈子は宣した。厳粛なものを、努めて発揮せんとしている様子だった。評定衆も、また諏訪子も等しく神奈子に辞儀を見せる。
「して、此度は何ゆえ突然の召集にございまするか?」
評定筆頭の威播摩令が、横目の端に諏訪子を捕らえながら問う。この旧き崇り神が何かをしでかしたものと、当然、疑っている構えには違いない。それに皮肉げな微笑で返し、「此度は、詮議なり」と神奈子は応じた。
「詮議?」
と、顔を上げたのは諏訪子だった。
一段下の床に置かれているとはいえ、位置の上では評定衆の列に加わっているわけではない。両脇を彼らに挟まれる形で堂の中央に座し、神奈子とはちょうど正面から相対するかたちとなっている。「そう、詮議ぞ。諏訪子、そなたへの」。重々しく、諏訪子を見下ろす神奈子の声。
「何を詮議することがおありと思し召されまする。この洩矢亜相を前王(さきのおう)の坐する所より引きずり落ろしてまで」
どこか、嘲りの混じったような声の諏訪子である。
が、神奈子はあえてその不遜さを咎めることもない。
稗田、と、かたわらの祐筆に声を掛け、一条の竹簡を提出させる。すると、まがりなりにも諏訪子が眼を丸くする。一同に見せつけるごとく、神奈子は竹簡を解いた。件の、オンゾへの弾劾状である。そしてその内容を一文一文、ギジチを始めとして文書に名を連ねた商人たちまでも――あたかも子供に昔話を語るかのごとく、ていねいに読み上げていった。諏訪子は、しかし、未だ話は終わらぬのかといったような退屈げな顔でそれを聞いていた。彼女を取り巻く評定衆だけが、固唾を呑んで二柱の神の相克を見守っている。
やがて、弾劾状の読み上げが終わった。
竹簡を畳みながら、ぎンとした眼で神奈子は一座を睨む。
「皆、よう聞いたな。これには、諏訪子が王権の御名をもって諸々の処断を行ったとある。さらにまた、オンゾ自身への弾劾状の発行までも歎願されておる。加えて先に起こった、兵権に訴えての上諏訪商館の閉鎖、オンゾとの小競り合い」
「ほう、それで」
と、とぼけた顔の諏訪子。
「洩矢諏訪子。此度のこと、己が権限を超えた行いであるのは火を見るより明らかである。かくなるうえは、そなたに何らかの処分を下さねばならぬ」
「処分、とは! これはまた片腹痛し。この首を差し出せばようございまするか。それとも、蟄居か謹慎か。いいや、亜相の官を剥奪するという手もございましょう」
にい、と諏訪子は笑みを向けた。
悪びれることのない“しゃあしゃあと”した物言いに、神奈子の眉根に皺が募る。が、諏訪子の反論まではさすがに予想していなかったものであろう、直ぐには二の句が告げなかった。
「なれどいずれにせよ、この諏訪子を裁き給うたところで伊那辰野の騒乱を収むることはできませぬ。そのように申し上げておきましょう。もっと悪くすれば、騒乱はさらに長きものとなり、科野全域に火種をばらまくことになるやもしれませぬ」
「なに。諏訪子、そなたは騒乱の収拾を人質かのごとく押し立てて、この我を恫喝するつもりか!?」
「恫喝に非ず! 事態の理非曲直より判ずれば、わが手に裁量を委ねるが最前の道」
二柱がそれぞれに身を乗り出す怒号の応酬。
評定衆も舎人方も、よもや殴り合いか斬り合いにでも発展するかと身構えた。佩いたつるぎの柄に手を掛ける者さえ居る。が、血の色もつるぎの輝きも、見るつもりは乾坤の神には共にない。双方、「やり過ぎたか」とばかりに身を引っ込めた。ややあって、堂には沈黙が訪れた。気まずい帳が皆の喉を押し包む。だがそのうち、勇ましくもというべきか、渟足が「まずは諏訪子さまのご真意、ご心底をこそ、この場にて披歴すべきかと申し上げ奉りまする」と口にした。すると他の者たちも「異議なし」「右に同じく」「渟足どのの申される通りじゃ」と同意する。臣下たちの声に押されたわけでもなかろうが、神奈子もまた、
「……諏訪子、そなたの意図は何処にある」
と問うた。
にやりとした笑みももうなく、諏訪子は深々と拝跪(はいき)を見せる。
そして「南科野を切り崩すためには、多少の強引さも必要かと存じ上げ奉りまする」と口にした。
「どういうことだ」
「はっきりとこちらが――われら諏訪の側が何と相対しているのかを明らかとする必要がございまする。それは未だ余力を残した南科野諸豪族であり、彼らに河手を支払う水運商人であり、そしてその水運商人に武器糧食を流すオンゾに他なりませぬ」
片手をかざし、諏訪子は話を続ける。
「その三者のうちの一者……オンゾを使うことで、残り二者を引きずり出す構え。水運商人から河手を取り立てるためには、水運での商いが盛んでなければなりませぬ。そのための大元の品物は、やはり陸(おか)を通らねばならない。オンゾは水運商人の輸送を頼み、豪族はその水運商人から河手を取る。となると、オンゾと豪族たちとは自然と“持ちつ持たれつ”の間柄ともなるはず。河川を舟が通らねば、河手を取る見込みはございませぬ。ゆえに一方を突っつけば、必ずどちらかも“ぼろ”を出し、それは付け入る隙となる。だからこそ、これらをまとめて釣り上げるために、オンゾには生餌になってもらうまで」
「それならそれで良い。だが、なぜこの八坂に黙って事を進めた? そなたは、つまり嘘を伴って事に当たったことになろう」
「たとえ根が嘘であっても、咲いた花が鮮やかな一輪であることには変わりがございませぬ。いや申さば、諏訪子の方が八坂さまよりも“身軽”にございまする。城のうちにて、現今の王なるゆえ動くこと能わぬあなたさまに比べ、策を用うるにせよ謀に訴えるにせよ、なに躊躇うことなく行うことができる」
いつの間にか、神奈子は両の拳を握りしめていた。
諏訪子の言葉は実に曖昧だが、奇妙な説得力を秘めているのも確かだった。単純に謀のみのことを考えれば、確かに現在(いま)の王としての地位は、神奈子にとっては縛りとも足枷ともなる。そのぶん、諏訪子はどうであろう。亜相の官を帯びてはいるが、行動の自由さという点では神奈子をも上回っている。加えて下諏訪には確固とした地盤と、諸方に聞こえる名望がある。神奈子の名だけを貸してやれば、『武』は譲れぬまでも『謀』に関して委ねることはできようか。だが。
「そなたが政の根本たるを干犯せしことは変わらぬ。これをもって、いかに許しを乞うつもりか。もし我が諏訪子であったとしたら、直ぐには思いつかぬがな」
「むろん、このままで良いとはわたしも思うてはおりませぬ。ただ……」
両の手のひらをこすり合わせるような仕草を、諏訪子は見せた。
「八坂神の御名において、此度の洩矢諏訪子の行いを追認して下さればよろしうございまする。なればそれを利剣と為し、南科野という獣の素っ首、断ち落として御覧に入れましょうぞ」(続く)
しかし、此度の件で、神奈子は益々諏訪子に政の半分を譲渡する旨を呑みづらくなったのではなかろうか。ギジチの今後の動向も見逃せない。
>>額にはてかてかと薄く光る汗の幕をつくっている者さえも居た。
膜
>>わが手に裁量を委ねるが最前の道」
最善?
いやぁ毎回とても楽しみにさせてもらってます、健康に気を付けて
これぞ、伝統符「志村うしろ! うしろ!」
軍事的抑止力を欠くからこその遠回りとも言える策。獅子身中の虫ではあるけれど、ハナから八坂政権そのものが入れ子構造。毒を以って毒を制す。協生こそが要と云うことかしら。自分などは暴君紙一重の直截簡明こそを好みますけどね。
いやー長かった。途中途中で間を挟みながら、一話から読み始めてはや二週間、あっという間に時が経ちました。
今後の展開に期待いたします。
それにしてもまだ雲行きが怪しいなあ...
流れ落ちる滝のように諏訪子の策は真っ直ぐ上手くいくのだろうか。
上手くいくよう、祈っております。
背景描写がしっかりしていて、読みごたえがあり大満足です。
キャラも皆いきいきしていて凄く良いです。それにしても神奈子がただしく軍神らしいといいますか、物凄く漢前。種々の行動も、諏訪子に面と向かって恋うているとか言い出す言動も漢らしすぎる。これは諏訪子が怨敵だったというのに惚れ込んでしまうのもわかる気がしますね。
ぜひとも完結まで書き上げてほしいなあと思います。
ギジチいいよギジチ。