「夢月、おいで」
淡い桃色のカーテンを閉めていると、そんな風に呼ばれる。
はて、なにか意に沿わないことで叱られでもするのかと振り向けば、目じりを柔らかく落として微笑む姉、幻月の顔。
ベッドに浅く腰掛け、細い指先をこちらに向けて差し伸ばしている。
「酔ってるの?」
「酔ってるよぉ」
「寝なさい」
「寝るから、この手を取って?」
まるで芝居じみた口上でやたらはっきりと言葉にする。添い寝が欲しい子供が、いくらませたとしてもそんな文句は口にしないだろうに。
椅子にかけたブランケットを畳んで腕にかけ、そのまま私は退室するつもりでいた。
酔いの姉に付き合っていいことはない。半ば強引にでも引き取った方が賢明だ。
「あー、お酒飲んだのに冷たい妹がいるわー。頭の巡りはいいのに血の巡りは悪いのねぇ」
「慎ましく息をしていますから」
「つまらないって言ってるのよう。誰が咎めるって、まったく」
「自尊心の問題でしょうよ」
「おばか夢月、趣向にそんなもの持ち込んでどーすんのよ。もっと気楽に、享受しなさいっな」
「考えておくわ、おやすみ姉さん」
耳を貸さず踵を返す。
「私の、執念が、夢月の部屋まで保つか、賭けてみない?」
言って、ふらりと姉は立ち上がった姉を見た。慌てて手を貸そう、なんてことをすれば思う壺だ。第一姉ほどの悪魔がそこいらの雑酒に飲み明け暮れたからって前後不覚になるまで酔うはずがない。つまり姉の゛酔い゛というのは気分的、感情的な自己暗示に近い。それこそが酔いだと言う声もあるだろうけど、この場合だと姉の自己申告には素直に頷きがたかった。
覚束無いとまでは行かないもののずいぶんとゆったりした足取りで、ドアノブに手を掛けた私へゆらゆらと手を伸べながら迫ってくる。揺れる前髪が掛かる表情は熱に浮かされたように緩みきり唇は奇妙なくらいに艶を纏って、薄く開いた目蓋から覗く金眼は私と目線を絡ませると口端の動きと合わせて妖しく笑み作る。背を向ければたちまちに捕らわれてしまう錯覚に陥り、縫いとめられたように身動きできなくなってしまうのは、真実姉がそういう小細工をしているからだろう。悪魔へ、それもほぼ同格である私に魅惑の魔眼なんてポピュラーな仕掛けをして、呆気なく成功させてしまうのが姉が姉たる所以でもあった。
――とは言え、私でも悪魔の端くれで、分かりきった仕組みなど瞳孔の収縮運動をキーにあっさりと捕縛を破ってやる。意図に反して私がすぐさま動けるようになった様子に目を見開いて姉は固まり、その隙を逃さずノブを回し――
「あら、迎えにきてくれるなんて」
優しい子ね、なんて声は息も交わる距離で伝えられた。
ひやりとした手触りのドアノブは生命を得て温もりが通い、開け放った向こうには冷えた廊下ではなく腕を広げて待ち構える姉の懐だった。
えっ、と思う暇があればこそ、つんのめったまま姉に倒れかかるのと失態を理解するのは同時だった。――仕掛けられたのは一つじゃない。多分、幻視の類いだろうそれを同時に、そして姉のことだから魔眼の効果を内包させたのかもしれない。
「ご苦労様……っと、あ、あれ?」
だが私を抱きとめた姉は予兆もなく腰抜けて膝から崩れてしまう。嘘ではない酔いが回った千載一遇のチャンス――ではなく、
「これ……もう。悪い目癖が真似されちゃったのかしら」
「不本意だけど、誰かさんのやり口を体で覚えた結果よ」
指先を絡めたまま片手をそのままに、姉の腰を支えて抱えた。
予想していなかったようで、すんなりと仕掛けは姉の体に及んだ。と言っても、本気で解きにかかれられれば霞みのように霧消してしまうものだろうから、勝ち誇って油断したりはしない。手早く抱き上げてベッドへ運んでやる。大人しくなった姉は陶酔した顔つきで人差し指を舐めている。ちょっと効き目が強すぎる気がしないでもないけど。
「ふふ、ん……まったく目つきだけで、人を腰砕けさせるだなんて、酔ってる相手に使うものじゃ、ないわ……」
そっと寝かせてやった姉はつぅ、と唇から引き抜いた指先を糸引かせながら私の口内へねじこんで嬉しげに笑み、白い喉を挑発的に反らして何かを期待する瞳で訴える。
だけど一日に二度も化かされれば警戒するもので、その後は目を合わせないようにして寝支度を手早く整えてやった。
「図らずもなにかご期待させてしまったようだけど、別にそんなつもりでかけた訳じゃないよ」
姉を着替えさせることは諦め、胸にまでタオルケットを引っ張りその上からぽんぽんと宥める。少しだけ寂しそうな表情が視界の端に見えて、けれどすぐにいつもの底知れない笑みを取り戻し浮かべる。まことに律儀で、姉らしい。
「それ、人の襟元を肌蹴させようとしながら言う台詞?」
「――は、えっ。あ、ちょっと」
言われた通り、私の両手はまるでそうすることが自然とばかりの手つきでするするとボタンで留められたワンピースを脱がせにかかっていた。感覚だけはあるのに、まるでそれ以上の権限を持つ何かに命令されて振舞っている感じで。
――いつの間に、と心当たりを探ってるいると、最上級の悪戯が上手く行った笑顔で姉は片目を瞑って――滑らかな唇に人差し指を当てて見せる。やられた。悪いのは目癖だけでなく、指と唇もだ。当に交わって喉に落ちていった唾液が、体に染み渡ってじわりと音立てるのが聞こえるようだった。
「ね、姉さん……!」
「いいのよじっとしてて。すぐに終わるんじゃないのかしら」
「分かった、分かったわ……っ」
息を荒げて抵抗すれば体は意思権をせめぎ合い、ぎこちなく緩慢に震えて止まる。
「少しくらいは、付き合うから。人形のように扱うのは止めて」
悔しさに歯の奥をかみ締めて、プライドを切り崩しながらそう懇願してしまう。
じっと目を覗きこんでくる姉から今度は逃げず、やがて優しげな手つきで頬を包まれると少しの間があって、体を突き動かそうとする不可視の圧力が抜けきり私はそのまま姉の上に被さり倒れた。嫌な汗が体中からどっと噴出す。恨み言の二つや三つは言ってやりたかったけど、生憎そちらは呼吸を整えるのにいっぱいいっぱいだった。
「よしよし、言いたいことはあるでしょうけど、まぁ夢月ちゃんの言葉ならいくらでも待ってあげるからゆっくり落ち着きなさい」
「……どの、くちが」
とりあえずこれだけは言っておかなければならない気がしたけど、やっぱり途切れて最後まで言い切れない。姉は声ももらさず喉の奥でくつくつと笑い、殊更に穏やかな手つきで私の髪に指を這わせ、奥の頭皮まで探って撫でる。火照った体には指先の冷たさが少し癖になってしまいそうで怖い。頭を一振りして手を払い、だるくなった腕で姉との距離を開けた。
「赤面した妹に見下ろされるのもいい趣味よね」
「自分で言うかしら……」
姉は音がつくくらいに笑って、まるでさっきまでの雰囲気を感じさせない。なんだか私をここまで引きずり込むことで達成感でも得てしまっているのだろうか。
笑うことを止めて穏やかに目じりを緩めた姉は、伸ばした指先を私の鼻梁に沿わせる。やがて頬を包んで覆うような動きになると、多少はむずがゆく思いながらも黙ってされるがままにしていた。どの道じゃれ合うことに頷いてしまったのは私なんだから、少しは大人しくしておこう――という考えも襟元をまさぐり始めた姉の行為に瓦解した。
何をしてるのよと言う思いで睨みを利かせば、既に開襟された自分の首元を指でトントンと示し、お相子でしょう? と言わんばかりに肩を竦めてみせる。過程はともかく、襟を開けた事実を共有しようと言うんだろうけど、どうにも理不尽さを拭えない。
しゅる、と微かな衣擦れ残しながら抜き取られたリボンを狩りで仕留めた大物を自慢するように眼前で掲げてみせ、私が反応の鈍いままにしていると、少し何かを逡巡する間の後に姉は一息で体位を入れ替えた。翼を下にひいてるのに器用なものだとそれは別にどうでもよくて。
慌てふためいて口を開こうすれば唇に冷たい指を置かれて、静かにしているようにのサイン。姉の目が存外に真剣だったので、私は不承不承に頷く。受け止めて包むようだった温もりが打って変わって覆いかぶさり、凹凸へ余さず寄りそい息づく姉の体温に、少し苦しい気がして身を捩った。
姉は口元にリボンを挟み込んで両手を自由にしながら私の髪を梳いている。やがて左側の髪を纏める手つきなって、そこへリボンを持っていった。それで何をしたいのかが大体分かったけど、少し拍子抜けもしてしまう。ここに至るまでの過程は日常へ混ぜ込んだ悪魔同士の他愛ないやり取りだと言う裏はありつつも、その結果で少し我がままに意思を通すことが出来るのなら、目の色を変えるまでではないとは言えなんとなく譲れないものが出てくる。
それが――
「うん、似合ってる」
満足そうな声に、リボンで留められた髪を見る。ある程度の髪房を纏めてゆわえられたのは、少しへなりと羽を落とした蝶むすび。ただ一週してむすぶのではなく、複雑に編んでから留める所が姉らしいこだわりだろうか。
ただその、姉のような愛嬌もかわいげも似合わない自分には、服飾以外で留められるリボンがどうしても似合うとは思えずにいた。
そんな不満さがにじみ出ていたのだろうか、姉は私の顔を見るなり、仕方のない、と言わんばかりに苦笑いをして顔を近づけてきた。言われんとしている事に理解が及ばないはずもなく、卑しさと恥辱に少し顔を伏せるしかなかった。
姉の前でこんな顔をするというのは、「自信のない私を褒めて」とあからさまに求めているようなものだから。当然その所をしっかりと理解した姉は今にも裂けそうなぐらい口端を歪めて私に耳打ちした。
「――とても素敵よ、私の夢月?」
少し離れた顔は、どう好意的に解釈しても素敵と褒める顔つきではなかった。そしてこんな間抜けなやり取りが更に恥ずかしく、自分の顔を隠す代わりに姉の両頬を掴んで間抜けにつぶしてやった。私と同じくらいにみっともなくなれ、と。
しっかりと間抜けな形相になった姉はしばらくきょとんとした後、何が決壊したように堪えきれないと腹を抱えたまま私の上にぼす、と落っこちてきた。さも愉快だと笑いに身を捩る図体がひどく不愉快だった。
「ふふ、あーもう。いいのよ、夢月は。少しくらいかわいくなったって、今さら誰もバチなんて与えやしないわ」
「姉さんと同じ悪魔だから?」
しばらくして呼吸を落ちつけた姉の言葉に、半ば用意していた言葉で応じる。
不正解、ともったいつけた素振りで首を横にし、胸上に頭を預け、涼しくなった私の襟元に指を差し込んでくる。
「私のかわいい妹であるバチがとっくに当たってるんだから、そんな程度じゃバチなんて大したことにはならないわ」
今度は噴き出さず、しかりと目線を絡めてそう言われる。これに関しては、ただ褒められる以上の意味合いがあるのでただ赤面するだけにはならない。だからと言って恥ずかしさを感じない訳ではなく、頬に溜まった熱が引くにはまだしばらく掛かりそうだった。
否定せず飲み込んだ私へ満足そうに笑みをやって、腹の上で丸くなっていた姉は体を伸ばして顔を寄せてきた。何をされるかの予想は大体つくとは言え、それを退けられるかは別の問題だった。
顎先へじゃれるように鼻頭をこすりつけてから、姉は喉元へと唇を落としこむ。唇より先に舌先をつける辺りが姉の性根を表している他にならない。
「また、そういう所に……」
「いいじゃない。とても綺麗な場所なんだから恥ずかしがることはないでしょ」
嫌がる意味が分からないでもないだろうに、あからさまに褒める言葉だけを選んで舌を滑らせていく。せめてもの抵抗に頭を退かそうと押さえるけど、夢中になりだした姉には大した効果をもたらさない。
「んむ、夢月はもうちょっと開放的なくらいでちょうどいいのよ」
「……姉さんにもらったこの服でも、大分開放的だと思うんだけど」
「スカート、やっぱり短かった?」
「姉さんが度々私の脚元に目をやってるのはよく知ってるわ」
悪逆の証拠を剣のように突きつけても、姉はそれを持ち出されるのは楽しいことなのだと喉を震わせて止まない。息を吹き付けられて温度を失う唾液まみれの皮膚が喉を通る言葉を冷却して勢いを奪いさってしまうのは、悔しいを通り越してもうそういう星の下にあるとでも言うのだろうか。
星程度に敷かれる月は、同じような輝きを持つ鏡写しの月と寄り添って慰めあうのが、お似合いなのかもしれない。
喉元を経由して鎖骨へと存分に舌を這わせて満足したらしい姉は、熱の篭った息をゆっくりと吐きながら、柔らかく笑いかける。
「さてそれで――かく言う夢月は私の目はしか見ないなぁと思うんだけど、それはどんな意味を持っているのか、聞いてもいいかしら」
あっさりと身を横たえて、私と並びながらそんなことを言う。自分の番は終わり、と。
熱に浮かされたのは姉だけでなく、その吐息を間近で交わした私にも伝染したのだろう。
身を起こして姉に覆いかぶさって、慈しむ目線でいる姉の目じりへ口付けるのは、ほんの少しの抵抗だけしかなかった。
終わり頃には、撫でてあやすような沈黙で終着した。
おやすみと夢にたゆたう意識へ残して、穏やかに眠る姉を向こうに、ゆっくりと戸を閉じて部屋を後にした。
――うん、似合ってる。とても素敵よ、私の夢月?
私室に戻る道すがら、姉のとのやり取りが反すうされて、やっぱりどうにも落ち着かない気持ちになる。
似合わない、似合わないんだ。
だが、見えない何かに頑なに抗う心には、姉の残した甘い響きでうわついている。
あんな馬鹿みたいで白々しく交わすやり取りだけど。
「かわいい、か……」
確認するように一度、声に出して。
髪に留まって揺れる赤い羽根の蝶を、少しだけ撫でてみたのだった。
――
「おはよう姉さん」
「んーおはよーう」
寝ぼけ眼でリビングに入ってくる姉は相変わらずで髪以外はだらしがな有様だった。髪を整えるよりも手早く済むんだから服にも気をかけてもいいだろうに。
しかしそれら小言を頭内で留め何食わぬ顔で朝食を支度していたのは、どうにも今日は不自然なことをしているからだ。
それも姉ではなく、自分が。
だから、後ろから近づく足音には気がつかない振りをしておいた。
「――あら、どこから迷い込んできたのかしら。ずいぶんとかわいい蝶が留まっているみたいだけど?」
むずかゆいと思うのはなにも、背に覆いかかって髪留めを弄くる姉の吐息が耳をくすぐるからだけではない。
内側からこみ上げるものが、私を馬鹿馬鹿しく震わせているからこそでもあるんだ。
「さぁね。――ひょっとしたら、誰かに褒められて居場所を気に入ってしまったんじゃないかしら」
馬鹿な言葉を上手く言えたかどうか。
けれどそんな時は決まって、まるで逆の効果へとしかならないんだと。
瞬時に砕ける姉の顔が声にするまでもなく物語っていた。何かとても嬉しそうな笑い方を披露されて、私はどんな反応を取ったらいいのか分からなかった。
「一々そんなセリフをそんな顔で言われたら、夢月が恥ずかしさで顔を隠す前に私がどうにかなってしまいそうよ」
言われて思わず自分の顔を撫でてみるけど、それを境に姉が更に笑みを深めたことから、かまかけをされたのだと理解した。
失礼なぐらい笑っている姉の尻を蹴って追い払うと、これまた嬉そうに尻を庇いながら逃げていった。
――慣れないことはするもんじゃない。
どうせ酔いの口で出された世辞だと流して背を向けた途端、「夢月」と呼ぶ声。
恐らく、姉はそんなタイミングまで見計らっていたんだろう。
「よく似合ってるわよ」
視線を戻した私へ、同じ位置の髪を指し小憎たらしく首を傾げて見せてながら。
心構えが間に合わなかった私の内側へすっ、とその言葉がしみ込んでしまっていた。
しかし、ここは意志力を総動員して何も反応を示さず踵を返した。そのままキッチンへ戻れば、照れているに違いないと姉は内心でほくそ笑んでいただろう。私が姉にやり込められることなんて元から承知している。
数歩先で足を止め、肩越しに振り返る私に無防備に笑う姉がいた。
口から出任せとは、ほらを吹くだけではなく、つっかえてしまいそうな言葉を後押しする意味も持っていると思うのだ。
「ありがとう、姉さん」
その瞬間となれば、切り絵にして残しておきたいくらいの手応えが姉の表情にあった。
思わず成功して、嬉しさにしばらくそんな成果を眺めてからキッチンに戻る手前、戸口越しで様子を見た姉は、なぜかソファーの背もたれへ乗って海老のように身を折って脱力していた。
反応が違ったことがそこまで悔しかったのだろうかな、と見当をつけて、しょうがないから今日は姉の好物を朝から出してやろうと思う。
その後調子を取り戻した姉に一連のやり取りで散々弄ばれたのは当然で、あえて言うまでもないことだった。
でも悪魔で姉妹だからしょうがない。
姉妹なのにね
えろい
な