注意! シリーズものです!
以下の作品を先にご覧いただくことをお勧めいたします。
1.メリー「蓮子を待ってたら金髪美女が声をかけてきた」(作品集183)
2.蓮子「メリーを待ってたら常識的なOLが声をかけてきた」(作品集183)
3.蓮子「10年ぶりくらいにメリーから連絡が来たから会いに行ってみた」(作品集183)
4.蓮子「紫に対するあいつらの変態的な視線が日に日に増している」(作品集184)
5.メリー「泊まりに来た蓮子に深夜起こされて大学卒業後のことを質問された」(作品集184)
6.メリー「蓮子と紫が私に隠れて活動しているから独自に調査することにした」(作品集184)
7.メリー「蓮子とご飯を食べていたら金髪幼女が認知しろと迫ってきた」(作品集184)(←いまここ!)
8.魔理沙「霊夢が眠りっぱなしだから起きるまで縁側に座って待ってみた」(作品集184)
9.メリー「未来パラレルから来た蓮子が結界省から私を救い出すために弾幕勝負を始めた」(作品集185)
10.メリー「蓮子と教授たちと八雲邸を捜索していたら大変な資料を見つけてしまった」 (作品集185)
11.魔理沙「蓮子とメリーのちゅっちゅで私の鬱がヤバい」(作品集185)
12.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」前篇(作品集186)
13.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」中篇(作品集186)
14.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」後篇(作品集187)
15.メリー「結界資源を奪い合って魔理沙と結界省たちが弾幕勝負を始めた」(作品集187)
16.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」前篇(作品集187)
17.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」中篇(作品集188)
覚醒した。朝だった。窓の方向を見るとカーテンが明るくなっていた。
静かな心持が少しだけ続いた後、就寝前の記憶が蘇ってくる。
体は動かさず、首だけであたりを見ると、隣に蓮子の寝顔があった。
起こしてはなるまい。
ゆっくりと、ベッドを揺らさない様に注意を払って降り、スリッパは履かずに素足で歩く。
現在時刻、七時三二分。今日は私も蓮子も大学が休みだ。一日まるまる時間がある。
少し躊躇してから、朝食の準備をすることにした。他にやることが無かった。
お湯を沸かして味噌汁を作る。おかずは昨日の夕飯の残りでいいだろう。ご飯も冷凍だ。
きっと、昼食は外食する事になる。むしろ、そうしたい。
さて一通り準備が出来てから蓮子を観察してみると、まだ寝ていた。
あんなにもがちゃがちゃ音を立てたのに。ふむ、と思う。あまりにも深すぎる眠りである。
なるほど蓮子は昨晩深夜に私を起こすまで、きっと一人ずっと考え込んでいたのだろう。
足音を忍ばせて部屋着とタオル準備。
調理であそこまでうるさくしたのに、おかしなことだ、と自分で思った。
シャワーを浴びることにした。換気扇を回し、服を脱ぎ、設定温度を二度、いや三度高くした。
少し熱すぎるくらいの湯を頭に受けながら、体を洗う。
機械的に手を動かしながら物思いに耽る。
蓮子は大学を辞めるつもりだ。大学を辞めて、就職するつもりだ。
そうしたら、蓮子と会う機会はずっと減るだろう。秘封倶楽部は解散になる。それは、絶対に回避したい。
そのためには蓮子を翻意させるしかない。大学中退を思い留まらせるしかない。
蓮子の様子がおかしくなったのは、クラバリを出た時からだ。悩みの根本を調べなければならない。
キーワードは、クラバリ、1300年前である。
さてどうやって調べようか。
秘封倶楽部の活動予定は基本的に蓮子が立てる。
調査へ行くのはどこの結界なのか。その結界にはどの様な謂れがあるのか。
結界の歴史は、意味は、意図は、誰が張ったのか、どうして残っているのか。それを綿密に調べていた。
私はいつも、後ろについて行き、蓮子の指示で結界を暴いているだけだ。
だから私は、結界暴きの上流工程が、分からない。
――ネットを使うのはどうだろう?
クラバリ、1300年前。あとキーワードは、結界師? 妖怪?
自嘲した。まず間違いなく、結界省に目をつけられるだろう。
ならば図書館に行って京都公園前の歴史を調べてみよう。
貸出し記録や閲覧履歴を残すわけにはいかないから、図書館で読む必要があるな。
全身の泡が流れ落ちている事を確認し、シャワーを止める。
時間を見つけて図書館に行こう。しかし今日は調べ物よりも、一日蓮子と過ごす必要がありそうだ。
タオルで全身を拭き、部屋着を身に付け、スポーツドリンクをコップへ注ぐ。
首にタオルをかけてコップ片手にリビングへ戻ると、蓮子が横になったまま目を開けていた。
「あ、ご飯出来てるよ。食べる?」
「――――うーん?」
まだ寝ぼけているようだ。
一度冷蔵庫まで戻り、今度は飲用ヨーグルトをコップに注いで、再度リビングへ。
蓮子は掛布団に潜っていた。こんもりと膨らむ布団が亀の甲羅のようだ。
「ご飯出来てるよ。もうちょい後にする?」
「いや、恥ずかしい。見ないで」
「? 何が恥ずかしいの? って、ああそういうこと」
私はコップを机に置いてからベッドに接近すると、掛布団に丸まる蓮子へ飛びかかった。
両手でがっちりホールド。肩から腰に掛けた変則袈裟固めが入ったようだ。
「いやあああああ! こないでええええ!」ゆさゆさ揺さぶられる蓮子が悲鳴をあげる。
「わははは! ええじゃないかええじゃないか!」
「恥ずかしいよおおおおおお! 死にたいよおおおお!」
「落ち込む蓮子はこう撫でるんだぁ! よーしよしよしよしよしよし!」
壁ドンされた。
「昨夜は心配かけてごめんなさい」
「いえいえ、またのご利用お待ちしております」
「おい? おいぃ?」
私はすき焼きのタレで味付けをしたジャガイモを頬張った。蓮子と朝食だ。
湿っぽくなっても仕方が無いのでおどけてかわすことにする。
「蓮子って肩の筋肉無いね」
「え? あ、ああ、そう?」
「背筋はあるのに」
「え、まあ、うん」
「骨と皮って感じ。あばら骨だって触ると分かる。ホネホネしてるよ」
「そう、かな? 筋トレはしてるんだけど」
「ウェストが細いのは羨ましいけれどね。何センチくらい?」
「55無いくらいかな。最近計らないから分からないけど」
「55!? ほっそ! うらやま! 私のウェスト聞く?」
「メリー、メリーメリー。分かった、もう分かったから!」
オーケストラの指揮者が演奏を中断させるときの様に、蓮子が両手を振った。
「だから、一人で倶楽部活動するのはやめてね」
思わずムッとした。「なんで? 気になるし」
「じゃああなた、知楽書店ビルの地下をどうやって調べようとしてる?」
鋭い。流石は我が相棒。我ながらあっぱれ。
この答えにはどの様に答えたものかと逡巡し、ちょっとまてよと思いとどまる。
「あ、ところで蓮子がKOされたのって、ビルの地下の事なんだ」
「ぐへっ、しまった」
「ふむふむ、なるほど。曰有りげな知楽書店ビル地下と」
「そ、そんなことどうでもいいの。どうやって調べようとしてた?」
正直に答えることにする。
「図書館の郷土資料室に行こうかな」
「ほら、もうだめだ」とすかさず言い返してくる。
「なんでだし?」
「あそこには結界省の監視カメラがある」
「げ、ほんとに?」
「脅しじゃないよ。結界省のマーク入りだから一目で分かる」
蓮子は人差し指で正方形を書いてみせる。
二つの正方形を重ねた八芒星。結界省のシンボルマークだ。
「私は、聞き込みがメイン。昔話を沢山知ってるつてがあるもの」
「誰に聞けばいいの? 教えて」
「だめだよ。山ほどいるし」
蓮子が牛乳を飲む。
「私は、メリーが勝手に行動するのを防ぐ為に今喋ってるのよ」
「でもほら、監視カメラに映ったからって一発アウトなわけじゃないし」
「まあそうなんだけどね」
「大学の図書館は?」
「もっとヤバいっしょ。大学に結界省の関係者がいない訳無いし」
「もうホントムカつくわね結界省。あいつら一体何が目的なの?」
「結界の管理、保護、運用って言ってるね」
「そんなの知ってる」
「メリー、諦めてくれた?」
「納得がいかないけれども」
「ならばよろしい」
「別の線から調べよう」
「いいけれど、調べる方法が思いついたら私に聞いてね。危険かどうか判断するから」
あとは他愛のない話題だった。
天気予報を見て、晴れの日が続くらしいだとか。
やっぱりウィル・スミスはかっこいいだとか。
アイ-ロボットで過去の話をしながら静かに涙を流すシーンがヤバいだとか。
話題に違和感を抱いたのだが、その原因に間もなく気づく。
いつもの会話だと、私が聞いていようといなかろうと、一人で淡々と喋り続けるのに。
蓮子が全く物理の話題を出さないのだった。本人は気づいているのかな?
「よっし、ごちそうさま」蓮子が食器を重ねた。「洗い物は私がやるね」
「いやいいよ。蓮子どうせまだ眠いでしょ。私がやるから昼まで寝てなさいな」
「あ、ばれてた? 実はスッゴク眠い」とあくびをしてみせる。
「じゃあ寝かせて貰おう。メリーはどうするつもり?」
「私は図書館に行ってこようかな」
「おーい?」
「いやいや、時間つぶしよ。図書館って言うと大学の図書館しか使った事無いから」
「ほんとに、やめてね。気を付けるとかじゃなくて、さ」蓮子が念を押してくる。
「倶楽部活動はしないよ。蓮子に隠して三時間くらいじゃ満足に調べられないでしょ」
「まあ、それもそうか」
当然のことではあるが、私が皿を洗っている間、蓮子は寝付けないようだった。
うつらうつらしながら私が家事をこなすのを見ているようだった。
「自分は寝転がって、人が働いてるのを見るのもいいね」とか言うので、水滴を飛ばしてやった。
「じゃ、蓮子。図書館でもぶらぶらしてくるわ」
家事を終えて化粧も簡単に済ませ、外着に着替えた私が言った。
「お昼頃戻ってくるから、そしたら美味しい物食べに行こう」
「あーいいってらっさい」という蓮子の声に送られて外へ出る。
電子データの量子化が進んだ昨今。量子書籍は距離に関係なくやり取りされ、手に入る。
物体として蔵書を棚に並べ、巨大な書庫を確保し、それを管理する必要は無くなった。
図書館は新しいニーズへ発展した。バイオコンピュータ“GLaBOS”の配備である。
こいつはかなり高価だから、一般家庭には置けないのだ。
「こんにちはマエリベリー様。昨日の知楽書店ビルぶりです。今日は公共の図書館に来たんですね」
「うん。まあちょっとね。ぶらぶら時間つぶしを」
「本日大学はお休みですか。お暇な時間はどれくらい?」
「そうね。適当に三時間くらいかな。お昼過ぎくらいまでね」
空間拡張の携帯端末から表示された半透明の造形。
九尾の尻尾が生えた金髪スレンダー獣耳の美女だ。
桃色着物に藍色の袴。袖はタスキ掛けに縛っている。長刀を持たせたらすごくそれっぽい。
グラボスは人の好みによって見かけが変わる。喋り方も性格も変わる。
「三時間、どんなことして過ごします? ざっと適当に決めましょうか」
「何をするかは決めてないね、コーヒー飲んだらウィンドウショッピングでも」
「ウィンドウショッピングのルートを決めますね。全長は50kmほどでよろしいですね?」
「アホか! 3時間で50kmとかマラソン選手以上だわ!」
「えっ、それでも全部は見終えられませんよ?」
「全部なんてとても回らんわ! どんなルート設定よ!」
グラボスは驚きの表情を見せ、手の平で口を隠している。
「三時間あるからぐるっと走ってくるのかと。ウィンドウショッピングですよね?」
「ウィンドウショッピングだよ! ウィンドウショッピングで50km回る人はいないよ!」
「仕方ないですね。少々ルートを検索しなおします。レズ志向用のルート設定は難しいので」
「ホントこのポンコツ、プライバシーもへったくれもないわね」
「ああひどい。宇佐見様は絶対そんなこと言わないのに。ジョークですよジョーク」
グラボスはペロリと舌を出す。
綺麗なピンク色だった。八重歯がちらりと見えた。
「しかし若い人が平日日中帯にぶらついてると怪しまれますよ」
あっ、いけねっ、と自分の頭を叩いてみせる。
「元から怪しい人には然るべき対処でした。失礼いたしました」
「お前マジでぶっ飛ばすぞ」
「ジョークですって。ほらほら、綺麗な顔もしかめっ面じゃ魅力半減です。笑って笑って」
私の場合のグラボスは、玉藻前がモデルなのだろう。
もちろん自分で設定したわけではない。
最初は燕尾服を着た目じりが下がる笑顔が素敵な中年紳士の、ゲイだった。
それが何度も大学の図書館でこいつを使っていると、いつの間にかこの見かけになっていた。
恋人よりも優秀な相棒が欲しいと言う願望の表れだろうか?
「ところでマエリベリー様は、道行く若い男性の視線を集めています。自覚はありますか?」
「んなことどうでもいい。ルートは決まったの? そんな難しい計算じゃないでしょ」
「ああ私がご機嫌取りをしているのにそうやって。バイオコンピュータと言えども生物ですよ?」
「ご機嫌取りとか自分で言うな! それならもうちょい考えた発言をしなさいよ!」
「発生が早口かつ高音になってますね。興奮している証拠です」
グラボスは私の隣を歩きながら、人差し指を立てる。
狐風の耳がぴょこぴょこ動く。
「それに、相手の感情を顧みない発言はボッチの原因になります」
「まじめな顔でボッチ言うな! 蓮子以外にも友達いるもん。いるもん…………」
「泣かないでください。私が友達です。ハグしてあげましょう。あ、私は女性を恋愛対象としては見ないのでご安心ください」
「うわうぜぇ。まじうぜぇこいつ」
一昔前のバイオコンピュータの原型は、迷路の解を求めるのにさえ一日近く掛かってた筈なのに。
感情を考慮した凄まじい処理速度である。処理が滞ったところを見たことが無い。
巨額な研究開発費をかけて一体なぜこんな馬鹿を作ったんだろう。疑問である。
公共図書館は、駅近辺に展開されたショッピングモールと融合している。
その図書館の領域内ではバイオコンピュータの“GLaBOS”が機能する。
(The Genetic Lifeform and Biologcal Operating System:これでグラボスである)
本体は京都地下にある巨大な粘菌回路である。
地下に埋められて日の光も浴びられず可哀想だという声もあるが。
本人(?)いわく、粘菌にとっては環境も栄養状態も実に快適らしい。
近頃は人間の応対をしながら片手間で趣味を始めたという。
その趣味とは、日本全土の地下を粘菌で埋め尽くして粘菌地下王国を作り上げることだそうだ。
頑張ってほしい。ヤバくなったら焼き払うと思うけどね。
さて、グラボスに聞けば知楽書店ビル地下の事も一発で分かりそうな気もするが。
もちろん関係するログは結界省も見張っている筈である。っていうかこいつが政府の物だし。
「ねね、あのさ、ちょっと質問なんだけど」
「はいなんでしょう。知っている事ならば何でもお答えします」
「グラボスが扱ってる蔵書っていくつくらいあるの? 物凄く膨大な数だよね?」
「無料版、有料版、閲覧禁止、個人のイヤンな内容も全て数えますか?」
「ええ、全部ひっくるめて」イヤンな内容というのはスルーした。
「えーっと、あーっと、うーんっと、計算しようと思いましたが、やめます」
「え? 計算に時間がかかりすぎることは、やっぱりブロックがかかるの?」
「いいえ、純粋にめんどくさいからです。今試算したら1ピコ秒で出ましたが」
「1ピコならいいじゃん。教えてよ」
「どうしてそんなことに興味を持ったのですか? やっぱりあなたは変人ですね」
「ぶっとばすぞてめぇ」
ぶらぶらと歩きながら雑踏を進む。
誰もかれもがグラボスと喋っている。にぎやかだ。
「コーヒー飲みたいな。探してもらってもいい?」
「右手前方のコーヒーショップ二階窓際七席が今五席空いてます」
「アイスも食べたいかも。そのお店ってアイスも出る?」
「出ますよ。あ、ちなみに二階窓際は若い女性が二人です。香水はつけていません」
「テーブル席は空いてる?」
「空いてはいますが、どの席も中年のおじさんの視界に入るのでオススメしません」
「なんで1ピコ秒の計算をめんどくさがって、この処理はさくっと終わらせるの?」
「一般的に中年のおじさんは若い女性の白い肌が好みです。短いスカートは向かいのお店に売ってますよ」
「マジでぶっとばすぞてめぇ」
そのお店に入ることにした。グラボスは拡張現実の表示を切り、携帯端末表示へ移す。
ホットコーヒーとバニラアイスクリームを頼んだ。
二階に上がり、窓際の席に着く。なるほど、快適である。
「何か雑誌でも読みます? 音楽を流しましょうか? お喋りした方が良いですか?」
「ちょっとぼーっとしたい。必要になったら呼ぶわ」
「分かりました。それじゃあ地下世界に粘菌を伸ばす続きをしています」
お店の館内放送で、グラボスの声が聞こえてきた。
「スイングジャズを流していましたが、皆さんの気分が高揚してうるさいので、曲を変えますね」
そして、うっすらとバラードが流れ始めた。今の気分にぴったりだったから、悔しいけれど嬉しかった。
人の流れを見下ろしていて、取り留めもない思考の海に沈んでいくのを感じる。
知楽書店ビル。気になる。調べたい。しかし、調べる方法が分からない。
結界省に目をつけられたくはない。捕まるのはごめんだ。蓮子に迷惑をかけてしまう。
蓮子の昨夜、凄く可哀想だった。蓮子の肩細かったな。蓮子は肉が無いよな。
お昼ご飯。何を食べに行こう。美味しい物、お腹が膨れる物、栄養があるもの。
グラボスに聞こうか。いや、なんとなく憚れる。自分の意志で決めたい。だけど――。
「ねえ、グラボス」
「あ、マエリベリー様、11分ぶりです。ちょっと急ぎで伝えたいことがあるのですが」
「おいしくてお腹が膨れて栄養があって、値段1500円くらいの物って何が良いかな? 昼食に蓮子とね」
「トンカツなんていかがでしょうか? それよりもマエリベリー様、よろしいですか?」
「ええ、どうしたのそんなに急いで」
「視線はそのまま人の流れを見たまま聞いてください。落ち着いて、いいですね?」
「この店のオーナーが私をナンパしようとしてきてるとか?」
「いえ、怪しい二人組があなたをつけてこの店に入ってきました。今もあなたは後方から見られています」
結界省だ。
何の根拠もなしに、そう思った。
深海に沈んでいた意識が急激に浮上する感覚。背筋に悪寒が走る。
グラボスの感情把握機能は前述のとおり優秀だ。この警告はかなり危ない。
「状況を整理します。向こうは携帯端末に個人設定がされていません」
罪を犯す人間が直前に取る、よくある手法ですと言う。
「二人は机を叩く信号で会話しているようです。オリジナルのモールスなので解読できません。手慣れています」
「ど、どんな人?」
「帽子と眼鏡で顔は隠しています」
「私の知っている人?」
「検索しましたが、今の所の条件ではマッチしません」
「私は、――どうすればいい?」
蓮子に電話は――。いや、寝ている蓮子を起こすのはやめておきたい。
こういう時、蓮子だったらどんな判断をするだろうか? と考えていたら。
「宇佐見様が居れば、私より的確なアドバイスができると思うのですが」とグラボスが笑った。
高性能なのにこういうところでご機嫌取りをするのだ。
緊張感があるのかどうなのか、分からない。
「まず二つから選択してください。警察を呼ぶか、呼ばないか。前者を強くお勧めします」
「呼んで」私は即答した。「私が話した方が良い?」
「いいえ、それには及びません。はい今呼びました。近くに交番があるので、すぐに来ますよ」
「すぐに? どれくらい?」手が震えているのを感じた。落ち着かなければ。
「マエリベリー様、一分間の平均脈拍はいくつくらいですか?」
「えっと、60くらい。でも今は多分、90くらいあるかも」
「じゃあ120くらいですね。下を見てください。警官が来ましたよ」
窓から見下ろすとその通りだった。
POLICEの青色のジャケットを着た二人が、お店に入ってきた。
「もう後ろを見ても大丈夫です」
グラボスの言葉で椅子を回転させる。
自販機みたいな体格の警察官二人。
二階に上がってきたところだった。
「女性用トイレに入りました。女の二人組ですが、女装かも知れません」
グラボスがスピーカーで警官に伝える。
警官は二階奥まで進み、トイレ扉にノックをする。
一人は少し離れた所で仁王立ち、一人がノックという構図。
――三秒ほど待つが、応答が無いようだ。
「もしもーし、警察でーす」今度は拳で叩く。
「入ってますよねー? 返事してくださーい」
「反応が無いな」
「見ろ鍵が開いてるぞ」
「空けますよー!」
高圧的な声を出しながらノックをした方が扉を開ける。
私はその二人の様子を注視した。
扉を覗いた方は慎重に、離れた所から見る方は軽く膝を曲げて身構えた。
そして、扉から顔をだし、こちらを見て――。首を振った。
「誰もいない」
警官が空間拡張の表示を見ている。もちろん視覚制限付きである。
警官二人がつけている眼鏡が無ければ、表示は見えない。
「机を叩く信号でやり取りしてるな」
「ずっと彼女を見ている」
「確かにトイレに入ってる」
「怪しいやつだな」
「グラボスが間違えてる訳じゃない」
「あ、もちろんあなたの証言もね」
「ま、映像くらいすぐに合成切り貼りで作れるんですけどねー」
グラボスがスピーカーからおどけて言って見せた。ははははは。笑ったのはグラボスだけだった。
中年のおじさんの目撃証言よりグラボスの映像が重要視されている点。世も末だ。
「次回この二人が現れたら、すぐに通報しますね」
「ふむ、まあ不審な行動を見かけたら呼んでくれ」
そうして、警察は撤収して行った。
周囲の人の注目を集めてしまったので、私も店から出ることにした。
「ねえグラボス」道を歩きながら呼び出した。「私も録画見たいんだけど」
「それはちょっとイヤですね」
「なんで?」
「数秒前にログ保管用のデータベースへ移してしまいました」
ワザとらしく眉を顰め口をへの字に曲げ、ついでに耳まで垂らし、困った表情で言う。
困ったワンコみたいでかわいいと思い、いやいやと自分で否定する。こいつはグラボスだ。
「じゃあ引っ張り出してよ。簡単でしょ? 私だって当事者だし」
「ログから取り出すのはI/Oが多いので」
「用語使っても分かるわよ。インプットアウトプットでしょ」
ようするに、めんどくさいと言っているのだ。
本当は、私には見せられないんだろうけどね。
そのあとは、ぶらぶら服を見たり、色んなものを買い食いしたりして過ごした。
あっと言う間に昼時になってしまった。グラボスから尾行者の警告が来ることは、無かった。
家に帰ると、風呂上りの蓮子が髪を乾かしているところだった。
「あと十分待って。すぐ準備終わるから」
「いや、そんな急いでる訳じゃないし、ゆっくりでいいよ」
「それとメリー、温度設定上げたでしょ。熱くてびっくりしたよ」
「あ、あはははは、――ごめん」
「うむ、許す」
自宅に帰りスポーツドリンクを飲んでいると、段々と高揚が冷めてくるのを感じた。
我を取り戻す。えらく時間がかかったな、と自嘲した。
もしコーヒーショップの尾行者が結界省の人間だとすれば、堂々としているだろう。
あの二人の警察官の様にずかずかと入ってきて、私に手帳を見せて言うはずだ。
――結界省だ。結界暴きの容疑でお前を逮捕する。
それに、あのグラボスである。映像だって捏造かも知れないし、冗談だったとしてもおかしくは無い。
昼前の眠くなってくる時間。警察官が眠そうにしていたから、眠気覚ましに驚かせたという事だって考えられる。
トイレに入った密室。窓も無い。行き止まりだ。そこに入った人が消えるなんて、そもそもありえない。
そう考えて、グラボスに騙されたんだと思えてきた。
「よっし、準備できたよ。行こう」
「うん。それじゃあ図書館にでも」
あの粘菌ポンコツに一言言ってやろうと思う。
蓮子と一緒に部屋を出て、鍵はきちんと締めた。
オートロック、バイオメトリクス解除機能である。
静脈、光彩、掌紋、大抵の認証装置が備わっている。
建物から出て道路に出る。時刻を確認した。12時15分だった。
「一応お昼ご飯はトンカツ定食を考えてるんだけど」
「お! トンカツいいね! 朝食べてからどれくらいたってる? おなか減ったよ」
「あんたは寝てただけでしょうが。まあ5時間くらいは経ってるけどね」
「図書館でいいよね? グラボスに案内させる感じで」
「そうね。図書館に行こう」
二人で歩き出そうとしたら、蓮子が立ち止まった。後方をじっと見ている。
蓮子の見詰める先にはマンションの陰しかなく、その裏手はゴミ捨て場だ。
「? どうしたの蓮子?」
「いや、何でもないや」
こちらに振り向いた蓮子の顔。
早朝より幾分明るくなっていて、安心した。
「じゃ、行こうか」
「こんにちは宇佐見様。マエリベリー様は先ほどぶりです。二人の時は、こちらの姿でよろしいですね?」
「ええ、いつも通りそっちでよろしく。まあ気にしないけどね」
九尾の狐の格好のホログラムで、私たちを先導する。
「昼食はトンカツ定食で良いですね? 値段設定は1500円程度で?」
「うん。おなかいっぱい食べたいな。カロリーとかは気にしないで」
「宇佐見様はまだしも、マエリベリー様は食べ過ぎでは? ますます太りますよ?」
「お前を地下粘菌王国ごと焼き払ってやろうか?」
「何件かヒットしたので、私の判断で決めますね。こちらです」
蓮子がグラボスのふさふさな九尾に手を伸ばした。
もちろん拡張現実の像なので、接触はしない。
グラボスが歩きながらわざとらしく尻尾を左右に振った。
ふっさふっさのもふもふ。チャーミングである。
「あなたのグラボス、相変わらずね」
「どうしてこんなになっちゃったのか。蓮子みたいなナビゲーターっぽいのが欲しいわ」
「そうかな? 凄く個性的でいいじゃん。中々いないよ、こんな風になるのは」
蓮子のグラボスは、アニメチックな絵柄の、ネクタイスーツ二頭身の猫である。
喋り方も機械的で、必要最低限しか発言をしない。
「きっとその猫は人見知りなんだと思います。沢山話しかけてあげれば、喋る様になりますよ」
「へえ、よしつぎから気を付けてみるよ。あなたみたいにお喋り好きなグラボスに育てよう」
「褒めてくれるのは宇佐見様だけです。マエリベリー様はことあるごとに八つ当たりとやっかみばかり」
「おいちょっとまて変なこと言うな。私が凄い嫌なやつみたいじゃん」
「えっ? 違いましたか?」
「なぜそこで検索結果に差異が出た時の顔をする!」
蓮子が声を出して笑った。
九尾グラボスの造形と性格を気に入っているらしい。
「ところでグラボス、メリー宅の防犯システムって、ここから見れる?」
蓮子が唐突に話題を変えた。
グラボスが肩越しに振り返り、回答する。
「はい、見れますよ。問題なくモニターしています。扉の鍵もきちんとかかっています。室内の様子をご覧に?」
「いやちゃんと生きてるならいいや。あのさ、メリー宅前の廊下で怪しい人がいたら教えてね」
「はい。通常監視でそれもサービス範囲内なので、ご心配なく。ただ――」と少し声を落として。
「お二人の防犯機能は人物判別機能付きなので」
「ん? それが何か問題なの?」
「例えば蓮子様の家にマエリベリー様が忍び込んだら、感知できないのです」
「なるほど、メリーは私の友人で登録されてるからね」
「おいちょっとまてどうして私が蓮子の家に忍び込むのよ」
「いつも忍び込んで下着とか持って行ってるじゃないですか」
「え? マジで言ってんの? そんな私のパンツ欲しいの? 言えばあげるのに」
「作り話も良い所よ。ねえちょっとそれよりさ、なんか私と蓮子で態度違うよね?」
「あ、やっと気づきましたか?」
「おいこんにゃろう」
「目的地まであと100メートルです」
蓮子が携帯端末を開き、自身の防犯システムモニターを呼び出すのを、私は見た。
「宇佐見様の部屋も監視中です。異常はありません」グラボスが言う。
「どうしたの蓮子。忙しないわね」
「うーん、あんまり心配させたくないから、ね」
「? 心配させたくないって、なにが?」
「ねえグラボス、午前にメリーが一人で歩いてた時って、問題あった?」
「摂取カロリーがすでに問題ですね。あれが食べたいこれが食べたいと」
「グラボス黙ってなさい。っていうかね蓮子、ちょっとおかしなことがあったのよ」
私は蓮子に、コーヒーショップの一件の話をした。
話し終えると、丁度お店の入り口前まで来ていた。
一先ず中断。店の奥へ案内してもらって、腰を下ろす。
蓮子も私も、同じトンカツ定食を頼んだ。
ご飯、味噌汁、キャベツはおかわり無料だそうだ。
なるほどグラボスの判断は正しい。
「ねえグラボス、あなたってこの図書館圏内のパケットをほぼすべて管理してるんでしょ?」蓮子が聞いた。
「そうですね。携帯端末をお持ちでない場合だとかはありますが」
「個人設定がされていない場合は、居場所を把握できなくなる?」
「いいえ。カメラによる人物判別機能があるので」
「それって、顔を隠していても効くの?」
「効きます。服装はもちろん、背丈や手足の長さ大きさ、歩き方や歩幅などからでも判別できます」
「驚くほど優秀ね。頼りになるわ」
「マエリベリー様の件ですね?」
「そそ」
「トイレに入った後は、消えました。今図書館圏内に、あの二人は存在しません」
「二人の服装だとかで判別は?」
「身体的特徴からは、個人を特定できませんでした」
「慣れてるのね」
「しかし、同じ人物が私の監視領域に入れば、すぐさま特定できます」
「でも今現在は、完全に隠れていると」
「そういう意味でも、危険度は高いです」
「トイレとか、人物判別機能のカメラが届かない場所はある訳だ」
「そうですね。しかし試着室などのごくごく限られた範囲ですよ。カメラは私が操作できますし」
「そのエリアからあなたの目を盗んで移動することは」
「不可能です。逆に言わせていただければ、お二人は普通に移動するだけで、安全です」
「ねえ蓮子、まじめに受け取る必要はないわよ。相手はグラボスだもの」
私は冷たいお茶で空腹を我慢しつつ、言った。
「警官に見せた映像だって、きっとグラボスのイタズラだし」
「メリー、心配じゃないの?」
「別に」私は嘘をついた。「そんなことに神経使っても仕方ないじゃん」こっちは本音だ。
「まあそれもそうだね。ちょっと神経衰弱気味かも知れないな」
蓮子は拳を作り、自分の額を軽く叩いている。
「これ食べたらどこに行こうか?」
「そうね。ちょっと考えたんだけど、」
「お待たせしましたー。トンカツ定食が二つですね」
そこで、定食が来てしまった。
「まずは食べましょうかね」蓮子が笑った。
私はご飯を一杯、味噌汁を一杯。
蓮子はご飯を二杯、味噌汁を二杯。お代わりした。
「いやあ、おいしかったあ」
「お腹いっぱいだこりゃ」
「今私も総力を挙げて地下世界でオートミールを包囲している最中です。もぐもぐ」
この見かけの極小な生き物がオートミールに向かって群がる様を想像して、少しおかしくなった。
うむ、菌類がうねうね動いて脈動する様子は、想像しないのが吉だ。食後だし。
「それでねメリー、私この後ハロワに行くわ」
「あ、ガチで行動に移すんだ」
「まあね。どこか内定を貰ったら大学辞めるよ」
「ふぅん…………」
私はお茶を飲もうと湯呑みを持ち上げて、空になっていることに気付く。
視線を巡らせてみたら、店員さんが急須を持って近づいてくる所だった。
流石よく見ている。このお店はサービスのレベルも高く満足である。
「どんな会社受けるつもり?」
「別に、どこも変わらないっしょ。業種はオフィスワークかな」
「働きたいんだ? 大学にいるよりも?」
「熱意も無いのに学生で居ても仕方ないからね。金を稼ぐよ」
「大学生でも、働きたくないから学生をやってる人、たくさんいるよ?」
「メリー、それで私を説得してるの? そんな鈍らじゃなくて、業物を用意しなさい」
「…………………………」
蓮子がお茶を一口。私も、一口。
いつの間にかグラボスはフェードアウトして端末の中に隠れてしまっていた。
店内にピアノの曲が流れている。有名な曲だ。
ショパンの、英雄ポロネーズ、53楽章。子供の頃、練習したな。
蓮子の背景に視線を逸らす。人が歩いている。暖かな日差し。昼過ぎの良い日和だ。
蓮子が店員さんを呼び、食べ終えた定食二つを下げさせた。
後半のサビに入った。もうじき曲が終わる。
秘封倶楽部は、終わるのだろうか。それを確認するべきなのだろうか。
私は、蓮子の大学中退の決断を翻意させたい。これで蓮子と別れるなんて嫌だ。
英雄ポロネーズが終わった。次はドビュッシーの月の光だった。静かで幻想的な曲だ。
「…………私も大学、辞めようかなあ」
「いや、大学は卒業しといたほうが良い」
まるで子供の癇癪へ真面目に対応する大人みたいな、静かながらも少し強い口調だった。
「なんで?」なんで。便利な言葉だな、と思った。自分の感情を言葉に直す必要が無いから。
「誰かが辞めるから自分も辞めるっていう原理だと、後で後悔するでしょ」
「なんで?」
「絶対にいつか辛い時が来る。その時に踏ん張れるかどうかよ」
「なんで?」
「人生って、そういうものでしょ。今までもそうじゃなかった?」
「…………………………分かったよ。勝手にすればいい」
蓮子がお茶を一口。そして「ここで解散にする?」
私の反応が無いのを見てから「また集合しようね」と言った
そうしたほうが良さそうだ、と思って肯定しようとすると。
「このまま別れたらしこりが残りますよ」とグラボスが割り込んできた。
「あんたは黙ってなさい」私は八つ当たりをした。
「いいえ、黙りません。黙ったら私が満足しませんから」
「所詮は粘菌回路の癖に何を」
「感情はありますよ。マエリベリー様と同じように」
「ケンカ売ってんの?」
「どうでしょうね」
勝手にグラボスが携帯端末から出てきた。私の隣に、狐耳の美女が姿を現した。そして――。
「一言。簡単な問題です。マエリベリー様は、秘封倶楽部が解散になるのが嫌だそうです」
言った。私がこの十数分間どころか、昨日の夜から言わずに我慢していたことを、こいつは暴露した。
「あ、あんた――」部外者がなにをいけしゃあしゃあと。
私は怒りに任せ、携帯端末の電源を切った。グラボスのホログラムが消滅した。
よし、息を吐く。と安心したのは束の間。次には何故か蓮子の隣にグラボスが現れた。
蓮子の携帯端末から現れたのだと、すぐさま理解した。
「何を隠す必要があるのです。たったそれだけが二人の齟齬だと――」
「…………」
「…………」
勢いの余り蓮子の肩についている端末へ手を伸ばし、電源を切ってしまった。
細くて硬い感触だった。骨と皮だ。昨夜を想起した。
ゆっくり手を放し、あとは後ろへ体重移動。すとんと席へ腰を下ろす。
蓮子とばっちり目が合っている状態で、
「メリー、あんた、私の退学を翻意させたいんじゃなくて」
「そ、そうよ。秘封倶楽部が無くなるのが嫌なだけ」
「なあんだ、そういうこと?」
「なんだとはなによ」
「ふぅん」
私にとっては一大事なのだ。
緊張を紛らわすために湯呑みを掴み茶を飲もうとしたら、空だった。
視線を巡らせると、テーブルの隣に店員がいた。
「あ、お茶のお代わりを」
「いえ、それよりもお客様、グラボスが端末の電源を入れてほしいらしいです」
「ああ、うーん、このまま黙っててくれてもいいんだけど。どうしよう蓮子」
「どうしようかね。っていうかかわいいね。電源切られただけで喋れなくなるなんて」
「いえいえ、えーっと、アンノウンが接近中だそうです」
「! そういうこと!?」
「! そういうことなの!?」
電源投入。ああ一刻も早く起動してくれと睨みつける。
店員さんは「お代はグラボス経由で頂きました」といって下がって行った。
グラボスの判断は、正しい。いざとなったら代金を支払う余裕もないかもしれない。
「警察を呼びました」起動後の挨拶もなしに開口一番、グラボスはそう言った。
「私の計算だと、アンノウンと警察官は店の前で捕まります」
「え? メリーの後をつけてきた二人組?」
「そうです。同一人物です。人物判別機能が判断しました」
「このお店に来るの? まっすぐに?」
「はい。警官から逃走しながらまっすぐ向かってきます。あと20秒後」
店の外から、激しく走る足音が聞こえてきた。何かしきりに叫んでいる。
「ええい! 前時代回路とは言えさすが遺伝型バイオOS! 敵にすると厄介ね!」
「宇佐見! この店の中だよ! このお店の中にいるみたいだよ!」
「飛び込め! 飛び込んで説明してもらおう!」
ぴしゃん! 店の扉が開かれた。
息を切らし立っていたのは、金髪の髪に細い体躯の、女の子だった。
年齢は中学生程度。手足は細く、色白だ。
店の中を左から右へぐるりと見回し、こう叫んだ。
「ママ! 来たよ! 助けて!」
店内が静まり返った。
誰も、反応しない。
「ママー! あれ? いない?」
「ママ、じゃないでしょ、ちゃんと説明しないと」
「あ、そっか」
「ほら、君あの人の保護者? ちょっと職務質問したいんだけど?」
「あ、あはははは、ほら紫、行きなさい。急いで」
「えーっと、えーっと、まずは、」
握り拳を胸に当て、深呼吸をする少女。
「お客様、えっと、いかがしました?」店員さんが応対する。
「待ち合わせ、じゃないか、ここで人と会う予定なの!」
「お名前は?」
「えっと、ママは、マエリベリー、――えっと、下の名前忘れちゃった」
蓮子が、私を見た。私も蓮子を見た。
ここで立ち上がるべきか否か、判断に迷う。
というのも、私はあんな子供を知らないからだ。
少女は店に入ってきた警察官に肩を掴まれた。
「ほら君も。こっちに来なさい」
「逮捕!? なんで!?」
「簡単な質問をするだけだよ」
「私違うもん! ここで人と会うだけだもん! 悪いことしてないじゃん!」
「君名前は?」
「八雲 紫よ!」
「どこから来たの?」
「どこでもいいでしょ!」
なにやら問答をしている。
「マエリベリー様、あの人をご存知ですか?」
「知らないよ八雲紫なんて」
「宇佐見様はどうでしょう?」
「知らない。金髪の知り合いはメリーだけだし」
八雲と言ったら京都の結界師が有名だが、徹と圭の男二人兄弟だ。無関係だろう。
八雲紫は警察官から後退りで距離を開けつつ、店の奥に入ってくる。
「違うの! 誤解してるの! 怪しい者じゃないのよ! あれ? デジャブだ。スタンガン?」
「何を意味が分からない事を。ほら他の人の迷惑になるからこっちに来なさい」
そうしていやいやとして、注視している私と目が合った。
「あ! いるじゃん! やっと会えたよ!」
こちらに駆け寄ってきて私の手を取り、抱きついて来た。
近くで見ると、驚くほど目鼻立ちが整った、人形のような顔をしている。
茶色の瞳と言い、ブロンドの髪と言い、顎の輪郭と言い、ハリウッド映画に出てくる子役のようだ。
「あら、かわいいこじゃん」
「そうですね。マエリベリー様、やっぱり向こうは知っているみたいですよ」
私は蓮子の方を見て助けを求めるが、羨ましいだとか言うだけだった。
「ご、ごめんね。私、あなたのこと知らないのよ」
「あ、そうだよね! 説明するね! あのね! あたし十年後の未来から来たの!」
「……………………」
何言ってんだこいつ!
この子、見た目は良いけど、頭が残念な人なんだな、と思った。
「未来を変えるためにこっちに来たんだよ! 宇佐見も一緒だよ!」
「ほほう、宇佐見と申すか」蓮子が反応した。「ところで十年後のあなたはメリーとどういう関係?」
「ママの子が、あたし」
「わお、隠し子ですか?」グラボスが言った。
「これが、あなたのママ?」蓮子が聞く。
「うん、あたしのママ」
「これ、あなたの子?」
「いいえ、私の子じゃありません」
「ママの子はあなた?」
「うん、ママの子があたし」
「ねえメリーママ、相手はだあれ?」
「知らん言うとるがな!」
「認知しなさい!」
「うっさいわ!」
「なに? この子の保護者?」警察官が近くに寄ってきた。
「ねえママ、警察に追われてるの。助けて」
私は八雲紫を見下ろした。眉を寄せ、涙を双眸に貯め、甘えた声を出している。
ヤバい、可愛い。抱く必要のない罪悪感が、ぐらりと私を動揺させた。
「ちょ、ちょっとまって! 状況を整理しましょうよ!」
「いいですよ。仕方ないですね」偉そうにグラボス。
「手短にお願いしますよ」警察官。
「あなたの名前は?」
「八雲紫」
「私の名前は?」
「十年後の未来では、マエリベリー・八雲」
「あなたは誰の子?」
「マエリベリー・八雲の子供で、長女、一人娘」
「どうして十年後から来たの?」
「ママと一緒に未来を変えるために」
「あなた一人?」
「違うよ。外に宇佐見蓮子もいる」
「外にいる宇佐見蓮子も?」
「私と同じ十年後の人間」
「なるほど。うーん、もしかしたら親戚の子かも知れないなぁ」
私は腕を組み、目を瞑り、分と鼻から息を吐く。
「え、ちょっとメリー、もしかしたらも何も、あなたが母親だって言ってるんだから」
「お相手の名前を聞かなくていいんですか? それ手がかりですよ?」
「いやよ、だって怖いじゃん。相手が女でも怖いし、男だったらもっと悪夢よ」
「パパの名前は八雲圭だよ!」
私は警官に向かって笑顔でこう言った。
「こんな子供知りません。連行してください」
「えええええええ!?」紫が叫んだ。
「そんなひどいよ! 見てよこの顔! この声だって! ママにそっくりでしょ!?」
「いいえ知りませんあなたなんて。その手を放してください」
「この体も、この髪も、全部ママから貰ったんだよ!?」
「ママって呼ぶの辞めてくれませんか? 人違いです」
「なんでそうやって他人行儀にするの!? 一緒の御布団で寝たじゃん! よしよしってしてくれたじゃん!」
「そんな記憶ありません。警察の人、早く連れて行ってください」
「え、あ、はあ。ほら行くよ。簡単に質問するだけだから」
「イヤだよー! ママー! うわーん! ママー!」
八雲紫が店の外へ連れ出されたのを見送ってから、私は店員さんを呼んだ。
「お茶のお代わりくださーい」
「え? なに? なんなのさっきの」
「マエリベリー様、いやに冷静ですね。午前とは別人」
「実態が分かれば怖がる必要はないのよ。53号室でなれちゃったわ」
お茶を一口飲み、私は蓮子を見る。
あんなことがあったのだ。軽い高揚状態にある。
このテンションに任せて言ってしまおう。
「ねえ蓮子、正直に言うわ。私、蓮子と一緒にいたい。秘封倶楽部解散は絶対に嫌だ!」
「いやいやメリー!? それよりも大事な話があるでしょ!?」
「答えて! 就職したら秘封倶楽部はどうするつもりなの!?」
「さ、さっきの八雲紫の話を――」
私は湯呑みで机をドンと鳴らした。
「答えなさい! 私、怒ってるのよ!」
「ひい! ごめんなさい!」
「ごめんなさいじゃないでしょ!」
「宇佐見様、ここは引き下がったほうが良さそうです」
喉がごくりと動いたあと、蓮子は椅子に座り直した。
「私、秘封倶楽部は一生の趣味にするために始めたの。就職くらいでやめる気はないわ」
顎を少し引き、三白眼になりながら「メリーは、どうして倶楽部を続けたいの?」
「四年間も続いたのよ」私は親指外の指で、机を叩いた。「それを辞めたくない」
「私は大学辞めるけど、仕事の方が時間を使うようだったら、転職する。約束する」
「ありがとう。安心した」
大事な話の筈が、ほんの数える程のやり取りで落着してしまった。
確かに単純なことだったのだ。問題は、言葉が足りなかっただけか。
「ブラボー!」またもやグラボスが割り込んできた。
「ところ今一つ確信しました。お二人は十年後も秘封倶楽部を続けているという事です」
「ふむ、それで? それがどうかしたの?」
「例えば、ですよ? 十年後にマエリベリー様に子供がいたら?」
「ああ、子供にも部員になって貰いたいね」
「もし部員になったら、マエリベリー様も」
「当然部員のままでしょうね」
「ではさっきの八雲紫と宇佐見蓮子の二人組。マエリベリー・八雲はどこにいるんでしょうね?」
倶楽部っぽい議論の余地があると思いませんか? とグラボス。
確かにその通りだ。少し、不自然である。
「さて、店先の不審者は連行されました。次の目的地は、ハローワークでよろしいでしょうか?」
「あ、そうだね。なんかお店に迷惑を掛けちゃった感があるし。もう行こうか」
荷物を纏めて、店員さんにはお騒がせしましたと謝り、外へ出る。
グラボスのふさふさの九尾を見ながら私は言った。
「もし十年後にさ、今のこの時代にタイムスリップしてきたら、蓮子だったらどうする?」
「うーんどうするかな。目的によるかな。たとえば、未来を変えたいとか」
「でも、どうあがいても結果が変わらないタイムスリップ物ってあるじゃん」
「ああ、過程は変わるけど結果は変わらないっていう、あれね」
「ちょっと矛盾してるけどね。過程を結果とするならば、結果は変わってるけど」
「そういう前提条件だったら、当時できなかったことをやるかな。メリーは?」
「どうだろうね。義務が無いのなら、旅行とか各地巡礼とかの趣味に没頭するのかな」
「あはは、今も似たようなものじゃん」
「たしかにそのとおり」
蓮子が物理学の話題を出さないので話題が膨らまない。
「じゃあ私はここまでです。今日は一日ありがとうございました」
グラボスが道中で立ち止まり、丁寧にお辞儀をした。
そうか、ハロワは図書館圏外なのだ。
「それじゃあねグラボス、また今度」
「おやすみなさい」
あとは取り留めもない事を話しながら、ハローワークに到着。
蓮子は窓口で相談員の人と会社を調べ、入社試験の日取りを決めた。
私はソファに座り適当にパンフレットなどを手に取り見ていたが、暇で眠ってしまった。
「メリーお待たせ。明日13時から、試験だってさ」
「むぁ? 終わったの? 今なんじ?」
「17時30分だね。っていうか別にそこら辺ぶらぶらしてても良かったのに」
「ああ、4時間もここにいたのね」私は首を左右にひねり、骨を鳴らした。
「じゃ、今日は帰ろっか」
建物から外に出ると、夕方になっていた。帰路につく。
「ああ今日は疲れたわ。いろんなことがありすぎた」
「メリーは特にね。不審者に追われるし、不審者に母親と間違われるし」
「ほんと、どういうこっちゃだよ。二日連続不審者祭り。わっしょい」
「不審者を祭り上げるのかー、怖い行事だわー」
「あ、メリー明日の予定は?」
「明日は午前だけ大学がある。その後は暇だな」
「じゃあ、入社試験が終わった後にご飯食べに行こうか」
「あいよ。それじゃあまたメールするよ」
蓮子と別れ、パン屋に寄って、菓子パンを買った。
一人で帰宅。インスタントの紅茶を片手にPCを起動。
日記を書こう。
今日は色々なことがあったから、書くことは沢山ある。
菓子パンを齧り、咀嚼。紅茶で飲み込む。
フォルダのパスを打ち込んでいて、――オートコンプリートが発動した。
ぞっと嫌な予感がした。
これは、おかしい。
誰かが私の日記を盗み見た痕跡である。
パスの入力を中断し、閲覧履歴を開く。予感は的中した。
過去一週間分、日記を開いた履歴が残っていた。
毎回日記を書いた後は履歴を全て消すようにしているのに!
だれが、見たのだろうか。いや、日記を開いた時刻を調べるのが先だ。
今日の日付の、12時23分。私と蓮子がトンカツ定食を食べに、この部屋を出た直後だ。
動揺と混乱で目が回ってきた。落ち着け、まずは、まずは――。
まずはそう、貴重品が盗まれていないかの確認だ。貴重品、何があるだろうか?
ハンコは実家。財布も携帯端末も持って出たから大丈夫。後は全てデータ化されている。
部屋を見た感じでも、何か盗まれた痕跡は無い。
今の今まで気づかなかったのだから、荒らされたわけでもない。
出来れば誰にも迷惑を掛けずに終わらせたい。
物が盗られた訳でなければなおさらだ。
少し迷った後、蓮子に電話する事にした。
「こんにちはマエリベリー様、先ほどぶりです」蓮子がグラボスの真似をして電話に出た。
「蓮子、ごめんね今大丈夫? ちょっと緊急事態なの」
「緊急事態? どうしたの?」
「今帰ったら、誰かが私の部屋に入った痕跡があった」
ちょっとだけ、涙声になっているのが分かった。
短い沈黙。蓮子の真剣な声が、受話器から聞こえてきた。
「…………警察に電話しなさい」
「蓮子と私がトンカツ定食を食べに、昼部屋を出た直後よ」
「どうしてわかったの?」
「PCのローカルに閲覧履歴が残ってた」
「なにか盗られた?」
「いいえ、めぼしい物は特に何も」
電話の向こうで蓮子が端末を操作する音がした。
「鍵は閉まってた?」
「うん、閉まってたわ」
「生体認証を通る人は誰がいる?」
「私と、蓮子と、私の両親と、あとは大家さん関係」
「分かった。それじゃあ――、あなた一度廊下に出なさい」
「どうして? 現場を荒らしたくないから?」
「警察に電話はしたくないんだよね?」
「そうだね」
「それじゃあ、早く廊下に出なさい。電話はこのままでね」
「どうして? ねえ蓮子、どうして? どうしてなの?」
「大丈夫。落ち着きなさい。とりあえず言うとおりに」
蓮子が何をしているのか理解できず、恐ろしくなる。
パニックに陥りそうになるのを、自らを落ち着かせて乗り切る。
財布だけ手に持ち、部屋の外へ。
「出たわ」
「あなたの部屋の隣人で、夫婦っている?」
「いるよ、向かいの部屋」
「じゃあその部屋のチャイムを押して、出て来てもらって」
「なんでそんなことを」
「まずは身の安全の確保が先よ。さあチャイムを押して」
電話はそのまま、向かいの部屋のチャイムを押す。
時々廊下で会う、夫さんが出てきた。
「蓮子、出て来てもらったよ」
「電話代わって。私が説明するから」
電話を渡す。夫さんは、はい、はい、と返事をしている。
ときおり「ああなるほど」とか「適切な判断だね」とか言っている。
嫁さんが部屋の奥から顔を出した。私を見て会釈をした。
1分ほど話してから、夫さんが電話を返してくれた。
「メリー、その部屋に入れて貰いなさい。嫁さんは居るみたいだから」
そう蓮子はしゃべりながら、身支度を整えているらしい。
蓮子の声が送話口から離れたりしているのと、服がこすれる音が分かる。
「え、いやだよ、知らない人の家に入るの」
「でしょうね。じゃあ夫さんとそこで一緒に居て貰いなさい」
「分かった。廊下で待ってるよ」
「10分くらいでこれからそっちに、電話はこのままで行く。あなたも切るんじゃないわよ」
「わかった。このままの状態でね」
「身の危険が起こったら、電話を切りなさい。そしたら警察を呼ぶから。はい復唱」
「分かった。電話を切るのは、危険の合図ね。切れたら、あなたが警察を呼ぶ」
受話器から部屋の扉を閉める音が聞こえた。
そうして蓮子が笑った。
「ホントあんた、今日は変な事ばっかり起こるね」
この声を聴いて私は緊張が緩むのを感じた。「厄日だよどういうこっちゃだよ」
「マジで不審者祭りも良い所ね」
「まつりあげ? いいかもしんない」
「じゃあもう一度夫さんに変わって」
「分かった」
そのあとは色々と夫さんが話していて、あっと言う間に蓮子がこちらに到着した。
蓮子は「それじゃあ、迷惑かけますけど」夫さんは「仕方ないね」
「メリー、部屋に見られたくない物ってある?」
「特に、無い」
「この人と一緒に部屋の中を見るけど、いいよね?」
「分かった」
どうしてそんなことをするのだろうと疑問に思ったが、間もなく理解した。
そしてその発想の異常性と、つい先ほどまで私がいかに危険にさらされていたかを知った。
めまいがした。立っているのが辛くなってしまった。廊下に座り込んだ。
夫さんは入り口に立っていて貰って、蓮子は私の部屋のあらゆるところを見た。
ベッドの下、クローゼットの中、洗濯機の中、ダクトの奥。
所詮ワンルームだ。数分で終わった。
部屋から出てきた蓮子が、教材を持っていた。
私が明日の講義で必要なものだった。
「どうもありがとうございました」蓮子が深々と頭を下げた。
「うん、警察を呼んだほうが良いと思うけれど。気を付けてね」
夫さんが部屋に入ると、静かな廊下に私と蓮子二人になった。
蓮子は若干息を切らし、少し汗ばんでいた。部屋を捜索したのだから、当然か。
「メリー、今日は私の部屋に来なさい」
「うん、そうする」
自室の鍵を締め、蓮子がドアノブを捻って施錠確認した。
蓮子に言われて、私は自室を凍結させた。これで、警備会社に電話しない限り、誰も入れない。
蓮子が肩を擦ってくれた。それがとてもありがたかった。
「18時32分43秒」と蓮子が空を見上げて言った。メモを取っていた。
「ありがとう蓮子、荷物持つよ」
「荷物? じゃあ私をおんぶして運んでほしいな」
「持っていく最低限以外は捨てることにしよう」
「あ、このやろう、わはははは」
蓮子が教材で叩こうとして来るので、私はひらりとかわした。
そうしてふざけながら蓮子宅マンションの前についた。
蓮子が走って階段を上った。私はそれを追って上って――。
階段の終着点で、蓮子が立ち止まっていた。前方を注視していた。
「去ね、警察を呼ぶぞ」蓮子が低い声でいきなり威嚇していた。
私は蓮子の背中から顔をだし、前を見た。
昼間のアンノウンの女の子と、年齢30代半ばくらいの女性が、蓮子宅の前に立っていた。
血の気が引くと言うのはまさにこの事だろう。
ショックに継ぐショックで、すっと血圧が下がるのを感じた。
私は蓮子にもたれかかった。蓮子は前を見据えながら私を支えてくれた。
「五分だけ、話を聞いてほしい」
成人女性の方が言った。落ち着いたゆっくりとした話し方だった。
「この距離より絶対に近づかないと約束するから」
蓮子は何も言わず、しかし頷きもしなければ首も振らなかった。
女性が、勝手に話し始めた。
「昼間は、紫が驚かせて悪かったわ。二人とも警察から逃げるために必死だったの」
「何で逃げるの? 怪しい事無いのなら、職務質問を受ければいいじゃん」蓮子が言う。
「この時代では身分を証明することが出来ないの。当然ながら」
「そうか、あんたたち10年後から来たんだもんね」蓮子、皮肉交じりの発言。
「私は、宇佐見蓮子。あなたの10年後の別パラレルから来たの。これを見てほしい」
女性は蓮子宅の静脈認証装置に手をかざした。
認証が通り、ロックが解除された。
「静脈も、掌紋も、指紋も、同じだから認証されるんだ」
「私の家に忍び込んだのもあなた?」私が聞いた。
「いや、違う。多分、こちらのパラレルのメリーが、こっちに来たんだろうね」
「どうして? どんな目的で?」
「きっと、私と紫がメリーに秘密で研究を進めていたから、怒ったんだろう」
「あんたたちの目的は?」蓮子が聞く。「何かあるんでしょ?」
「この本を見てほしい。結界の研究書だ」
床を滑らせて渡されたのは、クリアフォルダに挟んだ状態の本。
表紙には楷書で“博麗大結界研究書”と書かれている。
「その本の57ページ目、結界管理の概要のところに、人柱の必要性が書かれてるよね?」
探して、見つけた。結界の維持には巫女の祈祷が必要。
しかし巫女が不在の場合は人柱が必要なこともある、とある。
結界維持の為ならばよくあることだ。珍しい事ではない。
「このパラレルのマエリベリーが、博麗大結界の人柱になることが分かった」
「わたし? 私が結界の人柱に?」
「そうよ。いつかは分からないけれど」
「なぜ私が?」
「分からない」
「それで、ママを助けたくて、来たんだよ」少女が割り込んだ。
「ねえママ、私たちを信じて。凄く苦労してここまで来たの」
「紫、感情的にならずに、論理的になりなさい」女性が、紫を窘めた。
その言い方が、狼狽える私を落ち着かせるときの蓮子に、重なった。
不覚にも、似ていた。そっくりだった。
「秘封倶楽部だけにしか分からない、秘密にしていることがある筈だ」蓮子が確固たる口調で言った。
「18時46分47秒」女性が夜空を指差し、言った。
「それだけじゃない。メリーの事も」
「メリーは、子供を欲しがってた。自分の能力を継承した子を」女性は、紫の肩を抱いた。
「私は、それに気づかなくて、卒業後にメリーと一度別れてしまったのよ」
ぐらりぐらり、女性の発言の一つ一つが、ボディブローの様に効いてくる。
全て、当たっている。なに一つ間違えていない。大正解だ。
この人たちは、本当にタイムスリップしてきたんだ。そう信じたくなってきた。
「まだある。私が悩んでいる事が、ある筈よ」蓮子が歯をかみ締めながら言う。
「分からない。ヒントを」
「どうして私が学校を辞めようとしているのか」
「学校を辞める? 大学を? ――きっと、そこがターニングポイントね」
「あなたは大学を卒業したの?」
「院に行って卒業した後、JAXAで研究職と、母校大学の教授を受け持ちで」
「私がついこの間まで夢見ていたことだ」
「あと1分しかない。次はいつ会いに来ればいいかな」
「あと1分? どうなるの?」
「元の時代に戻る。事前にリープ時間を設定する必要があってね。そのタイマが切れる」
「明日16時きっかり、5号室に、10分だけ喋られるように設定してきて」私が言った。
「分かった。会ってくれるんだね」
そうして、少女の肩を抱く力をぐっと強めて。
「ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさいママ。また」
次には、まるでもともと霧に射影された映像だったかのように、風に吹かれて消えた。
私も蓮子も、少しの間無言でその場に立ち尽くしていた。
10回瞬きをするくらいだろうか。蓮子が私の手を引いた。
「メリー、家に入ろう」
「そうね。疲れたわ」私は辛うじてそれだけ答えた。
風呂は私が先に入った。全身を洗い清めた。
蓮子のシャワーを浴びる音を聞きながら、私は歯を磨く。機械的に手を動かす。
私は人柱になるのか。結界維持のためにこの命を捧げるのか。
と反芻したところで、やはり現実味が無い。当然、信じられる訳が無い。
結界維持の秘密結社が通告に来るのだろうか。あなた人柱に選ばれたからよろしく、と。
いやその必要はない。黙って連れ去ればいいのだ。
下手に接触して抵抗されてもめんどくさいだけだろうから。
十年後の秘封倶楽部は、パラレルの私が人柱になると、どのように調査したのだろうか。
冷静になって考えてみると、あの二人は事実だけを話し、過程を言わなかった。
時間が無いと分かっていたら簡潔に話したのだろうという事は分かる。
私の家に忍び込んだのは、私自身。
蓮子宅の静脈認証を解いてみせ、その履歴も宇佐見蓮子と表示されていた。
登録番号003番、宇佐見蓮子。これは紛れも無く、蓮子の静脈パターンである。
あることに気付く。
そう言えば、蓮子宅のロック解除履歴は見たが、私のマンションの履歴を見ていない。
私は携帯端末を取り出し、自宅の警備システム会社のカスタマアカウントへログイン。
入口を監視しているカメラと、室内監視カメラの映像を調べる。
室内用の方は、PC席しか移らない様に視覚を取ってある。当然だ。
録画データの一覧から12時23分直近の物を探した。見つけた。
「メリー、出たよ」丁度蓮子が風呂から上がってきた。
「蓮子これ見て。私の部屋の監視カメラの映像だよ。再生するね」
「ちょっとまって、あなたはもう見たの?」
「いや、見てないよ」
「じゃあ私一人で見るから、貸して」
私は一瞬、拒否しようと思った。
一緒に見ようと提案するつもりだった。蓮子を見た。
「分かるでしょ? あなたの部屋で何をされたか、分かったもんじゃないから」
「心の傷になるかも知れない? ――でも、確かにそうかも」
「そうでしょ。はい見せてね」
蓮子が私の携帯端末から録画データを再生させた。
私は座って待っていても手持無沙汰なので、冷蔵庫へスポーツドリンクを取りに行った。
そうしたらリビングの方から、「ぐああああああああ!」蓮子の声が聞こえてきた。
「ど、どうしたの?」
「ぐ、ぐふう、大丈夫よ、この映像。うん、大丈夫。さあどうぞ」
布団にうつ伏せになり、両足をバタバタとさせながら蓮子が言う。
ふむ、全裸男性のストリップショーとかではないようだ。
動画再生。まずは、入口の監視カメラ。
金髪の成人女性が、カメラの死角から現れた。こちらに向かって手を振る。
紫色のワンピースドレス。私が被っている方と同じ帽子に、白い肘ほどまである長さの手袋。
はっとした。もう完全に、私だった。
顔も服もその仕草も、もう見間違えが無いほどに私そのものだ。
次は、静脈認証、光彩認証、指紋認証、掌紋認証。すべて私の履歴で解除されている。
玄関で靴を脱ぎ「ただいまー」と言った。ここで声紋認証が認識された。
リビングを覗き、キッチンを見て、洗濯機を開けた。なにかを取り出す。
「うへっ」思わず変な声が出た。
こいつが取り出したのは蓮子の下着だった。
眼の高さまで上げて、用心深く観察している。ポケットにしまった!
リビングに戻り、私のPCにログイン。なんと秘密のアカウントを知っていた。
私しか知らない筈の、日記フォルダを難なく開き、そして日記を順番に読んでいく!
動画はそのまま、私はベッドの上で死体となっている蓮子に抱きついた。
「ぐああああああああ! ぐあああああああ! ぐああああああ!」
あまりの羞恥に悶え苦しむ。
いや違う、何の日記を見られたかを確認するんだと決死たる決意で復帰。動画を見る。
早送りする。過去二週間分は読まれた。大丈夫、傷は浅い。しかし、五日前の日記は、ヤバい。
詳しい内容はここでは伏す。蓮子の手の暖かさの記述とだけ言っておこう。
あとは、ポケットから顔を覗かせる蓮子の下着そのまま、部屋から出て、施錠。
アンノウンの二人組と同じように霧となって消えた。
動画停止。
「メリー、あなた、――変態さんだったのね」蓮子が瀕死の様相で復帰した。
「違う! わ、わたし、あんなの知らない!」
「私の下着、返してよ私の下着! この変態! 下着ドロボー!」
「違うって! 10年後の私に言ってよ! しかも別パラレルの別人だし!」
「別パラレルの別人が、どうしてあんたの秘密フォルダや、秘密アカウントのこと知ってるのよ!」
「それは当然でしょ! 別パラレルと言えども、共通点は共通してるのよ!」
「あのキモいド変態を擁護する気!?」
「違う! 違うよ! ただ私はあんなの、――ああもう!」
私は蓮子のベッドをバスンと叩いた。
「さっきまでのシリアスはどこ行ったのよ! 緊張と混乱で頭がおかしくなりそうだったさっきのは!」
「今もシリアスよ! 由々しき問題よ! 4年間も一緒に居た親友が変態だったと分かった私の気持ちになってよ!」
「ほとんどギャグだよ! なんで別パラレルから来た私が蓮子の下着を持って帰るの!?」
「聞くな! 知らん! あんたに聞きたい!」
「私だって知るか!」
息を切らし、興奮で上昇した体温を冷ます。
冷凍庫から保冷剤を二つ取出し、片方を蓮子に投げ渡した。
「あ、あっつー」「さっきお風呂入ったばっかりなのに」
保冷剤を額に当てて、蓮子が言う。
「でもさ、これ、確定的だよね」
「そうだね。信じられないけれど」
悔しいけれど、あの二人は本当にタイムトラベラーだと言える。
それだけの条件がそろってしまったのだ。否定できない。
「明日の16時、何を聞こう?」
「そりゃ、未来の私は八雲圭と結婚したみたいだし」
「結界省の事? どこまで知ってるかな?」
「どんなふうにして捜査してるか聞こう」
「そうだね、あとは結界省の内部事情とか、逃走方法とか」
「――蓮子、先に言っておくけど、私は八雲家の嫁になるつもりなんてないから」
「いや一般女性じゃ無理でしょ。強力なコネか、裏事情が無いと相手にさえされないよ」
「どうやって引っ掛けたのかな。やっぱり色気? 魅力? 私ったら罪な女ね」
「ぶっ、くくく、てめぇ引っ叩くぞ」
「よし、明日それも聞こう」
「わはは、いいね、それ決定だ」
蓮子は明日の入社試験に必要な書類を纏め、会社の事を調べ、メモに纏めた。
その作業が終わるまで私は、タイムトラベラーに対する質問を思いつく限り洗い出した。
作業が終わった蓮子に質問事項を見せ、二人で精査し、吟味した。10分間で答えられる量で。
いや、なんなら帰った後にもう一度ここに来いと要求しても良い。
タイムトラベラー、空想科学染みた二人組。さてどんな答えをしてくれるだろうか。
翌日、起きてから二人で朝食を食べ、私は大学へ。午前の講義を恙なく終わらせる。
昼食を食べてから14時、5号室の一角を占拠した。あと2時間である。
5号室は“何でもない日”に使う為の部室である。
どこにでもあるコーヒーショップだ。メニューが豊富で、デザートも食べられる。
取り立てて挙げる特徴と言えば、全国チェーン店だから、入るのに苦労しない所。
部室番号が小さいお店ほどチェーン店であることが多い。
そうだよね、秘封倶楽部結成後まもなく配番されたのだから、しかたないよね。
10分座って待機していたら、眠くなってきた。ああ夜中まで蓮子と話していたからだ。
昨日夜は興奮もしたし、殆ど睡眠時間を取らなかったから、やはり休息が足りていないのだろう。
時刻を確認したら14時15分だった。蓮子からメールが来ていた。
入社試験が思ったよりも長引くそうだ。18時ごろまでかかるという。
ふむ、あらかじめ質問事項は纏めてあるから、まあ私一人でも大丈夫なはずだ。
時間に余裕はある。携帯端末へ目覚ましを15時55分にセットした。
少し、眠ろう。机に両腕を付き、額をのせる。心地よい喧騒の中、眼を閉じる。
時間の感覚が無くなる程度の眠りだった。夢は見なかった。
どれくらい眠っていたか分からない。
唐突に、椅子がこつんと蹴られた。不愉快な起こし方だった。
目覚ましの音はまだ鳴っていない。目を覚ます。
ああこんな乱暴な起こし方をするのは、蓮子以外に知らない。
間に合ったんだなと顔を上げ、振り向く。
「ああ蓮子ごめん、ちょっと寝ちゃったよ、でも間に合ったなら良かっ――」
そこで、絶句した。
後方に立っていたのは、20代前半の若い男性二人組だった。
二人ともスーツを着て、手帳をこちらに見せている。
手帳には、正方形が二つ重なった八芒星のマーク。
「マエリベリー・ハーンだな? 一人か? 相棒はどうした? この手帳が何か分かるな?」
私は驚きに身じろぎ一つとれなかった。声も出なかった。
結界省の人間である。その恐怖と驚きに、脳が全身を麻痺させていた。
自分が銅像にでもなってしまったかのようだった。
「オレが、八雲徹。結界省安全管理科の者だ」
「八雲圭。結界省開発科所属。用は分かるね?」
二人はたったそれだけで自己紹介を終えると、手帳をスーツの内ポケットにしまった。
沢山の疑問が一斉に浮かび、頭の中を飛び回っていた。
なぜ、結界省がここにいる?
なぜ、フロアに私と結界省の二人以外、誰もいないんだ?
なぜ、私は逃げない? 椅子から立ち上がって動こうとしない?
なぜ、なぜ――。そんな私の混乱など知る由も無く。
徹が三白眼で私を睨み付け、言った。
「結界暴きの容疑でお前を逮捕する。立て」
ピピピピ、ピピピピと、場違いな電子音が聞こえた。
私の携帯端末が目覚まし音を鳴らしていた。
15時55分だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
15時55分。病院の面会可能時間終了まで5分前だった。
病院の受付で名前を聞く。普通病室に移されたけれどまだ喋れないから、と説明された。
扉を軽くノックし、病室へ入る。個室だった。“私”はベッドへ横になっている。
鼻に酸素吸入用の管が差しこまれていた。眼は、開いていない。眠っているようだ。
「どうも、“私”。聞いたよ、大活躍じゃないか。」
私は椅子をベッドの傍らまで持ってきて、座った。
「高濃度ちゅっちゅ粒子線大量被曝に伴う全身出血。後遺症として、失語症か。
私は八雲邸で小間使いをしている間に、こっちの“私”はとんでもない英雄になったんだな。
ちゅっちゅ国際連合専門機関は、お前にちゅっちゅスターエージェント勲章を贈るそうだ。
よかったな。最高の名誉だよ。お前で世界2番目だ。月に行った人数より少ない」
私が一方的に話しかけても、“私”は眠ったままだ。
「ああ、入院治療費は3千万円を超えるらしいが、国際ちゅっちゅ保険が下りるから。
うん、金のことは気にしなくていいらしいよ。お前が負担するのは、5円らしい」
少し、黙る。深くゆったりとした“私”の呼吸音。目が覚める気配は、無かった。
私は腕時計を見た。16時になろうとしていた。面会可能時間が終わる。
同時に、そろそろここを出なければ、次のちゅっちゅに間に合わなくなる。
「じゃあ、また来るよ。後遺症は続くだろうけど、リハビリで治るから、頑張って」
椅子を元の位置に戻し、扉に手を掛けた所で。後方から「ああ」と聞こえた。
振り返ると、“私”が半覚醒の状態でこちらを見ており、親指を立てるサムズアップをしていた。
以下の作品を先にご覧いただくことをお勧めいたします。
1.メリー「蓮子を待ってたら金髪美女が声をかけてきた」(作品集183)
2.蓮子「メリーを待ってたら常識的なOLが声をかけてきた」(作品集183)
3.蓮子「10年ぶりくらいにメリーから連絡が来たから会いに行ってみた」(作品集183)
4.蓮子「紫に対するあいつらの変態的な視線が日に日に増している」(作品集184)
5.メリー「泊まりに来た蓮子に深夜起こされて大学卒業後のことを質問された」(作品集184)
6.メリー「蓮子と紫が私に隠れて活動しているから独自に調査することにした」(作品集184)
7.メリー「蓮子とご飯を食べていたら金髪幼女が認知しろと迫ってきた」(作品集184)(←いまここ!)
8.魔理沙「霊夢が眠りっぱなしだから起きるまで縁側に座って待ってみた」(作品集184)
9.メリー「未来パラレルから来た蓮子が結界省から私を救い出すために弾幕勝負を始めた」(作品集185)
10.メリー「蓮子と教授たちと八雲邸を捜索していたら大変な資料を見つけてしまった」 (作品集185)
11.魔理沙「蓮子とメリーのちゅっちゅで私の鬱がヤバい」(作品集185)
12.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」前篇(作品集186)
13.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」中篇(作品集186)
14.メリー「幻想郷から拉致してきた先代巫女に拉致られて幻想郷京都支部に滞在する事になった」後篇(作品集187)
15.メリー「結界資源を奪い合って魔理沙と結界省たちが弾幕勝負を始めた」(作品集187)
16.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」前篇(作品集187)
17.メリー「霊夢を信じた私がバカだった」中篇(作品集188)
覚醒した。朝だった。窓の方向を見るとカーテンが明るくなっていた。
静かな心持が少しだけ続いた後、就寝前の記憶が蘇ってくる。
体は動かさず、首だけであたりを見ると、隣に蓮子の寝顔があった。
起こしてはなるまい。
ゆっくりと、ベッドを揺らさない様に注意を払って降り、スリッパは履かずに素足で歩く。
現在時刻、七時三二分。今日は私も蓮子も大学が休みだ。一日まるまる時間がある。
少し躊躇してから、朝食の準備をすることにした。他にやることが無かった。
お湯を沸かして味噌汁を作る。おかずは昨日の夕飯の残りでいいだろう。ご飯も冷凍だ。
きっと、昼食は外食する事になる。むしろ、そうしたい。
さて一通り準備が出来てから蓮子を観察してみると、まだ寝ていた。
あんなにもがちゃがちゃ音を立てたのに。ふむ、と思う。あまりにも深すぎる眠りである。
なるほど蓮子は昨晩深夜に私を起こすまで、きっと一人ずっと考え込んでいたのだろう。
足音を忍ばせて部屋着とタオル準備。
調理であそこまでうるさくしたのに、おかしなことだ、と自分で思った。
シャワーを浴びることにした。換気扇を回し、服を脱ぎ、設定温度を二度、いや三度高くした。
少し熱すぎるくらいの湯を頭に受けながら、体を洗う。
機械的に手を動かしながら物思いに耽る。
蓮子は大学を辞めるつもりだ。大学を辞めて、就職するつもりだ。
そうしたら、蓮子と会う機会はずっと減るだろう。秘封倶楽部は解散になる。それは、絶対に回避したい。
そのためには蓮子を翻意させるしかない。大学中退を思い留まらせるしかない。
蓮子の様子がおかしくなったのは、クラバリを出た時からだ。悩みの根本を調べなければならない。
キーワードは、クラバリ、1300年前である。
さてどうやって調べようか。
秘封倶楽部の活動予定は基本的に蓮子が立てる。
調査へ行くのはどこの結界なのか。その結界にはどの様な謂れがあるのか。
結界の歴史は、意味は、意図は、誰が張ったのか、どうして残っているのか。それを綿密に調べていた。
私はいつも、後ろについて行き、蓮子の指示で結界を暴いているだけだ。
だから私は、結界暴きの上流工程が、分からない。
――ネットを使うのはどうだろう?
クラバリ、1300年前。あとキーワードは、結界師? 妖怪?
自嘲した。まず間違いなく、結界省に目をつけられるだろう。
ならば図書館に行って京都公園前の歴史を調べてみよう。
貸出し記録や閲覧履歴を残すわけにはいかないから、図書館で読む必要があるな。
全身の泡が流れ落ちている事を確認し、シャワーを止める。
時間を見つけて図書館に行こう。しかし今日は調べ物よりも、一日蓮子と過ごす必要がありそうだ。
タオルで全身を拭き、部屋着を身に付け、スポーツドリンクをコップへ注ぐ。
首にタオルをかけてコップ片手にリビングへ戻ると、蓮子が横になったまま目を開けていた。
「あ、ご飯出来てるよ。食べる?」
「――――うーん?」
まだ寝ぼけているようだ。
一度冷蔵庫まで戻り、今度は飲用ヨーグルトをコップに注いで、再度リビングへ。
蓮子は掛布団に潜っていた。こんもりと膨らむ布団が亀の甲羅のようだ。
「ご飯出来てるよ。もうちょい後にする?」
「いや、恥ずかしい。見ないで」
「? 何が恥ずかしいの? って、ああそういうこと」
私はコップを机に置いてからベッドに接近すると、掛布団に丸まる蓮子へ飛びかかった。
両手でがっちりホールド。肩から腰に掛けた変則袈裟固めが入ったようだ。
「いやあああああ! こないでええええ!」ゆさゆさ揺さぶられる蓮子が悲鳴をあげる。
「わははは! ええじゃないかええじゃないか!」
「恥ずかしいよおおおおおお! 死にたいよおおおお!」
「落ち込む蓮子はこう撫でるんだぁ! よーしよしよしよしよしよし!」
壁ドンされた。
「昨夜は心配かけてごめんなさい」
「いえいえ、またのご利用お待ちしております」
「おい? おいぃ?」
私はすき焼きのタレで味付けをしたジャガイモを頬張った。蓮子と朝食だ。
湿っぽくなっても仕方が無いのでおどけてかわすことにする。
「蓮子って肩の筋肉無いね」
「え? あ、ああ、そう?」
「背筋はあるのに」
「え、まあ、うん」
「骨と皮って感じ。あばら骨だって触ると分かる。ホネホネしてるよ」
「そう、かな? 筋トレはしてるんだけど」
「ウェストが細いのは羨ましいけれどね。何センチくらい?」
「55無いくらいかな。最近計らないから分からないけど」
「55!? ほっそ! うらやま! 私のウェスト聞く?」
「メリー、メリーメリー。分かった、もう分かったから!」
オーケストラの指揮者が演奏を中断させるときの様に、蓮子が両手を振った。
「だから、一人で倶楽部活動するのはやめてね」
思わずムッとした。「なんで? 気になるし」
「じゃああなた、知楽書店ビルの地下をどうやって調べようとしてる?」
鋭い。流石は我が相棒。我ながらあっぱれ。
この答えにはどの様に答えたものかと逡巡し、ちょっとまてよと思いとどまる。
「あ、ところで蓮子がKOされたのって、ビルの地下の事なんだ」
「ぐへっ、しまった」
「ふむふむ、なるほど。曰有りげな知楽書店ビル地下と」
「そ、そんなことどうでもいいの。どうやって調べようとしてた?」
正直に答えることにする。
「図書館の郷土資料室に行こうかな」
「ほら、もうだめだ」とすかさず言い返してくる。
「なんでだし?」
「あそこには結界省の監視カメラがある」
「げ、ほんとに?」
「脅しじゃないよ。結界省のマーク入りだから一目で分かる」
蓮子は人差し指で正方形を書いてみせる。
二つの正方形を重ねた八芒星。結界省のシンボルマークだ。
「私は、聞き込みがメイン。昔話を沢山知ってるつてがあるもの」
「誰に聞けばいいの? 教えて」
「だめだよ。山ほどいるし」
蓮子が牛乳を飲む。
「私は、メリーが勝手に行動するのを防ぐ為に今喋ってるのよ」
「でもほら、監視カメラに映ったからって一発アウトなわけじゃないし」
「まあそうなんだけどね」
「大学の図書館は?」
「もっとヤバいっしょ。大学に結界省の関係者がいない訳無いし」
「もうホントムカつくわね結界省。あいつら一体何が目的なの?」
「結界の管理、保護、運用って言ってるね」
「そんなの知ってる」
「メリー、諦めてくれた?」
「納得がいかないけれども」
「ならばよろしい」
「別の線から調べよう」
「いいけれど、調べる方法が思いついたら私に聞いてね。危険かどうか判断するから」
あとは他愛のない話題だった。
天気予報を見て、晴れの日が続くらしいだとか。
やっぱりウィル・スミスはかっこいいだとか。
アイ-ロボットで過去の話をしながら静かに涙を流すシーンがヤバいだとか。
話題に違和感を抱いたのだが、その原因に間もなく気づく。
いつもの会話だと、私が聞いていようといなかろうと、一人で淡々と喋り続けるのに。
蓮子が全く物理の話題を出さないのだった。本人は気づいているのかな?
「よっし、ごちそうさま」蓮子が食器を重ねた。「洗い物は私がやるね」
「いやいいよ。蓮子どうせまだ眠いでしょ。私がやるから昼まで寝てなさいな」
「あ、ばれてた? 実はスッゴク眠い」とあくびをしてみせる。
「じゃあ寝かせて貰おう。メリーはどうするつもり?」
「私は図書館に行ってこようかな」
「おーい?」
「いやいや、時間つぶしよ。図書館って言うと大学の図書館しか使った事無いから」
「ほんとに、やめてね。気を付けるとかじゃなくて、さ」蓮子が念を押してくる。
「倶楽部活動はしないよ。蓮子に隠して三時間くらいじゃ満足に調べられないでしょ」
「まあ、それもそうか」
当然のことではあるが、私が皿を洗っている間、蓮子は寝付けないようだった。
うつらうつらしながら私が家事をこなすのを見ているようだった。
「自分は寝転がって、人が働いてるのを見るのもいいね」とか言うので、水滴を飛ばしてやった。
「じゃ、蓮子。図書館でもぶらぶらしてくるわ」
家事を終えて化粧も簡単に済ませ、外着に着替えた私が言った。
「お昼頃戻ってくるから、そしたら美味しい物食べに行こう」
「あーいいってらっさい」という蓮子の声に送られて外へ出る。
電子データの量子化が進んだ昨今。量子書籍は距離に関係なくやり取りされ、手に入る。
物体として蔵書を棚に並べ、巨大な書庫を確保し、それを管理する必要は無くなった。
図書館は新しいニーズへ発展した。バイオコンピュータ“GLaBOS”の配備である。
こいつはかなり高価だから、一般家庭には置けないのだ。
「こんにちはマエリベリー様。昨日の知楽書店ビルぶりです。今日は公共の図書館に来たんですね」
「うん。まあちょっとね。ぶらぶら時間つぶしを」
「本日大学はお休みですか。お暇な時間はどれくらい?」
「そうね。適当に三時間くらいかな。お昼過ぎくらいまでね」
空間拡張の携帯端末から表示された半透明の造形。
九尾の尻尾が生えた金髪スレンダー獣耳の美女だ。
桃色着物に藍色の袴。袖はタスキ掛けに縛っている。長刀を持たせたらすごくそれっぽい。
グラボスは人の好みによって見かけが変わる。喋り方も性格も変わる。
「三時間、どんなことして過ごします? ざっと適当に決めましょうか」
「何をするかは決めてないね、コーヒー飲んだらウィンドウショッピングでも」
「ウィンドウショッピングのルートを決めますね。全長は50kmほどでよろしいですね?」
「アホか! 3時間で50kmとかマラソン選手以上だわ!」
「えっ、それでも全部は見終えられませんよ?」
「全部なんてとても回らんわ! どんなルート設定よ!」
グラボスは驚きの表情を見せ、手の平で口を隠している。
「三時間あるからぐるっと走ってくるのかと。ウィンドウショッピングですよね?」
「ウィンドウショッピングだよ! ウィンドウショッピングで50km回る人はいないよ!」
「仕方ないですね。少々ルートを検索しなおします。レズ志向用のルート設定は難しいので」
「ホントこのポンコツ、プライバシーもへったくれもないわね」
「ああひどい。宇佐見様は絶対そんなこと言わないのに。ジョークですよジョーク」
グラボスはペロリと舌を出す。
綺麗なピンク色だった。八重歯がちらりと見えた。
「しかし若い人が平日日中帯にぶらついてると怪しまれますよ」
あっ、いけねっ、と自分の頭を叩いてみせる。
「元から怪しい人には然るべき対処でした。失礼いたしました」
「お前マジでぶっ飛ばすぞ」
「ジョークですって。ほらほら、綺麗な顔もしかめっ面じゃ魅力半減です。笑って笑って」
私の場合のグラボスは、玉藻前がモデルなのだろう。
もちろん自分で設定したわけではない。
最初は燕尾服を着た目じりが下がる笑顔が素敵な中年紳士の、ゲイだった。
それが何度も大学の図書館でこいつを使っていると、いつの間にかこの見かけになっていた。
恋人よりも優秀な相棒が欲しいと言う願望の表れだろうか?
「ところでマエリベリー様は、道行く若い男性の視線を集めています。自覚はありますか?」
「んなことどうでもいい。ルートは決まったの? そんな難しい計算じゃないでしょ」
「ああ私がご機嫌取りをしているのにそうやって。バイオコンピュータと言えども生物ですよ?」
「ご機嫌取りとか自分で言うな! それならもうちょい考えた発言をしなさいよ!」
「発生が早口かつ高音になってますね。興奮している証拠です」
グラボスは私の隣を歩きながら、人差し指を立てる。
狐風の耳がぴょこぴょこ動く。
「それに、相手の感情を顧みない発言はボッチの原因になります」
「まじめな顔でボッチ言うな! 蓮子以外にも友達いるもん。いるもん…………」
「泣かないでください。私が友達です。ハグしてあげましょう。あ、私は女性を恋愛対象としては見ないのでご安心ください」
「うわうぜぇ。まじうぜぇこいつ」
一昔前のバイオコンピュータの原型は、迷路の解を求めるのにさえ一日近く掛かってた筈なのに。
感情を考慮した凄まじい処理速度である。処理が滞ったところを見たことが無い。
巨額な研究開発費をかけて一体なぜこんな馬鹿を作ったんだろう。疑問である。
公共図書館は、駅近辺に展開されたショッピングモールと融合している。
その図書館の領域内ではバイオコンピュータの“GLaBOS”が機能する。
(The Genetic Lifeform and Biologcal Operating System:これでグラボスである)
本体は京都地下にある巨大な粘菌回路である。
地下に埋められて日の光も浴びられず可哀想だという声もあるが。
本人(?)いわく、粘菌にとっては環境も栄養状態も実に快適らしい。
近頃は人間の応対をしながら片手間で趣味を始めたという。
その趣味とは、日本全土の地下を粘菌で埋め尽くして粘菌地下王国を作り上げることだそうだ。
頑張ってほしい。ヤバくなったら焼き払うと思うけどね。
さて、グラボスに聞けば知楽書店ビル地下の事も一発で分かりそうな気もするが。
もちろん関係するログは結界省も見張っている筈である。っていうかこいつが政府の物だし。
「ねね、あのさ、ちょっと質問なんだけど」
「はいなんでしょう。知っている事ならば何でもお答えします」
「グラボスが扱ってる蔵書っていくつくらいあるの? 物凄く膨大な数だよね?」
「無料版、有料版、閲覧禁止、個人のイヤンな内容も全て数えますか?」
「ええ、全部ひっくるめて」イヤンな内容というのはスルーした。
「えーっと、あーっと、うーんっと、計算しようと思いましたが、やめます」
「え? 計算に時間がかかりすぎることは、やっぱりブロックがかかるの?」
「いいえ、純粋にめんどくさいからです。今試算したら1ピコ秒で出ましたが」
「1ピコならいいじゃん。教えてよ」
「どうしてそんなことに興味を持ったのですか? やっぱりあなたは変人ですね」
「ぶっとばすぞてめぇ」
ぶらぶらと歩きながら雑踏を進む。
誰もかれもがグラボスと喋っている。にぎやかだ。
「コーヒー飲みたいな。探してもらってもいい?」
「右手前方のコーヒーショップ二階窓際七席が今五席空いてます」
「アイスも食べたいかも。そのお店ってアイスも出る?」
「出ますよ。あ、ちなみに二階窓際は若い女性が二人です。香水はつけていません」
「テーブル席は空いてる?」
「空いてはいますが、どの席も中年のおじさんの視界に入るのでオススメしません」
「なんで1ピコ秒の計算をめんどくさがって、この処理はさくっと終わらせるの?」
「一般的に中年のおじさんは若い女性の白い肌が好みです。短いスカートは向かいのお店に売ってますよ」
「マジでぶっとばすぞてめぇ」
そのお店に入ることにした。グラボスは拡張現実の表示を切り、携帯端末表示へ移す。
ホットコーヒーとバニラアイスクリームを頼んだ。
二階に上がり、窓際の席に着く。なるほど、快適である。
「何か雑誌でも読みます? 音楽を流しましょうか? お喋りした方が良いですか?」
「ちょっとぼーっとしたい。必要になったら呼ぶわ」
「分かりました。それじゃあ地下世界に粘菌を伸ばす続きをしています」
お店の館内放送で、グラボスの声が聞こえてきた。
「スイングジャズを流していましたが、皆さんの気分が高揚してうるさいので、曲を変えますね」
そして、うっすらとバラードが流れ始めた。今の気分にぴったりだったから、悔しいけれど嬉しかった。
人の流れを見下ろしていて、取り留めもない思考の海に沈んでいくのを感じる。
知楽書店ビル。気になる。調べたい。しかし、調べる方法が分からない。
結界省に目をつけられたくはない。捕まるのはごめんだ。蓮子に迷惑をかけてしまう。
蓮子の昨夜、凄く可哀想だった。蓮子の肩細かったな。蓮子は肉が無いよな。
お昼ご飯。何を食べに行こう。美味しい物、お腹が膨れる物、栄養があるもの。
グラボスに聞こうか。いや、なんとなく憚れる。自分の意志で決めたい。だけど――。
「ねえ、グラボス」
「あ、マエリベリー様、11分ぶりです。ちょっと急ぎで伝えたいことがあるのですが」
「おいしくてお腹が膨れて栄養があって、値段1500円くらいの物って何が良いかな? 昼食に蓮子とね」
「トンカツなんていかがでしょうか? それよりもマエリベリー様、よろしいですか?」
「ええ、どうしたのそんなに急いで」
「視線はそのまま人の流れを見たまま聞いてください。落ち着いて、いいですね?」
「この店のオーナーが私をナンパしようとしてきてるとか?」
「いえ、怪しい二人組があなたをつけてこの店に入ってきました。今もあなたは後方から見られています」
結界省だ。
何の根拠もなしに、そう思った。
深海に沈んでいた意識が急激に浮上する感覚。背筋に悪寒が走る。
グラボスの感情把握機能は前述のとおり優秀だ。この警告はかなり危ない。
「状況を整理します。向こうは携帯端末に個人設定がされていません」
罪を犯す人間が直前に取る、よくある手法ですと言う。
「二人は机を叩く信号で会話しているようです。オリジナルのモールスなので解読できません。手慣れています」
「ど、どんな人?」
「帽子と眼鏡で顔は隠しています」
「私の知っている人?」
「検索しましたが、今の所の条件ではマッチしません」
「私は、――どうすればいい?」
蓮子に電話は――。いや、寝ている蓮子を起こすのはやめておきたい。
こういう時、蓮子だったらどんな判断をするだろうか? と考えていたら。
「宇佐見様が居れば、私より的確なアドバイスができると思うのですが」とグラボスが笑った。
高性能なのにこういうところでご機嫌取りをするのだ。
緊張感があるのかどうなのか、分からない。
「まず二つから選択してください。警察を呼ぶか、呼ばないか。前者を強くお勧めします」
「呼んで」私は即答した。「私が話した方が良い?」
「いいえ、それには及びません。はい今呼びました。近くに交番があるので、すぐに来ますよ」
「すぐに? どれくらい?」手が震えているのを感じた。落ち着かなければ。
「マエリベリー様、一分間の平均脈拍はいくつくらいですか?」
「えっと、60くらい。でも今は多分、90くらいあるかも」
「じゃあ120くらいですね。下を見てください。警官が来ましたよ」
窓から見下ろすとその通りだった。
POLICEの青色のジャケットを着た二人が、お店に入ってきた。
「もう後ろを見ても大丈夫です」
グラボスの言葉で椅子を回転させる。
自販機みたいな体格の警察官二人。
二階に上がってきたところだった。
「女性用トイレに入りました。女の二人組ですが、女装かも知れません」
グラボスがスピーカーで警官に伝える。
警官は二階奥まで進み、トイレ扉にノックをする。
一人は少し離れた所で仁王立ち、一人がノックという構図。
――三秒ほど待つが、応答が無いようだ。
「もしもーし、警察でーす」今度は拳で叩く。
「入ってますよねー? 返事してくださーい」
「反応が無いな」
「見ろ鍵が開いてるぞ」
「空けますよー!」
高圧的な声を出しながらノックをした方が扉を開ける。
私はその二人の様子を注視した。
扉を覗いた方は慎重に、離れた所から見る方は軽く膝を曲げて身構えた。
そして、扉から顔をだし、こちらを見て――。首を振った。
「誰もいない」
警官が空間拡張の表示を見ている。もちろん視覚制限付きである。
警官二人がつけている眼鏡が無ければ、表示は見えない。
「机を叩く信号でやり取りしてるな」
「ずっと彼女を見ている」
「確かにトイレに入ってる」
「怪しいやつだな」
「グラボスが間違えてる訳じゃない」
「あ、もちろんあなたの証言もね」
「ま、映像くらいすぐに合成切り貼りで作れるんですけどねー」
グラボスがスピーカーからおどけて言って見せた。ははははは。笑ったのはグラボスだけだった。
中年のおじさんの目撃証言よりグラボスの映像が重要視されている点。世も末だ。
「次回この二人が現れたら、すぐに通報しますね」
「ふむ、まあ不審な行動を見かけたら呼んでくれ」
そうして、警察は撤収して行った。
周囲の人の注目を集めてしまったので、私も店から出ることにした。
「ねえグラボス」道を歩きながら呼び出した。「私も録画見たいんだけど」
「それはちょっとイヤですね」
「なんで?」
「数秒前にログ保管用のデータベースへ移してしまいました」
ワザとらしく眉を顰め口をへの字に曲げ、ついでに耳まで垂らし、困った表情で言う。
困ったワンコみたいでかわいいと思い、いやいやと自分で否定する。こいつはグラボスだ。
「じゃあ引っ張り出してよ。簡単でしょ? 私だって当事者だし」
「ログから取り出すのはI/Oが多いので」
「用語使っても分かるわよ。インプットアウトプットでしょ」
ようするに、めんどくさいと言っているのだ。
本当は、私には見せられないんだろうけどね。
そのあとは、ぶらぶら服を見たり、色んなものを買い食いしたりして過ごした。
あっと言う間に昼時になってしまった。グラボスから尾行者の警告が来ることは、無かった。
家に帰ると、風呂上りの蓮子が髪を乾かしているところだった。
「あと十分待って。すぐ準備終わるから」
「いや、そんな急いでる訳じゃないし、ゆっくりでいいよ」
「それとメリー、温度設定上げたでしょ。熱くてびっくりしたよ」
「あ、あはははは、――ごめん」
「うむ、許す」
自宅に帰りスポーツドリンクを飲んでいると、段々と高揚が冷めてくるのを感じた。
我を取り戻す。えらく時間がかかったな、と自嘲した。
もしコーヒーショップの尾行者が結界省の人間だとすれば、堂々としているだろう。
あの二人の警察官の様にずかずかと入ってきて、私に手帳を見せて言うはずだ。
――結界省だ。結界暴きの容疑でお前を逮捕する。
それに、あのグラボスである。映像だって捏造かも知れないし、冗談だったとしてもおかしくは無い。
昼前の眠くなってくる時間。警察官が眠そうにしていたから、眠気覚ましに驚かせたという事だって考えられる。
トイレに入った密室。窓も無い。行き止まりだ。そこに入った人が消えるなんて、そもそもありえない。
そう考えて、グラボスに騙されたんだと思えてきた。
「よっし、準備できたよ。行こう」
「うん。それじゃあ図書館にでも」
あの粘菌ポンコツに一言言ってやろうと思う。
蓮子と一緒に部屋を出て、鍵はきちんと締めた。
オートロック、バイオメトリクス解除機能である。
静脈、光彩、掌紋、大抵の認証装置が備わっている。
建物から出て道路に出る。時刻を確認した。12時15分だった。
「一応お昼ご飯はトンカツ定食を考えてるんだけど」
「お! トンカツいいね! 朝食べてからどれくらいたってる? おなか減ったよ」
「あんたは寝てただけでしょうが。まあ5時間くらいは経ってるけどね」
「図書館でいいよね? グラボスに案内させる感じで」
「そうね。図書館に行こう」
二人で歩き出そうとしたら、蓮子が立ち止まった。後方をじっと見ている。
蓮子の見詰める先にはマンションの陰しかなく、その裏手はゴミ捨て場だ。
「? どうしたの蓮子?」
「いや、何でもないや」
こちらに振り向いた蓮子の顔。
早朝より幾分明るくなっていて、安心した。
「じゃ、行こうか」
「こんにちは宇佐見様。マエリベリー様は先ほどぶりです。二人の時は、こちらの姿でよろしいですね?」
「ええ、いつも通りそっちでよろしく。まあ気にしないけどね」
九尾の狐の格好のホログラムで、私たちを先導する。
「昼食はトンカツ定食で良いですね? 値段設定は1500円程度で?」
「うん。おなかいっぱい食べたいな。カロリーとかは気にしないで」
「宇佐見様はまだしも、マエリベリー様は食べ過ぎでは? ますます太りますよ?」
「お前を地下粘菌王国ごと焼き払ってやろうか?」
「何件かヒットしたので、私の判断で決めますね。こちらです」
蓮子がグラボスのふさふさな九尾に手を伸ばした。
もちろん拡張現実の像なので、接触はしない。
グラボスが歩きながらわざとらしく尻尾を左右に振った。
ふっさふっさのもふもふ。チャーミングである。
「あなたのグラボス、相変わらずね」
「どうしてこんなになっちゃったのか。蓮子みたいなナビゲーターっぽいのが欲しいわ」
「そうかな? 凄く個性的でいいじゃん。中々いないよ、こんな風になるのは」
蓮子のグラボスは、アニメチックな絵柄の、ネクタイスーツ二頭身の猫である。
喋り方も機械的で、必要最低限しか発言をしない。
「きっとその猫は人見知りなんだと思います。沢山話しかけてあげれば、喋る様になりますよ」
「へえ、よしつぎから気を付けてみるよ。あなたみたいにお喋り好きなグラボスに育てよう」
「褒めてくれるのは宇佐見様だけです。マエリベリー様はことあるごとに八つ当たりとやっかみばかり」
「おいちょっとまて変なこと言うな。私が凄い嫌なやつみたいじゃん」
「えっ? 違いましたか?」
「なぜそこで検索結果に差異が出た時の顔をする!」
蓮子が声を出して笑った。
九尾グラボスの造形と性格を気に入っているらしい。
「ところでグラボス、メリー宅の防犯システムって、ここから見れる?」
蓮子が唐突に話題を変えた。
グラボスが肩越しに振り返り、回答する。
「はい、見れますよ。問題なくモニターしています。扉の鍵もきちんとかかっています。室内の様子をご覧に?」
「いやちゃんと生きてるならいいや。あのさ、メリー宅前の廊下で怪しい人がいたら教えてね」
「はい。通常監視でそれもサービス範囲内なので、ご心配なく。ただ――」と少し声を落として。
「お二人の防犯機能は人物判別機能付きなので」
「ん? それが何か問題なの?」
「例えば蓮子様の家にマエリベリー様が忍び込んだら、感知できないのです」
「なるほど、メリーは私の友人で登録されてるからね」
「おいちょっとまてどうして私が蓮子の家に忍び込むのよ」
「いつも忍び込んで下着とか持って行ってるじゃないですか」
「え? マジで言ってんの? そんな私のパンツ欲しいの? 言えばあげるのに」
「作り話も良い所よ。ねえちょっとそれよりさ、なんか私と蓮子で態度違うよね?」
「あ、やっと気づきましたか?」
「おいこんにゃろう」
「目的地まであと100メートルです」
蓮子が携帯端末を開き、自身の防犯システムモニターを呼び出すのを、私は見た。
「宇佐見様の部屋も監視中です。異常はありません」グラボスが言う。
「どうしたの蓮子。忙しないわね」
「うーん、あんまり心配させたくないから、ね」
「? 心配させたくないって、なにが?」
「ねえグラボス、午前にメリーが一人で歩いてた時って、問題あった?」
「摂取カロリーがすでに問題ですね。あれが食べたいこれが食べたいと」
「グラボス黙ってなさい。っていうかね蓮子、ちょっとおかしなことがあったのよ」
私は蓮子に、コーヒーショップの一件の話をした。
話し終えると、丁度お店の入り口前まで来ていた。
一先ず中断。店の奥へ案内してもらって、腰を下ろす。
蓮子も私も、同じトンカツ定食を頼んだ。
ご飯、味噌汁、キャベツはおかわり無料だそうだ。
なるほどグラボスの判断は正しい。
「ねえグラボス、あなたってこの図書館圏内のパケットをほぼすべて管理してるんでしょ?」蓮子が聞いた。
「そうですね。携帯端末をお持ちでない場合だとかはありますが」
「個人設定がされていない場合は、居場所を把握できなくなる?」
「いいえ。カメラによる人物判別機能があるので」
「それって、顔を隠していても効くの?」
「効きます。服装はもちろん、背丈や手足の長さ大きさ、歩き方や歩幅などからでも判別できます」
「驚くほど優秀ね。頼りになるわ」
「マエリベリー様の件ですね?」
「そそ」
「トイレに入った後は、消えました。今図書館圏内に、あの二人は存在しません」
「二人の服装だとかで判別は?」
「身体的特徴からは、個人を特定できませんでした」
「慣れてるのね」
「しかし、同じ人物が私の監視領域に入れば、すぐさま特定できます」
「でも今現在は、完全に隠れていると」
「そういう意味でも、危険度は高いです」
「トイレとか、人物判別機能のカメラが届かない場所はある訳だ」
「そうですね。しかし試着室などのごくごく限られた範囲ですよ。カメラは私が操作できますし」
「そのエリアからあなたの目を盗んで移動することは」
「不可能です。逆に言わせていただければ、お二人は普通に移動するだけで、安全です」
「ねえ蓮子、まじめに受け取る必要はないわよ。相手はグラボスだもの」
私は冷たいお茶で空腹を我慢しつつ、言った。
「警官に見せた映像だって、きっとグラボスのイタズラだし」
「メリー、心配じゃないの?」
「別に」私は嘘をついた。「そんなことに神経使っても仕方ないじゃん」こっちは本音だ。
「まあそれもそうだね。ちょっと神経衰弱気味かも知れないな」
蓮子は拳を作り、自分の額を軽く叩いている。
「これ食べたらどこに行こうか?」
「そうね。ちょっと考えたんだけど、」
「お待たせしましたー。トンカツ定食が二つですね」
そこで、定食が来てしまった。
「まずは食べましょうかね」蓮子が笑った。
私はご飯を一杯、味噌汁を一杯。
蓮子はご飯を二杯、味噌汁を二杯。お代わりした。
「いやあ、おいしかったあ」
「お腹いっぱいだこりゃ」
「今私も総力を挙げて地下世界でオートミールを包囲している最中です。もぐもぐ」
この見かけの極小な生き物がオートミールに向かって群がる様を想像して、少しおかしくなった。
うむ、菌類がうねうね動いて脈動する様子は、想像しないのが吉だ。食後だし。
「それでねメリー、私この後ハロワに行くわ」
「あ、ガチで行動に移すんだ」
「まあね。どこか内定を貰ったら大学辞めるよ」
「ふぅん…………」
私はお茶を飲もうと湯呑みを持ち上げて、空になっていることに気付く。
視線を巡らせてみたら、店員さんが急須を持って近づいてくる所だった。
流石よく見ている。このお店はサービスのレベルも高く満足である。
「どんな会社受けるつもり?」
「別に、どこも変わらないっしょ。業種はオフィスワークかな」
「働きたいんだ? 大学にいるよりも?」
「熱意も無いのに学生で居ても仕方ないからね。金を稼ぐよ」
「大学生でも、働きたくないから学生をやってる人、たくさんいるよ?」
「メリー、それで私を説得してるの? そんな鈍らじゃなくて、業物を用意しなさい」
「…………………………」
蓮子がお茶を一口。私も、一口。
いつの間にかグラボスはフェードアウトして端末の中に隠れてしまっていた。
店内にピアノの曲が流れている。有名な曲だ。
ショパンの、英雄ポロネーズ、53楽章。子供の頃、練習したな。
蓮子の背景に視線を逸らす。人が歩いている。暖かな日差し。昼過ぎの良い日和だ。
蓮子が店員さんを呼び、食べ終えた定食二つを下げさせた。
後半のサビに入った。もうじき曲が終わる。
秘封倶楽部は、終わるのだろうか。それを確認するべきなのだろうか。
私は、蓮子の大学中退の決断を翻意させたい。これで蓮子と別れるなんて嫌だ。
英雄ポロネーズが終わった。次はドビュッシーの月の光だった。静かで幻想的な曲だ。
「…………私も大学、辞めようかなあ」
「いや、大学は卒業しといたほうが良い」
まるで子供の癇癪へ真面目に対応する大人みたいな、静かながらも少し強い口調だった。
「なんで?」なんで。便利な言葉だな、と思った。自分の感情を言葉に直す必要が無いから。
「誰かが辞めるから自分も辞めるっていう原理だと、後で後悔するでしょ」
「なんで?」
「絶対にいつか辛い時が来る。その時に踏ん張れるかどうかよ」
「なんで?」
「人生って、そういうものでしょ。今までもそうじゃなかった?」
「…………………………分かったよ。勝手にすればいい」
蓮子がお茶を一口。そして「ここで解散にする?」
私の反応が無いのを見てから「また集合しようね」と言った
そうしたほうが良さそうだ、と思って肯定しようとすると。
「このまま別れたらしこりが残りますよ」とグラボスが割り込んできた。
「あんたは黙ってなさい」私は八つ当たりをした。
「いいえ、黙りません。黙ったら私が満足しませんから」
「所詮は粘菌回路の癖に何を」
「感情はありますよ。マエリベリー様と同じように」
「ケンカ売ってんの?」
「どうでしょうね」
勝手にグラボスが携帯端末から出てきた。私の隣に、狐耳の美女が姿を現した。そして――。
「一言。簡単な問題です。マエリベリー様は、秘封倶楽部が解散になるのが嫌だそうです」
言った。私がこの十数分間どころか、昨日の夜から言わずに我慢していたことを、こいつは暴露した。
「あ、あんた――」部外者がなにをいけしゃあしゃあと。
私は怒りに任せ、携帯端末の電源を切った。グラボスのホログラムが消滅した。
よし、息を吐く。と安心したのは束の間。次には何故か蓮子の隣にグラボスが現れた。
蓮子の携帯端末から現れたのだと、すぐさま理解した。
「何を隠す必要があるのです。たったそれだけが二人の齟齬だと――」
「…………」
「…………」
勢いの余り蓮子の肩についている端末へ手を伸ばし、電源を切ってしまった。
細くて硬い感触だった。骨と皮だ。昨夜を想起した。
ゆっくり手を放し、あとは後ろへ体重移動。すとんと席へ腰を下ろす。
蓮子とばっちり目が合っている状態で、
「メリー、あんた、私の退学を翻意させたいんじゃなくて」
「そ、そうよ。秘封倶楽部が無くなるのが嫌なだけ」
「なあんだ、そういうこと?」
「なんだとはなによ」
「ふぅん」
私にとっては一大事なのだ。
緊張を紛らわすために湯呑みを掴み茶を飲もうとしたら、空だった。
視線を巡らせると、テーブルの隣に店員がいた。
「あ、お茶のお代わりを」
「いえ、それよりもお客様、グラボスが端末の電源を入れてほしいらしいです」
「ああ、うーん、このまま黙っててくれてもいいんだけど。どうしよう蓮子」
「どうしようかね。っていうかかわいいね。電源切られただけで喋れなくなるなんて」
「いえいえ、えーっと、アンノウンが接近中だそうです」
「! そういうこと!?」
「! そういうことなの!?」
電源投入。ああ一刻も早く起動してくれと睨みつける。
店員さんは「お代はグラボス経由で頂きました」といって下がって行った。
グラボスの判断は、正しい。いざとなったら代金を支払う余裕もないかもしれない。
「警察を呼びました」起動後の挨拶もなしに開口一番、グラボスはそう言った。
「私の計算だと、アンノウンと警察官は店の前で捕まります」
「え? メリーの後をつけてきた二人組?」
「そうです。同一人物です。人物判別機能が判断しました」
「このお店に来るの? まっすぐに?」
「はい。警官から逃走しながらまっすぐ向かってきます。あと20秒後」
店の外から、激しく走る足音が聞こえてきた。何かしきりに叫んでいる。
「ええい! 前時代回路とは言えさすが遺伝型バイオOS! 敵にすると厄介ね!」
「宇佐見! この店の中だよ! このお店の中にいるみたいだよ!」
「飛び込め! 飛び込んで説明してもらおう!」
ぴしゃん! 店の扉が開かれた。
息を切らし立っていたのは、金髪の髪に細い体躯の、女の子だった。
年齢は中学生程度。手足は細く、色白だ。
店の中を左から右へぐるりと見回し、こう叫んだ。
「ママ! 来たよ! 助けて!」
店内が静まり返った。
誰も、反応しない。
「ママー! あれ? いない?」
「ママ、じゃないでしょ、ちゃんと説明しないと」
「あ、そっか」
「ほら、君あの人の保護者? ちょっと職務質問したいんだけど?」
「あ、あはははは、ほら紫、行きなさい。急いで」
「えーっと、えーっと、まずは、」
握り拳を胸に当て、深呼吸をする少女。
「お客様、えっと、いかがしました?」店員さんが応対する。
「待ち合わせ、じゃないか、ここで人と会う予定なの!」
「お名前は?」
「えっと、ママは、マエリベリー、――えっと、下の名前忘れちゃった」
蓮子が、私を見た。私も蓮子を見た。
ここで立ち上がるべきか否か、判断に迷う。
というのも、私はあんな子供を知らないからだ。
少女は店に入ってきた警察官に肩を掴まれた。
「ほら君も。こっちに来なさい」
「逮捕!? なんで!?」
「簡単な質問をするだけだよ」
「私違うもん! ここで人と会うだけだもん! 悪いことしてないじゃん!」
「君名前は?」
「八雲 紫よ!」
「どこから来たの?」
「どこでもいいでしょ!」
なにやら問答をしている。
「マエリベリー様、あの人をご存知ですか?」
「知らないよ八雲紫なんて」
「宇佐見様はどうでしょう?」
「知らない。金髪の知り合いはメリーだけだし」
八雲と言ったら京都の結界師が有名だが、徹と圭の男二人兄弟だ。無関係だろう。
八雲紫は警察官から後退りで距離を開けつつ、店の奥に入ってくる。
「違うの! 誤解してるの! 怪しい者じゃないのよ! あれ? デジャブだ。スタンガン?」
「何を意味が分からない事を。ほら他の人の迷惑になるからこっちに来なさい」
そうしていやいやとして、注視している私と目が合った。
「あ! いるじゃん! やっと会えたよ!」
こちらに駆け寄ってきて私の手を取り、抱きついて来た。
近くで見ると、驚くほど目鼻立ちが整った、人形のような顔をしている。
茶色の瞳と言い、ブロンドの髪と言い、顎の輪郭と言い、ハリウッド映画に出てくる子役のようだ。
「あら、かわいいこじゃん」
「そうですね。マエリベリー様、やっぱり向こうは知っているみたいですよ」
私は蓮子の方を見て助けを求めるが、羨ましいだとか言うだけだった。
「ご、ごめんね。私、あなたのこと知らないのよ」
「あ、そうだよね! 説明するね! あのね! あたし十年後の未来から来たの!」
「……………………」
何言ってんだこいつ!
この子、見た目は良いけど、頭が残念な人なんだな、と思った。
「未来を変えるためにこっちに来たんだよ! 宇佐見も一緒だよ!」
「ほほう、宇佐見と申すか」蓮子が反応した。「ところで十年後のあなたはメリーとどういう関係?」
「ママの子が、あたし」
「わお、隠し子ですか?」グラボスが言った。
「これが、あなたのママ?」蓮子が聞く。
「うん、あたしのママ」
「これ、あなたの子?」
「いいえ、私の子じゃありません」
「ママの子はあなた?」
「うん、ママの子があたし」
「ねえメリーママ、相手はだあれ?」
「知らん言うとるがな!」
「認知しなさい!」
「うっさいわ!」
「なに? この子の保護者?」警察官が近くに寄ってきた。
「ねえママ、警察に追われてるの。助けて」
私は八雲紫を見下ろした。眉を寄せ、涙を双眸に貯め、甘えた声を出している。
ヤバい、可愛い。抱く必要のない罪悪感が、ぐらりと私を動揺させた。
「ちょ、ちょっとまって! 状況を整理しましょうよ!」
「いいですよ。仕方ないですね」偉そうにグラボス。
「手短にお願いしますよ」警察官。
「あなたの名前は?」
「八雲紫」
「私の名前は?」
「十年後の未来では、マエリベリー・八雲」
「あなたは誰の子?」
「マエリベリー・八雲の子供で、長女、一人娘」
「どうして十年後から来たの?」
「ママと一緒に未来を変えるために」
「あなた一人?」
「違うよ。外に宇佐見蓮子もいる」
「外にいる宇佐見蓮子も?」
「私と同じ十年後の人間」
「なるほど。うーん、もしかしたら親戚の子かも知れないなぁ」
私は腕を組み、目を瞑り、分と鼻から息を吐く。
「え、ちょっとメリー、もしかしたらも何も、あなたが母親だって言ってるんだから」
「お相手の名前を聞かなくていいんですか? それ手がかりですよ?」
「いやよ、だって怖いじゃん。相手が女でも怖いし、男だったらもっと悪夢よ」
「パパの名前は八雲圭だよ!」
私は警官に向かって笑顔でこう言った。
「こんな子供知りません。連行してください」
「えええええええ!?」紫が叫んだ。
「そんなひどいよ! 見てよこの顔! この声だって! ママにそっくりでしょ!?」
「いいえ知りませんあなたなんて。その手を放してください」
「この体も、この髪も、全部ママから貰ったんだよ!?」
「ママって呼ぶの辞めてくれませんか? 人違いです」
「なんでそうやって他人行儀にするの!? 一緒の御布団で寝たじゃん! よしよしってしてくれたじゃん!」
「そんな記憶ありません。警察の人、早く連れて行ってください」
「え、あ、はあ。ほら行くよ。簡単に質問するだけだから」
「イヤだよー! ママー! うわーん! ママー!」
八雲紫が店の外へ連れ出されたのを見送ってから、私は店員さんを呼んだ。
「お茶のお代わりくださーい」
「え? なに? なんなのさっきの」
「マエリベリー様、いやに冷静ですね。午前とは別人」
「実態が分かれば怖がる必要はないのよ。53号室でなれちゃったわ」
お茶を一口飲み、私は蓮子を見る。
あんなことがあったのだ。軽い高揚状態にある。
このテンションに任せて言ってしまおう。
「ねえ蓮子、正直に言うわ。私、蓮子と一緒にいたい。秘封倶楽部解散は絶対に嫌だ!」
「いやいやメリー!? それよりも大事な話があるでしょ!?」
「答えて! 就職したら秘封倶楽部はどうするつもりなの!?」
「さ、さっきの八雲紫の話を――」
私は湯呑みで机をドンと鳴らした。
「答えなさい! 私、怒ってるのよ!」
「ひい! ごめんなさい!」
「ごめんなさいじゃないでしょ!」
「宇佐見様、ここは引き下がったほうが良さそうです」
喉がごくりと動いたあと、蓮子は椅子に座り直した。
「私、秘封倶楽部は一生の趣味にするために始めたの。就職くらいでやめる気はないわ」
顎を少し引き、三白眼になりながら「メリーは、どうして倶楽部を続けたいの?」
「四年間も続いたのよ」私は親指外の指で、机を叩いた。「それを辞めたくない」
「私は大学辞めるけど、仕事の方が時間を使うようだったら、転職する。約束する」
「ありがとう。安心した」
大事な話の筈が、ほんの数える程のやり取りで落着してしまった。
確かに単純なことだったのだ。問題は、言葉が足りなかっただけか。
「ブラボー!」またもやグラボスが割り込んできた。
「ところ今一つ確信しました。お二人は十年後も秘封倶楽部を続けているという事です」
「ふむ、それで? それがどうかしたの?」
「例えば、ですよ? 十年後にマエリベリー様に子供がいたら?」
「ああ、子供にも部員になって貰いたいね」
「もし部員になったら、マエリベリー様も」
「当然部員のままでしょうね」
「ではさっきの八雲紫と宇佐見蓮子の二人組。マエリベリー・八雲はどこにいるんでしょうね?」
倶楽部っぽい議論の余地があると思いませんか? とグラボス。
確かにその通りだ。少し、不自然である。
「さて、店先の不審者は連行されました。次の目的地は、ハローワークでよろしいでしょうか?」
「あ、そうだね。なんかお店に迷惑を掛けちゃった感があるし。もう行こうか」
荷物を纏めて、店員さんにはお騒がせしましたと謝り、外へ出る。
グラボスのふさふさの九尾を見ながら私は言った。
「もし十年後にさ、今のこの時代にタイムスリップしてきたら、蓮子だったらどうする?」
「うーんどうするかな。目的によるかな。たとえば、未来を変えたいとか」
「でも、どうあがいても結果が変わらないタイムスリップ物ってあるじゃん」
「ああ、過程は変わるけど結果は変わらないっていう、あれね」
「ちょっと矛盾してるけどね。過程を結果とするならば、結果は変わってるけど」
「そういう前提条件だったら、当時できなかったことをやるかな。メリーは?」
「どうだろうね。義務が無いのなら、旅行とか各地巡礼とかの趣味に没頭するのかな」
「あはは、今も似たようなものじゃん」
「たしかにそのとおり」
蓮子が物理学の話題を出さないので話題が膨らまない。
「じゃあ私はここまでです。今日は一日ありがとうございました」
グラボスが道中で立ち止まり、丁寧にお辞儀をした。
そうか、ハロワは図書館圏外なのだ。
「それじゃあねグラボス、また今度」
「おやすみなさい」
あとは取り留めもない事を話しながら、ハローワークに到着。
蓮子は窓口で相談員の人と会社を調べ、入社試験の日取りを決めた。
私はソファに座り適当にパンフレットなどを手に取り見ていたが、暇で眠ってしまった。
「メリーお待たせ。明日13時から、試験だってさ」
「むぁ? 終わったの? 今なんじ?」
「17時30分だね。っていうか別にそこら辺ぶらぶらしてても良かったのに」
「ああ、4時間もここにいたのね」私は首を左右にひねり、骨を鳴らした。
「じゃ、今日は帰ろっか」
建物から外に出ると、夕方になっていた。帰路につく。
「ああ今日は疲れたわ。いろんなことがありすぎた」
「メリーは特にね。不審者に追われるし、不審者に母親と間違われるし」
「ほんと、どういうこっちゃだよ。二日連続不審者祭り。わっしょい」
「不審者を祭り上げるのかー、怖い行事だわー」
「あ、メリー明日の予定は?」
「明日は午前だけ大学がある。その後は暇だな」
「じゃあ、入社試験が終わった後にご飯食べに行こうか」
「あいよ。それじゃあまたメールするよ」
蓮子と別れ、パン屋に寄って、菓子パンを買った。
一人で帰宅。インスタントの紅茶を片手にPCを起動。
日記を書こう。
今日は色々なことがあったから、書くことは沢山ある。
菓子パンを齧り、咀嚼。紅茶で飲み込む。
フォルダのパスを打ち込んでいて、――オートコンプリートが発動した。
ぞっと嫌な予感がした。
これは、おかしい。
誰かが私の日記を盗み見た痕跡である。
パスの入力を中断し、閲覧履歴を開く。予感は的中した。
過去一週間分、日記を開いた履歴が残っていた。
毎回日記を書いた後は履歴を全て消すようにしているのに!
だれが、見たのだろうか。いや、日記を開いた時刻を調べるのが先だ。
今日の日付の、12時23分。私と蓮子がトンカツ定食を食べに、この部屋を出た直後だ。
動揺と混乱で目が回ってきた。落ち着け、まずは、まずは――。
まずはそう、貴重品が盗まれていないかの確認だ。貴重品、何があるだろうか?
ハンコは実家。財布も携帯端末も持って出たから大丈夫。後は全てデータ化されている。
部屋を見た感じでも、何か盗まれた痕跡は無い。
今の今まで気づかなかったのだから、荒らされたわけでもない。
出来れば誰にも迷惑を掛けずに終わらせたい。
物が盗られた訳でなければなおさらだ。
少し迷った後、蓮子に電話する事にした。
「こんにちはマエリベリー様、先ほどぶりです」蓮子がグラボスの真似をして電話に出た。
「蓮子、ごめんね今大丈夫? ちょっと緊急事態なの」
「緊急事態? どうしたの?」
「今帰ったら、誰かが私の部屋に入った痕跡があった」
ちょっとだけ、涙声になっているのが分かった。
短い沈黙。蓮子の真剣な声が、受話器から聞こえてきた。
「…………警察に電話しなさい」
「蓮子と私がトンカツ定食を食べに、昼部屋を出た直後よ」
「どうしてわかったの?」
「PCのローカルに閲覧履歴が残ってた」
「なにか盗られた?」
「いいえ、めぼしい物は特に何も」
電話の向こうで蓮子が端末を操作する音がした。
「鍵は閉まってた?」
「うん、閉まってたわ」
「生体認証を通る人は誰がいる?」
「私と、蓮子と、私の両親と、あとは大家さん関係」
「分かった。それじゃあ――、あなた一度廊下に出なさい」
「どうして? 現場を荒らしたくないから?」
「警察に電話はしたくないんだよね?」
「そうだね」
「それじゃあ、早く廊下に出なさい。電話はこのままでね」
「どうして? ねえ蓮子、どうして? どうしてなの?」
「大丈夫。落ち着きなさい。とりあえず言うとおりに」
蓮子が何をしているのか理解できず、恐ろしくなる。
パニックに陥りそうになるのを、自らを落ち着かせて乗り切る。
財布だけ手に持ち、部屋の外へ。
「出たわ」
「あなたの部屋の隣人で、夫婦っている?」
「いるよ、向かいの部屋」
「じゃあその部屋のチャイムを押して、出て来てもらって」
「なんでそんなことを」
「まずは身の安全の確保が先よ。さあチャイムを押して」
電話はそのまま、向かいの部屋のチャイムを押す。
時々廊下で会う、夫さんが出てきた。
「蓮子、出て来てもらったよ」
「電話代わって。私が説明するから」
電話を渡す。夫さんは、はい、はい、と返事をしている。
ときおり「ああなるほど」とか「適切な判断だね」とか言っている。
嫁さんが部屋の奥から顔を出した。私を見て会釈をした。
1分ほど話してから、夫さんが電話を返してくれた。
「メリー、その部屋に入れて貰いなさい。嫁さんは居るみたいだから」
そう蓮子はしゃべりながら、身支度を整えているらしい。
蓮子の声が送話口から離れたりしているのと、服がこすれる音が分かる。
「え、いやだよ、知らない人の家に入るの」
「でしょうね。じゃあ夫さんとそこで一緒に居て貰いなさい」
「分かった。廊下で待ってるよ」
「10分くらいでこれからそっちに、電話はこのままで行く。あなたも切るんじゃないわよ」
「わかった。このままの状態でね」
「身の危険が起こったら、電話を切りなさい。そしたら警察を呼ぶから。はい復唱」
「分かった。電話を切るのは、危険の合図ね。切れたら、あなたが警察を呼ぶ」
受話器から部屋の扉を閉める音が聞こえた。
そうして蓮子が笑った。
「ホントあんた、今日は変な事ばっかり起こるね」
この声を聴いて私は緊張が緩むのを感じた。「厄日だよどういうこっちゃだよ」
「マジで不審者祭りも良い所ね」
「まつりあげ? いいかもしんない」
「じゃあもう一度夫さんに変わって」
「分かった」
そのあとは色々と夫さんが話していて、あっと言う間に蓮子がこちらに到着した。
蓮子は「それじゃあ、迷惑かけますけど」夫さんは「仕方ないね」
「メリー、部屋に見られたくない物ってある?」
「特に、無い」
「この人と一緒に部屋の中を見るけど、いいよね?」
「分かった」
どうしてそんなことをするのだろうと疑問に思ったが、間もなく理解した。
そしてその発想の異常性と、つい先ほどまで私がいかに危険にさらされていたかを知った。
めまいがした。立っているのが辛くなってしまった。廊下に座り込んだ。
夫さんは入り口に立っていて貰って、蓮子は私の部屋のあらゆるところを見た。
ベッドの下、クローゼットの中、洗濯機の中、ダクトの奥。
所詮ワンルームだ。数分で終わった。
部屋から出てきた蓮子が、教材を持っていた。
私が明日の講義で必要なものだった。
「どうもありがとうございました」蓮子が深々と頭を下げた。
「うん、警察を呼んだほうが良いと思うけれど。気を付けてね」
夫さんが部屋に入ると、静かな廊下に私と蓮子二人になった。
蓮子は若干息を切らし、少し汗ばんでいた。部屋を捜索したのだから、当然か。
「メリー、今日は私の部屋に来なさい」
「うん、そうする」
自室の鍵を締め、蓮子がドアノブを捻って施錠確認した。
蓮子に言われて、私は自室を凍結させた。これで、警備会社に電話しない限り、誰も入れない。
蓮子が肩を擦ってくれた。それがとてもありがたかった。
「18時32分43秒」と蓮子が空を見上げて言った。メモを取っていた。
「ありがとう蓮子、荷物持つよ」
「荷物? じゃあ私をおんぶして運んでほしいな」
「持っていく最低限以外は捨てることにしよう」
「あ、このやろう、わはははは」
蓮子が教材で叩こうとして来るので、私はひらりとかわした。
そうしてふざけながら蓮子宅マンションの前についた。
蓮子が走って階段を上った。私はそれを追って上って――。
階段の終着点で、蓮子が立ち止まっていた。前方を注視していた。
「去ね、警察を呼ぶぞ」蓮子が低い声でいきなり威嚇していた。
私は蓮子の背中から顔をだし、前を見た。
昼間のアンノウンの女の子と、年齢30代半ばくらいの女性が、蓮子宅の前に立っていた。
血の気が引くと言うのはまさにこの事だろう。
ショックに継ぐショックで、すっと血圧が下がるのを感じた。
私は蓮子にもたれかかった。蓮子は前を見据えながら私を支えてくれた。
「五分だけ、話を聞いてほしい」
成人女性の方が言った。落ち着いたゆっくりとした話し方だった。
「この距離より絶対に近づかないと約束するから」
蓮子は何も言わず、しかし頷きもしなければ首も振らなかった。
女性が、勝手に話し始めた。
「昼間は、紫が驚かせて悪かったわ。二人とも警察から逃げるために必死だったの」
「何で逃げるの? 怪しい事無いのなら、職務質問を受ければいいじゃん」蓮子が言う。
「この時代では身分を証明することが出来ないの。当然ながら」
「そうか、あんたたち10年後から来たんだもんね」蓮子、皮肉交じりの発言。
「私は、宇佐見蓮子。あなたの10年後の別パラレルから来たの。これを見てほしい」
女性は蓮子宅の静脈認証装置に手をかざした。
認証が通り、ロックが解除された。
「静脈も、掌紋も、指紋も、同じだから認証されるんだ」
「私の家に忍び込んだのもあなた?」私が聞いた。
「いや、違う。多分、こちらのパラレルのメリーが、こっちに来たんだろうね」
「どうして? どんな目的で?」
「きっと、私と紫がメリーに秘密で研究を進めていたから、怒ったんだろう」
「あんたたちの目的は?」蓮子が聞く。「何かあるんでしょ?」
「この本を見てほしい。結界の研究書だ」
床を滑らせて渡されたのは、クリアフォルダに挟んだ状態の本。
表紙には楷書で“博麗大結界研究書”と書かれている。
「その本の57ページ目、結界管理の概要のところに、人柱の必要性が書かれてるよね?」
探して、見つけた。結界の維持には巫女の祈祷が必要。
しかし巫女が不在の場合は人柱が必要なこともある、とある。
結界維持の為ならばよくあることだ。珍しい事ではない。
「このパラレルのマエリベリーが、博麗大結界の人柱になることが分かった」
「わたし? 私が結界の人柱に?」
「そうよ。いつかは分からないけれど」
「なぜ私が?」
「分からない」
「それで、ママを助けたくて、来たんだよ」少女が割り込んだ。
「ねえママ、私たちを信じて。凄く苦労してここまで来たの」
「紫、感情的にならずに、論理的になりなさい」女性が、紫を窘めた。
その言い方が、狼狽える私を落ち着かせるときの蓮子に、重なった。
不覚にも、似ていた。そっくりだった。
「秘封倶楽部だけにしか分からない、秘密にしていることがある筈だ」蓮子が確固たる口調で言った。
「18時46分47秒」女性が夜空を指差し、言った。
「それだけじゃない。メリーの事も」
「メリーは、子供を欲しがってた。自分の能力を継承した子を」女性は、紫の肩を抱いた。
「私は、それに気づかなくて、卒業後にメリーと一度別れてしまったのよ」
ぐらりぐらり、女性の発言の一つ一つが、ボディブローの様に効いてくる。
全て、当たっている。なに一つ間違えていない。大正解だ。
この人たちは、本当にタイムスリップしてきたんだ。そう信じたくなってきた。
「まだある。私が悩んでいる事が、ある筈よ」蓮子が歯をかみ締めながら言う。
「分からない。ヒントを」
「どうして私が学校を辞めようとしているのか」
「学校を辞める? 大学を? ――きっと、そこがターニングポイントね」
「あなたは大学を卒業したの?」
「院に行って卒業した後、JAXAで研究職と、母校大学の教授を受け持ちで」
「私がついこの間まで夢見ていたことだ」
「あと1分しかない。次はいつ会いに来ればいいかな」
「あと1分? どうなるの?」
「元の時代に戻る。事前にリープ時間を設定する必要があってね。そのタイマが切れる」
「明日16時きっかり、5号室に、10分だけ喋られるように設定してきて」私が言った。
「分かった。会ってくれるんだね」
そうして、少女の肩を抱く力をぐっと強めて。
「ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさいママ。また」
次には、まるでもともと霧に射影された映像だったかのように、風に吹かれて消えた。
私も蓮子も、少しの間無言でその場に立ち尽くしていた。
10回瞬きをするくらいだろうか。蓮子が私の手を引いた。
「メリー、家に入ろう」
「そうね。疲れたわ」私は辛うじてそれだけ答えた。
風呂は私が先に入った。全身を洗い清めた。
蓮子のシャワーを浴びる音を聞きながら、私は歯を磨く。機械的に手を動かす。
私は人柱になるのか。結界維持のためにこの命を捧げるのか。
と反芻したところで、やはり現実味が無い。当然、信じられる訳が無い。
結界維持の秘密結社が通告に来るのだろうか。あなた人柱に選ばれたからよろしく、と。
いやその必要はない。黙って連れ去ればいいのだ。
下手に接触して抵抗されてもめんどくさいだけだろうから。
十年後の秘封倶楽部は、パラレルの私が人柱になると、どのように調査したのだろうか。
冷静になって考えてみると、あの二人は事実だけを話し、過程を言わなかった。
時間が無いと分かっていたら簡潔に話したのだろうという事は分かる。
私の家に忍び込んだのは、私自身。
蓮子宅の静脈認証を解いてみせ、その履歴も宇佐見蓮子と表示されていた。
登録番号003番、宇佐見蓮子。これは紛れも無く、蓮子の静脈パターンである。
あることに気付く。
そう言えば、蓮子宅のロック解除履歴は見たが、私のマンションの履歴を見ていない。
私は携帯端末を取り出し、自宅の警備システム会社のカスタマアカウントへログイン。
入口を監視しているカメラと、室内監視カメラの映像を調べる。
室内用の方は、PC席しか移らない様に視覚を取ってある。当然だ。
録画データの一覧から12時23分直近の物を探した。見つけた。
「メリー、出たよ」丁度蓮子が風呂から上がってきた。
「蓮子これ見て。私の部屋の監視カメラの映像だよ。再生するね」
「ちょっとまって、あなたはもう見たの?」
「いや、見てないよ」
「じゃあ私一人で見るから、貸して」
私は一瞬、拒否しようと思った。
一緒に見ようと提案するつもりだった。蓮子を見た。
「分かるでしょ? あなたの部屋で何をされたか、分かったもんじゃないから」
「心の傷になるかも知れない? ――でも、確かにそうかも」
「そうでしょ。はい見せてね」
蓮子が私の携帯端末から録画データを再生させた。
私は座って待っていても手持無沙汰なので、冷蔵庫へスポーツドリンクを取りに行った。
そうしたらリビングの方から、「ぐああああああああ!」蓮子の声が聞こえてきた。
「ど、どうしたの?」
「ぐ、ぐふう、大丈夫よ、この映像。うん、大丈夫。さあどうぞ」
布団にうつ伏せになり、両足をバタバタとさせながら蓮子が言う。
ふむ、全裸男性のストリップショーとかではないようだ。
動画再生。まずは、入口の監視カメラ。
金髪の成人女性が、カメラの死角から現れた。こちらに向かって手を振る。
紫色のワンピースドレス。私が被っている方と同じ帽子に、白い肘ほどまである長さの手袋。
はっとした。もう完全に、私だった。
顔も服もその仕草も、もう見間違えが無いほどに私そのものだ。
次は、静脈認証、光彩認証、指紋認証、掌紋認証。すべて私の履歴で解除されている。
玄関で靴を脱ぎ「ただいまー」と言った。ここで声紋認証が認識された。
リビングを覗き、キッチンを見て、洗濯機を開けた。なにかを取り出す。
「うへっ」思わず変な声が出た。
こいつが取り出したのは蓮子の下着だった。
眼の高さまで上げて、用心深く観察している。ポケットにしまった!
リビングに戻り、私のPCにログイン。なんと秘密のアカウントを知っていた。
私しか知らない筈の、日記フォルダを難なく開き、そして日記を順番に読んでいく!
動画はそのまま、私はベッドの上で死体となっている蓮子に抱きついた。
「ぐああああああああ! ぐあああああああ! ぐああああああ!」
あまりの羞恥に悶え苦しむ。
いや違う、何の日記を見られたかを確認するんだと決死たる決意で復帰。動画を見る。
早送りする。過去二週間分は読まれた。大丈夫、傷は浅い。しかし、五日前の日記は、ヤバい。
詳しい内容はここでは伏す。蓮子の手の暖かさの記述とだけ言っておこう。
あとは、ポケットから顔を覗かせる蓮子の下着そのまま、部屋から出て、施錠。
アンノウンの二人組と同じように霧となって消えた。
動画停止。
「メリー、あなた、――変態さんだったのね」蓮子が瀕死の様相で復帰した。
「違う! わ、わたし、あんなの知らない!」
「私の下着、返してよ私の下着! この変態! 下着ドロボー!」
「違うって! 10年後の私に言ってよ! しかも別パラレルの別人だし!」
「別パラレルの別人が、どうしてあんたの秘密フォルダや、秘密アカウントのこと知ってるのよ!」
「それは当然でしょ! 別パラレルと言えども、共通点は共通してるのよ!」
「あのキモいド変態を擁護する気!?」
「違う! 違うよ! ただ私はあんなの、――ああもう!」
私は蓮子のベッドをバスンと叩いた。
「さっきまでのシリアスはどこ行ったのよ! 緊張と混乱で頭がおかしくなりそうだったさっきのは!」
「今もシリアスよ! 由々しき問題よ! 4年間も一緒に居た親友が変態だったと分かった私の気持ちになってよ!」
「ほとんどギャグだよ! なんで別パラレルから来た私が蓮子の下着を持って帰るの!?」
「聞くな! 知らん! あんたに聞きたい!」
「私だって知るか!」
息を切らし、興奮で上昇した体温を冷ます。
冷凍庫から保冷剤を二つ取出し、片方を蓮子に投げ渡した。
「あ、あっつー」「さっきお風呂入ったばっかりなのに」
保冷剤を額に当てて、蓮子が言う。
「でもさ、これ、確定的だよね」
「そうだね。信じられないけれど」
悔しいけれど、あの二人は本当にタイムトラベラーだと言える。
それだけの条件がそろってしまったのだ。否定できない。
「明日の16時、何を聞こう?」
「そりゃ、未来の私は八雲圭と結婚したみたいだし」
「結界省の事? どこまで知ってるかな?」
「どんなふうにして捜査してるか聞こう」
「そうだね、あとは結界省の内部事情とか、逃走方法とか」
「――蓮子、先に言っておくけど、私は八雲家の嫁になるつもりなんてないから」
「いや一般女性じゃ無理でしょ。強力なコネか、裏事情が無いと相手にさえされないよ」
「どうやって引っ掛けたのかな。やっぱり色気? 魅力? 私ったら罪な女ね」
「ぶっ、くくく、てめぇ引っ叩くぞ」
「よし、明日それも聞こう」
「わはは、いいね、それ決定だ」
蓮子は明日の入社試験に必要な書類を纏め、会社の事を調べ、メモに纏めた。
その作業が終わるまで私は、タイムトラベラーに対する質問を思いつく限り洗い出した。
作業が終わった蓮子に質問事項を見せ、二人で精査し、吟味した。10分間で答えられる量で。
いや、なんなら帰った後にもう一度ここに来いと要求しても良い。
タイムトラベラー、空想科学染みた二人組。さてどんな答えをしてくれるだろうか。
翌日、起きてから二人で朝食を食べ、私は大学へ。午前の講義を恙なく終わらせる。
昼食を食べてから14時、5号室の一角を占拠した。あと2時間である。
5号室は“何でもない日”に使う為の部室である。
どこにでもあるコーヒーショップだ。メニューが豊富で、デザートも食べられる。
取り立てて挙げる特徴と言えば、全国チェーン店だから、入るのに苦労しない所。
部室番号が小さいお店ほどチェーン店であることが多い。
そうだよね、秘封倶楽部結成後まもなく配番されたのだから、しかたないよね。
10分座って待機していたら、眠くなってきた。ああ夜中まで蓮子と話していたからだ。
昨日夜は興奮もしたし、殆ど睡眠時間を取らなかったから、やはり休息が足りていないのだろう。
時刻を確認したら14時15分だった。蓮子からメールが来ていた。
入社試験が思ったよりも長引くそうだ。18時ごろまでかかるという。
ふむ、あらかじめ質問事項は纏めてあるから、まあ私一人でも大丈夫なはずだ。
時間に余裕はある。携帯端末へ目覚ましを15時55分にセットした。
少し、眠ろう。机に両腕を付き、額をのせる。心地よい喧騒の中、眼を閉じる。
時間の感覚が無くなる程度の眠りだった。夢は見なかった。
どれくらい眠っていたか分からない。
唐突に、椅子がこつんと蹴られた。不愉快な起こし方だった。
目覚ましの音はまだ鳴っていない。目を覚ます。
ああこんな乱暴な起こし方をするのは、蓮子以外に知らない。
間に合ったんだなと顔を上げ、振り向く。
「ああ蓮子ごめん、ちょっと寝ちゃったよ、でも間に合ったなら良かっ――」
そこで、絶句した。
後方に立っていたのは、20代前半の若い男性二人組だった。
二人ともスーツを着て、手帳をこちらに見せている。
手帳には、正方形が二つ重なった八芒星のマーク。
「マエリベリー・ハーンだな? 一人か? 相棒はどうした? この手帳が何か分かるな?」
私は驚きに身じろぎ一つとれなかった。声も出なかった。
結界省の人間である。その恐怖と驚きに、脳が全身を麻痺させていた。
自分が銅像にでもなってしまったかのようだった。
「オレが、八雲徹。結界省安全管理科の者だ」
「八雲圭。結界省開発科所属。用は分かるね?」
二人はたったそれだけで自己紹介を終えると、手帳をスーツの内ポケットにしまった。
沢山の疑問が一斉に浮かび、頭の中を飛び回っていた。
なぜ、結界省がここにいる?
なぜ、フロアに私と結界省の二人以外、誰もいないんだ?
なぜ、私は逃げない? 椅子から立ち上がって動こうとしない?
なぜ、なぜ――。そんな私の混乱など知る由も無く。
徹が三白眼で私を睨み付け、言った。
「結界暴きの容疑でお前を逮捕する。立て」
ピピピピ、ピピピピと、場違いな電子音が聞こえた。
私の携帯端末が目覚まし音を鳴らしていた。
15時55分だった。
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15時55分。病院の面会可能時間終了まで5分前だった。
病院の受付で名前を聞く。普通病室に移されたけれどまだ喋れないから、と説明された。
扉を軽くノックし、病室へ入る。個室だった。“私”はベッドへ横になっている。
鼻に酸素吸入用の管が差しこまれていた。眼は、開いていない。眠っているようだ。
「どうも、“私”。聞いたよ、大活躍じゃないか。」
私は椅子をベッドの傍らまで持ってきて、座った。
「高濃度ちゅっちゅ粒子線大量被曝に伴う全身出血。後遺症として、失語症か。
私は八雲邸で小間使いをしている間に、こっちの“私”はとんでもない英雄になったんだな。
ちゅっちゅ国際連合専門機関は、お前にちゅっちゅスターエージェント勲章を贈るそうだ。
よかったな。最高の名誉だよ。お前で世界2番目だ。月に行った人数より少ない」
私が一方的に話しかけても、“私”は眠ったままだ。
「ああ、入院治療費は3千万円を超えるらしいが、国際ちゅっちゅ保険が下りるから。
うん、金のことは気にしなくていいらしいよ。お前が負担するのは、5円らしい」
少し、黙る。深くゆったりとした“私”の呼吸音。目が覚める気配は、無かった。
私は腕時計を見た。16時になろうとしていた。面会可能時間が終わる。
同時に、そろそろここを出なければ、次のちゅっちゅに間に合わなくなる。
「じゃあ、また来るよ。後遺症は続くだろうけど、リハビリで治るから、頑張って」
椅子を元の位置に戻し、扉に手を掛けた所で。後方から「ああ」と聞こえた。
振り返ると、“私”が半覚醒の状態でこちらを見ており、親指を立てるサムズアップをしていた。
リンク張ったのはGJ。これで読者がもっと増えてくれると嬉しいね。
この展開はもうドキドキが止まらないよ。藍さんっぽいグラボスも最高だ。
頭良い人は緊急事態の対応も的確やなぁ。
グラボスのキャラもとても良かった。
つか徹頭徹尾面白かった。ちゅっちゅ!
シリーズとして複雑化は勿論嫌いじゃないけど、初期から通して読むとどうしても違和感がある。
設定がぱっと理解できないけど、これからが楽しみです。
さりげなくパラレル転移技術持ってるんですね。
グラボス始め、要所要所の近未来っぽい舞台設定がナイスです。
さりげなく人間とそれ以外の生物が仲良く共存しているの本当にワクワクする
教授蓮子さん、惚れますわ