物部布都は廊下の端で、日向ぼっこをしてうつらうつらしている芳香を見つけた。ほのぼのした光景ではあったが、よだれをだらりとこぼしているのはいただけない。布都は芳香を揺すり起こした。
「おい芳香、よだれがこぼれておるぞ。早く拭くがよい、汚い」
「うー?」
芳香が眠たげに眼を開き、ゆっくりと立ち上がった。布都の顔の前を芳香の顔が通り過ぎて、何かの匂いがふわっと香った。
「ん……?」
よだれが良い匂いのはずもない。だけど、布都の鼻をくすぐった甘い匂いは何だろう? 布都は顔を近付けて芳香の顔を嗅いだ。確かに甘い匂いがする。芳香の口元のよだれをすくって、指先で嗅ぐと、布都のすぐ近くでとても甘い匂いがした。思わず、芳香のよだれだということも忘れて、ぺろりと舐めた。
「甘っ! 何これめっちゃ甘いではないか! 甘っ! 甘っ!」
布都はメープルシロップという名前は知らないが、とにかく甘いよだれが美味しくて夢中で指を舐め回した。
芳香のよだれがメープルシロップになっていた。
「何なのじゃ芳香、この甘い液体は。お主いつからこんな甘い液体を口から」
「うむ? 甘くて美味しいぞう」
布都は意地汚く、貪欲に、芳香のよだれの甘い匂いを嗅ぎながら、指を舐めた。芳香の目の前で芳香のよだれを必死に舐め回す姿は、どう見ても変態だったが、布都はそれどころではなかった。
「ああもう我慢できん」
指についたよだれをすっかり舐め取ってしまった布都は、もっと涎を求めて芳香の顔を舐めた。寝ぼけて口元にこびりついたよだれはちょっと溶けたべっこう飴みたいでますます美味しくて夢中になった。芳香の頬をぺろぺろ、ぺろぺろ舐めると、芳香は気味悪がって悲鳴をあげた。
「うおおー。やめろ布都、やめるのだ。気持ち悪いのだー!」
「いやじゃ! こんな甘いものを独り占めしてずるいとは思わんのか! いいからよこせ! もっと垂らすのじゃ! ええい我慢できん!」
どったんばったん、怪力の芳香と必死な布都が庭先を転げ回った。甘い甘いと布都は大騒ぎ、やめろやめろと芳香も大騒ぎ。
「ああうまい! うまいのう! これは癖になる甘さじゃ! ホットケーキに塗りつけて食べたいのう! 甘露じゃー! 甘露じゃー!」
「いいからやめんかー!」
「もっと垂らせ! 出んのか! ならばこうじゃ」
布都は暴れる芳香を無理矢理抑え付けて、唇を舐めた。うわあーと大騒ぎして、芳香は嫌がって暴れた。
「ええい貴様少し落ち着け吸えんではないかー! ん、ちゅ、じゅる、じゅる、ちゅ、じゅる」
「いやじゃいやじゃ! ……ん……んぅ、んんー! んーん! ん! ん、やめんか、布都ぉー! むううー! ん、んー!」
「うるさいぞー」
廊下の角を曲がって、蘇我屠自古がすうと現れた。嫌がる芳香を布都が無理矢理抑え付け、唇を吸う姿は見苦しかった。屠自古は指をガッとやって雷を呼び、芳香ごと布都にぶつけた。バリバリ、バリバリと雷鳴が響いて二人は真っ黒になった。
「やめんか見苦しい。布都、貴様何をしてる」
「屠自古貴様、何をするのじゃ。だってこいつのよだれが物凄く甘くなっておるのじゃ。これは癖になる甘さ。やめられんのじゃ」
「布都、適当なことを言うんじゃない。……いや、あの邪仙か?」
「呼びましたか?」
邪仙、霍青娥が壁からずるりとなめくじのように這い出してきて、布都と屠自古は青娥を見た。屠自古はまあこいつのすることはどうでもいいと考えた。布都は、頑張って歯の間に残ったメープルを舐め取りながら、どうにかしてもっと舐められんかのうと考えていた。
「どうして芳香のよだれが甘くなったのかはどうでもいい。それより布都、よだれを舐めるのはやめろ」
「どうしてなのじゃ。こんな甘いものやめられん」
「いいからやめろ。見苦しい。だいだいよだれだぞ、いくら甘かろうが、汚い」
「何だと。ならばお主、太子様のよだれを汚いと申すか。我のよだれを汚いと申すのか。まあこの死体や邪仙のは汚いが、しかし甘いのは仕方がないのじゃ」
「無視はひどいですわ」
布都と屠自古が言い争い、青娥はその傍らでよだれがメープルシロップに変わった理屈を、聞く者もいないのに語り続けていた。
「メープルシロップは楓の木から取れる樹液を濃縮したものですわ。唾液腺を取り替えて口の中に分泌されるように改造しました。これで朝食の度にホットケーキやワッフルを食べたい時、すぐに用意できますわ。他にも汗腺を取り替えて皮膚表面から塩や胡椒を出せたり、××××からホイップクリームやカルピスやらホワイトソースやらを出せるように出来たら便利かなと思ってまして……」
「ええい、うるさい!」
屠自古が大声を上げると、周囲に電磁パルスが走った……横隔膜から走った帯電呼気が、空気を震わせて云々……ともかく、周囲にいた布都と芳香は丸焦げになった。青娥はその一瞬を、壁抜けして躱していた。
「とにかく! 芳香の唇を舐めるのは禁止だ! そんなものを太子様に見られたら道場の風紀はどんなに乱れておるのかとお嘆きになられるだろうが!」
ぷんすこ怒って肩を怒らせた屠自古は、足音も荒く……とは言っても足は無いから心持ちずんずんといった様子で立ち去っていった。
「何を怒っておるのじゃ?」
「さあ?」
黒こげになった布都と、青娥が顔を見合わせた。芳香がけほっと煙を吐いた。その煙さえ甘い匂いがした。
朝風呂のあと、屠自古は台所に入った。髪を拭きながらのれんをくぐると、椅子に縛り付けられた芳香の首を俯きにして、芳香のよだれをホットケーキにかけている布都の姿を見て、屠自古はむっとして布都を睨んだ。
「おお、屠自古か。おはよう」
「おはよう。……そういうことはやめろって言っただろ」
「何をう。食事を取るのもいかんのか。せっかく唾液はいくらでも分泌されてくるのじゃ。勿体ないのじゃ」
溜息をついて、屠自古は言い返さずに、朝食の用意をはじめた。布都は屠自古に何も言われなくなったのを良いことに、ほくほく顔でホットケーキを食べやすい大きさに切って、食べ始めた。屠自古がちらちら覗き見ると、幸せそうで、芳香のよだれを食べていることはともかくとして、屠自古の方も暖かい気持ちになるのだった。
屠自古が朝食を作り終える頃、髪の毛は乱れに乱れ、くしゃくしゃの寝間着姿の神子が入ってきた。
「おはようございます、布都、屠自古。ああ、毎朝ご苦労様ですねえ、屠自古」
「いえ……」
「太子様、随分な格好ですな。屠自古のように、朝風呂に入って身嗜みを整えた方がよろしかろう」
「ええ、そうですね。屠自古のように……ね」
神子は屠自古をちらりと見、屠自古は神子を振り向きもしなかった。その微妙な雰囲気を布都が察することはなかった。神子は布都の食べているものに気を向けた。
「おや、珍しいものを食べていますね」
「ホットケーキですぞ」
ホットケーキは簡単な料理で、布都ができる唯一の料理らしい料理だった。
「いえその、かかっているソースが。随分甘い匂いをしています。嗅いだことのない匂いですね」
「太子様、それは」
屠自古が制止しようとする前に、失礼、と声を掛けて神子はホットケーキの上の液体を指ですくって、ぺろりと舐めた。
「甘くて美味しいですね。布都、どこでこれを?」
「そこから」
「芳香が買ってきたのですか?」
「芳香のよだれです、太子様」
屠自古が額に手を当てて渋い表情をし、神子は驚いた顔をして芳香を見た。椅子に縛り付けられた芳香は諦めの境地で、捨てられた子犬のような表情をしていた。いつの間にか台所に現れていた青娥が、その場の皆をにこにこと見守っていた。
「……太子様、太子様はまさか芳香のよだれを舐めるようなことはしませんね?」
「当たり前ではないですか屠自古。誰かのよだれを舐めるような卑しい真似は……」
「美味しいですぞ、太子様」
ああもう余計なことを、と屠自古は思った。布都がもむもむホットケーキを口に運んでは咀嚼しては飲み込み、その様子に神子は喉をごくりと鳴らした。かぱり、と青娥が芳香の口蓋を開かせると、てろりと口の端から唾液が垂れた。
「まさか……私がそんな、欲に負けるはずがないではありませんか。いくら芳醇で美味だとは言え……甘い……甘い甘い……これまで食べたこともないくらい甘い……でもよだれ……でも……ダメぇぇ! 我慢できないぃぃ!」
テーブルに腹ばいになり、欲に負けた神子は芳香に飛びついた。
「ぺろぺろ! ぺろぺろ! 私は犬です甘いのぺろぺろしちゃう犬です! 欲しいの! 甘いのもっと欲しいのぉぉ!」
「うわぁ……」
芳香の唇をぺろぺろする神子の姿に流石の屠自古もどんびきであった。聖人をも欲望の渦に叩き込む、メープルシロップ恐るべしであった。いや、むしろそれを用意した青娥か。屠自古は青娥を見た。青娥はにやりとした。
「春先、それも深夜から早朝にかけて2時間ほどの時間にしか取れない、稀少なカナダ産最高級メープルシロップですわ。カルシウムやカリウム、ビタミンB1、B2などミネラルやビタミンもたっぷり」
一体誰に向かって宣伝をしておるのだお前は。屠自古は頭を抱えた。
道場では芳香のよだれを吸うのが慣例になって、布都も神子も、人前でも気にせずにちゅうちゅうと吸った。芳香はされるがままに唇を吸われていた。その姿はまるで『幸福な王子』に出てくる、金箔を剥がされる王子の銅像のごとくであった。
屠自古だけは、芳香のよだれを頑なに拒んでいた。誰があんな死体のよだれなど吸うかと意地を張っていた。芳香の唇やよだれに嫌悪感は抱いても、甘い匂いにはついつい心動くこともあったけれども。
屠自古は気分的にはそんな感じだった。とは言っても、邪仙がトラブルを持ち込むのはいつものことで、良くあることだと普段通りに屠自古は日々を過ごしていた。
その日も屠自古は、取り込んだ布都の着替えを持って、布都の部屋に入った。薄暗い部屋の中で、布都は座り込んで、珍しく静かに、何かを考えているようだった。瞑想でもしているのか。近頃は昆虫のように芳香にくっついているのが普通なのに。屠自古が部屋に入ると、布都がそれに気付いて声を掛けた。
「屠自古か」
「ああ。洗濯物を持ってきたぞ」
「うむ。いつもすまんな」
向こうを向いたまま、やはり布都は何かをしているようだった。屠自古が踏み入ってみたのは、ただの気まぐれだ。
「何をしてるんだ、布都。今日は芳香のよだれを吸いに行かないのか」
「うむ。毎日芳香のよだれを吸っていると、どうやら我のよだれまで甘くなってきたようなのじゃ」
「……はあ?」
そりゃ勘違いだろう、と屠自古は思った。毎日毎日甘ったるいものを吸っているから、なんとなく舌がその味を感じることに慣れ切ってしまっているのだ。
「……それで、今日は自分の舌を吸ってるのか」
「うむ……こう、歯の間から染み出ているような気がしてな。どの辺りが一番甘いか考えておるのじゃ」
毎日そうも下らないことを考えることができるものだ、と屠自古は呆れた。呆れてから、少し考え、扉を閉めて、洗濯物を置き、布都に近付いて口付けた。
「なっ」
「ふん。……そうだな、少し甘い気がするかもしれないな」
どころではなく、甘かった。甘い気がするなんて甘いものじゃなく、本当に砂糖のごとくに甘かった。
「いや嘘だろ。いくら布都が尸解仙だからって、まさか青娥が布都まで改造したなんてこと……」
「ご明察」
「帰れ」
壁抜けでしゅっと現れた青娥は、屠自古が一喝すると空気を読んで帰った。屠自古はふう、と一つ溜息をついて、布都に向き直った。
「うん。甘い。これは芳香のよだれに必死になっても仕方ないな」
「や、やめんか。何をするのじゃ」
屠自古が再び口をつけようとすると、僅かに身じろぎして、布都は嫌がった。屠自古は布都の肩を抱き、布都の目を真っ直ぐに見た。
「甘いの吸うだけなんだから、いいだろ。布都が芳香にやってることと同じだ」
「うう。それはそうなのじゃが。……何やら、気恥ずかしいではないか。それに、貴様、芳香の唇を吸うことは怒っておきながら、自分がするとは矛盾ではないか」
「芳香は嫌いだ。死体の唇を吸うなんて嫌気がする。お前は昔からの知り合いだろう。それに、初めてじゃない」
「それは……うむむ」
それを言われると、布都は弱いのだった。過去に数度、互いの立場も知らなかった頃、戯れに唇を重ねたことがあった。やがて二人の間に交わりがなくなっても、その記憶、心まで断ち切れたわけではない。
「でも、……恥ずかしいぞ、屠自古」
「だったら目を閉じておけ。すぐに済む」
布都は言われるがままに瞳を閉じた。それは受け入れたのと同義だった。屠自古は布都の唇に、自らの唇を重ねた。口づけが甘いなんてのは嘘だ。味なんてない。だけど、今だけは本当だった。甘ったるくて溶けてしまいそうだ。舌を絡めると、ますます甘いものが溢れてきた。
屠自古は夢中になって布都の舌を吸いながら、これは中毒のようになってしまうなと思った……夢中になっている自分に気付きながら、離す気になれない。まあ、いいかと思った。長い間吸っていると、布都がいやいやをして唇を離した。布都の頬が赤くなっているのを、屠自古は見た。
「い、いつまで吸っておるのじゃ。屠自古。貴様」
「あぁ、甘い。美味しいな、布都。お前、こんなものを毎日吸っていたのか」
「お、おう。今更か。ようやくよだれの美味さに気付いたのか、遅いのう屠自古は」
「あぁ。悪かった。甘い。だから、毎日吸わせておくれよ」
「う、うぬ……」
布都が言い淀んでいる間に、屠自古はもう一度唇を重ねた。二度目はより深く。
「なぁ。いいだろ、布都」
「う、うぬぅ……た、太子様が見ておらぬところでな」
布都がそう言い終わると、屠自古は三度目のキスをした。
屠自古と布都が唇を重ねた次の日。
唐突に、芳香と布都のよだれは、元の味に戻ってしまった。
それを残念がった神子は、里で代わりのメープルシロップを仕入れてきて、それをホットケーキにかけて食べるのが習慣になっていた。
「おはようございます、屠自古、布都。……おや。顔が赤いですね、二人とも」
「え、ええ…おはようございます、太子様」
「べ、別に顔が赤いということもございませんぞ、太子様」
当然のように神子は、二人の表情やら何かから、色々と察している。だけど、それを言うことはない。
屠自古と布都は、よだれが甘くなくなっても、こっそりと唇を重ねることはやめないのだった。残念だな、残念だのう。いつか甘くなるかもしれないな。あ、ああ、そうだのう、と言い合って。
「めでたしめでたし、なのだ」
ようやく椅子の緊縛から解放された芳香が、満面の笑みでそう言ったのだった。
ホットケーキが食べたくなりました
微妙な背徳感がいいですね。
Oh...Delicious...
つってもまあ、豪族二人の絡みで帳消しだな
今日から、メイプルシロップを芳香ちゃんのよだれだと思って舐めることにしますw
たとえ唾液がどんなに甘くとも、たとえ芳香が魅力的でも、自分ならこんなことは出来ないなぁ。