「――紅茶を、お持ち致しました」
控えめな二度のノックの後に、咲夜の声がした。
書面から目を上げて、「入れ」と私は命ずる。開いたドアの隙間から身を滑り込ませた咲夜が、私の姿を認めて深々と頭を下げる。
「……えと、本日の葉は、アールグレイ。ミルクは付けませんでした」
「そう」
再び書面に目を落とした私は、ぶっきらぼうに返す。きっと機嫌が悪い様に聞こえただろう。
構いやしない。
事実私はここ最近ずっと、機嫌が良くないのだから。
「その……失礼、致します」
そんな私の不機嫌を悟ったからか、咲夜の声は未だ瀟洒の仮面を被りつつも、少しばかり震えていた。
――堪らなく、イライラする。
私は溜め息を吐く。乱暴に書を閉じてしまう。大好きな本だったのに、今はちっとも面白くなかった。
咲夜が私の机の上に、ティーセットを展開する。ソーサーを置き、カップを置き、ポットをその横に置く。四秒の遅延。トレイをどこに置くべきかと逡巡し、そこで更に十秒のタイム・ロス。ミルクカップの姿は無い。ポットの中に血を落としてから来たのか? 呆れる。温まった血液は、時間を置けば置く程に嫌な生臭さが増すというのに。
椅子の肘置きに頬杖を突く。焦燥の臭い立つ咲夜の顔を睨み付ける。私の視線に気づかない振りには、しかし戦慄と思しき唇の震えが混じる。沈黙は粘っこく、夜の帳は私を嘲笑っている。
それでも咲夜は紅茶を注ぎ終える。作業を終えて立ち尽くす咲夜を一瞥し、カップに手を伸ばす。アールグレイの柔らかな香りと、少々の血の鉄臭さ。
一口、含む。
美味しい……否、『不味くは無い』という表現の方が正しい。
だから私はカップを手にしたまま腕を水平に伸ばし、そのまま指を離してしまう。緋色の液体と白磁器の自由落下。当然カップは粉々に砕け、カーペットには鈍った色の染みが広がる。咲夜が身を竦ませる。
「……不味いわ」
私は咲夜に淡々と告げる。淡々とした声音に聞こえる様に。胸中に渦巻く激情を悟られない様に。「……申し訳ありません」と蚊の鳴く様な声で呟き、おろおろと狼狽した後に彼女は破片となったカップを片付けようとする。
「もういい。下がりなさい」
聞えよがしな舌打ちの後に、私は歩み寄って来た咲夜に告げる。躊躇いがちな視線が、紅茶の染みと私の間を何度も何度も往復する。
「……申し訳ございません。レミリア様」
また、謝罪だ。イラつきが拳を握り締めさせる。
一体何度、私に謝れば気が済むのか?
私は一体何度、咲夜に謝らせれば気が済むのか?
――こんな事をしたかった訳じゃ無い。
またぞろ私の意識に、そんな思いが去来する。
こんな咲夜を見たかった訳じゃない。こんな関係を築きたかった訳じゃ無い。もっと明るい未来が、私を待っていた筈じゃなかったのか……。
「――咲夜は私を、『レミリア様』なんて呼ばない」
椅子から立ち上がり、窓へと歩み寄る。
咲夜を見たくなかった。今の咲夜を。私に詰られ、身を竦ませる咲夜なんて、視界の端にさえも入れたくはなかった。
「――失礼、します」
乾き切った咲夜の小さな声が、室内の空虚な沈黙に波紋を投じ、彼女が部屋を後にする物音が聞こえて来た。七秒のタイム・ロス。長きに渡って染み付いていた私の時間感覚は、執拗に違和感ばかりを喚き立てる。
今宵の月は、いつぞやの夜みたいに真紅に染まっている。なのに、その禍々しい色彩は毛ほども私の心を高揚させはしない。
残るのは、後味の悪さばかりだ。
一人室内に残された私は、再度大きく溜め息を吐いて視線を下へと移動させる。霧の湖を一望できる小高い丘。塀に作らせた勝手口から歩いてすぐの場所。
そこには一つの墓標がある。
手向けた真紅の花が、夜風に揺れている。
その墓に眠るのは、私の従者。
完璧なまでに瀟洒な使用人。
時を操る特異な能力を持ち、人の身ながら唯一この私を傷つけ、殺す一歩手前まで辿り着いた名も無き少女のヴァンパイア・ハンター。その成れの果て。
……十六夜咲夜。
二十年も前に死んだ私の、私だけのメイドは、私の視線の先にある墓石の下で、永久の暇に身を委ねている。
◆◆◆
初めから判り切った事の筈だった。
私はそれを覚悟していた筈だった。
けれどそんな覚悟は、現実の前では紙切れ程の耐久力も無く、微塵も私の心を救いはしなかった。
人間は死ぬ。
そんな事は当たり前の事だ。死なぬ人間は、最早人間では無い。私は死なない人間を三人ほど知ってはいるが、やはり彼女たちを人間と呼ぶには些かの忌避感がある。
そんな当たり前のことを理解した上で、承知済みで、私はその少女を従者として迎えた筈だったのだ。従者。使用人。メイド。それらの呼称は最初から、私と少女の関係性を確定させていた。
私に従う者。私に使用される者。私の住む空間を作る者。
使い捨てのつもりで拾ったその少女を失う事に、どうして私の心は荒れ狂わなければならなかったのだろう。
考えても仕方が無い。何を後悔しても遅い。どうあれ私は、十六夜咲夜を失いたくないと強く願ったのだ。神様。神様。どうかもう一度、咲夜を生き返らせてください。悪魔の側である筈の私が、そんな矛盾した祈りを抱いてしまう程に、強く。
そんな私の祈りが通じたとしたなら、笑えない冗談だ。
しかしそんな冗談は、現実に存在する選択肢として私の眼前に現れた。
何億年という冗談みたいな年月を生きたそれは、まさしく冗談みたいな青と赤の服を纏って、冗談みたいな優しい口調で『この娘を生き返らせる事が出来るといったら、信じる?』と聞いて来たのだ。そしてそんな冗談に私は、一も二も無く頷いた。
八意永琳と名乗っていたその冗談は、老衰で死んだ咲夜の毛髪を数本採取したかと思うと、『二十年待って』とだけ残して、とっとと私の館から姿を消した。
奇跡の成就には二十年もの時間が必要だったらしい。
小難しい理屈は、私には良く判らない。パチェは「クローン技術でしょうね」と断言していたが、その技術に関する知識を私が完璧に理解する事は出来なかった。理解出来る事は、たった一つで構わなかった。
咲夜が、またこの館にやって来てくれる。
また、咲夜と一緒の時間を過ごす事が出来る。
それだけを理解していれば、奇跡の解明なんてどうでも良い事だった。
だから私は、待った。ひたすらに待った。人形の様に時間を潰し、呼吸と食事と睡眠を繰り返す機械の様に日々を浪費し、枕元の靴下にプレゼントが突っ込まれる子供の様に待ちわびた。
そうして二十年を死んだ様に過ごした私の館の戸を、奇跡がノックした。
逸る気持ちを押さえて扉を開けると、そこには咲夜が立っていた。
咲夜。咲夜。十六夜咲夜。私の従者。私の使用人。私だけのメイド。再会は私の目頭を熱し、ボロボロと涙を流させた。
泣きじゃくりながら、それでも微笑もうと努力した。
「……おかえり、咲夜」
そうしてやっとの思いで紡いだその言葉に、しかし眼前の咲夜は首を傾げた。
「初めまして、レミリア様。今日よりこのお館で働く事になりました、十六夜咲夜です」
「……え?」
それが最初の違和感だった。
戻って来た咲夜は、どこまでも咲夜では無かった。
私の好きな紅茶の銘柄を知らなかった。勝手知ったる筈の紅魔館で迷子になった。料理は下手だった。掃除は雑だった。よく食器を落として割った。パチェの喘息薬のある場所を知らなかった。失敗すれば怯えた。私の事を『レミリア様』と呼んで憚らなかった。妖精メイドには敬語を使った。ナイフも携帯しなかった。美鈴の昼寝を黙認した。侵入者の知らせを聞いて、震えながら物陰に隠れた。
でも、声は咲夜だった。顔も咲夜だった。髪型も咲夜だった。身長も咲夜だし、服装も咲夜だった。物を掴む手の形も咲夜で、後ろ姿も咲夜でしか無くて、時を止める能力も全くもって咲夜で、名前を呼ばれて振り返る時の所作も咲夜以外の何者でも無かった。
何だ、これは。
誰だ、コイツは。
咲夜はどこに居る。私の咲夜は。完璧で瀟洒な使用人の名を恣にした、あの咲夜は。
無論私は、八意永琳を問い詰めた。
「別に構いやしないでしょう?」
胸ぐらを掴まれたまま、私の爪を眼前に見据えたまま、冗談は奇跡の仮面をかなぐり捨てた。
「人間は死ぬなんて、判り切った事。過ぎた時間は誰にも戻せない。私は貴女の願い通りに、十六夜咲夜を蘇らせたわ。彼女の細胞から再生した無垢な肉体が、十六夜咲夜となるべく教育を施した。彼女が成長するまで繰り返し繰り返し、空っぽな肉体に十六夜咲夜をインストールし続けた。受肉した十六夜咲夜をもう一度、目の当たりにしたのよ? 多少の誤差位、目を瞑りなさいな」
うるさいうるさい。意味の判らない御託を並べるな。契約を全うしろ。咲夜はどこだ咲夜を返せ。返せ返せ返せ。
「――それは私じゃなくて、理に言いなさいな」
そう言い放った彼女の表情には愉悦が満ちていて、そこに至って漸く私は、目の前のこの女が慈悲に満ちた救済者なんかとは程遠い、思いつきで生命遊戯の駒を繰る狂人でしかなかったと気付かされた。
「お帰りは、あちら」
落胆した私は握った拳を振り下ろすべき場所も判らず、肩を落として自分の屋敷へと引き返す事しかできなかった。
咲夜でしかない、なのに咲夜とは程遠い、あの何かが居る館へと。
◆◆◆
「また、苛めたんですか?」
ノックもせず、溜め息交じりに私の部屋に入って来たのは美鈴だった。
「……門番はどうした」
「あの子が代わってくれました。少し夜風に当たりたいって言って」
肩を竦めた美鈴が、どっこいしょ、と私の机の上に腰を下ろす。従者にあるべき傍若無人さ。しかし私はそれを咎めない。咲夜が死んで以降、何か歯車が少しずつ狂っている。美鈴の態度もその一つ。
「――あーあ、まったく、可哀想な子ですよね」
「咲夜の事か」
「咲夜さんは死にました。もう居ません」
真剣な口調で言った後に、美鈴は鼻を鳴らす。私は彼女から目を逸らし、再度咲夜の墓へと目線を向ける。
「あの子に新しい名前を上げたらどうです? お嬢様も判ってるんでしょ? あの子は十六夜咲夜じゃない。瓜二つなだけの他人。だったら別人として扱うべきですよ。じゃないと、頭がどうにかなりそうになる」
私はその言葉を無視した。深い理由があった訳じゃ無くて、ただ反論を思い付かなかっただけだ。反復して考える必要も無く、その言葉には反論の余地も無い。
「因みに私が可哀想だって言ったのはレミリア様。貴方ですよ」
無視。
「咲夜さんが死んで、誰もがそれを受け入れようとして、引き摺りながらも何とか悲しみを消化して、前を向こうとして……貴方だけができない。しようとしない」
無視。
「結局貴方は、二十年も経った今もまだ、咲夜さんの死を受け入れられてない。あの狂人に縋った。冗談みたいな希望に縋った。そんなもの、ありはしないって最初から判ってたのに、咲夜さんの死を必死で無かった事にしようとしてる」
無視。無視。無視。
「可哀想なレミリア・スカーレット。幼いレミリア・スカーレット。それでも貴方は、あの子に縋ってる。あの子に咲夜さんの面影を見出そうとしてる。もう咲夜さんは思い出の中にしか居ないのに」
「黙れ!」
耳を塞いで、叫ぶ。命令というよりは、懇願。逃避。正論を突き付けられたら、受け入れるか逃げるか、その二つ以外に選択肢は無い。だから私は、あっさりと逃げる事を選ぶ。
「はい。黙りましょう。仰せの通りに」
美鈴の声は耳を塞ぐ両手を通して、小さく聞こえて来る。そしてそのまま、彼女の気配は扉を抜けてどこかへと遠くなっていく。
潔いというよりは、初めから諦めているのだ。
どうせ聞き入れやしない、と判っているのだ。
痛い位にぎゅうと両耳を抑える私の両手が、小刻みに震えていた。
◆◆◆
なんだ。
単なる人間の、ひ弱な少女じゃないか。
名も無き銀髪のヴァンパイア・ハンターとの邂逅を果たした私が抱いたのは、期待に見合わないという、そんなつまらない感想だった。
紅美鈴に門番を任せて何十年経ったか。初めて彼女を打破し、屋敷に侵入を許した賊のみすぼらしい姿に、私は溜め息を零した。
線の細い身体。身に纏った洋服は雑巾でも縫い合わせたような粗雑さ。髪の毛は脂に汚れ、骨ばった片手に握る銀のナイフばかりが浮いて見える。そこらの路地裏に蹲る浮浪欠食児童に、食事の用意もしてやらずにテーブルナイフだけを握らせたような光景は、憐れみさえ湧き上がらせる。
しかし、目だけは気に入った。
虹彩の薄い、青い目。襤褸を寄せ集めた様な外見の中にあって、その目はギラギラと私を睨み付けている。屑籠に放られた宝石を見つけたような気分になった。
獣の目。それも単なる餓えた犬っころではなく、数多の命を刈り取り、そして自らの血肉へと組み込んできた獣。狩る側の生命だけが許される瞳の輝き。遅ればせながらその瞳に気付いた私は、前述の感想を撤回する。
「おい、ガキんちょ。何しに来た?」
挑発の意を込めた私の問いに、少女は答えなかった。ただ右手を伸ばし、冷たく光るナイフの切っ先を私の心臓に据えた。
言葉は要らなかった。充分だった。それだけで充分だった。
愉悦。吸血鬼としての感情。絶対的な強者であると自覚するためには、敵対者の存在は不可欠だ。美鈴を門番として置いた理由は、敵対者の選別にあった。瞬きの間に殲滅できてしまう雑魚などでは満たされない。選別機関としての門番を据えて以降、初めて現れた好敵手。血湧き、肉躍る甘美な時への期待感。そんな感情に、自分の唇が歪むのが判った。
――さあ、踊ろう。
私がその言葉を言うか言わないかの内に、少女は私目掛けて走って来た。
◆◆◆
「レミィ、あの子がどこに居るか知らない?」
カップの破片を拾い上げていると、パチェが入って来た。図書館から出て来るなんて、珍しい事もあった物だ。
「あの子?」
「そう。あの咲夜みたいな子」
そう言ってすぐ、パチェは目を細めて私が抓む白磁器の破片を見てくる。聡い彼女の事だ。それだけで、状況の全てを把握したのだろう。そんな私の推量に違わず、パチェは来客用のソファに腰掛けつつ、大きな溜め息を吐く。
「あの子だって、そこそこ美味しい紅茶を淹れるじゃないの」
ほら見ろ。やっぱりパチェは、前置きを排した説教を私に垂れて来た。
「……そこそこじゃ、満足できないのよ」
「その紅茶に満足している私の舌が馬鹿だ、と、レミィはそう言いたいのね?」
仏頂面のまま、パチェが嫌味を言う。その言葉に何と返すべきか判別がつかず、私は黙ったままカップの破片拾いを再開した。美鈴の言葉を無視した時よりは、理由のある無視。けれど、傍目から見れば何も変わりはしないと私は判ってる。
結局、痛い所を突かれ続けているのだ。
結局、私は逃げているだけなのだ。美鈴が指摘した通り。
「どうして私が小悪魔に名前を与えないのか、レミィには話した事があったわね?」
唐突にパチェが居住まいを正して身体をこちらに向け、そんな事を言い出す。
そんな事があったか? 覚えてない。カップの破片を拾い終えた私はそれを屑籠に放った後に、首を横に振る。記憶に無い、の意。呆れた様な表情でパチェは天井を仰ぐ。
「小悪魔は、便宜上『小』なんて形容詞を付けちゃいるけれど、その実態は強力な悪鬼なのよ」
その言葉で漸く、私はふとそんな事を聞いた覚えもあったな、なんて今更の様に思い出す。
「召喚したのは大分前だけれど、正直あの子を召喚した時の私は、驕ってた。七十二柱の上位に名を連ねる悪魔でも、私ならば御し切れると思ってた。若かったんでしょうね。魔女としても、パチュリー・ノーレッジ個人としても。
召喚したあの子は、私の命令を無視した。契約を曲解して、私自身を取り込もうとして来た。戦うしか無かった。でも、あの子は強過ぎた。私の魔法で捻じ伏せるなんて不可能だった。だから私は、咄嗟に魔方陣に記したあの子の名前を消した。あの子に引き裂かれた腹から、夥しく流された自分の血でもって。
悪魔に限らず妖怪や魑魅魍魎にとって、自身の名前は持つだけで強大な能力を得られる。名を持つという事は、それだけで個としての信仰を得るのと同義だから。存在を認められている事になるから。魔方陣の名を消す事で、あの子は名前を持たない悪魔になった。名を持たずに顕現した悪鬼になった。必然、能力の大半は消失した。そうしてやっと、私はあの子の主になる事が出来たのよ」
パチェのそんな昔話を聞き流しながら私は既にして、彼女が言わんとしている事を理解していた。
「……咲夜に新しい名を与えろ、と言うのか。お前も」
「咲夜は死んだわ。もう居ない」
私をジッと三白眼で見据えながら、パチェが言う。その既視感に私は、思わず乾いた笑いを浮かべてしまう。
「あの咲夜みたいな子は、存在を認められてない。揺蕩う影法師。咲夜という幻影をトレースさせられているだけの半端な人間。肉体が咲夜でも、咲夜としての教育を受けていても、あの子と咲夜は紛れも無く別人よ。クローン技術と言うのは結局、一卵性の双子を時間差で生み出す事に過ぎない。そして私の小悪魔と違って、名を与えない事への必然性は皆無だわ……レミィ。今の貴女は、あの狂人の生命遊戯に付き合わされているに過ぎないのよ」
――判ってる。
そんな事は、もう判ってる。
判ってるだけで、私は何も行動を起こそうとしていない。
「……言いたい事は、それだけか?」
「そうね。付け加えて言うなら、あの子に後で図書館に来る様に伝えて頂戴。私の馬鹿舌は、あの子が淹れる紅茶を待ち望みにしているのだから」
肩を竦めるパチェの口調は、淡々としていた。そんな淡々とした言葉を残して、パチェは私の方を振り向こうともせずに、さっさと私の部屋を後にする。
一人残された私の部屋には、咲夜が淹れ、そして私がカーペットの染みにしてしまったアールグレイの香りが、微かに滞空していた。
◆◆◆
「私は一生死ぬ人間ですよ」
それは、いつかの満月の下で咲夜が私に言った言葉だった。
断言。ほんの少しの逡巡も無く、私の誘いを断った咲夜の言葉。
正直に言って、私は彼女の迷いの無さに酷く落胆した覚えがある。
「大丈夫。生きている間は一緒に居ますから」
私はきっと酷い顔をしていたのだろう。続けて咲夜が口にしたその言葉はしかし、私の落胆を完全に拭い去ってしまうには少々弱くもあった。
私は咲夜を信頼していた。私は咲夜を愛していた。私という存在の少なくない領域を、咲夜という人間の存在が占めていた。
だから私は落胆を覚えつつも、咲夜の願いを叶えない訳には行かなかった。
チャンスは幾らでもあった。私の我が儘に咲夜を付き合せる方法は単純明快で、私に必要だったのは咲夜の願いを無視する事への罪悪感の払拭と、ほんの少しの後先考えない短慮だけだった。
けれど最後まで私は、それをしなかった。
その事を誇りに思うべきなのかどうか。私は永遠の暇に付いた咲夜の寝顔を見て、自分で判らなくなってしまった。
後悔をした。
咲夜の事を信頼していたからこそ。咲夜という一個人を愛していたからこそ。良き主でなくてはならないと自分を律した過去を悔やんだ。喪失の痛みが自分の心をこんなにも引き裂くなど、私の幼い思考は思いも寄らなかったのだ。
老いて行く咲夜は、しかし美しかった。
桜と同じだ。終わりの時が存在するからこそ、命は儚く美しい。
――けれど。
誰が道端で赤茶に腐って行く花弁を、儚く美しいと形容する?
桜が美しい。花弁が散るからこそ美しい。
そう異口同音にのたまう輩の一人として、道端に堆積した花弁の存在をさえ内包して語る者はいない。
死体は穢れだ。燃やさねばならない。土に埋めねばならない。見えない所へと追いやってしまわねばならない。そんな当たり前の事を失念していた私もまた、躯と化した咲夜を美しいと思えなかった。
死は必要以上に美化されている。それは本質的に、死とは恐ろしく、そして穢れだという事実から目を背けるための虚飾に過ぎない。
咲夜の死体を見ながら、私もまた、死を美化していた事に気付かされたのだ。
◆◆◆
「あら、お姉さま」
自室を後にし、エントランス・ホールへと向かう廊下で私はフランドールを見つけた。どうやら今まで出かけていたらしい。外出用の外套を抱えていた彼女を見て、そんな事をボンヤリと思った。
「どこへ行っていたの?」
「お墓参り。魔理沙の」
「そう」
少しだけ寂しそうに微笑んだフランドールに、私は小さく微笑み返す。
咲夜が死んで以降狂っている歯車の一つに、生まれながらにして狂気を司り、狂気に魅せられていた私の妹の理知がある。元々が狂っていたと仮定するならば、むしろその狂いは吉兆と言って良いだろう。マイナス×マイナスは、プラス。狂い×狂いは、まとも。同じ理屈だ。
もう、この子を地下に閉じ込める必要は無い。
だから、既にフランドールには新しい部屋を用意している。
私の部屋の隣。以前は書斎として使っていた部屋は、新しい主人を迎えて整然とした装いを保持し続けている。部屋が持ち主の心理状態を表すならば、今のフランドールは私よりもずっと整然とした心理を持っている事になるだろう。カーペットに紅茶の染みを作ったばかりの私よりも。
「……ねぇ、フラン」
私はふと、霧雨魔理沙の墓参りに行って来たと口にした彼女に、一つの質問をする事を思いたった。
「なーに?」
「――もし魔理沙が死ぬ前に、不老不死になりたいと言ったなら、貴女は彼女の血を飲む?」
「飲むよ。躊躇いなく」
あっさりと、フランドールは頷いた。何を今更、と言わんばかりの表情。
当然か。私は自分がした質問の下らなさに、思わず笑ってしまう。親しい友人を、恋しい従者を、失いたくないと考えるのは当たり前の思考だ。
「でも」
自分を嘲ける様に小さく笑っていた私の耳に、フランドールの真剣な口調が差し込まれる。私は笑う事を止め、小首を傾げた。
「でも?」
「……魔理沙は言わなかったよ。不老不死になりたい、なんて」
その言葉が、その視線が、まるで私を批難している様に見えて私は俯く。自嘲染みた愉悦なんて掻き消されてしまった。
「で、でも、フラン。貴女は魔理沙が甦る方法があるなら、それを実行するでしょ?」
私は縋る様にフランドールに聞く。
うん、と言ってくれ。
躊躇いなく断言してくれ。
私の行動を、迂遠な方法で否定するのだけは、やめて……。
しかしフランドールは、私の妹は、迷う事無く首を横に振る。
「そんな方法、無いよ。あったとしても、絶対にそんな事、しない」
「……どうして?」
肩を落として、私は聞く。
きっと哀れだろう。今の私の姿は。
でも、フランドールはそんな事には気付いて居ないかの様に微笑む。それが本当に気付いてないのか、それとも私を慮っているのか、その判別は付かなかった。
「お別れは済ませたから。きちんと、さようならを言ったから。魔理沙は人間で、私は吸血鬼だから。魔理沙はそれを判ってて、その気になれば不老不死なんて簡単に手に入るって知ってて、それでも、一度も私に不老不死になりたい、なんて言わなかったから」
……あぁ。
そうだ。そうじゃないか。判り切った事じゃないか。私はフランドールよりも判り易く、その意思を受け取ってるじゃないか。
なんだ。結局私が弱かっただけか。
私が子供だっただけか。途方も無く、我が儘で馬鹿な子供だっただけか。
判ってたんだ。全部。そんな事は、判り切っていた。判っていた癖に、判らない振りをしていただけじゃないか。馬鹿よりも性質が悪いじゃないか。
「……フラン、お前は強いね」
「強くなんか無いよ」
「どうして? 判り切っている事だから?」
「違うよ。お姉さまが咲夜に対して抱いていた感情より、私が魔理沙に抱いていた感情が、ドライだっただけだよ。私は、魔理沙が死ぬ事を割り切れただけ。
魔理沙は死んだ。もう居ない。
でも、咲夜はまた、ここに戻って来た。
それを願ったからって、咲夜の死を割り切れなかったからって、お姉さまが私に比べて弱い訳じゃ、無いよ。単純に両者を並べて、比較して、どっちが強くてどっちが弱いなんて、簡単に言えることじゃ、無いんだよ」
そう言ってフランドールは、私の震える身体をそっと抱く。背中に腕を回して、どこまでも優しい手つきで私の妹が私を抱きしめる。
――ああ。
フラン。フラン。フランドール。私の妹。
ずっと子供だと思い込んでいたのに、ずっと聞かん坊で甘えん坊だと思っていたのに、フラン、貴女はいつの間に、そんなに優しくなったの? そんなに成長したの? 私の方がずっと子供じゃないか。ずっと弱いじゃないか。
フラン。フランドール。
可愛い私の妹。自慢の妹。
貴女は強いよ。私なんかよりも、ずっとずっと、強いよ。
……こんな風に慰められてるのに、それでも咲夜を諦められない私なんかより、ずっと。
◆◆◆
「咲夜、新しい異変だよ」
「そうですか……幻想郷はいつまで経っても、賑やかですわねぇ」
ベッドから上半身を起こす咲夜が、小さく咳き込みながらポツリと呟く。
「咲夜、新しい異変だよ」
私はベッド脇の林檎を手に取って、その横に置いてあったナイフに手を伸ばしながら言う。すると咲夜が私の手の動きを制する。
「自分でやりますから」
そう言って、私の手から林檎を受け取ろうとする。
でも皺くちゃな手の動きは如何にも覚束なく、震える指先は林檎の皮を軽く滑って、結局林檎は毛布の上を転がった。あらあら、なんて諦めたような口調で呟くと、咲夜は取り落とした林檎を手繰り寄せる。
「咲夜、新しい異変だよ」
「新任の巫女が、上手く異変を解決できると良いのですけれどねぇ……霊夢よりも、ずっと弱いと風の噂で聞きましたから……」
私はドレスの端を握り締めている。爪が刺さって、穴が開く位に、強く。
「――咲夜! 新しい異変だよ!」
壊れたレコードみたいに、何度も何度も、馬鹿みたいに何度も何度も、同じことを言う私に、咲夜は困った様な微笑みを向けて来る。
……もう歩く事も難しくなって、一か月になる。
空咳も止まらない。固い物も食べられなくなった。館の仕事も妖精メイドや美鈴に引き継ぎが終わってる。走るなんてずっと前から無理。飛ぶなんてもっての外。ナイフ投げの技能も、時を止める集中力も皆無。
そんな咲夜に私は、異変を解決しに行けと我が儘を言っているのだ。
「……お嬢様」
「咲夜ッ! 新しい異変だよッ!」
申し訳なさそうに目線を逸らす咲夜の顔が、曇って見えなくなって行く。曖昧に境界を失って、熱くなった私の目頭から気付けば涙が零れて来る。
咲夜は、強い。この私を死ぬ一歩手前まで追い詰めた十六夜咲夜は、新任の巫女なんか足元にも及ばない位に強いじゃないか。なのに、どうして異変を解決しないんだ。どうして行動さえも起こそうとしないんだ。癇癪持ちのガキが並べる駄々。
もう一度、強い咲夜を見たかった。
下らない妖怪なんか一蹴してしまう咲夜を見たかった。
もう一度。もう一度。初めて会った時のあの強さを、見せて欲しかった。
それは咲夜が死んでしまう、二週間前の記憶だった。
◆◆◆
狂ってるのは、誰だろうか。
それまではフランドールだった。五百年近くも、フランドールは狂い続けたままに存在していて、けれどあの異変、私が起こした紅霧異変以降、フランドールは少しずつ少しずつ変化していって、今は私よりずっとまとも。
狂ってるのは、誰だろうか。
あの薬師は。あの月の民は。何億年を生きた、あの八意永琳は狂ってる。館の皆。美鈴が、パチェが、小悪魔が、フランドールが、妖精メイドさえもが、あの永琳とかいう女は狂ってると声高に主張した。咲夜を蘇らせるなんて狂ってる、と。
私もそう思う。
――嘘。
私だけは、それを信じていた。私だけは、妄信していた。だから私の持つ八意永琳への意見は、都合の良い後付けの結果論。
狂ってるのは、誰だろうか。
多分、一番狂ってるのは私。咲夜を生き返らせてと神様にお願いして、八意永琳に縋って、そして二十年経ってやって来た咲夜に似ている女を、それでも咲夜だと思い込みたい私。幾ら説得されても、幾ら呆れられても、あの咲夜に、咲夜の面影を見出そうとしてしまう、私。咲夜を諦め切れない、私。
フランドールに抱きしめられて、ちょっとだけ泣いて、私は咲夜の墓の前に来ていた。紅い月はしかし、柔らかく白い光で彼女の墓石を照らしている。手向けた花は、少しだけ枯れかけた花弁を風に揺らしていた。
「――なぁ、咲夜」
墓石が答える訳も無いと判りつつ、私は墓碑名に向けて呼び掛ける。
「咲夜……私は、何をしてるんだろうな」
墓石を見下ろす私は、在りし日の咲夜の姿を思い浮かべながら問う。視線の先には石。その下に埋められた骨壺。死は穢れだから、それを遠ざける為に、見えない場所に安置された咲夜の成れの果て。
「――お前は、今の私を見て、嗤うかな? 『あら、高貴な吸血鬼はどちらへ姿を隠されたので?』なんて、私の面子を潰さない程度のあの表情で、さ」
狂ってるのは、私。平静を装って、理知がある様に振る舞ってその実、何もかもから目を背けている私。かつてフランドールに用意した地下室も、今は私にこそ相応しい。
「結局どうしても、私はお前を諦めきれないんだ……」
だから、今の咲夜を咲夜として扱おうとしてしまうのだ。
だから、今の咲夜との齟齬を、どうしても許せないのだ。
今の咲夜、なんて……咲夜はもう居ないと知っている癖に。咲夜はもう死んだと知っている癖に。今の咲夜は、最初から咲夜では無いと判ってる癖に。
別人に故人を重ねる。
違う存在で当然なのに、違う違うと駄々を捏ねる。
とんでもなく我が儘で、馬鹿げていて、何よりも狂ってる。
「こうしてる間にも。こうやってお前の墓を参ってる今でも。私は、お前との再会を待ち望みにしてる。お前が、墓の下から蘇る事を待望してる……可笑しいだろ? 馬鹿だと嗤ってくれ。馬鹿にしても良いから、また私の前に来てよ……咲夜……」
墓石は答えない。死者は何も語らない。
咲夜は死んだ。もう居ない。
判ってる。判り切ってる。なのに、それを受け止める事が、どうしてもできない……。
「……?」
誰かの視線を感じて、私は振り返る。
すると振り返ったその先には、咲夜が居た。
――いや、違う。それは咲夜じゃない。
咲夜と良く似た別人。咲夜の遺伝子を使って生み出された、咲夜のクローン。大きく期間を経て生まれた、十六夜咲夜の一卵性双生児。欠点だらけで瀟洒とは程遠い、咲夜の紛い物。
「……何しに来た?」
舌打ちを漏らして、私はソイツに言う。思いつめたような表情を浮かべるソイツが、私の言葉を聞いて少々身を竦ませた。あぁ、やっぱりコイツは咲夜じゃない。美鈴の言う通りだ。頭がどうにかなりそうになる。
違うか。
もう、どうにかなっているんだったな。私は。
自嘲気味に鼻を鳴らすと、私は咲夜の墓前に向き直った。
「パチェが呼んでいたぞ。図書館に来い、だそうだ。さっさと行ってやれ」
「……行きません」
「あ?」
予期せぬ拒絶の言葉には、困惑よりも先に怒りを覚えた。
不愉快。
不愉快だ。
一喝してやろうと再度振り返る。そうして目に入ったのは、月光を受けて冷たく光るナイフの切っ先だった。
「……何の真似だ?」
「見て……判りませんか?」
私に向けて手を伸ばし、ナイフを突きつける咲夜の指先が微かに震えていた。
「知らんな。食事でも欲しいのか? 肉でも食いたいのか? 知らないなら教えてやるが、ナイフは食卓のナプキンの上に並べて置く物だぞ」
せせら笑う。まともに侵入者一匹とも対峙できない様な腑抜けの咲夜モドキ。そんな存在がこの私に反逆を企てた所で、まともに相手をしてやる方が馬鹿馬鹿しい。
「――私は、十六夜咲夜を辞めます」
「ふぅん。おめでとう」
「貴女が私を縛っている。私を十六夜咲夜に押し込めようとしている。貴女が居る限り、私は十六夜咲夜以外の何にも成れない――」
――だから、貴女を殺して、私は私になる。
断言。しかしその言葉の端は、指先に呼応するように震えていた。やれやれ、と。私は肩を竦める。何を思い詰めたのやら。美鈴と仕事を代わって赤い月を眺めながら、一体何を決心したのやら。
十六夜咲夜は死んだ。もう居ない。
目の前に立つ咲夜さえも、それを態度と殺意で表明する。短絡的な言葉で、震えるナイフの切っ先で、私を、まだ咲夜を諦められない私を説き伏せようとする。
やはり、新しい名前を与えてやるべきなのか。
でも、それをする気がどうしても起きない。
目の前の咲夜に新しい名前を与える事。十六夜咲夜と別の存在だと認める事。それが私には、咲夜を殺すのと同義の重みを感じさせる。現実逃避への渇望。突き付けられた問題から目を背ける反射神経。
だから私は、駄目だと判ってるのに。それじゃいけないと判ってるのに。首を横に振る。
「無理だよ。お前には。お前なんかじゃ、私に傷を付ける事すらでき――」
私の言葉尻を掻き消す様に、震える指先に縫い止められていたナイフが横薙ぎに跳ねた。
痛み。驚き。私の右頬が、一文字にカッと燃え上がる。手を添える。ヌルリとした感触。
「……私は、本気です」
ギリ、と歯を食いしばったかと思うと、咲夜は私を睨み付ける。私は睨み付けられている。ハッとする。既視感。遠い過去から郷愁の呼び声。懐かしい感覚。研ぎ澄まされた殺意に射竦められる、この感覚は……。
私は咲夜の目を見る。私を睨むその目を観察する。
虹彩の薄い、青い目。
獣の目。それも単なる餓えた犬っころではなく、数多の命を刈り取り、そして自らの血肉へと組み込んできた獣。狩る側の生命だけが許される瞳の輝き。
――あぁ。
この視線は。この目の輝きは――。
「さ、くや……」
そうだ。そうだ。そうだそうだそうだそうだそうだ。間違いない。間違える筈も無い。この目は。この攻撃的な視線は。私という存在を穿たんばかりに据えられるこの視線は、間違えようも無く、咲夜だ。かつてこの私を、死ぬ一歩手前まで追い詰めたたった一人のヴァンパイア・ハンターの目じゃないか。
「私をっ、咲夜と呼ぶな!」
再度ナイフの一閃。呆けたまま頬に当てていた私の右手が、その攻撃をまともに喰らう。ガツ、と骨を叩く銀のナイフ。肉を裂き、血管を抉り、私の手から血が迸る。
殺意。殺意。明確で冷たく練り上げられた攻撃の意志。これもか。これにも既視感を覚える。懐かしさに頬が緩む。あぁ。あぁ。咲夜だ。咲夜だ。それまで出来損ないの紛い物でしか無かった目の前の咲夜モドキは今、在りし日の強いヴァンパイア・ハンターとして戻って来た。齟齬なんて無い。何もかも、初めて会った時のまま。
この再来。この再臨。私はやっと本当の意味で、咲夜と再会を果たした!
「は、ははっ、あははははははははははははは!」
灼熱の痛みを抱きながら。右手から夥しく出血しながら。それでも私は笑った。腹の底から笑った。嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
「違うな! お前は間違ってるな! やっぱりお前は咲夜だ! 紛れも無く十六夜咲夜だ! あは、あはははは! お帰り! お帰りなさい咲夜! 十六夜咲夜! かつて私を追い詰めたヴァンパイア・ハンター! やっと戻って来たな! よく私の前に戻って来た!」
「黙れえええええッ!」
咆哮。そして咲夜の姿が掻き消える。ミス・ディレクション。反則的な能力。人の身には過ぎた、時間を止めるという特異能力。咄嗟に振り返る。果たして私の勘は当たり、背後に回っていた咲夜が振り下ろすナイフは、私の顔を縦に切り裂く。
痛い。あぁ、痛い、痛い。この痛み。この感覚。疑いの余地なく、咲夜の攻撃だ。笑ってる。私は笑ってる。笑い声が止まらない。顔を裂かれた私は、それでも咲夜を見据えて笑う。笑う。笑う。笑う。
「あはははははは! ははっ! あっはははははははは! 待っていたぞ! 待っていた! 私はお前を待ち続けていた! この瞬間を! 狂ってると嗤ってくれ! 諦めが悪いと思ってくれ! 間違ってると否定しろ! 構う物か! お前は咲夜だ! 今のお前は紛れも無く咲夜だ! 待ち焦がれた思い人! 残骸だろうが幻影だろうが知った事か!
さぁ、踊ろう!
そしてもう一度! 私を! 殺してみせろ!」
地面を蹴る。
羽を広げ、飛翔。
間髪入れずに羽ばたき、最高速度で体当たり。
手ごたえは無い。また時を止めたか。
それで良い。
激突した地面が抉れる。土埃の臭い。
体勢を立て直す私の背後から、ナイフが飛んできた。突き刺さり、肉を焼く冷たい銀の感触で、私はそれを知る。
背中からナイフの柄を生やしたまま、私はナイフが飛んできた方へ向けて走る。土埃がうねり、視界が晴れる。そこに咲夜の姿は無い。
どこだ。
上か。
見上げると、ナイフを両手で構えたまま咲夜が墜ちてくる。
甘い。
広げた翼の骨で、咲夜の身体を横薙ぎに叩く。
「う、ぐッ……!」
確かな手応え。
華奢な身体が夜空を滑る。
しかし終点を待たず、その体はパッと消える。
今度は後ろだな。
芸が無い。
果たして、背後から地面を蹴る音。
剣山と化した私の背中にもう一本ナイフが追加される前に、姿を霧に変える。
細胞の分解。咲夜が微かに息を飲む声。
中空で身体を再構成させる。
攻撃のモーションを完了させた体勢。
既に右手を振り被っている。
狙うは無防備な背中。反応する隙など与えまい。
袈裟切りの要領で、爪が咲夜の身体を切り裂く。
「あははっ! 手応えあり!」
暖かい血が右手を濡らした。
時を止める事も無く、咲夜が片膝を着く。
「どうした咲夜! もう終わりか! 馬鹿を言うな! お前は、まだまだやれるだろうっ!?」
付着した血液をベロリと舐める。暖かく新鮮で、芳しい咲夜の血液。
この味も咲夜。強者の血は例外なく美酒を凌ぐ。
だから咲夜は、まだ諦めないだろう。私は知っている。この人間の強さを。
「……勝ち誇るのは、まだまだ早いですわ――お嬢様っ!」
咲夜が地面を蹴る。かと思えば姿が掻き消える。瞬間移動。
気付けば彼女の身体は私の目の前にあった。
そこから、無理な体勢からの容赦ないムーン・サルト。
虚を突かれた。
咲夜の爪先が、私の顎を正確に撃ち抜く。
仰け反る私の身体は無防備だ。
まずい。この体勢は。この隙は――。
「――傷魂『ソウルスカルプチュア』」
圧倒的な斬撃の波が、私の身体を切り刻む。
銀のナイフが私の肉を裂き、細胞を撹拌する。
穴だらけになったドレスは、私自身の血で真っ赤に染められ濡れる。
「ぐ……が……っ!」
銀のナイフで裂かれた傷は治りが遅い。
斬撃の圧に押され、私はフラフラと後退りを余儀なくされる。
そんな好機を、咲夜が見逃す筈も無い。
「――幻符『殺人ドール』」
その宣言は、どこか遠くから聞こえた気がした。
無数のナイフが空中に展開される音。その気配。
「……さようなら。お嬢様」
冷たい咲夜の声。
――はは。ははは。馬鹿が! まだ終わらせて堪る物か!
仰け反ったままの足を無理に踏ん張り、軋んで悲鳴をあげる身体を叱咤する。
真っ赤に染まった視界で、ばら撒かれたナイフ群の切っ先がこちらを向くのを見た。
咄嗟の判断で、私はスペルカードを取り出した。
「――紅符『不夜城レッド』」
私の身体から迸る衝撃波が、夜を紅く照らし上げる。
私目掛けて飛んで来たナイフを、悉く蹴散らす。
半ば勝敗は決したと思い込んでいた咲夜が、呆然と私を見ている。
「……取り戻して来てるじゃないか。お前は、お前を」
裂け目だらけになった血染めの顔を拭い、私は平然と立ってみせる。
「お前の細胞が。お前の遺伝子が。自分は十六夜咲夜だと喚いているのだろう? 咲夜から脱却しようとすればするほどに、お前は咲夜に戻って行くのだろう? やっと私を、『お嬢様』と言ったな? それが証拠だ。皮肉な物だな」
「……ふざけた事を、のたまう物じゃありませんわ」
内腿の隠しホルスターからナイフを取り出した咲夜が、不敵に笑う。
「狂った吸血鬼。生命遊戯に耽る子供。お嬢様のせいで私は、まだ生まれてない。私という存在は、まだ十六夜咲夜に囚われてる。これは私が生まれるための、通過儀礼ですわ」
「――なら、私を殺してみせろ!」
スペルカードを繰り、グングニルを召喚する。
紅色に染まった神槍。
既にして私の配下と化した、オーディンの聖遺物。
「生まれる為に! 脱却する為に! 生きる為に! 理由は何でも良い! お題目はどうでも構わん! ただ、あの日の様に! あの惚れ惚れする邂逅の時の様に! 私の心臓に、銀のナイフを突き立てろ! 殺せ殺せ殺せ私を殺せ! 生業だろう!? ヴァンパイア・ハンター!」
槍を構える。狂った私の最後の願いを込めて。この再開の甘美を、魂に刻み込むように。
強い咲夜を。彼女の冷たく鋭い殺意を。冗談が与えたこの奇跡を。私は私に刻み込む。
……咲夜。
お前は、私を、嗤うかな?
これほどまでに、お前に恋い焦がれた、私を。
「――神槍『スピア・ザ・グングニル』」
私の手を離れた槍は、音速を超えて咲夜目掛けて飛ぶ。
避ける事叶わず。受ける事など尚叶わず。
人間の動体視力など嘲笑う、神速の一撃。彼女は、その一撃をまともに喰らう。
水平に飛んでいく串刺しの身体。瞬きの後に咲夜の身体は虫ピンに躯を貫かれた哀れな昆虫標本のように、墓標に突き立った。老衰で死んだ、オリジナルの咲夜の墓標に。
◆◆◆
永遠なんて無い。
この世界に、永遠なんて存在しない。
五百有余年を生きるこの身体は、永遠には程遠い。
何億年を生きたあの狂人薬師さえ、永遠には及ばない。
時を止める事が出来ても。時を手足の様に操る事が出来ても、その能力さえ永遠には届かない。
死は穢れだ。穢れでありながらも、不変だ。不変で、そして平等な概念だ。
草は死ぬ。木も死ぬ。魚も、蛙も、蜥蜴も、鳥も、兎も、人間も死ぬ。森も死ぬ。群れも死ぬ。社会も死ぬ。いつかは星も、世界も、宇宙でさえも死に絶える。
永遠なんてのは、取るに足らない机上の空論だ。
終わりが来る。死という穢れの概念として、何もかもが終焉の時を迎える。
じゃあ、何もかもが無駄なのか?
いつしか消えてしまう事を運命付けられているのならば、万物は無意味なのか?
違う。
私は胸を張って、声を大にして、無駄じゃない無意味じゃないと世界に宣言してやる。
重要なのは、最期の時にどうあるか、だ。
霧雨魔理沙が、人としての死を選択した様に。
十六夜咲夜が、人としての生を選択した様に。
私もまた、最期の時をどう迎えるかの選択を迫られる。
吸血鬼とは、機関だ。
血液という媒介さえあれば、半永久的に回転を続ける歯車だ。
ならば我々が死ぬ為には、人間の絶滅を待たなければならないのか?
緩やかに。真綿で縊り殺されるのを待つしかないのか?
その遠い終末論は、咲夜を失った私にとっては、緩慢ながら絶対的な絶望だった。
棺に納められ、敷き詰められた花の中に眠る咲夜を見て、私は私の終わりを考えざるを得なかった。
命が終わる瞬間。歯車の回転を止める瞬間。その思い。その感情。そこにある筈の満足感。それの最上を求める事こそ、私の終焉に相応しい、と。遅すぎる達観が、私の何かを僅かに狂わせた。
気付いたのです。私は、馬鹿だから、今更、気付いたのです。私もいつか死ぬと。私の終焉も、いつか訪れると。その終焉に、緩慢な平和で窒息するなんて、まっぴらだと。
だから、神に願った。悪魔の側である私が、形振り構わず神に縋った。
だから、薬師を頼った。狂っているとか、ありえないとか、どうでも良かった。
どうか。どうか。十六夜咲夜を蘇らせてください。
私の愛した従者を。私の愛した人間を。たった一人の、大切な存在を。
彼女になら。私が愛したあの人間になら。私は、私の終焉を任せられると。他に誰も居ないのだと。私は、私の最上の最期を、みすみす逃してしまったのだと。
どうか。どうか。お願いです。お願いします。
私は、咲夜に殺されて死にたかったんです、と――。
◆◆◆
「――あぁ、そうだ」
それで、良い。
グングニルに穿たれて絶命した筈の咲夜の姿が掻き消えて、私は小さく頷いた。
「――奇術『ミスディレクション』」
咲夜の声。背後から冷たく。
判っていた。彼女が。あの咲夜が、おめおめ私の槍に貫かれる筈が無いと。
「……今度こそ、さようなら。お嬢様」
どうしてだろう。
この咲夜は、私の事を憎んでいる筈なのに。
自分の為に、自分が咲夜を脱却する為に、私を殺そうとしている筈なのに。
……その声が、涙に濡れているのは。
「あぁ、さようならだ――ありがとう」
四肢の力を抜く。目を閉じる。血染めの頬を、涙が伝う。
歓喜なのか。恐怖なのか。そんな事は判らない。
それでも。
やがて訪れるであろう最期に、私の胸中は満たされていた。
「……『咲夜の世界』」
あぁ……。
それは――私への手向けか?
ありがとう。ごめんな。
見つかると良いな。お前の、新しい人生が。
次の瞬間。
百分の一秒の間も置かず。
刹那の猶予も無く。
――私の心臓を、銀のナイフが貫いていた。
「ぐ……ッ!」
致命傷には、不思議と煉獄染みた痛みも苦しみも無かった。
ただ、あぁ、終わったんだ、と。そんな感傷が浮かんで来ただけだった。
私の身体が膝から崩れ落ちる。草の匂い。地面の匂い。自分の血の匂い。迫ってくる終焉の冷たい香り。
これが私の、私という現象の、終幕。
「お嬢様……」
咲夜の声。息を荒げて、悲しみを湛えたその声には、勝ち取った未来への興奮なんて微塵も無かった。
「……泣くな……馬鹿者……」
目的は達しただろう?
悲願は叶っただろう?
新しい人生が、お前を待っているのだろう?
だから、そんな悲しげな声で、私を呼ぶな。
「……咲夜。幻想郷を出ろ。私を殺したお前には、この箱庭で居場所なんて無い……言えた義理じゃないが、幸せになれ……それが、義務だ……違うか……?」
返事は無い。嗚咽としゃくり上げる声が、言葉を飲み込んでしまったのか。
まったく。
世話の焼ける、抜けたメイドだ。
「……私、どうして……っく……あんなに憎かったのに……っく……あんなに辛い日々だったのに……うぅ……こんな……なんで……涙、止まらな……」
「……なぁ、最期に頼みが、あるん、だ」
「お嬢、様……?」
「……私を……そこの墓前に、運んでくれ……頼む……」
「……えぇ……失礼、しま……す」
咲夜の腕が、私の身体を持ち上げる。
あぁ、運ばれる感覚、懐かしいな。
パチェの図書館のソファで眠ってしまった時、よくこうやって、運んで貰ってたな。
眠る時間だ。然るべき場所で。もう眠る時間が来た。
暖かい。咲夜の腕が、私を抱きかかえる身体が、冷たくなっていく私の身体には、こんなにも暖かい。幸せな夢現。もう目覚めは訪れないと知っていても、私の心に恐怖は無い。満足だ。ただ、満足だ。悪くない。最高の最期。生命遊戯の罰としては、少し優しすぎる位じゃないかな。
やがて私の身体が、優しげな手つきで咲夜の墓前に供えられる。薄れて行く意識。本当に、眠る直前の様。在りし日の穏やかな時間の再来。
死とは穢れだ。
でもそれは、生きている第三者の傲慢な決めつけに過ぎない。
だって、当人にとって、死は、こんなにも、穏やかなのだから。
「――お休みなさい。お嬢様」
あぁ、ありがとう。ありがとう。他に思い浮かぶ言葉が無い。
美鈴。今までありがとう。結局お前の助言に従えなかったな。
パチェ。今までありがとう。良く今まで、こんな私と友達でいてくれた。
フラン。今までありがとう。お前には沢山酷い仕打ちを強いたな。それでも、今のお前なら紅魔館で上手くやっていけるさ。
そして、咲夜。
最後まで、結局新しい名前をやれなかったな。
最期まで、お前を咲夜と呼んでしまったな。
我が儘と思ってくれ。馬鹿だと嗤ってくれ。狂ってると罵ってくれ。
でも、出来れば最後まで、そのバカげた我が儘に、付き合ってくれ。
……お休み。バイバイ……咲夜。
Fin
控えめな二度のノックの後に、咲夜の声がした。
書面から目を上げて、「入れ」と私は命ずる。開いたドアの隙間から身を滑り込ませた咲夜が、私の姿を認めて深々と頭を下げる。
「……えと、本日の葉は、アールグレイ。ミルクは付けませんでした」
「そう」
再び書面に目を落とした私は、ぶっきらぼうに返す。きっと機嫌が悪い様に聞こえただろう。
構いやしない。
事実私はここ最近ずっと、機嫌が良くないのだから。
「その……失礼、致します」
そんな私の不機嫌を悟ったからか、咲夜の声は未だ瀟洒の仮面を被りつつも、少しばかり震えていた。
――堪らなく、イライラする。
私は溜め息を吐く。乱暴に書を閉じてしまう。大好きな本だったのに、今はちっとも面白くなかった。
咲夜が私の机の上に、ティーセットを展開する。ソーサーを置き、カップを置き、ポットをその横に置く。四秒の遅延。トレイをどこに置くべきかと逡巡し、そこで更に十秒のタイム・ロス。ミルクカップの姿は無い。ポットの中に血を落としてから来たのか? 呆れる。温まった血液は、時間を置けば置く程に嫌な生臭さが増すというのに。
椅子の肘置きに頬杖を突く。焦燥の臭い立つ咲夜の顔を睨み付ける。私の視線に気づかない振りには、しかし戦慄と思しき唇の震えが混じる。沈黙は粘っこく、夜の帳は私を嘲笑っている。
それでも咲夜は紅茶を注ぎ終える。作業を終えて立ち尽くす咲夜を一瞥し、カップに手を伸ばす。アールグレイの柔らかな香りと、少々の血の鉄臭さ。
一口、含む。
美味しい……否、『不味くは無い』という表現の方が正しい。
だから私はカップを手にしたまま腕を水平に伸ばし、そのまま指を離してしまう。緋色の液体と白磁器の自由落下。当然カップは粉々に砕け、カーペットには鈍った色の染みが広がる。咲夜が身を竦ませる。
「……不味いわ」
私は咲夜に淡々と告げる。淡々とした声音に聞こえる様に。胸中に渦巻く激情を悟られない様に。「……申し訳ありません」と蚊の鳴く様な声で呟き、おろおろと狼狽した後に彼女は破片となったカップを片付けようとする。
「もういい。下がりなさい」
聞えよがしな舌打ちの後に、私は歩み寄って来た咲夜に告げる。躊躇いがちな視線が、紅茶の染みと私の間を何度も何度も往復する。
「……申し訳ございません。レミリア様」
また、謝罪だ。イラつきが拳を握り締めさせる。
一体何度、私に謝れば気が済むのか?
私は一体何度、咲夜に謝らせれば気が済むのか?
――こんな事をしたかった訳じゃ無い。
またぞろ私の意識に、そんな思いが去来する。
こんな咲夜を見たかった訳じゃない。こんな関係を築きたかった訳じゃ無い。もっと明るい未来が、私を待っていた筈じゃなかったのか……。
「――咲夜は私を、『レミリア様』なんて呼ばない」
椅子から立ち上がり、窓へと歩み寄る。
咲夜を見たくなかった。今の咲夜を。私に詰られ、身を竦ませる咲夜なんて、視界の端にさえも入れたくはなかった。
「――失礼、します」
乾き切った咲夜の小さな声が、室内の空虚な沈黙に波紋を投じ、彼女が部屋を後にする物音が聞こえて来た。七秒のタイム・ロス。長きに渡って染み付いていた私の時間感覚は、執拗に違和感ばかりを喚き立てる。
今宵の月は、いつぞやの夜みたいに真紅に染まっている。なのに、その禍々しい色彩は毛ほども私の心を高揚させはしない。
残るのは、後味の悪さばかりだ。
一人室内に残された私は、再度大きく溜め息を吐いて視線を下へと移動させる。霧の湖を一望できる小高い丘。塀に作らせた勝手口から歩いてすぐの場所。
そこには一つの墓標がある。
手向けた真紅の花が、夜風に揺れている。
その墓に眠るのは、私の従者。
完璧なまでに瀟洒な使用人。
時を操る特異な能力を持ち、人の身ながら唯一この私を傷つけ、殺す一歩手前まで辿り着いた名も無き少女のヴァンパイア・ハンター。その成れの果て。
……十六夜咲夜。
二十年も前に死んだ私の、私だけのメイドは、私の視線の先にある墓石の下で、永久の暇に身を委ねている。
◆◆◆
初めから判り切った事の筈だった。
私はそれを覚悟していた筈だった。
けれどそんな覚悟は、現実の前では紙切れ程の耐久力も無く、微塵も私の心を救いはしなかった。
人間は死ぬ。
そんな事は当たり前の事だ。死なぬ人間は、最早人間では無い。私は死なない人間を三人ほど知ってはいるが、やはり彼女たちを人間と呼ぶには些かの忌避感がある。
そんな当たり前のことを理解した上で、承知済みで、私はその少女を従者として迎えた筈だったのだ。従者。使用人。メイド。それらの呼称は最初から、私と少女の関係性を確定させていた。
私に従う者。私に使用される者。私の住む空間を作る者。
使い捨てのつもりで拾ったその少女を失う事に、どうして私の心は荒れ狂わなければならなかったのだろう。
考えても仕方が無い。何を後悔しても遅い。どうあれ私は、十六夜咲夜を失いたくないと強く願ったのだ。神様。神様。どうかもう一度、咲夜を生き返らせてください。悪魔の側である筈の私が、そんな矛盾した祈りを抱いてしまう程に、強く。
そんな私の祈りが通じたとしたなら、笑えない冗談だ。
しかしそんな冗談は、現実に存在する選択肢として私の眼前に現れた。
何億年という冗談みたいな年月を生きたそれは、まさしく冗談みたいな青と赤の服を纏って、冗談みたいな優しい口調で『この娘を生き返らせる事が出来るといったら、信じる?』と聞いて来たのだ。そしてそんな冗談に私は、一も二も無く頷いた。
八意永琳と名乗っていたその冗談は、老衰で死んだ咲夜の毛髪を数本採取したかと思うと、『二十年待って』とだけ残して、とっとと私の館から姿を消した。
奇跡の成就には二十年もの時間が必要だったらしい。
小難しい理屈は、私には良く判らない。パチェは「クローン技術でしょうね」と断言していたが、その技術に関する知識を私が完璧に理解する事は出来なかった。理解出来る事は、たった一つで構わなかった。
咲夜が、またこの館にやって来てくれる。
また、咲夜と一緒の時間を過ごす事が出来る。
それだけを理解していれば、奇跡の解明なんてどうでも良い事だった。
だから私は、待った。ひたすらに待った。人形の様に時間を潰し、呼吸と食事と睡眠を繰り返す機械の様に日々を浪費し、枕元の靴下にプレゼントが突っ込まれる子供の様に待ちわびた。
そうして二十年を死んだ様に過ごした私の館の戸を、奇跡がノックした。
逸る気持ちを押さえて扉を開けると、そこには咲夜が立っていた。
咲夜。咲夜。十六夜咲夜。私の従者。私の使用人。私だけのメイド。再会は私の目頭を熱し、ボロボロと涙を流させた。
泣きじゃくりながら、それでも微笑もうと努力した。
「……おかえり、咲夜」
そうしてやっとの思いで紡いだその言葉に、しかし眼前の咲夜は首を傾げた。
「初めまして、レミリア様。今日よりこのお館で働く事になりました、十六夜咲夜です」
「……え?」
それが最初の違和感だった。
戻って来た咲夜は、どこまでも咲夜では無かった。
私の好きな紅茶の銘柄を知らなかった。勝手知ったる筈の紅魔館で迷子になった。料理は下手だった。掃除は雑だった。よく食器を落として割った。パチェの喘息薬のある場所を知らなかった。失敗すれば怯えた。私の事を『レミリア様』と呼んで憚らなかった。妖精メイドには敬語を使った。ナイフも携帯しなかった。美鈴の昼寝を黙認した。侵入者の知らせを聞いて、震えながら物陰に隠れた。
でも、声は咲夜だった。顔も咲夜だった。髪型も咲夜だった。身長も咲夜だし、服装も咲夜だった。物を掴む手の形も咲夜で、後ろ姿も咲夜でしか無くて、時を止める能力も全くもって咲夜で、名前を呼ばれて振り返る時の所作も咲夜以外の何者でも無かった。
何だ、これは。
誰だ、コイツは。
咲夜はどこに居る。私の咲夜は。完璧で瀟洒な使用人の名を恣にした、あの咲夜は。
無論私は、八意永琳を問い詰めた。
「別に構いやしないでしょう?」
胸ぐらを掴まれたまま、私の爪を眼前に見据えたまま、冗談は奇跡の仮面をかなぐり捨てた。
「人間は死ぬなんて、判り切った事。過ぎた時間は誰にも戻せない。私は貴女の願い通りに、十六夜咲夜を蘇らせたわ。彼女の細胞から再生した無垢な肉体が、十六夜咲夜となるべく教育を施した。彼女が成長するまで繰り返し繰り返し、空っぽな肉体に十六夜咲夜をインストールし続けた。受肉した十六夜咲夜をもう一度、目の当たりにしたのよ? 多少の誤差位、目を瞑りなさいな」
うるさいうるさい。意味の判らない御託を並べるな。契約を全うしろ。咲夜はどこだ咲夜を返せ。返せ返せ返せ。
「――それは私じゃなくて、理に言いなさいな」
そう言い放った彼女の表情には愉悦が満ちていて、そこに至って漸く私は、目の前のこの女が慈悲に満ちた救済者なんかとは程遠い、思いつきで生命遊戯の駒を繰る狂人でしかなかったと気付かされた。
「お帰りは、あちら」
落胆した私は握った拳を振り下ろすべき場所も判らず、肩を落として自分の屋敷へと引き返す事しかできなかった。
咲夜でしかない、なのに咲夜とは程遠い、あの何かが居る館へと。
◆◆◆
「また、苛めたんですか?」
ノックもせず、溜め息交じりに私の部屋に入って来たのは美鈴だった。
「……門番はどうした」
「あの子が代わってくれました。少し夜風に当たりたいって言って」
肩を竦めた美鈴が、どっこいしょ、と私の机の上に腰を下ろす。従者にあるべき傍若無人さ。しかし私はそれを咎めない。咲夜が死んで以降、何か歯車が少しずつ狂っている。美鈴の態度もその一つ。
「――あーあ、まったく、可哀想な子ですよね」
「咲夜の事か」
「咲夜さんは死にました。もう居ません」
真剣な口調で言った後に、美鈴は鼻を鳴らす。私は彼女から目を逸らし、再度咲夜の墓へと目線を向ける。
「あの子に新しい名前を上げたらどうです? お嬢様も判ってるんでしょ? あの子は十六夜咲夜じゃない。瓜二つなだけの他人。だったら別人として扱うべきですよ。じゃないと、頭がどうにかなりそうになる」
私はその言葉を無視した。深い理由があった訳じゃ無くて、ただ反論を思い付かなかっただけだ。反復して考える必要も無く、その言葉には反論の余地も無い。
「因みに私が可哀想だって言ったのはレミリア様。貴方ですよ」
無視。
「咲夜さんが死んで、誰もがそれを受け入れようとして、引き摺りながらも何とか悲しみを消化して、前を向こうとして……貴方だけができない。しようとしない」
無視。
「結局貴方は、二十年も経った今もまだ、咲夜さんの死を受け入れられてない。あの狂人に縋った。冗談みたいな希望に縋った。そんなもの、ありはしないって最初から判ってたのに、咲夜さんの死を必死で無かった事にしようとしてる」
無視。無視。無視。
「可哀想なレミリア・スカーレット。幼いレミリア・スカーレット。それでも貴方は、あの子に縋ってる。あの子に咲夜さんの面影を見出そうとしてる。もう咲夜さんは思い出の中にしか居ないのに」
「黙れ!」
耳を塞いで、叫ぶ。命令というよりは、懇願。逃避。正論を突き付けられたら、受け入れるか逃げるか、その二つ以外に選択肢は無い。だから私は、あっさりと逃げる事を選ぶ。
「はい。黙りましょう。仰せの通りに」
美鈴の声は耳を塞ぐ両手を通して、小さく聞こえて来る。そしてそのまま、彼女の気配は扉を抜けてどこかへと遠くなっていく。
潔いというよりは、初めから諦めているのだ。
どうせ聞き入れやしない、と判っているのだ。
痛い位にぎゅうと両耳を抑える私の両手が、小刻みに震えていた。
◆◆◆
なんだ。
単なる人間の、ひ弱な少女じゃないか。
名も無き銀髪のヴァンパイア・ハンターとの邂逅を果たした私が抱いたのは、期待に見合わないという、そんなつまらない感想だった。
紅美鈴に門番を任せて何十年経ったか。初めて彼女を打破し、屋敷に侵入を許した賊のみすぼらしい姿に、私は溜め息を零した。
線の細い身体。身に纏った洋服は雑巾でも縫い合わせたような粗雑さ。髪の毛は脂に汚れ、骨ばった片手に握る銀のナイフばかりが浮いて見える。そこらの路地裏に蹲る浮浪欠食児童に、食事の用意もしてやらずにテーブルナイフだけを握らせたような光景は、憐れみさえ湧き上がらせる。
しかし、目だけは気に入った。
虹彩の薄い、青い目。襤褸を寄せ集めた様な外見の中にあって、その目はギラギラと私を睨み付けている。屑籠に放られた宝石を見つけたような気分になった。
獣の目。それも単なる餓えた犬っころではなく、数多の命を刈り取り、そして自らの血肉へと組み込んできた獣。狩る側の生命だけが許される瞳の輝き。遅ればせながらその瞳に気付いた私は、前述の感想を撤回する。
「おい、ガキんちょ。何しに来た?」
挑発の意を込めた私の問いに、少女は答えなかった。ただ右手を伸ばし、冷たく光るナイフの切っ先を私の心臓に据えた。
言葉は要らなかった。充分だった。それだけで充分だった。
愉悦。吸血鬼としての感情。絶対的な強者であると自覚するためには、敵対者の存在は不可欠だ。美鈴を門番として置いた理由は、敵対者の選別にあった。瞬きの間に殲滅できてしまう雑魚などでは満たされない。選別機関としての門番を据えて以降、初めて現れた好敵手。血湧き、肉躍る甘美な時への期待感。そんな感情に、自分の唇が歪むのが判った。
――さあ、踊ろう。
私がその言葉を言うか言わないかの内に、少女は私目掛けて走って来た。
◆◆◆
「レミィ、あの子がどこに居るか知らない?」
カップの破片を拾い上げていると、パチェが入って来た。図書館から出て来るなんて、珍しい事もあった物だ。
「あの子?」
「そう。あの咲夜みたいな子」
そう言ってすぐ、パチェは目を細めて私が抓む白磁器の破片を見てくる。聡い彼女の事だ。それだけで、状況の全てを把握したのだろう。そんな私の推量に違わず、パチェは来客用のソファに腰掛けつつ、大きな溜め息を吐く。
「あの子だって、そこそこ美味しい紅茶を淹れるじゃないの」
ほら見ろ。やっぱりパチェは、前置きを排した説教を私に垂れて来た。
「……そこそこじゃ、満足できないのよ」
「その紅茶に満足している私の舌が馬鹿だ、と、レミィはそう言いたいのね?」
仏頂面のまま、パチェが嫌味を言う。その言葉に何と返すべきか判別がつかず、私は黙ったままカップの破片拾いを再開した。美鈴の言葉を無視した時よりは、理由のある無視。けれど、傍目から見れば何も変わりはしないと私は判ってる。
結局、痛い所を突かれ続けているのだ。
結局、私は逃げているだけなのだ。美鈴が指摘した通り。
「どうして私が小悪魔に名前を与えないのか、レミィには話した事があったわね?」
唐突にパチェが居住まいを正して身体をこちらに向け、そんな事を言い出す。
そんな事があったか? 覚えてない。カップの破片を拾い終えた私はそれを屑籠に放った後に、首を横に振る。記憶に無い、の意。呆れた様な表情でパチェは天井を仰ぐ。
「小悪魔は、便宜上『小』なんて形容詞を付けちゃいるけれど、その実態は強力な悪鬼なのよ」
その言葉で漸く、私はふとそんな事を聞いた覚えもあったな、なんて今更の様に思い出す。
「召喚したのは大分前だけれど、正直あの子を召喚した時の私は、驕ってた。七十二柱の上位に名を連ねる悪魔でも、私ならば御し切れると思ってた。若かったんでしょうね。魔女としても、パチュリー・ノーレッジ個人としても。
召喚したあの子は、私の命令を無視した。契約を曲解して、私自身を取り込もうとして来た。戦うしか無かった。でも、あの子は強過ぎた。私の魔法で捻じ伏せるなんて不可能だった。だから私は、咄嗟に魔方陣に記したあの子の名前を消した。あの子に引き裂かれた腹から、夥しく流された自分の血でもって。
悪魔に限らず妖怪や魑魅魍魎にとって、自身の名前は持つだけで強大な能力を得られる。名を持つという事は、それだけで個としての信仰を得るのと同義だから。存在を認められている事になるから。魔方陣の名を消す事で、あの子は名前を持たない悪魔になった。名を持たずに顕現した悪鬼になった。必然、能力の大半は消失した。そうしてやっと、私はあの子の主になる事が出来たのよ」
パチェのそんな昔話を聞き流しながら私は既にして、彼女が言わんとしている事を理解していた。
「……咲夜に新しい名を与えろ、と言うのか。お前も」
「咲夜は死んだわ。もう居ない」
私をジッと三白眼で見据えながら、パチェが言う。その既視感に私は、思わず乾いた笑いを浮かべてしまう。
「あの咲夜みたいな子は、存在を認められてない。揺蕩う影法師。咲夜という幻影をトレースさせられているだけの半端な人間。肉体が咲夜でも、咲夜としての教育を受けていても、あの子と咲夜は紛れも無く別人よ。クローン技術と言うのは結局、一卵性の双子を時間差で生み出す事に過ぎない。そして私の小悪魔と違って、名を与えない事への必然性は皆無だわ……レミィ。今の貴女は、あの狂人の生命遊戯に付き合わされているに過ぎないのよ」
――判ってる。
そんな事は、もう判ってる。
判ってるだけで、私は何も行動を起こそうとしていない。
「……言いたい事は、それだけか?」
「そうね。付け加えて言うなら、あの子に後で図書館に来る様に伝えて頂戴。私の馬鹿舌は、あの子が淹れる紅茶を待ち望みにしているのだから」
肩を竦めるパチェの口調は、淡々としていた。そんな淡々とした言葉を残して、パチェは私の方を振り向こうともせずに、さっさと私の部屋を後にする。
一人残された私の部屋には、咲夜が淹れ、そして私がカーペットの染みにしてしまったアールグレイの香りが、微かに滞空していた。
◆◆◆
「私は一生死ぬ人間ですよ」
それは、いつかの満月の下で咲夜が私に言った言葉だった。
断言。ほんの少しの逡巡も無く、私の誘いを断った咲夜の言葉。
正直に言って、私は彼女の迷いの無さに酷く落胆した覚えがある。
「大丈夫。生きている間は一緒に居ますから」
私はきっと酷い顔をしていたのだろう。続けて咲夜が口にしたその言葉はしかし、私の落胆を完全に拭い去ってしまうには少々弱くもあった。
私は咲夜を信頼していた。私は咲夜を愛していた。私という存在の少なくない領域を、咲夜という人間の存在が占めていた。
だから私は落胆を覚えつつも、咲夜の願いを叶えない訳には行かなかった。
チャンスは幾らでもあった。私の我が儘に咲夜を付き合せる方法は単純明快で、私に必要だったのは咲夜の願いを無視する事への罪悪感の払拭と、ほんの少しの後先考えない短慮だけだった。
けれど最後まで私は、それをしなかった。
その事を誇りに思うべきなのかどうか。私は永遠の暇に付いた咲夜の寝顔を見て、自分で判らなくなってしまった。
後悔をした。
咲夜の事を信頼していたからこそ。咲夜という一個人を愛していたからこそ。良き主でなくてはならないと自分を律した過去を悔やんだ。喪失の痛みが自分の心をこんなにも引き裂くなど、私の幼い思考は思いも寄らなかったのだ。
老いて行く咲夜は、しかし美しかった。
桜と同じだ。終わりの時が存在するからこそ、命は儚く美しい。
――けれど。
誰が道端で赤茶に腐って行く花弁を、儚く美しいと形容する?
桜が美しい。花弁が散るからこそ美しい。
そう異口同音にのたまう輩の一人として、道端に堆積した花弁の存在をさえ内包して語る者はいない。
死体は穢れだ。燃やさねばならない。土に埋めねばならない。見えない所へと追いやってしまわねばならない。そんな当たり前の事を失念していた私もまた、躯と化した咲夜を美しいと思えなかった。
死は必要以上に美化されている。それは本質的に、死とは恐ろしく、そして穢れだという事実から目を背けるための虚飾に過ぎない。
咲夜の死体を見ながら、私もまた、死を美化していた事に気付かされたのだ。
◆◆◆
「あら、お姉さま」
自室を後にし、エントランス・ホールへと向かう廊下で私はフランドールを見つけた。どうやら今まで出かけていたらしい。外出用の外套を抱えていた彼女を見て、そんな事をボンヤリと思った。
「どこへ行っていたの?」
「お墓参り。魔理沙の」
「そう」
少しだけ寂しそうに微笑んだフランドールに、私は小さく微笑み返す。
咲夜が死んで以降狂っている歯車の一つに、生まれながらにして狂気を司り、狂気に魅せられていた私の妹の理知がある。元々が狂っていたと仮定するならば、むしろその狂いは吉兆と言って良いだろう。マイナス×マイナスは、プラス。狂い×狂いは、まとも。同じ理屈だ。
もう、この子を地下に閉じ込める必要は無い。
だから、既にフランドールには新しい部屋を用意している。
私の部屋の隣。以前は書斎として使っていた部屋は、新しい主人を迎えて整然とした装いを保持し続けている。部屋が持ち主の心理状態を表すならば、今のフランドールは私よりもずっと整然とした心理を持っている事になるだろう。カーペットに紅茶の染みを作ったばかりの私よりも。
「……ねぇ、フラン」
私はふと、霧雨魔理沙の墓参りに行って来たと口にした彼女に、一つの質問をする事を思いたった。
「なーに?」
「――もし魔理沙が死ぬ前に、不老不死になりたいと言ったなら、貴女は彼女の血を飲む?」
「飲むよ。躊躇いなく」
あっさりと、フランドールは頷いた。何を今更、と言わんばかりの表情。
当然か。私は自分がした質問の下らなさに、思わず笑ってしまう。親しい友人を、恋しい従者を、失いたくないと考えるのは当たり前の思考だ。
「でも」
自分を嘲ける様に小さく笑っていた私の耳に、フランドールの真剣な口調が差し込まれる。私は笑う事を止め、小首を傾げた。
「でも?」
「……魔理沙は言わなかったよ。不老不死になりたい、なんて」
その言葉が、その視線が、まるで私を批難している様に見えて私は俯く。自嘲染みた愉悦なんて掻き消されてしまった。
「で、でも、フラン。貴女は魔理沙が甦る方法があるなら、それを実行するでしょ?」
私は縋る様にフランドールに聞く。
うん、と言ってくれ。
躊躇いなく断言してくれ。
私の行動を、迂遠な方法で否定するのだけは、やめて……。
しかしフランドールは、私の妹は、迷う事無く首を横に振る。
「そんな方法、無いよ。あったとしても、絶対にそんな事、しない」
「……どうして?」
肩を落として、私は聞く。
きっと哀れだろう。今の私の姿は。
でも、フランドールはそんな事には気付いて居ないかの様に微笑む。それが本当に気付いてないのか、それとも私を慮っているのか、その判別は付かなかった。
「お別れは済ませたから。きちんと、さようならを言ったから。魔理沙は人間で、私は吸血鬼だから。魔理沙はそれを判ってて、その気になれば不老不死なんて簡単に手に入るって知ってて、それでも、一度も私に不老不死になりたい、なんて言わなかったから」
……あぁ。
そうだ。そうじゃないか。判り切った事じゃないか。私はフランドールよりも判り易く、その意思を受け取ってるじゃないか。
なんだ。結局私が弱かっただけか。
私が子供だっただけか。途方も無く、我が儘で馬鹿な子供だっただけか。
判ってたんだ。全部。そんな事は、判り切っていた。判っていた癖に、判らない振りをしていただけじゃないか。馬鹿よりも性質が悪いじゃないか。
「……フラン、お前は強いね」
「強くなんか無いよ」
「どうして? 判り切っている事だから?」
「違うよ。お姉さまが咲夜に対して抱いていた感情より、私が魔理沙に抱いていた感情が、ドライだっただけだよ。私は、魔理沙が死ぬ事を割り切れただけ。
魔理沙は死んだ。もう居ない。
でも、咲夜はまた、ここに戻って来た。
それを願ったからって、咲夜の死を割り切れなかったからって、お姉さまが私に比べて弱い訳じゃ、無いよ。単純に両者を並べて、比較して、どっちが強くてどっちが弱いなんて、簡単に言えることじゃ、無いんだよ」
そう言ってフランドールは、私の震える身体をそっと抱く。背中に腕を回して、どこまでも優しい手つきで私の妹が私を抱きしめる。
――ああ。
フラン。フラン。フランドール。私の妹。
ずっと子供だと思い込んでいたのに、ずっと聞かん坊で甘えん坊だと思っていたのに、フラン、貴女はいつの間に、そんなに優しくなったの? そんなに成長したの? 私の方がずっと子供じゃないか。ずっと弱いじゃないか。
フラン。フランドール。
可愛い私の妹。自慢の妹。
貴女は強いよ。私なんかよりも、ずっとずっと、強いよ。
……こんな風に慰められてるのに、それでも咲夜を諦められない私なんかより、ずっと。
◆◆◆
「咲夜、新しい異変だよ」
「そうですか……幻想郷はいつまで経っても、賑やかですわねぇ」
ベッドから上半身を起こす咲夜が、小さく咳き込みながらポツリと呟く。
「咲夜、新しい異変だよ」
私はベッド脇の林檎を手に取って、その横に置いてあったナイフに手を伸ばしながら言う。すると咲夜が私の手の動きを制する。
「自分でやりますから」
そう言って、私の手から林檎を受け取ろうとする。
でも皺くちゃな手の動きは如何にも覚束なく、震える指先は林檎の皮を軽く滑って、結局林檎は毛布の上を転がった。あらあら、なんて諦めたような口調で呟くと、咲夜は取り落とした林檎を手繰り寄せる。
「咲夜、新しい異変だよ」
「新任の巫女が、上手く異変を解決できると良いのですけれどねぇ……霊夢よりも、ずっと弱いと風の噂で聞きましたから……」
私はドレスの端を握り締めている。爪が刺さって、穴が開く位に、強く。
「――咲夜! 新しい異変だよ!」
壊れたレコードみたいに、何度も何度も、馬鹿みたいに何度も何度も、同じことを言う私に、咲夜は困った様な微笑みを向けて来る。
……もう歩く事も難しくなって、一か月になる。
空咳も止まらない。固い物も食べられなくなった。館の仕事も妖精メイドや美鈴に引き継ぎが終わってる。走るなんてずっと前から無理。飛ぶなんてもっての外。ナイフ投げの技能も、時を止める集中力も皆無。
そんな咲夜に私は、異変を解決しに行けと我が儘を言っているのだ。
「……お嬢様」
「咲夜ッ! 新しい異変だよッ!」
申し訳なさそうに目線を逸らす咲夜の顔が、曇って見えなくなって行く。曖昧に境界を失って、熱くなった私の目頭から気付けば涙が零れて来る。
咲夜は、強い。この私を死ぬ一歩手前まで追い詰めた十六夜咲夜は、新任の巫女なんか足元にも及ばない位に強いじゃないか。なのに、どうして異変を解決しないんだ。どうして行動さえも起こそうとしないんだ。癇癪持ちのガキが並べる駄々。
もう一度、強い咲夜を見たかった。
下らない妖怪なんか一蹴してしまう咲夜を見たかった。
もう一度。もう一度。初めて会った時のあの強さを、見せて欲しかった。
それは咲夜が死んでしまう、二週間前の記憶だった。
◆◆◆
狂ってるのは、誰だろうか。
それまではフランドールだった。五百年近くも、フランドールは狂い続けたままに存在していて、けれどあの異変、私が起こした紅霧異変以降、フランドールは少しずつ少しずつ変化していって、今は私よりずっとまとも。
狂ってるのは、誰だろうか。
あの薬師は。あの月の民は。何億年を生きた、あの八意永琳は狂ってる。館の皆。美鈴が、パチェが、小悪魔が、フランドールが、妖精メイドさえもが、あの永琳とかいう女は狂ってると声高に主張した。咲夜を蘇らせるなんて狂ってる、と。
私もそう思う。
――嘘。
私だけは、それを信じていた。私だけは、妄信していた。だから私の持つ八意永琳への意見は、都合の良い後付けの結果論。
狂ってるのは、誰だろうか。
多分、一番狂ってるのは私。咲夜を生き返らせてと神様にお願いして、八意永琳に縋って、そして二十年経ってやって来た咲夜に似ている女を、それでも咲夜だと思い込みたい私。幾ら説得されても、幾ら呆れられても、あの咲夜に、咲夜の面影を見出そうとしてしまう、私。咲夜を諦め切れない、私。
フランドールに抱きしめられて、ちょっとだけ泣いて、私は咲夜の墓の前に来ていた。紅い月はしかし、柔らかく白い光で彼女の墓石を照らしている。手向けた花は、少しだけ枯れかけた花弁を風に揺らしていた。
「――なぁ、咲夜」
墓石が答える訳も無いと判りつつ、私は墓碑名に向けて呼び掛ける。
「咲夜……私は、何をしてるんだろうな」
墓石を見下ろす私は、在りし日の咲夜の姿を思い浮かべながら問う。視線の先には石。その下に埋められた骨壺。死は穢れだから、それを遠ざける為に、見えない場所に安置された咲夜の成れの果て。
「――お前は、今の私を見て、嗤うかな? 『あら、高貴な吸血鬼はどちらへ姿を隠されたので?』なんて、私の面子を潰さない程度のあの表情で、さ」
狂ってるのは、私。平静を装って、理知がある様に振る舞ってその実、何もかもから目を背けている私。かつてフランドールに用意した地下室も、今は私にこそ相応しい。
「結局どうしても、私はお前を諦めきれないんだ……」
だから、今の咲夜を咲夜として扱おうとしてしまうのだ。
だから、今の咲夜との齟齬を、どうしても許せないのだ。
今の咲夜、なんて……咲夜はもう居ないと知っている癖に。咲夜はもう死んだと知っている癖に。今の咲夜は、最初から咲夜では無いと判ってる癖に。
別人に故人を重ねる。
違う存在で当然なのに、違う違うと駄々を捏ねる。
とんでもなく我が儘で、馬鹿げていて、何よりも狂ってる。
「こうしてる間にも。こうやってお前の墓を参ってる今でも。私は、お前との再会を待ち望みにしてる。お前が、墓の下から蘇る事を待望してる……可笑しいだろ? 馬鹿だと嗤ってくれ。馬鹿にしても良いから、また私の前に来てよ……咲夜……」
墓石は答えない。死者は何も語らない。
咲夜は死んだ。もう居ない。
判ってる。判り切ってる。なのに、それを受け止める事が、どうしてもできない……。
「……?」
誰かの視線を感じて、私は振り返る。
すると振り返ったその先には、咲夜が居た。
――いや、違う。それは咲夜じゃない。
咲夜と良く似た別人。咲夜の遺伝子を使って生み出された、咲夜のクローン。大きく期間を経て生まれた、十六夜咲夜の一卵性双生児。欠点だらけで瀟洒とは程遠い、咲夜の紛い物。
「……何しに来た?」
舌打ちを漏らして、私はソイツに言う。思いつめたような表情を浮かべるソイツが、私の言葉を聞いて少々身を竦ませた。あぁ、やっぱりコイツは咲夜じゃない。美鈴の言う通りだ。頭がどうにかなりそうになる。
違うか。
もう、どうにかなっているんだったな。私は。
自嘲気味に鼻を鳴らすと、私は咲夜の墓前に向き直った。
「パチェが呼んでいたぞ。図書館に来い、だそうだ。さっさと行ってやれ」
「……行きません」
「あ?」
予期せぬ拒絶の言葉には、困惑よりも先に怒りを覚えた。
不愉快。
不愉快だ。
一喝してやろうと再度振り返る。そうして目に入ったのは、月光を受けて冷たく光るナイフの切っ先だった。
「……何の真似だ?」
「見て……判りませんか?」
私に向けて手を伸ばし、ナイフを突きつける咲夜の指先が微かに震えていた。
「知らんな。食事でも欲しいのか? 肉でも食いたいのか? 知らないなら教えてやるが、ナイフは食卓のナプキンの上に並べて置く物だぞ」
せせら笑う。まともに侵入者一匹とも対峙できない様な腑抜けの咲夜モドキ。そんな存在がこの私に反逆を企てた所で、まともに相手をしてやる方が馬鹿馬鹿しい。
「――私は、十六夜咲夜を辞めます」
「ふぅん。おめでとう」
「貴女が私を縛っている。私を十六夜咲夜に押し込めようとしている。貴女が居る限り、私は十六夜咲夜以外の何にも成れない――」
――だから、貴女を殺して、私は私になる。
断言。しかしその言葉の端は、指先に呼応するように震えていた。やれやれ、と。私は肩を竦める。何を思い詰めたのやら。美鈴と仕事を代わって赤い月を眺めながら、一体何を決心したのやら。
十六夜咲夜は死んだ。もう居ない。
目の前に立つ咲夜さえも、それを態度と殺意で表明する。短絡的な言葉で、震えるナイフの切っ先で、私を、まだ咲夜を諦められない私を説き伏せようとする。
やはり、新しい名前を与えてやるべきなのか。
でも、それをする気がどうしても起きない。
目の前の咲夜に新しい名前を与える事。十六夜咲夜と別の存在だと認める事。それが私には、咲夜を殺すのと同義の重みを感じさせる。現実逃避への渇望。突き付けられた問題から目を背ける反射神経。
だから私は、駄目だと判ってるのに。それじゃいけないと判ってるのに。首を横に振る。
「無理だよ。お前には。お前なんかじゃ、私に傷を付ける事すらでき――」
私の言葉尻を掻き消す様に、震える指先に縫い止められていたナイフが横薙ぎに跳ねた。
痛み。驚き。私の右頬が、一文字にカッと燃え上がる。手を添える。ヌルリとした感触。
「……私は、本気です」
ギリ、と歯を食いしばったかと思うと、咲夜は私を睨み付ける。私は睨み付けられている。ハッとする。既視感。遠い過去から郷愁の呼び声。懐かしい感覚。研ぎ澄まされた殺意に射竦められる、この感覚は……。
私は咲夜の目を見る。私を睨むその目を観察する。
虹彩の薄い、青い目。
獣の目。それも単なる餓えた犬っころではなく、数多の命を刈り取り、そして自らの血肉へと組み込んできた獣。狩る側の生命だけが許される瞳の輝き。
――あぁ。
この視線は。この目の輝きは――。
「さ、くや……」
そうだ。そうだ。そうだそうだそうだそうだそうだ。間違いない。間違える筈も無い。この目は。この攻撃的な視線は。私という存在を穿たんばかりに据えられるこの視線は、間違えようも無く、咲夜だ。かつてこの私を、死ぬ一歩手前まで追い詰めたたった一人のヴァンパイア・ハンターの目じゃないか。
「私をっ、咲夜と呼ぶな!」
再度ナイフの一閃。呆けたまま頬に当てていた私の右手が、その攻撃をまともに喰らう。ガツ、と骨を叩く銀のナイフ。肉を裂き、血管を抉り、私の手から血が迸る。
殺意。殺意。明確で冷たく練り上げられた攻撃の意志。これもか。これにも既視感を覚える。懐かしさに頬が緩む。あぁ。あぁ。咲夜だ。咲夜だ。それまで出来損ないの紛い物でしか無かった目の前の咲夜モドキは今、在りし日の強いヴァンパイア・ハンターとして戻って来た。齟齬なんて無い。何もかも、初めて会った時のまま。
この再来。この再臨。私はやっと本当の意味で、咲夜と再会を果たした!
「は、ははっ、あははははははははははははは!」
灼熱の痛みを抱きながら。右手から夥しく出血しながら。それでも私は笑った。腹の底から笑った。嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
「違うな! お前は間違ってるな! やっぱりお前は咲夜だ! 紛れも無く十六夜咲夜だ! あは、あはははは! お帰り! お帰りなさい咲夜! 十六夜咲夜! かつて私を追い詰めたヴァンパイア・ハンター! やっと戻って来たな! よく私の前に戻って来た!」
「黙れえええええッ!」
咆哮。そして咲夜の姿が掻き消える。ミス・ディレクション。反則的な能力。人の身には過ぎた、時間を止めるという特異能力。咄嗟に振り返る。果たして私の勘は当たり、背後に回っていた咲夜が振り下ろすナイフは、私の顔を縦に切り裂く。
痛い。あぁ、痛い、痛い。この痛み。この感覚。疑いの余地なく、咲夜の攻撃だ。笑ってる。私は笑ってる。笑い声が止まらない。顔を裂かれた私は、それでも咲夜を見据えて笑う。笑う。笑う。笑う。
「あはははははは! ははっ! あっはははははははは! 待っていたぞ! 待っていた! 私はお前を待ち続けていた! この瞬間を! 狂ってると嗤ってくれ! 諦めが悪いと思ってくれ! 間違ってると否定しろ! 構う物か! お前は咲夜だ! 今のお前は紛れも無く咲夜だ! 待ち焦がれた思い人! 残骸だろうが幻影だろうが知った事か!
さぁ、踊ろう!
そしてもう一度! 私を! 殺してみせろ!」
地面を蹴る。
羽を広げ、飛翔。
間髪入れずに羽ばたき、最高速度で体当たり。
手ごたえは無い。また時を止めたか。
それで良い。
激突した地面が抉れる。土埃の臭い。
体勢を立て直す私の背後から、ナイフが飛んできた。突き刺さり、肉を焼く冷たい銀の感触で、私はそれを知る。
背中からナイフの柄を生やしたまま、私はナイフが飛んできた方へ向けて走る。土埃がうねり、視界が晴れる。そこに咲夜の姿は無い。
どこだ。
上か。
見上げると、ナイフを両手で構えたまま咲夜が墜ちてくる。
甘い。
広げた翼の骨で、咲夜の身体を横薙ぎに叩く。
「う、ぐッ……!」
確かな手応え。
華奢な身体が夜空を滑る。
しかし終点を待たず、その体はパッと消える。
今度は後ろだな。
芸が無い。
果たして、背後から地面を蹴る音。
剣山と化した私の背中にもう一本ナイフが追加される前に、姿を霧に変える。
細胞の分解。咲夜が微かに息を飲む声。
中空で身体を再構成させる。
攻撃のモーションを完了させた体勢。
既に右手を振り被っている。
狙うは無防備な背中。反応する隙など与えまい。
袈裟切りの要領で、爪が咲夜の身体を切り裂く。
「あははっ! 手応えあり!」
暖かい血が右手を濡らした。
時を止める事も無く、咲夜が片膝を着く。
「どうした咲夜! もう終わりか! 馬鹿を言うな! お前は、まだまだやれるだろうっ!?」
付着した血液をベロリと舐める。暖かく新鮮で、芳しい咲夜の血液。
この味も咲夜。強者の血は例外なく美酒を凌ぐ。
だから咲夜は、まだ諦めないだろう。私は知っている。この人間の強さを。
「……勝ち誇るのは、まだまだ早いですわ――お嬢様っ!」
咲夜が地面を蹴る。かと思えば姿が掻き消える。瞬間移動。
気付けば彼女の身体は私の目の前にあった。
そこから、無理な体勢からの容赦ないムーン・サルト。
虚を突かれた。
咲夜の爪先が、私の顎を正確に撃ち抜く。
仰け反る私の身体は無防備だ。
まずい。この体勢は。この隙は――。
「――傷魂『ソウルスカルプチュア』」
圧倒的な斬撃の波が、私の身体を切り刻む。
銀のナイフが私の肉を裂き、細胞を撹拌する。
穴だらけになったドレスは、私自身の血で真っ赤に染められ濡れる。
「ぐ……が……っ!」
銀のナイフで裂かれた傷は治りが遅い。
斬撃の圧に押され、私はフラフラと後退りを余儀なくされる。
そんな好機を、咲夜が見逃す筈も無い。
「――幻符『殺人ドール』」
その宣言は、どこか遠くから聞こえた気がした。
無数のナイフが空中に展開される音。その気配。
「……さようなら。お嬢様」
冷たい咲夜の声。
――はは。ははは。馬鹿が! まだ終わらせて堪る物か!
仰け反ったままの足を無理に踏ん張り、軋んで悲鳴をあげる身体を叱咤する。
真っ赤に染まった視界で、ばら撒かれたナイフ群の切っ先がこちらを向くのを見た。
咄嗟の判断で、私はスペルカードを取り出した。
「――紅符『不夜城レッド』」
私の身体から迸る衝撃波が、夜を紅く照らし上げる。
私目掛けて飛んで来たナイフを、悉く蹴散らす。
半ば勝敗は決したと思い込んでいた咲夜が、呆然と私を見ている。
「……取り戻して来てるじゃないか。お前は、お前を」
裂け目だらけになった血染めの顔を拭い、私は平然と立ってみせる。
「お前の細胞が。お前の遺伝子が。自分は十六夜咲夜だと喚いているのだろう? 咲夜から脱却しようとすればするほどに、お前は咲夜に戻って行くのだろう? やっと私を、『お嬢様』と言ったな? それが証拠だ。皮肉な物だな」
「……ふざけた事を、のたまう物じゃありませんわ」
内腿の隠しホルスターからナイフを取り出した咲夜が、不敵に笑う。
「狂った吸血鬼。生命遊戯に耽る子供。お嬢様のせいで私は、まだ生まれてない。私という存在は、まだ十六夜咲夜に囚われてる。これは私が生まれるための、通過儀礼ですわ」
「――なら、私を殺してみせろ!」
スペルカードを繰り、グングニルを召喚する。
紅色に染まった神槍。
既にして私の配下と化した、オーディンの聖遺物。
「生まれる為に! 脱却する為に! 生きる為に! 理由は何でも良い! お題目はどうでも構わん! ただ、あの日の様に! あの惚れ惚れする邂逅の時の様に! 私の心臓に、銀のナイフを突き立てろ! 殺せ殺せ殺せ私を殺せ! 生業だろう!? ヴァンパイア・ハンター!」
槍を構える。狂った私の最後の願いを込めて。この再開の甘美を、魂に刻み込むように。
強い咲夜を。彼女の冷たく鋭い殺意を。冗談が与えたこの奇跡を。私は私に刻み込む。
……咲夜。
お前は、私を、嗤うかな?
これほどまでに、お前に恋い焦がれた、私を。
「――神槍『スピア・ザ・グングニル』」
私の手を離れた槍は、音速を超えて咲夜目掛けて飛ぶ。
避ける事叶わず。受ける事など尚叶わず。
人間の動体視力など嘲笑う、神速の一撃。彼女は、その一撃をまともに喰らう。
水平に飛んでいく串刺しの身体。瞬きの後に咲夜の身体は虫ピンに躯を貫かれた哀れな昆虫標本のように、墓標に突き立った。老衰で死んだ、オリジナルの咲夜の墓標に。
◆◆◆
永遠なんて無い。
この世界に、永遠なんて存在しない。
五百有余年を生きるこの身体は、永遠には程遠い。
何億年を生きたあの狂人薬師さえ、永遠には及ばない。
時を止める事が出来ても。時を手足の様に操る事が出来ても、その能力さえ永遠には届かない。
死は穢れだ。穢れでありながらも、不変だ。不変で、そして平等な概念だ。
草は死ぬ。木も死ぬ。魚も、蛙も、蜥蜴も、鳥も、兎も、人間も死ぬ。森も死ぬ。群れも死ぬ。社会も死ぬ。いつかは星も、世界も、宇宙でさえも死に絶える。
永遠なんてのは、取るに足らない机上の空論だ。
終わりが来る。死という穢れの概念として、何もかもが終焉の時を迎える。
じゃあ、何もかもが無駄なのか?
いつしか消えてしまう事を運命付けられているのならば、万物は無意味なのか?
違う。
私は胸を張って、声を大にして、無駄じゃない無意味じゃないと世界に宣言してやる。
重要なのは、最期の時にどうあるか、だ。
霧雨魔理沙が、人としての死を選択した様に。
十六夜咲夜が、人としての生を選択した様に。
私もまた、最期の時をどう迎えるかの選択を迫られる。
吸血鬼とは、機関だ。
血液という媒介さえあれば、半永久的に回転を続ける歯車だ。
ならば我々が死ぬ為には、人間の絶滅を待たなければならないのか?
緩やかに。真綿で縊り殺されるのを待つしかないのか?
その遠い終末論は、咲夜を失った私にとっては、緩慢ながら絶対的な絶望だった。
棺に納められ、敷き詰められた花の中に眠る咲夜を見て、私は私の終わりを考えざるを得なかった。
命が終わる瞬間。歯車の回転を止める瞬間。その思い。その感情。そこにある筈の満足感。それの最上を求める事こそ、私の終焉に相応しい、と。遅すぎる達観が、私の何かを僅かに狂わせた。
気付いたのです。私は、馬鹿だから、今更、気付いたのです。私もいつか死ぬと。私の終焉も、いつか訪れると。その終焉に、緩慢な平和で窒息するなんて、まっぴらだと。
だから、神に願った。悪魔の側である私が、形振り構わず神に縋った。
だから、薬師を頼った。狂っているとか、ありえないとか、どうでも良かった。
どうか。どうか。十六夜咲夜を蘇らせてください。
私の愛した従者を。私の愛した人間を。たった一人の、大切な存在を。
彼女になら。私が愛したあの人間になら。私は、私の終焉を任せられると。他に誰も居ないのだと。私は、私の最上の最期を、みすみす逃してしまったのだと。
どうか。どうか。お願いです。お願いします。
私は、咲夜に殺されて死にたかったんです、と――。
◆◆◆
「――あぁ、そうだ」
それで、良い。
グングニルに穿たれて絶命した筈の咲夜の姿が掻き消えて、私は小さく頷いた。
「――奇術『ミスディレクション』」
咲夜の声。背後から冷たく。
判っていた。彼女が。あの咲夜が、おめおめ私の槍に貫かれる筈が無いと。
「……今度こそ、さようなら。お嬢様」
どうしてだろう。
この咲夜は、私の事を憎んでいる筈なのに。
自分の為に、自分が咲夜を脱却する為に、私を殺そうとしている筈なのに。
……その声が、涙に濡れているのは。
「あぁ、さようならだ――ありがとう」
四肢の力を抜く。目を閉じる。血染めの頬を、涙が伝う。
歓喜なのか。恐怖なのか。そんな事は判らない。
それでも。
やがて訪れるであろう最期に、私の胸中は満たされていた。
「……『咲夜の世界』」
あぁ……。
それは――私への手向けか?
ありがとう。ごめんな。
見つかると良いな。お前の、新しい人生が。
次の瞬間。
百分の一秒の間も置かず。
刹那の猶予も無く。
――私の心臓を、銀のナイフが貫いていた。
「ぐ……ッ!」
致命傷には、不思議と煉獄染みた痛みも苦しみも無かった。
ただ、あぁ、終わったんだ、と。そんな感傷が浮かんで来ただけだった。
私の身体が膝から崩れ落ちる。草の匂い。地面の匂い。自分の血の匂い。迫ってくる終焉の冷たい香り。
これが私の、私という現象の、終幕。
「お嬢様……」
咲夜の声。息を荒げて、悲しみを湛えたその声には、勝ち取った未来への興奮なんて微塵も無かった。
「……泣くな……馬鹿者……」
目的は達しただろう?
悲願は叶っただろう?
新しい人生が、お前を待っているのだろう?
だから、そんな悲しげな声で、私を呼ぶな。
「……咲夜。幻想郷を出ろ。私を殺したお前には、この箱庭で居場所なんて無い……言えた義理じゃないが、幸せになれ……それが、義務だ……違うか……?」
返事は無い。嗚咽としゃくり上げる声が、言葉を飲み込んでしまったのか。
まったく。
世話の焼ける、抜けたメイドだ。
「……私、どうして……っく……あんなに憎かったのに……っく……あんなに辛い日々だったのに……うぅ……こんな……なんで……涙、止まらな……」
「……なぁ、最期に頼みが、あるん、だ」
「お嬢、様……?」
「……私を……そこの墓前に、運んでくれ……頼む……」
「……えぇ……失礼、しま……す」
咲夜の腕が、私の身体を持ち上げる。
あぁ、運ばれる感覚、懐かしいな。
パチェの図書館のソファで眠ってしまった時、よくこうやって、運んで貰ってたな。
眠る時間だ。然るべき場所で。もう眠る時間が来た。
暖かい。咲夜の腕が、私を抱きかかえる身体が、冷たくなっていく私の身体には、こんなにも暖かい。幸せな夢現。もう目覚めは訪れないと知っていても、私の心に恐怖は無い。満足だ。ただ、満足だ。悪くない。最高の最期。生命遊戯の罰としては、少し優しすぎる位じゃないかな。
やがて私の身体が、優しげな手つきで咲夜の墓前に供えられる。薄れて行く意識。本当に、眠る直前の様。在りし日の穏やかな時間の再来。
死とは穢れだ。
でもそれは、生きている第三者の傲慢な決めつけに過ぎない。
だって、当人にとって、死は、こんなにも、穏やかなのだから。
「――お休みなさい。お嬢様」
あぁ、ありがとう。ありがとう。他に思い浮かぶ言葉が無い。
美鈴。今までありがとう。結局お前の助言に従えなかったな。
パチェ。今までありがとう。良く今まで、こんな私と友達でいてくれた。
フラン。今までありがとう。お前には沢山酷い仕打ちを強いたな。それでも、今のお前なら紅魔館で上手くやっていけるさ。
そして、咲夜。
最後まで、結局新しい名前をやれなかったな。
最期まで、お前を咲夜と呼んでしまったな。
我が儘と思ってくれ。馬鹿だと嗤ってくれ。狂ってると罵ってくれ。
でも、出来れば最後まで、そのバカげた我が儘に、付き合ってくれ。
……お休み。バイバイ……咲夜。
Fin
クローン咲夜に生前の咲夜を見るレミリアが、何と言うか、狂っているけど気持ちは分かるというか。やるせない感じ。
クローン咲夜は新しい名前を得て幸せになってもらいたいです。
これから彼女が幸せを掴めるのか気になるラストでした
自分の力で自分の居場所を手に入れようとした咲夜は良いキャラだったと思う。
そこの展開だけはよかったけど、他の部分は全て不快に感じた。
全体としては面白かった!
と思ったのが最初の感想。再生していく話だと決め付けて読んでしまっただけに、この終わり方に納得がいかなかった。それで感想を書くのが憚られたので書かなかった。
もう一度読んだ。
なかなかどうして美しい話じゃないですか、目頭に熱がこもってしまいます
というのが二回目の感想です。そういう展開だと割り切って読むとグッとくる内容でした。この基地外っぷりがこそ、展開をリードする主たる部分であって、ゆえに唐突に死を迎えるにあたって不可欠とみれば、これがまぁいいエンディングに見えるのです。
平和な心じゃないと到底受け入れられない、そんな残酷な話でした。
クローンについては色々と考えさせられます。クローンはあくまでクローンでしかないとすれば、この終わり方は必然だったのかもしれませんね。
今まで二人を扱った色々な作品を読んできましたが自分の中では最高峰に位置する作品になりそうです。素晴らしい作品を、ありがとうございます。
他にも色々問題起こしてたんですかねえ
何ともな感じでした
それにしても後日談が気になる作品 咲夜は幻想郷のパワーバランス動かしちゃったわけだし···魔界あたりなら上手くやっていけそうだけれど、難しいか
紅魔館は、やっぱり妹様がやっていくんだろうか?まとも×狂いで狂いになっちゃう···
お休み、レミリア、愚かで高潔な吸血鬼……。
だけど、変わらないものもあるのよなぁ。