最近、蓮子と紫が私に隠れて何かやっているようだ。
紫は大学が終わってから真直ぐ家には帰ってこず、どこかに寄っているらしいし。
蓮子は蓮子で夜中に必ず紫を家まで送ってくる。そうして、二三言話して行くのだ。
交わすのは取り留めもない言葉である。
「ふんばりどころよ」とか「頑張りましょう」
「少し今のシーケンスの調整が必要ね」とか「引力の設定数値がおかしいのかも」
「睡眠時間だけは確保しなさい」とか「食事はバランスよくね」
私はエントランスの死角に隠れて盗み聞きするのだが、その短い会話だけでは、何をしているのか分からなかった。
かなり迷った挙句、蓮子を信用する事にした。そう、蓮子だから、大丈夫なのだ。
夏が来て、秋が来て、冬が来た。
紫の様子がおかしくなった。
いきなり笑い始めたかと思ったら、次には泣き始めたり。
怒鳴り散らしながら食器を投げて暴れたり、体を激しく掻くなどの自傷行為を行ったり。
情緒不安定だった。
夜も飛び起きて独り言をつぶやいていた。
ほとんど眠れていないようだった。
同時に言う事を聞かなくなり、私の指示には悉く反抗した。
辛い時期が来た。
蓮子に相談したら、夜中のエントランスで次の様に紫へ言い聞かせていた。
「紫、自分を制御するのよ。そうでなければ、長期間のストレスに耐えられない」
「制御って、一体どうすればいいの? あたし、スゴく辛いよ」
「気分が落ち込んでいる時は上げて、興奮している時は下げなさい」
「簡単に言うね。あたしはあんたと違うのに。一緒にしないでよ」
「おまじないを教えてあげる。拳を作って、心臓に置く。そして息を吸って、吐く」
「それだけ?」
「心が足りないから辛いの。だからもう一個足してあげるの」
「…………結局は自己暗示? そうやって子ども扱いするんだ」
「試してみなさい。中々馬鹿には出来ないわよ。それと――、」
「なに? まだあるの? いいかげんもう寝たいんだけど?」
「あなたは優秀よ。少なくとも私よりはね。それじゃあまた明日」
この蓮子の一件があってから、紫は安定しだした。
冬が深まり、一時の寒冷が終わり、暖かな春が来た。
いつもと変わらないお昼過ぎ、蓮子から八雲邸に電話がかかってきた。
私はその時昼食を食べていた。小間使いさんに「奥様、宇佐見教授から電話で――」と呼ばれ。
ああこれは凄く嫌な電話だなと直感的に思った。そして悪い予感は当たるものである。
「――紫様が大学で倒れて、――今病院に運ばれたと」
病室に行ったら、蓮子が待っていた。
「ごめん。私の監督不行き届きだ」
「紫は、大丈夫?」
「倒れた時に少し肩を打ったけど、それだけ。今順番待ちだからさ」
そこで受付に「八雲様、八雲紫様の保護者様」と呼ばれた。
医者は「過労です」と説明した。
「もっと詳しく」
「疲労度を示す物質の蓄積値が、高いです」
「どれくらい?」
「人が三人過労死するレベルです」
「具体的には?」
「推定ですが、一か月不眠ならこの数値が出るでしょうね」
「私はどうすればいいの?」
「一日七時間以上、必ず寝かせてください」
紫は病院で30時間連続で寝続けた後、退院した。
それからは私は、紫と必ず一緒に寝ることにした。
夜中ベッドから抜け出して自室に戻ろうとするので、がっちりホールドして眠る。
最初は何とか脱出しようとしていたようだが、五日連続で続いた所で諦めたようだった。
春が終わり、夏が来て、秋が来た。
「ねえママ」
「んー?」
半覚醒の夢現な状態で、紫に呼ばれた。
ベッドの中で会話することはあっても、その日の話題は異質だった。
「もし10年前に戻れるとしたら、何を変えたい?」
「私は満足よ。今のこの状態にね」うつらうつらしている状態だったので、本音が出た。
「何もしないの? 10年前から一度やり直せるんだよ?」
「あなたが居れば、幸せ。急がなくていいから、色んなことを経験して、立派に育ってね」
冬が来て、一時の寒冷が終わり、暖かな春が来た。
その日、夜中23時を過ぎても、紫が帰ってこなかった。
蓮子も紫も、連絡が取れなかった。心配だった。外に出て屋敷敷地前の照明の下で待っていた。
3分ごとに蓮子に連絡を取った。一向につながらない。
圭は北海道に出張している。もとより、子育ては私に任せられている。
圭の側近に近い小間使いさんが、私の隣に立っていてくれた。会話は無かった。
心配で身が張り裂けそうだった。言葉を紡ぐ余裕が無かった。
0時前になって、蓮子と連絡が取れた。今から帰るそうだ。
程なくして現れた蓮子と紫。こちらに歩いてくる。私は激怒していた。
蓮子が歩いて私の射程に入った。思いっきりぶっ叩いてやろうと思った。
腕を振り上げ、痛くない秘封ビンタではなく、口が切れて鼻血が出るケンカパンチをお見舞いしようとした。
そうしたら、紫が飛び込んで抱きついて来た。体勢が崩れてパンチは不発に終わった。
「ママ!」紫は歓喜していた。「すごく上手くいったの! 大前進よ!」
「明日はなにか美味しいご飯食べさせてあげてよ。紫は頑張ったよ」蓮子も満足げだった。
紫の喜ぶ顔を見たら怒りは収まってしまい、どうふるまえばいいのか困ってしまった。
「紫様、明日の朝ごはんは何が良いですか?」小間使いさんが聞いた。
「ベーコン! 焼いてほしいな! 白いご飯とみそ汁で!」
「お昼ご飯は?」
「ハンバーグで! デミグラスソース!」
「では夕飯は」
「ポロネーゼ! ソースたっぷりでね!」
「かしこまりました」
紫がぴょんぴょん飛び跳ねながら私に抱きつく。
私も一緒に喜べばいいのだろうか? 私は、何もしてないのに。
「って言うか蓮子、私、あなた達が何をやってるのか知らないんだけど」
「ああそうだね。まあもう少しで完成で、そのあと一段落したら、全部言うよ」
「今はまだ言えないのね?」
「そうだね。ごめん」蓮子は謝った。「でも、峠は越えたよ。証明は出来たから、あとは実装だけだ」
次の日は蓮子も屋敷に呼んで、一日遊んですごした。
私は、自分の立ち位置が分からなかったが、とりあえず幸せを共有する事にした。
夏が来て、秋が来た。
紫は始終うんうんと唸っている。
あれっきり、研究は滞ってしまっているらしい。
もう、一段落したのだから、教えてくれてもいいじゃないか。
私は我慢の限界だった。独自に二人の境界を暴くことにした。
新生秘封倶楽部暴きの新生秘封倶楽部個人活動である。
やることは簡単。紫の跡をつけるだけだ。
久しぶりの大学は懐かしかった。昔に秘封倶楽部の部室だったカフェテラスでコーヒーを飲んだ。
紫の講義が終わるまで待機する。あと十分で終了する。
それまでに、このチーズケーキをやっつけなければ。
と優雅に楽しんでいたら――。
「奥様」圭の側近の小間使いだった。私の傍らに立っていた。
「屋敷に帰りましょう」と言った。私を連れ戻しに来たのだ。
「ち、違うの。あなた、紫が心配じゃない?」
「奥様は、心配ですか」
「心配。というか、蓮子と何をやっているのか、知りたい」
小間使いは思考しているようだった。逡巡しているようにも見えた。
5秒ほど沈黙があった。ああ、この人は私の知らない事を知っているんだな、と思った。
「奥様、屋敷には捜索中と伝えておきます」
「逃がしてくれるの? 私を?」
「いいえ、ご案内します。奥様を捜索し連れ戻せという任務ですが、」
小間使いは耳から無線機を外し、内ポケットにしまった。
「実は私、昔に探偵じみた事をやっておりまして。尾行は得意なのです」
うそだ、こいつ脱サラして小間使いになったと、昔に聞いている。
「嘘だとお思いでしょうが。――耳寄りな情報です」小間使い、ニコリと笑い。
「紫様は講義終了10分前になると、裏門から大学を出て宇佐見教授のところに行きます」
「し、しらなかった。いや、知っていたわよそれくらい!」
「ご案内します。ただ満足したら、屋敷に帰りましょう」
裏門から少し距離を置いた所で、紫を発見した。
変装している。髪は纏めて服の中に入れて、ロングの黒髪のカツラを被っている。
上着も、私が知らない安っぽい物だ。着数を用意しているのだろう。
住宅街に入って行き、右左右左と十字路をジグザグに曲がって進んで行く。
と思ったら、十字路を三回曲がってまた同じところに来たり、何度も振り返ったり、いきなりUターンしたり。
きっと蓮子に教えて貰ったのだろう。尾行の回避法である。
「パターン化されているんです。そこが甘い所です」
小間使いは慣れていた。次Uターンしますよ、という予言も全て当てている。
「ずっと前からこんなことをやってたの? 紫の跡をつけていたの?」
「いいえ、旦那様の指示で、小間使い総出で調査しました。今は安全だと分かったので、黙認しています」
「圭は全部知っていたのね。それで見ていないふりを?」
「宇佐見教授はとても優秀な方です。この経路も、いざとなれば民家に逃げ込める安全な道です」
見てください、という。軒先を掃除している中年の女性が、紫を見てこんにちはと挨拶した。
「あの家の奥さんは、いつも必ずこの時間に軒先に出てきます」
そのほか、民家の裏口を通り抜けるとき、将棋を指す老人と棋譜を考えたり。
紫が開けた古びた門で若い学生とすれ違った時は、あの門は逆からは開かないんですと小間使いが解説した。
この時間、このタイミングで紫が通らなければ、誰かが必ず不審がると言う細工がされてある。
「つい5日前に10分紫様が遅れてここを通り、ここら一帯の皆さんは警察を呼ぶか騒ぎになりました」
そして紫が雑居ビルに入って行き、小間使いは「このビルの5F、奥の部屋です」と言った。
「ただのビルに見えますよね。しかしこのビルは耐震構造、耐火性能、非常電源、あらゆる設備でトップクラスです」
「なんでそんな設備が整ってるのよ。ここ、駅前大通りの何の変哲もない建物じゃん」
「警備、電源、防犯、防災その他もろもろのビル設備会社の社長を、宇佐見教授が嗾けました」
「コネか。コネなのか。あと、何の研究してるの?」
「それは詳しくは分かりません」
「大体のことは分かるでしょ?」
「旦那様は、紫様が結界の研究をしている訳ではないと分かって、調査を打ち切りに」
「何の研究? 分かる範囲でいいから」
私は食い下がった。小間使いの肩を掴み、ぐっと力を加えた。
双眸に力をこめた。絶対にひかないと言う意思を無言で伝えた。
「それが――、本当に概要だけなのですが――」
小間使いが私を手の平で指し示した。
「奥様を助けるために、並行世界へ飛ぶと」
私は小間使いと共に屋敷に帰ると、風呂に入り、食事をして、すぐに就寝の準備を整えた。
現在19時である。小間使い諸々には、芳香浴をするから明日の朝まで部屋に入るなと言っておいた。
アロマポットを用意し水を注ぎ、エッセンシャルオイルを数滴落とす。キャンドル点火。
コンポを用意し、ヒーリングミュージックをごくごく小さな音量で流す。
市販の睡眠薬を四等分し、そのうちの一つを飲む。あとの三つは捨てる。
部屋に芳香が広がった。服を脱ぎ全裸になり、ベッドに寝転がる。
体には何もかけずに仰向けになる。両手足は伸ばし、自然体。目を瞑る。
すぐに鈍い眠りがやってきた。あとは、強く思うだけだ。
何を考えているか知らないけれど。
やっぱり何かやるならば、私をのけ者にするのは、許せない。
―――――――。
――、気付くと、ビルの廊下にいた。雑貨ビルだ。
体を見下ろす。紫色のワンピースを着ていた。
帽子はお気に入りの物。両手は白いレースの手袋をしている。
念じると、体が浮いた。
指を立てて左から右に振ると、空間が裂け、境界が出来た。
三つでも四つでも、いくつでも境界は生成できた。
成功だった。今の私は、限りなく妖怪に近い存在である。
「ぐあああああ、分からない! 何がいけないのかわからない!」
「あと一歩なのよね。でもまあ、気長につづけていきましょうよ」
傍らの扉から蓮子と紫の声が聞こえてきた。
私は境界を裂き、空間を作ってそこに隠れた。
「あ、宇佐見、ちゃんと出力タイマ、セットしたよね?」
「大丈夫。明日来たら続きやりましょうね。今日はもう帰りましょう」
扉がロックされる音。二人分の人の気配が遠ざかる。
私は境界から出て扉の前に立つ。もちろん、暗号は分からない。何重にもロックされていた。
扉を指先で撫でる。ロックが解除された。扉が開いた。
なんてことは無い。認証と拒否の境界を弄るだけだ。
研究室へ進入。照明をつけて、はっと息を呑んだ。
壁を覆うメモの数々。驚くほどの研究量。細かな数式が部屋いっぱいに。
薬物中毒の禁断症状を発症した患者が、部屋中に意味不明の言葉を書きなぐったかのような。
部屋そのものがある種の生物の記憶領域になっているかのような。それを具現化したかのような。
膨大な知識量だった。異質だった。
正気の沙汰とは思えない様相である。
なにを意味しているのか、全く分からない。いや、――分かる。
見ればわかる。数式は計算するまでも無く、解が求められた。
覚醒状態ではとてもありえないことだ。
このようなことに妖怪化を使ったことがなかったから、知らなかったが。
なるほど、夢の状態ならば超高速に算術的な思考をこなせるようである。
蓮子と紫は、並行世界へのトラベルを実現するための装置を開発しているらしい。
しかし、ところどころ間違えている式がある。それを片っ端から直してやる。
理解した。蓮子と紫は、誤解しているのだ。
この旅は、並行世界の私を救う事にはならないと。
二人は絶望して戻ってくるだろうか。それとも、また別のパラレルへ旅を続けるだろうか。
無駄足だったと思うかもしれない。はたまた、貴重な体験をしたと思うかもしれない。
しかし、決定的な発想が足りていない。
二人の旅は時間の浪費に終わるだろう。
私は達観した。面白い。救うつもりならば救ってみろ。どうせ不可能だ。
そして蓮子と紫、二人のトラベラーに、もう一つ私と言うファクターを加えてやろう。
機器のタイマーを見た。あと計算に推定20時間必要だそうだ。待ってられない。
境界を操り、不具合を直してやった。待つ事3分。計算完了。チーン! ベルが鳴る。
この機器はトラベルを開始する前に、あらかじめ時間を設定する必要があるようだ。
30分くらいでいいだろう。電源投入。ディスプレイに文字が表示された。ボンボワイヤージュ!
研究室の景色が水あめの様に伸び、捻じれ、解け落ちた。
代わりに降り注ぐように展開されたのが、一般的マンション前の道路。
事務所と、郵便受けと、オートロックのエントランスが見える。
ここは私が大学時代に住んでいた、マンションの玄関前だと、気づいた。
裏手に回ってみる。記憶が正しければ、こちらはゴミ捨て場。やはり合っていた。
記憶通りの「当マンション居住者以外の投棄を禁じます」の張り紙がある。
ゴミ捨て場の入り口にロックがかかっていて、居住者以外入れないんだけどね。
「一応お昼ご飯はトンカツ定食を考えてるんだけど」
「お! トンカツいいね! 朝食べてからどれくらいたってる? おなか減ったよ」
蓮子の声が聞こえてきた。もう片方は、私の声だ。
自分の声を客観的に聞くと、何だか妙な感じである。
マンション裏手からこっそり正面を観察してみると、若き日の私と蓮子がいた。
「あんたは寝てただけでしょうが。まあ5時間くらいは経ってるけどね」
「図書館でいいよね? グラボスに案内させる感じで」
「そうね。図書館に行こう」
二人はこれから昼食を食べに行くようである。
こんな会話したっけな? と考えて、ここは並行世界なのだと気づく。
細かい条件や人間関係に違いがあってもおかしくは無い。
二人を懐かしみながら観察していたら、蓮子が立ち止まり、急にこちらを振り返った。
咄嗟に陰へ隠れる。視線を感じたのだろうか? 嬉しいやらなんやら、少し複雑である。
「? どうしたの蓮子?」
「いや、何でもないや。――じゃ、行こうか」
二人が離れるまで隠れたままでいた。
今から出て言って話しかけても良い。だけど、少し心配だった。
並行世界の私が見つかることでパラドックスが生じないかと。
研究をしていなくても、それくらいの発想はある。
「…………」
さて、どうしようか。本人に話しかけられないとあれば。
自宅訪問でもしてみようか、と思った。
境界を開き、自室の前に瞬間移動。
部屋の扉前にある監視カメラが、こちらに向いた。私は手を振った。
ほんの数秒間、にらめっこすると、カメラはそっぽを向いた。
どうやら人物認証システムは、私を10年前のマエリベリー・ハーンと同一人物だと判断したらしい。
さてマンション自室入口。当然ロックがかかっている。境界を操作して解除しようとして、やめた。
このマンションの錠にバイオメトリクス認証機能がある。
手袋を取り、右手甲の静脈認証へ挑戦してみる。一発で通った。なるほど面白い。
もう扉は開いているが、光彩認証にも挑戦。一発で解除。
指紋認証、解除。掌紋認証、解除。
満足して部屋に入る。
「ただいまー」
「声紋認証、解除」電子音声が鳴った。
いやそのつもりはなかったんだけども。
パラレルの私もそこそこ自室は小奇麗にしているらしい。
洗い物はしてあるし、床も綺麗に磨かれている。ゴミも溜まっていない。
洗濯機をのぞいてみたら、パジャマと下着が入っていた。
ふむ、私の下着である。と思ったら、あまり見慣れない物が――。
これは! 蓮子の物だ! 手を伸ばし、掴む。持ち上げて観察する。思わずテンションが上がる!
え、これどういうこと!? もしかしてパラレルの私って、蓮子と同棲してるの!?
すげぇ私! けっこうやるじゃん! 昨日の夜もキャッキャウフフしたの!?
いや落ち着け、まずは深呼吸だ。ひっひっふー。
そうだ、同棲しているか証拠を掴まなくてはならない。
リビングに戻り見回してみると、据え置き型の量子コンピュータを見つけた。電源を入れる。
10年前だ。やはりマシンのスペックは劣る。しかし動けば十分。
勝手にログインされたアカウント。すぐさまログアウト。
もしパラレルの私が私と同じならば、自分のPCにやることも同じはずだ。
ユーザの切り替え。秘密のアカウント名とパスワード。エンタープッシュ。通った!
ふははははは甘いなパラレルマエリベリーよ、パラレルの自分しか知らない単語にするべきだったな!
さて目当ては、日記である。
私は大学時代、自分のPCに秘密のアカウントを作り、日記を書いていた。
このアカウントはネットにつながらないスタンドアロンの設定をしている。
遠隔操作は出来ない。ローカルからのみ閲覧が可能である。
パソコンの設定時刻。きちんと十年前である。
ローカルの記憶領域。プログラムフォルダの奥の奥の奥の奥。
見つけた。限定アカウントによる閲覧可能ファイル。
隠しフォルダ設定の日記テキストである。
ふむ、日記を読む限りだと、今の私と違いは特に見受けられない。
あと、最新の日記が二日前になっている。こういう時は大抵、蓮子が泊まりに来た時である。
当然この部屋に蓮子がいるので、日記なぞ書ける訳も無く。
なあんだ。落胆した。蓮子はここに泊まりに来ただけか。そうなればもう想像がつく。
私が料理を作って、蓮子と一緒に食べて、酒でも飲みながら映画を観て、寝るくらいだろう。
アカウントを切り替え、再度共有の方でログインする。
世間のニュースを見る。特に変わったことは無い。
そこでぶるりと身震いが来た。
ああ、と思った。そろそろ30分か。トラベル終了である。
端末はシャットダウン。照明も消して、部屋から出る。きちんと施錠。
扉のドアノブを掴み、鍵が掛かっていることを確認して――。
ここに来た時と同じように、景色が解け落ちる。研究室に戻ってきた。
手足を動かしてみる。異常はない。
夢の中の、妖怪状態の私である。
もう、満足だった。蓮子と紫の目的が分かったし、10年前の私にも会えたし。
研究室から出て、ロックも忘れずに掛ける。雑貨ビルの廊下で自分の頬をつねる。
起きた。起床した。八雲邸のベッドの上で、全裸の状態の私に戻ってきた。
もういいや、このまま朝まで寝てしまおう。しかし、アロマとヒーリングミュージックは要らない。
照明をつけて立ち上がって、自分の右手に握られているものに気付いた。
あ、10年前のパラレル蓮子の下着、持ってきちゃった。
翌日、リビングでくつろいでいると紫が起きてきた。朝10時である。
「紫、今日大学は?」
「おやすみだよママ。ご飯食べたらもう少し寝ようかな」
眠い目をこすりこすり。大分疲れているようだ。
紫、あなたの研究室見てきたわよ頑張ってるわね、と言おうとして、やめた。そっとしておこう。
朝食に紫が箸をつけ始めた所で、電話が鳴った。小間使いが出る。
「はい、はい、いらっしゃいます。はい、代わります」
と、紫に電話を差し出してくる。「宇佐見教授です」
「なにー? あたし今ご飯食べてるんだけどもぉー」
なにか蓮子がまくし立てているようだ。聞こえはするが、何を言っているかは聞こえない。
ただ、何か良い事があったのだなと思った。そしてこの予感は、よく当たるものである。
紫の半分閉じかけの眼が次の瞬間見開かれ、二本の箸は足元に落ちた。
「ほんと!? ほんとに!? マジで!? いやったああああああああああ!」
紫、絶叫。強く握りしめた拳を高く掲げ、その場に立ちあがった。
椅子が後ろに倒れ、けたたましい音を立てる。
「ママアアアァァァアァ!!」
そして、こっちに突っ込んできた。喜びの爆発的推進力である。
腹筋を硬くして受け止めた。痛い。ついでに顔面をぐりぐりして来るので、痛い。
「うわああああああん! やったああああああ! やったよおおおおおおお!」
号泣。もうなにか叫んでいるが、聞き取れない。
私は小間使いさんが拾ってくれた電話を受け取り、耳に当てた。
「蓮子、紫が酷い興奮状態だから、またあとでこっちからかけ直すね」
と言ったら、蓮子も号泣していた。何を言っているのか分からなかった。
「あ、ああ、うん、良かったね」
それだけ返したら、一方的に電話が切れた。
どうしたかと思ったら、リビングの扉が開かれ、蓮子が乱入してきた。
顔中が涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。そしてそのまま紫と抱き合った。
二人して何か言っているが、もちろん聞き取れない。
またもやリビングの扉が解放。そこには圭の側近の小間使いがいた。
なぜか彼も一緒に泣き叫び、蓮子と紫と抱き合って喜んだ。
紫は大学が終わってから真直ぐ家には帰ってこず、どこかに寄っているらしいし。
蓮子は蓮子で夜中に必ず紫を家まで送ってくる。そうして、二三言話して行くのだ。
交わすのは取り留めもない言葉である。
「ふんばりどころよ」とか「頑張りましょう」
「少し今のシーケンスの調整が必要ね」とか「引力の設定数値がおかしいのかも」
「睡眠時間だけは確保しなさい」とか「食事はバランスよくね」
私はエントランスの死角に隠れて盗み聞きするのだが、その短い会話だけでは、何をしているのか分からなかった。
かなり迷った挙句、蓮子を信用する事にした。そう、蓮子だから、大丈夫なのだ。
夏が来て、秋が来て、冬が来た。
紫の様子がおかしくなった。
いきなり笑い始めたかと思ったら、次には泣き始めたり。
怒鳴り散らしながら食器を投げて暴れたり、体を激しく掻くなどの自傷行為を行ったり。
情緒不安定だった。
夜も飛び起きて独り言をつぶやいていた。
ほとんど眠れていないようだった。
同時に言う事を聞かなくなり、私の指示には悉く反抗した。
辛い時期が来た。
蓮子に相談したら、夜中のエントランスで次の様に紫へ言い聞かせていた。
「紫、自分を制御するのよ。そうでなければ、長期間のストレスに耐えられない」
「制御って、一体どうすればいいの? あたし、スゴく辛いよ」
「気分が落ち込んでいる時は上げて、興奮している時は下げなさい」
「簡単に言うね。あたしはあんたと違うのに。一緒にしないでよ」
「おまじないを教えてあげる。拳を作って、心臓に置く。そして息を吸って、吐く」
「それだけ?」
「心が足りないから辛いの。だからもう一個足してあげるの」
「…………結局は自己暗示? そうやって子ども扱いするんだ」
「試してみなさい。中々馬鹿には出来ないわよ。それと――、」
「なに? まだあるの? いいかげんもう寝たいんだけど?」
「あなたは優秀よ。少なくとも私よりはね。それじゃあまた明日」
この蓮子の一件があってから、紫は安定しだした。
冬が深まり、一時の寒冷が終わり、暖かな春が来た。
いつもと変わらないお昼過ぎ、蓮子から八雲邸に電話がかかってきた。
私はその時昼食を食べていた。小間使いさんに「奥様、宇佐見教授から電話で――」と呼ばれ。
ああこれは凄く嫌な電話だなと直感的に思った。そして悪い予感は当たるものである。
「――紫様が大学で倒れて、――今病院に運ばれたと」
病室に行ったら、蓮子が待っていた。
「ごめん。私の監督不行き届きだ」
「紫は、大丈夫?」
「倒れた時に少し肩を打ったけど、それだけ。今順番待ちだからさ」
そこで受付に「八雲様、八雲紫様の保護者様」と呼ばれた。
医者は「過労です」と説明した。
「もっと詳しく」
「疲労度を示す物質の蓄積値が、高いです」
「どれくらい?」
「人が三人過労死するレベルです」
「具体的には?」
「推定ですが、一か月不眠ならこの数値が出るでしょうね」
「私はどうすればいいの?」
「一日七時間以上、必ず寝かせてください」
紫は病院で30時間連続で寝続けた後、退院した。
それからは私は、紫と必ず一緒に寝ることにした。
夜中ベッドから抜け出して自室に戻ろうとするので、がっちりホールドして眠る。
最初は何とか脱出しようとしていたようだが、五日連続で続いた所で諦めたようだった。
春が終わり、夏が来て、秋が来た。
「ねえママ」
「んー?」
半覚醒の夢現な状態で、紫に呼ばれた。
ベッドの中で会話することはあっても、その日の話題は異質だった。
「もし10年前に戻れるとしたら、何を変えたい?」
「私は満足よ。今のこの状態にね」うつらうつらしている状態だったので、本音が出た。
「何もしないの? 10年前から一度やり直せるんだよ?」
「あなたが居れば、幸せ。急がなくていいから、色んなことを経験して、立派に育ってね」
冬が来て、一時の寒冷が終わり、暖かな春が来た。
その日、夜中23時を過ぎても、紫が帰ってこなかった。
蓮子も紫も、連絡が取れなかった。心配だった。外に出て屋敷敷地前の照明の下で待っていた。
3分ごとに蓮子に連絡を取った。一向につながらない。
圭は北海道に出張している。もとより、子育ては私に任せられている。
圭の側近に近い小間使いさんが、私の隣に立っていてくれた。会話は無かった。
心配で身が張り裂けそうだった。言葉を紡ぐ余裕が無かった。
0時前になって、蓮子と連絡が取れた。今から帰るそうだ。
程なくして現れた蓮子と紫。こちらに歩いてくる。私は激怒していた。
蓮子が歩いて私の射程に入った。思いっきりぶっ叩いてやろうと思った。
腕を振り上げ、痛くない秘封ビンタではなく、口が切れて鼻血が出るケンカパンチをお見舞いしようとした。
そうしたら、紫が飛び込んで抱きついて来た。体勢が崩れてパンチは不発に終わった。
「ママ!」紫は歓喜していた。「すごく上手くいったの! 大前進よ!」
「明日はなにか美味しいご飯食べさせてあげてよ。紫は頑張ったよ」蓮子も満足げだった。
紫の喜ぶ顔を見たら怒りは収まってしまい、どうふるまえばいいのか困ってしまった。
「紫様、明日の朝ごはんは何が良いですか?」小間使いさんが聞いた。
「ベーコン! 焼いてほしいな! 白いご飯とみそ汁で!」
「お昼ご飯は?」
「ハンバーグで! デミグラスソース!」
「では夕飯は」
「ポロネーゼ! ソースたっぷりでね!」
「かしこまりました」
紫がぴょんぴょん飛び跳ねながら私に抱きつく。
私も一緒に喜べばいいのだろうか? 私は、何もしてないのに。
「って言うか蓮子、私、あなた達が何をやってるのか知らないんだけど」
「ああそうだね。まあもう少しで完成で、そのあと一段落したら、全部言うよ」
「今はまだ言えないのね?」
「そうだね。ごめん」蓮子は謝った。「でも、峠は越えたよ。証明は出来たから、あとは実装だけだ」
次の日は蓮子も屋敷に呼んで、一日遊んですごした。
私は、自分の立ち位置が分からなかったが、とりあえず幸せを共有する事にした。
夏が来て、秋が来た。
紫は始終うんうんと唸っている。
あれっきり、研究は滞ってしまっているらしい。
もう、一段落したのだから、教えてくれてもいいじゃないか。
私は我慢の限界だった。独自に二人の境界を暴くことにした。
新生秘封倶楽部暴きの新生秘封倶楽部個人活動である。
やることは簡単。紫の跡をつけるだけだ。
久しぶりの大学は懐かしかった。昔に秘封倶楽部の部室だったカフェテラスでコーヒーを飲んだ。
紫の講義が終わるまで待機する。あと十分で終了する。
それまでに、このチーズケーキをやっつけなければ。
と優雅に楽しんでいたら――。
「奥様」圭の側近の小間使いだった。私の傍らに立っていた。
「屋敷に帰りましょう」と言った。私を連れ戻しに来たのだ。
「ち、違うの。あなた、紫が心配じゃない?」
「奥様は、心配ですか」
「心配。というか、蓮子と何をやっているのか、知りたい」
小間使いは思考しているようだった。逡巡しているようにも見えた。
5秒ほど沈黙があった。ああ、この人は私の知らない事を知っているんだな、と思った。
「奥様、屋敷には捜索中と伝えておきます」
「逃がしてくれるの? 私を?」
「いいえ、ご案内します。奥様を捜索し連れ戻せという任務ですが、」
小間使いは耳から無線機を外し、内ポケットにしまった。
「実は私、昔に探偵じみた事をやっておりまして。尾行は得意なのです」
うそだ、こいつ脱サラして小間使いになったと、昔に聞いている。
「嘘だとお思いでしょうが。――耳寄りな情報です」小間使い、ニコリと笑い。
「紫様は講義終了10分前になると、裏門から大学を出て宇佐見教授のところに行きます」
「し、しらなかった。いや、知っていたわよそれくらい!」
「ご案内します。ただ満足したら、屋敷に帰りましょう」
裏門から少し距離を置いた所で、紫を発見した。
変装している。髪は纏めて服の中に入れて、ロングの黒髪のカツラを被っている。
上着も、私が知らない安っぽい物だ。着数を用意しているのだろう。
住宅街に入って行き、右左右左と十字路をジグザグに曲がって進んで行く。
と思ったら、十字路を三回曲がってまた同じところに来たり、何度も振り返ったり、いきなりUターンしたり。
きっと蓮子に教えて貰ったのだろう。尾行の回避法である。
「パターン化されているんです。そこが甘い所です」
小間使いは慣れていた。次Uターンしますよ、という予言も全て当てている。
「ずっと前からこんなことをやってたの? 紫の跡をつけていたの?」
「いいえ、旦那様の指示で、小間使い総出で調査しました。今は安全だと分かったので、黙認しています」
「圭は全部知っていたのね。それで見ていないふりを?」
「宇佐見教授はとても優秀な方です。この経路も、いざとなれば民家に逃げ込める安全な道です」
見てください、という。軒先を掃除している中年の女性が、紫を見てこんにちはと挨拶した。
「あの家の奥さんは、いつも必ずこの時間に軒先に出てきます」
そのほか、民家の裏口を通り抜けるとき、将棋を指す老人と棋譜を考えたり。
紫が開けた古びた門で若い学生とすれ違った時は、あの門は逆からは開かないんですと小間使いが解説した。
この時間、このタイミングで紫が通らなければ、誰かが必ず不審がると言う細工がされてある。
「つい5日前に10分紫様が遅れてここを通り、ここら一帯の皆さんは警察を呼ぶか騒ぎになりました」
そして紫が雑居ビルに入って行き、小間使いは「このビルの5F、奥の部屋です」と言った。
「ただのビルに見えますよね。しかしこのビルは耐震構造、耐火性能、非常電源、あらゆる設備でトップクラスです」
「なんでそんな設備が整ってるのよ。ここ、駅前大通りの何の変哲もない建物じゃん」
「警備、電源、防犯、防災その他もろもろのビル設備会社の社長を、宇佐見教授が嗾けました」
「コネか。コネなのか。あと、何の研究してるの?」
「それは詳しくは分かりません」
「大体のことは分かるでしょ?」
「旦那様は、紫様が結界の研究をしている訳ではないと分かって、調査を打ち切りに」
「何の研究? 分かる範囲でいいから」
私は食い下がった。小間使いの肩を掴み、ぐっと力を加えた。
双眸に力をこめた。絶対にひかないと言う意思を無言で伝えた。
「それが――、本当に概要だけなのですが――」
小間使いが私を手の平で指し示した。
「奥様を助けるために、並行世界へ飛ぶと」
私は小間使いと共に屋敷に帰ると、風呂に入り、食事をして、すぐに就寝の準備を整えた。
現在19時である。小間使い諸々には、芳香浴をするから明日の朝まで部屋に入るなと言っておいた。
アロマポットを用意し水を注ぎ、エッセンシャルオイルを数滴落とす。キャンドル点火。
コンポを用意し、ヒーリングミュージックをごくごく小さな音量で流す。
市販の睡眠薬を四等分し、そのうちの一つを飲む。あとの三つは捨てる。
部屋に芳香が広がった。服を脱ぎ全裸になり、ベッドに寝転がる。
体には何もかけずに仰向けになる。両手足は伸ばし、自然体。目を瞑る。
すぐに鈍い眠りがやってきた。あとは、強く思うだけだ。
何を考えているか知らないけれど。
やっぱり何かやるならば、私をのけ者にするのは、許せない。
―――――――。
――、気付くと、ビルの廊下にいた。雑貨ビルだ。
体を見下ろす。紫色のワンピースを着ていた。
帽子はお気に入りの物。両手は白いレースの手袋をしている。
念じると、体が浮いた。
指を立てて左から右に振ると、空間が裂け、境界が出来た。
三つでも四つでも、いくつでも境界は生成できた。
成功だった。今の私は、限りなく妖怪に近い存在である。
「ぐあああああ、分からない! 何がいけないのかわからない!」
「あと一歩なのよね。でもまあ、気長につづけていきましょうよ」
傍らの扉から蓮子と紫の声が聞こえてきた。
私は境界を裂き、空間を作ってそこに隠れた。
「あ、宇佐見、ちゃんと出力タイマ、セットしたよね?」
「大丈夫。明日来たら続きやりましょうね。今日はもう帰りましょう」
扉がロックされる音。二人分の人の気配が遠ざかる。
私は境界から出て扉の前に立つ。もちろん、暗号は分からない。何重にもロックされていた。
扉を指先で撫でる。ロックが解除された。扉が開いた。
なんてことは無い。認証と拒否の境界を弄るだけだ。
研究室へ進入。照明をつけて、はっと息を呑んだ。
壁を覆うメモの数々。驚くほどの研究量。細かな数式が部屋いっぱいに。
薬物中毒の禁断症状を発症した患者が、部屋中に意味不明の言葉を書きなぐったかのような。
部屋そのものがある種の生物の記憶領域になっているかのような。それを具現化したかのような。
膨大な知識量だった。異質だった。
正気の沙汰とは思えない様相である。
なにを意味しているのか、全く分からない。いや、――分かる。
見ればわかる。数式は計算するまでも無く、解が求められた。
覚醒状態ではとてもありえないことだ。
このようなことに妖怪化を使ったことがなかったから、知らなかったが。
なるほど、夢の状態ならば超高速に算術的な思考をこなせるようである。
蓮子と紫は、並行世界へのトラベルを実現するための装置を開発しているらしい。
しかし、ところどころ間違えている式がある。それを片っ端から直してやる。
理解した。蓮子と紫は、誤解しているのだ。
この旅は、並行世界の私を救う事にはならないと。
二人は絶望して戻ってくるだろうか。それとも、また別のパラレルへ旅を続けるだろうか。
無駄足だったと思うかもしれない。はたまた、貴重な体験をしたと思うかもしれない。
しかし、決定的な発想が足りていない。
二人の旅は時間の浪費に終わるだろう。
私は達観した。面白い。救うつもりならば救ってみろ。どうせ不可能だ。
そして蓮子と紫、二人のトラベラーに、もう一つ私と言うファクターを加えてやろう。
機器のタイマーを見た。あと計算に推定20時間必要だそうだ。待ってられない。
境界を操り、不具合を直してやった。待つ事3分。計算完了。チーン! ベルが鳴る。
この機器はトラベルを開始する前に、あらかじめ時間を設定する必要があるようだ。
30分くらいでいいだろう。電源投入。ディスプレイに文字が表示された。ボンボワイヤージュ!
研究室の景色が水あめの様に伸び、捻じれ、解け落ちた。
代わりに降り注ぐように展開されたのが、一般的マンション前の道路。
事務所と、郵便受けと、オートロックのエントランスが見える。
ここは私が大学時代に住んでいた、マンションの玄関前だと、気づいた。
裏手に回ってみる。記憶が正しければ、こちらはゴミ捨て場。やはり合っていた。
記憶通りの「当マンション居住者以外の投棄を禁じます」の張り紙がある。
ゴミ捨て場の入り口にロックがかかっていて、居住者以外入れないんだけどね。
「一応お昼ご飯はトンカツ定食を考えてるんだけど」
「お! トンカツいいね! 朝食べてからどれくらいたってる? おなか減ったよ」
蓮子の声が聞こえてきた。もう片方は、私の声だ。
自分の声を客観的に聞くと、何だか妙な感じである。
マンション裏手からこっそり正面を観察してみると、若き日の私と蓮子がいた。
「あんたは寝てただけでしょうが。まあ5時間くらいは経ってるけどね」
「図書館でいいよね? グラボスに案内させる感じで」
「そうね。図書館に行こう」
二人はこれから昼食を食べに行くようである。
こんな会話したっけな? と考えて、ここは並行世界なのだと気づく。
細かい条件や人間関係に違いがあってもおかしくは無い。
二人を懐かしみながら観察していたら、蓮子が立ち止まり、急にこちらを振り返った。
咄嗟に陰へ隠れる。視線を感じたのだろうか? 嬉しいやらなんやら、少し複雑である。
「? どうしたの蓮子?」
「いや、何でもないや。――じゃ、行こうか」
二人が離れるまで隠れたままでいた。
今から出て言って話しかけても良い。だけど、少し心配だった。
並行世界の私が見つかることでパラドックスが生じないかと。
研究をしていなくても、それくらいの発想はある。
「…………」
さて、どうしようか。本人に話しかけられないとあれば。
自宅訪問でもしてみようか、と思った。
境界を開き、自室の前に瞬間移動。
部屋の扉前にある監視カメラが、こちらに向いた。私は手を振った。
ほんの数秒間、にらめっこすると、カメラはそっぽを向いた。
どうやら人物認証システムは、私を10年前のマエリベリー・ハーンと同一人物だと判断したらしい。
さてマンション自室入口。当然ロックがかかっている。境界を操作して解除しようとして、やめた。
このマンションの錠にバイオメトリクス認証機能がある。
手袋を取り、右手甲の静脈認証へ挑戦してみる。一発で通った。なるほど面白い。
もう扉は開いているが、光彩認証にも挑戦。一発で解除。
指紋認証、解除。掌紋認証、解除。
満足して部屋に入る。
「ただいまー」
「声紋認証、解除」電子音声が鳴った。
いやそのつもりはなかったんだけども。
パラレルの私もそこそこ自室は小奇麗にしているらしい。
洗い物はしてあるし、床も綺麗に磨かれている。ゴミも溜まっていない。
洗濯機をのぞいてみたら、パジャマと下着が入っていた。
ふむ、私の下着である。と思ったら、あまり見慣れない物が――。
これは! 蓮子の物だ! 手を伸ばし、掴む。持ち上げて観察する。思わずテンションが上がる!
え、これどういうこと!? もしかしてパラレルの私って、蓮子と同棲してるの!?
すげぇ私! けっこうやるじゃん! 昨日の夜もキャッキャウフフしたの!?
いや落ち着け、まずは深呼吸だ。ひっひっふー。
そうだ、同棲しているか証拠を掴まなくてはならない。
リビングに戻り見回してみると、据え置き型の量子コンピュータを見つけた。電源を入れる。
10年前だ。やはりマシンのスペックは劣る。しかし動けば十分。
勝手にログインされたアカウント。すぐさまログアウト。
もしパラレルの私が私と同じならば、自分のPCにやることも同じはずだ。
ユーザの切り替え。秘密のアカウント名とパスワード。エンタープッシュ。通った!
ふははははは甘いなパラレルマエリベリーよ、パラレルの自分しか知らない単語にするべきだったな!
さて目当ては、日記である。
私は大学時代、自分のPCに秘密のアカウントを作り、日記を書いていた。
このアカウントはネットにつながらないスタンドアロンの設定をしている。
遠隔操作は出来ない。ローカルからのみ閲覧が可能である。
パソコンの設定時刻。きちんと十年前である。
ローカルの記憶領域。プログラムフォルダの奥の奥の奥の奥。
見つけた。限定アカウントによる閲覧可能ファイル。
隠しフォルダ設定の日記テキストである。
ふむ、日記を読む限りだと、今の私と違いは特に見受けられない。
あと、最新の日記が二日前になっている。こういう時は大抵、蓮子が泊まりに来た時である。
当然この部屋に蓮子がいるので、日記なぞ書ける訳も無く。
なあんだ。落胆した。蓮子はここに泊まりに来ただけか。そうなればもう想像がつく。
私が料理を作って、蓮子と一緒に食べて、酒でも飲みながら映画を観て、寝るくらいだろう。
アカウントを切り替え、再度共有の方でログインする。
世間のニュースを見る。特に変わったことは無い。
そこでぶるりと身震いが来た。
ああ、と思った。そろそろ30分か。トラベル終了である。
端末はシャットダウン。照明も消して、部屋から出る。きちんと施錠。
扉のドアノブを掴み、鍵が掛かっていることを確認して――。
ここに来た時と同じように、景色が解け落ちる。研究室に戻ってきた。
手足を動かしてみる。異常はない。
夢の中の、妖怪状態の私である。
もう、満足だった。蓮子と紫の目的が分かったし、10年前の私にも会えたし。
研究室から出て、ロックも忘れずに掛ける。雑貨ビルの廊下で自分の頬をつねる。
起きた。起床した。八雲邸のベッドの上で、全裸の状態の私に戻ってきた。
もういいや、このまま朝まで寝てしまおう。しかし、アロマとヒーリングミュージックは要らない。
照明をつけて立ち上がって、自分の右手に握られているものに気付いた。
あ、10年前のパラレル蓮子の下着、持ってきちゃった。
翌日、リビングでくつろいでいると紫が起きてきた。朝10時である。
「紫、今日大学は?」
「おやすみだよママ。ご飯食べたらもう少し寝ようかな」
眠い目をこすりこすり。大分疲れているようだ。
紫、あなたの研究室見てきたわよ頑張ってるわね、と言おうとして、やめた。そっとしておこう。
朝食に紫が箸をつけ始めた所で、電話が鳴った。小間使いが出る。
「はい、はい、いらっしゃいます。はい、代わります」
と、紫に電話を差し出してくる。「宇佐見教授です」
「なにー? あたし今ご飯食べてるんだけどもぉー」
なにか蓮子がまくし立てているようだ。聞こえはするが、何を言っているかは聞こえない。
ただ、何か良い事があったのだなと思った。そしてこの予感は、よく当たるものである。
紫の半分閉じかけの眼が次の瞬間見開かれ、二本の箸は足元に落ちた。
「ほんと!? ほんとに!? マジで!? いやったああああああああああ!」
紫、絶叫。強く握りしめた拳を高く掲げ、その場に立ちあがった。
椅子が後ろに倒れ、けたたましい音を立てる。
「ママアアアァァァアァ!!」
そして、こっちに突っ込んできた。喜びの爆発的推進力である。
腹筋を硬くして受け止めた。痛い。ついでに顔面をぐりぐりして来るので、痛い。
「うわああああああん! やったああああああ! やったよおおおおおおお!」
号泣。もうなにか叫んでいるが、聞き取れない。
私は小間使いさんが拾ってくれた電話を受け取り、耳に当てた。
「蓮子、紫が酷い興奮状態だから、またあとでこっちからかけ直すね」
と言ったら、蓮子も号泣していた。何を言っているのか分からなかった。
「あ、ああ、うん、良かったね」
それだけ返したら、一方的に電話が切れた。
どうしたかと思ったら、リビングの扉が開かれ、蓮子が乱入してきた。
顔中が涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。そしてそのまま紫と抱き合った。
二人して何か言っているが、もちろん聞き取れない。
またもやリビングの扉が解放。そこには圭の側近の小間使いがいた。
なぜか彼も一緒に泣き叫び、蓮子と紫と抱き合って喜んだ。
メリーの頭が良すぎてちょっとびっくりした。
世界の仕組みが分かっている蓮子よりも凄いような…?
元サラリーマンの小間使いの使い方が上手すぎたるだろうwww これは面白いぞ。
続きが気になる。
淡々とした文体が魅力です。ところでサラリーマン。