山頂の神社に、にぎやかな笑い声が響き渡る。
「ぼく、よく来たねー。ちゃんといい子にしてたかな?」
風祝が、女が抱いた赤ん坊に笑いかけると、赤子は手を伸ばして笑った。
「そ、その仕草、その笑顔、反則です……!」
風祝こと東風谷早苗は、竹ぼうきを抱きしめるようにして身悶えする。
女は、息を弾ませながら微笑み返した。
「ありがとうございます。神様のご祝福を賜ろうと、参りました」
「ご参拝、お疲れ様です! 赤ちゃん連れての登山は、大変だったんじゃないですか?」
「里の分社にしようかとも思ったのですけれど、やっぱりどうせなら本山がよいかなと思いまして。ゆっくり三日ほど掛けて参りました」
「それだけの信心がおありなら、きっとうちの神様もお応えしてくれますよ!」
「途中で借りた河童さんたちのお宿、とても居心地がよかったわ。教えていただいた通り、キュウリの包みを持っていったら、それはもう親切にしてくれて」
「それは良かったです。ささ、お茶お出しします。こちらにどうぞ」
早苗は、婦人を境内の長椅子に案内すると、お茶を汲みに、社務所裏の勝手口へ回った。
いまだに、鼻息荒く頬を上気させている。
「ああ……なんで、赤ちゃんはあんなにも可愛いのでしょう!」
「そりゃあ、過去を背負って未来へ続けてくれる、大切な命だからねえ。人間が赤子を可愛く思うのは道理さ」
早苗の言葉に、後ろの声が答えた。
振り返ると、この神社の二柱が一角、諏訪子が機嫌よさそうに笑っている。
「諏訪子様も、赤ちゃんはお好きですか?」
「もちろん! そういえば、こないだ羊羹仕入れてたでしょ。あのお母さんに、出して上げなさいな」
「はい!」
早苗はお茶を湯呑みに注ぐと、諏訪子に言われたとおり、羊羹を切って小皿に乗せた。
お盆を手に表へ向かう。
そこで、突然暴風が巻き起こった。
早苗は体勢を崩し、お盆に乗ったお茶が倒れる。そして、茶を手へ引っ掛けてしまう。
「あつッ――」
早苗は、お盆から羊羹皿を滑り落としてしまった。
地面と接触するかと思われた羊羹皿が、ぎりぎりのところで掴み上げられる。
手の主を見ると、左右に髪を結った天狗少女が、気まずそうに笑っていた。
「……ごめん、大丈夫?」
天狗少女、姫海棠はたてはそう謝罪すると、ふわりと地面に舞い降りた。
「早苗、手、大丈夫かい!?」
「平気です、諏訪子様」
「水で冷やしておいで!」
早苗は頷くと、勝手口に戻っていく。
諏訪子は、苦笑いしているはたてを睨みつけた。
「ちょっと、危ないじゃないか。うちの風祝に何してくれてるのさ!」
「あー……あまり外に出ないもので、力加減間違えちゃって」
「言い訳はいいよ。それより、言うことがあるんじゃないかい」
「えっと、ほら、羊羹はお皿に張り付いてて、事なきを得たみたいですし」
「だから、そういうことを言ってるんじゃ……」
諏訪子ははたての持った羊羹皿を見ると、鼻を鳴らして歩き出した。
困ったように目で追うはたてに、諏訪子が言う。
「何ぼさっとしてるんだ。それもってついてきな」
はたてと諏訪子が表に回ると、境内の長椅子で先ほどの女が赤ん坊に乳をやっていた。
「赤ちゃんだ……」
目を丸くして赤子を見つめるはたてに、諏訪子は厳しくしていた顔を少し緩めた。
「なんだい。お前さん、赤ん坊も見たこと無いのか」
「写真や資料ではあるけど、生では初めて……です」
「その調子だと、あの赤子を攫いかねないね」
「そ、そんなこと、しないわよ!」
「まあいい。その羊羹、あのお母さんに渡してあげて」
はたては、なんで私がと慌てふためくが、諏訪子に睨み付けられて渋々歩いて行く。
母親の前まで歩み寄ると、おずおずと羊羹皿を差し出した。
「あ、赤ちゃん。可愛いですね」
「ありがとう」
母親はそう礼を言って、たおやかに微笑んだ。
はたては羊羹皿を長椅子に置くと、何故か顔を赤くして、そそくさと諏訪子の元に帰ってくる。
「何、顔赤くしてるのよ」
「ああいう笑顔、何か苦手……なんです」
「捻くれてるねえ」
「うう……あの、帰っていい?」
「お前さん。一体、何しに来たんだ?」
呆れたように言う諏訪子に、はたては髪の先をいじりながら答える。
「いや、現地取材の練習がてら、ただ立ち寄っただけなんで……」
「はあ……それで、うちの風祝を傷物にして、帰ると」
「ええ!? それは大げさすぎでしょ!」
その時、早苗が湯呑みを載せたお盆を持って、裏口から出てきた。
赤子に乳をやっている母親の隣に、お茶を置く。二、三言葉を交わして、諏訪子とはたての所に歩いて来る。
「こんにちは。姫海棠はたてさん、でしたよね?」
「こ、こんにちは」
にこやかに挨拶する早苗に、はたてが気まずそうに視線を逸らして挨拶を返す。
諏訪子が心配そうに尋ねた。
「きちんと冷やしてきたかい?」
「はい。この程度、妖怪退治に比べれば何でもありません!」
胸を張り力強く答える早苗に、諏訪子は困ったように肩をすくめて見せた。
「とは言うがね。こっちは被害を受けたんだ。何か代償がないなら、それなりの報いを返さないとね」
そう言って諏訪子は、はたてに鋭い視線を向ける。
「な、何よ!」
はたては、小さく身震いすると慌てて空に舞い上がり、一瞬後には彼方に飛んでいってしまった。
「まったく……ほんと、呪ってやろうかしら」
「諏訪子様。本当に大したことないので、大丈夫ですから」
むすっとした様子の諏訪子に、早苗が苦笑する。
「はたてさんも最近まで、あまり外に出ない方だったらしいので、人との接し方に慣れてないんですよ、きっと」
「まあ、そりゃあ、あれを見てればわかるけどさぁ……」
諏訪子は釈然としないと言った感じで腕を組んでいたが、優しげな目で親子を見ている早苗に気がつくと、同じように表情を緩めた。
「家族はいいものだね、早苗」
「そうですね、諏訪子様」
その後、諏訪子は親子に祝福を与える神奈子達を見物し、早苗から茶と羊羹を受けとった。
そして、神社の裏手から少し下った所にある、木々で囲まれた井戸へ向かう。
その縁に腰掛け、茶を飲み始めた。
この井戸は、守矢神社が来る前からこの山にあったものだ。
水は枯れてはいないが、少し不便なところにあるため、今は使われていない。
訪れる者もないので、一人でのんびり時間をつぶすときや、思案したいときなどに、よくこの場所を利用していた。
羊羹も食べ終わり、茶も飲み干したところで、気配を感じ、その方向を向く。
木陰から、気まずそうな顔をしたはたてが、姿を出した。
「……おやおや。さっきのでは飽き足らず、今度は憩いの時間もぶち壊しに来たのかい?」
「ええ!? いや、そんな気は……」
はたては困ったように頭をかくと、今まで逸らしていた視線を諏訪子へ移した。
「機嫌良さそうだから。大丈夫かなって。さっきのアンタ、ものすごく怒ってたし……ちょうど良さそうなタイミング待ってたのよ」
「タイミング?」
その言葉に、諏訪子は意外そうな顔で見つめ返す。
人見知りの激しい、他人の機微に疎い娘だと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
鼻の頭を掻いている天狗に、諏訪子はひらひらと手を振って見せた。
「まあ、今はお前さんの言うとおり、それなりに機嫌は良いよ。それで、わざわざ戻ってきたのは、どんな訳なんだい」
諏訪子の問いに、はたては背負った麻袋を下ろして、手に抱え直した。
「アンタのとこの風祝に悪いことしちゃったから……お詫びに来たのよ」
そう言って、それを差し出した。
諏訪子は訝しげな顔をしながら受け取ると、中身を見て感嘆の声を漏らす。
「……へぇ。ずいぶんとまあ、上等な酒じゃないか。こっちは、……缶詰? 久々に見たよ」
麻袋の中には、大吟醸の大瓶が三本、そして貝などといった海産物の缶詰が、たくさん入っていた。
「お酒あまり詳しくないから、良さそうなのを適当に選んできたわ。神様ってお酒好きなんでしょ?」
「まあね」
「その缶詰は、私が好きで市場に出回ってるときに買い貯めてあった、秘蔵の品よ」
諏訪子は一通り中身を確認すると、はたてに視線を向けた。
天狗娘はその視線に気がつくと、気まずそうに視線を逸らした。
諏訪子はふむと息をつき、麻袋を脇へ置いた。
態度は悪いが、この子はこの子なりに、罪悪感を感じていたと言うことだろう。
「さーて。もう、お詫びはしたし、帰るわよ」
そこで、諏訪子は大きく溜息をついた。
「少し感心したと思えば、お前さんというやつは……」
そして顎に手を当て、値踏みするようにはたてを見た後、言った。
「……ちょっと、ここ座れ」
「え……何よ?」
「酒に付き合いなさい」
「ええ!? い、嫌よ。私お酒ってあまり好きじゃないし……」
「お前さん、本当に天狗なの?」
「そう言うのが嫌いだから、家に引きこもってたのよ。アルハラよ、アルハラ!」
「やれやれ。でも、詫びに来たってんなら、少しくらい付き合ってくれてもいいんじゃないの?」
「うう、そう言われると、まいっちゃうわね……」
はたては嫌そうな顔をしながらも、渋々といった感じで、諏訪子の隣に腰を下ろした。
「でも、コップないわよ。どうするのよ? ラッパ飲みなんて嫌だからね」
諏訪子はにやりと笑うと、ホタテ缶詰の一つを取り出した。
この缶詰は、外の世界にいたときに見たことがあった。切り口が鋭利にならない、特殊加工されたタイプである。
諏訪子は、その缶詰を開けて、中身をさっきまで羊羹が載っていた器に移した。
そして、井戸から水を汲むと、その缶詰を水ですすぐ。
「さあ。お前さんはコレで飲みなさいな。私は、この湯呑があるから」
「えええ!? 缶詰で!?」
「さっき、酒はあまり飲まないって言ってたじゃない。どうせ、あまり酒の味も分りゃしないんだ。これで十分よ」
そう言うと、大吟醸を景気よく開封した。
「さあ、飲むわよ!」
「うええぇ……」
「諏訪子! さっさと次の缶詰、開けなさいよ!」
「ちょっと……神様を呼び捨てって、あんまりじゃないかい」
諏訪子は、この天狗を酒に同席させたのは間違いだったんじゃないかと、後悔し始めていた。
始めはあんなに嫌がっていたくせして、缶詰半分も飲んだ頃には、この有様である。
傍若無人もいいところだ。無礼講どころの騒ぎではない。
目を座らせたはたてが、ぎろりと諏訪子を睨みつけた。
「ああん? アンタみたいな幼女神様なんて、ちっとも怖くないわ!」
そう言うと、はたては諏訪子の腰を両手でつかみあげる。
突然のはたての行動に、諏訪子は不意を突かれて、抵抗することなく持ち上げられてしまう。
「ちょっと!? 何するの!」
そして、はたては諏訪子をボールのように空中へ放り投げ、落ちてきたところで受け止めるという行動を繰り返す。
「アンタなんかー、赤ちゃんと変わらないわ! ほら、タカイ、タカーイ―――痛ッた!」
何度か放られて、受け止められる直前、諏訪子ははたての頭を踏みつけて、地面に着地する。
頭を足蹴にされたはたては、涙目で諏訪子を睨みつけた。
「何するのよ! このバイオレンスロリ!」
「それはこっちのセリフだ! あんた、酒癖悪すぎよ! くっそ、放り投げられたせいで、頭がくらくらするよ、ったく!」
「罰よ、罰! いい気味ね!」
「罰は神が下すもんだ! ほんと、お前さんというやつは……そのくらいで済んで、感謝して欲しいくらいだわ」
諏訪子は、今日何度目か分からない、大きな溜息をついた。
そんな諏訪子を見て、はたては肩を上げて首を振る。
「しょうがないわねえ。自分で開けるわよ。もっと細かな気配りが出来ないと、信仰なくなっちゃうわよ?」
「くっそ、コイツ……」
エスカレートするはたての無礼に、諏訪子は額に青筋を浮かべる。
しかし、ここで怒ったら何故か負けな気がして、何とかそれを押さえ込んだ。
当の天狗はそんな怒れる神に、全く気づく気配はない。
「ねえ、諏訪子。何か楽しい話とかないの? そうだ、あれよ。さっき赤ちゃんいたじゃない」
「それが、どうかしたのかい」
「アンタが赤ちゃんだった時って、どうだったのよ?」
コイツは何を言い出すのだ。
諏訪子は疲れでぐったりしたように、頭を俯かせた。
「私は、神だってーの! 赤ちゃんだった時なんて、ないわよ! 信仰から生まれた存在だもの!」
「あー、ならそれでいいわ。その話、聞かせなさいよ」
よしいいぞ、さあ話せと言わんばかりの尊大な調子で、はたては酒の入った缶詰を傾ける。
諏訪子は、今までのとはまた違った不機嫌な顔になる。
「……嫌よ、なんで私が、そんなこと話さないとならないんだ」
そう言って、諏訪子は湯呑に口をつけた。これ以上言うことはもう無い、そんな感じである。
はたては、やれやれと頭を振ると、思いついたようにポケットへ手を突っ込んだ。
「しかたないわねえ。じゃあ、コレで対戦しましょうよ」
そう言って、はたては携帯電話を取り出した。
画面を見ると、ゲーム画面が写っている。
ブロックを一列に並べて消すという、有名なゲームである。
「これで、よりスコアが大きい方が勝ち。勝ったら、相手から話しが聞けるのよ。どう?」
これは、と諏訪子は思った。
外界に居たときに、有り余る暇を費やしたゲームの一つだ。
当時、諏訪子が叩き出していたスコアは、まさに神の域と言うにふさわしいものだった。
「……結構。その勝負乗ったろうじゃないの。負けたら、相手の質問に答える。嘘偽りなく、ね」
この天狗の、恥ずかしい話をたくさん聞き出してやろうじゃないか。
「いいわよー。でも、い・い・の・かしらぁ? そーんな条件、つっけちゃって?」
「御託はいい。さっさと、はじめるわよ。私にそのゲームで挑んだことを、後悔させてあげるわ」
諏訪子は携帯を受け取ると、にやりと笑い、ゲームを開始した。
「なに、これ……」
神は、自らの起こした結果に呆然としていた。
隣から覗き込んだ天狗娘が、呆れたように言う。
「ちょっとアンタ。スコアゼロじゃないのよ。あんな自信ありげだったのに。何さ、この体たらくは?」
諏訪子は一列も消すことなく、ゲームオーバーしてしまっていた。
予想していたゲームとは、色々違うものだったのだ。
横の列が想定していたものの十倍近くあり、本来の4個の四角で構成されていたはずの落ちブロックが、6個で構成されていた。
そして何より、それが8個同時に、鬼速度で落ちてくるという仕様。
まさに、ムリゲーであった。
「私が知ってるやつと、違うじゃないのさ!」
「んなこと、知らないわよ。勝負受けたのは、アンタでしょうが。ちなみに、私はそれ、三日間ぶっ続けでプレイしたのがハイスコアよ。どう、ちょっとは見直した?」
ふふんと胸を張るはたてと対照的に、身をちぢこませる諏訪子。
この天狗を侮っていた。
伊達や酔狂で引きこもっていた訳ではないということか。
どんなやつにも、びっくりする能力のひとつやふたつ、あるものなのだろう。
こんな、しょーもないことだろうと。
なんにせよ、相手のホームグラウンドで舐めて掛かったのは自分だ。
後悔、先に立たずである。
諏訪子が観念したように視線を上げると、はたてがいやらしい笑みを浮かべ、待ち構えていた。
「さぁて、聞かせてもらいましょうかね。アンタの嬉し恥ずかしの出自話を!」
そう笑って、はたては諏訪子の湯呑に酒を注ぐ。
諏訪子は、注がれたそれを一気に飲み干した。
「あー、もう! 分かったわよ……楽しい話じゃないけど、後悔するんじゃないぞ!」
「なーに言ってるんだか。そう簡単に、このはたて様から言い逃れできると、思わないでよね」
諏訪子は、身を乗り出し顔を覗き込むはたてに、軽くデコピンを食らわせて、貝のつまみを一つ口にした。
「一つ言っておくけど、他人には話さないでよね。神奈子にだって話したことないんだから……」
「はいはい、分かったわよ。私だって鬼じゃないわ。天狗だし」
「酔ってんのかい? ……まあ、頼むよ」
諏訪子はそう念を押すと、こほんと小さく咳払いをした。
「……私は、とある五十人ほどの集落の願いで生まれたのよ」
諏訪子がそう恥ずかしそうに小さく呟くと、はたてが意外そうな顔を向けた。
「五十人? そんな少人数の願いで、神さまなんて生まれるもんなの?」
「少ないね。まあ、それだけその集落の信仰が、篤かったってことさ」
諏訪子は苦笑する。
「その集落は、とても危機的な状況にあったんだ。その恐怖から逃れたいという願いが、私を生んだ――以上!」
「ええ? ちょっとちょっと、締め括るの早すぎ! 危機って何よ。そういう細かいところ、きちんと説明しなさいね!」
「お前さんには刺激が強いかもだけど、聞きたいかい?」
「何? 私のこと舐めてるの?」
「はあ。わかった、話す、話すから帽子をいじるな! たく……その集落はね、熊に襲われていたんだ。冬ごもりに失敗した熊にね」
「熊?」
頷くと、諏訪子はずらされた帽子を直しながら語る。
「ある日、女が一人攫われたんだ。荒らされた様子から、熊が原因ではないかと言うことになった。そこで、集落で討伐隊を組織し、男どもが退治に向かったんだ。でもね……その集落の人々のほとんどが、農作物を作るか、湖での漁業かが生業だったの。そんな訳で、武器や弓も扱いに慣れたものはいなかった。加えて、厳しい天候、装備の不足、飢えでの体力低下。色々と不幸も重なってね。まあ、返り討ちさ。男たちはほぼ全滅した。命からがら戻ってきたのは、男達の中でも年かさな荷運びの壮年男一人だった。戻った男の話を聞いた集落の人々は、そりゃもう恐慌したさ」
そこで、諏訪子は一息つく。はたては、諏訪子の湯呑に酒を注いだ。
「でも、熊はその日を境に、襲って来なくなった。何故だか、わかるだろう?」
諏訪子は、イカの干物の足を食いちぎって飲み込んだ。
そして、そのイカを振って見せる。
「餌がたくさんあったからさ。わざわざ、出向いてきてくれた、たくさんの餌がね。けど、そんな餌もいつかは無くなる。また、熊は集落を襲い始めた」
一本、また一本とイカの足を食いちぎって、口へ運んでいく。
「一人二人と攫われ始める。現場はそりゃ、悲惨なもんさね。置いてかれた手足や頭が散らばっているなんてざらだ。先の討伐失敗で男はほとんど殺されてしまっていて、残ってるのは女子供、老人くらいだ。そのうち、熊は集落に脅威が無いと分かると、その場で食事をするようにもなった。同じ村の中で、同胞が喰らわれてるんだ。この恐怖がわかるかい? 運悪く致命傷を受けないで、生きながらに長時間掛けて食われた奴だっていた。ずっと、ずっと叫び声が、響き渡るんだ。戦える者はもういない。このままじゃ、集落の人々が熊の胃袋に収まるのも時間の問題だったって訳だ」
そう言って、最後に残ったイカの頭を口へ放り込んだ。
「人々は、もうひたすらに祈るしかなかったのさ。その頃から集落では、蛇に祈りを捧げるようになってね。熊は蛇を避ける傾向があるから、それから来た迷信だったのかもしれない」
諏訪子は、手で近くに落ちていた石ころを拾い上げた。十寸無いくらいの大きさの、楕円の石である。
「各家々では、丁度これくらいの、細長く削った木や、細長い石ころを蛇の神様として祀り、祈った。ひたすらに、必死に祈り続けた。想像を絶する恐怖から発せられた、一途な生への渇望。何よりも強い意思だ。その願いは一つの偶像へと向けられた……――そして、私は生まれたのさ」
「でも、アンタって蛇っていうより、どっちかって言うと、蛙でしょ」
「まあね。だから、生まれた当時は、なんていうのかね。ただの白く細長い、蛇のような形をしたモヤだったよ。私の姿は」
「それから、アンタは人々を救ったってことか」
「そう言えば聞こえはいいけど、つまるところ、自分たちの脅威を消してくれってことだからねえ。もっと簡単に言えば、殺してくれってことさ。私の生まれた理由は、生き物を殺すこと。祟ることだったんだ。わかるかい。私の本質は、祟り。殺しなのさ」
諏訪子が手に持った石ころを両手で包み込むようにすると、ジワリと黒いモヤのようなものが溢れ出してきた。
はたてはそのモヤに嫌なものを感じて、身を引いた。
神は嗤うと、モヤを消して、石を放り投げた。
「人を呪わば穴二つ。呪いには対価が必要だ。でも、対価はもう十分に支払われていた。この場合、材料と言うべきか。死んだ人間たちの、絶望や怨嗟、ドス黒い魂魄と言ったものを纏めて練り上げ、熊に注ぎ込んでやったんだ」
そう言うと、諏訪子は口元を釣り上げて、はたての缶詰盃に少量ずつ、ゆっくりと酒を注ぐ。
天狗娘は、じっと注がれた酒を見つめる。
ごくりと、喉を鳴らした。
「そ、それで。どうなったの?」
「人間たちの願いは、とても強力なものだった。その人食い熊以外の熊へも呪いは影響し、その冬のうちに、その集落周辺の全ての熊は、死に絶えた。……一匹残らず、ね」
祟神は暗い瞳で、天狗の少女を見つめる。
はたては、固まったまま諏訪子を見つめ返す。
暫くそうしてから諏訪子が視線を外すと、はたては息をするのを忘れていたかのように、むせて荒く呼吸を繰り返した。
「どうだい。ちょっとは、この諏訪子様に、恐れを抱いたかい?」
そう諏訪子がにやりと笑うと、はたては自失したような表情をあらため、鼻を鳴らした。
「……私だって、熊くらい退治できるし! 熊もアンタも、怖くないし!」
「ああ、天狗のお前さんなら、確かに熊くらい退治できるねえ。ったく、ほんと一言多い娘だよ」
「……ねえ、それより、それからどうなったのよ?」
「ん? まあ、役目は終わったけど、集落の信仰は衰えず、逆に増して行ったね。だからその後も、その集落の連中を見守って過ごしたよ」
諏訪子は、さあ終わり、といった感じに体を楽にして酒を飲み始めた。
天狗が空を仰ぎ見て、また神に視線を向ける。
「まだまだ、時間はあるわよ! もっと話聞かせなさい!」
「えー……まだ話さないと、ダメなのかい……」
「そりゃそうよ。アンタは、勝負に負けたんだから。そうねー、その過激センスの帽子とかの由来も是非お聞きしたいわねえ」
そこではたては、思い出したように缶詰盃を、井戸縁にコツンと叩きつけた。
「というかあれよ! アンタの今の姿と、さっきの話の姿、全然違うじゃない。さっきの話から、続く形でその変体経過説明をお願いするわ!」
「うわー、何その面倒くさい要求は……」
「敗者は口答えしない」
「ほんと、怖いもの知らずね、お前さん……」
諏訪子はいかにも面倒くさいといった感じでそう言ったが、つまみを口に入れ、酒を一口含むと微かに笑った。
「長い話になるけど、いいのかい」
「上等よ。時間なんて、有り余るほどあるわ。珍しく私が、ご老体の昔話に付き合うのもいいかもしれないって気持ちになってるんだから、ありがたく思いなさいよ」
「……お前さん、ホントいつか痛い目見るよ」
諏訪子は溜息をつくと、また遠くを見るような顔をして語りだした。
私は人々を守った神として、崇められるようになった。
集落の人間たちは、近くの山裾の、蛇が多く生息するじめじめとした洞穴に祭壇を設け、蛇の形をした石ころを祀った。
そんな訳で、そこが私の居場所となったんだ。
男たちの多くは熊に殺されてしまったが、まだ小さな子供の中に男はいた。
だからまあ、力不足だとか、多少の問題はあったが集落は立ち直っていった。
人が減ったことで、不作であった作物がそこまで問題にならなかったのが、不幸中の幸いといったところか。
私は時折集落を訪れては、人々を観察していた。
基本的には、願いを受けたときに、信仰に応じて、それを執行するという感じだったけどね。
それから幾年日は、健全、平和、幸福。そんな願いが捧げられた。
そして、しばらく経った頃かな、生贄も捧げられるようになった。
その生贄は、なんていうのかね、生まれた時から、人として五体満足じゃない者たちだった。
ある者は、手足がなかったり、脳がなかったり、そう言った連中だ。
生まれてくるときに、神様が食べ残してしまったもの。そういう名目で贄として捧げられた。
そう言った人間たちは、当時の厳しい環境では、その後生きたとしても、すぐに死んでしまっていたに違いない。
洞穴に贄として捧げられた時点で、すでに死に絶えていたものも少なくない。
生きられたとしても、不幸な人生を歩む結果となった者が殆どだろう。
贄として捧げられる当人たちからしたら、そんなことは無いのかもしれないけど、やっぱり世話をするという人手などを考えると、どうしても足でまといになってしまうという人間たちだった。
そんな者達を罪悪感を緩和して処分することが出来て、且つ信仰の心も満たせるという、とても合理的なシステムだったんだ。
つまるところ、ていのよい口減らしだね。
集落は大きくなり、人の数も数倍の規模になっていた。
その頃からだろうか。
人々の願いに、変化が現れてきたのは。
大体の願いは、前の願いと同じ、豊作や健康などを願うものが多かったが、中にある人間を殺してくれと願うものが出てきたんだ。
自らの命を脅かす存在ではないというのに、そう願う者が現れた。
私はこれに混乱した。
集落全体の願いとして生まれた私としては、その一部である人間を呪い殺すというのは、なんというか、道理にかなわないように思えた。
信仰から生まれた私は、人間の気持ちの機微など、全く理解し得ないものだった。
理不尽、不可解、非合理、そんな願いをする者が、日増しに増えていった。
ある人間を救ってくれと願うかと思えば、殺してくれと真逆の願いをする者もいた。
人間というやつは、本当に理解に苦しむ生き物だった。
そんな時、珍しいことがあった。
いつもどおり、洞穴の岩戸が開くと、贄が運ばれてきたのだが、その贄が三、四歳ほどの少女だったのだ。
見た感じ、どこにも異常は無い。強いて言えば、髪の色が他の人間と違い、狐の毛のような色であったことか。
過去に、集落に流れ着いたよそ者に、そんな髪の色をしたものがいた。
その血を受け継いでいた者なのだろう。だが、それだけでは贄の理由足りえない。
それに、この年齢になった人間が贄に選ばれること自体が、あまりないものなのだ。
大人たちは少女を洞穴に取り残し、岩戸を閉めた。
少女は特に手足を縛られたりしていなかったので、小さな採光穴から明かりが入るだけの、暗い洞穴を歩き回っていたが、頭をぶつけ、石につまずき、疲弊してそのうち動かなくなった。
私は興味を惹かれ、歩み寄り姿を確認して、そこでようやく合点がいった。
その少女は、盲目であったのだ。
きっと、親が気づいた時には、すでに贄に出すのに躊躇うほどの時間を過ごしてしまったのだろう。
何故か、人間は共にいた時間が長ければ長いほど、その者を大事にする傾向がある。
親は娘を贄に出したくなくて隠していたが、他の人々に見つかってしまった。
生まれながらの盲目はもちろん、神に目を食された者として、生贄の対象であるから、それに従う他ない。
私は、そこでちょっとした実験をしてみることにした。
彼女の体を貰い受けるというものだ。
今までの贄は、それ自身は朽果てるのみで、それを捧げる者たちの信仰心を高める役にしか立っていなかったが、はじめて贄自身を役立てる訳である。
この少女は生まれてこの方、ずっと盲目であった。
それは即ち、俗世の人の見識に浅い、常識に疎いということでもある。
人の世を見ていない、まだ柔らかい感覚。それでいて、生まれてすぐの赤子よりも大きく育った体と頭。
この器なら、私の精神を受け止めることができるのではないかと思ったのだ。
私は少女に語りかけた。願いはないか、と。
少女は一言、死ぬのは嫌、と言った。
私は、その願いを叶えてやった。
この少女の魂を取り込み、可能な限り、生き永らえてやることにした。
それから数日後、大人たちが洞穴を訪れた。
そして、中で驚くこととなる。贄として捧げた少女が、まだ生きていたからだ。
私が神力の一部を用いて、最低限の生命維持を行った結果である。
そして、もうその体は少女のものではなく、私のものであった。
私は男の一人に歩み寄り、言った。
「ここから出たい。連れていけ」
相手は、信心深い人間であったのも影響したのだろう。
私の言霊を受け、その命を果たすべく、私を洞穴から連れ出した。
他の大人たちが、その行動は神に対する冒涜だなど文句を言ったが、私の命を受けたその男を止めることはできなかった。
私は集落の、ある老婆の家へ連れて行くように指示した。
その老婆は、この集落でも抜きん出て長生きしていた老婆で、他の人間たちから影婆と呼ばれていた。
また、霊的な感能力が生まれつき高く、神体である私の声を聞くことができたので、何度かその老婆の夢に出向き、指示を与えたこともあった。
それゆえ、人々からは益々恐れられ、集落の中でも飛び出た発言力を持ってもいた。
影婆は私の姿を見ると、少女の体を借りた神であると、即座に理解した。
「お前たち、この幼子は、神の化身ぞ。失礼な振る舞いをすれば、直ちに祟りが下るであろう」
影婆の一言で、人々は私を神の化身と畏れ見るようになった。
また、私が神力を用いて、盲目にも関わらず周囲の状況を理解していたというのも、その一因を担っていたのだろう。
この娘の体の両親のうち、父親は病で死んでいた。
母親は健在であったので、私は母の元へ帰ることになった。
家に帰ると、母は泣いて喜んだ。
私を抱く母は温かくて、今まで感じたことのなかったその感覚に、戸惑いを覚えたものだ。
本当の娘ではないと伝えるべきだと考え、私はその母に言った。
「私は、もうお前の本当の娘ではない。この娘の体は、神である私が貰い受けたのだ。この娘の魂魄は、私の精神と融合してしまっていて、もはや元の娘のものではない」
だが母親は、頭を振って私を抱きしめるだけであった。
しばらく抱きしめられたあとに身を離すと、自分の腹を愛おしそうに撫でる。
「それでも、あなたは私の娘なのですよ。そして、このお腹にはもう一人、赤子が宿っているのです。あなた様が神様の化身であるならば、このお腹の子の無事をお願いしてもいいでしょうか?」
「人の身に移っている今は、神体である時のように力を振るえない。それでも、子を差し出したお前の信心に報い、その子を出来うる限りで、守ると誓おう」
私は人の身になったことで、神力のほとんどを振るえない状態であった。
できることといえば、信仰篤い者たちに精神的な影響を及ぼすこと、身体の多少の強化、周りの気配を探るということくらいであった。
しかし、危惧はなかった。
何故なら、この身が朽ちようとも、私の存在に何ら影響はないからだ。
しいて懸念を挙げるとすれば、私の存在基盤である集落の人間が、全滅してしまうことだろうか。そうなれば、信仰が無くなり、私は消えてしまうだろう。
だが、それは杞憂である。集落も人口が増え、大分安定していた。一時的に私が力を振るえなくとも、集落の人間達が死滅するなどということは、そう起こることではない。
私がこの体を貰い受けた理由は、一時的に人の身に下り、その理解し難き心を知ろうということであった。
神の化身と言われた、私が住まう家である。
他の人々が、食料や身の回りの世話を焼いてくれていたのもあり、何の問題もなく、母は無事に子を出産した。
その赤子は女の子だった。私に、妹ができたわけだ。
しかし、出産に負担がかかったのか、子を産んですぐに、母は亡くなった。
その後、私と妹は影婆に引き取られた。
影婆の下で月日が経ち、私は一人で集落を歩いて回ることが多くなった。
目の見えぬ私が、一人で歩いているのである。人々はさらに畏れを増した。
そうして、そのうちに私は、人々に直接指示を出すようになった。
一人の人間が生きるより、遥かに長く生き、そして客観的に営みを見続けてきた私の知識は、人々をより良い生活へと順調に導いていった。
自分が人の身で生活したことにより、どういうことができれば人の生活が楽になるか理解したから、できたことである。
そんな私を、人々はさらに信仰するようになった。
神力を振るわないにも関わらず、集落の信仰心は高まる一方だった。
妹が物心つくと、私に付きまとうようになった。
そして、ひとつの問題が浮上した。
妹の足が不自由であることが分かったのだ。
もう立ち上がって歩ける歳になっているのに、歩くことはなかった。
本来であれば、贄の対象である。
しかし、自らを神の化身とする私の妹だ。何とか生贄になることは免れた。
そして、足を擦るようにして移動する妹を見て、人々は蛇神様の化身であると恐れた。
「全く、笑ってしまうね。お前さんが、蛇神様なんだってよ」
「あたし、へび?」
「ああ、皆、お前のことを蛇の神様だと思ってるらしい。人間って、面白いね」
「あたし、へびー!」
妹は相変わらず、私に付きまとった。
人々を見てまわろうとする私には、邪魔以外の何者でもない。
それなのに、どうしてか私はこの娘を邪険に扱う気が起きなかった。
これが、人間の不合理な行動の一つなのだろうと思ったが、理解するまでには至らなかった。
「人間を理解するのは、当分先のようだね」
私はそう笑うと、しがみつく妹にそう呟いた。
妹は大きくなると、動かない足でも、懸命に家事などを行ってくれた。
私とよく話をしていた妹は、他の人間に比べれば賢く、集落の人々の相談などを受けることも多くなった。
そして、それ以外の時は、家で木彫り細工をして過ごしていた。
妹の手先は器用で、食器といった身近なものから、男衆に手伝ってもらい山に入り、神木となる大きな木から程よい木を見つけると、蛇の木彫り像を作ったりもした。
それらの像は、家々で祀られ、祈られる神具となった。
ある寒い冬、私が布団に入り中々出てこないのを見て、妹が言った。
「もう、姉様ったら、全くカエルのようだわ」
「カエル? 私がかい」
「そうですよ。カエルは、冬になると土に還ってしまうんです。そして、暖かくなると、また土から生まれてくるのですよ。寒い冬は、今の姉様みたいに、そうして潜ってしまっているんです」
「へえ、そうなのかい」
私は、カエルはただ冬眠しているだけだということを知っていたが、そう言うのも無粋かなと思い、黙っておいた。
「まあ、確かに。蛇女のお前さんが天敵なのは事実だねえ。蛙はまさに、私を言い当てているよ」
「まあ! 姉様の天敵ってどういうことですか! 私はいつだって、お姉様にしっかりしてもらいたくて……!」
「わかった、わかったってば。そう口うるさいところが苦手なんだよ」
「もう!」
妹は、機嫌を悪くしたのか、ぷいとそっぽを向いてしまった。
後でご機嫌取りのために、団子でもこさえてやるとするか。
私は苦笑すると、また布団の中に頭を引っ込めた。
私が一眠りして布団から出てみると、愛用する帽子の上に、木で出来た蛙の目玉がくっつけられてしまっていた。
意地になって、そのまま数日外を出歩いていたら何故か信仰が強くなった。
さすが人間。まだまだ私の理解が及ばない生命である。妹にことを告げて礼を言ったら、複雑な顔をされた。
私がいつものように集落を散策していると、ある少年に呼び止められた。
みすぼらしい格好をした少年だ。
確か、集落でも貧困な人々の住む地域にいる子供である。
その地域の人々が貧困なのは、そこを取りまとめる地位の高い男が怠慢者で、その上、無理な税を取り立てていたからであったはずだ。
「お前。神巫女様だろ。うちの母ちゃんが、病気なんだ。治してくれ」
少年に腕を引かれ、家へ連れてこられた私は、少年の母を見た。
この母は、病気などではなく、単純な栄養失調であった。
食事をきちんと摂り、体を労われば良くなるだろう。
「もっと、たくさん栄養のあるものを食べさせれば、治るだろうさ」
「どこにそんな、飯があるっていうんだ!」
私の答えに、少年は吐き捨てるように、そう返してきた。
そこで、私は考える。
確かに、この家にそんな食料は見当たらない。調達の目処も無いだろう。
このまま行けば、この少年の母親は遠からず死ぬことになる。
そのとき、この少年はどう思うだろうか。
今までの経験から考えると、怒りの矛先を件の怠慢男へ向けるだろう。
この少年に頼まれるまでもなく、あの男は、そのうち殺すと決めていた。
他の人々からの恨みの願いも大分集まってきているからだ。
多くの者たちの怒りが溜まったところで、殺す。良い見せしめにもなるだろう。
そうするのが、信仰を集めるのにも効率が良いことは、今までの経験から分かっていた。
あいつを殺せば、結果的にこの地域は豊かになるだろう。
だが、この母親の状態を見ると、それまでは持ちそうにない。
集落全体の発展を考える場合、どうするべきなのか。
少年には悪いが、母親には死んでもらったほうが、良さそうではある。
しかし、今こうして私は神の化身として、救いを求められた。
ここで救わないというのも、後々に影響してくるかもしれない。
もしかしたら、頼んだのに願いを聞き遂げてくれなかったと、私へその思いをぶつけるかもしれない。
考えあぐねていると、業を煮やしたのか少年が私をどんと押した。
私は転んで、尻餅をつく。
「おい! 母ちゃんを助けてくれるのか、どうなんだ!」
私は、閉じた目で少年を睨みつけた。
そこでふと、少年に何か感じるものがあるのに気がついた。
「お前さん。私と一つ遊びをしようじゃないか」
「遊びだって?」
「そう、遊びだ。でも、侮るな。この遊びで、お前のこれからの人生、及び母親の命運も決まると思っていい。心してかかれ」
私はそう告げると、懐から妹がこさえてくれたお手玉を三つ取り出した。
「受け取れ。地面にこれをつけたら、お前の負けだ」
そう一言発し、お手玉を投げつける。
少年は即座に反応し、無理な体勢ながら受け止めてみせた。
間もおかずに、続いて二つ目。こちらも普通なら厳しい距離へと放る。それも見事受け止める。
三つ目。これは彼の死角へと放った。しかし彼は、気配を感じ直ぐに振り返る。だが、距離が遠い。
ギリギリで間に合わない。少年は室内に立てかけられていた、扉を閉める長い木の板を手に取り、下から振り上げて、お手玉を打った。
そして、打ち上げられたお手玉を足でさらに弾き、手で受け止める。
少年は、三つ全部を見事に受け止めてみせた。
やはり、この少年の身体能力、判断力は人として異常の部類に属するものだ。
先天性の何らか、はたまた。
この頃、山向こうの集落で不穏な動きがある。
そろそろ、この集落も武力の増強に努めていいだろう。
私は少年をじっと見つめた。
少年は、しっかりと私を見つめ返している。
私は口の端を上げた。
この少年を戦のカリスマとして持ち上げるのだ。
私が見込んだとおり、少年はみるみるうちに頭角を現した。
彼を衣食住で支援するのに代わり、彼は集落内の力仕事や、私が指示した戦闘に関する訓練などの義務を命じた。
その甲斐あって、彼の母も十分な生活ができるようになり、体調を無事回復させた。
一年もすると、倍以上の年恰好の大人をも、素手で返り討ちにするほどの強さを身に着けていた。
私が少年を登用した頃と同時期、集落に住み込みの戦闘訓練所を作った。
貧困で貧しい子供達を引き取り、素養のある方向へと教育し訓練しつつ、農作業や集落での仕事をさせるというものだ。
集落で祭られる神の代理人である私の要請で建てた施設だけあって、他の大人たちも精力的に支援をしてくれた。
人々の外界に対する危機意識は予想以上に高く、訓練に勤しむ若者も多かった。
過去の熊による殺戮を物語として語り継いでいたのが、それに影響しているのは間違いなかった。
数年が経つと、少年は大人と見分けがつかないくらいの体躯へと成長した。
また、彼に敵う者はほかには存在しないほどの力量と、正義感ある人格から、集落からの信頼も厚くなっていた。
彼は私のところへも頻繁に出入りし、集落での大きな会議などにも参加するようになった。
自分と母親を救った私を強く信頼していて、ことあるごとに私や妹に相談をしに来ていた。
ただ、私は彼が相談だけの目的で来ているのではないと、心のどこかで感じてはいた。
「姉様。少し森で、細工によさそうな木を探してまいります」
「ああ、もうそんな時期か。蔵の木材はもう使い切ってしまったのかい」
「それが……水がどこからか入り込んでしまったようで、一部が腐ってしまっていたのです」
「わかった。気をつけていっておいで。今日も守衛長を連れて行くんだね」
「は、はい」
少し頬を赤らめ言う妹。
守衛長とは、件の少年のことである。この集落の守護の全般を一手に引き受けて立つ彼を皆はそう呼んでいた。
玄関から、守衛長の声が響き、中へと入ってくる。
「妹様、そろそろ出られますか?」
「仲睦まじいねえ。うちの妹は、そんな身体が丈夫じゃないんだから、あんまり無理させたら許さないぞ?」
「いえ、無理をさせるなど滅相もございません! 何があろうと、この身に代えましても妹様の無事をお約束いたします!」
大声でそう言う守衛長に、妹は更に顔を赤らめたようだ。
「ああ、もう、わかったわかった。その馬鹿でかい声、どうにかならないのかい」
目の前のこの男は、体も大きければ声もばかでかい。
会った頃は私と大して変わらない背丈だったのに、今では二倍以上の高さになっている。
それは、私の体がある程度を境に成長しなくなっていたというのもあった。
普通の女子であれば、月のものが来る程度の時期、それを境に成長がとまったのである。
当然、私は妹にも背丈が抜かれてしまっていた。
「ところで……新造集落の件、どうなってる?」
「は! ちょうど戻りましたら、詳細な説明をさせていただこうと思っておりました」
守衛長が妹に目配せすると、妹は頷いて部屋の奥へと戻っていき、茶の準備を始めた。
「妹様、すみません。もうしばらくお待ちを」
「いえいえ、大事なお仕事ですもの」
守衛長と話していた新造集落というのは、動向の怪しい山向こうの地域に対する一種の砦として、建造を考えていたものだ。
この集落から半日ほど歩いた所にある川のほとりに、防衛に適した荒地がある。
幾分前に、地脈や大地の気の流れを読み、開墾すれば実りある地になると目をつけていた土地であった。
そこを守衛長が中心となり、新しく殖民できる場所へ開墾しつつ、防壁や施設の建造を進めていた。
「男達の意気は上々です。これも、すべて神巫女様と、その妹様のお陰です」
「ふむ、いつくらいに移住のめどが立ちそうかね」
「おそらく、収穫祭までには……」
「次は豊作になる予想だ。厳しいようなら備蓄を運び、お前の裁量で人を選び増員しても構わんよ」
「は、承知しました。何かあればまた」
守衛長を抜擢した経緯から、私は人間の他人に対する信頼というものを理解し始めていた。
どういった人間が信用され、頼られるようになるのか。そして、不信はどういう時に生じるのか。
この守衛長は自ら行動することを全く厭わない実行力と、どんな些細なことでも私たちへ相談する繊細さを兼ね備えていた。
いつだったか、私を押し転ばせたときのことを強く心に、後悔として刻み込んでいると言っていた。
私としては、十分お釣りの来る信仰を貰っているから気にはしていなかったが、この男のこんな性格にはそれが作用しているらしい。
また、幼いころに力の悪用というものを身をもって知った彼は、権力悪に対して滅法厳しかった。
それとは逆に、妹はとても優しい性格をしていたので、守衛長が集落内の悪い部分を叩くと、その修復や再生、更正などの事後処理を事細かに行った。
二人の均衡の取れた活躍のお陰で、集落は今まで見てきたどんな時よりも、目覚しい発展を遂げていっていた。
守衛長は予定通りに、新造集落を完成させた。
継続して環境整備と領地拡大をしていくのだが、第一段階が終了し一部の人間の移住が開始される。
皆が力を合わせて作りあげたものということもあり、完成時の祝宴はそれはもう盛大に行われた。
普段あまり口にする機会の多くない動物肉などもふんだんに振舞われる。
大人子供老人、皆が笑うそれは心地よい宴だった。
新造集落は継続して守衛長が中心となり、発展させていく。そのため、彼は基本的に新造集落の方で生活していた。
その間も、彼は伝令を欠かさず、また可能であれば自らが本集落へ足を運び、私達への情報共有を怠ることはなかった。
ある時、妹が新造集落へ行くこととなった。
私は何度か行ってはいるが、妹はその不自由な体もあり、一度も行ったことが無いのをとても残念がっていた。
そんな時、新造集落の中央公会堂が建造されたのを機に、一度新造の祝いの儀を妹が行ってみるのも良いのではということになったのだ。
妹はとても喜んだが、それ以上に守衛長も大喜びした。
彼が中心となって作り上げた新造集落、それを敬愛する妹に見せられるとあって、心弾まないはずが無かった。
一度に二人が本集落を離れるのも問題だろうと、私は留守番をすることになった。
せっかくだからと言う事で、妹は十日ほどあちらで過ごすことになったが、私はそれにとても不機嫌になった。
妹があちらへ行っている間は、村の娘が私の身の回りの世話をするという話である。
しかし、一日妹と会えないだけでも不機嫌になる私に、十日も離れていられるのか、甚だ疑問だったのだ。
いつの間にやら、妹は私に無くてはならない存在になっていた。
「姉様も、少しは私離れしないと後々困りますよ?」
私はそう苦笑する妹に、小さい頃は私にしがみ付いて離れなかった奴が何を言っているんだと言い返した。
しかし妹は私を抱き寄せると、私は今も姉様とこうしていたい気持ちでいっぱいですが、我慢しているだけなのですよ、と微笑むのだった。
そんな妹に、私は黙り込むしかない。
妹の私に対する扱いが、年々手馴れてきているのに危機感を覚え始めたのはこのときである。
妹が帰ってきた。
予定より三日ほど早い帰還であった。
どうしたのかと問う私に、妹は少しやつれた顔をして、守衛長に会ってくださいと言った。
守衛長は本集落の医術所にいた。その姿は驚いた事に、包帯まみれであった。
駆け寄る私に、命には別状がないと医術師が落ち着かせる。
確かに、傷は少し前に受けたもののようだ。今は包帯を取り替えているところらしい。
胸をなでおろすが、その理由が気になった。
守衛長は、顔にまで巻きつけた包帯で話し辛そうにしながらも、何とか説明した。
彼は新造集落周辺の木々を見てみたいと言った妹の頼みを受け、いつものように妹を背負い森を歩いていた。
そこを突然、謎の集団が襲ったと言うのである。
普段の彼であれば、何倍もの人間が相手でも返り討ちに出来る。
しかし、妹が一緒となるとそうもいかなかった。
勿論、それ以外にも部下を連れていたが、襲撃者に奇襲され殺されてしまったのだ。
絶体絶命であった彼と妹を救ったのは、一人の旅の小男である。
その小男は偶然ここを通りがかり、多勢に無勢で女を守る男を発見した。
様々な薬の扱いに長けた彼は、風上で痺れ薬を焚き、襲撃者達を身動きできなくさせた後、妹と守衛長を解毒し逃げたのだという。
その小男は客人として、新造集落に滞在してもらっているということだった。
残念だが、もう少し防備が固まるまで、妹が次に新造集落へ行くのは伸びそうである。
私がそう言うと、守衛長はさも残念そうな顔をしたが、妹の安全には何にも代えられませんと言って頷いた。
守衛長は包帯を取替えた後、すぐに新造集落へ戻るとのことだった。
半日の距離とはいえ詳細な報告するために、わざわざ怪我の体を押して私のところへ来たという訳だ。
一番の理由は、妹を危険に晒さない為なのかもしれなかったが、彼が真に律儀な男であると再認識させられた。
話を聞いて気になったのは二点。襲ってきた連中、そして、妹と守衛長を救ってくれた小男である。
大事な妹を救ってくれたのだ。礼もせねばなるまい。
久々に還ってきた妹ともっと一緒に居たくも思ったが、それらを良く知るためにも、守衛長について新造集落へ行くことにした。
一言で言うと、その小男はヤモリの様な男であった。
確かにはじめてみる顔である。
しかし、その小男の纏う雰囲気が、長年私の集落で過ごしたかのようになじんでいるのである。
まるで、その場にあわせて色を変えるヤモリの様である。そう思ったのだ。
ヤモリ男は人の良さそうな顔で、私に会えたことを光栄だと言った。
このように可愛らしい、生き神様に会えることなど、そう無いことであろうと。
私も信仰すれば、神の祝福を与えて頂けるだろうかと笑う男に、私は苦笑した。
そうは言うものの、ヤモリ男から信仰心が欠片も感じられなかったのだ。
自分の集落以外の人間と接することもほぼ初めてのことであったし、そんなものなのであろうと一人納得した。
その後、襲われた場所の見聞や調査をしたが、襲撃者についての情報は、殆ど掴むことができなかった。
私は殺されてしまった男達の遺骸へ魂送りの儀を行い、守衛長とヤモリ男へ別れを告げ本集落へと帰った。
その後の連絡で、ヤモリ男が新造集落のことが気に入り、そこで世話になっていると聞かされる。
連絡には、その滞在の是非についての返答も含まれていた。
自らの信仰者以外の人間が集落で過ごしているというのに気持ちの悪さのようなものを感じたが、ヤモリ男が持つ薬の技術はとても有用なものだった。
それに妹と守衛長の恩人でもある。
そんな理由で、私はヤモリ男の長期間の滞在を許可した。
そして、件の襲撃者達の情報も送られてきた。
どうやら、思ったとおり歩いて三日ほどの山向こうの連中で間違いないということだった。
新造集落が出来たことに、何か危機感を感じたのかは分からない。
しかし、問答無用で襲い掛かってくる連中である。
防備のためにも、あそこに新造集落を設置したのは間違いではなかっただろう。
私は防備増強や本集落からの支援などについて意見を出すと、山向こうに対し対策を練るのであった。
しかし意外なことに、それ以来、山向こうからの攻撃は一切無かった。
かといって、油断するわけにも行かず、厳しい警戒態勢の中、新造集落の増築、開墾は進められた。
緊張の中での作業は効率が上がらず、予定よりも大きく開拓は遅れた。
守衛長は相変わらずこちらとの往復を繰り返していたが、日増しにその顔に強い疲れの色が見受けられるようになった。
守衛長の様子を見かねた私達が休むように言うも、大丈夫ですの一点張りである。
もし体を一度でも崩したら、きちんと休みますのでと言う彼に、本集落で楽をさせてもらっている私達があれこれと強く言うことは出来なかった。
その頃から、新造集落でいざこざが多発するようになってきた。
切欠は些細なものなのだが、徐々に加熱し刃傷沙汰になることもしばしばあった。
攻めてくる気配の無い相手に備え、過酷な労務に携わる彼らの心に良くないものが鬱積しているのは間違いなかった。
時折新造集落を訪れる私を見る視線も、本集落のものと比べてどこか異質なものに変じていた。
収穫が想像以上に少なく厳しい冬に、それは起きた。
備蓄が尽き始めた新造集落へと輸送していた食料の一部が、その途中で紛失したのだ。
はじめは、ついに山向こうの者達が動き出したかと考えたが、その気配はなかった。
かわりに、本集落で不審な食料の増加が見られた。
その審議を問う為に開かれた会議は、荒れに荒れた。
「とうとう、本心をあらわしたな! 我ら新造集落の者のことを都合の良い連中としか考えていないのだろう!」
「なんと無礼な! 我らの神巫女様が守られる本集落で、そのような不正が行われているなどと、どうして考えられるのか!」
「事実、私達が受け取るべきであったものが、そちらで発見されているではないか! これに、どう説明をつけるのだ!」
「何者かの企てに違いない。最も怪しいのは、お前たちなのではないのか!」
私はどう人間達が決着をつけるのだろうと、いつものように行方を見守っていた。
守衛長は、どちらの言い分が正しいのか判断つかず、ただただ黙し険しい顔をしている。
妹は、目を伏せ俯いていた。
頭の熱くなった数人が腰を浮かし始めたとき、今まで黙っていた妹が声を発した。
場の全員が静まり返る。
妹が発した声は大きなものではなかったが、場を静まらせるには十分な力を持っていた。
それは、神巫女の妹だからというだけではない。
妹は私と同様に、基本的には決定に口出ししない。ゆえに、会議の席で声を発すること自体が非常に稀なのである。
私も何事かと、妹を注視する。
「こうしましょう。私が、新造集落へ赴き、常任巫女として常駐します」
「なんだって……?」
妹の突然の言葉に、私は愕然として目を大きく見開いた。
「おい、どう言うことだ……!?」
怒気を含ませ言う私に、妹は真っ直ぐとした視線を返した。そして、周囲へとそれを移し面々を見渡す。
「皆様、神巫女の妹である私が出向く意味はおわかりですね?」
そう確認するように言うと、まだ少し納得いかない顔の者へ視線を向け続ける。
「不正に対する罰は、その者が分かり次第下されるでしょう。今は争いあっているときではありません。私が行くだけでは不満でしょうか」
「い、いえ。そんな滅相も。妹様がいらしてくれるなら、きっと新造集落の連中の志気も上がるでしょう」
妹は新造集落の男の言葉に頷くと、守衛長に普段の定例報告へと移るように言った。
守衛長は指示通りに議題の終了を告げ、次回開催日程などの慣例的な説明を行った。
会議の終了後、妹と守衛長、私が部屋に残る。
私は妹に詰め寄ると、肩をつかんで問いただした。
「一体、何のつもりなんだ! お前が、新造集落で常時滞在だなんて!」
「言ったとおりです。本集落と新造集落の間に亀裂を生むわけには行きません。姉様だって、これが最善だと分かっていらっしゃるはずです」
妹の言うとおりだった。
新造集落の大きな不満のひとつに、心の支えである巫女がいないというのがあった。
それに加え厳しい荒地という場での、重い肉体労働。そして、常時緊張状態の前線と言ってよい今の状況。
厳しい時ほど、私や妹が近くで鼓舞してやる必要があるのに満足にできていない。
時折私が訪れるとは言え、新造集落の人間達が本集落に比べぞんざいに扱われている、そう心の何処かで思っても仕方の無い環境だった。
さらに本集落のときは守衛長と妹の二人で支えていたものが、あちらでは守衛長のみなのである。
事細かに助言を与えてはいるが、どうしても締め付けの方がきつくならざるを得ない。
彼らの不満は溜まる一方だった。
「強力な信頼関係を築くには、こうするのが一番なのです」
わかっている。そんなことは私だって、理解しているのだ。
でも、どうしても妹と離れ離れになっている時間が増えるのが、許せなかった。
人間は、血の繋がりを強く意識する。
その為なら、全体の繁栄を考えた場合には選択するべきではないような行動も、何の躊躇いもなく行ったりする。
ある者が家族を殺された。または、何かしらの害を受けた。
そういった場合に、より残すべき優秀な血を持つ人間を平気で殺したりする。
今までは、その不合理的な行動を理解し兼ねたが、今なら分かる。
今の私はこうも、妹を愛しているのだから。
妹が何か害を受けたなら、私はその者を許しはしないだろう。
家族とは、そういうものなのだ。
理屈ではない。
あの守衛長は、信頼できる男だ。
それは間違いない。自らが、見定めた男なのだから。
それでも。
ああ、それでも。
妹と別れて暮らすというだけで、私の心は暗澹たるもので包まれてしまう。
これが、寂しいというものなのだろうか。
こんな気持ちを抱いて生きているなんて、人とはなんと不幸せな生き物なのだろう。
「……分かったよ。私だって、見た目どおりの子供というわけじゃない。それに、お前達人間が決めたことには、文句をつけるつもりも無い。私がするのは、あくまで助言だけだ」
そのとき、少し妹が寂しそうな顔をしたが、私は気に留めなかったように家を出て行った。
その翌日から、妹は新造集落で生活することになった。
妹の狙い通り、新造集落の人々の様子は一変し、強い信仰が私へとおくられるようになった。
守衛長が防備を強め、外敵からの心配もありませんと胸を張ったが、私の気分は晴れなかった。
目の前のこの男と、妹の間に恋慕のようなものが存在したとは知っていた。
このことが、妹の行動の少しの部分を占めてはいるのだと思う。
大部分の理由は、先日の会議後に妹が言ったとおりなのだろう。
しかし私は心の何処かで、妹が私よりもこの守衛長を選んだのではないかと感じずにはいられなかった。
そんな私の気持ちなど露知らず、目の前の男は頻繁に訪れては、妹のことを事細かに語るのだ。
「ああ、わかったって。妹のことはいい。あの子が良く出来た子だってのは、十分に分かってる」
「そうですか……あの、神巫女様。妹様が新造集落に移られてから大分経ちますが……」
「それが、どうかしたのかい」
「あれから、一度も会われていないのでしょう。妹様がとても寂しがられている様子でしたので……」
「……」
守衛長の言うとおり、あれ以来一度も妹とは会っていなかった。
妹は私に会いたがっていたが、私はそれを避けていたのだ。
なぜ、私はこのような行動をしてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
妹が守衛長を選んだように感じた、その怒りからだろうか。
会いたくてしょうがないはずなのに、会いたくないという矛盾する強い感情。
二つの気持ちの間で、私は日々鬱々としたまま過ごしていた。
本集落と新造集落の定例会議などの時も代理を立て、妹とは顔をあわせなかった。
妹が本集落に戻ってくる機会も何度かあったが、私はそれを見計らい遠出などをしてその時すら会わないようにしていた。
徹底的に、妹を避けていたのだ。
「神巫女様、妹様からの贈り物です」
守衛長が懐から取り出したのは、小さな木彫り細工だった。
いまや私の目印のようにもなった、カエルの様な帽子をかぶった私と、手をつなぐ妹の木彫り像。
私はそれを少し眺めた後、守衛長へと投げ返した。
「妹に伝えてくれないか。もうこんなものを作ってる歳じゃないだろうとね。……それと私を誰だと思ってるんだ? こんな見た目ではあるけど、一応お前達より長くを生きてきた神なんだぞ!」
そう怒鳴りつけると、守衛長は悲しそうな顔で木像を見つめていたが、立ち上がり礼をした。
そして後ろを向くと戸口へと歩いていく。途中振り返ると、この木彫り像は影婆様に渡しておくと言って、部屋を出て行った。
その一件以来、ますます妹と会うのも躊躇われ、守衛長も妹に関しては最低限の報告しかしなくなった。
結局、私はその後一年以上も妹と会う事はなかった。
集落を見回ることも減り、ずっと影婆の家で引きこもっていた。
にもかかわらず、人々の信仰心が増えていたのには面食らった。
新造集落の方では、妹と守衛長が頑張っているからと理解できたが、本集落でも増えていたのは意外だったのだ。
影婆が言うには、あまり姿を見せない方が神秘性が増すとのことだった。
なるほど、確かにそれは一理あるのかもしれなかった。人間は、希少なものであるほど、それに価値を見出す生き物だったから。
「はあ、あれかね。もう私はいらないのかな」
「やれやれ、何を言われますのやら……」
私の漏らしに、食事を運んできた影婆が苦笑した。
「人間の命は有限……いつかは、この集落を支えている、あの御二方もいなくなってしまいましょう」
いなくなる。
影婆のその言葉で、私の体が大きく震えた。
「神巫女様。いつまでも意地を張っていられると、後悔しますぞ。それと、妹様のことなのですが……」
「おい。あの子のことは、話すなと言っているだろ!」
「そうもいきますまい。なんせ、妹様の御子様がお生まれになったのですから」
「なんだって!?」
妹がだいぶ前から、こちらの集落へ訪れることがなくなっていたのは、そういう理由だったのか。
そんな大事なこと、何で私に黙っていたのだ。
私は影婆に詰め寄ると、その目を覗き込む。
怒りの込められた私の視線を受けても、目の前の老婆は全く怯みもしない。
「身ごもった直後にも連絡はありましたがね……あの頃の神巫女様は大層機嫌が悪うございましたから。伏せておりました。それに、妹様については話すなと仰せでございましたし」
「……相手は誰なんだ」
「ご想像の通りでございます。それで、お話はお聞きになりますか?」
この老婆は、妹以上に私の扱いに長けているような気がしてならない。
私は椅子へと腰掛けると頷き、腕を組んで言葉の続きを待つ。影婆は、卓へと食事を配しながら、のんびりと言った。
「二日後に、新造集落にて御出産を祝う宴が開かれます。そこへ、是非来て欲しいとのことでございます」
「そうか」
私はそれだけ聞くと、食事を食べ始める。
無言で食べ続ける私に、影婆が茶を入れながら尋ねた。
「行かれないので?」
「なんで行く必要がある。祭事なら、私に代わって妹が執り行えるだろう」
「いえ。神巫女様自身が行きたがるものだと思っておりましたので」
「なんで私が!! もういい! 食事を置いたなら、もう――」
追い出そうとしたところで、影婆が私の帽子を取り上げた。
そして、その中のものを取り出す。
「これは、何でございましょう?」
「……返せ」
「守衛長殿が婆の家において行った、木彫り細工でございますよね? 確か、神巫女様が気に入らなくなって捨てたと言っておられた物だと、記憶しておりますが」
「返せって言っているだろう!」
私は影婆からそれを取り上げると、また元に戻して帽子をかぶり直した。
「家の中でも中々帽子をお取りにならないと思ったら。肌身離さずお持ちになっておられたのですねぇ」
「私の勝手だ!」
「悪いなどとは申しておりませぬ。それほどまでに妹様を思っておいでなら、会われた方が良いのではないですか。この機会を逃せば、次などそう訪れはしますまい」
じっと私を見据える老婆に根負けして、私は小さく溜息をついた。
「全く。お前には敵わないな……」
「どれだけ昔から、貴方様の言葉を聞いて来たとお思いですか。せっかくこうして話せるのです。たまには、この婆の言葉にも耳を傾けて下され」
まるで童女のように笑う影婆に、私は困ったように笑い返すしか出来ない。
「……悪かったよ。じゃあ、お前の忠告通り、久々に新造集落へ行ってくるかね」
私は早速準備を開始すると、数人の有力者を連れて新造集落へ向かった。
夕方には到着し、連れと別れ一人新造集落内を散策する。
約一年ぶりに訪れた新造集落は、想像していた以上に発展していた。
行き交う人々の顔も明るい。妹の出産祝いの宴もあるからかと思い出して納得する。
私としては、妹の赤子よりも妹自身に会えることの方が重要問題であった。
会った時、一体どんな顔をして良いのか分からない。
怒ればよいのか、笑えばよいのか。悩み歩いていると、声がかかった。
「やはり、神巫女様であられましたか!」
「久々だね」
守衛長。妹の伴侶となった男だった。
彼は私の姿を見て大いに喜んだ後、何かを思い出したように申し訳なさそうな顔をする。
「なんだい、その顔は」
「いえ……」
「妹のことなら、気にするな。お前が誰よりも妹を大事にしてくれるというのは、分かっている。それに男と女が一緒になるのは、人間として当たり前なことさ。あの子にまで、私のような立場を強いるつもりは無い」
私は再度、周囲を眺めて笑った。
「それより、とても素敵な集落になったじゃないか。さっき田畑も見たが、下手したら本集落の収穫をも追い越してしまいそうな感じだったね。よくやったよ」
「私などには勿体の無いお言葉です! 皆の助け、そして妹様の御尽力。何より、神巫女様の先見があってこその今かと」
「世辞も達者になったな」
そう言って私が小突くと、守衛長は嬉しそうに苦笑した。
妹にはもう会ったかと聞く彼に、私はかぶりを振った。
「いや、まだなんだよ。それが一番思い悩んでいてね……さて、どうしたものやら」
「何も思い悩むことはありません。妹様は、何よりも貴方様にお会いになるのを望んでいました。隔てていた時間など、瑣末なことです」
「長く生きてきたこの私が、人間に諭されるなんてね」
「こ、これは申し訳ありません!」
地面に手をついて謝罪しようとする守衛長の胸にトンとこぶしを当て、それを止める。
相変わらず、この男は生真面目すぎる。
「いやいや、気にするな。私はお前達人間とは違う。完全には理解し切れていないのさ。だからそういった意見は有難い」
なおも謝り続ける彼をどうにか起き上がらせる。
「妹と会うには、もう少し時間が欲しい。まず先に、こっちの顔役達と会っておくかね」
「分かりました。ご案内いたします」
守衛長に連れられた先は、集落の中央集会場だ。
中に入ると、酒臭い匂いが充満していた。
奥では、眠っている者も何人かいる。
「おい、お前達! いくら祭りが近いからと言って、だらけすぎだぞ!」
守衛長の怒声に背筋を伸ばすが、すぐにヨレヨレになってしまう。
中の一人が、守衛長に杯を差し出した。
「でも隊長、この酒、もんのすげぇ、旨いんですよ。適量ならば、薬にもなるってぇもんです、この後の見回りももう無いんですし、一杯いっても罰は当たりませんって!」
「お前なあ……今日は神巫女様もいらしているんだぞ」
そう守衛長が言ったところで、後ろから私が姿を現すと、見た全員がびしっと棒で吊り上げられたように立ち上がった。
久々だったからか、私を見た連中の反応が著しい。やはり、希少価値というものはあるのだなと再認識する。
「こ、これは神巫女様! 遠方からの御足労、有難うございます!!」
「美味な酒だって? それは気になるな。守衛長。お前もこの後何も無いなら、付き合え」
「し、しかし」
「神からの盃は受け取れないとでも言うのかい」
私は腰を下ろすと、山菜のつまみを口へと運んだ。
守衛長も、同席して部下から杯を受け取る。
奥の方を見ると、本集落から連れてきた連中の姿もあり、すでに出来上がっているようだった。
私も杯を受け取り、口に含み――
吐き出した。
突然の私の行動に、周りの者達が息を呑んだ。
目の前の守衛長も、目を丸くして驚いている。私は、彼の手に持った杯を払い飛ばした。
「あ、あの神巫女様。お気に召しませんでしたか」
「おい、お前!! 今飲んだのをすぐに吐き出せ!!」
守衛長は私の意図を察したらしく、すぐに酒を吐き出した。近くの水瓶から水をたらふく飲んで、更に吐き出す。
「奥の者達も皆これを飲んだのか!?」
「は、はい……」
私は寝ている連中へと走り寄ると、愕然とする。
寝ていると思っていた者の殆どが、すでに息をしていなかった。
状況を把握して、場は騒然とし始める。
まだ息をしているものも、その呼吸が明らかに弱い。
非常に良く出来た、毒だった。
「この酒は、一体なんだ!?」
「それは、お客人の……」
客人。その言葉が当てはまる人物は、私の知る限りでは一人しかいない。
ヤモリ男。薬の扱いに長けた、旅人。
祭事の始まる前、その一つ手前の気の緩んだ時間を狙った毒殺。
本集落から、私を含めた要人が集まっているのも見越されている。
明らかな、計画的行動。そして、その意味するところは。
「守衛長、今すぐ防備を固めろ! 斥候を放ち、周囲の監視拡大と情報の収集を急げ!!」
私と守衛長は残り、動ける者達が散開する。
入ってくる情報は、思っていた通りのものだった。いや、それよりなお悪い。
「北、南、西の定期連絡、どこからも連絡がつきません!」
「出した斥候が戻ってきません!」
「兵達の宿舎にも酒が運ばれており、半数近くがやられてしまっています!」
「本集落との交通道の斥候隊から、大群を見たと言う情報が」
私は集会場の塔にのぼり、高台から周囲を眺める。
日は落ち、路を駆け回る男達の松明だけが慌しく行き交っている。
風は強い湿り気を帯び、空気中に水の塊があるかのような不快感を伴っていた。
「神巫女様。本集落も包囲されつつあるとのことでしょうか?」
「あっちの方が、防備に向いていない。こちらが落とされるようなら、結果は同じだろうね」
「私が不甲斐ないばかりに……」
「お前は良くやっていたよ。相手が一枚上手だったと言うだけだ。件の男を入れるのを許したのも私だしな……でも、私たちだって、ただでやられる訳には行かない」
私が視線を向けると、守衛長は力強く頷いた。しかし、その表情が優れないように見えた。
それについて尋ねようとすると、兵が梯子を上ってくる。
「報告です」
梯子を登り終えた兵は、ちらりと私へ視線を投げた。
そして、守衛長へ向き直り歩み寄る。
私はそこで、訝しげに眉根を寄せた。
兵の視線に、少しの困惑を感じたからだ。
まるで、場違いなものでも見るような目。私をただの幼子とでも見間違えたのだろうか。
確かに今は、暗い上に私の目印とも言える帽子をかぶってはいなかった。
しかし、それにしたって神である私に気がつかないなどとは。
守衛長へ歩み寄る兵。その手元が松明の明かりを受け微かに瞬いた。
次の瞬間、突然兵が守衛長へ急接近した。守衛長と兵の体がぶつかる。
私が声を掛けようとすると、守衛長が口に指を当て頭を振った。
その合図に、私は物音を立てないようにして近づく。兵は身動きしない。
見ると、兵の胸に短刀が深々と突き刺さっていた。
守衛長は相手の武器を逆手に取り、心臓を一突きにしたのだ。
やはり、荒事となると非常に頼りになる男である。
守衛長は少し周囲を確認した後、暫く耳を澄まし、私へと顔を寄せた。
「囲まれています」
そう、一言だけ告げる。
目の前で絶命している男は、私たち集落の兵の格好をした敵。
この集落の中心にも程近い位置にあるここに、変装した敵兵が侵入しているとなると。
私の焦燥に呼応するように、守衛長も顔に焦りを浮かべた。
「妻――妹様が危険です」
妹がいるのは、この集落の最重要施設である中央神殿。もちろん、防備も他の場所に比べれば固い。
しかし、武力中枢であるここにまで、敵の兵が紛れ込んでいるのだ。
楽観などできようはずも無い。
その時、下から物音がしてくる。守衛長の表情が厳しくなる。
「貴方様をなんとしても、無事に妹様のところへお連れします」
守衛長はそう言うと、近くで倒れていた敵の遺骸を掴み上げる。
そして、それを下から上がって来た男達へと投げつけた。
三人ほどの男達が真っ逆さまに落ちていく。守衛長は梯子へと走り寄ると、私へ付いて来るように合図を送った。
守衛長が先に梯子を下り、私がそれに続く。
下には思ったとおり、男が三人痛みで呻いていた。守衛長は携帯していた短刀で男達に止めを刺した。
奥から二人別の者がやってくるが、守衛長が短刀と拾った石を投擲し、それを受け昏倒する。
集落の彼方此方で、喧騒が広がってきている。
時期を見合わせた、一斉攻撃。
見上げると、空が赤く染まっている。遠くの方で火の手が上がっていた。
道の奥で、数人の男がこちらに気がついたようだ。守衛長が武器に手をかけるが、男達は来た道を戻っていく。
敵わないと察したのか、応援を呼びにいったのだろうか。
一体どこまで、相手に情報が筒抜けになっているのだろうかと、私は身震いをした。
守衛長が合図をして走り出す。私もそれに続いて走る。
速い。見る見るうちに離されてしまう。
昔は、私の方が速かったのに、今では話にもならない。守衛長は立ち止まると、私へと歩み寄る。
「神巫女様。失礼します」
そう言うと、彼は私を背に担ぎ上げた。
一瞬気恥ずかしくなるが、そんな気持ちはすぐに脇へと追いやる。
「周囲の警戒を」
「分かった」
私が頷くと、彼は走り出した。私は言われたとおりに、周囲への意識を強めた。
大きな通りは、もう殆ど制圧されつつあるようだった。
私たちの集落の兵も応戦しているが、一方的にやられてしまっている。
それは、突然の奇襲だからというだけではない。
敵はどこから用意したのか、長い槍を持ち一列に並び、歩調を揃え前進。その後ろから矢を射るという戦い方をしていて、それに手も足も出ずに殺されてしまっているのだ。
一人ひとりの練度では劣らないはずだが、敵の統制の取れた戦いに、劣勢を強いられていた。
相手の戦術では地形が重要になってくるが、どうやらそれらも完全に把握されているらしかった。
火矢を放つ男達が目に入る。家屋が燃え、慌てて出てきた女子供が同じように射られ、長槍で突き殺される。
目の前にある守衛長の顔が、憤怒に染まる。私を支える腕にも力が入り、ぎりぎりと足を締めあげた。
私が痛みで呻くと、はっとしたように顔を向け謝罪する。
「神巫女様、申し訳ありません!」
「気にするな、早く妹の所へ行って、他の者達も救うんだ!」
走り抜ける度、無抵抗なまま殺される同胞が目に入る。
私が人の身で無いなら。
神の力を振るえるなら。
あんな奴ら、蹴散らしてやれるのに――!
この体を譲り受けてから、神の力は振るっていない。
信仰の力は、今までないほどに溜まってはいる。
だが、振るえない。人の身である、この体では、振るえないのだ。
集落中から、様々な感情が私へと流れてくる。
殺されようとしている人間達の恐怖の念、救いを乞う叫び、親しい者を失った嘆き、燃え盛るような激情。
そのどれもが、私へと強い力を送り込んでくる。皆、私への強い信仰を寄せている。
私は歯噛みする。
この体を――捨てるか?
出来ない。
この体を譲ってくれた娘との約束。命を自ら投げ打つことも出来はしない。
また、視界の端で殺される人間。流れてくる、悲哀の感情。
――ただただ、悔しい
私の頬を何かが伝った。
「……?」
人の身に下って何年になるか。
今まで一度も、経験したことの無いものであった。だが、知っている。
人間達を観察して、たくさん見てきたものだった。
「……涙、か」
今まで、一度も人間の生き死にに心など動いたことは無かった、この私が。
泣いているのか。
私にも、泣くことが出来たのか。
そこで突然、私は宙に放り出されるように身が浮くのを感じた。続いてくる、衝撃と痛み。
見ると、守衛長が倒れている。私も、それに伴い投げ出されてしまったようだ。
守衛長へと歩み寄る。その顔を見て息を呑んだ。
「おい、お前……」
朦朧として定まらない視線。
震える腕。絶え絶えの呼吸。
「毒が……回っているのか」
守衛長は私の声に気がついたように、視線を向けた。
頭を振って立ち上がろうとするが、体をふらつかせて、壁へとぶつかる。
「神、巫女……様」
両手をつき立ち上がる。しかし、すぐによろけて地面へと突っ伏してしまう。
人間相手なら無敵とも思えた男。
そんな彼も不意を突かれた毒の前では、為す術もないのか。
よろけ、起き上がり、また倒れる。
それだけしかできない木偶であるかのように、彼はそれを続ける。
すでに、手や足は擦り剥けだらけだった。
居た堪れなくなり、私はよろよろと彼に歩み寄る。
「おい、もう……」
「くそおおおおおおおお!!」
守衛長が吼える。そして、自ら地面へと頭を叩きつけ、一気に立ち上がった。
「こんな所で、死んでたまるか――!」
彼は頭から血を滴らせながら、こちらに振り向く。
その必死な形相に、私は過去に母親を救ってくれと頼んできた時の彼を思い出した。
「神巫女様、申し訳ありませんでした。参りましょう」
「あ、ああ……」
もう、彼は私を担いで走ることはできない、だが、私が駈けるくらいには走れるようだった。
それでも、頭を振り、体は左右にぐらついている。
「私は、妻と子と、貴方様でこの集落を歩くのが夢なのです。だから、なんとしても生き残らなくては」
走りながら彼は語る。何か言葉を発していないと、意識を失ってしまいそうなのかもしれない。
私から見ても、それほどまでに彼の状態はひどかった。
「……この集落の周囲の山に、それは美しい滝があるのです。その滝を……四人で見に……」
「ああ、是非連れて行ってくれ。そうしたら、妹のやつに、トチ餠を作らせよう」
「妻はトチを……誰よりも上手く、灰汁抜きできる……子供も、きっと喜ぶでしょう」
徐々に、走る速度も遅くなっていく。
「もう、私の母は土に還りましたが……息を引き取る瞬間も、神巫女様に感謝していました。私だってそうです。でも、母が言ったのです。感謝だけじゃ駄目だ、その御言葉、御期待に応えるのだと」
彼は苦笑する。
「でも、俺は頭があまり回らなかったから……何か出来ることは無いかって、細かに……聞きに行っていたんです」
「そうだったのかい。お前は、私が見てきた中で……最も素直に言葉を聞いてくれた人間だ」
「……そう、なんですか。それは、この上ない御言葉です」
もう、彼の歩は、子供がただ歩くそれより、なお遅いものになっている。
「神巫女様から、そんな勿体無い、御言葉頂けただけで……俺は……」
彼はとうとう立ち止まる。
無垢な少年の様に、柔らかな笑顔を浮かべた。
「有難う……御座いました。一つ――」
そこで、息を詰まらせたように言葉を止める。
私は不思議に思い様子を伺っていると、彼の顔が一変した。
彼が見ているのは、私の後ろ。
振り返ると、数人の男の姿があった。その中で、一人背の低い男の姿がある。
その背後には炎が赤々と燃え、逆光になって顔は伺えない。しかし。
「これはこれは……中々兵共から連絡が無いと思っていたら、こんな裏道にお隠れになっておいでだったのですね。神巫女様」
「お前は……!」
ヤモリ男。
撫でる様な優しい声音で、そいつは続けた。
「いやはや、本当に吃驚です。あの荒地であったこの場所が、これほど見事な集落へと変わるのですから。これが、信仰の力と言うものなのでしょうか、いやはや」
守衛長がゆらりと歩み寄るが、脇へと逸れて壁に寄りかかる。
「おやおや、その様子じゃ私の祝い酒をお召し上がりになったのですね。丹精込めて作った甲斐がありました。と、なると――」
ヤモリ男が目配せすると、後ろの男の一人が何か布包みを取り出した。
それを受け取ると、優しい仕草で揺する。
「これも用済みですかねぇ、いやはや。せっかく準備してきたのですが……」
そう言いながら、布を取り払ってゆく。そして、それを大きく揺すった。
赤子の、泣き声が響く。
布の中から、赤子の泣き声が聞こえる。
それを守衛長は、目を見開いて凝視した。
「分かりますか? 貴方様の御子息です。常人離れした力を持つ貴方をどうしようかと思い、念のためお連れしたのですよ」
「貴様……!」
「おやおや、そんな反抗的な態度をとっても良いのですか? 私も鬼ではありません。こんな赤子までも、無意味に殺したりはしませんよ。貴方が何もしなければの話ですが」
ヤモリ男は赤子をあやす様にして、揺すってみせる。
「神巫女の妹君と、怪物の様に御強い貴方様の御子息。これほど貴重な血統もそう無いでしょう。私達が、責任を持って育てさせて頂きます」
「妻は、どうしたのだ!?」
ヤモリ男はその言葉を受けて、さも残念と言った様に頭を振った。
「申し訳ありません。私も忍びないのですが、物心ついている人間は、皆殺す決まりなのです……確か中央神殿に女子供が集まっていましたが、ある程度集まった後、火をつける予定ですよ」
「貴様ぁぁぁぁ!!」
守衛長がヤモリ男に向かって駆け出す。しかし、赤子を掲げた彼を見て、すぐにその動きを止めた。
それよりも、ヤモリ男の言ったことが私の頭を一杯にしていた。
妹が――殺される。
私はゆっくりと、ヤモリ男へと近づく。
それに気がついた彼は、守衛長にしたように赤子を掲げて見せるが、私には赤子などどうでも良かった。
なおも近づく私に、ヤモリ男は狼狽した様に後退する。
私の雰囲気に気圧されたのか、後ろに下がった時に小石に躓き、尻餅をついた。
腕の中の赤子が、大声で泣きわめく。
「おい、お前! この小娘を殺せ! そうすれば、この赤子を生かしておいてやる!」
ヤモリ男は守衛長へと、そう怒鳴った。
守衛長は、困惑したように私と赤子を交互に見やる。
「どうした! 子供の命が欲しくないのか!?」
なおも動かない守衛長に舌打ちし、後ろの男達に私を殺す様にと指示を出した。
男達が槍を構えて前へと出るが、同じように戸惑っている。
「し、しかし、この娘は神なんですよね? 俺達が殺しちまったら、祟られちまいませんか」
「この村をここまで攻撃しているのです。そんなことは今更ですよ! さっさと、殺してしまいなさい!」
ヤモリ男の怒声に、いやいやと言った感じで男達が槍を突き付けてくる。
他の村の人間とはいえ、神殺しの祟は怖いのか。
それは好都合だ。お前たちのその恐怖も、私への力となる。
殺すが良い。
この殻を脱ぎ捨てたら、お前たちの恐れの通り、全員祟殺してやる。
「神巫女様! いけません!」
その声に、私ははっとして振り向いた。
「貴方様が居なくなってしまったら……誰が妹様を支えるのですか!!」
守衛長が真剣な目で私を見ている。
もう、俺にはそれができないから。
彼の目は、そう物語っているように感じた。
妹は私との交信も強い。
私がこの体を無くしたとしても、声を聞いてくれるに違いない。
でも、体を失ってしまったら――
あの子に触れることはできなくなるかもしれない。
また体を手に入れれば良いのか?
駄目だ。こんな私に都合の良い体が手に入るなんてことは、そうそう無い。
そうなれば、もうあの子と触れ合うことは、死ぬまでありえない。
いやだ。
そんなのは、絶対に、嫌だ!!
私は男達の槍から身を引く。
そうだ、まだ妹は死んだと決まった訳じゃない。
急げば、まだ救い出すことだってできるかもしれないのだ。
生きて、あの子に会うんだ。
そして、今までのことを謝って、許して、また一緒に過ごすのだ。
急に後退し始めた私に、怪訝な顔を向けるヤモリ男。
「おやおや、神が私達を恐れておいでか。お前たち、こんな小娘、多少神通力が使えるただの人間でしか無い。何が神だ、何が祟りだ。さっさと殺してしまうのです!」
余裕を取り戻したヤモリ男が、男達へと命令する。
槍を持つ男達も、その声に私を突き刺そうと近寄ってくる。
私は槍を避けるように、後ろへと下がっていく。
しかし、後ろにも敵の兵がたくさんいたのだ。後ろへ逃げてもどうしようもなかった。
視界の端で、守衛長が屈んでいるのが見える。
もう、彼も立っていることすらままならないのか。
しかし、その手に持っているものを見て、私は彼の意図を察した。
そのまま、後退して槍兵達を引き付ける。
奥で、さっき転んで地面に座り込んでいたヤモリ男が、立ち上がろうとしている。
その瞬間、守衛長が素早く動いた。
手に持っていたのは、小石だ。
彼は朦朧としているはずなのにも関わらず、寸分違わずヤモリ男の頭へそれを投げ当てた。
「ぎゃぁッ!」
鳥を締めたような声を発し、ヤモリ男が叫ぶ。
距離があったからか、致命傷へと至らなかったが、痛みでもんどり打っている。赤子は近くに投げ出されていた。
槍を持った男達が守衛長へと向き直り、襲いかかる。
彼はまだ手に持っていた小石を男達へ投げつける。
それは吸い込まれるように、男達の急所へと叩きこまれた。三人が地面へと倒れる。
まだ五人、兵が残っている。
守衛長は腰に据えた短刀を抜き放った。
空いた片手では握りこぶしを作り、高く掲げている。
槍が突き出される。
相手は投石で倒れた仲間達を見て焦ったのか、連携を乱していた。
掲げられた手の中に、まだ石を持っていると思ったのかもしれない。
しかしそれはハッタリだった。
守衛長は拳を開くと、突き出された槍を掴んだ。
それを力任せに引っ張る。つんのめった相手の顔へ短刀を突き刺し、蹴り飛ばしてそれを引きぬいた。
奪い取った槍を構え直し、残る兵を見据える。
その全身は返り血に染まり、夜空を照らす炎の明かりを受け不気味に煌めいていた。
二人が槍を突出した。彼は短刀で一本をいなし、一本を蹴り上げる。
そして、槍を大きく振るい、一人の喉笛を切り裂き、一人の心臓を一突きにする。
恐れをなして逃げ出そうとする男の背中に、敵から奪い取った槍を突き刺し、もう一人へと短刀を投擲し首を飛ばした。
一瞬の間に、敵の兵は全滅した。
まさに鬼の様な戦いぶりだった。
あの満身創痍の体のどこに、これほどの力が残っていたというのか。
私は守衛長が戦っている隙を突いて取り戻した赤子を抱え、彼へと走り寄る。
「おい、赤子は取り戻したぞ! 赤子は無事だ!」
突然、守衛長が私へと迫り、その体で私を突き飛ばした。
私は地面を転がり、壁へぶつかってやっと動きを止める。赤子は何とか怪我をさせずに済んだようだった。
守衛長を見ると、口から血を吐いて咳き込んでいる。
ヤモリ男が飛ばした針のようなものから、私達を守ったのだ。
「こ、この化け物め! やってやったぞ!!」
ぜいぜいと荒く息をしながら、ヤモリ男が言い放った。
「やはりな、お前を狙うより、その娘を狙って正解だった! ざまぁみやがれ!!」
ヤモリ男は立ち上がると、口に当てがっていた細い筒のようなものを懐へと仕舞った。
そして、痛む顔を手で押さえながら、引きつった笑いを浮かべる。
「強力な筋肉を伸縮させる毒だ。さすがのお前でも、イチコロだ……糞が、手間取らせやがって……」
私は何とか赤子を抱え立ち上がる。全身が痛み、立ち上がるのもやっとだった。
生まれてこの方、こんな痛みを経験したのは初めてだった。
ヤモリ男は肩を上げてみせると、頭を振った。
近くで死んでいる仲間の手から槍を取り上げ、私へと向ける。
「赤子を連れた小娘一人が、ここを抜けられると思っているのか? あぁ!? 楽に死なせてやろうと優しくしてりゃあコレだ、はっ! この糞ガキが!!」
全身の痛みに加え、赤子を抱えている状況で逃げきれるだろうか。
私が考えていると、後ろの方から騒がしい音が聞こえてくる。
「へっへ、あれはうちの仲間だなぁ、俺自らお前を殺さなくて済みそうだ。やっぱり、直接手を下すのは趣味じゃねぇ。そこでじっとしていろ、すぐに楽にさせてやる」
ヤモリ男が下品な笑いを浮かべる。
私は腕に抱いた赤子を見やる。
さっきまで泣いていたのに、静かに目を閉じている。
こんな状況だというのに、とても安らかな顔でじっとしていた。
私も、この赤子のように腹を据えるしか無いのか。
「ぐぇ……」
目の前のヤモリ男が、変な声を上げて倒れ伏した。
後ろを見ると、両手に大きな石を持った少年の姿。その後ろには小さな少女の姿もある。
「や、やっぱり神巫女様だ! 俺、こんなことしたくなかったけど……でも、神巫女様にひどいことをしてるから、それで」
「お前たちは……」
一年少し前に新造集落へ来た時に、私の周りではしゃぎまわっていた子供たちだった。
少女は守衛長へと近づくと、小さな悲鳴を上げた。
「たいちょーさん! たいちょーさん、しっかりして!」
泣いて守衛長にすがりつく少女に、未だに血を吐き咽続ける彼は優しく頭を撫でてやった。
それで落ち着いたのか、少女は未だに涙を流しながらも静になる。
守衛長が私へと目配せをした。私は頷くと、子供たち問う。
「お前たち、どうしてここに? どうやってここに来たんだ」
少年が腕で涙を拭い、説明する。
「寝てたら、急に大人たちが入ってきて……父ちゃんと母ちゃんがお前たちは逃げろって言って、それで逃げてきたんだ。そしたら、赤ちゃんの声が聞こえて」
「そうか……助かったよ」
私は二人の子供を呼び寄せるると、しっかとその目を見た。
「お前たちに、頼みがある」
そう言って、私は腕に抱えた赤子を差し出した。
少年が、それを恐る恐る受け取り、驚きに声を張り上げた。
「この子、妹様の赤ちゃんだ!」
少女が兄に赤ちゃんの抱き方が駄目と注意し、受け取り腕に抱いた。
「そうだ。妹の、大事な赤ん坊だ。お前たち、この赤ん坊を無事に、本集落まで連れて行くんだ。できるかい」
私が聞くと、少年は力強く頷いた。
「僕たちは、この村の誰よりも秘密の道を知ってるよ! これは内緒だけど……村の外の隠れ道だって、たくさん知ってるんだ!」
「ああ、それは頼もしいね。じゃあ、頼むよ、無事に本集落まで連れて行ってやっておくれ。向こうに着くまで大人の誰にも見つかっちゃ駄目だ。いいね?」
私は懐をまさぐると、小さな木彫り細工を取り出した。それを少年に渡す。
「これは、妹が私に作ってくれた人形だ。コレがきっと、お前たちを守ってくれる」
そして、私が軽く押して促すと、少年と少女は走りだした。
大人じゃ通り抜けられなそうな、狭い壁と壁の間に入っていく。
ちらりと少年が直前で振り返った。私は笑顔で頷いてやる。少年も同じように頷いて、道の奥へと消えていった。
何とか上体を起こしていた守衛長は、子供たちが見えなくなると地に伏した。
子供たちの前ではと、何とか力を振り絞っていたのだ。
全身の力が抜けたかのように、倒れ動かない。
「お前の子供は、逃せたよ」
私の声に、彼は小さく身を捩らせた。
そして、震える手で道の奥を指さす。
「ああ、行ってくる。お前は、ここでゆっくりお休み……」
私は守衛長の額に軽く口付けすると、燃える村の中心へ向け走り出した。
村の中心に行くにつれ、火の手がその勢いを増している。
夜のはずなのに、昼間の如き明るさで壁を照らしていた。
いたるところに、亡骸が転がっている。
敵も味方もいる。女も子供もいる。
そうとう激しい戦いが繰り広げられたのだろう。だが今は、私以外の人間の気配はない。
中央神殿が目に入った。
そのほとんどが火で覆われている。
辺りを埋め尽くす煙と、熱に煽られ激しく吹き荒れる風が灰を飛ばし、火の粉が肌を焼く。
私は中へと駆け入った。
叫ぶ。
「誰か、いないのか!?」
焼け崩れた梁がすぐ横に落ちて、大量の火の粉を撒き散らす。
私は背を低くし、煙を吸わないように奥へと入っていく。
こんな所に、長くいられる人間がいるはずない。
妹は、きっと誰かに連れられ逃げているに違いない。
奥に行くに連れ、槍で突き殺された女や子供が倒れているのが目に入る。
火から逃げようとして刺殺されたのだろう。
奥に行くと、煙を吸ってしまったのか外傷が無いが死んでいる者が目立ってくる。
私は煙で止まらなくなった涙を拭うこともせず、一心不乱に奥へと進んでいく。
そんなはずはない。
妹が死んでしまっているなんて、そんなことある訳がない。
ただただ、それだけを心で叫びつつ、奥へと進んでいく。
ふと、何かを感じる。
私はその方へと走る。
神殿の突き出た裏口の階段へと出る。
その辺りは、特に死んだ人間が多く横たわっていた。
人が二人並んで通れるかというような狭い階段に、沢山の死体が折り重なっている。
火に追われ逃げ、ここへと集まったのだろう。手摺から眼下へ視線を走らせると、外にも沢山の死体が転がっている。
私はそれを乗り越え、進んでいく。
体の中を強い思いが満たしていく。
吹き荒れる炎の波。それに負けるとも劣らない、憎悪の念。
死んだ人間たちの、怨嗟の呪詛。
しかし、その中に一つ他とは違った祈りを感じ取る。
階段の一番下一角へと、私の意識は収束する。
駆け寄る。
いた、妹だ。
他の死体に埋もれ、横たわっていた。
私は震える手でそっと触れる。微かに、まぶたが動いた。
「生きてる!」
私は急いで妹を掘り起こすと、何とかその体を支えて、中央神殿から外へ出る。
出た先は、この集落で最も広い大通り。両脇の建物は燃え、炎の通り道ができているようだった。
背負い、歩いていると、後ろからうめき声が聞こえた。
「う……、姉……様……?」
「気がついたのかい! そうだよ、私だ。今、安全なところに連れて行ってやるからな!」
瓦礫を越え、進んでいく。
「姉、様……私の、赤ちゃ……が」
「ああ、ああ、大丈夫だ! お前とあいつの子供なら、村の子供たちに託した! あの子達なら、きっと無事本集落まで連れて行ってくれる! 大丈夫だ!」
背中の妹の力が、すっと抜けたような気がした。
「そう……ですか、あの子は……無事なのです、ね」
「ああ、そうさ。だから早く迎えに行ってやろう」
「あの人、は……?」
私はその言葉で少し立ち止まってしまう。だがすぐに歩き出す。
妹は私の様子に何かを察したのか、小さく呟いた。
「逝って……しまったの、ですね」
「……お前の子と、私を救ってくれた」
「あの人らしい……」
「……あんな立派な奴は、私は今まで見たことがなかったよ」
「あの人も、……あっちで誇りに思っています、きっと……」
妹が、私の体を強く抱く。
私は訝しげに、その横顔を伺った。
「姉様。温かい……私の、大好きな、姉様……」
「何を今更――」
笑い飛ばそうとすると、通りの角を出た所で強風が巻き起こった。
私はバランスを崩して、転んでしまう。
「ご、ごめんよ、痛かったかい」
私はすぐに妹を抱き上げようと腕を伸ばす。すると、妹はその手を掴んだ。
意図が分からず、妹の目を見つめる。
「どうしたんだい?」
「……姉、様、私は……助からないの、でしょう?」
「何を言ってるんだ……そんなこと、あるわけ無いだろう」
倒れ、横になった妹。
美しかったその肌、私とは違い、少し緑かかった綺麗な黒髪。
「……嘘は、仰らないで」
「う、嘘だなんて……」
私の目から涙があふれる。
煙を浴びたわけでもないのに、溢れて止まらない。
「姉様、私を置いて、お逃げになって下さい」
そう、力強い瞳で言う。
その目は、いつもと変わらぬ強い光を宿しているのに。
「そんなこと、できるわけ無いだろう!」
その美しかった姿は、今は見る影もない。後髪は熱で炙られ縮れ、火傷は背中全体、足にまで及んでいる。
そして、倒れている時に踏みつけにされたのか、骨折した足からの出血もひどい。
ああ、あああ……!!
分かる。分かってしまう。散々人の生き死にを見てきた私には、分かってしまう。
この子は――助からない。
たくさん見てきた。だから知っている。死なんて、見飽きている。死に、感慨などない。
何故なら、人は死んでも、また生まれるからだ。
なら、何なのだ。この、締め付けるような、胸の鼓動は?
散々見てきた、人の死。
もっと凄惨なものだって、幾らでも見てきた。
なら、何なのだ。この、チリチリと頭を焼くような感覚は?
何なのだ。
一体なんなんだ、この、……この苦しみは!?
嫌だ。
こんなのは、嫌だ。だって……
死んでしまえば、体は朽ちて消える。
自然へと還える。
当たり前なことだ、自然なことだ。
しかし、それは妹と接することが出来なくなるということなのだ。
それは……別の村に行ってしまって会えなくなるのとは、まったく別。
絶対的な、隔たり。
永遠の、離別。
私が家に帰ったとき、出迎えてくれるお前の笑顔が見れなくなってしまう。
ともに食事し、小言を言いながら笑いあうことも出来なくなってしまう。
寒い日に一緒に布団で温まることも出来なくなってしまう。
影婆にいたずらした悪だくみを共有したりできない。
疲れた腕を揉んでやると見せる、あの可愛い顔をみることもできない。
死んでしまったら!
話しができない笑い合えない抱き合えない。
死んでしまったら、死んでしまったら……
もう、この愛おしい姿を見ることも、感じることも、永遠にできなくなってしまうじゃないか……!!
炎を受けた風が勢いを増す。煙が周りを渦巻き、私達を包み込む。
「姉様、ゲホッ けほけほ……」
「しゃべるな! 大丈夫、助かるから、大丈夫だから……!」
涙と汗、よだれで顔がくしゃくしゃだ。
喉も、からからだ。
自分でも、もう何を言っているのか、分からない。ただただ、苦しくて、頭が、いっぱいで。
「私、にも……わかります。私は助かり、ません。だから……」
「嫌だ! お、お願いだから、そんな事を言わないで! ッ……! 頼むから、死なないで! ゲホッ! やだ、嫌だ! 嫌なんだよ! お前が死ぬなんて、私は許さないからな!」
妹は顔を振って、微笑む。
なんで、こんな時に笑えるんだ。どうしてだ、死んでしまうのに、なんでお前は、そんな顔が出来るんだ。
私はこんなにも苦しいのに、悲しいのに。
一体何が、お前を笑わせているんだ?
「姉様、には、きちんと……大事なものを残しましたから。だから、お願い――」
ドン。
重たい音と共に、妹の声が止まる。
口から、言葉の代わりに、ごぼごぼと血が溢れ出した。
ド、ド、ドドドドドドドド!!
次の瞬間、衝撃が私を襲った。
激痛が、四肢を焼く。
見ると、右腕に二本、脇腹に三本、足に一本、棒が突き立っていた。
六本の矢に、体が貫かれていた。
こちらに倒れてきた妹の背は、もはや剣山のような有様であった。
妹の目は、虚空を見つめている。
その目に、光はない。
「ぐ、あ、ああ……あああ、あああああああああ!!」
そうか、これが。
―――悲しみ、なんだ。
「全員やったか? 逃げたのは、どうするんだ」
「放っておいても問題ない。逃げた先は、奴らの集落さ。どっちにしろ逃げ場は無い。こちらの人数の十倍以上の本隊が、連中を取り囲んでいるそうだ。皆殺しだろう」
「こんな砦の村まで作って、結局全滅だ。まったくめでたい連中だよ」
「そう言ってやるなって、こうやって土地まで開墾してくれたんだからな」
「……それにしてもよ。まったく。こんな、変なものを拝んでるからこうなるんだ。何の役にも、立ちゃしない。なぁーにが、神の子のいる村だよ」
そう言って、男は地面に散らばった白蛇の木像を蹴り飛ばした。
「さて、何か残った食物や酒でも探して、一息つくかね」
「おいおい、本体に合流しなくて良いのかよ?」
「何、少し休んだって分かりゃしない」
―――これが、怒り。ああ、分かる。今なら、よく、分かるよ。
「おい、お前、何か言ったか?」
「いいや、お前こそ、変な悪ふざけはやめろ」
―――ぎりぎりと焼くような、気持ちのくすぶり。煮えたぎる、臓腑。手先足先を突き破りそうになる血潮。ああ、頭が、熱い。これが、怒り。理不尽な行動の理由を、やっと、知ることができた。
――けど、感謝は言わないよ」
男たちが振り返る。
私はゆらりと、男たちへ歩み寄っていく。
「子供がいるぞ。金の髪の子供だ」
「金の髪だって? 湖集落の巫女がそうじゃなかったか?」
「くっそ、まだ生きてやがったのか! 捕まえろ!」
男たちの数人が、私へと走り寄った。だが、何かにつまずいたように、たどり着く前に倒れ伏す。
その体は、何か巨大な岩石を叩きつけられたかのように、ひしゃげている。
残った男たちは、驚愕して身を固めていたが、なんとか持っていた弓を絞り込んで放った。
しかし、放たれた矢も、私の前で何か見えない壁にでも当たったように止まり、粉々に崩れる。
私の周りに白く細長いモヤが立ち込める。それが濃さを増していき、人の背丈の十倍以上の大きさの白い蛇のようなものを形作る。
「人生とは、なんと嬉しく、楽しく、辛く、悲しいものなのだろう」
私は嗤った。ケロケロと。
「人は理不尽に生まれ、理不尽に揉まれ、理不尽に死んでいく。そんな人間たちだ。理不尽な感情で動くことは、何の疑問もないこと。全くもって、当たり前」
私は嗤った。ケラケラと。
「そうさ。お前たちも、そんな理不尽な生き方をしてきたのだろう? 理不尽をばら撒いてきたのだろう? ならば、理不尽には慣れっこだよね?」
私は嗤った。ククククと。
「お前たちは、私の大事な、大事な、大事な、とても、大事な妹を死なせてしまった。だから、その命で、私を楽しませておくれよ。笑わせておくれよ。 ……泣かせて、おくれよ」
私は、ぬれる顔で哄笑した。
「大丈夫、私はどんな死だって、大概知っているんだ。何の心配もない。お前たちの命尽きるまで、飽きずに楽しむと約束しよう」
さあ、はじめよう、神の遊びだ――――
――――祟り尽くしてやる
集落を焼く煙が空へと立ち昇る。
煙は昇るにつれて、白い紐の束のように姿を変えた。
その様は、大きな白樺の幹が、空へと伸び上がっていくようであった。
それがある高さまで昇ると、ゆっくりと広がり、大きな木の枝葉のように、空を覆い隠した。
集落を焼いた侵略者達は、空を見上げた。
不気味に蠢く白雲に、何とも言えぬ威圧感を受け恐怖する。雨が降り出した。白く濁った、重い雨だった。
その雨に触れた者達の皮膚は、激痛を伴い焼け爛れた。
水で洗い流そうとも侵食は止まらず、骨が見えるほどに溶かしてゆく。
村中から、絶叫が轟いた。
白い雨は一人残らず死に絶えるまで降り続いた。
そして、地を濡らしたそれは、また白く細い揺らぎへと姿を変え、大地を疾駆する。
山向こうの集落へと向かって行った白靄は、その上流にある川へと身を投じた。
途端、川の水が盛り上がり、激流となり川を下る。
川下にある集落は、川の氾濫に甚大な被害を被った。
集落中が水浸しになる。そして、その川の水に触れた人間達を謎の病が襲う。
その病は、喉を焼くように腫らし、耳を壊し、目を壊し、脳を壊した。
耳が壊れた者は、あるはずの無い少女の嘆きと嗤いを聞き。
目を壊した者は、囲み迫る少女と白蛇の幻影を見た。
脳を壊した者は、到底人間が発することができないような絶叫を上げ、恐怖と苦悶を顔に刻み、死んだ。
そんな集落から多くの人間達が逃げようとした。
しかし、道中で謎の白靄に包まれ、地面に飲まれ、崖から落ち、意識が遠のきその場で倒れ、どんな些細な掠り傷からも感冒を引き起こし、一人残らず死に絶えた。
人間達の阿鼻叫喚の中で、常に少女の泣くような、笑うような声が響いていた。
そうして、一つの集落が、この世から消えた。
道を行く男達が話し込んでいる。
「知ってるか、とうとう山向こうの集落、人間一人もいなくなっちまったらしいよ」
「ああ、聞いた聞いた。洪水や疫病で、ほとんど全滅しちまったんだろ?」
「しかもな、そこから逃げようとした人間たちも、山や森で白い大きな蛇みたいなもんに襲われて、一人残らず食われちまったって話だ」
話を聞いていた男は腕を組んで唸った。
「やっぱり、蛇神様の祟が下ったんだろうなあ。半年くらい前にこの村を取り囲んだ兵隊たちも、おかしな死に方して、引き返して行ったじゃないか」
「ああ……木に突き刺さってたり、何か巨大な石っころで叩き潰されたみたいになって、死んでたな」
少し、気色を悪くして言う男に、相方は怪訝な顔を向けた。
「なんだ、お前見てきたように言うじゃないか」
「……俺は、その死体の埋葬とか手伝ったんだよ。疫病とか広まっちゃマズイってんでな。ありゃぁ、人間の仕業じゃねぇ、間違いなく人じゃないモンがやったんだ」
「蛇神様の祟り、か……妹様に、守衛の大将……それに、神巫女様まで殺しちまいやがったんだから、罰当たって当然だ」
「全くだな……おっと、そろそろ行かねぇと。仕事サボってちゃ、罰が当たっちまう」
「ああ、引き止めて悪かったな。仕事上がったらうちに来い、結構良い酒が出来てんだ」
「おうよ、楽しみにしておく」
そう言って別れていった男達を見送り、私は大きく身を投げ出して、草原に寝転んだ。
思っていたとおり、男達には私が見えていないようだった。
今まさに、その罰を下して廻っていた私がいたのだが。
「はは……この感じ、懐かしいね」
大きく溜まっていた信仰の力も、ほとんど使い果たしていた。
しかし、軍隊から集落を救った神として、新造集落が無くなってしまった今も、強い信仰が私へと向けられていた。
「人間になって分かったけど、本当に人間ってやつは儚い生き物なんだなあ……」
私は一人、のんびり道を歩きながら人々を眺める。
また、昔のような日々が始まるのだろう。
前に世話になっていた洞穴に戻ろうか、そう考えた時だった。
「わぁ、やっぱり、神巫女様だ! 僕達、ちゃんと赤ちゃんを無事に届けたんだよ!」
子供が走り寄ってくる。
前に見た、少年と少女。他にも、三人ほどの子供がいた。
「お前……私が分かるのか」
「何言ってるの? 忘れるわけ無いじゃん! 大体神巫女様ってば、何年経っても姿だって変わらないし。どうやったって、忘れっこないよ」
少年はそう言うと、他の子供たちも不思議そうに笑った。
「神巫女様、お昼寝し過ぎた? 寝ぼけてるのかな?」
などと、大笑いする始末だ。
まだ幾分小さな子供が、私へと歩み寄ってくる。
しかし、その体はすうと私を通り抜けてしまった。
「うわ!? 神巫女様の体が、空気みたいだ!」
子供たちが大はしゃぎする。
「すまないね。私は、体を失くしてしまったんだよ」
「たまげたー。神巫女様は体がなくても平気なんだなあ」
興味津々と言った様子で、私の体へと手を伸ばす。
そうこうしていると、初めに話し掛けてきた少年が、何かを思い出したように、かぶっていた帽子を取って私へと渡す。
それも同じようにすり抜けてしまうかとも思ったが、不思議なことに、きちんと私の手へと収まった。
神へ捧げる、そういう意志の込められたものならば、触れることができるのかもしれない。
私はその帽子をかぶろうとすると、少年が待ったをかける。
「中、中! 中を見てよ!」
言われたとおり、帽子の中を見る。そこには妹の作ってくれた木彫り人形が入っていた。
「そのお守り、ありがとうね。ちゃんとここに来れたから、返すよ。本当は、欲しかったけど……。あと、その帽子もあげる。神巫女様、いつも帽子かぶってたでしょ?」
私は何故か、目頭が熱くなるのを感じた。
なんだろう、この温かさは。
胸を満たすこの、気持ちは。
「あー! 兄ちゃん、神巫女様泣かした!!」
「ええ!? い、いや俺、そんなことしてないよ! 木の人形だって、本当は渡すの嫌だったのに返したし!」
少女が私の手から、帽子を取り上げた。
そして、少し何かいじったと思うと、また手渡してくる。
「神巫女様と言ったら、これでしょ。ほんと、兄ちゃんはオンナゴコロが分かってないんだから!」
少女の手渡してくれた帽子には、新たにカエルの目玉のような布玉が付けられていた。
私はそれをかぶり苦笑する。
「懐かしいね……ありがとう。兄さんにも、オンナゴコロってやつをよぉく、教えこんでおきな」
「まっかせてよ!」
兄妹がやいやいと言い合っていると、誰か近づいてきたのか子供達が道を開けた。
「そ、その声は……神巫女様……?」
ひどく嗄れた声が、子供たちの向こうから聞こえてくる。
私がそちらを向くと、黒い衣服を纏った老婆が歩いて来ていた。
「お前はそんな歳になっても、相変わらず私の声を聞いてくれるんだな」
私はその老婆――影婆にそう言って笑う。
「ああ……神巫女様……! よく、お戻りになられました」
「体は失くしてしまったよ。あの娘との約束も守れなかった……」
「ふむ……確かに見えなくなってしまいましたが、なぁに、言葉が交わせれば、婆と貴方様の間なら、何の問題もありますまい。それに、聞いた感じでは神巫女様の御姿は、あの娘のままに見えているのでございましょう?」
「そうみたいだね」
「ならば、あの娘の魂も一緒にあるということなのでしょう。人間の身にしてみれば、もはや永久の生を得たも同然。盲(めしい)た少女では、神巫女様と一緒にならなければ、もっと早くに死んでいたでしょうし、あの娘も十分その体を大事に使ってくれたと思ってくれるのではないでしょうか」
「そうだと良いけど……」
相変わらず、この老婆は私の欲しがりそうな言葉をポンと投げ渡してくる。
私は少しだけ、心が軽くなった思いで自らの身体を見やった。
確かに、体を無くしたというのに、私の姿は人間であった時の少女のそれだった。
「影婆! それより、早く赤ちゃん見せてあげなよ! 俺達が、頑張って助けた赤ちゃんをさ!」
「おお、おお。そうだそうだ。まだ、この赤子は神巫女様の御祝福を賜っておりませんでしたな」
影婆は、腹に抱いたものを私へと差し出してくる。
赤子。前見た時より、随分と大きくなっているが、妹と、あの男の、子供だった。
「毎日、この重たいのを連れて散歩しているお陰で、未だにボケずに済んでおりますわい」
そう影婆が笑いながら差し出した赤子に、私は手を伸ばす。
人の身であった時そうしていたように。
赤子を祝福するとき、いつもは頭を撫で、腹を撫で、その額に軽く口付けするのだ。
たとえ、触れることはできなくても、真似事くらいならできる。
「え……?」
私は間の抜けた声を出した。
何故か、伸ばした手の先を赤子が掴んでいるのだ。
触れられないはずの私の体……その指を小さな手で、握りこんでいる。
「おおお! すげぇ! さすが妹様の赤ちゃんだ!」
「ずるいなー! 私だって神巫女様触りたいのに!」
子供たちが歓声を上げる。
私は、呆然としてそれを見ていた。
すると、影婆が赤子をすっと私の腕の方へやり、渡してくる。
私は戸惑いつつも、赤子を受け取り腕の中に抱いた。
「な、なんで……?」
「神巫女様に分らない不思議が、婆に分かるはずありますまい」
そう言って笑う影婆から、赤子へと視線を向ける。
赤子は、不思議そうな顔をして私を見つめていた。
その顔をしたいのは私の方だと言う思いで、同じように見つめ返す。
赤子が笑う。
私も何故か、同じように笑ってしまう。
ああ、どうして。
どうして、こんなにも愛おしいのだろう?
どうして、この赤子は、子供達はこうも私の心を揺さぶるのだろう?
私は赤子を抱き寄せ、その腹に顔をうずめた。
そうか。
感じるのだ。
「……そうだったんだね……」
私を満たしたその思いは、涙となって溢れ出た。
はやし立てる子供達の歓声、今はそれすら愛しい。
この赤子の中に、確かに――妹を感じるのだ。
人は儚い。その生など私からすれば、一瞬のまたたきでしかない。
生まれ、生き、そして死ぬ。
この赤子だって、いつかは死んでしまう。
でも、そこで終わりではない。
こうして、子を残し続いていくのだ。
いいではないか、この人間たちの一瞬の笑顔を守るため、続けていくためだけに、私がいても。
子へ、孫へ……ずっと――。
短く儚い人の人生――でも、それは形を変えて続いていく。
それが子々孫々と続くのなら。
私は新しいいくつもの出会いを心待ちにして、何度だって見届けよう。
何度だって、涙を流そう。
守り続けていく限り、この子の血筋は続いていくのだ。
私と、寄り添い続けてくれるのだ。
ああ、なんて……なんて愛おしいのだろう。
「少し冷えてきたね」
辺りを見渡すと、日はその姿を半分、地平の向こうへ沈ませていた。
諏訪子は顔を上げると、隣に座るはたてを見た。
天狗娘は、酒の入った缶詰を見つめたまま、動かない。
諏訪子は心の中で溜息をついた。
「分かったかい。私は、私情で村一つ滅ぼすような祟り神なんだよ。全く。つまらない話聞かせちゃったね……」
諏訪子は、腕を抱え込むようにして、微かに震えていた。
自分でも、何故震えているのか分からない。
そんな諏訪子を見て、はたてが帽子を小突いた。
「なーに、震えてるのよ?」
「蛙は、寒さに弱いのさ」
「ふぅん」
夕日に影らせた顔で、諏訪子は呟いた。
じっと黙ってそれを見つめていたはたては、突然身を乗り出して諏訪子を引き寄せると、その頭を胸に抱え込んだ。
「な、何すんだ!?」
「アンタ、すごいよ」
はたては、慌てる諏訪子を気にした様子もなく、その頭を抱えたまま小さく呟く。
「こんな、ちっさな体なのに……すごい」
「ふん……どうせ抱かれるなら、神奈子とは言わないまでも、せめて早苗くらいのボリュームはほしいもんだよ」
そんな諏訪子の皮肉にも、はたては動じずに無言で抱きしめたままだった。
諏訪子は昼間の親子を思い出して、自らの状態と照らしてしまい恥ずかしくなった。
どうにか身を引き剥がそうとしたが、更に強く抱きしめられてしまう。
そこまで強く拒絶したかったわけでもなく、語り疲れたのかそんな気力も無かったので力を抜いた。
それを許しだと思ったか、はたてが更に深く抱え込んできた。
こんな風に、体を包み込むように抱きかかえられるのは、いつ以来か。
神奈子や早苗にふざけて抱きつくことはあるが、じゃれるくらいで、すぐに身を離してしまう程度だ。
「嫌?」
はたてが、聞いてくる。向かい合わせに抱かれているので、その顔は窺い知れない。
でも、その声音に嫌味や皮肉といったものが感じられなかったから、諏訪子は思ったままのことを返した。
「……いや、細っこいけど、あったかいよ」
「そう。じゃあもう少し……このままでいましょうよ。いいでしょ?」
諏訪子は、はたての意図を量りかねたが、居心地は存外悪くも無かったので、無言で身を任せることにした。
酒で血流もよくて、温かいはたての熱が、全身を巡っているかのようだ。
じんじんと、手足が脈打っているようにも感じる。
「アンタってば、気味の悪い、気難しい、へんてこで意味不明なチビ神様だと思ってたけど」
「はぁ……ひどい言われようだね」
「今もその印象は変わっちゃいないんだけど、でも。……ちょっとだけ好きになった」
「はん。天狗の小娘一匹に好かれたところで、大して嬉しくないねえ」
「……まあ、そうよね」
はたてが少し、自嘲気味に笑う。
「私、生まれてきて、不自由なく並みの人間が、数回生き死にするくらいは生きては来たけど」
はたては顔を上げると、沈む夕日に目を向けた。
「……でも、その生きた密度で言ったら、もうそこらの人間の少年少女と対して変わらないかもしれない。……ううん、むしろ身の回りの身内や知り合いで、これといった不幸なんかも経験したことないし、引きこもってばかりだったし……それ以下かもしれない」
そう言うと、どこか気恥ずかしそうに苦笑する。
「実は、こうして他人をぎゅっとだっこしたりするのも、初めてかもしれないわ。昼間の親子にあてられたのかも」
「よかったのかい、初めての相手が、復讐で村一つ消しちゃう様な神様で?」
諏訪子の茶々入れに、はたては鼻を鳴らした。
「いいのよ、私がしたいと思ったんだから。まあ、それでさ、アンタみたいに人の生き死にを間近で見続けてきた年長者からすれば、私なんて、そこらの雑草とも大して変わらない存在なんだろうなってね」
「いや、そこまでは……」
諏訪子の答えは気に留めず、はたては続ける。
酒が回っているからか、呂律は少しおぼつかない。
「……それでね、今まで私みたいな若輩者なんて、そこらの草木、時につまずいたら邪魔だなと蹴り飛ばされる、石ころ。そんなものと見られているんだろうな、とか考えてたわけ。年上連中は、私の考えもしないような考えで、動いてるんだろうなあ、って」
「だから、それは考えすぎよ」
「うん。アンタの話を聞いてさ、その考えはちょっと違うんだって思ったの。年かさな力のある連中って、何が起きても動じない、そんな連中だと思ってた。でも、ちゃんと私にも分かる理由で、悩んだり、苦しんだりしてるんだってさ。分かったの」
「……」
「それでも、やっぱり私はアンタからすれば、ただの雑草でしかない。同じ山に住む、ただの一妖怪。小生意気な、天狗の娘」
少しだけ、はたてが緊張したように身をかたくする。
「そんな雑草でもさ。寝転がれば、簡単なベッド、気持ちを少しはやわらげるものに、なれるんじゃないかってさ。思ったわけよ。だから……ええとさ。なんて言ったらいいかなあ」
そこで、はたては逡巡したように言葉を区切った。
諏訪子は、自分を抱きこんでいる天狗娘の平らな胸が、ドクドクと脈打っているのを感じた。
「へぇ、ベッド、いいじゃない。夜のお供もしてく、イタイイタイ! 冗談だって!」
諏訪子の軽口に、はたては腕を締め上げて答えた。
「まったく、アンタってやつは、こっちが真剣に話してるってのに!」
はたては腕の力を緩め、ため息をつく。
「……だからさ。私まだ、アンタに比べればまだまだ未熟で、無知かもしれないけど、こうやってお酒飲んで、話し聞いたりして役に立てるなら、嬉しいかなってさ。こう言ったら怒るかもしれないけど、今のアンタ、見た目通りの幼子にしか、見えないのよ」
そこで諏訪子は、身を少し硬くした。
『私は姉様に比べれば、無知かもしれません。でも、こうやってお話したり、抱き合ったりして喜んでもらえるなら、私それだけで、とても幸せなんですよ。大事な唯一の家族である姉様と、こうして一緒にいられるだけで、とても、とても……』
『それに、姉様ってば、黙ってれば、見た目も相まって可愛い妹にも見えなくないですし』
『ちょっとねえ!!』
そのはたての声が、過去の身内と重なって聞こえた。
「……そう、じゃあさ」
諏訪子は一言そう呟く。心なしか、自分の言葉がくぐもって聞こえた。
「一つ質問して、いいかね」
そっと、腕をはたての背に回し、力を強めた。
「妹がさ、最後に何を頼みたかったのか……お前さんにはわかるかね?」
諏訪子がそう問うと、はたてがぐいと諏訪子の体を引き離した。
それが、拒絶されたように感じ、諏訪子は少し心が痛くなるのを感じた。
「ごめん……変なことを聞いた」
「いやいや、そうじゃなくて、本当に分からないの?」
はたては意外と言ったような感じに、聞き返してきた
顔を見ると、きょとんとした様子で諏訪子のことを見つめている。
「……わからないから、聞いたんだけど」
はたては小さくため息をつくと、呆れたように言った。
「そんなの、決まってるじゃない。自分の赤ちゃんの無事をアンタに頼んだのよ」
さも当たり前といった風に、はたては断言した。
諏訪子ははたてから、少し視線をそらす。
そう、なんだろうか。
私も伊達に、長年人々を見てきていない。
妹がそういう願いをしたのではないかと、考えたことはいくらでもあった。
しかし、それはどこまでいっても、憶測に過ぎないのだ。
わかっている。
こうして、この天狗の娘から答えを聞いたところで、結局は自分で納得するしかないことなのだと。
そんな諏訪子の様子に、はたては困ったような顔を向けた。
「その顔は、納得してないわね」
はたては目を瞬くと、真剣な眼差しで諏訪子の両肩をしっかりと掴んだ。
「私はアンタの一割も生きてないだろうけど、でもね。これでも霞や木の股から生まれてきたって訳じゃないのよ。だから分かる。これは、生き物の本質だもの」
諏訪子の肩を掴む手に、力がこもる。
「絶対にそうよ! 妹さんは、赤ちゃんをアンタに託したのよ!!」
「……信じて、いいのかね」
はたては、力強く頷いた。
「信じていいわ。アンタに唯一、私が勝ってる点があるとすれば、私が脈々と続く、生き物の血を引いて生まれてきた者であるということよ。だから、その点に関して言えば、アンタの感覚より私の直感のほうがあってるって、信じてもらっていいと思う。――っていうか、信じろ!!」
諏訪子が伏せていた顔を上げ、かすかに笑いながら、はたてを見つめ返した。
「……そっか。じゃあ、私は、あの子の願いを叶えてやれているんだね」
その言葉に、はたては何かに思いついたように、目をしばたかせた。
「あ、もしかして、早苗って……」
「そうよ、早苗は妹の子孫さ」
はたては、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「あー、そりゃあれよね、アンタからしてみたら、これでもないくらい、大事な娘な訳よね。あんだけ怒ったのも、納得だわ。いやほんと、すみませんでした……」
「そう思うなら、早苗に良くしてやって頂戴な」
諏訪子ははたてから離れると、大きく伸びをした。
「随分話し込んじゃったね」
「あら、もうお開き?」
「おんやぁ、意外だね。まだ続けたいのかい」
はたては缶詰盃の中に残った酒を飲み干した。
そして、その空になった盃を見て黙りこむ。次第に、眉間へとしわが寄っていく。
何かを思い悩んでいる様子だった。
「何か、気になることもであるのかい」
諏訪子が再度井戸の縁へ腰を下ろすと、天狗の胸をポンと叩いた。
「今更、隠し立てするなんて野暮だろう?」
そう、苦笑しながら言うと、はたては何とかその重そうな口を開いた。
「……早苗と仲良くしてあげたいのは山々なんだけど、どうやって接していいか……」
「そ、そんなことで悩んでたのかい……」
「だって、あの子ある意味アンタ以上に裏が読めないわよ?」
「まあ……世知辛い現代っ子だったからねえ」
確かに早苗は、誰とでも当たり障りなく接するのは非常に得意だ。
けど、それは本心を出していない建前という事でもある。
この天狗娘は、想像以上に他人の機微に敏い。そんな早苗の対応が特に苦手なのかもしれなかった。
「じゃあ、まずはうちの可愛い早苗を知ることからはじめましょうか」
「え?」
「知れば、話すネタや親しみやすさも増すってもんでしょ」
「ああ、そう……かもしれないわね」
諏訪子は一人何度か頷くと、まだ開けていなかった大吟醸を開封し、湯呑を掲げる。
はたてはそれを呆気にとられて見ていたが、
「付き合うでしょ?」
そう諏訪子が笑って言うと、はたても同じように缶詰杯を掲げてみせる。
「……よっし、いいわよ。とことんつきあったげようじゃないの! 時間はまだまだあるわ! ばっちこいよ!!」
「良いね、気に入ったよ。さあ、夜はこれからよ!」
夜空に、カンと高い音が響いた。
「早苗、どうしたんだい、ぼうっとして」
「あ、諏訪子様、いえ……なんか最近はたてさんが、よくお話しをしてくれるんです」
「へえ、それは良かったじゃないかい。それともあれかい、邪魔になるようなことでもされるのか?」
「い、いえ! ……そんなことは全然ないです、はい。むしろ色々お手伝いしてくれたりするくらいで!」
「何も問題ないじゃない」
「そうなんですけど……でも……なんていうんでしょうか……」
「うん?」
「……こう、ちょっと変わった視線で見られてる気がするんです……こないだなんか、気味が悪いくらい親切にしてくれて……」
「あ、そ……そうかい。なんでだろうねえ……ははは(ちょいと吹き込みすぎたかねぇ……)」
その後も風祝は、優しく親身に慈しむ様な視線を向けてくる天狗娘に、激しく戸惑い背筋を震わせるのだった。
おわり
「ぼく、よく来たねー。ちゃんといい子にしてたかな?」
風祝が、女が抱いた赤ん坊に笑いかけると、赤子は手を伸ばして笑った。
「そ、その仕草、その笑顔、反則です……!」
風祝こと東風谷早苗は、竹ぼうきを抱きしめるようにして身悶えする。
女は、息を弾ませながら微笑み返した。
「ありがとうございます。神様のご祝福を賜ろうと、参りました」
「ご参拝、お疲れ様です! 赤ちゃん連れての登山は、大変だったんじゃないですか?」
「里の分社にしようかとも思ったのですけれど、やっぱりどうせなら本山がよいかなと思いまして。ゆっくり三日ほど掛けて参りました」
「それだけの信心がおありなら、きっとうちの神様もお応えしてくれますよ!」
「途中で借りた河童さんたちのお宿、とても居心地がよかったわ。教えていただいた通り、キュウリの包みを持っていったら、それはもう親切にしてくれて」
「それは良かったです。ささ、お茶お出しします。こちらにどうぞ」
早苗は、婦人を境内の長椅子に案内すると、お茶を汲みに、社務所裏の勝手口へ回った。
いまだに、鼻息荒く頬を上気させている。
「ああ……なんで、赤ちゃんはあんなにも可愛いのでしょう!」
「そりゃあ、過去を背負って未来へ続けてくれる、大切な命だからねえ。人間が赤子を可愛く思うのは道理さ」
早苗の言葉に、後ろの声が答えた。
振り返ると、この神社の二柱が一角、諏訪子が機嫌よさそうに笑っている。
「諏訪子様も、赤ちゃんはお好きですか?」
「もちろん! そういえば、こないだ羊羹仕入れてたでしょ。あのお母さんに、出して上げなさいな」
「はい!」
早苗はお茶を湯呑みに注ぐと、諏訪子に言われたとおり、羊羹を切って小皿に乗せた。
お盆を手に表へ向かう。
そこで、突然暴風が巻き起こった。
早苗は体勢を崩し、お盆に乗ったお茶が倒れる。そして、茶を手へ引っ掛けてしまう。
「あつッ――」
早苗は、お盆から羊羹皿を滑り落としてしまった。
地面と接触するかと思われた羊羹皿が、ぎりぎりのところで掴み上げられる。
手の主を見ると、左右に髪を結った天狗少女が、気まずそうに笑っていた。
「……ごめん、大丈夫?」
天狗少女、姫海棠はたてはそう謝罪すると、ふわりと地面に舞い降りた。
「早苗、手、大丈夫かい!?」
「平気です、諏訪子様」
「水で冷やしておいで!」
早苗は頷くと、勝手口に戻っていく。
諏訪子は、苦笑いしているはたてを睨みつけた。
「ちょっと、危ないじゃないか。うちの風祝に何してくれてるのさ!」
「あー……あまり外に出ないもので、力加減間違えちゃって」
「言い訳はいいよ。それより、言うことがあるんじゃないかい」
「えっと、ほら、羊羹はお皿に張り付いてて、事なきを得たみたいですし」
「だから、そういうことを言ってるんじゃ……」
諏訪子ははたての持った羊羹皿を見ると、鼻を鳴らして歩き出した。
困ったように目で追うはたてに、諏訪子が言う。
「何ぼさっとしてるんだ。それもってついてきな」
はたてと諏訪子が表に回ると、境内の長椅子で先ほどの女が赤ん坊に乳をやっていた。
「赤ちゃんだ……」
目を丸くして赤子を見つめるはたてに、諏訪子は厳しくしていた顔を少し緩めた。
「なんだい。お前さん、赤ん坊も見たこと無いのか」
「写真や資料ではあるけど、生では初めて……です」
「その調子だと、あの赤子を攫いかねないね」
「そ、そんなこと、しないわよ!」
「まあいい。その羊羹、あのお母さんに渡してあげて」
はたては、なんで私がと慌てふためくが、諏訪子に睨み付けられて渋々歩いて行く。
母親の前まで歩み寄ると、おずおずと羊羹皿を差し出した。
「あ、赤ちゃん。可愛いですね」
「ありがとう」
母親はそう礼を言って、たおやかに微笑んだ。
はたては羊羹皿を長椅子に置くと、何故か顔を赤くして、そそくさと諏訪子の元に帰ってくる。
「何、顔赤くしてるのよ」
「ああいう笑顔、何か苦手……なんです」
「捻くれてるねえ」
「うう……あの、帰っていい?」
「お前さん。一体、何しに来たんだ?」
呆れたように言う諏訪子に、はたては髪の先をいじりながら答える。
「いや、現地取材の練習がてら、ただ立ち寄っただけなんで……」
「はあ……それで、うちの風祝を傷物にして、帰ると」
「ええ!? それは大げさすぎでしょ!」
その時、早苗が湯呑みを載せたお盆を持って、裏口から出てきた。
赤子に乳をやっている母親の隣に、お茶を置く。二、三言葉を交わして、諏訪子とはたての所に歩いて来る。
「こんにちは。姫海棠はたてさん、でしたよね?」
「こ、こんにちは」
にこやかに挨拶する早苗に、はたてが気まずそうに視線を逸らして挨拶を返す。
諏訪子が心配そうに尋ねた。
「きちんと冷やしてきたかい?」
「はい。この程度、妖怪退治に比べれば何でもありません!」
胸を張り力強く答える早苗に、諏訪子は困ったように肩をすくめて見せた。
「とは言うがね。こっちは被害を受けたんだ。何か代償がないなら、それなりの報いを返さないとね」
そう言って諏訪子は、はたてに鋭い視線を向ける。
「な、何よ!」
はたては、小さく身震いすると慌てて空に舞い上がり、一瞬後には彼方に飛んでいってしまった。
「まったく……ほんと、呪ってやろうかしら」
「諏訪子様。本当に大したことないので、大丈夫ですから」
むすっとした様子の諏訪子に、早苗が苦笑する。
「はたてさんも最近まで、あまり外に出ない方だったらしいので、人との接し方に慣れてないんですよ、きっと」
「まあ、そりゃあ、あれを見てればわかるけどさぁ……」
諏訪子は釈然としないと言った感じで腕を組んでいたが、優しげな目で親子を見ている早苗に気がつくと、同じように表情を緩めた。
「家族はいいものだね、早苗」
「そうですね、諏訪子様」
その後、諏訪子は親子に祝福を与える神奈子達を見物し、早苗から茶と羊羹を受けとった。
そして、神社の裏手から少し下った所にある、木々で囲まれた井戸へ向かう。
その縁に腰掛け、茶を飲み始めた。
この井戸は、守矢神社が来る前からこの山にあったものだ。
水は枯れてはいないが、少し不便なところにあるため、今は使われていない。
訪れる者もないので、一人でのんびり時間をつぶすときや、思案したいときなどに、よくこの場所を利用していた。
羊羹も食べ終わり、茶も飲み干したところで、気配を感じ、その方向を向く。
木陰から、気まずそうな顔をしたはたてが、姿を出した。
「……おやおや。さっきのでは飽き足らず、今度は憩いの時間もぶち壊しに来たのかい?」
「ええ!? いや、そんな気は……」
はたては困ったように頭をかくと、今まで逸らしていた視線を諏訪子へ移した。
「機嫌良さそうだから。大丈夫かなって。さっきのアンタ、ものすごく怒ってたし……ちょうど良さそうなタイミング待ってたのよ」
「タイミング?」
その言葉に、諏訪子は意外そうな顔で見つめ返す。
人見知りの激しい、他人の機微に疎い娘だと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
鼻の頭を掻いている天狗に、諏訪子はひらひらと手を振って見せた。
「まあ、今はお前さんの言うとおり、それなりに機嫌は良いよ。それで、わざわざ戻ってきたのは、どんな訳なんだい」
諏訪子の問いに、はたては背負った麻袋を下ろして、手に抱え直した。
「アンタのとこの風祝に悪いことしちゃったから……お詫びに来たのよ」
そう言って、それを差し出した。
諏訪子は訝しげな顔をしながら受け取ると、中身を見て感嘆の声を漏らす。
「……へぇ。ずいぶんとまあ、上等な酒じゃないか。こっちは、……缶詰? 久々に見たよ」
麻袋の中には、大吟醸の大瓶が三本、そして貝などといった海産物の缶詰が、たくさん入っていた。
「お酒あまり詳しくないから、良さそうなのを適当に選んできたわ。神様ってお酒好きなんでしょ?」
「まあね」
「その缶詰は、私が好きで市場に出回ってるときに買い貯めてあった、秘蔵の品よ」
諏訪子は一通り中身を確認すると、はたてに視線を向けた。
天狗娘はその視線に気がつくと、気まずそうに視線を逸らした。
諏訪子はふむと息をつき、麻袋を脇へ置いた。
態度は悪いが、この子はこの子なりに、罪悪感を感じていたと言うことだろう。
「さーて。もう、お詫びはしたし、帰るわよ」
そこで、諏訪子は大きく溜息をついた。
「少し感心したと思えば、お前さんというやつは……」
そして顎に手を当て、値踏みするようにはたてを見た後、言った。
「……ちょっと、ここ座れ」
「え……何よ?」
「酒に付き合いなさい」
「ええ!? い、嫌よ。私お酒ってあまり好きじゃないし……」
「お前さん、本当に天狗なの?」
「そう言うのが嫌いだから、家に引きこもってたのよ。アルハラよ、アルハラ!」
「やれやれ。でも、詫びに来たってんなら、少しくらい付き合ってくれてもいいんじゃないの?」
「うう、そう言われると、まいっちゃうわね……」
はたては嫌そうな顔をしながらも、渋々といった感じで、諏訪子の隣に腰を下ろした。
「でも、コップないわよ。どうするのよ? ラッパ飲みなんて嫌だからね」
諏訪子はにやりと笑うと、ホタテ缶詰の一つを取り出した。
この缶詰は、外の世界にいたときに見たことがあった。切り口が鋭利にならない、特殊加工されたタイプである。
諏訪子は、その缶詰を開けて、中身をさっきまで羊羹が載っていた器に移した。
そして、井戸から水を汲むと、その缶詰を水ですすぐ。
「さあ。お前さんはコレで飲みなさいな。私は、この湯呑があるから」
「えええ!? 缶詰で!?」
「さっき、酒はあまり飲まないって言ってたじゃない。どうせ、あまり酒の味も分りゃしないんだ。これで十分よ」
そう言うと、大吟醸を景気よく開封した。
「さあ、飲むわよ!」
「うええぇ……」
「諏訪子! さっさと次の缶詰、開けなさいよ!」
「ちょっと……神様を呼び捨てって、あんまりじゃないかい」
諏訪子は、この天狗を酒に同席させたのは間違いだったんじゃないかと、後悔し始めていた。
始めはあんなに嫌がっていたくせして、缶詰半分も飲んだ頃には、この有様である。
傍若無人もいいところだ。無礼講どころの騒ぎではない。
目を座らせたはたてが、ぎろりと諏訪子を睨みつけた。
「ああん? アンタみたいな幼女神様なんて、ちっとも怖くないわ!」
そう言うと、はたては諏訪子の腰を両手でつかみあげる。
突然のはたての行動に、諏訪子は不意を突かれて、抵抗することなく持ち上げられてしまう。
「ちょっと!? 何するの!」
そして、はたては諏訪子をボールのように空中へ放り投げ、落ちてきたところで受け止めるという行動を繰り返す。
「アンタなんかー、赤ちゃんと変わらないわ! ほら、タカイ、タカーイ―――痛ッた!」
何度か放られて、受け止められる直前、諏訪子ははたての頭を踏みつけて、地面に着地する。
頭を足蹴にされたはたては、涙目で諏訪子を睨みつけた。
「何するのよ! このバイオレンスロリ!」
「それはこっちのセリフだ! あんた、酒癖悪すぎよ! くっそ、放り投げられたせいで、頭がくらくらするよ、ったく!」
「罰よ、罰! いい気味ね!」
「罰は神が下すもんだ! ほんと、お前さんというやつは……そのくらいで済んで、感謝して欲しいくらいだわ」
諏訪子は、今日何度目か分からない、大きな溜息をついた。
そんな諏訪子を見て、はたては肩を上げて首を振る。
「しょうがないわねえ。自分で開けるわよ。もっと細かな気配りが出来ないと、信仰なくなっちゃうわよ?」
「くっそ、コイツ……」
エスカレートするはたての無礼に、諏訪子は額に青筋を浮かべる。
しかし、ここで怒ったら何故か負けな気がして、何とかそれを押さえ込んだ。
当の天狗はそんな怒れる神に、全く気づく気配はない。
「ねえ、諏訪子。何か楽しい話とかないの? そうだ、あれよ。さっき赤ちゃんいたじゃない」
「それが、どうかしたのかい」
「アンタが赤ちゃんだった時って、どうだったのよ?」
コイツは何を言い出すのだ。
諏訪子は疲れでぐったりしたように、頭を俯かせた。
「私は、神だってーの! 赤ちゃんだった時なんて、ないわよ! 信仰から生まれた存在だもの!」
「あー、ならそれでいいわ。その話、聞かせなさいよ」
よしいいぞ、さあ話せと言わんばかりの尊大な調子で、はたては酒の入った缶詰を傾ける。
諏訪子は、今までのとはまた違った不機嫌な顔になる。
「……嫌よ、なんで私が、そんなこと話さないとならないんだ」
そう言って、諏訪子は湯呑に口をつけた。これ以上言うことはもう無い、そんな感じである。
はたては、やれやれと頭を振ると、思いついたようにポケットへ手を突っ込んだ。
「しかたないわねえ。じゃあ、コレで対戦しましょうよ」
そう言って、はたては携帯電話を取り出した。
画面を見ると、ゲーム画面が写っている。
ブロックを一列に並べて消すという、有名なゲームである。
「これで、よりスコアが大きい方が勝ち。勝ったら、相手から話しが聞けるのよ。どう?」
これは、と諏訪子は思った。
外界に居たときに、有り余る暇を費やしたゲームの一つだ。
当時、諏訪子が叩き出していたスコアは、まさに神の域と言うにふさわしいものだった。
「……結構。その勝負乗ったろうじゃないの。負けたら、相手の質問に答える。嘘偽りなく、ね」
この天狗の、恥ずかしい話をたくさん聞き出してやろうじゃないか。
「いいわよー。でも、い・い・の・かしらぁ? そーんな条件、つっけちゃって?」
「御託はいい。さっさと、はじめるわよ。私にそのゲームで挑んだことを、後悔させてあげるわ」
諏訪子は携帯を受け取ると、にやりと笑い、ゲームを開始した。
「なに、これ……」
神は、自らの起こした結果に呆然としていた。
隣から覗き込んだ天狗娘が、呆れたように言う。
「ちょっとアンタ。スコアゼロじゃないのよ。あんな自信ありげだったのに。何さ、この体たらくは?」
諏訪子は一列も消すことなく、ゲームオーバーしてしまっていた。
予想していたゲームとは、色々違うものだったのだ。
横の列が想定していたものの十倍近くあり、本来の4個の四角で構成されていたはずの落ちブロックが、6個で構成されていた。
そして何より、それが8個同時に、鬼速度で落ちてくるという仕様。
まさに、ムリゲーであった。
「私が知ってるやつと、違うじゃないのさ!」
「んなこと、知らないわよ。勝負受けたのは、アンタでしょうが。ちなみに、私はそれ、三日間ぶっ続けでプレイしたのがハイスコアよ。どう、ちょっとは見直した?」
ふふんと胸を張るはたてと対照的に、身をちぢこませる諏訪子。
この天狗を侮っていた。
伊達や酔狂で引きこもっていた訳ではないということか。
どんなやつにも、びっくりする能力のひとつやふたつ、あるものなのだろう。
こんな、しょーもないことだろうと。
なんにせよ、相手のホームグラウンドで舐めて掛かったのは自分だ。
後悔、先に立たずである。
諏訪子が観念したように視線を上げると、はたてがいやらしい笑みを浮かべ、待ち構えていた。
「さぁて、聞かせてもらいましょうかね。アンタの嬉し恥ずかしの出自話を!」
そう笑って、はたては諏訪子の湯呑に酒を注ぐ。
諏訪子は、注がれたそれを一気に飲み干した。
「あー、もう! 分かったわよ……楽しい話じゃないけど、後悔するんじゃないぞ!」
「なーに言ってるんだか。そう簡単に、このはたて様から言い逃れできると、思わないでよね」
諏訪子は、身を乗り出し顔を覗き込むはたてに、軽くデコピンを食らわせて、貝のつまみを一つ口にした。
「一つ言っておくけど、他人には話さないでよね。神奈子にだって話したことないんだから……」
「はいはい、分かったわよ。私だって鬼じゃないわ。天狗だし」
「酔ってんのかい? ……まあ、頼むよ」
諏訪子はそう念を押すと、こほんと小さく咳払いをした。
「……私は、とある五十人ほどの集落の願いで生まれたのよ」
諏訪子がそう恥ずかしそうに小さく呟くと、はたてが意外そうな顔を向けた。
「五十人? そんな少人数の願いで、神さまなんて生まれるもんなの?」
「少ないね。まあ、それだけその集落の信仰が、篤かったってことさ」
諏訪子は苦笑する。
「その集落は、とても危機的な状況にあったんだ。その恐怖から逃れたいという願いが、私を生んだ――以上!」
「ええ? ちょっとちょっと、締め括るの早すぎ! 危機って何よ。そういう細かいところ、きちんと説明しなさいね!」
「お前さんには刺激が強いかもだけど、聞きたいかい?」
「何? 私のこと舐めてるの?」
「はあ。わかった、話す、話すから帽子をいじるな! たく……その集落はね、熊に襲われていたんだ。冬ごもりに失敗した熊にね」
「熊?」
頷くと、諏訪子はずらされた帽子を直しながら語る。
「ある日、女が一人攫われたんだ。荒らされた様子から、熊が原因ではないかと言うことになった。そこで、集落で討伐隊を組織し、男どもが退治に向かったんだ。でもね……その集落の人々のほとんどが、農作物を作るか、湖での漁業かが生業だったの。そんな訳で、武器や弓も扱いに慣れたものはいなかった。加えて、厳しい天候、装備の不足、飢えでの体力低下。色々と不幸も重なってね。まあ、返り討ちさ。男たちはほぼ全滅した。命からがら戻ってきたのは、男達の中でも年かさな荷運びの壮年男一人だった。戻った男の話を聞いた集落の人々は、そりゃもう恐慌したさ」
そこで、諏訪子は一息つく。はたては、諏訪子の湯呑に酒を注いだ。
「でも、熊はその日を境に、襲って来なくなった。何故だか、わかるだろう?」
諏訪子は、イカの干物の足を食いちぎって飲み込んだ。
そして、そのイカを振って見せる。
「餌がたくさんあったからさ。わざわざ、出向いてきてくれた、たくさんの餌がね。けど、そんな餌もいつかは無くなる。また、熊は集落を襲い始めた」
一本、また一本とイカの足を食いちぎって、口へ運んでいく。
「一人二人と攫われ始める。現場はそりゃ、悲惨なもんさね。置いてかれた手足や頭が散らばっているなんてざらだ。先の討伐失敗で男はほとんど殺されてしまっていて、残ってるのは女子供、老人くらいだ。そのうち、熊は集落に脅威が無いと分かると、その場で食事をするようにもなった。同じ村の中で、同胞が喰らわれてるんだ。この恐怖がわかるかい? 運悪く致命傷を受けないで、生きながらに長時間掛けて食われた奴だっていた。ずっと、ずっと叫び声が、響き渡るんだ。戦える者はもういない。このままじゃ、集落の人々が熊の胃袋に収まるのも時間の問題だったって訳だ」
そう言って、最後に残ったイカの頭を口へ放り込んだ。
「人々は、もうひたすらに祈るしかなかったのさ。その頃から集落では、蛇に祈りを捧げるようになってね。熊は蛇を避ける傾向があるから、それから来た迷信だったのかもしれない」
諏訪子は、手で近くに落ちていた石ころを拾い上げた。十寸無いくらいの大きさの、楕円の石である。
「各家々では、丁度これくらいの、細長く削った木や、細長い石ころを蛇の神様として祀り、祈った。ひたすらに、必死に祈り続けた。想像を絶する恐怖から発せられた、一途な生への渇望。何よりも強い意思だ。その願いは一つの偶像へと向けられた……――そして、私は生まれたのさ」
「でも、アンタって蛇っていうより、どっちかって言うと、蛙でしょ」
「まあね。だから、生まれた当時は、なんていうのかね。ただの白く細長い、蛇のような形をしたモヤだったよ。私の姿は」
「それから、アンタは人々を救ったってことか」
「そう言えば聞こえはいいけど、つまるところ、自分たちの脅威を消してくれってことだからねえ。もっと簡単に言えば、殺してくれってことさ。私の生まれた理由は、生き物を殺すこと。祟ることだったんだ。わかるかい。私の本質は、祟り。殺しなのさ」
諏訪子が手に持った石ころを両手で包み込むようにすると、ジワリと黒いモヤのようなものが溢れ出してきた。
はたてはそのモヤに嫌なものを感じて、身を引いた。
神は嗤うと、モヤを消して、石を放り投げた。
「人を呪わば穴二つ。呪いには対価が必要だ。でも、対価はもう十分に支払われていた。この場合、材料と言うべきか。死んだ人間たちの、絶望や怨嗟、ドス黒い魂魄と言ったものを纏めて練り上げ、熊に注ぎ込んでやったんだ」
そう言うと、諏訪子は口元を釣り上げて、はたての缶詰盃に少量ずつ、ゆっくりと酒を注ぐ。
天狗娘は、じっと注がれた酒を見つめる。
ごくりと、喉を鳴らした。
「そ、それで。どうなったの?」
「人間たちの願いは、とても強力なものだった。その人食い熊以外の熊へも呪いは影響し、その冬のうちに、その集落周辺の全ての熊は、死に絶えた。……一匹残らず、ね」
祟神は暗い瞳で、天狗の少女を見つめる。
はたては、固まったまま諏訪子を見つめ返す。
暫くそうしてから諏訪子が視線を外すと、はたては息をするのを忘れていたかのように、むせて荒く呼吸を繰り返した。
「どうだい。ちょっとは、この諏訪子様に、恐れを抱いたかい?」
そう諏訪子がにやりと笑うと、はたては自失したような表情をあらため、鼻を鳴らした。
「……私だって、熊くらい退治できるし! 熊もアンタも、怖くないし!」
「ああ、天狗のお前さんなら、確かに熊くらい退治できるねえ。ったく、ほんと一言多い娘だよ」
「……ねえ、それより、それからどうなったのよ?」
「ん? まあ、役目は終わったけど、集落の信仰は衰えず、逆に増して行ったね。だからその後も、その集落の連中を見守って過ごしたよ」
諏訪子は、さあ終わり、といった感じに体を楽にして酒を飲み始めた。
天狗が空を仰ぎ見て、また神に視線を向ける。
「まだまだ、時間はあるわよ! もっと話聞かせなさい!」
「えー……まだ話さないと、ダメなのかい……」
「そりゃそうよ。アンタは、勝負に負けたんだから。そうねー、その過激センスの帽子とかの由来も是非お聞きしたいわねえ」
そこではたては、思い出したように缶詰盃を、井戸縁にコツンと叩きつけた。
「というかあれよ! アンタの今の姿と、さっきの話の姿、全然違うじゃない。さっきの話から、続く形でその変体経過説明をお願いするわ!」
「うわー、何その面倒くさい要求は……」
「敗者は口答えしない」
「ほんと、怖いもの知らずね、お前さん……」
諏訪子はいかにも面倒くさいといった感じでそう言ったが、つまみを口に入れ、酒を一口含むと微かに笑った。
「長い話になるけど、いいのかい」
「上等よ。時間なんて、有り余るほどあるわ。珍しく私が、ご老体の昔話に付き合うのもいいかもしれないって気持ちになってるんだから、ありがたく思いなさいよ」
「……お前さん、ホントいつか痛い目見るよ」
諏訪子は溜息をつくと、また遠くを見るような顔をして語りだした。
私は人々を守った神として、崇められるようになった。
集落の人間たちは、近くの山裾の、蛇が多く生息するじめじめとした洞穴に祭壇を設け、蛇の形をした石ころを祀った。
そんな訳で、そこが私の居場所となったんだ。
男たちの多くは熊に殺されてしまったが、まだ小さな子供の中に男はいた。
だからまあ、力不足だとか、多少の問題はあったが集落は立ち直っていった。
人が減ったことで、不作であった作物がそこまで問題にならなかったのが、不幸中の幸いといったところか。
私は時折集落を訪れては、人々を観察していた。
基本的には、願いを受けたときに、信仰に応じて、それを執行するという感じだったけどね。
それから幾年日は、健全、平和、幸福。そんな願いが捧げられた。
そして、しばらく経った頃かな、生贄も捧げられるようになった。
その生贄は、なんていうのかね、生まれた時から、人として五体満足じゃない者たちだった。
ある者は、手足がなかったり、脳がなかったり、そう言った連中だ。
生まれてくるときに、神様が食べ残してしまったもの。そういう名目で贄として捧げられた。
そう言った人間たちは、当時の厳しい環境では、その後生きたとしても、すぐに死んでしまっていたに違いない。
洞穴に贄として捧げられた時点で、すでに死に絶えていたものも少なくない。
生きられたとしても、不幸な人生を歩む結果となった者が殆どだろう。
贄として捧げられる当人たちからしたら、そんなことは無いのかもしれないけど、やっぱり世話をするという人手などを考えると、どうしても足でまといになってしまうという人間たちだった。
そんな者達を罪悪感を緩和して処分することが出来て、且つ信仰の心も満たせるという、とても合理的なシステムだったんだ。
つまるところ、ていのよい口減らしだね。
集落は大きくなり、人の数も数倍の規模になっていた。
その頃からだろうか。
人々の願いに、変化が現れてきたのは。
大体の願いは、前の願いと同じ、豊作や健康などを願うものが多かったが、中にある人間を殺してくれと願うものが出てきたんだ。
自らの命を脅かす存在ではないというのに、そう願う者が現れた。
私はこれに混乱した。
集落全体の願いとして生まれた私としては、その一部である人間を呪い殺すというのは、なんというか、道理にかなわないように思えた。
信仰から生まれた私は、人間の気持ちの機微など、全く理解し得ないものだった。
理不尽、不可解、非合理、そんな願いをする者が、日増しに増えていった。
ある人間を救ってくれと願うかと思えば、殺してくれと真逆の願いをする者もいた。
人間というやつは、本当に理解に苦しむ生き物だった。
そんな時、珍しいことがあった。
いつもどおり、洞穴の岩戸が開くと、贄が運ばれてきたのだが、その贄が三、四歳ほどの少女だったのだ。
見た感じ、どこにも異常は無い。強いて言えば、髪の色が他の人間と違い、狐の毛のような色であったことか。
過去に、集落に流れ着いたよそ者に、そんな髪の色をしたものがいた。
その血を受け継いでいた者なのだろう。だが、それだけでは贄の理由足りえない。
それに、この年齢になった人間が贄に選ばれること自体が、あまりないものなのだ。
大人たちは少女を洞穴に取り残し、岩戸を閉めた。
少女は特に手足を縛られたりしていなかったので、小さな採光穴から明かりが入るだけの、暗い洞穴を歩き回っていたが、頭をぶつけ、石につまずき、疲弊してそのうち動かなくなった。
私は興味を惹かれ、歩み寄り姿を確認して、そこでようやく合点がいった。
その少女は、盲目であったのだ。
きっと、親が気づいた時には、すでに贄に出すのに躊躇うほどの時間を過ごしてしまったのだろう。
何故か、人間は共にいた時間が長ければ長いほど、その者を大事にする傾向がある。
親は娘を贄に出したくなくて隠していたが、他の人々に見つかってしまった。
生まれながらの盲目はもちろん、神に目を食された者として、生贄の対象であるから、それに従う他ない。
私は、そこでちょっとした実験をしてみることにした。
彼女の体を貰い受けるというものだ。
今までの贄は、それ自身は朽果てるのみで、それを捧げる者たちの信仰心を高める役にしか立っていなかったが、はじめて贄自身を役立てる訳である。
この少女は生まれてこの方、ずっと盲目であった。
それは即ち、俗世の人の見識に浅い、常識に疎いということでもある。
人の世を見ていない、まだ柔らかい感覚。それでいて、生まれてすぐの赤子よりも大きく育った体と頭。
この器なら、私の精神を受け止めることができるのではないかと思ったのだ。
私は少女に語りかけた。願いはないか、と。
少女は一言、死ぬのは嫌、と言った。
私は、その願いを叶えてやった。
この少女の魂を取り込み、可能な限り、生き永らえてやることにした。
それから数日後、大人たちが洞穴を訪れた。
そして、中で驚くこととなる。贄として捧げた少女が、まだ生きていたからだ。
私が神力の一部を用いて、最低限の生命維持を行った結果である。
そして、もうその体は少女のものではなく、私のものであった。
私は男の一人に歩み寄り、言った。
「ここから出たい。連れていけ」
相手は、信心深い人間であったのも影響したのだろう。
私の言霊を受け、その命を果たすべく、私を洞穴から連れ出した。
他の大人たちが、その行動は神に対する冒涜だなど文句を言ったが、私の命を受けたその男を止めることはできなかった。
私は集落の、ある老婆の家へ連れて行くように指示した。
その老婆は、この集落でも抜きん出て長生きしていた老婆で、他の人間たちから影婆と呼ばれていた。
また、霊的な感能力が生まれつき高く、神体である私の声を聞くことができたので、何度かその老婆の夢に出向き、指示を与えたこともあった。
それゆえ、人々からは益々恐れられ、集落の中でも飛び出た発言力を持ってもいた。
影婆は私の姿を見ると、少女の体を借りた神であると、即座に理解した。
「お前たち、この幼子は、神の化身ぞ。失礼な振る舞いをすれば、直ちに祟りが下るであろう」
影婆の一言で、人々は私を神の化身と畏れ見るようになった。
また、私が神力を用いて、盲目にも関わらず周囲の状況を理解していたというのも、その一因を担っていたのだろう。
この娘の体の両親のうち、父親は病で死んでいた。
母親は健在であったので、私は母の元へ帰ることになった。
家に帰ると、母は泣いて喜んだ。
私を抱く母は温かくて、今まで感じたことのなかったその感覚に、戸惑いを覚えたものだ。
本当の娘ではないと伝えるべきだと考え、私はその母に言った。
「私は、もうお前の本当の娘ではない。この娘の体は、神である私が貰い受けたのだ。この娘の魂魄は、私の精神と融合してしまっていて、もはや元の娘のものではない」
だが母親は、頭を振って私を抱きしめるだけであった。
しばらく抱きしめられたあとに身を離すと、自分の腹を愛おしそうに撫でる。
「それでも、あなたは私の娘なのですよ。そして、このお腹にはもう一人、赤子が宿っているのです。あなた様が神様の化身であるならば、このお腹の子の無事をお願いしてもいいでしょうか?」
「人の身に移っている今は、神体である時のように力を振るえない。それでも、子を差し出したお前の信心に報い、その子を出来うる限りで、守ると誓おう」
私は人の身になったことで、神力のほとんどを振るえない状態であった。
できることといえば、信仰篤い者たちに精神的な影響を及ぼすこと、身体の多少の強化、周りの気配を探るということくらいであった。
しかし、危惧はなかった。
何故なら、この身が朽ちようとも、私の存在に何ら影響はないからだ。
しいて懸念を挙げるとすれば、私の存在基盤である集落の人間が、全滅してしまうことだろうか。そうなれば、信仰が無くなり、私は消えてしまうだろう。
だが、それは杞憂である。集落も人口が増え、大分安定していた。一時的に私が力を振るえなくとも、集落の人間達が死滅するなどということは、そう起こることではない。
私がこの体を貰い受けた理由は、一時的に人の身に下り、その理解し難き心を知ろうということであった。
神の化身と言われた、私が住まう家である。
他の人々が、食料や身の回りの世話を焼いてくれていたのもあり、何の問題もなく、母は無事に子を出産した。
その赤子は女の子だった。私に、妹ができたわけだ。
しかし、出産に負担がかかったのか、子を産んですぐに、母は亡くなった。
その後、私と妹は影婆に引き取られた。
影婆の下で月日が経ち、私は一人で集落を歩いて回ることが多くなった。
目の見えぬ私が、一人で歩いているのである。人々はさらに畏れを増した。
そうして、そのうちに私は、人々に直接指示を出すようになった。
一人の人間が生きるより、遥かに長く生き、そして客観的に営みを見続けてきた私の知識は、人々をより良い生活へと順調に導いていった。
自分が人の身で生活したことにより、どういうことができれば人の生活が楽になるか理解したから、できたことである。
そんな私を、人々はさらに信仰するようになった。
神力を振るわないにも関わらず、集落の信仰心は高まる一方だった。
妹が物心つくと、私に付きまとうようになった。
そして、ひとつの問題が浮上した。
妹の足が不自由であることが分かったのだ。
もう立ち上がって歩ける歳になっているのに、歩くことはなかった。
本来であれば、贄の対象である。
しかし、自らを神の化身とする私の妹だ。何とか生贄になることは免れた。
そして、足を擦るようにして移動する妹を見て、人々は蛇神様の化身であると恐れた。
「全く、笑ってしまうね。お前さんが、蛇神様なんだってよ」
「あたし、へび?」
「ああ、皆、お前のことを蛇の神様だと思ってるらしい。人間って、面白いね」
「あたし、へびー!」
妹は相変わらず、私に付きまとった。
人々を見てまわろうとする私には、邪魔以外の何者でもない。
それなのに、どうしてか私はこの娘を邪険に扱う気が起きなかった。
これが、人間の不合理な行動の一つなのだろうと思ったが、理解するまでには至らなかった。
「人間を理解するのは、当分先のようだね」
私はそう笑うと、しがみつく妹にそう呟いた。
妹は大きくなると、動かない足でも、懸命に家事などを行ってくれた。
私とよく話をしていた妹は、他の人間に比べれば賢く、集落の人々の相談などを受けることも多くなった。
そして、それ以外の時は、家で木彫り細工をして過ごしていた。
妹の手先は器用で、食器といった身近なものから、男衆に手伝ってもらい山に入り、神木となる大きな木から程よい木を見つけると、蛇の木彫り像を作ったりもした。
それらの像は、家々で祀られ、祈られる神具となった。
ある寒い冬、私が布団に入り中々出てこないのを見て、妹が言った。
「もう、姉様ったら、全くカエルのようだわ」
「カエル? 私がかい」
「そうですよ。カエルは、冬になると土に還ってしまうんです。そして、暖かくなると、また土から生まれてくるのですよ。寒い冬は、今の姉様みたいに、そうして潜ってしまっているんです」
「へえ、そうなのかい」
私は、カエルはただ冬眠しているだけだということを知っていたが、そう言うのも無粋かなと思い、黙っておいた。
「まあ、確かに。蛇女のお前さんが天敵なのは事実だねえ。蛙はまさに、私を言い当てているよ」
「まあ! 姉様の天敵ってどういうことですか! 私はいつだって、お姉様にしっかりしてもらいたくて……!」
「わかった、わかったってば。そう口うるさいところが苦手なんだよ」
「もう!」
妹は、機嫌を悪くしたのか、ぷいとそっぽを向いてしまった。
後でご機嫌取りのために、団子でもこさえてやるとするか。
私は苦笑すると、また布団の中に頭を引っ込めた。
私が一眠りして布団から出てみると、愛用する帽子の上に、木で出来た蛙の目玉がくっつけられてしまっていた。
意地になって、そのまま数日外を出歩いていたら何故か信仰が強くなった。
さすが人間。まだまだ私の理解が及ばない生命である。妹にことを告げて礼を言ったら、複雑な顔をされた。
私がいつものように集落を散策していると、ある少年に呼び止められた。
みすぼらしい格好をした少年だ。
確か、集落でも貧困な人々の住む地域にいる子供である。
その地域の人々が貧困なのは、そこを取りまとめる地位の高い男が怠慢者で、その上、無理な税を取り立てていたからであったはずだ。
「お前。神巫女様だろ。うちの母ちゃんが、病気なんだ。治してくれ」
少年に腕を引かれ、家へ連れてこられた私は、少年の母を見た。
この母は、病気などではなく、単純な栄養失調であった。
食事をきちんと摂り、体を労われば良くなるだろう。
「もっと、たくさん栄養のあるものを食べさせれば、治るだろうさ」
「どこにそんな、飯があるっていうんだ!」
私の答えに、少年は吐き捨てるように、そう返してきた。
そこで、私は考える。
確かに、この家にそんな食料は見当たらない。調達の目処も無いだろう。
このまま行けば、この少年の母親は遠からず死ぬことになる。
そのとき、この少年はどう思うだろうか。
今までの経験から考えると、怒りの矛先を件の怠慢男へ向けるだろう。
この少年に頼まれるまでもなく、あの男は、そのうち殺すと決めていた。
他の人々からの恨みの願いも大分集まってきているからだ。
多くの者たちの怒りが溜まったところで、殺す。良い見せしめにもなるだろう。
そうするのが、信仰を集めるのにも効率が良いことは、今までの経験から分かっていた。
あいつを殺せば、結果的にこの地域は豊かになるだろう。
だが、この母親の状態を見ると、それまでは持ちそうにない。
集落全体の発展を考える場合、どうするべきなのか。
少年には悪いが、母親には死んでもらったほうが、良さそうではある。
しかし、今こうして私は神の化身として、救いを求められた。
ここで救わないというのも、後々に影響してくるかもしれない。
もしかしたら、頼んだのに願いを聞き遂げてくれなかったと、私へその思いをぶつけるかもしれない。
考えあぐねていると、業を煮やしたのか少年が私をどんと押した。
私は転んで、尻餅をつく。
「おい! 母ちゃんを助けてくれるのか、どうなんだ!」
私は、閉じた目で少年を睨みつけた。
そこでふと、少年に何か感じるものがあるのに気がついた。
「お前さん。私と一つ遊びをしようじゃないか」
「遊びだって?」
「そう、遊びだ。でも、侮るな。この遊びで、お前のこれからの人生、及び母親の命運も決まると思っていい。心してかかれ」
私はそう告げると、懐から妹がこさえてくれたお手玉を三つ取り出した。
「受け取れ。地面にこれをつけたら、お前の負けだ」
そう一言発し、お手玉を投げつける。
少年は即座に反応し、無理な体勢ながら受け止めてみせた。
間もおかずに、続いて二つ目。こちらも普通なら厳しい距離へと放る。それも見事受け止める。
三つ目。これは彼の死角へと放った。しかし彼は、気配を感じ直ぐに振り返る。だが、距離が遠い。
ギリギリで間に合わない。少年は室内に立てかけられていた、扉を閉める長い木の板を手に取り、下から振り上げて、お手玉を打った。
そして、打ち上げられたお手玉を足でさらに弾き、手で受け止める。
少年は、三つ全部を見事に受け止めてみせた。
やはり、この少年の身体能力、判断力は人として異常の部類に属するものだ。
先天性の何らか、はたまた。
この頃、山向こうの集落で不穏な動きがある。
そろそろ、この集落も武力の増強に努めていいだろう。
私は少年をじっと見つめた。
少年は、しっかりと私を見つめ返している。
私は口の端を上げた。
この少年を戦のカリスマとして持ち上げるのだ。
私が見込んだとおり、少年はみるみるうちに頭角を現した。
彼を衣食住で支援するのに代わり、彼は集落内の力仕事や、私が指示した戦闘に関する訓練などの義務を命じた。
その甲斐あって、彼の母も十分な生活ができるようになり、体調を無事回復させた。
一年もすると、倍以上の年恰好の大人をも、素手で返り討ちにするほどの強さを身に着けていた。
私が少年を登用した頃と同時期、集落に住み込みの戦闘訓練所を作った。
貧困で貧しい子供達を引き取り、素養のある方向へと教育し訓練しつつ、農作業や集落での仕事をさせるというものだ。
集落で祭られる神の代理人である私の要請で建てた施設だけあって、他の大人たちも精力的に支援をしてくれた。
人々の外界に対する危機意識は予想以上に高く、訓練に勤しむ若者も多かった。
過去の熊による殺戮を物語として語り継いでいたのが、それに影響しているのは間違いなかった。
数年が経つと、少年は大人と見分けがつかないくらいの体躯へと成長した。
また、彼に敵う者はほかには存在しないほどの力量と、正義感ある人格から、集落からの信頼も厚くなっていた。
彼は私のところへも頻繁に出入りし、集落での大きな会議などにも参加するようになった。
自分と母親を救った私を強く信頼していて、ことあるごとに私や妹に相談をしに来ていた。
ただ、私は彼が相談だけの目的で来ているのではないと、心のどこかで感じてはいた。
「姉様。少し森で、細工によさそうな木を探してまいります」
「ああ、もうそんな時期か。蔵の木材はもう使い切ってしまったのかい」
「それが……水がどこからか入り込んでしまったようで、一部が腐ってしまっていたのです」
「わかった。気をつけていっておいで。今日も守衛長を連れて行くんだね」
「は、はい」
少し頬を赤らめ言う妹。
守衛長とは、件の少年のことである。この集落の守護の全般を一手に引き受けて立つ彼を皆はそう呼んでいた。
玄関から、守衛長の声が響き、中へと入ってくる。
「妹様、そろそろ出られますか?」
「仲睦まじいねえ。うちの妹は、そんな身体が丈夫じゃないんだから、あんまり無理させたら許さないぞ?」
「いえ、無理をさせるなど滅相もございません! 何があろうと、この身に代えましても妹様の無事をお約束いたします!」
大声でそう言う守衛長に、妹は更に顔を赤らめたようだ。
「ああ、もう、わかったわかった。その馬鹿でかい声、どうにかならないのかい」
目の前のこの男は、体も大きければ声もばかでかい。
会った頃は私と大して変わらない背丈だったのに、今では二倍以上の高さになっている。
それは、私の体がある程度を境に成長しなくなっていたというのもあった。
普通の女子であれば、月のものが来る程度の時期、それを境に成長がとまったのである。
当然、私は妹にも背丈が抜かれてしまっていた。
「ところで……新造集落の件、どうなってる?」
「は! ちょうど戻りましたら、詳細な説明をさせていただこうと思っておりました」
守衛長が妹に目配せすると、妹は頷いて部屋の奥へと戻っていき、茶の準備を始めた。
「妹様、すみません。もうしばらくお待ちを」
「いえいえ、大事なお仕事ですもの」
守衛長と話していた新造集落というのは、動向の怪しい山向こうの地域に対する一種の砦として、建造を考えていたものだ。
この集落から半日ほど歩いた所にある川のほとりに、防衛に適した荒地がある。
幾分前に、地脈や大地の気の流れを読み、開墾すれば実りある地になると目をつけていた土地であった。
そこを守衛長が中心となり、新しく殖民できる場所へ開墾しつつ、防壁や施設の建造を進めていた。
「男達の意気は上々です。これも、すべて神巫女様と、その妹様のお陰です」
「ふむ、いつくらいに移住のめどが立ちそうかね」
「おそらく、収穫祭までには……」
「次は豊作になる予想だ。厳しいようなら備蓄を運び、お前の裁量で人を選び増員しても構わんよ」
「は、承知しました。何かあればまた」
守衛長を抜擢した経緯から、私は人間の他人に対する信頼というものを理解し始めていた。
どういった人間が信用され、頼られるようになるのか。そして、不信はどういう時に生じるのか。
この守衛長は自ら行動することを全く厭わない実行力と、どんな些細なことでも私たちへ相談する繊細さを兼ね備えていた。
いつだったか、私を押し転ばせたときのことを強く心に、後悔として刻み込んでいると言っていた。
私としては、十分お釣りの来る信仰を貰っているから気にはしていなかったが、この男のこんな性格にはそれが作用しているらしい。
また、幼いころに力の悪用というものを身をもって知った彼は、権力悪に対して滅法厳しかった。
それとは逆に、妹はとても優しい性格をしていたので、守衛長が集落内の悪い部分を叩くと、その修復や再生、更正などの事後処理を事細かに行った。
二人の均衡の取れた活躍のお陰で、集落は今まで見てきたどんな時よりも、目覚しい発展を遂げていっていた。
守衛長は予定通りに、新造集落を完成させた。
継続して環境整備と領地拡大をしていくのだが、第一段階が終了し一部の人間の移住が開始される。
皆が力を合わせて作りあげたものということもあり、完成時の祝宴はそれはもう盛大に行われた。
普段あまり口にする機会の多くない動物肉などもふんだんに振舞われる。
大人子供老人、皆が笑うそれは心地よい宴だった。
新造集落は継続して守衛長が中心となり、発展させていく。そのため、彼は基本的に新造集落の方で生活していた。
その間も、彼は伝令を欠かさず、また可能であれば自らが本集落へ足を運び、私達への情報共有を怠ることはなかった。
ある時、妹が新造集落へ行くこととなった。
私は何度か行ってはいるが、妹はその不自由な体もあり、一度も行ったことが無いのをとても残念がっていた。
そんな時、新造集落の中央公会堂が建造されたのを機に、一度新造の祝いの儀を妹が行ってみるのも良いのではということになったのだ。
妹はとても喜んだが、それ以上に守衛長も大喜びした。
彼が中心となって作り上げた新造集落、それを敬愛する妹に見せられるとあって、心弾まないはずが無かった。
一度に二人が本集落を離れるのも問題だろうと、私は留守番をすることになった。
せっかくだからと言う事で、妹は十日ほどあちらで過ごすことになったが、私はそれにとても不機嫌になった。
妹があちらへ行っている間は、村の娘が私の身の回りの世話をするという話である。
しかし、一日妹と会えないだけでも不機嫌になる私に、十日も離れていられるのか、甚だ疑問だったのだ。
いつの間にやら、妹は私に無くてはならない存在になっていた。
「姉様も、少しは私離れしないと後々困りますよ?」
私はそう苦笑する妹に、小さい頃は私にしがみ付いて離れなかった奴が何を言っているんだと言い返した。
しかし妹は私を抱き寄せると、私は今も姉様とこうしていたい気持ちでいっぱいですが、我慢しているだけなのですよ、と微笑むのだった。
そんな妹に、私は黙り込むしかない。
妹の私に対する扱いが、年々手馴れてきているのに危機感を覚え始めたのはこのときである。
妹が帰ってきた。
予定より三日ほど早い帰還であった。
どうしたのかと問う私に、妹は少しやつれた顔をして、守衛長に会ってくださいと言った。
守衛長は本集落の医術所にいた。その姿は驚いた事に、包帯まみれであった。
駆け寄る私に、命には別状がないと医術師が落ち着かせる。
確かに、傷は少し前に受けたもののようだ。今は包帯を取り替えているところらしい。
胸をなでおろすが、その理由が気になった。
守衛長は、顔にまで巻きつけた包帯で話し辛そうにしながらも、何とか説明した。
彼は新造集落周辺の木々を見てみたいと言った妹の頼みを受け、いつものように妹を背負い森を歩いていた。
そこを突然、謎の集団が襲ったと言うのである。
普段の彼であれば、何倍もの人間が相手でも返り討ちに出来る。
しかし、妹が一緒となるとそうもいかなかった。
勿論、それ以外にも部下を連れていたが、襲撃者に奇襲され殺されてしまったのだ。
絶体絶命であった彼と妹を救ったのは、一人の旅の小男である。
その小男は偶然ここを通りがかり、多勢に無勢で女を守る男を発見した。
様々な薬の扱いに長けた彼は、風上で痺れ薬を焚き、襲撃者達を身動きできなくさせた後、妹と守衛長を解毒し逃げたのだという。
その小男は客人として、新造集落に滞在してもらっているということだった。
残念だが、もう少し防備が固まるまで、妹が次に新造集落へ行くのは伸びそうである。
私がそう言うと、守衛長はさも残念そうな顔をしたが、妹の安全には何にも代えられませんと言って頷いた。
守衛長は包帯を取替えた後、すぐに新造集落へ戻るとのことだった。
半日の距離とはいえ詳細な報告するために、わざわざ怪我の体を押して私のところへ来たという訳だ。
一番の理由は、妹を危険に晒さない為なのかもしれなかったが、彼が真に律儀な男であると再認識させられた。
話を聞いて気になったのは二点。襲ってきた連中、そして、妹と守衛長を救ってくれた小男である。
大事な妹を救ってくれたのだ。礼もせねばなるまい。
久々に還ってきた妹ともっと一緒に居たくも思ったが、それらを良く知るためにも、守衛長について新造集落へ行くことにした。
一言で言うと、その小男はヤモリの様な男であった。
確かにはじめてみる顔である。
しかし、その小男の纏う雰囲気が、長年私の集落で過ごしたかのようになじんでいるのである。
まるで、その場にあわせて色を変えるヤモリの様である。そう思ったのだ。
ヤモリ男は人の良さそうな顔で、私に会えたことを光栄だと言った。
このように可愛らしい、生き神様に会えることなど、そう無いことであろうと。
私も信仰すれば、神の祝福を与えて頂けるだろうかと笑う男に、私は苦笑した。
そうは言うものの、ヤモリ男から信仰心が欠片も感じられなかったのだ。
自分の集落以外の人間と接することもほぼ初めてのことであったし、そんなものなのであろうと一人納得した。
その後、襲われた場所の見聞や調査をしたが、襲撃者についての情報は、殆ど掴むことができなかった。
私は殺されてしまった男達の遺骸へ魂送りの儀を行い、守衛長とヤモリ男へ別れを告げ本集落へと帰った。
その後の連絡で、ヤモリ男が新造集落のことが気に入り、そこで世話になっていると聞かされる。
連絡には、その滞在の是非についての返答も含まれていた。
自らの信仰者以外の人間が集落で過ごしているというのに気持ちの悪さのようなものを感じたが、ヤモリ男が持つ薬の技術はとても有用なものだった。
それに妹と守衛長の恩人でもある。
そんな理由で、私はヤモリ男の長期間の滞在を許可した。
そして、件の襲撃者達の情報も送られてきた。
どうやら、思ったとおり歩いて三日ほどの山向こうの連中で間違いないということだった。
新造集落が出来たことに、何か危機感を感じたのかは分からない。
しかし、問答無用で襲い掛かってくる連中である。
防備のためにも、あそこに新造集落を設置したのは間違いではなかっただろう。
私は防備増強や本集落からの支援などについて意見を出すと、山向こうに対し対策を練るのであった。
しかし意外なことに、それ以来、山向こうからの攻撃は一切無かった。
かといって、油断するわけにも行かず、厳しい警戒態勢の中、新造集落の増築、開墾は進められた。
緊張の中での作業は効率が上がらず、予定よりも大きく開拓は遅れた。
守衛長は相変わらずこちらとの往復を繰り返していたが、日増しにその顔に強い疲れの色が見受けられるようになった。
守衛長の様子を見かねた私達が休むように言うも、大丈夫ですの一点張りである。
もし体を一度でも崩したら、きちんと休みますのでと言う彼に、本集落で楽をさせてもらっている私達があれこれと強く言うことは出来なかった。
その頃から、新造集落でいざこざが多発するようになってきた。
切欠は些細なものなのだが、徐々に加熱し刃傷沙汰になることもしばしばあった。
攻めてくる気配の無い相手に備え、過酷な労務に携わる彼らの心に良くないものが鬱積しているのは間違いなかった。
時折新造集落を訪れる私を見る視線も、本集落のものと比べてどこか異質なものに変じていた。
収穫が想像以上に少なく厳しい冬に、それは起きた。
備蓄が尽き始めた新造集落へと輸送していた食料の一部が、その途中で紛失したのだ。
はじめは、ついに山向こうの者達が動き出したかと考えたが、その気配はなかった。
かわりに、本集落で不審な食料の増加が見られた。
その審議を問う為に開かれた会議は、荒れに荒れた。
「とうとう、本心をあらわしたな! 我ら新造集落の者のことを都合の良い連中としか考えていないのだろう!」
「なんと無礼な! 我らの神巫女様が守られる本集落で、そのような不正が行われているなどと、どうして考えられるのか!」
「事実、私達が受け取るべきであったものが、そちらで発見されているではないか! これに、どう説明をつけるのだ!」
「何者かの企てに違いない。最も怪しいのは、お前たちなのではないのか!」
私はどう人間達が決着をつけるのだろうと、いつものように行方を見守っていた。
守衛長は、どちらの言い分が正しいのか判断つかず、ただただ黙し険しい顔をしている。
妹は、目を伏せ俯いていた。
頭の熱くなった数人が腰を浮かし始めたとき、今まで黙っていた妹が声を発した。
場の全員が静まり返る。
妹が発した声は大きなものではなかったが、場を静まらせるには十分な力を持っていた。
それは、神巫女の妹だからというだけではない。
妹は私と同様に、基本的には決定に口出ししない。ゆえに、会議の席で声を発すること自体が非常に稀なのである。
私も何事かと、妹を注視する。
「こうしましょう。私が、新造集落へ赴き、常任巫女として常駐します」
「なんだって……?」
妹の突然の言葉に、私は愕然として目を大きく見開いた。
「おい、どう言うことだ……!?」
怒気を含ませ言う私に、妹は真っ直ぐとした視線を返した。そして、周囲へとそれを移し面々を見渡す。
「皆様、神巫女の妹である私が出向く意味はおわかりですね?」
そう確認するように言うと、まだ少し納得いかない顔の者へ視線を向け続ける。
「不正に対する罰は、その者が分かり次第下されるでしょう。今は争いあっているときではありません。私が行くだけでは不満でしょうか」
「い、いえ。そんな滅相も。妹様がいらしてくれるなら、きっと新造集落の連中の志気も上がるでしょう」
妹は新造集落の男の言葉に頷くと、守衛長に普段の定例報告へと移るように言った。
守衛長は指示通りに議題の終了を告げ、次回開催日程などの慣例的な説明を行った。
会議の終了後、妹と守衛長、私が部屋に残る。
私は妹に詰め寄ると、肩をつかんで問いただした。
「一体、何のつもりなんだ! お前が、新造集落で常時滞在だなんて!」
「言ったとおりです。本集落と新造集落の間に亀裂を生むわけには行きません。姉様だって、これが最善だと分かっていらっしゃるはずです」
妹の言うとおりだった。
新造集落の大きな不満のひとつに、心の支えである巫女がいないというのがあった。
それに加え厳しい荒地という場での、重い肉体労働。そして、常時緊張状態の前線と言ってよい今の状況。
厳しい時ほど、私や妹が近くで鼓舞してやる必要があるのに満足にできていない。
時折私が訪れるとは言え、新造集落の人間達が本集落に比べぞんざいに扱われている、そう心の何処かで思っても仕方の無い環境だった。
さらに本集落のときは守衛長と妹の二人で支えていたものが、あちらでは守衛長のみなのである。
事細かに助言を与えてはいるが、どうしても締め付けの方がきつくならざるを得ない。
彼らの不満は溜まる一方だった。
「強力な信頼関係を築くには、こうするのが一番なのです」
わかっている。そんなことは私だって、理解しているのだ。
でも、どうしても妹と離れ離れになっている時間が増えるのが、許せなかった。
人間は、血の繋がりを強く意識する。
その為なら、全体の繁栄を考えた場合には選択するべきではないような行動も、何の躊躇いもなく行ったりする。
ある者が家族を殺された。または、何かしらの害を受けた。
そういった場合に、より残すべき優秀な血を持つ人間を平気で殺したりする。
今までは、その不合理的な行動を理解し兼ねたが、今なら分かる。
今の私はこうも、妹を愛しているのだから。
妹が何か害を受けたなら、私はその者を許しはしないだろう。
家族とは、そういうものなのだ。
理屈ではない。
あの守衛長は、信頼できる男だ。
それは間違いない。自らが、見定めた男なのだから。
それでも。
ああ、それでも。
妹と別れて暮らすというだけで、私の心は暗澹たるもので包まれてしまう。
これが、寂しいというものなのだろうか。
こんな気持ちを抱いて生きているなんて、人とはなんと不幸せな生き物なのだろう。
「……分かったよ。私だって、見た目どおりの子供というわけじゃない。それに、お前達人間が決めたことには、文句をつけるつもりも無い。私がするのは、あくまで助言だけだ」
そのとき、少し妹が寂しそうな顔をしたが、私は気に留めなかったように家を出て行った。
その翌日から、妹は新造集落で生活することになった。
妹の狙い通り、新造集落の人々の様子は一変し、強い信仰が私へとおくられるようになった。
守衛長が防備を強め、外敵からの心配もありませんと胸を張ったが、私の気分は晴れなかった。
目の前のこの男と、妹の間に恋慕のようなものが存在したとは知っていた。
このことが、妹の行動の少しの部分を占めてはいるのだと思う。
大部分の理由は、先日の会議後に妹が言ったとおりなのだろう。
しかし私は心の何処かで、妹が私よりもこの守衛長を選んだのではないかと感じずにはいられなかった。
そんな私の気持ちなど露知らず、目の前の男は頻繁に訪れては、妹のことを事細かに語るのだ。
「ああ、わかったって。妹のことはいい。あの子が良く出来た子だってのは、十分に分かってる」
「そうですか……あの、神巫女様。妹様が新造集落に移られてから大分経ちますが……」
「それが、どうかしたのかい」
「あれから、一度も会われていないのでしょう。妹様がとても寂しがられている様子でしたので……」
「……」
守衛長の言うとおり、あれ以来一度も妹とは会っていなかった。
妹は私に会いたがっていたが、私はそれを避けていたのだ。
なぜ、私はこのような行動をしてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
妹が守衛長を選んだように感じた、その怒りからだろうか。
会いたくてしょうがないはずなのに、会いたくないという矛盾する強い感情。
二つの気持ちの間で、私は日々鬱々としたまま過ごしていた。
本集落と新造集落の定例会議などの時も代理を立て、妹とは顔をあわせなかった。
妹が本集落に戻ってくる機会も何度かあったが、私はそれを見計らい遠出などをしてその時すら会わないようにしていた。
徹底的に、妹を避けていたのだ。
「神巫女様、妹様からの贈り物です」
守衛長が懐から取り出したのは、小さな木彫り細工だった。
いまや私の目印のようにもなった、カエルの様な帽子をかぶった私と、手をつなぐ妹の木彫り像。
私はそれを少し眺めた後、守衛長へと投げ返した。
「妹に伝えてくれないか。もうこんなものを作ってる歳じゃないだろうとね。……それと私を誰だと思ってるんだ? こんな見た目ではあるけど、一応お前達より長くを生きてきた神なんだぞ!」
そう怒鳴りつけると、守衛長は悲しそうな顔で木像を見つめていたが、立ち上がり礼をした。
そして後ろを向くと戸口へと歩いていく。途中振り返ると、この木彫り像は影婆様に渡しておくと言って、部屋を出て行った。
その一件以来、ますます妹と会うのも躊躇われ、守衛長も妹に関しては最低限の報告しかしなくなった。
結局、私はその後一年以上も妹と会う事はなかった。
集落を見回ることも減り、ずっと影婆の家で引きこもっていた。
にもかかわらず、人々の信仰心が増えていたのには面食らった。
新造集落の方では、妹と守衛長が頑張っているからと理解できたが、本集落でも増えていたのは意外だったのだ。
影婆が言うには、あまり姿を見せない方が神秘性が増すとのことだった。
なるほど、確かにそれは一理あるのかもしれなかった。人間は、希少なものであるほど、それに価値を見出す生き物だったから。
「はあ、あれかね。もう私はいらないのかな」
「やれやれ、何を言われますのやら……」
私の漏らしに、食事を運んできた影婆が苦笑した。
「人間の命は有限……いつかは、この集落を支えている、あの御二方もいなくなってしまいましょう」
いなくなる。
影婆のその言葉で、私の体が大きく震えた。
「神巫女様。いつまでも意地を張っていられると、後悔しますぞ。それと、妹様のことなのですが……」
「おい。あの子のことは、話すなと言っているだろ!」
「そうもいきますまい。なんせ、妹様の御子様がお生まれになったのですから」
「なんだって!?」
妹がだいぶ前から、こちらの集落へ訪れることがなくなっていたのは、そういう理由だったのか。
そんな大事なこと、何で私に黙っていたのだ。
私は影婆に詰め寄ると、その目を覗き込む。
怒りの込められた私の視線を受けても、目の前の老婆は全く怯みもしない。
「身ごもった直後にも連絡はありましたがね……あの頃の神巫女様は大層機嫌が悪うございましたから。伏せておりました。それに、妹様については話すなと仰せでございましたし」
「……相手は誰なんだ」
「ご想像の通りでございます。それで、お話はお聞きになりますか?」
この老婆は、妹以上に私の扱いに長けているような気がしてならない。
私は椅子へと腰掛けると頷き、腕を組んで言葉の続きを待つ。影婆は、卓へと食事を配しながら、のんびりと言った。
「二日後に、新造集落にて御出産を祝う宴が開かれます。そこへ、是非来て欲しいとのことでございます」
「そうか」
私はそれだけ聞くと、食事を食べ始める。
無言で食べ続ける私に、影婆が茶を入れながら尋ねた。
「行かれないので?」
「なんで行く必要がある。祭事なら、私に代わって妹が執り行えるだろう」
「いえ。神巫女様自身が行きたがるものだと思っておりましたので」
「なんで私が!! もういい! 食事を置いたなら、もう――」
追い出そうとしたところで、影婆が私の帽子を取り上げた。
そして、その中のものを取り出す。
「これは、何でございましょう?」
「……返せ」
「守衛長殿が婆の家において行った、木彫り細工でございますよね? 確か、神巫女様が気に入らなくなって捨てたと言っておられた物だと、記憶しておりますが」
「返せって言っているだろう!」
私は影婆からそれを取り上げると、また元に戻して帽子をかぶり直した。
「家の中でも中々帽子をお取りにならないと思ったら。肌身離さずお持ちになっておられたのですねぇ」
「私の勝手だ!」
「悪いなどとは申しておりませぬ。それほどまでに妹様を思っておいでなら、会われた方が良いのではないですか。この機会を逃せば、次などそう訪れはしますまい」
じっと私を見据える老婆に根負けして、私は小さく溜息をついた。
「全く。お前には敵わないな……」
「どれだけ昔から、貴方様の言葉を聞いて来たとお思いですか。せっかくこうして話せるのです。たまには、この婆の言葉にも耳を傾けて下され」
まるで童女のように笑う影婆に、私は困ったように笑い返すしか出来ない。
「……悪かったよ。じゃあ、お前の忠告通り、久々に新造集落へ行ってくるかね」
私は早速準備を開始すると、数人の有力者を連れて新造集落へ向かった。
夕方には到着し、連れと別れ一人新造集落内を散策する。
約一年ぶりに訪れた新造集落は、想像していた以上に発展していた。
行き交う人々の顔も明るい。妹の出産祝いの宴もあるからかと思い出して納得する。
私としては、妹の赤子よりも妹自身に会えることの方が重要問題であった。
会った時、一体どんな顔をして良いのか分からない。
怒ればよいのか、笑えばよいのか。悩み歩いていると、声がかかった。
「やはり、神巫女様であられましたか!」
「久々だね」
守衛長。妹の伴侶となった男だった。
彼は私の姿を見て大いに喜んだ後、何かを思い出したように申し訳なさそうな顔をする。
「なんだい、その顔は」
「いえ……」
「妹のことなら、気にするな。お前が誰よりも妹を大事にしてくれるというのは、分かっている。それに男と女が一緒になるのは、人間として当たり前なことさ。あの子にまで、私のような立場を強いるつもりは無い」
私は再度、周囲を眺めて笑った。
「それより、とても素敵な集落になったじゃないか。さっき田畑も見たが、下手したら本集落の収穫をも追い越してしまいそうな感じだったね。よくやったよ」
「私などには勿体の無いお言葉です! 皆の助け、そして妹様の御尽力。何より、神巫女様の先見があってこその今かと」
「世辞も達者になったな」
そう言って私が小突くと、守衛長は嬉しそうに苦笑した。
妹にはもう会ったかと聞く彼に、私はかぶりを振った。
「いや、まだなんだよ。それが一番思い悩んでいてね……さて、どうしたものやら」
「何も思い悩むことはありません。妹様は、何よりも貴方様にお会いになるのを望んでいました。隔てていた時間など、瑣末なことです」
「長く生きてきたこの私が、人間に諭されるなんてね」
「こ、これは申し訳ありません!」
地面に手をついて謝罪しようとする守衛長の胸にトンとこぶしを当て、それを止める。
相変わらず、この男は生真面目すぎる。
「いやいや、気にするな。私はお前達人間とは違う。完全には理解し切れていないのさ。だからそういった意見は有難い」
なおも謝り続ける彼をどうにか起き上がらせる。
「妹と会うには、もう少し時間が欲しい。まず先に、こっちの顔役達と会っておくかね」
「分かりました。ご案内いたします」
守衛長に連れられた先は、集落の中央集会場だ。
中に入ると、酒臭い匂いが充満していた。
奥では、眠っている者も何人かいる。
「おい、お前達! いくら祭りが近いからと言って、だらけすぎだぞ!」
守衛長の怒声に背筋を伸ばすが、すぐにヨレヨレになってしまう。
中の一人が、守衛長に杯を差し出した。
「でも隊長、この酒、もんのすげぇ、旨いんですよ。適量ならば、薬にもなるってぇもんです、この後の見回りももう無いんですし、一杯いっても罰は当たりませんって!」
「お前なあ……今日は神巫女様もいらしているんだぞ」
そう守衛長が言ったところで、後ろから私が姿を現すと、見た全員がびしっと棒で吊り上げられたように立ち上がった。
久々だったからか、私を見た連中の反応が著しい。やはり、希少価値というものはあるのだなと再認識する。
「こ、これは神巫女様! 遠方からの御足労、有難うございます!!」
「美味な酒だって? それは気になるな。守衛長。お前もこの後何も無いなら、付き合え」
「し、しかし」
「神からの盃は受け取れないとでも言うのかい」
私は腰を下ろすと、山菜のつまみを口へと運んだ。
守衛長も、同席して部下から杯を受け取る。
奥の方を見ると、本集落から連れてきた連中の姿もあり、すでに出来上がっているようだった。
私も杯を受け取り、口に含み――
吐き出した。
突然の私の行動に、周りの者達が息を呑んだ。
目の前の守衛長も、目を丸くして驚いている。私は、彼の手に持った杯を払い飛ばした。
「あ、あの神巫女様。お気に召しませんでしたか」
「おい、お前!! 今飲んだのをすぐに吐き出せ!!」
守衛長は私の意図を察したらしく、すぐに酒を吐き出した。近くの水瓶から水をたらふく飲んで、更に吐き出す。
「奥の者達も皆これを飲んだのか!?」
「は、はい……」
私は寝ている連中へと走り寄ると、愕然とする。
寝ていると思っていた者の殆どが、すでに息をしていなかった。
状況を把握して、場は騒然とし始める。
まだ息をしているものも、その呼吸が明らかに弱い。
非常に良く出来た、毒だった。
「この酒は、一体なんだ!?」
「それは、お客人の……」
客人。その言葉が当てはまる人物は、私の知る限りでは一人しかいない。
ヤモリ男。薬の扱いに長けた、旅人。
祭事の始まる前、その一つ手前の気の緩んだ時間を狙った毒殺。
本集落から、私を含めた要人が集まっているのも見越されている。
明らかな、計画的行動。そして、その意味するところは。
「守衛長、今すぐ防備を固めろ! 斥候を放ち、周囲の監視拡大と情報の収集を急げ!!」
私と守衛長は残り、動ける者達が散開する。
入ってくる情報は、思っていた通りのものだった。いや、それよりなお悪い。
「北、南、西の定期連絡、どこからも連絡がつきません!」
「出した斥候が戻ってきません!」
「兵達の宿舎にも酒が運ばれており、半数近くがやられてしまっています!」
「本集落との交通道の斥候隊から、大群を見たと言う情報が」
私は集会場の塔にのぼり、高台から周囲を眺める。
日は落ち、路を駆け回る男達の松明だけが慌しく行き交っている。
風は強い湿り気を帯び、空気中に水の塊があるかのような不快感を伴っていた。
「神巫女様。本集落も包囲されつつあるとのことでしょうか?」
「あっちの方が、防備に向いていない。こちらが落とされるようなら、結果は同じだろうね」
「私が不甲斐ないばかりに……」
「お前は良くやっていたよ。相手が一枚上手だったと言うだけだ。件の男を入れるのを許したのも私だしな……でも、私たちだって、ただでやられる訳には行かない」
私が視線を向けると、守衛長は力強く頷いた。しかし、その表情が優れないように見えた。
それについて尋ねようとすると、兵が梯子を上ってくる。
「報告です」
梯子を登り終えた兵は、ちらりと私へ視線を投げた。
そして、守衛長へ向き直り歩み寄る。
私はそこで、訝しげに眉根を寄せた。
兵の視線に、少しの困惑を感じたからだ。
まるで、場違いなものでも見るような目。私をただの幼子とでも見間違えたのだろうか。
確かに今は、暗い上に私の目印とも言える帽子をかぶってはいなかった。
しかし、それにしたって神である私に気がつかないなどとは。
守衛長へ歩み寄る兵。その手元が松明の明かりを受け微かに瞬いた。
次の瞬間、突然兵が守衛長へ急接近した。守衛長と兵の体がぶつかる。
私が声を掛けようとすると、守衛長が口に指を当て頭を振った。
その合図に、私は物音を立てないようにして近づく。兵は身動きしない。
見ると、兵の胸に短刀が深々と突き刺さっていた。
守衛長は相手の武器を逆手に取り、心臓を一突きにしたのだ。
やはり、荒事となると非常に頼りになる男である。
守衛長は少し周囲を確認した後、暫く耳を澄まし、私へと顔を寄せた。
「囲まれています」
そう、一言だけ告げる。
目の前で絶命している男は、私たち集落の兵の格好をした敵。
この集落の中心にも程近い位置にあるここに、変装した敵兵が侵入しているとなると。
私の焦燥に呼応するように、守衛長も顔に焦りを浮かべた。
「妻――妹様が危険です」
妹がいるのは、この集落の最重要施設である中央神殿。もちろん、防備も他の場所に比べれば固い。
しかし、武力中枢であるここにまで、敵の兵が紛れ込んでいるのだ。
楽観などできようはずも無い。
その時、下から物音がしてくる。守衛長の表情が厳しくなる。
「貴方様をなんとしても、無事に妹様のところへお連れします」
守衛長はそう言うと、近くで倒れていた敵の遺骸を掴み上げる。
そして、それを下から上がって来た男達へと投げつけた。
三人ほどの男達が真っ逆さまに落ちていく。守衛長は梯子へと走り寄ると、私へ付いて来るように合図を送った。
守衛長が先に梯子を下り、私がそれに続く。
下には思ったとおり、男が三人痛みで呻いていた。守衛長は携帯していた短刀で男達に止めを刺した。
奥から二人別の者がやってくるが、守衛長が短刀と拾った石を投擲し、それを受け昏倒する。
集落の彼方此方で、喧騒が広がってきている。
時期を見合わせた、一斉攻撃。
見上げると、空が赤く染まっている。遠くの方で火の手が上がっていた。
道の奥で、数人の男がこちらに気がついたようだ。守衛長が武器に手をかけるが、男達は来た道を戻っていく。
敵わないと察したのか、応援を呼びにいったのだろうか。
一体どこまで、相手に情報が筒抜けになっているのだろうかと、私は身震いをした。
守衛長が合図をして走り出す。私もそれに続いて走る。
速い。見る見るうちに離されてしまう。
昔は、私の方が速かったのに、今では話にもならない。守衛長は立ち止まると、私へと歩み寄る。
「神巫女様。失礼します」
そう言うと、彼は私を背に担ぎ上げた。
一瞬気恥ずかしくなるが、そんな気持ちはすぐに脇へと追いやる。
「周囲の警戒を」
「分かった」
私が頷くと、彼は走り出した。私は言われたとおりに、周囲への意識を強めた。
大きな通りは、もう殆ど制圧されつつあるようだった。
私たちの集落の兵も応戦しているが、一方的にやられてしまっている。
それは、突然の奇襲だからというだけではない。
敵はどこから用意したのか、長い槍を持ち一列に並び、歩調を揃え前進。その後ろから矢を射るという戦い方をしていて、それに手も足も出ずに殺されてしまっているのだ。
一人ひとりの練度では劣らないはずだが、敵の統制の取れた戦いに、劣勢を強いられていた。
相手の戦術では地形が重要になってくるが、どうやらそれらも完全に把握されているらしかった。
火矢を放つ男達が目に入る。家屋が燃え、慌てて出てきた女子供が同じように射られ、長槍で突き殺される。
目の前にある守衛長の顔が、憤怒に染まる。私を支える腕にも力が入り、ぎりぎりと足を締めあげた。
私が痛みで呻くと、はっとしたように顔を向け謝罪する。
「神巫女様、申し訳ありません!」
「気にするな、早く妹の所へ行って、他の者達も救うんだ!」
走り抜ける度、無抵抗なまま殺される同胞が目に入る。
私が人の身で無いなら。
神の力を振るえるなら。
あんな奴ら、蹴散らしてやれるのに――!
この体を譲り受けてから、神の力は振るっていない。
信仰の力は、今までないほどに溜まってはいる。
だが、振るえない。人の身である、この体では、振るえないのだ。
集落中から、様々な感情が私へと流れてくる。
殺されようとしている人間達の恐怖の念、救いを乞う叫び、親しい者を失った嘆き、燃え盛るような激情。
そのどれもが、私へと強い力を送り込んでくる。皆、私への強い信仰を寄せている。
私は歯噛みする。
この体を――捨てるか?
出来ない。
この体を譲ってくれた娘との約束。命を自ら投げ打つことも出来はしない。
また、視界の端で殺される人間。流れてくる、悲哀の感情。
――ただただ、悔しい
私の頬を何かが伝った。
「……?」
人の身に下って何年になるか。
今まで一度も、経験したことの無いものであった。だが、知っている。
人間達を観察して、たくさん見てきたものだった。
「……涙、か」
今まで、一度も人間の生き死にに心など動いたことは無かった、この私が。
泣いているのか。
私にも、泣くことが出来たのか。
そこで突然、私は宙に放り出されるように身が浮くのを感じた。続いてくる、衝撃と痛み。
見ると、守衛長が倒れている。私も、それに伴い投げ出されてしまったようだ。
守衛長へと歩み寄る。その顔を見て息を呑んだ。
「おい、お前……」
朦朧として定まらない視線。
震える腕。絶え絶えの呼吸。
「毒が……回っているのか」
守衛長は私の声に気がついたように、視線を向けた。
頭を振って立ち上がろうとするが、体をふらつかせて、壁へとぶつかる。
「神、巫女……様」
両手をつき立ち上がる。しかし、すぐによろけて地面へと突っ伏してしまう。
人間相手なら無敵とも思えた男。
そんな彼も不意を突かれた毒の前では、為す術もないのか。
よろけ、起き上がり、また倒れる。
それだけしかできない木偶であるかのように、彼はそれを続ける。
すでに、手や足は擦り剥けだらけだった。
居た堪れなくなり、私はよろよろと彼に歩み寄る。
「おい、もう……」
「くそおおおおおおおお!!」
守衛長が吼える。そして、自ら地面へと頭を叩きつけ、一気に立ち上がった。
「こんな所で、死んでたまるか――!」
彼は頭から血を滴らせながら、こちらに振り向く。
その必死な形相に、私は過去に母親を救ってくれと頼んできた時の彼を思い出した。
「神巫女様、申し訳ありませんでした。参りましょう」
「あ、ああ……」
もう、彼は私を担いで走ることはできない、だが、私が駈けるくらいには走れるようだった。
それでも、頭を振り、体は左右にぐらついている。
「私は、妻と子と、貴方様でこの集落を歩くのが夢なのです。だから、なんとしても生き残らなくては」
走りながら彼は語る。何か言葉を発していないと、意識を失ってしまいそうなのかもしれない。
私から見ても、それほどまでに彼の状態はひどかった。
「……この集落の周囲の山に、それは美しい滝があるのです。その滝を……四人で見に……」
「ああ、是非連れて行ってくれ。そうしたら、妹のやつに、トチ餠を作らせよう」
「妻はトチを……誰よりも上手く、灰汁抜きできる……子供も、きっと喜ぶでしょう」
徐々に、走る速度も遅くなっていく。
「もう、私の母は土に還りましたが……息を引き取る瞬間も、神巫女様に感謝していました。私だってそうです。でも、母が言ったのです。感謝だけじゃ駄目だ、その御言葉、御期待に応えるのだと」
彼は苦笑する。
「でも、俺は頭があまり回らなかったから……何か出来ることは無いかって、細かに……聞きに行っていたんです」
「そうだったのかい。お前は、私が見てきた中で……最も素直に言葉を聞いてくれた人間だ」
「……そう、なんですか。それは、この上ない御言葉です」
もう、彼の歩は、子供がただ歩くそれより、なお遅いものになっている。
「神巫女様から、そんな勿体無い、御言葉頂けただけで……俺は……」
彼はとうとう立ち止まる。
無垢な少年の様に、柔らかな笑顔を浮かべた。
「有難う……御座いました。一つ――」
そこで、息を詰まらせたように言葉を止める。
私は不思議に思い様子を伺っていると、彼の顔が一変した。
彼が見ているのは、私の後ろ。
振り返ると、数人の男の姿があった。その中で、一人背の低い男の姿がある。
その背後には炎が赤々と燃え、逆光になって顔は伺えない。しかし。
「これはこれは……中々兵共から連絡が無いと思っていたら、こんな裏道にお隠れになっておいでだったのですね。神巫女様」
「お前は……!」
ヤモリ男。
撫でる様な優しい声音で、そいつは続けた。
「いやはや、本当に吃驚です。あの荒地であったこの場所が、これほど見事な集落へと変わるのですから。これが、信仰の力と言うものなのでしょうか、いやはや」
守衛長がゆらりと歩み寄るが、脇へと逸れて壁に寄りかかる。
「おやおや、その様子じゃ私の祝い酒をお召し上がりになったのですね。丹精込めて作った甲斐がありました。と、なると――」
ヤモリ男が目配せすると、後ろの男の一人が何か布包みを取り出した。
それを受け取ると、優しい仕草で揺する。
「これも用済みですかねぇ、いやはや。せっかく準備してきたのですが……」
そう言いながら、布を取り払ってゆく。そして、それを大きく揺すった。
赤子の、泣き声が響く。
布の中から、赤子の泣き声が聞こえる。
それを守衛長は、目を見開いて凝視した。
「分かりますか? 貴方様の御子息です。常人離れした力を持つ貴方をどうしようかと思い、念のためお連れしたのですよ」
「貴様……!」
「おやおや、そんな反抗的な態度をとっても良いのですか? 私も鬼ではありません。こんな赤子までも、無意味に殺したりはしませんよ。貴方が何もしなければの話ですが」
ヤモリ男は赤子をあやす様にして、揺すってみせる。
「神巫女の妹君と、怪物の様に御強い貴方様の御子息。これほど貴重な血統もそう無いでしょう。私達が、責任を持って育てさせて頂きます」
「妻は、どうしたのだ!?」
ヤモリ男はその言葉を受けて、さも残念と言った様に頭を振った。
「申し訳ありません。私も忍びないのですが、物心ついている人間は、皆殺す決まりなのです……確か中央神殿に女子供が集まっていましたが、ある程度集まった後、火をつける予定ですよ」
「貴様ぁぁぁぁ!!」
守衛長がヤモリ男に向かって駆け出す。しかし、赤子を掲げた彼を見て、すぐにその動きを止めた。
それよりも、ヤモリ男の言ったことが私の頭を一杯にしていた。
妹が――殺される。
私はゆっくりと、ヤモリ男へと近づく。
それに気がついた彼は、守衛長にしたように赤子を掲げて見せるが、私には赤子などどうでも良かった。
なおも近づく私に、ヤモリ男は狼狽した様に後退する。
私の雰囲気に気圧されたのか、後ろに下がった時に小石に躓き、尻餅をついた。
腕の中の赤子が、大声で泣きわめく。
「おい、お前! この小娘を殺せ! そうすれば、この赤子を生かしておいてやる!」
ヤモリ男は守衛長へと、そう怒鳴った。
守衛長は、困惑したように私と赤子を交互に見やる。
「どうした! 子供の命が欲しくないのか!?」
なおも動かない守衛長に舌打ちし、後ろの男達に私を殺す様にと指示を出した。
男達が槍を構えて前へと出るが、同じように戸惑っている。
「し、しかし、この娘は神なんですよね? 俺達が殺しちまったら、祟られちまいませんか」
「この村をここまで攻撃しているのです。そんなことは今更ですよ! さっさと、殺してしまいなさい!」
ヤモリ男の怒声に、いやいやと言った感じで男達が槍を突き付けてくる。
他の村の人間とはいえ、神殺しの祟は怖いのか。
それは好都合だ。お前たちのその恐怖も、私への力となる。
殺すが良い。
この殻を脱ぎ捨てたら、お前たちの恐れの通り、全員祟殺してやる。
「神巫女様! いけません!」
その声に、私ははっとして振り向いた。
「貴方様が居なくなってしまったら……誰が妹様を支えるのですか!!」
守衛長が真剣な目で私を見ている。
もう、俺にはそれができないから。
彼の目は、そう物語っているように感じた。
妹は私との交信も強い。
私がこの体を無くしたとしても、声を聞いてくれるに違いない。
でも、体を失ってしまったら――
あの子に触れることはできなくなるかもしれない。
また体を手に入れれば良いのか?
駄目だ。こんな私に都合の良い体が手に入るなんてことは、そうそう無い。
そうなれば、もうあの子と触れ合うことは、死ぬまでありえない。
いやだ。
そんなのは、絶対に、嫌だ!!
私は男達の槍から身を引く。
そうだ、まだ妹は死んだと決まった訳じゃない。
急げば、まだ救い出すことだってできるかもしれないのだ。
生きて、あの子に会うんだ。
そして、今までのことを謝って、許して、また一緒に過ごすのだ。
急に後退し始めた私に、怪訝な顔を向けるヤモリ男。
「おやおや、神が私達を恐れておいでか。お前たち、こんな小娘、多少神通力が使えるただの人間でしか無い。何が神だ、何が祟りだ。さっさと殺してしまうのです!」
余裕を取り戻したヤモリ男が、男達へと命令する。
槍を持つ男達も、その声に私を突き刺そうと近寄ってくる。
私は槍を避けるように、後ろへと下がっていく。
しかし、後ろにも敵の兵がたくさんいたのだ。後ろへ逃げてもどうしようもなかった。
視界の端で、守衛長が屈んでいるのが見える。
もう、彼も立っていることすらままならないのか。
しかし、その手に持っているものを見て、私は彼の意図を察した。
そのまま、後退して槍兵達を引き付ける。
奥で、さっき転んで地面に座り込んでいたヤモリ男が、立ち上がろうとしている。
その瞬間、守衛長が素早く動いた。
手に持っていたのは、小石だ。
彼は朦朧としているはずなのにも関わらず、寸分違わずヤモリ男の頭へそれを投げ当てた。
「ぎゃぁッ!」
鳥を締めたような声を発し、ヤモリ男が叫ぶ。
距離があったからか、致命傷へと至らなかったが、痛みでもんどり打っている。赤子は近くに投げ出されていた。
槍を持った男達が守衛長へと向き直り、襲いかかる。
彼はまだ手に持っていた小石を男達へ投げつける。
それは吸い込まれるように、男達の急所へと叩きこまれた。三人が地面へと倒れる。
まだ五人、兵が残っている。
守衛長は腰に据えた短刀を抜き放った。
空いた片手では握りこぶしを作り、高く掲げている。
槍が突き出される。
相手は投石で倒れた仲間達を見て焦ったのか、連携を乱していた。
掲げられた手の中に、まだ石を持っていると思ったのかもしれない。
しかしそれはハッタリだった。
守衛長は拳を開くと、突き出された槍を掴んだ。
それを力任せに引っ張る。つんのめった相手の顔へ短刀を突き刺し、蹴り飛ばしてそれを引きぬいた。
奪い取った槍を構え直し、残る兵を見据える。
その全身は返り血に染まり、夜空を照らす炎の明かりを受け不気味に煌めいていた。
二人が槍を突出した。彼は短刀で一本をいなし、一本を蹴り上げる。
そして、槍を大きく振るい、一人の喉笛を切り裂き、一人の心臓を一突きにする。
恐れをなして逃げ出そうとする男の背中に、敵から奪い取った槍を突き刺し、もう一人へと短刀を投擲し首を飛ばした。
一瞬の間に、敵の兵は全滅した。
まさに鬼の様な戦いぶりだった。
あの満身創痍の体のどこに、これほどの力が残っていたというのか。
私は守衛長が戦っている隙を突いて取り戻した赤子を抱え、彼へと走り寄る。
「おい、赤子は取り戻したぞ! 赤子は無事だ!」
突然、守衛長が私へと迫り、その体で私を突き飛ばした。
私は地面を転がり、壁へぶつかってやっと動きを止める。赤子は何とか怪我をさせずに済んだようだった。
守衛長を見ると、口から血を吐いて咳き込んでいる。
ヤモリ男が飛ばした針のようなものから、私達を守ったのだ。
「こ、この化け物め! やってやったぞ!!」
ぜいぜいと荒く息をしながら、ヤモリ男が言い放った。
「やはりな、お前を狙うより、その娘を狙って正解だった! ざまぁみやがれ!!」
ヤモリ男は立ち上がると、口に当てがっていた細い筒のようなものを懐へと仕舞った。
そして、痛む顔を手で押さえながら、引きつった笑いを浮かべる。
「強力な筋肉を伸縮させる毒だ。さすがのお前でも、イチコロだ……糞が、手間取らせやがって……」
私は何とか赤子を抱え立ち上がる。全身が痛み、立ち上がるのもやっとだった。
生まれてこの方、こんな痛みを経験したのは初めてだった。
ヤモリ男は肩を上げてみせると、頭を振った。
近くで死んでいる仲間の手から槍を取り上げ、私へと向ける。
「赤子を連れた小娘一人が、ここを抜けられると思っているのか? あぁ!? 楽に死なせてやろうと優しくしてりゃあコレだ、はっ! この糞ガキが!!」
全身の痛みに加え、赤子を抱えている状況で逃げきれるだろうか。
私が考えていると、後ろの方から騒がしい音が聞こえてくる。
「へっへ、あれはうちの仲間だなぁ、俺自らお前を殺さなくて済みそうだ。やっぱり、直接手を下すのは趣味じゃねぇ。そこでじっとしていろ、すぐに楽にさせてやる」
ヤモリ男が下品な笑いを浮かべる。
私は腕に抱いた赤子を見やる。
さっきまで泣いていたのに、静かに目を閉じている。
こんな状況だというのに、とても安らかな顔でじっとしていた。
私も、この赤子のように腹を据えるしか無いのか。
「ぐぇ……」
目の前のヤモリ男が、変な声を上げて倒れ伏した。
後ろを見ると、両手に大きな石を持った少年の姿。その後ろには小さな少女の姿もある。
「や、やっぱり神巫女様だ! 俺、こんなことしたくなかったけど……でも、神巫女様にひどいことをしてるから、それで」
「お前たちは……」
一年少し前に新造集落へ来た時に、私の周りではしゃぎまわっていた子供たちだった。
少女は守衛長へと近づくと、小さな悲鳴を上げた。
「たいちょーさん! たいちょーさん、しっかりして!」
泣いて守衛長にすがりつく少女に、未だに血を吐き咽続ける彼は優しく頭を撫でてやった。
それで落ち着いたのか、少女は未だに涙を流しながらも静になる。
守衛長が私へと目配せをした。私は頷くと、子供たち問う。
「お前たち、どうしてここに? どうやってここに来たんだ」
少年が腕で涙を拭い、説明する。
「寝てたら、急に大人たちが入ってきて……父ちゃんと母ちゃんがお前たちは逃げろって言って、それで逃げてきたんだ。そしたら、赤ちゃんの声が聞こえて」
「そうか……助かったよ」
私は二人の子供を呼び寄せるると、しっかとその目を見た。
「お前たちに、頼みがある」
そう言って、私は腕に抱えた赤子を差し出した。
少年が、それを恐る恐る受け取り、驚きに声を張り上げた。
「この子、妹様の赤ちゃんだ!」
少女が兄に赤ちゃんの抱き方が駄目と注意し、受け取り腕に抱いた。
「そうだ。妹の、大事な赤ん坊だ。お前たち、この赤ん坊を無事に、本集落まで連れて行くんだ。できるかい」
私が聞くと、少年は力強く頷いた。
「僕たちは、この村の誰よりも秘密の道を知ってるよ! これは内緒だけど……村の外の隠れ道だって、たくさん知ってるんだ!」
「ああ、それは頼もしいね。じゃあ、頼むよ、無事に本集落まで連れて行ってやっておくれ。向こうに着くまで大人の誰にも見つかっちゃ駄目だ。いいね?」
私は懐をまさぐると、小さな木彫り細工を取り出した。それを少年に渡す。
「これは、妹が私に作ってくれた人形だ。コレがきっと、お前たちを守ってくれる」
そして、私が軽く押して促すと、少年と少女は走りだした。
大人じゃ通り抜けられなそうな、狭い壁と壁の間に入っていく。
ちらりと少年が直前で振り返った。私は笑顔で頷いてやる。少年も同じように頷いて、道の奥へと消えていった。
何とか上体を起こしていた守衛長は、子供たちが見えなくなると地に伏した。
子供たちの前ではと、何とか力を振り絞っていたのだ。
全身の力が抜けたかのように、倒れ動かない。
「お前の子供は、逃せたよ」
私の声に、彼は小さく身を捩らせた。
そして、震える手で道の奥を指さす。
「ああ、行ってくる。お前は、ここでゆっくりお休み……」
私は守衛長の額に軽く口付けすると、燃える村の中心へ向け走り出した。
村の中心に行くにつれ、火の手がその勢いを増している。
夜のはずなのに、昼間の如き明るさで壁を照らしていた。
いたるところに、亡骸が転がっている。
敵も味方もいる。女も子供もいる。
そうとう激しい戦いが繰り広げられたのだろう。だが今は、私以外の人間の気配はない。
中央神殿が目に入った。
そのほとんどが火で覆われている。
辺りを埋め尽くす煙と、熱に煽られ激しく吹き荒れる風が灰を飛ばし、火の粉が肌を焼く。
私は中へと駆け入った。
叫ぶ。
「誰か、いないのか!?」
焼け崩れた梁がすぐ横に落ちて、大量の火の粉を撒き散らす。
私は背を低くし、煙を吸わないように奥へと入っていく。
こんな所に、長くいられる人間がいるはずない。
妹は、きっと誰かに連れられ逃げているに違いない。
奥に行くに連れ、槍で突き殺された女や子供が倒れているのが目に入る。
火から逃げようとして刺殺されたのだろう。
奥に行くと、煙を吸ってしまったのか外傷が無いが死んでいる者が目立ってくる。
私は煙で止まらなくなった涙を拭うこともせず、一心不乱に奥へと進んでいく。
そんなはずはない。
妹が死んでしまっているなんて、そんなことある訳がない。
ただただ、それだけを心で叫びつつ、奥へと進んでいく。
ふと、何かを感じる。
私はその方へと走る。
神殿の突き出た裏口の階段へと出る。
その辺りは、特に死んだ人間が多く横たわっていた。
人が二人並んで通れるかというような狭い階段に、沢山の死体が折り重なっている。
火に追われ逃げ、ここへと集まったのだろう。手摺から眼下へ視線を走らせると、外にも沢山の死体が転がっている。
私はそれを乗り越え、進んでいく。
体の中を強い思いが満たしていく。
吹き荒れる炎の波。それに負けるとも劣らない、憎悪の念。
死んだ人間たちの、怨嗟の呪詛。
しかし、その中に一つ他とは違った祈りを感じ取る。
階段の一番下一角へと、私の意識は収束する。
駆け寄る。
いた、妹だ。
他の死体に埋もれ、横たわっていた。
私は震える手でそっと触れる。微かに、まぶたが動いた。
「生きてる!」
私は急いで妹を掘り起こすと、何とかその体を支えて、中央神殿から外へ出る。
出た先は、この集落で最も広い大通り。両脇の建物は燃え、炎の通り道ができているようだった。
背負い、歩いていると、後ろからうめき声が聞こえた。
「う……、姉……様……?」
「気がついたのかい! そうだよ、私だ。今、安全なところに連れて行ってやるからな!」
瓦礫を越え、進んでいく。
「姉、様……私の、赤ちゃ……が」
「ああ、ああ、大丈夫だ! お前とあいつの子供なら、村の子供たちに託した! あの子達なら、きっと無事本集落まで連れて行ってくれる! 大丈夫だ!」
背中の妹の力が、すっと抜けたような気がした。
「そう……ですか、あの子は……無事なのです、ね」
「ああ、そうさ。だから早く迎えに行ってやろう」
「あの人、は……?」
私はその言葉で少し立ち止まってしまう。だがすぐに歩き出す。
妹は私の様子に何かを察したのか、小さく呟いた。
「逝って……しまったの、ですね」
「……お前の子と、私を救ってくれた」
「あの人らしい……」
「……あんな立派な奴は、私は今まで見たことがなかったよ」
「あの人も、……あっちで誇りに思っています、きっと……」
妹が、私の体を強く抱く。
私は訝しげに、その横顔を伺った。
「姉様。温かい……私の、大好きな、姉様……」
「何を今更――」
笑い飛ばそうとすると、通りの角を出た所で強風が巻き起こった。
私はバランスを崩して、転んでしまう。
「ご、ごめんよ、痛かったかい」
私はすぐに妹を抱き上げようと腕を伸ばす。すると、妹はその手を掴んだ。
意図が分からず、妹の目を見つめる。
「どうしたんだい?」
「……姉、様、私は……助からないの、でしょう?」
「何を言ってるんだ……そんなこと、あるわけ無いだろう」
倒れ、横になった妹。
美しかったその肌、私とは違い、少し緑かかった綺麗な黒髪。
「……嘘は、仰らないで」
「う、嘘だなんて……」
私の目から涙があふれる。
煙を浴びたわけでもないのに、溢れて止まらない。
「姉様、私を置いて、お逃げになって下さい」
そう、力強い瞳で言う。
その目は、いつもと変わらぬ強い光を宿しているのに。
「そんなこと、できるわけ無いだろう!」
その美しかった姿は、今は見る影もない。後髪は熱で炙られ縮れ、火傷は背中全体、足にまで及んでいる。
そして、倒れている時に踏みつけにされたのか、骨折した足からの出血もひどい。
ああ、あああ……!!
分かる。分かってしまう。散々人の生き死にを見てきた私には、分かってしまう。
この子は――助からない。
たくさん見てきた。だから知っている。死なんて、見飽きている。死に、感慨などない。
何故なら、人は死んでも、また生まれるからだ。
なら、何なのだ。この、締め付けるような、胸の鼓動は?
散々見てきた、人の死。
もっと凄惨なものだって、幾らでも見てきた。
なら、何なのだ。この、チリチリと頭を焼くような感覚は?
何なのだ。
一体なんなんだ、この、……この苦しみは!?
嫌だ。
こんなのは、嫌だ。だって……
死んでしまえば、体は朽ちて消える。
自然へと還える。
当たり前なことだ、自然なことだ。
しかし、それは妹と接することが出来なくなるということなのだ。
それは……別の村に行ってしまって会えなくなるのとは、まったく別。
絶対的な、隔たり。
永遠の、離別。
私が家に帰ったとき、出迎えてくれるお前の笑顔が見れなくなってしまう。
ともに食事し、小言を言いながら笑いあうことも出来なくなってしまう。
寒い日に一緒に布団で温まることも出来なくなってしまう。
影婆にいたずらした悪だくみを共有したりできない。
疲れた腕を揉んでやると見せる、あの可愛い顔をみることもできない。
死んでしまったら!
話しができない笑い合えない抱き合えない。
死んでしまったら、死んでしまったら……
もう、この愛おしい姿を見ることも、感じることも、永遠にできなくなってしまうじゃないか……!!
炎を受けた風が勢いを増す。煙が周りを渦巻き、私達を包み込む。
「姉様、ゲホッ けほけほ……」
「しゃべるな! 大丈夫、助かるから、大丈夫だから……!」
涙と汗、よだれで顔がくしゃくしゃだ。
喉も、からからだ。
自分でも、もう何を言っているのか、分からない。ただただ、苦しくて、頭が、いっぱいで。
「私、にも……わかります。私は助かり、ません。だから……」
「嫌だ! お、お願いだから、そんな事を言わないで! ッ……! 頼むから、死なないで! ゲホッ! やだ、嫌だ! 嫌なんだよ! お前が死ぬなんて、私は許さないからな!」
妹は顔を振って、微笑む。
なんで、こんな時に笑えるんだ。どうしてだ、死んでしまうのに、なんでお前は、そんな顔が出来るんだ。
私はこんなにも苦しいのに、悲しいのに。
一体何が、お前を笑わせているんだ?
「姉様、には、きちんと……大事なものを残しましたから。だから、お願い――」
ドン。
重たい音と共に、妹の声が止まる。
口から、言葉の代わりに、ごぼごぼと血が溢れ出した。
ド、ド、ドドドドドドドド!!
次の瞬間、衝撃が私を襲った。
激痛が、四肢を焼く。
見ると、右腕に二本、脇腹に三本、足に一本、棒が突き立っていた。
六本の矢に、体が貫かれていた。
こちらに倒れてきた妹の背は、もはや剣山のような有様であった。
妹の目は、虚空を見つめている。
その目に、光はない。
「ぐ、あ、ああ……あああ、あああああああああ!!」
そうか、これが。
―――悲しみ、なんだ。
「全員やったか? 逃げたのは、どうするんだ」
「放っておいても問題ない。逃げた先は、奴らの集落さ。どっちにしろ逃げ場は無い。こちらの人数の十倍以上の本隊が、連中を取り囲んでいるそうだ。皆殺しだろう」
「こんな砦の村まで作って、結局全滅だ。まったくめでたい連中だよ」
「そう言ってやるなって、こうやって土地まで開墾してくれたんだからな」
「……それにしてもよ。まったく。こんな、変なものを拝んでるからこうなるんだ。何の役にも、立ちゃしない。なぁーにが、神の子のいる村だよ」
そう言って、男は地面に散らばった白蛇の木像を蹴り飛ばした。
「さて、何か残った食物や酒でも探して、一息つくかね」
「おいおい、本体に合流しなくて良いのかよ?」
「何、少し休んだって分かりゃしない」
―――これが、怒り。ああ、分かる。今なら、よく、分かるよ。
「おい、お前、何か言ったか?」
「いいや、お前こそ、変な悪ふざけはやめろ」
―――ぎりぎりと焼くような、気持ちのくすぶり。煮えたぎる、臓腑。手先足先を突き破りそうになる血潮。ああ、頭が、熱い。これが、怒り。理不尽な行動の理由を、やっと、知ることができた。
――けど、感謝は言わないよ」
男たちが振り返る。
私はゆらりと、男たちへ歩み寄っていく。
「子供がいるぞ。金の髪の子供だ」
「金の髪だって? 湖集落の巫女がそうじゃなかったか?」
「くっそ、まだ生きてやがったのか! 捕まえろ!」
男たちの数人が、私へと走り寄った。だが、何かにつまずいたように、たどり着く前に倒れ伏す。
その体は、何か巨大な岩石を叩きつけられたかのように、ひしゃげている。
残った男たちは、驚愕して身を固めていたが、なんとか持っていた弓を絞り込んで放った。
しかし、放たれた矢も、私の前で何か見えない壁にでも当たったように止まり、粉々に崩れる。
私の周りに白く細長いモヤが立ち込める。それが濃さを増していき、人の背丈の十倍以上の大きさの白い蛇のようなものを形作る。
「人生とは、なんと嬉しく、楽しく、辛く、悲しいものなのだろう」
私は嗤った。ケロケロと。
「人は理不尽に生まれ、理不尽に揉まれ、理不尽に死んでいく。そんな人間たちだ。理不尽な感情で動くことは、何の疑問もないこと。全くもって、当たり前」
私は嗤った。ケラケラと。
「そうさ。お前たちも、そんな理不尽な生き方をしてきたのだろう? 理不尽をばら撒いてきたのだろう? ならば、理不尽には慣れっこだよね?」
私は嗤った。ククククと。
「お前たちは、私の大事な、大事な、大事な、とても、大事な妹を死なせてしまった。だから、その命で、私を楽しませておくれよ。笑わせておくれよ。 ……泣かせて、おくれよ」
私は、ぬれる顔で哄笑した。
「大丈夫、私はどんな死だって、大概知っているんだ。何の心配もない。お前たちの命尽きるまで、飽きずに楽しむと約束しよう」
さあ、はじめよう、神の遊びだ――――
――――祟り尽くしてやる
集落を焼く煙が空へと立ち昇る。
煙は昇るにつれて、白い紐の束のように姿を変えた。
その様は、大きな白樺の幹が、空へと伸び上がっていくようであった。
それがある高さまで昇ると、ゆっくりと広がり、大きな木の枝葉のように、空を覆い隠した。
集落を焼いた侵略者達は、空を見上げた。
不気味に蠢く白雲に、何とも言えぬ威圧感を受け恐怖する。雨が降り出した。白く濁った、重い雨だった。
その雨に触れた者達の皮膚は、激痛を伴い焼け爛れた。
水で洗い流そうとも侵食は止まらず、骨が見えるほどに溶かしてゆく。
村中から、絶叫が轟いた。
白い雨は一人残らず死に絶えるまで降り続いた。
そして、地を濡らしたそれは、また白く細い揺らぎへと姿を変え、大地を疾駆する。
山向こうの集落へと向かって行った白靄は、その上流にある川へと身を投じた。
途端、川の水が盛り上がり、激流となり川を下る。
川下にある集落は、川の氾濫に甚大な被害を被った。
集落中が水浸しになる。そして、その川の水に触れた人間達を謎の病が襲う。
その病は、喉を焼くように腫らし、耳を壊し、目を壊し、脳を壊した。
耳が壊れた者は、あるはずの無い少女の嘆きと嗤いを聞き。
目を壊した者は、囲み迫る少女と白蛇の幻影を見た。
脳を壊した者は、到底人間が発することができないような絶叫を上げ、恐怖と苦悶を顔に刻み、死んだ。
そんな集落から多くの人間達が逃げようとした。
しかし、道中で謎の白靄に包まれ、地面に飲まれ、崖から落ち、意識が遠のきその場で倒れ、どんな些細な掠り傷からも感冒を引き起こし、一人残らず死に絶えた。
人間達の阿鼻叫喚の中で、常に少女の泣くような、笑うような声が響いていた。
そうして、一つの集落が、この世から消えた。
道を行く男達が話し込んでいる。
「知ってるか、とうとう山向こうの集落、人間一人もいなくなっちまったらしいよ」
「ああ、聞いた聞いた。洪水や疫病で、ほとんど全滅しちまったんだろ?」
「しかもな、そこから逃げようとした人間たちも、山や森で白い大きな蛇みたいなもんに襲われて、一人残らず食われちまったって話だ」
話を聞いていた男は腕を組んで唸った。
「やっぱり、蛇神様の祟が下ったんだろうなあ。半年くらい前にこの村を取り囲んだ兵隊たちも、おかしな死に方して、引き返して行ったじゃないか」
「ああ……木に突き刺さってたり、何か巨大な石っころで叩き潰されたみたいになって、死んでたな」
少し、気色を悪くして言う男に、相方は怪訝な顔を向けた。
「なんだ、お前見てきたように言うじゃないか」
「……俺は、その死体の埋葬とか手伝ったんだよ。疫病とか広まっちゃマズイってんでな。ありゃぁ、人間の仕業じゃねぇ、間違いなく人じゃないモンがやったんだ」
「蛇神様の祟り、か……妹様に、守衛の大将……それに、神巫女様まで殺しちまいやがったんだから、罰当たって当然だ」
「全くだな……おっと、そろそろ行かねぇと。仕事サボってちゃ、罰が当たっちまう」
「ああ、引き止めて悪かったな。仕事上がったらうちに来い、結構良い酒が出来てんだ」
「おうよ、楽しみにしておく」
そう言って別れていった男達を見送り、私は大きく身を投げ出して、草原に寝転んだ。
思っていたとおり、男達には私が見えていないようだった。
今まさに、その罰を下して廻っていた私がいたのだが。
「はは……この感じ、懐かしいね」
大きく溜まっていた信仰の力も、ほとんど使い果たしていた。
しかし、軍隊から集落を救った神として、新造集落が無くなってしまった今も、強い信仰が私へと向けられていた。
「人間になって分かったけど、本当に人間ってやつは儚い生き物なんだなあ……」
私は一人、のんびり道を歩きながら人々を眺める。
また、昔のような日々が始まるのだろう。
前に世話になっていた洞穴に戻ろうか、そう考えた時だった。
「わぁ、やっぱり、神巫女様だ! 僕達、ちゃんと赤ちゃんを無事に届けたんだよ!」
子供が走り寄ってくる。
前に見た、少年と少女。他にも、三人ほどの子供がいた。
「お前……私が分かるのか」
「何言ってるの? 忘れるわけ無いじゃん! 大体神巫女様ってば、何年経っても姿だって変わらないし。どうやったって、忘れっこないよ」
少年はそう言うと、他の子供たちも不思議そうに笑った。
「神巫女様、お昼寝し過ぎた? 寝ぼけてるのかな?」
などと、大笑いする始末だ。
まだ幾分小さな子供が、私へと歩み寄ってくる。
しかし、その体はすうと私を通り抜けてしまった。
「うわ!? 神巫女様の体が、空気みたいだ!」
子供たちが大はしゃぎする。
「すまないね。私は、体を失くしてしまったんだよ」
「たまげたー。神巫女様は体がなくても平気なんだなあ」
興味津々と言った様子で、私の体へと手を伸ばす。
そうこうしていると、初めに話し掛けてきた少年が、何かを思い出したように、かぶっていた帽子を取って私へと渡す。
それも同じようにすり抜けてしまうかとも思ったが、不思議なことに、きちんと私の手へと収まった。
神へ捧げる、そういう意志の込められたものならば、触れることができるのかもしれない。
私はその帽子をかぶろうとすると、少年が待ったをかける。
「中、中! 中を見てよ!」
言われたとおり、帽子の中を見る。そこには妹の作ってくれた木彫り人形が入っていた。
「そのお守り、ありがとうね。ちゃんとここに来れたから、返すよ。本当は、欲しかったけど……。あと、その帽子もあげる。神巫女様、いつも帽子かぶってたでしょ?」
私は何故か、目頭が熱くなるのを感じた。
なんだろう、この温かさは。
胸を満たすこの、気持ちは。
「あー! 兄ちゃん、神巫女様泣かした!!」
「ええ!? い、いや俺、そんなことしてないよ! 木の人形だって、本当は渡すの嫌だったのに返したし!」
少女が私の手から、帽子を取り上げた。
そして、少し何かいじったと思うと、また手渡してくる。
「神巫女様と言ったら、これでしょ。ほんと、兄ちゃんはオンナゴコロが分かってないんだから!」
少女の手渡してくれた帽子には、新たにカエルの目玉のような布玉が付けられていた。
私はそれをかぶり苦笑する。
「懐かしいね……ありがとう。兄さんにも、オンナゴコロってやつをよぉく、教えこんでおきな」
「まっかせてよ!」
兄妹がやいやいと言い合っていると、誰か近づいてきたのか子供達が道を開けた。
「そ、その声は……神巫女様……?」
ひどく嗄れた声が、子供たちの向こうから聞こえてくる。
私がそちらを向くと、黒い衣服を纏った老婆が歩いて来ていた。
「お前はそんな歳になっても、相変わらず私の声を聞いてくれるんだな」
私はその老婆――影婆にそう言って笑う。
「ああ……神巫女様……! よく、お戻りになられました」
「体は失くしてしまったよ。あの娘との約束も守れなかった……」
「ふむ……確かに見えなくなってしまいましたが、なぁに、言葉が交わせれば、婆と貴方様の間なら、何の問題もありますまい。それに、聞いた感じでは神巫女様の御姿は、あの娘のままに見えているのでございましょう?」
「そうみたいだね」
「ならば、あの娘の魂も一緒にあるということなのでしょう。人間の身にしてみれば、もはや永久の生を得たも同然。盲(めしい)た少女では、神巫女様と一緒にならなければ、もっと早くに死んでいたでしょうし、あの娘も十分その体を大事に使ってくれたと思ってくれるのではないでしょうか」
「そうだと良いけど……」
相変わらず、この老婆は私の欲しがりそうな言葉をポンと投げ渡してくる。
私は少しだけ、心が軽くなった思いで自らの身体を見やった。
確かに、体を無くしたというのに、私の姿は人間であった時の少女のそれだった。
「影婆! それより、早く赤ちゃん見せてあげなよ! 俺達が、頑張って助けた赤ちゃんをさ!」
「おお、おお。そうだそうだ。まだ、この赤子は神巫女様の御祝福を賜っておりませんでしたな」
影婆は、腹に抱いたものを私へと差し出してくる。
赤子。前見た時より、随分と大きくなっているが、妹と、あの男の、子供だった。
「毎日、この重たいのを連れて散歩しているお陰で、未だにボケずに済んでおりますわい」
そう影婆が笑いながら差し出した赤子に、私は手を伸ばす。
人の身であった時そうしていたように。
赤子を祝福するとき、いつもは頭を撫で、腹を撫で、その額に軽く口付けするのだ。
たとえ、触れることはできなくても、真似事くらいならできる。
「え……?」
私は間の抜けた声を出した。
何故か、伸ばした手の先を赤子が掴んでいるのだ。
触れられないはずの私の体……その指を小さな手で、握りこんでいる。
「おおお! すげぇ! さすが妹様の赤ちゃんだ!」
「ずるいなー! 私だって神巫女様触りたいのに!」
子供たちが歓声を上げる。
私は、呆然としてそれを見ていた。
すると、影婆が赤子をすっと私の腕の方へやり、渡してくる。
私は戸惑いつつも、赤子を受け取り腕の中に抱いた。
「な、なんで……?」
「神巫女様に分らない不思議が、婆に分かるはずありますまい」
そう言って笑う影婆から、赤子へと視線を向ける。
赤子は、不思議そうな顔をして私を見つめていた。
その顔をしたいのは私の方だと言う思いで、同じように見つめ返す。
赤子が笑う。
私も何故か、同じように笑ってしまう。
ああ、どうして。
どうして、こんなにも愛おしいのだろう?
どうして、この赤子は、子供達はこうも私の心を揺さぶるのだろう?
私は赤子を抱き寄せ、その腹に顔をうずめた。
そうか。
感じるのだ。
「……そうだったんだね……」
私を満たしたその思いは、涙となって溢れ出た。
はやし立てる子供達の歓声、今はそれすら愛しい。
この赤子の中に、確かに――妹を感じるのだ。
人は儚い。その生など私からすれば、一瞬のまたたきでしかない。
生まれ、生き、そして死ぬ。
この赤子だって、いつかは死んでしまう。
でも、そこで終わりではない。
こうして、子を残し続いていくのだ。
いいではないか、この人間たちの一瞬の笑顔を守るため、続けていくためだけに、私がいても。
子へ、孫へ……ずっと――。
短く儚い人の人生――でも、それは形を変えて続いていく。
それが子々孫々と続くのなら。
私は新しいいくつもの出会いを心待ちにして、何度だって見届けよう。
何度だって、涙を流そう。
守り続けていく限り、この子の血筋は続いていくのだ。
私と、寄り添い続けてくれるのだ。
ああ、なんて……なんて愛おしいのだろう。
「少し冷えてきたね」
辺りを見渡すと、日はその姿を半分、地平の向こうへ沈ませていた。
諏訪子は顔を上げると、隣に座るはたてを見た。
天狗娘は、酒の入った缶詰を見つめたまま、動かない。
諏訪子は心の中で溜息をついた。
「分かったかい。私は、私情で村一つ滅ぼすような祟り神なんだよ。全く。つまらない話聞かせちゃったね……」
諏訪子は、腕を抱え込むようにして、微かに震えていた。
自分でも、何故震えているのか分からない。
そんな諏訪子を見て、はたてが帽子を小突いた。
「なーに、震えてるのよ?」
「蛙は、寒さに弱いのさ」
「ふぅん」
夕日に影らせた顔で、諏訪子は呟いた。
じっと黙ってそれを見つめていたはたては、突然身を乗り出して諏訪子を引き寄せると、その頭を胸に抱え込んだ。
「な、何すんだ!?」
「アンタ、すごいよ」
はたては、慌てる諏訪子を気にした様子もなく、その頭を抱えたまま小さく呟く。
「こんな、ちっさな体なのに……すごい」
「ふん……どうせ抱かれるなら、神奈子とは言わないまでも、せめて早苗くらいのボリュームはほしいもんだよ」
そんな諏訪子の皮肉にも、はたては動じずに無言で抱きしめたままだった。
諏訪子は昼間の親子を思い出して、自らの状態と照らしてしまい恥ずかしくなった。
どうにか身を引き剥がそうとしたが、更に強く抱きしめられてしまう。
そこまで強く拒絶したかったわけでもなく、語り疲れたのかそんな気力も無かったので力を抜いた。
それを許しだと思ったか、はたてが更に深く抱え込んできた。
こんな風に、体を包み込むように抱きかかえられるのは、いつ以来か。
神奈子や早苗にふざけて抱きつくことはあるが、じゃれるくらいで、すぐに身を離してしまう程度だ。
「嫌?」
はたてが、聞いてくる。向かい合わせに抱かれているので、その顔は窺い知れない。
でも、その声音に嫌味や皮肉といったものが感じられなかったから、諏訪子は思ったままのことを返した。
「……いや、細っこいけど、あったかいよ」
「そう。じゃあもう少し……このままでいましょうよ。いいでしょ?」
諏訪子は、はたての意図を量りかねたが、居心地は存外悪くも無かったので、無言で身を任せることにした。
酒で血流もよくて、温かいはたての熱が、全身を巡っているかのようだ。
じんじんと、手足が脈打っているようにも感じる。
「アンタってば、気味の悪い、気難しい、へんてこで意味不明なチビ神様だと思ってたけど」
「はぁ……ひどい言われようだね」
「今もその印象は変わっちゃいないんだけど、でも。……ちょっとだけ好きになった」
「はん。天狗の小娘一匹に好かれたところで、大して嬉しくないねえ」
「……まあ、そうよね」
はたてが少し、自嘲気味に笑う。
「私、生まれてきて、不自由なく並みの人間が、数回生き死にするくらいは生きては来たけど」
はたては顔を上げると、沈む夕日に目を向けた。
「……でも、その生きた密度で言ったら、もうそこらの人間の少年少女と対して変わらないかもしれない。……ううん、むしろ身の回りの身内や知り合いで、これといった不幸なんかも経験したことないし、引きこもってばかりだったし……それ以下かもしれない」
そう言うと、どこか気恥ずかしそうに苦笑する。
「実は、こうして他人をぎゅっとだっこしたりするのも、初めてかもしれないわ。昼間の親子にあてられたのかも」
「よかったのかい、初めての相手が、復讐で村一つ消しちゃう様な神様で?」
諏訪子の茶々入れに、はたては鼻を鳴らした。
「いいのよ、私がしたいと思ったんだから。まあ、それでさ、アンタみたいに人の生き死にを間近で見続けてきた年長者からすれば、私なんて、そこらの雑草とも大して変わらない存在なんだろうなってね」
「いや、そこまでは……」
諏訪子の答えは気に留めず、はたては続ける。
酒が回っているからか、呂律は少しおぼつかない。
「……それでね、今まで私みたいな若輩者なんて、そこらの草木、時につまずいたら邪魔だなと蹴り飛ばされる、石ころ。そんなものと見られているんだろうな、とか考えてたわけ。年上連中は、私の考えもしないような考えで、動いてるんだろうなあ、って」
「だから、それは考えすぎよ」
「うん。アンタの話を聞いてさ、その考えはちょっと違うんだって思ったの。年かさな力のある連中って、何が起きても動じない、そんな連中だと思ってた。でも、ちゃんと私にも分かる理由で、悩んだり、苦しんだりしてるんだってさ。分かったの」
「……」
「それでも、やっぱり私はアンタからすれば、ただの雑草でしかない。同じ山に住む、ただの一妖怪。小生意気な、天狗の娘」
少しだけ、はたてが緊張したように身をかたくする。
「そんな雑草でもさ。寝転がれば、簡単なベッド、気持ちを少しはやわらげるものに、なれるんじゃないかってさ。思ったわけよ。だから……ええとさ。なんて言ったらいいかなあ」
そこで、はたては逡巡したように言葉を区切った。
諏訪子は、自分を抱きこんでいる天狗娘の平らな胸が、ドクドクと脈打っているのを感じた。
「へぇ、ベッド、いいじゃない。夜のお供もしてく、イタイイタイ! 冗談だって!」
諏訪子の軽口に、はたては腕を締め上げて答えた。
「まったく、アンタってやつは、こっちが真剣に話してるってのに!」
はたては腕の力を緩め、ため息をつく。
「……だからさ。私まだ、アンタに比べればまだまだ未熟で、無知かもしれないけど、こうやってお酒飲んで、話し聞いたりして役に立てるなら、嬉しいかなってさ。こう言ったら怒るかもしれないけど、今のアンタ、見た目通りの幼子にしか、見えないのよ」
そこで諏訪子は、身を少し硬くした。
『私は姉様に比べれば、無知かもしれません。でも、こうやってお話したり、抱き合ったりして喜んでもらえるなら、私それだけで、とても幸せなんですよ。大事な唯一の家族である姉様と、こうして一緒にいられるだけで、とても、とても……』
『それに、姉様ってば、黙ってれば、見た目も相まって可愛い妹にも見えなくないですし』
『ちょっとねえ!!』
そのはたての声が、過去の身内と重なって聞こえた。
「……そう、じゃあさ」
諏訪子は一言そう呟く。心なしか、自分の言葉がくぐもって聞こえた。
「一つ質問して、いいかね」
そっと、腕をはたての背に回し、力を強めた。
「妹がさ、最後に何を頼みたかったのか……お前さんにはわかるかね?」
諏訪子がそう問うと、はたてがぐいと諏訪子の体を引き離した。
それが、拒絶されたように感じ、諏訪子は少し心が痛くなるのを感じた。
「ごめん……変なことを聞いた」
「いやいや、そうじゃなくて、本当に分からないの?」
はたては意外と言ったような感じに、聞き返してきた
顔を見ると、きょとんとした様子で諏訪子のことを見つめている。
「……わからないから、聞いたんだけど」
はたては小さくため息をつくと、呆れたように言った。
「そんなの、決まってるじゃない。自分の赤ちゃんの無事をアンタに頼んだのよ」
さも当たり前といった風に、はたては断言した。
諏訪子ははたてから、少し視線をそらす。
そう、なんだろうか。
私も伊達に、長年人々を見てきていない。
妹がそういう願いをしたのではないかと、考えたことはいくらでもあった。
しかし、それはどこまでいっても、憶測に過ぎないのだ。
わかっている。
こうして、この天狗の娘から答えを聞いたところで、結局は自分で納得するしかないことなのだと。
そんな諏訪子の様子に、はたては困ったような顔を向けた。
「その顔は、納得してないわね」
はたては目を瞬くと、真剣な眼差しで諏訪子の両肩をしっかりと掴んだ。
「私はアンタの一割も生きてないだろうけど、でもね。これでも霞や木の股から生まれてきたって訳じゃないのよ。だから分かる。これは、生き物の本質だもの」
諏訪子の肩を掴む手に、力がこもる。
「絶対にそうよ! 妹さんは、赤ちゃんをアンタに託したのよ!!」
「……信じて、いいのかね」
はたては、力強く頷いた。
「信じていいわ。アンタに唯一、私が勝ってる点があるとすれば、私が脈々と続く、生き物の血を引いて生まれてきた者であるということよ。だから、その点に関して言えば、アンタの感覚より私の直感のほうがあってるって、信じてもらっていいと思う。――っていうか、信じろ!!」
諏訪子が伏せていた顔を上げ、かすかに笑いながら、はたてを見つめ返した。
「……そっか。じゃあ、私は、あの子の願いを叶えてやれているんだね」
その言葉に、はたては何かに思いついたように、目をしばたかせた。
「あ、もしかして、早苗って……」
「そうよ、早苗は妹の子孫さ」
はたては、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「あー、そりゃあれよね、アンタからしてみたら、これでもないくらい、大事な娘な訳よね。あんだけ怒ったのも、納得だわ。いやほんと、すみませんでした……」
「そう思うなら、早苗に良くしてやって頂戴な」
諏訪子ははたてから離れると、大きく伸びをした。
「随分話し込んじゃったね」
「あら、もうお開き?」
「おんやぁ、意外だね。まだ続けたいのかい」
はたては缶詰盃の中に残った酒を飲み干した。
そして、その空になった盃を見て黙りこむ。次第に、眉間へとしわが寄っていく。
何かを思い悩んでいる様子だった。
「何か、気になることもであるのかい」
諏訪子が再度井戸の縁へ腰を下ろすと、天狗の胸をポンと叩いた。
「今更、隠し立てするなんて野暮だろう?」
そう、苦笑しながら言うと、はたては何とかその重そうな口を開いた。
「……早苗と仲良くしてあげたいのは山々なんだけど、どうやって接していいか……」
「そ、そんなことで悩んでたのかい……」
「だって、あの子ある意味アンタ以上に裏が読めないわよ?」
「まあ……世知辛い現代っ子だったからねえ」
確かに早苗は、誰とでも当たり障りなく接するのは非常に得意だ。
けど、それは本心を出していない建前という事でもある。
この天狗娘は、想像以上に他人の機微に敏い。そんな早苗の対応が特に苦手なのかもしれなかった。
「じゃあ、まずはうちの可愛い早苗を知ることからはじめましょうか」
「え?」
「知れば、話すネタや親しみやすさも増すってもんでしょ」
「ああ、そう……かもしれないわね」
諏訪子は一人何度か頷くと、まだ開けていなかった大吟醸を開封し、湯呑を掲げる。
はたてはそれを呆気にとられて見ていたが、
「付き合うでしょ?」
そう諏訪子が笑って言うと、はたても同じように缶詰杯を掲げてみせる。
「……よっし、いいわよ。とことんつきあったげようじゃないの! 時間はまだまだあるわ! ばっちこいよ!!」
「良いね、気に入ったよ。さあ、夜はこれからよ!」
夜空に、カンと高い音が響いた。
「早苗、どうしたんだい、ぼうっとして」
「あ、諏訪子様、いえ……なんか最近はたてさんが、よくお話しをしてくれるんです」
「へえ、それは良かったじゃないかい。それともあれかい、邪魔になるようなことでもされるのか?」
「い、いえ! ……そんなことは全然ないです、はい。むしろ色々お手伝いしてくれたりするくらいで!」
「何も問題ないじゃない」
「そうなんですけど……でも……なんていうんでしょうか……」
「うん?」
「……こう、ちょっと変わった視線で見られてる気がするんです……こないだなんか、気味が悪いくらい親切にしてくれて……」
「あ、そ……そうかい。なんでだろうねえ……ははは(ちょいと吹き込みすぎたかねぇ……)」
その後も風祝は、優しく親身に慈しむ様な視線を向けてくる天狗娘に、激しく戸惑い背筋を震わせるのだった。
おわり
諏訪子が神々しいまでに神様らしく、しかしその中に人間臭さがあって、何よりよりにもよってはたてをそんな物語の聞き手に選んだセンスに感服しました。
まさに人間感情の集合体、信仰存在の具現ですね
この答えを返せるのは、はたてしかいないだろうなあと思わせる見事な人選
前作も拝見しましたが、毎度感情的な展開に惹きつけられます
良い話をありがとうございました
物語自体も緩急ある惹き込まれるもので良かったです
前作に続いて読ませてもらいましたけど、やっぱり登場人物の心理描写や感情表現が上手いですね。
ひとえに私が言えることじゃあないんですけどね。
諏訪子の、集落の民と妹を思いやる気持ちが、ひしひしと伝わってきました。
諏訪子にとって彼ら、彼女達と過ごした日々は今もかけがえのない大切な思い出となって、諏訪子の心に一生残るものだと思います。
とっても良い作品でした。
次回も期待してます。
時間忘れる良い作品をありがとうございました。
空白の歴史をこの作品で補完されたように思います。
伏線の貼り方、回収、ラストへのつなぎ、お見事です。
鳥肌が立つほどに良く書きこまれた作品だと痛感しました。
はたてには、今度は神奈子の方にも突撃して、諏訪子との馴れ初めなんか聞き出して貰いたいです。
なによりはたて良い子で俺満足。
もう凄いの一言ですわ…
本気で泣けました
とにかく良い気分になりました。ありがとう。
生まれたての神様だからかまだ作中の諏訪子は幼い部分がありますね。
しかしはたて、怖いもの知らずだな……
はたて良い子!